アニ「黒い髪の女」(123)


※パラレルワールドの話。
※エロ無し笑い無しほっこり無し。ただただ辛く厳しい時代を生きる。


壁のてっぺんが見える。

あそこまであと…… 20メートルくらいか。もう少しだ。

あれを乗り越えればお父さんに会える。戦士の自分を忘れてしまえる。

辛かった日々は忘れて静かに暮らそう。


お父さんのところで。


毎日祈りを捧げよう。

私のせいで死んだ、大勢の兵士と何の罪もない人々のために。

そして今生きている、これから生まれてくる人々のために。


そうするには、あのてっぺんを乗り越えなければ!

あと15メートル。10メートル…… もうすぐ。もう、すぐそこだ。




え。




どこからともなく、アンカーが壁に刺さって、




ミカサ「  行  か  せ  な  い  !  」




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(Open sesame!)


ここはどこ?

誰もいない。どこかの地下室のようだ。


どうやら……


水晶に閉じ籠った私を、結局奴らは引きずり出せなかったらしい。あのまま自然解凍するまで放置されたのか。

だとすると…… もうライナーにもベルトルトにも会えないな。

とうとうあいつら、私を助けに来てくれなかった。

仕方ない。ここを出て現状を確認するとしよう。

扉は…… 錆び付いてる。開かないの? そりゃまずいよ。よいっしょおー!

ふう。何とか開いた。あそこに階段がある。


! 空だ。そして流れる雲。


階段の上はすぐ外か。久し振りに吸う外の空気…… たまんない。

早く世界が、外の景色が見たい!




え?




ミカサ「  行  か  せ  な  い  !  」





.


(Piss!)


アニ「うーーーーーっ、漏れる漏れる! あ、あそこに便所! よかったぁ」




ミカサ「  行  か  せ  な  い  !  」





.


(Katharsis)


アニ「いやあ~、ようやく5日間の便秘から解放されそうだよ、ふー。おっ、来た来た来た」




ミカサ「  行  か  せ  な  い  !  」





.


(Ecstasy)


???「アニ! アニ! アニぃ!」

アニ「うん、あんた、すごくいいよ、そう、そう、もっときて、もっと、もっと、もっ……」




ミカサ「  イ  か  せ  な  い  !  」





.


(Home)


アニ「見て! 故郷がもうあんな近くに」

ベルトルト「とうとうたどり着いたんだね」

アニ「長かったね」

ベルトルト「7年間、いろんな苦労に耐えてきた甲斐があった。僕らの勝利だ」

アニ「私たちを運んでくれてるライナーは御苦労さんだけどね」

ベルトルト「アニ、故郷に着いたら、……伝えたいことがあるんだ」

アニ「何?」

ベルトルト「何って、今はまだ言えないよ。きっとライナー笑ってるし」

ライナー(笑ってねえよ。俺の肩の上で何やってんだお前ら)

アニ「言っちゃいなよ。別に、今だって着いてからだっておんなじだよ」

ベルトルト「そうかな」

アニ「分かってないね乙女心が。ライナーの肩の上に2人並んで故郷を眺めてるこの状況、あんたどう考えてるのさ?」


ベルトルト「……そうか! 君の言う通りだ」

アニ「ふふ。やっと分かった?」

ベルトルト「うん。もう何も迷うことはない。アニ、故郷に着いたら、僕と」









                                 ! 」
                             い 
                         な 
                     せ 
                 か 
           「 行 
        サ
    カ


(Nightmare)


みんなどこへ行ってしまったの?

ここにいるのは私一人?


嫌。

嫌!

嫌!!





ヤーーーッ





???「アニ! アニ!」

アニ「その声は? もしかして、ベルトルト?」

ベルトルト「やっと目が覚めた…… 夢を見てたんだね。ひどいうなされ方だったよ」

アニ「夢…… よかった」

ベルトルト「大丈夫? 一人で起きられるかい?」

アニ「うん、大丈夫。……おっと」

ベルトルト「ほら、無理だよ。さ、僕の手につかまって」

アニ「ありがとう」




え?





    カ
        サ
            「 行 
                  か 
                      せ 
                          な 
                              い 
                                  ! 」










.















.











「どういうこと? どうしても確認しなきゃなんない話?」


受話器から響くターニャの声は、苛立ちをノイズに変えているみたいで聞き取りにくい。
そんな彼女の気分が伝わってくると一層、私の気持ちは外の土砂降りみたいに滅入っていく。


「大したことじゃないんだけどね。ほら、気にしだすときりがないことってあるじゃない? それだよ」

「ちょっと待って。外の様子見てくるから」


不機嫌そうなターニャの顔が目に見えるようだ。いかにもぞんざいに受話器を置くゴツンという音が伝わってきた。
それを合図に、私は自分の受話器を耳に当てたまま電話ボックスの壁に体を預け、ガラス越しに空模様を眺める。


世界が続く限り止みそうにない雨。
大学から歩いて10分のところに住むターニャさえ、永遠に足止めせずにはおかないかのように。

学生新聞だからというのは言い逃れにならない。大学の党組織は紙面を毎号しらみつぶしにチェックしている。

もちろん連中にとっては、記事内容が革命的であるかどうかが第一。しかし、恐れている通りの間抜けな校正漏れがあるとしたら、見落とされるなんて期待は甘すぎる。彼らのことだ。鬼の首を取った勢いで地区委員会に報告するだろう。


もしそうなれば。


そこから先は考える気も起きない。「平和な国」に住んでいる人々には、私の狼狽ぶりはやはり滑稽でしかないんだろうか?
私たちは私たちの世界に閉じ込められて、このどうしようもない現実に向き合わなければならないのに。


受話器の奥でガサゴソ言う音。ターニャが戻ってきた。


「駄目ね。橋が流されちゃって通れない」

「えーー? そいつは困ったね……」


そんなに簡単に流されるの? それって本当に、人が歩いて渡る橋なの? 冗談もいい加減にしてほしい!


「雨で印刷が遅れるとか…… あるわけないか」

「それどころか、今ごろ大急ぎで作業してんじゃない」


ため息がもろに受話器にかかった。すまないねターニャ、悪気はないんだ。私は善後策をひねり出した。


「あんたのさ、近くに住んでて、信頼できそうな男の知り合いいない? 別にうちの大学でなくてもいいんだけど」

「……いることはいるね。増水した川でも泳いで渡れそうなのが」

「そいつでいいや。お願い! あんたの持ってる鍵を渡して、編集室に行ってゲラ刷りを電話口で読み上げてくれるだけでいいって、頼んでみてくれる?」

「分かるの? ゲラ置いてある場所なんて」

「私の机の上の、コーヒー茶碗の下に敷いてあるのがそれだから」

「分かった。あ…… だけどさ」


ターニャの声が急に低くなる。


「そもそも最悪の状況だったとして、部外者に読み上げさせたりして大丈夫?」

「そういう状況ならもう、私だって肚くくってるさ」

「確かにそうだね。いったん切るけどいい?」

「うん…… じゃあ、その心当たりの彼には、今から1時間後に編集室に電話するって言っといて」


ターニャは了解と言って電話を切った。


受話器をフックに戻し、灰色に染まった世界を眺める。この電話ボックスは嵐の大海に立つ岩礁のよう。さて、あと1時間……

強い風で足元にまで雨水が吹き寄せブーツを濡らす。外へ踏み出すどんな理由も見当たらない。ここに留まっていれば雨脚が弱まるかもしれないし。



               弱まればいいんだが。




私のよくできたおつむが妄想するのはいつも、この20世紀におよそ考えられないような甘っちょろいオプティミズム。

煙草を咥えマッチを擦る。でも手が震えてうまく火が付かない。
3度失敗して舌打ちし4度目でマッチを落とす。深呼吸してから二本目のマッチを擦ってようやく成功。
石器人の感謝を呼び起こして慎重この上なく煙草に火を付け、大きく吸い込んだ時、ようやく手の震えが止まる。


(煙草を吸っていないと、世界の馬鹿馬鹿しさを笑っていることもできなくなる)

そう言ってたのはダニール伯父さんだった。あれは私が17歳の時。確かにあまり「革命的」とは言えない言い草。


その伯父さんも姿を消してもう2年になる。


でも煙草を吸っていようがいまいが、外の雨みたいに、世界の馬鹿馬鹿しさは関係がない。今より少しはましになるかもしれないし、もっと馬鹿馬鹿しくなるかも。ましになると思わなければ生きている理由さえないだろう。

馬鹿馬鹿しさの最たるものが、私の机の上で信じられないほど静かに佇んでいるゲラの1文字だ。

豪雨まで味方に付けて私の接近を阻み、運命を決めようとしている。私はこの嵐の中の岩礁に閉じ込められて、裁きが下るのをじっと待っているというわけだ。

腕時計を見た。まだ30分ある。何もすることがないので、ダニール伯父さんが好きだった詩を口ずさんでみる。



       まさに我は来たれり
       おのれどもが咲かす、
       一瞬の花を摘み取らんがために


       今こそ我は来たれり
       消えゆくおのれどもが歌、
       たまゆらの舞い、
       儚き口づけを嘉納せんがために


       滔々たる流れに聞くは
       過ぎし日の嘆き、歓び、おらびのこころよき調べ
       そを我は幾重にも幾重にも綾に織りなし、
       おのれどもの前に積み上げたり


       今、ここに還り来たりて
       ふたたびおのれどもに告げん


       妬む者は我なり
       嘲る者は我なり
       裏切る者は我なり



1時間…… まだ経っていないか。でも早すぎると言って誰かが腹を立てる問題じゃない。


私たちが編集室と呼んでいる、地下の一室に通じるダイヤルを回す。呼び出し音が1回。2回。3回。


神様(Ради Бога!)。


4回。5回目で受話器が上がる、私の勝利!


「もしもし、ターニャから話は聞いてる?」


前置きは一切省略、息せき切って食い付くように畳みかける。こういう時、先方は違う惑星の生物かと思うくらいのんきなのが普通だ。


「聞いてるから落ち着いて。あなたの机ってどこ」


当惑を軽い笑いで繕っている青年の声。ああ、取り乱した私の声は随分みっともない響きを発してるんだろうな。


「入口から3番目の机。ライオンの絵柄が入ったコーヒー茶碗が置いてない?」

「ああ、あった」

「その下になってる紙の…… 3枚目。分かる?」

「はいはいどうぞ」

「…… 上から6行目、いや5行目だったかな? 人名が入ってるでしょ?」


その人名を口にするのは憚られる!
幸いにも青年は察しのよい方だった。天気のわりに今日は幸先がいい。人生にはたまにそういうこともあるんだろう。


「はい、あったよ」

「その綴りが、本来『Н』になるべきところが『И』になってない?」

「ちょっと待って」


ゲラ刷りの紙をいじり回す音が聞こえてくる。そして私の鼓動がこの状況にお節介な伴奏を奏でる。


「……ああ、これね。大丈夫、間違ってないよ」

「本当!?」


「大丈夫だよ、こうしてまた見てるけど、正しい綴りになってる」

「よかった…… ごめんなさい、こんなひどい天気の中にお願いしちゃって」

「いやいや。何もなくて本当によかったよ」


動悸が収まっていく時というのは、こんなにも心地いいものだろうか。人心地を取り戻す中で私は、やっと人と人との礼儀を思い出した。


「あ、失礼、私はアンナ。アンナ・レオンハート。アニって呼んで」

「ああ、よろしく。僕はグンタ。グンタ・シュルツ」


外は雨が収まりかけていた。視線の先に小さな青空がのぞいていたのを、私はずっと後まで覚えていた。




~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~

翌日、私は自分の講義が終わってから構内の東屋(あずまや)に足を向けた。ここは大学敷地の小高いところにあって風通しがいいせいか、不思議に蚊が寄ってこない。だから時間の空いた時、私は読書をするのによく利用する。

前日の雨があちこちに水たまりをつくっていて、強い日差しの中で陽炎を立ち上らせている。東屋のベンチもところどころ濡れてはいるが、乾くのも時間の問題だろう。
テーブルの上には、昨日と同様にコーヒー茶碗を目印にして置いた。違うのは、ミルクコーヒーの色をした液体が入っているところぐらいだ。

大豆を煎って挽いたコーヒーの代用品。そんなものでもミルクで割って飲めば本物を飲んでいるような気分になれる。

この代用コーヒーを発明した人間に私たちは随喜の涙を流して感謝すべきなのか、それともケツを蹴っ飛ばしてやるべきなのか。以前、ターニャとそんな議論をしたことがある。


ターニャによれば、20年前には確実に後者が多数派だったが、今ではせいぜい五分五分、そしてこれから20年後にはすべて前者で占められるようになるらしい。理由は簡単。本物のコーヒーの味を知る人間がいなくなるからだ。

その時代になって本物を飲んだ人間は、こんなもの飲めたものではないと顔をしかめるに決まってる。ターニャはそう言っていた。

革命の年に生まれた私も本物のコーヒーの味を忘れて久しい。忘却とはそんな、ありがたくも残酷な処世の知恵なのだ。忘却の期間が過ぎた後は代用物が本物になり、かつての本物は偽物の地位に転落するのだろう。


恐らく人間も同じだ。代用物が重宝がられるようになれば本物の居場所はなくなり、存在さえ忘れ去られる。


ブリキのカップを手にした青年が、強い日差しに目を細めながら近づいてきた。いったん足を止めて周囲を見回してから、改めて私のいる東屋に歩み寄ってくる。

白樺の枝を避け、身をかがめたその顔が翳った。


随分と特徴のある髪形。オールバックにした髪が後頭部で帆船の船首みたいに跳ね上がり、巨大なドングリを思わせる。革命的だ。


それにしてもこの顔。どこかで見なかったっけ。


「アニ?」


ブリキのカップを持った右手のひとさし指がテーブルに向けられた。


「あなたがグンタ? 昨日は本当にありがとう!」


青年はテーブルにカップを置き、私の差し出した手を握った。


「役に立ててよかった」

「お陰で寿命が伸びたわ。冗談ではなしに」


よく考えれば洒落にならない話だが、グンタは訳知り顔で頷く。生活の苦労は知っているようだ。私は、家から大変な思いをして担いできた5キロほどのジャガイモの袋をテーブルに載せた。


「これ、よかったら。ほんの気持ちです」

「いいの?」

「持って帰れるなら」

「帰りがまた土砂降りになったって持って帰るさ。妹の好物だ」


本当なら手づくりのクッキーを同じくらい渡してあげたかったのに。でも、ジャガイモのありがたさを今はたくさんの人が理解してくれる。


「あの雨の中、どうやってたどり着いたの?」


「近所に小型トラックがあってね。それで上流の橋まで回ったんだ。石造りの頑丈な橋だったからね……」


言葉が止まり、視線が宙を泳ぐ。そんな頑丈な橋がこの20年ほどの間に造られるはずがない。だったら流された橋はいったい何だったのか。


「まあ、何てことはなかったよ」

「トラックまで…… それっぽっちの芋じゃ全然足りないね」

「僕の車じゃないからいいさ」

「ターニャとは友達?」

「友達ってほどでも。同じ大学に通ってて近所だから、何となく言葉を交わすようになった程度だよ。君は哲学科なんだって?」

「うん。あなたは?」

「工学科。僕と妹は、僕が大学に進学した時期にここに引っ越してきてね」


「へええ。元はどちら?」

「キエフさ」


キエフ。


鸚鵡返ししながら私は青年の顔を見る。彼が越してきたという時期にウクライナで何があったか、知らぬバカは…… 多分いない。
青年の視線は晴れた空のどこか遠くに向けられている。その視線を動かさないまま、グンタが言った。


「アニ、って珍しい呼び名だね。アーニャでなくアニ。何か特別な理由でも?」

「もともと先祖がイギリスから来てるっていうのもあってね。父が私を小さい時からそう呼んでたの」


私は名の由来をアンナ・カレーニナだと聞かされてきた。それは父が単純にトルストイに傾倒していたからで、この小説がウラジーミル・イリイチ(レーニン)の大のお気に入りだったこととは何の関係もない。
そしてもちろん、私に反革命的な英国人の家庭教師が付いていたわけではない。


「あなたの方こそ珍しいよ。グンタなんて」

「確かによく言われる。生粋のドイツ人みたいだって」


毛の逆立った頭をうつむけた様子が妙にかわいいので、私は膝を乗り出した。


「ひょっとして、両親はジークフリートって名にしようかって迷ったんじゃ?」

「ひどいな。僕はタイツを履いて白鳥の湖を踊る柄じゃないさ」


チャイコフスキーを連想したのか。でも、ロシア人なら──彼も私と同じユダヤだと思うが──そうくるのが自然だろう。ジャガイモの好きな妹がクリームヒルトだとも思えない。


「どう? こっちは暮らしやすい?」

「天国だよ」

「そう。あっちはひどかったらしいね。煙草吸っていい?」


グンタが伏し目がちに頷いたのを合図に、私は煙草を口に咥えた。

ひどかったらしい。

自分はそれほどひどくないだろうって安心感に飢えてる時、上っ面だけ同情を装ったこんな言い草が不意に口を突いて出る。私の脳味噌はその程度に凡俗だ。


目の前ではグンタが、私が封印を解いてしまった故郷の思い出を語り出していた。


「ここには何でもある…… 煙草も、ジャガイモも。あっちには何にもなかった。信じられるかい? ほんっと、何にもないんだぜ。笑っちゃうくらいに。それなのに本屋の店先には、気障ったらしい男が朝から魚を食ってワイン飲んでるような小説が売られているんだ。

僕は思ったよ。別に魚もワインもいらない、ジャガイモとミルクで十分だからって。なのに両方とも、待ってるだけじゃ永遠にお目にかかれない代物だった。……食料を手に入れるために地べたを這いまわるような真似をしなきゃならなかった。そんな毎日を送ってると、……失うのは時間だけじゃない。自分が本当に人間なのかさえ疑わしくなってくる」

「嫌なこと思い出させちゃったかね。ごめん」

「こっちこそ。ろくでもない話をするんじゃなかった」


いつの間にか、たいして吸いもせずに煙草をもみ消していた。もったいないことを。


30年代初頭の北部ウクライナ。そこで起きていたことはいろんな噂で伝わってきても、公式には何一つ明らかにされていない。


ここ、太陽と穏やかな冬に恵まれた南ロシアのはずれでさえ、つい最近まで多くの悲劇が身近にあり、そして今も、私たちの知らないところで進行しているはず。

今、21歳になったばかりの私の幼少期ときたら…… あれはもう神話の時代だ。その神話の中心に、ほかならぬあの「親父」が居座っている。


「あんなの知らない方がよっぽどましさ。しかし…… きのう電話でやり取りしてて思ったんだけど」

「何?」


可笑しいことでも思い出したみたいに、うつむき加減の彼の顔に笑いが広がる。


「世の中には悪いことばかり起きない、ってね」

「そりゃ、たまにはいいことがないと」


私とグンタは声を立てずに笑った。それ以上は言わない。何も。一瞬の沈黙をこじ開けるようにしてグンタが言う。


「こう言っては失礼かもしれないが、君は…… 面白い人だと思う。味があるっていうか」

「そうなの?」

「あんまりロシア人らしくないところが新鮮だよ。まあ怒らないでくれ」

「別に怒らないよ。お互い様でしょ、私はアニで、あなたはグンタなんだから」

「そりゃそうだね」


グンタは自嘲気味の笑いを隠すかのように、カップの中で冷えてしまっているお茶を一口飲んだ。


「どっちにせよ、君の役に立ててよかった。じゃあ、これは貰っておくよ」


芋の袋を担いで背中を向けたグンタに、抑えきれない何かを感じて私は声を掛けた。


「ターニャがウォッカを2本手に入れたって言ってるの。よかったら、……遊びに来ない?」


振り向いた彼の顔が逆光に翳って見えなくなる。


「僕のところにも1本ある。これで3本だ」



─────────────────────


─────────────────────



偉大なるロシアの基準から言えば、私は決して酒をたしなむ方ではない。

ウォッカも好きではない。適量のワインがあればとりあえず幸せと思える私には、人事不省になるまでウォッカを流し込む男たちが、本当に酒を楽しんでいるのか疑わしく思える時がある。


あれは一種の苦行ではないだろうか。


道端やトイレで涙を流しながら胃の内容物を戻している姿を目にする時、そう感じずにいられない。

そんな男たちと平気で張り合えるターニャは私と見解を異にする。ある飲んだくれは、酒の本当の味わいは二日酔いの朝に尽きると言ったそうだ。あれを味わいたいがために、涙とともに酒を流し込むのだと。

「近頃、おぼろげながらその男の意見が理解できるようになった」ターニャはしみじみした口調でそう言っていた。


今、私たちを取り巻く苦い現実も、革命という酒を痛飲した後の二日酔いのようなものなのか。親の世代があの時代の狂熱に酔ったのは、実はこれを味わうためだったのか。

21歳の私の頭脳は、そこから導き出せる答えとして「信仰」という言葉に突き当たる。「親父」はもちろん信仰を認めていない。にもかかわらず、人々の心を深いところで支えているのは信仰と呼ぶ以外にないもののような気がする。


じゃあ革命から続く道は信仰へと通じていたってわけ? そんなバカな。何とうんざりする哲学談義。


私が哲学専攻を選んだことに深い理由はない。この国で「哲学」といえば一つしかないからだ。

どんな色にも染まるような分野だから、変に難癖を付けられるような心配も少ない。ダニール伯父さんにこんな話を遠回しにしたら、口をヘの字に曲げて何度も頷いていたっけ。


ところで、私がこのささやかな酒宴に持ち込めたのは1本の赤ワインと鱈の燻製2切れだけ。これ以上はどう頑張っても奮発しようがなかった。そしてまだ日の沈まないうちから、私たち3人は地下の穴倉みたいな編集室で酒盛りを始めた。ウォッカが3本にワイン1本。そして蒸かしたジャガイモにチーズと鱈。宴席にあるのはこれがすべてだ。


「ま、アニも無事だし。お互いこうやって生きてられることに感謝しなくちゃね」

「僕も感謝しなくちゃいけないのか? 君らに頼まれてゲラの確認をしただけなのに」

「当たり前じゃない。だからあんたもここで美味い酒が飲めるんでしょ」


ウォッカは久し振りなのか、耳の付け根まで赤くしてぶつくさ言うグンタをターニャがたしなめた。
ターニャの有無を言わさぬ調子にはどこか女闘士の風格が感じられる。彼女だったら、数日前の私みたいにうろたえたりしないのかもしれない。

何しろターニャはコムソモール書記の愛人として革命に挺身している。だからこそウォッカ2本を、愛人の元からせしめることができたのだ。

その彼女もまた、蝋燭の光でさえ鼻の頭が赤いのが分かるほどアルコールが回っていた。電球を点けていると周囲の目がうるさいので蝋燭を立てるしかないのだが、かえって秘密会合めいたいかがわしさを醸し出してしまう。

会合の趣旨がどうあれ、グンタは部外者代表そして特別功労者として招待の栄にあずかったわけだ。


「何でまた『親父』の名前なんて出さなきゃいけなかったんだ?」

「党大会で大学生の役割がうんぬんなんて言ったからだよ。一応、1面のどこかで触れとかないと……」


私の視線を受け止めたターニャが後を続ける。


「『お客さん』が増えて面倒なことになりかねないからね。次はあれだアニ、紙面全部、詩で埋めるってのはどう?」

「かえって危ないよ。あいつらケチつけようと思ったらいくらでもつけられるから。『これは異例だ』とか言って」


トロンとした目で私たちの会話を聞いていたグンタが身を乗り出し、愛用らしいブリキのカップにターニャの酌を受けながら言った。


「ねえターニャ。君の彼氏もここに呼んだらよかったんじゃ?」


ターニャは答えず、私の顔を見て小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。あの頓馬な野郎をここへ? 彼女の目はそう言っていた。


「書記先生は祝福を受ける立場にあると思うけどなあ」

「いやー」


声を立てずにターニャが笑った。


「ユーモアってのは時によりけりだよ」

「同感」


グンタには悪いが、私は白けきった表情をこれ見よがしにして煙草を取り出す。滅多に飲まない酒で微妙に判断力を狂わされていた青年も、空気を察したらしく神妙な表情になった。


「分かった分かった、聞かなかったことにしてくれ」


凹まされた格好のグンタはせめてもの詫びの印とでも言いたいのか、私の咥えた煙草に蝋燭の火を差し出す。私は礼も言わずにその心遣いを受けて煙を一吐きし、ターニャの顔を見た。


「別に誘わなくたってさ、そのうちターネチカの友達がまた何人か来るでしょ」

「またその話?」


ターニャはグンタの顔を横目で見てから、口をへの字に曲げて渋い表情をつくった。


あれは1カ月前。私たち新聞編集グループは手に入るだけの酒瓶を空にした後、安酒場に繰り出した。

その時の顔触れは私とターニャ、アリョーシャ、ダヴィド、ソーニャの5人だったはずなのだが、へべれけになったターニャは翌日、「グリーシャ」「リーザ」「スチョーパ」の3人が合流して一緒に飲んでいたと言い張ったのだ。


「だってアニ覚えてないの? グリーシャは中学の同じクラスで、リーザは隣のクラスにいた女よ」

「だから知らないって。そんな子いた? じゃあスチョーパは?」


「リーザの彼氏」

「嘘。だいたいなんであんた、そんなこと知ってんの」


私はその安酒場で、アリョーシャだけが先に帰ったことまで克明に覚えている。

最後までいたのは4人のはずだ。ターニャの記憶が正しいのだとすると、私もどこかで意識が飛んでいたのだろうか。


そう言えばアリョーシャにはあの時以来会っていない。今、どこで何してるんだろう?


「だからグリーシャはリーザのこと好きだったのよ。だけどスチョーパかっこいいから結局そっちに行っちゃったんだね。グリーシャ、リーザに告白したのにね」

「それでフラれたと」

「だって、コースチャがそう言ってたでしょ」

「コースチャ?」

「全然覚えてないんだ。ほら、私たちの席で20分ばかり飲んでてすぐ帰っちゃったじゃない彼!」


何だか頭がくらくらしてきた。さっきから自分だけ飲んでいるワインはそれほど質の悪い代物ではないはずなんだけど。


「まああんたの言うこと信じるとして、スチョーパって何者なの」

「ほんっとに忘れてんだね。フェンシング部で活躍してた金髪の彼、学年で一番の人気だったじゃん! ステパン・ベロゾフスキー。リーザだってあの時自分ではっきり『彼氏』だって宣言してたよ」

「……でも不自然だね。フラれたその、何だっけ」

「グリーシャ」

「うん、その彼が、もうお邪魔虫でしかないのにどうして一緒にいられるのさ?」

「さあね。あわよくば後釜でも狙ってんじゃないの」


私は煙草の煙を吐き出しながら、ターニャの言い張る3人の関係を頭の中で整理した。

酔っ払いの見た幻という理解はまだまだ揺るがないが、何やら、今度ダヴィドかソーニャに会ったら確かめてみようという気になってきた。
そもそもターニャが覚えてて私が全然覚えてない理由って何だろ。


忘れなきゃいけない理由でもあったのかな?


ワインの酔いが回ったのか、若干ぼやけてきた視界の先でグンタ青年が何か喋っている。


「べろんべろんになるといろんな妖怪が現れるってのはあり得ることだよ。特にロシアでは」


ウクライナ出身の青年にとって、まだロシアは奇怪なことが多いのかもしれない。


「まあ、酒を減らさないで帰ってくれりゃ一番いいんだけどね」


ターニャの言い方に皆で声を上げて笑った時、ドアをノックする音が響いた。



3人とも凍り付いたように黙り込む。5秒ほど置いてもう一度。



誰も声を上げる者はいない。沈黙の中に、ノックの音だけが2度、3度、4度と鳴り響く。



そして。


「ターニャ! アニ! 僕だよエドゥーシャだよ! いるんだろ!?」


若い男の声に続いてまたノックの音。ターニャが目で私に「誰?」と問い掛け、私は私でばね仕掛けの人形みたいに首を振る。

エドゥーシャ──エドゥアルド?──そんな名前の知り合いはいない。

だとするならば。



「ノッカー」が来たのか。



ドアはいつもの習慣で鍵を掛けてある。でもこの地下室には外へ逃げ出せる窓なんてない。
私たち──あるいは私だけかも?──は今まで住んでいた世界から永久に切り離されてしまう。家族とも友人たちとも。


そして? 私を待つのは噂に聞くあの、極寒の地の矯正労働収容所? え、嘘でしょ!


10年の刑期を言い渡された私はわずかなパンと薄いスープで1日15時間の労働を強いられ、子宮も抜け落ちると噂される苦役の中で1年足らずのうちに死ぬ。


私は革命ロシアの礎石の一つとして凍れる大地の下で眠るのだ。そうやって革命神話の中で永久に語られ続けるのが本望なの? 嫌! 絶対に嫌!




でもでももう逃げられないお父さんお母さんごめんなさいアニは悪い子でした革命のためにもっともっと挺身すべきでした祖国の父を讃え党の方針を固く固く順守すべきでしたなのに私は愚かにも勉強を怠け反革命的思想に染まり飲酒にうつつを抜かしておりましたここに私は自己批判を、




グンタが立ち上がった。ターニャが縋るような目つきでその手を押さえる。


でもグンタを責めることはできない。もし本当に…… ! 私たちが人民の敵であるならば、彼は何も知らずに反革命分子の集会に招かれてしまっただけの不運な青年。でも彼は気丈にも、錯乱寸前に見えるターニャを落ち着かせようとするかのように、空いた方の手の人差し指を立て、そしてターニャの手を優しく握り返してから、ドアの方へ歩いて行った。


グンタがドアに向かう間にも、ノックは続いている。解錠する音が伝わり、グンタが外へ出る気配に続いて、ドアの閉まる音がした。


ノッカーとグンタは外で何か話しているようだ。私たちがどれほど悪辣な陰謀を企てていたか、克明に報告しているのだろうか? 
ならば彼にとっては党への忠誠心を明らかにするまたとない機会! しかし報告は極めて短時間で済んだかのように、再びドアが開き、そして閉じられた。


続いて鍵の掛かる音。


続く!


参考までにロシア人のファーストネームと対応する愛称を以下に示しておきます(右が正式名、左は愛称)。


アーニャ=アンナ
ターニャorターネチカ=タチアナ
グリーシャ=グリゴーリイ
アリョーシャ=アレクセイ
コースチャ=コンスタンチン
スチョーパ=ステパン
ソーニャ=ソフィア
セリョージャ=セルゲイ
マーシャ=マリヤ
ミーチャ=ドミートリイ
ワーニャ=イワン
リーザ=エリザヴェータ


再開前に一カ所修正点があります。訂正というほどでもないのですが。

>>25 「その綴りが、本来『Н』になるべきところが『И』になってない?」
                     ↓
   「その綴りが、本来『л』になるべきところが『р』になってない?」


ドアが閉ざされ、施錠されたということは、……大挙して係官が押し入って来る状況ではない!


そう考えていいんだよね?


そして施錠の音に続き、こちらに向かってくる足音を私たちは全身を耳にして聞いていたと思う。
間違いない、一人だけ! やがて蝋燭の淡い光の中、皮肉な笑いを口の端ににじませてグンタの顔が浮かび上がったのを、私たちは救世主を仰ぐ思いで見た。


「守衛だった。あんまり遅くまで騒いでると困るから適当に切り上げろってさ」


緊張の糸が一気に弛緩する。私とターニャは節度をわきまえつつ、腹の底からくぐもった笑いを噴き出させた。


「でも確かに聞いたよねぇ、エドゥーシャって。あんたも聞いたでしょ?」


私の問い掛けにグンタは、ああ、そうだったねと事も無げに言う。


「ほら、グンタも聞いたってよ」

「えええ? ほんとに? あの守衛の爺さん、何て名前だったっけ……」


目を細めて天井の片隅を睨んでいるターニャに、グンタが助け舟を出した。


「セルゲイ・アンドレーエヴィチ。姓は確か…… イブラーモフだったかな。革命前は黒海艦隊の艦長だったらしいぜ」

「じゃあエドゥーシャはどこに行っちゃったの? 艦長さんのいたずらにしてはちょっとお茶目すぎるんじゃない? アニ、あんたあの爺さんと話したことある?」

「一度だけね。でもさっきの声は、どう考えたってあんな年寄りのじゃないでしょ。……外にいたのはあの爺さんだけ?」

「もちろん」

「嫌だぁ……」


ターニャが亀みたいに首をすくめる。私も何だか寒気がしてきた。
悪霊除けのまじないでもするかのようにグンタは手のひらをポンと一つ叩いて、ターニャの目の前にあったボトルを取り上げ、なみなみと自分のカップにウォッカを注いだ。


「前世紀に流行った降霊術か何かみたいだ」

「どうしよ。すっかり酔いが醒めちゃった」


顔色の蒼褪めているターニャが、両腕を抱え込むようにしてごしごし擦り、肩掛けを羽織った。


「やっぱり、誰かが連れてきたっていうか、あるいは誰かに憑いてきたってことよ。アニ、あんた今までに振った男の数は10人じゃ足りないでしょ。その中にエドゥーシャいなかったの」

「いないよ」


「またぁ。忘れてるだけなんじゃ?」

「それはない。名前も顔も全部覚えてる」

「それはまたそれで、どうかと思うね…… さて、私も心当たりないし。じゃ青年、あんたはどうなの」


グンタは一瞬考え込むような表情を見せてから言った。


「叔母の息子、つまり従兄弟にそういう名前の奴がいたっけ。あんまり親しくなかったけど」

「それだよ。あんたが連れてきたんだ」

「まさか。君らのこと知ってるわけないだろ」

「いやー、他に該当者はいないね」


酔いが醒めたと言うわりには、ターニャは悪酔いしたみたいにしつこい。するとグンタが急に何か思い付いたような表情になり、彼女に向かって自信ありげに言い出した。


「僕が思うに、やっぱり君らだよ」

「どうして?」

「君ら本当はエドゥーシャを知ってるんだ。それどころか友人だ」

「根拠は何よ?」

「いいかい」


グンタは身を乗り出し、さも重大な秘密を解き明かすそぶりで両手のひらを上に向け、私とターニャの顔を交互に見る。


「僕らが生きている世界ってのは一つじゃない。今、ここでこうしてウォッカを飲んでる僕たちとは別の僕たちが、同時並行で存在する。例えば今のロシアでは、さっき来たのが本物のノッカーで、僕たちは58条で逮捕されて取り調べを受けているって世界もあったって不思議じゃないだろ? その世界ではエドゥーシャは君らの友人なわけだ。

そして今ここで酒を飲んでいられる君らはっていうと、エドゥーシャを知らない。つまり、その別の世界の幻みたいなものってことになる」

「何それ。西側で流行ってるっていう科学小説の類?」

「じゃあ、そのかわいそうな私らは、ここで今くだらないお喋りをしてる私らの身代わりってわけ?」

「まあ、結果的にはそうだね」

「おお、気味が悪い」

「ってことはさ」


ぞっとする思いを忘れるには何でもいいから喋り続けるのがいい。私はそう思って言葉を継いだ。


「さっきのほら、ええっと何だっけ、グリーシャとかリーザとかスチョーパってのも、今ここにいる私らが知らない別の世界のお友達ってわけだね」

「いや、あれは違うって。確かに私、知ってんだから……」

「つまり、こういうことだろ」


グンタが再び持論を展開した。


「ターニャはそのグリーシャたちを知ってる。しかしアニは知らない。それは、ターニャが二つの世界で同時に存在しているか、自由に行き来しているからなんだ。一方で、グリーシャたちがいる世界にアニはいないってことさ。同じように、グリーシャたちの方はターニャは知ってるけど、アニのことは知らない」

「何その理屈。無駄に説得力あるね。ターニャ、あんたその、別世界からウォッカとワイン持ってきなよ」

「バカ言わないで、そんなに簡単に手に入らないんだから…… アニ本当に覚えてないの?」

「いやぁ…… ちょっと会ってみたい気もするけど」


相変わらずターニャは憮然としている。世界と世界の敷居をやすやすとまたいで来た怪人エドゥーシャによって、酔いを一気に醒まされてしまったのがよほど癪に障ったのだろう。
私がターニャの表情にやり場のない苛立ちを読み取って、今宵の行く末を案じていると、こちらも険悪な空気を察したらしいグンタが酒杯を手に声を張り上げた。


「どっちにしても、美人2人につれなくされたエドゥーシャの幸せを祈って乾杯しよう」

「あんたそういうさりげないお上手が爺臭くていやらしいね。まあいいよ。それじゃ、」


死ね、エドゥーシャ。

ターニャの声に私も唱和してグラスをかかげた。死ね!


ターニャとグンタはウォッカを、私はワインをそれぞれ一気に流し込み、黒海艦隊艦長殿が目を剥いてすっ飛んで来ない程度の音を立てて各自の酒杯をテーブルに置く。ターニャが爺臭く一息吐いてから、機嫌を損ねた女王の目付きで周囲を見回した。


「エドゥの野郎はもう帰ったかね」

「まだその辺うろついてんじゃない」


実際、何だかまだ空気が冷たい。安っぽい呪文ぐらいでは到底お引き取り願えそうもない気がする。


「うざったい野郎だね。……そうだアニ、次の号に載せるあんたの詩は決まった?」

「まあ、決まったけど」

「朗読してみてよ。厄払いになるからさ」

「なるかねえ」


次号に掲載する原稿は最終稿まで仕上がっているので、ターニャの提案に異存はなかった。彼女の、そして──グンタの感想を聞くにもいい機会だろう。


もう一人いるかどうかは別として。


私は自分の机の引き出しからノートを出し、ページをめくった。


深呼吸をして、腹の底から声を出す。ダニール伯父さんがそうしていたように。




       罪を知らなかったあの春
       私は初めて花冠を編んだ
       それは悲しげに立つおまえのこうべを
       微笑みをそえて飾ったはずであった


       私はおまえの顔を知らない
       おまえが現れた理由を
       おまえが怒りであり、憎しみであり、裁きである理由を


       うずく胸を抱え遥か長城の先を眺めやる時
       おまえはまたやってくる
       すでに先触れの烏が頭上で私に告げる


       「見よ
        汝らの購い主
        赤血球の泡立つ大海の波濤を押し渡って来たるを
        汝らを待ち受けるのは1万年の苦役
        汝らの渡る涙の川ははや足元に在り」



       私は空しくも思い起こそうとする
       言葉が存在しなかった時
       おまえが私たちと共にあった時の記憶を
       そこにはつややかなおまえの髪と
       熱く流れる血潮の栄光があったはず



       今、おまえの背後に横たわるのは
       アリストテレスの
       ソクラテスの
       プラトンの亡骸


       そして変節したナポレオンが足元に縋りつき
       泣いて許しを乞う


       でも


       おまえが残すのは
       沼の底より黒い黒い沈黙
       長い長い亡霊の従者の列、私はその目の奥に
       失われた至福の残光を探し求める


私はノートを閉じて灰皿の煙草に手を伸ばす。もう根元近くまで灰になっているそれを口に運びかけた時、グンタが沈黙を破った。


「題名は?」

「……黒い髪の女」

「気を悪くしないでほしいんだけどさ」

「構わないよ」

「……ファシストの頌詩だ」


まあ、言われてみればそんな気がしないではなかった。
締め切りに追われて詩文まがいのものをでっちあげたとはいえ、1年後に再読したら頭を抱えて悶絶するレベルの出来に違いない。


「亡霊の列の中に、『私』は間違いなく加わってる。僕はそう思う」

「それは認める」

「ブルグント王は辛辣だね」

「いいんだよターネチカ。こんな駄文は叩かれるためにあるんだから。それに、この新聞の読者全員に読まれるんだし」

「でも、『親父』とクリメントは悪い顔をしないんじゃないかな」

「ひっどい!」


ターニャは笑いながら2本目の残りをグラスに注いで空にした。きっと彼女の目の中では踊っている、「親父」とその腰巾着野郎クリメント・ヴォロシーロフが。


「まあ、ナポレオンやアリストテレスを踏みつけにするところで点数を稼げるわよ。プチブルへの宣戦だって解釈できるし」

「僕が言ってるのはそういうことじゃない」


ターニャの顔から笑いが消えた。グンタの目の奥に揺れる炎はあながちウォッカのせいでもないようだった。


「西欧を乗り越える存在を題材に扱うのはいい。でもこれは、そういう存在への隷従だ。諦めと隷従を温床とするもの、それはまさにファシズムだよ。クリメントみたいな連中はキンタマ撫でられるより喜ぶかもしれない」


「仕方ないじゃない。ヒトラーと『親父』は兄弟みたいなもんなんだから」


この言い草には驚いた。私もグンタも目を丸くしてターニャの顔を見返した。


「それ以上はやめとこうよターネチカ。グンタの言う通り。私は──私だけじゃないだろうけどさ──そんなに強くはなれない。周囲がみんな敵になっても戦い続けられるのは神話の英雄だからね。もし誰もがそんな強い人間だったら──それこそ世の中終わりだと思うけど?」


何か言おうとしたのだろうか、ターニャが私の顔をちらと見て口を開きかけ、そのまま目を伏せた。
少し間を置いて、グンタが独り言のように呟く。


「全員が敵なんて本当はあり得ないんだ。自分一人がそう思ってるだけで」

「どうしたの。やけにアニにつっかかるじゃない」

「すまない。エドゥーシャの影に怯えてるみたいだ。男のくせにね」

「気にしないで。私はそういうの全然気になんないから」


私のワインはいつの間にか無くなっていた。ターニャが3本目のウォッカを開け、私に瓶の口を向けた。


「飲みなよアニ。厄払いってのはそう簡単にはいかないよ」



その後、私たち3人で何の話をしたのかよく覚えていない。
確か、ターニャの家へ行って飲み直したのだと思うが、そこで口にした密造酒のせいだったのか、目が覚めると私は知らないところにいた。


まず見覚えのない天井。次に知らない寝具の中にいる自分を発見する。


こういう非日常を無邪気に面白がっていられる年齢は過ぎてしまった。何か間抜けな手違いを犯したと思って記憶をたぐり、頭痛とむかつきの最悪の気分の中で前夜の顛末を懸命に再構築しようとするがうまくいかない。

それにしてもこの部屋自体全然知らない。ターニャの家でもないとすると…… いずれにせよ当局によって拉致監禁されたわけではないらしい。



ベッドから頭を起こした先の、正面にあるドアが開いた。


「おはよう」


相変わらずユニークな髪形のグンタが入ってきた。













         おまえがどこへにげたってかならずころすずたずたにそいでからだじゅうかっさばいてそのきたな
         いところからだしてあげるだからもうすこしだけ












.


「おはよう、何か大変な迷惑掛けてない?」

「いやあ、静かなもんだったよ。ターニャは歩いて帰ったけど…… 大丈夫かな」

「……私らターニャの家に行ったんじゃなかった?」

「その後また場所変えて、最後はここ、僕の家で。コニャックがあるって言ったらターニャが大喜びしてさ」

「駄目だ全然覚えてない」

「心配ないよ。君は発表前の詩を幾つか聞かせてくれたけど、まあ僕は全部忘れたから」

「最っ低……」


コーヒーを持ってくると言ってグンタがドアの外に消えた後、私はベッドから跳ね起き鏡に向かう。
最悪の気分とは裏腹に、わりと普通の顔をしていると思う。でも顔を洗いたい。


そう思っていたらグンタが顔を出した。


「トイレはここだよ」


入口のすぐ横にある別のドアを叩いて、また引っ込んだ。私は親切に甘えることにして立ち上がり、そのドアを開ける。



顔も洗ってトイレから戻ると、グンタがブリキのコーヒーカップを二つ、小さなテーブルに用意して待っていた。
代用コーヒー独特の甘ったるい匂いが部屋に立ち込めている。窓の外を向いて座っているグンタの様子は何か物思いにふけっているように見えた。


「家の人は?」

「妹は今日は出掛けてる。ここは妹の部屋なんだ」

「ひょっとして、妹さんと二人暮らし?」

「うん」

「そうなんだ……」


私はグンタの横顔を眺める格好で、ベッドに腰を下ろした。そしてコーヒーカップに手を伸ばす。グンタは相変わらず窓の外を見ている。


「聞かないんだね。両親がどうしたのか」

「まあね。無理に聞いたりしないっていうのが、礼儀みたいになってると思うけど」

「自分から話すよ。10年前だ。両親いっぺんにやられた。それからは叔父に面倒見てもらってる。彼は向こうの市委員会で幹部書記だったからね。大学へ行く金まで工面してもらったわけさ」

「両親から連絡は?」

「全然。もう諦めてる」


こんな時、一気に明るくなれるような魔法の言葉がないのかと思い悩むのが私の悪い癖なのだ。そんな言葉を空しく探し求めているうちに、グンタが私の方に顔を向けてきた。


「あの『黒い髪の女』って何なんだい?」


「あれはね…… 何気ない瞬間に視界に現れて、一瞬で消えるお化けみたいなもんなのさ。小さい頃、無闇に怖がって親を困らせたりね。そういうのってない? 熱を出して寝込んでいる時なんか、夢に何度も何度も出てきたりして。会った記憶なんか全然ないんだけど」

「黒い髪、黒い瞳…… 理屈は通らない。アジアだね」


急にグンタの目付きが険しくなった。私の右横の床近くにいる、禍々しい何かを威嚇するかのように。


「会ってるのかもしれないよ。どこか思い出せもしないところで」

「昨夜の並行世界の話?」

「まあ、そのうちの一つかな」

「どうだか…… あのエドゥーシャみたいに話しかけてくるわけでもなく、小さい時からずっと私を追い回してるような。気のせいにしては随分と姿がはっきりしてて、ほんと気持ち悪いんだよ」

「君らとエドゥみたいにすぐ隣り合っている世界とは限らないよ。時間も空間も意味を持たないような無数の可能性の中の一つから、これまた想像もつかない数の垣根を乗り越えてきたのかもね。わりあい近いところには、『親父』のいない世界が存在する可能性もあるし」

「お伽噺だね。でも氷の上でトロッコを押しながら頭の中だけお伽噺ってのは勘弁してほしい」


自分でも気付かないうちに詰るような口調になっていた。グンタの視線は同じ位置に固定されたかのように微動だにしない。


「私も10歳の時、お父さんを取られてるんだ」


グンタがようやく私に目を向ける。

そうだ。鏡に向かってた私の後ろにあの女が立ってた。うつむいた顔から目だけが私を睨んでた。
多分あの顔は一生忘れない。その日お父さんは帰ってこなかった。

次は5年後。吹雪の中を通り過ぎる馬車の向こう側に一瞬だけ現れた。翌日、同じクラスで私が初めて好きになった男の子が学校に出てこなくなった。

さらに4年経って、夢の中の私はどこか知らない森で私はあの女に追われていた。走っても走っても、あの女を振り切ることはできない。とうとう追い付かれて私がへたり込むと、女は私を見下ろして…… 一言喋った。でも口が動いてるだけで何を言ったのか聞き取れなかった。
その日、私に詩を書くことを教えてくれたダニール伯父さんがいなくなった。

ふと気がつくと、グンタの視線は元の位置に戻っている。


「お母さんはそれから働きに出て、……私を大学まで行かせてくれた。私が周りの人間にアニと呼んでもらうことを要求するのは、お母さんの意思でもあるの。私がお父さんを忘れないために」


「それはひょっとして、御先祖からの由来なの?」

「まあね。先祖はリヴァプールの船乗りで、ソチに寄港した時にここの女の子に一目惚れして、そのまま根を下ろしたってことらしい。もう100年ぐらい前の話。だから私も英語はかなり話せるのさ。ただ、レオンハートなんて御大層な姓だからってユダヤには変わりないよ」

「でもリヴァプールからロストフ。約束の地に大きく近付いたのは確かだな」

「そんなこと絶対関係ないって! ……あんたもしかして、シオニスト?」

「とんでもない。僕は志の低いただのコミュニストさ。……ジャガイモ美味しかったよ。妹も喜んでた。改めて礼を言う」






私はグンタの家を出て、初夏のなまぬるい空気の中を自分の家へと歩いた。空は鉛色の雲に覆われ始めていて、傘も持っていない事情もあり自然と急ぎ足になった。
左右に白樺の木立が続く小道を10分ほど歩いたところで、6日前にゲラの正誤を確認した電話ボックスが目に入った。


私はその中に入り、グンタと話をしている間ずっと頭に引っ掛かっていた相手の番号をダイヤルする。

呼び出し音3回でターニャは出た。あんたゆうべ、また新しいお友達に会わなかった? 平気平気、大して飲んじゃいなかったしね。でも頭痛い。迎え酒ないの? あるわけないじゃん、あったらもう空にしてるって。


確かにその通りだ。


私とターニャは今日一日のお互いの幸運を祈って電話を切った。


ターニャの声を聞いたのはそれが最後だった。


        ・
        ・
        ・
        ・
        ・
        ・
        ・

グリーシャ「アニ」

リーザ「アニ」

スチョーパ「アニ」

コースチャ「アニ」

アニ「誰? あんたら」



グリーシャ「そんなに僕らのことを忘れたいのかい?」

リーザ「小さい時からずっと一緒だったのに、最初からいなかったことにするのね」

コースチャ「でも駄目だよ。間違いなく僕らは君のそばにいたんだからさ」

アニ「ねえ…… 悪いんだけどあんたらの顔がよく見えない。だから思い出せないんだ」

グリーシャ「言い訳が上手だね。でも分かるよその気持ち」

リーザ「きっと今、とっても幸せなのよ。羨ましい」


スチョーパ「君は女の子なのに喧嘩が強かったね。男の子がいつも泣かされてた」

コースチャ「あの足蹴りは強烈だったよ。今でも時々、君に蹴られたところが痛むんだ」

リーザ「怖がってあなたに近づかない子もいたけれど、ほんとはターニャ以外の女子にも人気があったの、あなた知らないでしょう?」

グリーシャ「セリョージャが君にフラれてさ。ものすごく落ち込んでたんだよ?」

アニ「セリョージャ?」

コースチャ「ほら、また覚えてないふりしてる」

スチョーパ「いいんだよ。それで君が幸せなら」

リーザ「行きましょう。私たちは最初から  い  な  か  っ  た  んだから」

アニ「ちょっと待って! あんたら!」





はっ! ……何この夢?


 親愛なるアニ

     先日の大宴会はいろいろありましたが、楽しかったです。面白くもない映画なんかより
    よっぽどスリリングでしたね! こればかりはきっと、資本主義社会では味わえない趣向
    に違いありません(笑)。エドゥーシャにも楽しんでもらえたらよかったのですが。

     ところで話を蒸し返すようだけど、アニ、気を悪くしないで。私にはどうしても、彼ら
    の存在を否定することができないの。グリーシャ、リーザ、スチョーパ、そしてコースチ
    ャ── いつも私たちの隣にいた彼らの記憶を否定するのは、私自身の存在の根本を否定
    することだから。そんな私をあなたはバカだと思うかもしれない。いえ、きっと些細な感傷
    にこだわりすぎなんだと自分でも思います。

     誰しも、生きていくのは大変だから。

     グリーシャたちと一緒に撮った写真を探したんだけど、どうしても出てきません。結局、
    未現像のフィルムだけしか見つかりませんでした。私にはできないので、手の空いた時に
    そこで現像してみて。

     きっと記憶の彼方から、再び彼らがあなたの前に現れるに違いないわ。

                                     あなたの大切なターネチカ




1、2、3、4…… 5秒。2メートル四方ほどの暗室が再び闇に包まれる。スモールライトを点灯して私は印画紙を現像液に浸した。


ほの暗い視野に浮かび上がってきたのは、白樺の木立を背景にしゃがみ込んで微笑む私とターニャ。
画面の上半分が不自然に大きく広がっている。そこに映っている白樺の葉擦れが聞こえてくるかのようだった。


私は息を呑んで印画紙を見つめ続けた。他に誰も浮かび上がってはこない。この写真の、撮影者は誰だったのだろう? 撮影時期のはっきりしない画像は定着液に移されないまま、どす黒い闇の中へ没していく。


その日、編集室に姿を現さないターニャの家へ1時間おきに電話した。呼び出し音だけを嫌というほど聞かされて憔悴した私は、よせばいいのに彼女の家を訪ねた。


押し慣れた呼び鈴にも、ノックにも反応がない。やむなくドアノブに手を掛けると、無施錠だった。幾ばくかの躊躇を押し切ってドアを開け、静まり返った屋内に足を踏み入れる。

薄暗がりに目が慣れていくにつれ、嵐の去った後がゆっくりと見分けられた。

床には一面に調度品や食器、衣類が散らばり、ベッドもソファもひっくり返されてナイフで切り刻まれ中の藁が露出している。
書斎の惨状は一層ひどいものだった。書架は引き倒され、放り出された書物がうず高く折り重なっていて、否も応もなく私は入口で足止めされた。

人間が気密性の高い暖かく過ごせる住環境を獲得したのならば、嵐もまたそれを破壊すべく相応の進化を遂げる。目の前の光景はそんな連想を呼び起こした。

それでも、つい数時間前まで一つの家庭があったはずのその場を立ち去るまで、私の頭の中では「理不尽」という一語とともに憤りが渦を巻いていた。諦めとか隷従とかいう観念が浮かんでくる余地もなかった。


だから、そのまま帰宅せず直ちに列車か船に飛び乗り、国外脱出を敢行しなければならないなどとは露ほども考えなかったのだ。


そして空想でもお伽噺でもなく、この国に「現実に存在する」並行世界はいつも、気配すら感じさせずに犠牲者の足元に忍び寄って来る。


破壊の跡を出た私は、大胆にも帰宅の途につき、そして…… 家の100メートルほど手前で若い男に呼び止められた。


「アンナ・ソロモノヴナですね? 私はその…… さる公的な筋の者でして。タチアナ・フェズレル嬢の件でお聞きしたいことがありますので、突然ですが同行願います」


男は卑屈な笑いを浮かべたまま、手袋をはめた人差し指で、人々が恐怖とともに「ポベーダ」(勝利)と呼び習わす黒い車を指さした。


笑ってしまうくらい簡単だった。不可視の、透明な壁の向こう側が、こうもあっけなく生身の人間を呑み込んでしまうものだとは。


続く


(INTERMISSION)

ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章へのリンクを貼りたかったのですができませんでした……
皆様で検索してください。すみません。


リトライ

http://youtube.com/watch?v=GX1eD1cACkU


自動車は「全露土地測量協会ロストフ・ナ・ドヌ支部」と小さく書かれたプレートが一枚あるだけの、赤レンガ造りの建物の横に止まった。

そこは大学からほとんど目と鼻の先の場所だった。お目出度いことに私は、狼に食われたがる羊のように、НКВД(エヌカーヴェーデー、内務人民委員部)地区支部の正面を毎日通って通学していたわけだ。

大学入学以来、建物の内部に関心を抱いたことはただの一度もなかった。この一点だけでも、ソ連邦国民としての私の程度が知れる。恐怖すら感じることを忘れてしまった私がぼんやりと建物の外壁に視線を向けていると、私の座る後部座席のドアが開いた。運転席を離れた担当職員がドアに手を掛けたまま、無表情に早く降りろと目で促している。

私は担当職員の後ろに付いて建物の入り口に続く階段を上がり、両側に行事予定や月間目標のビラを隙間なく貼り付けた壁の間の通路を抜けて、左に折れたところにあるドアに職員に続いて入った。ここが地獄の入口ですとも何とも表示されていない、ただの殺風景なドアだった。


その部屋には、巨大な事務机を前にして座っている制服姿の男一人しかいない。案内役を務めた職員は何も言わずに私を残して出ていった。

「どうも初めまして、レオンガルトさん。お掛けください」


大尉の肩章を付けた制服の男は私の姓をロシア風にそう呼んで、事務机の前の椅子を指し示した。

この人物が取調官なのか。いずれにしろ、窓から夕陽が射し込むこんなにも明るい部屋で取り調べが行われるとは思えない。
ここで簡単な聴取を済ませてから、この大尉殿に引っ立てられて地下の取調室に行くんだろう。



あ。



馬面だがそこそこ二枚目のНКВД大尉は、立ったまま微笑みを永遠に固定したような顔で私の顔を凝視している。


「以前どこかでお会いしましたかな?」

「……いえ、あ、もしかしたらどこかでお目に掛かっている、かもしれないです」

「いや、私の気のせいでしょう、失礼しました」


大尉が腰を下ろしたので、私も椅子に座った。


「どうも突然にお呼び立てして申し訳ありません。私はフェズレル一家の事件の審理を担当しているイワン・カーステインと申します。まず、ご心配の件について一言申し上げておかなくてはいけない。誤解なさってるかもしれないが、あなたは逮捕されたわけではありません」


私を落ち着かせようとするかのように、大尉はゆっくりと言葉をつないだ。


「捜査の一環として、タチアナ嬢の親友であるあなたからお話を聞く必要があったのでご足労願った次第なのです。この点はどうかご理解いただきたい」

「はい…… 分かりました」


知っている。これはこの連中の常套手段の一つ。藁にも縋る気持ちの犠牲者を安心させ心の武装を解いたところで、いきなりガツンと一発食らわすのだとか。


「あなたとタチアナ嬢は同じユダヤ人地区で育った幼馴染みで、同じ中学校に通い、大学も同じになった。そうですね?」

「はい」

「まあ…… 私もこの名で分かる通りユダヤでしてね。小さい頃は五書なんかもよく読みましたよ。実際あれは実に面白い読み物です。ユダヤ教は信奉しておられますか」

「私はソヴィエト連邦の国民です」


大尉はにこりともせず「なるほど」と言って手元の資料をめくり、目を下に落としたまま続けた。


「私はイディッシュも話せます。よろしかったらイディッシュでも構いませんよ」

「いいえ、ロシア語で結構です」

「そうですね、無闇に面倒な方法を取る必要もありませんな。……本題に入りましょう。本件はフェズレル一家が家族ぐるみで反革命の煽動を企てていた容疑です。刑法第58条10項により4人全員を逮捕しました。そこでタチアナ嬢の供述にあなたの名前が出てきた。心当たりはありますか」

「いいえ」


「あなたが大学内新聞の編集に携わっておられる動機は何なのでしょう」

「私なりの言論活動を通じて党の方針を支えたい、それ以外にはありません」

「ところであなたは3日前の夜、タチアナ嬢と会食をした。そうですね」

「……はい」


! もう一人いたはずだけど? なぜ彼の名前が上がらないの!?


「タチアナ嬢によると、あなたはその場で詩を朗読した。あなたはその詩を、学内新聞の次の号に掲載する予定だったということですが」

「はい。その通りです」

「あなたの朗読を聞いて、タチアナ嬢は何か感想を言いましたか」

「特段には、……感想を述べてはいなかったと記憶しています」

「審理の場でタチアナ嬢は、詩の内容がファシストを称揚するものであり反動的だと供述しています。この点についてどのように思われますか」

「……妥当な解釈とは言えないと、思います」


「同感です! あなたの詩を拝読させていただきました。反動的だなんてとんでもない! これはまさに芸術ですよ。マヤコフスキーの影響を強く受けていると私は感じました」


なにい? マヤコフスキーだって? 1万ルーブリ賭けてもいい、お前絶対読んだことないだろ!


「タチアナ・フェズレル容疑者は卑劣にもあなたを陥れ、反動の罪を着せようとした。我々社会主義ソヴィエトの敵である資本主義と、ファシズムを混同しているのです。浅慮極まりない! かような謀略に関しても彼女は然るべき報いを受けることになるでしょう。それはさておき、アンナ・ソロモノヴナ」


父称付きで呼ばれると全身に鳥肌が立つ。でも今はそれどころではない。


「あなたの御父君、ソロモン・アブラーモヴィチ・レオンガルトは1927年5月、ソヴィエト権力の弱体化を図った罪で起訴されました。それ以上の詳細に関する資料を私は持ち合わせておりませんが…… 私にとって気掛かりなのは一点だけです。あなたは当時10歳だった。この不幸な事件が、あなたの心に今も『しこり』となって残っていないか、ということなのです」


そう来たか! お父さんもきっと分かってくれる。私は生き残りたい。まだ死にたくない!


大尉はわざわざ立ち上がってドアの前に行き、自分の手で開けた。そして反動的資本家に仕える執事のような道化た仕草で腰を曲げ、自由の待つ外の空間を右手で指し示して私の退出を促した。

私は私で、大尉と同じ高さ(高いのはもちろん低すぎてもいけない!)まで頭を下げてから、装える限りの冷静さを総動員してドアの外へ足を運ぶ。ヘマをして躓いたりでもしたら大変!
ドアの外に出るまでが永遠にも感じられる。だが無事に、外に出ることができた。
あとは目の前を右に折れれば建物の出口が見えるはず! しかし大尉の声が背後から魔笛のように追いかけてくる!


「あの詩は絶対に掲載すべきですよ! くれぐれも、見合わせようなんて考えたりしては駄目です。『黒い髪の女』を私は讃えたい! あれにはそれだけの価値があります!」







外はもう真っ暗。雨が降り始めていた。私は泣きながら走った。生まれて初めて、自分が罪を負ったことを自覚した。それで? お母さんの待つ家へ帰るの?


とんでもない。私が向かう場所はあそこしかない。


ダニール伯父さんとの会話が唐突に甦る。あれは16歳の春。


(アニ。好きな男の子はできたかい?)


(ううん。好きな子はいない)


(それはいけないよ、早く素敵な男の子を捕まえないと)


(どうして?)


(……いいかい。人生には、急がなくちゃいけない時があるんだ。手に入れられる幸福を指をくわえたまま見逃すのは、「神」がお許しにならない)


ごめんなさい伯父さん、私が今からしようとしているのは、19世紀の甘い恋愛とは違うの。自分が生き延びるためなの。これは生存のための戦いなの!




目指す場所に近づくにつれ、雨脚は強くなった。たどり着いた時の私は、髪から水が滴り落ちるくらいにずぶ濡れだった。もう涙なんだか雨水なんだかわけわからない。


玄関に続くコンクリートの階段の前で、屋根を見上げる。よくよく見れば妹と2人で住むには広すぎる家だ。


私は狂ったように玄関のドアを叩く。薄っぺらな板の向こう側から、雨音に混じって微かな足音が近づくのを猟犬のように聞き分ける。ドアが開いた。


ランプを手にした男が稲妻に打たれたように目を見開き、私を凝視する。
私はその頬に渾身の平手打ちを見舞った。


さらに息をつく暇も与えず、足首の裏側──踵の少し上──へ蹴りを入れる。支えを失った図体が宙に浮き、大の男が無様に玄関に転がろうとするのを、私は左手で首を支え抱き止めてやる。


グンタは私の腕の中。ピエタ像の救世主たる男がこんなにも怯えているのでは、ミケランジェロがどれほど寛大だったとしても文句の一つや二つ言いたくなるだろう。でも聖母マリアとなった私は、そんな情けない男に慈愛の眼差しを注いでやるのだ。


「どうしたの? 私を殺すんじゃないのかい?」


十字架から下ろされ聖母の手の中にいるイエスは、のうのうと生きているくせに言葉が出ないらしい。口元が震えている。その顔に私の髪から落ちる滴が水玉模様を散らしていく。


「そんなら私が殺してあげる。いかが、宙吊りの王様」


そう、私は北の海に浮かぶ島の女王ブリュンヒルト。ブルグント王よ、今宵はあなたに、あらん限りの情けを注いで進ぜましょう。


私はグンタの唇を自分のそれで塞いだ。男の片手が伸び、びしょ濡れの私の髪を掻き回す。ランプを持ったままのもう片方は玄関のドアを閉めてから、背中に回される。


その場の支配権を私は放棄し、自分の体重を男の手に委ねた。そうして、男の足が向くままに家の奥へ移動していった。


どこか遠いところで雷が鳴った。




.


かわいそうなグンタ。


今はあんたを責めたりしない。

私は知ってる。あんたに妹なんていないことを。

だから私はブリュンヒルトでありクリームヒルトなのだ。


でも、私が手中にしたあんたの首を刈る権利を、すぐに行使したりはしない。

その時が来るまで、私は精一杯の情けを注いであげる。



だから祈って。



露地で売られる鰊みたいにあんたの手で売り渡されたターニャの苦しみが、少しでも軽くなるように。

凍土の下で眠りにつくまでの苦しみが。

どうか、もう自分とは何も関係ない、  い  な  か  っ  た  人間だなんて、忘れてしまわないで。


もし約束してくれるなら、私は一人ぼっちのあんたを幸せにしてあげる。


グンタの耳たぶを甘噛みしてから、山ほども砂糖を溶かしこんだような甘ったるい声で囁いた。


「私が怖かった?」

「最初に君の声を聞いた時から」

「どぉーーうして?」


今度は耳たぶから縁にかけて、ねっとりと舌を這わせる。


「よしてくれないか。君らしくない」

「だぁめ」


耳の穴を舌の先でなぞると、微かに声を上げる。かわいい私の王様。


「教えてあげるよ。僕は口が軽い。この町に移り住んでから当局に売ったのは、学生が3人、一般市民が5人。家族を入れても十数人だ。大した働きじゃない。故郷を出る時、叔父は言ったんだ。『この数字でお前の器量のほどが分かる』って」


「私は頭数に入ってなかったの?」


これは少し早合点かもしれない。銃口がもう私の前から下ろされたなんて、確かめる術はないのだから。


「……前に会ったことがあると思ったんだ。君に」

「へええ。私には覚えがないね」

「そうなのか?」

「うん」


私の舌は執拗にグンタの耳を責める。この耳を食いちぎっても何も感じないくらいにしてあげようか。


「電話で初めて君の声を聞いた時のことだ。何だか不意に……胸が締め付けられるような、吹雪の中に僕一人で立っているような気持ちになった。
君の声がそんな冷たさを、僕の存在の根っこみたいなところに吹き寄せてきた気がしたんだ。でもそんな冷たさだけが、嘘と罪にまみれた僕にとって真実のように思えた。嘘じゃない。
あれは霊感だったんだと思う。次の日に会ったら確信したよ。やっぱり君は魔女だって」


「安心してグンタ。私はあんたのもの。たとえ魔女でも絶対に苦しめたりはしない。だから私を見ていて」

「アニ」


吹雪の中? いや違う。私があんたを見たのは、もっと暗い、全然別のところ。


そして私を見返した、あんたの眼差し。


でも無理に思い出すのはやめよう。所詮それは別の世界の出来事。


「僕はきっと地獄へ落ちる。そこで永遠に焼かれるんだ」


グンタの声に嗚咽が交じった。コミュニストのくせに地獄が怖いの。お馬鹿さんね。


「そんなら私も一緒。一緒に落ちてあげる」

「君は何もしてないじゃないか!」


違う、と私は重く力を込めて言う。


「あんたの罪は私の罪。だから」


それ以上を言わすまいとしてか、グンタが唇を求めてきた。私は応じながら彼の下に敷かれる。彼の唇が私の耳、そしてうなじを這っていく。


離さないで。今度こそ私を。


~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~


~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~


「黒い髪の女」と題する私の駄文は予定通り次の号に掲載された。これがどういうわけか地元の文学者の間で大変な評判となり、私は年寄りたちの会合に招かれて妙なスピーチまでする羽目になった。

掲載から1カ月が過ぎた頃、同志書記長がロストフの若き女流詩人の噂を聞いて面会したがっているとかいう話が耳に入った時には全身が総毛立ったものの、幸いにもご公務繁多な同志書記長はお忘れになったらしく、以来その話は立ち消えになった。詩集を刊行しようなんて話をする人もいなくなり、私自身も詞藻が干上がったかのように、詩文を書く習慣から離れていった。これにはこれで生活上の理由がある。


あの夜以来、私はそのままグンタの家で暮らし始めていた。戒律を厳格に守っている母はふしだらな娘だと罵ったけれど、私は耳を貸さなかった。

ここは約束の地ではない。社会主義ソヴィエト・ロシアなのだから。

半年後私たちは正式に結婚し、同時に私は大学を辞めた。


学生の身分を捨てた私は食料品のマーケットの売り場に立った。これからが本当の生活なのだ。
パンをもたらさない観念をもてあそんでいられた時代は去った。私は職場を同じくする女たちに揉まれながら、労働の厳しさを身をもって知る。

私がこの仕事を獲得するために、誰かが去って行ったのか。そんなこと考える必要はない。

煙草もやめた。そして家には同志書記長の肖像画を飾り、グンタは大学に行く前、私は出勤前に必ずその前に立って社会主義ソヴィエトの前進に身を捧げることを誓う。
ようやく理解した。私は信仰を獲得したのだ。目の前にあるのが同志書記長の似姿であれ何であれ、祈ることこそが肝要なのだと。

そして何より、生活の中で家族に愛を捧げなくてはならない。


かような生き方を放棄して、どうして自分を人間だと言い張れるのか。


それでも、黒い髪の女は執拗に夢に出てくる。首に臙脂のマフラーを巻き両手に刀を持って。そして私に告げる。


──お前はあの男を愛しているのではない。あの男は幻。お前はあの男を抱きながら、本当は「親父」を抱いている──


1939年。ドイツがポーランドに侵攻し、独ソ不可侵条約が締結されて間もなく、女の子が生まれた。私たちはマリヤと名付けた。

この年の暮れにグンタは卒業を繰り上げ、造船工廠の設計士となった。夫が相応の社会的地位を得た私は鼻が高かった。

41年春。長男のドミートリーが生まれる。それから3カ月も経たないうちに、不可侵を約束したはずのヒトラーが国境線を越えて攻め入ってきた。


食料事情は急激に悪化した。ラジオも新聞も詳しく報じないが、枢軸国の軍勢が怒涛のように進撃してきているのは間違いないようだった。


9月。ナチの侵攻は衰えを見せず、住民の疎開も始まっていた。僅かな小麦粉を手に入れ、ミーチャを抱き2歳になったばかりのマーシャの手を引いて堤防沿いを歩いていた夕刻近く、見覚えのある男が近づいてきた。


「アンナ・ソロモノヴナ。お久し振りです」


3年前、丁重に私を取り調べたНКВДの大尉。私は立ち止まり、ミーチャを抱く手に力を込めた。


「いつぞやはどうも」

「結婚なさったそうですね」

「はい」

「シューリツさんとお呼びすべきですかな」

「まあ、どのようにでも」

「かわいらしいお子さんだ。お幸せなようで何よりです」

「どういたしまして」


大尉は足を止めたまま立ち去ろうとしない。他の係官がポベーダで乗り付けるのでも待っているのか。その時はそれしか頭になかった。


「キエフも敵の手に落ちた。ここもそろそろ危ない。早く疎開なさった方がいい」

「ええ、そう考えてはいるのですが、主人の仕事の都合もありまして……」

「そのことでお知らせしようと思った。今日、ご主人はお帰りになりません」

「は?」


間の抜けた声を出して、大尉の顔を見返した。声と同じくらい間の抜けた顔を、私は晒していたはずだ。


「所属は申し上げられない。しかし間違いなくご主人は最前線に向かわれることになります。本日付で赤軍兵士として出征されました」

「は、はあ…… それはまた、随分と、急に……」

「御武運を、と申し上げることしかできませんが」


全身から力が抜け、その場に塩の柱のように崩れてしまいそうな自分を支えるのがやっとだった。それなのに、この大尉は私の前に平気な顔で立っている。


「無理は承知しております、それでもせめて、……一目会うことはできないのでしょうか」

「残念ながら」


それは当り前だ。祖国の危機が迫っている今、女一人のわがままが通るはずはない。


茫然としたまま堤防に歩み寄り、ドン川の川面を眺める。そして大したことのない頭を、あらん限りの力を振り絞って回転させる。
そんな私を取り囲んでわめき立てるのは、いつものオプティミストたち。


平気よわが軍は立ち直りファシストを押し返すこの町は大丈夫これ以上事態が悪くなるなんて考えられないそうでしょねえアニ


深呼吸して雑音を追い払えば、絶望的な状況が氷山のように立ち塞がる。

とにかく急いで避難しないと。いずれここも敵に占領される。でも何処へ? 船なり列車なりの切符を手に入れる伝手は? この馬面の大尉を利用する?
駄目! それだけは絶対!


「アンナ・ソロモノヴナ、僭越は承知ですが…… 内務人民委員部職員としてでなく、個人として申し上げます。私はあなたの力になりたい」


私はミーチャの顔を見た。何も知らずに、穏やかな顔で眠っている。男の子のくせにとても大人しい。そして足元では、ようやく言葉を覚え始めたマーシャが盛んに私の上着の裾を引っ張っている。

大尉が差し出した名刺を、私は受け取った。


「何かありましたら、ご連絡を下さい」

「お気持ちは感謝いたします。大事なことをお知らせくださって、本当にありがとうございます」

「いいえとんでもない」

「大尉さん」

「はい?」

「あなたはどうなさいますの?」

「私には任務がありますので、まだここに留まらないといけません」

「そうですの。一民間人にすぎない主人が、軍服をお召しになっているあなたよりも先に、戦場での名誉を手にするわけですのね。光栄に存じます」


大尉はそれ以上喋らなかった。そして軽く頭を下げ、私が歩いてきた方向へと去って行った。


私は私で、マーシャも腕に抱いて、できるだけ速やかに大尉から遠ざかろうと足を早めた。あの男、立ち止まって振り返ってるかもしれない。そう思っただけで自然に小走りになった。

途中の公衆電話で夫の職場に電話をし、大尉のご親切に間違いがないのを確かめてからは一層力が抜けた。夫の同僚は、近頃は職場から直接戦地に向かうという話も珍しくないと言っていた。私は悄然と家路をたどりつつ、ここ数日の夫と自分の言動を振り返る。いや、思い当たるふしは何もない。

戦況がそれほどまでに切迫しているということなのだろう。余分な憶測は止めて、そう割り切った方が気が楽になる。

この3年間、私たちは「大人しく」暮らしてきた。もう絶対密告はしない、そう誓わせたから、夫が私を欺いていない限り私たちは人を売っていないはずだ。

グンタが当局の手先として活動していたことは事実。だからと言って、そもそもこの世界で人を売り渡さずに生きていくなんてことが、人生の曲芸師でもないのにできることなのだろうか?

私たちは物心つくころ既に革命ロシアの只中にあり、党の方針と同志書記長の意志が周りの空気に充満する環境の中で育った。曲芸を覚える余地など寸毫も無かったというのは、言い訳にしかならないのか。



そして家に帰って私がとった行動は。


若くてきれいなおかあさん、アニ・レオンハートは娘のマーシャのために、買ってきたばかりの小麦粉に砂糖と卵をいっぱい入れて、ホットケーキをつくってあげました。


「ママ、いい匂い!」

「もうちょっとの辛抱よ。いい子だからね」


ホットケーキができあがりました! きつね色の表面から、湯気が立って、たまらなくおいしそうです!


「はい、あーん」

パク

「おいしい! 早くミーチャも食べられるといいね!」



なーんてね。

 ,,,,,,,           ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll''''''ll,,
   '''''ll,,,ll''''''''''''''''''''''          '''l,

 l,,,       ,,,,,,,,,,,,,,l'''''''''''''lllll''     ,,,,,,ll'
  ''l,,,,,,ll'''''''' ll''''''''''ll,,,,,l'''''   ,,,,l'''''
        ''''l,,       ,,,,,l'''''
          ll   ,,,,l'''''
           ,ll   ,ll
         ,ll'   ll'
          ,ll'   ,l'
         ,,ll'   ,l''

        ,,ll''   ,,ll''
      ,,ll'''   ,,ll''
    ,ll'''   ,,,ll''
   'll,,,,,,,ll''''






   ,,,,,,,,,,       ,,,,,,,,,,,,,,,,l'''''''ll,,,,,
   lll  '''''''''''''''''''''''''         ''ll
    ''l,,,   ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll''''''''''''''''''''''''''
    ''''''''''''

                     ,,,,,,,,,,,,,,,
,ll''''''l,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll''''''''''''''''''''''    ''''ll,
 ,          ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll
 ''l,,,,  ,,,,ll'''''''''''''''''
   '''''''''





え?



小麦粉はいざという時の船賃代わりだ。ルーブリ紙幣だけでは心許ない。そしていずれこんな時が来ると言ってうちの人が用意していた偽造旅券を、私は戸棚の奥から引っかき出す。期限は…… 大丈夫だ切れていない。

これを使って私は、英国籍のレオンハート夫人としてトルコへ出国する。次に機会をうかがってリヴァプールを目指す。レオンハート一家の100年ぶりの里帰り。

お父さんからお母さんを通じて私に伝えられた「実家」の住所──そこに今も一族の人々が住んでいるとしても、はるばるロシアから参りましたと挨拶しておくだけにしよう。英国だって今はナチと戦争をしているのだ。


私は何と言われることやら。


おめおめと祖国を見捨てて逃げてきた来たんだね、お前。どの面下げて私らのところに来れたの。何? ナチに殺されなくたって党組織に殺される? 大方、そういう後ろめたい真似してきたんだろう!

いいんだ。私にはこの子たちがすべてだ。この子たちを守るためなら何だってやる。

荷づくりに取りかかった。当面必要な衣類と下着、日用品の類をスーツケースに詰め、記憶している限りの隠し場所から現金を回収する。
預金通帳の類も、……まあかさばる物ではなし、一応持って行こう。

そしてグンタとの思い出が宿る、ライオンの絵柄が入ったコーヒー茶碗。これは先祖が英国の地から持ち込んだ伝来の品だ。お父さんの形見でもある。先祖がご当地からはるばる持ち込んだものですとでも言えば話に花が…… 咲かないでもない。

絶対に割れたりしないよう丁寧に新聞紙でくるみ、ケースの奥へ忍ばせる。


   ,,,,,,,,,,   ,,,,,,,,,,l''''''''ll,,,

   lll  ''''''''''''        ll
    'l,,,   ,,,,,,,,lll'   ,ll'''
      ''''''''''''  ,ll'  ,ll'

         ,ll'   ,,ll'    ll''''''''''''ll,,,
          ,,l'  ,ll'     '''ll,   lll
          ,ll'   ,lll       ll   ,ll''
    ,,,,,l''''''''''   '''''''''''''''''''ll,ll'  ,ll'
  ,,,l''''   ,,,,   ,ll'''l,,,,,,,,,,,,,,      '''''ll,,,,,,,,

 l''   ,,,l'lll''   ,ll'       ''lll'   ,    '''''l,
 l   llll,l'''   ,ll'        ll'   ll''''''ll,,,,,   l'
 l,,   '   ,,,ll''       ,,ll'  ,,ll'    '''''''''''
  ''''''''''''''''''        ,,l'''   ,,l''

            ,,,,l'''   ,,ll''
            l'  ,,,,l''''
            ''''''''




            ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

        ,,,,,ll''''''    ,,,,,,,,,,    '''''ll,,,
 ,,,,,   ,,,,ll''''    ,,,,ll'''''''''  ''''''''ll,,,   ''l,,
 ' ''ll,l'''''    ,,ll'''''          '''ll,   ll,
 l,,,     ,,,ll''''               'll   ll
  '''''''''''''''''                   ,ll   ll
                    ,ll'   ,ll
                     ,,,,ll'''   ,,ll'
                 ,,,,,,,,,ll'''''''    ,,,,l'''
            l'''''''''     ,,,,,,,,,ll'''''
            ''''''''''''''''''''''''




                 ,,,,,,,,,,,,,,,,,

  ,,,,,,,,,           ll,,,,,   ''ll
  l,   'll,,           'll,  ,ll'
   ll   ll ,,,,,,,      lll   ll ,,,,,,,,,,

   l'   ll lll ''''l,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll   ''''''''   '''ll
  ll   ,ll'  'll,,,,           ,,,,,,,,,,,,,,,,,ll'
  ,ll   ,l'     ''''''''''''''''''''''lll   ll
  ll   lllll'''''l,          ll  lll
  ll   lll'  ll'          ll   lll
  ll   l'  ,ll           ll  lll
  ll     ,ll'           lll  lll
  ll     ll           ,ll'   l'
  ll   lll         ,,ll'   ,l'
  'll,    ll       ,,,l''   ,,l''
   ''l,,,,,ll''     ,,,ll'''   ,,,l'''
          ll,,,,,,,,,l'''''


      ll''''''''''''''ll,,,
      '''''ll,     ll

        ll'  ,lllllll''''''ll,,
,ll'''''ll,,,,,,,,,,,,l''   '''    lll
'll,       ,,,,,,,,,,,,,,llllllll,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

 ''l,,,,,,ll'''lll'   ll' ,,,,ll'''''''          ll
      ,ll  ,ll' ll  ,,,,,,,'   ,,,,,,,l'''''''''''
     ,ll'   ,l'  ''''''' l,,,,,,,,l'''''
    ,ll  ,ll'
    ,ll'   ,ll'   ,,l'''ll,
   ,ll   ll'  lll  ll'
  ll'   ll'   lll  'll,
  ll'   ,l'     ll,   '''''ll,,,,,,,,,,,,,,,,,,ll''''''''ll,,,
  ll   ll      ''ll,,,,,,           ll
  'l,,,,,,,ll'         ''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''


だけどもし夫が何事もなかったように帰ってきたら? ここへ? 気は確かなのアニ? 

落ち着いて。もし神の思し召しがあれば、きっとまた会えるだろう。

私が忙しく立ち働いているのを、マーシャはぼんやり眺めている。ミーチャが泣き出す。授乳で時間を取られるからなかなか捗らない。

外はもうすっかり暗くなっている。仕方ない、船と列車の時刻は明日確認しよう。一刻の猶予がますます事態を悪化させそうだけれども、他にしなければならないことはたくさんあるし、何よりも私自身が疲れきっている。

もうこの国にはいられない。出国の方法は…… 北カフカス鉄道でソチか、あるいはケルチに出てイスタンブールまでの船便を見つけるしかない。しかしこんな状況で船が出ているかどうか…… どちらにしても私一人では心許ない。お母さんの助けを借りよう。


「パパは?」


椅子に座って居眠りをしかけたところで、マーシャが覚えたての言葉を発して私を見上げていた。


「ごめんね、パパは今日は遅いの。ご飯つくってあげるから待っててね」


私は頭を振って立ち上がった。


~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~


~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~


食事の後片付けが済むと、私は湯を沸かし、子供たちと自分の体を洗った。明日か明後日には難民生活に入るのだ。それも運が良ければの話。

何もせずにナチの到着を待ち、母子ともども国家の防壁となる選択肢は私にはあり得ない。少なくとも私は、それを潔しとしない生き方を教えられてきた。



 私の大事なグンタ

     この手紙を読んでいるということは、あなたは生還することができたのですね。怪我は
    していませんか? 今、この手紙を書いている私は、命のあるあなたが、戦場で受けた苦痛
    を少しでも癒されるようにと祈ることしかできません。

     できることなら私もあなたと同じように戦場に立ちたかった! でも私たちにはマーシャ
    とミーチャがいます。ですから、この子たちを守ることが自分の戦いだと判断しました。
    私は子供たちを連れてこの国を去ることにします。祖国に対する裏切りという責めは甘ん
    じて受けるつもりです。あなたに再び会えて、あなたの咎めをこの身に受けることができた
    ら、どんなにか嬉しいことでしょう! でも、祖国を敵の戦車が蹂躙している今は、それも
    ただの絵空事でしかありません。

     近代化され、鋼鉄の意志(たとえそれが狂気であるにせよ)で動かされている戦車の大群は、
    あなたがヘクトールであったとしても、一人の力で食い止められるものではないと私は考え
    ます。

     きっと祖国は勝利するでしょう! 今は時期が思わしくないだけなのです。でもこの子たち、
    そして私自身はとてつもなく無力なのですから、少しだけ力のある私が、この子たちを守ること
    こそ最良の選択と考えました。

     私たちが目指す場所を示しておきます。英国リヴァプール市××街○○。レオンハート家の
    実家があると父から聞かされていた住所です。少し落ち着いたあとで構いませんから、ここに
    消息を確認してみてください。少し大きくなったマーシャとミーチャが、あなたを待っています。

     世界のどこに居ようとも再びあなたの腕に抱かれる日を待ち続けます。

                                     1941年9月※日

                                             アニ


さんざん考えあぐねた末に私はこの手紙を書きあげ、家を出る直前、夫が合鍵を持っている耐火金庫(なぜか夫は私と出会う前からこれを持っていた)にしまった。後は運を天に任せるしかない。ナチがこの手紙を入手したら入手したで、……なるようになるだろう。

いったん玄関を出てから再び室内に戻り、ひと通り見回した上で、私は家を出た。そして鍵を掛けた。


~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~ ~~~~


「イスタンブール行きのトルコ国籍船ですって? あなた正気ですか?」


船会社の窓口係は馬鹿にした顔つきで私を見返した。
窓口のあるロビーは申込者で溢れ返っている。2時間並んでようやく順番が回ってきた、その答えがこれなのだ。


「よろしいですか、ここにいる客の半分はウラル、3分の1はウズベキスタン、残りはアルメニアに向かう人たちです。それ以外なんてあり得ません、絶対に!」


絶対に。ふーん。でも私は学校で習った。需要のあるところに供給は生まれるって。私は手提げから小麦粉の袋を取り出し、どうだと言わぬばかりに係員の男の前に置いた。係員は袋をちらりと見てから、私の顔に視線を戻す。


「領事館に話をなさるのが先では?」


私が肩をすくめて小麦粉を引っ込めかけると、覆い被せるように係員が付け加えた。


「ケルチにトルコの船が来るのは1週間後ですよ」

「1週間? ファシストの軍艦の方が先に来るんじゃなくって?」

「それは大いにあり得ますね」


私はミーチャの頭を自分の顔に引き寄せて係員を睨んだ。あとは子供2人を抱えた母親の気魄が最大の武器だ。これまで、こうやってこの男と対峙した母親が何十人、何百人いたか分からない。私は彼女たちを超えなければならない。

もちろん、手持ち無沙汰なまま係員とにらめっこをしているのも退屈だから、上着のポケットから紙幣の束を取り出して数えるふりをする。魔法が効いたのかどうなのか、係員が私の顔を見ずに口を開く。


「明日の正午に…… ソチからイスタンブールに向かう木材運搬船が出港します。でもまあ、このご時世ですから、積み込むのは必ずしも木材だけってわけじゃありません」

「ノヴォロシースクには寄港しないの?」

「しません。直行します」

「分かった、それでお願い」

「客室なんてありませんよ。甲板の上でご辛抱いただくことになりますが」

「結構よ。慈悲深い神はきっと雨なんて降らしたりはなさらないわ」

「分かりました。旅券を拝見します」


神という英語は滑らかに口から出てきはしたが、言った瞬間背筋が寒くなった。神を押しのけて同志書記長が大雨を降らさない保証はない。あ、でもファシストどもの上に降らせる方が先かもね。係員は私に旅券を返して言った。


「それではよい旅を。レオンハートさん」


勝利者となった私は、厭味ったらしくレ・オ・ン・ハ・ー・トと区切るように発音した係員に紙幣を2枚だけ渡してその場を離れた。そして母の待つ実家へと急いだ。




まただ……

だから一晩空けてはいけなかったんだ。

娘時代を過ごした実家の、嵐の跡に私は立っている。
今まで見てきた光景と違うのは、ありもしない反革命の証拠を探し出すために、ところ構わずナイフで切り刻んだりする余裕もなくなったってこと。

その代わり台所を徹底的に荒らして食料は全部持ち去っている。衣類もだ。

大切な人が消え去っていることは同じ。お母さんは消えてしまった。


もうぐずぐずしていられない、生き残るためには一刻も早くここを離れないと。
もう誰も私を助けてくれない。本当に、みんないなくなってしまった。笑いたくなるくらい一人残らず。でも絶望していることは許されない。私には子どもたちがいるんだから。

実家から自分の家には荷物を取りに戻っただけで、余計な躊躇や感傷は一切切り捨てて駅に向かった。ミーチャを背負い、マーシャを抱きかかえてスーツケースを引きずりながら。

もう道路にバスやタクシーは走っていない。歩き慣れた道、見慣れた街路樹の一つ一つを通り抜けてロストフ中央駅に着いた時は夜の8時に近かった。ただ、発車30分前に駅構内に入った列車は始発だったこともあり、幸いにも私たちは席を確保することができた。


座席でようやく一息ついたと同時に母のことが思い出され、私は誰憚らず泣いた。

私を見捨てることなく育ててくれたのに、私との間に喧嘩が絶えなかった母。せめてもの罪滅ぼしをする暇も、この世の神は与えてくれなかった。
ハンカチで目元を押さえる私の顔を、マーシャはしばらく不思議そうに見つめていたが、今日一日の疲れが出たのかじきに寝入ってしまった。

夫のこと母のこと。心ゆくまで涙にくれてから、窓の外の闇に目を転じる。少し落ち着きを取り戻した気分の中で、自分が聖書の中にいることを意識する。

エジプトを出た時も、バビロンを後にした時も、祖先はきっと同じ思いだったのだ。たとえ英国にたどり着けたとしても、そこが安住の地とは限らない。いつの日か、同胞たちと語らって約束の地を目指そう。
もし…… 神が奇跡を賜うならば、その時はこの子たちの父と一緒に。


列車が動き出した。私はミーチャに乳を与えながら、向かいの席ですやすや眠っているマーシャの顔に見入った。
周囲の人々の多くは避難する人たちなのだろうが、皆座席に座れているせいか、表情は穏やかに見える。ロストフからの避難民は相当部分が東に向かい、南を目指す人の割合は少なかったのかもしれない。

ソチに着き、駅のホームで夜明けを待ってから、私たちは港に向かった。


秋空の下、深い青色を湛えて広がる黒海は目のさめるような美しさだった。長年見慣れたアゾフ海に比べると、本物の海に出たという気がしてくる。これでも内海にすぎないとは信じられなかった。
しかし港の船着き場は避難民でごった返していた。私は人波を掻き分けて自分たちの乗るイスタンブール行きの貨物船を何とか探し当て、若干の後ろめたさを感じながらタラップを渡った。


「マーシャ、お腹へってない?」

「大丈夫。パパはどこ?」

「ごめんね。パパは今…… とっても忙しくて」


私はポケットから、最後のパンの切れ端をマーシャに与える。ごめんね、向こうに着いたらきっとお腹いっぱい食べさせてあげる。

甲板の何も敷いていない杉材の上に腰を下ろし、マーシャを膝の上に載せて出港を待った。甲板の冷たさが下半身に伝わってくる。私たちの周囲を隙間なく埋める人々の会話に耳を澄ますと、時折イディッシュが聞こえてくる。
やはり類は友を呼ぶのだろう。

汽笛が鳴った。


船は輝く水面を滑り出した。心地よい潮風が吹きつけてくるが、マーシャには少し辛そうだ。だから雲一つない空を見上げていても、私の気持ちはあまり晴れなかった。

イスタンブールまで丸2日はかかる。その間ずっと、この天気が続いてくれるなんて虫が良すぎる。そうでしょう同志書記長様。とはいえ長らくお世話になりました。せめてものご好運をお祈り申し上げます。


私の故郷ロシアが、ドン川の上のロストフが、東の方へ遠ざかって行く。次第に霞んでいくカフカスの山並み。


揺り籠のような外洋を何事もなく船は進んだ。母子3人のオデュッセイアは始まったばかりだが、とりあえず快調だ。中天にあった日がわずかに西へ傾き始めていた。


その時。


晴れ上がった空を眺める私の胸に、場違いな違和感がぞくりと広がる。

暗い森の冷気が、出し抜けにどこかから吹き込んできたような。


そうか、とうとう。

やはり、このまますんなりと行かせはしないのか。


来る。

もう来ている。すぐそこまで。

アジアの草いきれを身にまとったあの女が。


はるか北の方角にクリミアが見え始めたと思えた頃、乗客の間にざわめきが広がった。
災いが自分たちに向かって一直線に進んできている時の、恐慌に先立つ忌まわしいざわめき。男が何人か立ち上がり、船の進む先を指さして何か言っている。

次の瞬間、右舷側に近い海面に高く水柱が立った。船体が大きく傾き、私が反射的にマーシャを抱き寄せている間に、左の舷側近くにいた数人が海へ投げ出される。同時に、水柱の海水が私たちの頭上に叩きつけるように降り注いだ。遅れて間の抜けた砲声が届いた。

女と子供の悲鳴。そしてファシストの軍艦だという叫び声。海水でずぶ濡れのマーシャが激しく泣き出した。耳を突き刺すような音を残して砲弾が頭上を通過する。

私は泣き叫ぶマーシャの頭を抱き寄せて立ち上がった。ここは逃げる場所のない洋上。既に狭い甲板は正視するに堪えない阿鼻叫喚の巷と化していた。



そして私は見た。


舳先にあの女が立っているのを。


臙脂のマフラー、丈の短い緑のマントを勝利の旗のようにたなびかせ、黒い髪の間の黒い瞳で私を睨んでいる。

とうとうやってきたんだねお前。女の横で、ナチが撃ち込んでくる砲弾の水柱がまた上がる。
船が木の葉のように揺らいでも、女は根が生えたように微動だにしない。


「ママ怖い!」

「マーシャ、ママにしっかりつかまってるんだよ!」


やはりこの子にも見えているんだ。他の乗客には見えてなくても。既に背中のミーチャも激しく泣き声を上げている。


私は女を睨み返す。来るがいい。


もう逃げない。私はこの子たちを守る。殺せるものなら、やってみるがいい。


女が刀を抜いた。そして飛び上がった。高く高く。逆光になって見えなくなる。






.









「アニ、落ちて」






Конец


ここまでです。ありがとうございました。

「ブルグント王」「宙吊りの王様」といった記述はドイツの英雄叙事詩「ニーベルンゲン」に由来します。グンタは巨大樹の森でアニにうなじを斬られ宙吊りの最期を遂げますが、あえて「もう一つの世界に向けた二人の出会い」という話にしてみました。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom