千早「笑顔の思い出」 (183)


このSSは『千早・真「やっぱりお菓子を作る」』の設定及び時間軸を引き継いでいます。(約九ヵ月後)

前作を読まずとも、千早と真が親密で料理がとても上手とだけ知っていれば大丈夫です。

まったりと投下していきます。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1396184130


真「ただいまー」

千早「おかえりなさい、真」

真「ごめん、講義が長引いちゃって」

千早「気にしないで」

真「あれ、春香はどうしたの?」

千早「……急に仕事が入ったわ。それも長期のロケが」

真「そ、そうなんだ」

千早「はぁ……」

真「がっかりしないで。また時間を合わせればいいからさ」

千早「……そうね。もうすぐ夕食ができるから早く手を洗ってきて」

真「うん、荷物置いたらすぐに行くよ」


千早「味付けはこのくらいで良いわね」

真「お皿はこれでいいかな」

千早「ええ」

真「あ、そうそう。千早、おめでとう」

千早「おめでとう……?」

真「新しいシングル、チャートで一位だって話だよ」

千早「ありがとう。あまり気にしないから、すっかり忘れていたわ」

真「これで十一枚連続で一位だね。今回はジュピターと被ってたからどうなるかと不安だったけど」

千早「これもみんなのおかげよ」

真「一応これプレゼント。受け取ってもらえるかな」

千早「これは薔薇……かしら?棘がないけれど」

真「たまには棘のない薔薇もいいと思ったからね」



真「いただきます」
千早「いただきます」

真「うん。このにしんの塩焼き、凄く美味しいよ」

千早「魚屋さんにお勧めされたから買ったんだけど、本当に美味しいわね」

真「火加減も完璧だから余計にそう感じるよ」

千早「ふふ、ありがとう」

真「春香も残念だったね。折角千早の手料理が食べられるところだったのに」

千早「それなら心配ないわ。行く直前にお弁当を持たせたから」

真「え、いつ作ったの?」

千早「隣のスタジオで高槻さんが料理をしていたから、休憩時間に貸してもらったわ」

真「相変わらず、春香のことだと形振り構わないなぁ」

千早「私の生きがいよ」


真「千早ってホント、春香のこと好きだよね」

千早「誰よりも愛してるわ」

真「もしかして、また叫んだりしたの?」

千早「……ダメだったかしら?」

真「春香も大変だね……」

千早「大変?」

真「ううん、気にしないで。こっちの話」

千早「今日も沢山愛情を込めたわ。春香愛してるわ!」

真「もう夜だから近所迷惑だよ、千早」

千早「安心して。ここは防音よ」

真「窓からだだ漏れしてるよ」

千早「!?」


真「前々から気にはなってたんだけど、どうしてそんなに春香のことが好きなの?」

千早「それは私が春香のものだからよ」

真「えー。分からないでもないけどさ」

千早「春香がいなければ今の私はいないって言うくらい、春香とはいろいろ……そう、いろいろあったから」

真「ごめん。言い難いことだった?」

千早「そんなことないわ。ただ、少し恥ずかしい話もあるから」

真「千早の恥ずかしい話?」

千早「どちらかと言うと、春香の方が多いかもしれないわね」

真「良かったら春香と千早の思い出、ちょっとだけ聞かせてもらっていい?」

千早「あんまり面白い話じゃないけど……?」

真「千早が話せる範囲でいいよ。どうして春香とそんなに仲が良いのかってずっと思ってたし」

千早「……そうね。真になら話してもいいわね」

真「ありがとう」


千早「真も知っての通り、春香との出会いは765プロよ」

真「千早は最初から春香と仲良かったよね」

千早「そうかしら?」

真「うん、いつも一緒って感じだったかな」

千早「……春香はどうかは分からないけど、少なくとも私はそうじゃなかったわ」

真「え、そうなの?」

千早「どちらかと言うと嫌いだったわ」

真「意外……」



千早「そんな春香を好きになれるかもと思ったのは、私が初めて春香の前で歌った時」

真「ボクも覚えてるよ。千早の歌を始めて聴いたときのこと」

千早「ふふっ。思い出すと、あの時は随分と独りよがりの歌だったわね」

真「普段はぶっきら棒なのに、歌っているときの千早は……そう、自由に飛び回る鳥のようだった」

千早「みんなそう言ってくれたわね」

真「正直な感想だよ。春香も同じ感想だったの?」

千早「春香は少し違ってたわ」

真「へぇ、なんて言ったの?」

千早「春香は……」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――


「千早ちゃんって、人魚みたいだね」

初めて天海春香が私の歌を聞いた感想がこれだった。

歌い終え、座ったところに春香はそう言ってくれた。

横に座った彼女はキラキラした瞳で私を見つめて来たけれど、それを無視するかのように手元の楽譜に目を向けた。

「本当は鳥さんかと思ったんだけど、鳥さんはどちらかと言うと鳴くって感じだから」

それに気付いているのかいないのか、春香は私に話しかけてくる。

「千早ちゃんがこんなに歌が上手だったなんて知らなかったな。早く言ってくれれば良かったのに」

「……そう、ありがとう」

私は突き放すように一言だけ告げる。

春香は褒めてくれてはいるけれど、さっきの歌は私からすればとても良い出来ではなかった。

初めて私のために創られた歌。

ダンスやグラビアなんて微塵も興味が無いけれど、歌うためだけにそれらをこなしてきた。

初めて曲に乗せて歌っては見たものの、歌詞を頭の中で確認しているようではまだまだ。

一秒でも早く完全な歌になるよう、目の前の煩わしい同僚に構っている暇なんて無かった。


私は入社当時から春香が嫌いだった。

なぜかと問われれば、それは嫉妬に近い感情だったのかもしれない。

決して顔には出さなかったものの、いつも意識していたのを覚えている。

春香の周りにはいつも笑顔があった。

アイドル候補生の中でも、春香は一際明るく輝いていた。

頂上を目指す以上、全員がライバルの世界。

にもかかわらず、誰とでも仲良くなる才能を春香は存分に発揮していた。

反対に私は、独り隅で音楽を聴いているのが常。

そんな私にとってすれば、春香は太陽そのものだった。

眩しすぎるが故に、触れることも直視することすらできない太陽。

朝でも夜でも周囲を照らす太陽は、無くなって欲しいとすら願ったこともあった。

ここはあくまでも仕事場で、誰かと遊んだりするところではない。

律子も度々怒ってはいたけれど、早くも諦めたのか放置気味。

だからか、常に騒ぎの中心にいる春香にはできるだけ離れて、自分のことだけに集中しようと心に決めていた。


「もしかして私って邪魔?」

楽譜の横から覗き込むように、春香が顔を出してくる。

「別にそんなことはないわ。ただ、さっきの歌は納得できなかったから」

「ええっ!?」

驚いたような顔をする。

「あれでまだ納得できてないの?」

「ええ。歌詞に沿うような歌い方は全くできていなかったわ」

「……私もあれくらい歌えたらなぁ」

淡々と応える私に、春香が小さく溜息をつく。

珍しいと思い顔を上げると、いつもは真上を見ながら歩いている表情が少し暗くなっていた。


「……千早ちゃん、訊きたいことがあるんだけど、ちょっとだけ時間もらないかな?」

「何?」

「あのね、私の歌って……変なところある?」

当時の春香の歌はその……斬新だった。

曲調に捉われない歌い方と、出鱈目な音程。そして時折忘れる歌詞。

それでも聴くに堪えないとまでは言えなかったのは、ひとえに歌が好きという気持ちが強く篭っていたからだ。

誰かに聞いてもらいたい。一緒に歌いたいと言う気持ちが自然と伝わってくる純粋な歌声。

それは唯一私が春香を認めるところだった。

「春香は歌に気持ちが篭りすぎて、他の部分がなおざりになってしまっているわ」

「そ、そうだったんだ……歌い始めると集中しちゃって、全然分からなかったよ~」

私の助言程度で上手になってくれるのなら、春香にとっても私にとっても良いことに違いない。


「よーし。天海春香、頑張って歌いまーす!」

早速実行に移すのか、春香は勢いよく立ち上がり一歩踏み出そうとして、

「わっ、わっ!?」

どんがらがっしゃーん。

荷物置き場へ身を投げるようにして倒れこんだ。

出会ってからそれ程経っていないのに、春香のこんなシーンは度々見かける。

バランス感覚云々と言うより、おそらく天性的に転ぶ体質なのだろう。

「いたたたた……」

「……大丈夫?」

少し心配になって私が手を差し出すと、春香は目をぱちくりさせた。

そしてすぐさま手を取ると、笑顔で「えへへ、ありがとう」とはにかんだ。


その後、春香は私の指摘を受けたところを気にしながら歌ったものの、その酷さは相変わらずだった。

「だ、ダメだったかな?」

歌に関しては妥協したくないし、させたくない。率直に言うことにした。

「全然ダメだったわ。注意点を気にしすぎたせいで、春香の持ち味だったところも無くなってしまってたわ」

「うう……やっぱりすぐには上手くならないよね……」

大きく溜息をついて落ち込む様を見て、本当に歌が好きなんだと感じた。

歌しか生きる意義を持っていなかった私にとって、それは親近感だった。

だから私は、春香の力になりたいと思ったのかもしれない。


「春香……その、私の歌に合わせて歌えば、少しは音程も取れやすくなるんじゃないかしら?」

「い、いいの?私、千早ちゃんに比べたら凄く下手なのに?」

「私もあまり上手ではないけど、少しでも春香が上達するのなら付き合うわ」

「千早ちゃん大好き!」

「ちょ、ちょっと、急に抱きついてこないで」

「えへへ~」

歌が架け橋となって、私と春香の親交が始まった。


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――

真「あの頃の春香の歌は……ね」

千早「ふふっ。もし春香が普通に上手だったら、きっと私は春香とは仲良くなれなかったわ」

真「それはないと思うよ」

千早「そうかしら?」

真「なんだかんだで二人って似てるところあるからさ」

千原「私と春香が……?」

真「千早も時々おっちょこちょいだから。料理する時にレシピ無くしたとか、本番直前なのに台本忘れたとかしてたじゃないか」

千早「真、忘れなさい」

真「やだ」


千早「真は萩原さんとは最初から仲が良かったの?」

真「まあね。でも一番最初は男に間違われたよ……」

千早「さすがね」

真「あれは凹んだけど……まあボクたちもあれが無かったらそこまで仲良しになれなかったかもね」

千早「萩原さんは筋金入りの真好きだから、すぐに真の魅力にも気付いたと思うわ」

真「時折それが怖くなるんだけどね……」

千早「そういえば萩原さん、いつごろからこっちに引っ越して来れそう?」

真「もう少しで両親の許可が取れるって話してたよ。早かったら来月くらいかなぁ」

千早「子離れできない親を持つと大変ね」

真「まったくだよ……」

千早「ふふっ」


真「ところで、千早って最初はボクのことどう思ってたの?」

千早「えっ……?」

真「折角春香のこと訊けたんだし、ついでだからさ」

千早「怒らない……?」

真「怒らないから……ダメかな?」

千早「萩原さんのストッパー程度としか認識してなかったわ」

真「ひ、酷いなぁ……」

千早「ごめんなさい。あの頃は本当に自分しか見えてなかったから」

真「あれ、じゃあやよいはどうなの?」

千早「高槻さんは出会ったときから可愛いわ」

真「そ、そうなんだ」

千早「高槻さんよ?」

真「ああ、もうそれが理由なんだ……反論できないから仕方ないけど」

千早「高槻さんかわいい!」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――

その日はヘッドフォンの調子が悪かった。

左側から酷いノイズと途切れるような音楽が聞こえると、私は溜息をついてそれを外した。

接続端子の部分をいじると凄いノイズが出ることから、ここが原因だと思った。

それが分かったところで、修理をする技術なんて持ち合わせていない以上、別のものを買うという選択肢以外はない。

まだまともに生活するにはやっとな時期、こういった出費は痛いものだった。

かと言って安物を買って音質を下げるわけにもいかない。

またしばらくは、CDを買うのは控えないといけない。

もうすでに食費などはもう削れる部分はほとんど無く、こういった必需品に対する費用を削るしかなかった。


私が気落ちしていたとき、いつものように無邪気な会話が聞こえてきた。

「やよい、あーんして」

「あーん」

「えいっ」

「もぐもぐ……えへへ、春香さんのクッキー、すっごく美味しいです!」

「やよい~。春香さんじゃないでしょ?」

「はわっ!ごめんなさーい、春香お姉ちゃん」

「そうそう。でーもー、間違えちゃった悪い子は……こうだ!」

「あはははは、は、春香お姉ちゃんだめですー」

振り返ると、春香が高槻さんを後ろから抱え、腋の下をこそばしていた。


何をしているんだろうと冷やかに見ていると、高槻さんと目があった。

「あ、千早さーん!」

幼い子供のような声で私を呼んでくる。

高槻さんは不思議な子だ。

どんな人だって私とは距離を取りたがるのに、そんなことを考えたこともないような表情で笑いかけてくれる。

そんなに親しくもない私に、どうしてあんなに嬉しそうなんだろうか。

でもそれはきっと、高槻さんだから。

「千早ちゃん、こっちこっちー」

春香と二人一緒に手招きする姿を見て、良からぬ予感がしながらも傍へ寄った。


「やよい!」

「はーい!」

申し合わせたかのようにがっちりと脇を固められると、無理矢理ソファへと座らされた。

同時に左右から一点の曇りの無い笑顔と悪巧みをした笑顔に挟まれた。

両手を高槻さんにしっかりと握られ、完全に確保された状態となる。

「高槻さん?」

「えへへ~」

状況は今ひとつ分からないけれど、とにかくここからは動いてはいけないようだ。

春香に何を吹き込まれたのかは知らないけれど、高槻さんなりの無理強いに従うことにする。

ぽかぽかとした柔らかな手で握られていると、どこか安堵感すら覚えてしまう。

小さく微笑みながら、目にかかった髪をかきあげようとする。

「……」

高槻さんの手の中にある腕が微動だにしないことに気付く。

意外とがっしり掴まれていた。


「ふっふっふ。やよい、いい子いい子」

悪い笑顔を隠そうともせず、春香は一つの菓子包みを取り出してきた。

小さな包みの中に入った更に小さなクッキー。

そこから一枚を摘むと、それを私の口元に持ってくる。

「さて千早ちゃん、問題です。このクッキーはなんでしょう?」

「一口クッキーじゃないの?」

そう即答すると、春香はがっくりと肩を落とした。


「千早ちゃん、よく聞いてね。これは呪いのクッキーなんだよ?」

「呪いのクッキー?」

「もしこのクッキーを食べてしまうとね……なんとなんと、私の妹になっちゃうんだよ!」

また今日も暇つぶしに変なことを思いついたようだ。

「やよいはその第一号!」

「うっうー!」

高らかにお馬鹿宣言する春香に、私は大きく溜息をついた。


「千早さんも春香お姉ちゃんの妹になりませんか?」

「ね、千早ちゃんも私の妹になろ!」

無垢な笑顔と濁った笑顔の挟み撃ち。

拒否は認められそうになかった。

溜息ついでに口を開けると、春香はクッキーを放り込んできた。

春香はともかくとして、高槻さんは卑怯だ。

自分の言動がどれだけの力を持っているのか、まるで理解していない。

その力は765プロ内で逆らえる人物が誰一人としていないくらい。

亜美や真美は当然として、美希やあの水瀬さんですら逆らったところを見たことがない。

私はまだみんなとはほとんど話したことはないけれど、それだけに客観的な見ることができていた。

アイドル事務所の中のアイドルと言う、なんとも不思議なポジションにいるのが高槻さんだった。


高槻さんは私の一挙手一投足を見てくる。

そんなに期待した目をされても、私にはどうしていいか分からない。

一応中学生みたいだけど、その様子は小学生低学年と言っても通じそうだった。

「千早ちゃん、そろそろ効いて来るころだけど、どうかな?」

春香が自信満々に訊いて来る。

「どうって……別になんともないけ……」

そこまで言ったとき、視界の片隅に高槻さんの姿が入ってしまった。

否定することは簡単。

いつも通り冷静に、春香の変なお願いを跳ね除ければいいだけのこと。

ただ……このまま呪いのクッキーを否定してしまえば、高槻さんは悲しんでしまうかもしれない。

俯く笑顔と萎れるツーテールが脳裏を過ぎる。

それだけはできない。

高槻さんの笑顔だけは守らないと。

私の中で高槻さんの地位が確立した瞬間だった。


「クッキーを食べただけで、妹になるわけがないわ……その、春香……姉さん」

「やよい!」

「いえーい!」

パチーン。

二人は手を取り合って喜んでいる。

何だか騙されたような気分になる。

もしかしたら高槻さんは春香と同じく、案外悪戯好きなのかもしれない。

「高槻さんは春香……姉さんの妹でいいのかしら?」

「千早さん、ダメです!」

「だ、ダメ?」

「はい。私は春香お姉ちゃんの最初の妹で、千早さんは二番目なんですよ?」

つまり、私が求められている行動は……

「ご、ごめんなさい……や、や、やよい姉さん」

「うっうー!はい、やよいお姉ちゃんですよー!」

「高槻さん、可愛い……」

「千早ちゃん、鼻血鼻血!」


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――


千早「結局、全員を巻き込んで大変だったわ」

真「懐かしいなぁ……確かボクは七番目くらいだったかな」

千早「ええ。次女が高槻さんだったから、誰も逆らえなかったのも大きかったわ」

真「ホント、あの日はいろいろと大変だったよね……特に律子が」

千早「末っ子だったわね……」

真「順番とは言え、運が無かったというか何と言うか」

千早「普通、末っ子って大切に扱われるものなんじゃないかしら?」

真「真美と亜美の妹になった時点で察しないと」


千早「……ふふっ」

真「どうしたの?」

千早「あのあと、真美と亜美が来てクッキーを食べたんだけど」

真「うん」

千早「あの時初めて私のことを『千早お姉ちゃん』って呼んでくれたわ。そう呼ばれたのなんて、何年ぶりだったかしら」

真「二人とも随分と悩んでたみたいだからね。やっぱり春香はさすがだと思ったよ」

千早「何の話?」

真「あれ、知らなかったの?」

千早「えっ?」

真「あれってさ、千早ともっともっと仲良くしたいって言う二人のために、春香が律子を説得してからやったことなんだからさ」

千早「……」

真「遊びとはいえ、律子が美希に呼び捨てにされて怒らないわけないよ。春香が一生懸命説得したからこそ実現したことなんだ」

千早「そう……だったの」


真「春香の遊びは良くも悪くも変な結果が出ちゃうからね」

千早「悪い結果の方が多いと思うけど……」

真「そりゃあね。でもそこまでの大事になったこともあんまりないんじゃない?」

千早「……あるわ」

真「そう?」

千早「もしかすると真や他のみんなは知らないかもしれないわ」

真「ええっ!?」

千早「でもあの時は、春香は春香で大変だったから仕方ないといえばそうなんだけど」

真「一体全体何があったの?」

千早「くくくっ……」

真「ち、千早?」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――


「千早ちゃん、助けて」

朝、私の携帯に春香からそんな電話があった。

何のことかは分からなかったけど、駅の近くに来て欲しいということだった。

悪ふざけとは思えず、私は事務所を出ると足早に駅の方へ向かった。

出勤する人波に逆らいながら進むと、横から声がかかった。

「千早ちゃーん……」

「春香、どうしたの?」

路地裏から声をかけて来た春香は鞄を頭に乗せ、いつになくしょんぼりとしていた。


「千早ちゃん……私、もうどうしたらいいか分からないよ……」

「一体何があったの?」

春香はそっと鞄を頭から下ろす。

「これ、どうしよう……」

「……これ?」

「え、気がつかないの!?」

「気がつくって、なんの話?」

「リボン忘れちゃったよぉ~」

帰りたいと思った。


「……そんなに重要なの?」

「ええっ!?」

春香は信じられないと言った顔をした。

「千早ちゃん、私のリボンがないんだよ?私のトレードマークなんだよ?」

「え、あ、そ、そうね」

「どうしよう……こんな姿、プロデューサーさんに見せられないよぅ」

春香は落ち込んでいるものの、私にはどうにもできない。

代えのリボンなんて持ってるわけはないし、売っている場所すら知らない。

水瀬さんくらいなら持っているかもしれないけど……

「ううっ……もう生きていきないよぉ」

どうやってそこまで引っ張って行こうかしら。

こんな春香を一人放って置く訳には行かないし……。


「千早さん、そんなところで何してるの?」

声をかけられたので振り返ると、そこにはコンビニの袋を提げた美希がいた。

「あふぅ」

相変わらず眠そうに欠伸をしているけれど、片手にはしっかりとおにぎりが一つ握られている。

「美希。ええ、ちょっとね」

「あれ、春香もいるの?」

「あ、あわわ」

近づいてくる美希に慌てて春香は鞄で頭を抑えようとしたけど、少し手遅れだった。

リボンのついていない春香の頭を見て一言。

「……ぷっ」

「うわあああああああああ千早ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁん」

春香は泣きながら私に抱きついてきた。


「美希、この辺りでリボンを売ってるお店とか知ってる?」

腰の辺りにしがみついて放さない春香を宥めながら、再び欠伸をする美希に訊ねる。

「知ってるけど、この時間だとどこのお店も開いてないよ」

「そうよね……どうしようかしら」

「こんな時は、はい、おにぎり」

「おにぎり?」

「気分が落ち込んでるときは、おにぎり食べて元気をつけるのが一番なの!」

そう言って美希は押し付けるように春香へおにぎりを渡す。

「美希、いいの?」

「うん。めそめそしてる春香なんて春香らしくないの。ミキ的には笑ってる春香の方が好きかな」

春香は美希とおにぎりを少し見比べた後、おにぎりの包装を解いて一口噛り付いた。


「はい、千早さんもどうぞ」

「私は遠慮しておくわ。そんなにお腹も空いてないし」

「えー。折角だから、千早さんも一緒に食べてほしいな」

そう言うと、春香に続いて美希もおにぎりを食べ始める。

おにぎりを食べているときの美希は本当に幸せそうに笑う。

春香のことが心配なはずなのに、何故か胸を撫で下ろしてしまう。

そう考えても、目下の問題が解決したわけではない。

「でもほんと、どうしようかしら……」

私の心配を余所に、呑気に路地裏でおにぎりを食べる二人。

いっそのこと、プロデューサーにでも丸投げしようかしら。


そんな悪い考えをしていると、美希がポンっと手を叩いた。

「千早さん、お菓子なんてどうかな?」

「お菓子?」

「ほら、よくお菓子とかの包装に小さいけどリボンがついてるよね」

確かに。春香が持ってくるお菓子にもよくリボンが結んであったりしている。

「それを頑張ってくっつければ、その場凌ぎくらいにはなると思うの」

「……そうね。それくらいしか今は打てる手がなさそうね」


美希の考えに同調して春香に確認を取ろうと振り返ると、何か細かな作業をしている姿が目に映った。

なぜかおにぎりを包んでいたビニールの包装をぐいぐいと伸ばそうとしている。

一瞬、まさかと思った。

春香が持っているのは、おにぎりの包装の中でも一番最初に解く紐状の部分だ。

それを一生懸命伸ばすという作業に、強い悪寒が走った。

「はる……か……?」

「うん、これくらいでいいかな」

そう言うと、春香はその伸ばしたビニール紐を自分の髪に結わえ始めた。

どさっ。

美希がおにぎりの詰まった袋を地面に落とした。


「千早さん、春香が……春香が……」

美希が絶望しきった表情で私を見てくる。私の顔もきっとそんな感じだろう。

一方で春香はルンルン気分で美希が食べていたおにぎりの包装を使い、二本目の製作に取り掛かっていた。

「美希、しっかりして!」

「千早さん、ミキはもうダメなの……立ち直れそうにないの……」

流行を牽引する立場からの美希からすれば、この春香の所業は許しがたいものがあったんだろう。

年こそ違えど、二人のライバル関係は765プロでも一際。

だからこそ、美希が受けた衝撃はかなりのものだったに違いない。

美希はふらふらとおぼつかない足取りで、落としたおにぎりも拾わずに帰路へ着いた。

普段からレッスンをサボリがちな美希だけど、今日ばかりはフォローしておこう。

「えへへ。千早ちゃん、どうかな?」

くるっとその場で一回転。

ビニールに残っていた海苔がキラキラと周囲に舞う。

美希と言う尊い犠牲を払って得た満面の笑みで喜ぶ春香に、私は何も言えなかった。


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――

真「ぶふーっ」

千早「くくくくくく……」

真「はっ、はっ、はっ、春香っ……!」

千早「ダメよ真……しょ、食事中なんだから……くくっ」

真「くくくく……ち、千早っ、これ、ほ、ほ、ほんとの、こと?」

千早「ええ……」

真「ダメだよ春香……ボク、その場にいたら絶対耐えられないよ」

千早「私もあの時は唖然としたけれど、帰ってからは笑いが止まらなかったわ」


真「はぁ、はぁ……死ぬかと思った」

千早「結局、春香はあの姿のまま出社したわ」

真「それ、絶対律子に怒られたよね?」

千早「いえ、おとな……小鳥さんにこっ酷く叱られたわ」

真「小鳥さんに怒られたんだ……じゃあ律子やプロデューサーには見つからなかったんだ」

千早「結果的にはばれてしまったけど」

真「そっか……美希にとっては悪夢だったね」

千早「これが原因よ」

真「原因って何が?」

千早「この事件がきっかけで、美希は961プロに移籍をしたのよ」

真「うそっ!?」


千早「美希には、美希には辛すぎたのよ……」

真「ぷ、プロデューサーと喧嘩したからって話だったけど……?」

千早「春香を庇ってのことよ。プロデューサーはクビになることも覚悟してみたいだけど」

真「何と言うか……うん、ごめん。何とも言えないよ」

千早「あの一件で春香も多少は自粛するようになったし、美希が我那覇さんと四条さんを連れてきたから、結果的には良かったのかしら」

真「この話、響と貴音が聞いたらびっくりするだろうね……」

千早「765プロに来た縁がおにぎりの包装だなんて知ったら、私でも少し落ち込むわね……」


真「はぁ、やっぱり春香の明るさって底抜けだよね。どんな状況でも前向きって言うか」

千早「ふふ、そうね。亜美にもそう言ったところがあるけれど、それも全部春香が持っていってしまうわね」

真「亜美は亜美で毎日退屈させてくれないから楽しいんだけどね」

千早「亜美で思い出したんだけど、そういえば一昨日辺りだったかしら。今日はデートしてくるって大はしゃぎしてたわ」

真「えっ。もしかして亜美に彼氏ができちゃったの?」

千早「いえ、真美と行くって言ってたけど」

真「なーんだ。ちょっとびっくりしたよ」

千早「でも凄くデートを強調してたわ。どういう意図なのかしら?」

真「多分、わざとそうやって意識させようとしてるんだよ」

千早「どうして?」

真「もう真美も大人だからね……いろんな意味で」

千早「はぁ……大きく育ってしまったわね」

真「はぁ……そうだね」


千早「真は萩原さんとデートってしたことある?」

真「んーデートの定義によるけど、一緒に遊ぶ程度ならオフの大半はしてたかな」

千早「そんなにしていたの?」

真「まあね。ボクも雪歩のこと好きだし」

千早「萩原さんは幸せね。相思相愛の相手を見つけられて」

真「それ、雪歩の前で言わないでよ。本気にするから」

千早「もう手遅れだと思うけど」

真「前はプロデューサーともデートしたんだけどね。随分と昔のように感じるよ」

千早「……」

真「前から訊きたかったんだけどさ、千早ってプロデューサーのこと嫌い?」

千早「プロデューサーは私が愛する人を取って、私の愛する人たちを悲しまそうとしている。だから……」

真「……そっか」


千早「時折、そう遠くない未来のことを考えると寂しくなることがあるの」

真「千早の仕事はもう世界が舞台だからね。そう思うのも仕方ないよ」

千早「私たち全員のライブも、たったの年二回になってしまったわ」

真「仕方ないよ。次のアイドル候補生が入ってきて、一気に五十人くらいの規模になるって話なんだからさ」

千早「……」

真「……」

千早「……ふふっ」

真「どうしたの?」

千早「そうなっても、やっぱり765プロはプロデューサーと律子の二人体制で頑張るのかしら?」

真「あはは……ここまで来ると社長が怖くなってくるよね」


千早「大変だと思うけど、プロデューサーはちゃんと春香を捉まえてもらわないと」

真「千早にそう言われると、プロデューサーも逃げようがないなぁ」

千早「ええ。でも春香が好きになった相手だから、これは義務よ」

真「あんまりプレッシャーかけちゃダメだよ」

千早「その保証はできないわ。春香には世界で一番幸せになってほしいから」

真「ちなみになんだけど、ボクは世界で何番目に幸せになってほしいかな?」

千早「三番目ね」

真「即答……二番目は誰なの?」

千早「高槻さん」

真「ですよねー」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――

夜十時。

私は大きな溜息をついて布団の中に入る。

ここのところ毎日のように溜息をついてから眠りを迎えようとしている。

原因は誰でもないプロデューサー。

私は歌をメインにしたプロデュースを望んでいるのに、プロデューサーはダンスや演技力のレッスンを中心にスケジュールを組んだ。

もう少し増やして欲しいと希望を出したものの、僅かな修正があっただけでほとんど聞き入れてもらえなかった。

表向きは承諾したものの、納得はしていない。

私のボイスレッスン希望がダメならば、どうして他のみんなの希望はほぼ素通りなのか。

差別的な状況も手伝って、日々苛立ちを積もらせていた。


そんな中、二週間ぶりに訪れた休日。

明日はあのプロデューサーと顔を合わせる必要がない。

特に予定を組んでいるわけではないけれど、そう考えるだけで気が楽になる。

きっとプロデューサーも同じだろう。

反発ばかりする私を担当したって、何も面白いはずはないんだから。

素直に指示を聞いてくれる春香や高槻さんの方が何倍も可愛いに決まっている。

二人の笑顔が脳裏にちらつくと、また大きな溜息が出た。


もう少しで眠りにつくと言ったところで枕元の携帯電話が鳴った。

画面を見ると、そこには春香の番号が表示されてあった。

毎日とはいかないものの、かなりの頻度でかかってくるので自然と覚えてしまった。

カーテンを捲り、月明かりの下、通話のボタンを押す。

「千早ちゃん、お疲れ様。今電話大丈夫?」

「ええ、少しだけなら構わないわ」

春香の顔を思い浮かべながら声を聴く。

少しだけと念押しはしたけれど、今日もこれは守られないんだろう。

春香は感心するほどよく喋る。

事務所にいれば何かきっかけがあるまで話し続けるし、電話であれば一時間はざらだ。

内容は他愛ないことなのに、春香は毎日楽しそうに報告してくれる。

気付かないうちに、私は春香との時間を楽しむようになっていた。


「今日はね、初めてプロデューサーさんに良い歌だったって褒められたんだよ!」

電話越しからでも春香の嬉しそうな表情が伝わってくる。

「そう、それは良かったわね」

「えへへ~」

私の気持ちとは正反対だけど、春香もまたプロデューサーに特別な感情を持っていた。

春香はそれを隠しているようだったけど、私から見てもそれは一目瞭然だった。

たった二ヶ月なのに、春香はどうしてあんな人を好きになってしまったのだろうか。

単に自分の意見を聞いてもらえたからという理由だけでは無いと思うけれど……。


「千早ちゃんの方はどうだった?」

「私はいつも通り、ダンスレッスンだったわ」

「今日もダンスだったんだ。最近は千早ちゃんと一緒に歌う機会が無くて、ちょっぴり寂しいな」

「当分は無理そうね。私は来週末までボイストレーニングは無いから」

「えっ……そ、そんな先まで無いの?」

「ええ。プロデューサーが組んだスケジュールだから仕方が無いわ」

少し棘のある言い方をしてしまう。

春香には悪いけれど、私はまだあの人が自分のプロデューサーということ自体納得していないのだから。


「ごめんなさい。春香に文句を言っても仕方がなかったわね」

言ってしまったことを小さく後悔しながらも、自分の素直な気持ちだと再認識する。

私の言葉の意味を察したのか、春香は押し黙ってしまう。

きっとプロデューサーへのフォローの言葉を探しているんだろう。

もしかすると、私への注意かもしれない。

でも春香が出した答えは予想外なものだった。

「千早ちゃん、明日デートしよっ」

「え……?」

ちょびっとだけ投下


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――

千早「数え切れないくらいの夢を春香から貰ったわ。春香と一緒にトップアイドルになるって夢もその中の一つ」

真「ちゃんと夢、貰えたんだ」

千早「だけど、もうその夢は別のものになってるわ」

真「そうなの?」

千早「今はみんなと一緒にトップアイドルになること」

真「良かった。千早がボクと同じ夢で」

千早「もちろんこの夢は」

真「みんな同じ夢だね」

千早「ええ」


真「春香はその憧れの人とは会えたのかな」

千早「ちゃんと会えたそうよ」

真「そうなんだ。どんな人だったの?」

千早「ごめんなさい。訊ねてはみたんだけど、春香は教えてくれなかったわ」

真「そっか。それは残念だなぁ」

千早「ただ、私たちは会ったことがあるらしいけど……」

真「ボクたちが会ったことある人……誰だろう?」

千早「春香に夢をくれた人だから、きっととても素敵な人に違いないわ」

真「うん、間違いないよ」


千早「あれからというもの、春香はよく遊びに来てくれたわ」

真「二人が一緒に来て、一緒に帰ってたのを覚えてるよ。あの頃から千早、よく笑うようになってたし」

千早「そ、そう?」

真「うん。雪歩が千早のこと可愛いってよく言ってたよ。ボクには言ってくれなかったのに」

千早「仕方ないわ。真はやっぱり格好良いと思うもの」

真「千早に言われると新鮮かも」

千早「萩原さんが夢中になるのだって分からなくもないわ。初めて一緒のベッドで眠った時、私も恥ずかしかったから」

真「シングルベッドだったんだから仕方ないよ。ボクも千早が綺麗で凄く緊張したし」


千早「そう……やっぱりキングじゃなく、シングルにするべきだったかしら」

真「春香と雪歩が一緒に来ても良いようにってキングにしたんじゃないか」

千早「はぁ……一長一短とはこのことね」

真「しょうがないなぁ。今日は枕一緒にして寝るからさ」

千早「ま、真がそう言うのなら、別に一緒に寝てあげてもいいんだから」

真「それは伊織の仕事だよ」

千早「私も言ったあとに少し後悔したわ」


真「そう言えば」

千早「どうしたの?」

真「ここに引っ越す時、やたら準備が早かったよね」

千早「……」

真「契約した次の日に引越しの準備が終わったって言われてびっくりしたの覚えてる」

千早「……」

真「まさかとは思うけど、一人暮らし始めたときからずっとダンボールに入れっぱなしだったの?」

千早「……」

真「千早……」

千早「り、理由ならあるわ」

真「あんまり期待が持てないけど、何?」

千早「春香がこけるから」

真「そうやって春香のせいにしないの」

千早「ごめんなさい」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――


「うあうあ~、全然終わんないよー!」

夕方。

普段よりも早く仕事が終わって戻ってきた私を出迎えた第一声がこれだった。

「千早ちゃん、お疲れ様。今日は何か良いことがあったの?」

「はい。プロデューサーから聞いてるかもしれませんが……」

「ま~み~」
「あ~み~」

話を遮られ、事務所の奥に視線を移す。

「うふふ。二人とも頑張ってるところだから」

音無さんが横目で見た先には、真美と亜美が一生懸命デスクワークに励んでいるところだった。

テーブルには真新しい数学の教科書と問題集が置かれてある。

「二人とも、宿題を全然やってなかったらしいの。それを今やってるところなの」

「ピヨちゃん、違うよー!亜美たち、こんな宿題があるだなんて聞いてなかったんだよ!」

「真美たちが休んでる時にドカーンといっぱい出すなんて反則だよ!」

進まない宿題で溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、二人は大きな呻き声をあげた。


「でーも。やってないのは事実なんだから、ちゃんとしなきゃダメよ」

「あ~い」
「あ~い」

二人は再び課題へと向かうものの、すぐに両手が頭の上へに行く。

余程目の前の敵に立ち向かいたくないようだ。

「亜美~こっちの答え教えてー」

「真美がわかんないのに亜美にわかるわけないっしょ」

「だよねー」

双子だからという理由ではないけれど、四六時中一緒にいる二人は学力にもあまり差はないように思えた。


「そうだ。千早ちゃん、今少し時間ある?」

音無さんがポンっと手を叩く。

「はい。これから帰るだけですから」

「良かったら二人の勉強、少しだけでも見てくれる?あの様子だと、まだまだ時間かかりそうだから」

音無さんの提案を聞くや否や、双子の姉妹は私に眩いばかりの視線を送ってきた。

「ピヨちゃん、それナイスアイディーア!」

「千早お姉ちゃんがいれば百人前だよ!」

百人前?

よくは分からないけれど、二人の目は大きく輝いている。

どうせ早く帰ってもすることがないんだし、少しくらいは面倒を見ようと思った。


「千早お姉ちゃん、ここの問題なんだけど」

ソファに座る前からいきなり真美が問題集を突き出してくる。

「あー真美、それフライングっしょ」

「いいじゃん。どんどん質問しないと時間無くなっちゃうんだし」

「そだね。じゃあじゃあ、亜美にはここの答え教えて~」

「二人とも、落ち着いて。宿題なんだから、自分の力で解かないと」

『げげっ』という表情で身構える二人。

本当に勉強する気、あるのかしら。


そんな杞憂は思いのほか早く無くなった。

僅か数分後には、熱心に目の前の問題を解き続ける姿がある。

私が間に入って何の意味があったんだろうかと自問したけれど、二人が自力で勉強しているのならそれが一番だと思う。

「う~ん……千早お姉ちゃん、ここの問題なんだけど、こっちから解いてけばいいの?」

「えっと、それは」

私が言いかけたとき、亜美が横から真美の本を覗き込む。

「あ。それさっき亜美が同じよーな問題解いたよ」

真美の眉間に皺が寄る。

「むむ。神は言っている。ここは助けを求めるべきではないと」

「んっふっふ~。ここでお助けキャラ使っちゃう?ねえ真美、早く使っちゃいなよ~」

「ぐぬぬ。千早お姉ちゃん、もうちょっとだけ時間もらうね!」

妹に負けじと頑張る真美とそれを応援する亜美。

思わず頬が緩んでしまった。


二人が互いを刺激しあって勉強を続けるおかげで、私は少し手を持て余す。

目の前の数学の教科書を捲る。

四年ぶりに見るそれは、随分と挿絵が増えたように思える。

所々に二人の落書きが入っているから、余計にそう感じてしまうんだろうか。

懐かしい気持ちを背に丁寧にページを捲っていると、後ろから騒々しい物音が聞こえてきた。

「わっ、わっ!?」

どんがらがっしゃーん。

誰が帰ってきたとは問わない。

いつもいつも規則正しくこんな音を出して転ぶアイドルなんて、世界で一人だけなんだから。


「いたたた……」

「春香ちゃん、お帰りなさい」

音無さんも慣れきった感じで応対をする。

「えへへ……ただいま戻りました」

「お疲れ様。今日のお仕事どうだった?」

「はい。今日もばっちりでした!」

「良かった。今日はもうお仕事終わりだから、ゆっくりしていってね」

「あ、実は今日は家で勉強しようって思ってるんです。早いですけど帰っても大丈夫ですか?」

「うふふ、そうなんだ。春香ちゃんもやっぱり数学?」

「そ、そうですけど、他にも誰かいるんですか?」

「うん。あっちで真美ちゃんたちが数学のお勉強中。千早ちゃんが教師を買って出てくれてるのよ」

「千早ちゃんが……?」


少し間を置いた後に春香は私たちのいる奥の応接間へと姿を見せた。

片手には私の高校と同じ問題集があった。

「わっ。本当に勉強してる」

「えー。はるるん、それ酷くない?」

「真美たちだって、やればできるんだよ?」

春香にしては酷いことを言うものだと思った。

「だって、私が出るときにはほったらかして遊んでたし」

「千早お姉ちゃんと比べると」

「はるるんじゃねぇ」

「やる気なんて」

「出ないよねー」

申し合わせたかのように言葉を紡ぐ二人に感心する。


「はるるんも宿題するの?」

「ううん。私は家でするよ」

持っていた教科書を鞄にしまい、春香は首を横に振る。

「ここでしてもいいんだけど、中途半端な時間になりそうだから」

「そっか。はるるんの家ってここから二時間くらいかかるんだっけ?」

「うん。途中で帰るくらいだったら、先に帰ってした方が長く集中できると思って」

それは春香にとって一番の悩み事に違いなかった。

普通の人だったら一時間以内には辿り付けるはずなのに、春香はその倍。

何をするにも往復の二時間分は余計に時間を消費してしまう。

勉強であれレッスンであれ、毎日となれば大きな差が生まれる。

それを埋めようとすると、勉強なり睡眠なり、どこかで必要な時間を削る必要があった。


春香は「また明日ね」と言うと、そのまま足を玄関へと向ける。

「春香」

それを呼び止める。

「ん、なあに千早ちゃん?」

「その……良かったら、私の家でしたらどうかしら?」

「千早ちゃんのお家……いいの?」

「そうした方が、春香も沢山勉強できると思って」

自分でも不思議なくらいそんな台詞が出てしまった。

何か春香の役に立てないかと考えていただけだったのに。

春香は少し考えてくれたあと、首を縦に振った。


春香の承諾に胸を撫で下ろしたところ、左右から強い視線を感じた。

「千早お姉ちゃん、はるるんは誘って亜美たちは誘ってくれないんだね……」

「仕方ないよ亜美。千早お姉ちゃんははるるんラブだし……」

「真美、亜美たちは寂しく二人で勉強しよっか……」

「千早お姉ちゃんがいたから頑張れたのにな……」

二人は両目に涙をいっぱい溜めて私を見つめてくる。

よくプロデューサーがこうして泣き落としをかけられるは知っていたけれど、これほど辛いなんて思いもしなかった。

断る理由を考えるけど、焦る気持ちからか良い答えなんて浮かぶはずも無い。

「ごめんなさい。私の家、お布団が一つしかなくて」

でまかせではないけれど、咄嗟に出た理由としては中々だと思った。

「なーんだ。それなら諦めるしかないね」

「さすがに亜美たちも四人で一つのベッドは無理だもんね」

「だったら、事務所のお布団使えばいいんじゃないかしら?」

振り返ると、音無さんが少し鼻息を荒くしていた。

はるかさん始まったのでまた明日。

再開します。


「いやぁ、ピヨちゃん様様ですなぁ」

「これには恩返しをしないといけませんなぁ」

私の部屋に布団を運び込み、一息ついたところで二人は言った。

先ほど浮かべていた泣き顔は見る影も無く、解放感に満ちた表情をしている。

まだ宿題は半分も終わってないというのに。

「あれ、カーペット買ったんだ」

春香が以前来た時には無かったカーペットをぽんぽんと叩く。

「春香が来た時、やっぱりそのままだと……って思ったから」

「あ……私のために買ってくれたの?」

「ええ……迷惑、だったかしら?」

「ううん、全然逆。すっごく嬉しいな」

カーペットを敷いていたら、春香が転んでも大丈夫だから。


小さなテーブルに三人が各々の宿題を広げる。

亜美と真美は先ほどのペースをそのまま持続させているのか、すらすらと問題を解いていく。

反対に春香は早速教科書に噛り付いていた。

「何か分からない問題ある?」

春香の隣に座り、手元を覗き込む。

「真っ白ね……」

「ううっ……だってだってー」

泣き顔で私の両肩を持って小さく揺さぶってくる。

真美たちとは違う、本気の泣きつきだ。

ゆっくりと授業を進める私の学校ですら、すでに問題集の三分の一は終わっているのに。

その第一問目から詰まっている春香。

本当は年下二人の勉強を見るために始めたことだけど、私が教えるべきは同学年の春香だった。


春香は決して頭が悪いとか、そういうわけじゃない。

アイドルとして活動の場を広げていくうちに、学生として費やす時間が削れてしまっただけ。

「あのね千早ちゃん、ここなんだけど」

「そこは二つ前の問題の応用よ。こことここが似てるでしょ」

「ほんとだ。ちょっと似てるかも」

春香は笑顔を向けて問いにとりかかる。

できるできないは別にして、春香は物事を深く考えないせいか、すんなりと公式や定理を覚えてくれる。

分からないことはすぐに質問してくれるし、分かるところでも後々ことを考えてコメントを残したりもしている。

教え甲斐のある生徒を前に、私は時間を忘れて教師役に夢中になった。


「ねえねえ、千早お姉ちゃん……」

そんな私を、亜美が萎れたサイドテールで呼んで来た。

「亜美たち、お腹空きすぎてそろそろ限界っぽいかも」

「えっ?」

時計を見ればすでに七時過ぎ。

帰ってからはそれ程大きな運動もしていなかったからか、あまりお腹のことは気にならなかった。

特に食の細い私からすれば尚更。

でも食べ盛りの亜美たちとっては少しばかり食間の時間が開いてしまったようだ。

特に意識したわけではなかったけど、目線が部屋の片隅においてあるゼリー飲料のダンボールにいく。

「それだけは勘弁してくだせぇ~」

真美が頭をベッドに埋めながら呻いた。


時間も時間だから、私たちは近くのスーパーで出来合いのものを買うことにした。

春香は「良かったら私が作ろうか?」と提案してくれたけど、今日は春香の時間を作るために来て貰ったのだから、それだと本末転倒。

私が作ろうとも思ったものの、以前春香に手料理を振舞った際、お米を洗剤で研ぐという大失敗があった。

それらを考えると、素直に買ってきた方が良いという結論に至った。

適当な惣菜と真美と亜美が選んだお菓子を山ほど購入したその帰路。

「はるるん、ちゃんと勉強してるかな?」

真美が私を見上げながら訊いてきた。

「そうね。もししてなかったら、少しお仕置きが必要かもしれないわね」

私がそう冷静に返すと、亜美がぎょっとした目で私の方を向く。

「ち、千早お姉ちゃん、絶対に律っちゃんみたいになっちゃダメだかんね!」

「律子?」

「うん。なんだか千早お姉ちゃんに鬼軍曹の片鱗が見えたよ」

「ふふっ。じゃあ律子にはもう少し亜美に厳しくしてほしいって言っておくわね」

「うあうあ~、そ、それだけはご勘弁を~」

冗談交じりに言ったのだけど、亜美には効果覿面だった。


「律っちゃんのレッスン受けるくらいなら、真美は兄ちゃんのレッスンの二倍やる方がマシ」

亜美の苦しみを知っているのか、真美がそんな台詞を零す。

「真美、それ全然罰になってないじゃん!」

「へ、なんで?」

「兄ちゃんと一緒にレッスンできるだけで天国に決まってるっしょ」

「亜美隊員の理論で言うと、兄ちゃんのレッスンが半分になるのは律っちゃんのレッスンと同じ苦しみということ」

真美は腕を組んで考え、

「やばいね。真美、兄ちゃん不足で死んじゃう」

「亜美にも兄ちゃん分よこせー!」

亜美が真美に八重歯を剥いて襲い掛かった。


「ちょっと、二人とも!」

住宅街ではしゃぎ始める二人を注意する。

暗いながらもまだ人通りも少なくない時間帯。

ほとんど変装していない私たちをしっかりと見れば、真美と亜美の正体くらいはすぐに知られてしまう。

すると真美を追う足を止め、亜美がくるりと私の方を向く。

「ま、今日兄ちゃんいないから、お姉ちゃん分でいっか」

「えー。真美からはお姉ちゃん分出てないの?」

「じゃあ真美は自分のお姉ちゃん分堪能したら?」

「神は言っている」

「ここは千早お姉ちゃんを堪能すべきだと」

便利な台詞だと思う。

両腕にそれぞれぶら下がるように抱きついてきた二人の妹を、苦笑いしながら連れて帰った。


どんからがっしゃーん。

「いたたた……えっえっ、ぎにゃー!!」

どさどさどさー。

ドアノブに手をかけたところで部屋の中からおぞましい騒音が聞こえてきた。

何が起こっているかが容易に想像できる分、心中はげんなりしてしまう。

「お仕置きケッテーだね」
「お仕置きケッテーだね」

「みたいね」

中に入ると、壁際に積んであったダンボールの山が崩れ、中身を散乱させていた。

「千早ちゃ~ん……」

春香は雪崩に巻き込まれたのか、荷物の下敷きになっていた。

「……何してるの?」

「お手洗い借りようとしたらまたやっちゃった」

そして頭にダンボールを被りながら、照れくさそうに笑った。


無造作に広がったダンボールの中身を見ると、喉の奥から吐き気がした。

「千早お姉ちゃん、どったの?」

首を傾げる亜美を見て、無理矢理それを飲み込む。

「……とりあえず、整理することは考えないで、詰め込むだけ詰め込みましょうか」

「そだね」

「はるるん、ちょっと待っててね」

そう言って亜美と真美はダンボールにささっと落書きをする。

のヮの「うう、今日七回目だよ~」

萩原さんのような声を出しているものの、ダンボールの落書きを見ると反省は微塵も感じられなかった。


ただダンボールに詰め込むだけなので時間はそうかからなかった。

それでも空腹を我慢して作業をしてくれた二人には頭が上がらない。

春香を引きずり出してからは五分も経たずして片付けは終わった。

「春香、いつまでそれ被ってるつもりなの?」

のヮの「なんだか三人に顔を向けづらくて」

「大丈夫よ。春香が転ぶなんていつものことでしょ?」

のヮの「うう……そうなんだけど、そうなんだけど」

体育座りをしながらカーペットに『の』の字を書く。

今自分が被っているダンボールの目に当たる部分を書いているなんて、もはや間抜け以外の何でもなかった。


のヮの「あれ、これなんだろ?」

床をなぞっていた手が何かを掴んだ。

ダンボールを外し、春香はその落し物を私に見せてきた。

「千早ちゃん、こんなところに鍵が落ちてたよ」

「……」

無言で春香から受け取った鍵には見覚え……というより、普段から使っているものだった。

ここに引っ越してきた際、不動産会社の人から渡されたこの部屋の合鍵。

未成年の私のために作ってくれた、両親に渡すべき鍵。

だけど私は親に送ることはせず、そのまま放置していた。

どうせ送ったところで何かをしてくれるわけじゃない。

折角の好意ではあったけれど、私には無用のものだった。


でも……もしそれを使ってくれる人がいるなら、その人に渡すのが一番有意義だとも思う。

幸いにも、春香を説得する理由だってある。

ぼんやりと鍵を眺める瞳の焦点を春香に合わせる。

「良かったらこれ、受け取ってもらえないかしら」

「えっ?」

私は戸惑う春香の手に鍵を握らせる。

「えっと……もしかしてこれ、千早ちゃんの家の?」

「まだプロデューサーに聞いたばかりのことなんだけど、実は海外レコーディングの話が来てるの」

「ほ、ほんと!?」

「多分、何日も家に戻らない日が来ると思うわ。だから、春香にこれを持っていて欲しいの」

「私に?」

「私の部屋で良かったら自由に使って。それなら、春香ももっと自分の時間ができると思うから」


「……ありがとう、千早ちゃん」

春香は大事そうに胸にそれを当てる。

「でもこれは使わないよ」

「どうして?」

「だって私がここに来てる理由は、千早ちゃんがいてくれるから。千早ちゃんがいなかったら、ここに来ても寂しいだけだから」

春香は照れくさそうに舌を出す。

「それにずっと千早ちゃんに甘えっぱなしだと、私も中々一人立ちできないと思って」

「春香が甘えてるなんて、全然そんなこと思って……」

「だから、本当に辛くなったときだけ使わせてもらうね」

そっと春香の右手が私を撫でてくる。

さっきまでいじけていたのに、いつの間にか私が慰められているような感じがする。

無意識に口元が緩み、小さく微笑んだ時だった。

「ごはん~」

「ラブラブなのは良いから、真美たちのことも忘れないで~」

春香と顔を見合わせ、ちょっとした緊急事態にくすりと笑った。


お風呂を終え、私は肩を落としながら布団へと向かう。

さすがに四人で湯船に入るのは無理があった。

けれど、目の前の双子は満足に浸かれなかったにも関わらず、笑顔に満ち満ちている。

宿題が早めに片付いたせいだろうか。

「千早ちゃん、折角だからみんなで寝ない?」

そんな春香の提案を受け入れ、私はベッドの布団をまるごと下に降ろした。

カーペットを敷いているおかげで寝心地はそう悪くはなさそうだった。

事務所から持ってきた布団を横に並べ、これで寝る準備もできた。


すると二つの布団を占領するかのように亜美がそれに潜りこみ、真美がそれに続く。

二人はそのまま大はしゃぎ……と思っていたけど、頭まで布団を被って足をジタバタさせているだけだった。

「真美、これヤバイね」

「ちょ~ヤバイね。ピヨちゃん、まさかこんな兵器を持っていようとは」

「二人とも、そのお布団どうかしたの?」

春香が首をかしげながら二人に問う。

「はるるんもこの布団嗅げば分かるよ」


「におい?」

春香は二人に言われるがまま布団を嗅ぐ。

「こ、こ、これは!?」

春香が驚愕しながら二人を見る。

だけど二人はそのまま布団に顔を押し付けたままだ。

春香は三度、その布団を確かめるように嗅ぐ。

「はるるん、真美は止めないよ。この誘惑に勝てるのなんて誰もいないんだし」

その言葉で折れたのか、春香は笑顔でその布団へ突っ伏した。


「んんんんんんんんんんんんんんーーーー」

布団の中で春香が左右に転げまわっている。

「春香、大丈夫?」

真美と亜美以上に悶絶する春香を見ると、少し引いてしまう。

「んんんん、んんんんんんんんーんんんん」

何を言っているかはわからない。

でも三人が揃って布団を嗅ぐのだから、何か特別な理由があるに違いない。

くんくん。

「こ、こ、これは!?」


目を疑った。

くんくん。くんくん。

ほのかに鼻腔をくすぐるのは男性の汗のにおい。

普通の人からすれば特別視するようなものではないけれど、私たち765プロのアイドルとなれば猫にマタタビというレベルの代物だ。

「これ、もしかしてプロデューサーの?」

三人がこくこくと顔を縦に振る。

まずい。なんてものを音無さんは用意してくれたんだろう。

くんくん。くんくん。くんくん。

自分がとても変なことをしているのは分かっている。

でもやめられない。止まらない。

必死で理性で止めようとしても、一度手にしてしまった宝物をそう簡単に手放すことはできなかった。


はっ!?

意識を取り戻し顔を上げると、三人が目だけを私のほうへと向けていた。

「ああ、やっぱり千早お姉ちゃんも堕ちちゃったか」

「ちかたないね。兄ちゃんのにおいの布団なんて我慢できるわけないし」

視線に耐え切れず横を向くも、布団から鼻が離れない。

「千早ちゃん、我慢しなくていいんだよ」

布団を掴む私の手に春香の手が重なる。

「私の隣、おいで」

「うん……」

洗脳させたの如く、私はふらふらと布団へと潜り込む。

周囲からはプロデューサーの、そして目の前からは春香のにおいが包み込んでくる。

幸せに囲まれそう長く持つわけもなく、私は気を失った。


「はるるん、千早お姉ちゃん」

小刻みに揺さぶられて目を覚ます。

「ん……どうしたの?」

寝ぼけ眼で二人を見ると、もう帰り支度を整え終えていた。

「亜美たち、これから学校だからそのまま行くね」

「えっ……今日学校だったの?」

「あり、行ってなかったっけ?」

「ええ……宿題があるって話は聞いてたけど」


まだプロデューサーの布団で眠る春香を尻目に二人を見送る。

「はい、これ」

私は朝食代わりのゼリー飲料を二人に手渡す。

「千早お姉ちゃん、これを夕食にするのはやめようね」

真美がジト目で訴えかけてくる。

「私もどちらかと言えばブロック食の方が好きだから」

「そういう問題じゃないよ~」

「ふふっ。心配してくれてありがとう」


がちゃりと玄関を開くと明るい青い空が見えた。

「二人とも、ちゃんと学校でも勉強しっかりとね」

「うん、まっかせといてー!」

「折角千早お姉ちゃんが教えてくれたんだから、今日くらいは頑張らないとダメっしょ」

「毎日頑張りなさい」

少しだけ律子を意識しながら叱ってみる。

でもやっぱり私には向いていないみたいだ。

その証拠に、真美と亜美は悪びれた様子もなく笑っていた。


「千早お姉ちゃん、亜美たちの我侭きいてくれてありがとね」

「千早お姉ちゃんが来ても良いって言ってくれたとき、すんごく嬉しかったよ」

一瞬、声が詰まった。

「……私も、二人が来てくれて楽しかったわ」

「そう?じゃあ毎日来ちゃおうっか」

「んっふっふ~。それ良い考えだね~」

二人が悪戯っ子な顔を見合わせる。

「毎日は難しいけど、相談してくれればいつでも力になるから」

「やたー!」

「千早お姉ちゃん、今の台詞、絶対だかんね!」

「真美たちとの約束は絶対だよ!」

「ええ、約束」


二人の後姿が見えなくなり、扉を閉める。

「嬉しかった、か……」

手を胸に当て、心臓の鼓動を確かめる。

一瞬だけ見えた二人の大人びた表情が瞼の裏に焼きついている。

「良かったね、千早ちゃん」

「春香……起きてたの?」

「私がいると、二人が素直にお礼が言えないかもって思っちゃった。でもそんな心配、全然いらなかったかな」

「二人とも、一年前は本当に子供だったのに、もうあんなにも大きくなってたのね」

「そろそろ私も身長で抜かれちゃうんだろうなぁ」

「やっぱり春香も、二人に抜かれるのは嫌なの?」

「ううん。私は真美も亜美も大好き。今の二人が大好きだから、未来の二人も大好き。嫌いになることなんて無いと思う」

「そう……ね」

「だから追い抜かれるのは……どちらかと言えば楽しみなのかな」

「春香、その台詞は母親みたいよ」

「そ、そう?」


「二人とも、いつまで私のこと、ああやって呼んでくれるのかしら」

「寂しいの?」

「……かもしれないわ」

「大丈夫。二人にとって千早ちゃんは、ずっと千早お姉ちゃんだよ。そんなに難しく考えなくていいんじゃないかな」

「どうしてそう思うの?」

「大切だって思う気持ちはずっと変わらないから。二人にとって千早ちゃんは、いつまでも大切なお姉ちゃんだから」

「春香は、お姉ちゃんじゃなくていいの?」

「私はずっと二人のお姉ちゃんのつもりだよ。もちろん、千早ちゃんもね」

「ふふっ……春香は相変わらずね」

「うん。だから妹達に負けないように、今日もお仕事頑張ろうね!」


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――


千早「あの時、どうして自分から誘ったのかは分からなかった。春香が言うような、自然に身体が動くなんてこと、全く無かったから」

真「好きだったってことなんじゃないかな。あの頃から春香が」

千早「毎日一緒にいてくれたから、実際に意識したことなんて……」

真「青い鳥はいつも傍にいるって言うくらいだし、日常の幸せって気が付きにくいものだよ」

千早「それに気がつけたのは、もっともっと後の事」

真「いつぐらい?」

千早「……私が自分自身と本気で向き合った時のことよ」

真「ごめん、それっ……」

千早「真」

真「……」

千早「聴いて……もらえる?」

真「……うん」


千早「私は……怖かった。自分の過去と向き合うことを本気で恐れていた」

千早「ダンボールの中は私にとっては過去のもので、それを開くなんてこと、できなかった」

千早「あの時、急いで放りこんだのだって、ただ過去と向き合いたくなかっただけ」

千早「もし二人が何かを見つけてしまったら、どうなってたかなんて想像できない」

千早「一度でも思い出してしまうと、もう止めようがないって思ってたから」

千早「ずっと逃げて逃げて、永遠に忘れてしまいたいと願った。このまま蓋を閉じてさえいればいいだけなんだからって」

千早「春香が開けてしまったとき、やっぱり私は逃げることなんてできないって感じたわ」

真「千早……」

千早「私はみんなに知られたくなかった。私と、優のことを」

千早「あの事件があって私は……もっと遠くへ逃げようとした。誰も追いかけてこられないくらい遠い場所へ」

真「千早、まさか……」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――


突きつけられたのは無期限休養という名の解雇通告だった。

だけど私にとってはもうどうでも良いことだった。

優のことを知ったとき、周囲の人が私から距離を取ったのは分かった。

家族を見殺しにしたアイドルなんて、存在してはいけないことくらい自分にも分かっていたから。

もう私は歌えない。

マイクを向けられるたびに、あの事故の瞬間が鮮明に思い返された。

フラッシュバックされたそれは、私から声を奪っていった。

必死で喉を引っ掻いて声を出そうとしても、私の意志に反して声は出なかった。

血が染み出すまでそれを繰り返しても、何も変わらなかった。

次第に音楽を耳にするだけで吐き気がするようになった。

プロデューサーは『しばらく休め』とだけ言った。

それ以外の言葉は耳に入らなかった。

立ち止まることが許されないアイドルにとって、それは見限られたも同然だったから。


部屋の隅でただただ座り込むだけの日々が始まった。

最初の頃は活発だった携帯電話も、次の日になると静かになった。

私のことなんて、きっとその程度としか思われていなかったのだろう。

それに、今の私が誰かと話したところで、何かの役に立てるなんて思っていない。

それどころか迷惑でしかない。

私が出演予定だった番組は全てキャンセル。

765ブロ自体にも大きな影響を与えてしまったんだろう。

私の仲間だった中からも、少なからず不満は出ているはずだ。

もし春香がその内に入っていたら……。

ありえない。そんなこと、絶対ない。

だけど暗闇の中でいくら考えても、悪い結果しか浮かばなかった。


また元の自分に戻ってしまった。

あの家が嫌で嫌で飛び出したのに、行き着くところは同じだった。

あの事故があったときと同じように、ただ自分の殻に閉じこもるだけ。

歌以外の何もかもを捨てることで逃げていたのに、その歌すら失ってしまった。

優のためにと生きてはみたけれど、必要の無いことだった。

結局、私のしてきたことに意味なんてあったんだろうか。


『お姉ちゃん、お姉ちゃん……』

声が止まない。

無音の部屋なのに、耳の奥からはそんな声が何重にも何重にも重なって私を追い詰めてくる。

もう……やめて。

私はあなたを見殺しにした。

最期にすがった手ですら私は握れなかった。

お願いだから、もう私のことを姉だなんて呼ばないで。

お願いだから、お願いだから、もうあなたのこと、忘れ……

「千早ちゃん、いる……よね?」

俯いていた顔が自然に上がった。


春香……。

「ごめんね。ここに来るの、こんなにも遅くなっちゃった」

扉越しに聞こえる声は紛れもない春香の声。

「私、ダメだよね。千早ちゃんが一番苦しいときに傍に居てあげられないなんて、友達失格だね」

なのに、春香らしさが感じられない声だった。

「あのね、プロデューサーさんから聞いたんだ。千早ちゃんがアイドル辞めるって」

言った覚えは無い。きっと無意識にそう言ってしまったんだろう。

「その……アイドル辞めるって話、もう少し考えることってできないかな?」

春香は今の私に何を求めたいと言うんだろうか。

ろくに歌えもしない、夢を与えるどころか奪ってしまうような人間に、アイドルなんて勤まるはずが無いのに。


「私、また千早ちゃんと一緒に歌いたい。またあの綺麗な歌声を聴きたいな」

春香は話し続ける。

「私も少しずつは上手になってきたけど、やっぱり千早ちゃんには全然届かないし。だから、もっと一緒に頑張りたい」

返事のしない扉に向かって、ただ必死に話し続ける。

「ううん、歌だけじゃない。モデルや演劇だって、千早ちゃんとすれば何だって楽しく思えるし」

私は春香の声に応えない。応えられない。

「それに次のライブだって、千早ちゃんとのデュエット曲のお披露目ができるって思うと凄く楽しみ!」

お願いだから、もう私にそんな期待をしないで。

春香の願いを叶えることなんて、私にはできないんだから……。

私のそんな想いにも関わらず、春香は喋り続ける。

「………………何言ってるだろう、私」

突然、春香の口からそんな言葉が零れた。


「違う……よね。さっきから私が言ってるのって、千早ちゃんのためじゃなくて、全部自分のためだよね」

……春香?

「いつも我侭言って千早ちゃんを困らせてるのに、どうしてこんな時まで我侭言っちゃうんだろ……」

そんなことない。

誰よりも我侭で文句ばかりを言っていたのは誰でも無い私。

だから春香が自分を責める必要なんてどこにだってない。

「私、やっぱり友達失格なのかもしれないね。でも……でも……」

そして聞き取れないくらい小さな声で言った。

「………………千早ちゃんとこんなお別れするなんて、絶対やだよ」

今まで感じたことのない、酷い悪寒がした。


「……やだ」

消え入りそうな声。

「絶対にやだよ……絶対にやだ……絶対にやだ!千早ちゃんがいないなんて、絶対にやだ!」

駄々をこねるような声。

「会いたいよ……千早ちゃんの声、聞きたいよ」

寂しくて寂しくて仕方の無い声。

「我侭だっていい。自分勝手でも何だっていい。お願いだよ、千早ちゃんの声が聞きたいよ……」

細く震える弱い声。

「お願いだから……お願いだから……千早ちゃんの声、聞かせて……」

これが……春香の声?


こんな悲しい声が、本当に春香の声?

私が春香にこんな声を出させているの?

こんな生気も覇気もない、不快としか思えない声を出させているのは、紛れもない私自身だった。

「もうやめて、春香……」

耐えられなかった。

重ね続ける罪悪感から逃げるように、枯れきった声を震わせた。

「千早……ちゃん?」

「春香のそんな声、もう聞きたくない……」


「千早ちゃん……」

「お願い、帰って」

「……やだ」

「……ごめんなさい。でも私が春香の傍にいて、あなたまで辛い目にあわせるなんてこと、したくない」

「そんなことないよ!千早ちゃんがいない方が私……」

「今は独りで静かにしていたいの。あなたが傍に居ると、苦しくて仕方がない」

「でも、でも、少し話してくれるだけでもきっと私、千早ちゃんの気持ち」

「春香に私の気持ちなんて知ってほしくない!」

「ちは……」

「……ごめんなさい。全部私のせいだって分かってる。だからあなたのそんな声、聞きたくない」

「私……」

「お願いだから、もう春香の声、聞かせないで。あなたといると……何もかもが辛い」

春香は何も言わなかった。

僅かな間をおいたあとに聞こえたのは足音だけだった。


喉が焼けるように熱い。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

なのに身体の震えが止まらない。

どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。

春香がどんな気持ちで私のところへ来てくれたのか、分からないはずもないのに。

でも、きっとこれで良かった。

春香はずっと笑顔でないといけない。

私にいろんなものをくれたように、夢を配らないといけない。

けど、今の私の気持ちを春香と共有すれば、きっと春香は今以上に悲しんでしまう。

それだけは絶対に嫌だった。

だからこれが一番の正しい選択のはずだ。

そう思えば不思議と肩の荷が下りた様な気がした。

私なりの結論が、もう出てしまったからかもしれない。

私にはもう春香を悲しませることしかできない。

だから、もう私はあなたとは会えない。

春香は生きるための大切なものを沢山くれたのに、さいごまで何も返せなかった。

ごめんなさい。ごめんなさい。


ふらついた頭で山と積まれたダンボールの一つを手にする。

これだけ数があると探すのも一苦労だけど、きっとどこかには入っていると思う。

散らかしたところで、後のことなんて私には関係のないことなんだから。

夢も歌も、たった一人の友達すら捨ててしまった私が残せるものなんて無いんだから。

けれど、その心配すら不要だった。

天啓なんてものは信じやしないけど、一つ目でそれが見つかると運命だって思えてしまう。

私はダンボールから一つのビニール紐を取り出し、長めに切断した。


今の私ならばドアノブにかけるだけで十分だろう。

もう八年も待たせてしまった。

あなたが生きた全ての時間よりも長い時間。

ひとりで歩いてみたけれど、ここが私の終着点。

後悔しかできなかった長い長い時間だったけれど、もう終しまい。

あなたのところとは限らないけど、少しは近くにいける思うから。

輪を作り、大切にしてきた喉にそれを当てたときだった。

『千早ちゃん!』

迷いなく動いていた腕が、ぴたりと止まった。


ゆっくりと周囲を見渡しても、そこには誰もいない。

いるはずがない。私から彼女を突き放したんだから。

でもどうしてか、私の思考を遮る春香の笑顔がはっきりと見えた。

「春香……」

あなたはいつもそう。

いつもいつも、私が何かしようとする度に邪魔ばかりしてくれる。

歌うときはいつも隣に来ては音程を外して私の調子を狂わそうとした。

新しい曲ができて集中したいときは、必ずと言って良いほどヘッドフォンを外してきたりもした。

歌詞を読めば、すぐ好奇心で視界に割り込んでくる。

春香といる時間なんて、無駄とさえ思ったこともあった。


そんな春香を自分から見つめるようになったのはいつからだろうか。

プライベートでも仕事でも、いつもいつもいろんな笑顔を見せてくれた。

一生懸命レッスンを受けるときも、仕事で失敗したときも、いつもいつも笑顔だった。

暇ができれば悪い笑顔を作り、ファンに声をかけられれば満面の笑みで握手をする。

その姿を見るだけで、私はいつも幸せになれた。

あなたの笑顔は、いつも私の不安を吹き飛ばしてくれたから。

きっと今日だって、あんな声を出しながらも強がりな笑顔をしてくれたんだろう。


…………

…………

…………

「あなたは、本当に本当に……」

こんなときくらい、忘れてくれたっていいのに。

握り締めていたはずの紐がするりと抜け落ちる。

あなたのことを思い出すだけで、胸が苦しくて苦しくて仕方が無い。

でも、でも……。

「忘れるなんて、できない……」

私がここで生きてゆく理由。

春香と一緒に笑顔の思い出を作ることが、私の最初の夢なんだから。


「春香……春香……」

涸れた喉で嗚咽するように名前を呼んだ。

もう一度だけ、もう一度だけでいいから春香の笑顔を見たい。

自分勝手な願いだって分かってる。

叶わない夢だって知っている。

それでも私は、春香の笑顔が見たい。

もう私は、あなた無しでは生きることも死ぬこともできない。


その時だった。

「ごめんね。絶対使わないって言ってたのに」

無意識に顔が上がった。

私と春香を遮っていた扉がゆっくりと開いていた。

「はるか……」

春香は笑っていた。私が見て来た中で、一番悲しく。

「でも、苦しくて我慢できなかったから使うって言ったから、約束、破ってないよね」

小さな鍵が、春香の手に握られていた。


春香は私を胸の奥で抱きしめる。

「はる……か」

「会いたかった。ずっとずっと、千早ちゃんに会いたかった」

「どうして……?春香にあんな酷いこと言ったのに」

「放っとけないよ!」

まるで私を叱るように春香は言う。

「私の大好きな千早ちゃんが泣いてるのに、放ってなんておけるわけないよ!」

本気で締め付けてくる春香の腕が痛く暖かい。

「私は千早ちゃんといっしょに居たい!絶対に、絶対に、もう絶対離さない!」

春香は泣いていた。


「帰ってって……どうしてあなたはいつもいつもそんな勝手なことばかり……!」

「私だって分からないよ……。でもあれ以上進んだら、私はもう二度と千早ちゃんの顔が見れないって!」

「そんなことで、そんなことで……?」

「わかってる。私たちが後戻りできないってことくらい、何度も何度もプロデューサーさんに言われたから!」

「わかってるならどうして!」

「今立ち止まらなかったら、今振り返らなかったら、私はもう千早ちゃんの手を掴めない。どんなに頑張っても、掴めるのは今日しかないって!」

春香の叫声が深く大きく痛く突き刺さる。

「我侭だって良い。だけど後悔するくらいなら、嫌われてだって千早ちゃんを離したくない!」


「春香にとって私はただの友達でしょ……どうしてそれだけの人に、春香はそんなに泣くことができるの……?」

「違う、ただの友達なんかじゃない!」

「ただの仕事仲間でしかないじゃない!」

「違う、それだけじゃない!」

「ただの競争相手じゃない!」

「違う、違うよ!」

「じゃあ一体!」

「私は、私は…………私は、千早ちゃんのお姉さんだよ!」

紐に手を掛けた時にドア開けたらやばかったな

再開します


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――

千早「ずっと春香は私を護ってきてくれた。それは今も変わらず、ずっと」

真「……」

千早「だから私は春香を心の底で愛したいと想った。それが今の私にできる、姉へのお返しだから」

真「……」

千早「ごめんなさい、やっぱり暗い話になってしまったわね」

真「ううん……少し言葉が見つからなくて。でも千早が春香を好きな理由、はっきりと伝わったよ」

千早「またずっと待たせてしまうことになるかもしれないけど、きっと優だって分かってくれると思う」

真「この写真みたいに、いつも千早を笑顔で応援してくれるよ、絶対」

千早「……私はこの優の笑顔すら忘れようとしてたんだから、本当に何を考えていたのかしら」

真「大丈夫だって。千早はもう強いんだから」

千早「少しは強くなれたけど、私はまだ弱いまま。みんなにも迷惑をかけることだって多い。またどこかで泣いてしまうかもしれないわ」

真「泣いてもいいんじゃないかな。いつだって千早の傍には、ボクたち姉妹がいるんだからさ」

千早「……ありがとう」


真「でもね千早。春香も千早に随分と助けられてたと思うよ」

千早「そうかしら?」

真「春香は落ち込む時も底なしだからね。そんな時、いつも千早は一番近くにいてあげてたじゃないか」

千早「ううん、私は春香から貰ってばかりだったから。だから少しでも返したくて」

真「千早は貰ってばかりだなんて、さっきの話を聴いてたらとてもそうは思えないよ」

千早「どうして?」

真「春香、歌のことで悩んでたって言ったよね?」

千早「ええ」

真「最初に手を伸ばしたのってさ……千早の方からじゃないか」

千早「えっ……」


真「きっと春香は、凄く嬉しかったんだと思うよ。自分の歌と向き合ってくれる人がやっと見つかったんだから」

千早「春香が……」

真「あの頃は貴音もプロデューサーもはいなかったし、伊織もあずささんもヴィジュアル方面で活動してたからね。相談相手がいなくて辛かったと思う」

真「ボクたちもそれに気が付いてあげられなかったのは凄く悪かったよ」

真「でもそれが今の千早と春香を作ってるのなら、多分それは運命だったんだなって思えるよ」

真「人魚姫の物語も、最初は人魚が助けるところから始まるからね。違ってるのは王子様が人魚のことを覚えてるってところ」

真「これからもいろんな辛いことや悲しいことが沢山あると思う。失敗だって数え切れないくらいすると思う」

真「でも最後はきっと、千早の笑顔があるはずだよ」

千早「……今日」

真「うん」

千早「……真に話せて良かった。春香とも話さないといけないこと、沢山増えたみたいだから」

真「よかった。ボクも千早の思い出を聴けて嬉しかったよ」

千早「今度は私にも真の思い出を聴かせてもらえないかしら?」

真「うん。ボクも千早に心を込めて贈らせてもらうよ」


――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――

恥ずかしいことだから真には言わなかったけれど、この話には短いながらも続きがある。

朝食の最中、私はもう一つの不安を春香に打ち明けた。

「私、みんなにどんな顔をして会えばいいのかしら」

「え。どうしてそう思うの?」

「だって、もうみんな私のことを忘れてしまってるんじゃないかと思って」

あれだけの迷惑をかけたのだから、以前と同じ立場に戻れるとは考えてはいない。

だけど、せめて一言だけでも謝りたい。

許してほしいとまでは言わない。でも、こんな別れ方なんてしたくない。

だからこそ、皆からの連絡がある日を境にぴたりと止んでしまったことは大きな不安の種だった。


「携帯貸してくれる?」

「ええ、いいけど……」

そう言って食パンを頬張る春香に携帯を手渡すと、一瞬見ただけで苦笑いをして返してくれた。

「うん、やっぱり。ちゃんと充電しようね」

「えっ?」

戻ってきた携帯を操作するも、それはうんともすんとも言わない。

春香に言われたとおり充電器に接続して電源を入れる。

「千早ちゃん」

呼ばれた瞬間、私の手の中で携帯が大きく震え始めた。

「みんなちゃんと毎日メールして、毎日電話してたんだよ?」

見たこともない数の着信数がそこに表示され、受信メールの数は止まることなく増え続けた。


「春香、これ……!」

「行って、みんなに千早ちゃんの元気な姿を見せよ!」

「私、本当に嫌われたのかとばかり……」

一通一通を丁寧に目を通す。

文章一つ一つにも、私に対する想いが読み取れた。

昨日はあれだけ流した涙が、またどこからか零れ落ちてくる。

画面を拭いながらもメールを読んでいると、着信を示すランプが点滅した。

「春香、どうしよう?」

「誰から?」

「あ、亜美からなんだけど、何を話せばいいのかしら?」

助けを求めても、春香はただにっこりと頷くだけだった。


「は、はい、もしもし」

少し鼻声で電話に出る。だが亜美からの返事は何度か息を置いてからことだった。

「千早……お姉ちゃん?」

「え、ええ。お、おはよう亜美」

亜美が相手なのに、たとたどしい返事をしてしまう。

こんな私の声を聞いて、亜美はどう反応するんだろうか。

「ま、真美ーー!千早お姉ちゃんが、千早お姉ちゃんが電話でたーーー!」

鼓膜が破れそうになるほどの高音域の大絶叫だった。


「ほ、ホント!?」

まるで怪獣のような足音が電話の先から聞こえ、

「千早お姉ちゃん、本当に千早お姉ちゃんなの?」

今度は真美の声がそれに続く。

「私に偽者なんていないと思うけど……」

興奮はしているみたいだけど、幼い二人の声を聴くとなんだかほっとしてしまった。

相変わらずの亜美と真美。私の大好きな二人は今日も元気そうだった。


だけど、真美と亜美にとってはそうではなかったみたい。

「千早お姉ぢゃーん、よがっだよー」
「千早お姉ぢゃーん、よがっだよー」

声を詰まらせながら、必死に私の名前を呼ぶ二人に胸が痛くなった。

私なんかのために泣いてくれる人がここにもいた。

いえ、それは亜美と真美だけじゃなかった。

このあと事務所に向かった私を待っていたのは、みんなの暖かい笑顔だった。

私の携帯が繋がらなくなってから、みんな心配のあまり仕事が疎かになってしまったらしい。

姉と妹たちは、本気で私のことを想い続けてくれた。

私はこの765プロの一員だと、笑顔をくれる愛すべき人たちがいることを再認識できた。

なのに私は、皆に忘れられたと勘違いして落ち込んでいただなんて、とんだ不義理な話だと思う。

ふふっ。

このことを話してしまうと、きっとみんなは微妙な苦笑いを浮かべてくれるに違いない。

だからこれは、誰にも言えない私と春香だけの秘密の思い出。


――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――

真「あれ、急に笑ってどうしたの?」

千早「なんでもないわ。お茶、これくらいでいいかしら」

真「ありがとう。ふぅ……やっぱり食後の緑茶は落ち着くね」

千早「まだ萩原さんには及ばないけれど、いつかは必ず追いついてみせるわ」

真「うーん、雪歩もお茶については本気だからね。早々には勝てないと思うよ」

千早「諦めたらそこで試合終了よ」

真「なんの試合してるんだか」

千早「真争奪戦と言ったところね」

真「もしかしてボクってお姫様的扱い?」

千早「現実を見なさい」

真「えー」


千早「春香は私のお弁当食べてくれたかしら」

真「春香の方も食事が終わった頃じゃないかな」

千早「電話して訊いてみましょう」

真「え、わざわざ電話するの?」

千早「もちろんよ。お弁当の感想も今後のために訊いておきたいし」

真「そこまでしなくても……って、その電話鳴ってない?」

千早「……春香からよ」

真「何この以心伝心」


千早「もしもし、春香?」

春香「うん。千早ちゃん、今電話大丈夫?」

千早「愛する春香のためならいつでもどこでも大丈夫よ」

春香「えへへ、ありがとう」

千早「それで何かあったの?」

春香「うん。千早ちゃんのお弁当、すっごく美味しかったよ」

千早「慌てて作ったから少し不安だったんだけど……何かダメなところとかはあった?」

春香「う~ん……私、千早ちゃんのご飯が一番大好きだから、全然そんなところなんて無いよ」

千早「ふふっ、そう言ってもらえると作った甲斐があったわ」


春香「あ、でもちょっと残念なところもあるかも」

千早「ど、どこがまずかったかしら?」

春香「明日は千早ちゃんのご飯が食べれないんだなーって思うと、ちょっと寂しいかな」

千早「……そう。ところで春香、今どこに行ってるの?」

春香「えっと、さっき瀬戸大橋渡ってきたから香川県だよ」

千早「分かったわ。待ってて春香」

春香「待っててって?あ、プロデューサーさんが呼んでるから切るね」

千早「ええ。おやすみなさい、春香」

春香「おやすみなさい、千早ちゃん」


真「ね、ねえ……千早?」

千早「ここから香川までは……くっ、飛行機は間に合わないわ」

真「ちょ、ちょっと……」

千早「新幹線ならギリギリ間に合いそうね」

真「千早ってば!」

千早「真、何をしてるの?早く準備して」

真「えっ」

千早「今から東京駅に向かえば春香の明日の朝食に間に合うわ」

真「い、今から行く気なの!?」

千早「今から行かずして、いつ行くと言うのかしら?」


真「ボクも行かなくちゃいけないの?」

千早「真がいないと全力で料理ができないわ」

真「うーん。千早について行ってあげたい気持ちは山々なんだけど、明日は雪歩と遊ぶ約束してるんだよね」

千早「もしもし、萩原さん?」

真「はやっ!?」

雪歩「あれ、千早ちゃんから電話をくれるなんて珍しいね」

千早「今から三十分以内に東京駅に来て」

雪歩「さ、三十分以内?」

千早「真がどうしても萩原さんと四国旅行がしたいって言い始めて」

雪歩「真ちゃんが……す、すぐに準備しますぅ!」

千早「私も四国に用事があるから、チケット類は任せて」

雪歩「えへへ、真ちゃんと新婚旅行だぁ」


真「ボクと雪歩、まだ結婚してないから」

千早「まだってことはする予定はあるのね」

真「無いよ……多分」

千早「もう準備はできた?」

真「まだだけど。千早の方こそもうできたの?」

千早「こういう日のために、普段から旅行鞄は用意しているわ」

真「なんでそんなに準備が良いんだろう……。でも雪歩も行くって言ってたし、置いて行かれるわけにはいかないかな」

千早「私はその間に洗い物を済ませておくわ」

真「うん、じゃあ急いで準備……っと、そうだった」

千早「どうしたの?」

真「千早姉さん、今日もありがとう。ご馳走様でした」

千早「ふふっ……お粗末様でした」




おわり


以上になります。

映画を観て、千早が前向きになっているところがとても印象深かったです。
どちらかと言えば、春香よりも根底は明るくなったんじゃないかってくらいでした。

過去二番目の長さになってしまいましたが、書きたいことは書けたので良かったかなと思います。
何度も見直してはいますが、誤字脱字は相変わらずでした。
その辺りは生暖かくスルーしていただけると幸いです。

引用楽曲
アミュレット/PARQUETS
人魚/PARQUETS
約束/如月千早 

ご清覧、ありがとうございました。



>>160
千早を説得する箇所は、千早が怒る(アニメと同一)、千早が泣く(本作)、絶望先生パターンの3つを考えました。
一応全体としてメインに当たる箇所だったので、ネタを挟むのは諦めました。
アニメとの違いも設けたかったので、今回は2番目を採用しました。

次は、続きを書くと言って四ヶ月放置している雪歩+はるかさんか、真美を書ければと思います。


しがない作品ばかりですが、

地の文有り
・雪歩「はるかさんといっしょ」
・P「俺の」伊織「私の」
・春香「右の腕時計」

地の文無し
・P「小鳥さんが隙だらけすぎる」
・やよい「伊織ちゃんと小鳥さんの一年」
・ちはまこ料理シリーズ
などなど

です。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom