照「君がいない夏」 (97)


八月ももう終わろうとしているというのに、強い日差しがじりじりと髪を焼くかのようだった。
右手から提げる、大好物のプリンが入ったビニール袋を、太陽からかばうため身体の陰に隠す。

帽子くらい被ってくるべきだった。
後悔しながら、宮永照はとぼとぼと歩を進める。
とぼとぼ、というのは心情が反映されたオノマトペでは決してない、と思う。
今歩いているこの場所の、物哀しい雰囲気がそうさせるのだ、とそう思う。
照自身の主観からするとそういうことになるのだが、第三者から見た場合にどう映るのかはわからなかった。


「……おねえちゃん?」

「……なに?」

「あ、ううん……なんでも、ないの」

「そう」


「第三者」が自分の歩調になにを感じたのか、短い会話からだけでは計り知れなかった。
ましてや彼女は照の隣ではなく、少し遅れて斜め後ろをついてきているのだ。
表情など窺い知れるはずもなかった。


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『こんにちは、咲』


宮永照が彼女――宮永咲に会ったのは、まさに「この場所」の入り口だった。
声をかけた瞬間、向こうは大層驚いていた様子だった。
だが実は、声を発した照の方も、内心負けず劣らず驚いていた。

「こんにちは」。
あまりにも気安く、それでいてどこか他人行儀な挨拶が、彼女の小さな背中を見かけると同時に、ほとんど勝手に口をついていた。
「こんにちは」。
それでいいのかという思いと、それが当たり前なんだという思いがせめぎあった。


『……おねえちゃん』


葛藤の終わりをもたらしたのは、咲のか細い声だった。
内心の動揺を押し殺して、言った。


『咲も?』

『うん』

『じゃあ……一緒に、行く?』

『え?』


ついていっていいのか。
一緒に行ってもいいのか。
彼女のそんな、期待と不安とが綯い交ぜになった表情に一つ頷いて、照は「この場所」に足を踏み入れた。
慌てたように咲が後ろをついてくる。


「……」

「……」


そうして、いま現在に至る。

つい先日幕を閉じた麻雀の全国大会で、一応の和解は果たしたつもりだ。
和解というのが適切な言い方かどうか、いまいち自信を持てなかったが、とにかくそれに類することはした。


「……」

「……」


それでもなお、沈黙が重たかった。


こうして連れ立って歩くことさえ何年ぶりだというのか。
思い出そうとして天を仰ぐと太陽が瞳を刺した。
反射的に視線を下げると、ちかちかする視界の向こう側に、寂れた風景が広がっていた。

東京に出て以来初めて、照はこの場所にやってきた。
世間一般の風習からするともう二週間ばかり早く訪れるべきではあったのだが、それに関してはどうしようもなかった。
なにしろ「その日」は毎年のように、麻雀の全国大会と日程が重なってしまっているのだ。
全国屈指の強豪校のエースとして、三年連続でインハイ出場を果たしている照には、どうしようもないことだった。
その上今年の「その日」は、団体の決勝戦と見事にかち合ってしまっていた。

その点に関しては、今自分の斜め後ろを歩いている彼女とて同じことだろう、と照は振り返って水を向けた。


「今年は、来れなかったの?」

「あ、うん。ほら、インハイがあったから……って、おねえちゃんだって知ってるでしょ、もう」


まともな会話が成立したことが嬉しかったのか、咲は頬を膨らませて軽くおどけてみせた。
しかし照は、表情一つ変えずに質問を変えた。


「去年までも、来てたの?」


対する咲の表情は、わずかだがこわばった。


「来てたことは、来てたよ。でも……」

「でも?」

「『あっち』の方には、一度も行ってない」


さもありなん、と照は心の中だけで頷いた。


「やっぱり、お父さんはあなたに」

「うん。私がおとうさんにこのことを聞いたのは、全国大会が終わって、こっちに帰ってきた日のことだったから」


麻雀は国民的な人気競技である。
高校生大会とはいえ、全国大会の様子はかなり細に入った中継放送がなされていた。
おそらく父は、咲の様子をテレビ越しに見て決断を下したのだろう、と照は推測した。

と同時に疑問にも思う。
果たして父は、この夏の咲になにを見たのだろう。
自分と同じものを見たのだろうか。
それとも、なにか別のものを?

宮永照がこの夏の宮永咲に見たものは、強さ、だった。
嫌いだと言ってはばからなかった麻雀を心の柱に据え、信頼できる仲間に囲まれて、強く咲き誇るその姿。
彼女が胸の内になにか、見通し難く混沌としたものを抱えていることは、半ば承知していた。
それでも照は、咲が獲得した強さに賭けた。


「行くんだね、あっちにも」

「……おねえちゃん。私、もう、逃げたくないの」


そして、その賭けに勝った。
少なくとも今のところは、そう見てよさそうだった。


そうこうするうちに二人は、最初の目的地に辿りついた。


「――」


照はその前でしばし、立ち尽くさずにはいられなかった。
咲が遠慮がちに声をかけてくる。


「おねえちゃん……」

「……いつか、言ったよね、咲。私が、東京に行くちょっと前のことだったかな」

「え?」

「森林限界の上に咲く花のように、強く――って」


小さく、息を飲む音がした。


「私も、強くならなきゃいけない。強くあるべきだった。咲に、あんな偉そうな口を利いたからには」


つまるところ、自分もまた逃げていただけだったのだ。
照はそう自嘲した。


大会の日程がどうの、エースとしての立場がどうのと理屈をつけて、この場所を忌避し続けていた。
逃避以外のなにものでもない行為だった。
その気になれば今日のように、多少時期を外してでも訪れることは、いくらでも可能だったはずだ。


「……咲。私たちがしていたことは、本質的には同じことだったんだと思う」


認めたくない現実から目を背けて、遠い東京の地へと逃げ出した。
咲が精神的な距離をとったのだとしたら、自分は物理的な距離をとったのだ。
そこに大した違いなどありはしない。


「一度なんて、東京まで訪ねてきたあなたを、口も利かずに追い返したことがあった。私と同じように逃げ続けているあなたの姿を見て、自分の無様さを思い知らされるようだったから……今にして思えば、そういうことだったんだと思う」


咲はなにも答えない。
ただその沈黙は、沈痛な色合いを帯びていた。


目的地に対して当然なされるべき「作業」をこなす間、今度は咲がじっと立ち尽くして、照の背中を見つめてきた。
気にしないふりをしながら、照は作業を黙々とこなしていく。
一段落ついたところで、パンと手を鳴らして目を瞑った。

そのままの姿勢で、祈った。
いや、祈りと呼べるほどのものでもなかった。
なにか、言葉にならない希求が喉から背中を突き抜けて、晩夏のへばりつくような熱風に融けていく。

背後で咲が、自分と同じ姿勢をとった気配がした。
そのままの姿勢で二人は、十分ほどそうして瞑目を続けた。


「それじゃあ、行こう?」


一つ息を吐いて振り返ると、そう声をかけた。
問いかけられた少女はきょとんとしていた。


「行こう、って」

「咲の方の、目的地に」

「……いい、の?」

「いいもなにも、私にだって無関係じゃあない……それに」

「それに?」

「私たち、家族でしょう?」


一拍おいて、嶺上の花がぱあっと綻んだ。
ぎこちなく微笑みを返して、照は小さく頷いた。
遠い記憶の中にしか存在していなかった、咲の満面の笑顔。
記憶にある限り、昔の彼女はいつもこの顔をしていた。

……麻雀をしている時は除く、という条件つきではあったが。


「あったね、お年玉麻雀」

「あれってさ、今思い返してみるとひどいと思わない? いやまあ、子供心にもひどいと思ったからこそ、麻雀嫌いになっちゃったんだけど」


次の目的地に向けて二人は、今度は肩を並べて連れ立って、他愛もない昔話に花を咲かせていた。


「お父さんは止めてた」

「でもでも、おかあさんたちが……」

「あの二人はきっと、咲の才能を見抜いてたんだね」

「負けて巻き上げられるのもアレだけど、勝って怒られるっていうのはもう最高に理不尽だったよ!?」

「お母さんたち、負けず嫌いだったからね。でも私の目から見ると、そんな本気では怒ってなかったよ。冗談交じりだった」

「えっ」

「……まあ、小さな子供相手に恐怖心を抱かせてる時点で、十分に大人げないことは確かだけど」


「だ、だよねー。大人げないよねー」

「でも咲、気付いてた? あなたが巻き上げられたお年玉って、実はそっくりそのまま、咲のところに返ってきてるんだよ?」

「え゛っ」

「あれ全部そのまま、咲の預金通帳に入ってたんだけど……いわゆる、お年玉貯金?」

「えっ…………えっ?」

「……もしかして、本当に気付いてなかった?」

「私、月々のおこづかいだけで買いたいもの買ってたから、通帳あるのは知ってたけど……ええ、うわぁ?」

「帰ったら確かめるといいよ」

「お、おとうさんに聞いてみる」

「……高校生にもなって、お父さんに通帳の管理を?」

「うぐっ!」


――なるほど、そういう覚え方をしているのか。

消沈する咲を横目で見やりながら、照は考える。
十分間の沈黙と祈りは、自分の中のなにかを吹っ切らせてくれた。
その証拠として今自分と咲は、こんなにも自然に会話ができている。

しかし、隣を歩く彼女はどうだろう。
最初の目的地での用事が、咲にとって重要なものでなかった、とまではいわない。
ただやはり、彼女にとっての目的地とはあちらではないのだ。


「機会があったら、お母さんに聞いてみるのもいいかもしれない。あの件は確か、二人ともグルだったから」

「うう……やっぱり、おかあさんもか……」


しょ気かえって肩を落とす咲の横顔は、照から見て自然だった。
自然そのものだった。

仮に自然でなかったとして、照と咲の間にある時間的な隔たりは、容易にその事実を見とらせてはくれないだろう。
対局相手の牌勢を一目で見抜く照の「鏡」も、さすがにこの時ばかりは役立たずだった。


釈然としない思いに軽く首を振っていると、咲が瞼をわずかに伏せた。


「おとうさんと、おかあさん」

「ん?」

「また、一緒に暮らせるように、なるのかな」


すぐには、言葉を返せなかった。


「……結局のところ。あの二人の仲違いも、原因を辿れば私たちのせい」

「おねえちゃん……」

「……ううん。ごめん、違うね。こればかりは、私のせい。私一人に原因がある。あなたは……咲は、なにも悪くなかった」

「でも、私」

「いいの」


強引に言葉を遮る照に対して、しかし咲は引き下がらなかった。


「違う。違うよ、おねえちゃん。おねえちゃんは悪くなんてない」


この夏の熱闘の中で一際輝いた、強さを秘めた瞳だった。


「おとうさんも、おかあさんも、おねえちゃんも。誰も悪くなんて、ないんだよ」


暫時その眼差しに見入ってから、


「――ありがとう」


とだけ、照は消え入るように呟いた。


そしてついに、その時がやってきた。


「さあ」


目的地へ近付くにつれ歩幅の狭くなっていった咲に対して、一歩分前にいた照は脇へと退いた。
促すように半身になって右腕を開くと、おぼつかない足取りが一歩、また一歩と静寂に読点を打った。
その弱弱しい背中――やはり先ほどの笑顔には、多分に虚勢が含まれていたのだと痛感させられる――から片時たりとも目を離さぬよう、照は深呼吸を二回した。


「ここ、が?」

「そう」

「ここ、に……?」

「そう」


今にも空気に融けてしまいそうな後ろ姿が、一瞬歩みを止めたかと思うと、崩れ落ちた。


「っ」


とっさに駆け寄ろうとしたが、咲の身体は完全に崩れ落ちる前に、なにかに縋りついてその動きを止めた。


「こ、こに……いるん、だよ、ね……」

「……そう」


肺を絞ってひねり出された痛切な声音が、やけに広々と木霊していった。
照は三度、短く答えを返すことしかできなかった。
華奢な身体が縋りついたのは、宮永咲の「目的地」そのものだった。


「そこに、いる」


風が止まる。
頭髪を焼くように強烈な日差しが、今だけはまったく気にならなかった。
別段まぶしいわけでもないのに、照は目を細めて「それ」に視線を向けた。








「そこに、あなたの――――本当の家族がいる」







「宮永家之墓」と表面に刻まれた、墓石だった。

よく憶測だけでこんな酷い話書けるな

よくあるようで意外に見かけない気がする、宮永姉妹の過去ものです
当然、大量の独自解釈が含まれますのでご注意ください
そんなに長くないので1~2週間で終わらせる予定です

それではご一読ありがとうございました


期待

乙ですよー

宮永家の両親が鬼畜だひとでなしだって考察よりよほど良い話だと思う。原作ではやく宮永母でてきてくれないかな。
期待

解釈て
せめて妄想と言ってくれ

なかなか面白い 期待

乙乙
違ってたら本当に申し訳ないですけど他も書いてるよね?
期待

普通に面白いぞ


その墓石は十数分前に照が掃除したものと同様、小奇麗な外見を保っていた。
父が三年前に宮永分家の墓として建立したものだ。
たった二人しか眠っていない奥津城ではあるが、供養の意味合いもそこにはあるのだろう。

多少の汚れは見てとれるが、訪ねる者もなく数年経過しているようには、少なくとも見えなかった。
照の父が二週間前の八月十五日――いわゆるお盆の日に訪れて、宮永本家の墓石と同じように手入れを施したようだ。
そう、照は思い至った。


「これ、おとうさんが……?」

「そう、みたい」


照と同じ結論に至ったのだろう、誰ともなしに呟いた少女、宮永咲。

彼女は照から見て、母方の従姉妹にあたる存在だった。


「……ありがとう、お養父さん」


そして同時に、照の実父である界の養子となった――ある事情から正式な養子縁組こそ結んでいないが――義理の妹でもあった。


両親の結婚に関してどのような事情があったのか、照も突っ込んだところまではよく知らなかった。
ただ宮永という家は、近所でも少しばかり名の知れた名士だったらしい。
そのあたり、照と咲の母親たちが二人して婿養子をとったことに関係してくるのだろうが、詳しいところまではわからなかった。
どのみち大して重要な問題でもなかった。

今重要なのは、咲と照が現在の関係になる前から姓を同じくしていたということ。
家族ぐるみの親しい付き合いがあったということ。

そして、照と咲の間に横たわる過去に、もう一人の少女が存在していたという、その事実だった。

義理の妹、仮の親。
欠けたピースは土の下に。
咲の実の両親は、目の前の墓石の下で物言わぬ姿となっていた。


「……咲」

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」


もう一つの欠けた少女(ピース)もまた、つい先ほどまで二人が訪っていた、宮永本家の墓の下に埋まっている。
今ではもう、どこにもいなくなってしまった少女。


「私は、だいじょうぶ、だから。心配しないで、お義姉ちゃん?」

「……そう」


少女は宮永照の、実の妹だった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


照の妹は、どこにでもいる普通の女の子だった。

泳ぐのが大の得意で、将来の夢は水族館をつくること。
照と同じで麻雀が好きで、プリンはもっと好きで、家族の愛情を一身に受けて育った。
どこにでもいる、普通の女の子だった。

ただ少しだけ普通の子よりも身体が弱くて、ある時期から車椅子なしでは動けなくなったが――それだけのこと。

ただそれだけの、どこにでもいる、普通の女の子だった。

咲と妹は同い年で、照を含めて三人姉妹に間違えられたことも一度や二度ではなかった。
三人で写った写真も、たいていは咲を真ん中に挟んでのものだった。
妹の中では、正しく自分たちは三人姉妹だったのだろう。
だから妹が咲を呼ぶ時は「咲」で、照に対しては「照おねーちゃん」だった。

咲は照のことを、ただ「お姉ちゃん」とだけ呼んだ。
照も咲のことを、ほとんど実の妹のように思っていた。
それは間違いなかった。
けれども、心のどこかで線引きはしていたように思う。
あのぐらいの年頃の女の子は、二つも年齢が違えば発育に大きな差が出てくる。
照は彼女らよりも一足早く成長期を迎え、そのせいあってか二人を一歩引いて見守るような立場に、自然となっていた。

妹の親友。
宮永照から見た宮永咲を表すならば、それがもっとも適切な表現だったのではないだろうか。


照と妹は、どこにでもいる普通の姉妹だった。
別段、大手を振って仲良しだと喧伝するほどのものではなかった。
ケンカもすればケロッと仲直りもする、そんな姉妹。

いい妹だった。
そして自分も、良い姉であろうとした。
総じて、いい姉妹だった、と言えるのではないだろうか。

妹の身体が弱い分、照が多少の貧乏くじを引くことはあった。


『お姉ちゃんなんだから、しっかり妹の面倒を見なさい』


こんな母のお小言は耳にタコで、うんざりすることもあった。
こともあったが、照にとって大切な妹であることに違いはなかったから、ちゃんと妹の世話もした。
介護が嫌だと思ったことは一度もなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。

結局、少しずつ少しずつ堆積していく微細な鬱屈を照が解き放つことは、“ほとんど”なかったのであった。


運命の日は冬だった。
空気が乾燥していて、北風がいやに強くて、寒さに布団を出るのが億劫になるような、日曜日の朝のことだった。

その日は妹の定期検診がある日だった。
叔母夫婦が照の自宅前に専用車で乗り付けて、休日だったので咲も一緒になって、車椅子ごと妹を病院まで連れて行ってくれることになっていた。
両親が仕事で忙しい時にはよくあることだった。
両親は娘を預けることに対して、全幅の信頼を叔母夫婦に寄せていたし、叔母夫婦がその信頼を裏切ったことももちろんなかった。
一度もなかった。

あの、運命の日。

赤々と盛る悪魔が空を舐め尽くした、あの日までは。


『たった今、緊急ニュースが飛び込んできました! 長野県諏訪市の総合病院で――』


火災。

病院のすぐ裏の通りでたばこの不始末。
乾いた強風に巻かれて延焼。
火災報知システムのちょっとした不備。

そんな、あまりにもありふれた――笑いたくなるほどどこにでもある、ただの事故だった。


照が事態を知ったのは、すべてが終わった後だった。

現場に駆け付けた照の目に映ったのは、よくお世話になった病院の無残な焼け跡。

そこここから聞こえる呻き声、悲鳴、野次馬の耳障りなおしゃべり。

ところどころ赤黒く染まったコンクリート。

溶けきらずわずかに散らばったガラス片。

ひしゃげてボロボロになった車椅子。

――車椅子。

見間違えるはずもない、妹の車椅子だった。
近くで忙しそうにしていた消防隊員に、必死の形相で縋りついた。
中学生くらいの少女が二人、救急車で別の病院に搬送されたのだという。

逃げ道を失った挙句、三階のバルコニーから一か八か、二人して車椅子で飛び降りたのだろう、というのが消防隊員の見解だった。
運よく車椅子がクッションになったのか、外傷は火傷を含めてもさほど深刻ではなかったそうだが――そこまで説明して、消防隊員は口ごもった。


『なんなんですか!? 教えてください、妹は、妹は身体が弱いんです! ダメなんです、咲だって、あんまり体力なくて、っ私が、私が守ってあげなきゃ……ああっ、だからお願い、あの子を助けてください』


支離滅裂な言葉が、千々に千切れてぶちまけられた。
聞き苦しい喚声を叩きつけた瞬間、消防隊員の顔から一切の表情が消え失せた。
なにかを押し殺している顔だった。
そこまではわかったが、なにを押し殺しているのかまではわからなかった。

いや。
わかりたく、なかった。

その時、後ろから肩を掴まれた。
振り向けば父がそこにいた。
仕事先から取るものも取らず駆け付けてきたらしかった。


『……火事に遭った人のほとんどは、もう搬送されてるみたいだな。母さんは先に向こうの病院に向かった。さあ、僕たちも行こう、照』


父の声は穏やかだったが、肩を掴んでくる手のひらには、痛いほどの力が込められていた。


怒号と、啜り泣きと、血の匂いが飛び交うその場所で、二人は母と合流した。

母は気丈な――言ってしまえば負けん気の強い――人であったので、このような極限状況下でもどうにか自己を保っている様子だった。
父も平時は頼りなさが先立つような人であったが、微かに震える母をそっと抱きしめる腕は逞しく、足取りはしっかりとしていた。

当たり前といえば当たり前のことだが、この状況でもっとも地に足が付いていないのは照だった。

火災のニュースを聞いた時から、五体のわななきが止まってくれない。
歯がカチカチとなり続けて喧しい。
鼓膜の奥でなにかが這いずり回っている。
今にも叫び出したい気持ちを、もう何年も堪えているかのような心地がした。


『照……っ!』

『だいじょうぶ、だいじょうぶさ、照。だいじょうぶに決まってる』


そんな照に気が付いて、母が力いっぱい抱きしめてくれた。
父は優しく頭を撫でてくれた。

それでも震えは、止まらなかった。


祈るような気持ちで、救急車に乗せられた少女たちについて尋ね回った。
途中で顔に布を被せられた人型と、それに縋りつく人々を、何人も何人も見かけた。
その度に心臓が締めつけられて、きゅうっと音を立てた。

無事でいて。
無事に決まってる。
だいじょうぶ、だいじょうぶなんだから。
だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ……

母の呟きかと思った声は、その実自分の口から出ていたものだった。
気付いても止めることはできなかった。

だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。

言い聞かせるように百、あるいは千は繰り返した頃だったか。


『あれ、は……』


ついに照たち三人は、彼女と再会した。





妹の身体をくるむ布切れの、その脇腹に、黒いタグ。




それを視界の果てに認めた瞬間、母は絶叫した。


照はびっくりした。
意味のわからないことを泣き叫び、狂乱のあまり髪を振り乱す。
そんな母の姿をついぞ見たことがなかったから、それはもう、大層驚いた。

困り果てて父を見やると、蒼白を通り越して真っ白な顔色のまま、絶句しきっていた。
袖を掴んで、早くあの子に声をかけてあげよう、と何度言っても無駄だった。

まったくもってわけがわからなかった。
なにが起こっているのか理解できなかった照は、自失の態となった両親を無視して、横たわる妹の肩に手をかけ、軽く揺さぶった。


『ほら、起きて。なにしてるの』


さらに揺さぶった。


『いつまでもこんなとこで寝てたら、他の人の迷惑。早く家に帰ろう?』


手を握って引き摺り起こそうとした。
重かった。
冷たかった。


『ねえ、なにしてるの、はやく…………ぷ、プリン、食べちゃう、よ。いいの? いらないなら、私がもらっちゃうよ』


妹が自分からまったく動こうとしないので、腹が立って手を離してやった。
とすんと軽い音がした。
妹の細い腕が、力なく落ちた音だった。


『ねえ……ねえ、ってば』



『ねえ』




『ねえ』




『ねえ』




妹が呼びかけに応えることはなかった。

永遠に、なかった。

>>26
すいません、多分人違いです
最近はこういうの書いてないので

本日ここまで
ご一読ありがとうございました

おつおつ
期待してるぜ

おおう、すごい展開

期待してるよ


書いてたの最近ではないと思ったけれどなんとなくあの人かなという気がしたので、変な詮索してすいません


永遠にも思える沈黙にも、いずれ終わりは訪れる。
最初に我に返ったのは父だった。
父は妹のタグを手に取ると、


『一酸化炭素中毒、か』


と言った。
言ったきり、またしばらく目を瞑っていたが、


『照。向こうの病院で聞いた話では、搬送された女の子の人数は、確かに』


そこまで聞いて、ようやく照も顔を上げた。

二人。
中学生くらいの女の子が「二人」、救急車で搬送されたと、あの消防隊員は確かにそう言った。
だから照たちは、「二人」を探していたのだ。
そのことが、一瞬頭から吹き飛んでしまっていた。


『……咲っ』

『探そう』


短く言って父は、膝から崩れ落ちた母の肩に手を置いた。
いつもより小さく見える背中に二言三言言葉をかけてから、父が一人で歩き出した。
母は、妹のなきがらの前を離れる気はないようだった。

照は少し迷ったが、父の後をついていくことにした。
去る前に一度だけ妹と母の姿を振り返ってから、ゆっくりと足を踏み出した。


『極めて危険な状態ではありましたが、緊急治療は間に合いました。ただ後遺症が出る可能性は否定できませんし、最低でも一ヶ月は絶対安静です』


咲の治療を行ったという医者の説明から、おおよその状況がわかってきた。
二人は一酸化炭素中毒による昏睡状態に陥り、同じ救急車で搬送されてきたらしい。
搬送の途中で妹の呼吸は停止し、懸命の治療もむなしく息を引き取った、ということだった。

妹の身体は弱かった。
医師は断言を避けたようだったが、咲と妹の命運を分けたのはそこなのだろう、と照は信じた。


『この子の両親について、なにか聞いていませんか』


父が最後に聞いたが、医師は苦い顔をして首を横に振った。


ベッドに横たえられた咲を見た瞬間、照はほっとした。
この上咲まで失うことにならなくてよかった、と安堵した。

咲が生きていたという事実を、喜びをもって受け止めている自分自身に、なによりほっとした。

妹は死んだ。
受け入れる気にはまったくなれないが、どうやら妹は死んだらしい。
そして咲は生きている。
まったく同じ状況にあって、同じ事故に遭遇して、同じ救急車に乗っていた咲は、生き残った。

妹の代わりに、生き残った。

咲を探して父の後ろを歩く間、照の頭の中ではずっとそんな思考が回り続けていた。
嫌だった。
こんなことを考えてしまう自分は、醜い生き物だと思った。
仮に咲が生きていたとして、こんなことを考えてしまう自分は、彼女に今まで通り接することができるのだろうか。
言葉にならない不安がぐるぐるぐるぐる、脳の内側を巡り続けていた。


『ああ……よ、かったぁ』


だから照は、咲が生きていることを知った瞬間、安堵の息をついた自分に対して、なによりほっとしたのであった。


一夜明けた。

身元不明の遺体が無数に並べられた安置所に、父に無理を言ってついていった。
安っぽい使命感に駆られて父の手伝いをしようとしたのだが、入り口から中を覗いたところで足がすくんだ。

そこにはなにもなかった。
なにも、生きているものを感じなかった。
生きている人間は確かに中にいるのに、その人間からも「生」を感じなかった。
「死」しかなかった。
そして「死」には、なんの手触りもなかった。

父に促されて車に戻った。
目を瞑ると瞼の裏に、さっき見たばかりの光景が広がった。
身元不明の遺体。
たくさんあった。
からっぽの死体。
真っ黒に焼け焦げて誰ともわからぬなきがら。
たくさん、たくさんあった。

そして生存者の中に、叔母夫婦の名前はなかった。
それがすべてだった。
宮永照は妹を失い、宮永咲は両親を失った。

それが、あの火災のすべてだった。


だが、しかし。

宮永照と宮永咲を襲う悲劇はむしろ、ここからこそ始まるのであった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「おねえちゃん」

「うん?」


丁寧に墓石の手入れをしていた咲が、手を止めぬままに照を呼んだ。


「私の、お父さんとお母さんって……どんな人、だった?」


視界が急激に狭まった。
彼女の背中を直視することができなかった。

両親を失った時、咲の歳はすでに十三を数えていた。
誰よりも身近に接してきた二親の人間像が、物心に根付かないほどの年齢では決してないはずだ。


照は、あえて吟味せずに言葉を紡いだ。


「叔母さんは、お母さんによく似てた。姉妹だけあって顔もよく似てたし、性格も。負けず嫌いなところも、だいたい全部。どっちかというと、叔母さんの方がちょっと声が低くて……私に優しくしてくれたのも、叔母さんのほうだったかな。自分の娘じゃない分、逆にかわいく見えただけかもしれないけど」

「……そうなんだ」

「叔父さんは、そうだね。カッコよかった。イケメンだった。有名人で例えるなら……例えるなら…………ううん、まあ、とにかくカッコよかったよ」

「え、そうなんだ」

「それで、叔父さんは……咲のことが大好きだった。ああいうのを親バカ、っていうのかな」

「そう、なんだ」

「二人とも、あなたを愛してた。それは絶対に、間違いない。断言できる」

「……そう、だったん、だ」


咲の手が止まった。
照は清潔なハンカチを取り出すと、なにも言わずにその手のひらに押しつけた。


「そういう、人……だったんだ?」


彼女は両親のことを覚えていない、わけではない。
記憶に残らないほど幼かった、わけではない。

咲は、忘れたのだ。
記憶に意図的に封をして、そして。


「私、そんなことも…………忘れちゃって、るんだ」


そして今なお、両親の顔さえ、思い出すことができないのだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


火災から二週間ほど経った日のことだった。
咲がようやく目を覚ましたと聞いて、照は母と二人、病室の彼女に面会しに行った。
軽い意識障害はあったらしいが存外元気そうで、照の顔を見るなり咲は、


『お姉ちゃん! 来てくれたんだ!』


と満面の笑顔を浮かべた。
外傷は骨に少しヒビが入った程度で、火傷の跡も現代の医療技術なら残さないように処置が可能だという。
それを聞いて、照はまたほっと息を吐いた。

ただ、一酸化炭素中毒はひょんなことからぶり返す可能性があるので、最低でもあと二週間ほどは退院することができなかった。
その旨を三人して医師から説明されると、咲は口を尖らせた。


『えー。はやく家に帰りたいよぉ』


一瞬、不自然な間ができた。

咲が家に帰ったとしても、迎えてくれる家族は、両親はもういない。
彼女が昏睡している間に、照の妹のことも含めて、葬儀はすでに済まされてしまっていた。
咲は親の死に目どころか、葬儀にすら立ち会えなかったのだ。

その残酷な事実を知らせるのは果たして今であるべきなのか。
誰にも答えを見出せなかった。


照たちが逡巡すると同時に哀れみの眼差しを隠せずにいると、それに気付いた様子もなく咲は言った。


『帰りたいよー、ねえ、お姉ちゃん』


とんでもないことを、言った。


『お母さん』


母は束の間、咲が誰に対して呼びかけたのかわからない様子だった。
照は思わず咲を見た。
咲の目を見て、視線を辿った。


『……お母さん?』


咲が母と呼んだのは、母だった。

咲にとっては叔母にあたるはずの、照の母だった。


一酸化炭素中毒の後遺症による、記憶障害、混濁、混乱。
一時的なものである可能性が高い、と咲のいないところで医者が説明してくれたが、一週間経って、二週間経っても咲はそのままだった。

「宮永照の実の妹である、宮永咲」のままだった。

どうしようもない混乱と憔悴のただ中で、照はなんとなく、咲になにが起こったのかを察していた。

咲はおそらく、気が付いてしまったのだ。
本能のどこかで察知してしまったのだ。
目を覚ましていの一番に会いに来てくれたのが、実の両親ではなかった時点で。
一緒に病院を脱出したはずの親友が、隣にいなかった時点で。
照たちが彼ら三人について、一言も言及しなかった時点で。
咲はきっと、気が付いてしまったのだ。

そして咲は選んだ。
死んでしまった「両親」と、「照の妹である親友」を一度に生き返らせる道を、選んだ。

――己の世界から、「照の妹の親友」である自分自身を消し去る。

そうすることで彼女は、己が心の安寧を求めたのであった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「これ」が自己防衛のための逃避行動だとして、いったい誰に彼女を責めることができただろうか。

照には無理だった。
都合の良いように記憶を作り替え――姓がもともと同じであったことも奏功したのであろう――妹に成り変わろうとする彼女に対して、胸に湧いたのは怒りではなかった。
哀れみ、だった。
ただただ彼女が哀れだった。

それにどのみち照には、妹の死に関して咲を責める資格などなかった。
いつかは強く、嶺の上の花のように強く咲いて、現実に向き合ってほしいとは思ったが――咲の逃避が直接的に照の気に障った、ということではなかったのだ。

だが、だからといって咲に非がない、という話にはならない。
咲の逃避行動によって損害を被った者はいる。
咲の心の中で生き返る代わりに、現実の世界で死んだ者は確かにいる。

「生きていた」ことを忘れられるという、この上ない損害を被った者。


「ごめんね、ごめんねぇ……お父さん、お母さん、ごめん、っ、ね」


たった今、咲が跪く墓石に眠る、泉下の住人。
彼らは他でもない実の娘に、「生きていた」事実を消し去られたのだ。
死者に情念があるとすれば、いかほど無念だったであろうか。
あるいは、娘の心を守るためなら本望だと笑っただろうか。


「ひどい、よね。考えれば考えるほど、私って、最低だよ。親友だったはずのあの子も、実の親のことも、全部忘れてのうのうと生きてて」

「咲」


謝罪が悔恨に、悔恨が自嘲に変わる。
自嘲の念が自傷の刃に変わる寸前で、語気を鋭くして照は口を挟んだ。


「だい、じょうぶ。だいじょうぶ、だよ。私、生きてるのが嫌だなんて、思わない。生きてきたことは否定しない。したくない」


少女がこの半年の間に、あの清く澄んだ丘の上で手に入れた強さは本物だ。
そう照は感じた。
己の記憶を、逃れられない現実を、残酷な真実を捻じ曲げて手に入れた歪な「生」を、それでも咲は否定しなかった。
強さ以外のなにものでもなかった。

それでも。


「でも、苦しいの。恥ずかしいの、謝りたいの、なにかしてあげたいの」


心を苛む情動までは、抑えきれない。
どうしようもないことだった。


「死んじゃった人に、私が心の中で殺しちゃった人に、なにができるの?」


誰に宛てるでもない疑問と懺悔。
照は答えなかった。
答えがわからなかったからではない。
答えは一つしかない。
だからこそ、言えなかった。


「なにも、できないの?」


死んだ人間に生きている人間がしてやれることは、なにもない。
祈りを捧げるのは死者のためではない。
生きている人間がすることは結局、生きている人間のためのものでしかない。

おそらく、それが一つの真理だった。
妹を失って三年、齢十七の小娘が見出した真理だった。

どこまでも救いのない、真理だった。

本日ここまで
半分は来ましたので、もう少しだけお付き合いください
ご一読ありがとうございました

乙ですよ~

おつおつお

おっつ


照は咲を誘って、墓前の石段に腰掛けた。
右手のビニール袋をまさぐると、付属のプラスチックスプーンとともにそれを差し出す。


「……プリン?」

「なんで、だろうね。気が付いたら三つ買ってた。私とあなたと……あの子の分を」


墓参りに来る前にすぐ近所のコンビニで購入した、どこにでもある量産品だった。
妹の墓前に供えようと思ったのだが、なぜだか三つも買ってしまっていた。


「ああ、そっか。さっき、あの子のお墓に置いてた」

「クセ、だったのかも」

「え?」

「昔はいつも、三つセットで買ってたから。特に私とあの子は、プリン大好きっ子だったし」

「……私も好きだよ、プリン?」

「それはまあ、プリンが嫌いな子供なんてそうはいないから。それにしたって私と妹は、傍から見るとおかしいぐらいにプリン狂だったかもね」


咲はなにも言わず口元に手をやって、くすと笑った。
ほんの少しだけ、寂しそうな笑みだった。

おそらく彼女は、そのことも思い出せていないのだろう。


「私とあの子がケンカする時は、だいたいプリンが原因だった。どっちが二個食べた、横取りした、私の分を隠した、とかで」


スプーンで一口、すくって口まで運ぶ。
甘かった。


「プリンのせいでケンカして、仲直りする時もプリンのおかげ。悪いと思った方がプリンを買ってきて、相手に渡すの。それで、チャラ」


底のカラメルを絡めて、また一口すくう。
口に入れた瞬間走る微かな苦みが、甘さと調和して舌に心地よかった。


「一回なんて、脇に名前を書いておいたプリンを食べられた。ほら、マジックで、『てる』って。これならさすがに食べられないだろうと思って」

「あはは……」

「お風呂上がりに食べようと思ってたのに。あの時ばかりは本気の本気で頭にきた。中三にもなって、みっともなくマジギレした。それで、言ったの」





「死んじゃえ、って」





咲の曖昧な笑みが凍った。
照は、皮肉げに笑みを深めた。


「言ったの。あんたなんか死んじゃえ、って」


鬱屈としたものが溜まっていたことは否定できない。
身体が弱いという理由でいつもチヤホヤされて、両親は大抵の場合において照より妹の味方だった。

お姉ちゃんなんだから。

よほど妹の側に非がない限り、その一言で封殺された。
我慢させられた。
自分では我慢だとも思っていなかった。
妹は身体が弱いのだから仕方がない。
両親の言い分は正しいと照は信じていたし、一般論でもそうなるだろう。

言い訳をするようだが、本当にあの日が初めてだった。
あの日でなければいけない理由もなかった。
本当に偶然、特に理由もなく、あの日に照の癇癪が爆発した。
あんなひどいことを言ったのは、いや、自分が不満を抱いていることに気が付いたのさえ、あの日が初めてだった。

そして同時に、最後になった。


「次の日、あの子は死んだ」


言ってしまった瞬間、照は妹の前から逃げ出した。
自分の部屋のベッドに飛び込んで、頭から毛布を被って丸まった。

情けなかった。
その一念で胸がいっぱいだった。
あんなことを言ってしまった自分が、思っていた自分が、最高に情けなくてしょうがなかった。

謝るべきだ。
理性はそう囁いてきたが、身体は動かなかった。
そのまま朝まで眠った。
休日であるのをいいことに、太陽が昇ってもそのまま毛布を被って、寝たふりをしていた。
両親が仕事に出かけていって、叔母夫婦が妹を迎えにきても、照はベッドを出なかった。


「あの子が私の部屋のドアを叩いて、言ったの。『照おねーちゃん、いってきます』って。私は返事すらしなかった。情けなくて、恥ずかしくて、みっともなくて」


ドア越しに聞いた妹の声は、姉を気遣ったのか殊更明るくて、それが照をますます惨めな気持ちにさせた。
謝ろうと思ったが、毛布の内側で散々迷っているうちに、車椅子の音は遠ざかっていった。

それが、最後になった。


「あの日のことを、今でも私は後悔し続けてる。きっとこれからも、一生後悔し続ける」


ほんの少し勇気を出していれば、それでなにかが変わっていたかもしれなかった。
ベッドを飛び出して、ドアを開けて、あの子を抱きしめて、一言謝ればよかった。
病院に行く妹を引き留めればよかった。
いや、せめて自分がついていってさえいれば、彼らの運命がなにか変わったかもしれない。


「……少なくとも私に、あなたを責める資格はない」


そういった類の、仮定。
無意味な妄想。
すべては過ぎ去ってしまったことで、今さら悔やんでもなにも変えられない。


「咲。あなたは、死んでしまった人に対して、とてもひどいことをしてしまった。の、かもしれない」


わかっていながら「もしも」を考えずにはいられない分――照の逃避は、咲のそれよりよほど、見苦しいものなのかもしれなかった。


「でも、私は……まだ生きていた人に、とてもひどいことをしてしまった、から」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


火災のあった夜から照は、悪夢を見るようになった。
夜毎に魘されるようになった。
夢の内容は一つだった。

あの朝、ドアの向こうで「いってきます」といった妹の声。
夢の中の照は現実と同様、震えて毛布にくるまっているだけだった。
いくら跳ね起きようとしても無駄だった。
身体は動かなかった。
声も出せなかった。
そうしてそのうちに、車椅子の音が遠ざかっていくのだ。

たったそれだけを、繰り返し繰り返し照は夢に見た。
一日たりとも見ない日はなかった。
朝起きる度に窓を開け放って深呼吸をしたが、無駄だった。
妹を生んだ諏訪の大地が、空気が、空が、すべてが照を苛んでくるかのようだった。

見かねた母は、照の思いを正確に汲み取ってくれた。

これ以上この場所にいたくない。
妹の思い出があまりに色濃く残るこの地に、照はもう留まっていられない。

そういった照の苦悶を晴らそうと、母は尽力してくれた。

それが、さらなる悲劇を呼ぶことになった。


照はインターミドルなどの主要な麻雀大会には積極的に参加してこなかったが、それでも雀士として、知る人ぞ知るという程度の知名度はあった。
その関係で東京の高校から、特待生として誘われたことがあった。
当時は照自身、長野を離れる気があまりなかったので、返事を曖昧にしたまま保留していた。
そこに母は目を留めた。

特待生の誘いを受けて、一家全員東京に移り住む。

照の耳には魅力的な提案に聞こえた。
移住後の生活については、母にちょっとした伝手があるらしかった。
あとは父がどう思うかだけだと、母はそう言った。

家族会議の場。
母が父に、移住を切り出そうとした席で、事は起こった。
母よりも先に父が、こんな提案をしてきたのだ。


『咲を、養子として迎えようと思ってる』


それ自体は、普通なら歓迎されるべき提案のはずだった。
咲には祖父母を除けば、これといった身寄りが照たち以外になかった。
なにより咲自身が、照たちを本当の家族だと思い込んでいるのだ。


だが、それにあたって問題がないわけではないようだった。


『養子って……ああいう縁組には普通、当事者の同意が要るでしょう? でも、今の咲には』


自分が養子であるという事実など、受け止められるはずがない。
母はそう言いたげだった。

今の咲の精神は、中心からヒビの走ったガラス玉のようなものだ。
見る者が見ればその歪さと脆さは一目瞭然で、そのことに本人だけが気付いていなかった。
己が記憶の捻じれを悟ってしまえば、今度こそ彼女の心は粉々に砕け散ってしまうだろう。

照もそう思ったが、


『わかってる。確かに養子縁組はちょっと難しいかもしれない。でも僕たちとあの子は三親等内の親族だから、家裁に申し立てれば扶養義務者として認められるはずだ。あの子が抱えている事情を考慮してもらって、なんとか自然な形で家族になれるよう、僕が尽力する……多少の無理を通してでも、ね』


最終的には、父がすべてを請け負った。
そう言われてしまえば母にも返す言葉はなかった。
今後咲の記憶がどうなるにせよ、当面の対応策としては最善の――はずだった。


ただ、この時ばかりは事情が違った。
咲の事情は、照とは真逆だったのだ。

一酸化炭素中毒の後遺症と、防衛機制による記憶のねつ造。
急激な環境の変化は、彼女に確実に悪影響を及ぼすことになると、医者にはそう説明されていた。
ましてや長野の田舎から東京のど真ん中などと、医師が絶対に認めるはずはなかった。


『最低でも一年は、長野(ここ)で様子を見るべきだ』

『待ってよ。それじゃあ、照はどうなるの?』


照はこれ以上、一日だって長野の地に留まっていたくはなかった。
そのことを母はよく知っていた。
だから強く父に反発した。


『あなたは、照のことはどうでもいいって言うの? 照よりも咲のことが大事だって言うの?』

『そんなことは言ってない。これは天秤にかけてはいけない問題なんだ』


徐々に白熱していく両親の言い争いに、照は口を差し挟めなかった。
自分を巡っての諍いであるという気まずさもあったし、それ以上に、そんな両親の姿を初めて見た、というのもあった。

この二人の夫婦喧嘩はいつも、気の強い母の方が優勢だった。
いつもいつも、最後には父の方から折れてしまう。
父の穏やかな優しさに、母が甘えている節すらあると照は見ていた。

しかしこの日の父は、一歩たりとも引こうとはしなかった。


『咲はこのままでは、独りきりになってしまうんだ。君だって、それでいいと思っているわけじゃないだろ?』

『それは……でも、それじゃあ照が!』

『照を言い訳にするのはやめろ!』

『っ!!』

『……耐えられないのは君だって一緒なんだろう。だから君も、この街から逃げ出そうとしているんだろう』

『なん、ですって!?』


後から考えてみれば、両親も平静ではいられなかったのだろう。
なにしろ実の娘に加えて、家族ぐるみの付き合いだった親族を失っているのだ。

とりわけ母の悲嘆はいかばかりだったろう。
幼い頃からともに育ち、成長した後も仲睦まじかった妹とその夫、そして自分のお腹を痛めて産んだ子を、いっぺんに失ってしまった。
往時の照は気が付けなかったが、母の精神状態も限界に近かったに違いない。

だからすれ違ってしまった。
平常ならあり得ないようなところまで、話はこじれてしまった。


『天秤にかけるしかないのよ! 照か咲、どちらかを選ぶしかない! そうする以外にどうしろっていうの!?』


父は暫時、黙して答えなかった。
照は、父の沈黙の裏側にあるものを悟った。


『僕は、咲とここに残る』


答えがわからなかったから、黙っていたわけではなかった。


『君は、照を連れて東京に行け』


答えがわかっていたからこそ、黙っていたのだ。


どちらが悪い、どちらが正しい、という話ではなかったのだと思う。

母は、心に癒し難い傷を負った娘を守るため、親として正しい選択をした。

父は、どうしようもない孤独に壊れてしまった姪を守るため、人として正しい選択をした。

誰かに非があるのだとすれば――それは疑いようもなく、悔恨に弱い心を打ちのめされてしまった、自分にこそあるのだろう。
そう、照は思った。


『お父さんとお母さん、昨日なにかおかしくなかった?』


東京へ引っ越す少し前、照は退院した咲と言葉を交わした。
美しくも壮大な、長野の峰々が一望できる場所で。

この時点では養子縁組こそまだだったが、咲は照の家で寝泊まりを始めていた。
彼女には両親――本当のところは伯父夫婦で、養父母――の別居の理由を知らせていなかった。
ちょっとした仲違いがあった、とだけ伝えた。
それでも咲は二人の態度から、諍いの中心に自分と照がいることに気が付いたのだろう。
察するに難くない程度には、二人の言動は露骨だった。


あるいは咲は二人の決別に際して、ただ自分にのみ責がある、と思いこんだのかもしれなかった。
そういう誤解をしている可能性もあったが、当時の照はこれにも気が付くことができなかった。


『……っ』


辛かった。
正気のままに壊れてしまった咲の痛々しい姿を、とても正視していられなかった。
だから、気が付かなかった。


『お姉ちゃん?』


質問に答えようとしない照をどう思ったのだろうか、咲はどこか不安そうな面持ちだった。
その彼女に向けて、直視できないことを誤魔化すかのように、照は目を細めて微笑んだ。

願わくば次に会う時には、本当の自分を取り戻し、強く咲き誇っていてほしい。


『――嶺上開花って、知ってるよね?』


そんな願いをかけて、哀しく微笑んだ。

誰もゲスいことにならない(と思われる)ルートを模索したら、こんな妄想ができあがりました
全員がゲスになるルートもありえると思います
ご一読ありがとうございました

あ、まだ続きます(小声)
っていうか次で終わりです

おつぱい

(照の)お母さんは咲の事が憎くて仕方がないってわけじゃないよね…
この後たのむぜ…

すげえいい展開

待ってる

ピースの埋め方に作品への愛を感じる


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「ごちそうさまでした」


空になった容器を元のビニール袋に放り込む。
隣を見れば、咲が手にした容器も綺麗に空だった。
上を見れば、夏の諏訪は綺麗な夕焼け空だった。


「……帰ろうか」


帰ろうというのは照の場合、東京に向けてという意味だった。
一晩くらい生家に泊まるという手ももちろんあったが、東京に出て以来見なくなったあの悪夢が、今になって再発しないという保証はどこにもなかった。

咲は容器を見つめたまま黙りこくっていた。
横目で彼女を見やりながら、結局この時間にはどんな意味があったのだろうな、と照は自問した。

思い出したくない古傷を、互いに抉りあうことしかできなかった。
得られたものはなにもなかった。
それでも逃避をやめて一歩前に進んだ分だけ、なにかしら意味はあったのだろうな、と照は自分に言い聞かせた。


「あっちのお墓に供えたプリン、どうしようかな。こういうのって持って帰るんだっけ。それとも、誰かが悪くなる前に持っていってくれるんだっけ……」


石段から腰を上げて独りごちる。
もう一度妹の墓前に行くというのも、悪くないかもしれない。


「……プリン」


そう、プリンももったいないことであるし――


「……なにか言った、咲?」

「プリン……食べちゃった」


目を伏せたままの咲の発言は、どうにも要領を得なかった。
それはまあ、食べてしまったのだろう。
食べてもらうつもりで渡したのだし。


「プリン、食べちゃって」


不審に思って咲の表情を覗きこむ。
それと彼女が口を開くのは、ほぼ同時だった。






「『食べちゃってごめんなさい、照おねーちゃん』って」






なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。


「あの時私は、車椅子を押してたの。熱くて、苦しくて、外に逃げなきゃって」


呆然としている間に、覗きこんだ瞬間はぶれていた咲の瞳の焦点が、まっすぐ元に戻る。


「あの子は、何度も何度も、うわごとみたいに呟いてた。私もふらふらで、くらくらだったけど、そのことだけは覚えてる」

「咲、あなた、思い出して」

「……東京に行った時も、なにかが見えそうになったことはあるんだ。見えたことは覚えてても、なにを見たのかまでは、すぐに消えちゃったんだけど」


東京。
かつて医者が言ったように、急激な環境の変化が、彼女の中のなにかに影響したのだろうか。
それともなにか、別の要因が?


「今も、なにかが見えたわけじゃない。ただ、聞こえたの。熱さと、苦しさと、怖かったっていう思いと」


違う。
そんなこと、今はどうでもいい。


「あの子の、声だけが――思い出せるの」


咲が目を閉じた。
一言一言を丁寧に、糸で紡ぐようにして絞り出していく。
照は呼吸すら忘れて聞き入っていた。


「『名前の書いてたプリン、食べちゃった。おねーちゃんに謝らなきゃ。プリン食べちゃってごめんなさい、照おねーちゃん』」


ああ。


「……最後に、あの子は言った。頼んだの。っ、私に……頼んだ、の」


ダメだ。


「『もしも、もしも私が、ダメになっちゃったら、咲、照おねーちゃんをお願い』、って、ぇ」


止まらない。


「『私のかわりに、おねーちゃんの、そばにいてあげて』、って……!」


瞳の奥からせり上がってくる、ぼやけた熱が、噴水のように、止まってくれない。


気が付けば照は地べたにへたりこんで、両手で顔を覆っていた。
指の隙間からぽろ、ぽろと我慢しきれなかった涙粒が落ちては消える。

ああ、もしかして。
我慢しなくても、いいのだろうか。


「……ごめんねぇ」


咲も涙声だった。
照の目の前まで来てから、耐えきれなくなったように膝をついた。
華奢な身体を照は、力いっぱい掻き抱いた。

ああ、この少女は、きっと。
ヒビの入ってしまった心で、ただ一心に。


「ごめんね、おねえちゃん。こんな大事なこと、ずっ、ずっと……!」


友だちとの約束を、守ろうとしていたのだ。
きっと、ただそれだけのことだったのだ。


「忘れて、て、ごめんね。ごめん、ねぇ、っ?」

「いい、の、いいのっ。ごめんね、私も、ごめんね、咲、ごめ、ごめん」


二人して泣き合って、「ごめんね」を言い続けた。
互いに向けたものもあったし、そうでないものもあった。
口にしている自分自身、生者に向けたものなのか、死者に託すものなのか、判然としなくなっていた。


ただ、最後の一言だけは。


「ありがとう――」

「あり、がとう――」


その後ろに確かに、宛名を添えて送り出された。


「――」

「――」


結局のところ照と咲の邂逅は、誰をも幸せにはしなかった。
ただただ無残に、古傷を抉るだけの結果に終わった。

そして、生者の祈りは死者には届かない。
懺悔も感謝も届かない。
照と咲のしたことは、ただ互いの心を慰めるためのものでしかない。

けれども、誰かの幸せを願いながら消えていった少女の、その気高い優しさだけは――届くべき場所へと、確かに伝わったのであった。


太陽が山際にかかり始めていた。
照と咲は並んで、茜色に染まる道を歩く。


「もう一回、あの子のお墓に寄っていこうか」

「うん、そうだね。それがいいと思う」


ごくごく自然に。
実の姉妹のように。


「……お正月に、なったら」

「え?」


ほんの少しだけ勇気を振り絞って、密やかに告げる。


「お母さんも一緒に、こっちに帰ってくるから。そしたらまた、家族で麻雀しよう」

「……!」


咲が笑う。
白百合のように華やかに笑う。


「うん、そうだね! それがいいと思う!」

「麻雀牌、まだ残ってるかな?」

「おとうさん、売っちゃおうか、とかなんとかって散々ぼやいてたけど、いまだに売ってないんだよねぇ」

「ふふ、よかった」


照も笑う。
木洩れ日のように静やかに笑う。


「またお年玉でも賭けようか」

「いや、それはちょっと……そもそももう、お年玉って歳でもないし」

「えっ」

「えっ」


お年玉うんぬんはどうやら失言だったらしい。
なにが失言なのかはよくわからなかったが。
妹の怪訝な視線から逃れるように、照は軽く天を仰いだ。

真っ赤に染まった西の空。
夕風が涼やかに肌を撫ぜる。
稜線にかかる雲も心なしか薄い。
明日もきっと、諏訪の空はよく晴れることだろう。

故郷の夏。
あの子がいない夏。


「……咲」

「なに?」

「なんでもない」


大切な家族が、隣にいる夏。


「ええ、なにそれ?」

「なんでもないの。ふふっ」


清らかな空気を吸い、澄んだ空を見上げながら、一晩くらい泊まっていってもいいかな、と照は思った。



これにて終了です
原作ではこんなん目じゃないぐらいのスカッと爽やかハッピーエンドを望みたいものですが、どうなんですかね

設定と矛盾しないようがんばったつもりですが、多分どっかに粗はあるでしょう
見つけたら生温かく笑ってスルーしてやってください

それでは、ご一読いただきありがとうございました

乙ー

良かった
また書いて欲しい

乙、良かったよ
誰かが悪く書かれるの嫌いな俺には良いSSだった

お疲れ様でした。
原作がどうあれ、この話は感動しました。
(界さんかっこよすぎだぜ。さすが風呂上がりとはいえ咲世界でパンツをはく人だけのことはあるな。)

乙乙なのですよ

乙です
いい話で感動したよ

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