キョン「それでもコイツは涼宮ハルヒなんだ」(441)

 最近、うちの妹は天気予報のお姉さんにテレビ画面越しに話しかけている。内容は一つ覚えの繰り返しで、つまり、いつになったら雪が降るのか教えて下さい、と要約したら非常に微笑ましい内容なのではあるが、さりとて兄としては何をしてやる事も出来ん。

 大人しく待っていれば後一月もすれば降るんじゃないか、って希望的な観測をリップサービスしてやれるくらいだ。

 まあ? 初雪に関して一つだけでは有るが心当たりは無くもない。こんなことを言ってしまえる自分がそら恐ろしくも有り、またうら悲しい。いつから高校生は気象を操る術まで手が届くようになってしまったのか。驚天動地だ。空前絶後だ。

 ああ、ここは笑うところで間違いないぞ。

 とは言っても。まさか初雪にはしゃぐ妹見たさに後数百年の生態系に傷跡を残すほど馬鹿でも甘やかしでも俺はない。代わりって訳じゃないが家を出る前にてるてる坊主の逆さ磔刑における様式を妹には伝授しておいた。今頃、リビングは串刺公ヴラド三世がスタンディングオベーションで拍手を打ち鳴らすような地獄絵図と化しているであろう。

 さて、少女が雪に夢見る寒い日に街中を男と二人で歩きながら思うのは世界の果て、地球儀をぐるり半周させた真裏の島国でもってすらその名が知れ渡っている赤服爺さんってのはそりゃ一体どんな気分なんだろうね、ってな事だ。

 人はこんな思考を往々にして現実逃避と呼ぶらしいが俺はまさに今、その真っ最中だった。ああ、自分で分かっているとも。だから、ほっといてくれ。

 目にも心にも毒極まりない赤と緑のコーディネイト。どいつもこいつも柊や鈴で飾り付けて、日ごろ声高に叫んでる個性とやらはどこへ行っちまったんだ? すっかり埋没しやがって。

「ああ、商店街はもうすっかりクリスマス一色ですね」

 隣の優男が二酸化炭素とも霊魂とも判別付かぬ白い気体を吐き出しながら見たままズバリを言葉にする。ええい、超能力者よ、もう少し捻った事は言えないのか。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1356922699

「なあ、古泉よ」

「なんでしょうか?」

「絶望的な彼我戦力差を俺に再確認させる以外の台詞はお前の口からは出てこないのか?」

「彼我戦力差、と申されますと?」

 古泉が心底意味が分からないと不思議そうな顔をする。ええい、顔の良いヤツはこれだから気に入らないんだ。

 持てる者に持たざる者の気持ちなど所詮は分からないのだろう。しかし、このサンタスティックな光景を見て心躍る男子高校生はむしろ少数派ではなかろうかなどと勝手に推測する俺である。

 そう言えば谷口も国木田も、俺の周りはまだまだ独り者ばかりだったか。あいつらを仲間外れにしない為にも俺ばかりが先んじて恋人を作るわけにはいかんのだ、きっと。

 ああ、友情とはかくもうつくしきかな。

「塩を青菜か傷口かは知らんが、その類に擦り込む結果にしかならないと十分に予測され得る未来を回避する為に精一杯尽力しようぜ、お互い。
と、こう言っているようには聞こえなかったか?」

「今日の貴方は要領を得ませんね。いえ、失礼。僕の読解力が足りてないだけでしょう」

「あー、つまりな」

 口に出すことすら憚られる単語と言うのは実在するのである、悲しいことに。

「サンタ」

 ほらな。ええい、苦々しい。

「はあ」

「クリスマス」

 くそっ、忌々しい。

「ええ」

「こういった話題は止めておこうと俺は提案しているんだ」

「……なるほど、ようやく得心いきました」

 言いながらも笑顔を絶やさぬ古泉は、これがつまりコイツと俺の違いなのだとよく分かる余裕っぷりであり。ああ、本当にこの世には二種類の人間しかいないのだ。
男と女。モテる者にモテざる者。俺の苦悩なんてのは、しかしどれだけ言葉にしても決して伝わらないものの一つであったりするのかも分からない。
 ウィー、ウィッシュ、ア、メリークリスマス。

 願うのなんざ一つしかない。すなわち、この天下万民の財布の紐を緩ませんと企てる国家規模のイベントが粛々と俺の頭上を過ぎ去ってくれることだ。

 彼女が欲しい云々は願い事の余裕が有ったら改めてそこに捻じ込むとしよう。何事も先ずは安定から始まるものだしな。

 基盤が無ければ恋愛なんて成り立たんとはよく聞く話さ。古今の悲恋を持ち出すまでも無い。世間に負けたんじゃなくて、計画性の無さによる自滅ってな。

「……粛々、とはすこし難しい相談かも知れません」

「はあ。だよな、分かってるさ」

 悲しいかなと言うべきか、斜に構える権利がこの俺に残されているのかどうかからすらもまず怪しいが、「平穏無事」なるものがこの俺に与えられる事は最早有りはしないのである。

 一年前の話になる。正直思い出したくもない記憶で、決して忘れてはならない異世界旅行の記憶。

 あの時、どっかの愚か者は自分から「平穏」を投げ捨てやがったんだ。替えは利かないと知りながら。取り返しは付かないと知ってまで。

 まったく、馬鹿なヤツだとほとほと呆れ返る。

 ああ、未来は白紙だと信じていた頃の俺よ、さらば。そしてウェルカム、魔法のスケジュール帳。

 持ち主の意思になど構う事無く予定が自動かつ強制で書き込まれていく優れもの……もとい、困りものだ。

「ご心配なさらずとも」

 ご当地超能力少年は厭味が無さ過ぎて逆に癇に障るという器用な微笑を頬に浮かべ、

「クリスマスはきっと楽しくなりますよ。そうしたいと考えてくれている人が僕たちを仲間はずれにしてくれない限りは、ね」

 と言った。

 全くの同意見ではあるが、俺の心配の中心も「そこ」だってのは決して忘れてはならない現実である。

「楽しくはなるだろうよ。だが……分かってるだろ? その手法を問題視してるんだ、俺は。
 去年みたいにトナカイのコスプレして不特定多数のお子様の前で桃太郎演るような真似は二度としたくない」

「ははっ、あれは斬新な劇でしたね」

 笑い事じゃない、ちっとも笑えないぞ、古泉。

「ただ待っているだけでプレゼントを貰えると思っているのなら大間違いだ、までは僕にも彼女の思考トレースが出来たのですけれど」

 まあ、子供が自分の正当性(今年も一年いい子でした、ってアレだ)を主張するのにサンタと大立ち回りを演じるなんて展開はお釈迦様でさえ思い至らんだろうよ。

 子供と殴り合う深夜徘徊老人、拳で語り合って友情が目覚めた挙句のプレゼント贈呈とかアイツの頭の中はどうなっていやがるのか。一度脳外科に行ってCTスキャンを取ってくるべきだと俺は割と本気で心配だ。

「……アイツはアホだからな」

 やれやれと一つ溜息を吐く。隣を歩く少年はただ笑っていた。――だ、か、ら、笑い事じゃないんだよ、古泉? その辺、本当に分かってんのか?

「今年はもう少しまともでスマートなイベントを願わずにはいられないぜ。ウィー、ウィッシュ、ア、メリークリスマス。
 ああ、マジで。願うくらいは存分にさせて貰わんとこっちの身が保たん」

 出来れば願う以上もさせて貰いたいところだが。そんなんが高望みになっちまってるのが現実だ。

 俺に思想の自由は有れど言論と集会の自由は取り上げられちまっている。なんて横暴な神も居たもんだと思うよ、いやホント。

 商店街のアーケード下はカップルもしくは元カップル率が八割越えの致死量だ。これが噂の「サンタ・クローズド・サークル」ってヤツか。

「涼宮さんが今年はどんな事を企画されていらっしゃるのか、勿論僕には見当も付きませんが。しかし、断言出来る事も一つだけ、有ります」

 ほう、言ってみろ。

「今回も僕たちは退屈とは無縁であるだろう、と」

 古泉は人差し指をピンと立てた。

「まあ、僕の超能力なんてこんなものでして」

 古泉の口にした言葉を咀嚼して。出て来る台詞はいつも通りの定型句。俺はとことん進歩がない。一年前からお決まりだ。

「……やれやれ」

 もしもこの世界がテレビドラマなら、オープニングを入れるのは多分このタイミングだろう。

「すう……すう……」

 今年も残すところ後わずかとなった十二月半ば、授業は二学期間にせめてここまではやっておかなければならないという(生徒に無断で)各教員が自らに課した目標へとラストスパートを駆け、
急加速に振り落とされんようにせめてノートだけでもと考える俺は窓際という極寒のシベリア流刑にあってすら怠惰を許されてはいなかった。

 内容も分からぬままにせっせと黒板を写す作業に励むとはなんと涙ぐましい努力かと自分で自分を褒めるのすら吝かではないが、それが成績へと跳ね返ってくる気配が一向に見えないのはこれは果たしてどういうことか。

 関係各庁の主だったものを集めての緊急閣議が近々必要となりそうだ。

「すう……す、んがっ……くう……」

 有り体に、そして身も蓋も無く言ってしまえば俺は少しばかり、自分自身でも知覚できるかどうかってほんのわずか、わずかだぞ、焦りを覚え始めていた。

 理由なんてものは分からない。高校生活がいつの間にやら折り返し地点を過ぎていたからなのか、本番となるラスト一年が眼と鼻の先にまで迫っているせいという線も十分に有り得る話だ。

 いやいや、教師連中が何かにつけて口にしていた「高二が勝負」ってヤツが丹念に重ねたレバーブローの如く今更になってじわじわと、しかし確実に着実に効いてきたってのも考えられる。

「ん……んんぅ……くう……すう……」

 でもって、そんな危機感を抱き始めているのはどうやら俺ばかりでも無いらしい。雰囲気なんて言葉で誤魔化すのも躊躇われる程度には、気付けばクラスメイト達の眼の色も徐々にだが本気の色へとグラデーションを始めている。

 そういうのが徐々に俺を急かし、焦らせ、そしてそんな急いて焦った俺の影響で誰かも急かされるって負のスパイラルがクラス全体に根を張っているのが眼に見えるようだ。

 ……しかし、何事にも例外ってのは存在する。

 言うまでもないとは思うし、聞くまでもないとも思うわけだが、さりとて一応名前くらいは出してやらねばなるまい。ソイツもクラスの一員には変わりないからな。

「……くう……くう…………うぅん……」

 受験生という身分に目覚めつつあるクラスメイトも我関せず、穏やかなる寝息を立て続けるのは後ろに陣取るあの女。

 そう、我らが主人公、涼宮ハルヒその人であらせられる。

 豪胆という言葉がそのまま人となったようだとは古泉の評価で、対して傲慢の間違いだろと、こっちは俺の評価。ま、どっちでもいいが。

 にしてもよく寝てやがる。ああ、呪いたくなるほどの爆睡ぶりじゃねえの。ったく。比喩じゃなく命に関わりかねない低温だってのによく眠れるよ、コイツ。首だけで振り返って様子を伺って……、

 ……あれ?

 ……ハルヒの唇、うっすら青くなってない?

「さむ……きょ…………さむい……」

 この馬鹿! マジで教室で凍えてる馬鹿が有るかよ!? 真冬の窓際舐めんな!

(おい、ハルヒ! 起きろ! 寝たら死ぬぞ!!)

 小声で呼び掛けるも変化無し。いや、むしろハルヒの様子は悪化の一途を辿り、俺の見ている前で少しづつその身体が震え出した。

 俺の方へと投げ出された細い指先に触れてみるとその余りの冷たさに驚いてしまう。それくらいにその身体は温度を失っていた。

 ……見過ごしたら自殺幇助になりそうなレベルである。これ、起こすだけで本当に大丈夫なのか?

 俺は咄嗟に時計を見る。幸いにも残り十分足らずを耐え切れば放課後だ。そうなれば朝比奈さんのあつーいお茶も、部室には電気屋から接収した電気ストーブだって有る。蘇生にはこれ以上なく十分な組み合わせだ。

 ならば、それまでにこれ以上ハルヒの体温を下げない事が目下、俺に与えられた急務。世話を焼かせやがる団長様だ、全く。

 別に授業を真面目に受けろと言う気は無いが、(どの口が言うのかと詰られるのは眼に見えているしな)それにしたって自分の命くらいしっかり守って欲しい。

 基本は「いのちだいじに」だと思うんだ、何事も。

 ……しっかし、どうするかな、コレ。とりあえず俺の唯一の暖である携帯カイロをハルヒの手に持たせはしたが、それくらいで冷え切った体がなんとかなるはずもなく。

 熟慮の結果――ま、実際に悩んだのは三十秒足らずだが――俺は手近に有った布をハルヒの上に被せる事で事態の抜本的解決策とした。

 元々膝掛けとして利用していたものだったので冷たいという事もないし、俺の体温が不快だともし言われてしまえばそれまでだが、にしたって雪山遭難中に見つけた穴蔵に文句を言うほど涼宮ハルヒも捻くれてはいまい。

 特に冷えていた指先から肩口の辺り、机に放り出している部分へとそれを掛けてやるとハルヒはまるで待っていたかのように頭から布の中へと逃げ込んだ。

「……どんだけ寒かったんだよ、お前」

 眠り続ける少女に向けてそうボヤき、そしてまた仕方が無いかとも思った。

 なにせこの寒さだ。雪が降ってこないのも不思議なくらいで、俺だって早く朝比奈さんの淹れてくれたあっつーいお茶が飲みたい。

 さっさと終われよ、授業。本当に。

 そんな訳で授業の残り時間、俺は膝掛けを失って急速に冷え込んだ太ももをすり合わせ、呪詛を呟きながら必死に指先の運動をして過ごした。

 ハルヒならどうにかすれば地球の地軸をまっすぐに出来るんじゃないだろうか、なんて馬鹿な事を考えながら眺める黒板は般若心経と似たり寄ったりで、ならノートを取る行為は写経と大差ないね。

 ご利益を願おうにも時期が悪い。街にはクリスマスが幅を利かせているのだから。なら、ハルヒ大明神にでも頼んでみるか? いやいや、冗談。

 冬の教室で凍死しかかってる神様なんて、そんなの心底笑えないぜ。

 授業が終わり、ホームルームで担任が口にしたのは三年生に気を使うように。受験でピリピリしてる時期だってのはよく分かる。

 だが、気を使うも何も俺が接する数少ない上級生であらせられる所の朝比奈さんと言えば年が明けてもこっちに居るかどうかすら俺には分からないしな。

 なにせ、彼女はリアル時を駆ける少女だ。卒業と同時に未来に帰っちまう可能性を古泉から聞いていた。実際のところは分からない。聞いてみる勇気も持ってないし。

 あ、考えたら憂鬱になってきた。首を振って暗い考えを頭から追い出す――と、何故だか喜色満面の谷口と眼が合った。ソイツは俺に向かってニヤリ、と意地悪く笑って見せる。そして、俺は悟った。

 この時期に似つかわしくないスマイル0円。

 あの野郎、まさかっ――!?

「キョーンー、もうすぐクリスマス、だよなっ」

 結論から言おう。俺の悪い予感は情け容赦無く的中した。ああ、一を聞いてもう何も言わなくていいとはまさにこの事だ。古泉のお株を奪うニヤケ面。

 首から上を切り取ったらゲル状のモンスターになるんじゃないかって酷い緩み具合は実は去年も見た。

 デジャヴ……じゃない、リフレインか。ならば先手を打っておくとしよう。

「気にするな、谷口。女なんて星の数ほど居るさ」

 星に手は届かないけどな。

「は? ……いきなり何言ってんだ、キョン?」

「女なんて星の数ほど居るさ、と言ったんだが」

 失恋したヤツへ送られる常套句だと、二回言ってようやく谷口は理解したようだった。反応遅いぞ。

「おい、キョン! なんで俺が振られた事になってんだよ! まだ何も言ってないっつーの!」

「いや、だってな……」

 俺は頭を掻いた。もしかしなくても谷口は馬鹿だ。まず、その締りの無い口を閉じるところから始めるべきだと思う。

「お前、顔に『クリスマス前に滑り込みギリギリセーフで彼女が出来ました。
 クリスマスイブはデートの予定が有るので今年も有るであろうSOS団のクリスマスパーティには出席出来ません。どうだ、羨ましいか』って書いてあるぞ」

「長えよ! どんだけ落書きされてんだよ、俺の顔は! 幼稚園児のお絵描き帳か!」

 馬鹿が叫ぶ。だが、馬鹿の口からいの一番に否定が出ないって事は、つまり、そういうことだ。

 ……羨ましくなんてないぞ。

「で、この後の展開は読めてる。つまり、クリスマス直前もしくは当日に破局。去年もそうだったしな」

「ぐっ……なんとでも言えよ。だけどな、彼女はおろかデートの約束すらないキョンに俺の壁は越えられねえ!」

 谷口は両腕でもって空中に大きな四角を描いた。

「名付けて、谷口スペシャル!」

 脆そうな壁だな、また。

「しかも結構簡単に乗り越えられそうだよね、その高さなら。そう思わない、キョン?」

 横から話に割り込んできたのは、これもお約束と言うべきかいつもの面子、国木田だった。

「そう言ってやるなよ、国木田。そんな陳腐な壁であっても誰かさんの名前が付いている以上、その誰かさんが可愛そうだろ。
 ここは演技でいいから『乗り越えられそうにない』って言ってやるべきところだ」

「ああ、そっか。それもそうだね。えーと『結構簡単に乗り越えられそうにない壁だなあ』ってキョン、これで合ってる?」

「簡単なのか難しいのか分からないっての」

 顔を見合わせて笑う俺達。流石に小学校時代からの友人である国木田はどこかの馬鹿と違って打てば響く。

 言いたい事ってのをここまで的確に拾って貰えれば、喋り甲斐も有るというものだ。

「くそっ、国木田まで一緒になって馬鹿にしやがって。あのなあ、言っておくが俺はもう去年までの俺じゃねえんだよ」

 ほう、それは初耳だ。いつの間に「マークツー」もしくは「改」、「バージョン1,10」のような修飾が付いていたのか。

 男子三日会わざれば刮目して見よ。眼を凝らしても違いなんてのは制服が一年分くたびれただとか、学年章の横線が一本増えただとか、それくらいしか分からんのだが。

「俺はもう俺じゃねえ!」

 ならお前はどこの誰だよ。自己否定の極論みたいな事言ってんじゃねえ。

「谷口くん(改)だ!」

 だから、具体的にどこが違うんだと俺は聞いてるんだが。

「決まってんだろ、キョン。人間は失敗を繰り返して成長するんだ。失敗は成功の母って言うじゃねえか。
 つまり! 去年のクリスマスに失敗した時点で俺はもう今年のクリスマスの成功が約束されてんだよ!」

 どこぞの怪しい宗教みたいなトンデモ理論が谷口の口から飛び出した。馬鹿だ。こいつ、超ド級だ。

「アー、ソウデスカー」

 どうやら人間とは心にも無い事を言う時、声に抑揚が付けられなくなる生き物らしい。装うのすら阿呆らしい。

「凄いね、谷口」

 国木田は対照的で見事な笑顔でもって谷口を称えるが、文頭に省略された括弧内、「そこまでポジティブが行き過ぎるのは逆に」の部分がしっかりと俺には補聴出来た気がするね。

 はあ、溜息しか出て来ない。この話題は早々に打ち切ってしまうべきか。馬鹿は死ななきゃ治らんし、馬鹿は馬鹿なりに青春を謳歌する術は心得ているらしい。

 だったら俺に何が出来ようか。精々、友の恋路に対して呪詛を撒き散らしてやるのが関の山だ。

「それで、谷口? わざわざ俺の机まで来てお前は一体何の用なんだ?」

「よっくぞ、聞いてくれたぜ、キョン! 実はな……って何だ、こりゃあ?」

 谷口が俺の後ろの席を指差す。何だ、ってそりゃ見ての通りだろ。

「涼宮ハルヒだ」

 もしくは眠れる獅子。

「キョン、僕には連行中の凶悪犯に見えるんだけど……?」

「いや、俺にもそう見えるぜ、国木田」

 谷口と国木田は互いの顔を見合わせ、そしてまたハルヒをまじまじと見つめた。いや、正確にはハルヒの上に載っている衣服、か。

 ふむ。確かに? 涼宮ハルヒは今、マスコミのシャッターフラッシュラッシュから顔を隠す犯罪者のような出で立ちでは有る。それは認めよう。

 頭の上から男物のコートをすっぽりと被せたのがその認識の原因なのだとしたら、それはひょっとすると俺の所為であるのかも知れん。

 しかし、ちょっと待ってくれ。この惨状を作り出した張本人にも一つだけ釈明させて欲しい。

 悪意は無かった、いやマジで。

「いや、奥村の授業中コイツ凍死しかけてたから、救命活動をだな……」

「それで寒そうな涼宮さんに自分のコートを掛けてあげたとでも言うのかい、キョン?」

 言う……のだが、なぜだろう。こうして第三者視点で俺のやった事を改めて聞かされると、その行為はまるで……。

「それってなんだか恋人同士みたいだね」

 みなまで言うんじゃない、国木田!

「んなあっ!? キョン、お前、涼宮ととうとう付き合うことにしたのか!!」

 大きな声で根も葉もない内容を口にするんじゃない、谷口! あと、「とうとう」ってなんだ、「とうとう」って!?

 偏見だ、偏見。男女がペアで居たらそこに恋愛的なあれこれをすぐに持ち出したがる昨今の風潮に対して俺としては警鐘を打ち鳴らしたい、百八つくらい。

「あのなあ、谷口」

 あえて冷静を装って。

「お前の目はどこに付いてるんだ?」

 イントネーションは「馬鹿じゃねーの?」を最大引用。

 俺とハルヒは断じてそういう関係じゃない。

 主と従僕。いや、違うな。

 王と騎士。いや、これもなんか違和感がある。

 そんな媚びるような、へつらうような、一方的な関係ではなかったはずだ。ええい、上手く言葉に出来ん。

「言ってたのは谷口自身だろ。覚えてないか? 一年の一学期。『アイツだけは止めとけ』ってな。俺は覚えてる」

「ああ、そんな事も言ったか」

「それを踏まえて、だ。あの涼宮ハルヒだぜ? そりゃあ顔は十分魅力的な部類に当て嵌まるし、異性としての完成度は今更論ずるまでも無く一級品だ」

 本人を前にしては口が裂けても言えやしないが、ライオンも眠ってる間は大人しいモンさ。それに、ハルヒだって俺とそんな関係だなんてデマを吹聴されては気分も悪かろう。

 ならば疑惑は徹底的に踏み潰してしまえ。

「だがな、谷口」

 メリットを悉く打ち消して台無しどころかマイナスにする強烈なデメリット。それは一言で言えば、

「それでもコイツは涼宮ハルヒなんだ」

 こんなところか。我ながら失礼な物言いだとは思うが、これ以上に的確かつ簡潔に纏めるのは少々、いや大分難しい。

「だよなあ……」

 谷口も谷口でこれで納得しちまうし。おい、ハルヒ。好き放題言われてるぞ。それで良いのか、お前は……って起きてて貰ったら大分困るんだけどな。

「本当、涼宮さんって勿体無いよね。もう少しだけでいいから協調性が有れば朝倉さんレベルだと思うのになあ」

「それが無いからハルヒなんだろうよ。逆にそこが補完されちまったらパーフェクト超人だ。天のパラメータ配分の依怙贔屓も露骨が過ぎる。
 神様ってヤツも壊滅的な分野を科す事でバランス取った気になったんだろ。ほら、天才は奇人に多いってアレだ、アレ」

 それにしたって二物はおろか一物すら怪しい俺みたいな平々凡々、特殊スキル無しにとっては羨望の的でしかないわけだが。

「でもさ。結構お似合いっていうか納得出来る組み合わせでは有るかも、とは思うんだよ」

 ほう、反論が有る、と。いいぜ、聞いてやろうじゃないか、国木田。

「キョンは昔から変な女が好きだからね」

 酷い話だ。過去に一度たりとて変な女が好みだと言った事も無ければ、そもそも異性と付き合った事すら無いというのにこの認識である。どうなってやがるんだ、世の中。

「誰の事を指して『変な女』と言ってるのか、その辺りが非常に興味深い発言をありがとうよ」

「それは勿論」

 あー、いい。いい。最後まで言う必要は無い。大体、その相手ってのが誰を想定しているのかは分かってる。

「おいおい、今はキョンのことなんて良いだろ? 俺には緊急を要する相談が有るんだよ」

 谷口の言うところの緊急事案ってのは、俺の予想通りにクリスマスデートに向けた対策を一緒に考えてくれなんて第三者にとっちゃ心底どーでもいい内容だった訳だが、
 それでもハルヒが起きるまでの話題としてはそこそこ盛り上がった。

 結局、俺や国木田も「もし、自分がクリスマスに女子とデートする事になったなら」ってイメージトレーニングには余念の無い、周囲の例に漏れない妄想力たくましい高校生だったというその証左なのだろう。

 谷口にあれこれのアドバイスだか皮算用だかを吹き込みながら、しかし一つとして「谷口のために」という気持ちが湧いてこなかったのは、ああ、考えたくもない。

 俺も少しは期待しちまっているんだ。

 今年こそは、なんて具合にな。……笑うなよ。こんなのは年頃の男子高校生だったら五十歩百歩で誰もが同じ野望を抱いているものさ。

 十二月二十四日。子供の願いが叶う夜。恋人達の特別な夜。

 果たして、今年の俺は一体どんな風に過ごすのだろう。やっぱり今年もSOS団で鍋パーティでもして終わっていくのだろうか。

 それでも構わないかと思う俺がいて、変化を求める強欲な俺がいる。

 変化。このままじゃいけないってそんな気持ち。誰でも持っていて、誰もが切っ掛けを欲しがっていて、それでもそいつは勇気が居るんだ。

「谷口」

「あん?」

 言葉はカンペでも用意されていたみたいにするりと出た。

「お前は凄いよ」

 ああ、俺には逆立ちしたってこの友人の真似は出来そうにない。

 結局、ハルヒが午睡から目覚めたのはホームルームが終わってから一時間は経とうかという……寝過ぎだろ。掃除当番が困ってたぞ。

「……ん……キョン?」

 国木田と谷口はつい二分ほど前に家路へと着き、俺はと言えば部室で待っている長門と古泉、そして何よりハルヒに拉致されていたコートをそのままに帰るなんてのは出来なかった訳だ。

「よう。ようやく起きたか、凶悪犯」

 起きたなら早々にコートを返せ。こう見えて俺だって寒いんだよ。手の中のカイロ様は高校生一人分の命を保たせる任務に殉職して燃え尽きちまった。温かみの有るいいヤツだったぜ。

「……え、暗い? 何か乗って……?」

 コートの中でごそごそと頭隠した少女が蠢く。新種の生き物を両親に隠して飼っている気分ってのはこんな感じなのだろうか。どうでもいいが。

 ETみたいな奴とは毎日のように接触してるしな。いまさら謎の宇宙生命体とか言われても二番煎じも良い所だ。

「光あれ」

 呟いて、ハルヒの上からコートを剥ぎ取る。日も暮れ始めた教室はさらにその気温を下げ、一刻も早くコートを着なければ俺もハルヒの二の舞だ。

 翌日の放課後、私用が有るから今日は文芸部室に顔は出せないとシンプルに告げた俺に対してハルヒは当然だが詰問した。主に「私用」の中身についてだ。

 文句の付けようしかないプライバシの侵害だと思うのだが、団員のスケジュールをきちんと把握しておくのも団長の務めだとか妙ちきりんな理屈を、なぜだか正当っぽく聞こえるように捏ね回させれば涼宮ハルヒの右に出るものはそうそう居ない。少なくとも俺は見たことが無い。

 よくもこうぽんぽん言葉が出てくるものだと呆れ半分で感心してしまう。口から産まれたって言葉が有るが、恐らくハルヒの生誕を予見してやがったんだろうな。そうとしか思えないくらい、ここまでコイツを言い表すのにしっくりとくる慣用句が見つからない。

「何よ! 言いたくない、もしくはアタシには言えないような内容だったりするワケ?」

「そういう事を言ってるんじゃない。ただ、なぜ俺はお前に洗いざらい白状せねばならんのかと言っているんだ」

 犯罪者にだって黙秘権は認められてんだぞ。法治国家万歳。

「怪しいわね。別になんてことのない用件だって言うならさらっと報告すればアタシだって鬼じゃないんだから」

 ――どうだか。

「帰宅の許可を出すわよ」

 もちろん、それが正当で真っ当な休暇願ならばとハルヒは付け加える。挑発的にこちらを見るその瞳が、なぜだか今日は酷く癇に障った。

 どうしてだろうな。いつもならさらっと流すようなやりとり、であるはずなのに気付けば俺は噛み付いていた。反論を始めていた。家庭教師が来る初日だから早めに帰って自室の掃除をしておきたい。たったそれだけの話じゃないか。

 なぜそれが言い出せない、俺?

「――帰宅の許可を出す、だと? それってのはつまりお前の許可が無ければ俺は家に帰ることすら出来ない、そう言ってるのか?」

 俺の心に宙ぶらりんと引っ掛かったものはただの言葉。たったの一文。

「……決まってんでしょ」

 過ちに気付いたのだろう少女が一瞬、視線を彷徨わせる。その顔には「やってしまった」と書いてあったがお互いもう止まれそうにない。

 謝れない少女。

 俺の知っている涼宮ハルヒとは我が侭放題だが人を所有物扱いはしない。

 去年の夏、映画撮影の一件以来それだけはしなくなった。こんなヤツだが着実に成長しているんだなと思っていた安堵感? 期待感? まあよく分からんが、つまりは「ソレ」を裏切られた気がしたんだな、俺は。

 それだけはして欲しくなかった、とか思っちまったワケさ。いや、ハルヒだって本気で言っているんじゃあない。口を滑らせただけだ、などと思えたらよかったのに。

 だってのに俺の心は広くない。

「ハルヒ、お前は何様のつもりだ――団長サマ? はっ、笑わせんな。『団長サマ』ってのはそんなに偉いのか?」

 だから、言葉が出てしまう。売り言葉に買い言葉。ハルヒは予定調和の如く反論する。

「偉いわよ。当たり前でしょ? SOS団の団長は神聖にして不可侵なの。団員はアタシの言うことには従う。それで全ては上手くいくのよ!」

 ハルヒはこんな妄言を本気で言ってるんじゃない。分かってる。分かって……いるんだ。ただ、俺の言葉に条件反射的な応対をしているだけ。本意じゃないことを示すように、ソイツは口の中で苦虫を噛み殺してる。

 気付け。この気分の悪いやりとりを終わらせてくれ。そう眼で訴えかけてきているのに。

「……分かった」

 俺はそれを黙殺した。

「だったら俺は」

 ハルヒが俺をキッと睨み付ける。でも、その視線には慣れ切ってしまっていたから抑止力なんてのは一切無い。台詞は止まらない。

 いつの間にか、完全に頭に血が上っていた。

「SOS団を抜ける」

 ――――あれ? 

 ――――――――今、一体何を言ったんだ、俺は?

 氷雨の中を逃げるように帰ってきた。制服の上着とコートを椅子の背凭れに放り投げて、ノンストップでベッドに四肢を投げ出す。ズボンに皺が出来るがそんなのは知ったことか。

 自室を片付けて掃除をして――といった当初の予定をこなす気も起こらない。教室を出る時、ハルヒの顔を見ておけばよかったかと思う。……いや、見なくてよかった。見ていたらきっと……なんでもない。

 ケータイにいつの間にか来ていた着信は古泉から。「何かありましたか?」という簡素なショートメールは修飾や回りくどさといったものを極限まで削り取ったようで、あの話好きからのメールとは思えない。とりあえず「お前には関係ない」と返信。

 即座に返信。「いつでもご相談下さい」との内容。どこまでも胡散臭さが付きまとうのは、これはもうあの男の持って生まれた性質なんだろうさ。とりあえず、ケータイは床に投げ捨てた。

 ……俺の部屋、こんなに広かったか?

 古泉は「何か有った」事に気付いている。それは言い換えれば「古泉の身に何か有った」って事に他ならない。ならば、今頃ハルヒが閉鎖空間で暴れまわっているのか――まあ、そうだろうな。それもきっと尋常じゃない暴れ方をしていやがるに決まっている。

 そうやってハルヒはストレスを発散しているって話だったからな。

「俺もサンドバックでも購入するかね」

 天井に向けて問い掛けてみても誰が答えてくれるワケもない。と、思っていたら「にゃーん」と返答が有った事に俺は少し驚いた。

「にゃあ?」

「シャミセンか……驚かすなよ、お前」

 どうやら部屋の戸をちゃんと閉めていなかったらしい。見ればわずかに隙間が開いており、それにしたってよくあれだけの間隙を縫って侵入出来たな、シャミセン。猫にしておくのが勿体無い。お前なら凄腕のスパイにだってなれるだろうに。

「なんだ、お前がサンドバックになってくれるのか――なんてな。冗談だよ」

 もしも言葉が通じていれば即座に逃げていただろうシャミセンは、しかし俺に擦り寄って臭いを嗅ぐのに余念が無い。こうなるとシャミセンを普通の猫に戻してしまったことが途端に悔やまれる。

 意思の疎通が出来たのならば、古泉なんかよりもよっぽど役に立つ相談相手になってくれただろうに。

 どうやらシャミセンは俺の部屋を今日の定宿に選んだようだった。座布団の上で丸くなったところから察するにスリープモードへと移行する気なんだろう。そののほほんとした様は何も悩みが無さそうで俺としちゃ心底羨ましい。

 今度生まれ変わる時は猫にしよう、うむ。

 ぐるりと転がって、天井向けて大きな溜息を一発……はあ。

 …………あーあ。

 …………やっちまったなあ。

 何やってんだか。いや、だが。これからの事を考えたら、そろそろ勉強に勤しまねばならない俺の足を引っ張るだけでしかないSOS団はここらが潮時だったんじゃないか――なんて言って自分を誤魔化せたらどんだけ楽だろう。

 生まれてこの方、気分のいい正論なんてものに出会ったことが無い。

 やってらんないよな。俺はいつの間にやらあの部室が結構気に入ってしまっていたのだ。自覚してもうそろそろ一年になる。

 宇宙人、未来人、超能力者が雁首揃えてボードゲームに興じるあの客観的に見て有り得ない空間を、そしてそこから巻き起こるあれやこれやのドタバタを、俺は楽しんじまっていた。

 一言で言って「大切」だったのだ。

 それを――何、自分から抜けてんだよ。

 ああ、返す返す。さっきの俺は馬鹿だった。アイツの一言くらい捨て置けばよかったんだよ。もしくは詰問されるがままハルヒにちゃんと説明して、至極当然と帰れば良かったんだ。

 「どうして」「なんで」をいくら積み重ねようと時間は巻き戻らない。

 同様に口から出した言葉は取り返しようがつかない。

「なあ、シャミセン」

「にゃあ?」

 既に寝ていると思われたソイツは、しかしどうやらリラックスしているだけのようだった。俺と同じだ。

「俺はどうしたらいいんだろうな?」

「……にゃぁお」

 分かるわけ、ないよなあ。溺れるものは猫にも縋る。また一つ新しい日本語を捏造してしまった。

 ……あ。

 これがホントの「猫の手も借りたい」か。

 ――キンコン、と。チャイムの音で眼を覚ました。どうやら布団も被らずに寝てしまっていたらしい。この季節にうたた寝なんてしていると風邪引くぞ、などと自分に言い聞かせてみる。とは言え、エアコンのお陰でそこまで寒いという事も無かった。

 昨日の教室で凍えていたハルヒの姿をなんとなく思い出す。……そこに意味なんてない。

 ぼんやりとしていると階段を駆け上がってくる足音が耳に届いた。十中八九、妹だろう。

「キョーンーくーーん!!」

 バタン、と部屋の戸が開けられる。予想は当たり。何度言ってもノックするという習慣を身に着けない妹だ。かと言って看過する事も出来ん。

「ノックをしろ、ノックを」

「あ……てへっ。ごめーん。忘れてたー」

 そして三歩歩いてまた忘れるんだろう。それくらいは眼に見えていた。そんな妹は何事かを言う前に部屋の座布団で俺同様惰眠を貪っているシャミセンを目敏く発見した。

「シャミー! キョンくんの部屋に居たんだ。探してたんだよー」

 どうやら感動の再会らしい。言いながら猫をその胸に抱き、部屋を出て行こうとする我が妹。いや、お前は何をしに俺の部屋に来たんだよ。

「おい、何か用が有ったんじゃないのか?」

 妹は小首を傾げ、そして一昔前なら電球のマークが頭上に現れただろう笑顔で俺に告げた。

「そうだ。あのね、キョンくんにお客さんが来てるよー」

 ……そういう事は早く言ってくれ。反射的に机の上の時計を見れば、ああ、もうこんな時間か。来客に当たりを付ける。

「佐々木か?」

 立ち上がり、部屋を出る妹に追従しながら問い掛ける。シャミセンは迷惑そうな顔をしていた。

「うん、佐々ちゃん。久しぶりだねー」

 果たして妹の言うとおり、階段を降りればそこには玄関で所在無さ気に佇む親友の姿が有った。彼女は俺を認めると、髪を二、三回手櫛で梳いた後に微笑んで。

「眠そうだね、キョン」

 開口一番、鋭い観察眼を披露した。

「そんなに褒められるほどのものじゃないよ。ただ、寝癖が付いているってだけさ」

 それこそ褒められたモンじゃないな。ああ、少しだけ恥ずかしい。

「悪いな、ついさっきまで寝てたんだよ」

「だろうね、顔に書いてある」

 ばつが悪い俺に相反して少女は微笑を崩さない。

「あー……まあ、なんだ。とりあえず上がってくれ」

「うん。お邪魔します」

 脱いだ靴を几帳面にも揃えようとしゃがんだ佐々木であるが、

「……あ」

 正直俺としては眼のやり場に困った。スリムデニムって言うのか、身体の線が浮き彫りにも透かし彫りにもなる黒のパンツルックは、ソイツがしゃがみこんだだけでその柔和な丸みの全容を俺に強制的に妄想させる。頼みの綱の防寒具もその女性的な曲線を隠せない腰丈のショートコートだった日には……。

 ああ、俺は友人をどんな邪なる目で見てしまっているんだ。スマン。本当にスマン、佐々木。

 頭を掻きながら階段を上る俺に佐々木は付いてきた。背中から声が掛かる。

「部屋は昔のままかい?」

 そう言えば前に佐々木がウチに来たのはもう二年も前か。

「位置を聞いてるのなら回答は変わらず、だ。内装を聞いているんなら、流石に変わらないとはいかないな。色々、物は増えてる」

 言った後で、佐々木に家捜しを推奨しているようだと気付いた。が、冗談ではない。青少年御用達のあんなモンもこんなモンも隠蔽工作を施してはいないんだ。慌てて取り繕う。

「って言っても別に面白いようなものは無いけどさ」

 自然な感じで言えただろうか。自分では言えたと思う。少女はと言うと「そうかい」と四文字しか返って来なかったところから、何を考えているのかを俺に推測しろってのも無理な相談だ。

 さて。

 自室に同年代の美少女を招き入れる。

 それも複数ではない。一人だ。少女一人と、俺一人だ。なにかいけないことをやっている気分に俺がなってしまってもそれは致し方の無い話だと客観的に鑑みてもそう思う。

「なあ、佐々木」

「ん? なにかな?」

 部屋の前で立ち止まった俺に彼女は、しかし邪気の無い眼で見つめ返してくる。なあ、なんで俺が罪悪感に苛まれなければならないんだ?

「いや、その……だな。今更なんだが」

「もしかして、キョン。自室に異性を入れるのを戸惑っているのかい?」

 見破られていた。

 はあ。その言葉の意味を理解しているであるだろうにも関わらず、どうしてコイツは変わらず笑顔でいられるのか。俺には女という生き物がほとほと理解出来ない。

 佐々木然り、ハルヒ然りだ。

 俺の周りが特殊なだけだろうか。その可能性は十分に有る。国木田の「変な女」というフレーズがふと頭に過ぎった。

「……ふう」

 深呼吸。名探偵ホームズさんは読心術もお手の物らしいぜ。それともこれもやっぱり顔に書いてあったのかね。

「……まいった。ああ、その通りだよ。正直、戸惑っている。いや、誤解しないでくれ。家庭教師をしてもらうだけ、なんてのは分かってるし、勿論それだけのつもりなんだが……それにしたって、な」

 佐々木は友人である。親友と言って貰えているし、俺だってその関係を疑ってはいない。

 だが、だ。

 しかして俺は男であり、そして佐々木は言動、行動の端々でやはり確実に女なんだ。俺とコイツの間で間違いはあってはならないし、俺は何より佐々木に嫌われたくない。

「リビングで勉強って手も」

「キョン」

 俺の言葉は優しく遮られた。

「……寒いんだけど」

 屋内とは言え廊下は冷える。佐々木は俺から見ても演技だと分かるくらいにわざとらしく見せ付けて両手を擦った。

「君の煩悶は理解した。だから早く中に入れてくれないかな」

 本当に分かっているのか、いないのか。であっても俺に否定を言わせる気がないことを少女はその眼力でもって伝えてきた。

 ノーと言える日本人になりたいもんだ。はあ……どんな噂を立てられても俺は知らんぞ。

「分かった」

 戸を開けて中に入る。この部屋に誰かを招くなんてのはいつ振りだ? 夏休みに宿題の総浚いをSOS団全員でやった時か……ああ、十月に古泉とハルヒのことで作戦会議をしたな、そういや。

 椅子に腰掛ける。学習机のライトを点し、リモコンでエアコンの温度を調整した。鞄から筆記用具を取り出して……横を見ると佐々木が部屋の入り口で立ち尽くしていた。

「……どうした? 何か珍しいものでも有ったか?」

 物珍しいのはシャミセンの毛くらいだと思う訳だが。むしろ俺にとっては今の佐々木の方が珍しいものを見た、って感じだ。落ち着こうとして失敗しているような。少女の視線は右往左往して、別に室内に蝶なんかひらひらと飛んじゃいないんだけどな。

 まるで借りてきた猫だ。

「……いや、珍しいと言うか……ね。上手く言えないのだけれど」

「けれど?」

「キョンの部屋なんだな――と思って」

「なんだ、そりゃ?」

 当たり前のことを感慨深そうに言われてもな。正直、俺としちゃリアクションに困る。

「さっきも言ったが面白いものは何も無いぞ」

 有っても見せられる類じゃないしな。間違っても女子と二人で見るモンじゃない。そうは言っても俺にとっては聖書な訳だが……と、なんでもない。忘れろ。

「いやいや。なにか特定のものに関心を抱いているのではないよ、キョン。……さて、と」

 俺に向き直った時、佐々木はいつもの佐々木に戻っていて。少女が部屋の戸を閉める時に、何かを言いそうになったのはなんとか堪えた。二人きりを意識していると思われるのは癪だったし、二人きりだって俺自身あまり意識したくはなかった。

「本来の目的をこのままだと忘れてしまいそうになる。早速だけど始めよう」

「おう。よろしく頼む」

 佐々木と俺の間に今更、性別なんてもの挟むのは野暮なだけだ。それこそ空気読まないってヤツだ。俺はそこまで鈍感なつもりは無い。

「……キョン?」

「ん、どうかしたか?」

「出来れば君の隣に座れるよう、椅子を用意して貰えると嬉しい」

 佐々木はコートを脱ぎながら、

「それとも、君のベッドにでも座っていようか?」

 そんな一言でベッドに横たわる親友の姿を想像しちまった俺は、ああ、最悪だ。妹の部屋から借りてくると言い残して慌てて部屋を出た俺の耳に少女の、喉の奥でくぐもるような独特の笑い声が聞こえた。

 佐々木先生の家庭教師は少なからず学校の教師よりも効果を実感出来るものだった。土台の反復練習から始まり、俺が指を動かしている間も読み聞かせは途切れない。後から聞くとそれは指と眼と耳と、使えるものを全て活用するというやり方らしい。
 一時間もすると俺は、今やった二十ページほどの内容からならばどのような問題を出されても答えられる自信を付けていた。なんだろうか、この達成感は。まるで魔法のようだ。

「佐々木」

「なんだい?」

 感想は素直に口を突いた。

「お前はいい教師になれる。俺が保障する」

 瞬間、佐々木が小さく吹き出した。人が真面目に言っているのにどうして笑い出すんだよ、お前は?

「飲み物を口に含んでいない時で良かったよ。危うく君の衣服を汚すところだった。――キョン。今度からそういった突拍子の無い事を言う時は事前に警鐘を鳴らしてくれ」

 無理を言うな。大体、俺は今面白いことを言ったつもりなんて欠片も無いっていうのに。

 どうしろってんだよ、実際。

「……もしかして俺が悪いのか?」

 微笑を浮かべる佐々木の眼は下弦の三日月を模して、意地悪く俺を糾弾した。

「もしかしなくとも、君が悪い」

 マジか。人を褒める行為すらTPO次第では悪行へと変貌してしまう現代社会に俺としては強く危機感を覚える。悲しいね。

「言わんとする事は分かる。けど、生業として教師を選んだ人たちと今の僕とではどうあっても比較にはならないよ」

 佐々木は冷めてしまったコーヒーを一口含んで、

「彼らは複数を相手に授業を行っている。三十人余といったところかな。キョンの学校も一クラスの人数はあまり変わらないだろう? つまり、単純に考えて伝える力は一人頭三十分の一まで落ち込んでしまうことになる。それで授業を成立させなければならないのだから、先生方には文字通り頭の下がる思いさ」

 三十分の一……まあ、そう聞くと確かに教師ってのは難儀そうだな。俺なんかが簡単に薦めて良いものじゃ、どうやらなかったらしい。

「なるほどな」

「とは言っても、だ。褒められた事それ自体は嬉しいよ。ありがとう。まあ、二年前の経験と反省を活かしているからね。多少、教え方も上手くはなっているという実感は有る」

 確かに。二年前は卓袱台に頭突き合わせて一緒に勉強して、分からないところを教えあうスタイルを取っていた。だが、今回の佐々木は違う。

 俺の向かいではなく隣に座り、ただ参考書を開いているだけ。まず、舞台が卓袱台じゃない。だから、その手に筆記用具は無いしそもそものノートを佐々木は持たない。

 その様はちっとも急ごしらえの家庭教師には見えないくらい堂に入っていた。

「しかし、これは八割方君のためだ。残りの二割はバイト代のためで、残念ながら家庭教師にも教師にも僕はなろうと思ってはいない。だから手際を褒められても、うん、ここまで言えば分かるだろう――僕が笑ってしまった理由も」

 的外れ、だな。

「その通りさ」

 そこで俺はふと疑問を抱いた。いや、どうって事もない、そりゃもう他愛もないクエスチョン。

 だが、最近俺の胸中に巣食っている元凶――なのかも知れないヤツ。

「つまり、佐々木よ」

「ん?」

「お前は将来なりたいものが有るのか?」

 佐々木は眼を細めて即答はせず、値踏みするように俺を見た後でくすり、笑った。

「キョン、君には無いんだね」

 多分、ざわついているのは「これ」なんだろう。原因か、遠因かは知らんが。

 俺は肯定した。否定なんて出来るはずもないしさ。

「なりたいものが僕には有るよ。確固として、なんて言えるはずもないけど。そうだね……出来ればなりたい、くらいの気持ちでしか今はない。けれどそのために今やれる事はそれなりにやっている。具体的に言えばそれは受験勉強で誰しもがやっている事になってしまうが」

 親友の言葉は、眩しかった。正直に言ってしまえば――嫉妬。そう、俺は少女に嫉妬していた。

「俺には……俺にはそういうの、無いんだよな」

「そうか」

「なあ、佐々木」

「ん? なんだい?」

 親友の眼を見る。それはぶれない人間の持ち物だってのが一目で分かってしまう真っ直ぐなもので。

 俺に無いもので。

 佐々木が持っているもので。

 俺に無いもので。

 ハルヒもそういえば同じ眼をしていたか。

「お前らばっか、ずるいよ」

 情けないことを言っているのは分かっている。

 けど。

 知りたかった。同じ目線に立ちたかった。情けなくとも、みっともなくとも、それでも置いていかれるのはどうしても嫌だった。

「『そういうの』って、どうやって見つけるんだ?」

 目の前の親友以外にこんな事を吐露出来る相手なんて、俺にはいない。なあ、佐々木。春に再会した時にお前が言った、そのとおりじゃないか。

 親友。

 俺がそう呼ぶのは、実はも何もお前だったんだな。先見の明だ。ブラボー、ブラボー。拍手喝采。

 でもって、その明晰さで。

 どうか俺にも道を示しちゃ貰えないだろうか。

「……キョン」

 太ももの上でずっと開いていた参考書をパタンと閉じた佐々木は苦しいような嬉しいような、笑っているようにも泣いているようにも見える曖昧模糊な表情をした。もうあと一ミリ目尻が下がればそれは泣き顔になるだろうし、二ミリ口角が上がれば笑顔にだって見えるだろう。

「それは人に教えて貰えるものじゃない。分かっているだろう? 教えてあげられるものでもないんだよ」

「――だけど」

「だけども何も無いよ。例外も抜け道も裏技も無い。例えば僕が君に宇宙飛行士になりなさいって言って、君はそれを自分のなりたいものだと思えるかい? 思い込めるかい?」

「違う。そうじゃない。俺がなりたいものズバリそのものを教えてくれ、って言ってんじゃなくって、ええと、なんだ、もっと、その取っ掛かり――そう、取っ掛かりの部分をだな」

「だから、それがさ」

 佐々木は窓の外に視線を投げた。

「出来たら苦労しない、って僕はさっきからそう言っているつもりだったんだけど、分からなかった訳じゃないんだろう、キョン」

 ……だよな。自然と溜息が零れた。

「なんか、すまなかったな」

「いや、別にいいさ」

 思い返すとかなり恥ずかしい事を言っていた気がする。途端に自己嫌悪にどっぷり浸かりそうになって、いや、でもこんなんは俺ばっかりの悩みでもないだろと慌てて自己弁護に思考は走った。高校生なら普遍の議題であろう。

「気持ちはね、分かるんだよ」

 なりたいものが有ると、俺に向けてそう言い切った佐々木はけれどシンパシを抱けると。

 どういうことだ?

「ねえ、『そういうの』を僕が最初から持っていたと思うかい? キョンが今抱いている悩みは高校受験の時に僕が抱いていたものに、そっくりだよ」

 くつくつと、佐々木は笑って。それはなんだ? 俺の精神年齢がお前より二年ほど遅れてるってそういう――馬鹿にされているようにしか聞こえないぞ。

 もしかして俺、怒っていいのか?

「いやいや、こういうのは時期がバラバラで、それで当たり前さ。早い遅いは個人差で、そこに優劣は無い。人格の問題に転化するなんてのは以ての外だ」

「……そうか?」

「そうだよ。だから、恥じ入ることじゃない。むしろね。僕は非常に嬉しいんだ。こうして君から頼って貰えることが。こんな悩みをキョンから打ち明けられる自分を」

 佐々木は笑顔で。

「誇りに思う」

 つられて笑顔になってしまう俺がいた。

 まったく不思議だ。こんな悩みを打ち明けたのに。

 俺は佐々木に向けて笑えてしまっている。

「なんだよ、それ」

「おかしいかな? 僕としては非常に名誉なことなんだが。少々、個人的過ぎただろうか。いや、共感して貰おうなどとは露ほどにも思っていないさ。して貰いたくないとまで言ってしまえそうだ」

 せっかくだし独占したいじゃないか、と佐々木はほんの小さく呟いて。

「キョンもいよいよ受験生らしくなってきたね」

 俺の親友は満足そうにそう言った。

 佐々木はどうやら夕食をウチで食べていくようだ。という事は……アレ? 何時まで居るつもりなんだよ、一体。

「気の済むまで、だね」

「ちょい待ち。それは俺のか、それともお前のか?」

 それが問題だ。だってのに佐々木は事も無げに、

「両方」

 おいおい、簡単に言ってくれるじゃねえの。

「両者の合意をもって授業終了とする。本来、教育とはこう有るべきだと思わないかな?」

「思わないな!」

 本気と書いてマジで。佐々木はいつまで居る気なんだ? 現在時刻は十八時過ぎで夕食までは秒読みに入っている。いつもならそろそろ妹が呼びに来る頃だった。

「まあ、日付変更前にはいくらなんでも帰るさ」

「リミットが遅過ぎるだろ」

 呆れて言う俺に、佐々木は足を組み替えながら笑った。

「君の受験生としての自覚と果たしてどちらが遅いかな? ……っと、これは少し意地悪が過ぎたね。くっくっ」

 おちょくられている。なんとか言い返そうとしたが……ダメだ。口でコイツに勝とうとするその考えから既に間違っている事に気付いただけに終わった。

「まあ、実際問題としてだ。遅れている分を取り戻すのだから相応の時間は掛かる。覚悟しておいてくれ、キョン」

 因果応報。これまで碌に勉強してこなかった事がここに来てずっしりと圧し掛かる。しかも親友まで巻き添えにしてだ。情けないな、まったく。

「そう卑下しなくてもいいさ。さっきは君をからかうためにあえてああ言ったけどね。遅過ぎるなんて事はまるでない。この時期なら十分取り返せるさ」

「そうは言うけど佐々木よ」

 実際問題、俺はほぼ二年間の授業をまるまる溝に捨ててきたようなモンだ。その二年間を一年で取り返すなんてのは長門に時間でも操作して貰わん限り難しいだろ。

「言葉を返すようだけど」

 しかし、それでも俺の親友は言うんだ。言って、そしてそれは俺を納得させてしまえる。

 まるで、宇宙人のように。未来人のように。超能力者のように。異世界人のように。

「三十分の一だよ」

 説得力の塊。ユーモアの権化。それはまるでもう一人の――。

 いや。頭を振って馬鹿な考えを捨てる。

 佐々木は、佐々木だ。他の誰でもない。そうだろ?

 夕食の席で俺たち……否、俺はこれでもかとお袋にからかわれた。思い返すのも嫌になる。

 佐々木を伴っての食卓なのだから過去を振り返るまでもなくこうなるのは予想していたのだけれども、それにしたってしかしお袋には俺の予想を裏切って貰いたかった。勿論、いい意味でだ。

 歳を取ったら俺もこんな風に若者をからかわずにはいられなくなるのだろうか。いや、自分がされて嫌だったからこそ、それを反面教師としなければなるまい。うむ。

 しかしながら、テーブルへと今夜一番の爆弾を投げ込んだのはお袋ではなかった。なら誰だったのかと聞かれれば該当者なんて我が家に一人しかいないだろ?

「佐々ちゃん、いっそウチの子になっちゃいなよー」

 この一言には流石のお袋も凍りついちまった。この親にしてこの子有りってのはよく聞くが、それでも母親が余りにかわいそうだった為にこの場面で使うのは躊躇われたくらいだ。

 小学校六年生。もうそろそろその手の発言の深い意味は分かるはずだろう。弟妹が欲しいだの、赤ちゃんはどうやって産まれるのだのといった愛らしくも回答に困る具体例を持ち出すまでもなく年齢とともに禁句は増えるものなんだ。

 それでも。突発かつ緊急事態でありながらもあっさり無難に受け流した佐々木に俺は賞賛を贈りたい。俺ではとても穏便とはいかなかっただろう。

「しっかし、咄嗟によく出て来たモンだよな」

「出て来た? なんの話だい?」

 俺たちは夕食を終えて授業を再開していた。学習机に向かう俺の隣七十二センチという位置を少女は定位置としたらしい。近からず遠からず。全ゴルフプレーヤ垂涎の絶妙の距離感。古泉のヤツにも教えてやって欲しい。

「いや、さっきの。ウチの子にならないかに対して『その時はよろしくね』だったか。曖昧に濁すってのは例えば俺が同じ事をやろうとすると『考えておく』になるんだが、いくらウチの妹が相手とは言えやんわりとした否定だってのが丸分かりだ」

「……だね」

「お前のはさ、こう、肯定しているようにも取れなくはないっていうか、いや社交辞令なのは誰の眼にも明らかだが」

 しかしながら妹の眼(この場合は耳か?)には映らない絶妙のラインだった。参考書を眺めながら横目でチラリと少女の横顔を覗、ヤベ、眼が合った。

「ふーん、社交辞令。社交辞令か。キョンはそういう風に受け取るんだね。そうか……それは残念だな。僕は本当に脈無しらしい」

「……あのなあ」

 一体どこまで本気なのやら。

 まかり間違えて真に受けてしまいそうな、健全な男子高校生ならば深い意味とやらに自ら率先して取り違えにいきそうな。

 そんな表情と言い方を佐々木はしたわけだが……残念ながらそんな器用な勘違いは俺には無理な相談だ。なぜなら、俺は佐々木のことをそれなりによく知っているから、となる。

 このシリアスぶった顔は過去に何度か見ている。俺をからかっている時の顔だ。そうだろ?

「佐々木よ。多感な年頃の青少年を弄るのは決して良い趣味とは言えないな。ウチの母親とやってる事が大差無いぜ。玩ぶにしても、もうちょいと捻るべきだ」

 俺が言うと佐々木は破顔した。

「くっくっ。冷静だ。もう少し動揺してくれるのを期待していたんだけれど、流石はキョンと言うところかな。うん、面目躍如だね」

「お褒めに預かり、光栄だ」

 それでも内容の五割ほど馬鹿にされている気がする。いかんいかん。どうにも被害妄想気味だな。

 ……自虐、かも知れん。自分をいじめて喜ぶ変態趣味なんか持ってはいないはずなんだが。

 佐々木はニコリと笑った。そして口を開く。

「……それとも」

 今日、一番の爆弾が俺に向けて投げ込まれた。

「君を驚かすのは――涼宮さんの領分なのかな?」

「はあっ!?」

 叫んだ後で我に返る。しまった。口にも顔にも動揺がこれでもかと出てしまった。

「ど、どうしてそこでハルヒが」

 声が上ずる。

「ハルヒが出て来るんだよ」

「おや、どうしたんだい、素っ頓狂な声を出して。もう少しクールな性格をしているとキョンを評価していたのだが、どうも僕の中の君の人物像に若干修正の余地が有るようだ」

 汚名挽回、名誉返上。そんな言葉遊びで現実逃避を試みても、それこそハルヒの領分だ。どんだけ穴が有ったら入りたくとも、頭隠して尻モロ見えって具合に恥の上塗りも十分承知。

 つまり、ここは佐々木戦法、こちらから逆に乗っかっていって有耶無耶にするのがベストと俺は見た。

「豊かな感性の持ち主だと備考欄に加筆しておいてくれ」

「分かった。それで?」

「『それで』の意味が分からん」

「涼宮さんと聞いて目に見えて狼狽した、その理由について説明を求めてもいいかな?」

 眼を伏せた少女は……睫毛長いな。

「何か有った、のだろう? そうでなければいささか以上にキョンの態度はおかしい。
 涼宮さんとの、もしくはSOS団の間で問題ないし事件が起こっているのではないかな。君はそれに僕を巻き込みたくないと考えている。
 そう、僕は推理するよ。僕に対して涼宮さん関連の話は極力しないでおこうとさえ思っていたんじゃないのかな?
 思い返せば一時間以上顔を合わせていながら、僕と君との関係において彼女、もしくはその周囲の愚痴すら聞かれなかったというのは出来過ぎだ」

 対してお前は考え過ぎだと俺がたしなめる間もなく、佐々木の的外れな推理発表会は続く。

「これは君がわざとそれた方向に会話を誘導した結果だろう。ああ、自分を卑下する必要は無いからね、キョン。勉強に集中している振りは見事だったよ。君の天職は実は役者なのではないかと勘繰ってしまうほどだった」

 演劇部に興味が無いどころか、学祭でも演者ではなく裏方に徹していた俺に何を言っているのやら。

 それに勉強に集中していたのは本当であり、これまた天職ではないかと疑ってしまう佐々木のゴッドハンドっぷりに引きずられただけであるのだが、それを指摘してもこの親友は謙遜に謙遜を重ねるのだろう。

「君が話をずらしたのが故意ならば、僕が彼女の名前を出したのも故意だが。それでもここまでキョンが動揺するとは思ってみなかったのは本当だ。少しばかり僕も驚愕に釣られてしまったほどさ。
 端的に言ってあの反応は異常だね。確実にいつもの君ではない。となるといつもではない、何か特別な事情が君の方に存在していると見るのが筋だろう」

 ニヤリと笑うその眼にわずかばかりの期待を乗せて。

 おいおい、佐々木よ。何を考えているのかは俺にも心当たりというか身に覚えが有るというか、なんかそんなのなんだが、ここ半年でお前までハルヒズムに感染しちまってたんだとしたら、それは多少なりと俺の責任でも有るのだろう。

「はあ……やれやれ」

「その溜息の出所は僕絡みかい?」

 まあ、概ねその通りだ。だが、それだけでもなかった。足を組み直す佐々木は俺に向けて言う。

「それとも」

 それとも――、

「涼宮さんかい?」

 ズキリ。幻痛が胸を貫いた。溜息の出所は肺で間違いないことを痛みをもって俺に教えてくれている。

 ――今のは顔に出てしまっただろうか。かも知れない。そもそも俺は表情を隠すのが上手くないからな。豊かな感性の持ち主だし……と、そうい
う事にしておこう。

「どうやら図星のようだ」

「そういうお前はどうなんだよ」

「どう、って?」

「お前、なんだか嬉しそうだぞ」

 佐々木は耳の上を手櫛で軽く梳いた。

「まあね。はたで見ている分にはそこそこに刺激的なんだ、君達は。他人事だから楽しめるっていうのは、きっと渦中の本人に言うべきではないのだろうけど」

「全くだ……ま、でも」

 言われて気を悪くするのは、もう俺には無理そうだった。

 『窮地』は脱したのだから。

「俺、SOS団辞めちまったしな」

「え?」

 呆気に取られたような、口を半開きにする佐々木は俺が初めて見たかも知れない素の表情で、出来ればこんな話題で見たくはなかった。

「……ちょっと待ってくれ」

 佐々木は右手を、その手の平からエネルギー波でも放つように俺へと翳した。

「今、僕の耳にはSOS団を辞めた、と。そう聞こえた訳なのだが」

 なるほど。余りにも信じられなかったが為に、自分の聞き違えを疑ったのか。まあ、部活を辞めたってのは確かに大事件ではあるのかも分からん。しかし果たして見事なまでに個人的な内容のそれに佐々木が狼狽するような要素が有っただろうか。

 いや、無い。

「ああ、そう言った。俺は、SOS団を、今日、退部した」

 聞き直しが無いように一語一語を区切って強く発音する。音楽で言うところのクレッシェンドだ。あれ、スタッカートだったか? まあいい。

「今日? それはまた……どうして?」

 どうしてだろうなあ。後頭部をワシワシと掻き混ぜてみたが、該当はゼロ。直接的な理由はただの着火でしかないのは明白だった。

「焦り……だったんだろうなあ」

 置いて行かれたくないという漠然とした未来への不安。そしてそれを払拭する為の行動へと至れない自分の不出来。そういったものの理由付けに俺はきっと心の隅っこでSOS団を用いてきたのだ。

 テストが出来なかったのは超能力的な世界平和に貢献していたからだ。

 勉強時間が取れなかったのは宇宙的な侵略計画へ異議申し立てを行っていたからだ。

 通知表が散々なのは未来的な平行世界増殖を未然に防ぐため奔走していたからだ。

 俺が何もしてこなかったのはSOS団に在籍していたからだ。

 少しもそんな風に思っていなかったと、言えばソイツは嘘になる。そして隠れ蓑にするには「そこ」は楽し過ぎた。不安が育ち切るまで眼を背け続けられるくらいには。

「……焦り、か」

 俺に一体何が有ったのかの、その八割くらいは理解してしまっているような深い感情を佐々木はたった一言に乗せた。

「だから、まあ、口にするのすら情けないが退部の理由は八つ当たりだ」

 八つ当たり。なんて身も蓋も、そして救いようすら無い理由だろうか。けれど今更仕方が無い。弁解なんて出来ないし、復縁も考えちゃいない。

 だから逃げるように今はただ勉強に打ち込みたかった。佐々木の黄金色の手腕は、そういう意味じゃ俺にとって渡りに豪華客船だった訳だ。

「……そう、八つ当たりだ」

 自分に言い聞かせるように繰り返した。それから俺は佐々木に向けて何を口にしただろうか。言葉少なくぽつりぽつりと低空飛行を続ける成績への愚痴を吐き散らしていたような気もするし、自分の不甲斐なさを重低音でわめき散らしていたかも知れない。

 正直この辺りは感情のままに喋っていたせいで内容をよく覚えておらず、もし佐々木に酷い事を言っていたとしても一つとして不思議じゃない。覚えてないってのはなんて万能な、そして誠意の欠片も見られない言葉なんだろうとよくよく思うよ。

 本当に思い出したくもない。それは……これは――、

「逃げてるだけじゃないか」

 ハッとする。我を取り戻して佐々木を見上げれば(いつの間にやら下を向いていたようだった)、少女はそれでも俺に微笑みかけていた。こんだけ無様な男を前にして「女神かコイツ」などと思ったりもしたが、いやいやその比喩は心底笑えない。

 佐々木は慈愛に満ちた女神なんかじゃない。それを俺に再確認させるように、その眼は一つも笑っていなかったし語気は有無を言わさない厳しさに満ちていた。

「今度は僕を逃げ場にする気かい、キョン?」

「そんな……そんなつもりは」

 違う。そうじゃない。まったくの誤解だ。真逆と言ってもいい。俺よりも数段賢いお前が分からない訳ないだろ?

 ハルヒプロデュースのファンタジィから現実への着地をしようとしてんのに。応援して貰えるものだと、歓迎してくれるだろうと思っていたのに。
 どうして……どうしてそれをたしなめられなければならないんだ。本来、そうであるべきものじゃないのか、人間ってのは。地に足を付けて生きるものじゃないのか。

「涼宮さんはファンタジィじゃない」

 なんてこった。

 俺は、ハルヒを。

 ハルヒをいつの間にかそんな色眼鏡で見てしまっていた事に――気付かされた。

 そんな当たり前のことを俺は見失っている。大前提だったはずで、長門も朝比奈さんも古泉も色眼鏡を外せない中、唯一そういったこと抜きに向き合っていける「俺」ってのが必要とされているんだと。

 薄々気付いていた。SOS団に何の取り得も無い平凡な俺が招かれた理由。だってのに。

「僕としてはね、君が勉学に励む決心をしてくれたのは自分の事のように嬉しい。それが未来への不安に駆り立てられてというのも、それはそれで別に間違ってはいないとも思っている。
 自分から勉強と向かい合える高校生なんてものはごく稀だ。嫌々やらされていても別にいい。好きこそものの上手なれと言うが、それはしかし苦手は上達しないと言い切っていない。希望を摘み取るなんて無粋な真似を先人はなさらないさ。
 いや、なに。キョンを貶しているのではないんだ。むしろ君はこれから先よく伸びると思っている。勉学――未来の為に君が熟慮の結果、SOS団を辞めると、そう決めたって構わない……元々僕には何を言う権利もないしね。けれども、だ」

 佐々木はそっと目蓋を閉じた。稚児に道徳を説くようにゆっくりと続きを話す。

「それと、涼宮さんに当たる事とは無関係だ。無責任と言い換えてもいい。義理を果たさない友人を僕は持ったつもりなんて無いよ。だから、君には退部という結論に至るまでの経緯を彼女にきっちりと説明する義務が有る」

 義務、と言われて甦る苦い台詞。

「なぜ俺はお前に洗いざらい白状せねばならんのかと言っているんだ」。

 心情を吐露するというのは中々にハードルが高い。ほら、一番正直なところは言えないだろ、何事も。人間の本音ってのは鋭過ぎて傷付ける事しか出来ないんだ。腹を割ったら話もまともに出来ず、死ぬ。

「心の内をさらけ出せとまでは僕だって言っていないさ。あくまで事務的に、淡々とでいい。僕の見る限り涼宮さんは決して話の分からない人ではないよ。君が受験勉強のために――しいては自分自身の未来のために一番良いと思われる選択をしたと、そう知ればきっと彼女も認めるはずさ」

 どうだか。お前は知らないかもしれないがアイツは中々に嫉妬深いし独占欲も強い。素直に「はい、そうですか」とご納得頂ける様子が俺にはとんと想像付かん。また変な理屈を捏ね回すだろうってのに三千点。

 そもそも俺はSOS団を辞めたいってんでもないしな。

「知ってるよ」

 何を知っているのか。何もかもか。その慧眼は俺なんかに向けられるのが本当に勿体ない。

 ハルヒじゃないが、これこそ大いなる世界の損失ってヤツだと思う。うむうむ。

「キョン、君は一度涼宮さんとちゃんと話をしてみるべきだと、そう僕は思うよ」

 以上、佐々木大先生のお言葉に愚直に従って俺は、午後十一時現在、ハルヒへの謝罪文をしたためて電子メールへと乗せた。流石に佐々木の見ている前で文章を考えるなんて恥ずかしい真似は出来なかったと言えば分かるだろうが、流石にもう少女は帰宅済みだ。

 送信ボタンを押す時に指が震えた。この文面でいいのか、そもそも電子メールという伝達方法でいいのか。悩み出したらキリが無い。

 それでも「今日はすまなかった」というタイトルだけは佐々木の入れ知恵で、最初にこちらが下手に出ておけば意地っぱりな少女であってもすんなりと文章に入っていけると……そんなに簡単なものでもないと思うが。

 それでも縋る対象としては藁やシャミセンよりもよほど適正なのも事実であり。迷った挙句、最終的に異性の考えることなど俺にはさっぱり分からんと下手な考えは山の向こうへと放り投げ、佐々木を信じることとした。

『タイトル通りだ。悪かった。出来れば釈明をさせてくれたら助かる……ってメールでこれもないか。以上、一方的に書き散らすつもりだ。読んでもらえることを願うしか俺には出来ん。
 最近、クラスになんともシリアスな雰囲気が漂っている事にお前は気付いているか? 好意的に言語変換するとアレは受験生としての自覚ってのの表れの一種だ。そして、どうやらソイツは伝染性を持っているらしい。
 ここまで言えば賢いお前のことだ。なんとなく察しは付いただろ。でもって俺も類に漏れず感染――朱に交わっちまったらしいんだな、コレが。ああ、流され体質だと今回ばっかりは笑ってくれていいぞ。
 率直に、かつ素直に言えば俺は焦っていたんだ。勉強を疎かにしていた事だとか、今まで何をのんきに自堕落かつ無目的に過ごしてきたんだお前は、みたいなアレコレ。自業自得だよな。
 自業自得なのに、だ。それでも今日、お前に当たっちまった。本当に悪かった。明日、顔見て謝れるかどうか分からないから、こうしてメールにしてみたが、出来ればちゃんと眼を見て謝りたいし、経緯だってもっと詳しく説明させて欲しい。
 もしも、お前が俺を許してくれたとしても、これから足はSOS団から少しづつ遠のくと思う。一応、この身の振り方も俺なりに考えた結果だ。それが気に入らないなら、団長はお前なんだ、退部にしてくれ。

 ごめん』

 思っている事をそのまま打っただけだった。推敲をしようとも思ったが、しかしそのままの方がこういうのはむしろ伝わるんじゃないのかとベッドの上で煩悶した時間は優に六百秒を越えた。結局、追記は最後の一言に留まって、ほぼ原文ママである。

 しかし、俺は本当に文章力が無いな……全体を通じて一貫性に欠けるのは、まるで俺という人間の意志薄弱を写し込んでいるようだ。

「……やれやれ」

>>83
二回目の「流石に」を消去
二連続の「それでも」の後者を「しかして」に

各自の脳内で編集願います

 あの後、どうやら俺はケータイを放置して寝てしまったようだった。時間も時間だったし、慣れない頭脳労働は余程堪えたのだろう。メールの着信にも気付かないくらい俺は爆睡してしまっていた。

 夢を見た。

 それはいつぞや見たことの有る夢で、大学生になった俺がハルヒの膝枕で眠ってしまっていたという思春期の妄想を最大限まで増幅したようなこっ恥ずかしーシロモノだったのだが、いやいや、こんな甘酸っぱいものが俺の深層心理の鏡だなんて。

 認めたくないものだな、若さゆえの過ちってのは。

 そして、それには続きが有って。そこには長門に古泉、更には朝比奈さんと佐々木の姿まで有った。以上、それが俺の願望だってのに異議申し立てし難いという……まあ、それが未来であったのだとしたら確かに喜ばしいものではある。

 誰一人欠けず。SOS団は不滅だってハルヒの言が、願望が真実になってしまうのだとしたら。それはまあ、歓迎すべきなんだろう。というか否定する要素がない。

 しかし、その為には俺には圧倒的に力が無いな。現実は夢と違って怠惰に厳しい。

 っと、そうだ。メールの内容を紹介しなければならん。夜の内に届いたのは四通。その内訳は二通が迷惑メールだった。いや、三通と言うべきだろうか。古泉から届いたモノに関しては閉口しかリアクションが取れなかったからな。

『貴方の選択と決定を機関としては全面的に支持し、バックアップしていきます。お力になれる事が有りましたら遠慮無く言って下さい』

 今日、古泉に会った時に言う第一声は決まっていた。それはつまり「プライバシ侵害で訴えるぞ」だ。

 あの超能力野郎、マジふざけんな。

 で、もう一通は言わなくても分かると思うがハルヒからだ。受信時刻は日付が変わって午前一時過ぎ。アイツ、今日は絶対に寝不足だな。

 少女が夜更かしをした責任の一端を担っているのは誰でもない俺自身であり、そこに罪悪感が無いかと言えばそりゃ勿論有るに決まっている。

 今日一日くらいは睡眠学習を敢行するハルヒを起こさないように努める、くらいしか俺に出来ることは無さそうだが、ま、それくらいはやってやろう。お詫びとしちゃいささか地味過ぎるのは……こういうのは心が大事なんだ。

 さて、皆様注目であろうそのメールの本文であるが、勿体振るのすら馬鹿らしい。古泉からのメールをも越えて簡素極まりない内容だった。

『分かった』

 ……四文字って。

 ……四文字ってどうなんだよ、お前。人として。女子高生として。

 どこまでも深読み出来そうな文章であり、果たしてこれを文章と呼んでいいのかすらから俺にはもう怪しいのではあるが、しかしまた短過ぎて深く掘る以前にスコップの先が入らなかった。

 作者の感情を読み取るどころの騒ぎではない。要旨を抜き出すにしろ、これ以上どこを削れというのか。現国の授業はここに来てその応用範囲の狭さを露呈したことになる。まあ、高校の授業がこれからにどう役に立ってくるのか、俺としては常日頃からの疑問で……と、話が逸れたな。

 それにしたって、このメールを俺はどのように受け止めればいいのだろうか?

 まるで意図が読めんのだが。

 面倒くさかったのか。はたまた、まだご立腹を継続させていらっしゃるのか。……多分、ハルヒ的にはどっちかだろう。もしかしたら万が一にでもあっさりと機嫌を直しているんじゃないか、って希望的な可能性はこれで塵と消えたことになる。

 根に持つヤツだとは別段思ってはいない。むしろ陰険って言葉がこれほど避けて通る相手も珍しいくらいのヤツなのであるが、それにしたって退部を告げた相手をそう簡単に許せるはずもないのは俺にだって心情的に理解出来る。

 ああ、学校へと向かう足取りも重い。こんな日に限って空は俺を嘲笑うように久々の晴天。憎々しいと思ってしまうのは俺が捻くれ者だからなのか? 自覚が無い訳じゃないけどさ。

 それでも、電車は事故も無く順風満帆の定期運行、地獄の上り坂も氷が張っている素振りは無し。俺の登校を阻むものは何も無いのだから、当然足を止めない限り教室前まで辿り着けてしまう。

 そして戸の前で最後の一歩を躊躇した。

 ここまで来ていながら揺らいでしまう程度の覚悟なら、最初から自主休校しておくべきだったんだよなあと考えても後の祭り。

「今度は僕を逃げ場にする気かい?」。なーんて佐々木の声が脳内で追再生される。ああ、分かった分かった。分かりましたよ。逃げ腰じゃ何も始まらない。前を向かなきゃ進めない。

 せめて風当たりが少しでも弱まるようにと心の中でハルヒ大明神へ割と本気で祈りつつ、俺は合戦場への最後の一歩を踏み出したのだった。

 ……俺はどうも勘違いをしていたらしい。

 いや、思い違いだろうか。

 涼宮ハルヒという少女の特異性。

 出会って間もない頃の話だ。宇宙人、未来人、超能力者を探している理由を俺が尋ねた時、ソイツはなんて答えたか。俺はよく覚えている。人間とはここまでシンプルになれるものなのかと、内心深く感動したものだった。

「その方が」

 シンプルとは決して貶し言葉ではない。その後に続くのは「イズベスト」が定型句。

「その方が面白いじゃない!!」

 好奇心と書いてハルヒズムとルビを振ったところで、間違いではないくらい。

 少女は常日頃から面白いことに飢えている。

 てっきりハルヒは俺と眼を合わさないように顔を外に向けて机に突っ伏し、寝た振りをしているものだとばかり思っていた。もしくは俺との接触を極力断とうとしてチャイムぎりぎりに登校してくるんじゃないかと。

 そんな場合における俺の身の振り方を登校中の脳味噌で繰り返していた訳なのだが。

 冗談じゃない。

 すっかり忘れていた。ハルヒ相手にシミュレーションなんてものが通じた事が一度でも有っただろうか。経験則に裏打ちされた鋼鉄製の「ノー」の文字。俺の卑小な脳味噌などでアイツが収まり切るはずもないのだ。

 なぜそんな簡単な事をまるっと忘れてやがったんだよ、俺。

 ああ、それは。いつか見た。久々に見た。

 至極ご満悦な悪代官を思わせる笑みをその端正な顔に勿体無くも浮かべて、身体は廊下を向けて椅子に横座り。右肘を背凭れに寛げて足を組み、これで左手でワイングラスでも転がしてりゃ完璧だ。

 その顔には透明な墨汁でデカデカと「待っていたわ」なーんて書かれていた。

 何をする気なのか。何をやらされるのか。ペナルティ? 罰ゲーム? そんなプラス要素の欠片も見当たらない言葉ばかりがぐるぐると頭上を衛星軌道で周回する。まだ一言だって口を聞いちゃいない。ハルヒは俺の姿を認めるとニンマリ微笑んだだけなのだ。

 だってのに。俺は恐れおののいていた。あの顔をしたハルヒはロクな事を言い出したためしが無い。今度は何を思いついた? ああ、今すぐ詰め寄って白状させてやりたい衝動に駆られる。いや、違う。逆だ。出来れば聞きたくない。聞かなかった振りをしてやり過ごしたい!!

 一歩、二歩。断崖絶壁、自殺の名所に近付いていく心持ちだった感は否めない。しかしながら俺の席はその先端にぶら下がっているのだ。退路は無い。やっぱ今日ばっかりは自主休校しておくべきだったか。第六感はきちんと警鐘を鳴らしてくれていたというのに、俺ってヤツは。

 男の子としてのなけなしのプライドは、貫いた場合大抵悪い方向にしか導いてくれない。これも経験則。

 ……足、震えてないよな。

 登校時の心臓破りの坂が可愛く思えるほどにその五メートルは茨の道だった。途中「用件を思い出した」とか言って回れ右をしようと二回くらい思ったのは、ひとえにハルヒの眼力が原因だ。

 銀河系をまるごと詰め込んだようなアーモンド型の大きな瞳は、狙った獲物を逃がさない。確か北欧辺りの神話に一睨みしただけで敵を殺せる神様だか悪魔だかが居たはずだ。バタールとかバザールとかそんな名前の。

 涼宮ハルヒは恐らくソイツの化身であろう。そうに決まっている。蛇に睨まれた蛙の慣用句と俎上の鯉が同時に俺の脳裏を過ぎったのは冗談にしても笑えない。

 ラスボス目前、七十二センチで立ち止まる。ビビって声が出ないなんて情けない真似だけはしないように大きく息を吸い込んだ。

「おはよう」

 しまった。第一声はメールと同じく謝罪から始めるはずだったのをすっかり忘れていた。それもこれもあれもどれも、全部ハルヒのチェシャ猫笑いが原因で、それによって調子を狂わされているのは分かっているのだが、どうにも身体のコントロールが上手く司令部に戻ってこない。

「ああ、おはよ。遅かったじゃない、キョン」

 いつもと変わらぬ……いや、鼻歌でも今にも聞こえてきそうにいつにも増して上機嫌なハルヒは、ハッキリ言おう、気味が悪い。だってそうだろ? 俺は昨日、コイツと喧嘩したばっかりなんだぜ?

 そりゃ後になってメールで謝ったりもしたが、それにしたってこの対応は俺の常識じゃ有り得ない。常識で語れないから涼宮ハルヒ? かも知れん。

 ああ、忘れていた。なんかいつの間にやら「理解した」気になっていたが、「どうかしてた」の間違いだ。

 コイツは――それでもコイツは涼宮ハルヒなんだ。

 ハルヒの前を行過ぎて自分の席へ向かおうとする。なぜだ? なぜ、ここでさらりと昨日は悪かったの一言が出て来ないんだ、俺!

 こんな事じゃ昨日の二の舞だろ!

 そんなの当然分かってる。分かってんのに身体が勝手にハルヒへ背を向ける。口が上手く動かない。

 俺から切り出した精一杯の挨拶は、けれど二の句を継げやしない。だれだ、挨拶は人間関係の潤滑油だなんて言い出したのは。ピリオドになっちまってるこの状況に対して俺は謝罪と賠償を要求するぞ。

 そんな俺の煩悶を知ってか知らずか。

 不意に背中に声が振った。

「昨日は……その、悪かったわね。上に立つ者として配慮に欠ける言い方だったわ。一応、反省してる」

「……は?」

 それは余りに衝撃的で。ああ、憎々しい青空はこの霹靂のための前振りだったんだろうなあ、なんて咄嗟にそんな、トビキリどーでもいいことを考えちまうくらいに俺は驚いて。

「は、じゃないわよ。悪かったって謝ってんだから……こっち向いてなんとか言いなさいよ」

 火中のトウモロコシが爆ぜるみたいに俺は座ったまま振り向いて、ああ、こういうのは勢いだ。勢いで割と人生なんとかなっちまうって、これはハルヒから教えて貰ったんだけどな。

「お、俺も!」

 ハルヒの机に両手を付いて頭を下げ……ようとしたんだが、どうにもそこまでは踏み切れないのはこれもまた「オトコノコ」とやらが邪魔しているのか。きっと、そうだろう。

 窓の外、晴れ渡る空に明後日を見ながら、なんとかかんとか言葉を紡いだ。

「俺も、昨日は悪かった。その、メールにも書いたんだがどうも最近……」

「ストップ」

 のべつ幕無し、捲くし立てようとした俺だったがそれはハルヒの右手によって阻まれた。その手には一枚の紙切れが握られている。

「その話は放課後、ゆっくりと聞かせて貰うつもりだから。とりあえず、キョン。アンタは放課後までにコレを書いておきなさい」

 少女がひらひらとこれ見よがしに揺らす紙には「進路調査票」と手書きで書かれていた。

 ……進路調査票?

 えっと、進路調査票って「あの」進路調査票? それなら俺、一月くらい前に書いたんだが……いや、待て。そうじゃないだろ。そうじゃなくて、まずはきちんと謝ってからだな。

「あ、そういうメンドいのはもういいから」

「いいのかよ!」

「だってお互い悪かったって思ってんなら、もう引っ張るだけ尺の無駄よ」

 尺とか言うな。せめて時間の無駄と言え。

「意味、同じじゃない」

「耳当たりが違う」

 ハルヒは細かい男ねと俺をねめつけた。が、なんてーか、そのいつも通りな視線が今日はなんだか心地良かった。一応俺の名誉の為に付け加えておくが、俺は同年代の女子に罵倒されて喜ぶような特殊な趣味は持っていないので誤解しないように。

「ところでハルヒ」

「何よ。話なら放課後って言ってるでしょ。有希と古泉くんには今日は部活無いってメールしてあるからゆっくり愚痴でも相談でも聞いてあげるわ」

 ええい、胸を張るな。朝比奈さんとまではいかなくとも「そこそこ」の持ち主であるお前がそんなポーズを取ると、健全な思春期男子である俺としては眼のやり場に困るんだ。きょろきょろと視線を彷徨わせる挙動不審のレッテルは欲しくない。

「ああ、それは助かる。確かにあまり吹聴したい内容でもないしな」

 朝比奈さんに連絡してないのは……まあ、いいか。彼女ならどうせ今日も鶴屋さんと一緒に自習室で受験勉強だろう。

「そうじゃなくて、コレ。進路調査票って書いてあるが、学校で配布されてるのと形式が違うからな。書き方を聞いておきたい」

 普通なら第一から第三志望までを書く欄が有って、っつーかそれしか無いのだが。ハルヒから渡された紙には志望なんて字は一つも書かれていなかった。

 代わりに、「短期目標」「中期目標」「長期目標」の三つを書き込む欄が設けられている。なんだ、これ?

 俺は別にどこの中小企業の経営者でもない、そんじょそこらのただの学生なんだが。

「アンタねえ……少しは頭使いなさい。もし仮に第一志望から第三志望を書けって言われて、アンタはなんて書くのよ。どうせ適当に知ってる大学の中で『これなら高望みって言われないかな』ってヤツを選んで書くだけでしょ? そんなモンに蚊ほどの意味も無いわ」

 一寸の虫にも五分のなんとか。これまで教師が行ってきた受験生へのアンケートの意義を平手でぴしゃりと打ち落としたのは、やはりその豪腕であった。合掌。

「もしくは、そうね。『進学』『就職』『結婚』とでも書いておく? そんな漠然とした内容を見せられても査定するこっちとしては評価のしようがないけど。ああ、この子は就職が進学より上に来るんだー、とかその程度の理解じゃ人を教え導くなんて夢のまた夢よ」

 いつもながら、ハルヒの言う事には妙に説得力が有る。まあな、なんて適当に相槌を打つと少女は眼に見えて生き生きとその眼を輝かせた。

「やっぱアンタもそう思う? 大抵、こういった問題点は進学先や就職先を具体的に書くことで解決になっちゃうんだけどね。でも、それは教師の都合だと思わない?
 進路なんて現時点では考えられもしない子だって居るのに期限決めて無理矢理に書かせて、それで教師は納得しちゃう」

 あー、確かに。なんか俺の知らないところでこの人勝手に俺の進路考えてんなー、って思った事は有る。岡部には悪いが、でも思っちまったモンはもう覆せないわけで。

「気持ちは分かるのよ。願書出す辺りで自分の学力に見合った大学に行けば良いやーって。就職組なら教師が探してきた中から選ぶだけだから、尚更夢の無い話よね」

「……現実を突きつけられるってのは、正直胃が痛いな」

 それでも、言っている事は文句の付けようがない。日ごろ、ともすれば不思議ちゃんのカテゴリに属しかねないハルヒの口から、まさかこんな話が聞けるとは思ってもみなかった俺である。

 こうして話してみれば、俺よりもよっぽど地に足を付けている印象さえハルヒに抱いてしまう。そう言えば古泉がハルヒは常識人だとか言っていたが、アレは本当だったのか。

 なんだ、こう……「凄いな」と。そう思ってしまった。

「だから、そんな茫洋としたものは要らないの。とりあえずアンタは」

 目標。だからこその、進路調査票。

「これから一ヶ月の目標、半年の目標、卒業までの目標をここに書いておきなさい。良いわね?」

 この紙は、涼宮ハルヒのなけなしの優しさなのかも知れない。

 ホームルームの鐘が鳴り、生徒達が自分の机に帰っていくのを見てハルヒは外を向いた。続きは放課後って意思表示なのだろう。俺としてはまだまだ聞いておきたい事も有ったのだが、教壇に立った岡部に睨まれたくもなかったために渋々ながら前を向いた。

 無用な注目は欲するところではない。ハルヒの真似事は一般生徒には荷が勝ち過ぎる話だ。

 それにしても――意外だった。意外性ってのは涼宮ハルヒという少女を構成するなくてはならない要素の一つと言い切ってしまえるのは確かであるが、しかし今回は方向性がいつもとは真逆であり……面食らったって表現がともすれば一番的を射た表現だったりするのか?

 担任の岡部が日常の枠からはみ出さない当たり障りプラス面白みに欠ける話を始めるも、正直そんなのは右から左である。今考えるべきはハルヒの心境、ひいては俺自身の進路だって事はよーく分かっている。

 反省、と背後のクラスメイトは言った。これがまず衝撃的かつ劇的な変化であることは違いない。涼宮ハルヒを多少なりと知っている人ならば何かの言葉を聞き間違えたかと、自分の聴覚を訝しむであろう。失礼な話だな、まったく。

 成長。

 昨日の俺はそれがハルヒに見られなかったことに軽く絶望していた。現実とハルヒが共に歩み寄る未来は俺の独りよがりな儚い希望でしかなかったと勝手に思い込んでSOS団での活動が途端に空しくなってしまった。

 ――だが、違った。

 涼宮ハルヒは確実に、着実に進歩していた。良い方向へと歩き続けていた。今のハルヒは自分が悪いと気付けたのならばちゃんと謝る事が出来る。それがたとえ一日遅れであってもだ。手遅れでさえ無ければいい。

 そうさ、俺たちの一年半が少女の中にしっかりと芽吹いている。何も無駄では無かった。

 ハルヒは大丈夫。大丈夫じゃない時も、ソイツの世界を大いに盛り上げるヤツらが居る。

 とすれば、後は俺の問題ばかり……って、あれ? ハルヒの心配をしてる場合じゃ実際無い……よな。そんな余裕が有るようにはどれだけ楽観的な視点を用いようとも見えちゃこない。自分で言ってて悲しくなるね。

 ここが年貢の納め時、とでも言っとくか? いや、こういう時の俺の常套句は決まってる。腹を括って、息吸い込んで。苦悩を、なるようにならない現実を、吐き出す呼気にありったけ搭載して。

「はあ……やれやれ」

 後ろ向きを自分の中から追い出すように。さて、そんなら他の誰でもない俺の未来と、そろそろ真面目に面と向かってみようじゃないか。脳内で展開されるどうにも冴えない未来予想図をポスターカラで塗り潰して。

 バラ色なんて単色や、

 虹色なんて七色じゃてんで足りない、

 二百五十六色や三万二千色すら越えて無限に広がるフルカラの。

 そんなクリアでビビッドな未来を夢見ても、一度くらいは良いんじゃないかって思うんだよな。これもハルヒの影響か。多分、きっとそうだ。

 でも、きっと良い影響。

 でも、きっとそれで正解だと俺の心は囁いた。

 決意を新たに望んだ一限の授業はいつもならば欠伸を片手に睡魔とよろしく仲良くする古文だった。「新たに」って言った初っ端に出鼻を挫かれるような「古文」は確かに俺の苦手な教科の一つで、英語と並んで学習意欲への攻撃力が高い難敵である。

「社会に出て何に使えるんだ、こんなモン」。

 きっと誰もが思ってる――そんな風に一人思い込んでいた。

 きっとこんな風に思ってるのは俺だけじゃない――そんな考えを免罪符にしてきた。

 勉強をするのは俺で、なら勉強する内容は俺自身が決める。他の誰かが決めることじゃない。押し付けられるのは勘弁だ。

 なんて、そんな浅はかな胸の内は全部佐々木にはバレバレだった。中学の頃にそんな話をした覚えもないのにだ。身近なテレパシストが俺に言った台詞を思い出す。

「役に立つんじゃない。色付けるのさ」。

 反芻して前を見る。

「食物が血肉になるように、知識は君の外側を豊かにする。身体が大きくなれば出来ることが増えるように、見えなかったものが見えてくれば出来ることは当然増える」。

 黒板に書かれている文字。教師が口にするハイエンド死語の数々。散っていった価値観。今でもまた共感出来る精神。それを今まで不要を割り切って「眺めて」いた俺。

「言葉は人類最大の発明の一つだ。その価値を今更君相手に語る必要が有るかい?」。

 だけど、今日は網膜に映すだけで終わらせるつもりはない。それでは何も変わらない。相手はツールだ。言葉は道具だ。キングオブツールズとの呼び声高い「コミュニケーションツール」。

「ならば、さ。それが日常生活に応用出来ない道理が無い事まで分かるよね」。

 佐々木の声を脳内再生しながら「見つめ」た、チョークで刻まれた八百年前の恋の歌は、教師の解説を得て共感を産む。促されて現代語訳を考え……ああ、これは告白の文句に悩んでいるのと何が違うのだろうか、なんてはたと気付いたらオカしくてたまらなくなった。

 同じ事を世界中の高校生がやっているのだと。

 後ろの、かつて恋愛は精神病の一種なんてバッサリいった少女だって、口をアヒルみたいに歪ませながらもどう詩的に告白しようか考えていたりするのだと。

 なんだろうな。なんて言えば……いいのだろうか。

 誤解を恐れずに言うならば俺は今日、初めて自分の意思で勉強をしている気がした。

「言葉は面白いに決まっているさ。ねえ、キョン」。

 俺はまだそこまで――「面白い」とまでは割り切れない。ただ、ちょっと楽しみ方の端っこを摘まんだかもなってそんな程度だ。でも、それだけですら劇的で刺激的なビフォーアフタ。眠くないってだけでも驚愕だ。

 心の持ちようでガラリと様変わりするのはこれはなんだ? 恋をして世界が色付くなんて使い古しの擦り切れた喩えを持ち出すほど俺も恥知らずじゃないが。それにしたって、おいおい、これは。

 ちょっとちょっと、と言っている間に「印刷された紙の束」が「教科書」にメタモルフォーゼ。

 俺がいつの間にか失っていた感覚。多分小学生くらいで満たされ切っちまったんだろう旺盛な知識欲は、どこにも家出なんてしちゃいなかった。どころか満たされてなんて全然いなくって。

 ソイツはずっと心の中で燻って、火が点くのを今か今かと待っていたんだ。

 佐々木大先生は言った。そこに意思が伴えば何一つ、無駄にはならないと。それは俺たちSOS団がてんやわんやの右往左往した一年半が涼宮ハルヒという少女の精神に確かな変化を産んだ事を引き合いに出すまでもないのだろう。

 この時間を無駄にしない、そう思って毎日を生きるのは結構苦しいのかも知れない。今日が初日の俺に偉そうな事は何も言えない。それでも。

 充実の実感は、そこそこ悪くないものだった。


 四限が終わっての昼休み。ハルヒは早々に弁当を持って教室から消えた。恐らく文芸部室でネットサーフィンでもしながら昼食を取るつもりなのだろう。その行動は言外に「放課後まで考える時間を与えてあげる」と俺に告げていた。

 無論、俺だって忘れてはいない。進路調査票のことだ。半日を過ぎていまだに白紙の紙切れは、中々、こう……いざ空欄を埋めようにも悩ましいものがあった。

 短期目標――一ヶ月の間に何を成す事を俺の目標とすべきか。学校が冬休みに突入する事も考慮すれば年内目標になるだろう。実質二週間とちょい。現実的なことを言えばなんらかの変化を自覚するにしたって短過ぎる感が有った。

「まあ、これは後でもいいか」

 紙切れを上着のポケットに入れて立ち上がると近付いて来た国木田に話しかけられた。

「あれ? キョン、どこか行くの? 一緒にお弁当を食べようと思ったんだけど」

「ああ、悪いな。ちょっと呼び出し食らっててさ」

「岡部先生? ……え、でも進路指導はもう全員回ってたよね? 二回目?」

 俺は首を振る。

「古泉だ」

「あー……ああ……ああ」

 なんだ、その微妙な納得は。俺だってな、出来ればこの寒い中、上着を羽織ってまでテラスに出て行こうとは思わん。アイツからの呼び出しが珍しいから付き合ってやるだけだ。

「行ってらっしゃい」

「おう」

 そう、繰り返しになるが古泉から呼び出しってのはかなり珍しい。基本、部活以外ではノータッチであり、しかもそれを徹底している事からノータッチはアイツの信条か何かなのだろうと薄々気付いているのだが。

 だからこそ、そのメールに嫌なものを俺は感じて仕方が無かった。

 そろそろ何かが起きるんじゃないか、という予感は有った。ハルヒの近くに居ながら最近は穏やかが過ぎたとも思う。エックスディも迫っている。誰かさんが活発になるのならば、このタイミングだ。

 宇宙人か、未来人か、超能力者か。

 それとも……大本命にして大本営、涼宮ハルヒ。ソイツの振るう豪腕は今度は何を吹き飛ばすつもりなのか。


 俺はワクワクしていた。

 それがいけない事だと知りながら。

 今度は何をやらかしてくれるんだと。

 心の底で待ち構えていた。

 果たして中庭で待っていた古泉は開口一番に、

「緊急事態です」

 と言った。微笑み、手には湯気の上がる紙コップの安コーヒーを二つ持って。一つを俺が受け取ると、少年はテーブルを挟んで対面に座った。

 その様子と台詞が余りに俺の中で食い違う。「藪から棒に何を言ってやがるんだ、お前は」なんて言葉を俺は寸での所で飲み下して、ソイツの二の句を待つ。古泉はまるで焦っている様子も無く、のんびりとコーヒーに息を吹きかけてから口に運んだ。

「ゆったりコーヒー啜ってられる間は緊急なんて言葉を使うな。その内に俺が意味を履き違えるようになったらお前の責任だぞ」

「おやおや、これは責任重大だ。再来年のセンター試験で緊急の意味を問う問題が出ない事を祈りましょう。……まあ、」

 少年は右手でカップを握りこんだままに遠くを見つめた。人差し指を伸ばす。

「このままでは今年度のセンター試験はおろか来年すら一生訪れませんけど……ね」

「はあっ!?」

 古泉の流し目と人差し指の先を俺は咄嗟に振り返る。ああ、そこにはやはりと言うべきか…………いや、「やっぱりお前か」以外に出てこない。えーっとだな、まあ、その眼と指は当然と文芸部室に向けられている訳だ。

 どこに行った、意外性。おい、マジでどこ行った。戻って来い。

 そこに居るのは……そうだよ、ハルヒだよ。他の誰だともお前らだって思ってないだろ。俺だってそうさ。前科が有るからこそ疑惑の眼を向けちまう。それが偏見だとも分かっちゃいる。

 それでも、二度有る事は三度有る。夏の時は何回だった? 一万五千回くらいだったと思うんだが。そりゃもう一回有っても一つもオカしくない。だが! そんなんで納得出来るか? 出来ないよな? な?

「いえ、結論から言いますと十二月二十五日以降の時間が」

 古泉は俺に向けて笑った。

「長門さん曰くどうやら途絶しているそうでして」

「……またか」

 古泉のような爽やかな笑みなどまさかまさか浮かべられる筈も無い俺は空を仰いだ。未来を相談しようと言ったヤツが、未来を断絶してどうすんだよ、ハルヒ。

 まったく、神様の真意とやらはいつだって雲の上である。

「頭が痛くなってきた。アイツは反省って言葉を知らんのか?」

 つい今朝方「涼宮ハルヒの口から反省なんて言葉が出るなんて」と感動したはずなのだが。一歩進んで二歩下がるって有名なフレーズが今の俺ほど似合うヤツもいないだろう。――ちっとも嬉しくない。

「どうでしょうね。それと、貴方は『またか』と仰られましたが初めてのケースですよ。恐らく昨年の夏の終わり、エンドレスサマーを思い返しての発言ではないかと思われますが」

「違うのか?」

「その時との最大の違いはループしていない、という点です。いえ、ループが確認出来ないと言うべきですね」

 どういうことだ? 古泉は言い直したが、その前後に何の違いが有るのか俺には正直よく分からない。

「僕も最初に長門さんに時間の断絶を言い渡された時に『あの』八月を思い出しました。タイムリミットが定まっているという共通項、そして幾重にも上書きされた記憶のインパクトがそこへと思考を自然に誘導したのでしょう」

「いや、俺はあの時と何が違うんだと聞いているんだ」

「言った通りです。ループが長門さんのお力をもってすら確認出来ていません」

 つまり、どういうことだ? 今回は八月が一万五千回続いたあの時とは訳が違うのか? 承知条件が明示されてるだけでも気の持ちようは大分違ってくるんだぜ。

「考え方としては二通りです。今、この時がループの一回目である可能性。これならば長門さんのお力でもループを確認出来ない説明が付きます。なにしろ前回が無いのですから。
 もう一つは可能性は低いですが、長門さんにも確認出来ない高次の力を涼宮さんが発揮しているというもの。まあ、僕個人としてはこれは無いと思っています」

「その根拠は?」

「簡単な話です。長門さんは十二月二十五日がタイムリミットだと気付いていらっしゃる。そんな方がループの方には気付けないと思いますか? 気付かないのならば両方ともであるのが、この場合の筋です」

 古泉は眼に見えて生き生きと話し出す。テーブルの上に身を乗り出して肘を突き、おい、顔近いぞ。離れろ。

「であるならば、これがループの一回目であると僕は考えますね。……さて、何か思い当たりませんか?」

 古泉の言いたい事はここまでくれば俺にも理解出来るってなモンで。

「果たして本当に『ループ』なのか、だな?」

「ええ、その通りです」

 おいおい、少しづつ話が厄介になってきたぞ。だっていうのに、そんなのにもどこか「いつも通り」だって感想を抱いちまう俺。

 我ながらどうかしてるとしか思えないね。

承和→勝利 です

 ループでは無い。つまり「次」が無いってことだ。そうなっては緊急性は一気にグリーンからレッドに達する。悠長な事は言っていられないし、世界の終わりも割と現実味の有る話になってきた。

「以上より、ループではないという前提で僕らは行動するべきでしょうね。まあ、具体的に何をすれば良いのかは分かりかねますが。幸いにも時間は有ります。こちらでも地道に探りを入れてみますよ」

 こちらでも。つまり俺の協力を当たり前だと思っている訳だ。一年半も付き合っていれば、それが自然になってくるか。でもって俺にだって断る理由は無い。別に世界の為になんて格好良い事を言う気は無いが。

 そりゃまあ、えらく現実味の薄い話だがそれでも誰よりもこの俺が動かない訳にはいかんだろう。

「っつーかさ、古泉」

「はい?」

「なんでお前、そんな事知ってるんだ?」

 あはは、と小さく笑っても俺は誤魔化されんから大人しく白状しろ。それとも俺には言い出し難い情報源なのか、超能力者?

「いえ、そんな事は。……そうですね、ちょっとした引っ掛かりです。最近の長門さんはどうにも素っ気無い気がしまして。心ここに在らずとでも言いましょうか」

 ああ、猫の話か。バックグラウンドで走らせてる分身の術が相当メモリを食っているらしいからな。そりゃ古泉への応対もおざなりにならざるを得ないだろうよ。

 どうやら猫と古泉との間における関心の不等号が長門の中で食い違っていないようで俺としちゃ一安心だ。

「それで少し探ってみたのです。いえ、問い詰めてみたと言いましょうか。ああ、勘違いなさらないで下さい。乱暴な事は決してしていません」

 いや、そこは疑ってない。大体、古泉では長門によって返り討ちにされるに決まっている。アイツはSOS団最強だからな。地域限定超能力者ではどう足掻いても相手にはならん。

「で、長門がそう言ったのか? 未来が無い、って?」

「……ええ。但し、疑念が二つ。なぜ長門さんは僕らに言い出さなかったのか。そしてもう一つ」

 十二月二十五日よりも先が無い。それに気付いた時点で真っ先にアラートを出さなきゃいけないお方が、眼を真っ赤に染めて泣きながら俺に抱き着いて来なければおかしいあの先輩が、しかし何のアクションも起こしていない。

「朝比奈さんの時空通信デバイスとも言うべきそれが、どうやら通信途絶を起こしていないようなのです」

「……は?」

 なんだそれ? 未来が無くなっているんじゃなかったのか? 矛盾してるだろ。

「長門さんと朝比奈さんのどちらかが嘘を吐いているというのも考えました……が、そんな事をしてもあの二人に何のメリットも有りません。しかし、何かがおかしい。僕らの認識の何かが確定的に間違っている。そんな気がしませんか?」

 古泉は笑顔を崩さない。どちらかと言えば推理を楽しんでいるような節さえ見受けられる。俺は紙コップの中の冷めたコーヒを一息に呷った。

「分からん」

 推理小説で言うなら証拠が出揃ってない状態に感じる、あのモヤモヤ。多分、まだ全貌が見えてくるのは先なんだろう。長門が動いていないこと、朝比奈さんが泣き付いてこられないこと。それはつまり、時期尚早って意味なんだと思う。

「つまり、静観なさるおつもりで?」

 俺は頭を掻いた。

「こっちもやる事が有るんでな。端的に言えば忙しいんだ。だから、そっちはお前に任せた。信じてるぜ、副団長」

「やる事、ですか?」

 紙切れを一枚ポケットから取り出して古泉に見せる。言うまでもないだろうが件の進路調査票だ。実はこれについての相談をこの休み時間にしたかったのだが、まあ、こればっかりは仕方ない。

「この字、涼宮さんですか」

 筆跡鑑定人か付き纏い(ストーカ)の二択しか出てこない観察眼を披露された。古泉は生き方をそろそろ見直す段階に来ているんじゃなかろうかと個人的には思う。

 未来をよりによってのこの俺に危ぶまれるほど可哀想な超能力者は、真剣そのものの顔で暫しの間ハルヒの字を見つめていた。やがてもう五時限始めのチャイムが鳴ろうかという頃、古泉はようやく口を開いた。

「……ふふっ、なるほど」

 だから、どうしてどいつもこいつも説明を省略しようとしたがるのか。推理モノの探偵だったら即クビだぞ、クビ。

「キョン、前から薄々は思っていたんだが、君にはやはり被害妄想の気が有るよ、うん」

 ……やっぱりか。俺ももしかしたらそういう事も有るかも知れんとは薄々気付いてはいたんだ。観察眼で俺と比ぶべくもない佐々木の言うことなら、その見解でおおよそ正しいのだろう。でも、自分の悪癖なんて出来れば一生知りたくなかった。くそっ。

「なあ、その被害妄想とやらは『奥ゆかしい』なんて伝統美溢れる日本語にはどうしても置き換えられないものなのか?」

「物は言いようだね。と、話を戻すけど、」

 俺の要求をあっさり流しやがった。

「キョンに足りないのは学習意欲だと僕は考えている。未来、なんて漠然としたものが相手だとどうしたって息は続かないし、努力に見合った対価が確約されていないから僕らの年齢では中々割り切れないだろう。仕方ない事だ。だが、仕方ないと諦めて対抗策を講じないのは、これはまた別の問題だね」

 それは昨日までの俺を皮肉ったんだな、そうなんだろ、佐々木。あ、コイツ聞いてねえ。

「例えば僕を引き合いに出すと、モチベーションを維持する為に一定の修学ごとに自己の下らない欲求を一つ満たすことを許可している。僕としては君にもそういったものが有るとベスト――とまでは言わずともベターではないかと考えているんだが」

 ……なんだか馬を走らすのに人参を鼻先にぶら下げるみたいな話だな。脳味噌の構造が草食動物代表と余り変わらないのは、まあ、忌々しいが認めるさ。

「みたい、じゃないね。まったく一緒の事さ。我ながら安易が過ぎるとは思うよ。だけど実際これが一番モチベーションを維持させるのに適した方法だと、これは色々な試行錯誤を繰り返した僕なりの結論だ。即物的だと自分でも笑ってしまう」

 くつくつと自嘲混じりに笑う少女だったが、その語る内容とは裏腹に俺にはどこかその姿が朗らかに見えていた。その姿にどこか違和感を覚える。

 なんだろうか、これは。

「なんか、お前変わったか?」

「ああ、それは……まあ、君になら話してもいいか。恥ずかしい話さ、自身の精神性の幼さを僕はそれなりに受け入れてしまってね。どころか自己分析するとどうやらそんな自分を楽しんでいる節すら見受けられるほどなんだ。中学の頃とはその辺りが確かに変わってしまったかも知れないな」

 十分に大人びてるだろ、お前は。うちのお袋よりも、ともすれば精神的に老成していると俺はお前を評価しちまっているくらいなんだぜ。

「それは流石に間違っていると言い切らせて貰うよ、キョン。それとも家族だから君には近過ぎてちゃんと見えていないのかな。君のご母堂は僕なんかでは及びも付かないしっかりした方さ」

 いやいや、そんなことはないぞ。メモを持って買い物に行って、メモの存在を忘れて二度手間とかはしょっちゅうだしな。

「そんなのは心の成熟とは何の関わりもないよ、キョン」

 心の成熟、ねえ。

「余裕、とでも言い換えるべきかな。知識と経験から来る広い安全域の事さ。僕にはどちらも足らない」

「悪いが俺にはよく分からんな。心臓に毛が生えるとは一体何が違うんだ……と、終わったぞ。答え合わせと間違ったトコの解説を頼む」

 一字一句に至るまでボールペンで書かれた佐々木お手製のプリントは、いつこんなものを作成しているのかと睡眠時間を本気で危ぶむくらいのクオリティだった。文字をパソコンで打ち直すか、長門に清書でもさせれば十分に店で売れるだろう。

「いや、それはキョンに合わせて作ったものだから他の人に転用は利かないさ。君の理解が及んでいる、もしくは口頭での説明で十分だと思った内容に関しては飛ばしてある。飛び石のようなものでね」

 ふむ、つまりRPGで言うなら経験値の高いモンスターに的を絞った狩りが出来るようになっているわけだな。

 ……やっぱりお前、寝てないんじゃないか。

「目の下に隈でも出来てしまっていたかな?」

「見当たらん。だがな、昨日の家庭教師終了時刻やらを考えればソイツは自明の理だ」

 根を詰めるな、と続けると佐々木は微笑んだ。いや、笑うところでは決してないぞ、ココ。

「困ったな、キョンに心配をさせるつもりはなかったのだけれど」

 そう言う佐々木が一つも困っている顔に見えないのは、俺の目が知らぬ内にとんぼ玉か何かにすりかえられちまっているせいだろうか? 節穴という可能性も捨てきれない。

「君の期末テストまでは推察の通り、少々睡眠時間を削減する予定だよ。平時より一時間削るだけだからそう重荷に感じないでくれ」

 一時間で作れる量のプリントじゃないだろ、これは。未来人か宇宙人の手でも借りないと無理だ。

「そんな事はしないさ。僕ら学生にのみ許された『内職』という特権の方は十分に活用させて貰っているけれども。そういえば」

 少女は軽快に走らせていた赤ペンの動きを止めると俺の顔を見た。まるで値踏みするように。そしてまた、楽しそうにも見える表情で。

「涼宮さんとの関係は修復出来たかい?」

 と、問うのだった。  

 あれよあれよと時間は流れ、期末テスト準備期間が始まった。テストが終わればすぐにクリスマスが待っている。

 クリスマス、か。いやはや、どうするべきだろうな。去年に倣うならもうそろそろハルヒが騒ぎ出すはずだ。しかし、今年は俺に予定が有る、らしい。本人の意思がそこに介在しないのがこの場合の悩みであり。もしもその予定をぶん投げてSOS団主催のクリスマスパーティに出たとしたら、どうだ?

 世界は本当に終わってしまうのだろうか? 真面目に考えるのも阿呆らしい話だが、しかし俺が真摯に向き合わなければ他に誰がこの不条理な超時空的現実に向き合うっていうんだ。古泉は早々に楽観論者に成り下がっちまってたしな。全く、肝心な時に使えない。

 ドイツもコイツも俺の都合なんか考えやがらないのは、世界に蔓延る悪癖だ。

 俺が思い悩んでいるのは二点。それはつまり、波風を立てないように二十四日に予定有りをハルヒに伝えること、と。

 ――果たして当面の受験云々という問題が解決したのに、まだそのような規定事項を満たす必要が有るのだろうかって点だ。

「いつもながら、宇宙人、未来人の考える事は俺にはよく分からん」

 ボヤきながら商店街へ続く脇道を俺は歩いていた。目的はアーケード内の小さな書店で(映画のスポンサにもなってくれた店だな)、ノートと切れちまったシャーペンの芯を買うためだ。ここまで来なくったって下校道に有るコンビニでも良かったのだが、そこはそれ「義理と人情」。俺くらいは売り上げに貢献してやるべきだと思ってさ。

 客観的に考えれば、最近は勉強の事ばかりを考えていたせいで少しいつもとは違った事をしたかったんだろうなと。つまり、気晴らしだ。テスト前の半日授業、家庭教師が家に来るのは十七時。ハルヒの放課後個人授業も十五時終了ってんでぽっかり空いた二時間はなんとなく自由を感じさせた。

「お」

 横道からアーケードへと抜ける手前、視界の先に見覚えの有る麗しいお姿を捕らえた。左から右へとゆっくり歩いていくのは女神か、妖精か。いやいや、未来から来た天使様さ。

「あさ……ん?」

 声を掛けて走り寄ろうと思った右足がすっと勢いを失った。それは彼女が制服ではなく私服であった事と、もう一つ。彼女が一人ではなかった事が原因だ。

 分かるとは思うが朝比奈さんが一緒に歩いていたのが鶴屋さんならば、俺は躊躇なんてしなかった。ああ、買い物か、なんて思うだけでな。それはつまり、朝比奈さんが一緒に歩いていらっしゃった人が、俺の知っている人ではなかったという……ま、当たり前だな。彼女の交友関係を全て把握しているようなら、それこそ朝比奈ファンクラブ会員第一号も真っ青だ。

 朝比奈さんの同級生、だろうか。少し俯き気味に歩く朝比奈さんに揚々と語りかける少女。どことなくテンションが高そうに見える。鶴屋さん系の性格の持ち主だろうか。

 ちらりとしか少女の横顔は見えなかったが、はて何やら引っ掛かる。どこかで見たことが有るような、それでいて初登場のような。学校ですれ違っていたりしたのかも知れない。確かに認識の程度で言えばそんな感じだった。けど、そんな結論を弾き出そうにも違和感がクラクションを鳴らした。

 違和感、その発生源は少女のしていた目に鮮やかなる黄色のリボンだった。

 視界からすっと消えた二人を追い掛けたって訳でもないのだが、しかし俺の目的地は彼女達の歩き去った方角と一緒であり。駆け寄る事こそしないまでも自然と二人の後ろ十五メートルをキープする位置取りになってしまっていた。

 なんだか、悪いことをしているような思いが少しづつ鎌首を持ち上げてきている。尾行の二文字が頭を過ぎるも、そんなつもりは無いので悪しからず。不審者と思われたくは無いのと、しかし朝比奈さんの動向はどうしても気になってしまうのとで視線は右往左往をアメリカンクラッカみたいに繰り返した。結果的に不審者に見えてしまっているような気がする。

 だが、追跡は事の外上手く行っているようだった。朝比奈さんも、そのご友人も俺の方には目もくれない。いつか見た薄いピンクのコートに身を包んだ朝比奈さんと、そして黄色のリボンで髪を括った黒いコートの少女はどうもそれどころではないようで。辺りを見回してしきりに朝比奈さんへと話しかける少女のパワーに俺の女神が圧倒されているのは遠目にもよく分かった。

 どうやら少女は鶴屋さんっていうよりもハルヒ系らしい。勿論、あんなヤツが二人も三人も居て堪るか、ってのは偽らざる俺の本音ではあるのだが、しかしその納得は思った以上にしっくりと俺の胸の内に収まった。

 リボンの色が理由だと考えるが、さっきからどうにも前を歩く見知らぬ少女とハルヒの姿がダブって見える。

 と、少女が模型店の看板を指差して大声で笑い朝比奈さんの背中を思いっきり叩いた。勢いに耐えられず前のめりにすっ転ぶ天の御使い。転ばれる姿も愛らしい、じゃねえ! 何してやがるんだアイツ、俺のマドンナに!

 咄嗟に叫んで駆け寄ろうとした。大人気無い話だが俺は、見ず知らずの人間に大切な先輩が故意ではなかろうとは言え結果として見れば暴力とも取れる行為を振るわれているのを見て一気に頭に血が上ったのだ。

 が。

 ここでも俺の脚は止まった。いや、今度は止められたと。そう言うべきか。

「待って、キョン君」

 聞き覚えの有る声、そして懐かしい声。走り出そうとした俺の手を取ったのは暖かく柔らかい女性の両手だった。

「えっ?」
 
 驚いて振り返る。そこには朝比奈さんが居た。そう、もう一人の朝比奈さんだ。ドッペルゲンガーにしちゃ瓜二つじゃない、更に磨き上げられたグラマラスボディをベージュのコートに包み込んで。

「朝比奈、さん?」

「はい、お久し振りです。キョン君、元気だった?」

 未来の「未来の朝比奈さん」がそこに立っていた。

 前後を確認する。前には朝比奈さん(大)。後ろにはリボン少女に手を引かれて立ち上がる朝比奈さん(小)。こんなシチュエーションは前にも何度か覚えが有る。ほとほとニアミスが好きな人だな、と俺の率直な感想に朝比奈さん(大)は笑った。

「私は今の私と出会った記憶が有りませんから。私に見つかるのは非常に困りますね。STCデータを直しに来ているはずが、データを壊してしまっては叱られます」

 彼女は握っていた俺の手を引いた。

「とりあえず行きましょう」

「行く? どこへですか?」

 未来? 過去? ああ、もう、彼女が出て来るとタイムトラベルがすぐさま脳裏に浮かんでくる自分の正気を疑うぜ。

「どこでもいいですよ」

「はあ?」

 そりゃ、アバウトですね。じゃなくて、そんなんでいいのですか? 貴女がこうして俺の前に現れるっていうのは緊急事態的なものを感じずにはいられないのですが。

「説明は歩きながらにしましょう。もし我が侭が許されるのでしたら、行きたい場所も有るんですよ」

 そう言って腕を絡ませてくる彼女。え? ええっ? なんだこのシチュエーションは。こんな役得に俺が預かっていいのか? だが、この柔らかなる感触は確かに現実のそれである。ああ、時よ止まれ! 未来人だけに!

 後でこの幸福を差し引きして零に戻すような不幸が俺の身に襲い掛かってこない事を祈るばかりである。

 朝比奈さん(大)に腕を引かれて街を歩いているという、これもまた不思議な非日常にあって俺の頭はいささか以上に混迷を極めていた。それはシナプス全体に掛かったピンク色の靄もさる事ながら、朝比奈さんが何の用件で俺の前に現れたのかがさっぱり理解出来なかったからに他ならない。

 唯一の救い的なものが有るとすれば今の俺たち二人は何も知らない人から見れば恋人同士と言うよりも仲の良い姉弟に見えるだろうという事か。自分で言っていて泣けてきそうだが、今昔を問わず朝比奈さんに俺が釣り合うはずもない。

「俺たちはどこへ向かっているんですか、朝比奈さん?」

「あの頃、私たちがよく行っていた喫茶店です。私、どうしてもあのお店のコーヒーが飲みたくって」

 喫茶店? えっと……ああ、駅前のか。

「すいません、朝比奈さん」

 俺は自由な右手で額を擦りながら。

「なぜです? まさか昔を懐かしんでとかそんな理由ではないでしょう?」

 もしも、それが叶うのならば。きっと彼女は俺を見てあんな風に笑ったりはしないだろう。眩しいものをみるような眼で。いつ崩れて涙を流しても納得してしまえるような顔で。俺を見たりはしないだろう。

 朝比奈さん(大)は必ず重要局面に出て来る人だ。そういう局面でしか会えない人だ。だからこそ……いや、なんでもないさ。

「はい。えっと、その質問は私がキョン君の前に出て来た理由を聞いているので合ってるよね?」

 ええ、そうです。

「目的は貴方の保護です。長門さんが動けない穴を『この』私がフォローするのは規定事項なんですよ」

「保護? いえ、それよりも先ず!」

 聞き捨てならない言葉が朝比奈さん(大)の口からは零れ落ちたぞ。長門が? 動けない!?

「心配しなくても大丈夫ですよ。長門さんに大事はありません。ただ、少し『彼女』の悪戯で宇宙人としての力を取り上げられているだけです。性格的にはともかく、身体的には普通の女の子になってしまっている今の長門さんでは『彼女』は止められませんから」

 朝比奈さんは事も無げに言うが、ちょっと待って下さい!

「い、色々と聞きたい事は有りますが!」

 足を止めて隣の朝比奈さんを見る。彼女の目は少しだけ伏せられていた。

「『彼女』って誰です!?」

 答えが得られるとは思っていなかった。

「ごめんなさい」

 一体何が起こっているのか。それが俺に分かるのはまだまだ先だと、感覚的に理解していた。

「禁則事項です」

 俺は大きく溜息を吐いた。誰が悪い訳でもない。禁則事項なんてものを設定しやがったヤツが悪いと現代を生きる俺としては言いたいが、それにしたって未来を守るためであり、今の俺たちが知り得ない情報であると、これは古泉の受け売りだ。

 ……って、え?

 それってのはどういうことだ?

「――ハルヒ」

 ポツリ、口から出たのは誰あろう全ての元凶と目されていた俺たちの団長サマの名前だった。

「キョン君?」

「朝比奈さん、あなたがこうして動いている元凶……ハルヒの仕業じゃないんじゃないですか?」

 聞くまでもないだろう。俺をハルヒから保護するってんなら、そりゃ一年と八ヶ月ほど遅い。確かにアイツは無茶苦茶ぶりにかけては超一流の自己中心的暴走特急だってのは今更俺が言うまでもないが、保護の手は一度断っている以上、もう蜘蛛の糸は垂れちゃこないだろうよ。

「ええ、涼宮さんではありません。いえ……どう言うべきでしょう。全くの無関係という訳でもないのですが」

「それはなんとなく分かります」

 だが、直接の脅威ではないと分かっただけでも収穫だ。と、なると……、

「あの、キョン君。聞きたい事はまだ有ると思うんだけど、続きは喫茶店でしない? 私、時間が限られているから」

 そう言えばさっきから足を止めっぱなしだったか。確かにこの寒空で立ち話も無いな。朝比奈さん(大)が足を踏み出したのに合わせて俺も歩を進めた。ああ、温かい珈琲一択だ、今日は。

 あれよあれよと時間は流れ、期末テスト準備期間が始まった。テストが終わればすぐにクリスマスが待っている。

 クリスマス、か。いやはや、どうするべきだろうな。去年に倣うならもうそろそろハルヒが騒ぎ出すはずだ。しかし、今年は俺に予定が有る、らしい。本人の意思がそこに介在しないのがこの場合の悩みであり。もしもその予定をぶん投げてSOS団主催のクリスマスパーティに出たとしたら、どうだ?

 世界はそれで本当に終わってしまうのだろうか? はあ、真面目に考えるのも阿呆らしい話だが、しかし俺が真摯に向き合わなければ他に誰がこの不条理な超時空的現実に向き合うっていうんだ。古泉は早々に楽観論者に成り下がっちまってたしな。全く、肝心な時に使えない。

 ドイツもコイツも俺の都合なんかちっとも考えちゃくれないのは、世界に蔓延る悪癖だ。

 今更、って話だけどさ。

 思い悩んでいるのは二点。それはつまり、波風を立てないように「二十四日に予定有り」をハルヒに伝えること、と。

 ――果たして当面の受験云々という問題が解決したのに、まだそのような規定事項を満たす必要が有るのだろうかって点だ。

 考えたところでこればっかりはどうしようもならんが。

「いつもながら、宇宙人、未来人の考える事は俺にはよく分からん」

 ボヤきながら商店街へ続く脇道を俺は歩いていた。目的はアーケード内の小さな書店で(映画のスポンサにもなってくれた店だな)、新しいノートと切れちまったシャーペンの芯を買うためだ。ここまで来なくったって下校道に有るコンビニで用を済ませても良かったのだが、そこはそれ「義理と人情」。俺くらいは売り上げに貢献してやるべきだと思ってさ。

 客観的に考えれば、最近は勉強の事ばかりを考えていたせいで少しいつもとは違った事をしたかったんだろうな、と。つまり、気晴らしを兼ねた寄り道だ。テスト直前の半日授業、家庭教師が家に来るのは十七時。ハルヒの放課後個人授業も十五時終了ってんでぽっかり空いた二時間はなんとなく自由を感じさせた。

「お」

 横道からアーケードへと抜ける手前、視界の先に見覚えの有る麗しいお姿を捕らえた。左から右へとゆっくり歩いていくのは女神か、妖精か。いやいや、未来から来た天使様さ。

「あさ……ん?」

 声を掛けて走り寄ろうと思った右足がすっと勢いを失った。それは彼女が制服ではなく私服であった事と、もう一つ。彼女が一人ではなかった事が原因だ。

 分かるとは思うが朝比奈さんと一緒に歩いていた人が鶴屋さんならば、俺は別に躊躇なんてしなかった。ああ、仲良くお買い物か、なんて思うだけでな。それはつまり、朝比奈さんが一緒に歩いていらっしゃった人が、俺の知っている人ではなかったという……ま、そりゃそんな人も居るに決まってるさ。彼女の交友関係を全て把握しているようなら、それこそ朝比奈ファンクラブ会員第一号も真っ青だ。

 見た感じ朝比奈さんの同級生、だろうか。少し俯き気味に歩く朝比奈さんに揚々と語りかける少女。どことなくテンションが高そうに見える。鶴屋さん系の性格の持ち主と勝手に予想。

 ちらりとしかその少女の横顔は見えなかったが、はて何やら引っ掛かる。どこかで見たことが有るような、それでいて初登場のような。学校の廊下ですれ違っていたりしたのかも知れない。確かに認識の程度で言えばそんな感じだった。けど、そんな結論を弾き出そう矢先に違和感がクラクションを鳴らした。

 違和感。その出所は少女が髪を束ねていた目に鮮やかなる黄色のリボンだった。

 視界からすっと消えた二人を追い掛けた――って訳でもないのだが、しかし俺の目的地は彼女達の歩き去った方角と一緒であり。駆け寄る事こそしないまでも自然と二人の後ろ十五メートルをキープする位置取りになってしまっていた。

 なんだか、悪いことをしているような思いが少しづつ鎌首を持ち上げてきている。尾行の二文字が頭を過ぎるも、そんなつもりは無いので悪しからず。不審者と思われたくは無いのと、しかし朝比奈さんの動向はどうしても気になってしまうのとで視線は右往左往をアメリカンクラッカみたいに繰り返した。結果的に不審者に見えてしまっているような気がするね。

 だがまあ、追跡は事の外上手く行っているようだった。朝比奈さんも、そのご友人も俺の方には目もくれない。いつか見た薄いピンクのコートに身を包んだ朝比奈さんと、そして黄色のリボンで髪を括った黒いコートの少女はどうもそれどころではないようで。辺りを見回してしきりに話しかける少女のパワーに俺の女神が圧倒されているのは遠目にもよく分かった。

 どうやら少女は鶴屋さんっていうよりも押しの強さ的にハルヒ系らしい。勿論、あんなヤツが二人も三人も居て堪るか、ってのは偽らざる俺の本音ではあるのだが、しかしその納得は思った以上にしっくりと俺の胸の内に収まった。

 リボンの色が理由だと考えるが、さっきからどうにも前を歩く見知らぬ少女とハルヒの姿がダブって見える。

 と、少女が模型店の看板を指差して大声で笑い、朝比奈さんの背中を思いっきり叩いた。勢いに耐えられず前のめりにすっ転ぶ天の御使い。転ばれる姿も愛らしい……じゃねえ! 何してやがるんだアイツ、俺のマドンナに!

 咄嗟に叫んで駆け寄ろうとした。大人気無い話だが俺は、見ず知らずの人間に大切な先輩が恐らく故意ではなかろうとは言え、結果として見れば暴力とも取れる行為を振るわれているのを見て一気に頭に血が上ったのだ。

 が。

 ここでも俺の脚は止まった。いや、今度は止められたと。そう言うべきか。

「待って、キョン君。出て行っては駄目」

 聞き覚えの有る声、そして懐かしい声。走り出そうとした俺の手を取ったのは暖かく柔らかい女性の両手だった。

「えっ?」
 
 驚いて振り返る。そこには朝比奈さんが居た。そう、もう一人の朝比奈さんだ。ドッペルゲンガーにしちゃ瓜二つじゃない、悠久の流れとかいう名前の超一流の造形職人が更に磨き上げたグラマラスボディをシックなベージュのコートに包み込んで。

「朝比奈、さん?」

「はい、お久し振りです。キョン君、元気だった?」

 未来の「未来の朝比奈さん」がそこに立っていた。

 思わず前後を確認してしまう。前には朝比奈さん(大)。後ろにはリボン少女に手を引かれて立ち上がる朝比奈さん(小)。こんなシチュエーションは前にも何度か覚えが有る。ほとほとニアミスが好きな人だな、と俺の率直な感想に朝比奈さん(大)は笑った。

「私は今の私と出会った記憶が有りませんから。私に見つかるのは非常に困りますね。STCデータを直しに来ているはずが、データを壊してしまっては叱られます」

 彼女は握っていた俺の手を引いた。

「とりあえず行きましょうか」

「行く? どこへですか?」

 未来? 過去? ああ、もう、彼女が出て来るとタイムトラベルがすぐさま脳裏に浮かんでくる自分の正気を疑わずにはいられない。

「どこでもいいですよ」

「はあ?」

「ここでなければ」

 そりゃ、いつになくアバウトな指示ですね。じゃなくて、そんなんでいいんですか? 貴女がこうして俺の前に現れるっていうのは過去の事例を省みるまでもなく緊急事態的なものを感じずにはいられないのですが。

「説明は歩きながらにしましょうか。もし我が侭が許されるのでしたら、行きたい場所も有るんです」

 そう言って腕を絡ませてくる彼女。え? ええっ? なんだこのシチュエーションは。こんな役得に俺が預かっていいのか? だが、二の腕に当たるこの柔らかなる感触は確かに現実のそれである。ああ、時よ止まれ! 未来人だけに! 永遠に!

 後でこの幸福を差し引きして零に戻すような不幸が俺の身に襲い掛かってこない事を祈るばかりである。

 朝比奈さん(大)に腕を引かれて街を歩いているという、これもまた不思議な非日常にあって俺の頭はいささか以上に混迷を極めていた。それはシナプス全体に掛かったピンク色の靄もさる事ながら、朝比奈さんが何の用件で俺の前に現れたのかがさっぱり理解出来なかったからに他ならない。

 まさか俺と腕を組んで歩きたかったって訳でもないだろう。

 唯一この状況に救い的なものが有るとすれば今の俺たち二人は何も知らない人から見れば恋人同士と言うよりも仲の良い姉弟に見えるだろうという事か。自分で言っていて泣けてきそうだが、今昔を問わずの朝比奈さんに凡人代表、俺が釣り合う道理も無い。

「それで俺たちは今どこへ向かっているんですか、朝比奈さん?」

「あの頃、私たちがよく行っていた喫茶店です。私、どうしてもあのお店のコーヒーがもう一度飲みたくって」

 喫茶店? えっと……ああ、駅前のか。先々週も俺たちは行ったんだけどな。ついには店主にまでニックネームを覚えられちまったくらいに、SOS団は常連だった。

 でも、「常連客の朝比奈さん」は「この朝比奈さん」にとってはもう懐かしむ過去になってしまっているんだ。そう、俺は知っている。

「すいません、朝比奈さん」

 俺は自由な右手で額を擦りながら。

「喫茶店に行くのはいいですけど、しかしなぜです? まさか昔を懐かしんでとかそんな理由ではないでしょう?」

 もしも、それが叶うのならば。懐古を理由にしての時空旅行が許されるのならば。きっと彼女は俺を見てあんな風に笑ったりはしないだろう。眩しいものを見るような眼で。いつ崩れて涙を流しても納得してしまえるような顔で。俺を見たりはしないだろう。

 彼女は未来人だ。

 朝比奈さん(大)は必ず重要局面に出て来る。そういう局面でしか会えない人。だからこそ……いや、なんでもない。

「はい。えっと、その質問は私がキョン君の前に出て来た理由を聞いているので合ってるよね?」

 ええ、そうです。それくらいは教えてくれますか?

「構いません。私の目的はキョン君、貴方の保護です。長門さんが動けない穴を『この』私がフォローするのは規定事項なんですよ」

「俺の……保護? いえ、それよりもまず!」

 今、聞き捨てならない言葉が朝比奈さん(大)の口からは零れ落ちたぞ。長門が? 動けない!? どういうこった!?

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。長門さんに大事はありません。ただ、少し『彼女』の悪戯で宇宙人としての力を取り上げられているだけです。性格的にはともかく、身体的には普通の女の子になってしまっている今の長門さんでは『彼女』は止められませんから」

 何が起きているのかまるで分からないまでも、それでも分かる事は有る。

 何かが――良い事か悪い事かも分からない何かが確実に、今この瞬間も止めどなく起こっているという事。

「だから、今だけ長門さんの代理として私が必要だったんです。『彼女』からキョン君を守るために」

 朝比奈さんは事も無げに言うが、いやいや、ちょっと待って下さいよ!

「い、色々と聞きたい事は有りますが!」

 足を止めて隣の朝比奈さんを見る。彼女の目は少しだけ伏せられていた。その表情は何を湛えたものなのだろう。

 ……分からない。

「『彼女』って誰です!?」

 答えが得られるとは思っていなかったが。それでも聞かずにはいられなかった。そして俺の予想通り。

「ごめんなさい」

 一体何が起こっているのか。それが俺に分かるのはまだまだ先だと、感覚的に理解する。手持ちのパズルピースは背景ばかりに見えた。

「それは禁則事項です」

 俺は大きく溜息を吐いた。

 誰が悪い訳でもない。ここで朝比奈さん(大)を責めるのは筋違いだ。それでも、禁則事項なんてものを設定しやがったヤツが悪いと現代を生きる俺としては言いたいが、にしたってソイツも未来を守るためであり、今の俺たちが知り得ない情報は世界を壊す可能性すら有ると、これは古泉の受け売りだ。

 ……って、え?

 「誰なのか」が「禁則事項」!?

 何か核心に触れた感覚に脳が揺れる。それってのはどういうことだ?

「――ハルヒ」

 意識せずポツリ、口から出たのは誰あろう全ての元凶と目されていた俺たちの団長サマの名前だった。

「キョン君?」

「朝比奈さん、あなたがこうして動いている元凶……クリスマスに世界が終わる云々ってのはもしかするとハルヒの仕業じゃ、ないんじゃないですか?」

 いや、これは聞くまでもないだろう。根拠は朝比奈さん(大)が口にした「保護」って表現。

 俺をハルヒから保護するってんなら、それは一年と八ヶ月ほど遅い。確かにアイツは無茶苦茶ぶりにかけては超一流の、自己中心的暴走特急だってのはこれは今更俺が言うまでもないが。

 ――それでも昨年の十二月。長門がくれた選択の権利を、普通の日常に帰るチャンスを俺は自分から投げ捨てた。

 ああ、救いの手は一度断っている。俺はこっちの世界を選んだんだ。以上、もう蜘蛛の糸は垂れちゃこないだろうよ。

「ええ、世界を終わらせようとしているのは涼宮さんではありません。いえ……どう言うべきでしょう。全くの無関係という訳でもないのですが」

「ああ……それはなんとなく分かります」

 世界を揺るがす事件に過去アイツが無関係だったためしは無い。だが、直接の脅威ではないと分かっただけでも収穫だ。と、なると……、

「あの、キョン君。聞きたい事はまだ有ると思うんだけど、続きは喫茶店でしない? 私、時間が限られているから」

 そう言えばさっきから足を止めっぱなしだったか。確かにこの寒空で立ち話も無いな。朝比奈さん(大)が足を踏み出したのに合わせて俺も歩を進めた。ああ、温かい珈琲一択だぜ、今日は。

「寒いよね、今日」

 それから俺と朝比奈さんは言葉少なに駅前への道を歩いた。多分、俺に気を使って話掛けないでいてくれたのだと思う。ありがたい話だ。実際、考えたい事は山のようにあったしな。

 「彼女」と元凶を指して朝比奈さん(大)はそう言った。クリスマスイブで世界を終わらせようと企む悪の大魔王。ソイツは女性だ。そして、それはどうもハルヒと長門ではないらしい。だったら朝比奈さんか? いやいや、あのお方にそんな大それた事が出来るとは思えない。以上、とりあえずSOS団女子はこの懐疑から除外されよう。

 ならば――と話を広げる前に、俺には一つ気懸かりが有ったのを思い出して貰いたい。

 そう、クリスマスイブのデートの話だ。

 その日、俺が会わなければいけない相手をして「女性」とだけ長門は説明した。

 一方で朝比奈さん(大)も名前を言えずにただ「彼女」とだけ犯人を呼称する。

 「女性」。

 そして「彼女」。

 なんとも奇妙な一致だろ。

 いや、そうは言っても額面通りに受け取るならば全人類の半数が該当する代名詞なのだからして――などとは楽観的な俺にも思えなかった。

 九割九分前者と後者はイコールだ。なぜなら余りにタイミングがドンピシャ過ぎる。

 さて、ではここまでの俺に与えられた朝比奈情報を一旦整理してみよう。

 大前提、どうやら正体不明の「彼女」とやらに俺の身柄は今、狙われている。そして長門は俺を影ながら守ってくれていた。

 ――ここからは推測だが敏腕ボディガード長門大明神様を「彼女」は邪魔に思ったのではないか? だから長門から宇宙的情報なんとかパワーを奪い取るという暴挙に出た。それで仕方なく、朝比奈さん(大)が代わりに俺のボディガードをやる事になり今に至る、と。

 まあ、こんなところか。いや、整理してみると結構洒落にならない事態が起こっているような気がしてきた。長門を体調不良に追い込めるような相手に狙われておいて、今の今まで何も知らずにのんびり構えていられたなんて。嘘のようだぜ、マジで。

 ――嘘に思えるのは、それだけ長門が裏で孤軍奮闘してくれていた、って事か。ああクソ、一人で無理すんなっていつも言ってるのに。

 アイツに助けを求められてこの俺が迷惑に思うものかよ、なあ?

「キョン君、着きましたよ」

 朝比奈さん(大)に声を掛けられてどこまでも沈み込みそうになっていた思考の深海探索行から一気に浮上する。顔を上げればいつもの喫茶店の目の前だった。いつの間にここまで歩き着いたのか。これが時間の圧縮、ウラシマ効果とやらか。――多分、違うな。

 入店に際して朝比奈さんはようやく俺の右腕から離れた。人肌って結構暖かいモンなんだなと俺は知ったが、それは裏っ返せばそんだけ外気の寒さが身に沁みるって事でも有る。雪が降り出すのもそう遠い話じゃない。

 ホットココアも注文の選択肢に入れてやるべきか。

「久しぶりです、ここに来るのも。初めて連れて来て貰った時に涼宮さんがクリームソーダを注文して、メニュに無いものが普通に出てきたから私、『凄いですねー』って。覚えてる、キョン君?」

「ええ」

 覚えてますよ。朝比奈さん、その後俺に「この時代の喫茶店は飲み物なら大体なんでも出て来るんですか?」って耳打ちしたでしょう。

「そうそう、それでキョン君が『メニュに有るものだけですよ』って言ったの。だから私、必死でメニュの中にクリームソーダを探して。でも、幾ら探しても見つからなくって」

 朝比奈さんは微笑んで、そして目尻を擦った。少し眼が赤らんでいるのは見なかった振りをしておこう。

「思い出したらおかしいよね。……懐かしいな」

 その消えそうな言葉に乗っかってる朝比奈さんの俺の知らない時間は長くて重い。重過ぎて、俺なんかには想像もつかない。

 二人連れたってくぐった喫茶店の扉は、朝比奈さんが果たしてこれで思い出を愛でられるのかを俺が不安に思うくらい、素っ気ない程に軽かった。そこに生きている人間の認識なんて、所詮そんなモンだ。

「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」

「いつもの席でいいよね、キョン君?」

 俺たちは最早SOS団指定席となりつつ有るテーブルに向かい合って座った。カウンターに張ってあった「今日のおすすめコーヒー」を二人してオーダーし、そしてそれが運ばれてきたのを契機に朝比奈さんは今回の件に関する説明を始めた。

「ごめんね、突然。私が出て来て驚いたでしょう?」

 そりゃ、まあ。次回からはこう、前振りを入れておいてくれると俺の心臓が助かりますね。繊細なつもりなんで、これでも。

「私としてもね、本当は『こっちに来てるよ』っていうメッセージをキョン君に前もって伝えておきたかったの。でも、予測以上に二人の接近が早くって。私はともかく、長門さんを出し抜くなんて……本当に規格外です、『彼女』は」

 またもよく分からない事を朝比奈さん(大)は口にする。コッチを見てキョトンとする彼女は俺の表情から何を察したのやら、恐らくちっとも俺が理解していない事だろうね、ああ。だが、言わせて貰えば今回は説明不足が酷過ぎる。解説と事の経緯を要求しても構いませんよね、朝比奈さん。

「あ、はい。実は現在、STCデータに深刻なエラーが発生しています。二つの時間軸が遺伝子のような螺旋構造を描いて重複せず相互に干渉しながら存在しているのが禁則事項……えっと、本来存在しないはずのイレギュラな平行時空が強制的に禁則事項、あ、この言葉もまだ産まれてないのね…………うーんと、分かりやすく言うと」

 はい、このままではちっとも分かりません。

「今、世界はとても不安定な状態なの」

 なんとまあ、大胆に端折られたのが俺にも丸分かりだった。とは言え専門用語を並べ立てられるよりは、その総括の方がよほど俺には助かります。SF話は古泉辺りが専門なんでね。

「不安定、ね……」

コーヒーを一口啜って疑問を口にしてみる。

「それっていうのは具体的にはどういう事なんですか?」

「このまま何の手も打たなければ、キョン君、貴方は貴方の大切な人に永遠に会えなくなります。そういう『世界の危機』だと認識して下さい。貴方の身近な――とてもとても身近な人が一人、その存在を丸ごと失うかも知れないんです。関わった全ての人の記憶ごと、ごっそりと」

「ちょ、マジですか」

 それは……凄く困りますね。

「『彼女』はそうなっても誰も困らないと思っています」

「え? いや、困るでしょう。誰かは知りませんけど、その消えちまいそうな人は俺の大切な人なんですよね?」

「はい」

 朝比奈さんは真っ直ぐに俺を見つめて、

「キョン君の『世界で一番大切な人』です」

 そう、言った。嘘にも冗談にも、その目は見えなかった。

「一番大切な人?」

 間の抜けた俺の鸚鵡返しに朝比奈さんは頷いた。だが、しかし待って欲しい。

 一番大切って、ソイツは一体全体誰の事だ?

 率直かつ修飾抜きに言わせて貰えば俺にはそんなご大層なる言葉に該当する対象なんて居やしない。

 いやいや、早合点して寂しい男だと言うなかれ。実際、俺に限った話ではないはずだぜ。一番大切な人は誰ですか、なんて恋人が居ない男子高校生にとって難問も良いところなのだから。

 十二分に悩んだ挙げ句、頭に浮かんだのは両親と妹の顔だが、しっかしこの三人が宇宙的、未来的、超能力的あるいはハルヒ的な事件に巻き込まれるだろうかと言えば、これはほぼ有り得ないと断言出来る。

 「俺」の家族だからってんで巻き添えを食うような節操の無い話には幸運にもいまだ出会った事はなく、そしてまたそんな真似をするくらいならば直接的に俺をどうにかしてしまった方が話は早かろうってのは俺にだって分かる理屈。

 何の能力も持たない一般人を相手に宇宙人が人質を取るような真似は、将を射んと欲して弓を買う金を貯める為にバーガーショップでバイトに励むようなもんだ。何が言いたいかってーと、まだるっこしい。

 んなチマチマした事なんかせんでも直接来い、直接。下駄箱にラブレターを仕込むだとかの可愛らしい婉曲的行動は朝比奈さん(小)だから許されるんであってだな。

「朝比奈さん、一つ聞かせて下さい」

「なんでしょう?」

「俺には『世界で一番大切な人』なんて大仰な枕詞を付けられる相手がどうも思い浮かばないのですけど。だったら、今回消えちまう憂き目に遭ってるっていうソイツは……誰です?」

 言いながらも頭の隅で「もしかしたら」が浮かんだが、ソイツを世界で一番大切だなんて思っているかと自分に聞き返すと即座にNOが返ってくる有様だ。まあ……もし仮に今の俺に付き合っている女性が居たとしても、その人を世界で一番大切だ、などと恥ずかしげも無く胸を張って言えるだろうかという疑問も残る。

 いや、羞恥心を抜きにしても。それでも、家族に軍配が挙がる可能性は捨て切れないか。大切と言ったらSOS団の面子だってそうだ。誰が一番か、なんて今の俺には決められそうにない。

 俺の問いに未来から来た彼女は勧進帳で弁慶の嘘を見抜いた関所の役人のような表情をした。未来人である、その証左にも似た微笑み。

 朝比奈さん(大)は今を歴史として知っている。

「キョン君には分かりません……今は、まだ」

「そう、ですか」

 今はまだ。未来から来た人間にのみ許される台詞だと思う。説得力に溢れながらも出来の悪い占いのような飲み下し難いものをその内に包み込んでいる響き。

 占いは信じない方なんだが。

「でも、確かです。その人は貴方にとって誰よりも大切な人になるでしょう」

 朝比奈さんの麗しい喉を琥珀色の液体が流れ抜けていく。

 誰よりも大切な人になるでしょう。

 言われて一つの可能性は頭に思い浮かんでいた。それは言葉にするのも躊躇われるが、連想せずにはいられない類。思春期ならば誰もが妄想し、また欲する関係。

 ――恋人。

 俺が正体不明の誰かさんになぜ狙われているのかは分からない。「彼女」ってのが俺に何をしようとしているのかすらも未知数だが、それでも貴重な恋人候補を人知れず俺知らず消そうとしてるってんなら。

 それは紛れもなく俺にとって「敵対行為」だ。

「キョン君」

 静かに敵愾心を燃やしている所を名前を呼ばれて我に返る。はい、なんですか、朝比奈さん。

「間違えないで。狙われているのは貴方なの。他の誰かじゃない。貴方の『彼女』が消えてしまうのは、その結果でしかないのよ」

 朝比奈さんはこの時、この発言で大きなヒントを出した。それは禁則事項の網の目を掻い潜っての芸術的なまでに見事なパスだったと後になって思う訳だが、しかして俺はこの時、大きな――とても大きな勘違いをした。

 朝比奈さん(大)の言う「彼女」を「未来の恋人」の事だと履き違えて理解してしまった。

 朝比奈さん(大)の言う「彼女」とは徹頭徹尾たった一人のことを指していたと。その事に気付けていれば、もう少しこの十二月の事態はスマートに終息していたのかも知れない。

 俺を狙っている「彼女」とは、俺にとって「世界で一番大切な人」であるなどと、そんなの俺は夢にも思わなかった。

 コーヒーカップに残った口紅をぼんやりと眺めていると、小さな店内に来客を告げるベルがカランカランと硬質の音を響かせた。入ってきたのは未来人が去り際に残した予言通り俺の知った顔で、そしてその少年は当然と俺の対面に腰掛けた。

「何か頼みますか? 奢りますよ」

 そういや、お前には色々と貸しが膨らんでるんだよな。ハルヒへのメールを盗み見た件だとかな。

「当たり前だ、超能力者。俺のプライバシの値段としちゃコーヒーなんて安過ぎるくらいだろ。謝罪と賠償を要求する権利をいつ利用するも俺の胸一つだってのを忘れんな」

「余りそう言わないで下さいよ」

 古泉の注文を取りに来たウェイトレスにすかさずコーヒーのおかわりをオーダーする。クソ、晩飯まで時間が有れば一番高いパフェでも追加してやったってのに。

「前も言いましたが、僕も仕事なんです。趣味でやっていると思われるのは流石に少々心外ですね」

 盗聴が仕事の一環とか――辞めちまえ、そんなブラック企業。終いには法廷に持ち込む事も辞さんぞ、俺は。

「世界と貴方のプライバシとどちらが大切でしょう」

 比べるまでもない、とでも言いたげだな。いや、まったくの同意見だぜ、古泉。そんなのはマジで比べるまでもない。

「俺のプライバシに決まってんだろうが。ったく、こんなモン街中にばら撒いてる事がバレたら、それこそハルヒに悪影響が出るぞ?」

 古泉に向けて手の中の小さな機械を弾く。悪意を込めてその張り付けたようにブレない微笑向けて飛ばした硬貨大のそれは、俺の思惑通りの軌道を描いたが、しかし古泉はそれを難なく片手でキャッチしやがった。

「ご返却、有り難う御座います」

「盗聴機の現物なんざ初めて見たぜ、俺は」

「でしょうね。至極真っ当に生きていれば一生縁の無い世界でしょうから、こちらは」

 どういう意味だ、と問い詰めようとしたタイミングで店員がコーヒーを持ってきた。

「おい、朝比奈さんの分もお前持ちだからな」

「構いませんよ。経費で落としますから」

 憎らしい。俺にもその地球防衛費のおこぼれくらい寄越したって罰は当たらないだろうに。ハルヒ対策委員会における現場の第一線で働いてるのが誰かくらい分かっているはずだろ。

 コーヒーカップに残った口紅をぼんやりと眺めていると、小さな店内に来客を告げるベルがカランカランと硬質の音を響かせた。入ってきたのは未来人が去り際に残した予言通り俺の知った顔で、そしてその少年は当然と俺の対面に腰掛けた。

「何か頼みますか? 奢りますよ」

 そういや、お前には色々と貸しが膨らんでるんだよな。ハルヒへのメールを盗み見た件だとかな。

「当たり前だ、超能力者。俺のプライバシの値段としちゃコーヒーなんて安過ぎるくらいだろ。謝罪と賠償を要求する権利をいつ利用するも俺の胸一つだってのを忘れんな」

「余りそう言わないで下さいよ」

 古泉の注文を取りに来たウェイトレスにすかさずコーヒーのおかわりをオーダーする。クソ、晩飯まで時間が有れば一番高いパフェでも追加してやったってのに。

「前も言いましたが、僕も仕事なんです。趣味でやっていると思われるのは流石に少々心外ですね」

 盗聴が仕事の一環とか――辞めちまえ、そんなブラック企業。終いには法廷に持ち込む事も辞さんぞ、俺は。

「世界と貴方のプライバシとどちらが大切でしょう」

 比べるまでもない、とでも言いたげだな。いや、まったくの同意見だぜ、古泉。そんなのはマジで比べるまでもない。

「俺のプライバシに決まってんだろうが。ったく、こんなモン街中にばら撒いてる事がバレたら、それこそハルヒに悪影響が出るぞ?」

 古泉に向けて手の中の小さな機械を弾く。悪意を込めてその張り付けたようにブレない微笑向けて飛ばした硬貨大のそれは、俺の思惑通りの軌道を描いたが、しかし古泉はそれを難なく片手でキャッチしやがった。

「ご返却、有り難う御座います」

「盗聴機の現物なんざ初めて見たぜ、俺は」

「でしょうね。至極真っ当に生きていれば一生縁の無い世界でしょうから、こちらは」

 どういう意味だ、と問い詰めようとしたタイミングで店員がコーヒーを持ってきた。

「おい、朝比奈さんの分もお前持ちだからな」

「構いませんよ。経費で落としますから」

 憎らしい。俺にもその地球防衛費のおこぼれくらい寄越したって罰は当たらないだろうに。ハルヒ対策委員会における現場の第一線で働いてるのが誰かくらい分かっているはずだろ。

「それで」

 ウェイトレスが立ち去ったのを皮切りに古泉は話し始めた。

「どう思いますか、貴方は」

「何を?」

「とぼけないで下さい。今回の案件ですよ。長門さんは世界の危機だと言い、未来の朝比奈さんは一人の存在が賭かっているという。矛盾しませんか?」

 コーヒーを一口含んで舌の潤滑油とした超能力者は、

「一人と世界はイコールではありません。命は地球より重いとは理想論ですよ。しかしながら、何事にも例外が存在する。つまり……」

 続く名前には容易く予想が付いた。

「涼宮さんです」

 やっぱりここでも事件の中心人物となるのはあのトラブルメーカーで間違いないらしい。やれやれと大きな溜息を吐いて……そろそろ溜息も売り切れになりかねんな。この所、絶賛大売り出しだ。

 幸せが逃げてばかりで、青い鳥はどこへいった? チルチルとミチルが血眼になるのも他人事にはまるで思えないぜ。

「事これが涼宮さんを示唆しているのならば朝比奈さんと長門さんの言葉にはなんら矛盾が生じません。世界と涼宮さんとはイコールに限りなく肉薄したニアイコールで繋ぐ事が出来ます。涼宮さんの危機とは世界の危機と同一視すら人によっては可能でしょう。ここまではよろしいですか?」

「よろしくないな」

「ほう? 異議が有るようですね。良ければ教えて頂けますか?」

 古泉が猫科の肉食動物のように眼を細める。標的との距離を測っているのかも知れない。が、地域密着型超能力高校生の職業意識なんか俺の知った事かよ。

「お前はバカか。アイツは色々とアレでも、それでも涼宮ハルヒなんだぜ」

 俺の、ちょっと自分でもどうかと思う過ぎた表現に古泉は苦笑を隠さなかった。

「知っています」

「だったら、もう一度よく考えてもみろ。一体どこのドイツがあのハルヒをどうこう出来るって言うんだ?」

 全てを見透かしているはずの未来人すらも出し抜くようなヤツだ。古泉の言葉を借りれば願望を実現する能力が有るって巷で評判だ。

「だから、今回も貴方が狙われているのでしょう。涼宮さん本人ではなく」

「それだよ」

 その考えに無理が有るってさっきから言ってんだ、俺は。

「俺をどうにかするってのがそもそも、ハルヒを相手にするのと大差無いんじゃないのか」

 俺の台詞にまず古泉は驚いた表情をその胡散臭い面に浮かべ、次いで満足そうにニヤリと笑ってみせた。何を考えたのかは……ま、想像したくもないね。どうせ良からぬ事に決まっている。

「それもそうです」

「ああ。でもって、これは何も俺に限った話じゃない。お前や長門も、朝比奈さんにも通用する理屈だろうさ。もっと言ってしまえば、例えばアイツの親御さんだとか、ウチの家族だってハルヒの庇護対象になっていそうだ。違うか?」

「異論は有りません」

 涼宮ハルヒは常識人だと目の前の超能力者がのたまったのは……もういつの話だったかも覚えちゃいないが、それでもアイツが本当にそうならば、それはつまり現実は激変したりしないと頭のどこかで理解してるってこった。涼宮ハルヒがそう思うから、だから世界は変わらない。世界が不変だから涼宮ハルヒは理解する。そういうフィードバックで成立しているのが今という時間だった。

 そりゃもう綱渡りだが、案外ソイツは鋼鉄で出来ているくらいに強固であったりするのかも分からない。

「その比喩は的を射ています。但し、忘れないで頂きたいのですが、鋼鉄であっても綱渡りに変わりはありません。バランスを崩せば」

 古泉はテーブル隅に有るシュガースティックを一本抜き取りヤジロベエ、もしくは天秤のように人差し指の上に乗せた。指を二度、三度揺らしてみせるとそれは当然の話だが地球の引力に引っ張られて落ちた。

「そこで終わり」

「だが、そのバランスだってハルヒの能力の適用内だろうよ」

「つまり貴方はこうおっしゃりたいのですか?」

 古泉はテーブルの上に両肘を突いた。得意の話題――コイツの場合は主に非常識全般――を持ち込まれると熱が入ってしまうのは俺にも分からないではないが、それにしたって顔近いぞ。離れろ。

「涼宮さんが居る限り世界の危機など起こり得ない、と」

 超能力者が口にした内容は少し意訳が過ぎる気もするが、ま、概ねそんな所か。

「逆に聞くけどな。何をどうしたらハルヒが無意識に敷いているSOS団的世界防衛ラインを突破出来るってんだよ?」

 そう、それが出来るようなヤツをハルヒ以外に俺は一人しか知らない。いや、一勢力と言い換えるべきか。

「情報統合思念体……長門さん達ならば、あるいはと考えますが」

 俺だって何も考えていない訳じゃないからな。ハルヒのゴッドパワーを盗用出来るようなのは宇宙人以外には有り得ないとは思ったよ。前例も有るしさ。だが、古泉の言葉に俺は首を横に振った。

「概ね同意だ。しかしな……今更か?」

 俺が言うと超能力者は肩を竦めた。

「……ですね」

 そう、これが宇宙人によるものなら何かしらの異変が事前にあって然るべきだと俺は考える。でもって一通りの宇宙人的イベントを俺たちは消化してしまっているんだ。落ち着くべき場所に長門たちは落ち着いたし、当分は動きも無かろうというのが俺の見解。

「契機ってのがどうにも見当たらないんだよな。クリスマスを狙ってっつーのもギリギリ分からない話じゃないが、果たして宇宙人に時節イベントの風情なんてモンが分かんのかね?」

 ハルヒが騒ぎ出すこの時期に超常的イベント事が何も無いなんて悲しいかな思えない俺では有るが、しかし今年の長門は何もやりはしないさ。宇宙人少女は一年前とは違うんだ。しっかりと成長しているんだ。あんなことはもう起こさない。万が一起こすとしたって一言くらい有るに決まっている。

 そう、俺は信じている。

「アイツら絡みで何か有るとしたら朝比奈さんの卒業前後じゃないか?」 

「なるほど。実は情報統合思念体が疑わしいなどと言いながらも、僕もなんとなくですが宇宙人の線は薄そうだと……失敬。貴方を試そうとした訳ではないんです。結果的にそうなってしまっただけで」

 コーヒーカップを手にとって文字通り話題をお茶で濁そうとする副団長だが、おい、今なんか聞き捨てのならない事を言わなかったか。

「試すってなんだよ、試すって」

「それは……いえ、この話は止めておきましょう。貴方の不評を自分から態々買う気はありません」

 ソイツの苦笑と話の流れから大体の言いたい事は察せられた気がする。どうせ、俺が世界の危機とやらに対して何も考えていないんじゃないかなんて舐め切った事を考えていやがったんだろう。……この場の奢りを増やしてやろうか、っとダメか。それじゃコイツの懐はちっとも痛まないらしいからな。

「では、改めて」

 古泉は顔の前に人差し指を一本立てた。まるで推理小説の探偵のような仕草だが、それが嫌味無く似合ってしまうのが一周回って嫌味と言うか小憎らしい。顔の良いヤツはどんなポーズを取ろうと画になってしまうのだから、それ以外に対して詫びの意味を込めて常時鼻眼鏡着用とかどうだろうか。

 ああ、世の中はホント、不公平のカタマリだな。

「今の時点での貴方の考えを聞いておきたいですね。誰が世界を現在進行形で脅かしているのだと考えていますか?」

「知らん」

 一刀両断に即答してやった俺を見る少年の目が細くなる。骨董屋が古物を鑑定するようなその目付きは、なんだか詰られているような気分にさせられる。俺が悪いのか? いや、どう考えても俺じゃなくて世界をどうにかしようとしてるどっかの誰かが悪いだろ。

「ふう……いいですか? 一週間前、中庭に僕は貴方を呼び出しました。その時に僕は涼宮さんの仕業だと貴方に伝えましたね」

 そういえばそうだ。だが、直接的な原因はハルヒではないと、そう朝比奈さん(大)は俺に断言した。だったら……おや?

 だったら、どうして古泉はそんな勘違いをした?

 何を根拠にハルヒの仕業だと考えたんだ?

「そこです。――僕はあの時、願望実現能力の発露を僅かながら感じ取っていたのですよ。どうして分かるのかと問われたら、これはもう分かってしまうのだから仕方がありませんとしか言えませんが」

 いつかどっかで聞いた事の有るフレーズだ。どこだったか……いや、そんなどうでもいい事よりも今はもっと本腰入れて考えなきゃならん事が有る。

 つまり古泉は願望実現能力が発現したタイミングで長門の口から世界の危機を聞かされていた訳だ。ならばハルヒが時間断絶を引き起こそうとしていると超能力者は考えても、そりゃ確かに不思議じゃない。アイツには十分な前科が有るし……ああ、それがあの時言っていた「十分な条件証拠」ってヤツか。

「ええ、概ねその理解で結構ですよ。そして僕は涼宮さんのやる事ならば、それほど悪い事態にはならないだろうとあの時は考えました。丁度、貴方が進路に悩んでいた頃合という事も有り、それならば彼女の願望実現能力が動き出したとしてもこれは自然な流れとも言え、特に警戒する必要もないだろう、と」

「信じてんだな、ハルヒを」

 超能力者は微笑んだ。

「貴方ほどでは有りませんよ」

 それはどっちの意味だ。俺を信じてんのか、それとも俺が信じてんのか。ああ、どっちにしろ気持ち悪い。自重しろ、古泉。

「受験勉強へと意気込む貴方に発破を掛ける意味合いで――何らかの形で世界を危機に陥れようとしているのではないか。ならば我々はフォロー程度の働きしかさせては貰えないだろう。気負う必要は無い。それが一週間前の機関の結論です」

 こう、第三者から見て俺とハルヒはどう思われているのかってーのを聞かされるのは精神的に余りよろしいモンじゃあない。クラスに蔓延る根も葉も無い噂しかりだ。にしたってたかだか一高校生の受験云々で一々世界が危機っちまうのを、どっか超然と「まあ、アイツらのやる事だし」ってなノリで納得している超能力者ズはちょっとどうかと思う。

 学祭の出し物決めてるのとはレベルが違うんだが。 

「ふふっ、確かに『世界』はやり過ぎな感が有りますが、それを涼宮さんに言うのは今更ですね。結果論ですが、これまで僕らに度重なり訪れた世界規模の非日常的なイベントは彼女のちょっとした願望を叶える為ですから」

 古泉は喫茶店の低い天井を見上げて、

「例えば気になっている男子に苗字ではなく名前で呼んで貰いたい、といった可愛らしいものです。彼女を責める気にもなれません」

 続く嘆息すらもどっかわざとらしい。どっかに脚本でも有るんじゃないのかと疑った俺を誰が責められようか。

「……経験則ですよ。今回も同様だろうと思っていたのですが、どうも勝手が違うようです。いえ、僕らの思い込みを逆に利用された形になってしまっていますね。機関は今回の一件において完全に後手に回らされています。何しろ情報が足りないもので」

 おいおい、しっかりしてくれよ超能力戦隊。

「まるで先回りして隠蔽が施されているように何も掴めないんです。貴方の足取りを追って、それでようやく本件に未来の朝比奈さんが関わっている事を知ったくらいでして。朝比奈さんも長門さんも動きらしい動きを見せていませんし、これでは動きようがありません」

「朝比奈さんは受験生だから仕方が無いだろ。長門だってなんか猫飼い始めたらしいし、忙しいんじゃないか?」

 俺の発言に古泉の表情が一気に険しくなった。歴戦の軍師が敵の配置図を眺めていて陣形の穴でも見つけ出した時のようだ。いや、実物は見たことないから想像で言ってるけどな。だが、多分こんな感じだ。

「猫? あの長門さんがですか?」

 あの、とか言ってやるなよ。

「あーっと、まあ確かに違和感有るよな。だが、それも成長だろ。俺たちは、」

「すいません」

 古泉が人の発言に割り込んでくる事は基本無い。少なくとも記憶にはそんな事をするコイツの図が浮かんでこなかったし、ハルヒならしょっちゅうなんだけども。

 アイツは基本的に人の話を聞かないからな。

「長門さんが猫を飼い始めた、と仰いましたね」

「あ? ……ああ、言ったが」

「それはいつです?」

 えーっと、いつだったか。あれは佐々木の家庭教師が始まる前日だから……十日ほど前だな。

「だが、これも喜緑さん情報だから、実際いつ飼い始めたのか正確な所は知らんぞ」

「…………十分な情報ですよ」

 古泉は懐から電話を取り出すと、失礼と俺に一言断ってから通話を始めた。古泉の喋りから内容を推察すると、それは迎えの車を呼んでいるらしかった。ブルジョアめ。

「貴方も来て下さい。説明は車内でします」

「え、俺も?」

「お願いします」

 真面目な顔で頼まれては断り難い。恐らく古泉は俺が気付けなかった何かに気付いたんだろう。だから微笑みの貴公子の二つ名を返上してまで俺を半ば強引に連れ行こうとしている……どこにかは知らんが。

 条件反射的に時計を見るといつの間にか午後五時が目前に迫っていた。時間の流れの速さを実感せずにはいられないぜ。

「古泉、すまん。どうしても行かなきゃダメか」

「どうしても、ですね。なぜそのような事を……ああ、佐々木さんですか。そういえば彼女の家庭教師は五時からでしたね」

 なんでコイツはそんな時間まで知っていやがるんだ。つくづく、かつ端々で俺のプライバシの壊滅を実感させられる。が、身の不幸に浸ってられるような状況でも無いらしい。

 古泉は宣言した。

「好都合です。彼女にも同行して頂きましょう」

「はあ!? おい、ちょっと待て、古泉。佐々木を世界云々に巻き込むつもりだってんなら賛成出来んぞ、俺は」

 アイツは俺の友人で少し世間とズレている所は有れど、しかして決定的に逸脱している訳では決してなく、またそれを本人も望んでいる。それにこれは本来ならばSOS団が抱えるべき案件のはずだ。

「議論は車で行いましょう。もしかしたら一刻を僕達は争っているのかも知れないのです」

 どうやら有無を言わせては貰えないらしい。副団長の強権発動とでも皮肉っておくか。

 いや、違うな。焦っているんだ。

 でもって古泉が焦るとなったら理由は一つしかない。

「長門さんが、危ない」

 それは仲間の命が懸かっている時だ。

 支払いを終えた古泉と一緒に外に出ると、タイミングを見計らったかのように俺たちの前でリムジンが静かに停車した。古泉が呼んだお迎えとやらなのは容易く察しが付いたが、駅前の雑居ビルでごった返す一角にリムジンは不釣合い過ぎて軽くファンタジイ入ってるよな、これ。客観的に見て。

「乗って下さい」

 古泉が後部座席のドアを開けて俺を車内に促す。断る理由も躊躇う理由もさっきの古泉の一言で木っ端微塵にぶち壊されていた。

 長門が、危ない?

 理由はまだ説明されちゃいないが、しかしてこういった類で嘘を吐くような男では古泉はないのを――一年半の付き合いなんだ、俺はよく知っていた。だとすりゃ後は信じて全乗っかりする以外に道は無い訳で。

 リムジンを運転していたのは老齢の紳士、いつぞやSOS団全員でお世話になった新川さんだった。去年の五月を思い起こさせるようなスーツ姿は本職のドライバと言われても誰も疑うまい。それほどにしっくりと似合っていた。

「新川さん、お願いします。とりあえずは彼の家で」

「分かりました」

 古泉の指示と前後して車は驚くほど滑らかに走り出した。ホバーでもしてやがんじゃないのか、ってくらいにな。これは車が良いのか、それとも運転手の腕が良いのか。聞いてみたところで新川さんは謙遜するだろうが多分、両方だろう。

「早速ですが、説明を始めさせて頂きます。時間が惜しいので」

 喫茶店と同じく向かい合うように座った古泉が喋りだす。

「オカしいと思ったのは長門さんがこの件に関して行動を見せていない事でした。彼女は誰よりも早く時間の途絶を察知していたのに、僕が問うまで情報さえ頂けなかった」

「長門がいくら無口だって言っても、そこまで何も話さないのはオカしいって言いたいのか。そりゃ、まあ確かにな。だが、そこまで不思議でも無い気がするんだが」

 どれだけ言ってもアイツは一人で背負い込む癖を直そうとしやがらないし。

「僕も同じように思っていました。そうは言っても彼女は長門有希(ウチュウジン)ですから、と。僕らと同じ感覚で語る事は出来ません。しかし考えてもみて下さい」

「何をだ?」

 古泉は一呼吸矯めて、

「どうして長門さんに来る十二月二十四日に起こるであろう時間の途絶が察せられたのでしょう?」

「え、いや、それは……ん?」

 確かに――オカしい。具体的に何がどうオカしいのか俺には分からないが。しかし、違和感が有る。何か大切な事を忘れているような。

「もっと分かり易く言い直しましょうか。なぜ、長門有希に未来が分かるのか。宇宙人だから? いいえ、宇宙人であったとしても彼女に未来など分かりようがないのです。他のインターフェイス――朝倉さんや喜緑さんとは違い、彼女は」

 長門は選択した。初めて、自分の意思で決断した事。忘れてはいけない。その引き金を引いた誰あろう、俺だけは。

「異時間同位体との同期を絶っている」

 古泉の話を聞きながらいつの間にか俺は両手を膝の上で祈るように組んでいた。忘れちまっていた大事なこと、大前提。もしも長門に何かあったら……己の馬鹿さ加減を悔やんでも悔やみ切れない!

「では、朝倉さんや喜緑さん、もしくは他のインターフェイスや彼女の上司に教えて貰ったのでしょうか。これも可能性は低いと考えますね。ここ一年半、長門さんはとても変わられました。勿論、僕らからしてみれば良い意味で、ですが。
異時間同位体との同期を絶ってご自身の未来を見えなくさせたのも非常に『人間臭い』と、そう言えるでしょう。そんな長門さんの変化を情報統合思念体は、どうも観測対象として見ている節が有るのですよ」

 ――私の役目は観測だから。あの悪夢のエンドレスサマーに長門はそう言った。アイツの言う、いや、宇宙人の言う観測とは能動的に手を加えない事を指す。

「だとしたら」

「宇宙人が長門に入れ知恵するような真似はしないな。未来を教えるような事も、だ」

「ええ、可能性は低いと考えますね。極力、長門さんのことは放置しようと考えているのではないでしょうか。可愛い子には旅をさせよ、ではありませんが。では、ここで話を最初に戻しましょう。さて、どうやって彼女は時間の途絶を知ったのでしょうか」

 後、未来を知っていそうなのは……朝比奈さんか? 彼女なら未来人だし、得意分野なんじゃないか。

「いいえ、朝比奈さんは何も知りませんよ。彼女のタイムマシン――時空通信デバイスが動作不良を起こしていないのは先日申し上げたとおりです。であるならば、何も知らない事が唯一無二の特性である朝比奈さんは今もって尚、世界が危機に瀕している事など夢にも思わないでしょうね」

「まあ、気付いてたら泣きながら電話してくるだろうしな……」

「そういう事です。では、もう一人の朝比奈さんでしょうか?」

 いや、朝比奈さん(大)は長門と接触する事をどこか怖がっている節が有る。それは多分、朝比奈さん(大)が接触する事によって未来が変わってしまう可能性の高いナンバーワンが長門だからだと俺は勝手に思っているのだが。

 苦手、と。朝比奈さんはそう長門を評した。嫌い、ではないのが救いだな。

「ええ、同様の理由で僕も朝比奈さんには避けられているようです。さて、これで長門さんの情報源は全て潰したでしょうか。おや、これは困りましたね。彼女はどうやって未来を知り得たのでしょう? いいえ、彼女は未来など知らない」

「どういう事だよ、古泉。お前は長門から未来を聞かされたんじゃなかったのか?」

「あれは『未来』ではなかったのですよ」

 未来じゃない場合、「それ」はどのような言葉で表現されるのが相応しいのか。はい、古泉の解答。

「――『予定』だったのです」

 古泉は続ける。

「犯人が長門さんに告げた、ね。そう、彼女が飼っているのは猫ではありません。恐らくは、事態の元凶です」

「僕に当てこすっているのかい?」

 佐々木の台詞が無ければ古泉が含ませた皮肉にも俺は気付けなかった。四月の件を古泉が根に持っているとは思ってはいない。この副団長はそこまで暗澹とした性格でもないからな。

 だが、職務意識には忠実なコイツとしては牽制球くらい投げなければならないのだろう。運転席には新川さんも居る。機関のリムジンとなれば会話の録音をされていたって不思議じゃない。にしたって、そんなので一々雰囲気を悪くされては堪らないしな。

 仕方ない。フォローを口にしようとした俺――を古泉は視線でもって止めた。

「少し。お気に障ったのならば謝ります、すみません」

「いいさ、気にしていない。振り返れば僕にも非は有る。そのつもりはさらさら無かったとは言え、第三者に誤解を招くような行動を取ったのは事実だし」
 確かに、あの頃の佐々木がただの恋愛相談を目的としていたなんざお釈迦様でも気付けないしなあ。

「そう言って頂けると助かります。話を戻しますが」

「ああ、頼む。俺としちゃハルヒ二号が現れたって悪夢にお前が思い至った根拠を聞いておきたい」

 いや、語呂的に二号じゃなくて二世の方が良かっただろうか。でも、それだと常時寝癖の超能力者っぽいしなあ。

「それしか考えられないからです。この考え方ならば僕が願望実現能力の発露を感知した点にも納得がいきますし、割に合理的な解だと考えますが」

「犯人が九曜さんではないとするのはなぜだい?」

 佐々木の質問に古泉はさらりと、

「彼女には世界を崩壊させる理由が有りませんから」

 ……そうだったか? 結構、危ういレベルでしでかしやがった気がするけども。

「よく思い出してください。四月の事件では変化と観察をその目的としていました。つまり、彼女たち天蓋領域は目的を別としてスタンスは情報統合思念体に非常に近しいと言えるでしょう。崩壊は本意ではない、そう考えます」

>>205

「よく思い出してください。四月の事件では変化と観察をその目的としていました。つまり、彼女たち天蓋領域は目的を別としてスタンスは情報統合思念体に非常に近しいと言えるでしょう。崩壊は本意ではない、そう考えます」

「よく思い出してください。四月の事件では変化と観察をその目的としていました。つまり、彼女たち天蓋領域は方法を別としてスタンスは情報統合思念体に非常に近しいと言えるでしょう。崩壊は本意ではない、そう考えます」

 そう言われたところでなぜか釈然としないのは四月の事件で結局、周防九曜が何をやろうとしていたのかが俺にはよく分かっていないからだろう。いけ好かない未来人、藤原に力を貸してハルヒを危険な目に遭わせてまで果たしてアイツは何がしたかったのか。

 これはきっと本人にしか分からず、そして本人の口から聞いてもきっと俺には分からない。宇宙人と分かり合うなんてのは只の一般人には荷が重い話さ。

 ――宇宙人とは分かり合えない。

 けど、長門は――長門有希は違う。宇宙人だけど――言ってることはたまに、いや、結構意味分かんねえけど。

 それでもアイツとなら分かり合えそうな希望を、俺はずっと持ってる。

 アイツはそこが違うんだ。他の宇宙人とは決定的に。無口で無表情で本ばっか読んでて会話は続かなくて。必要最低限の業務連絡くらいしか能動的に喋りゃしないし、問い質さなきゃ厄介事を全部一人で背負い込もうとするし。

 なんだよ……なんだよ、それ。すっげえ人間臭いじゃん、アイツ。

「なるほどね」

 佐々木が苦笑する。

「崩壊は九曜さんの本意ではない。そして、それが今回の黒幕候補から彼女が除外される理由となる訳で。いやいや、何が起こっているのかよく分かっていないままに手を貸す事を決めたのは僕だが、それにしてもとんだ大事に巻き込んでくれたものだよ」

 少女は言って俺の方を向く。その目は言葉とは裏腹に隠し切れない好奇心を湛えていた。お気に召したようで何よりだ。

「世界の危機だなんて、君たちは毎度毎度スケールが大き過ぎて逆に笑えてくる」

 くつくつと、喉の奥でくぐもるように笑うその姿は不敵。ああ、やっぱりだ。やっぱりコイツも類友で、この状況を楽しめる側の人間だった。古泉が肩を竦める。

「残念ながら笑い事ではありませんよ、佐々木さん。僕たちはエラく、マジです」

「これは失礼」

 おい、そのマジになってる「僕たち」とやらにいつの間にか俺も含まれているんじゃないだろうな。本気になるのが格好悪いとか捻くれた現代っ子思想を曝け出そうとしているってんでもねーけど、それにしたってこう、なんだ。

「違いますか?」

「悪いな。正直、心境を言わせて貰えば今回は微妙だ。力の入れ方がよく分からんっつーか、なんか空回りさせられちまってる感じでな」

 会話パートはもうそろそろお開きだろう。窓の外を見て気を引き締める。

 長門のマンションは近い。車が停まったら新川さんへの礼もそこそこに俺が跳び出していくだろう事は想像に難くなかった。十七年連れ添ってきた身体なんだ。芯から熱を持ってウズいている。

 今行くからな、長門。

「と、申しますと」

「分かってんだろ。実害、ってのがここまで一度として無いんだよ。だから世界の危機だなんだ言われても俺には実感が薄い。お前ら超能力者はハルヒの力が動いているって肌で理解してんのかも知んねーし、それで警戒態勢入っちまってるんだろうが」

 超能力者じゃない、未来人じゃない、宇宙人じゃない、神様じゃない俺は本来なら場違いだ。ワールドワイドかつハリウッドスケールなヒーロー&ヒロインものはそっちで勝手にやってくれよ、もう。

「俺は違う。世界とかそんなモンは知ったことか。長門(トモダチ)がなんかちょっとヤバそうだから様子を見に行くだけだ」

 それでいい。それくらいでいいんだ、俺は。その結果として、たまたま世界を救っちまったりするかも知れんがそりゃ二次的なモンで副産物で。

 だから、そんな重過ぎるモンの責任は持たねえよ。

「……はあ、僕らのヒーローは捻くれ者で困ります」

 誰がヒーローだ、誰が。しみじみと溜息を吐くな力無く首を振るなお手上げのポーズを取るな。佐々木もこっちを見て意味深に微笑むんじゃない。言いたい事が有るなら言ったらいいだろうが。

 一頻りして、古泉は顔を上げた。

「でも、貴方はそれでいいんですよ。貴方の正しさは僕が、そして機関が保障します。世界はこっちで担当しましょう。貴方は――貴方に、」

 車はゆっくりと速度を落とす。ようやく長門のマンション前に到着だ。ドアノブに手を掛けて車の停止を待つ俺に副団長は言った。

「僕の大切な友人を託しても?」

 当たり前だ。後な、ソイツは「僕の」じゃない。「僕らの」だ。そこんとこ間違えんな。

 ってな訳で話は決まった。なら、行こう。今すぐ走り出したい気持ちをマグマみたいに腹の底に据えて。常識的な展開に手を振って、非常識でご都合主義なドタバタ活劇を始めよう。

 佐々木が背後で嘆息する。

「……やれやれ」

 もしもこの世界がテレビドラマなら、オープニングを入れるのはやっぱりこのタイミングにしといてくれないか。


 さて、プロローグにしては長過ぎるが、しかし以上の事は本当にプロローグに過ぎなかった。

 本題はここから、この突入から始まる。本当は十日ほど前から始まっていたのかも知れないが、そこんとこはどうでもいい。

 二十年後、山から吹き降ろす風があらゆる全てを焼き焦がすような八月某日、「彼女」を絶望という名の暗い海へ、恐怖と言う名の奈落の底へ突き落とす事が起きたのだ。

 ――あらかじめ言っておく。

 ソイツは誰一人ちっとも悪くないことだった。

また夜にでも

 長門のマンションには何度か行ったことが有る。管理人のおっさんとも微妙な顔見知りだったし、入り口で手間取ることは無い――そのはずだった。

 だが、実際は車から出て数歩足らずで俺の足は止まってしまっている。逸る気持ちは急制動を掛けられ、慣性の法則に従いたたらを踏んだ。

「……お前か」

 マンション前には見知った顔が佇んでいた。と言っても管理人のあの人とは似ても似つかない美少女だ。彼女は長袖の北高セーラに身を包み、この冬空の下でありながら防寒具の類を他に一切身に付けていなかった。通りすがりの赤の他人が見たら十人中五人くらいは怪訝さに眉を顰めるであろう出で立ちなれど、俺はそこに何の感慨も抱けなかった。これは加齢を根拠とする感受性の鈍化とはまた別の話だ。

 ……残念ながら、と言うべきなんだろうな。

 防寒具を着ていないのはソイツには真実、必要ないからに違いない。そう、気温や体温などアイツにはどうとでもなるのだ。俺たちと違って。

 この非常識さんめ。

 ああ、ちくしょう。もし何かの手違いで本物の幽霊に行き遭ったとしても、それでもここまで俺の背筋を凍らせることはきっと出来やしないんだろうよ。全身が総毛立つとはまさに今の俺の事だ。体育の授業が有ったら躊躇わず見学を申請するくらいには気分も悪い。

「そ、意外でしょ」

 超然という言葉の意味を体言する少女の立ち姿。凛と背筋の伸びた佇まいは例えるなら桔梗ってトコか。いやいや、似ても似つかないが薔薇ってのも大穴で有り得るだろう。美少女――だからこそサソリの尻尾が可愛く思えるような棘だって隠しているんだろうよ。

 艶やかな腰丈の髪やスカートは時折吹く痛烈な北風にすらなびく様子がちっとも見られない。何をどうしていやがるのか。大気なんてものは世界に無きがごとくに振る舞うソイツ。マジで情けない話だが喉がグビリと鳴るのを抑えられない。

 ――勿論、恐怖でだ。

「そうでもないな。なんとなく『来るだろうな』って予想はしてたんだ」

「それって超能力?」

「いいや、ただの勘だ。俺を驚かせたかったってんなら、そいつは期待に添えなくて申し訳無い」

「ふうん、残念。でもまあ、いいわ」

 少女はゆっくりと、焦らすように時間を掛けて首を後方に倒し、そして車を降りた俺たちの方を見つめた。

 眼が合う。実物を見たことは無いが、にしたって蛙を睨み付ける蛇ってのはきっとあんな感じなんだろうぜ。女子中学生が抱く淡い恋心のような「もしかしたら」は当然の如く裏切られ、少女の見ているものは佐々木でも古泉でもなく――俺である。

 どうして俺なんだ、と今更言い出すほど恥知らずではないつもりだが。しかし、俺とアイツの間の関係が縁だってんなら今すぐ縁切り寺に駆け込みたいね、マジで。

「あんまり遅いから待ちくたびれちゃったの、私」

 勝ち気で明るい声は相変わらずだ。谷口曰くAAランクプラスの美少女は俺へと向けて歌うように笑う。

「遅い?」

「貴方が来るのを待っていたのよ、長門さんと一緒に」

 元クラスメイトが玄関の自動ドアに右手を翳すと、それはセキュリティにと設けられたパスワード入力も無しに開いた。ま、そんなんは大して驚くことでもないが。っていうか、これくらいで一々驚いていたらSOS団には在籍していられないしな。

「さ、いつまでもそんな所にぼーっと立ってないで入ったら? 長門さんに用が有るんでしょう?」

 そう促し、無防備にこちらへ背後を見せてマンションの中に入っていく少女。俺たちはその足取りを自然、目で追う形となった訳だが。丁度エントランスの自動ドアのレール辺りをソイツが歩き越えた時、俺の見ている前で陽炎のように少女の姿が不自然にあるいは超自然に歪んだ。今は十二月。建築物内外の気温差は確かに有ろうが、しかし光が歪むほどであってたまるか。

 はあ、少しくらいカモフラージュしてもいいだろうに。何をって? 決まってんだろ。手品の種、もしくは落とし穴だよ。

「これ、完全に罠ですよ」

 古泉が言うも、んなモンは言われんでも分かってる。あのマンションに入ったが最後、東西の物理学者が押し並(ナ)べて頭を抱える不思議空間にご招待ってんだろう。ただ、それにしたって長門の部屋に向かうにはトラップゾーンを避けちゃ通れんしな。回避出来ない罠なんてゲームだと顰蹙ものだぞ。しかも事前にバレバレなら尚更だ。

 現実はゲームと違うなんてのくらいは分かっちゃいるが。ルールの有無が両者を分かつ一線だな。高校二年生という若さで不条理と書いて人生と読み替えるほど悟りたくはないんだが。

「キョン、古泉くんは気構えをしておけって言っているのさ」

 あのなあ佐々木、それも通訳して貰わんでも分かってるって。気構えなんてそれこそとっくのとうだ。

 お前は知らんだろうが、あの歩き去った元クラスメイトとは何かと縁が有ってな。その前に立ってリラックスしろってのが軽く無理難題になっちまうくらい、俺の中で一、二を争うトラウマメイカなんだぜ、ああ見えて。

 冗談じゃなく、一度死にかけたし。

 あのなあ佐々木、それも通訳して貰わんでも分かってるって。気構えなんてそれこそとっくのとうだ。

 お前は知らんだろうが、あの歩き去った元クラスメイトとは何かと縁が有ってな。その前に立ってリラックスしろってのが軽く無理難題になっちまうくらい、俺の中で一、二を争うトラウマメイカなんだぜ、ああ見えて。

 冗談じゃなく、一度死にかけたし。

「気構えを幾ら重ねても気休めにしかならん」

 なるようにしかならんのがどうにも歯痒い。俺の意思をもう少しくらい汲んでくれても罰は当たらんと思う訳だが、それこそ世界がハルヒプロデュースで成り立っちまっている以上、高望みか。 

「用が有るのは多分、俺一人だ。古泉、分かってるとは思うが佐々木を頼む」

 立ち止まっていた一歩を踏み出す。閻魔大王の前に歩き行く心持ちであったのは否めないが、しかしここで引き返す選択肢だとか俺には持ち合わせがない。だったら進むだけだ。一寸先が闇だろうと、虎穴だろうと。

「あなたが時間を稼いでいる間に長門さんを連れて来る、ですね」

「ああ」

「では、ご武運を」

 ユリウス・カエサルであれば腕を振り上げて「賽は投げられた」とでも宣言するんだろうこの場面を俺たちはこうもあっさり終わらせる。

「キョン、大丈夫なんだろうね?」

 佐々木の声が背中に降る。さてね、これからどうなるかなんて俺には皆目見当も付かんよ。だけど、

「ま、なんとかなるだろ」

 それは俺の偽らざる本心でもあったのだから始末に負えないとはこの事だぜ、ホント。

 信頼と経験と、そして男子としての強がりをスパイスにしてだらしなく開きっぱなしのマンションの自動ドアを潜る。予測して覚悟していた頭痛や吐き気はなく、しかし代わりに、

「やっぱ、こうくるよな」

 持ち上げた右足で踏みしめたのはタイルの床ではなくざらりとした砂粒だった。

 視界は……いや、世界は一変していた。どこまでも続く砂地。これはもう砂漠と言うべきかもな。そこに一人の少女が佇んでいる。

 少女――朝倉涼子は俺の姿を認めると場違いなほど煌びやかに笑った。

「いらっしゃい。招待を受けてくれてとっても嬉しいわ」

「半強制で連行しといてよく言うぜ」

 本来ならばここには何の変哲も無いマンションのエントランスが広がっているはずである。しかしどう言ったらいいのか、この流れでその「何の変哲も無い」エントランスのままであったのならばきっと俺は逆に驚愕していただろう。慣らされちまってんな、とは自分でも思う。

 いつか、トンデモが当たり前と完全に入れ替わっちまったら誰が責任を取ってくれるのか。誰も取ってくれやしないだろうってのは間違いないと断言してしまえるのであるから、自分をしっかり持たないと。

「あら、その言い方は変よ。私はちゃんと『ここで帰ったら見逃してあげる』ってサインを送っていたつもりよ、こう見えて」

「ああ、そうかもな。だが、お前は俺たちが『ここで引き下がれる訳が無い』ってのにも気付いていたはずだ。違うか、朝倉?」

「どうかしら。あなたたち有機生命体が時として合理的でない判断をするのも、無謀でしかない決断を下すのも知識としては持っているけれど理解は出来ないのよね。この機会に聞いてみようかな。ねえ、あなたはどうしてそんなことをするの?」

 やれやれだ。首を左右に振るジェスチャでそれを伝えると同時に佐々木と古泉の不在を確認する。よし、周囲に二人の姿は見られない。どうやら本当に朝倉の用は俺一人に集約されているらしい。頼むぜ、古泉、佐々木。首尾良く長門をここに連れて来てくれよ。

 贅沢は言わないが、なるべく早くな。

「お前には分からないさ」

「……そっけないのね」

 どの口が言いやがる。過去、命を狙ってきたようなヤツ相手にフランクになれるのは漫画やアニメの中だけだ。現実はこんなモンさ。

「でもな、きっと長門なら分かってくれる。いや、きっとじゃない。絶対だ。アイツなら分かる」

 朝倉の眉がぴくりと跳ね上がった。豊かな表情を持ち、まるで人間みたいな少女だ。対しての俺の長門は世界無表情選手権シード枠で、人間らしさがとても希薄に見えたりもする。「どちらかがアンドロイドでどちらかが人間です。さてどちらがどちらでしょう?」みたいな質問をしたら百人中九十六人までもが朝倉の方が人間だと、そう回答するだろう。

 でも、それでも百人中四人は長門を選ぶ。

 ハルヒは。古泉は。朝比奈さんは。

 そして、俺は。

「長門はお前とは違うからな」

 アイツの友達で、仲間だからだ。

「違わないわよ。長門さんは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。私と同じ。何を言っているの?」

 朝倉が幼い子供の間違いを正すように俺を諭す。本当に朝倉には分からないのだ。長門と自分の違い、ってヤツが。俺にも上手く言葉に出来ない。いや、言葉にしたら途端に陳腐になっちまう。

 長門には心が有る、って。

「朝倉。お前に自分の意思は有るか?」

「意思? それも理解出来ない概念ね」

「だろうな。お前は上の言う事をこなすだけだ。長門だって大体そんな感じだしさ。出会ったばっかの頃は本気でその傾向が顕著だった」

「今はそうではないとでも言いたいの?」

 今年の春には俺はもう当たりを付けていた。直接聞いた事は無いが古泉だって気付いちゃいるんだろう。長門が俺たちの前に現れた意味と、なぜ長門だったのかの答え。出会いたての折、少女は言った。ハルヒに近付いたその目的は自律進化の可能性だと。

「気付いているはずだ、お前も、『お前ら』も。違っていることには気付いていないとおかしい。ただ、何が違ってしまったのかが分からない、理解出来ないから同じだと思い込んじまってる。なあ、朝倉」

「何?」

「SF小説は好きか?」

「好きとか嫌いとか、そんなものが有ると思うの? 優先順位で言えば、」

 ああ、もういい。その口振りで大体は分かった。

 そして、ここまでのやり取りでおおよそは掴めたし。

「だったら今度、長門におすすめを何冊か貸して貰うといい。俺の予想が確かなら、それがお前らが必死になって探し回ってる自律進化の可能性とやらだ」

 思いっきりベタな代物を銀河規模で要求する宇宙人どもだとほとほと呆れ返る。長門が無口キャラの文芸部員だってのはハルヒの望んだ通りの設定な訳だが、しかしそれは果たして予定調和だったりするのだろう。閉塞する未来を打ち砕くには読書狂の宇宙人が必要だったんだ。ま、これは今になって思う結果論だが。

「……ねえ、もしかして馬鹿にしてる?」

「少しな。なんでそんなに賢いのに、こんな簡単なことに気付けないんだとは思ってる。そう怒るなよ。いや、怒れないんだったか、お前は。感情とか無いんだもんな」

 俺の言葉に朝倉は「一切の表情を消し」て「微笑ん」だ。その無表情は長門のようでもあり、長門とは似ても似つかないとも感じる。俺は知っている。朝倉の顔には能動的なあの二ミリが決定的に足りないんだ。作り物じゃない、あの奇跡の二ミリメートルが。

「長門は変わったぞ」

 朝倉の視線が突き刺さるも何度だって言ってやる。友達を誇るってのはそんだけ気持ちがいいものなんだ。

「アイツは自分から未来を見るインチキを放棄した。それが決定的で確定的な全てだ、朝倉」

とりあえずここまで

 俺の直視に晒された少女はそれが作り物で有るという事実を嘲笑うように、太陽が昇りアサガオが花綻ばすように、悪いものでも食ったんじゃないかと俺が半ば本気で心配するくらいに、もしやコイツすらも一切の例外無くハルヒズムに感染したんじゃないかって具合に、そして――そして、

 「それでもコイツは宇宙人なんだ」なんて言ったトコロで笑い話にさえ取っては貰えない、そんな表情で、

「上出来よ」

 と言ったのだった。



 呆けた人間に有事を理解させるにはショック療法が一番手っ取り早いなんてのは経験から言って間違いじゃない。それに朝倉は急進派だしな。急いては事を仕損じると昔から言うが、しかし今回に限れば少女の目論見は成功に終わったと言ってやってもいいだろう。

 お陰で大分目が覚めた。

 人の出入りが奇跡的に無いマンションのエントランスは冬でありながら、その体感気温を上昇させ続けていた。心臓を始めとして血管一本一本に至るまで

血と共にカンフル剤が巡っているように脈拍は速い。

 これは俺の意識の在り方の違いでしかないのだろうが。

 昨日までとは違う。始まったと、そう直感的に理解する。具体的に何が始まったかは朝倉にでも聞かないと只の一般人である俺には分からない。だけど何

かが確かに始まっているというそれだけはこんな俺にも言い切れるぜ。

 十二月、クリスマス。ワールドエンド。今年もまた非常識が俺の周りに吹き荒れている。毎年恒例としちゃ悪趣味で、でもってそれをどこか楽しんでいる

節すら有る俺は無気力に成り切れない好奇心旺盛な年頃の例に漏れないらしい。

 台風の目を探しに今すぐ走り出したい気持ちを抑えて朝倉の次の言葉を待った。じっと俺を見つめるその先で少女は天井の明かりを見つめている。シャミセンがたまにああして何も無い中空を見つめている事が有るも、それとはまた毛色が違うだろう。

 たまに長門もアレをやってる事から、母船との交信だろうと当たりを付ける。一分ほど経って朝倉は通信を切ったのか目線をこちらに移した。

「お待たせ。待った?」

 少女の首の動きに合わせて長い髪が鮮やかに踊る。しまったと後悔した時には既に遅く、俺は脊髄反射で喋ってしまっていた。

「今の台詞、初デートに意気込み過ぎて服選びに熱中していたら遅刻しちまった部活の後輩ってシチュエーションでもう一回頼む」

 ……宇宙人の視線がキツくなる。それに合わせて脇腹の辺りに幻痛が再来。トラウマを直接触るのは止めて頂きたい!

 少女は人生に疲れた中間管理職のおっさんみたいな悲哀に満ち満ちた大きな溜息を一つ吐いた。

「まだ危機感が足りてないみたいね」

 ヤバい……死ぬ。

 朝倉の手の中にバタフライナイフが構築されるのは時間の問題だったが、それよりは俺の謝罪の方が早かったので事なきを得た。

「ただの冗談だ。条件反射みたいなモノだから広い心で大目に見てくれ。っと、それよりも朝倉」

「何?」

「さっきは誰とテレパシ会話してたんだ? まさか、長門か?」

 殺意とつまらない話題はさっさと逸らすに限る。誰よりもお前が言うなという声がどこからか聞こえてきたするが、それは黙殺。

「いいえ、喜緑さん。もう少しでここに来るそうよ」

 ああ、そうか。彼女もこの宇宙人御用達マンションの住人だったな。彼女にも聞きたいことは有る。何を思ってあのバーガーショップで俺に接触してきたのか。あの時、彼女が俺にくれたメッセージは長門に極力負担を掛けないように、と……、

「ちょっと待ってくれ」

「どうしたの、突然怖い顔をして」

「彼女は今までどこに行っていたんだ?」

 長門は自室に軟禁されていた。そして、そういった場合の長門の代役である朝倉はこのマンションに居る。だったら喜緑さんの出番だ。まるで初めてのおつかいを見守る母親のようにそれとなーく物陰から俺を見守るのが宇宙人の基本労働であるらしい。いつもなら何やってやがるんだか、と呆れ返る訳だが。

『それが私の役割ですから』。

 その役割を放棄してまで、彼女は今現在何をしているっていうんだ。

「あ」

 なるほど……朝倉に殺されかけた時に感じた俺が違和感の正体はこれか。

 宇宙的不可思議結界に保護対象閉じ込められたってのに、喜緑さんはいつまで経っても助けに来なかった。長門の代役は朝倉だけじゃないのだから、それは確かにオカしい。

「喜緑さんの名誉の為に言っておくけど彼女だって遊んでいた訳じゃないわ。大方、彼女の監督不行届を貴方は非難したかったのでしょうけれど。けど、残念ね。彼女は仕事。今日一日、ずっと追跡して監視していたそうよ。ご苦労な事よね。私なら絶対にイヤ」

 そう言って朝倉は大袈裟に首を振る。追跡? 監視? お前ら一体何をやって……何を知っていやがるんだ。

「誰をだ? 誰を追跡して監視してたんだ、喜緑さんは?」

 ハルヒか、朝比奈さんか。朝比奈さんだとしたら果たしてどっちだ? 未来から来た方か――って、二人とも未来から来た朝比奈さんだった。ええい、彼女が悪い訳ではないがそれにしたって未来人ってのはややこしい。

 朝比奈さん(大)が監視対象ってのに一点賭けの予想をした俺だったが、事態はいつだって予想を超える。ハルヒに出会ってからはむしろ予想通りに事が進む方が少ない。それも常識外れの方向で。競馬見に来たら競走馬に翼が生えちまって大空でバトルロイヤルする感じだ。

 自分で言ってて意味が分からん。

「あら、貴方も会ったんじゃないの? 喜緑さん、途中で貴方と大人の方の朝比奈さんを見掛けたって言ってたわよ」

「途中? 途中ってのは尾行の途中だよな」

 そう言や俺も今日のいつだったか尾行調査に勤しむ探偵のような真似をしちまったんだが、果たしてアレはいつだったか。悩み込むほどでもなく、記憶の糸は案外容易く手繰る事が出来た。そうそう、朝比奈さん(小)が友達と歩いていた所に遭遇したんだっけな。

 午後三時過ぎ、商店街アーケード下でだ。でもって朝比奈さん(大)に出会って、そこから俺たちは真っ直ぐ駅前の喫茶店。喜緑さんが俺を見掛けたってのはこの辺りの話だろうな。

 勿論、道すがら通行人とは多かれ少なかれすれ違っているが、しかし宇宙人がそんな名前も知らない誰かを尾行しているってよりは朝比奈さん(小)を尾行していたと、こう考えるのが一番自然だと俺は思う。

「お前ら、朝比奈さんを尾行してどうするつもりだ? もしかして彼女がワールドエンド・クリスマスの原因だとか言い出すんじゃないだろうな」

「あら、喜緑さんが監視しているのは朝比奈さんではないわよ」

「え? そうなのか?」

「ええ。ただし、今回の騒動の、彼女が原因の一端ではあるけれど。彼女と一緒に歩いていた女の子が居なかった?」

「居たな、確かに。えーと、黄色のリボンで髪を括った子だろ」

 つーか、最早それくらいしか特徴を覚えてない。直後に起きたゴージャス・アサヒナによる腕組みの感触が衝撃的過ぎて記憶の細部を持って行ってしまったのだ。まあ、これは仕方が無いだろう。

 朝倉は俺の回答に頷くと、デフォルトの微笑みでもって爆弾発言を噛ましてくれた。

「彼女、未来人よ」

「は?」

 高校二年生も折り返しを過ぎたここに来てまさかの新キャラ投入である。何考えてんですか、朝比奈さん(大)。

お昼寝

>>254
なるほど……朝倉に殺されかけた時に感じた俺が違和感の正体はこれか。

感じた俺が違和感の正体(`・ω・´)

「未来人、だって? そんなモン誰も追加注文しちゃいないぞ」

 思わずそう言った後で考え直す。もしやまたハルヒの仕業か? 朝比奈さんが今年度いっぱいで卒業するという厳然たる事実を加味すれば、アイツが未来属性を持つ交代要員を求めた可能性は決して否定出来ない。

「誰が呼んだのかとか、そんなのはどうでもいいの。この時間軸に居るのは事実なのだから。ねえ貴方、あの未来人を早くなんとかしてくれない?」

 お願い、と。いつか見た合掌の成り損ないを朝倉は俺に披露した。なんとかしろとは具体的に俺に何を求めているのかとか、質問したい事は山と有ったがそれよりも、だ。

 ああ、そうさ。この朝倉の口振りから言ってほぼ間違いない。

「その未来人とやらの名前は?」

 俺の質問に答える声は検討違いの方向から聞こえた。

「わたしはわたぁし」

 嘘だろ……おい。同じ台詞を俺は以前にも聞いた事が有る。「あの」舌っ足らずを再現しようとしたのは、これはもう発言元に確認を取るまでもない。それにしたって声が違う。全然、違う。その声からはハルヒ譲りの溌溂さがごっそりと抜け落ちている。以上、別人で間違いあるまい。だが……、

 だが、一体他にどこの誰が「渡橋(ワタハシ)」を名乗るというのか。

「あら、お帰りなさい。喜緑さんから聞いてもうそろそろ帰ってくる頃だと思っていたわ。朝比奈さんは?」

 宇宙人が入り口に向けて声を掛ける。闖入者の姿を見ておかなければと動かした首は錆び付いた蝶番みたいに重たかった。

「みくるちゃんならすぐそこの角で別れたわよ」

 そこに居たのは少女だった。それもすっげえ美少女だった。身内贔屓を抜きに見てすら超ハイレベルな我らがSOS団女子と俺の視線の先の美少女は横一列に並べても見劣りしないだろう。黄色のリボンで朝倉以下朝比奈さん以上って長さの髪を括っている。

 しかし、ここで俺が特筆すべきは決してそのリボンでは無かった。

 眼が。

「涼子ちゃん、玄関先で待っててくれたんだ。……で、何これ? なんでここにソイツが居るの? 嫌がらせ?」

 渡橋を名乗るその少女。少女の持つアーモンド型の大きな瞳は一目見てそれと分かるほどにはっきりと。

 はっきりと死んでいた。

 俺が医者であれば不眠症に効く致死量ギリギリの睡眠薬を速攻で処方するであろう重たい隈がそこに輪を掛けて印象を悪くする。どこまでも美少女が台無しだった。

「そんな事しないわよ。それにどの道、貴女は彼を殺すつもりだったんでしょう?」

 自分は中途の手間を省いてやっただけだとでも言いたげだな、朝倉。で、なんだって? 殺すとか何やら物騒な単語が今聞こえた気がするのだが。どうか俺の聞き間違いであってくれよ。

「だったら丁度良いじゃない。今、ここで殺しちゃえば。貴女にならそれは簡単な事でしょう」

 聞き違いではなかったらしい。どうやらこの病んだ眼をした美少女は俺を殺すつもりの未来人で……俺が一体何をしたって言うんだ。未来でレジスタンスのリーダーでもやってたりするんじゃないだろうな。だとしたら今ここで生き方を悔い改めるも吝かじゃない。

 っていうか、どいつもこいつもあんまり人の命を軽々しく扱い過ぎじゃないか? ああ、親の顔をしばき倒したい。朝倉も、でもってあっちの美少女も。

「……やっぱり嫌がらせね」

 少女がそう呟くのと朝倉が一回転しながら後ろに飛び退いたのは同時だった。直後、和太鼓に乗用車が直撃したような重たい音がエントランスいっぱいに反響し、俺は思わずしゃがんで耳を覆った。鼓膜が余韻で割れんばかりに震える。情報操作とやらでトライアングルでも脳味噌に直接突っ込まれているんじゃないかと疑わしい激しい頭痛に襲われる。

「外したか。ま、いいわ」

「外した? わざと外してくれたんでしょ。貴女が本気なら私に避ける術なんて無いもの」

 見れば先ほどまで朝倉が立っていた床が陥没して半径一メートルほどのクレータが出来ている。なんだなんだ、なんなんだ? 見えざる巨人の攻撃か、はたまた局地的重力場でも展開したのか? 俺に分かるのは朝倉が跳躍しなければ、そこに平面系女子が誕生していたという純然たる事実だけである。

「厄介ね、貴女のその願望実現能力って」

 なんだって?

 朝倉は今、なんて言った? 願望実現能力? 願望実現能力って願望実現能力のことか? なら、コイツが古泉の言っていた犯人なのか?

「分かってるじゃん、涼子ちゃん。そうよ、こんな厄介な力は他に無いわ」


 渡橋はしみじみと言った。それは独り言のようでもあり、どこか深い悲哀を入り混ぜていたように俺には聞こえた気がした。俺とそう年の差が見られない少女が口に出して良い重さでは、それは無い。

 そういう人生を感じさせる声音は少なくとももう十年は生きないと出しちゃいけないんだぜ。熟成ってヤツが必要なんだ。

「お、お前は」

 未だくらくらと不安定な頭を右手で支えて立ち上がりながら、俺は問い掛ける。問い掛けに少女は微笑んでいるような、泣いているような絶妙に悲喜入り混じった大人びた表情をした。

「お前は誰だ?」

「分からない、キョン?」

 少女は俺のあだ名を知っている。しかも呼び捨てと来たモンだ。自分ではそう狭量なつもりもないが、流石に気分も悪くなる。

「分かるはず無いだろ。俺とお前は初対面も甚だしい。自己紹介くらいしてもバチは当たらないんじゃないのか?」

「私はわたぁし。渡橋ヤスミよ」

 嘘だ。偽名に決まっている。俺の知っている渡橋――渡橋ヤスミは目の前の少女みたいに背が高くない。眼も死んでなかったし、全体的に倦怠的な雰囲気を醸し出す彼女とは正反対と言ってもいいくらいだ。

 ヤスミの成長した姿である可能性も考えたが、どこをどう捻くれて育ってもこうはなるまいさ。

「それ、あからさまに偽名だろ。本名は言っちゃくれないのか?」

 答えたのは朝倉だ。

「無理よ。彼女が本名を貴女に告げれば未来が変わってしまう。だから、彼女は偽名を名乗るしかない」

「そうなのか?」

 問い掛ける。少女は――答えなかった。

それでは、また今度

 沈黙は金か、それとも無言の肯定を意味しているのか。逡巡するまでも無いな。この場合はあからさまな肯定だろう。朝比奈さん(大)も彼女の名前を禁則事項だとか言っていたし。

 いや、朝比奈さんの言う「彼女」がこの偽ヤスミと同一である保証は無いが。

「……未来から来たって言うし、渡橋ヤスミなんて曰くの付いた名前を名乗ってるから俺たちの関係者なのは間違いない、か。オーケー、お前さんが名前を名乗れないってのは眼を瞑るさ」

 本音を言えば未来がどうなろうと俺にはあまり関心が無い。未来が変わってしまう、とか言われてもイマイチピンと来ないのはそりゃなぜか。未来とは現在の延長線上だからだ。未来人にとって過去は変化の無い、変化させてはならない歴史であるってのは百歩譲って分かる話だ。けど、朝比奈さんにとっての過去は俺にとっての現在で未来。それは流動形で千変万化するものでなければならない、俺にとって。

 努力も夢も希望も何も規定事項などと言われては敵わないからな。全部決まりきっているなんて、そんなん言われちゃ俺はきっと全てが嫌になる。無気力になる。無力感で努力の全てを放棄する。

 それは嫌だ。それだけはダメだ。ハルヒと約束した。死ぬほど努力すると。佐々木に教えられた。世界は変わると。

 現在に生きる人間として未来は俺次第だと信じている。そういう矜持。

 そういう教示。

 しかしそれでも悪戯に未来を変えて朝比奈さんに怒られるのも、困らせるのも俺はゴメンだ。それくらいは譲り合いの精神を持っていてもいいだろう。何よりもそういう決定を今の俺が下したのだから、それがこの時間における選択だ。その先に朝比奈さんの未来がぶら下がっているなんてのはただの偶然に過ぎないのさ。

 未来から来た少女を見据える。澱み切った眼、壁に凭れ掛かった俺と目線の高さが同じなのだから女子にしては背の高い部類に入るだろう。俺の知っている小動物系の「渡橋ヤスミ」とはその外見は似ても似つかない。

「ただ、本名を名乗れないとは言え、代替案でもヤスミを名乗られるのはな……その名で呼ぶのはちょっと、いや、かなり抵抗が有るんだが」

 俺の視線の先で少女が微笑んだように見えた。頬を緩ませたのはほんの一秒にも満たず、その表情だけは年相応の柔らかさと愛らしさを含んでいた気がするも、すぐに彼女は何を考えているのか分からない大人びた顔に戻っていた。

 表情がまるで無い訳ではないのだが、それにしても読みにくい。ポーカーフェイスの上手さは長門か佐々木にも匹敵しそうだ。

「そう言われてもさあ……好きに呼べばいいじゃないの。どうせ、それほど長い付き合いにはならないし。私ならアンタからなんて呼ばれようと特に気にしないから」

 それはどういう意味だ。初対面の女子にあだ名で呼ばれて少しイラついている俺を皮肉っているのか。

「ふふっ、そうよね」

 朝倉が笑う。何が「そう」なんだ。人を蚊帳の外に置くのを止めて同意の論拠を示せっつーの。

「貴方が彼女を何と呼ぶのかは真実、貴方の自由なのよ。ただし、責任が付き纏う事まで含めての自由だから、」

 宇宙人のよく分からない発言はまだ続きそうだったが、それは少女の搾り出した重く、そして冷たい声によって遮られた。

「……涼子ちゃん」

「あら、怖い。睨まれちゃった。そうね、あんまりお喋りが過ぎる女の子って可愛くないらしいもの。……貴女に消されるのも遠慮したいトコロだし」

 朝倉と渡橋(仮)の間で睨み合いが勃発寸前の剣呑な空気が流れている――訳だが、一体俺はどうしたものか。とりあえずの問題はこの未来人少女を何と呼称するか、だな。他にもっと大変な問題が有るだろうって? マルチタスクが出来るようなスペックの脳味噌を積んでいない俺をおちょくっているのか?

 はてさて、名前……名前……いや、そんなに深く考えるまでもないか。いわくにそれほど長い付き合いにはならないらしいし。所詮仮称だ、仮称。

「俺の自由だと言ったな、朝倉。おい、そこの渡橋の偽者。お前もそれで良いんだな?」

 一応、少女にも同意を得ておく。彼女は一つ頷いて俺を見た。

「なら――自由だ」

 俺の見ている前で少女は眼に見えるほどはっきりと息を飲んだ。何を言っているんだお前は、的な反応を予想していたのだがどうやら少女は頭の回転が中々に良いらしい。前後の文脈を読む能力に長けているのかも知れない。どっちでもいいが、とりあえず。

「……それって、名前?」

「ああ。自由(ジユウ)、お前のことはこれからそう呼ぶ。もう考えるのも面倒臭いしな」

 話の流れで適当に付けたが、しかし願望実現能力の持ち主であるらしいし割に嵌りの名前かも知れないな。あれ、もしかして俺って名付けのセンスが有るんじゃないのか。おい、誰か採点頼む。

 高得点を期待して宇宙人を見やるも、朝倉は基本的に長門と同じで感情の発露というものに薄い。いつもと変わらない微笑を返されようと、それでは点数が分からない。テストの採点を炙り出しでやるようなものだな。残念ながらライタもマッチも持ってはいない。

 ならばと偽渡橋改め自由を見れば、彼女は彼女で表情が読み難いのは先ほど言ったとおりだ。薄い唇が小刻みに震えているも、それが喜怒哀楽のどれに当て嵌まるのかなんて分かりゃしない。

 佐々木か古泉がこの場に居ればそういうちょっとした仕草からも色々と見抜きそうだが、まあ、無いものねだりをしても仕方ないか。あの二人に自覚の無い時間旅行をさせてしまったのは俺にも原因の一端くらい有りそうだ。

「ちょっと! 面倒臭いって……何よ、なんなのそれ!?」

「いいだろ、別に。俺の勝手だ。それにお前だって俺からなんと呼ばれようが気にしないって言ってたじゃないか」

「それとこれとは……っ、分かったわよ。好きに呼べば、キョン」

 なんだか釈然としていないような感じだな。恐らく少女の地雷を踏んだのだろうとはそれくらいは察しが付いたが、それが果たして具体的にどんな爆弾なのかなんて俺に聞くだけ無駄だってのは言わずもがなだ。

「……ふうん、こういう事だったんだ」

 何がだ、と。俺が聞くよりも早く朝倉は後方へと吹き飛んでいた。って、なんですと!?

「朝倉っ!?」

 真正面でダイナマイトが爆ぜたかの、そんな速度で壁に叩き付けられた宇宙人少女はしかしその顔に苦悶も苦痛も一切浮かべていない。あの速さで壁にぶつかっておいてそれは有り得ない。ならば情報操作とやらで壁との間にクッションでも創ったか、それとも自分の体を鋼鉄の強度に作り変えたか。素人考えだが、そんな所じゃないかと当たりを付ける。

 何にしろ、無事なようで何よりだ。血腥い展開はそれがかつての殺人鬼であっても見るに耐えない。細い神経の持ち主で悪かったな。誰にも迷惑は掛けてないからほっといてくれ。

「そんな情けない声出さないでよ……大丈夫。彼女――自由さんに私をどうにかしようという意思は無いから。ただ、喋り過ぎたみたいね。あーあ、やっぱり長門さんみたいに無口な方が得なのかしら、ねえ貴女どう思う?」

 その問い掛けは俺ではなく自由に向けて。

 少女は朝倉向けて右手を掲げていた。その動作が何を意味するのか。依然、壁に張り付けとされている宇宙人がその答え。掌を見れば不自然に半開きだった。あれは……もしかしてあれで朝倉を縛(イマシ)めているのか。なら握り込めば、朝倉は……!?

「口は災いの門って昔から言うのよ、涼子ちゃん。それとね」

 俺の危惧通りだった。全く、嫌な予感ばかり当たりやがる。朝倉が小さく痛苦の声を上げ、少女の手が先ほどよりも握り込まれて。今でははっきりと朝倉の身体に透明かつ巨大な五指が埋まっているのが分かる。

「死人に口無しよ。良かったわね、二つ合わせれば『死人に災い無し』よ。死んでしまえばもう悪い事は無いわ」

「止めろ、自由! いい加減にっ!」

「黙りなさい」

 少女は酷薄な声音でもって俺に命令する。だが、そんな命令聞けるか! 聞ける訳無いだろ!

「ふざけんな! 宇宙人なら殺しても良いとでも思ってんのか!」

 すっかり朝倉に二度、三度と殺されかけた事を忘れて俺は自由に向けて駆け出していた。その頬を思いっきり引っ叩いてやる。願望実現能力? 未来人? うるせえ、知ったことか。俺は目の前で誰かが殺されかけてるってのに単純に我慢がならないんだ。

「……え?」

 素っ頓狂な声を上げたのは少女だった。歩き近付く俺を驚嘆の眼で見つめてくる。

 彼女の死んだ眼の中にその時、俺は初めて光を見た。

「なん……で? なんで、キョン、アンタ!」

 何が「なんで」だ。知るか。ソイツが何を疑問に思ってるかも、戸惑っているかもそんなモン俺にはまるっとどうでもいいっつーの。

「朝倉を、放せ」

 人が死んだり殺されたり。そんなのは俺の周りでは許さない。ハルヒの世界でそんな狼藉はさせやしない。なぜならアイツがそんな事を望む訳がないからだ。だったらそんな事を誰にもさせないように俺は動く、俺の意思で。

では、また

 そこに誰の意思も介入してはいけない。させない。

 この時の俺は誰が見ても単純明快に……そう、怒っていた。ハルヒを例に出せば理解に易いと思われるが、怒りとはエネルギ源である事に今更誰も疑問を抱くまい。だがしかし、このエネルギはあまり歓迎出来ない類と一般には認識されている。

 怒りは御し難くまた決して融通も利かないのだ。

 よく言えば一点突破、悪く言えば猪突猛進。それは俺が過去、朝倉に負わされた心的外傷をすっきりさっぱり忘れて彼女を助けに駆けている所からも明らかで、つまり眼を曇らせるものである。火事場の馬鹿力の親戚で、エネルギにはなるが、その代償として一時的に周りの見えない、後先考えない馬鹿になってしまう。

 何が言いたいかと言えばだ。俺はこの時忘れてしまっていたのだ。

 少女――自由が願望実現能力の持ち主であるという事を。

「……ちっ」

 自由はキスをするような音で一つ舌打ちすると、朝倉を束縛している右手はそのままにフリーな左手を俺に向けて振った。それは纏わり付く鬱陶しい羽虫を振り払うような動作であったが、しかし効果は絶大だった。とても手で巻き起こしたとは思えない烈風が途端に俺を襲い、朝倉がそうであったように後方向けて床から強制的に引き剥がされた体は猛加速を始める。俺の意思などお構い無しに。

 後方は壁。足は宙に浮きたたらを踏む事も許されない。受身も取れそうに無い。俺は宇宙人ではない。このままでは背中から叩き付けられる。俺はさっき朝倉がこうなった時に無事で済むはずがないと咄嗟に考えた。それはつまり、今から俺は無事で済まない羽目に陥るってこった。

 マジでくたばる二秒前。いや、死にはしないかもしれない。それにしたって背中からはヤバい。ヤバ過ぎて洒落にも何にもなっちゃいない。未来ってなんだ、希望ってどっちだ。台風に舞う薬局のデカい看板は建物の角にぶつかって拉(ヒシャ)げるのがお決まりのパターン。そんな画に俺の姿が脳裏で重なる。

 冗談じゃない。だから――、

 だから叫んだ。どうにもならない現実を、どうしようもない現在を、どうなってんだな現状を、どうにかしたい一心で。

「くそったれえええええっっ!!」

 一心不乱の喉から出たの世界への恨み言。呪詛だった。けれど、それは「助けてくれ」と何が違うと言うのか。何も違わない。助けてと言わなきゃ助けを求めた事にはならないなんて、そんな事は決して無いのだから。

 かくして呼び声に応え、ずっと出待ちを食らっていた我らがヒロインは現れる。

 風が、吹いた。

 前からの強風(とそれに「煽られる」なんて生易しい表現では足りない「吹き飛ばされ」た勢い)を相殺するように、後ろから俺の体に猛烈なブレーキが掛かる。当然の帰結として俺は前後からサンドイッチの具であってもここまで無体な扱いはされないであろうってな圧力を受ける事になった。

 麺棒で薄く引き延ばされているうどん生地の気持ちの半分ほどを理解して仕舞えそうな状況はさりとて二秒と続かなかったのが不幸中の幸いで、なんとかかんとか空気の檻から解放された俺は強制エアおしくらまんじゅうによって押し潰された肺に一秒でも早く酸素を取り入れようと地面に両肘両膝を着いたままにぜえぜえ喘いだ。

 恐らくここまで新しい拷問に掛けられたのは俺が世界で初めてじゃないだろうか。

「た、助かった、のか?」

 多分、そうだろう。誰かが俺を助けてくれたのだ。出なければ俺は今頃マンションの壁に背中から激突して意識を強制切り離しの憂き目に遭っていたのは間違いない。そう言い切れる点に自由の本気――容赦の無さを思い知らされる。

「……無事?」

 上からなんとなく懐かしい気すらする声が俺の身に降った。一番慣れ親しんだ宇宙人の、安心感すら与えてくれる静かな声が。

 顔を半分ほど上げれば見覚えの有る飾り気の無い黒い靴下に覆われた、雪に例えてはどちらが比喩の引用元なのか分からなくなるほど白い足が視界に入る。ああ、これはいつかのデジャヴか。学校指定の内履きで、サインペンで名前が書いてあれば完璧だったんだけどな。流石に校外でそれは無いか。

 いや、けれど少女は校外であってもいつも制服ではあるかと思い直す。息を整え、立ち上がりながら俺は言った。

「……いつもいつも、助けて貰ってばかりで悪いな」

「……気にしないで」

「気にするさ。今度、何か礼の一つでもさせてくれ」

「……そう」

 小さくっても頼れる背中。長門有希はこっちを振り向きもせず、じっと自由と相対したままに一つリクエストをした。

「なら」

「なら?」

「……また、図書館に」

 お安い御用だと答える代わりにポンとその頭に手を載せた。きっとこれで伝わっているだろう。そう、「ここ」こそが長門の昔と今の違いなんだと俺なんかは思う訳だ。

 チラリと視線を動かせばエレベータの電光表示がいつの間にかアラビア数字の五を表示していた。どうやらそういう事らしい。だから長門がここに居る。まったく、よくやってくれたモンだと感心するね。間一髪だぜ、古泉、佐々木。もう一秒でも遅れていたらと思うとマジでゾッとしない。

「有希、か。そう。キョンの他にもまだ来ていたんだ?」

 朝倉か、もしくは俺に向けての自由の質問はマンションのエントランス内を反響した。

 ああ、ちなみに(本意ではないが結果として)戦場と化したエントランスは当初の整然とした佇まいも見る影無く、当たり前だが惨状と化している。荒れ狂う風によって全部屋分の郵便受けはその中身を洗いざらい床にぶちまけ、観葉植物は鉢植えとの合体を解いて見る者の心を和ませるという当初の目的とは真逆の効果を生み出していた。

 これ、誰が掃除するんだ? もしかして俺?

「ええ。誰も彼しか来ていないなんて言っていないわよ」

 朝倉が凛と澄ました声で言う。張り付け状態はそのままでありながらなぜ、そんなに余裕を持っていられるのか。俺には分からない。辛うじて分かる事は一つ。どの時点で、までは分からないが朝倉は俺と自由に気付かれないタイミングで佐々木と古泉に掛けた時間凍結を解除していたって事だ。

 つまり、コイツはコイツで俺の命の恩人って事に……なるのだろうか。いやいや、それはちょいと早とちりな気もするね。気紛れってのも朝倉なら十分に考えられる線だ。うーむ、もしかして自分で気付いていないだけで恩義を感じやすい性格だったりするのだろうか、俺は。

 とまあ、こんなどうでもいい事を考えられるくらいに俺は余裕を取り戻していた。それってーのはひとえに長門登場のお陰だ。百万の軍勢に匹敵する頼もしさ。その頼もしさ故に、だからこそなるべく頼らないようにと常日頃から自分を戒めている訳なのだが、しかしながら今日ばっかりは仕方ないだろう。非常識に(物理的な意味でも)押し潰されて危うく死に掛けたし。

「他に誰が来てるの、涼子ちゃん。良ければ教えてくれない?」

「い、や」

 語尾にハートマークが付きそうなくらいに可愛らしくかつ意地悪く言う朝倉。自由の右手指が更に五度ほど曲がり、朝倉の身体に見えざる巨人の五指が食い込む。制服のしわやよれと言った表現では生温いほど不自然な痕跡は、朝倉がどれほどの重圧を受けているのかを何より克明に語る。

 それでなんで朝倉は表情を崩さないのか。宇宙人だから? 本当にそれだけなのか?

「だったら、キョン。……有希でもいいわ。私に教えてよ。他に誰が来てるの? ねえ、五秒以内に答えないと涼子ちゃん、潰しちゃうから」

 潰す、と。言葉を濁さずに言う少女にはそれがきっと出来る。

 自由は俺とは違う。彼女には、殺せる。殺したいってほど積極的ではなくとも、死んじゃってもいいかって程度には少女は十分に病的だ。それは殺されかけた俺が一番身に沁みて理解している。

 何も答えなければ朝倉が死んでしまう。それはダメだ。カウントダウンを少女が始めるのと同時に俺は叫んだ。

「五……」

「古泉と、佐々木だ! 他には誰も来ていない!」

 少女は最初、渡橋ヤスミを名乗った。その事からSOS団の関係者であるというのはほぼ確定だ。ならば……だが、

「……え? ちょっと、嘘でしょ……?」

 だが、だったらこの狼狽はなんだ。古泉と佐々木がこのマンションに来ている事がどうしてそんなに不思議だ? そんなに驚くことか? その辺りを聞いてみたかったが、しかし事態はそれを許してくれなかった。

 長門がこの場に姿を現してから初めて自由が見せた隙を宇宙製超高性能アンドロイドの目がまさか見逃すはずもない。長門は長門で朝倉を助けてやらなきゃならん事情が有るだろうしな。

 だから突撃というよりは最早それは瞬間移動に近かった。俺は一瞬で長門を見失い、眼球を全速で動かした先、次に見たその少女は小さな掌の先に幾何学模様かアンドロメダ語で出来た魔法陣を携え、自由の斜め後方より奇襲を仕掛けようとしていた。

 未来人少女は長い黒髪を振り乱して接近する長門に対応しようとするもその振り返りはどう見たって間に合わない。そもそも、超高速で迫り来る攻撃に気付けただけでも人間としちゃ規格外だと言い切ってしまえる常識外れな反射神経だってのに。さらに対応、迎撃を行おうなんて高望みが過ぎる。

 そんな事は無理だ。出来ない。不可能だ。けれど、

 けれど、俺は不可能を可能にする方法を――力を知っている。そしてそれを自由が持っている事も。彼女の辞書に「不可能」は無い。

 願望実現能力とは、絶対だ。

今日はここまで


 おい、大事が無かったとは言え出てくるの早過ぎやしないか。

 安堵も有るが、それにしたってこうも引っ張らないようでは肩透かし感は否めない。今さっき、俺がチラリとでも覚えた憤慨をどこにぶつければいいのか。俺に名前を呼ばれて出て来たコイツが悪い訳では決してない。ないがしかし、振り向いて声の主、長門有希の頼もしい立ち姿を見る俺の目はきっと恨みがましいものになっていたんじゃないだろうか。それくらいは想像に容易い。

「有希?」

「はあ……ま、元気そうで何よりだ、長門」

 俺の見る限り傷一つ負っていない宇宙人少女の視線は、彼女に声を掛けた俺を一瞥もしなかった。長門の意識はずっと神様少女マーク2に注がれている。絶対零度に肉薄するやも知れない少女の遠慮の無い注視を正面から受け止め続ける、自由も相当肝が据わっているな。

 俺なら五秒と持たず眼を逸らす自信が有る。氷漬けはゴメンだ。

「ねえ、どういう事?」

「……質問の意図する所を明確にするべき。でなければわたしにも回答は困難」

「なぜ有希がここにいるの、って聞いてるのよ」

「……わたしはずっとここにいた。どこにも行っていない」

 ここにいた――ずっと? そんな馬鹿な。俺はこの眼で長門が自由によって消された瞬間を見ている。だが、それを長門は明確に否定した。狐に化かされたようなってのは正にこの事だ。宇宙人とそれ以外の間、認識に齟齬が生じてるのは違いない。

「何よ、それ。意味分かんない」

 ほらな。やっぱりだ。

 願望実現能力の持ち主ですら状況が把握出来ていないってのに何の力も持たない一般人代表にそれを求めるのは少々酷ってモンだろう。毎度毎度の事ながら、事件ってヤツはちっとも俺に気を使ってはくれはしない。二時間ドラマを三十倍速で見せられている気分だぜ。

 しかし、少なくとも長門有希の「人となり」を俺は知っている。つまりそれは、コイツは先ほどから嘘だけは吐いていないという意味だ。

「嘘よ嘘よ嘘よ」

 自由はそう言うが、俺は確信している。嘘を吐けるような器用さを、小狡さを、俺の長門は持ち合わせてはいない。

「さっき、確かに手応えは有ったもの。『有希は』『どこかに』『跳ばした』。私の願望なのだから、そうね、どっか行っちゃえってあの時の私は思ったのよ。だったら、そう簡単には戻って来れない場所のはず。なのに、有希はここにいる。何をしたの? どうやったの?」

「何もしていない」

 自由の問いにこれ以上ないってほどシンプルかつストレートな回答を返す長門。シンプルってのは基本的に褒め言葉だと俺は思うが、しかし何事も時と場合であり、推理小説が推理パートを端折っては最早文学としての体を成さないことくらいは宇宙的文学少女にも分かって貰えていると思っていたのだがな、俺は。どうやら長門は生粋の読者であり、書く方には絶望的に向いてないようだ。

 それとも、もしかして探偵役を俺に要求しているのだろうか。いやいや、流石にそれはあるまい。ミスキャストだ。フランス映画のヒロインにアル・カポネを持ってくるような斬新さだぜ。

 俺はふうと息を吐いた。安堵と困惑の絶妙なブレンドでな。

「長門、一つ聞かせてくれ。……お前一人か? えっと、つまり――一緒に消えた朝倉はどこへ行った?」

 一応言っておくと朝倉を心配している訳ではない。そもそも俺なんかが心配するような対象でも無い訳だが、それにしたってその動向は気になった。二人で神隠しに遭っておきながらどうして長門だけがひょっこり帰ってきているのか。

 いや、長門の言を鵜呑みにするならば、そもそもコイツは神隠しに遭ってすらいない。

 自由じゃないが、そいつは一体どうした事かと俺が疑問に思うのもむべなるかな。長門無傷の秘密、もしかしたらそれは願望実現能力の傍若無人、絶対無敵っぷりに対する唯一の切り札となるのかも知れない。そうだろう?

 さて、朝倉の現在地を問われた長門は何も無い中空を、まるでウチのシャミセンのようにぼうっと見つめ始めた。ああ、これは母星との交信が始まったなと俺は即座に理解する。そして、それは裏を返せば朝倉との直接交信が現在コイツには出来なくなっているって事に相違あるまい。

 やはり朝倉は自由によって強制テレポートさせられているのだ。

「――確認した。朝倉涼子は既知宇宙に存在している。健在。現在この星からの距離を測定中」

「星!? ……ああ、いや、距離までは要らん。聞いても多分、俺にはどうしようもないしな」

 ロケットでも組み立てて迎えに行けってか? 宇宙飛行士が夢だったのは幼稚園の年中さんまでだ。今の夢は――と、こんな事語ってる場合じゃない。

「……そう」

「とにかく、遠くにいるんだな。」

 それも恐らく何万光年単位。改めて願望実現能力ってヤツの万能感、そしてスケールの大きさを体感せずにはいられない。

「……そう」

「って事は朝倉には自由の願望実現能力は通用した訳だ」

「……そう」

 長門は言うも、ここで今日一番のクエスチョンだ。俺と自由の共通の疑問。

「なら、なんでお前には利かなかったんだ?」

 俺の中で「もしかしたら」は仮想構築されていた。前例も有ったからな。いや、前科と。もしかしたらこう呼ぶべきなのかも分からない。ただ、俺はそれを罪だとは思っちゃいないし、どっちかと言や子供の駄々に近しいものだと思っている。

 去年の冬。丁度今の時期、クリスマス前。パラレルワールド、漂流する俺、眼鏡を掛けた長門有希。

『長門さん達の情報操作能力をゲストアカウントとすれば涼宮さんの願望実現能力はアドミニストレータ権限に相当するでしょう』。

『だったら去年の十二月の一件はパスワード漏洩、もしくはハッキングだな』。

『覚えているかしら、昨年の丁度今頃。長門さんが大規模な世界改変を行ったでしょう? 今の長門さんもあの時と同じくらい、いいえ、それ以上のエラーデータを蓄積させているの。いつ、何を起こしてもちっともおかしくないわ』。

 悪い予感には事欠かないこの身が歯痒い。チクショウ、あんな事は二度とゴメンだぞ、長門。

「違う。認識に齟齬が発生している。わたしは彼女の力の対象となっていない」

「いや、それって?」

 それってつまり――つまり、どういうことだ? ううむ……ダメだ、分からん。早々に推理を放り出した俺とは逆に、死んだ眼をした少女は何かに思い当たったように顔を上げた。 

「もしかして、有希……じゃない? いえ……でも、いつ……」

 は? 長門じゃない? 何を言っているんだ、アイツは。

 俺は長門が消える場面をしっかり目撃した。だから、それはない。あれは確かに長門だった。

 ……いや、でも。

 決め付けるな。

 本当に、アレは長門だったのか? 改めて記憶の玩具箱をひっくり返す。

 入れ替わり、双子の姉妹ってのはミステリにおける古典トリックだが。

 古典過ぎて現代でやってしまえば色んな方面から怒られそうなレベルであり、それはトリックとしても成立しないくらいに広く手法が知れ渡ってしまっている。しかし、だからこそ「それは無い」って思い込みは死角と盲点を産む。それが使い古されている事なんてきっと宇宙人は知らないから、使用に躊躇なんて無かっただろう。

 そして、長門有希は古典を好む。……だとしたら、

「長門、教えてくれ」

「何?」

「喜緑さんはどこにいる?」

 双子の姉妹。どちらが姉でどちらが妹かなんて知らないが。

「……確認した。彼女は今」

 長門が俺の問い掛けに対して母船との交信を始めた事で確信した。

「朝倉涼子と共に居る」

 自由の眼が見開かれる。信じられない、と。その表情は雄弁に語っていた。

「私がテレポートさせたのは有希じゃなくて喜緑絵美里……ってこと?」

「……そう。わたしではない」

「そんな……いつ……?」

 神様少女の動揺は声の震えとなって隠し切れずに現れた。

 ……おいおい、それにしたって震え過ぎじゃないのか。

 それはそこまで驚く事だろうか。自由は長門や朝倉、喜緑さんが宇宙人である事を知っている。であるならば、彼女達が常識で量ってはいけない相手だって、それくらいは常識として理解しているはずではないか。メタモルフォーゼを利用した入れ替えトリックくらい、そんなモンが今更なんだってんだ。

 そうだ、そんな事は驚愕に値しない。だとしたら少女が驚いているのはきっと別の理由。なんとなく俺にもそれは理解出来た。

 少女は願望実現能力の持ち主である。ならば――、


 思い通りになっていない今が、自由にとっては驚きなのだろう。


 世界は今まで彼女の思い通りだった。望み通りだった。それが当たり前で、世界とはそういうものだと今の今まで少女は理解していたのだ。だから、初めての経験に彼女は戸惑っている。動揺している。それは――それはなんて――、

「お前、俺たちに助けて貰いたいんじゃないのか?」

 俺の口からポロリと零れた言葉は、いや、何を言ってんだ、俺。

 ソイツは敵だぞ。俺を殺そうとまでしやがった。長門が間に合わなかったら俺はきっと死んでいたに違いないってのに。だから無いよ、無い無い、それは無い。

 だってのに。

「……無理よ」

 自由は助けを求めている事、それ自体を否定しなかった。深い隈に縁取られた眼は心なしか赤く潤んでいるように俺には見える。殺意を抱く手と逆の、手は足掻いている。助けを欲している。願いはなんでも叶うはずの少女が、それ以上に何を必要とするのかとは思う。

 けれど、確かに。そこに紛れも無い「SOS」を俺は見た。

「もう、どうにもならない。だから無かった事にするのよ、私は」

 血を吐くように未来人は言う。

「それが唯一の方法だから」

 何を言っているのか、正直俺には分からない。この自由と名付けた少女が何を見て、何を知って、そしてどのような過程でもって俺を殺すという結論に至ったのかを俺は知らない。しかし、それが苦渋の決断であった事くらいはどうにかこうにか俺にも理解出来た。

 長門はその辺りの事情を知っているのだろうか?

 何を言い出そうか、問い質そうかも判然としないながらもとりあえず動かした声帯がはっきりとした震えになるよりも早く、後ろから声が聞こえたので俺は心底驚いた。

「おやおや、何やら話が込み合っているようですね」

「のわっ!?」

 心臓に悪い登場をしたのは自称エスパー少年だ。首をぐるりと動かせば階段の方から歩いてくるのが見て取れた。どうやら下りにエレベータは使ってこなかったらしい。微苦笑気味ないつもの表情を張り付けて、ロビーホールの惨状も気にする様子はない。

 ドイツもコイツも胆の据わり方が常識外れている。

「失礼、驚かせてしまいましたか。それにしても、派手にやりましたね。まるで強盗に遭った家屋の様相ですよ」

「俺がやったんじゃない」

「別に、貴方を責めているつもりはありません。何があったかは知りませんが、貴方に大事無さそうで僕としては一安心です。これで何か遭ってはお前が付いていながらどういう事だと上の人たちから散々にお叱りを受けるでしょうから」

 言いながら古泉は俺に隣に並んだ。

「始末書ものですよ」

 死に掛けた事を新川さんにでも告げ口したら、この優男に一泡吹かせてやれるだろうか。

今回はここまで

古泉「僕と涼宮さんの関係のために、長門さんと彼が上手く行くように暗躍していたらなんだか長門さんと

いい感じになってしまっていたという内容の本はまだですか?」

朝比奈「あ、あのぉ……わたしも一応SOS団の一員なんですけど……」

古泉「おや、これは朝比奈さん。ご卒業おめでとうございます」

朝比奈「ま、まだ半年以上残ってますっ!」

古泉「そうでしたか? ……ふふっ、まあどちらにしても余り現状に変わりは有りませんからいいのではな

いでしょうか」

朝比奈「ふ、ふえーん! キョンくーん!」

キョン「あれ? 朝比奈さん、何しに学校へ来たんですか?」



古泉「僕は思うのですよ。この作品においての結末はあなたと涼宮さんの恋愛でしかないのだろうと」

長門「……スイーツ」

キョン「長門、そう嘲ってやるな。ラノベにおける不文律、黄金パターンってヤツで概ね古泉の言には俺も

同意だ」

古泉「ええ。と言いますか、僕としては涼宮さんとかぶっちゃけ無理ですし。彼女、重い」

古泉「その点、長門さんならそこそこさばけた関係で付き合っていけるかなって」

キョン「古泉、お前さっきからちょっと本音過ぎる」

古泉「まあ、楽屋裏ですし」

キョン「大体、長門。お前はどうなんだ。こんな奴が彼氏で、それでお前はいいのか?」

古泉「おやおや、酷い言われようですね」

長門「いい。……男などアクセサリーでしかない」

キョン「長門ぉっ!?」

長門「ただしイケメンに限る、と主流派は判断した」

古泉「ふう、美形設定で助かりました」

キョン「宇宙の真理だったんだな、顔面偏差値ってのは」

朝比奈「……あ、あのぉ」

キョン「ああ、朝比奈さん。まだ居たんですか」

朝比奈「ず、ずっとここに居ましたからぁっ!」

キョン「居てもいなくても同じなので存在を意識から消していました」

古泉「そういえば、結局朝比奈さんっているんですか?」

朝比奈「だ、だからさっきからここに居ます! 古泉くん、あんまりわたしを馬鹿に……」

キョン「いや、分からん」

朝比奈「キョ、キョンくんまでっ!? ここ! ここですよー!」

長門「不要と情報統合思念体は判断した」

朝比奈「ふえっ!?」

古泉「ああ、やはり要らなかったんですね」

長門「朝比奈みくるの存在価値とは強いて挙げれば百合要員」

キョン「あー、キマシタワーってヤツか。俺、あんまりアレ得意じゃないんだけど」

古泉「右に同じですね。どうもこう、自分が妄想の舞台に出て来ないものでは勃ちが悪いんですよ」

朝比奈「た、たち……?」

キョン「古泉、少し黙れ。生々しい」

古泉「これは失礼」

古泉「で、何の話だったでしょうか?」

長門「……恋バナ」

キョン「恋バナっておま……!? はあ、長門もこう、初期に比べてスラングが達者になったよな」

古泉「もうほとんど違和感ないですよね」

朝比奈「ですねー。長門さんはどんどん可愛くなられています」

古泉「……おや?」

キョン「……あれ? 朝比奈さん、まだ居たんですか?」

朝比奈「酷いです、キョンくん、古泉くん! わたしも恋バナに混ぜてくださいよう!!」

キョン「え?」

古泉「いえ、ですが……」

キョン「……はあ」

朝比奈「なんですか、なんなんですか、その反応!?」

キョン「古泉、言ってやれ」

古泉「分かりました。いいですか? 朝比奈さん、あなたには既に鶴屋さんという不動の相方がいらっしゃ

るのです」

長門「……キマシタワー」

朝比奈「長門さん、そのボソッと呟くの止めてください!」

キョン「そういう訳で、朝比奈さんに関してはもう恋バナの成立する余地が残っていないんですよ。すいま

せん」

古泉「ご卒業おめでとうございます。鶴屋さんとお幸せに」

朝比奈「ちょっと待って!?」

古泉「巨乳は晩年垂れますしね」

キョン「同意」

長門「同意」

朝比奈「わ、わたしと鶴屋さんはなんでもありませんよっ!?」

鶴屋「……み、みくる……?」

キョン「お、鶴屋さん」

古泉「素晴らしいタイミングですね。流石と言うべきでしょうか」

長門「……情報操作は得意」

古泉「なるほど、長門さんの仕業でしたか」

鶴屋「みくるの、みくるの阿呆ーっ!!」

朝比奈「ああっ、鶴屋さーんっ?」

長門「……修羅場」

キョン「俺の金持ち先輩と未来人が修羅場過ぎる」

古泉「余り鶴屋さんを悪く言わないで下さいね。彼女、機関のスポンサーのお嬢さんですから」

キョン「全ては金か」

古泉「お金です。学生のあなたにはいまいちピンと来ないかも知れませんが」

キョン「愛が全てじゃないんだな」

古泉「愛はお金で買えますから」

キョン「そうか」

朝比奈「鶴屋さーん!」

古泉「まあ、真剣に朝比奈さんとのフラグを考察してみますと」

キョン「出会って間も無い頃に俺、大きな方の朝比奈さんにフラグぽっきり折られてるんだよな……」

古泉「ああ、わたしと余り仲良くしないで、という例のアレですね」

キョン「アレだ」

古泉「ちなみに大きいとは何がでしょうか」

キョン「そうだな……スケールかな」

古泉「彼女と愛を育むのはタイムパラドックス的な問題も含みますし、止めておいた方が無難だと僕は考えますが」

キョン「つーか、朝比奈さんと仲良くすると途端にハルヒがな……」

古泉「ああ……ああ……。なんですか、それは愚痴に見せかけた惚気ですか? そんなものは日頃で十二分なんですが、僕たちは」

長門「同意」

キョン「なら、お前が替わるか古泉?」

古泉「冗談じゃない」

キョン「おい、喋り方」

古泉「いいですか? 某SSに付いた感想が非常に的を射た表現だったので流用させて頂きますが『核弾頭に恋なんて出来るか』」

キョン「長門だってそういう意味じゃ似たようなモンだろ」

長門「……統合思念体に有機情報連結の解除を申請する――個体名、朝倉涼子の有機情報連結を解除した」

キョン「何やってんだ、お前は」

長門「……八つ当たり?」

キョン「八つ当たりとかキャラじゃないだろ、お前も」

古泉「いいえ、この長門さんで正解なんです」

キョン「なん……だと……っ!?」

濃い身「長門さんは原作中で少しづつしかし着実に人間臭くなっているのです」

長門「……そう」

キョン「なるほど、つまり成長性Sな」

古泉「ええ。誰かの死をトリガーとしてその才能は一気に開花す……おっと、この言い方だと死ぬのは十中八九僕ですね。止めておきましょう」

長門「……有望株。それが、私」

古泉「その通りです、長門さん。だから僕と付き合って下さい」

キョン「お前の告白には誠意の欠片も無いよな、実際」

キョン「なら、俺は佐々木でいいや」

古泉「ああ、その線は有りません、残念ですが」

キョン「マジか!」

古泉「大マジですよ。考えてもみて下さい。どこの世界に九巻まで来て初めて出て来たキャラと結ばれる主人公が居ますか?」

キョン「げ、現実とか」

古泉「申し訳ありません、ここは二次元です」

キョン「オウ、レインボーガール」

古泉「二次元とは現実と違い、極めて理想的でかつ童貞の夢を壊さないように出来ているのです。以上、あなたのヒロインは一巻から出て来ているSOS団三人娘の誰かですよ。機関が保証します」

キョン「……それって実質ハルヒ一択じゃねえか」

古泉「ですから最初から申しているではありませんか」

長門「……スイーツ」

古泉「涼宮さん、良いではありませんか。きっと恋仲になれば尽くしてくれるでしょうし、結婚すれば良妻賢母ですよ」

キョン「まあ、そりゃそうなんだが……アイツの場合『尽くす』に手抜きが無い気がするんだよ」

古泉「それは……いえ、僕が彼女を敬遠したのもそこが理由ですが」

キョン「正直、疲れる」

古泉「ですね」

長門「涼宮ハルヒは疲労回復にも効果が有ると思念体は判断した」

キョン「温泉の効能みたいだよな、その言い方」

古泉「まあ、間違ってはいないでしょう。日々の疲れを癒す事に掛けても、恐らく彼女は全力です」

キョン「そんなんだからエロ同人がいまだに出るんだよ」

古泉「おっと、問題発言ですね」

キョン「楽屋裏だからな」

キョン「結局、アイツと居ると日々是全力を強要されちまうのが最大のネックなんだよなあ……」

古泉「馬車馬のように遊び回されますよ。良かったですね、まず間違いなく『楽しかった』って言って大往生です、貴方は」

キョン「俺の性格は知ってるだろ?」

古泉「案外、付き合いが良い辺りですか?」

キョン「くっ、言い返せん……」

古泉「正直、あなたが涼宮さんを本気で重荷に感じているのならば、何度となく彼女と縁を切る機会は有ったはずなのですよ」

キョン「……そうだな」

長門「……それについては謝罪する」

古泉「おや、長門さんに飛び火しましたか」

長門「過去、私は彼に選択を強制した」

キョン「いや、それはもう済んだ事だから、気にすんなよ」

長門「……ありがとう」

キョン「こっちこそ、その、なんだ……悪かった」

>>303-306
SS速報は乗っ取り禁止
もしかして誤爆ですか?

古泉「甘酸っぱい青春の匂いがします。そういうのは僕の居ない場所でやって貰えませんか?」

キョン「今のお前の一言でその匂いとやらは台無しになった訳だが」

長門「……青春って何?」

古泉「また難しい質問ですね、長門さん」

キョン「実際、俺にもよく分からん」

古泉「……ふむ、分かりました。では一つ、僕とデートしましょう、長門さん」

長門「了解した」

キョン「頼むからそういうの俺の居ない所でやってくんねえ?」

古泉「貴方にそれを言う権利は有りませんよ」

長門「……同意」

キョン「俺はそこまでハルヒとラブコメしてたつもりはないんだけどな」

古泉「その発言がもうアウトです」

キョン「いや、そんなことは……」

古泉「少なからず涼宮さんと部室で青春していた(隠語)という自覚が無ければ、ラブコメなんて単語がそもそも出ては来ませんよ」

長門「……情報統合思念体に私の権限の一部制限解除を申請した。エマージェンシーモード」

古泉「ほら、長門さんも怒っています」

キョン「……す、すまん」

古泉「はあ……貴方という方は。老婆心ながら言わせて頂きますと、涼宮さんへの気持ちに自覚が有りながらそれを決して直視しようとしないのはそれは最早病気の域に達していますよ」

キョン「お前にだけは言われたくない」

長門「……私がモテないのはどう考えても涼宮ハルヒが悪い」

キョン「おい、待て! 早まるな、長門!」

長門「SOS団男子は二人とも涼宮ハルヒに好意を抱いている」

キョン「そんな事は」

古泉「そんな事は有りません、長門さん。僕のそれは既に過去であり、若気の至りというものでして」

キョン「否定が必死過ぎるだろ、お前も」

古泉「そうは言いましても正直貴方と涼宮さんの間に僕の入る余地が有りません死ね」

キョン「古泉!?」

古泉「ああ、これは失礼。うっかり本音が漏れてしまいました」

キョン「お前、実は俺のこと嫌いだろ」

古泉「滅相も無い。事実無根の名誉毀損で訴えますよ」

キョン「だから、一々否定が必死過ぎるんだよ。逆にちょっと引くわ」

古泉「僕はこれでも感謝しているんです、貴方に」

キョン「感謝している相手に死ねとは普通言えん」

古泉「これは信頼の裏返しというものでして。貴方なら冗談として取ってくれるであろうという……」

キョン「解説されるとそれはそれでモヤモヤした気分になるな」

古泉「しかし、本当に貴方には感謝しているのですよ」

キョン「ほう」

古泉「お陰で涼宮さんに転ばないで済みました。ありがとうございます」

>>307 主が暇潰しというか気分転換してるだけなんで

キョン「……ちょっと待て」

古泉「なんですか?」

キョン「やっぱりお前、ハルヒのことを俺に押し付けようとしてんじゃねえか」

古泉「ええ、そうですよ」

キョン「馬脚を現すってレベルじゃない。あっさり肯定しやがった」

古泉「だって、考えてもみて下さいよ。彼女の恋人となった方の双肩には世界の平和が圧し掛かるのです。普通なら圧死でしょう」

キョン「言い得て妙だな」

古泉「ふふっ、流石にこれは貴方だって否定出来ませんよね」

キョン「あまりその辺りを深く考えるとハルヒと普通に付き合えなくなりそうだから脳裏から追い出そうと努力している節は無くも無い」

古泉「貴方らしい。そしてそれを実行出来るのが貴方でなければならなかった理由なのでしょう」

キョン「おい、俺の間違いじゃなければ無神経と馬鹿にされているように聞こえるんだが」

古泉「いいえ? 褒めていますよ。ねえ、長門さん」

長門「……判断を保留」

古泉「なるほど、この辺りはまだまだ長門さんには難しいようですね」

長門「あなた達有機体は私たちと違い、物事を不確定にしておく癖が有る」

古泉「仰る通りです」

キョン「恋愛なんてその筆頭みたいなモンだろ。長門には少し早いんじゃないのか?」

古泉「なんですか? 自分が涼宮さんと上手くいくと分かっているから、余裕ですか?」

キョン「あのなあ……大体、古泉。お前はどうして長門狙いなんだよ」

古泉「本人の目の前でそれを聞きますか」

長門「……私も知りたい」

古泉「まあ……ですよね」

古泉「言い難いのですが……正直、消去法です」

キョン「楽屋裏だからってぶっちゃけ過ぎんだろ、お前」

長門「……いい。楽しめている」

キョン「まあ、長門がそう言うんなら……いいのか?」

長門「……いい」

古泉「いいですか。少し考えれば分かるでしょうが、僕には他の選択肢が無いのです」

キョン「選択肢呼ばわりとか……」

長門「……いい」

古泉「涼宮さんは既に人のものですし」

キョン「違う!」

古泉「朝比奈さんは先ほども申し上げました通り関係を持つには適さない方です」

キョン「おい、無視か。ハルヒは別に俺のものって訳じゃ……」

古泉「では後残っている女性を挙げてみましょうか。佐々木さん、阪中さん、橘さん、森さん……ええと、他に誰か居ましたか?」

キョン「周防とか朝倉とか喜緑さんとかか」

古泉「宇宙人なんて全部長門さんの下位互換ですよ」

キョン「また随分バッサリいきやがった」

長門「……同意」

古泉「ミヨキチさんですとか貴方の妹さんですとか、他にも僕が思い出せない女性がいらっしゃるかも知れませんが」

キョン「おい、テメエ何さらっと人の妹を候補に入れてやがんだ!」

古泉「ですが、僕こと古泉一樹は一応一巻から出て来ている準主役キャラなのです」

キョン「お、おう……そうだな」

古泉「その辺のぽっと出が僕と釣り合う訳ないじゃないですか」

キョン「そういうもんなのか?」

古泉「僕は言いましたね、ラノベには不文律が有ると。そういうものなのです」

キョン「お約束って面倒臭いんだな」

古泉「となると、まあ、長門さんで妥協しておくのが一番軟着陸だろう、と。これが機関の見解です」

キョン「何やってんだ、暇過ぎんだろ、機関」

古泉「長門さんも同様です。僕などで恐縮ですが……」

長門「……分かった、妥協する」

古泉「ありがとうございます。これで僕らは晴れてカップルですよ」

キョン「……恋愛って何だっけな?」

古泉「貴方も僕らを見習って早く涼宮さんで妥協して下さい。正直、そろそろ面倒臭いんですよ、付かず離れずとか」

長門「……同意」

キョン「嫌だよ! 俺はそんな打算塗れのスタートだけは切りたくない!」

古泉「ふうむ……では長門さん、結婚とは何でしょう?」

長門「……妥協と納得」

古泉「正に然り、その通りです」

キョン「止めろ!」

古泉「いいじゃないですか、涼宮さん」

キョン「古泉お前……散々こき下ろしてたその口で今更何を言っても俺の心には届かないからな」

古泉「プールの時にしっかり確認したでしょう。素晴らしいプロポーションですよ」

キョン「古泉、俺、なんか……うん、頑張ってみるよ」

古泉「ええ、その意気です」

長門「……貧乳はステータス……希少価値」

古泉「大丈夫です、長門さん。僕は女性は顔だと思っていますから」

長門「……興味深い」

古泉「心が大事だとか言っているのは本音で喋ることの出来ない臆病者ですよ。僕は違います。可愛いは顔です。そう言えるでしょう」

キョン「奥ゆかしさは日本人の美徳だと思っていたんだが」

長門「……美形は宇宙の真理」

古泉「では、長門さん。手始めに今から一緒に下校しませんか」

長門「……ユニーク」

キョン「イエスかノーかくらい分かる返答をしてやれ、長門」

長門「貴方たち有機生命体の真似をしてみた。……変?」

古泉「いえ、それもまた貴女の魅力かと」

長門「……なんだかなあ……あの二人結局上手く行きそうなのが釈然としねえ」



ハルヒ「待たせたわね!」

キョン「……待ってねえよ」

ハルヒ「あれ? キョンだけ? 古泉くんは? 有希は?」

キョン「とっくに帰った」

ハルヒ「ふうん……ま、いいわ。で、アンタはなんで一緒に帰らなかったの?」

キョン「一緒に帰れるような雰囲気じゃなかっただけだ」

ハルヒ「……あっそう」

キョン「待ってた訳じゃ、ないからな」

ハルヒ「……そ」

ハルヒ「ん? 一緒に帰った? 古泉くんと有希が? ふーん、へえー、そう……」

キョン「楽しそうだな。まあ、お前の想像で強ち間違っちゃいない。お試し期間って感じだ」

ハルヒ「うんうん、なんか青春って感じだし、美男美女だから特別に許可を出すわ!」

キョン「結局お前も最後は顔か。後、お前の許可は要らんだろ」

ハルヒ「別に、アタシは顔で選ばないわよ? ただ、美男美女のカップルは見ていて納得出来るってだけ」

キョン「凸凹だとモヤモヤするよな。それは俺にも分かる」

ハルヒ「……アンタは?」

キョン「は? いや、何を聞いてるのかが分からん。文法に則って喋ってくれるか」

ハルヒ「だーかーら、アンタは顔で選ぶのかって聞いてんの!」

キョン「……難しいな」

ハルヒ「何よ、ハッキリしないわね」

キョン「いや、ほらな。顔じゃないって格好付けたい俺も居るが、それでもやっぱり付き合うなら好みの顔が良いって俺も居る訳で」

ハルヒ「ま、そりゃそっか」

キョン「だからさ」

ハルヒ「何よ?」

キョン「お前はどっちって言われた方が嬉しいんだ、ハルヒ?」

ハルヒ「……はっ!? な、な!!」

だが、俺としてはそんなモンよりも危険手当の方がよっぽど欲しい訳で。今回の一件も然るべき場所に願い出れば小さな家が買えるくらいの金額を貰える気さえするね。人命ってのはそこまで安くないはずだと俺は頑なに信じている。

 ただ、問題が有るとすれば俺にはその「願い出る然るべき場所」ってのにとんと心当たりが無い事か。

 おいおい、今回も骨折り損で間違いないってかい?

「古泉……一樹」

 自由は絞り出すように口にする。憎々しい、と言うよりは出来れば会いたくなかったってな声音だな。どうやら俺や長門ばかりでなく、彼女は古泉とも何らかの関係が有るらしい。いや、ここまで来れば恐らくSOS団全員の関係者と見てほぼ間違いあるまい。

 どうやら古泉も同じような事を考えたらしい。

「ふむ、自己紹介をする必要は……無さそうですね」

 最初からそんなモンするつもりも無かっただろうに、いけしゃあしゃあと。それとも何か? 息をするように嘘を吐くのは超能力に目覚める上で必須スキルだったりするのかね。詐欺師か役者、もしくは政治家ってんならそれも分かる話だが。

「さて、貴女は僕の事を知っているようですが、しかしながら僕の方は貴女の事をまるで存じ上げません。ただし……これは恐らく『今はまだ』ではないのかと推測しますが」

 微笑を崩す事無く自由に向かってそう言った古泉は眼の端で一度だけ、チラリと隣に立つ俺を見た。

 おい何だ、今の意味有りげな視線は。何かのアイコンタクトだったりするのなら、せめて試合前にサインの打ち合わせくらいしておいてくれないと困るんだが。

「何? 自己紹介でもしろって言うの、古泉さん?」

「いえ、そのような事は強いていません。それに――ふふっ、古泉『さん』ですか。今のでやり取りでおおよその見当は付きました。貴女の自己紹介は、これは多分必要ないでしょう」

「「え?」」

 俺と自由の声が重なる。古泉は何をそんなに驚く事が有るのかと肩を竦めて見せた。

「そうですね……僕の予想が正しければ貴女は彼に対して『渡橋』とでも名乗られたのではありませんか? どうでしょう? もし、この予想が当たっていれば僕としてはもう貴女には何の質問も有りませんよ。こっちに残っているのは回答を得られない類でしょうし……ね」

「……なん、だって」

 隣に佇むその男はそんな事を事も無げに言うが――正直意味が分からない。なんだよ、これ。どうなってんだ。

 確かに古泉の言う通り。少女の名乗った偽名は渡橋。だけど、それをコイツが言い当てるのは無理に決まっている。それもそのはず、少女が俺に対して名乗った時、古泉はエレベータの中で時間ごと凍結されていた。つまり、古泉はその事を知り得ない。

 でありながら。

 千里眼? 地獄耳? おいおいお前、いつの間にそんな超能力者みたいな事が出来るようになったんだ?


「いえ、そう難しい事でも無いでしょう。ちょっとした推理、関連付けの結果でしか有りません」

 ヒントは十分に出されていたと、探偵役は言うもこっちは早く解決編をやってくれってな気持ちでいっぱいだ。だがしかし、解決編は披露されなかった。

「古泉一樹、貴方はそれ以上喋るべきではない」

 言ったのは長門だ。

「それは彼が自分で気付かなければ意味の無い事。ここで貴方が彼女の事を話した場合、高確率で」

「世界改変が行われる。そうですね、長門さん。そして――渡橋さん。貴女にはそれを行う用意が有る」

「そう」

 長門が小さく頷く。俺たちと対峙する偽渡橋、自由は答えない。こっちはただ、沈黙を貫いた。けれどその顔には。

 第一印象、俺は少女に「無表情」という感想を抱いた。しかし今はその事実が嘘のように眼には星雲が煌いていた。まるで誰かさんのように。

 俺はこの眼を知っている……気がした。きっと気のせいじゃない。

「仕方がありません。ここではこれくらいにしておきましょうか。そうしないと後が怖そうだ」

「おい、古泉!?」

 訳知り顔の俺以外、お前ら三人はそれでいいかも知れないけどな。こっちは消化不良で胃もたれも良い所だ。このままじゃ夕飯も入らん。断固として説明を要求するぞ。

 結果、危惧の通りに世界が変わろうがそんなのは知った事か。それくらいで変わっちまうようなら最初からその程度のモノだったって諦めも付くだろうよ。少なくとも俺はな。

「そうは言われましても……長門さん?」

 微苦笑気味の古泉が持ち出した疑問符は質疑応答の許可を求めていると見て間違いあるまい。

「……少しだけなら」

「ありがとうございます。では、差し障りの無い範囲で、彼にヒントを」

 説明ではなくヒントって辺りがどうにも腑に落ちない感じだったが、それにしたって無いよりはマシだ。ノーヒントのクイズ番組なんて昨今はとんと見かけない。それが何故かって言ったら流行らないからで。

 つまり、俺は凡人(ワトソン)だって事なんだ。

「いいですか、よく聞いて下さい」

 古泉は自由から俺に向き直ると一息に言った。

「彼女には願望を実現する能力が有る」

 ――は?

なんでこんなsage進行のスレで反応が有るんだよwww

 今、古泉は何て言った? 自由には願望実現能力が有る?

 何を言っているんだ、コイツは? 今更……ああ、今更過ぎる。そんなのはちっともヒントになっちゃいない。そうだろ?

 お前だってここに来る前に言っていたじゃないか、願望実現能力の持ち主を相手にしなければならないかも知れない、と。俺なんかはこの身で文字通り体感したってのに。

 ……いや。

 ……そうじゃない。古泉が聡いヤツだってのを忌々しいが、しかしそれでも俺は知っている。それは未来人が危険視する程で、現代人の内でも頭抜けて非常識方面でクレバーなのは疑いようもない。そんな男が、こんな無意味な事をするだろうか。

 既知の内容の重複でたった一度のチャンスをふいにするだろうかという疑問。もしもこれがミスではなく、れっきとしたヒントであったのだとしたら果たしてどのように考えられるだろうか。

 古文における二重否定は肯定で。でもって、既知の内容の繰り返しは強調だったか。――強調。それは願望実現能力を自由が持っている事をもっと深く考えろって意味だろう。でも――、けど――、

 何かが、違う。何かを、勘違いしている。何かが、引っ掛かる。

「願望を……実現する」

 口にして反芻する俺を見てニヤリと古泉が笑う。その笑みの意味する所は分からない。だが、気付いた事は有る。些細な事だ。つい見逃し、いや、聞き逃しちまいそうな人によっちゃ心底どーっでもいい事なんだが。

 きっと自由にはどうでもいい事。けれど俺には意味の有る事。そういうヒントじゃないと、この場では通らない。それを加味してこれから出す問いに答えろ、俺。

 なぜ、古泉は「願望実現能力」を「願望を実現する能力」と一々文節を切って表現した? たまたま? 偶然? いいや、違うね。 

 なぜならば――、

 なぜならば俺はこれと全く同じフレーズを、一言一句違わぬその台詞回しをどこかで聞いた事が有るからだ。

引越し先がネットに繋がったので久々に。

芝村風に言うと「どかん!」。

 そして、それがこの場合の他ならぬ「ヒント」なのだろう。渡橋ヤスミ。その名前の意味する所は半年以上前に種明かしが済んでいる。ならば、コイツは――。

 俺が深い深い思索の深遠への素潜り世界新記録に挑もうとした丁度その矢先、出鼻を挫くようにポニーテールの少女がそれまでずっと引き絞っていた口元の横一文字を解(ホド)いた。

「古泉さん、その口振りだと私の目的にも凡(オオヨ)そ察しが付いているんじゃないの?」

 いやいや、そんなものは似非超能力者に聞くまでもないだろう。未来少女、自由の目的は俺を殺す事だ。つい数分前に茶目っ気の欠片も無い、正真正銘必殺の一撃を浴びせられた俺が言うんだからそこんトコは間違いない。

 目的達成のための手段であるのかも知れないな。しかし、そんな事をした所で何がどうなるのか俺にはとんと理解出来ない訳だが。殺された後の想像なんて精神衛生上よろしいとは思えないことは謹んで辞退させて頂こうじゃないか。

 具体的な内容はさて置き、SOS団の団員を殺せばそれを受け入れられないハルヒの力で世界が変わっちまう、ってーのは十分に有り得る線か。

「ええ。『世界改変』ですね」

 古泉もどうやら俺と同じ考えらしい。が、その超能力者に向けて自由は言い放つ。

「そこまで分かっているなら話は早いわ。だったら古泉さん、この一件にどうか関わらないで貰えますか?」

 そんな要求を古泉が飲めるはずはない。超能力者達は世界改変ってのを起こさないのを主目的としているのを俺は知っている。つまり、自由の要求は古泉曰くの「機関」なる集団の存在理由に真っ向から衝突するものである。そのはずだ。

 なら、機関の構成員としての古泉が職務規定に基づき自由の要求を拒むのは分かり切った展開ってヤツで。

「お願い、ですか。そんな事をせずとも貴女ならば僕を有無を言わさず従わせる事すら出来ると思うのですけれど。倫理的にそのような行為がお嫌いならば地球の反対側へ僕を強制テレポートさせるなり、そもそも十二月二十五日以降の時間まで時間旅行をさせてしまえばよろしいのでは?」

 確かに優男の言う通りだった。その方が手っ取り早く、また後腐れも無い。いや、そもそものこの古泉と自由の問答からしてオカしい話だ。

 だって、自由は願望実現能力の持ち主なんだぜ?

「十二月二十四日に世界は私の手によって改変される。もし、古泉さんを二十五日以降まで飛ばすと少なからず平行時間軸との間に衝突摩擦(コンフリクト)が起こるだろうけど、それでも良い? 最悪、時間旅行者ではなく、時間難民になってしまうわよ」

「僕の身を気遣ってくれているのですか。お優しいですね、渡橋さん。では、海外旅行ではどうです?」

「それもどうかしら。私は人を意識的にテレポートさせた事なんてないから、安全な旅行になる保証はどこにもないの。……ねえ、分かっているんでしょう、私に古泉さんへ危害を加える意思が無い事くらい」

 そうなんだ、もしも少女が古泉へ何らかのアクションを起こすことにまるで躊躇を持っていなかったとしたら、エスパー少年は願望実現能力者の言う通りに即座に事件への関わりを断ったことだろう。どころか、この場に現れることが出来たかどうかからすら最早怪しい。それくらい圧倒的な力が願望実現能力と呼ばれるものである――なんてのは、これは今更俺が説明するまでもないか。

「そのようですね。分かりました」

 隣で嘆息しているところ悪いんだが、何が分かったってんだ? なんか嫌な予感がするぞ、俺は。

「貴女の言う通りにしますよ。この一件――今回の一件に僕こと古泉一樹は関わらない事をここにお約束します。確かに、僕の出る幕は無さそうです」

「おいコラ、古泉!」

 これが叫ばずにいられようか。

「何考えていやがる! 職務怠慢でお前の上司に訴えるぞ!」

「いえ、そのような事を貴方が態々なさらなくとも事の次第は僕から機関に報告しておきますので」

 そういう事を言っているんじゃない! ってのに、頭がオカしくなってしまったんじゃないだろうかと疑わしい超能力者を擁護するヤツまで出て来る始末。

「古泉一樹の選択は正しい」

 長門、お前まで何を言ってやがるんだ。くそっ、願望実現能力が遅ればせながら長門と古泉に作用したってのか!?

「違う」「違います」

 どうだか。声を合わせて否定するであるとか、益々俺の疑惑は深まるばかりだ。

「貴方にはどう言えば分かって貰えますかね……昨年の五月、まだ覚えていますか?」

 今年ではなく、か。高校入学早々って辺りだな。よく覚えているとも。ハルヒに出会い、そしてコイツらに出会った奇跡の詰まった一ヶ月だからな。忘れようも無い。俺が頷くと、古泉は満足そうに鼻を鳴らした。

「あの時と同じです。宇宙人も、未来人も、そして僕も。基本的にはオブザーバーという位置取りなんでしょう。世界の命運を決めるような大それた事は僕には荷が勝ち過ぎるのですね」

 苦笑気味に少年はそう言った。負け惜しみのようにもそれは聞こえなくは無い。同年代でありながらこうも悟った表情を出来るのは古泉一樹の面目躍如ってトコだろうか。つくづくコイツは一挙手一投足が演技掛かっている。

「ヒーローは貴方です、今回も」

 その様子は余りにもいつも通りで、願望実現能力によって無理矢理に意見を捻じ曲げられたものには見えなかった。

 そしてそれは古泉だけではなく、長門も同様だ。

 何も言わないまでも、俺を真っ直ぐに見つめる液体ヘリウムで満たされたその瞳は雄弁に古泉を肯定していた。

「古泉さん、悪いけれど世界の命運はもう決まっているわ」

「いいえ」

 自由に向けて少年は不敵に微笑む。

「いつだって未来は白紙ですよ。ね、長門さん?」

 古泉の問い掛けに未来視を止めた宇宙人はほんの三ミリほどの首肯を返した。

 未来から来た少女相手に「未来は白紙だ」と言い切るその皮肉っぷり。見習う気は無いまでも、少女の機嫌を損ねれば冗談でなく時空難民になってしまうこの状況下、よくそんな台詞が吐けたモンだぜ。しかも微笑を崩さずに。

 そんな綱渡り野郎に手を引かれるように、俺の心は少しづつ冷静さと余裕を取り戻してきていた。そういえば佐々木は今どうしてんだ、って疑問を抱けるくらいには。

「彼女なら私の部屋に居る」

「ああ、そうでした。佐々木さんを待たせていましたね。こんな所で立ち話もなんですし」

 確かに、この惨憺たる状況の玄関は話をする場としちゃ論外なのは認めるが。しかし、その先はお前が言う事じゃないだろ、古泉よ。向かう先はこれはもう一つしかないが、それにしたって家主に一言くらい断りを入れたらどうなんだ。

 と、その長門にコートの裾を掴まれた。どうした?

「古泉一樹」

「はい、なんでしょう?」

「彼女を連れて先に私の部屋へ」

 長門は小首を上げて俺を見上げる。何か言いたい事が有る、ってーのは長門表情権威学専門の俺だからこそ理解出来たと自惚れたって良いかもな。

「私は少し、彼に伝えなければならない事が有る」

「かしこまりました。では、渡橋さん行きましょうか。晩御飯を佐々木さんが用意してくれているそうです。ご飯、まだですよね?」

 場違いににこやかそのものの古泉はエレベータに乗り、自由向けて目配せをする。その様子に何か言いたそうな神様少女は、しかして口を引き結んで何を言う事も無く古泉に追従してエレベータに乗り込んだ。

 金属製の扉が何事も無く俺の視界から二人を覆い隠し切ったその瞬間、俺はその場に崩れ落ちて大きな、とても大きな溜息を吐いちまった。肺活量を測定している時分でないのが悔やまれる。世界記録にだって挑戦出来たかも分からんぞ。

 なんなんだ、アイツは。全く訳が分からない。得体の知れないっぷりで言ったら古今トップクラスだ。

 渡橋ヤスミを自称して、俺を殺そうとして、で挙句の果てに古泉と長門からどこか身内判定されている節すら有る。いや、朝比奈さん(小さい方な)とも昼間は一緒に居たからSOS団不思議班公認なのか? じゃ、なんで俺を殺そうとしやがるんだと。そんな相手となんでフレンドリーなんだと。疑問はぐるぐる回って一向に出口が見えない。

 まるで闇を手探りで進んでいるトマス・ソーヤーだ。ま、俺には勇敢さも無ければ右手で引くガールフレンドも居やしないが。

 洞窟で俺が捜し求めるべき光はきっと、古泉が言ったあの一言に集約されるのだろうとはそれは流石に当たりが付いている。

 彼女には願望を実現する能力が有る。

 だが、そんな事は分かっているんだ。

「違う」

 ……何がだ、長門。

「貴方は思い違いをしている」

 だから、何を俺は間違えてるって言うんだ、長門!

「彼女は貴方を殺そうとなどしていない」

「いやいやいやいや。現実に、お前の救援がなければ俺は壁に叩きつけられちまってたんだ。あの速度は人間なら良くて骨折、打ち所が悪ければマジで死んじまう!」

 マジでくたばる二秒前。本物のヤバさとはどういったものなのかを脳髄に叩き込まれるような体験は決して俺の望む所ではない。

「『喜緑絵美里』が貴方の危機に間に合ったのは偶然ではない。あのタイミングは彼女が望んだもの。そもそも」

 本当の意味での願望を実現するとは、一体どういうことか。分かっていた。分かっていて、それでもまだまだ俺には理解し切れていなかったらしい。

「彼女が本気で殺害を検討するような人間は、彼女の傍には存在すら出来ない。それは彼女が望まないから。全ては彼女の思い通りになる。全てとは全て。それはつまり私も。そして貴方も」

「気分の悪い話だな」

 具体的に言うと掌上の孫悟空の気分だぜ。

久々にやると書けなくなってますね。これはリハビリが必要だな

では、短いけれど今日はこの辺でお暇。また来週末に来るつもりです

 そういや、ちょっと引っ掛かったんだが。

「今さっき、喜緑さんとか言ったか?」

「……言った」

 なんとなく長門を見る。いつも通りだ。そこに何の不審も無い。じっとこちらを見つめ返してくるその姿は見慣れたものだった。

 しかし、だ。それでは俺が頭を撫でたのも、そして俺に対して「また図書館に」と言ったのも喜緑さんの擬態であったという事に他ならない。だが、ここで断言しよう。それは無い。あの時、俺を助けてくれたのは確かに長門だった。

 根拠なんてものは無い。ただの勘だ。フィーリングって言ってもいいが。

 だが、一年数ヶ月のめくるめく不思議体験によって培われた俺の第六感はそう捨てたものでもないはずだ。そうだよな、長門。

「はあ……願望実現能力が全てを有る程度意のままに出来るってふざけた力なのは、この状況でそれなりに理解出来ましたよ、『喜緑』さん」

 俺が嘆息しながらそう言うと、目前の少女の姿が電波状況の悪いテレビ画面みたいに数度ブレた。ブレが収まった時、そこに居たのは俺の推測通りの北高生徒会書記にして宇宙人の彼女である。

 長門が喜緑さんで喜緑さんが長門で、でもってやっぱり長門が喜緑さんだった訳だ。物静かな外見に反して人を驚かすような登場しかしないのはギャップ萌えでも狙ってんじゃなかろうか。ああ、そんな宇宙人の戯れは正直心底どうでもいい。好きにしてくれよ、もう。

「どこで気付きました? 長門さんの構成情報は一通りインストールしてあったのですけれど」

 天才的な変装でしたよ、ええ。大泥棒が喜緑さんの才能を生かすにはぴったりの職業だろうなんて我ながら下らん事を考えるくらいには。

「喜緑さん自身が言ったじゃないですか。自由は全てを思い通りに出来るんだって」

「言いましたね」

 そう。繰り返すが、世界は思いのままな独裁者な少女が自由である。ならば、彼女が長門を邪魔だと考えたのだから宇宙のどこかへ瞬間移動したのは長門で間違いはない。それがあの時の宇宙人が見た目長門の喜緑さんではなかったと判断した材料その一。

「後は勘です」

「有機生命体特有のファジーな感覚の事ですね。非常に興味深いです」

「いや、そんなに大それたものじゃないですよ。ただ、うちの長門は嘘を吐くような器用さも小狡さも持ち合わせてはいないんで。まあ、それがアイツの良い所でも有ると思っているんですけどね」

 言うと、喜緑さんが微笑んだ。デジタル取り込みされた聖母マリアの宗教画みたいなアルカイックスマイルである。

「ふふっ」

「どうしました、喜緑さん?」

「いえ、大した事ではありませんよ」

 宇宙人の言う大した事がどれだけの大事を指すのか知っているだけに、俺としては彼女の一挙一動であろうと「はあ、そうですか」と流せない。例え太陽が寿命を迎えようが銀河規模で見れば些事と言い切ってしまわれそうな歩く非常識が彼女達、TFEIである。

 あ、長門は除いてな。

「本当に瑣末な事なんですよ」

「聞かせて下さい。それが下らない事かどうかはこっちで判断しますから」

 分かりました、と少女は手を後ろに組んで。

「貴方の言った『うちの長門』という文脈の意味を「もういいです結構です」

 ……聞かなきゃ良かった。無意識にとは言えなんてこっ恥ずかしい事を口走っちまっていたんだ、俺は。いや、その、アレですから。深い意味の無い、同じクラブ活動の仲間とかそういう類。

 谷口みたいな悪意の有る取り違えは望んでないんで!

「貴方にとってこれは大事では無いと思いますが」

 人の忠告は素直に聞く事。いや、相手は宇宙人だけども。

「よく、俺にとっても些事だとか判断できましたね」

 うんざりしながら聞いてみる。

「貴方達有機生命体がどのような思考をするのか、私達だって学習しているのが今のでお分かり頂けましたか?」

「学習?」

「情報の共有とプロトコル化です。お忘れですか? 私達は『対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス』ですから。その本分を全う出来るように、そしてまた円滑なコミュニケーションと干渉を目的として日々プログラムを更新しています。地球人類との無用な摩擦は情報統合思念体の望む所では有りません」

 なるほど。つまり学習、か。

「そして、その構築に最も貢献しているのが長門さんです。恐らく、これは貴方も納得出来る所だと考えます」

 宇宙人の中で一番付き合い下手な長門が、宇宙人の中で一番人付き合いを模索している事。それはなんとなく俺も気付いてはいた。が、こうして改めて第三者からその事実を聞かされると色々と感慨深い。

「はい、それはまあ」

「どうか仲良くしてあげて下さいね、これからも」

 そう言って宇宙製有機アンドロイドは深々と頭を下げた。その姿は嘘みたいに、まるで長門の中にたまに見つけるものみたいに、人間そっくりで。

「頭を上げて下さい、喜緑さん。そんなのは頼まれなくても今更じゃないですか」

 友人の姉ちゃんに言われているような感覚とでも言えば良いのか、そんな喜緑さんになんとなく俺は恐縮しちまっていたのだった。

 そんな自分をリセットするように一つ咳払いを入れてみる。頭を上げた喜緑さんは変わらず微笑んでいた。

「そうですね。今更ですね」

「ええ」

 と言うか、肝心要のその長門が今まさに宇宙の大海原を漂っている以上、コンタクトの取り様が無い。喜緑さん、長門はちゃんと地球に帰ってこれるんですか?

「大丈夫ですよ。朝倉さんも一緒ですし、帰還における問題らしい問題は今の所観測出来ていませんね」

「はあ。で、具体的にアイツらはいつ頃戻ってきます?」

 遅くともクリスマスイブまでには帰ってきて貰わないと、今度はハルヒが癇癪を起こすのは眼に見えている。余計ないざこざを避ける為にも、SOS団クリスマスパーティには出席して欲しいというのは切実なる願いだ。

「少し待って下さい。仮に算定してみます」

 喜緑さんはそう言って眼を瞑った。別に彼女に願った所で長門の到着が早くなる訳ではないのだが、それでも少女が今一度口を開くまでの間、神様にも祈るような心地になっちまってたのは否めない。

 計算終了を示すように宇宙人がその大きな瞳に俺の姿を映す。そのまま彼女はにっこりと、長門には真似出来ない感じに大きく笑った。

「早ければ明朝にでも」

 近いな、宇宙。

 そんな、夜行バス程度の感覚で銀河を股に掛けて貰ってはNASAの立つ瀬が無い。本当に冗談みたいな彼女達だった。

「私達が冗談なら『彼女』や涼宮さんは一体どう表現するのか、少し興味が有りますね」

「ああ、それなら」

 これは谷口の受け売りなんですが。

「そりゃアイツは涼宮ハルヒだから、でそっちは済ませて仕舞える空気が有るんですよ」

 なんですかそれ、と。いやまあ、喜緑さんにはちょっと理解に苦しむかも知れませんが。それでもSOS団やその周りではこれで通じてしまうんで。

 少女は少し眉をへの字に曲げて。コンピ研部長氏の捜索を依頼してきたあの時みたいな顔をした。

「なら、『彼女』はどうです?」

 彼女――自由と名付けたあの少女。どう表現すればいいのか。冗談(ウチュウジン)よりも冗談みたいな、神様(ハルヒ)よりも神様めいた、けれど深い陰を背負った。

「分かりません」

 俺にはまるで分からない。

「でも、知りたいとは思います」


 分からない事を分からないままにしておいたら、一生分からないままだと涼宮ハルヒは問題集に赤ペン引きながら俺に言った。

 分からない事を分かるようになる事が、どれだけ人生を豊かにするのかを佐々木は手製プリントを解説する合間に俺に説いた。

 俺は思う。

「アイツは助けを求めているように見えた。勿論、これは俺の見当違いかも知れない。でも俺はもう、そうやって訝しんじまった」

 眼を縁取る深い隈は、ソイツが深く悩んでいる何よりの証。世界を変えるほどの苦しんでいるんじゃないかって。

「だったらとりあえず話くらいは聞いてやんないと。殺されかけたのに何言ってんだって感じですけど」

 だけど、喜緑さん曰く、俺は実際殺されかけてすらいないのだ。自由のやった事はただの脅し、茶番でしかなかった。

「もしも」

 SOS団は世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団。

 団員その一として俺が取るべき行動なんざ決まってる。決まりきっている。俺達の掲げる横暴なる団長サマが背中から叫ぶんだ。

 キョン、不思議を探しに行くわよ! 有希、着いて来なさい! みくるちゃん、何か面白いことない? 古泉くん、アタシは何も起きない日常にはもう飽き飽きしてるのよ!

「もしも、これがハルヒだったら」

 前しか見てない、猪突猛進。俺達の首に縄引っ掛けて、ずるずる引っ張っていくあの馬鹿のせいで。いつしか前向いて走るのが当たり前になってた。

「そんなのに絶対に怖気付いたりしないでしょう?」

 苦笑いでも、強がりでも、喜緑さん向けて笑えたのは……ああ、なんだ。

 俺もこの一年半でしっかり成長しちまってんじゃねえか。

さて、ではまた来週(?)

「そうなんですか?」

「そうなんですよ、困った事に」

 血潮に流れるSOS団主義(ハルヒズム)。ああ、我ながら困ったモンだ、本当に。

「それを聞いて安心しました」

 そう言った喜緑さんの姿がジジジと音を立てて歪み、俺の見ている前で彼女は再び長門そっくりの姿へとモーフィングした。

 ただし、そっくりなだけで彼女は長門ではないし、最早俺は彼女と長門を取り違える事もきっとないのではあるが。俺の知っている長門はこんな風に表情豊かに微笑んだりは決してしない。そうだろ?

 だから……だからその顔で、その顔をして笑わないで貰いたいと、なぜだか俺はそんな風に思った。外見長門中身喜緑さんのそのはにかんだ笑顔はなんとなく、俺の心に寂しさのような、罪悪感のようなえも言われぬ感情を植え付ける。

 それはあの十二月の残滓か、もしくは残響。どうやら一年経ってもまだ拭い切れてはいないらしい。いつまでも引きずっていてはいけないと頭では分かっているのだがな、あの世界の事は。

「そう言えば」

 沈黙していると後悔の波に浚われそうになる俺は、救命浮き輪に捕まるようにふと浮かんだ疑問をそのまま口に出していた。

「なぜ、長門の姿で俺たちの前に現れたんですか?」

 とっさにしては、しかしてもっともな疑問だと自分でも思う。なぜ喜緑さんとして自由の前に出る事を彼女はしなかったのだろうか。その行為に必要性を俺にはどうも見出せない。ドッキリ、なんてものが宇宙人に理解出来るとは思えないしな。

「一番これが効果的だったからです」

 効果的? どういうこった。俺の心臓の寿命を縮めるのに、とかって悪趣味なオチしかその言い方からは思い付けないぜ。もしかしなくてもやっぱり喜緑さんは朝倉、九曜に次ぐ第三の宇宙からの刺客だったりすんのかね。

「よく分かりませんが、それは有機体独特の冗談か何かでしょうか?」

「冗談にしては少しブラック過ぎやしませんか。俺には自虐趣味も有りませんよ。それで、長門に成り変わっていた説明は貰えないんですかね、……ええと、喜緑さん?」

 ううむ、どうも長門の姿をされていると喜緑さんと呼ぶのに抵抗が有るんだよなあ。頭では区別出来ているつもりなんだが。ヒトの認識において視覚情報の占める割合って七割くらいだったか? そりゃ仕方が無いかも知れないな。

「いいですよ。と、言いますか私が貴方に個人的にお話したかった事というのはそもそもそれですから」

「そう言えば、話が有るからって古泉と自由を先に行かせたんでしたか。話ってなんです?」

「渡橋さんのことを」

 ゴクリと音を立てて無意識に喉仏が一度、上下に動いた。それは……こっちから頼み込んででも聞かせて貰いたい内容だ。ああ、是が非にでも。

「もう少し言葉を足すと彼女の持つ願望実現能力についての話です」

「願望……やっぱり、アイツの持つ力ってのはハルヒと同種のもので間違いないんですか」

 俺がそう聞くと、けれど宇宙製有機アンドロイドの少女は眉に皺を寄せて即答を避けた。どうしてだ? 答え難い質問を俺は今、しただろうか?

「それは私には判断出来ません」

「どういう事です?」

「貴方達に多次元空間が認識出来ないのと同じです。より高位のものは正確に測定する事が極めて困難なので」

 そう言われて思い出すのは古泉の奴がいつだったか放った言葉だ。ええと確か、長門達がゲストでハルヒがアドミニストレータだとかなんとか。その例えで果たして正しいのかなんてのは俺には分からない訳だが、それにしたって上位下位の関係は喜緑さんの口振りだとそこには頑として存在するらしい。

 情報操作能力は願望実現能力よりも制限が多いと考えれば、確かにそれは納得出来ないではない、か。……いや、素人考えだな。大体、俺に正確に理解出来る内容とも思えん。

「ですから涼宮さんと渡橋さんの力が同種かと問われても、統合思念体としては回答が出来かねます。あの二人の持つ力において合致する部分が何万カ所見受けられるとか、もしくはそれを数ではなく割合で伝える事も、これは出来なくは有りません。しかし、0,01がどれだけ大きな差異であるのかも私たちには分からないのです。だからこれは無価値な情報でしょう」

 ま、たった一パーセントの違いで生物としてのカテゴリすら変えてしまうらしいしな。遺伝子とゴリラと人間の、ソイツはとても有名な話だ。

 だが、この口振りだとハルヒと自由の力にはかなりの共通項が有るらしい。それが分かっただけでも収穫だ。

「……なるほど。貴女たち宇宙人にもハルヒの事はよく分からん、と俺なりにざっくり解釈させて貰いましたが」

 ざっくり過ぎただろうか。だが、喜緑さんはそんな俺の言葉にも眉を顰める事無く頷いてみせた。

「ええ。そして分からないからこそ、私たちはこの星に涼宮さんを観測をしに来ている。これは大前提ですね。話を戻しますが、先ほどの彼女、渡橋ヤスミさんには少なからず願望実現能力と呼ばれる類の力が宿っています」

 願望実現能力。それは願いを叶える力。夢を現実にする力。そう考えたら別にハルヒや自由に限った話じゃなく、地球人類なら誰しもが多かれ少なからず持っているものの延長線上のような、なんだかそんな気がした。だがまあ、喜緑さんはそんな事を言っているのではないよな。分かってる。こんなのは只の妄言だ。

「その力は貴方もご存じだと考えますが、絶対です」

 ああ、なんて胸糞悪い話だ。この件に関しては喜緑さんは全く悪くないのだが、それでも言葉を紡ぐ彼女を見る眼に自然と力が入っていくのを俺は感じていた。

「つまり、彼女の思うがままにこの世界はなってしまう。彼女、渡橋ヤスミさんが望む世界の行く末は、『変化』だそうです。長門さんがそう言っていました」

「長門が!?」

「はい。これは」

 喜緑さんが何を言うのか。続きは聞かなくても分かった。当ててみせようか。

 「彼女の望みなので絶対です」だろ。

「彼女の望みなので絶対です」

 で、次に喜緑さんは残酷に宣言するんだ。「絶対に叶います」ってな具合に。

「絶対に叶います」

 となると、後はもう死刑宣告だよな。「世界はもう変化を避けられません」とか言っちまってさ。

「世界はもう変革をさけられません」

 何を言っても世界は結局、神様の掌の上。無駄な抵抗。無意味な徒労。人生は諦めが肝心。そんな事は言われなくても知ってる。これでもかってぐらい。

 さあ、そしたらどうにもならないこの現実に、打ちのめされた俺に向かって「どうしますか?」とかそんな追い討ちを掛けるんだろうぜ、宇宙人は。

「どうしますか?」

 アイツが万能だとか、全能だとか、為す術が無いとか、そんなの。

 そんなの俺の知った事か。

「どうとでもしますよ」

 ハルヒの同系なら、多分「いつも通り」なんとかなるんじゃないかって。

 頭の片隅で経験則がそうがなり散らしてる。

「そうですか。私には彼女はどうにも出来ません。ですが、貴方には出来るのでしょうね、きっと。だから私にあんな事をさせたのでしょう、長門さんは」

 長門有希、地球人に一番近い(と俺が勝手に考えている)宇宙人。俺の最も信頼する少女。

「前置きが長くなりましたね。先ほど、私が長門さんの振りをして渡橋さんの前に出た理由は、彼女に『願望実現能力は絶対ではないのでは無いか?』とその持っている力に疑問を抱いて貰う為です」

「……え? いや、願望実現能力は絶対なんですよね?」

 喜緑さんは肯定と共に首を縦に振る。

「はい。彼女が『それ』を当然と考えている限りは」

 それ――つまり、「自分の願いが叶う事」を当然だと考えている限りは。逆説、アイツがその力を信じられなくなったら!? ああ、こうして言われるまで気付けなかったなんて、俺はとんだ阿呆だ。

 ハルヒに一年半も付き合っておきながら俺は一体何を見てきたって言うのか!!

「糸口、長門さんは私との入れ替わり劇をそう表現しました。彼女――渡橋さんの中には疑念が生まれた筈ですよ」

 自分の思い通りにならない初めての現実に対して、直面して、確かにあの時の自由は当惑していた。

「それはきっと長門さんの思惑通りに」

 非難の眼で超能力者を睨み付けるも、それで事態が好転するはずもない。むしろ、俺の視線もどこ吹く風で微笑を崩さない古泉に苛立ちは募る一方だ。クソ……この借りはいずれ返させてやるからな。具体的には喫茶店の奢り三回分くらい!

「ちょっと、キョン! 聞いてるの!」

「あー……はいはい、聞いてる。聞いてるからもう少し声を小さくしてくれ。頼む」

 うるさくてスピーカに耳を当てていられないだろ。一々に声を張り上げられては俺の鼓膜もそうだが、割と真面目に電話が壊れかねない。ハルヒならやりかねないから始末に負えんとはこの事だ。

 ……こっちを見てニヤつくな、古泉。誰のせいだと思っていやがる!

 やれやれ。耳元で激昂するハルヒの声も、けれど俺はなぜだか冷静にそれを聞いていた。電話越しだから、だろうか。この時の俺がどれくらい冷静かっていうと「第一声は謝罪から」っていつかの佐々木の言をふと思い出せた辺りから察しは付くと思う。

「どういう事、ってアタシは聞いてるのよ! アンタは、ア、タ、シ、に、受験勉強の相談をしてたんじゃないの!? それとも手当たり次第、誰でも良かったって事かしら!?」

 人聞きの悪い事を言うな。成績が震わないなんて格好悪い内容を所構わず吹聴する馬鹿がどこに居るってんだ。

 俺はそこまで馬鹿じゃない。

「ハルヒ」

「……何よ」

「俺にはお前がそこまで怒っている理由がよく分からんのだが、それでも言いそびれてたのは、なんつーか……済まなかったな」

 これは真摯に思う。電話の向こうのSOS団団長は親身に――誰よりも親身になって俺の未来を一緒に考えてくれたのだから。であるならば振るわない学業への対策として親が俺用に家庭教師を雇った、ってのだって俺はソイツに率先して提供しなければならない情報であったのだ。

 果たしてハルヒは俺の謝罪に対して溜息を吐くだけで、それまでのように反射的に叱りつける事はしなかった。その声はまだ幾分怒り気味だったが。

「分かれば良いのよ」

「佐々木が家庭教師に就任したってのは、そう言われればお前には言ってなかったんだよな。だが、勘違いすんなよ。別に隠そうと思っていた訳じゃあない」

 隠す理由も、まあ、よく考えなくとも俺には無かった。なんとなくバツが悪いのはそりゃ何故かってーと、男女が同室で長時間二人きりという状況に対して第三者から有らぬ誤解が産まれる可能性は、そりゃ無視出来ないレベルで存在しているからだが。

 しかし、逆に言えばそれくらいだ。

 恋愛……ねえ。佐々木と? はっ、無い無い。そんなモン俺には高望みだってのもこう見えて分かっているんだよ。大学進学ですら危ぶまれる俺には基盤が足りない。地力が足りない。そんなヤツが恋だの愛だのと現を抜かした所で。

 待っているのは計画性の無さによる自滅。古今の悲恋を持ち出すまでもない――ってコレは前に言わなかったか。

 残念だが、願い事の余裕は今年も無さそうだ。

「なら、なんで佐々木さんが家庭教師になったってアタシにすぐ言わなかったの?」

「言いそびれてた、ってさっき言わなかったか? それに聞かれなかったしな」

 言外に「聞かれたら隠し立てせず洗いざらい喋っていた」と含ませる。俺に抵抗の意志が無いことだけはキチンとハルヒに伝わったようだった。ストンと、少女の声からそれまで有った棘が抜けるのは手に取るように分かった。

「それは……まあ、そうだけど」

「俺に家庭教師が居るってのすらハルヒも知らなかっただろ?」

 ああ、今考えたら佐々木の件は校内マンツーマン補習中、それとなく話題にするべきだったな。

「ついさっき古泉クンからのメールで知ったばっかり」

 悪行の言質は取ったぞ、似非超能力者。天下泰平、世は全て事もなしってな顔で茶を啜っていられるのも今の内だ。驕れる平家は久しからず。必ずや正義の鉄槌はそのニヤケ面向けて下されるであろう。つーか、下す。大きく振りかぶって。

「話題に出さなかったのは俺だが、しっかしなあ……こればっかりはハルヒにだって非は有るはずだぜ」

 電話越しだが、ハルヒが口を尖らせてアヒルの物真似をしている様子はありありと脳裏に浮かんでくるから困る。分かり易い性格だ。

「……何よ、非って。文句が有るならハッキリ口に出して言ってみなさい。男でしょ?」

「なら言わせて貰うがな。俺が世間話をする機会はこの所めっきり減ってんだ。そりゃ何故かって言ったら、」

「最近の放課後は試験勉強してるから、って言いたいの? でも、そこにアタシはちゃんと居るじゃない」

 そうだよ。そしてそれが「すっかり忘れちまってた」の原因で間違いないんだ。って言えば流石にもう読めただろ?

「ハルヒ、お前の教え方は上手い。俺が――勉強嫌いのこの俺が、だ。気付けば無駄口も叩かず問題を解くのに集中しちまってたりするくらいにな」

 家庭教師のアルバイトならプロと、自分で言っただけの事は有るってそれだけの話なんだよな、結局。

「こんな事を言うのもなんだが、お前と居る時の俺はちゃんと勉強してただろ? そうなんだよ。俺はお前に教わりながらかなり久しぶりに『ちゃんと勉強していた』んだ。ああ、充実も集中も、ウラシマ効果まで久しぶりの感覚だったとも。だから……だからさ」

 勿体無いと、そう感じたんだ。

「佐々木について話す合間ってのが無くってな」

 続く俺の嘆息は、けれど後ろ暗さとは無縁だった。

「……悪い」

「な、何よ。そういう事なら早く言いなさいよね!」

 おい……人の話聞いてたのか、お前は。

 珍しく人が褒めてやってんだから、それくらいはちゃんと聞いておけよと言いそうになって、そこでようやく俺は自分がどんだけこっ恥ずかしい事をハルヒに向かって言っていたのかに思い至るんだ。

 しかも一週間と間を空けずの二度目。

 前言撤回させてくれ。俺はやっぱり馬鹿だった。

 そして恥ずかしいのは俺だけではどうも無いらしく。褒められなれていない我らが団長は電話線の向こうで声を張り上げたのだった。

「あ、明日!」

「明日?」

「期末テスト前最後の日曜日だし、特別にアンタの家まで行って補習してあげるから!」

 脈絡無い上に、照れを隠し切れてない。声が上擦ってるぞ、ハルヒ。

「首を洗って待ってなさい!!」

ここまで。ラブもコメもヤマもオチも無エ

 これ以上無い程分かりやすい捨て台詞を残して通話がブツ切りされる。俺は補習の申し出にイエスもノーも告げちゃいないにも関わらず、だ。一年前から相も変わらず、俺の意見をちっとも求めちゃ貰えない。

「まあ、いいか」

 明日は特別用事も無かったし、そもそもハルヒが家に来なくとも俺は一日テスト勉強に明け暮れるつもりだったのだ。であるならば、一人だとどうしても集中が続かずにだらけてしまう事が目に見えている俺の一級品の惰性への、これまた一級品の抑止力としてハルヒが大いに機能する厳然たる事実は見過ごせない。

 そもそもアイツだって良かれと思って、そう、純然な善意から家庭教師を言い出しているのだろうとは俺にだって想像に難くなく、であるならば最初から否定など出ようはずも無かった訳だ。ハルヒが俺に補習の是非を問わなかったのは巻き進行を実践した結果なのかも知れんが、どこのアシスタントディレクタが「巻いて巻いて」などと言い出したのか、そこんとこは恐らく永遠の謎だな。

 休日が休む日ではなくなってしまったってのには悲観しか出て来ないが、にしたってテスト直前の休日なんて大なり小なりそんなモノだしな。今晩、こうして勉強以外に時間を浪費してしまっている分くらいは取り返しておかないと。

 さて、明日の身の振り方にも納得したので次はこっちだ。

 一体、どうしてくれようか。涼やかに笑い続けるあの顔をどうすれば苦悶にひしゃげさせる事が出来るのか俺はさっきから結構本気で思案していた訳で。閉鎖空間でも出しまくってやろうか、クソ。

「……そんなに睨み付けないで下さいよ。僕だって良かれと思って行動したのですから」

「善意が裏返って悪行になっちまうのは割とよく聞く話ではあるが、お前の場合は結果まで考慮した上での実行だからな。情状酌量の余地は無い。国防上の機密を漏らした野郎は死刑か無期と相場が決まってんだぜ、古泉」

「おや、これは怖い。しかしながら、僕にも弁明が」

「言ってみろ」

「国防と先ほど貴方は仰いましたが。しかし、僕の守っている『世界』には貴方の言う『国』も含まれているのです」

 大きな宇宙船地球号。だが、生憎、海外旅行の経験も無い俺にグローバルな視点は持ち合わせが無くってな。お前に取っちゃ真部分集合かも知れんが、俺に取っちゃニアイコールなんだよ。

「以上、異議を却下する。今回の法廷を担当した裁判官は普遍普通の高校生でな。それがお前の敗因だ」

「普遍普通、は実際どうなんですかね?」

 はあと溜息を吐く古泉の、空の湯飲みに空かさずお茶を注ぐ長門型喜緑さん。いやいや、そこの不届き者に手ずからそんな事してやらんでもいいんですよ。それに喜緑さんも一々お茶酌みなんて大変でしょうし、ここは一発、バケツ一杯胃袋に直でテレポートさせてやったら手間も省けて一石二鳥。あ、態々お茶を追加で沸かさなくても水道水で古泉には十分ですから、マジで。

「俺が特別なんじゃなくて、俺の周りが型破りなんだ。だから俺まで引き摺られて同類に見える。って、んな事はどうでもいい。それよりも判決をお前に告げてやる。罪状は言わんでも分かるが機密漏洩と国家内乱未遂だ」

「まるで独裁国家ですねえ」

 少年はふふんと鼻を鳴らすと俺の顔を見て声を潜めた。

「それで、具体的には僕に何をお望みですか?」

 古泉のその様は悪巧みをしている悪代官か、じゃなけりゃ越後屋か涼宮ハルヒって具合で。勘が鋭いのも大概にするべきだと思うし、そしてまたコイツもやはり例外無く感染していたらしい。

 何にって? 勿論、猫さえ殺す精神病さ。

「分かってんだろ。つか、そのつもりでお前は自由とああいった形で約束したんじゃないのか?」

「ふふっ、貴方は非常識方面で偶に驚く程冴えている時が有りますよね。ええ、お察しの通りです。僕は『古泉一樹は本件に関わらない』とは確かに言いました。が、」

 抜け目の無さは未来人のお墨付き。そんなヤツが保険を掛けない筈が無い。

「僕達――『機関』が不干渉を貫くとは一言も言ってはいません」

 超能力者があの時、自由の要求を飲んだのは自分の陣営からマークを外す為でしかなかったのだろうと俺は推察する。ヒーロー役を俺に譲る云々は半ば本気で言っていたような気がするが、それにしたって助力を惜しむ気もそのつもりも無いのだろう。

「ですよね?」

 超能力者が気持ちの悪いウインクをこっちに投げる。思わずしかめっ面になる俺だったが、待て待て気持ちの悪い仕草に騙されてはいけない。幾らなんでもとんとん拍子に事が進み過ぎているとは思わないか。

 古泉にとってはハルヒにメールした所からここまでの展開が予定調和なのかも知れないと、そう気付いたら途端に背筋が寒くなった。一体コイツはどこまで先読みをしていやがるのか。これじゃあまるで長門の捨てた「羽」と大差ないぜ。

 朝比奈さん(大)の危惧はけっして大袈裟でも過大評価でも無いらしい。そして、それが超能力者が古泉で無ければいけなかった理由。ハルヒがコイツを選んだ訳。

「古泉お前、どこからどこまでがお前の台本通りだ?」 

「何の事です?」

 まあ、素直に回答が有るとは思っちゃいなかったが。

「それとも、それを僕へのペナルティにしますか? 僕としては折角の要求権ですし貴方はそれをもう少し有意義に使うべきだと思いますが、しかしながら使い道は貴方の自由です」

 俺の、自由。

「貴方の望みを仰って下さい」

 俺の、願望。

 そんなものは実際考えるまでも無かった。俺はSOS団を信用しているんだ。ソイツが敷いたレールなら何の不安も無くこの身を預けられるくらいにさ。

「自由をなんとかするのに機関の力を借りる事になるかも知れん」

「ええ。では、森さんと新川さんの連絡先を教えておきます。二人及び機関には僕から状況は説明しておきますので、貴方はご存分に」

「そんな事を言うと、俺は本当にやりたい放題にするぞ?」

「構いません。前にメールで言いましたよね」

 古泉はまるで正義の味方みたいに俺に向かって宣言する。

「貴方の選択と決定を機関としては全面的に支持し、バックアップしていきます。お力になれる事が有りましたら遠慮無く言って下さい、って」

 これじゃ、どっちがヒーローか分かりゃしないな。ま、どっちでもいいが。

「古泉、お前……」

 俺の台詞を遮るように、少年は珍しく屈託無く笑ってみせた。

「礼には及びませんよ。僕らは世界を守る、同志じゃないですか」

「いや、そうじゃなくて」

 言い忘れていた事を思い出してな。お前がさっきの良い台詞をメールで送ってきた時に言おう言おうと思っていて、結局すっかり忘れちまってたんだが。ああ、思い出せてよかった。

「いい加減にしないとプライバシ侵害で訴えるぞ」

「……げほっげほっ!」

 俺の台詞はよほど予想外だったのだろう。丁度口にしていたお茶に咽て咳き込む少年の、その間抜けな様に溜飲を少しだけ下げる事に成功した俺だった。

 良い話で終わると思ったか? 残念だったな。ざまあみろ、似非超能力者め。

 超能力者陣営と俺との同盟が締結された、それから五分ほど経って佐々木が自由を伴って台所から帰ってきた。洗い物が終わったらしい。お疲れさんと二人向けて声を掛けたが、佐々木と違い自由は何のリアクションも返してはくれなかった。本格的に嫌われてんな、俺。

「いやいや、物事とは須らく単純ではないよ。彼女も彼女で色々と事情と感情が有るという事さ。決して君憎しだけで世界を変えようとしている訳じゃあないそうだ。そう聞いたよ」

「……ちょっと」

 自由が抗議の声を挙げるも、佐々木は微笑みでもってそれを黙殺した。  

「キョン、君も知っての通り僕はついさっきまで渡橋さんと話していた。そこで誠に勝手ながら今回の競技内容を決めさせて貰ったよ。結果的に事後承諾になってしまったが、悪く思わないで欲しい」

「……競技内容?」

 藪から棒に何を言っているんだとしか思えなかったが、そこはやはり佐々木であり、説明が進んでいく程に俺ですら何を言わんとしているか理解が出来た。出来てしまった。

「基本となるルールは鬼ごっこで、君が鬼だ。ヤスミさんには市内を出ないで貰う。このジャッジは宇宙人である長門さんにお願いしたい。市外に出た時点でペナルティとしてその時点での彼女の居場所をキョンに連絡する。これは渡橋さんが市外に居る限り継続して、だ」

「ちょ、ちょっと待て佐々木!」

「最後まで僕が喋ってからなら異議申し立てを許すさ、キョン」

 佐々木の話を聞きながら思い返すは世界の危機。未来の途絶。

 そして――ワールドエンド・クリスマス!

 おいおい、なんてこった。どこの誰が想像する? どこの神様がそんな下らないモンに世界の命運を委ねた事が有った? 悪戯好きにも程が有るだろ、カミサマよ!?

「勝利条件は、まあ普通の鬼ごっこならばボディタッチが相場だがこの年齢での男女間におけそれは倫理的に問題が有る。そしてまた、キョンが上手く触った所で渡橋さんは大人しく負けを認められないかも知れないしね」

「私はそんな事はしません」

 自由の否定に横から答えたのは古泉だ。

「佐々木さんが貴女の清廉潔白を疑っているとかそういう事ではないんですよ、渡橋さん。彼女が提起している問題とは誰が見ても納得のいく決着方法が必要だという事なんです。そう、例えば鬼となる方――彼の手の平に『未来への強制送還能力』が付与されていればどうでしょう?」

「ボディタッチされた時点で私は時間移動を余儀無くされて、それで決着。違いますか?」

 古泉は人差し指を一本、顔の前に立てて見せた。

「違いますね」

「え?」

「そこが厄介なんですよ、渡橋さん。貴女が負けを認められないと心の片隅であってすら『願って』しまえば、未来への強制送還が無かった事になってしまいかねない」

 願望実現能力の出鱈目振りは俺も良く知っている。後出し積み込み何でも有りだ。

「そして、そんな不安定なものを我々はルールとは認められませんね」

 古泉の言葉を佐々木が継ぐ。

「だから、僕はこうしてゲームを提案した。極めて分かり易く、納得し易く、そして願望実現能力の優位性を存分に発揮出来るゲームだ。異論は……キョン以外からなら受け付けるよ」

 佐々木のこの口振りからして捕獲権の有るプレイヤーは俺のみであろう。にも関わらず俺に一切の口出しが認められないのはこれは一体どういう事だ。

「つまり、絶対の自信が有るならゲームに乗ってこい、という事ですか? 願望実現能力には願望実現能力でしか対抗出来ない以上、私の手で私自身にも干渉出来ない私の敗北手段を用意しろ、と?」

「ご名答。君はさっきキッチンで僕に零(コボ)したね、『それ』は絶対だと」

 親友はニヤリと笑う。それは今まさに桶狭間で今川義元の本陣を奇襲せんとする信長のような大胆不敵。ああ、それは他ならぬ涼宮ハルヒの絶好調時に見せる笑顔にそっくりだ。

「僕は『それ』が絶対だなんて思わない。だから、」

 言い切る寸前、佐々木はチラリと古泉と喜緑さんを見た。古泉は眼だけで佐々木の考えを肯定し、そして喜緑さんは長門みたいに小さく三ミリほどの首肯を返す。それを受けて佐々木は満足げに口角を上げて、

「渡橋さん、僕達と勝負をしよう。お互いに納得の行く条件で、でありながら不平等極まりない勝負を」

 かつて神様に成り損ねた少女は未来からやって来た神様少女に向けてそう、挑発した。

「残念だけど、君の願いは今度ばかりは叶わないよ」

ここまで。SEKAI NO OWARANAI

 長門のマンションからの帰り道、手の中の短針銃を冬の月に透かして右に左に眺めていたら隣を並んで歩いていた佐々木が喋り出した。

「済まなかったね、勝手に決めてしまって」

 何の事だ、なんて聞くまでもないな。

「別に謝られるような事じゃない。ただ、不思議には思った。俺にも、聞いたら古泉にも事前の相談は無かったそうじゃないか」

 等間隔に並ぶ街灯が吐く息の白さを際立たせる。明朝には氷が張っていそうな程に夜道は冷え込んでいた。ああ、冬も本格的になってきた。

 誰に聞いたかはもう忘れたが、この季節は月がいっとう綺麗に見えるらしい。そう言われてみれば確かにそうなのかも知れない。ま、違いの分からない男である俺には夏の月との比較画像を持ってこないと美しいとは言えそうにないが。

 坂の多いこの街は夜景にだけは事欠かないのが自慢だった。学校からは天気が良ければ海も見えるくらいでな。

 うっすらと雰囲気の有るそんな道のりを女子と二人で夜にこうして出歩くのは、おおよそ一年振りの出来事だ。だが、アルバムに飾れそうな青春の一ページを心の内で一人密やかに楽しむには少し右手に持つ短針銃の存在が重過ぎた。

 これで十二月二十四日の午後七時までに自由を撃つ。それでゲームエンド。

 女の子を撃つのに抵抗が無いとは言える筈もない。果たして、その時になって俺は躊躇わずに少女を撃てるのか。いや、撃たなければならない。なんとしてでも。

 リハーサルは一年前にとうに済ませているんだ。長門を撃っておいて、それでいながら俺にアイツを撃てない道理は無い。まったく、あの平行世界事件すら伏線だとか神様ってヤツも心底底意地が悪い。悪趣味にしても最悪だ。

 頭にチラつく「Ready?」の文字。

 準備はいいか、ってか。はっ、笑わせやがる。

 覚悟も胎(ハラ)も一年前にはもうとっくに決まっちまってるさ。今更、進路変更は利かないんだ。

 俺は「あの時」エンターキーを押して、俺は「あの時」銃の引き金を引いたのだから。

「それで何を思っての鬼ごっこなのか、その辺を詳しく聞かせてくれ」

「さあ、僕にも分からない」

 言って佐々木は空を見上げた。そこには月と星くらいしか無いんだが。占星術でも披露する気かよ。

「なら、キッチンで洗い物してる時に自由から提案したって事か」

「いいや、僕からだよ」

「はあ?」

 もしかして単なる思い付きを適当に口走ったらそれに自由が乗ってきたって、おいおい、そんなモンに世界の命運がかかっちまうんだったら俺は今から宇宙飛行士を目指すぞ。そんな不安定な地球号にいつまでも乗船していられるか。

 只の高校生という身分から宇宙旅行を目指すには具体的に一体どうすれば良いのか、俺が思案し始めた事を知ってか知らずか、隣の少女は夜空を指差して言った。

「ペテルギウス。冬空で一番見つけ易いオリオンの右肩、赤い星の名前さ。キョン、君は星は好きかい?」

 いきなり何を言い出すんだ、コイツは。

「いや……好きとか嫌いとか考えた事もないな」

 星の名前なんてベガとアルタイルくらいしか知らんしな。それだってハルヒの受け売りだ。

「そうかい。ちなみに僕はそこそこ好きでね。あの星の光は何万年もかけて今、僕の網膜へと届いている。僕が見ているのは何万年も前の星なんだ。だから今、あの星はもしかしたらもう爆発してなくなってしまっているかも知れない」

「何が言いたい、佐々木」

「未来人である彼女にとって僕や君は過去、つまりあの星々さ。それは手の届かないものであるべきだ」

「そうだな。本来なら……そうだ」

「ああ、本来なら。ただ、渡橋さんの気持ちは分からなくもない。現代においても進められている宇宙開発はヒトが星に手を伸ばそうとした結果であり、それを否定する事は僕には出来ないよ。恐れ多くてね。けれど知っているかい、キョン。昔の船乗りは星を標に方角を知り、現在地を概算して海を渡ったんだという、その事実」

 天体の観測技術は測量技術と共に進歩してきたってのは俺でも知っていた。六分儀、だったか。


「過去が、僕らが変わってしまえば彼女は恐らく道を見失うだろう」

 朝比奈さんが必要以上に現在に関わってこない理由を佐々木はそう表現した。そしてその禁忌を犯そうとする未来人にして願望実現能力者。

「事は僕らだけの問題ではないんだ。渡橋さんの為にも歴史を変えるなんて事は決してしてはならないと僕は思う。だから」

 少女は言葉を区切って進路を右に変えた。慌てて佐々木に追従するが、おい、そっちは帰り道じゃないぞ。

「過去、つまり現在を変えたくないというとある人の方針に僕は協調した。『鬼ごっこ』の提案は彼女の入れ知恵でね」

「……彼女? いや、佐々木。俺達は今、どこに向かってるんだ?」 

 少女は首だけを傾けてこちらを見ると凄惨に笑った。 

「僕達がどこに向かっているか、って? そんなの決まっているだろう、キョン」

 足を進めるこの方向に有って、かつ俺に関係が有りそうな場所。心当たりは一つしか無かった。

「僕達はいつだって、未来に向かっている途中さ」

 それから数分歩いて俺達がたどり着いたのは未来人のメッカとでも言うべき、あの公園。そこで待っているのは――待っていたのは、そりゃここまでお膳立てされて彼女じゃない道理が無い訳で。

「お願いキョン君、私と一緒に未来に行って下さい!」 

 愛らしいピンクのコートに身を包んだ朝比奈さんは、いや訂正「俺の」朝比奈さんは挨拶もそこそこにそう言った。

 散々出待ちでもさせられたのかと疑わしい、朝比奈さんらしくないゲージ満タン開幕超必ぶっぱなし。「時間旅行」の始まりだった。

ここまで。明日もやるかも

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom