凛「春の日の追憶」 (109)






明日は、ついに私たちの晴れ舞台。

思えば、結構遠くまで走ってきたものだ。

もし、ここにタイムマシンがあって、

以前の自分に「いま、私はアイドルとして輝いてるよ」と云ったら――


果たして信じてくれるだろうか?






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・・・・・・・・・・・・






年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎようかと云う土曜の午後。

黒いアスファルトで舗装された歩道を、可憐な少女が一人、傘を差して歩いていた。

傍の道路には、モノレール――正確には新交通システムの橋脚が微かに影を作っている。

大きい道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に緑と桃色の線の入った列車が、頻繁に往き来している。


まもなく大型連休を迎えるものの、世間はそれを手放しで歓迎出来ていない。

つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。

揺れによる直接的な被害はそうでもなかったが、大津波はあらゆるものを呑み込んだ。

自然災害には滅法強いはずの日本が二万もの犠牲者を出した――その事実こそが、事態の規模を物語っていよう。

東京の街は、被災地と比して幾分か混乱は収束しつつある。

しかし、輪番停電等で暗く寒い夜を過ごした人々は、
自分らが『如何に文明に飼い馴らされているか』を痛感することとなった。

停電対象外の23区の中、ほぼ唯一の例外地として、そんな非日常を実際に経験したばかりとあっては、
到底目出度い気分になどなれなかった。

しとしとと降る雨も憂鬱だ。

――明日は誕生日だと云うのに。

今、世間には、過度な『自粛』を強要する空気が満ちていると云っても過言ではない。

そう、個人の誕生日を祝うことすらも憚られるほど。

本来なら、今夜は通っている養成所でささやかなお祝いが開かれる予定であったが、お流れとなってしまった。

ただの一市民がパーティを止めて祈りを捧げたところで、被災地の情勢など変わりもしないのに、
そうしなければならない雰囲気。

日本の民族性なのであろうが、一種異様な状況である。

「はぁ……」

少女は、軽く息を吐いて、すぐに、はっと顔を挙げた。

いけないいけない、元気が取り柄の自分なのだから、こんな顔をしていてはいけない。

笑顔で頑張らなくては。

そう彼女が頷くと、緩いウェーブの掛かった、濃茶色の綺麗な長髪が揺れた。


公共交通を数本ほど乗継いだ場所にある養成所の、壁面が全て鏡張りされたスタジオ。

大勢の女の子たちに混じって、その少女の舞う姿が見える。

彼女は輝くステージにアイドルとして立つ自分を夢見て、この養成所――芸能界への入口にそびえる門を叩いた。

純粋な憧れ。

無垢な将来像。

しかし実際に門の少し内側へ入っただけで、それは、とてつもない倍率の世界なのだと思い知らされた。

勿論、養成所だって誰も彼も見境なしに入塾させてくれるほど甘くはない。

だから、一定のラインはクリアできているはずだと、或る程度の自信は持っても良いと思う。

それでも、栄光の舞台を目指さむと日々奮闘する数十人ものライバルを見ると――

本当に自分は芸能界への狭き階段を昇っていけるのだろうか……と云う類の思考を禁じ得ない。

無論、そんな自信の無さや幾許かの恐怖など、一種、負の情念は誰でも持つことだろう。

だが彼女自身は、その種の感情を“不安”だとは受け取っていないようだ。

“恐怖心”を“頑張る精神”へと無意識に置き換え、その心で自らを衝き動かす。

そして、日々の地道な成長を――なりたい自分に近づけていることを、嬉しく感じる。

それは彼女の一つの才能であった。


大勢で同じ動きを舞うことしばし。

頑張った成果か、前回踏めなかったステップをこなせるようになり、少女は足許を見ながら笑みを浮かべる。

顔を挙げると、ふと、少し先にある扉から、妙な出で立ちをした、初老の男性が入ってくるのを視認した。

インストラクターと握手をしている。

新しい講師だろうか?

少女は頭の中でそう呟いた。

どうやら、業界関係者のようではあるが……

養成所で修練していれば、そんな人物がやってくるのはままあること。

彼女は、その人物を意識しないように、ひとまず今は練習に集中するようにと、自ら云い聞かせた。

しかし、彼の不思議な背格好に、どうしても目が引き寄せられてしまう。

その態―なり―を半ば不躾な視線で凝視する少女に、男性が気付く。

そして彼もまた、視線を少女に向け、若干の驚きを得たように跳ねた。

そのまま、大股の早歩きで少女の眼前まで寄ると、彼女は少し困惑した表情で問うた。

「えっと、私に何か……?」



・・・・・・

年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月が過ぎた日曜の午後。

赤茶色のブロックが敷かれた歩道を、快活な少女が一人、歩いていた。

傍の道路には、モノレールの橋脚が規則的な影を作っている。

大きい道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に青い線の入った列車がぶら下がり、頻繁に往き来している。


大型連休中だと云うのに、世間はそれを手放しで歓迎出来ていない。

つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。

この時期は、本来なら家族で毎年どこかへ出掛けるのだが、今年は特にそう云った話は出なかった。

代わりに、新しい高校生活に馴染んできたので、今日はクラスメイトとショッピングをした。

母親がいつもより多めのお小遣いをくれたものだから、嬉しくて色々と買ってしまい……

今は荷物の多さに少しだけ後悔している。

でも、久しぶりのショッピングだもん、楽しかったから良し!

そう彼女が頷くと、外側に向かって撥ねた、やや短く綺麗な茶髪が揺れた。


帰宅後、母親が用意していたおやつへ目もくれず、玄関は姿見の前で、買ってきた春夏物の新作に身を包む。

ターミナル駅近くのブティックでこの服を試着したとき、友達が「とても似合ってるよ」と褒めてくれた。

鏡に正対してポーズを取ったり、くるりと翻って肩から背中そしてヒップへのラインを確認したり。

独り、セルフファッションショウをしばらくこなし、えへへ、と顔を綻ばせた。

そこへ、来客を告げる電子ベルが鳴り響く。

彼女は、「ほいほ~い」と云いながら、すぐさま玄関の扉を勢い良く開けた。

その方が、わざわざ居間へ戻ってインターホンを受話するよりも早いし効率的だから。

だが来訪者は、呼び鈴を鳴らしてすぐに戸が開くとは思っていなかったのであろう。

そこには、心底驚きたじろいだ様子で、郵便配達の人が立っていた。

曰く、簡易書留で郵便物が届いたらしい。

受領印を押してから封書を眺めると、それは、ちょうど自分へ宛てられたもので――

封筒の下部を見た瞬間、普段は至極快活な少女が、まるで人形のように固まった。

『オーディション合格通知在中』

何度も目を擦って読み返しても、そこには明らかに良い報せであることを示す朱印が輝いている。


彼女は普段から元気溌剌だった。

クラスでも随一のムードメーカーであり、笑わせ屋であり、輪の中心にいた。

友人たちに冷やかし半分で「アンタって明るいし、アイドルにピッタリなんじゃない?」とも云われるほど。

笑顔が、向日葵のような橙色に輝く女の子だった。

先日クラスメイトと読んでいた雑誌に、新規プロダクション設立に伴うオーディションの情報が載っていたので、
そそのかされた勢いのあまり応募したのだが……

まさか本当に合格するなんて。

正直、彼女自身は結果に全く期待していなかった。

何故なら、柄にもなくあまりに緊張し過ぎて、本番で色々ととちってしまったからだ。

会場へ向かって歩いている刻は、まるで心臓が口から飛び出るのではないかと思うくらいどきどきしていたし、
選考時のことは、もはや何を喋って何をやったのかさえ朧げにも覚えていない有様。

そんな散々なオーディションだったのに、何故合格通知なのか。

何かの間違いではないのか。

震える手で封を切り、おそるおそる中身を出す。

そこには『技量ではなく内面を見て判断し、ティンときたから合格』などと良く判らない理由が綴られており――

その挨拶状の下には、しっかり整えられた様々な書類が束になっている。

不合格なら紙切れ一枚しか入っていないから、本当に合格通知なのだ。

人間、予期せぬ嬉しい事象が起こると、得てして爆発的に喜ぶことはできないもの。

彼女は、全身を震わせながら、しかし顔には満面の笑みを浮かべて、静かに、そして力強く呟いた。

「えへへ……やった……ッ!」



・・・・・・

年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎた平日の午後。

ベージュ色のブロックが敷かれた歩道を、美しい少女が一人、歩いていた。

傍の道路には、モノレールの橋脚が規則的な影を作っている。

大きい道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に橙が四角く塗られた列車が、頻繁に往き来している。


大型連休が明け、世間には若干閉塞したような空気が漂っている。

少女は気怠そうに、茶色いレザーのスクールバッグを肩へ廻した。

普段、一緒に下校している仲の良い友人は、今日は部活や掃除当番。

ゆえに、彼女は、JR駅までの道を独り、ややゆっくりとした足取りで歩んでいた。

ふわぁ、と軽く欠伸をし、それを左手で隠す。

実につまらない日常だ。

地震で、人生の価値観に僅かな変動があったとはいえ、結局それも二箇月弱が経って薄れてきた。

……そもそも、災害に対する現実感がほとんど無い。

発生当時は中学卒業直前の自宅学習日だったが、家の周辺地域は地盤が極めて強固なので、さほど揺れなかった。

さらに軍事基地が近所に在る為なのか、輪番停電の対象からも外れた。

つまり彼女にとって震災とは、テレビの向こう側の出来事にしか感じられなかったのだ。

喉元過ぎれば何とやら。変化の無い日々が、再び少女を支配しつつある。


この春から高校へ進学した彼女は、幾分か、変化への期待があった。

新しい自分への、渇望があった。

しかし入学以来一箇月以上が経ち、それは幻想だったのだと思い始めている。

幼稚園から小学校、また小学校から中学校へ上がった際の、明らかな環境の変化と違い、
高校生になったからと云って、何かが劇的に変わるわけでは無かった。

強いて違いを挙げれば義務教育ではなくなったと云うことだが、そんなものは目に見えぬ立場の話でしかないし、
クラスを構成する人間が変わる――中学時代の友人の大半と離れることになったのは、まったく負の側面だ。

結局、学校生活だって、授業内容だって、日々通り過ぎていく日常は、何もかもが中学校の延長線上。

中間と期末の憂鬱な定期考査は容赦なくやってくる上、同年代の男子の幼稚さは相変わらず。

実際、男子の幼さは、彼女の澄ました美しさに気後れしてのことだったが、当の本人には判ろうはずがない。


そんな変わらないループから抜け出したくて、藻掻いて、ピアスを空けてみた。

中学生とは違うのだ、と自らの身体に刻み付けたかった。

それでも、生じた変化は、髪に隠れた部分の僅かな見た目だけ。

父親に渋い顔をされたくらいで、その他の環境は何ら変わることは無かった。

寧ろ、ナンバースクール伝統の自由過ぎる校風から、ピアスや染髪なんて当たり前に行なわれている中で、
彼女はただ単に、そんな有象無象の一人にしかならなかった。

「はぁ~ぁ……」

まるで幸せが逃げて行きそうな溜息を吐いて、髪を掻き上げる。

西日に照らされた左耳、白銀色のピアスが鈍く光り、そして、さらりと流れる、黒く綺麗な長髪が揺れた。


そのまま、ターミナルの駅ビルでアパレルや靴、アロマなどを、大して注目もせず視てぶらぶらしていると、ふと
一階から四階までぶち抜くエスカレーターから、妙な出で立ちをした、初老の男性が歩いてくるのを視認した。

その態を半ば不躾な視線で凝視する少女に、男性が気付く。

そして彼もまた、視線を少女に向け、若干の驚きを得たように跳ねた。

そのまま、大股の早歩きで少女の眼前まで寄ると、彼女は気怠く無愛想な表情で問うた。

「……オジサン、誰? 援交―サポ―ならヤんないよ」


――

駅ビル二階の、明るく賑やかなカフェ。

少女は、アールグレイを飲みながら、男から差し出された名刺を眺めていた。

しかしその目は、欺瞞を疑うように刺々しい。

「C、G、プロ……ねぇ。……正直、聞いたことも無いんだけど」

ひらひらと団扇を煽ぐように揺らして、歯に衣着せぬ感想を述べると、男は目の尻を下げ、

「いやはや、設立してまだ間もないからねぇ!」

右手で自らの後頭部をぽんぽんと叩き、困ったように笑った。

そして、テーブル上のガトーショコラを指して「ささ、遠慮せず」と促す。

彼女自身、同年代の他の娘よりはそれなりに可愛いと云う自覚を持っているので、警戒心は多少ある。

だが、このような場所で、店の売り物に変な薬を盛られることもないだろう。

そう判断し、ゆっくりと、しかし怠そうにフォークを構えて「頂きます」と一口食べた。

美味なケーキに、期せずして顔が少し綻んだのだろうか、そのタイミングで男が喋る。

壮年・中年の歳相応の、ほど低く渋い声だ。

「そう云えばまだ君の名前を尋ねていなかったね。差し支えなければ教えてくれないかい?」

少女は即答せず、視線を少し逸らした。

長い時間、咀嚼したまま考え、無言の間が続く。

卓上にある少女のiPhoneへメールが着信し、バイブレータが天板と共振して存外大きな音を立てた。

彼女は手に取って画面を一瞥したが、他愛の無い内容だったようで、返信せず再びテーブルへ置く。

そして目を軽く閉じ紅茶を飲んでから、おもむろに口を開いた。

「……渋谷だよ。渋谷――凛」

きちんと答えてくれるとは期待していなかったのだろうか、男は少しだけ目を丸くする。

「渋谷凛ちゃんか。素敵な名だ」

凛は、嬉しくも何とも無いと云う表情で紅茶をもう一口呷った。

「――で、そんな事務所の社長さんが、学校帰りに道草してる不良女子高生を掴まえてスカウトだって?」

先程、エスカレーター前で出会ってすぐ、アイドルにならないか、と単刀直入に云われたのだ。

頭上に疑問符を浮かべている凛を、あの手この手で云い包めて、ひとまずカフェの椅子へ坐らせた。

物腰は紳士的ながらも、その話術は、流石、芸能業界の関係者、と云うことか。

確かに、「スカウトしたい」と告げられて悪い気分にはならないが――

「そう。さっき君を見て、一目でティンときたんだ」

「……はぁ。そんなの手当たり次第に誰にでも云ってるんでしょ、色んな甘言を弄してさ」

この真っ黒いオジサンの言葉を鵜呑みにするのは早計だ。今一信用ならない上、判断する材料が乏し過ぎる。

――どうせ私なんか、何百人と声を掛けた雑輩の中の一人なのだろうし。

ものぐさな様子の凛と、正反対に、至極真面目な顔をする男。

「とんでもない。私は業界歴だけは長いが、『コレだ!』と云う子にしか声を掛けないんだよ。
 ただの一人にもコンタクトせず撤収する日も少なくない」

凛が視線だけ挙げて相手の眼を見ると、その彼は柔らかな笑みを湛え、言葉を続ける。

「それに、自分で自分を不良と云う子ほど、根はそうじゃないものだよ」

凛は、目線だけでなく、顔も正対させた。

「妙な断言をするね、オジサン」

その言葉には、若干の刺が見え隠れしていた。

まるで、私の何が判るのだ、とでも云わむばかりに。

しかし男はそれを気にしない。

「君の全身から、お花の香りがする。芳香剤ではない、青く潤う生花の薫りだ。多分、お家は花屋さんのはず。
 そして手先は若干水荒れを起こしているね。きっと、ご両親の手伝いを精力的にこなしているのだろう」

この男は、家業を難なく云い当てた。これがスカウトマンの眼と嗅覚か。

ブラフかどうかは判らないが――凛がよく手伝っていることも見抜いている。

花屋は即ち水仕事と云って過言ではない。四六時中水に触れていると、肌を保護する皮脂が流失し荒れてしまう。

凛は、慌てて手先を袖の中へ潜らせた。

男の云い分を認めるようで癪だが、何故だか、隠さずにはいられなかったのだ。

凛のその反応に、男は少しだけ口角を上げた。

「身なりも一見崩しているようで実は端正だ。ぴしっとした上着、緩められているが形は整っているネクタイ。
 よく磨かれ、潰されていない革靴。僅かな染み汚れも、そして擦れもないスクールバッグ。
 手入れされた長く美しい髪もそうだね」

澱みなく、流れるように指摘を重ねていく。

「君が持つiPhoneは一世代前のだが、保護ケースへ入れていないにも拘わらず綺麗な状態だった。
 身近にある、頻繁に使う小物さえも丁寧に扱っている。そう云う細かい部分に、育ちの良さが出ているよ――」

まるでエスパーかと思えるほどの指摘ぶりに、凛はだんだんと目を逸らしていった。

図星を突かれ、少し……いや、大分気恥ずかしい。

頬が微かに紅潮していることが、自分でも判る。

「――そんな子の自称する『不良』って云うのは、一種のサインのようなものだ」

「……へぇ、サイン、ね……」

凛はそう返すのが精一杯だった。

逆に男は、上半身を凛の方へ若干寄せて、覗き込むような視線を送りながら、右手の人差し指を上に向ける。

「君はきっと、とても真面目な子だ。だからこそ、日常の繰り返しをつまらないと感じているのではないかな?
 耳に光っているピアスは、おそらく、それの裏返しだ。違うかね?」

凛は、ぴくりと、眼や眉を上げ、逸らしていた視線を再び目の前の男へ向けた。

「それにしたって、なんで私を? ……そりゃ人並みより多少容姿に恵まれてるとは思うけどさ。
 それだって偏差値70オーバーってわけじゃないでしょ」

「謙遜だねえ。もしくは、自分の美しさを過小評価しているのかな? 君は十二分に綺麗だよ。
 それに、見掛けも大事だが、それだけじゃないんだ。君には、凛々しく纏うオーラがある。
 私に云わせれば、それら相乗効果で、偏差値は75を優に超えると確信している」

恥ずかし気もなく、堂々と云い切る目の前の男。

その言葉に、凛の方が照れくささで縮こまってしまう。

そのまま目を瞑って少々考えたのち、居住まいを正し、背筋を直して向き合った。

観察眼の鋭さに、不気味な印象を禁じ得なかったが、
それよりも、敬意を払うべき存在だと、心の底の誰かが大きく告げた気がしたからだ。

そんな凛の様子を見て手応えを感じたのか、男は「とまあ、ここまでは、ただの前口上だよ」と笑い、
刹那、眼力鋭く凛を射抜いた。

「――君の、きりりと澄み、引き締まった碧い眼。最大の理由はそれだ」

「……眼?」

「ああ、君はとても真っ直ぐで綺麗な眼をしている。確かな意思を宿す瞳だ。私は、それに惚れた」

真っ直ぐな云い種に、凛は少し眉根を寄せる。

「……オジサン、もう『惚れた』ってストレートに云えるような歳じゃないと思うんだけど」

極めて失敬な突っ込みであるが、男は、少しだけ眼を丸くして、数秒ほど溜めてから、大笑いした。

「あっはっは! スカウトなんて、一目惚れの告白と同じようなものだよ。
 清水の舞台から飛び降りて、想いの丈を精一杯ぶちまけるんだからね」

腹を抱える男と対照的に、凛は表情を変えなかった。

否、呆気にとられて、表情が追い付かなかったと云うのが正解だ。

はぁ、と軽く息を吐いてから、やや温くなった紅茶で喉を湿らせる。

「――私、見ての通り無愛想だけど、こんなのがアイドルなんてやっていけるの?
 そうそう直せるもんじゃないよ、これ」

「その辺りは幾らでもやりようはあるさ。君の中の、アイドルとしての輝きは、そんなことでは曇らない」

妙に自信たっぷりと云い切るものだが、不思議とその言葉に頷いてしまうのは、何故だろう。

凛は、目線をやや下げ、左手を顎に添えた。そのまま、じっと考え込んでいる。

 ――日常に飽き飽きした心への、カンフル剤となる。澱みの中へ一条の光が射し込むかも知れない。

 ――いや、幾ら無変化に飽きたからと云ったって、芸能界などとは。到底やっていけるわけがない。

相反する考えが、ぐるぐると脳内を渦巻く。

どちらの云うことも、正しいと思える。

それだけに――今、この場で結論を出すのは、到底無理だ。

「……返答は保留でいいですか。この場では、ちょっと」

「勿論だよ。君の人生にも大きく関わってくることだからね、無理強いはしないし、結論を急がせもしない」

男の言葉には余裕が見て取れる。

凛の、僅かな口調の変化を、見逃さなかったのだ。

しかし何よりも、他人の人生を大きく左右させる以上、無理強いをしないと云うのは、彼の本心であった。

「もし、少しでも興味があるなら、日曜日の十時に、名刺の住所まで来てくれないかね」

男が、凛の手許にある自分の名刺を指差して云った。

凛が小首を傾げたので、補足の言葉を続ける。

「その日、他のアイドル候補生の子たちが来るから、会ってみてはどうかな。
 結論を出すのは、それからでも遅くはないと思うよ」


その後、事務所へ戻る男と駅コンコースで別れ、彼とは反対方面へ向かうプラットホームで、独り言つ。

「アイドル……か……」

流れた言霊が、滑り込んで来た電車に、掻き消されてゆく。

正直、これまでアイドルと云うものにあまり興味を抱いていなかった。

いや、正確に云えば、自分には無縁の存在、別の世界のことだ、と思っていた。

女の子なら、一度くらいは憧れを抱く世界のはずだけど。

しかしそれは、自らの手の届かない場所に在るからこそ、羨望の対象になるのであって……

いざ実際に誘いを受けてみると、実感の全く無い、ひどく非現実的な視線で自分自身を見ていることに気付く。

『私なんかが――』と。

電車の扉が開く際に鳴る電子音が、凛の鼓膜を揺らす。

脳はそれを、ただ行動に移すための記号としか捉えず、深い自問自答を中断させることはなかった。

その日、凛は、寝るまでずっと、考え込んでいた。

最寄駅まで自らを運んでくれる電車の中でも。

家に帰ってからも。

看板娘として店番を手伝っているときも、愛犬ハナコの散歩中も、夕飯を食べている間さえ。

不思議に思った母親が話し掛けても、ずっと、上の空で生返事をするだけだった。


――

「はぁ~ぁ……」

翌日、二限目の授業を終え、凛は机に顎を乗せて嘆息した。

65分もの間、政経の小難しい話を受けるのは、実にしんどい。

しかも今日は若干寝不足だから尚更。

昨夜は床へ就いてからも、ずっと思考を回していて中々寝付けなかったのだ。然もありなむ。

「なによ凛、そんな幸せが逃げ出しそうな溜息なんか吐いて」

そこへ、前の席にいる少女が、声を掛ける。

「あー……あづさ、私そんな溜息ついてる?」

あづさと呼ばれた、ショートヘアの彼女が、やれやれ、と片目を瞑った。

「口からエクトプラズムが出てくるんじゃないかってくらいの溜息だったわよ」

「まあしゃーねーよ。政経なんてかったるい授業トップ3だもん」

そこへ、隣の席からも会話が混じる。

凛は頭部を机上に置いたまま、声のした方に顔を向けて笑った。

「ふふっ、まゆみは政経からっきし駄目だもんね」

少し癖毛なセミロングの髪を、金に近い茶で染めた彼女は、「うっせ」と舌を出す。

二人は、数少ない同じ中学出身の友人だ。

気難し屋に映る凛を避けがちな高校からのクラスメイトと違い、忌憚なく喋れる間柄である。

「んで? 随分とダルそうな溜息じゃねーの、どうしたよ」

少々がさつな口調のまゆみが、頬杖を突いて問うた。

「んー、ちょっと将来について考えることがあってね」

凛は、眉根を寄せて考え込むように答えた。

「えぇ? なにそれ、高校入ったばっかでもう先のこと考えてんの? 進学先とか?」

あづさは目を丸くして云い、まゆみは、

「お前、相変わらず中身はインテリ思考だよな、こないだピアス空けたくせに」

と、凛とは質の違う短い嘆息をする。

凛は頭を上げて、「うーん」と身体を伸ばした。

「そこまで真面目なもんでもないよ。ただ、人生について考えるきっかけがあっただけ」

「人生、ねぇ。わたしは一回こっきりしか無いんだから楽しんだモン勝ちだと思うけど」

あづさは、凛の方へ首を傾げて、今時の高校生らしい言葉を述べた。

「楽しんだモン勝ち……か」

伸びをした腕を下げて、ぽつりと、鸚鵡返しに呟くと、

「ま、具体的に何すればいいのかなんてのは判らないけどね」

右手の人差し指をひらひらと振りながら、あづさはそう付け加えた。

対照的に、まゆみは「あたしにゃ人生なんかより、再来週から始まる中間の方が問題だっつの」と天を仰ぐ。

そう。憂鬱な定期考査は容赦なく迫ってくるのだ。

上半身を反らしていたまゆみが勢い良く体勢を戻し、笑った。

「あー中間のこと考えたら気が滅入っちまった。
 あたし今日は部活ねーからさ、凛もあづさもどーせヒマっしょ? カラ館行ってスッキリ発散しようぜ」


――

放課後、ターミナル駅前のカラオケ店へ、三人は来ていた。

学校帰りにお遊びとは、校則違反ではなかろうか?

ご心配なく。凛の通っている高校には、校則と云えるような縛りがない。

なにゆえか『下駄での登校を禁ずる』と云う、世にも珍妙な一節があるだけだ。

“自主・自律”を校訓とし、基本的に皆を信用しての自由放任だから、
生徒たちもそれに応え、羽目を極端に外すことなく振舞う。

きちんと学業に勤しんでいれば、カラオケくらいで目くじらを立てられることはない。


水色を基調とした店の受付口は、今をときめくアイドルたちのポスターやパネルで賑やかだ。

トップアイドル天海春香や男性グループ・ジュピターなど、処狭しと並んでいる。

普段ならそんなもの意識せず、店内の個室へと入って行くのだが、
昨日スカウトの話を聞いた凛は、どうしても視線を向けてしまう。

ポスターの中では、可愛いアイドルたちが大きく笑っていて、それは実に眩しく、キラキラと輝いて見えた。

――私にこんな笑顔できるのかな?

あのオジサンは「幾らでもやりようはある」と云ったけれど……

ゲタwww

「――ちょっとぉー、凛、何してるの、行くよー」

ふと、あづさに呼ばれる声で凛は我に返った。

「あ、ごめんごめん」

慌てて向き直り、奥に伸びる廊下へと走る。

「何を見てたのよ? ボーっとしてさ」

二人に合流すると、あづさが呆れたように訊いてきた。

「ううん、ちょっと考え事してただけ。さ、行こ」


――

 嘘の言葉が溢れ
 嘘の時間を刻む――

六畳ほどの個室に、まゆみの歌声が響く。

『Alice or Guilty』、先日発売された、ジュピターのニューシングルだ。

歪んだ重低音が腹に響く。

やや遅めのテンポだが、激情に溢れたとても熱い曲。

モニタの背景には、汎用ムービーではなく、ジュピターが昨年行なったライブの映像が使われている。

実に贅沢な仕様だ。

アイドル三人を照らす眩しいライト、客席で無数に揺れるサイリウムと、激しく飛び跳ねる観客たち。

その世界は、とても煌めきに満ちている。

もし――もし、このような舞台に立てるのなら……

これまで、テレビ画面の向こう、実感の湧かない処にあると思っていた場所。

一般人の自分なんかには、まるで無縁だと思っていた場所。

そこが、不意にも、居所となるかも知れない機会を得た。


じっと画面を見詰め、昨夕からずっと廻している思考に耽っていると。

「凛、次はどの曲入れる?」

ふと、それはあづさの問い掛けによって断たれた。

二度ほど瞬きをしてから、声の主の方を向くと、彼女はまだ何を唱うか決めかねているようだ。

選曲端末を「はいこれ、先にやっちゃって」と寄越してくる。

凛は、自らの顎を操作用のスタイラスペンで突っつきながら少し考え込み、唇を突き出す仕種をした。

「うーん、この流れだったら蒼穹かな」

「なにそれ?」

「詳しくは知らないんだけどさ、うちの店の有線で最近よく流れてるから憶えたんだ」

送信ボタンを押すと、ピピピッと鳴る軽い電子音と共に、リクエストが登録された。

Alice or Guiltyは終盤に差し掛かっている。


 ――罪と 罰を全て受け入れて
 今 君の……裁きで!


歌いきるとほぼ同時に、短いアウトロ、ベースのスライドで曲が終わる。

シンクロして、画面の中のステージでは、エアキャノン砲の銀打ちがキラキラと舞った。

「あーやっぱジュピターかっけえぜ!」

コーラを一口飲んでから、まゆみはガッツポーズを取る。

その余韻を待たずして、モニタは次曲の映像へと切り替わった。

――兎に角、日曜日、あのオジサンの事務所へ行ってみよう。

それから判断したっていい。

歌い出しをガイドするカウベルのリズムが響く中、凛はそう決心して、マイクに手を付けた。


 砕け 飛び散った欠片バラバラバラに なる
 魂は型を変えながら 君の中へ Let me go……
 叶え――


橙の照明が踊る空間に、凛の熱唱が響いた。


ここいらでちょっと休憩します。
日付が変わるまでには終わらせたい。

各jewelriesは、アケマスのYOUR SONGから続く「もしアイドルにカラオケさせたら」の系譜だと思うので出してみました。
丁度HEAVEN AND EARTHが公開された時期と作中のそれはそこそこ合うし、好都合でした。




・・・・・・・・・・・・


数日後、日曜。

凛は、名刺に記載のあった場所へと赴いていた。

飯田橋駅から歩いて五分ほど、煩くはないが静かでもないエリア。

幅の狭い道を入った処にある、茶色いタイル張りの古そうなビル。

そのくたびれた建物は、決して廃墟なわけではないが、芸能事務所と云うイメージにはほど遠い。

ビル入口に据えられた電灯のプラスチックカバーが、日に焼けて黄色く変色している。

「ここの三階みたいだけど……なんか胡散臭そうな場所だね……」

再度名刺の住所を確認するが、目の前の古ビルで間違っていない。

――これ、本当に大丈夫なのかな……

折角の決心が揺らぎそうになりながらも、
凛は、シャッターが閉められた一階店舗のすぐ横、コンクリートの階段に足を掛けた。

そこへ、比較的高めの声が、彼女を呼び止めるように響く。

「あのー、すみません、CGプロの方……ですか?」

「ん?」

凛が声のした方を向くと、そこには緩くウェーブの掛かった長い髪の女の子が、柔和な笑みを湛えて立っていた。

ベージュのブレザーに赤茶色のチェックスカートは、彼女の制服だろうか。

まさに、『可愛い―キュート―』を体現した子だね――凛は、そんな感想を得た。

自分には無いものを持っているその子に、何故か少し嫉妬する。

対して、その少女は、我方を振り返った凛を見て、口を半開きにさせ放心気味で呟いた。

「うわぁ……綺っ麗~……」

期せずして発したであろう、その言葉が凛の耳に入り、少し眉をひそめた。

それは、気恥ずかしさによるものだったのだが、少女にはそう映らなかったらしい。

はっ、と云う顔をして、慌てて謝ってきた。

「あ、ご、ごめんなさい! いきなり、し、失礼なことを……」

腰を直角に折り曲げるくらいまで、勢い良く何度も頭を下げる。

これには凛も面喰らった。急いで両手を振って弁解する。

「あ、いや、ちょっと照れただけ。怒ってるわけじゃないから気にしないで。私、よく勘違いされるんだ」

バツの悪い顔で、そう捲し立てると、ようやく少女は頭の上下動を止めた。

話題を変えようと、凛から適当に話を振る。

「貴女もCGプロに用?」

恐縮そうにしたままの少女は、その言葉におそるおそる顔を挙げた。

「えっと……一応……そうです」

――オジサンの云っていた『私以外のアイドル候補生の子』なんだね、きっと。

凛は思考を廻して、さらに心の中でだけ苦い顔をした。

――あー……ファーストインプレッションで怖い女って思わせちゃったかな……これ。

はぁ、と小さい溜息を吐きそうになって、すんでのところで押し止めた。

そんなことをしたら、『やっぱり怒ってる』と思われて、今度は土下座までされてしまいそうだ。

「あ、あのー……何か……?」

黙り込んだ凛へ、少女は不安そうに、窺うような面持ちで尋ねてきた。

「ううん、何でもない。私もCGプロに用事があるから、ひとまず行こ? ここで突っ立ってても仕方ないし」

凛は首を少しだけ傾けて、階段を指差した。

「あ、はい!」

大きく頷いて、少女は凛の後をついて来た。


三階まで無言のまま昇ると、“CGプロダクション”と掲げられたドアが目に入る。

長年の汚れだろうか、そのアルミ扉はみすぼらしく、
嵌め込まれた磨りガラスは端が少し割れ、クラフトテープで補修されていた。

廊下の電灯は、切れているのか、はたまた節電のためなのか点いておらず、陽も入らない所為でだいぶ薄暗い。

そこは、建物の外観以上に、怪しい雰囲気が漂う場所だった。

凛は、ノックしようと腕を掲げ――そのまま、ついて来た少女に頭だけ向けて問う。

「……ねえ、私、これ、かなり胡散臭そうに思えるんだけど、大丈夫かな……?」

少女は、困ったように苦笑いをした。

「さ、さぁ……」

不安を増した凛は、さらに質問を重ねる。

「貴女も、真っ黒いヘンなオジサンにスカウトされたクチ?」

「はい。――やっぱり、貴女も?」

「うん。眼が綺麗とか何とか云われて……」

「私は、笑顔がとても可愛らしい、って……」

種々のくどき文句は、なんとも、スケコマシの典型ではなかろうか。

凛は腕を下ろし、少女に身体を全て向ける。

「……話を聞いた刻は半信半疑だったんだけどさ……無信全疑になりそう」

少女は、頬に両手を当てて顔を青くさせた。

「なんか……如何わしいビデオとか撮られたり、反社会的勢力に人身売買されたり……」

「うえぇぇ……やっぱ帰ろう、うん、帰ろう!」

強く、頷き合う。

そして踵を返そうとした刻、扉がギィと鳴いて、勝手に開いた。

「ヒィッ!!」

驚きのあまり、二人、抱き合って飛び跳ねる。

しかし、ドアの陰から現れたのは、黄緑色のスーツに身を包み、太い三つ編みを右肩へ下げた愛嬌のある女性。

「そんな物騒な場所じゃありませんよ」

柔らかながらも困惑した笑みを浮かべて、そう告げた。


――

「おぉ、良く来てくれたね」

内装もあまり綺麗とは云えない事務所の中を、女性の誘導で応接エリアに通されると、
真っ黒な男、CGプロ社長が笑顔で出迎えた。

しかし、凛たちの様子を見て、きょとんとする。

「ん? 随分とガチガチに硬いじゃないか、どうしたね?」

対照的に、不信感満載と云った表情で、立ち尽くす女の子二人。

「いや、だって……ここ明らかにマトモそうな場所じゃないし」

凛の放言に、ぎょっとした目を向けた少女だが、否定しない辺り、ほぼ同じ気分なのであろう。

「もしかしたら、怖い人たちの事務所なのかも、と……」

凛が最初に言葉を発したことで気が軽くなったのか、こちらも中々失礼な話を云う。

「うん。そう思われても仕方ないよね」

お互いの顔を視て、大きく頷く彼女らに対し、

「いやはや、こりゃまいったね」

到底そうは思っていないように、ははは、と社長は笑った。

茶を淹れて持って来た女性が、刺々しく諌める。

「だから最初は少し苦しくても、もっと綺麗な処にした方がいいって云ったじゃないですか!」

「いやーちひろ君、そうは云うが、やはり立ち上げたばかりは色々と入り用でねぇ~!」

そして、「ままま、坐りたまえ」と、凛たち二人にソファを促す。

「それに“そっち系”の人の事務所は、門構えだけは綺麗にしているものなのだよ」

社長は腿の上で手を軽く組んで、それまで以上に大きく笑った。

「そんなこと、中高生くらいの女の子に判るわけないでしょう……もう」

ちひろと呼ばれた、その綺麗な女性が若干の溜息を吐きながら、凛たちの前にお茶を置く。

「あ、ありがとう……ございます」

凛が軽く、上目遣いで礼を述べると、隣の少女はちひろを見て「貴女は、先輩アイドルの方ですか?」と問うた。

「あらあら、そう云って貰えるなんてね。でも私はただのアシスタントですよ」

若干嬉しそうに、しかし苦笑いで否定する。

「そう、この事務所は立ち上げたばかりで、アイドルがまだ居ないんだ――」

社長が、ちひろの言葉に首肯を添え、

「――出来ることなら、君たちにアイドル第一号となって貰いたい」

ぐいっと身を乗り出して、目を真っ直ぐ覗き込み、そう云った。

その眼はまるで少年のように活き活きとしており、悪い企みをしているようには感じられない。

「この業界で長年やってきた、とはこないだ話したね。こうやって自分の事務所を持つのは夢だったのだよ。
 ゆくゆくは、765や961にも負けないレベルにまで育て上げたいと思っている」

765も961も、業界最大手クラスのアイドル事務所。

そんなプロダクションと張り合いたいとは、スケールの大きな話だ。

しかし、このようなみすぼらしいオフィスで語っても、夢想話にしか感じられないのは、致し方なかろう。

「勿論、ここには現在誰もアイドルが所属しておらず、事務所だってボロ屋だ。
 まだスタートラインにも立っていない状態だが……それでも私は、君たちに大きな可能性を感じたんだ」

凛は、熱く語る社長を、賛否の入り交じった視線で見た。

――このオジサンは、本当にアイドルと云うものが好きなのかも知れないけど……

対して、社長は身振り手振りがどんどん大きくなる。

「君たちを、眩いアイドルの世界、その頂点に光り輝かせたい。そして、それを見たい。
 どうかな、今のこの状態じゃ笑い話に聞こえてしまうかも知れないが、ついて来てくれないかい?」

凛がどう答えたものかと思案している隣で、少女は軽く拳を握って強く宣言した。

「判りました、頑張ります!」

「……えっ、さっきあんなに怯えてたのに、そんな即答しちゃっていいの!?」

驚いた顔で隣を向くと、少女も凛の方を見て、「はい、やっぱり悪い人そうには見えませんし」と微笑んだ。

お人好しと云うか、世間知らずと云うべきか――

凛が、やや困惑しつつ何度も目を瞬かせていると、

「……それに、ずっと、アイドルになりたいと思ってましたから」

そう呟いて、少女はやや恥ずかしそうに顔を伏せ、自らの組んだ指を見るように視線を下げた。

言葉の裏に秘められた、アイドルへの強い憧れを感じ取った凛は、どう受け取ればよいか迷った。

「自分もアイドルとして輝きたい」と同意する理想主義的な見方、
「夢想家だね」と冷ややかで現実主義的な見方、その両方が頭中に渦巻いているからだ。

そして、何の取り柄もない自分が、果たして、
熱意を持ったこの子と同じ立場に乗ってしまって良いのだろうかと云う逡巡も。

色々考えても埒が明かないので、ひとまず喉を潤そうと、ゆらゆらと湯気の立つお茶に手を伸ばした、その刻。

事務所入口のドアが勢い良く開けられ、バン、と大きな音が響く。

「おはようございま~す! すいませーん総武線がちょっと遅れてて時間ギリギリになっちゃいました~♪」

およそ申し訳ないとは思っていないであろう口調で、一人の女の子が入って来た。

外側に撥ねた短めの茶髪を揺らして、大股で向かってくるその子は、
まさに『情熱―パッション―』と形容するに相応しい少女だった。

「おっ? 社長、ここにいるのがこないだ云ってたスカウトした人たち? うわー美人揃いだね~」

凛は、少女の勢いにぽかんと口を開けて絶句し、その対面で社長は「ああ、そうだよ」と答え頷く。

桃色のジャケットと橙色のスカートに身を包み、けたけたと笑う彼女は、

「今日から候補生になる“予定”の本田未央っていいまーす! 15歳高一! 宜しくね!」

と、右手を真っ直ぐ挙げて破顔した。

それにつられ、凛の隣に坐る少女も、
「あ、そう云えば私たち自己紹介がまだでしたね」と、思い出したように手を叩いた。

「私、島村卯月です。17歳になったばかり。宜しくお願いします!」

立ち上がり、軽いお辞儀を交えてウインクした。

「おぉ~! 歳上なんだ~? 宜しくね、しまむー!」

未央は、笑顔で握手を求めながら呼び掛けた。

不意のあだ名に、卯月はやや驚く。

「えっ? し、しまむー?」

「そ! “しまむ”ら“う”づきだから、しまむー。どお~?」

「うわぁ~、私、そんな可愛い呼び方されたの初めて! えへへー、宜しくね、未央ちゃん」

二人、両手でがっちりと握手をする。

そして未央が、卯月の肩越しに、凛を見て問うた。

「んでんで、そっちのキレーな貴女は~?」

ぼーっと二人の様子を見ていた凛は、いきなり話を振られてまごついた。

切れ長でやや吊り目がちな双眸と、への字口のまま、思考をショートさせて数秒ほど固まる。

初対面の相手からすれば、凛は近寄り難い雰囲気であろうに、未央はそれを気にする様子が微塵もない。

にこにこと元気な笑みを真っ直ぐ向けてきて、まるで明るく輝く星のようだ。

卯月も未央から凛の方へ振り返り、「教えて、教えて」と眼で語っている。

ソファに腰掛けたまま、やや引き気味に口を開いた。

「え、あ……わ、私は……渋谷、凛。……15歳。でもまだアイドルになるって決めたわけじゃ――」

「ええ!? 15歳? 大人びてて綺麗だから歳上かと思ってました!」

凛の言葉を遮り、卯月が驚いた顔でずずっと身を乗り出す。

「え、あ、ご、ごめん……」

凛は訳も判らず、ひとまず謝罪の言葉を述べた。

「それじゃあしぶりんだね! 宜しく!」

未央が右手を差し出してきたので、反射的に立ち上がって、おずおずと握り返す。

そこへ卯月も加わって、三人で手を重ね合った。

その光景を微笑ましそうに眺めていた社長が、凛に声を掛ける。

「本田未央ちゃん、島村卯月ちゃんは兎も角、渋谷凛ちゃんはまだ決めかねているようだね」

「……ごめんなさい」

凛が声の主の方を向いて、やや目を伏せると、社長は笑って手を軽く振った。

「いやいや、何も謝ることは無い。こないだも云った通り、無理強いするつもりはないのだから」

「え、しぶりんアイドルにならないの? スタイル良いのに勿体無いよー」

「そうそう。こんなに綺麗ならきっと凄いアイドルになれますって!」

社長と凛の遣り取りを聞いて、未央と卯月は共に驚く表情をした。

勿体無いと云う評価は有難いが、それ以上に凛にはこそばゆいことがあった。

「ねえ、卯月。そろそろ気楽に話してくれないかな……学年ひとつ上なんだし、敬語じゃちょっとくすぐったい」

眉の尻を下げ、やや照れくさい表情で云うと、卯月は、眼を少しだけ大きくする。

「あ、ごめんね、ビル前で会った刻からの流れでつい。じゃあ、凛ちゃんね!」

「うん、ありがと。助かる」

アイドル云々は抜きにして、この二人とは良い友達になれるかもね――凛は、少しだけ顔を綻ばせた。

「しぶりんは、アイドルに興味ないの?」

「うーん、正直、未知過ぎてよく判らないって云うか、おいそれと決断できる話ではないって云うか……」

未央の問いに、凛は目線を上へ遣って、呟くように答えた。

そこへ、社長が横から声を掛ける。

「まあそれも仕方ない話かも知れないね。新たな世界へ足を踏み出すには色々と情報や勇気が必要だ。
 そこで、アイドルが普段どんなことをするのか、これからお試しレッスンと云う形でやってみないかい?」


――

どうやら、社長が提案した“体験入社”は、予め考えられていたものだったらしい。

事務所から歩いて10分ほどの場所にあるスタジオでは、既にトレーニングスタッフが準備して待っていた。

身体を動かすとは聞かされていなかった凛たち、どのように体験するのか不思議がっていたが、
きちんとレッスンウェアが用意されている。

随分と先回りが巧い社長だ。

ハンドルの少々固い防音扉を開けると、陽の光が差し込む明るいスタジオは、広く、開放感に溢れていた。

「今日はわざわざすまんねぇ!」

三人を率いた社長がスタジオへ入るなり大きく破顔すると、
スタッフは固く握手し、「貴方のご要請とあらば他の何よりも優先して都合つけますよ」と、白い歯を見せた。

そのまま、凛たちを手招きして呼び寄せる。

「キミたちがレッスン生だな。えー――こほん、社長殿から聞いているよ。私はマスタートレーナーの青木麗だ」

その女性トレーナーは、体幹に筋の通った、ぴしっとした姿勢で笑み、

「今回は二時間ほど、普段アイドルがどんなことをやっているのか実際に体験してみよう。軽くな」

と、左手の親指を立てた。

「私は、頃合いを見てまた迎えに来るとしよう。それでは、頼んだよ!」

社長はそう云い遺し、左腕を大きく振って去って行く。

年甲斐の無い大はしゃぎっぷりを見て、防音扉がガチャンと重い音を立てると同時に、
麗は「まったく、あの人は変わらないな」と苦笑とも郷愁とも取れる、短い嘆息をした。

「社長とトレーナーさんは、お知り合いなんですか?」

二人のことを不思議そうに眺めていた卯月が尋ねた。

「まあ、そんなところだな。さ、更衣室はあっちだ。その服に着替えたら、ピアノの前へ集合するように」

麗が指した小さめの部屋へ、凛たち三人は消えて行く。


「こう云うレッスンスタジオに入るのって初めて~。なんだかワクワクするな~!」

桃色のジャージを勢い良く脱ぎ、パイプ椅子の背へ放り投げた未央が、黄色いリボンタイを緩めて息を弾ませた。

「私も初めてだから、勝手があまりよく判らないな」

凛は、未央の言葉に軽く頷きつつ、カーディガンのボタンを外し開―はだ―ける。

そしてロッカーの扉を引き、その濃紺の上着を衣紋掛けに据えると、卯月が後ろから声を掛けてきた。

「大丈夫、勝手が判らなくても、今は私たち三人しかいないから、気兼ねすることはないよ、凛ちゃん」

「おろ? しまむーは、こう云うスタジオの経験あるの?」

未央の軽快な問いに、「うん、養成所に通ってたから」と卯月は答える。

凛は、自らの背中の向こうで交わされる会話に、心の中で、成る程ね、と呟いた。

先程の、『アイドルになりたい』と云う卯月の熱意ある言葉に、合点がいったのだ。

「へぇ、卯月は経験者なんだね」

凛が碧いネクタイを右手で緩めながら振り返ると、
卯月は手慣れているのか、早くもレッスンウェアに腕を通していた。

「えへへ、そんな大層なことは云えないレベルだけどね」と凛の方に顔を向けた彼女は口を開け、

「うわぁー、凛ちゃん、片手でネクタイを解く仕種がすごく“様”になるね。カッコよくて綺麗~……。
 ホワイトブラウスとの組み合わせは反則だよ」

と羨望の嘆息を長く吐く。

面と向かってはっきりと云われるのは、凛にとって、とても気恥ずかしかった。

これまでずっと、似たようなことは云われてきたが、決まって邪な色が言葉に込められていたものだ。

しかし彼女から感じられるのは、美しいものをそのまま美しいと云う、素直な溜息だった。

「あ……ありがと」

凛は顔を紅くして、慌ててロッカーの方へと身体を向け、いそいそと着替えを続けた。


更衣室から出てピアノの前に集合した三人に、麗が尋ねる。

「えーと、島村君に、渋谷君に、本田君だな。君たちはソルフェージュを触ったことはあるか?
 島村君は養成所の経験があるようだから兎も角、私の記憶が正しければ、皆小学生の頃にやっているはずだが」

三人は、「はい」と大きく頷いた。

基礎的な音楽能力を養うソルフェージュは、音楽教育の初歩中の初歩。

音符や休符の種類、音の高さや音階、五線譜の記法など、義務教育課程の音楽授業でお馴染みだ。

しかし卯月以外の二人は、

「正直に云えば、あまり憶えてませんけど……」

「あはは~……わ、私も~」

と、凛は首を竦め、未央は右手で後頭部をぽりぽりと掻いて、付け加えた。

「はは、大丈夫。今はドレミファソラシドさえ判っていれば充分だ」

そのまま、「私の鳴らす音をなぞって、全身から声を出してみてくれ」と長調のフレーズを弾き始めた。

まず麗がお手本のラインを鳴らし、二回目のループで三人が併せて歌う。

軽快なテンポで、ステップを踏むようにフレーズが流れていく。

右手は軽妙かつ爽快なメロディ、左手はノリよく小刻みに揺れる伴奏。場を包む音は、ラグタイムだ。

音楽に明るくない者でも知っているであろう、The Entertainerと云う名曲。

普段のJ-POPでは歌わないような音階の飛び跳ねに、最初はおそるおそるだったが、徐々に発声をし始めた。

中でも卯月は、さすが養成所に通っているだけあって、
安定してフレーズを追随出来ており、三人の中では特に良く通る声が出ていた。

しかし凛と未央の二人は、一般人と何ら変わらない普通の女子高生。

その発声量や安定感は……云わぬが花だ。

微妙にピッチの合わない三声が、スタジオに鳴り響いた。

ピアノを弾き終わった麗に、凛がおそるおそる手を挙げて問う。

「あの……、こんな、うまく音を出せない状態でもいいんでしょうか……」

麗は「ははは、全く構わんさ」と明るく破顔した。

「なに、今は上手くやろうと気張る必要はない。リズムに乗って、喉ではなく身体から声を出してみよう。
 それがとても楽しいことなのだ、と感じてくれればそれでいい。誰しも最初は初心者だ、恥ずかしがらずにな」

再び麗がピアノを弾く。今度は更に軽快でうきうきするような雰囲気が感じられた。

未央は早くも、開き直ったと云うか、遠慮せずと云うか、全身で楽しんでいるようだ。

凛も下手な羞恥心と決別し、大きな声を出す。

30分ほど身体を暖めたところで、麗が壁面鏡の前へ移動する。

「先程と同じフレーズだが、今度はピアノではなくCDから普通の曲として流すぞ。
 その音楽に併せて、身体を動かすんだ。私が最初に手本の動きを見せよう」

そう云って、麗はそのとても綺麗な姿勢のまま、CDから再生される音楽に沿って、流れるように舞う。

ラグタイムで弾いていたフレーズが、今度はカントリーミュージックの潮流となって麗を動かした。

その美麗な動きに、凛や未央は勿論のこと、卯月も口を開けて惚けている。

麗は若干苦笑しつつ、「さあ、みんな一緒にやってみよう」と促す。

「渋谷君と本田君は、ダンスのテクニックとか、そんなものは今は一切意識しなくていい。
 最初から巧くやろうと気張らず、見様見真似でいいから、思うままに歌い、身体を動かしてみたまえ」

三人はそれぞれの顔を一度見やってから、軽く頷いて、麗の動きに追従した。

リズムに合わせて足踏みを入れたり、腕を振ってみたり。

身体をひねり回したり、飛び跳ねたり、片足を軸に回転したり。

そのまま、様々な曲に合わせて、麗は色々な情景を、声で、身体で、表現する。

いつしか凛も、夢中で声を出し、身体を動かしていた。

――あれ、楽しいかも……これ。

目の前の鏡に写る自分が、まるで自分ではないかのような、
第三者が自らを俯瞰するかの如き気分で眺めながら、凛は爽快な感覚に身を委ねた。


およそ一時間ほど身体を動かし、クールダウンを兼ねてストレッチをしている際のこと。

ぎこちない柔軟運動をこなす凛に、麗が訊く。

「そう云えば、君は歯列矯正をしたのか?」

いきなり妙な話を振られた凛は、少しだけ驚きつつ、

「えっと、それって歯にずらりと銀色の器具をつけるやつですよね? それはやっていません。
 親には、小さい頃から虫歯でもないのに歯医者さんへ定期的に“連行”されてますけど……」

と身体の筋をぐっと伸ばしたままの姿勢で答えた。

歯科医院独特の、あの厭な空気を、あまり歓迎しない感情が、その言葉に込められている。

「ふむ、そうか」

麗は顎に手を添えて頷いた。

そして、その様子を不思議そうに眺め眉根を寄せる凛に気付き、

「あぁいや、歯並びが綺麗な割には、矯正した歯にありがちな、“作り物”っぽさを感じないのでな。
 なるほど、君のは細やかなメンテナンスの賜物と云うわけだ」

「はぁ……」

凛はきょとんとしながら上体を起こし、今度は違う側の筋を伸ばそうと逆へ身体を倒した。

麗は微かに笑み、発言の意図するところを解説する。

「芸能人は見られるのが仕事だからな。整った歯並びと云うのは重要なんだ。
 かと云って、矯正されたそれは、まるで入れ歯のような人工的な印象を与えてしまう。
 その点、君の“自然な歯並びの良さ”と云うのは大きな武器となろう」

そして腕を組んで軽く頷き、「君は恵まれているな、親御さんに感謝するんだぞ」と笑った。

対して凛はあまり実感がないようで、いまいちピンとこない表情をしている。

「はぁ、そう云うもの……ですかね?」

「そう云うものさ。私は、昔それでちょっと苦労したからね」

親心子不知――凛がそれを理解するには、まだまだ時間を要すことだろう。

丁度のタイミングで、防音扉が音を立て、社長が顔を出す。

視認した麗は、凛、卯月、未央を立たせて、レッスンの締めくくりに移った。

「さて、体験はどうだったかな。勿論今日やったことが全てではないが、多少は空気を感じて貰えたと思う。
 今度は、現役アイドルをしごく教官として、また皆に逢いたいものだ。それでは今日はここまで。ご苦労様」

麗が力強く云うと、三人は「ありがとうございました!」とお辞儀をし、更衣室へと入って行った。

見届けた社長は、スタジオにスリッパの音を響かせながら、麗の許へと歩み寄る。

「君の目から見て、あの子たちはどうだったかね?」

背中で手を組んで、麗の隣に並び立ち、正面の更衣室の方を見遣りながら問うた。

「正直に云えば、現時点では三人とも平均的な一般人レベルに過ぎません。島村君は多少こなれてはいますがね」

彼女も同じように、更衣室へ向いたまま答える。

その言葉に、社長は顔だけ隣へ向け、口を大きく開けて笑った。

「はっはっは、相変わらず厳しいねえ、麗は。――他の二人はどうだい?」

「本田君は大味ですが筋肉の瞬発力、持久力、両方がありますね。動くのも好きそうです。
 しかし、渋谷君は、只の案山子ですな。喉のピッチが安定しませんし、体幹の保持力も弱い」

麗の辛辣な指摘に、流石の社長も少し残念そうな表情になる。

「むぅ……私はティンときたのだがねぇ……」

「ふふっ、いま私が述べているのはあくまで身体能力の話ですよ?」

そう云って、麗は社長を見、にやりと口角を上げた。

「それ以外の部分なら、あの子自身にはあまり自覚がないようですが、色々と恵まれています。
 造形の整った顔や、すらりとした長身、細く長い脚、芯の通る声質、纏ったオーラ、強いカリスマ性……」

麗は右手の指を折りながら、凛の印象を一つずつ列挙していく。

「とかく感情表現に乏しいなど、不利な点は確かにあります。ですが、生まれ持った要素だけで判断すれば、
 ただの一般人よりもスタートラインはずっと有利な位置へ設けられるでしょう」




――そして、それこそが普通の人間との決定的な差です。


麗は、再度更衣室の方を向いて表情を引き締め、強くそう云い切った。

身体能力は、無論、センスや才能も物を言うのだが、トレーニングを積んで高みへ昇ることが可能。

しかし生まれ乍らに左右される要素は、後からどのような修練を重ねても、会得することは出来ない。

社長も、その言葉にゆっくりと頷く。

そして麗は、少しだけ、間をあけて。

「なによりも――」

一度そこで息を切ると、社長と麗は、お互いの顔を見合った。

「――真っ直ぐで綺麗な眼をしている。貴方は、きっとそこに惚れ込んだ。違いますか?」

社長は何も云わないが、目を細めることで回答した。

無言の返事に、麗は肩をやや竦めながら笑い、言葉を続ける。

「本田君だって、15歳であのグラマーな体つきは大きな武器になるでしょうし、島村君の愛嬌も元気になれる。
 三人それぞれ、磨けば光るものがありそうですよ」

「その言葉を聞けて、良かった。あの子たちは、きっと、輝ける」

社長は満足そうに頷いた。

「ところで、ようやく自分の事務所を立てたし、どうかな、トレーナーとして専属契約を結んでくれんかな?」

後ろで組んでいた手を解いて、今度は胸の前で腕を組み、そう問う。

麗は残念そうに首を振った。

「自分の主宰する教室がありますから、今すぐには無理です。来年度まで待ってください」

「まあ駄目元で訊いてみただけだが、やっぱりそうなるか」

要請を断られたにも拘わらず、それを全く気にしない様子で破顔する社長。

しかし、その笑顔の裏に若干の落胆が隠されていることを、麗は知っている。

「ですが――妹たちなら大丈夫です」

笑みを浮かべ、そう補足した。


着替えを終えた卯月たちが「お待たせしました」と出て来た。

そのまま、五人全員でスタジオのエントランスまでゆっくり歩く。

麗は、「ありがとうございました!」と深く頭を下げる三羽の雛に右手を挙げて応え、
社長とともに去って行く後ろ姿を眺めながら、ぽつり、誰の耳にも入ることのない言葉を洩らした。


――全く、プロデューサーの審美眼は相変わらず、と云ったところかな……
ふっ、あの子たちの将来が楽しみだ――


――

凛は、事務所までの道のりを歩く間、心の中の火照りに戸惑っていた。

歌うことや踊ることが――いや、違う。

より正確に云えば……自らの身体の内側から何かを放出させることが、予想以上に楽しかったからだ。

15年と半年余と云う短い人生ではあるが、それは、これまでの無味乾燥な生活では得たことのない感覚だった。

まるで、初めておもちゃを買い与えて貰った幼子のような。

勿論、アイドルになるのなら、それが“仕事”と化すのだから綺麗なことばかりではなくなるだろうが――
このまま日常のループに身を置いているだけでは、この興奮を得るなど、到底出来ないだろう。

それでもやはり、『非日常』の世界へ飛び込んで行くのに必要な“勇気”を確信するまでには至っていない。

凛は、真面目な子だ。

だからこそ、何事も考え過ぎてしまう。

当然、それは生きていくのにとても重要な要素ではあるのだが。

彼女にとって、事務所までの道は、あっという間だった。


先程と同じ応接エリアへ戻りソファへ着くと、ちひろが改めてお茶を淹れてくれた。

スタジオからの道中も、事務所に入っても、社長から凛に「どうだったかな」と催促してくることはなかった。

じっくりと、凛自身に納得のいくまで考える時間を与えるため。

その間、凛の隣に坐る卯月と未央と、所属にあたって必要な書類の遣り取りなどをしている。

凛は、その気遣いを何となく察してはいた。しかし、思考は延々と巡り、出口が見えない。

一種、社長の放任さが、却って仇となっているような気がする。

そこへ、ちひろが社長の隣、凛の正面に坐った。

「ふふ、どうだった?」

にこりと笑み、尋ねてきた。

「うん、楽しかった。……けど、やっぱり色々な考えが頭の中を巡っちゃって……」

「そうね、それは当然だと思うわ。自分の、これからの生き方が大きく左右されるんだものね」

そう相槌を打って、ちひろは自らの分の茶を啜った。

茶碗をことりと置き、「どの辺が楽しかった? 歌? ダンス?」と他愛のないおしゃべりを振ってくる。

「……なんて云うか、歌とか踊りとか固有のものじゃなく、漠然とした感覚だけど……“表現すること”、かな」

明るいメロディに合わせて楽しく、哀しいメロディに合わせて情緒豊かに――
そんな、場に応じた自らの表現の仕方に、様々な種類、表情があると云うこと。

そう、麗が魅せ示した、その“存在の表現”と云う行為が、凛は気に入った。

ちひろは、目尻を下げてにこにこと穏やかに微笑んだままだ。

そんな彼女に、凛は「確かにスカウトされて光栄だし、楽しそうとも感じるけど……」と思うところを告白した。

「さっきの先生のような、綺麗な歌や凄い動きが、果たして自分に出来るのかな、とか不安が先にきちゃって」

ちひろは、その言葉に大きく頷く。

「そうね、わかるわ。私だって、同じようにスカウトされたらそう云う思考が一番に浮かぶと思うもの」

ちひろに大きく同意され、凛は少しだけホッと安堵の息を吐いた。

しかしちひろは笑みを崩さず、言葉を続ける。

「でもね、社長ってこう見えて、いい加減なことは云わない人よ。貴女を誘ったなら、相応の想いがあると思う」

うふふ、と肩を揺らし「とても変な人だけど、直感は意外と凄いみたいだから」と付け加えた。

ちひろの好き勝手な云い種に、隣で書類の説明をしていた社長は思わず苦笑いを浮かべ、

「はっはっは、随分云ってくれるねぇ、ちひろ君」

と後頭部を掻きながら、新たな書類を取り出すためだろうか、自らの執務机へと歩いて行く。

そんな社長へ凛が視線を向けていると、ふと、彼の机に飾られた何気ない写真立てが目に留まった。

そこには、少しだけ若く見える社長と、手に大きなトロフィーを持つ綺麗な女の子がツーショットで写っている。

どこかで見たような……

と、考える時間も必要ないくらい、答えはすぐに浮かんで来た。

何故なら、ついさっき手ほどきを受けた青木麗その人だったからだ。

先刻と同じように長い髪をアップに結い、きらびやかな衣装に包まれ、泪を流しながら笑っている。

その姿は、とても――とても美しかった。

「ねぇ、オジサン、それって……」

凛は、無意識のうちに社長へ声を掛けていた。

ん? と、その呼び掛けに凛の方を向いた社長は、彼女の視線を追って再度自らの手許へ目を落とし、
机上で控えめな輝きを見せるフォトフレームに、合点の行く顔をした。

「あぁ、これか。君は視力がいいな、よく気付いたね」

そう云い、写真を凛の処へ持ってくる。

「察しの通り、彼女は私がかつてプロデュースしていたアイドルだよ。これはIUで優勝したときの記念写真だ」

「えぇっ!? さっきのレッスンの先生、IUで優勝してたんですか!?」

凛との会話を耳にした卯月がそう叫んで、すっ飛びそうな勢いで立ち上がり、写真を覗き込んだ。

未央も、あまりの驚きに、呆けた顔をしている。

IU――アイドルアルティメイトは、年に一度、真のトップアイドルを決めるオーディション番組だ。

その存在は国民的関心事と云って過言ではない。

「IU優勝者に気付かないなんて……私どれだけ疎いんだろう……」

凛が頭を抱えてそう呟くと、対照的に社長はあっけらかんとして、手をひらひら振った。

「それは仕方ないよ。彼女が引退したのはもう八年も前になるからね、君は小学校に上がろうかって頃だろう?
 当時人気だったアイドルのことなんか判らないだろうさ。後々、座学として資料に触れることはあってもね」

子供がアイドルや芸能に興味を持ち始めるのは、大抵は小学校高学年から中学生の頃だろう。

凛にとって、初めて意識したアイドルは天海春香だ。

彼女のデビューは六年前。

事前情報なしでは、かつてのトップアイドルとは云え、八年前に去った麗を知らないのも、致し方在るまい。

だが、アイドルとしてスカウトされたにも拘わらず、それに気付かなかったことに、ショックを隠せない。

しかし同時に、「このオジサンって、アシスタントさんの云う通り本当に“出来る”人だったんだね……」と、
認識を改めるきっかけともなった。

――そんな人が、私のことをスカウトしてくれた――

ならば。

無変化なつまらない日常を脱する、またとないチャンス。

たとえ、その先が茨の道であっても。

無味乾燥な日常を繰り返すより、ずっとマシだ。


「ねえ、オジサン。…………ううん、“社長”」


凛は、目の前の、微笑む黒い男を、眼力鋭く見詰め、

強く、告げた。




――私、やります。








・・・・・・・・・・・・





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              \ ./        /   |       |/


プロデューサーさん、いよいよ明日は初の単独ライブ、WONDERFUL M@GIC!!ですね。

まだまだアイドルの卵にもなっていない三人が、のちに“新世代”として世間を大きく賑わす存在になるなんて。

このときの彼女たちには、知る由もありません。



そして

私や社長は、ただの補佐役。

このフツウのオンナノコを、トップアイドル―シンデレラガール―へと導くのは……

プロデューサーさん、あなたです。


~ひとまず了~


プロデューサーさんっ! 総選挙ですよっ! 総選挙っっ!
http://i.imgur.com/r4BgEPO.jpg

とにもかくにも急いでしぶりんダイマSS書かなきゃと思って、
頭の中でぼんやり構想していたお話の一部を今回切り出して組み上げました。
変な構造になっているのはそのせいです。

さて、しぶりんとしまむーとちゃんみおと、
あとこのSSには出てこないけど奈緒と加蓮に投票ブッパしてきます。

あ、そうだ今回は急ぎに急いで書いたので曲までは作ってませんでした
代わりに追憶(The way we were)といえばこの名曲を紹介しておきます
http://www.youtube.com/watch?v=-ilb7oT_Cb8

>>40
実際にこんなヘンテコな校則があるから困る

あー舞浜最高だったアアアァァァァ!
この余韻にひたりつつHTML依頼してきます
関係ないけど奈緒と加蓮の新曲舞浜で聴いたよとてもよかったよ(ニッコリ


このSSは後日フルスクラッチして、構想している全体の姿を書こうと思います
膝に副業を受けてしまっているものの誕生日までには目処をつけたい

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