あなたとここで~回想・ジャンの初恋~(25)

あなたとここで、の番外編。
一日で書いてあまり見直しもしていないので誤字脱字乱文乱筆ご容赦下さい。
本編で色々迷ってきたので、息抜き。

鬱展開注意


毎年秋になると、トロストでは収穫祭が開かれる。飾り立てられた牛や羊が街を練り歩き、市場は街の住人と区外から集まった農民達でごった返し、広場には派手な衣装をまとった芸人達が、人々に芸を披露している。その中でも特に手品に夢中になって、小さな身体を生かして人ごみに潜り込み、最前列からいつまでも飽きることなく見ていた。

そんな収穫祭の夜の部に初めて連れて行ってもらったのは、5歳の時だった。
夜の部、と言ってもまだ日が暮れたばかりの時間帯だったと思う。だが夜の外出など滅多にしたことがない上に、あちこちに焚かれた篝火。普段と違う街の様子に、すっかり興奮した。


街を歩く女性達の多くが晴れ着に身を包み、煌びやかな飾りを身に着けていた。母も素っ気ない普段着に前掛けを付け髪をひっつめるいつもの恰好ではなく、髪と首に飾りを付けて、華やかな色の服を着ていたように思う。
そんな母の手に引かれて連れて行かれた市場の近く、噴水の横に設けられた舞台の袖に父が居て、母に向かって手を振った。父は着飾った母を見てニヤ付き、飾ればまだ何とかなるもんだとか憎まれ口を叩いて、母に尻をぶたれていた。怒っているのかと思い見上げれば、母の口元が不自然に歪んで目尻が下がっていたから、多分嬉しかったんだろう。この夫婦の愛情表現は、どこか幼いところがあったのだと、今になって思う。


父が指し示したのは舞台の前から2列目、少しばかり端よりの席だった。毎年、父は祭りの世話役をやっている。どうやらその特権を十分に生かして良い席を確保していたらしい。
何が始まるのか理解しないまま、促されてそこに座り、きょろきょろと辺りを伺いながら足をぶらつかせること数分。

満席の会場のざわつきの中に弦楽器の音が響いた。

しん、と誰もが口をつぐむ。


高く澄んだ声が、篝火に照らされた広場に、夜の闇に広がる。市場から聞こえるざわめきさえも消え失せたその中に、舞台の上の少女は居た。
腰まである、黒い長い髪の上の方だけを編み込んで、白い花飾りを付けた、美しい少女が歌う、幻想的な歌。
篝火に揺れる長いまつげに彩られた金色の瞳。闇夜に差し伸べられた白い腕。歌の合間、しなやかな指が躍るように奏でる笛の細い音色。

ふと少女が微笑んだその時、胸元を誰かに掴まれた気がした。


帰り際、母にあの楽器は何か、と聞いた。笛じゃないほうの?あれはね、ラウテだよ。父さんも若い頃やってたねぇ、と母は懐かしむような顔で笑った。

次の日の朝、祭りで遅くなった父を無理矢理起こして、ラウテがやりたい、とせがんだ。
お前にはまだ無理だ、大きくなったらな。そう言って二度寝を計る父の体の上にドシンと馬乗りになって、嫌だ!絶対やるんだ!と騒ぎ立てた。分かった分かった、と多分幼児の金切声に辟易して適当に流そうとしたのを子供ながらに的確に見抜き、やりたいの!とさらに騒いで、習わせてもらう約束を取り付けた。


その日の昼過ぎ、祭りの後処理に行く父について集会所に行くと、その一角に楽器があって、目当てのラウテもそこにあった。祭りで見たラウテの他に、少し形の違う物がいくつか、他にも笛や太鼓、ヴァイオリンや小さな鈴なんかが沢山置いてあったけれど、その時はラウテ以外目に入らなかった。一直線に、祭りで見たのと良く似たラウテに向かって走った。
これがやりたい!と指差すと、父はそれを取って少し弾いてみせた。足を組んでラウテを弾く父は、ものすごくかっこよく見えた。
やってみろ、とラウテを渡されて、わくわくしながら膝に乗せる。が、それは絶望的なまでに大きすぎた。弦を押えようにも、まず腕の長さが足りず、指の長さも足りない。弦を弾こうとすれば大きな胴に邪魔されて弦を覗きこむのも難しい。


ほらな、と父は笑った。言っただろう、まだ無理だって。そう言われても諦められず、嫌だやるんだと泣いた。ため息交じりに、だから大きくなったらやればいいって言ってるだろう、と父が言った時、これならできるんじゃない?と綺麗な声の誰かが言った。

しゃくりあげながら振り返ると、そこに夕べの少女が立っていた。長い黒髪を、一つにまとめて高い所で結っていて、にこりと微笑んで首をかしげる少女の動きについて、さらりと流れた。
昼の光の中できらきらと輝いて見える髪が、幼心にも美しく思えて、ぽかんと眺めていると、少女が笛を差し出した。これなら小さい子でもできると思うよ?教えてあげようか?それは、少女が歌の合間に吹いていた笛だった。
おもむろに笛に唇をあて、少女が笛を吹き始めた。その笛に合わせて、父がラウテをつま弾く。広い集会所に、少女の笛の音が満ちていっぱいになるのを感じた。


その日から、笛の練習を始めた。憧れる少女に笛の手ほどきを受けるのは楽しくてたまらなかった。ラウテを諦めたわけではなかったけれど、何しろ身体の大きさが足りない。大きくなったら絶対に習って、少女の歌の伴奏をするんだと心に決めた。
両親はヤンチャ坊主が笛などいつまで続くかと思っていたようだが、半年もたつと意外に音楽の才能があるらしいと分かって、積極的に応援してくれるようになった。他の楽器と違って比較的安価な笛も買ってもらった。自分の笛を手に入れると益々練習に身が入った。上達すればする程少女が喜んで褒めてくれるので、さらに練習をする。
そうやって練習をするうち、次の収穫祭には舞台に立つことになった。少女が集会所で聞かせてくれたあの曲を演奏することになり、ラウテをあの時少女の歌の伴奏をした少年が弾くことになった。


父よりもずっと上手いラウテ奏者である少年と組んで練習を重ねた。練習のたびに少女も集会所にやって来て、すごいね、上手だよ、といつもそう褒めてくれた。さらには前年の収穫祭の曲も少し編曲して練習に加えるとすぐに覚えた。3人でやろう、と手を打ちながら少女は喜んだ。

その年の収穫祭には、3人で舞台に上がった。舞台上の少女は、前年にも増して美しかった。夜の闇と篝火は、少女に儚げな、吹けば消えてしまう妖精のような雰囲気をまとわせ、幻想的な曲に相まって、別世界にいるような感覚を、聴くものすべてに与えた。
美しい少女と幼い子供と凛々しい少年による演奏はたちまち観客を虜にし、曲が終わると、客席から割れんばかりの拍手喝采を浴びた。


来年も是非聞かせてくれ、と誰かが言ったけれど、それは実現しなかった。少年が訓練兵団に入団したからだ。12歳になれば誰もが選択を迫られるのだと、その頃にはもう知っていたので、行くなと駄々を捏ねたりはしなかった。ただ泣きじゃくる少女のそばに立ってその手を握りしめた。大丈夫だよ、ぼくが一緒にいるからね?そういうと少女は、ジャンは優しいね、ありがとう、と言い抱きついた。なんとかして慰めようと、少女の背中を小さな手で一生懸命にさすり、怪我をした時に母がそうしたように、大丈夫、大丈夫と言い続けた。

次の日から、ラウテの練習を始めた。ラウテはまだ大きかったけれど、なんとか弦を押え、弾くことが出来た。
ラウテは笛よりも難しかった。その年の収穫祭にはラウテで出演することは叶わず、笛で出ることになった。別のラウテ奏者と少女と3人で。
少女は変わらず美しかったにも関わらず、何かが足りなかった。ラウテ奏者の腕前に不足があったわけでもないのに。それでも舞台は盛況のうちに幕を閉じた。


舞台から降りると、少女は衣装もそのままに駆け出した。何事かと追っていくと、会場の隅にあの少年が立っていた。元々凛々しい顔立ちをしていたけれど、毎日の訓練で日に焼け、少しがっしりとしてきた身体に兵服をまとった精悍な少年。
その少年に、まっすぐ駆け寄って抱きつく、妖精のような少女に、周囲の人は皆目を見張った。いや、正確にはこの美しい2人に、だろう。
まるで絵のようなこの光景に誰もが見惚れる中でただ1人、俺は初めて嫉妬というものを知った。大好きなあの少女は、少年が好きなのだと分かってしまったから。そしてこの時同時にラウテ奏者として尊敬し憧れていた少年に、何ともいえない複雑な思いを抱いた。

次こそはラウテで舞台に出ると誓って、集会所のラウテを借りて練習を重ねた。勉強もそこそこにラウテにばかり打ち込むので、しばしば母にいい加減勉強しろと怒鳴られるほどだった。


それなのにその年、少女も訓練兵団に入団してしまった。それはそうだ。兵士に男も女もないのだから。けれどなぜか少女はずっと街にいるのだと勘違いしていた。なぜそう思っていたのか、それは分からない。ベソをかく俺の頭を撫でて、少女は言った。今年の収穫祭楽しみにしてるよ?ラウテで出るんでしょう?と。
それでまた猛練習をした。母の怒鳴り声などまるで耳に入らなかった。たまりかねた母が父に相談して、それで父から小言を貰うこともあったけれど、神妙に聞いたフリをする。聞いたフリだけはしておかないと、ラウテを取り上げられる危険があったので、そうしていたけれど、次の日にはまたラウテに打ち込む。家でやると母がうるさいので広場や川べりに行って弾く。雨の日には集会所の屋根裏部屋に居心地の良い自分の場所を勝手に作ってそこで弾いた。歌も覚えた。少女に習っていたせいもあるだろうが、歌の方の評判も上々だった。ラウテも上達した。集会所に集まる誰もが褒めるので、父は小言を言わなくなった。母は相変わらずうるさかったけれど、父はそれを黙殺した。


そしてその年、ラウテで舞台に上がった。明るい調子の曲に、観客の手拍子が重なる。手を取りあって踊る男女に、小さな身体でそれを真似て笑う幼児。会場が一体となっていく感覚に、俺は興奮した。
そしてその会場に、あの少女は来ていた。やはり少し日焼けをして、背丈の伸びた少女に、あの時の妖精のような儚げな様子はなかったけれど、変わらず美しかった。
ジャン、とっても上手になったね!歌も素敵だった!すごい、すごい、と褒めて抱きしめる少女の後ろに、やはりあの少年がいた。

ねぇ、来年もジャンのラウテが聞きたいな。そういう少女に、ねぇちゃんはもう歌わないの?ねぇちゃんの歌が聞きたい!とねだった。ちょっと困った顔をしてから、少女は言った。今日はもう帰らないと。門限に間に合わないの。それでも俺はなお食い下がった。それじゃあの曲を弾けるように覚えるから、来年の収穫祭で歌ってよと。少女は申し訳なさそうな顔をした。あの曲はね、すごく高い声でなきゃ歌えないの。子供の声でなきゃ。来年はきっともう歌えないと思う。ごめんね、と。そのかわりにと別の曲名を告げた。秋の収穫祭には似つかわしくない、春の花を歌った曲だった。舞台に立って歌うことは出来ないけど、覚えてくれたら、昼間に歌ってあげるからね、と。


もう2度とあの妖精の歌を聴けないと思うと悲しかったけれど、次の目標が出来た。集会所の書庫に行くと少女の言った曲の楽譜を見つけ出して必死に覚えた。楽譜の読み方は父から教わった。勉強を放り出しても、父はもう何も言わなかった。宿題だけはやれと言われるものの、予習だとか復習だとか試験の点数だとかそんなことには触れもしない。相変わらずギャンギャンうるさい母に、やらせとけ、と一言。それでまたラウテの練習に打ち込んだ。
楽譜の読み方を覚えたので、集会所の書庫をあさりまくって、片っ端から曲を覚えて弾いた。そうすれば、少女が唐突にアレがいい、と言った時に応えられると思ったからだ。

そうしてまた収穫祭。日が傾きかけた頃、少女と少年はやってきた。ちらりと少年を見上げて、にいちゃんまたデカくなったのな、というと、少年はにやりと笑った。お前ほどじゃねぇよ。そういって頭をくしゃりと掻き混ぜた手は、もう大人と変わらないように見えた。少女もまた、すらりと背が伸びていたうえに、少しだけ胸が膨らんでいるのが見て取れてなんとなく正視出来ずに、ねぇちゃん彼氏ぐらいできたのかよ、あ、無理か!男みてぇだもんな!とか憎まれ口を叩いて小突かれた。生意気なガキんちょね!歌わないわよ!とかなんとか。それでも俺は会えたことが、会話出来たことが嬉しかった。


広場の一角の、ほんの少しの隙間に3人で座ってラウテを弾いた。季節外れの春の花を歌う少女に誰もが振り返った。たちまち人だかりが出来る。それに気を良くしてさらにラウテを弾く。ねぇちゃん、これ歌える?と挑戦的に言って弾く別の春の曲。受けて立つ、とばかりに立ち上がり歌う。秋の空に花びらが舞うような、そんな歌声。
曲が終わると見物人からの拍手喝采。まるであの時のような。おどけたように礼をしてみせる少女に、もっと聞かせろと催促の声がかかって、さらにもう1曲。

もっともっとの声を笑顔で振り切って夕闇の中舞台袖に移動して、舞台用の衣装に着替えるのを当たり前のように手伝おうとした少女を慌てて突き放した。ガキじゃねぇよ!と。驚いた顔で一瞬俺を見つめて、そうね、ごめん、と寂しそうに言う少女の様子に動揺して、別に嫌じゃねぇけど、男の着替えに女が居ちゃマズイだろ、とか妙に大人びた言い訳をして、何このマセガキ!と少女を爆笑させた。


舞台での演奏が終わるとまた、浮き浮きと2人のもとへ駆ける。やっぱりジャンは歌も上手いね!と少女が褒め、それに少年が頷いて、そのラウテ借り物だろ?次の収穫祭のときに俺のラウテを持って来てやる、と言った。でもそれにぃちゃんのだろ?いいのかよ?と聞くと、俺は憲兵になるんだぜ?憲兵は給料が良いんだ。それで新しいのを買うから、古いのはお前にやるよ、そう言ってまた俺の頭をくしゃりと搔き回した。ラウテは値が張る。だから今までずっと集会所のラウテを借りていた。他に借りる人間がいないのを良いことに、まるで自分の物のように扱っていたけれど、それでも借り物なのは間違いなかったし、いつか自分のラウテが欲しいと思っていたから、飛び上がって喜んだ。まじか!ホントにくれんの!?ああ、もう俺より上手いくらいだからな、お前にやる。まじかよ!!憲兵ってすげぇんだな!そう言って興奮するのを少女が笑って見ていた。
別れ際に、約束だかんな!絶対だぞ!と言う俺に、2人は笑って手を振った。

けれども次の収穫祭は開かれなかった。シガンシナの扉が破られて、トロストには避難民が充満した。食料が不足し、街の治安は悪化した。いつトロストも破られるかと、街中にピリピリとした空気が流れる中、父は世話役時代の伝手とコネを存分に生かして、トロスト近くの農村に避難した。
とりあえず食うに困ることは無かったし、村の中でなら自由に遊ぶこともできた。ラウテを持ち出すことを許可されたので、ラウテと笛の練習は欠かさなかった。次にあの2人に会った時、また上手くなったと言われたかった。村人たちに聴かせると喜ばれたし、農作業も家畜のことも何も知らないと馬鹿にする村の子供たちからも、音楽を聴かせた後には一目置かれるようになった。


翌年、あの無謀なマリア奪還作戦が決行されることが決まった時、トロストとその周辺は騒然となった。避難民の多くがトロストに比較的近い開拓地に送られたこともあっただろうが、訓練兵団ウォールローゼ南方面隊から多くの訓練兵が作戦に投入されることが決まったからだ。訓練兵の親の多くが、なぜ、どうして、と嘆いた。

混乱の中で、あの2人の近況は知れなかった。少年は前年に訓練兵団を卒業し、憲兵になったはずだ。しかし少女はまだ訓練兵団にいる。ならば作戦に投入されるだろう。訓練兵は主に補給任務に就くようだという噂だったが、補給班だからといって安全というものでもないらしい。そう聞くと居てもたってもいられず作戦決行の日の夜明け前、俺は乗ることを覚えたばかりの馬にまたがった。


トロストの内扉に着くともう夜が明けていた。兵士がひっきりなしに出入りし、作戦に投入される開拓民が俯きながら足を引きずるようにして街に入っていく。内扉から少し離れた茂みに馬を繋いでこそこそと避難民に紛れ込んで勝手知ったる街に入り、交差する2本の剣を背負った若い訓練兵を探して歩く。
散々歩き回って外扉の近くまで来た時、思ってもいなかった人に声をかけられた。ジャン!お前こんなとこで何やってる!そういったあの少年は一角の馬ではなく、赤いバラの紋章を付けて馬を引いていた。憲兵じゃなかったのか?なぁんだ、やっぱり10番には入れなかったのか?と、この期に及んで憎まれ口を叩く子供に、少年は笑った。ばーか、俺は7番だ。もちろん憲兵でもどこでも行けたけどな、俺は俺の街を守りたかったんだよ。そう言っていつものように頭をくしゃりと掻き混ぜた。

なぜ馬を引いているのか問うと、駐屯兵団も補給の任に就くのだと言う。少年の任務は補給物資を乗せた荷馬車の護衛で荷馬車と共に前線の兵に物資を運ぶ。それは子供にもはっきりと危険だと分かる任務だった。
にぃちゃん行くなよ!!死んじまう!!そう叫んで、少年の上着に掴んだ。少女との中を羨んで、恋敵と敵視したこともある少年だったけれど、兄弟のいない俺にとって兄のような尊敬できる人だった。その人が今、死地へ向かおうとしている。
泣き喚く俺の背に大きな手を回してぎゅうと抱きしめた後、少年はちょっと待ってろと言い、上官に何事か話しかけた。しかめ面する上官に何度も頭を下げるとやがて上官が仕方ないという顔して、それで少年は弾かれたように走り出した。


そしてものの数分で戻ってきた少年の手には、大きなケースが握られていた。ほら、約束してたラウテだ。大事にするんだぞ。と俺に抱かせる。
泣く俺に少年はラウテを弾いてくれと言った。何か歌えと。こんな時に弾けるかよ!とまた泣く俺に、出来ることを出来るときに精一杯やれ、子供のお前に今出来ることはたかが知れてる、そのお前に今出来ることは何だ?と少年は問うた。
それで俺はケースの中からラウテを取り出してつま弾いた。あの春の花の歌を。さらば友よ、と。その場の兵士がみな、しん、と歌に耳を傾けどこからかすすり泣く声が聞こえた。歌い終わったちょうどその時、鐘が鳴り響いた。

轟音を立てて馬が、馬車が行く。大きいと思っていた少年は、さらに大きな兵士達に囲まれて、あっというまに見えなくなる。それを見守ってまた歌った。先陣が過ぎ去り、開拓民を乗せた馬車が外扉をくぐる頃、壁の上から会いたくてたまらなかった人が、立体起動で舞い降りて来た。長い髪をなびかせて空を舞うその姿は、本当に美しかった。少女は近くまで降りてきてこちらに向かって手を振ると、そのまま壁の上に舞い戻って行った。作戦が決行された今、持ち場を離れることは出来ないのだろうと理解して、壁の上まで届けとばかりに歌った。


何時間も歌い続けてラウテを弾く指がもつれ始めた時、隣に父が立っていることに気が付いた。怒られるのかと思ったら、父は黙って扉の外へ向かう開拓民を見つめていた。歌い終わって父に少年が前線に出たこと壁の上に少女が居ることを告げると、しばらく沈黙した後に、そうか、とだけ言った。疲れ果てラウテを抱きしめながら父と2人で開拓民の列を見守った。

その日の夜、避難先の家に戻ると母が金切声をあげて怒りながら泣いた。そして一緒に避難していたトロストの近隣住民は、少年のことを聞くと母と一緒にさめざめと泣き始めて、その声は俺が寝入った後も続いたらしい。後になって、なんか不気味だったと村の子供から聞かされた。


それからしばらくして、少年が前線で亡くなったと連絡があり、少女もまた補給任務中に命を落としたと聞かされた。
トロストの直近で亡くなった少女は遺髪を残していたので、簡素な葬儀の時には小さな入れ物にその美しい黒髪が入れられ葬られた。
少年は、指の1本髪の一筋さえ残さなかった。だから少年の墓石の下には何もない。

2人の墓石の前で、あの時歌った春の花の歌を歌った。参列者から嗚咽が漏れる中で、俺は心に誓った。
こんな遺体も残らないような死に方は、絶対にしない。親に葬られるような早死にも絶対にしない。好きな女を、若いまま美しいまま死なせるようなことは絶対にしない。
憲兵になって、内地に行って、好きな女を見つけて、そこで結婚して嫁とよぼよぼになるまで生きてやる。死ぬときは子供と嫁に囲まれて、自分のベットで安らかに死んでやるんだ、と。



あのラウテと笛は、父に託した。憲兵になったらまたやるから、と言って。そのまま取りに行く暇もないままだ。壁外遠征に出る前、あの農地に避難していると手紙が来た。多分、楽器も持って行ってくれているだろう。

女型の尻を追いかけて馬を走らせながらほんの一瞬、昔のことに思いを馳せたジャンだった。


おしまい。



別スレ立てるほどでもないような短さだった。ごめんなさい。もし次番外編書く時はここ使う。


注・・・・ラウテとはリュート、ギターのことです。ギター、と書くとどうもアメリカンなイメージがまとわりついて違和感があったので、ラウテとしました。

ギターと爪弾き謡う美声のジャン
篠笛を吹くジャン
・・・・たまりませんな。グフフ

それではお休みなさい。

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