モバP「翠色の絨毯で」(673)

・水野翠メインのSSです。
・人生の初心者です。
・地の文有りです。
・一回の投下数は少なめです。
・色々原作と差異があれば申し訳ないです。

長丁場になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

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 ――コト。


 午前。営業に出る前にパソコンでメールをチェックしていた時、机においていた肘の近くに氷の入った冷茶が置かれた。

「切り替え早いですね。…もう少し余韻に浸ってもいいと思いますよ、プロデューサーさん」

 緑色が目を引く制服を来てお盆を胸に抱いた女性――千川ちひろが、パソコンの画面を覗きこんで言った。
「そうも言ってられませんよ。これで満足しているようじゃ、中小のウチは持ちませんし…何より、きっとアイツもあれがゴールだなんて思ってないはずです」

 安っぽい小さなテナントを借りて経営を行っている芸能事務所。
 俺はそこでプロデューサーとして働いていた。

「…ですね。ああ、少なくとも半年ぐらい安心できる経営計画が立たないかなあ」
 ちひろさんは苦笑する。

 事実、今この事務所ではたった一人しかアイドルが所属していない。
 そもそも、ここだって規模で言えばつい最近できたようなものだ。

「それは俺たちの腕次第ですよ」
 ありがたく冷茶を体内に注いでから言うと、ふと耳に聞き慣れた音がする。
「――あ、来ましたね」
 ちひろさんも聞いていたようで、しっかりしてるなあ、と一言漏らしていた。

 とん、とん、とん。薄いこの事務所の壁など余裕で貫通する階段を上る音。
「…でもまあ、余韻に浸るのも悪くないか」

 そのまま廊下を越えれば、すぐに事務所の扉が開く。


「おはようございます、プロデューサーさん」
「おはよう、翠」

 開いた扉の先には、昨日のライブの主役が居た。



  *



「――なんだか面白い目をしているね、キミィ」

 就職って、誰でも出来るものだと思っていた。
 大学最後の一年を遊びながら就職活動をし、たくさんの内定の中から一番環境の良い職場を選んではい就職完了。

 少なくとも俺はそう思っていたし、そうなると信じていた。

「そこで何をしているんだね?」
 だが現実は違った。

 初めは楽観視していた。けれども日を追う毎に落選通知の量は増え、それに比例して俺の焦燥感も強まっていった。

「ふうむ、なるほど…。そういった事情か」

 周りは既に就職を決め、友人の中では俺だけが唯一取り残されて……。
 その現実から逃げたくて、唐突に公園のベンチでへたりこんでいた。

「――よし、気に入った」
 しかし、そんな悩みや不安といったものは。


「よかったら、うちに就職しないかね?」

 いとも簡単に吹き飛ばしてしまった。……この胡散臭い人が。



  *


 初夏ももうじきといったところ。

「スーツってこんな暑苦しかったか……?」
 手に持っていたタオルで顔を拭い、日が昇る空の下、俺は街中を練り歩いていた。


 ――入社式も内定式も内定者懇親会もない。まるで不思議な労働スタートの期間を終え、俺の初めての仕事が「アイドル探し」だった。

 そもそもの話、目の前に内定が吊り下げられていたから思わず飛びついただけで、勤め先の会社のことなど全く知らず、気にもしなかったのである。ただ浮浪人にならなかっただけで最高な気分だったのだ。


 そして概要を知ったのが入社した当日。
 設立から居るという事務員に教わりながらの業界研究が数日と、社長直々――どうやらあの時声をかけられた胡散臭い男が社長だったらしい――の研修が一週間程。

 それが終わったら、一言。
「じゃあ、あとはよろしく頼む。君の直感を信じるよ」――。
 ……その言葉の後、社長は姿を見せなくなった。


「…本当に、こんな所でこの先給料が出るのか?」
 ボタンを押せば、ガタンと缶が取り出し口に落ちる音がする。

 一応スカウト活動に関する費用は全て支給されるので安心しているが、こんな無計画な仕事でいいのだろうかと俺は炭酸ジュースを飲みながら思っていた。




「東京、千葉、山梨、長野……。学生旅行でもしている気分だわ」
 結果で言えば、全滅だった。

 それも当然の事で、スーツを着た見知らぬ男に突然「アイドルになりませんか?」と言われた所で、はいなりますと頷く人はまず居まい。

 無論事務所の名刺も作ってはいるが、全く無名の事務所というのだから、その効果は全くなかった。何より勧誘技術など全く持ちあわせてはいないのだから、話にならない。


 若干の無力感と脱力感を身に纏いつつ、今俺は愛知県を訪れていた。


 何故かって? ……手羽先が食べたかったからだ。

 雇う立場からすればたまったもんじゃないが、成果は上がらず、そして監視されていないともなれば、こうなるのはもはや自明というものだろう。半ば学生旅行の延長といった感覚で時間を過ごしている。
 事務員さん…千川ちひろさんには、夜に報告のメールをするだけで大丈夫だしな。

「…午前の仕事は終わりだな。よし、ご飯にしよう」
 街中の時計台は両方の針が天を向いていた。同時に、俺の腹も空腹を訴えた。

 手羽先はディナーにとっておくとして、昼は簡単にファストフードで済ませようか。
 近くで目についた店に、俺は吸い込まれていったのだった。




 ガヤガヤと喧騒が小さな店内を埋め尽くしている。

 寂れた人気のない定食屋ならいざ知らず、俺の入った店は全国チェーンのハンバーガー店で、昼飯時と相まってか様々な人がカウンター前とテーブルを占拠していた。

「家族連れ、私服の若者集団、カップル、学生の集まり…か。何か良い人は、っと」

 入社して半年も経っていない人間が職業病を自称するのはおこがましいが、ひとまず風貌を一瞥し、適う人材が居ないか確認しておく。

 まあ、居ないな。
 社長からは『この事務所の名に相応しい、シンデレラを探して欲しい』というなんとも曖昧な条件だけを俺に言い渡していた。
 CGプロ――シンデレラガールズプロダクションとは、なんとも大仰な名前である。

 ――いらっしゃいませ、お待たせしました! ご注文は何に致しますか?

 笑顔の素敵な君をテイクアウトで。


 …そんなことを言える筈もなく、俺は素直にハンバーガー二つと水を注文したのだった。





「やはり狙うとすれば学生か」

 乾いたパンズを水で胃に流し込むと、隣のテーブルで馬鹿笑いをしている女子生徒達を一瞥する。

 彼女たちは鮮やかな青色が目に付く制服を着ていた。もしかすると良い人を見つけられるかもしれない。

 どうせこの街中でスカウトした所で、成果は表れそうにない。
 だったら夢見がちな学生の方が勧誘は成功するんじゃないかという魂胆だ。

 ……そう考えると、いつ通報されても不思議ではないな。

「ねえ、君たち、ちょっといいかな――」
 改めて知る、己の立場の不審さを脳内で払拭しつつ、午後の活動を開始したのだった。




  *


「ここか…。中々大きいんだな」
 女子生徒たちは案外すんなりと俺を信じ、道を教えてくれた。
 かなり大雑把な話ではあったが、その通りに進めばひときわ大きな校舎と高校行きの案内板があったので迷うことなく進むことができた。

 都心部からは少し離れ、郊外にある大きな高校。ここが彼女たちの所属している高校らしい。
 フェンス越しに見遣れば、同じ制服を着た女子生徒や学ランの男子生徒を見ることができるので、嘘を話された訳でもなさそうだ。


 じゃあ早速入ってスカウト活動を……と思う俺の体は、止む無く自制される。


 なかなか大きな高校ということもあって、校門前には警備員が一人外を眺めていたのだ。
 俺が高校生の頃は貧乏そうな高校であったためかセキュリティなど無いようなものだったが、どうやらこの高校は俺の居た高校とは全くグレードが違うらしい。

 いや、勿論犯罪をするために入る訳ではないのだし、言えば許可証ぐらいもらえそうだが……。
「……止めておこう」
 もし拒否されて付近に不審者の通達でもされたら、最悪所属事務所の名前にも傷をつけてしまいかねない。
 ベテランならそれなりの交渉術を持ち合わせているのだろうが、こちとらただの新入社員だ。リスクを背負った冒険はしたくない。




 ……いくばくか後には、俺は生徒たちの帰宅路である河川敷の斜面で寝転んでいた。
 俺が来た道と同じ道である。

 この高校は、通学路に沿うように大きな皮が流れており、そこの生徒は勿論、近隣住民の憩いの場にもなっていた。

 ここなら、休憩と見せかけて帰宅する生徒を確認することが出来る。我ながら良い考えだ。
 ……この行動も、見方によっては不審者の範疇に入りそうだが。


 太陽は威力を抑える兆しを一向に見せない。
 しかし、時折来る緩い風が俺のスーツを撫でていた。

「…俺、なにやってんだろうな」
 何かをしていれば考えることもなかっただろうに、一旦落ち着いてみると、己の行動が嫌でも脳裏に映し出される。

 狙っていた業界や会社には全く見向きもされず、行きたくもない会社からも蹴落とされ、友人からは突き放され、そして今、訳の分からぬままこうやって外に出されて寝転んでいる。
 それがどうにも俺の考えていた社会人像とは一致しなくて、ささやかな自己嫌悪を生み出していた。



「今日、土曜日なんだけどなあ」
 俺が高校生の頃はどうだったっけか?
 確か土曜は休みの日で、突発的に友達と遊んでいた気がする。
 それに比べればこの高校の生徒は恐ろしい。土曜日でさえも半日ではあるが勉強をしているのだ。俺だったらすぐにでも発狂している。


 首を上に向ければ、河川敷の上の舗装された道を歩く生徒たちが幾つか見える。
 もうここで勉強していた生徒の帰宅のピークは過ぎているのだろう、数はとても少ない。

 きちんとスカウト活動をするのなら、ピーク時間に合わせてここに来るべきだった。
「…休憩するか」
 それほど働いていないにもかかわらず、首を元に戻して空を見る。
 動いていない上に、風が心地よいほどに丁度良く吹いているので、先程よりかはずっと涼しく感じる。

 自分のことを思えば思うほど嫌になってくる。

 俺はそんな意識から逃げるように、目を閉じたのだった。




  *


「――あの」
 俺は何をしていたんだっけ。

「あのー…」
 浅く沈んだ自意識を鈍く光らせ、記憶を再生させる。

 ――ああ、そうだった。
 確か、俺はスカウト活動をしていて、それで今日のターゲットはこの高校だったけど警備員に見られるのは嫌でこうして河川敷で観察を――……。

「やべえ寝ちまったっ!!?」
「ひあっ!?」

 体に強く力を入れて起き上がると、背後から素っ頓狂な高い声が上がった。

 何かしでかしたのかと恐る恐る後ろを振り向くと、尻餅をついて痛そうにしている体操服姿の少女が居た。



「ええと…何か用かな?」
「あ、いや……部活の時から今帰る時までずっとここにいらしたようなので、もしかすると具合が悪いのではないかと思いまして」
「具合? ……ああ」
 どうやら長い間ここに居たから、心配されてしまったようだ。

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
 苦しくて寝込んでいたならともかく、ただ単に寝ていただけなのだから、背中が少し痛い以外は何も問題はない。

「そうですか…それはよかったです。あ、もしお疲れでしたら、これ…如何ですか?」
 あからさまに安堵すると、彼女は思い出したように腰に下げたボトルを俺に見せた。
「えーと…いいの?」
「どうぞ。困っていれば助けるのが当たり前ですから」
 ふふ、と彼女は小さく笑った。




 …確かに寝起きで喉は乾いている。昼に買ったジュースはもう捨ててしまっているし、せっかくだから親切を受け取ろうではないか。
「じゃあもらおうかな――って酸っぱぁっ!?」
 ごふっ、と口に含んだ液体を吹き出しかけたが、かろうじでそれだけは阻止した。
「だ、大丈夫ですか!?」
 彼女は驚いたようで、俺に近づく。

 酸っぱい。酸っぱいぞこれ!?
 半透明なボトルに入れられた液体だからてっきりスポーツドリンクかと思っていたら、甘味と酸味が混じった予想だにしない味が舌を急襲したのだ。

「ごほ、ごほ……。こ、これ、何が入ってるんだ?」
 何度かむせつつも喉と心を落ち着かせてから尋ねる。
「え、入ってるものですか? スポーツの時に飲むといいらしいので、クエン酸とレモン汁と蜂蜜を――」
 ああ道理でか。
「…確かに運動には良いとは聞くけど。一応言っておくがクエン酸はレモンの中にも入ってるからな?」
 これだと全体の総量に対して酸味が強すぎる。
「え、そうなんですか?」
 きょとんとした表情で俺を真っ直ぐ見つめる少女。

「…これ、飲んでてかなり酸っぱく感じなかった?」
「確かに少し酸味はしますが…こういうものではないのでしょうか?」


 ああ…ちょっと鈍い人なんだな。




「何かをしていたんですか?」
 彼女はジュースの配合量について暫し考えた後、俺に訊ねた。

 口で答えようと思ったが、一応信用してもらうためにも俺はポケットから名刺を出して彼女に渡した。
「シンデレラガールズプロダクション……? 何かの会社ですね」
「誰でもわからないよな、普通」
 俺も初見じゃ何もわからない。
「いわゆる芸能事務所ってやつだよ。新しく出来たらしくて、まだ事務所にアイドルは誰も所属してなくてさ」
「アイドル…ですか」
 不思議そうに彼女は名刺を見つめていた。



 ……あ。


 その表情を見て俺は、ピリ、と背中に電流が走ったことに気付く。






 一目見て解るほどの凛々しく端正な顔立ち。
 今見せているような表情は、憂いとも優しさともとれる感情の豊かさ。
 眼差しは、不思議と惹きつけるようなある種の勇敢さがある。

 そして何より、初対面の人間に対してでも積極的に声をかけ、助ける事のできる強さが彼女にはあるように思えた。


 社長のいう『俺の直感』が正しければ。
 もし、彼女をアイドルにすることができれば。


 そう思った瞬間、俺は体を彼女に向け、出来うる限り真剣な声色で話を切り出す。


「――君。アイドルに、ならないか」





「わ、私が……アイドル?」
 恐らくこの言葉の意味を改めて理解するのに時間がかかったのだろう、俺の誘いに若干のクッションが置かれた。

 彼女の表情は賛同でも拒絶でもなく、困惑といった風にとれる。

「そうだ。俺は沢山の人を見てきたが、君程に美しいと思った人はかつていない」
「そんな…私より綺麗な人なんてたくさん居ますし、私なんか――」
「なんかじゃない!」

 風が一瞬、二人の間を強く通り抜ける。
 戸惑っていた彼女の表情がたじろぐ。

「…ごめん、確証は無い」
 沢山の人を見てきたと言っても他の人に比べれば微々たる数の上全部断られているし、俺は最近やり始めたばかりの見栄を張っているだけの新人だ。
 美しいは数値じゃないのだから、内心別のベクトルで彼女より美しい人はきっといるだろう。

 ……でも。
「君の声、姿、そして雰囲気を見て思ったんだよ」

 もし、彼女が綺麗な衣装を着て歌っているのを見たら。
 もし、彼女がテレビの向こうで笑顔でいるのを見たら。

「君がアイドルでいる所を見たい――君なら、世界中の人を魅了できるに違いない、と」

 俺はきっと、彼女のファンになっている。





「……今は、答えられません」
 またしても訪れる声の隙間の次は、俺の望む言葉ではなかった。

 こういった手合い、押せば自信を持ってくれると思ったから強い言葉で言ってみたのだが、この判断は間違いなのだろうか?

 初めて俺の直感というものの存在を感じ取った少女だというのに、失敗するなんて――
「ん? 今は…って事は」

 彼女は視線を再び名刺に落とし、何かを思案しているようだった。

「すみません。少し考えさせて下さい」

 ……まだだ。まだ断られた訳じゃない。むしろ、その表情は否定寄りというわけでもなさそうだ。
「あ、ああ。いや、こちらこそいきなり熱くなってごめん。君を見てつい、ね」
 先程まであった笑顔を見せることはなく、神妙な面持ちだった。

「この名刺に書いている電話番号は、あなたのですか?」
 名刺から顔を上げて訊ねられる。
「そうだ。…どうであれ、返事が決まったら電話をして欲しい。その時まで俺は待っているから」
「……Pさんですね。今日中には、連絡します」

 シワの無い、綺麗な制服のスカートをぱん、ぱんと数回はたくと彼女はそう言い、一本に纏められたストレートの髪を揺らしながら帰っていった。


「……来てくれるといいなあ」
 風に声を乗せるが、彼女には届いていないようだった。


今回はここで区切りです。
ありがとうございました。

ていねいな文章。支援ですよ。

続きも期待してます

天使だからしかたないよね
お迎えしたいけどドリンクが…

みどりんに投票しろよ、おうあくしろよ。


ランクインしてなくて寂しいです。翠をよろしくお願いします。

>>21.>>22
ありがとう、そしてありがとう。

>>23
せめてRがもう少し安くなってほしいと願う微課金勢。


  *



「…明日。今日と同じ場所に来てくれませんか」
 ホテルにて、有名らしい手羽先をたらふく食べてちひろさんへの報告メールを送ろうとしていた時だった。

「わかった。返事はそこで…ということだな?」
 現実的に言えば、探していれば美人なんてもっと見つかるだろう。
 大体の高校にはまあ一人か二人ぐらいマドンナ的存在がいるだろうから、明日はそっちに向かえばいい。
「はい。…お手数おかけします」

 保留の返事をもらった頃から、失敗しても気にしないと自己暗示をかけている最中の電話だった。

 意味不明な直感でも、俺は信じてみたい。
 新人が精一杯感じたこの気持ちを実現させたい。

 もし失敗したら…悔しいけど、ストーカーをする訳にはいかないのだから、口惜しくも別の人をあたるべきだろう。
 彼女は気を悪くするかもしれないが、振られたついでに高校によさそうな人が居ないか聞いてみるのも悪くないかもしれない。

 だからまずは明日、彼女が良い返事をしてくれる事だけを願おう。

 冷やしておいたジュースを冷蔵庫から取り出して一気に飲み干すと、俺は夜景をぼんやりと眺めた。




  *



「おはよう……って、その格好は?」

 翌日。
 日曜日で、その上午前10時を過ぎる頃には、この河川敷を通る生徒は全く見かけなかった。部活を始めるならあと一時間は早く行く必要があるだろうな。

 そして俺は、指定された時間にシワのついたスーツを着てここに来た。

「おはようございます」
 制服か私服かを想像していたが予想は外れ、時代錯誤な白黒の袴姿の彼女が居た。

「これは弓道着です。私、弓道部に所属しているんですよ」
「ああ、なるほど…それで、何故今着る必要が?」

 一瞬納得しかけたが、この状況で納得はしてはいけない。

「返事…ですよね。でもその前に、私の弓を引く姿を見て欲しいんです」
 一体どういう思惑があるのだろうか。

 ただイエスかノーかを答えてくれさえすればそれで終わりなのに、と心の中で思って、すぐ掻き消す。
 第一印象で聡いと俺に思わせた彼女のことだ、きっと何か目的があるはずである。

「わかった。弓道を実際に見るのは初めてだから楽しみだな」
「ありがとうございます。では一緒に来て下さい。警備員さんには話はしていますので」
 そう言うと、俺の隣までわざわざ来てから彼女は校内へと俺を誘った。




「敷地外からでもわかるけど、やっぱ綺麗な学校だよなあ」
 弓道場はやや校舎からは離れ、柔道場と隣接して置かれている。

「そうですね。勿論設立から日が浅いというのもありますが、先輩方が丁寧に扱っていただいたからこその結果だと思っています」
 私も後輩からそう思ってもらえるように気をつけて使っているんですよ、と隣の彼女は笑って答えた。

 こういった所に、人の性格や癖といったものが表れるのだろう。昨日ハンバーガー店で見かけた女子生徒と脳裏で対比される。

 弓道着姿も相まってか、どこか時代を越えてやってきたかのような真っ直ぐな心持ちに、俺は一層彼女に惹かれてしまいそうだ。

「お待たせしました。靴はこちらで脱いで、そのまま中へどうぞ」

 弓道場のドアを開けると、狭い下駄箱の中で彼女は慣れた動きでローファーをしまう。
 俺も同じように靴をしまうと、何やら道具のような物を持つ彼女の背中を追った。




「おお…何だか見たことある格好になったな。とても似合ってる」
「ありがとうございます。これが一応弓道の正装になります」

 手には変わった形の手袋をして、黒く光る胸当てをした彼女の姿は、第一印象をより際だたせるような鋭さがあった。

「今から何本か引きますので、どうぞゆっくり見ていて下さい」
 俺が返事をすると深々と一礼し、遠く離れた的へ視線を向けた。

 せっかくなので、後ろからではなく横から見ることにした。近くで見たいというのもあったし、純粋な好奇心である。

 そんな俺の視線を全く物ともせず、静かに息を整え、彼女は矢を持つ。

 すり足で足を広げ、的を見る。
 視線を戻して弓を上げる。

 弦を引き、一呼吸止めてから、限界まできりきりと音を鳴らす。

 そして姿勢のまま、体が止まる。


 その光景はまるで、現世を離れた存在のように思えた。

 弓道の事には全くの門外漢なので動きを評価することはできないが、彼女の一つ一つの動き、動と静が明確に現れた正確無比な動作が俺をそう思わせるのだ。



 ――空気が止まっている。およそ、鼓動の音しか聞こえない。




 瞬間、彼女の手元から矢が放たれる。


 かの有名な物語中では、弓の名手が矢を射たとき、ひやうふつという音がしたという。
 今聞いた音とはお世辞にも似ているとは言えないがなるほど、どことなくこの言葉にも臨場感が表れているような気がした。
 矢は瞬く間に向こう側へと飛んでいくと、遠くに置かれた小さな的の中心よりやや下方に刺さった。
 羽が細かく揺れているのが、その強さを表している。

「おお、一発で当てるのか、凄いな」

 俺は思わず声を上げたが、彼女は何も反応せず、じっと的を見つめていた。
 そして静止した後、二本目の矢を弓にあてて準備をする。


 弓道は、忍耐力や集中力といった精神を修行する武道だという話を聞いたことがある。
 競技的な側面を含めて、プレッシャーや周りの視線などに影響されないで如何にあの小さな的を射抜くか。それが面白さなのかもしれない。

 きりきり。
 その後も彼女は矢を射続ける。

 初めこそ声を出した俺も、意味を理解してからはじっと彼女の姿を見つめ続けていた。




「――ふう」
 見ることに集中していたせいで何本射たかは定かではないが、おおよそ十本程度だろうか、それが終わると俺に聞こえるように大きく息を吐いた。

「見て頂きありがとうございました。…如何でしたか?」
 的に注いでいた視線を俺に向け、再び一礼してから俺を訊ねた。

「…素晴らしかったよ。何だか俺までビシっとしなきゃいけない気分になった」
 笑いながらも本心で話す。あの光景をあぐらを掻いて見るのはいささか失礼が過ぎる。

「礼儀なくして弓道は成り立ちませんから」
 ふふ、と彼女もつられて笑みを零すと、すぐに表情を切り替えて真面目な顔になる。



「……あの後、両親に話をしたんです」

 当然、アイドルになるためには未成年である以上、ご両親の了解が殆どの場合必要になる。
 俺はとりあえず本人の了承を得てから両親を説得しに行こうと考えていたのだが、リアリスティックな側面が強く出ているのか、両親と相談した上でアイドルになることがどういうことなのかを考えたような素振りだ。

「はっきり言いますが、私がその話をした時、両親は良い顔をしませんでした。…そうですよね、芸能界ってそう安々と成功できるほど甘い世界ではないでしょうから」

 浮かれることなく、彼女と彼女の両親は考えていた。
「そうだな。アイドルは誰もが憧れる職業である一方、そこに立つまで何人ものライバルを蹴落とすことになるだろう。どちらの立場になるかは、誰にもわからない」

 以前、多種多様な個性を持つアイドルが皆楽しそうに仕事をしている姿を映したテレビ番組を見たことがある。


「そんな場所に単身向かわせるのは心苦しいと、両親は言っていました」

 そこに映っていたアイドル達は、知らない人は居ない程のかの有名なアイドル達だ。
 全員がそこまでの立場になるには本人達の相当な努力もあるし、それを率いるプロデューサー達の能力もあっただろう。





 結局、それらは例外でしかないのだ。

 大体の人間は凡人だ。そしてその最たる例である俺には、きっとあのアイドル達のような大きな立場にまで連れていくのは決して容易ではない。
 それは、彼女に厳しい戦いを強いることと同義であった。

 聡い家族だ、きっと俺の渡した名刺を見て、プロダクションのウェブサイトや評判などを細かく調べているだろう。両親の不安の感情が、今更ながら手に取るように解ってしまった。。


「…無理だったか」
 俺は弓道場の天井を見上げて、息を吐いた。

 まあ、仕方ないか。もっと俺が有名プロダクションのプロデューサーだったなら可能性はあったかもしれないが、アイドルの所属していないこんなプロダクションじゃなあ…。


「――無理かどうか。それをあなたに決めて欲しいんです」

 思わず俺の聞き返す声が裏返る。




 今からまたスカウト活動を始めるのは怠いな、と考えていた矢先の言葉だった。

「私が落ち着いて初対面のあなたとも話ができるのも、きっと弓道をやっていたからだと思います。そういった姿勢を弓道から教わりました。…両親は、過去から遡って私を見た上で、私の判断を尊重するという結論を出したんです」

 …なるほど。
 両親には、葛藤があった。その上で彼女に判断を託した。それも、彼女の様々な行動における姿勢の良さから来る信頼なのだろうか。

「私には、アイドルがどういうものかが全くわかりません。周りから容姿を褒められたことは人並みにはありますが、きっとお世辞というものでしょうし……。私がそこで通用するのか、自身では判断できないんです」

「そこで、俺に弓を引く姿を見せた、と」
 ひとつ頷き、溜め込んだ言葉を更に吐き出す。

「はい。初めてあなたが見た私と今の弓道着姿の私、弓を引く私、そしてあなたと話す私。…あなたから見て、どうでしたか?  ……その道を歩いていけると、あなたは思うことが出来ましたか?」


 彼女の真摯な声色に、俺は事の重大さに気付いた。





 スカウトという活動はされる側にとって、赤の他人に船の舵取りを一任するという事に他ならない。
 そのハイリスクを目の前にして、彼女は内面で酷く悩んでいたのだ。
 俺が声をかけていなければ、こんな岐路には立たず、現代の高校生らしく友人と思い出を作り、そのまま受験を経て大学生になっているだろう。

 普通であることが正解だとは思わない。
 しかし、普通であることは平穏であることだとは思う。

 彼女にとって普通であることを良しととるか悪しととるかは読み取れないが、高校生とはいえ重すぎる決断を迫ってしまったのは事実だった。

 それに気づかず、アイドルになれたら本人も嬉しいに違いない、と一人勘違いしていた俺の間抜け加減を心底恥じた。




「…実は俺、君が思っているほどこの業界に長くいる訳じゃないんだ。年齢だって、君と四つしか違わない、ただの新人なんだよ」

 え、と彼女もこればかりは驚いた顔をしていた。失望というよりかは、純粋な驚愕。

「ここに就職したのだって、社長の気まぐれでしかない、偶然だった。プロデューサー志望の人間からすると恨まれても仕方のない人間かもなあ」
 吐露した思いを反響させるように、今度は俺の気持ちを伝える。

「それでも、君と出会って心が痺れた。一般人同然の俺を、一瞬で一目惚れさせた」
 場所が場所なら愛の告白とも取られかねない言葉だったが、今の俺にはそう言うしか手段が残されていなかった。

「そして今日君のその姿を見て、君の気持ちを聞いて。…あの確信は本当だと解った」

 初めての担当アイドルが彼女だったら、俺はどれだけ幸せ者だろうか。
 彼女をトップアイドルにまで導けたら……俺はどれだけ嬉しく思えるだろうか。

 厳密に計算するまでもなく、莫大な量なのは明らかだった。


 その思いを一息に纏めて、頭に浮かんだ俺の言葉をありのまま口に出す。


「改めてお願いしたい。こんな未熟な魔法使いでよければ、君に魔法をかけさせてほしい――シンデレラガールとして、君を導かせて欲しい」





 ――これほどはっきりとわかる静寂を、誰が招き寄せたのだろうか。


 俺はただ伝え、そして真っ直ぐ彼女を見つめ続けた。

 見開いた目を戻し、彼女が話しだすのは、もう十数秒経った後だった。

「…本当に通用するでしょうか?」
 僅かな記憶に含まれていない、折れそうな声。
 誰でも…俺ですらも解る、不安の入り混じった声だった。

 一瞬、思い浮かんだ安直な言葉を俺は飲み込む。

「断言は出来ない。でも、俺はあらゆる手段を用いてでも君が上っていくのを助けるし、君ならできると俺は思っているよ」

 絶対に通用するだなんて、言うだけなら誰でも出来る。

 だがそれで逃げるのは彼女に対して失礼だから、俺は使いたくなかった。


 そうすることでしか、きっと彼女の問いを受け止めることはできない。





「…私、アイドルになります」
 不意に彼女は顔をあげ、真剣な眼差しで俺を見た。

 その瞳に混濁はなく、代わりに十分すぎる程の覚悟と決意が映されていた。


「期待していただけるなら、応えたいと思います。プロデューサーさん、私を導いて下さい。…きっと、最後までやり遂げてみせます!」

 突如弓道場に強い語気の声が響き渡り、少したじろいでしまう。

 あまり動かないように見えるとはいえ、弓道も立派なスポーツ。体力は平均よりもかなり高いのだろうか。


「俺の誘いに応じてくれて本当にありがとう。これから大変かもしれないけど、よろしく頼むな、……ええと」

「翠。水野翠です。…ふふ、名前も訊かずにスカウトするなんて、どうかと思いますよ」
 口に手をあて、彼女はくすくすと小さく笑っていた。


 …まず俺が直すべきは、順序をちゃんと踏まえて行動することだと強く思う。




   *



「では、今すぐ東京に行くわけじゃないんだな?」
 如何にもスポーツを嗜んでいるような、勇ましい男――水野翠の父親は腕を組んだ。

「はい。無論東京での活動も将来的には考えていますが、まずは地元での知名度を向上させることを優先します」

 休日で両親は二人とも家に居ると聞いたので、彼女が着替えた後、俺達は彼女の家で話し合いをすることにした。

 当然資料など何も持っていないので、家を訪問する前にちひろさんに勧誘成功の報告と共に、状況を考慮した上での活動プランをひと通り教えてもらった。

「理由としては、激戦区である東京を今の何もない状態で攻めるのは難しい、というのが主ではありますが、本人は高校三年生で、一生に一度の高校生活の卒業が近いのに、この時期に友人と離れるのはいささか非情すぎると考えたからです」

 聞く所によると、彼女の通う高校の弓道部は今年インターハイに出るそうだ。最後の集大成を目前に出場できないなんて可哀想だ。

「よかったわねえ、翠」
 母親は優しそうな人で、俺を快く家に招き入れてくれた人だ。

「まだ具体的なスケジュールは決まっていませんが、しばらくはアイドルになるためのレッスンを中心に行なってもらいます。二足のわらじですが、大丈夫ですか?」

「はい。問題ありません」
 俺の問いに彼女は強く頷いた。覚悟を決めたのだろう、その意思に迷いはない。

「今お話すべきことはこのぐらいですね。ご両親には当面私が寝泊まりするホテルの場所を伝えておきます」




 ぐぅ、となる音を俺は隠せただろうか。

 長い間話し込んだせいで、伝えるべき事柄も減れば俺の腹も減っている。
 胸ポケットから取り出した名刺の裏にホテルの場所を記入しようとボールペンのキャップを開けると、母親から制止が入った。

「お金も勿体無いでしょうし、今日ぐらいはうちに泊まっていって下さいな」

「え、えぇ!?」
 当然俺は突拍子もない声を上げた。勢いのあまりキャップがフローリングに落下してしまう。

「そうだな。お前さんとはまだまだ話したいこともあるし丁度いい、泊まっていけ」
 そして父親もすぐさま賛同する。
 打ち合わせしてきた様子はないがこの同調ぶりは見ていて感心するほどだ。

「うちの父と母もこう言ってますし、プロデューサーさん、どうぞ泊まっていって下さい」
 おまけには彼女さえも賛同してしまった。


 ええと、アイドルの家に男が泊まりこむのは果たして許されることなのかいやいやまだアイドルにもなってないし俺はプロデューサーだから大丈夫だろういやでももしかしたら……などと考えを巡りに巡らせても、解答は出てこない。


 …というか、彼らの視線を知りつつ断ることなど到底できそうにない。

 結局、顎を捕まれ引き下ろされるように承諾し、彼女の家に一泊することとなってしまった。



  *



「はは、大変だったみたいですね」
 電話越しでもちひろさんが苦笑しているのがわかった。

 宿泊が決定するやいなや、祝いだと言って父親が両腕に溢れんばかりの酒を持ってきて、昼間から宴が始まってしまったのだ。

「うう、酒の津波が……。し、大学の新歓以来ですかね、こんなに飲まされるのは……うぷ」
 顔から予想できる通り酒の強い父親と、予想に反して酒豪の母親から質問と娘自慢の波状攻撃のおかげで、耳がじんじんとしている。
 晩御飯も同時に頂いての宴の延長線もようやく終了し、開放された俺はたまらず二階のベランダに飛び出し風を浴びているのだった。

「それだけ、娘さんが大事ってことなんですよ」
 今電話をしているのは、両親に了承をもらったことをちひろさんに連絡するためだ。

 今日話しただけでも、両親が娘に対しあらゆる働きかけをして大切に育ててきたのだという事が痛いほど理解できた。

 ここからは俺が頑張らなければ全て台無しになってしまう。新人だと言い訳はできないのだから、しっかりと気を引き締めていこう。





「じゃあ、とりあえず明日東京に戻って下さい。方針の再確認とスケジュールの打ち合わせを行いますので」

「わかりました、昼過ぎにはそちらに着くと思います。それと彼女も?」
 いえ、とちひろさんは言った。

「翠ちゃんは明日学校でしょうから、支障がない範囲なら来週末でしょうね」
 アイドルになれば学校は休みがちになるのが大体の場合ではあるものの、元よりそういった学業を疎かにさせるような事を好んでする気はないし、第一肩書き上はアイドル候補生なのだから、そこまでのめり込ませたくはない、というのがちひろさんの考えだった。

「進路によって行動も変わってくるでしょうから…それも明日打ち合わせですかね」

「そういうことです。それではおやすみなさい。今日の内に翠ちゃんに色々教えておいてくださいね」
 わかりました、お疲れ様でしたと述べて、俺は通話を切った。




「――とまあ、そういう訳で俺は明日朝一で東京に戻ることになる」
 酒が何とか抜けてきた所でお風呂を頂き、今度は彼女と一対一で話していた。

「わかりました。と言うことは、来週末に東京に行くまで私は何をすればいいんでしょうか?」
「何って…なんだろうな」
 これじゃ駄目だ。

「ああ、いや、ごめん。事務所の方で契約しているレッスントレーナーが居るから、もしかしたらその人にこっちまで来て、最初の確認だけでもするかもしれない」
 それもちひろさんから聞いた話である。
 アイドルが一人も居ないのに契約しているなんていささか不自然なような気もするが、用意周到と感心すべきだろう。

「体力テストといった感じですね。それならば自信がありますよ、私」
 自然に流した髪が彼女の微笑みとともにゆらゆらと揺れる。

「弓道ってあんまり動かないイメージあるけどなあ」
「そうでもないんですよ。弓を引くのは力が要りますし、その状態で静止しなければいけませんから」
「心強いな」
 見たところ筋肉が強く発達しているようには見えないものの、嘘は言ってないだろう。
 それならばレッスンもスムーズに行くに違いない。

 俺の見る目は間違っていなかった、と自画自賛したくなるのを抑えて頷く。
「水野のやってきた弓道はアイドル活動の中で絶対に役に立つから、自信を持ってくれよ」
 この言葉に対して、彼女は苦笑する。

「名前で呼んでいいですよ。水野だと、ここじゃ混乱しますから」
「…それもそうか」
 確かにその通りなのだが、どことなく照れくさく感じるのは俺がまだずぶの素人だからか。それとも彼女が高校生だからか。

「それじゃ、改めてよろしくな、翠」
「はい、プロデューサーさん!」


 元気の良い返事を最後に、今日はこれでお開きとなった。


ところどころおかしい所があるのはミスです。
具体的には
>>30の6行目「俺を」→「俺に」
>>31の8行目末「。。」→「。」
とかなんとか。

投下量少ないけどあれだ、長く楽しむためですよ、ええ。

さあ皆も翠を愛でよう!(オプマ)

のんびり待ってるから続きあくしろよ

>>43
(透過量少なくて)すまんな

書き溜めしながらやってるんだ、出来上がってる分もあることにはあるけれども…


  *


「あれ。翠、今日は休みだぞ?」


 季節な夏真っ盛り。

 8月に入ってすぐのある日の朝、予定は何も入っていない完全な休養日に、翠は事務所にやってきた。
 ちひろさんも今日は休暇をとっており、俺だけが事務所で一人パソコンの画面を睨みつけていたのだった。

「そんなに忘れっぽくありませんよ」
 一言翠が反論すると、壁にかけられた時計を見る。

「実は前のオーディションで会った水本さんとお茶に誘われまして、その時間まで事務所で待つつもりだったんです」

 私服姿の彼女は小さな鞄をソファに置き、自身もゆっくりと腰を下ろした。



 ――水本ゆかり。

 彼女とあの会場で出会ってから、その後でプロフィールを見た。

 青森県出身の15歳。翠よりは三つ下だが、芸能界では一年先輩である。
 趣味はフルートと記載されているが、特技としても遜色ない実力の持ち主で、コンクールでは上位に位置できるほどのフルーティストらしい。

 その事もあってか音楽番組との相性が良く、デビューもそのジャンルから芽を出した。
 現在は演劇方面にも顔を出し始め、目下練習中だとか。

 プロフィールと本人と話した時の記憶を思い出す。どうやらあの時、水本さんも翠を気に入ってくれたらしい。
 先輩からこうして誘ってもらえるなんて、かなりの幸運と言っていい。





「へえ。連絡先交換してたんだな」
 俺は彼女のお茶を用意してから、いつもよりもややプライベート寄りに、それでも色彩としては控えめな翠の私服を眺める。

「あ、お茶ありがとうございます」
 出した冷茶を静かに飲み始める。これだけ暑いんだ、喉が乾いていてもおかしくはない。

「それで、どこに行くんだ?」
「水本さんのお気に入りの店、だそうです。ふふ、楽しみです」
 青森からわざわざ東京にまでやってきて一年以上。お気に入りを見つけて、仕事をしてきたんだろうな。

 そういえば、翠は事務所に入ってからそれらしい観光は殆どしていない。
 仕事帰りにどこか寄っていったことはあっても、観光のためにわざわざ出かけたことはないはずだ。

 いや、別に一人で行った可能性はあるし、そもそも俺と二人で行く必要性はどこにもない。プロデューサーとしてどの範囲まで干渉すべきか、考えても結論がつかなかった。




「そろそろ時間ですね。プロデューサーさん、行ってきます」
 少しだけ雑談をしつつ、俺は作業の方に集中して十数分後、翠はソファから立ち上がる。

 恐らくここに時間前に来たのは、体を落ち着かせるためでもあったのだろう。身だしなみを整えていた翠を見てそう思った。

「いってらっしゃい。俺は今日一日此処に居るから、何かあったら呼んでいいからな」
「わかりました。それでは!」

 鞄と一本にまとめた長い髪をふわりと揺らし、翠は颯爽と事務所を出て行った。


「…成長したなあ」
 ふと考えてみると、アイドルとしてこうして遊びに出かけることのできる人ができたのは彼女が初めてなのではないだろうか。

 遊ぶことは勿論いいことだが、その中で何か彼女から学べられたら尚良しだ。


 事務所の中からはわかりづらい外の暑さを伴った景色を眺めて、俺は体を伸ばした。




  *



「はい…はい。そうです。その通りでお願いします。はい、ありがとうござい…いえいえ、こちらこそありがとうございました。それでは失礼します」

 やや黄ばんだ年代物の受話器を元の位置に戻す。

 以前お仕事を頂いた会社から再度のオファーである。一回限りの契約が殆どではあるものの、中にはこうしてくり返し翠を使ってもらえるような所が増えてきているのは嬉しい限りだ。

 ただ、方針上愛知と東京の二箇所で活動するため、翠の負担を考えてスケジュールを調整する必要があるのが難点ではある。


 差し当たっての仕事の量は新人としてはかねがね順調である。
 このままいけば、事務所も潰れるとうことはないだろう。


 ――ガチャ。
 突然、安っぽい音を立てて事務所の扉が開く。






 あの時から姿を見ない社長は何をしているんだろう、と考えていた矢先の出来事だ。

「只今戻りました」
「失礼します。おはようございます、Pさん」
「おかえり…っと、水本さんもおはようございます」

 翠の隣には、今日約束して遊びに出かけていたはずの水本さんも居た。

 誰も訪れる予定は聞いていないので外部の営業の人ではないとは分かっていたが、まさか一緒にこっちへ来るとは思わなかった。

 二人とも手には紙袋を一つづつ下げていたので、買い物した帰りなのだろう、とりあえずソファーに座ってもらってから、エアコンの温度を下げ、お茶とお茶うけを出した。

「すみません、来られるとは思ってなかったのでこんなのしかありませんが」
「こちらこそ突然お邪魔して申し訳ありませんでした……それと、少しお願いがあるのですが」
「お願い? なんでしょうか」

 俺にできることであれば、断るわけにもいかない、そう思ってこちらが聞き返すと、水本さんは少し困ったような笑顔で言う。





「お願いというか、何といいますか……。初めてお会いした時から、ずっと私のことをさんづけで呼んでいらっしゃいますが、私のほうが年下ですし、指導して頂く立場ですので、翠ちゃんと同じ様に話して頂けませんか?」

 ええと、これはどうだろう。

 確かに俺のほうが年上ではあるが、プロデューサーとアイドルとしての立場の違い以上に、他所のアイドルにくだけた口調で話すのは問題がある気もする。

「翠ちゃんの話を聞いてると、とてもよく見てくれる方だと思いまして、是非私にもご指導頂けると幸いです」
 しかし、しかしだ。

 恐らくわざとではないのだろうが、自然に上目遣いになって頼む水本さんの姿に、不覚にもドキッとしてしまった俺がいる。

 そんな彼女の頼みを聞けないだろうか…いや、聞けないはずがない。

「わかった。なるべく普段の喋り方で行くように努力するよ、ゆかりちゃん」
「ちゃんも必要ありません。…どうぞ気軽に呼んで下さいね」

 存外意固地になって俺にお願いをする水本さん…いや、ゆかりは実に新鮮であった。

「…よろしく、ゆかり」
「こちらこそよろしくお願いします。こうして出会えた事に感謝します」


 改めて挨拶をする傍ら、翠の表情だけが中々読み取れないでいた。




  *


「演奏、楽しみにしていますね」
 やはり二人とも女性のご多分に漏れず、トークは途切れることなく進んでいった。

 趣味の話から始まり、お互い弓道とフルートという全く別世界の事を紹介しながら、その時起きた出来事や思い出を回想するように話していたかと思いきや、いつのまにかアイドルになったいきさつや考え方などを語り合っていた。

 その会話を環境音として聞きつつ、俺はひたすらパソコンの前に向かって調べ物やデータ整理をしていたのだった。



 そうした時間もかれこれニ時間程だろうか、やれこうも長く話せるもんだと感じながら計算ソフトを終了しようとファイルを保存している最中のことだ。
「翠ちゃんの学校は変わった行事があるんですね……っと、そういえば、もうすぐ学園祭の時期が来ますね」
 事務所に何故か常に準備されているお茶を啜りながら、会話を横から聞く。

「そうですね。私の所は8月末から準備が始まるんです」
「へえ、気合が入ってるんですね」
 何気ない会話にもどこか貴婦人のような上品さが漂っているのは何故だろうか。


 ふと俺は思う。
 翠は今年の学園祭には参加したいのだろうか。

 スケジュール帳を見るが、俺は学園祭の日程を知らないことに気付く。




「学園祭と聞いて、懐かしくなったよ」
「あ、プロデューサーさん。お仕事お疲れ様です」

 デスクトップ画面のまま放置して、お茶を片手に俺もソファに座ることにした。勿論予定を聞いておきたいからだ。

「ところで翠、学園祭の日は今のところ仕事の予定はないが、どうする? そのまま空けておくか?」
 予定の有無をこちらで決められるのは仕事が少ない今だけの数少ない特権である。良いことかどうかはさておきとしてもだ。

「…いえ、プロデューサーさんにおまかせします。仕事の数に物を言える立場ではありませんので…」
 しかし、彼女はあくまでも謙虚にそう述べた。

 いや、謙虚といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は控え目に演じてしまうきらいがある。
 謙虚は美徳といえど、ここでやっていく以上なんらかの自己主張の強さは必要だと俺は思っている。

「そうか…。ゆかりの所属してる事務所ではどうなんだ? 割と要望は通る感じなのか?」
 顔の向きを変えて、今度はゆかりに訊ねてみる。
「去年…ええと、デビュー年はそんな余裕もなくて、ずっとレッスンと仕事でしたね。慣れない私を付きっきりで指導していただいた記憶があります」

 ということは、今年はフリーだという事になる。

 では、翠の場合は俺はどうするべきなのだろうか。





 本音を言えば、仕事に専念して欲しい。

 まだ全く足元が安定していると言えない状況である以上、一刻も早く安定軌道に乗せて事務所の発展に寄与してもらうことが管理する立場としての希望ではある。

 しかし、彼女の人生に干渉する権利を持ったプロデューサーとしての立場から考えると、人生で一度きりの高校生活を楽しんで貰いたいという気持ちがある。


 仕事も言うなれば一期一会だ。チャンスを逃せば次に出会える可能性は限りなく低い。
 しかしかといって彼女の思い出を潰す事への罪悪感が俺の中に残っているのだ。

「…あの、心配しなくてもいいですよ。私が今いる状況を考えると、仕事が一番大事なのは自覚していますから」
 それを見透かしたかのように、翠は俺に言う。

 その瞳には、特に感情は伺えない。
 だが、彼女がそういう人間であることは、共に時間を過ごしてきてよくわかっている。

「…そうか、わかった。ありがとう」
 単に俺が責任ある社会人になりきれてないのだろう。
 事務所の方針である『翠の学生生活を壊さない』という言葉を軸に、一応なるべくその日は仕事を取らないようにしよう、そう思った瞬間だった。


「あの…、ちょっといいですか?」
 今まで口を閉ざし俺達の会話を聞いていたゆかりが、ふと声を出した。




「どうかしましたか?」
 日常的によく見る話の切り出し方に則った声に、翠が聞き返す。


「他所の事務所なので、私が言ってもいいのかどうかわかりませんが、学校で活動をするのは如何でしょうか?」
 ゆかりは、佇まいもそのままに、大したことではないといった風に提案した。

「…それがあった」
 どうしてそれに気づかなかったのだろうか。
 仕事ということに囚われて考えが及ばなかったのか。


 どちらにせよ、それを言ってくれる人が居たというのは紛れもない幸運だった。




「その手があったな…失念していたよ。翠はどうだ、やりたいか?」
「…はい、やってみたいです!」
 まごうことなき彼女自身の元気な返事が事務所に響き渡る。

 地元での仕事を見て存在を知った生徒は居ても、それはあくまでプライベートの翠の上から乗っかかっているだけのイメージだ。
 それを根本から払拭し、『アイドル・水野翠』を生徒に知らしめるには、これほど適した機会もない。

 第一、これから訪れるであろう舞台での歌や踊りのための血肉にもなる。

「今からで間に合うかどうかはわからないけど、試してみるか」
 俺は二人にそう言って、すぐさまパソコンの前に戻ることにした。




  *



「あれ、プロデューサーさん?」
 懐かしき静かな校舎の廊下を歩いていると、制服姿の翠に声を掛けられた。

 あちらは大層驚いた顔をしていたが、むしろ驚いているのはこちらの方である。
 何故なら、今は8月で夏休み中だからだ。

 翠は着慣れているであろう制服の裾をはためかせて理由を問う。


「何しにって? こっちは例の件で話をしに来てたんだよ」
 まだ彼女は校舎に残る必要があるらしいが、下駄箱まで一緒に付いてきてくれるとのことなので、せっかくだから話をすることにした。





 ――あの後、俺はすぐに行動した。

 あの、というのはゆかりの言っていた学園祭での活動だ。

 本来であれば、しっかりと段階を踏んで契約に持ち込むべきなのは重々承知している。
 それをしなかったのは根本的な俺のミスであった。

 相手方の迷惑を憂慮しつつも拒絶覚悟で電話をかけると、何と話を聞いてくれることになった。

 電話相手というのは、無論翠の通う高校の校長である。

 スケジュール上は難しくても、実現させるためにあらゆる手段を用いて俺は話に望んだのだった。


「…それで、どうなったのですか?」
 期待半分不安半分といった目で俺を見る翠。

 その気持ちの相反は、活動の有無だけではなく、成功か失敗かの結果に対するものでもあるのかもしれない。


「できればここで言いたくは無かったけど――」


 俺の言葉に、翠は心底嬉しそうな顔をした。




「じゃあまたな。次は事務所で」
「はい。お疲れ様でした」

 翠が何故夏休み中にも関わらず学校に通っていたのかというと、夏期講習があるからだった。
 私立でこの地域では有数の進学校であるこの高校では、休みにも成績不良者、あるいは希望者に特別講習を開いているらしい。
 アイドルのせいでもしかしたら成績が落ちたのかも、という心配をするまでもなく、翠は成績優秀者のグループに入っていたので、ひとまず学業の不安は払拭される。

 彼女の笑顔がとても記憶に残る。何も希望を言わずとも、やはりアイドルなら歌ってみたいと心の中では思っていたということか。

 初めての歌の披露という中、どれだけの実力を見せてくれるか楽しみである。



 ……しかし、まだ全部じゃない。


 下駄箱で翠と別れると俺はすかさず電話を取り出し、予め登録しておいた番号に電話をかけた。

 ワンコール、ツーコール。

 スリーコールを鳴らす隙もなく、相手の声が聞こえた。


「どうも、Pです。例の件ですが、学校の許可は取れました」


 翠のために、俺は全力を尽くしてみせる。




  *



「先の事では、親切にして頂きありがとうございます」
 新築という程のものではないものの、手入れの行き届いた清潔感溢れる部屋を俺は訪れていた。

「いえいえ、困っていらっしゃるようでしたので。…それで、電話でお話していたことですが」
 もはや体に染み付いた動きで自己紹介と名刺の交換を済ませ、さっそく話を切り出す。

「とりあえず本人の意思を聞きたい所――おーい、ゆかり」
「はい、どうかしましたか…と。おはようございます、Pさん」
 相手の呼声に、丁寧な足取りでゆかりが現れ、軽く一礼した。

「あちらの方からお誘いがあるんだけど、どうだ?」
 流石にお誘いだけでは内容は計り知れない。
 当然の如く、ゆかりはきょとんとして俺の方を向く。

「オフっていうのは前に聞いていたから、君を誘いたくなったんだ――」

 俺は静かに、だが語気を強めて言う。


「翠と一緒に、学校で歌わないか?」



 初めての俺の企画に、ゆかりは大層驚いた顔をした。




  *



 都内で利用しているレッスン室に、三つのステップ音が激しく響き渡る。
 三人の吐息も中々に激しく、先頭で踊る人を真似て、サイドの二人も華麗に舞っていた。


 それを、彼と俺は真剣な眼差しで眺めていた。



 ――今思えば、在校生や卒業生のアイドルが出身校でライブを開くというのはよくある話だった。
 それを早い内に気づかなかったのは完全に俺の過失だが、それを悔いている暇はない。

 やると決めてからは行動は迅速だった。

 まずゆかりを担当しているプロデューサーに連絡を取り、今回の企画を提案する。
 この時点で賛同されなければ、ただのローカルソロライブになっていた事だろう。

 仮の了承を得た所で次に翠の学校に連絡を取り、学園祭ライブの許可をもらう。



 そして今、内緒で来てもらったゆかりと共に翠へ内容を伝え、ライブのためのレッスンを行っているという訳だ。





 …目的は二つ。

 一つは、翠に支えをつけるためだ。

 いくら同校の生徒で慣れ親しんだ舞台上とはいえ、翠にとってライブはまだ経験したことのない未知の世界だ。
 その状況下では、いくら翠が練習をして自信を付けていたとしても、無意識な緊張により思わぬミスが出て、大事な地元での評価を落とす可能性だって十分に考えられる。


 二つ目は、彼女の東京進出の足がかりのためだ。

 残念ながら、今の翠は知名度で言えば全然足りない。知っていれば凄い、というまだまだな状態である。

 しかしゆかりは違っていた。
 デビューしてからは二年目と芸歴自体は浅いが、実力派の人間で、その可憐なルックスも相まって色々な年齢層から人気を博す、事務所きっての大物新人アイドルだった。

 そのアイドルを一時的でも翠と組ませてライブをさせたらどうなるかといえば、考え無くとも解る通り、否応なく翠も多くの視線を浴びることだろう。

 ただ、組ませただけではメディアの食いつきも良くはならない。
 そこでゆかりの事務所の力を使ってメディアにたくさんの餌を撒いてもらったのだ。

 向こうの事務所はアイドルを何十人も抱える立派なプロダクションで、マスコミへの働きかけもそれなりの影響力を持っていたのだ。

 俺はそれを利用して、メディアを呼んだのだ。勿論全国系である。


 当初、相手方は難色を示していたが、ゆかりの愛知への活動のきっかけになるであろうこと、そして何よりゆかり自身がそれを希望したため、実現へと一歩進めることとなった。




 日程はこうである。

 彼女の高校の学園祭は二日あり、内訳は一日目は内輪向けで二日目は地域住民の入場を制限しない開放日となっている。

 主に一日目では、クラスや学年ごとの出し物を披露しあい、二日目は校内を全て開放して屋台やイベントなど、部活や有志の集まりでそれぞれの持ち味を生かして色々な物を催せることになっている。

 一番視線が多くなるのは当然二日目で、翠達のライブも二日目に執り行われる。

 しかし、サプライズでやっては目的を果たせないので、学園祭のパンフレットに特別ライブの事を記載してもらい、更に付近の地元住民への告知も行っておく。

 当然ローカル局での宣伝も忘れてはいない。
 急な話で断られるかと思いきや、以前仕事で良い印象を抱いてもらえたのか、特別に枠ももらってゲスト出演と当日の様子を放送してもらう事を約束してもらえたのだ。


 ついでに言うと、あの商店街も随分乗り気で、特別出展として学園祭にも出店に参加するらしい。




「…あなたの目から見て、翠はどう映りますか?」
 傍で腕を組んでじっと眺めるゆかりのプロデューサーに俺は問いかける。

 ゆかりの方は前評判に偽りなしといった感じで、振付師がするステップを忠実にこなしていた。
 対して翠も懸命についていっているように見える。


 寸刻考える素振りをして、一つ言う。



 …普通、と。






「普通、ですか」
 予想していなかったかと問われれば、俺は否定する。


 事実だ。翠は普通だった。

 確かに悪くはない。それまで必死に練習してきたおかげで基礎的な動きはサマになっているし、今だって手本通りに踊れている。


「思っていたよりは動けてはいる。だが、それだけだ」


 しかし、それはあくまで踊るだけの状態だ。

 実際ライブでとなれば、リズムを合わせて踊ることは当たり前で、更に歌も歌わなければならない。

 プレッシャーと疲労に押し潰されないで、歌い切ることができるだろうか。


 そういう意味で、彼は普通と答えたのだ。






「初めてだから、という理由でファンは見てくれない。見るのはそこで踊る今の彼女たちの姿なんだ」
 彼は静かに言った。

 例えばテレビのドキュメンタリー番組であれば、本人たちの苦悩や待ち受ける課題などが鮮明に描かれ、さながら物語の主人公のように視聴者は理解を進めていく。

 しかし、今の状況はそうではない。
 完成品だけを見せなければいけないのだ。


 必死に踊る二人。
 今日はダンスの確認と、当日の流れの説明を行う。

 それが次回次々回と回数を重ねる毎に、歌や舞台への入りなど徐々にやるべき内容が増えていく。

 今は出来ているように見えても、そこで初めて翠が出来ているかどうかが浮き彫りになるのである。



 出来なかったでは済まされない。


 成功しか、道はないのだ。




 二度目の休憩。

 体の慣らしも兼ねているので、インターバルは長めに取られていた。


 中断を宣告された瞬間に床に倒れこむことは流石無いものの、翠もゆかりも膝に手をついて懸命に呼吸をしている。

「ひとまずお疲れ様、二人とも」
 いつも通り、タオルとジュースを俺達二人がそれぞれ渡す。彼女たちは視線を合わそうとしてすぐにタオルでそれを隠した。

「…ふぅ。ど、どうでしたか、プロデューサーさん」
 恐らく二人が最も気になっている事柄をゆかりが訊ねた。この時のプロデューサーというのは俺ではなく、ゆかりの担当プロデューサーの事だ。

 まあ中々だ、というような、俺への答えと同様の回答をすると思いきや、彼はとんでもない事を言い出す。


「…全然駄目だ。今すぐにでも中止にしたほうがいいんじゃないか?」

 一瞬で、空気が凍りつく。



「そ、そんな…」
 俺が言ってないにも関わらず、むしろ、ショックはゆかりよりも翠の方が大きかった。
 彼女は、呆然とした表情で彼を見ていた。

 一方ゆかりは、息を吐き出したいのを堪えて唇をキュッと結んでいる。

「お前のダンス自体も勿論だが、決定的に動きにキレがない。ダンサブルな歌で、それは曲を侮辱しているとしか思えない」

 先ほどの練習で流れていた疾走感溢れる曲調が頭に擬似再生される。
 確かに、肘の回し方、足首のひねり方の違いで全体のイメージが大きく変わってくる。

 しかし、それは言い過ぎである。
 少なくとも練習一回目の人相手に言うべき言葉ではない。
 とりわけ翠に対しては直接言っているわけではないものの、言葉の節々に棘を感じた。


「ちょ、ちょっと…」
 担当アイドルでもない相手に何を、と俺が制止しようとすると、それすらも遮られた。
「いいか、相方の方はどこの出身かは知らないが、やっていることが見えていない。自分の足元がかろうじで見えている程度だ」

 彼は息がまだ整っていない二人に対して続ける。
「いいか、自分を見るな、相手を見ろ。空気をちゃんと見ろ。それに乗れなければ、ただ適当に即席で踊っているのと変わらんぞ」

 それだけ言って、彼は元の壁際に戻っていってしまった。




「…あー、えーと、まだ一回目だからな。気にしすぎないで、流れだけはしっかりと覚えて次回に繋ごう」

 疲労した二人から出る重苦しい空気を俺は換気することができず、それっぽい事を言って逃げ出してしまった。

 はい、と背後で二人が小さく呟いた声が、酷く痛々しく聞こえた。




 ……ちょっといいですか。


 練習を再開している部屋を後にして、俺は彼を呼び出した。
 防音性は高いが、廊下からも激しい曲が小さく漏れ出ている。


「…言い過ぎじゃないですか? おかしいですよ、まだ一回目なのに」
 この業界にいる時間は遥かに彼のほうが長い。先ほどの口ぶりも、何度も言ってきたかのような声色だった。

「おかしいって? 何がだ?」
 交渉の場で聞いた丁寧な口調は完全に消え、彼の本当の声が聞こえる。
「だって今日が初めての練習で、ダンスも完全に覚えているわけじゃないのに……、少なくとも、そういう言葉はもっと後で言うべきじゃ」

 彼は考えこむまでもなく、即答で、しかも俺の予想外の返事だった。

「確かに、そうかもしれないな」

 今の俺には、考えていることが全く理解できなかった。




「じゃあ、どうして」
 俺は詰め寄る。翠の落ち込んだ顔がすぐに浮かんできたからだ。


 しかし、彼は気にするような素振りもなく、壁に背中をつけた。
「…ゆかりの動きは見ていたか?」
 彼はゆっくりと話しだした言葉を俺は飲み込む。

 彼女の担当は俺ではないのだから、ずっと見ていた訳ではない。
 しかし、素人目にも動きが良いのは明らかで、決して悪いと言い切れる要素は少ない。


 それをありのまま伝えると、彼は鼻で笑った。
 何がおかしいんですかと問えば、腕を組んで、彼は答える。

「本当のゆかりを見ていないからそんなことが言える。…アイツの本当の実力はこんなもんじゃない。もっと激しくて、もっと綺麗で、もっと滑らかに動けるんだ」

 ――だが、今はそうじゃない。何故だか解るか?


 彼の言葉を、限りなく細かく噛み砕いてみる。




「俺が見つけてこれたのが奇跡なくらい、ゆかりは飲み込みも早いし、練習熱心だ」
 ゆかりは、本来はもっと上手く踊れる。

「一番凄いと思ったのは前のコンサートで踊ったジャズダンスだ。長期戦になると思っていたが、他のメンバーに比べてもかなり短い練習日数で完成させていた」
 ジャズダンスとは、バレエの要素を取り入れたダンスの一ジャンルである。
 複数人で踊り、動きの違うダンスをそれぞれ合わせてさながらミュージカルのように踊る面白いダンスだ。

 当然ゆかりはバレエをやってはいなかった。
 なのに他のメンバーより練習日数が少なくて済んだのは何故か。

 練習日数という言葉に引っかかって推測すると、なるほどよく意味がわかった。

「合わせてたんですね」
 俺がそう答えると、一度頷いて彼は言う。

「見えていない所での練習量が半端じゃなかった。決して怯まず、文句を言わず、あっという間に完成に近づけたのを見た時は、経歴を詐称しているんじゃないかとすら思ったぐらいだ」

 ゆかりは、俺が思いよりも遥かに凄い人材だった。


 しかし、と俺は思う。
 そんなにすぐに覚えられて、基礎も翠の上を更に行く彼女が、あの程度…俺が感じている分には中々良い程度のダンスに留まっているのか。



 ……まさか。

 その言葉に、彼は否定をしなかった。




  *


 廊下から戻れば、俺の想像だにしない光景がそこにはあった。


 ゆかりは、翠を指導していた。それも、普段では決して見ることのない厳しい目つきで。

 翠も完全に予想外の事だったのか、困惑しながらも必死で話を聞いていた。

 尋常でない雰囲気を察知した先生もそこに加わって、臨時の反省会のような様相を呈していたのだ。


「ゆかりは、優しい」
 彼は、俺にだけ聞こえるように小さく呟いた。
「そのダンスの時だって、もっと動けるのに、メンバー全体の完成度を考慮して、自らのレベルを落として本番に向かっていった」
 たとえレベルが高かろうと、全体とズレていれば話にならない。そういった意味では、彼女の判断は至極正しい。

「当然、やろうと思えばもっと今も上手く踊れる。だが、水野翠の感情を察して、わざとややぎこちないように見せていたんだ」
 優しいというのは、恐らくゆかりなりの気配りの結果だろう。

 人が皆、自己反省の基客観的な視点を持って実力向上のための最短ルートを辿れる訳ではない。
 圧倒的な差をつけられているのを見た相手が、闘争心を失い離脱していく可能性だって十分にある。

 だが、それは実力主義たるアイドル業界では当然の摂理だ。




 にも関わらず、ゆかりがそれをしなかったのは何故か。


 思うに――女心のわからない、希望的観測でしかないが――ゆかりは翠に対して親近感を抱いていたのかもしれない。

 使える時間を殆ど練習に費やして、指導してくれる人のために努力して、共演者のために気を遣って。
 自身の使えるあらゆる要素を用いてアイドルになるために全力を尽くしている。

 そうして過ごした一年とは限りなく違う、本来の水本ゆかりとして対応できる相手。

 それが水野翠という存在なのではないだろうか。


 この推察を基に二人の姿を眺めていると、ぼんやりと何かが見えてくる。

 彼の話を聞く限り練習の鬼であるゆかりと、必死に学び、ライバルに追いつこうとする翠。


 二人は、とても似ていた。




 はっきり言って、それが真実かどうかはわからないし、彼女の気持ちを正しく読み取ることは国語の問題でもない限り不可能である。

 しかし、彼の先ほどの言葉により豹変したゆかりの態度から察するに、ああいった側面を見せることを怖がったのかもしれない。

 つまり彼はあの言葉の裏で、こう言ったのだ。


 遠慮はいらない、本気でやれ、と。




 もしも予想があたっているのであれば、俺はとても嘆息する羽目になる。


 何故なら結局ゆかりは翠を信頼していなかったからだ。


 ほんの少し前に起きた、ただの偶然でしかない出会い。

 そんな短時間で大したきっかけでもない出会いでも、翠はゆかりを信頼していた。
 言われなくても、それだけは俺にも解る。

 彼女と話すときの笑顔は、俺への笑顔と正しく同じだからだ。





「でも、お前の担当アイドルには悪いことをしたかもしれないな」
 反省点を踏まえた上で再び曲と共に踊りだす二人の背中を見ていると、ぽつり、彼は呟いた。
 たった一日の間でも、彼女たちの動きのキレは格段に良くなっている。
 まだまだ翠はゆかりについて行っている状態ではあるが、いつか、そのうち必ずシンクロできるはずだ。

「…そうでもないですよ」
 俺は言う。

 彼の言う通り、隠された意味を推察することが出来ていなければ、俺もその言葉に同意し、この立場であろうとなかろうと彼を殴り倒していたかもしれない。


 だが、舐めないで欲しい。

「練習熱心なのは……あなたの担当アイドルだけじゃない」

 水野翠という人間の努力の才能を。



   *



 彼は、終了の時刻を待たずに一人で帰って行ってしまった。

 力を意図的に抑えて練習するゆかりを窘めるために、ここに来たのかもしれない。
 他のアイドルの様子を見に行くという言葉を残した彼の背中には、初めて見た時の威圧感はあまり感じられなかった。



 練習が終わる。彼女たちの反復練習は、時の流れを著しく加速させていたのだ。

 今後のダンスの指導内容を二人に伝達すると、振付師は一礼して練習を終了させると共に去っていった。


 俺は振付師に一礼して見送ると、二人分の水分とタオルを持って近づいた。





「…ごめんなさい、翠ちゃん」
 ゆかりは息絶え絶えのまま、視線をずらして翠に謝った。俺はそうしてできた二人の横顔を遠目で見つめていた。

 彼女の声はとてもじゃないが元気ではなかった。
 無論疲労だからではなく、純粋な謝意だ。

 騙していたからか。それとも先輩として厳しい言葉を浴びせてしまったからか。あるいは両方かもしれない。

 突然のゆかりの謝罪に一瞬だけ困惑したものの、彼女は汗で濡れた手でゆかりの手を取った。

「ゆかりさんは、とても上手なんですね。尊敬します」

 翠が怒るか、最悪捨てぜりふを吐いて去って行くとでも思っていたのだろうか、翠以上にゆかりは驚いた目で彼女を見た。

「あなたのプロデューサーさんが言っていた意味が、踊っているとよくわかりました。多分、私の実力に合わせてくれていたんですね」
「え、あ…」

 上、下、と視線が動く。
 それにも動じず、手をとったまま翠は語る。

「残念ながら、私はゆかりさんのような才能はないのかもしれません。それでも、プロデューサーさんが私を見つけてくれたから、そしてゆかりさんが私のために教えてくれるから、諦めることだけはしません」
 ……私は絶対に上手くなってみせます。

 だから、次も本気で教えて下さい。


 とびきりの笑顔…俺やゆかりに見せていたあの笑顔のまま、ゆかりの手を今度は両手で持って、まっすぐに彼女の瞳を貫いた。




「なんだか、翠ちゃんは他人じゃないような気がしてきました」
 ふふ、と小さく笑う。

「これだけキツく言ってしまっても、前を向いていけるその姿。好きです」
 類似という言葉が彼女たち二人の間を繋ぐ。

 似ているから、きっと分かり合える。
 同一人物ではないので相容れない部分も必ず出てくるが、きっとそれすらも癒合してしまうだろう。

「…ありがとうございます。ゆかりさんにそう言ってもらえて、私、嬉しいです」

 翠にとっては、ある種初めての友達だ。
 その人が、自身にとって最高のパートナーであることを彼女なりに感じ取ったのかもしれない。
「嫌いになったりはしません。ですから、もっと私に教えて頂けませんか?」

 彼女の晴れ晴れとした顔がそれを物語っていた。

「…はい、翠ちゃん」

 尊敬と親近感が混じった表情で互いを見て笑い合っている二人だった。




「お疲れ様、二人とも」
 片手で一つづつ持っていたタオルを二人に手渡した。

「わ。プロデューサーさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です、Pさん」

 お互いの手を話し、力の抜けきった腕で髪をタオルで挟んで拭く二人。
 きらびやかなストレートヘアーも、汗で肌にへばりついているのが運動の激しさをよく表している。

 大体拭き終わるのを見計らって、俺なりに二人に言葉を送る。

「…ゆかり。本当に驚いたよ、俺。まさかこんなにきっちりと踊れるなんて全く思わなかった」
「ありがとうございます。…そして翠ちゃんを傷つけるような真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「お、おい」
 制止する間もなく、頭からタオルを離してゆかりは深く頭を下げたのを見て、酷く狼狽した。
 自己を見失わず、自分のした行動を客観的に考えて話せる15歳がこの世に一体何人いるのか想像したからだ。

 俺がどうしようかとわたわたしていると、ゆかりの隣にいる翠ははっきりとした声で『大丈夫です』と言った。

「何も問題はありませんよ。ゆかりさんが教えてくれるなら、私ももっともっと上にいけそうですから」

 翠は、たった一回の練習を経て、自分の体に自信をあふれんばかりに込めていた。




「時間もたくさんある訳じゃありません。だからこそ、ゆかりさんの力が必要だと思ってます。どうか、今後ともよろしくお願いします」

 翠はゆかりに向かって礼をする。弓道から培ったノイズのない綺麗なお辞儀だ。

「こちらこそよろしくお願いします。絶対に成功させましょうね」

 目標は学園祭での限定ユニットライブ。


 事務所の垣根を超えた、翠の初ライブだ。



  *



 夏休みが空けると、翠のスケジュールは更に多忙になる。

 以前に比べ増え始めた仕事に加え、多大な時間を割くレッスン、そして二学期を迎える学校だ。

 ちなみに夏休みの間に弓道のインターハイが開催され、翠率いる弓道部は残念ながら優勝旗を持ち帰ることはできなかったものの、準決勝まではコマを進めることが出来たのだった。
 俺は両親と共に観戦に行き、終わった後は涙を見せることもなく、後悔なく、憂いなく、やりきった顔で部活の打ち上げに向かっていったのが印象に残っている。

 その光景もテレビ放送され、多くはないが観客席にファンが訪れたのは余談である。



 そして今。

 俺とゆかりのプロデューサーは、もうかれこれ何十回目となるレッスンを普段通り見ていた。




「流石にちょっと疲労が祟ってるな」
 彼は腕を組みながら二人を見てそう言った。休ませるか、と呟いたのだ。

 今までのレッスンだけでも厳しいのに、そこに勉学も加われば翠がバテるのも止むを得ない話だった。

 ゆかりも翠ほどではないが、前回よりも微かに動きが若干鈍い。


 これで無理をして怪我でもすれば最悪の事態になってしまう。
「そうですね、それがいいでしょう」

 彼の言葉に俺は賛同すると、トレーナーも了承し、ひとまず休憩を取ることになった。



「もう基本的な動作は完璧に覚えられただろう。あとのレッスン日程はお前に任せる」
 何故だか、彼は専ら彼女たちに対して俺を介することが多くなった。

 …全部決めろ、ということか。

 まあ、裏の根回しに関しては彼が大部分を受け取ってくれたので、仕事を回してくれたと思えば俺も渋る理由はないのだが。

 ゆかりがきっちりしているのは俺もよく知っている。きっと仕事のスケジュールも彼から教えてもらった通り記憶しているのだろう。

 それを踏まえて、俺を信用して任せてくれたということだ。




「おーい、ちょっといいか、二人とも」
 鏡の傍に置いている持参した荷物の所で座っていた二人の元へ俺は向かう。

「あ、Pさん…。心配させてしまってごめんなさい」
 開口一番、ゆかりは突然謝罪した。

 あまりにもいきなりすぎて困惑したが、すぐに我に返る。

「いや、日程の問題で少し焦りすぎた。ゆかりは悪くないよ。もちろん翠も」
 やはりというか、一年の差は凄まじく感じる。メンタルだけなら翠もそれなりに強くはあるが、体力面では歴然とした違いがある。

「それでだが、二人とも学校生活も始まったから、これからはこうやって集合してのレッスンは少し控えることにする」
「いいんですか? もう本番も近いのに…」

 翠は心配そうな声を上げるが、きっぱりと俺は言ってやる。

「大丈夫だ。俺が見た分には、動き自体はもう十二分に動けている。だからあとは各々の動きの精度を上げながら体調を万全に整える方が良い」

 疲労した状態で本番の日を迎えるほど馬鹿な人間はいない。

 どうせ練習した状態の十をそのまま本番で十発揮できるなんて事はありえないのだから、なるべく本番に十に近い状態で臨む方に持っていくのが賢明だろう。





「スケジュールは…そうだな。基本的に日曜日はここで二人共レッスンで、土曜日は不定期に。それ以外は、個人で疲労を考慮してそれぞれトレーナーにレッスンを見てもらってくれ。くれぐれも勝手に無家な自主練習はしないこと」

 わかりました、と各々が返事をする。
 二人とも、自主練習が行き過ぎる可能性が低くないのだ。そこだけは強く言っておく。

 念のため、総ページの半分がそろそろ埋まろうかという状態の黒いスケジュール帳を開く。
 そこには翠の現在の仕事の入り具合が記入されている。

 ゆかりの学校のこともあるから、平日に時間を決めて集まるのは難しい。
 だから日曜日は集まってタイミングの調整を、残りは個人で調整させることを選んだのである。

「不安になるかもしれないが、二人の上達具合は俺が保証する。今までのレッスンをちゃんとこなせてきたんだ、本番までこれぐらいのペースでも問題ないさ。…これでいいか?」
「はい!」

 俺の言葉に納得してくれたかどうかは不明だが、二人は元気に声を上げてくれる。


 その後二人に体の状態をトレーナーにチェックさせてから、先程より軽めのレッスンが再開した。




  *




「翠ちゃん、楽しそうですね」

 午前の営業を終え、事務所で買ったばかりのコンビニの弁当を食べていると、隣のちひろさんはそう言った。


 本番前のニ週間を調整期間と定めて、流れの確認と体調の管理をさせている今、翠やゆかりは並行して学園祭の準備に取り組んでいることだろう。

 よく顔を合わせる翠や、週末しか顔を合わすことのないゆかりとも、そういったプライベートの話をよく聞いている。

 ゆかりからはメールがたまに来る程度だが、翠は実際に仕事やレッスンで会うので、仕事帰りの移動中や休憩中などで楽しそうに話してくれていた。

「高校最後、ですからね。ああ、俺もあんな感じだったらなあ」
 割り箸に付いたご飯粒を食べる。

 俺の高校時代は、あそこまで楽しそうにはやっていなかった気がする。
 そういう意味では彼女の一挙一動がとても羨ましく感じた。





「…プロデューサーさん。翠ちゃんのこと、よく見てあげてくださいね」
 お互いの学生時代を話のネタにしていた後、ちひろさんは突然静かに言った。

「見ていますよ。担当一人だけですし」
 はは、と笑ったが、それは反響しなかった。

「そういう意味じゃないんですけどね……。まあいいです。ともかく、買い被りすぎることだけは気をつけて下さい」

 買い被るも何も、翠は仕事に対しても真面目で練習熱心で、何でもやり通せる素晴らしい人間なのは事実だろう。
 例え高みに居る人間が隣にいても決して折れない強さがある。

 俺の役目は、そんな彼女の心を後ろから支えてやることだ。

「大丈夫ですよ。しっかりとコミュニケーションは取っているつもりですから――あ、そろそろ次の約束の時間か」

 休憩は一時間きっちり取られている。しかし営業先の方との打ち合わせの約束が少し早めに設けられているので、俺はさっさと空箱をゴミ箱に捨てる。

「じゃあ行ってきます、よろしくお願いします!」

 まだ冷めやらぬ太陽光の下を駆け抜けるため元気よく挨拶をして、事務所を後にした。




   *




「今度学園祭で特別ライブを行います、よろしくお願いします」
 たとえいつもの制服に身を包んでいようとも、今の姿はアイドルだ。


 商店街。

 翠の起点となった縁深い場所で、翠と俺は学園祭の広報を行なっていた。
 学校に掛けあってチラシの作成を許可してもらい、日時と主な模擬店やイベントを記載したカタログ紙を商店街で配っているのだった。

 二つの駅の通り道となっているおかげで、チラシは飛ぶように人の手に渡っていく。

 流石アイドルという訳か、少しだけ間を空けて配る俺よりも遥かにチラシがなくなるスピードが早い。

「…まあ、不審なスーツ姿の男とアイドルじゃな」
 心の中で乾いた笑いをあげつつも、配布を継続した。






「…あ、もうないのでしょうか」
 ものの数十分も経てば、シャッターの傍に置いたダンボールの中にあったチラシが全て消失していた。

 元より、今回の配布では翠の友人にも広報担当として共に列をなして配布をしているため、なくなるのも時間の問題だったということか。


「翠ー、まだチラシ余ってるー?」
 とたとた、と離れた所から女子生徒が駆けて来る。
 ショートボブの似合う小さな女の子だ。
 仲の良い友人では、彼女のように比較的大人しめの子が多いようだった。

「いえ、もう完売です。たくさん来てくれそうですね」
 声に気付き振り向いた翠はそう答える。
 その顔もどこか嬉しそうだ。

 彼女の元気な声を聞いて、他に配布を担当していた友人らも全員集まる。
 翠を含め、合計五人だ。

 全部配りきった事を翠が改めて伝えると、各々が嬉々として喜びを伝えあう。


「流石アイドル様だね! 友人として鼻が高い!」
「あはは、あんたは何も関係ないのに!」

 そんな声が、翠を一層嬉しくさせた。





 談笑している間に、俺は事前に買っておいたペットボトルの入った袋を皆に見せる。

「みんなもありがとう。学校に戻る前に、俺からジュースのプレゼントだ。好きなのを選んでくれ」
「おー、流石マネージャー! 気が利くね!」
「マネージャーじゃないんだけどなあ…」
 一番元気の良い子が強烈な笑顔を俺に飛ばした。
 その子が袋を覗き込めば、他の友人らも順々に集まる。

 人数も多くはないので、あっというまに袋は空になり、皆が感謝の言葉を口々にして飲み始めた。
「目上の立場の人ですよ、もう…」
「いいんだよ、翠以外からすればただのおっさんだしな」
 全く、と呆れた様子の翠ではあったが、俺は別段気にすることでもなかった。
 年頃の女子高生からすれば、俺みたいな人間には大体こんな感じの対応だろう。

「プロデューサーさんはまだまだ若いですよ。おじさんだなんて言わないで下さい」
「はは、ありがとう」
 まだ三十路にすら言ってないのだが、ここで働いているとどうにも年齢があやふやになってしまう。

 皆は俺と別れ、翠も交えて談笑しながら学校への帰路につくことになった。

 当たり前だが俺は入校できるはずもなく…いや、そもそもするつもりもないが、予定通り商工会の方へ挨拶に向かうことにしたのだった。





  *



「どうですか、翠は」
 相変わらずエアコンの効いた心地良い商工会事務所で、俺は会長に訊ねる。
 少しだけ小太りだが、若いころはぶいぶい言わせていたんだとでもいいそうな会長は、和やかに笑ってみせた。

「いい方向に行ってくれてますな。聞いて回った分だと、売上が伸びた店舗も多いみたいで……いやあ、本当に頼んでよかったと思うとります」

 その表情からは一遍の曇りもなさそうだ。

「何よりです。もし以前と変わらないようであれば私も申し訳なく感じるところでしたので」
 実のところ、これは正直な気持ちである。

 せっかく信用し、共生を目指したのに片方だけ利益を得るようであれば今後使ってもらえなくなる。

 翠がアイドルを初めてまだ半年も経っていないが、東京でも小さな仕事だが少しづつ増えるようになっているのも、ここでの経験があってこそだ。
 そして、現在住まいにしているのは実家だから、近場で仕事ができるのもメリットである。




「…あ、翠のサイン、丁寧に飾って頂いているんですね」
 こちらから僅かに見える色紙は、色紙立てに置き、何やら説明書きの紙も用意してさながら展示しているようだ。

「そりゃ、我が商店街公式スポンサーになっているアイドルの色紙ですから、参拝させて頂いておりますよ」
 …それは如何なものか。

 ともかく、本当に大事に扱ってもらえているということが判って俺は安堵した。


 そこで、俺は最近取った仕事の内容を思い出す。
「そうでした。実はですね、今度週刊誌の特集ではありますが翠がグラビア撮影することになりまして」
 会長の鼻の穴が少し大きくなったのは見なかったことにしておこう。


「いわゆる過激なものはありませんが、一日の私というテーマで制服と私服両方の写真を撮るそうです。もしかするとこちらの商店街を背景に選ぶかもしれませんがよろしいでしょうか?」
「もちろん、もちろんいいですよ」

 どうして二回言ったのかは不明だが、その返事はさしずめ快諾と評して問題ないだろう。





 その後も少し雑談を交えてから、俺達はソファから立ち上がる。

「本日は場所を貸して頂きありがとうございました。今後とも良いお付き合いができますことを願っています」
 軽く礼をして、握手を交わす。

 彼及びこの商店街の人たちとは、既にビジネスライクな関係を超越して若干親戚的な関係性を築いていた。

 翠に対して店舗の従業員が気付くのはもちろん、俺にすらも声を掛けてくれる人がいるくらいだ。
 本来プロデューサーがなるべき立場ではないような事も考えはするが、根本的に人間として嬉しくないはずがない。


 お互い笑顔を見せて、俺は商工会を後にする。


 今日は翠が学校から帰ってトレーナーとレッスン。

 俺は明日の東京の打ち合わせのために、今から東京へ帰るのだった。




  *



「おはようございます、プロデューサーさん。早いですね」

 暦の上では秋といってもまだまだ残暑は色濃く残り、少し多めに動けば皮膚の上には汗がひたひたと零れ落ちる9月。


 既に二学期が始まって一ヶ月が経とうとした今、翠の通う高校は学園祭を迎えていた。
 残念ながら仕事としての学園祭は二日目であるため、俺は一日目に高校へ行かず、東京で色々冬にかけての営業を行なっていた。


 早朝。

 本来であれば本校の生徒側は普段より早めの程度に登校し、模擬店などの下準備を済ませる一方、俺達は誰よりも早く学校の正門の前に到着していた。


 まだ鳥が鳴く小さな声と川のせせらぎ以外に何も聞こえない静かな場所で、俺が腕時計を見ながら今日の流れを暗唱していると、翠が姿を表した。





「約束よりも早い…いや、お互い様だな」
 緊張してな、と俺が笑いながら言うと、翠も苦笑して同意した。

「じゃあ翠は先に体育館に行って体を慣らしておいてくれ。多分そろそろ機材が来るから、それから俺も行くよ」

 学校側及びゆかりのプロデューサーと協議した結果、演奏は生で行う事になった。

 実績が少ないバンドマンを使うことで、比較的安価で間に合わせられたのだ。
 とはいっても、向こうの事務所では一度雇ったことのある人達なので、そこに不安はない。

 一応曲の製作者である軽音楽部に演奏をお願いするプランもあったが、リスクを含め様々な理由で断念することとなった。

 新人がやるライブとしては舞台の客層や集客人数は相応だが、最初からバンドマンを使うのは当然ながら豪華である。





「――と、来たか」

 翠と別れて十数分後。

 視線の先、川沿いを走る車が数台こちらに向かってくる。

 この時間にここを目的もなく通る車など皆無だろう、俺は手を振ると車は接近を続け、校門横のフェンスに停車した。



  *


「では打ち合わせ通り、設置お願いします」
 軽い返事と共に、バンドマンたちは舞台の上で楽器を組み立て始めた。

 舞台に運ぶまでは俺も手伝ったが、如何せんそれ以上のことは何もわからないので丸投げしてある。
 その方が相手にとってもやりやすいだろう、俺は彼らに設置を任せ、体育館の扉から外を眺める翠に近づいてそっと肩を叩いた。


「調子はどうだ?」

 一瞬驚いたものの、振り返って叩いたのが俺だとわかると安堵した表情を見せる。

「可もなく不可もなく――いえ、万全と言うべきでしょうか」
「無理するなよ」
 巫山戯て笑ってやる。緊張してないだなんて事はありえないのだから。


「あと数時間経ったらお前とゆかりはあそこで歌うんだぞ。初めてのライブが学校だなんて、運が良かったのかもな」

 その点に関しては、提案してくれたゆかりに感謝する他無い。普通の人間であれば気付いて当然な事なのだから、見落としていた俺の恥は尽きそうにない。

「…こうして、皆の前で歌うことができるのもプロデューサーさんのおかげです。期待に応えるためにも、絶対に成功させてみせます」

 にこりと口角を釣り上げる可憐な表情を俺に向ける。

 普段落ち着いているせいか実年齢以上に思わせてしまいがちな翠だが、時折見せるこの笑顔はとても彼女を歳相応に見せた。





 ――無機質な着信音がポケットから流れる。

 液晶画面に映ったのはゆかりのプロデューサーから送られたメールだった。

 内容には、近くの駅からタクシーで来ている事、後もう少しで着くこと、着いてからの行動の確認が書かれてあった。
 全く以て準備やスケジュール管理に余念が無いな、と文面を見て感心する。

 ひとしきり読んで頭に叩きこむと携帯を閉じ、視線を再び翠に向ける。

「あと少ししたらゆかり達がこっちに到着するらしい。着いてゆかりが休憩をとったら、二人で動作を確認しつつリハをするからよろしく頼むぞ」
「はい!」

 元気よく答える翠に一安心しつつ、舞台上の準備の進捗状況を確認して、俺は体育館を後にしたのだった。





  *



 閉めきった体育館の中に、いくつかの音楽がしきりに流れている。

 他の生徒に聞こえないよう配慮したこの空間で、二人は目線を合わせながらステップを踏んでいた。


 専ら楽器には門外漢なのでよくは知らないが、まず各々の担当が音を調整してから、進行内容に沿って演奏を開始した。

 予めバンドマンと翠とゆかりの二人を対面させ、進行について打ち合わせは行っている。紙面にて渡しているので、予想以上にスムーズにリハは進んでいく。


「さっきの所、ちょっとワンテンポだけズレてるな」
 舞台の正面から間近で二人を見ると、僅かではあるがミスが見つかる。

 すると俺は演奏の区切りの所で中断させて逐一指摘し、間違えた箇所の少し前から再開させる。

 やはりレッスン室とこうしたいつもと違う風景の中で踊るのとでは感覚も違う。人同士の距離が離れているためか、反響した音に惑わされて翠のステップがややズレていた。

 練習で起きなかったミスが本番で起きないように、今の内に俺とゆかりのプロデューサーが全力で彼女たちをサポートしてやる。





 念入りに確認しつつ、本人たちの体力を考慮した上でそろそろ休憩をしようか、と腕時計を見ると、既に他の生徒が学校に来始める頃合になっていた。

 実際に体育館の扉を開けて外に出てみると、遠目からでも様々な生徒の姿が確認できる。


 ゆかりのプロデューサーに了承を得てから、もう俺ですら聞き慣れた曲をキリの良い所で止めさせて舞台にいる皆を集め、開始時刻までの注意事項を連絡する。

 学園祭二日目が始まるのは午前9時。そして二人のライブが開催されるのは10時半である。
 まだ9時にもなっていないが、翠にとってはクラスの方の準備があるので、決して余裕がある訳ではない。

 ライブが始まるまであと2時間程度。

 翠の背中を見送った後、暫くの間休憩を取ることにした。




「Pさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。本番はまだだけどな」

 先ほど担当である彼と何か話し合いをしてから、ゆかりは俺の下に来た。
 それは挨拶としては至極正しいが、内容はもう少し後で言うべき言葉である。


「普通なら翠一人でやるべきライブなんだけど……。わざわざ来てくれてありがとう、ゆかり。本当に助かった」
 東京からこちらまで来るのには近畿地方や中国地方へよりはいくらかマシだが、それでも遠いことは遠い。
 一応彼女たちの事を考え遅めに指定はしたが、それでも少し無理をさせてしまったことには間違いない。

「いいえ。私が言い出したことですし、翠ちゃんとこうしてライブができるのは楽しみに感じてますから」
 翠に似た丁寧な言葉づかいでゆかりは小さく笑う。
 その表情に偽りや曇りはない。


 彼女の小さな体には、どれほどの経験があるのだろう。
 有能なプロデューサーの手中でどれほど練習に明け暮れ、試練に立ち向かってきたのだろう。

 翠よりも年下であるのに、たった一年の差を実感させられるぐらい、彼女の落ち着きっぷりは際立っていた。






「俺が言うのもおかしな話かもしれない…けど頼みたい。もし本番中に翠がトラブったら、助けてやって欲しい」

 親ではない俺が言って納得できる話ではないのは事実だが、たった数ヶ月一緒に仕事をしてきただけで親心が湧いてきたもの事実である。

「もちろんですよ。今日は翠ちゃんの学友のために設けたライブです。私も、精一杯役に務めたいと思います」
 見方を変えれば、ゆかりが持つ翠への感情を利用したも同然である。

 心苦しくないはずはないが、それでも俺はゆかりの善意に頼るしか術が残されていのだ。

 優しい雰囲気が印象に残る彼女の微笑み。

 その彼女の笑顔が曇ることが無いように。そう俺は心の中で強く祈った。





  *



 踊る、踊る。

 壇上で、二人の少女が軽快に踊る。


 つま先は四方八方に向き、体は縦横無尽に舞台を駆け巡る。

 髪は揺れ、韻が踏まれ、足取りがビートを刻む。


 その音を聞いている皆の心臓の鼓動が、早く早く、次へ次へと聞き急いでいた。




 それは舞台袖で彼女達の横顔を見る俺も同様だった。






 甲高い音を挙げるエレキギターと共に、観客の動きが良くなる。とりわけ生徒達にはこの激しいリズムがお気に入りのようだった。

 踊っているのは一人ではない。一人だと感じることの出来ないコンビネーション・ダンスがステージを横切るように披露されると、より雰囲気は盛り上がった。

 普段の落ち着きが剥がれ落ちたかのようなキレのある動きに彼女を知る友人たちはきっと驚いただろう。

 ここに見えるのは、アイドルとしての水野翠だということを、知らしめてやれ。



 体育館に鳴り響く音に潰されることなく笑顔を見せる翠を見て、俺はそう呟いた。




  *



 翠は舞台側の暗幕から観客席を覗くと、大層驚いた表情を見せた。


 友人、先生、後輩やまだ知らない下級生、私服の色々な年代の人々、そして数台のカメラがまだ真新しい木の床を占有していたのだ。
 少し早いが雑談の声が歓声の予感を感じさせた。

 全校生徒全員が入っても余裕のあるこの体育館が人で程よく埋まるのは予想外だったのだろう。
 それは本人にとって新人であるという自負のせいでもあったのかもしれない。


 しかし、世間は予想以上に翠を見てくれていた。

 担当しているが故の贔屓もあるが、それでも確実に『流れ』が彼女に来ていると俺は確信している。


 このライブをきっかけに、来年、再来年も更に活躍できるはずだ。翠なら。





「……翠」
 刻々とライブ開始の時間が近づく最中、パイプ椅子に座る翠の肩は僅かに震えていた。


 刹那、俺は安心したように感じた。

 そっと近づくと、小さな肩に手を置いて、言う。
「練習は嘘を吐かない。翠が本気で取り組んでいたなら体は勝手に動いてくれるさ。だから……一生で一度しかないこの初めて体験を胸に刻め」

 思い出としていつでも思い出せるように。

 見繕う試みはなく、ただ本心で翠に伝える。



 この時、俺はどういう風にいうのが正解か解らずに居た。

 何故ならば、こういった場合への対処として、三者三様の答えがあるからだ。
 例えば感情を普遍化するか、不安を払拭するために鼓舞するか、あるいは脅しを掛けてやるか、である。


「――はい」
 周りの雑音がシャットアウトされ、彼女の返事だけが俺の耳に入る。


 彼女は俯いていて、表情は見えない。

 だが、そこに細切れそうな声はなかった。





「皆さん本日のライブを見に来てくれてありがとうございます! 今日は特別ゲストとして、皆さんご存知の水本ゆかりさんが来てくれていますー!」
 その言葉に、観客は歓声を上げた。

 一曲目が終わって場が暖まった後、マイクスタンドからマイクを抜いて、翠は観客席に向かって自己紹介をする。

「ご紹介頂きました水本ゆかりです。今日はお招き頂きありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうか最後までよろしくお願いしますね」
 ダンス後のトークなので若干声が上ずって喋り急ぎ過ぎる傾向がありがちだが、彼女たちは踏ん張っていつも通りの落ち着いた口調を続けていた。

 この場合はむしろ雰囲気に任せて勢いあるトークをしたほうがいいのかもしれないが、これも彼女達らしいか。


 是非はこのライブの反省会でやるとして、俺は二人の関係を紹介する彼女達を眺めた。




 数分もすると、進行役も兼ねている翠はバンドマン達に合図をする。

 すると、ずっと練習していたもう一つの曲、学校の仲間が作った曲の伴奏が流れ始めた。
 イントロを聞いて、一部の観客がざわつく。
「この曲は軽音楽部の方に頂いた曲です。……お礼は、私たちの声でお返しします!」

 彼女の声と共に、一気に曲が加速する。

 これも打ち合わせ通りで、翠が高らかに叫んだ後、ギター担当には少し調子を上げてもらう様にしてもらったのだ。

 鳴り響くサウンドに負けじと観客が声を上げる。身内である翠はともかく、普段テレビでみる水本ゆかりが自分の高校の身内が作った歌を歌ってくれるのは最高に違いない。

 ステージは既に暗く、体育館の二階部から照射されるスポットライトに映された二人だけがステージに視界に浮かび上がる。

 大きなステージではないので豪華なレーザー装置こそはないものの、予算内で出来る限りの装飾は行っている。


 たったそれだけの舞台でも、二人を含め、その場に居る皆が盛り上がってくれていた。





 曲は流れ、旋律が彼女達の口からリリックへと姿を変えて空間を揺らす。

 一つ一つの音、一つ一つの声がこのステージを支配する。


 残念な話だが、翠一人の声ではきっと曲に埋もれていただろう。
 ゆかりの繊細ながらも芯のある声が翠の声を補強してくれていたのだ。

 尤も、それは恣意のある話ではない。

 たまたま二人の声色が重なりあってそういう効果を表しただけなのだ。
 それだけ、彼女達の相性が良いのだろう。


 俺は強く照らされた翠をただ眺めていた。


 アイドルが輝く瞬間は、俺みたいな人間は離れた所でじっと見ているしかない。


 だから一観客として、この感動を、この反応を伝えたいと思う。


 真剣な面持ちで――それでいて本当に楽しそうな横顔を見ながら、俺はこの光景を目に焼き付けていた。




  *



 ざわざわとした喧騒が、広い運動場に立ち込めている。

 簡素な骨組みで作られた屋台が、あちらこちらに列を作っているのである。

 ある生徒はクラスで作ったTシャツを、ある生徒は持参したエプロンをそれぞれ自由に着用しては色とりどりの看板や声で客を誘っている。


 文化祭二日目。
 賑やかな人混みが学校中に形成されているのは、近所の住民や小中学校の子供も数多く訪れているからである。

 毎年この高校の文化祭は自由解放日があり尚且つ出店が多いこともあって人気があるとのことだが、今年に限って言えばチラシを大々的に配ったので一見の人も多数来てくれているようだった。

 学校関係者にとっては、色々な人に来てもらえて嬉しい反面運営が更に多忙になり、いつも以上に困っていることだろう。


 そんなちょっとしたお祭りの中、俺と翠――無事ライブを終えた俺達は、歩幅と共にゆっくりと移り変わる景色を楽しんでいた。




  *



 翠の友人と思しき女性の歓声。体育館の空気を揺らす拍手。


 ライブが終わった瞬間、俺が耳にした音は予想する限り最高の物だった。

 心の中で微かな悪寒は感じていた。
 失敗。嘆息。罵声。アイドルが現実に引きずり出されるような、そんな光景。


 しかし、今回に限っては杞憂に終ってくれた。


 暖かい視線と雰囲気が、彼女達を祝福してくれたのだった。


 立ちっぱなしで聞いていた俺は、へたりと重力のままパイプ椅子に座り込むと、多大なる安堵が肺を満たした。




 ステージの袖に帰ってくると、翠はまずゆかりとハイタッチをし、次に共に音を奏でたバンドマン達とも笑顔でハイタッチを交わした。

 緊張の糸が解けて安心した、という表情ではない。ただやりきった故の充実感が彼女を笑顔にさせていた。


 最後に翠は俺を視界に捉えると、小走りで近づいてくる。


 お疲れ様、よくやった。どんな言葉を掛けてやろうか、いやまずはハイタッチかな、と思案していた刹那だった。


「プロデューサーさん!」
 胸に熱い空気と鈍い衝撃が走ったと同時に、良い香りが鼻腔を刺激する。


 なんと、翠は俺の胸元に飛び込んできたのだ。



「み、翠!?」
「やりましたよ! 私、ちゃんと出来ました!」

 俺の言葉を無視して、手を俺の胸元に当てて支えるように上目遣いで嬉しそうに報告をする翠。

 それは、普段の姿とは全く違って酷く幼く見えてしまう。

 ――いや、それもライブの影響なのだろう。
 自身の形作った性格や体裁も全て有耶無耶にしてしまうほど、ライブ…それも初めてのライブは不安と恐怖と重圧が彼女にのしかかっていたのだ。

「ちゃんとプロデューサーさんの期待に応えられました! これなら…私はプロデューサーさんの担当アイドルだって言えます!」
 ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、じゃれつくように胸元で笑う翠。


 はて、彼女は本当に翠なのだろうか、と俺は場違いにも考えてしまった。




「よくやった。大変だったけど、誰が見ても成功だろうな。おめでとう!」
 瞬間我に返ると、俺は思いつく言葉で翠を褒める。

 内心では色々なものに押し潰されそうになったのだ、多少ハイテンションで行動がいつもと違ってようと問題なかろう。

 ありがとうございます、と元気の良い声で返事をした翠の肩を持つと、俺は少しだけ距離を離す。



 天に掲げた俺の手に翠の手が重なると、パン、と舞台袖に乾いた音が鳴った。




  *



「――はい、クレープとジュースな」
 校舎の壁際に置かれたベンチに俺達は座り、喧騒を遠くから眺めることにした。

 昔商店街で食べたパフェからもわかるとおり、翠も女子高生らしくデザートに目がなかった。
 クレープ屋台を見つけた時の目の変わり様と言ったら、とても微笑ましく思う。

 ライブ後でまたこれだけ歩けば疲れるだろう、ということで、偶然視界の奥に見かけたベンチで休憩することにしたのだ。


「わあ、美味しそう……!」
 先にベンチに行かせていたので、実物の温かいクレープを手に持った翠は子供のようにクリームを爛々と見た。


 ジュースを脇に置いて、俺も座る。


 さっきまで耳を覆っていた騒々しさが遠くなると、まるでそれが強い過去の回想のように思えた。





「改めてお疲れ様。あんなに良いパフォーマンスだったのは、俺も驚きだったよ」

 ライブ終了後、次に使う部活のために片付けを行うと共に、この後また東京で仕事があるらしいゆかりとそのプロデューサーには最大限の礼をして別れる事となった。

 出来るならこの文化祭を少しでも楽しんでいって貰いたかったが、こういった移動の多いスケジュールも彼らに取っては比較的よくあることで、大変だなと思う一方羨ましくも思えた。

 クレープを両手で大事そうに持っている隣の翠は、少し前の出来事を思い出すように秋空を仰ぐ。

「ゆかりさんが隣にいてくれて、とても心強かったです。…プロデューサーさんも、見てくれているとわかってたから、頑張れたんだと思います」
「プロデューサー冥利に尽きるな」

 未だ熱気冷めやらぬといったところか、上気した頬をした翠は俺を見て小さく笑った。




「…私、今の時間が夢みたいに感じてます」
 クレープを食べ終えてから、ペットボトルのジュースを飲みつつ今日のライブの反省会を兼ねた、半分プライベートの時間。

 ライブの衣装は既に着替えていつもの制服姿に身を包んだ翠は、スカートの上にペットボトルを置いて俺を見る。

「夢じゃないぞ。翠の初めてのライブは成功したんだ」
 初めて担当したアイドルがこうして無事にステップを進める事ができて、俺もプロデューサーとして鼻が高い。

「……いえ。そうじゃないんです」
 この調子だ、と意気揚々と翠を褒めてやると――予想外なことに、彼女は首を横に降った。

「勿論、ライブだって見てくれた皆さんに喜んでもらえましたし、ゆかりさんとも一緒に歌えたのは楽しかったですけど……ええと、その」
 太ももに挟まれたスカートがすりすりと音をたてた。

 言い難いのか、歯切りが悪い様子の彼女であったが、未だに含意が掴み取れない俺としてはもどかしい気分である。




 翠は先程、『今』が夢みたいだ、と言っていた。
 ライブのことかと問えば、違うと答えた。

 そこから導き出される答えといえば……俺は思いつく。

 しかし、仕事上の関係なのだから、こんな一歩間違えればセクハラになりかねない事を言ってよいものかと悩んだが、今の比較的親しい状態であれば戯言で済むか、と結論付けた。

「ああ、なるほど……、俺とこうして学園祭を歩くのが夢だったのか」

 我ながら思春期の男子と相違ない妄想を口に出したと思う。



「……あ、そ、そうです」

 しかし、馬鹿げた発言は馬鹿げた展開を生んだ。




「……へ?」

 今更だが、俺は少し前の出来事が脳裏に浮かんだ。

 ライブが無事終わったら、何かご褒美をやろう、というような話だったと思う。

 その時、彼女は高いプレゼントでもなければ長期休暇でもない、俺と学園祭を歩くことを選択した。

 当時の自分はそれを変な事を言うな、という感想だけで結論づけてしまったが、今再びその推測が再燃する。

 まかり間違っても、よもや今時の女子高校生がこんな大卒無職にリーチがかかっていた俺に好意を抱くことはあるまい。翠のような賢明な人間であれば尚更だ。

 ならば、何故彼女はそう感じたのか。


 翠の口から出た続きの言葉は、俺の想像を遥かに超える――いや、遥かに下回る程の純朴なものだった。





「実は、その、今までこうして男性と一緒に出かけたり、いっぱいお話をしたりしたことが無くて……。それで、ちょっと憧れてたんです」

 心の中の口が、無力になる。

「友人たちがそんな…仲のいい男子の友達と遊びに行ったとか、彼氏とデートしたとかいう話を楽しそうにしてたので……私も」
 そう言って酷く顔を紅潮させると、翠は口をしぼませ俯く。

 ああ……そういう事か。
 酷く重く考えていた俺の脳みそが華麗に弾き飛ばされるイメージが容易く想像される。

「あ、い、いえ! 私はもうアイドルですから、そういった話題に顔を出してはいけないのは承知していますが、その、なんといいますか……」

 一瞬だけこちらを向いて誤解を解くように手を振るが、再び視線を外して翠はペットボトルを触って遊び始めていた。


 有り体に言えば、翠も人並みにこうした行動が取ってみたかった、という事だった。

 当然といえば当然である。人間として生まれてきたのであれば、情緒を持って悩みや興奮と付き合って異性と通じあってみたいと皆考えていると言っても過言ではない。

 問題は、彼女に今まで…アイドルになった日以前にそんな経験が無かった、ということである。


お、来てたか




 無論、ないにこしたことはない。

 火種を抱えていれば、例えアイドルになる前の出来事であってもそれが取り沙汰され騒ぎになるタレントは後を絶たない。
 それだけ芸能人に対する異性問題というものは過敏なのだ。

 そういう意味では、翠がある種箱入り娘であることは個人的にも喜ばしいが……かといって、全く無い状態では今後問題行動を起こしかねないという懸念もあるのである。


 正直に言えば、よくそんな経験もないままここまで生きてこれたな、という驚きがあった。

 ……しかし、それを恥ずかしそうに言う彼女が、たまらなく可愛いのだ。


 どうしたものか、と一周だけ逡巡した後、俺はおもむろに立ち上がる。

「…じゃあ、今日はたくさん楽しもうか」

 意味がわかれば、行動に移さない訳にはいかない。






「今日の時間も多くはないからな。日が暮れる前に全部回ろう」

 結局、知らないが故の好奇心だったのだ。

 そうした経験を得る相手が俺みたいな相手であることが残念でならないだろうが、俺もアイドルとしての彼女を導くプロデューサーだ、どんな悩みであれ、己の手で解決できるのであれば喜んで差し出そうではないか。

 俺とて経験豊富の立場ではないが、いくつか場は踏んでいる。

 突然立ち上がって宣言した俺に困惑して未だ座って俺を見上げている翠の手を取り、少しだけ引いてやる。
「ひゃ――」
 すると、翠もするりとベンチ前に躍り出る。

「ほら。高校最後の学園祭だ、のんびりしてると出遅れるぞ!」

 何だか翠やこの高校の生徒達の若気にあてられたか、俺も心がアグレッシブになっているような気がする。

 いや、俺も年齢でいえばまだまだ若造なのだが――過ぎ去ってしまった昔の俺を回顧しながら、驚きから目が覚めてにこりと笑った彼女と共に学園祭を再び回り始めたのだった。




  *



「はー……、足が疲れてしまいましたね」

 グラウンドには模擬店の他、大きなスペースを用いたクイズ大会やゲームコーナー、参加型のアトラクションがあり、また校内にはクラスごとの催しであったり、文化部の作品を展示したり、あるいは喫茶店を営むクラスもあったりと、学校内の敷地を余すところなく使用していて、全部回るのに大変苦労した。

 しかし、本当にたくさんの人数が関わって出来上がるこの学園祭という行事はやはり素晴らしいものだった。

 そんな開かれた殆どの出店に足を運んで、翠の顔を見てライブを見た旨を伝えられて応援してくれる人とも数多く出会い、半ばファンとの交流会も兼ねつつ過ごしていれば、ただでさえ早く感じる時間は瞬時に加速していっていた。


 見られる所を全て回り終えて、日が落ち始めていると言った頃、翠はとある教室に入るとそのまま窓際の席に座った。
 黒板から近い、前から二番目の席だ。

 俺は彼女に誘われるがままに、隣の席に座ることにする。

 学園祭の終了時刻も近づき、客も帰って、今は殆どの出店も片付けを開始している時刻だ。


 ここは学園祭では使われなかった教室のようで、俺達以外の人間がいない中、普段の教室の風景をありのまま映し出していた。





「ここ、プロデューサーさんに見て欲しかったんです」
 この席がか、と訊くと、こくりと頷く。

「実はここ、私の席なんですよ。学園祭ではグラウンドを使ったので、私のクラスは教室は使わなかったんです」

 翠はガラス越しに外を見る。赤らんだ空が頬を彩っていた。

「私がアイドルとして通用するかどうか、…正直に言えば、今でもわからないでいます。ですが、プロデューサーさんと一緒にいると、わけもなく上手く行くような気がして。…おかしいでしょうか」

 彼女は首を回してこちらを振り向く。
 俺はこの時どんな顔をしていたか、自分でもわからなかった。

「誘った手前、どうやってでも成功させてみせるさ。……でも、君をアイドルにすると言ってしまった事。それは今更だけど、悪いと思ってる」
「え?」
 意図していなかった返事だったか、翠は困惑する表情を見せた。

「今日の話だよ。もし翠をアイドルにしていなければ、もしかしたら翠の好きな男と今日みたいなデートが出来たかもしれない。そうでなくても、高校生活最後の年の青春を仕事で潰させたのは俺が原因だからな」

 ふと考える。
 特別な人間にとって、ありふれた人間の思いというのはどうなのだろうか、と。

 世間一般的な考えとして、翠のような特別な立場の人間のことを皆羨ましく思う反面、彼女は通常送れるはずの学校生活を確実に犠牲にしている。

 今日俺に恥ずかしながら語ってくれた心中を、俺が居なければもっとまともに叶える事が出来たのではないかと思うのだ。




 ほんの少しの間、俺の言葉を咀嚼してから、突如彼女はとんでもないことを口に出す。

「…ちょっと怒ってもいいですか?」
「え、いきなりどうしたんだ!?」

 本当に脈略もない事を言われて俺は思わずたじろぐ。

 何事かと訊けば、彼女はゆっくりと話し始めた。

「今日は、本当に楽しかったです。いつもは仕事の上でしかお話出来ませんでしたが、今日はプライベート気分で話が出来て…プロデューサーさんの事を一杯知ることができて、嬉しかったんです」

 ライブ後の時間は、俺もプロデューサーであることを忘れて楽しめていた。
 担当アイドルといえど、こうしてプライベートな事を友達のように話せたのはかなり久しぶりだったからだ。

 仕事上の話からは少し離れて、昔の頃の思い出、楽しかったこと、好きなもの、嫌いなもの、恥ずかしかったこと、面白かったこと。
 お互いが知り得なかった沢山の出来事や感情を伝え合うことが出来た時間が何よりも楽しく感じていた。

「私を見せて、その上で判断してもらって。それでまた今日もたくさん話して、私のことをもっと知ってくれたと思ったのに…そんな事を言われるなんて、正直心外です」


 ――あ、と俺の声が不意に漏れた。





「私はアイドルになった事を後悔していません。そして、プロデューサーさんに見つけた貰った事を本当に感謝しているんです。なのに、今更謝れても…」


 ああ、そういう事だったのか。


 彼女のことをアイドル扱いしていなかったのは、他ならず俺だったのだ。

 翠はアイドルになることを決めて、普通の生活は出来ないということを重々承知していた。
 その上で、アイドル・水野翠でなければ俺と今こうして過ごすことが出来ないと思い、感謝してくれていたのだ。

 すなわち、それは俺に対して少なからず悪くは思っていないということ。
 もっと簡単にいえば、俺を仕事だけでなく、人間として信頼してくれていること、親近感を抱いてくれているということである。

 にも関わらず、どこか俺は翠と少し距離を置いてしまっていた。
 今日の事だって、あくまでご褒美という名分に従って動いていた所以が心の中で微かではあるが確かにあった。

 しかし彼女にとっては、そのご褒美というのはあくまで偶然降って湧いただけのただのきっかけにすぎない。
 消去法的希望ではなく翠自身の欲求により、今日の出来事を選択した。


 それがどういう意味を表すのか。


 そこに気づかないで、イフの話を持ちだして謝る俺はどれだけ無理解だったのだろう。




「…ごめん。俺が悪かったよ」
 彼女の思いを知って、改めて謝罪する。

「いえ……。プロデューサーさんにとっては仕事の一部ですから、それで当然なのかもしれません」
 ゆかりのプロデューサーの姿が突然思い浮かぶ。

 彼はゆかりに対してストイックに接し、今の地位にたどり着いた。
 物事は結果論なのだから、結局はそれがプロデューサーのあるべき姿なのかもしれない。

「…仕事の肩書きに俺が乗っ取られてたのかも知れない」

 だが、それでは少し寂しすぎる。

 心の中では、翠はきっと不安だらけだ。
 そこに俺という柱の傍に立つことで、見にまとわりつく数々の恐怖を解消してきたのだろう。

「今日は俺も本当に楽しかったよ。俺が高校生の頃よりも…いや、人生の中で一番楽しかったかもな」
 はは、と笑う。

 翠は何も悪くない。ただ俺が無神経だっただけの話だ。




 最後にここに来たのも、この風景を俺に見て欲しかったのも、つまりは翠の事を俺に知って欲しかった故の行動だった。

 ――もっと私を知って下さい。出ては居ないが、そんな彼女の声が聞こえた気がした。

「今日は俺と一緒に学園祭を回ってくれてありがとう。翠の事を知れて嬉しいよ」
「……はい」

 彼女の思いを聞いて改めて考えた上で言葉を選択し、発言する。

 夕日を背景にした彼女の顔は、どこか暗いようで、瞳がとても輝いていた。






「…今日はデートって、プロデューサーは言いましたよね」

 焦って違うと言いかけるが、ちょっと前の俺の発言を思い出して口を閉じる。
 確かにニュアンスとしては相違ない。

「俺の立場でそれだと不味いんだけどなあ。いやまあ、そうなるな」

 当然ではあるがアイドルが恋愛など論外である。そう言っておいて、俺と疑われるような行動をしていた事に今更ながら狼狽える。

「もっと近くに来てくれませんか?」
「近くに…って、こうか」
 翠はそう俺にお願いしたので、普段の距離である机一個分離れた所から、椅子を動かして殆ど隣接するぐらいにまで近づいた。
 教科書を忘れたので机をひっつけたよろしく、ひとつの机で二人が勉強するといった程だ。

「アイドルですから、デートだなんてきっともう出来ませんから……今日の、最後のお願いです。私に恋人っぽいこと、してくれませんか?」

 これほど露骨に背中に冷や汗が走ったことが、今までの人生の中であっただろうか。





 ミイラ取りがミイラ。そんな言葉が頭をよぎる。

 かつて俺が翠をスカウトした当初、ちひろさんに大まかなプロデュース方針としてそういった恣意的でない官能美をテーマに上げたことはある。
 しかし、まさに俺自身がそれを目の前にしてしまうとは夢にも思わなかった。


 男性的感覚から言ってしまえば、非常に『クる』ものがある。

 恐らく本人としては打算的に話している訳ではないとは思うが、それ故に不自然さはなく、臨場感がそこはかとなく俺の心臓を圧迫していた。

「…やはり、駄目でしょうか」
 首を傾げて、それが結果的に上目遣いになる。
 ライブ用にしっかりとメイクをしているためもあってか、彼女がとても色っぽく感じてしまう。
 かつて俺がちひろさんに言っていた翠の魅力に、とりつかれそうになるのを必死に抑えて俺は考える。


 立場的に、『恋人っぽいこと』を俺がすることは絶対にできない。
 それは俺を信じて任せてくれた両親に対する裏切りにもなるし、一人の人間として、今まで僅かではあるが培ってきた責務を放棄することなど到底許されることではない。

 そうでもなくとも社会倫理的にアウトではあるのだが。


 では、プロデューサーという立場としてレッドラインに触れない程度の『恋人っぽいこと』とは何かを考えた時だ。

「ん…」

 ――俺は、翠の頭に手を置いていた。





 頭に触れた時、翠の体が小さく跳ねる。
 恋人っぽいこと…それの予想からは大きく外れたからだろうか。

 しかし、一回、二回、分を刻むようにゆったりと手を往復させていると、翠は次第に目を閉じて俺の手に体重を預けてきたのだった。


 迷った挙句の事だった。

 駄目だと断ることも出来ただろうが、それをしてしまうのは良くない事のような気がして、咄嗟に俺は手を伸ばして艶やかな翠の髪を撫でたのだ。



「…まさか、高校生にもなって頭を撫でられるなんて思いもしませんでした」

 数えることを止め、ただ夕日の中流れる時間に沿って頭を撫でていると、不意に翠は感想を漏らす。

 確かに、恋人っぽいことといえば普通であればもっと別の事を思いつくだろうが、その思いついた事が尽く立場的にNGをもらいそうな予感がしたので、こうすることに至ったのだった。





「俺にも立場っていうのがあるからな。こんなことしか思いつかなかったよ」
「でも、なんだか心地よいです」

 そう言って、近づいていたお互いの肩が触れた。
 撫でるという行為も、ここまでくると恋人っぽくなる。


 しかし、翠は俺を相手にしてそこまで許せるものなのだろうか。
 一応己も若者とはいうが、女子高生の感覚はいつまで経ってもわかりそうにない。



 そしていつの間にか、時計の音が消える。


 ただガラス越しに聞こえる生徒たちの声が、今の時間を奏でていた。


区切り。
>>241
待ってくれて申し訳ないです。まだ続きます


   *



「…はい、ありがとうございます。明日そちらに向かわせて頂きますので、よろしくお願いします」
 相手の快い返事を聞いて、古臭い受話器を静かに置いた。


 事務所も秋口になってくると早々に冷房の役目を終えている。
 新品であればもっと使い道もあろうに、昭和の雰囲気ただようこのエアコンでは、暑いにも寒いにも微妙にしか対応してくれないのだから当然である。

 ちひろさんも同じ事を思っていたようで、その話が持ち上がれば毎回昼ごはんのオカズが一品増えた。

「今日で三件目ですか。一気に増えましたね」
 隣で事務作業をしているちひろさんがこちらの電話が終わることを見計らってお茶を入れてくれた。
 一言感謝を述べてからお茶を飲むと、机に置いていたスケジュール帳に明日の予定を書き込む。

 かつて雑多なメモ帳かと思われていた空白の多いこの手帳も、今や少なくとも五割は埋まっている。

 まだまだ全国区の仕事がメインになっているとは言えないものの、それでも当初との差を知っているので嬉しい限りである。




 ――まさかあのライブがそこまで起爆剤になるとは、俺ですら思っていなかった。

 やはり決定的な要因となったのはカメラだろう。
 今回行ったライブはカメラに撮影され、翌朝のニュース番組で特集として組んでもらっていたのだ。

 仕方のない事だが、ピックアップされるのは当然ゆかりだった。

 しかし、ライブ行うまでに至った経緯をライブ中のトーク部を編集して放送したために、翠の名前も同時に広めることが出来たのだ。

 加えてインターネット上のニュースにもなっており、全く関係を知らなかったゆかりのファン達の反応を見ると快く受け入れてくれているようだった。


 そうするまでの交渉は殆どがゆかりのプロデューサーが行っていた。
 実利に関わってくる事柄に関しては、俺が介入することをあまり好ましく思っていないらしい。
 てきぱきと話を進めていく中で、横から意見を言う立場になってしまっていたのが残念といえば残念か。

 俺もいずれはああいう交渉術を身につけていかなければなるまい。
 限定ユニットであっても、関係を持った以上はこれからも何らかの接触がないはずはない。
 その中で俺も必ず学んでいかなければならない。




「ですね。いずれはバラエティにも進出させたいところですが……」

 大体の場合、バラエティなどの番組にゲスト出演する際には何らかの告知を兼ねた宣伝が目的となる。
 俳優であれば映画、アーティストであれば音楽や芸術作品などである。

 上気の目的のため事務所が掛けあって、ようやく出演が実現する。

 それ以外で単純に出演が出来るのは認知度が高い大御所のタレントかバラエティに順応しやすい芸人が殆どである。

「武器を持っていない翠ちゃんには少し厳しいですか」
 ちひろさんも訊ねる素振りを見せるが、きっとわかっている。

 翠においては、確実に前者にあたる。
 何かのきっかけがあって小さくてもいいから話題になるか、もしくは――。

「CDを出せれば、あるいは」

 そう俺ははっきりと言った。




 とりわけアイドルという職業において、CD、すなわち持ち歌の有無というのは生死を分かつ程に重要である。

 何故ならば、それはアイドルがああいったテレビの中と繋がりを持つためのアイテムとなり得るからだ。

 広告代理店の戦略の場合を除けば、番組にいきなりぽっと出の知らないアイドルが出てきた所で視聴者は何も思ってはくれない。

 理由は一つ。ただインパクトが無い。

 視聴者が受け身でいる以上は何も進展は見込めない。
 彼ら自身が積極的に調べて、知りたい、見てみたいという欲求を生み出させることが何よりも必要なのだ。

 そういった点を踏まえれば、現時点での翠では太刀打ち出来そうにはない。

 そのために翠だけの歌が欲しい。
 同時に何らかの切り口を見つけることが出来れば、タイミングさえ間違わなければ充分に勝機はある。




「歌、ですか」
 ちひろさんはぽつりと声を漏らす。

「ベストなのはタイアップですね……例えば新商品のイメージソングとか。映画のテーマソングまで行くと出来過ぎなくらいですけど」
 巫山戯る俺をちひろさんはくすりと笑った。

 本当に何かの特別な縁が無い限り、映画のテーマソングには絶対に行き着かないだろう。

「プロデューサーさん、翠ちゃんに曲をプレゼントできるように頑張って下さいね」
 キーボードのエンターキーから指を話すと背を伸ばし、一息ついてちひろさんは言う。

 オファーを待つ事ができるのは大きいプロダクションか、アイドルに類まれた才能があるかどうかだ。
 残念ながら、この事務所や翠自身はその二つを持ちあわせてはいない。

 だから、それを実現させるためには俺からどんどん攻める他ない。

「もちろんですよ。目標はソロライブ! ……ですかね?」
「そこは決めてくださいよ、もう…」

 かざした俺の手がしおれるのを見て、ちひろさんは大きく息を吐いた。





「おはようございます――って、どうかしましたか?」
「ああ、翠か。おはよう」
 俺の背後からいつもの扉の音と一緒に凛とした声が聞こえた。振り向くまでもなくわかる。

「翠ちゃんおはよう。お茶は温かいのがいい?」
「あ、お願いします。いつもありがとうございます、ちひろさん」

 学園祭も終わるといよいよ涼しく、場合によっては寒くすら感じる季節となる。
 ちひろさんは見慣れたテーブルに翠の分のお茶を置いた。

 綺麗さというよりも落ち着いた服装の翠は鞄をソファの近くに置いてお茶を飲んだ。やはりこの季節は温かいお茶もおいしかろう。

「ええと、今日の予定は番組の収録でしたよね?」

 一つ間を挟んで、翠は俺に訊ねる。

 その通りで、今日は昼からグルメ番組に出ることになっている。
 一見あまり料理には縁がなさそうな翠も、料理に対する丁寧な感想と甘味を食べた時の美味しそうな顔がどうやら好評らしい。

 たまにちひろさんに東京のおいしいスイーツについて話しているのを横目で作業することがあるので、本格的にハマっているようだ。

 レッスンをきちんとする翠だから大丈夫だろうが、ボディラインの管理には気をつけてもらうように青木さんに言っておかねば。





「ああ、もうちょっと経ったら現場入りするからな……と。そうだ、翠」

 本日と、今日入ったばかりの仕事について打ち合わせ日時を彼女に連絡していると、つい先程ちひろさんと話した内容を思い出す。

「なんでしょう?」
 自分のスケジュール帳にメモをしていた翠が顔を上げて俺を見る。


 わかりきったことだけど。当たり前のことだけど。


「翠は…歌を歌いたいか?」

 何となく、訊かずにはいられなかった。


「……はい。歌いたいです」
 突然の問いに一瞬戸惑った翠は、質問の内容を理解すると即座に回答してみせた。


「そうか。…そうだよな」
 ただ、翠のはっきりとした意志が見たかった。
 見ることで、俄然やる気が出てくるのだ。


 彼女の表情に冗談はない。
 いつだって純粋で、本気だから。


 翠が歌を歌ったら、どうなるのだろうか。一人の人間として、一人のファンとして聞いてみたいのだ。


 いつか来るであろうその時を期待して、俺はスケジュール帳を片手で閉じたのだった。




  *



「今日来てくれたのは我が愛知出身のアイドル、水野翠さんです!」
「こんにちは。本日はよろしくお願いします」
 ぱちぱち、というパーソナリティの拍手が部屋に響くと共に、丁寧に翠が挨拶をする。


 ラジオ放送。

 翠にとって…いや、俺にとって初めての仕事だ。
 最近ではテレビでの露出も数えられるほどには増え始めて、俺も更に忙しくなってきた。

 休日もなんのその。
 休める時が休日だと言わんばかりのペースで外を動き回っていた。


 隔離された狭い部屋でテーブルに二人、パーソナリティの女性と翠がマイクに向かって談笑している。
 このラジオ番組は地元でも有数の放送局で、毎回ゲストを呼んでトークをしながら進めていく。

 翠も例に違わず、パーソナリティの先導の下、様々な話題に対して話を広げていた。




「――えー、続いてはラジオネーム・やっちゃんさん。『はじめまして。僕は最近退屈な事が多くて、よく何か起こらないかなーとついつい考えてしまいます。お二人は最近何か面白いことはありましたか? よければ教えて下さい』……はー、なるほど」

 このラジオ番組ではメールを募集しており、今日もいくつかのお便りについて話していた。
 その中の最後のお便りがこれだった。

「私はこういう仕事柄よく色んな人とお会いしましてですね、そうなると本当に見当もつかないような話も聞いたりして!」
「面白そうですね。どんな話なんですか?」

 俺は全く関係ないが、少し考えてみる。


 ……まあ、冗談でも最近退屈など言えるはずがないな。

 毎日歩きまわって腰を折って、事務所に帰ればチェックして連絡して。いつも大変である。

 でもそれが翠の成長に繋がる大切な事なのはよく分かっているから、苦にはならないか。

 今こうして壁越しに話す翠を見られるのもこれまでの結果だろうしな、と俺一人だけ頷く。





「――だから、やっちゃんさんも色々な人と話をしてみたらどうでしょうかー? 翠さんはどうです、何か面白いことはありましたか?」
「私は……そうですね」

 パーソナリティが誘導すると翠は少し考えて、語る。

「私も、アイドルになってからはとても沢山の方と沢山の事をしてきたので、退屈、という言葉はしばらく思いつきませんでしたね」

 彼女は首を傾げて微笑む。
 確かに、アイドルという立場では退屈とは遠ざかるを得まい。

「翠さんのデビューは今年…でしたよね。それでも最初の頃は大変だったんじゃないですか? 大体始めの頃って練習漬けだったりしますから」

 パーソナリティの言う事も経験則のような重みを感じる。今こうして軽快に喋れているのは、きっと辛い練習の結果なのだろう。

「元々私は弓道をやってまして、そのおかげか練習を退屈だとは思いませんでしたね。…何より、私がアイドルになるのを期待している方がいるから――」

 その人のために頑張りたい、そう思ってましたし、今ではもっと強く思ってます。


 刹那、彼女の横顔が、ちらりと俺を見た気がした。




「最近も…少し前、私の今通っている高校で学園祭がありまして、そこで歌わせて頂くことになったんですが、その事を聞いたのは学園祭の一ヶ月前ぐらいで…練習もとてもハードでした」

 翠はまだ半年も経ってない前の事を感慨深そうに語る。

「練習が苦にはならないと言っても、色々なことを指摘されて、何度も何度もやりなおしてばかりで…アイドルってこんなに大変だったんだって、少し挫けそうにもなりました」

「確か水本ゆかりさんと一緒にライブをしたんでしたね。プレッシャーもあったでしょう」

 ゆかりの厳しい意見にも必死に耳を傾けて、ゆかりのプロデューサーからの指摘にもふてくされることなく受け入れて、初めてのライブという緊張と時間の無さという焦りと常に戦って、築き上げた成功を、包欠かさず翠は話す。

「はい。…それでも、私はいろいろな人の期待に応えるために練習しているんだって信じて練習して、無事ライブも終えることができたんです」

 汗まみれになって動き尽くしたあの練習がどれほど大変だったか、所詮俺は見ているだけで全部を理解することなど不可能である。

 だが、彼女の話を今俯瞰して聞くことで、リアリスティックに少しづつわかってきたような感覚がした。




「退屈って元々は仏教の用語で、修行に疲れ果てて精進する気持ちが屈することを意味したのですが、結局退屈というのは、手元に何も残っていない事だと思うんです」
「何もすることがないから退屈って言葉に繋がりますからね」

 果たして翠は、アイドルになる前は退屈していたのだろうか。

 それはノーであると俺は思う。

 一言で表せば、翠という人間は努力だ。
 仮にアイドルになっていなかったとしても、彼女は普通に学校生活で勉学や部活に対して一生懸命に取り組んでいただろう。

 たまたまその矛先がアイドルになっただけで、挑戦し、成功するために努力するという行為は何一つとして変わっていない。

「やっちゃんさん。私のような若輩者が言っても仕方のない事だとは思いますが言わせて下さい。どんなきっかけでも、どんな物でもいいので、やっちゃんさんの好きなことに触れて見て下さい」

 それはきっかけにおいても言える。
 もしスカウトしたのが俺でなくとも、きっと翠はそのスカウトした人間のことを信頼して、アイドルになるために努力をしただろう。


 ――頭の何処かで、歪な音がした。




 すぐに消えたその感覚の事は瞬時に忘れて、会話を聞く。

「理由はなくても、きっとやっていれば何かを感じると思います。そうしていけば、きっと退屈だなんて思わなくなると思いますよ」

「なんだか説得力のある口調でしたが…翠さんも、アイドルになったのは些細なきっかけだったんですか?」

 本当に些細だった。物語としては三流にすら届かない、かすれて消えてしまうぐらいに品のない出会い方だったと我ながら思う。

「そう…ですね。今担当しているプロデューサーさんにスカウトされたのがきっかけですが、それも真正面から言われた訳じゃなくて」

「ほうほう。スカウトってよく聞きますけど、翠さんの場合はどうだったんですか?」

 今、確実に翠は俺のことを見て、くすりと笑った。

「ふふ…ええと、本人の名誉のために秘密にしておきますが、かいつまんで言うと、プロデューサーさんは最初寝てましたね」
 思い出してなのか、上品な笑みを漏らす翠。


「あはは、相当な出会い方だったみたいですねー。というわけでやっちゃんさん参考にしてみてください! 次は思い出に残る名曲のコーナーです――」



 ……おい、事務所に戻れないぞ俺。




  *



「…みどりぃ」
「あはは…ごめんなさい、プロデューサーさん」

 放送が終了すると、俺達は併設の喫茶店で休憩を取った。
 翠はクリームパフェ、こちらはコーヒーだ。


 まあ俺の名誉なんてあってないようなものだし、翠のトークネタとして活用してくれるなら喜んで差し出すが、それでも今回のは危うく行き過ぎるところだった。

「話をしていると、段々自分のことを振り返ってしまって。理由はどんなものでも、こうしてプロデューサーさんと知り合えたことが私にとって本当に幸せで、嬉しかったんです」
「そこまで言われると照れるな……」

 コミュニケーションの基本は信頼関係だが、翠にそれほど信頼してもらえると照れ臭くなってしまう。
 顔を触って頬がつり上がってないか確かめて、そして安堵する。

「だからでしょうか、プロデューサーさんのことを伝えたいと思ってしまって…ちゃんと抑えはしましたけど、本当に大丈夫でしょうか…?」

 別に他のタレントでもメイクさんの話など、身内の話はいくらでもしているから問題はない。
 むしろ問題は俺がちひろさんに何を言われるかわからないという点なのだ。


 それを言うと、翠はただただ苦笑していた。





「……あの、プロデューサーさんは私のことを信頼してくれてるんですよね?」
 ひとしきりこの話題を話し尽くしたあと、翠は少し考え込んでから訊ねてきた。
 その前に、『コミュニケーションは信頼から』という翠の言葉がシックなBGMにかき消されそうで微かに聞こえた。

「当たり前だ。翠を信頼しているし、あの時声をかけてくれたのが翠で本当に良かったと思ってるよ」

 あの時体に走った電流を俺はきっと忘れはしない。
 一目惚れとはまさにこの事を体現しているのだと断言できる。

 それ程までにひと目見た時の彼女の顔が美しかったと言えよう。


「私もプロデューサーさんの事、信頼しています。だから…お願いがあるんです。ええと、その――」


 彼女が突拍子もない事を言い出すのはもはや慣れ始めてすらいた。


 しかし、今回彼女が言い出した事は……なんとも可愛らしいお願いだった。




  *



「あ、おかえりなさい、プロデューサーさん、翠ちゃん」

 休憩を終えて事務所に戻ると、ちひろさんは事務所の掃除をしていた。
 よく見ると俺の机まで掃除をしてくれている。

「只今戻りました。いつもありがとうございます」
「いえいえ。私にはこれくらいしかできませんから。翠ちゃんもお疲れ様、すぐお茶を出しますね」

 そう言って給湯室に入っていくちひろさんを見つつ、俺達はソファに座った。

「翠、お疲れ様。今日も頑張ったな」
 定型ではあるが労う。口に出さなければ伝わらないのだから、味気なくても俺は言うことにしていた。

 実際仕事も多くなり初めての形式の仕事も増えて、少なからずプレッシャーもかかっていることだろう。
 この事務所の命運は彼女にかかっているのだから、俺にできることなら何でもしてやらねばなるまい。



「あの…出来ればでいいんですが、また…撫でてもらってもいいですか?」

 …再び翠はろくでもない提案をした。





「おいおい…それはあの時だけの話だろ。それに高校生なのにって翠も言ってたじゃないか」
 横に座る翠はまたしてもあの時を再現するかのように上目遣いでこちらを見てきた。
 身長差により自然にできるのが運命なのだろうか。

「確かにそうなんですが……撫でてもらうと何だかふわっとしてきて、とても気持ちいいんです。……変なこと言ってすみません」

 そう言って申し訳なさそうにする翠を見て、俺は一体どうしたらいいんだろう、と悩むしかなかった。

 ……まあ、本人がそれを願っているなら叶えるのも吝かではない。
 ここは事務所で人目はつかないし、彼女も難しい立場なのを承知で頑張ってくれているのだから、望みは聞いてやるべきか。

「お疲れ様」
「わっ」
 ぽん、と翠の頭に手を置くと、小さく声を上げた。
 しかしあの時とは違って緊張した様子はなく、非常にリラックスしているようだった。

「おかしなことを言うもんだな……これでいいのか?」
「…ありがとうございます、Pさん」


 納得しているのなら、支障をきたさない限りは問題なかろう。
 幸い今日の仕事は朝の内に殆ど終わらせておいたので、彼女が満足するまで手は貸してやろうか。



 ただ。


「……どうして頭を撫でているんでしょうかね、プロデューサーさん?」


 事務所にいるもう一人の存在に留意しておくべきだというのは、今更だろうか。





  *




 何着目かのこのスーツも毎日の酷使により若干の傷が出始めた頃。

 紅葉は既に終焉の合図を待ちわび、木枯らしを名乗る風がおいおいと街を荒らし始める秋のとある朝だった。


 変化というものは、前後で繋がっているように見えて実は独立した何かなんだと、俺はこの時強く思った。






「ゴードーフェス?」
「合同フェスですよ、プロデューサーさん」

 事務所。

 いつものインスタントコーヒーを飲みながら今日の予定を確認していると、突然ちひろさんが聞いたことのない言葉を口に出した。

 聞き返した口調がどうやら知らないみたいだと理解したちひろさんはちょいちょい、と手を小招いて俺を呼ぶ。

 もう片方の手はちひろさんのパソコンの画面を指さしていた。見ろ、ということらしい。

 椅子から立ち上がり、隣まで行くと液晶画面を横から覗きこむ。

 すると画面にはメーラーが起動しており、一件のメールが表示されていた。

「…翠にフェスのお誘い!?」

 内容には、合同フェスの推薦という文字が記されていた。




 合同フェスとは、アイドルが好きな者なら知らないものは居ない、毎年末に行われる多くのプロダクションが参加するライブコンサートである。

 フェスでは、その年のヒット曲を生み出したアイドルや人気になったアイドルが集結して歌いあう、一種のお祭りのようなイベントなのだ。

 当然ファン投票によるライブバトルも行われるが、大体は最高レベルのパフォーマンスショーだと思っててくれていい。

 そういった説明をちひろさんから聞きながら、俺は顎に手を当てる。

「…でもちょっと待って下さい。仮に出場条件がそうなら、翠にどうして招待が来るんですか? まだ曲すら出していないんですよ」

 説明によれば、その年有名になったアイドルがおおよその参加条件となっている。

 しかし、残念ながら翠ではそれに合致しているとは思えない。
 地元での人気はかなり上がってきているとは思うが、彼女のシングルすら出していない状況では、どうみてもつり合わないはずだ。

「ここを見て下さいよ、ここ」
 とんとん、と液晶を爪で突いた所を見る。

 そこにはこのメールを出した相手の名前が――。

「……って、ここはゆかりのいるプロダクションか!」


 招待状をくれたのは、他でもなくゆかりの所属する事務所からだったのだ。





 驚く俺に対し、ちひろさんは説明を続ける。

「もちろん基本的な条件はさっき言った通りですが、その他にも将来に期待なアイドルという意味の推薦枠というものがありまして。それを利用してあちらは翠ちゃんを推薦したんですよ!」

 信じられない、という表情を俺は今しているだろうか。
 いや、鏡を見なくてもそれは大体わかるような気がする。

「…でもどうして翠なんでしょうかね。そりゃ嬉しいですけど、相手方の事務所はかなり規模が大きいはず。なら他にも推薦する相手はいくらでもいると思うんですが」

 考えれば考える程に不理解が進む。

 確かにゆかりとは一度急なスケジュールだったが限定的にユニットを組んでライブ行い、無事成功を納めることができたが、それでもたった一度だけの事だ。
 つながりでいえば、相手方にとってこちらの事務所よりも縁深い事務所は数多くあるはずである。

 にも関わらずその中で翠を選んだ理由というのが今ひとつすんなりと飲み込めない。
 嬉しいが故の懐疑なのだろうか。

「まあまあ。ともかく、一年目でフェス参加ですよ! 確実に流れが来てますよ、プロデューサーさん!」
 ちひろさんは軽く手を叩いて喜んだ。

 初ライブすらいきなりの事なのに、今度も突然で、更に大規模と来た。
 しかも観客は温かい声援を送ってくれる比較的身内ではなく、年齢も出身も違う全く無関係の人達だ。
 クオリティやパフォーマンスも、なあなあでは到底許されるものではない。




 あまりに急だったので急いで頭の中に内容を落としこみつつ、やるべきことについて考える。

 すると、即座に思考が行き詰まってしまった。

「…あの、ちひろさん。フェスに参加するとして……曲はどうなるんですか? まさか学園祭の時の同じ曲を使うわけにもいかないでしょう」

 さしあたって最も重要な問題である。

 ヒット曲を生み出して有名になったアイドルならばその曲を披露すればまず間違いはないのだが、そもそもの話、翠は曲をリリースしていない。

 今からフェス用の新曲を作るのか、とまたもや色々な方に無理をさせるスケジュールを組まなければいけない事に頭を悩ませると、ちひろさんはその思考を遮った。

「…プロデューサーさん、ちょっとこれを聞いてみてくれませんか?」
 不意に彼女は引き出しを静かに開けると、一枚のCDケースを俺に手渡した。


 ラベルもメモもない、プライベートで使用する目的として保存していたとおぼしき、白いCDだった。





「これをですか? ……まあいいですけど」
 CDケースには多数の傷が付着しており、随分昔から何回も使いまわしているんだな、とどうでもいい感想を抱きながらケースを開け、パソコンにCDを挿入する。

「……」
 鈍い回転音と共にCDが読み込まれ、既定の音楽プレイヤーが起動する。
 ちひろさんの声も止まり、音楽がスピーカーから流れるのを、ただ無言で待っているようだった。
 その表情というのは実に真剣で、遊びや悪戯なんかでは到底無いことを明確に表していた。

 この使い古されたケースといい彼女の表情といい、なんとも疑問点の多く浮かぶ事案である。

 しかし、そんなことを考えていても何も始まらない。

 自動的に起動されたソフトの再生画面を一度みれば、もののワンクリックで、記録されていたデータが再生された。





 ――興味深い、というのが第一印象だった。

 学園祭で歌った曲はどちらかと言えばポップ・ロックを頭から踏襲した、かなりベーシックなものであったのに対し、今この事務所に流れている曲は少し静かな曲調の物だった。

 一本のエレキギターがメインで穏やかな旋律を紡ぎ出し、それを肉付けし彩るようにボーカルやベース、ピアノなどが重なり合っていた。

 全体的に激しい印象は無いが、サビとその前のBメロで微かに音が賑やかになっていく様は、不思議としんみりさせてくれる。
 特に気になったのがこの歌声だ。
 誰の声かは分からないが、か細い中に芯の強さを感じて、声が完全に曲に溶け込んでいるのを感じた。

「ジャンルなら、一応ロック・バラードに分類されます。演劇的な歌い方が必要で、単純に歌というよりも弾き語りのような雰囲気が重要になります」

 曲の一番が終わると、俺はひとまず一時停止のボタンを押した。

「プロデューサーさんならどう思いますか? …翠ちゃんにこの曲、似合うと思いますか?」

 真剣な眼差しで――そして、少し不安げな瞳が変わった印象を受ける。

 まるで秘蔵の隠し子を晒すかのような、大事そうな扱いだった。





 翠の歌を思い出す。

 ライブをして分かったが、翠にはまだ声量が少し足りない。
 実際あの時もゆかりの歌声に負けそうになった部分も少なからず見受けられていた。

 しかし、針の穴に糸を通すような繊細な声は人の耳に効果的に入りやすく、高目の音程まで濃く出せるので表現の幅は高そうだ。

 それとこの曲が組み合わさればどうなるか。

 はっきり言って、俺には想像が全くできなかった。


 そもそも、この音源はどこから入手したのだろうか。
 CDケースの傷といい、明らかに公式に譲渡されたような様相ではない。

 それについて訊ねても、「ちょっとした伝手で受け取った音源なんです」とはぐらかされて、欲しい答えは得られそうにはなかった。





「そのメール、こっちのパソコンに転送してもらってもいいですか?」
 立って覗きこんで見るのも辛いので、招待状のメールを自分のメールアカウントに転送してもらい、改めて確かめる。

 合同フェスの開催日は年末も近づくクリスマス後。
 新年に向けて休みの人が多く、リアルタイムで見てもらいやすいという考えだろう。

 テレビでも生放送していて他局の特番ともやや重なるが、過去の記事を見る限り、視聴率も良いようだった。

 すなわち、ここで他のアイドルに負けないぐらいアピールを行えば、来年からのアイドル活動もより優位に立てるという事に他ならない。


 そのためには、今からすぐにでも練習を始める必要がありそうだ。

 学園祭の時に比べ練習期間は一ヶ月程伸びたが、規模は数倍も違う。
 ライブ自体まだ二度目なのに、いきなり大舞台でのパフォーマンスとなれば相当精神的にキツいものがあるはずだから、それへの対策も十分に行わなければならない。

「…わかりました。この曲、翠に歌わせましょう」
 そういう意味でも、曲を選り好める立場ではないことは明確だ。

 無論、この曲が悪いという話ではない。
 ただ実際問題として、翠に適した曲であるかどうかは完全に未知数で、博打的な判断と言える。
 この曲を歌っている声のように歌えれば、翠の声質なら魅力を引き出せるだろうという考えだ。





「…そう、ですか」
 ほんの少しだけ、ちひろさんは息を吐いた。

「わかりました。では参加すると同時に、トレーナーにも音源と簡単な練習方針を送っておきます。次のこっちでのレッスンの時にそちらで詰め合わせを行なって下さいね」

 慣れた手つきでキーボードを叩く。
 恐らく関係各所へのメールを打っているのだろう。

「ん? 愛知で明後日レッスンですけど、その時にしなくていいんですか?」

 基本的に翠は愛知での生活を軸にしているので、平日のレッスンは愛知で、休日は東京で、という体型を取っている。
 次のレッスンというだけならば明後日でもいいのだが。

「確かにそうなんですが、今回のフェス対策に関して、別のトレーナーも臨時で見てくれることになってまして」
「ああ、なるほど……って、そんな前から言ってたんですか!?」

 合同フェスの話すら今日知ったというのに、なんとその臨時トレーナーとやらはにはもっと前から話をしているというのだ。

「いえ。元々今のトレーナーは基礎レベルの範囲でお願いしてましたので、ハイレベルなレッスンに関しては別の方についてもらうよう前からそういう約束をしていたんですよ」

 開いた口がふさがらないというか、感心で口が閉じられない。

 ちひろさんは俺の見えない所で用意周到に土台作りに励んでいたというのだ。
 全く以てその機敏さ、聡明さに尊敬の念を禁じ得ない。





「わかりました。そういうことならその日で。翠には先に伝えてもいいですよね?」
「大丈夫です。ただ、出来れば電話ではなく口頭で伝えてやって下さい。その方が嬉しいでしょうから」
 ちひろさんのいうことは尤もだ。
 面と向かって伝えられる方が、きっと翠も喜ぶに違いない。

 次に会うのはいつだ、と思い、机に置いている手帳を手に取る。
 明日の欄には、東京での写真撮影の仕事が記されていた。

「了解です。では明日伝えますね。それで、参加にあたって他に連絡しておく事項はありますか?」

 これから色々な所に顔を出すだろうし…と思ったが、特にありません、とちひろさんは答える。

「こちらでできる処理は私が請け負いますので、プロデューサーさんは翠ちゃんに専念してあげて下さい。翠ちゃんにとって、味方はあなただけなんですから」
「そんなことないですよ。ちひろさんだって、翠の立派な理解者です」

 東京での暮らしを親身になってサポートしているちひろさんが、翠に良く思われていないはずがないだろう。

 そう言うと、ちひろさんは困った表情を見せたのだった。




  *



「今日の私は如何でしたか?」
 若干の渋滞気味な幹線道路を走行中の事だった。

 愛知から仕事のためにやってきた翠を送迎のために使用していた、その車内である。

 ゆっくりと進む中、助手席にきちんと座っている翠はそう訊ねた。


 都内のスタジオで写真撮影というのが今日の仕事だった。
 トラベル誌の観光特集で翠を使ってくれるという事で、案内に使う写真を撮っていたということである。

「特に問題はなかったぞ。…何かおかしなことでもあったか?」
「いえ…、Pさんの目から見て、下手な所はあったのかな、と思いまして」

 いよいよもって律儀な人間である。
 たかだが18年生きただけの少女に、どうしてこれ程の勤勉さが備わっているのだろうか。

「大丈夫。向こうの人もすんなり行ったって喜んでたよ。流石翠だな」
「そうですか……よかったです」
 横目で彼女を見ると、膝に手を置いて、嬉しそうにしていた。


 ああそうだ、と俺は言おう言おうと思ってた例の件について不意に頭に浮かぶ。




「喜んでる所悪いが、翠に更に嬉しい事をお知らせすることがあったんだった」
 信号待ちで車は到底進みそうにない。

 もう少し早くスタジオを出られたらこんなことにはならなかったのかもしれない、と独りごちるが、詮ないことだ。

 ハンドブレーキを引いてハンドルから手を離すと、近くに置いていた鞄からクリアファイルを取り出して翠に渡した。

「なんでしょうか、これ」
「いいから読んでみろ。悪いことは書いてない」

 手渡されたファイルから紙を取り出して訝しみながら眺め始めると、ものの数秒で彼女は飛び跳ねた。

「――これって!」
 タイトルを見ただけで、翠は理解したようだ。

 この紙の中身は、あの例の招待状のメールを編集して印刷したものである。

 よもや彼女が俺の言葉を質の悪い冗談だととるはずはないが、事が事のために一応証拠を用意しておいたのだ。

 伝える言葉を考えたが特に思いつかなかったので、ただありのまま、俺は翠に報告をする。

「おめでとう、今年末のイベントに…翠が出演することになったぞ!」


 わあ、と翠が言葉にならない声を上げて喜ぶ色がありありと見えたが、話はこれだけじゃない。





「そして翠にもう一つの嬉しいお知らせだ。聞きたいか?」
「ふふ、勿論聞きたいです」

 冗談めかしていうと、彼女もそれに応える。
 笑顔が漏れ出るこの状況では、幾分か彼女も純粋になっているように思える。


「じゃあ言うぞ、心して聞け――」

 ――合同フェスでは、翠のための歌を歌うぞ。

 その時の翠の表情と言ったら、言葉では到底表現できそうにはなかった。





「…でも、私なんかでいいのでしょうか」

 ひとしきり喜んだ後、寝るまでずっとその気持ちを抱えているのかと思いきや、彼女は一転して声をすぼめた。

 何だか、遠い昔にもそんな言葉を聞いた記憶がある。


 …確か、スカウトする時だったか。

 アイドルとして生きることに自信がなかった翠を勇気づけて決断に至った事は、印象深い出来事として頭に残っていた。

「なんか、じゃないさ」
 結局、何にしたって不安というものは常に心臓の周りを漂っている。
 それは自己のイメージを反映しただけで、客観的でない架空の存在だ。

「アイドル始めた時と似たような物だ。ちゃんと今、出来てるだろ? …だから今度も大丈夫だよ」
 スケジュールも学園祭の時より余裕があるしな、というと、翠は小さく笑った。
 本人もそれは懸案事項として抱いていたということだろう。

「…私、頑張りますから」
「翠だけじゃない、俺もちひろさんも頑張って、翠をサポートするよ」


 ありがとうございます、と一言翠が述べると、その後は事務所に帰るまで談笑が続いた。





  *



「もしもし、ゆかりは今大丈夫か?」
 仕事も一区切り置いたところで、俺はゆかりへと電話をかけていた。
 喫茶店で昼ごはんを注文し、やってくる料理を待つ合間の出来事である。

「はい。今はオフですよ、Pさん」
 電話越しの彼女の周りからは何やらクラシックめいた音楽が小さくではあるが流れている。
 大方彼女の部屋で音楽を聞きながら何かをしていたのだろう。


 ところでどうしてゆかりへと電話をかけたのかというと、無論フェスの招待の事であった。
 この度の経過は、通常であればあり得ないはずのことだ。

 それが実際に起きているというのなら、それはあちら側で何らかのアクションを起こしたからだと推測できる。

 もしそうであるのならば、ただ黙ってそれを享受している訳にはいかない。
 こちらにとって好都合に事を運んでくれた人がいるのであれば俺からも何らかの感謝の形を伝えるのが筋という話だ。

 そういう訳で、例え仕事中であっても一応は休憩中であろうこの時間を狙って電話をかけたのである。

 彼女のプロデューサーにかけないのは、単にゆかりであれば内容はどうであれ包み隠さず教えてくれると踏んだからである。





「いきなりだけど……ゆかりは、翠がフェスに参加することを知ってるのか?」
 俺の質問に対しては、身内の出来事だと言わんばかりに喜色めいた声で返事が返ってきた。

「ああ、はい。知ってますよ。私のプロデューサーさんから聞いたんです」
「ということは…ゆかりが直接翠を推薦した訳じゃないのか?」

 予測の中の一つには、ゆかりが掛けあって実現したという案があった。
 むしろ個人的にはそうであって欲しかった。

 何らかの戦略で以て翠を招待したとあれば、こちら側にどんな干渉をしかけてくるか全く解らないからだ。

「そうですね。上での話し合いの結果ということらしいので、私にもどうだかはわからないんです。ごめんなさい」
「いや、ゆかりが謝ることじゃないよ。こっちこそいきなり悪かったね」

 第二の予測として、ゆかりのプロデューサーが推薦した…というのも考えたが、彼女の話しぶりからするとどうやらそれも違うらしい。

 当然、彼が推薦したという事実をゆかりに教えなかったということも、あり得る話ではある。
 彼の胸の内に抱えるストイックさを考えれば、可能性はゼロではない。




「実は後日に翠ちゃんから電話がかかってきまして…とっても嬉しそうに話してましたよ」
「…ありがとう、ゆかり」

 ごく自然に、俺は感謝の言葉を漏らしていた。

「どれもこれも、ゆかりが翠と一緒にライブをしてくれたおかげだ。本当にありがとう」

 俯瞰してみれば、どこにでもいるただの新人アイドルが曲も出さなかったにも関わらず年に一度の一大イベントに参加できるのは、結局彼女との繋がりがあったからだ。

 あのオーディションでの偶然の出会いが今を演出しているという事実に、俺は彼らに感謝せずには居られなかった。

「そんな…いえ、私からもです、ありがとうございます、Pさん」
「え?」

 すると不意に、彼女から俺へと何故か感謝されてしまう。
 後ろから聞こえるクラシックの音楽に同調するような、優しい声だった。

「翠ちゃんが楽しそうに話す声が、私も好きなんです。そういう風にしてくれたのは…他でもない、Pさんのおかげでしょうから」

 どうしてこうも、俺の知り合う年下の彼女達は大人びているのだろうか。
 お世辞にしろ本心にしろ、即座にこんな言葉がすらすらと出てくるのは年齢を考えれば違和感でしかない。

 尤も、それが芸能界で生きていく上での当たり前のことなのかもしれないが。





 対照的に大人と呼ばれるのにふさわしいのか未だに疑問の残る俺が浮かび上がって、一層気持ちが萎えてしまう。

 これじゃまるで俺が年下みたいではないか。

 もっとビジネス書でも読んだほうがいいのかな、とそういう思考がそもそも安直で大人ではないという事実に辟易としていた時だ。


「これでまた同じ会場でライブが出来ますね。私、楽しみにしてます」

 ……一つの大きな驚きが肺を震わせた。





「同じ…というと、ゆかりもか!?」
「はい。ファンの皆様のおかげで二年連続で出させて頂くことになりました」

 マジか、と無意識に口から言葉が漏れる。

 通常、合同フェスは開催日ニ週間前に初めて今年参加するアイドルが好評される。
 秘密裏に教えてもらうこと自体にも驚いたが、ゆかりもまさか参加しているのだということが一番の驚きだった。

 その間にウェイトレスが四つ切りの食パンで作られたサンドイッチとコーヒーを運んできたので、なんとか目線で礼を言う。

「二年連続だって?」
「Pさんはご存知なかったんですね。…まあ、私の知名度では無理もなかったかもしれません」

 おいおい、聞いちゃいないぞ。

 ……それ以前に、どうして気づかなかった?

「一年目はユニットで出させてもらったので、多分わからなかったんだと思います」
「ああ、なるほど…そういうことか」

 ゆかりの口から出たユニット名を鞄に入っていたタブレット端末で検索すると、確かに前回の合同フェスの序盤に参加していたという記事が見つかる。

 前に合同フェスの招待についてちひろさんから伝えられた時、一応過去の開催模様などを調べたりしたが、どれも有名所ばかりで彼女のユニットが埋もれて見逃していたのかもしれない。


「それでも一年目から参加できるなんて……やっぱりゆかりは凄いな」
「……そう、ですね。…幸運だと思います」


 ――俺の耳元に届く声から、覇気が一瞬だけ消え去った。





 先程まで感じていた嬉々の混じった抑揚の声とは明らかに違う何かを察知する。
「……ああ、折角のオフなのに長電話して悪かったな」
「いえ! そういう訳じゃ……! …勘違いさせてすみません」

 てっきり、つい今までやっていた作業を中断されたから少し不愉快に感じてしまっていたのかと思って話を切ろうとすると、慌てた声で今度は彼女が謝った。


 …どうにも歯切れが悪い。

 何やら彼女の中で俺の知らない物体が蠢いているのだろうか。

「実際長電話すぎたからね……俺もこれから仕事だから切るよ。話してくれてありがとう、ゆかり」

 …しかし、それを追求することはできなかった。
 藪をつついて蛇を出すことだってよくあることだし、何より俺が踏み込んで良い世界ではないと思ったからだ。

 人には誰しも如何なる自称に対して悩みや憂いを持っていることだろう。
 だが、それを解決するのは近しい人物だ。

 それをするのはゆかりのプロデューサーの彼であって、俺ではない。
 力になれるのなら何でもしてやりたいが、部外者の俺では到底務まらないだろう。

「…今日、時間はありますか?」

 ふと、耳元でゆかりの声が聞こえる。





 俺もサンドイッチとコーヒーが冷めきる前に食べないとな、と回線を切るために耳元から電話を離しかけた時だった。

 慌てて電話を耳に近づけ直すと、彼女の誘いを咀嚼する。

「今日? 昼の…そうだな、14時から夕方までなら空いてるぞ。何かあるのか?」
 静かな声でそう訊かれたら、何かあると思わざるを得ない。

「ありがとうございます。…それなら、暇になり次第来て頂けませんか? ……私の家に」
 驚きしか耳に入って来なかった。

 何だって? 俺がゆかりの家に行くように誘われた?

「…すまん、それって本気か?」
「少しお話がしたくて……駄目でしょうか?」
 電話越しで、彼女は小さく答えた。


 それが、どうにも声色と言葉が翠に似ているような気がして。


「…わかった。遅れるかもしれないけど、終わり次第行くよ」
「ありがとうございます。住所はメールで送ります。…待ってます」


 果たして俺の行動は正しかったのだろうか。

 それを証明してくれるものは……隣に居ない。


 コーヒーは、喧騒に揉まれて望まれた熱を既に失っていた。




  *



「まずは改めまして、翠ちゃんのフェス参加、おめでとうございます」
 ゆかりの部屋に行って茶のもてなしを受けたあと、開口一番に彼女はそう言った。


 ――水本ゆかりの家。
 なんとも落ち着いた家、というのが真っ先に浮かんできた感想だった。

 ゆかりは翠と同じく地方からの出身だが、東京からは遠いので都内に部屋を借りて生活をしているようだ。

 マンション内には同じ事務所の仲間も別の部屋で住んでいるらしいが、昼間というだけあって会うことは無く、スムーズにゆかりの部屋にたどり着くことができた。

 中は、お世辞にも芸能人らしい広々とした豪華な部屋とは言えず、一人暮らしの大学生が借りるようなワンルームマンションと言った感じであった。

 じろじろと周りを見渡すのは失礼なので、部屋に入るときに一瞥したところ、歳以上に落ち着いた雰囲気だと実感した。

 観葉植物などのインテリア小物やCDコンポやフルートのケースなどの実際に使いそうなものまで綺麗に整頓されていることから、彼女の性格がよく見えてくる。





「何だか恥ずかしいですね、こう…面と向き合ってお話するのは」
 ゆかりは照れくさそうに頬を掻いた。

 如何にもそうだろう、という風貌をしている。
 まさに清楚…いや、どこかのご令嬢ではないだろうかという疑問さえ浮かんでくるほどの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 似たような感じで翠も同様の雰囲気は感じるが、翠の方がやや幼く感じてしまう。

 ……まあ、そう思ってしまうのも全てあの異質な言動のせいなのかもしれない。

「俺も女の子の部屋に入るなんて今まで滅多になかったから同じ気持ちかもな」
「ではお互い様ですね……ふふ」
 漏らすように笑うと、ゆかりも同様に小さく笑った。

 やはり笑っている顔がいい。翠にせよゆかりにせよ、一番似合っていると俺は思う。

「ああ、そういえばこの前翠ちゃんと買い物に行った時のことなんですが――」
 ゆかりは掌を叩くと、その時の戦利品を棚から取り出してテーブルに置いた。


 用事などどこへいったと言わんばかりに、他愛もない話が咲き誇った。






 ――それで、話っていうのは何なんだ?

 雑談もそこそこに、俺は本題を切り出す。

「…あ、すみません。つい脱線してしまって…えと」

 一応ひとつの話が終わった区切りのいい所で訊ねはしたが、あの時…電話越しのゆかりと同様に、少し歯切りの悪い感じが見受けられた。

「実は、フェスのお話で……Pさんが、私をすごいって言ってくれた事なんです」
 容易く記憶が蘇る。

 僅か数時間前の出来事だ。
 扱いはどうであれ、一年目から合同フェスに参加できたという事に対して俺が言った『凄い』という言葉に関わる話らしい。

 気づかずに俺は彼女を傷つけるような事を言ってしまったのか、と俺の発言を軽く回想してみても、それらしきものは何も見当たらなかった。

「…よくわからないんだけど、俺の言葉が気に触ったのならごめん。謝る」
 貸してもらったクッションに座りながら、俺は頭を下げる。





「いや、そういうことじゃないんです! 頭をあげて下さい!」
 すると、勢い強い声で彼女は否定する。

 言葉のまま頭をあげると、体の前で手を振り回していた彼女が居た。

「…じゃあ、どういうことだ?」
 どうにも主旨が読み取れない。
 謝罪要求でもなければ何だというのだろう。

 ただのお茶会であればあんな気落ちした声色で誘うことは変だし、あえてゆかりの部屋に誘った理由もよくわからなかった。

 すう、はあ、とゆかりは胸に手を当てて、テーブル越しに深呼吸する。
 まるで一世一代のプロポーズをするかのような仕草だ。

 一体どんな言葉が出てくるのだろうか、と俺も唾を飲んで彼女の発言を待っていると、三回ほど深呼吸をしたゆかりは真剣な面持ちでこう言った。



 ――去年は、私の知る限り……最悪の日でした。


 静かに語りだす彼女の声は、とてもじゃないがいつものそれではなかった。





「私の所属している事務所はどんなところか…Pさんはご存知ですよね?」
「知っているも何も、超大手の芸能事務所じゃないか」
 当たり前だと言わんばかりに答えてみせる。

 事実、俺達の事務所とは比べ物にならないくらいの差がある程にゆかりの事務所は大規模だ。
「はい、その通りです。この業界では、こちらの事務所は有数といっても過言ではありません」

 それは、調べようとすれば、テレビ番組には殆ど出演しているという結果が出るのではないかと現実的に思えてしまう位のものだ。

 可愛らしい形の丸テーブルに用意したコップのお茶を少し飲んでから、彼女は言う。

「……ですが、それは私にとって利益であり、また不利益でもあったんです」

 よく吟味してみるが、味を知るまでには味覚が到達しなかった。

 所属する事務所が大きいと営業のパイプも無数に伸び、また太いので、多種多様のアイドル活動においてはこれ程重要なものはあまりない。

 大手であればあるほどルートは正確になり、段階を踏んでいけばすぐに羽ばたいていける、そんな整備された階段を持っているものだ。

 現に、口に出すつもりはないが、ゆかりだってそのパイプを知らないうちに利用しているのだろう。




 では、彼女の言う不利益とは何なのだろうか。

 ゆっくりと紡ぐように、ゆかりは語りだす。

「…私が一年目にフェスに出場できたのは、事務所の無理矢理なねじ込みが原因だったんです」
「ねじ込み?」

 途端に嫌な影が見え隠れする。

「はい。…事務所内で次に売り出すアイドルは誰か、というのが上の方たちの中で会議したそうで、それに私が選ばれ、その結果、去年のフェスには無理を通す形での参加となりました」

 この言葉だけで、俺でなくとも十分理解できた。
 しかし、もういい、とは言い難かった。

 …ゆかり自身がこれを吐露したかったのだろう。
 口ぶりが次第に加速していくのがわかった。

「合同フェスは主にアイドルの舞台なんです。ただいつもと違うのは……音楽に対してファンが妥協しないという事」

 俺は今年からこの業界に入ってきて、それまではアイドルなんて何も興味もなかったから、一年前に開催された前回のフェスは知らないし、このイベントの空気などもあまり理解できていない。

 しかし、しかしだ。
 恐らくではあるが、ゆかりはその中で持てる力を出しきって歌い、踊り、足元の覚束ないアウェーの中、必死で頑張ったのだろう。




 その結果。
「…私達を待っていたのは、批判でした」

 心なしか、ゆかりの視線が下を向く。


 これが、合同フェスが普段のライブと違う所以。

 通常のライブであれば、自分の好きなアイドルの歌や踊りを見に行くのが理由なのに対して、合同フェスというのは少し独特の価値観があった。

 それは、『アイドルだけ』にスポットライトがあたるのではなく、『アイドルが披露するパフォーマンス』に観客の焦点があてられる、ということだ。

 合同フェスがその年人気になったアイドルを運営が厳選して参加資格を与えるのも、質の低い音楽を観客達に見せないため、という理由から来るのかもしれない。

 あくまで推測でしかないが、そのイベントが年末の恒例行事とまで言われる程人気なのも、運営により実力が保証されたアイドル達だけが出てくるからなのだろう。

「流石に合同フェス中こそブーイングが起きることはありませんでしたが……その後は酷いものでした」
 俯いたゆかりの唇が、きゅっと結ばれた。




「…インターネットか」
 こくり、と頷くのが見えた。

 言うなれば、舌の肥えた客が評判の良い料亭に行ったが出された料理が普通だった、ということなのだろう。

 俺はインターネット上でそこまで深くアイドルについて語り合う書き込みをあまり見たことがないのではっきりとは解らない。

 しかし、合同フェスという「良い者」だけが出てくるはずの場に新人…それも、事務所の方針で無理矢理入れられた者が紛れ込んだら、目と耳が肥えた観客達は何を思うか。


 想像に、難くなかった。

 どの世界にも過激な人間は居る。
 その内、『目に見える形で』彼女達のユニットを批判した可能性も、十分に有り得る。


「…その件もありまして、当時組んでいたユニットのもう一人の方はアイドルを辞めてしまいました。そして、残されて弱り切った私の担当に新しく就いてくれたのが、今のプロデューサーなんです」

 少し、ゆかりのプロデューサーの態度が理解できたような気がした。

 その当時のゆかりは意気消沈し、歌やファンに対して恐怖感を抱くまでに陥ってしまったのかもしれない。

 彼はそんな彼女の担当につき、厳しく指導することで立ち直らせることにしたのだろう。

 傷を舐め合うことでは癒されない。むしろ、雑菌が入り込み、症状が悪化する。

 ゆかりのプロデューサーはそう判断し、彼女に接したのだ。





「だから、私は凄い訳じゃないんです。私のプロデューサーさんのおかげで立ち直っただけの…強くない人間なんです」

 ぽつりとそう言うと、ゆかりはそっと口を閉じた。


 彼女が俺をわざわざ呼び、思い出したくもない過去を晒したのは何故か。


 ――デジャヴ。

 不意にそんな横文字が頭に浮かんだ。


「……ゆかりは、やっぱり凄いよ」
「いや、そんな…私は」

 思いつく言葉を、俺はただ言う。





「多分、ゆかりは今年の合同フェスにも参加することで、去年のリベンジをしたいという気持ちもあるんじゃないか?」
「それは……」

 あの時こき下ろしてくれた観客たちに後悔させてやる。
 少なからずそういった反骨心もあって立ち直り、今までやってきたのかもしれない。

 それを果たす事で、彼への恩返しになると考えたのだろう。


 では、そんな人間が今こうして過去の話など話す余裕があるのだろうか?

 考えれば考える程、彼女の中に大きく存在する優しさが、静かに、ゆるやかに、俺の中に入ってくる。

「それなのに、翠が参加するという話を聞いてゆかりは危機感を覚えた。…一年前の自分と同じ境遇に翠がなってしまうんじゃないかという事に」

 前回で植え付けられたトラウマも全く無い訳じゃない。
 そして観客も、きっと彼女を実力不足という色眼鏡で見ることになる。

 今年の合同フェスでは、きっと体に色んな重しをつけて舞台に上がることを余儀なくされる、間違いなく苦しいライブとなるだろう。


 それでも、ゆかりは翠を心配した。

 ゆかりは、翠が朽ちる姿を見たくないのだ。



「……ありがとう、ゆかり」

 少し体をあげると、俺は自然にゆかりの頭を撫でていた。






 翠にやるようになって、抵抗感が薄れていた故の行動かもしれない。

 しかし、こうまでして心配してくれたゆかりを見ていると、こうしなければいけない気がしたのだ。

「そこまでして翠を心配してくれて。翠と仲良くしてくれて。…君が居て良かった。君と知りあえて、本当に嬉しいよ」


 彼女は恥を晒してでも、俺に教えてくれた。

 新人のアイドルが合同フェスに挑むことが、どういう結果をもたらすのか。
 まだ知らぬ俺と翠が、どんな感情を抱き、今後の道を選ぶのか。

 他所の事務所の人間が相手でも構わずにゆかりは、翠を、俺を助けることを選択した。

 何故ならば、翠の今まで歩んできた道のりが彼女のそれと錯覚したからだろう。

 そして同じように弱り切って、もうこの世界から消えてしまったゆかりの相方のようになって欲しくない。


 それだけのために、この時間を作り出したのだ。


 す、す。

 ゆったりとした動きで、頭頂から耳元へ、そっと手を動かす。
 彼女は抵抗すること無く、されるがまま俺の行動を許していた。





 五回、六回だろうか、少しの時間を置いて、ゆかりは口を再び開く。

「正直に言って、覚悟しないといけないかもしれません」
「え?」

 突然の言葉に思わず手が離れる。


 覚悟、というと、合同フェスのことだろうか。

「今回翠ちゃんに招待が来たのは、恐らく事務所の偉い人たちの目論見があってもおかしくないと私は思っています」

 思えば、どうして大手の事務所からこんな小さな事務所に所属している翠に招待が来るのかを考えれば、邪推であっても答えは自ずと出てくる。

「…当て馬、ってことか」
「自分の所属する事務所を疑うつもりはありませんが…やり方として、十分に可能性は考えられます」
 新人のゆかり達をフェスに無理矢理送り込んで活躍を計算するなどといった無謀な策を実行してしまうぐらい馬鹿げた上層部だ、そんなことを考えていても不思議ではない。

「今からでも辞退することはできませんか?」

 ゆかりは後ろめたそうに問う。

 実際、この合同フェスの参加者というのは、当日より少し前の特番で初めて世間に公表されることになっている。
 いわゆるファンに対してのサプライズ演出、ということなのだろうか。
 それとも、年末に起こるムーブメントまで見極めたいという運営の考えなのだろうか。

 どちらにせよ、今現在において翠が合同フェスに参加することはまだ世間には知られていない。




 しかし。

「…それはできない」

 去年のゆかりへの風当たりを考慮すれば、ここで潔く辞退して今後のアイドル活動への悪影響を避けるべきなのだろう。


 だが、俺はこの事を伝えた時の翠の笑顔を見てしまった。

 こんな巫山戯た格好で取り消しにしてしまっただなんて、言える訳がない。

 現実的な問題を挙げれば、招待を蹴った形になって相手方の事務所との関係が悪くなってしまうという懸念もある。


 それでも、進むと決めた。

 翠なら、きっと成功できる。
 疑問も批判も歓声に変えて、皆を魅了することができる。

 お世辞でも贔屓でもなく、俺はそう思っていた。

「そう、ですか」
 ゆかりはまた一つお茶を飲み、息を吐く。

「……では、翠ちゃんを支えてあげて下さい。私のようにならないように。お友達として……お願いします」

 その表情は、親愛から来るものに違いない。

 取引先の相手に頭を下げるような目つきではなく、それ以上の…心から思う、真摯な顔だった。




「わかってるよ。大丈夫」
「――わっ」
 もう一度、ゆかりの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 こんな表情をされて、断れる人など居るはずがない。
 元々断る権利もない。

 俺にできることなら何だってしてみせる。
 翠がこれからも活動していけるように。彼女の笑顔を守れるように。


 そう伝えると、ゆかりは今日一番の朗らかな笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

「…翠ちゃんの言うことがよくわかった気がします。何だかふわふわします」


 ……翠め、そんなことも話していたのか。


投下中断。
申し訳ありませんが、当然のごとくオリジナル要素が出てきます。

……まだデビューしてないんだもの。ちかたないね。

事後報告ですみません。

  *




「キミが件の…いや、失礼」


 都内のレッスンスタジオ。
 休日にレッスンを行う場合にいつも使用している、青木さんが所属している会社のスタジオだ。

 今日は年末に控えたフェスに向けての臨時トレーナーとの顔合わせと話し合いのためにここを訪れていた。


 扉をノックして入ると、背中を向けていた女性がこちらを振り向く。
 手にはメモが握られている。何かを考えていたのだろうか。

「おはようございます。初めてお目にかかります、彼女はシンデレラガールズプロダクション所属の水野翠で、私はそのプロデューサーです」
「水野翠です。これからよろしくお願いします」

 名刺を渡すと共に頭を下げる。隣に居る翠も、綺麗に腰を曲げた。

「いや、妹から話は伺ってるよ。なかなかどうして、頑張ってるらしいじゃないか」
「ありがとうございま……妹って、まさかあなたは」

 聞きなれない言葉に耳を疑う。

 すると、女性は凛々しい笑みを浮かべて俺の言葉の続きを言った。

「その通り。多分妹から聞いているとは思うが、私は慶の姉の青木麗だ」
 深々と青木さんのお姉さんは礼をする。形も美しく、風貌からしてベテランと言ったところである。






「わかりにくいだろうから私のことは気軽に麗と呼んでくれていい。これからたくさん時間を共にするわけだからな」
 青木さんのお姉さん…もとい麗さんはそう言いつつ、翠を一瞥する。

「…ふむ、色々予定を先に話したいところだが、まずはキミにテストを受けてもらおうか」
「テスト…ですか?」
 翠は素直に聞き返す。

「そうだ。まあテストと言っても、キミがどれくらいのレベルか測る目的のものだ。妹ともやったことがあるだろうから、それと同じと考えてくれていい」

 メモを一度ポケットにしまうと、麗さんは部屋の中央に歩みつつ上着を脱ぐ。
 下はランニングシャツを着用していて、隙間ないピッタリの服は彼女の持つ立派な肢体のラインをありのまま露わにしていた。

「翠、準備運動をしてからしっかりテストに臨むようにな」
「はい!」
 ストレッチを始める麗さんを横目に、俺は着替えを促すと、翠は室内に設備として設けられている更衣室に入っていった。


 そして着替え終わった翠はストレッチの後、麗さんによるテストを受けることとなった。




  *



 ――絶望感。

 一言でこの心境を素直に表すことが出来る言葉はこれ以外には存在しない。

「…今日は調子が悪いのか?」
 彼女は…麗さんは、一瞬にしてこの空気の温度を氷点下にまで落とさせた。


 テストとは、まずは普通に体の柔軟性をチェックしてから、麗さんが披露するパターン化したダンスを即興で覚えて踊る適応力と、教えてからダンスをさせる純粋な能力、そして動きながら歌を歌い続ける持続性を確かめることだった。

「い、いえ。万全です」
 俺の目からすれば、今までの練習の成果を出した、申し分ない出来だったように思う。


「だとすれば……今からでも遅くない、参加を辞退しろ」

 だが、麗さんからみれば、それは生まれたばかりの子馬のように見えたのだ。


 翠の顔が、疲労以上に青ざめているのが明らかにわかった。




「ちょ、ちょっと麗さん!」
 硬化した空気に足を抑えられつつも何とか抜けだした俺は、麗さんの前に言って手を広げて抗議する。

 彼女は憮然とした表情で、…まるで地面に落ちた食べ物を見るような目で俺を見た。

「なんだい?」
 ただひとつ、ポツリと彼女は訊く。

 俺の意を汲んでいないのか?
 ……いや、わかっていて訊いているのだろう。

 麗さんはベテランで、恐らく何度も合同フェスを間近で見てきただろうし、それに参加するアイドル達も担当してきたのだろう。

 それで、過去の記憶や映像データと翠を比較して、そう言い放ったのだ。

 確かに新人で、ベテランに比べたらまだまだ未熟な面もあるだろう。
 しかし、それを指導し成功させるのがあなたの役目なのではないだろうか。


 お前は落第だ。

 彼女の目からは暗にそう言っているような気がして、俺の感情が一気にあちらこちらに振れる。

 あなたに何がわかる。
 あなたに翠の努力が一ミリでも理解できるのか。

 俺が信じてきた翠というアイドルをさっと触れただけでこき下ろしたトレーナーの横暴な態度に、いっそのこと殴りかかってやろうか、という禁断の思いすら抱き始めようとした瞬間だった。

「それは、承知しています」

 思考を放棄した俺が馬鹿であると思わざるを得ない程、背後に居た翠の声は、酷く落ち着いていた。





「そうか、なら話が早い。今なら先方にも間に合うから、辞退の連絡を――」

 その時だった。

 耳をつんざくような高音が、周囲の空気を激しく振動させる。


 テストを受けての麗さんの評価に対し、ただ彼女は叫んだのだ。

 お願いします、と。




 流石のベテランも、突然の大声には呆気に取られたのだろう、少し目を見開いて、俺の背後を…頭を下げる翠を見ていた。

「…重々承知しています。私がまだ一年目のアイドルで、合同フェスに参加するような技量もあなたが見てきた中で最低なのかもしれません」

「自己評価はできているようだな。なら――」
「ですが!」

 麗さんの声を打ち消すかのごとく反応し、頭をあげる。

「目の前に現れた道を、ただ呆然と眺めているだけのアイドルでありたくはないんです。機会を差し伸べてくださった方、期待してくださった方、その気持ちに応えるためにも私はやりたいんです。……お願いします」

 先ほどの空気が震えるような強い声とはうってかわって、静かな声で翠が語る。

 俺がやるべき姿を、翠が代わりにやっていた。
 写し身のような行動だ。

 酷く否定されたことを意に介さず、ただ頭を下げて、ひたすら懇願する。
 客観的に見れば哀れにも見えるだろう。

 しかし、翠は自分を見失っていない。

 大舞台で歌うという目標を前にして現れた問題から、逃げようとはしなかった。


「…麗さん。お願いします」

 完全に収まった気持ちになった俺もお願いをする。
 現状駄目だからといってそこで諦めては、絶対に上に行くことはできない。

 せっかく色々な縁あって到達できるチャンスを得た今を、ふいにはしたくない。


 翠と俺の気持ちは、確実にひとつになっていた。




「……よく言った」
 限りなく長く思えた地面とのにらめっこも、麗さんの一言で終了を迎える。

「では、翠を――!」
「勿論だ。ここで逃げ出すなら本当にそうしていたが、そこまでいうなら私も喜んで付き合おうじゃないか」

 ポケットの中のメモを取り出して、何かを確認する。

「いいか、翠。少しでも投げ出すような素振りを見せたら、すぐにでもレッスンを止めるぞ。それぐらいキミの実力はあの舞台に立つアイドルのそれと乖離している事を理解しないといけない」

 強く、麗さんは言う。

 否定したくもなるが、決して妄言でも脅迫でもない。れっきとした事実だ。


 だから彼女は言う。
 フェスに泥を塗る様な姿は許さない、と。

「わかっています。その基準を超えるために、あなたが絶対に必要なんです。よろしくお願いします」


 そして、翠は応える。
 絶対にそうはさせない、と。



 ふふ、と笑った麗さんの顔が、酷く狡猾に見えた。




  *


「元々、断るつもりはなかったよ」
 わずかに与えられた休憩時間中、麗さんは共に廊下に出て俺にそう言った。

「契約だからですか?」
 ちひろさんが青木さん達の所属する会社と契約しているため、俯瞰して考えれば雇われの身である以上、断る権限はどこにも存在していない。

 それを承知しての言動なのだろうか、と疑問に思う。

「無論それもあるがね。流石に初対面で相手の人間性を測るのは難しいから」
 スポーツドリンクを少し体内に落としこみ、息を吐く。

 つまるところ、あの言動すらも彼女によるテストの続きだったのだ。

 これを行ったのが麗さんでなければ、きっと怒りに身を任せていただろう。

「もしそれで翠があなたの思い通りにいかなければ、どうするつもりだったんです」
「そこで終わり。実力がないのなら、必要になるのはやる気だけだからね」
 俺の問いに、彼女はあっけらかんと答えてみせた。

 少しでも考える素振りを見せると思っていた俺は唖然としてしまう。





「これだってちひろとの約束だったからな。『あなたが見て、良ければお願いします』だなんてよく言うもんだ」
 くつくつと笑い、麗さんは手を広げてみせた。

 おかしな話だ、と即座に俺は訝しむ。

 そもそもこれは契約の話だろう。普通であれば…とりわけ彼女のようなトレーナーを雇い派遣する形の企業形態であれば、基本的な相談や交渉といったものはトレーナー本人に対してではなく、会社の管理をする人間が決める話だ。

 そこで決められた大まかなギャランティと契約期間の間で顧客と細かい打ち合わせをしていくのが当然だと思っていたが、どうやら彼女の話によれば違うらしい。

 考えれば考える程訳がわからなくなってくるが、それ以前に大きな疑問符が頭上に浮かぶ。
「…ちひろ?」

 どうして麗さんはちひろさんの事を親しげに呼び捨てて話すのだろうか。





「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。






「――いや、どうでもいい話だね」
「どういうことですか?」
 麗さんは言いかけていた言葉を取り消して再び飲み物を口に運んだ。

「キミが知っても意味はないよ。それに、私が話すのは悪いだろう」

 一体どういうことなのだろうか。

 その後は訊ねても茶を濁すばかりで明確な回答は帰ってこず、そのまま休憩時間を終えて練習再開となってしまった。


 俺は現状ですら器から色々なものが零れ落ちそうな程キャパシティに余裕が無い。

 翠に出会えてからは月日を忘れ我武者羅に動いて彼女のためにやってきたつもりだ。

 それがひいては事務所のためになっていると信じている。


 ……もしかしたら、何か見落としているのか?

 自身に突き詰めてみても、一向に結論は導き出されなかった。






 練習しているであろうレッスンルームに戻ると、柔和な笑みを浮かべて指導にあたる麗さんの姿があった。

 翠も先程のイメージとは全く違って困惑しただろうが、麗さんの言っていることは本当なのだ、鏡に映る彼女の顔つきは必死そのものであった。

 やはりそうなったのも先の啖呵の影響だろう。
 麗さんは翠の一挙一動を見て、余すところなく指導をしているように見えた。


 まずは第一関門突破、というところか。
 全く麗さんの『テスト』には困ったものだ、と独りごちる。


「…頑張れ」
 結局、遠巻きに見ている俺ができるのは応援をすることだけだ。

 一体俺はその間、彼女に何をしてやれるのだろう。
 どんな助けが俺にできるのだろう。

 この時、俺の中で募るもどかしさは一層渦巻いていた。




  *



 ――大丈夫か、翠。

 初日のレッスンを終えてちひろさんの実家に送る前に、俺達はふと事務所に寄っていた。

 既にちひろさんは帰宅を済ませており、今この暗い部屋には二人しか居ない。

「はい、大丈夫です。行けます」
 対する翠は、あれほどのレッスンを終えてなお意欲を見せていた。

 尽きることのない意志。消えることのない魂。
 彼女を構成する要素に、一体神様は何を混ぜたのだろう。


 本来であればそのまま直帰させるのがベストな選択肢なのだろうが、俺に何ができるかを考えた時、ひとつだけ思いついたのだ。

 俺は暗い事務所の電気をつけてから彼女のためのお茶を用意する一方、パソコンの電源を入れる。

 その間に引き出しから例のCDを机の上に置いた。


「翠、ちょっと来てくれないか」
 何の用なのだろう、といった表情の翠は、手招きする俺の元…パソコンの隣にやってきたので、ちひろさんのデスクの椅子の車輪を転がして翠に寄越した。







「なんですか、これ?」
 傷ついたケースから何のラベルも印刷されていない簡素なCDを取り出すと、パソコンに挿入する。
「ん、もうすぐわかるさ」
 鈍い音とともに画面上に現れる音楽プレイヤー。

 まるで今の翠はちょっと前の俺のようだ。
 この存在に訝しんでいるのが何だか少し微笑ましかった。

「準備完了。じゃ、聞いてくれ――」
 特にためらうこと無く、再生ボタンをクリックすると、俺があの時聞いた音が今一度部屋に響き渡った。






 あの時は昼。今は夜。

 夜景の中に光がぼんやりと浮かぶようなこの部屋だから、この歌はより一層感情を励起させてくれる。

「翠はこの歌を、どう思う?」

 エレキギターがさながらピアノのように落ち着いた旋律を流し、ドラムが一秒以下の世界を刻んでいる。


「…もしかして、これは」
 状況や因果が理解らぬ彼女ではない。

 少しだけ目を大きく見開いて、口を開く。


 俺が翠にできること。

 それは、ちょっとだけ早い鑑賞会だった。


 本当であれば、麗さんのレッスンが翠の身に馴染んできた所でレコーディングの練習を始めるという予定だったが、一足先に聞かせてやることにした。

 当然ちひろさんや麗さんには内緒である。





「不思議な…声ですね」
「声?」

 静かだった部屋の中に、燦々と鳴り響く歌を聞いていると、翠はぽつりと呟いた。

 曲調ではなく、翠はこれを歌っている女性のボーカルに感想を抱いた。

「Pさんはこの方が誰か知っているんですか?」
「いや、全く。ちひろさんも教えてくれないしな」

 正直に答えると、そうですか、と静かに返される。
「とっても思い入れのあるような、綺麗な歌声ですね。この曲を私が歌えるのなら、是非とも直接ご指導願いたいものです」

 ちひろさんは、この曲を演劇的な歌い方が必要だと言っていた。

 それは純粋に歌を歌う能力以外に歌に感情をやや過剰気味に込める事が大事だということだ。

 CDの中の女性は、まさしくその言葉を体現したような歌声だったのである。





 ただただ翠は曲を耳に入れる。

 音階一つ楽器一つそれぞれを理解して聞いているようだった。


 曲は更に進み、時間が少し跳んだところでようやく音楽の再生が停止する。
 シークバーが初期の位置に戻るのは、この曲が終わった証拠だ。

 先程まで流れていた音楽のある部屋が不意に静寂に包まれ、耳に少し違和感が残る。


 翠を見ると、目を閉じて何かを考えているように見えた。

 それは、本当に合同フェスに出たい。
 出て、満足のいくパフォーマンスをしたい。
 たくさんの人に自分の歌声を聞いて欲しい。

 そういった願いが彼女の仕草によって顕現されていた。

 翠の表情を見た時、俺は今更ながら『彼女はもうプロなんだ』と思ってしまった。





「…俺はさ。この曲を初めて聞いた時、『本当に翠が適しているのか』って疑問に思ったんだよ」

 しかし、いくら翠が練習に対して真剣に取り組める人間であったとしてもだ、心の何処かで不安や恐怖を抱えている事は以前で十分に理解している。

 彼女はもはやプロそのものだ。だが、彼女はただの少女なのだ。


「でも何度も聞いていると、今度は翠にこそこれが歌えるんだ、って思うようになったんだ」

 これからは、恐らく奈落の底に向かって突き進んでいくことになる。

 だから、手元にだけは光を持っていて欲しい。

「この女性の声じゃなく、翠の声でこの歌が聞いてみたい。…俺の願い、聞いてくれるか」

 曲が、俺の言葉が、彼女に良いモチベーションたる影響を与えられるのなら。

 そういう意味で、今日の鑑賞会を開いたのだった。




「…当たり前じゃないですか」
 パソコンのファンの音だけが事務所に漂っている中、翠はぽつりと口を開いた。

「せっかくPさんが私に渡してくれた曲を、無下にするなんて事はしたくありません」

 その言葉の中にあるのは、揺るぎない絆めいた感情。


 たかが仕事の関係と言ってしまえばそれだけであるが、水野翠という人間にとって俺という存在はどれほどの価値を見出しているのだろうか。

 かつてしてきた俺の選択は正しかったか。より広い道に導くことは出来たのか。

「何より、それがPさんの願いなら……絶対に叶えてみせます」

 彼女と接していく中で常にあらゆる不安に苛まれてきた俺は、翠の答えこそが唯一の標識なのだと感じた。




  *



「残念だけどこのCDは今は渡せない。麗さんの思うタイミングで渡されるだろうから、その時まで楽しみにしておいてくれ」
「はい、それまでずっと練習に励みます」

 あまり夜の事務所に長居することは褒められたことではないので、俺達は早々と退出し、夜の道路を車で走っていた。

 ちひろさんの実家は事務所から歩いてもさほど遠いという距離ではないが、夜という時間帯に加えこの下がりつつある気温では体調に悪い影響を与えかねないので、念のための処置だった。

 古い社用車の暖房をつけると、効果があるのかないのかよくわからない空気が車内に吹き込まれる。

 だがそんなすぐには暖かくならないので、翠の格好は外に出た時と同じく学校で普段着用しているらしいコートと手袋姿である。

 それが、より彼女を普通の少女めいた姿にしてくれていた。





 予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。

 一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。
 モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。


「あの、Pさん」

 仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。

「どうした、寒いか?」
 暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。

「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」
 改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。

 彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。

 当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。

 なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。

 これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。


 その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。

 単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。

 地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。

 俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。





「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」

 彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。

 しかし、それを聞く訳はいかない。
 そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。

 時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。

 当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。
 これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。


「…じゃあ、撫でて下さい」
 そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。




「今運転中だぞ、全く……ほら」

 一体どうしてこんな事になってしまったか。

 由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
 流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。

「…やっぱり変でしょうか」
 不意に翠は呟いた。


 変、といえば変だ。
 感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。

 だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。

 …それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。


 直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
 図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。

「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」

 確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
 ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。

「……そうですか」
 目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。




  *



「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」

 麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。

「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
 言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。

「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
 ぺこりと頭を下げる慶さん。

「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
 少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
 でなければわざわざ謝りはしないだろう。

「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」

 過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。

 決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。

「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」

 麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。

 翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
 昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。




「今、慶さんは何をやっているんですか?」
 元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。

「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」

 現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
 営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。

「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
 ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。

 麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。

「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
 今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。




「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
 そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。

 担当トレーナーからの懸念。
 実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。

「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」

 姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
 初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。

 それに、翠の性格への言及も的を射ている。

 彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
 麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。


「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
 相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。

「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
 俺も反応の意味に気付いて取り繕う。




 今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。

「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」

 不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。

「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」

 真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。




  *



「それじゃ、明日までに曲を慣れてくれ。以上だ」
 レッスンの終わり、クールダウンを終えて帰宅しようかという頃、麗さんは翠にCDを手渡した。


 麗さんのレッスンが始まって五日。

 翠のやる気も相まってか、レッスンの習得スピードは麗さんの想定を上回り、予定よりも若干早目に表面上の初披露となった。

 表面上というのは、初日の時点で俺が聞かせてしまった故の表現である。

 彼女の意図に外れた行動をとってしまったのだから責められるは俺であって翠ではない。
 まあ、バレたとしても恐らく大した損害ではないはず。

 大丈夫だとは思うが念の為謝罪の口上でも考えようかとしていると、麗さんは俺の下にやってきた。

「ほら、プロデューサー殿にもこれを」
 汗で薄い服が体に張り付いて、上気した全身からは石鹸の香りが漂ってくる。

「あ、ああ。ありがとうございます。…お、歌詞カードまで入ってるんですね」
 流石指導を続けるベテランだ、引き締まった肢体はアイドルとしても十分やっていけそうである、とついつい考えてしまった事をすぐにかき消す。


 クリアのCDケースに目をやると、中には簡素な紙の歌詞カードが入っていた。

「当然だ。字面から感情を励起させるのが重要なのだからな。プロデューサー殿は既に聞いているだろうが、これからもよく聞いて、翠を適切に指導できるように準備しておいて欲しい」
「わかりました。カラオケで90点出せるぐらいに頑張ります」
「…そういうことを言っているんじゃないぞ」
 彼女は俺の胸を小突くと、くすりと笑ってみせた。

 あまり破顔することはないように見えても、目を細めて小さく笑う表情はなんとも言いがたい綺麗さがあった。





「それと、レコーディングの予定も早めますかね?」
 レコーディング、すなわち収録というのは、フェスでの披露と同日に発売する予定のCDの事だ。

 歌を歌わせたいと営業をかけても気にかける素振りすらみせなかったレーベルが、自前で音源も全て確保できているということを種に粘り強く交渉すると、なんとか合意にまで至ってくれたのだ。

「いや、収録で手間取りたくはない。ボーカルレッスンを増やして予定はそのままにしよう」
 麗さんはポケットの中のメモを取り出して何かを確認する。

「はっきり言って歌唱レベルはまだまだだ。だからその時までに私がなんとかしてみせようじゃないか」
 内心では彼女も楽しんでいるんじゃないかと思えるような節が時折見え隠れしている。

 仮に俺が指導する立場だとしても、やる気のない生徒よりもやる気のある生徒の方が楽しいと思っているだろうな。

 そもそもアイドルになる人間がやる気が無いなんて、その場でクビになってもおかしくないし、大抵の場合はスカウトの時点でお断りである。





「頼もしいですね。麗さんもフェスに参加して翠の隣で歌っちゃいますか?」
「んな、何を言っているだキミは…!」

 あ、麗さんはこんな表情もするのか。

 小さくのけぞり、赤らめつつ呆気に取られた顔をしている彼女がトレーナーで終わるのは勿体無い気もした。

「はは、冗談ですよ。イケるとは思いますけどね」
「巫山戯るのも大概にしてくれ。…私にそんなことはできないよ」

 …まあ、それは彼女が決めた人生なのだから俺がとやかく言う話でもないか。


「それでは明日もここで?」
「問題ない。明日でとりあえず歌えるレベルにまでは到達させてみせる」

 なんとも心強い言葉だ。

 それも、麗さんが培ってきた経験と知識に依るものなのだろう。
 彼女の表情に一切の不安の色はない。

「わかりました。…今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「ああ。よろしく頼む」

 軽く礼をすると麗さんも礼をし、小さな笑みを見せてから俺の横を通って部屋を出て行った。




「…将来は慶さんもあんな感じになるのかなあ」
 まだ鼻に残る微かな香りを感じていると、慶さんの将来がイメージされる。

 いや、あの可愛げな顔で勇ましい台詞は似合わないか。

「Pさん…」
 勝手に失礼な事を想像して思わず笑うと、いつのまにか着替えを済ませていた翠は俺の肩を叩く。

「ん……ああ、ごめん。じゃあ帰ろうか」

 汗も完全ではないが乾かしていて、風呂あがりのようなまとまらせた髪を揺らした翠は何故か不満そうな顔つきになる。

 何があったのだろうと訊ねようとすると、彼女はとんでも無いことを口走った。

「…浮気は駄目ですから」


 ……一体翠は何を言っているんだ。




  *



「声の引き上げができてないぞ。もう一度だ」
「はい――」

 一字一句をはっきり言うのではなく、大事なのは全体の波だ。
 麗さんはそこを絶対視しており、翠への指導もその点を欠かすことはなかった。



 レッスン場。

 CDプレイヤーから流れるオフボーカルに合わせて翠は歌う練習をかれこれ一週間程度続けている。
 練習を始めたのが十月からなので、あともう少しすればフェスまであと一ヶ月となろうかという頃だ。

 ここからは、まず静止した状態での歌唱を上達させ、次にフェス会場の構造を研究した上で適切なダンスを教えることとなっている。

 たとえば大勢のバックダンサーと共に激しいダンスをしながら歌うのであれば、その関係者とともに綿密な連携を練習することが大事だが、今回翠のデビュー曲であるこの歌に限ってはそれが必要とならない。

 あくまで静かに、それでいて心に強く訴える激しさを伴うリリックが最も重要なのだ。
 それ故に、こうしてボーカル練習に多くの時間を割くことができているのだった。






「今のところは良いが、声の切り方が強すぎる。下りを意識しろ、いくぞ」

 プレイヤーを停止させたかと思えば、少し巻き戻して麗さんの思う訂正箇所から再生を始める。
 全く翠の発言を許す隙もなく、絶え間なく練習が続く。

 止むを得ない、と言えばその通りなのだろう。
 なにせ、時間がないことにはかわりがないのだ。

 それでも学園祭より倍近く時間がとれているというのだから、この練習がどれほど濃密なのかはもはや言うまでもない。


 俺は今日の分の営業を終えてからレッスンを見に来たので、もう日は完全に落ちきっていた。
 ということは、翠は仕事の予定が今日は無いので、朝からぶっ通しでやっていることになる。

 休養の時間や頻度については俺よりも麗さんの方が博識だと思うので、レッスンのスケジュールは基本的に彼女に任せている。
 仮に俺が仕切ってしまえば、変に過保護になってロークオリティのパフォーマンスを披露することになるとかなってしまうのかもしれないのだから、納得はしている。

 麗さんも麗さんでスケジュールを決める時は俺に逐一打ち合わせという形で報告してくれるし、何よりその時の進行状況で臨機応変に変えてくれるので不安はない。




「よし、休憩だ!」
 何度も繰り返されるBメロからサビへの移り変わりが、ぱん、ぱんという麗さんの拍手と共に打ち消された。

 時間的に、あとは最終確認という形で流すように復習するのだろうか。


「……ひとまずお疲れ様。今日もいい感じだったぞ」
 低い天井を仰いで息を出し入れする翠の下に駆け寄って、タオルとスポーツドリンクを渡す。
「はあ、はあ。ありがとうございます…」
 客観的に見れば、ただ立って歌っているだけの練習だが、本人に関わる心身内部の処理や雰囲気による精神的なプレッシャーに、流石の翠も疲労を隠せないようだった。

「何度も繰り返されるのはそこが重要な証だ。覚えて、できるようになろう」
「ふぁ」
 俺がタオルで顔を拭く翠の頭に乱暴に手を置くと、翠は変ではあるが可愛らしい声を上げた。

 ……最近では、こうして翠の頭に手を置くことも珍しくなくなっていた。

 無論翠が嫌がっているのに無理やり、という訳ではない。
 それどころか、撫でるたびににこやかな表情を見せてくれるのだ。


 実を言うと、もはや翠の髪に振れることに抵抗感は全く無くなっていたのである。





「相変わらず仲が良いな。少し羨ましいよ」
 良い事か悪いことか。
 それがこの先どういった事態を呼ぶのか。

 全く不透明な未来に目を背けていると、壁際で休憩していた麗さんが俺達の所へ来て声を掛けてきた。

「…麗さんも撫でましょうか?」
「要るか、馬鹿者」
 先ほどの言葉を察した俺が恐る恐る提案をすると、軽く頭を叩かれてしまった。
 しかし麗さんの身長は女性の平均より高いとはいえ俺よりかは低いので、少し手を振り上げて無理して叩く形になるのが、何とも冗談めかした雰囲気を醸し出していた。

「それよりだ、翠。これが頼まれてた物だ」
 はあ、と嘆息してから、麗さんは翠にペットボトルを手渡す。
 それは、先程から彼女が手に持っていた何やら黄色い液体が入ったラベルのないペットボトルであった。

「ありがとうございます。あ、こんな色…少し薄いんですね」
 会話がスムースに言っていることに俺は疑問を抱く。

 彼女達の反応を見るに、さも前々から何度も話していたかのようではないか。

 そうした俺の言葉は、翠の言う答えとして返ってきた。




「実は健康管理の面でもお世話になってまして、良いドリンクの自作法を教えてもらってたんです」

 薄い黄色の液体の入ったペットボトルは、翠と麗さん、それぞれ一本づつ携えている。話から、どちらも麗さんが作ったということだが…。

「ああ、実は私なりにレッスンに役立つドリンクを研究していてな……ちょうどいい、プロデューサー殿も一度飲んでみるといい」
「え? いいんですか?」

 思わぬ提案とともに、麗さんは俺にもう一つのペットボトルを手渡した。

 そもそも、彼女が指導の傍ら自分でドリンクを作ることもしている事が初耳だった。
 これも指導に対する思いのなせる技なのだろうか。

「では少し……ん? 思ったより甘いですね」
 キャップを開けて少し口に含むと、途端にほのかな甘味が口腔を撫で回す。
 そして喉を通れば喉に何かがまとわりつくような感覚がした。

 例えるなら、ウーロン茶の逆の感覚だ。
 ミルク系の独特な感覚がしたが、決して嫌になるタイプの飲み物ではない。

「基本的なレシピは変えていないが、人の好みで…今回は翠用に分量を変えているからな。そうだろう、翠?」
「あはは…恥ずかしいです」

 パフェを人並みに好んで食べる翠の好みを理解しての調合らしい。
 それでいて本来の目的である休息な栄養吸収を妨げることなくしているのだから、相当やりこんできたのだろう。





「全く、それにしてもキミが最初持ってきたドリンクを見てびっくりしたよ」
「や……!?」

 やれやれ、と言った風に手をひらひらとさせる麗さんを見て、翠が急に慌てる。

「それって……まさか」
 最初に、という言葉が、俺の記憶を意識に隆起させた。


 そう、年月で言えばおよそ半年前。

 俺のためにわざわざ自分の飲み物を分けてくれたにもかからわず、吹き出してしまうような酸味の効いたあの飲み物だ。

 彼女は弓道の部活のためにあれを自作していたと聞いたが、まさか今でも続けているとは思いもしなかった。

「…私も、ちゃんとした物が作りたいと思ったんです。それで」
「真面目だなあ」
 そう言って、再度翠の頭に手を置いた。

「翠もそれだけやる気を持って今回のレッスンに臨んでくれているということだ、私としては歓迎だよ」
 くす、と笑みを浮かべて、俺が持っていたペットボトルを返してもらう形に持っていく。

 既に休憩といえる時間はゆったりと流れ切っている。

 麗さんも本日最後の一仕事をやるつもりだろう、壁際に荷物を置きに行く。




「よし、最後まで気を抜かないようにな。頑張れ」
「わかりました、Pさん」
 もらったペットボトルのドリンクの水面を少し下げると、キャップを閉じて翠も荷物を戻しに行った。

 今日一日全体で言えば、終わりまでの時間など些細にしか感じないが、この時できているかどうかが今日のレッスンの総括となる。

 出来なければ、また明日同じ事をする。
 それで、本来するべきスケジュールがどんどんズレていく。

 予定調和などありえない話だというのは重々理解はしているが、大きすぎるズレは最終的な結果にまで影響するのだ。

 だから、決して立ち止まっては行けない。

 少なくとも……フェスの終わりまでは。


 再び最初から流れる新曲に合わせて歌う翠の声に耳を傾けながら、成功する未来を夢想する俺だった。





  *



「本日のゲストはおなじみ水本ゆかりと、そのお友達の水野翠さんですー!」
今まで行ってきた中でも最も大きなスタジオで、二人は拍手とカメラに包まれた。

 家を意識したセットの中に設けられたソファには、翠とゆかり、そして進行役の男性と二人コンビの芸人がそれぞれ座っている。


 翠も最近では、ゆかりのお友達として全国テレビに出る機会も僅かではあるが増え始めていた。
 性格や雰囲気が似ているためか、巷でも二人セットで扱われる機会が増えて、その度にゆかりのプロデューサーから苦笑交じりの嫌味を言われることも多くなった。

 アイツの食い扶持が減るだろ、とは口癖らしい。



 きっかけといえば、プライベートでの写真だろうか。


 俺も翠に教えられるまで気付かなかったのだが、ゆかりは事務所の命でブログを開設していたらしく、時折ゆかりの私生活やお気に入りの服や音楽について写真を添付して投稿していた。
 その中で、去年とは違ってある時から翠と一緒に写っている写真がぽつぽつで出始めているのだった。


 そういえば、という言葉が入る。

 学園祭の前後の頃、翠に携帯で撮影した彼女達のツーショットを見せてもらった事がある。
 その時の表情を見て、私的な友好関係を持ってくれているのだな、としか思わず、特筆すべきこともなく流してしまったのである。

 こういったブログでの公表に対して自由にやって良い訳ではなく、恐らくではあるが投稿の際には監視役…この場合、ゆかりのプロデューサーがチェックするのが当たり前だ。

 その上で画像が公表されているということは、すなわち彼も二人組として扱うのがゆかりにとっても良いという、相互利益関係が成立していると考えていい。


 現に、こうして二人でテレビに出演し、出会いのきっかけや趣味の話でスタジオを盛り上げていけているのだから、その考えは至極正しいのである。




「この前も忘れ物をして家に戻ったとき、何を忘れたのか忘れたこともあって……」
「どこまで忘れるんだよ!」
 スタジオの入り口付近、カメラの後ろで静かに俺は二人を眺める。

 ある程度決められた台本を渡されているとはいえ、翠の行動はやけにボケに冴えていた。

 芸人の指摘に観客も声と笑みを漏らす。
 この部分は台本で指定されているのではなく、トーク部分として時間だけ割り振られた部分だ。

「あのーお聞きしたいんですが、翠さんはいつもこんな感じなんか?」
「いつも…割とだよね?」
「違いますよ! たまたまです!」
 追い打ちを掛けるようにゆかりも翠にツッコミを入れると、手を振って翠は弁明する。

 本人たちはわざとやっているのかどうか分からない程に自然な口調で事実確認をしあっている。
「いやだって、前に私の家に来た時も私の服を着て帰ったことありましたよね」
「どういうこと!?」

 その会話も咬み合わっておらず、ズレっぷりが一層笑いを呼んでいた。


 ……というかその話は俺も初耳なのだが、本当に何があったのだろうか。



  *



「その話は恥ずかしいから止めて下さいよ、ゆかりさん…」
「ウケてたじゃないか。流石だな」
 ゆかりのプロデューサーは遠慮なく翠に言うと、うう、と羞恥心を漏らしていた。



 収録終了後。
 出演者やスタッフの方々に挨拶をして用意されている楽屋に戻ると、疲れ果てたかのように息を吐いて翠は椅子に座った。

 いつものきりっとした姿勢はどこへやら。心底恥ずかしいといった表情でため息をついていた。

「…あれ、本当なのか?」
 放送中で全て語られた事なのだが、どうやら翠がゆかりの家に遊びに行った時、二人で服の着せあいっこをしていたらしい。

 何でもスリーサイズがほぼ相違ないからだそうだ。
 身長こそおよそ10センチも違うのだが、着る服も似通った趣味をしていることから、そういう流れになってしまったらしい。

「…本当です。ゆかりさんって、スタイルいいですよね」
「翠ちゃんだって、身長が高くて羨ましいです」
 まあ三歳違いでスリーサイズがほぼ同じとあれば、そう言ってしまうのも無理はない。

 お互い褒め合う二人だが、どちらも気にする部分というものがあるのだろう。


 その会話を眺めていると、ゆかりのプロデューサーはぱん、ぱんと手を二回叩く。





「ゆかり。そろそろ時間だ。次の仕事に行くぞ」
 私的な会話から仕事の会話へと移り変わったのがはっきりとわかった声色だ。

 彼女もそれを聞いて理解し、落ち着いて「はい」と一言返事をして荷物をまとめ始めた。

「お疲れ様です。またどこかで」
「おう、またな」
 彼のプロデューススタイルについてこちらが文句をいう筋合いはない。
 むしろそれで上手く言っているのだし、ゆかりも不満を抱いていないのだから、それはお門違いだろう。


「……できました。じゃあ翠ちゃん、また会いましょう」
「はい!」

 去り際、ゆかりはこちらを振り向いて礼をすると、翠も丁寧にお辞儀をした。


 友達とまで行っても、こういった様式というのはいつまでも変わらないようだった。




  *



「飲み物、何がいい?」
「あ、ではお茶をお願いします」

 自販機からお茶とコーヒーを取り出すと、片方を翠に渡し、歩き出す。



 ――外。

 日差しはまだ心持ち温かいが、しっとりとした空気と撫でるような冷風が俺達を抜かしていく。

 そんな中を二人で歩いていた。


 今日はちひろさんが車を使っているため、電車で事務所まで戻ることになっているのである。
 悪いな、というと、歩くのは嫌いじゃないですから、と翠は笑顔で答えてくれた。


 燦々と輝くような笑顔ではないが、落ち着くような、素朴な笑顔はそれと違ってまた可愛げがある。

 コーヒーを持ってない手で頭を二、三度叩いてやると、こちらをみてまた笑みを浮かべてくれたのだった。





「…寒くなってきたな」

 今日の分の仕事は終わったが、時間で言えばまだ昼過ぎという頃合いである。

 ゆかり達のように、一日に何度も仕事場を回るような忙しい日々にはまだまだ遠そうだった。

 しかし仕事とは別に、今彼女にはフェスに向けたレッスンという大事な用事がある。
 当然昨日も夜までレッスンをしていた。

「そうですね」

 通常の感覚で言えばそこまでして後何を練習することがあるのだ、と思ってしまうが、柔軟やメンタルトレーニング、当日の流れについての復習など、内容が尽きることはない。


 …とはいっても、体力というものは無限に限りなく近いようで、無限ではない。
 仕事があるから、という名目で、今日はレッスンがお休みなのである。


 まだまだ冬というには暖かすぎる。

 しかし、彼女のつけた手袋が、冬の気配を色濃く描き出していた。





「途中寄りたい所とかはないか?」
 人がまばらな平日昼の駅。

 椅子に腰掛けた俺と翠はしばらく景色を見ていたが、俺は不意に声をかける。

「…特にはないですね」

 寸分考えてから、翠はそう言った。


 レッスン漬けの毎日と一生懸命こなす仕事。

 営業という仕事もパフォーマンスという仕事も、どちらも辛いことには変わりない。
 だが、精神的な負担はきっと彼女のほうが多くのしかかっていることだろう。


 せっかくの午後の休みを得られたのだから、もしかしたらどこかに行きたいと言うかもしれない、そう思って訊いたのだが、存外そうでもなかったらしい。

 まあ、彼女なりにそういう所も自己管理が出来ているということなのだろう。
 未だレッスンは熾烈を極めているが、それでも順調に進んでいるのなら、こちらから働きかけることはない。


 やがて視界の横で電車が遠くから大きくなっているのを見つけると、立ち上がってその時を待った。




  *


 ――Pさんの家って、どんな所なんですか?


 がたん、ごとんと揺れる車内。
 小気味よいリズムに乗せて、隣に座る翠は訊ねた。


 俺の家はちひろさんの実家のように一軒家ではなく、オンボロなアパートに一人暮らしだった。
 どこでどう暮らしてどう仕事すればいいのか理解らなかった入社前、社長に斡旋してもらって決めた部屋である。

 エアコンはついていないし壁も薄い。
 床は軋むし少し臭う。日当たりも悪い。
 この冬もきっと辛い日々が待っているだろう。

 そんな悪条件でも駅からは近く、家賃も安い。たったそれだけで決めた部屋だが、後悔はしていない。

 自立して暮らす初めの頃は、大体こんな感じなのだろうという予想はしていたし、意外にも住めば都という言葉がぽんと出てくるのだ。

「…まあ、ろくでもない所だよ」

 笑って答えると、彼女の表情が少し変わる。

「いつも仕事で大変なのに、そんな場所では休めないのでは?」
「そんな場所でも城は城なんだよな、意外に」

 翠の実家に入ったことのある身としては、落差には涙を禁じ得ない。
 しかし、男の一人暮らしなんてものはこれが当たり前なのだ。





「Pさん、確かお昼はいつもコンビニでしたよね」
「…よく見てるな」

 翠の質問は続く。

 家に帰る時間や睡眠時間、そして毎日の食事についてなど、俺の不摂生を明るみに出したいが如く、痛いところを突いてくる。


 そう言われて初めて、俺って結構後先考えない生活してるよな、としみじみ感じた。

 彼女のプロデュースが原因、とは言わない。
 ただ、翠の事を一日中考えているので他のことが手に付かないだけだ。


「…そうですか」
 不意に質問が止む。彼女の声に傾けていた耳の中が、車内の雑音で独占される。

 もう俺の家の話題は飽きたのかと翠の横顔を見てみると、俯いて深く考えているようだった。

 真面目な彼女の事だ、もしかしたら健康的な生活のためのプランでも考えているのかもしれない。
 確かに翠と出会ったきっかけからして、困った人を放っておくとは思えない。

 彼女を彼女立たせている大きな要素は、素直と献身なのだ。


 さて翠は懸命に考えて何を言ってくるのだろう、と予想を脳内に蔓延らせて若干楽しみに待っていると、とうとう本人の口が開いた。


「寄りたい所が決まりました。――Pさんの家に、行きたいです」
「……へ?」

 この子は一体何度突拍子もない発言をすれば気が済むのだろう。


 ゆらゆらと揺れ、流れる景色の中、その言葉を噛み砕くのには結構な時間を要した俺だった。




「…えーと、どういう意味?」
 Do you meanと聞こえようがなんだろうが、大体の意味は同じである。

「私のために時間を割いてくれるのは嬉しいです…けど、Pさんがそれでは私も心配です。今日だけでも行かせて下さい。…Pさんの役に立ちたいんです」

 おおよその意味は俺に通じていたようだった。

 尤も、そうであって欲しくなかったという気持ちは十分にあるのだが。

「…ありがたいけどな、それは無理だろう。翠ももうそこそこ名前も売れてきたんだからさ」
 プロデューサー、しかも男性の家にアイドルを連れ込むなど言語道断である。

 並み居る有名アイドルに比べればまだまだとはいえ、翠も今や全国テレビにも顔が写るまでになった。

 それを知っていてなお行きたがる神経が、俺には全く理解できなかった。


「…じゃあ約束して下さい。健康的な生活を送ると」
「うっ」
 半目で問い詰めるように翠は俺を睨んだ。

「……や、約束する」
「嘘です」

 元々歳以上に凛々しく見える容姿が今はもっと大人びて…いや、厳かに見える。
 それは久しぶりに帰省した実家で母親に生活を指摘されているような感覚に陥らせた。





「私の事が心配だというのなら、Pさんも心配かけないような生活を送って下さい。それができないなら――」
「ちょ、静かに……。静かに、な?」
 長丁場になりそうな口上を慌てて制止する。

 いくら電車の中に人が多くないといっても、居ることには違いないのだ。

 見た感じでは、残念ながら翠が座っているということに気づいている様子はない。
 しかし、そんなレッドラインを滑水するような会話はどう考えても不味い。


 ……普通に断ればいい。

 その場しのぎで騙してこのままの生活を続けたところで、どうせバレるはずもないのだから。


「……Pさん」
 だが。

 彼女の視線は強情を通り越して脅迫にとられかねない程の強さを持っていた。

 何やら、例え嘘をついてこの場を抜けだしたとしても、こまめにチェックしだしそうな雰囲気すら感じる。

「…わかったよ」
 そこまで俺の事を心配してくれているのか、と嬉しくなる一方、自覚のなさに若干の焦りを覚える時間となった。


「ふふ、ありがとうございます」
 まるで狡猾に見える彼女の笑みを他所に、俺は一つ嘆息する。
 とりあえず、ちひろさんにだけはバレないようにしないといけない。


 ……まあ、初めから俺がまともな生活を送ればいい話なんだけども。




  *



「ここが俺の家だ。まあ入ってくれ」
「わあ…ここがですか」

 駅から徒歩5分ぐらいか、静かな住宅街の中に俺の根城はあった。


 ガチャリとややぎこちない音を立てて玄関の扉を開けると、先に翠を入れてやる。

 念の為に駅を降りてから誰かにつけられてないかそれとなく確認してみたが、俺達以外に降りた人は居なかったので悲喜こもごもの感情を抱きつつ、俺も家に入り、扉を締める。

 翠は事前に渡して着用させていたマスクを外すと、丁寧に畳んで彼女の鞄の中に入れた。
 無論念には念を入れての変装のためだ。


 こうなることを予測して準備しておいたのではない。

 ただ、もうすぐ冬も近く、風邪菌を体の中に入れないようにと思って忍ばせていただけのことだった。

 まあ結果的に心理的安寧の役には立ったので良しとしようか。

「…思ったより綺麗ですね」
「翠は俺のことをどんな人だと思ってるんだ…」

 期待はずれというか、拍子抜けというか。
 そんな気の抜けた声で感想を言われてもいまいち喜べない。




 自分の部屋に返ってきたのにいつまでもスーツ姿は息苦しい。

 とりあえずスーツを脱ぎネクタイを解く。そしてそのままハンガーに掛けようとすると、翠がそれを奪いとってしまった。
「これぐらいさせて下さい。掛けますね」
「…あ、ああ」

 壁の木枠に吊るしてあったハンガーにスーツとネクタイを掛け、シワの着いた部分を軽く撫でるようにはたいた。

 今翠は私服姿だから冷静でいられるが、もし格好があの学校の制服であったとしたらいささか犯罪臭がしないでもない。

 そう考えるとこの状況が如何に不味いかがよくわかろう。


「晩御飯までは時間がありますね…部屋もそこまで汚れていないようですし」
「汚すほど部屋に居る時間が長い訳じゃないからなあ」

 俺の部屋には残念ながら客をもてなすような設備は全くと言っていい程存在しない。

 唯一のクッションである綿の潰れたベッドに翠を座らせて、俺はベッドを背もたれにするようにして下に座る。

「あ……すみません、Pさん」
 座る高さが違うせいか、珍しく俺が翠に見下される形になったのを感じ取ったようで、彼女も俺の隣、ベッドから降りてさっと座った。

 どちらかといえばベッドに二人並んで座ることが何となく気が進まなかったからである。

 なので気にすることはないんだぞと言ってやると、翠は目線を自分の膝に落として呟いた。

「…見上げている方が、私、好きですから」

 変わった人だ、とつくづく思う。




 昼下がりの午後。

 この付近は騒ぐような人間は居らず、うるさいといえば時折通る車の音や早朝の鳥達の音ぐらいである。
 ましてや人の声で喧騒が生まれることなど、俺の知る限りでは全くない。


 そんな壁掛け時計すらない簡素な部屋の中に、俺達は同じ方向を向いて座っていた。
 目の前には小さなテレビとテーブル、そしてパソコンがあるだけだ。


 よくよく考えてみると、まるで不思議な雰囲気である。

 そこまで広くはないが年齢差のある俺達が、はしゃぐ訳でもなければ大笑いして話す訳でもなく、こうしてじっと静かに過ごすという空気が想像以上に異質で、それでいて新鮮だった。


 ちらりと翠を見ると、それに気づいたらしい翠も俺を横目で見て笑う。
「…そんなに私がここにいるのがおかしいですか?」
 冗談めかした声色だ。

「そりゃあ…今まで誰かを中に入れたことすらなかったからなあ」
「本当ですか?」
「嘘つく意味はないさ」
 天井を仰ぐ。
 やや痩けた色をした合板がこの部屋を包んでいた。


 実際、入居してから今までの間にこの部屋に誰かを招いたことは一度もない。
 それどころか俺自身ですら、合計の時間で言えば外にいる時間のほうが多いぐらいだ。

 そんな寝るだけの部屋に俺以外の人間…それも担当するアイドルがいることに、とても非日常感を覚える。

 言い換えれば、ある日しがない人間である俺の下にテレビで見る可愛いアイドルが突然やって来たというような物だ。

 漫画であれば使い古された設定だろうが、まさかそれが現実に存在するとは誰も思うまい。





 静寂は徐々に霧散していく。

 ぽつり、ぽつりと普段のこと、最近のことを呟いて会話をした。

 学園祭のライブ後の時よりも、もっと深い、彼女の奥の奥。
 飾りのついた華々しいばかりではなく、素朴で、退屈で、取り留めもない人生の紹介だ。

 楽しませようというつもりはなく、ただ話し合う。

 それがビジネスパーソンとしての間柄でなければ友達という間柄でもない、ある種、家族のような近しさを覚えた。



 今思えば、翠とだけに静かに会話をするのは久しぶりのような気がする。

 最近の翠のスケジュールは多忙を極めていて、活動時間の殆どがレッスンで埋め尽くされている。
 その合間にも仕事が入っており、こうして二人で話をする時間というのは、いつのまにか貴重なものになっていた。

 それだけ合同フェスという存在が巨大なのだということが言えるのだが、気付かぬ内に話の内容が事務的なものに偏っていたことに今更ながら反省する。

「最近はゆっくりする時間を与えてやれなくてごめんな」
「……大丈夫です。今が大事なのは私も判ってますから」

 彼女は高校生だ。
 しかし、今は社会人だ。

 立場の変化に適応し遅れることのないように、と思ったが故になってしまった事態なのだ。
 せっかくだから今日ぐらいはゆっくり過ごしてもらおう。


 それが俺の家でなければな、という指摘は心の奥底で振り払っておいた。






「…ごめんなさい、Pさん」
「急にどうした?」

 肌寒い室内も、二人で過ごしていると心なしか暖かいように感じるまで進んだ時。

 ほんの少しだけ開いた間。前後をつなげるように、翠は言った。

「急に行きたいと言って、迷惑を掛けて」
 三角座りをして真正面をぼんやりと見ていた翠が、突如謝罪した。

「確かに驚きはしたけど…別にいいよ。心配かける生活してる俺が悪い」
 結局来てもらったところで何らかの指導が入る訳でもなく、家に来てからはただお茶を手元に話をしていただけだった。

 不安ではあったが俺達に害なす人影もなかったし、仕事というレッテルを剥がして話し合う時を俺も楽しんだのだから、翠が謝る必要はどこにもない。

 そう言うと、翠は黙りこくって俯いた。





 ふと彼女の横顔に注視する。

 先程まではこちらを見たり、窓を見たり、笑ったりするなど起伏に富んでいたが、今の彼女はどこか遠い目をしている。

 楽しそうとも退屈そうとも取れない、しかし通常の表情、という訳でもない。

 おおよそノスタルジックな雰囲気にあてられて感傷的になっているかのような……謝罪する時とも違う申し訳なさがあった。


 長く感じたようで実のところ一分も経たず。

 翠は少しづつ、思いを吐露し始めた。





「私が今日無理言ってPさんの家に行ったのは……ちょっとした、羨望なんです」
「せんぼう…羨ましい?」

 翠は最初に、そう語った。

 口語で羨望なんて言葉を使う人間がこの世界にどれほどいるのか。
 若干の理解タイムを経てようやく理解した俺が聞き返すと、はい、と彼女は小さく頷いた。

「……少し前、ゆかりさんの家に遊びに行ったらしいですね、Pさん」
「…どうしてそれを」

 出処からしてゆかりが翠にそう言ったのだと思うが、静かにそう指摘する彼女の落ち着き様に、僅かながら恐ろしく思えてくる。

 担当プロデューサーが別の…それも他所の事務所のアイドルの部屋に上がりこんでいたという事実に怒りを露わにしているのか、それとも失望しているのか。

 一瞬であらゆるシミュレート結果が出てくるが、彼女の言葉がそれを否定している。



 羨望、と。





「ゆかりさんの家に行ったのは、合同フェスに関する事で、なんらおかしなことではないというのは重々承知しています。ゆかりさんもPさんも……信頼していますから」

 もしも彼女の言ったその二文字が本心であるとするならば。

「ですが……仕事場以外で二人が会っていた事を聞いた時、胸が……寒くなったんです」


 どれほど抑圧された束縛の中で生きてきたのだろう。
 翠という人間は、齢十八にしてどのような環境で育ってきたのか。

 恐らく今の彼女の性格が形成されるに至った大きな要因は、弓道にあるはずだ。


 彼女にとって弓道とは、自己鍛錬という概念を学んだきっかけだった。

 その結果、翠は己で自身を高める術を手に入れた。
 自己管理や自己実現という手段を経て、努力へと昇華したのだ。

 それが彼女の持つ才能。
 ひたむきに努力し、真っ直ぐに学び、無我夢中に取り組む。
 そんな素質が、彼女を今という状況に結びつけてくれたのだった。


 しかしその一方で、それらは彼女を縛る見えない紐にもなっていたのだ。





「何故なんでしょう。今日だって、すぐ帰って自主練習をしなければいけないはずだとわかっていたのに…」


 自己犠牲、邁進。
 字面だけで見れば美徳で素晴らしく、潔白な人間に与えられる称号である。


 だが、彼女がそれを持つにはあまりにも早すぎた。

 設定された目標のために自分を高めていく。
 その過程で、進行に邪魔となる感情を抑えつけてきたことで、本来であれば誰しもが感じたり覚えたりする感情や感覚が身につかないという弊害が出てしまっていたのかもしれない。

 有り体に言えば、無垢なまま育ってしまったのだ。

 彼女の生きてきた時間からすれば俺の見てきた翠の姿はたった一年にも満たず、それ故に考えたことを口にすることは憚られる。

 わかった気になる、ということは一番やってはいけないことだからだ。


「プライベートの時間を、たった二人で過ごしていたということが……とっても、羨ましかったんです」

 ……それでも、俺の口は開く。




「…ごめんな。忙しくて」
「それは大丈夫ですから――」

 翠の言葉を遮って、続ける。

「そうじゃないんだ。高校生の大事な時期にアイドルにスカウトして、それでデビューからお茶の間に受け入れてもらえるまで時間がないように思えて。…俺は急いでいたんだと思う」

 結局は俺の都合。もとい、事務所の都合だ。

 誰ひとり所属していない事務所に、芸能界について何も知らない少女が所属し、何も知らないプロデューサーによって導かれていたというおかしさ。

 彼女が失敗すれば、俺どころかちひろさんや社長すら職を失ってしまうという焦燥感。


 それらが、彼女の成長を歪な向きに伸ばさせていたのである。




 翠は何も言わず、ただ俺の言葉の続きを聞く。

「余裕が出てきた今だから言えることだけど、できるならもっとゆっくり下積みをして、ゆっくり話し合って。本当にお互いが信頼できるように、わかりあってからアイドル活動を始動すべきだったんだよ」

「Pさんの事はとても信頼しています!」
 俺達のしてきたことは間違っている、と受け取ったらしい翠は俺を見つめ、強く反論した。

 違う。間違ってはいない。
 だた、ベクトルの解釈に相違があったというだけなのだ。


 彼女は、俺を信頼せざるを得なかった。

 全く未知の世界である芸能界に入る事に対して、俺を信じなければ何もできなくなってしまうからである。

 そして翠の持つ極端な人間性が、その信頼に拍車をかけてしまったのだ。


 今までに何度彼女を見間違えたのだろうか。

 ターニング・ポイントは恐らく学園祭だ。




 あの時翠は、俺を擬似的な相手として『恋心』を演出していた。

 まだ知らぬ感情に説明をつけるために、あんな事を言ったのだ。


 それは、客観的に見れば――冷静に判断すれば、異性への好意と解釈しても文句は言われない。

 到底不正解を言い渡せない程、翠の感情は愚直であった。



 しかし、問題は俺の行動だ。

 当時の俺は、そんな雰囲気を感じ取ったとしても、よもや現代の女子高生が自分のような人間に好意を抱くことなどあり得るはずがない、そう判断してしまったのである。

 故に、翠からの感情を年上への信頼と誤解して受け取ってしまった。


 そして、彼女にも同様のことが言える。

 きっと翠にとって、異性への好意という感情がまだ具体的にはっきりと形容できていないのだろう。
 今まで彼女と接してきて、そう思えるような出来事や言動は確かに記憶にある。

 何より翠自身が俺にそう伝えたのだから、歴然とした事実であるはずだ。

 …無論、その考えの根底には未だ『俺に異性として好意を抱くなんて変な話だ』という感覚があるからである。



 つまりだ。


 信頼と異性への好意を混同してしまった彼女。

 異性への好意を信頼と誤解してしまった俺。


 何とも馬鹿げた――特筆することもない、三文芝居であった。





 沈黙が設けられる。

 一台、車が通る音が、お互いの耳に入った。


 どうすればいいのだろう。

 どうすれば正しく導けるのだろう。


 それを熟考する猶予もなく、俺は再度口を開いて翠に問う。


「…翠はさ。俺のこと……好きか?」


 不条理な、問いかけだ。




「……え?」
 当然である。

 ぱちくりと目を見開いて、俺を見る。

 気温を言い訳には出来ない。うっすらと赤面していくのが俺の目にも見えた。


 トチ狂ったか、と言われても仕方がない。
 そうせざるを得ないほど、俺は解決策に飢えていた。


 どう流れを作っていくにせよ、まずは翠自身の本意を知らなくてはいけない。
 そのための問いなのだ。


 対する翠はというと、あ、だのう、だの、言葉にならないただの文字を言うだけで、ただただ困惑していた。

 そう呟けば呟くほど、ますます彼女の感情が加速していくのがわかった。






 ――そして、また少し経った時だ。


「好き、です」


 騒音のないこの世界の中で、か細い声が全身に響き渡った。







 何と甘美な響きだろう。

 美人な女子高生、それもアイドルに好意をぶつけられることなど、人生で一つもあるとすら思いもしなかった。

 しかし、現実だ。
 客観的に見てどうであれ、確実に俺のことを好きだと言ってくれたのである。

「…俺のどこをそう思ったんだ?」

 意地悪な質問に、俯いたまま彼女は言葉を紡ぎだす。

「……私に、道を作ってくれましたから。最初は、まさか本当にアイドルになれるなんて思わなくて、不安な私の背中を押してくれて」

 結果論だが、翠が俺に弓を引く姿を見せた時からもう、始まっていたのかもしれない。

「Pさんと仕事を続けている内にいつの間にか、私の前を歩いてくれる度、私の手を引いてくれる度、ドキドキして…でも、どうしたらいいのかわからなくて……それで」

 そう言って翠は言葉を切った。





 例えば、俺が学園祭で翠に対して行った『頭を撫でる』という行動が、『手を繋ぐ』だったとする。

 すると、それ以降彼女が俺に要求してきた行動も全て『手を繋ぐ』というものになっていたに違いない。

 翠の抱えている思惑というものは、一種のオウム返しに近い。
 質問に対しての回答が正解と信じて、それ以降はパターンとして当てはめる。


 素直すぎるが故の問題が、今噴出したのである。


 それを目の前にして取り得る行動は、あまりにも少ない。

 もしも俺がゆかりのプロデューサーのようにはっきりとしたボーダーを引いて接するような人間なら、論理的に説明して解決を図っただろう。


 だが、そんなことが俺に出来るかといえば、まず不可能だ。

 正誤はともかくとしても、彼女の思いを踏みにじる事になる選択肢は絶対に取りたくない。


 では俺はどんな行動を取ったか。


「よし。……じゃあまた今度、デートに行こう」

 ――蘇るあの時の記憶をなぞるように、俺は提案した。





 顔を紅潮させたままの翠を他所に、話を進める。


「好きという感情は、悪いものじゃない」

 翠のそれに流されてしまえば、俺は即座にこの立場を降りなければならない。
 本能に従うのは、奈落の底に飛び込む時だ。


 しかし、好きという気持ちは人をより大きく成長させてくれる大事な感情である。

 そういう感情を守り育んでいく事が、人間として、アイドルとして一層活躍していくために必要なのだという考えは教育論からしても間違いではないはずだ。

「でも…学園祭の時でも翠が言ってたように、アイドルとしてそれは絶対にやってはいけない事なんだよ」

 アイドルとして、間違った道に誘導するような事だけはしてはいけない。

 それでいて、頭ごなしに否定することだけはしてはならない。


 だから。

「だから、大事にしていこう。……好きという気持ちも、一緒に居たいと願う気持ちも」

 床に置いていた翠の手の上に、そっと俺の手を重ねる。





 一瞬体が震えて引っ込める力が加わったが、すぐさま力が解かれる。

 きっと彼女にとって、異性と手を繋ぐ事も、頭を撫でられた事も、こうして近くで見つめ合う事も初めてなのだろう。

 まるで異性との接触を禁じられた古いしきたりを律儀に守る、箱入り娘のような初々しさ。

 その感性を失わせることだけは、避けなければいけない。


「…約束です」
 俺の手の下にあった翠の手が裏返って掌が合わさると、彼女はそっと力を入れて手を握る。

「ああ、約束だ。この合同フェスが終わったら、オフを取って翠の好きな所に行こうじゃないか」
 忙しいのでは、という問いには、そんなもの知るもんか、と巫山戯て笑ってやる。


 赤らんだ頬から、最大級の笑みが零れた。





 あえて言うが、問題は解決していない。

 真意を引き出したところで、それが本当にそうなのかという判断はまた別の問題だからだ。
 一口に好きといっても、友人に対する親情や恋人に対する愛情など多岐にわたる。
 とりわけ感情の主が翠ならば尚更である。


 今の本人の気持ちとしては…言うまでもない話だ。

 しかし、これが今後どういう展開を遂げるかは誰にも…俺にも、翠にもわからない。



 だから育てるつもりだ。

 はっきりと本人が区別できるようになるまでは、恐れずに、驕らずに……誤らずに。




  *



「やっぱり、私はPさんの事が好きです」

 結局、お互い居た堪れなくなって晩御飯を食べること無く解散することになった。

 オフにも関わらず帰るのが遅くなるとちひろさんに怪しまれるからというのもあるが。



 そんな駅に向かう途中、やや暗くなり外灯が付き始める頃、翠ははっきりと俺を見て言った。

 まるで決意表明のような意気込みだ。
 あの時ぐちゃぐちゃに混乱した意識が、今になって落ち着いたからだろうか。

「はは、それって今言うことか?」
「わ、笑わないで下さいっ」
 茶化すと、もう、と頬をふくらませてしまった。




「…いけないことだというのは今でも判ってます。でも言葉にすると、何だかすっきりしました」

 真っ直ぐに生きてきた彼女にとっては、恋だの愛だのといった感覚が今まで不明瞭で、それ故に自分でも何が何だかわからないという感覚だったのかもしれない。

 それがあの時間を経ることで、一つ知り、学び、そして経験し、人として大きくなれたのだろう。

 もしそうであるならば、俺の言葉も無駄じゃなかったと言える。
 まかり間違っても恋愛感覚がエスカレートしなかったことが、俺を最大限に安堵させる一因となった。


「……あ」

 嬉しそうに隣を歩く翠が突如歩みを止めて、何かに気付く。

「どうかしたか?」
 立ち止まる意味が皆目見当もつかなかったので素直に訊ねてみるが、さっきとはうってかわって何やら言い淀んだ表情であった。



 一秒、二秒。いや十秒かもしれない。

 少しの間を開けて、彼女は言った。


「そういえば、返事を聞いてませんでした」

 あ、と漏らす声は俺から出たものだった。




「へ…返事?」
「そうですよ。Pさんが『好きか?』って訊いてきたから答えたのに、Pさんの気持ちをまだ聞いてません!」

 回想する。

「……そういえばそんな感じだったかもしれないな」

 あさっての方向を向いて頬を掻くと、翠は近づいて俺の手を取った。
 手袋越しの、少し冷たい手だ。

「せっかくですから聞かせて下さい、Pさんの気持ち。……私のこと、好きですか?」
 手をとるために近づいた顔が俺を見上げる。

「……っ」

 どうしてこう可愛げのある仕草をするのだろう。
 アイドルだからか、はたまた天性のものか。

 視線、顔の動き、服装、状況。
 どれをとっても申し分ない、心を高ぶらせるには文句ない環境だった。
 俺が教えた訳じゃないのにごく自然にやってのける様は、さながら誰かから教授してもらったかのような――。


 ……まさかゆかりじゃないよな?





「…好きじゃなかったら、あの時スカウトしてなかったよ。今でもその気持ちは変わってない」

 優勢だった関係がいつの間にか防戦になっていた。

 翠は俺の言葉を引き出すと、ふふ、と笑って手を離す。

「よかった。じゃあデートも最高の物になりますね!」

 狙っていたかのような仕草や言動に、ますます演技の才を感じざるを得なかった。
 先程まで赤面していた癖に何だか手玉に取られたかのように思えて、俺もささやかに反撃することにする。

「わわっ、やめ、ちょっとPさん!」
「大人をからかった罰だっ」

 自由になった手を翠の頭に乗せて、少し乱暴に髪をかき混ぜでやったのだ。

 ひとしきり髪を暴れさせてから手を放すと、苦笑しながら髪を押さえて直す翠の姿が見えた。

「…ふふっ」
「何だよいきなり」

 秋の夕日はどうも人を恋しくさせてしまうらしいが、その色を背景にして無邪気に笑ってみせる彼女の表情は……夕焼けの中でも暖かく映ったのだった。

中断。一週間にひとつのペースです、申し訳ない。

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青木麗(28)

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青木慶(19)


  *



「本当ですか!?」
 俺のひときわ大きくなった声は、電話先の相手に伝わる。

「はい…はい。わかりました。その時刻には必ずお待ちしております。ありがとうございます、よろしくお願いします」

 無機質な切断音を耳から遠ざけてボタンを押す。


「なんとか間に合いましたね」
 その会話を断片的に聞いただけで隣にいるちひろさんも内容を理解したのだろう、苦笑混じりに言った。

「ええ、試作品からあまり変更が要らなかったみたいですし…ちひろさんのおかげですね」
「どういたしましてっ」
 一応俺の方からもある程度の提案はしたが、ちひろさんのセンスが光るデザインが、大体のまま業者へと通ることとなった。


 明日には届く。

 ……これを見せたら、翠はどんな顔をするだろうな。




  *



 ――天気はやや曇り。

 合同フェスまで一ヶ月を切りそうな11月の終わり頃、俺と翠、そして麗さんと共に小さな録音スタジオへと足を運んでいた。


 当然することといえば、レコーディングである。


 麗さんと行う何日にも及んだ練習の末、翠はようやくそのレベルにまで到達したというお墨付きをもらったのだ。

 本来なら俺と翠だけで行く所を、せっかくだからということで麗さんにもアドバイザーとして付き添ってもらえることになった。

「まあ本音を言えばもっと練習させてやりたかったけど。それでもそれなりのレベルにはなっているはずだ、自信を持つといい」
 実際、曲を習い始めてから一ヶ月も満たない期間でのレコーディングは他所から馬鹿にされても仕方がない程だ。

 それほどにスケジュールは相変わらず切迫していて、まだ予断は許されない。

「全力で、な?」
「…もちろんです」

 彼女の顔は、以前よりも根拠のある自信に満ちているようだった。

 きっと麗さんの言葉がそれに繋がっているのだろう。





「皆さん本日はよろしくお願いします」
 録音スタジオには、エンジニアの人と今回のCD制作に携わるレコード会社の担当者数人が居た。

 三人揃って礼をすると、あちらこちらから、よろしくお願いします、という言葉が届いた。
「よろしく…と、この方は?」
 その中の一人の壮年の男性、音楽プロデューサーは手を差し出して訊ねる。

「ああ、申し遅れました。そちらの方に事前に連絡をさせて頂きましたが、翠のサポートのために共に参ることになりました、青木です」
「初めまして、青木麗と申します。…いや、そうでもないか」

 単独で自己紹介をすると思いきや、突然砕けた口調で音楽プロデューサーにそう言った。
 年齢差にして二十はありそうな年上の相手にしては少々推奨できない。


 どういうつもりですか、と窘めようとしたその時。


「青木麗……というと、ああ、思い出したよ、君か」

 顎をさすりながら、彼はすっきりした風に返事をしたのだ。





 恐らく長年この業界で仕事をしてきたのだろう、随分熟練した雰囲気を持つ彼は、驚いたように話を続ける。

「いやいや、名前を聞いてびっくりした。まさかこんな新人に付いてるとは」

 失礼な物言いだが、言い返すことはできないし、してはいけない。
 取引先で更に目上の人なのだから、と気持ちを抑える。

「ちょっとした気まぐれだよ。今回もよろしく」
「おおそうだな。頑張ろうじゃないか、はっはっは」

 身長はやや小柄だが、少し太った体が彼を豪快に見せた。
 随分とざっくばらんな性格に見えるが、CD交渉をした時はもっと厳かな人だったのだから、人というのもなかなか難しいものだ。


「一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 翠も改めて皆に挨拶をしたところで、早速レコーディングが始めることにした。


  *


「止めて…一旦止めてくれ。翠、そこは違うぞ。わかってるか?」
 麗さんのスパルタは場所が違っても相変わらず炸裂していた。


 確かに、録音するために歌うというのは独特な雰囲気を持っていて、未経験であった翠にとってはそれが全力を阻害する原因となっている。

 またこうして全員から近くで見られる中歌うというのもやり辛くしているのだろう。

 俺にも、翠が細かい所だが音が外したりうわずったりしていることがわかる。
 何度も何度も、練習で歌う姿と声を聞いているからだ。


 こんな場所にまで言われるなんて、俺が翠の立場であれば悔しいやらもどかしいやらで大変だっただろうが、翠は恥も外聞もなく麗さんの言葉に耳を傾けていた。




「はっはぁ、やっぱり変わってないな」
 ソファの隣に座って彼女達の会話を眺めていた音楽プロデューサーは楽しそうに呟いた。

 彼の先ほどの会話から察するに、過去にも何度か…それも、一般的に頻繁といえる程に共に仕事をしてきているようだ。

 対外の相手に対しては礼節をもって話をする麗さんが、彼に対してだけは何やら親しげにしているのだから、相当なのだろう。

「…よく一緒に仕事をするんですか?」
 途端に気になってしまい、つい俺は訊ねてしまう。

 んー、と俺の問いかけに気づいた彼が、癖らしい顎をさする動作をしながら答えた。

「お互いこの世界にずっと居るからなぁ。嫌でも会うね」
 はっはっは、と笑う姿がとても似合っていた。

「最近はそこまで会わなかったから一瞬忘れていたなぁ。…この光景も、前に見た」
 この光景、というのは無論麗さんが録音を中断させて指導を行っている今の姿である。

 それに加えて、彼の先ほどの『こんな新人』という発言を総合すれば、当然だが麗さんは普段更に上を目指す上級のアイドルを担当しているのだろう。

 ちひろさんとの因縁から翠に付いてくれることになった関係ということは以前知ったが、一体彼女達の過去には何があったのか。

 果てない問いを続けていると、彼は麗さんの背中を見ながら続ける。




「翠ちゃんは、この曲を合同フェスで発表すると共に発売する気だろう? よくこんな無謀なことするもんだ」
「…どうしてそれを?」

 合同フェスに参加する人間は、運営や事務所の関係者以外はしかるべき日までは知らされないはずだ。

 その事を問うと、彼は笑う。
「俺だぁって何十年もここにいるんだ。勝手に入ってくるし、第一なんとなくわかる」

 ……熟練者の勘というのは侮れないな。
 今回のイベントに関し、様々なルートから情報を仕入れてくるのだろう。

「まあ、それでも新人がー、だなんて命知らずなことに変わりないなぁ、全く」
 苦笑して済ますしかできない程、彼の言葉には反論できない。

 その洗礼を身をもって知ったゆかりからも止められたのだ。
 体験しなくとも、最悪の結末は嫌でもよく想像できる。

 それでも進むと決めたのだから、今どうのこうの考える事はしたくない。

「大丈夫ですよ。翠ならやってくれます」
 彼に言う。
 どこか翠が可哀想だという感情が伝わってきたからだ。

「根拠は?」
 どうせ担当のプロデューサーだから贔屓してそう言うんだろう、とでも言いたげに訊き返してくる。


 ここで翠の練習量を言ったところで、信用はしてくれない。

 なので、未だなお指導している彼女――麗さんに聞こえないように、俺は答えた。
「…担当があの人ですから」


 ……なるほど、という彼の言葉は、やけに納得したように聞こえた。




  *



 最終的に、半端でない位にリテイクを重ねた末、ようやく麗さんや音楽プロデューサーからの評価をもらって録音終了となった。

 午前から始まったこの作業も終わる頃には既に正午を過ぎていたことに、録音スタジオから出てから気付く。

 恐らく関係者の中には次の録音に立ち会うスケジュールを考えるために時間を確認して気付いていただろうが、全員が昼食を口にせず、翠の録音作業に集中していた。

 指導は麗さんだけではなく音楽プロデューサーからも入るようになったのも、時間が長引いた原因だろう。


 しかし、その時の彼の顔は苛立ってはいなかった。

 『こんな新人』である翠に対して場所関係なく熱心に指摘する麗さんの姿が、彼の心境に変化を与えたのかもしれない。


 それはすなわち、翠自身の録音作業への、ひいてはアイドルとしての姿勢があの場に居た皆に心理的影響を与えたに違いない。

 誰もが、リテイクを喰らう翠に対して不快感を抱いていなかったのだ。
 彼女の全力が、良い評価へとつながったのである。


 ……そう判断しているのは担当プロデューサーたる俺だから、特別そう見えるのかもしれないのだけども。




「…何度も失敗してしまってすみませんでした」
 空調の効いていたスタジオから外に出ると、一気に体が震える。

 とりあえず喉を休めるためにと麗さんが持参したドリンクを渡しつつ車に戻る途中、翠は突然立ち止まり、頭を下げた。


 そういう話は後でもいいだろうに、と思ったが、彼女なりに今言わなければいけないと判断したのだろうか。

「…ほら」
 呆気に取られていると、隣に居た麗さんは俺の腕を掴んで翠の方へ差し出した。
 ぼさっとしてないで気の利いたことを言ってやれ、とでも言いたげな表情だ。


 よくよく思えば、アイドルの言葉に対して適時適切迅速に言葉を返す事こそが担当プロデューサーとしての役割の一つなのである。

 それを麗さんに言われるまで気付かなかったのは俺の気遣いが足りなかったと言うことだ。


 こういう所もまだまだ未熟なんだな、と俺は思う。





「――あれは失敗じゃないよ」
 歩み寄って、慣れた動きでゆっくりと翠の頭に手を置くと、彼女は何事かと頭を上げて俺を見た。


 もしかしたら、真剣に歌っている中でも、何回もリテイクをしていることに翠はどこか申し訳なさを感じていたのかもしれない。

 しかし、それは失敗ではないのだ、と俺は答え、置いた手を左右に動かす。

「麗さんも他の人も、本気になって翠に教えてくれたんだからさ。……それは失敗じゃなくて、改善と言うんだ」
「改善…」

 あの場に居た関係者が本気で翠のリテイクを失敗と捉えていたのなら、また後日に、という提案が出ていたもおかしくない。

 それは翠が新人という立場であるからだ。
 何も実績がないから、目の前の光景を実力と見てしまう。

 しかしそうしなかったのは何故か。
 当然、会社の方で決められた予定だからというのもあるが、回を重ねるごとに研ぎ澄まされていく彼女の歌声に気付いていたからに違いない。

 伊達に音楽に密接に関わっていた人達だ、微小な変化を見逃しているはずがない。

 だから、真剣に、そして寛容に待っていてくれたのだ。




「だから気にしなくていいし、俺達も気にしてないからな。むしろ、出来のいい声が録れて皆待ってよかったと思ってるんじゃないか?」
 はは、と笑って手を離す。

 新人に対する風当たりが良くないのはどこの業界でもそうだ。実績も信用もないのだから。

 それでも立ち向かえたのは、翠の折れない気持ちと、麗さんの向き合う姿勢が良かったからだ。

 謝ることはない、むしろ誇りに思っていい位だ。



 そう伝えると、彼女は安堵したように笑顔を見せてくれたのだった。




  *



「翠に見せたいものがあるんだ」

 事務所に入って少し休憩し、ちひろさんが淹れてくれた暖かいお茶を飲んで落ち着いたところで、俺は翠にそう切り出す。



 事務所。
 録音作業も終わり、一山越えたことに安心しつつ俺達は事務所に帰ってきた。

 実を言えば、今日の翠の仕事はもう存在しない。

 本来なら今日も録音が終わった後にいつもの所でレッスンをするつもりだったのだが、予想以上のリテイク数により喉を随分使ったということで、麗さんの提案により休養となったのであった。

 だったら麗さんを送った後、乗った車のまま翠を現在の寝泊まり先であるちひろさんの家まで送ればいいのではないか、と思われるが、そうはしない。


 事前に連絡が届いていた『あれ』を見せるために、事務所に寄ったのだ。




「ちひろさん。あれはどこに収納してます?」
 今日の歌の事についていくつか気づいた点を翠と話し合いをし、いくつかの修正点を頭にしまいこむ事が出来たところで、相変わらず事務作業をしているちひろさんに訊ねた。

「ああ……『あれ』、ですね」
 にんまり、といった笑みである。
 笑っていると言うよりも、いささか期待という意味合いが強そうな表情だ。

 まあ、わからなくもない。
 ちひろさんも、自らが携わったあれを披露することが出来るのだ。

 どんな表情をしてくれるだろう、どんな感想を言ってくれるだろう。
 ある種、生みの親のような気持ちになっているに違いない。

 当然の如く、俺も同類だった。


 代名詞を変換できないらしい翠は可愛らしく首を傾げて考え込んでいたが、内容を訊かれる前に俺はちひろさんに合図をする。

「じゃあ少しだけ待っててくれ、翠」
「は、はあ…。Pさんがそうおっしゃるのなら」

 悪いものじゃないさ、と一言付け加えて、俺はこちらの死角から後ろ手のまま戻ってきたちひろさんに近づく。

「…楽しそうですね、プロデューサーさん」
「お互い様ですよ」
 両者の笑みが一致した、数少ない瞬間だった。




「ふふ。翠ちゃん、立ってくれる?」
 訳の分からぬままといった表情のまま、翠はちひろさんの頼みを素直に聞いて立ち上がる。

 その傍ら、俺はちひろさんから受け取ったあれを同じく後ろ手で隠しつつ、翠に近づいた。

「ど、どうかしましたか?」
 改まって立って向き合うという通常でない状況に翠も困惑しているようだった。


 その顔を見て、心の中で少し心臓の音が高まる。

 こういう事をいっては意地悪だが、バラす瞬間というものは相手の反応がすごく楽しいのである。
 しかし、いつまでも溜めていては相手からも不快に思われてしまう。


 御託はさておいて、早速俺は後ろに持っていた両手を翠に差し出した。


「……翠。これを受け取って欲しい」

 彼女の視線が下がり、俺の手に持つあれを見た。




 青い――厳密に言えば空色の、さらさらとした布。

 何十にも折り重なった布が、グラデーションを描いて波を作っている。


 しかし、ただの布地ではない。

「……これは」
 それに気づいた翠は、ゆっくりと布の上方を掴んで吊るす。


 滝の流れに沿って布が広がり、本当の姿が顕になる。


 翠の目に映ったそれは。

 空色の、布は。


「私の……衣装?」

 ぽつりと呟いた翠の顔は、形容しがたいものとなっていた。





 もう解っただろうが、一応翠に説明する。

「急ピッチだったが、今度のライブの衣装だ。今日届いたばかりでな、早く見せたかったんだよ」

 翠は片手に載せた衣装を、もう片方の手で優しく撫でる。

 未だ実感がわかないのだろうか、その感触を、その存在を確かめるように、一回、二回と手を動かした。

「翠ちゃん、水色は好き?」
 俺の隣で翠の反応に嬉しそうにしていたちひろさんが訊ねる。

「…はい。私の苗字にもあるからかどうかはわかりませんが、青は好きです」

 彼女の名は水野翠。
 水は青色で翠は緑色。名前からは、丁度翡翠の色合いが浮かんでくる。

「これ、プロデューサーさんがこの色にしようって提案したんですよ」

 衣装の原案――デザインの大元は、ちひろさんが事前に考えてくれていた。
 そしてその時の彩色は緑色、つまり名前の元となる翡翠をイメージしたものだった。

 しかし、ベースの色だけはこの色になるように、俺が頼み込んで実現することになったのだ。




「…どうしてPさんはこの色に?」
 嬉しさを隠すと同時に疑問を浮かべ、翠は俺に問う。


 答えてよいものか、と少し悩む。
 いや、理由を言うのは大丈夫なのだが、如何せん堂々と言うには少し羞恥心が邪魔をしすぎているのだ。

「私から言いましょうか?」
 答えあぐねている俺をみかねて、ちひろさんが俺の顔を覗き込む。


 そういえば、ちひろさんには会議の時に全力でプレゼンテーションを行ったのだった。

 そして再び引かれたのも強く頭に残っている。
 翠をスカウトしたばかりの頃に開いた話し合いの時の光景と、相似になる位に似ていのだろう。

 その時の言葉を一字一句違わず他者に説明されるのは、自分で言うよりも絶対に恥ずかしい。

「いやいや…すいません言います」
「ふふ、じゃあ言ってあげて下さい」

 やっと観念したか、といった顔である。




 どんな答えが返ってくるのかという期待を胸に待つ翠に言葉を届ける。

「翠の名前の字の通り、最初は翡翠色になってたんだけど、調べてみたら翡翠ってのは緑以外にもたくさん色があるんだってな」

 合同フェスに参加することが決まってすぐ衣装の相談があり、その時から色々調べていた。

 翡翠には、緑が最高級としながらも、紫、赤、透明、黄色、青、黒など、条件の差により殆どの色が存在している。

 ならば字面で色を決めるのはおかしいのではないか、というのが俺の考えだった。


 では何色がいいか。
 何日も何日も、彩色したイメージ絵を見比べて考えた結果、たどり着いたのが水色なのだ。

「何故水色にしたかというとだな…個人的な事なんだけど、昔読んだ本に、青色は『手に入れようと願っても、手に入らない色』って書かれてたのを思い出してな」

 確か色にまつわる話を纏めた本だったと思う。
 ずっと昔に読んだ物で、タイトルすらもはや頭に浮かびそうにない位だ。

 にも関わらず、どうして青色の記述だけを思い出したのかというと、その言葉に当時疑問を抱いていたからだ。


 青色。
 空の色、海の色。身近な所にたくさんあるのに、どうして手にはいらないと言うのか。

 その時は適当なこと言ってるなあとしか思わなかったのだが、水野翠と接するようになって、好意を向けられて、もっと近くなって……その意味が、何となくわかったのだ。





 一目惚れをして。姿に魅了されて。

 素質に驚愕して。内面を知って。

 吐露を受け入れて。距離を縮めて。



 不安を必死に隠して。ただ信じて。

 努力をして。困難に勇ましく進んでいって。

 恐怖を打ち明けて。距離を縮めて。



 違う人間である俺達が、吸い込まれるように、今や手が触れる距離にまで近づいた。
 今なら、歳も性別も違えど心を通わせられると自信を持って言える。






 だが、それは叶わない。


 どれだけ近づいても、結局俺は翠ではない。

 翠の見ている景色をそのまま俺が見ることは出来ない。

 手も、足も、心も、全て同調しようと思っても、絶対に同一にはならないのだ。



 空を見る。

 空に手は届かない。近づいても、空気はいつも透明だ。

 海を眺める。

 海の水をすくっても色は逃げていく。手で支える水は、いつも透明だ。



 ああ、そういう事なのか、と俺は理解する。

 限りなく近づいたところで、それは決して重なることはない。


 ……手に入れたとしても、それはただ手に入れた気分になっているだけなのだ。




「俺はいつでも翠の傍にいるつもりだ。できるなら、いつまでも君と一緒に生きて行きたい。…それでも、舞台の上ではいつも翠は独りになってしまう」

 例え運命共同体だと宣ったところで、辛い部分は全て翠に丸投げしなければならない。
 俺はただそれを後ろで見ているだけなのだ。

「だから、青色……孤高の色を身に纏って、せめてアイドルとして姿を魅せる間だけは、何者にも負けない、触れさせないただ唯一の存在として舞い続けてほしい。そう思ったんだ」

 彼女は俺のことをこれからずっと一緒に仕事をしていくパートナーと思ってくれているのは、間違いようのない事実だ。

 だが、俺の存在というものは、彼女を語る上ではあってはならない。

 アイドルという身分になるのであれば、彼女の隣に俺は必要ない。
 自分というのは、あくまでアイドルを後ろから支える柱なのだから。


 故に、自立の意味も込めていた。

 いずれは一人でどんどん仕事をしていくようになるだろう。
 ますますアイドルとして人気が高まっていくだろう。
 もしかしたら、何時の日か俺の担当を外れてしまうかもしれない。


 それなのに、俺に固執していてはいつかは歯車が破綻する。

 ちぐはぐになって、ぐちゃぐちゃになって。
 現実と理想が乖離してしまう前に、彼女は彼女として独り立ちして欲しい。


 それが、俺の思いだった。




「…なんだか、寂しいです」
 予想通りといっては変だが、翠は心底寂しそうに呟いた。

 無理もない。
 一方的に突き放されたような気分になって当然だからだ。

「…というのが、一応の理由なんだけど……翠、ちょっと耳を貸してくれ」
「え、私には内緒ですか? プロデューサーさーん」

 何故耳を貸すのだろう、と疑問を呈したちひろさんには少しの間だけ外れて頂き、翠の下に近づいて柔肌の耳に口を近づけた。

 ひゃ、と彼女の口から小さく声が漏れたのが聞こえたが、ひとまず言いたいことを言おうと思う。


 …ここまでの話であれば、ただ彼女の巣立ちを見送るようにしか見えないが、それは仕事としての建前でしか無い。

 翠は、どういう訳か個人としての俺を望んだ。
 故に、許されるのなら俺は個人としての翠を望みたい。

「…そんな気高い翠が俺の隣に居れば、俺だけが本当の翠を知っているように思えて……ちょっとした独占欲かもな」
「へ、へ!?」

 ぼそりと囁いた言葉に、翠は大層大きな声を上げて飛び退いた。

 その声に俺の方も驚いて狼狽えてしまう。


 …いや、まあ驚かれるのはある意味承知していたのだけども。




 一体翠ちゃんに何を吹き込んだんですか、というちひろさんからの疑いの視線を見てみぬ振りをしつつ、更に…今度は普通に言ってやる。

「まあなんだ…。君をスカウトしてからずっと一緒にやってきたんだから、例え翠がどこかに離れて行ってしまおうとも、俺はずっと君を応援して、見守っている。そういう意味だ」

 もしもその時が来たら、俺は男のくせにわんわん泣いてしまうかもしれない。
 そう思ってしまう程、彼女と過ごした日々は俺にとって心底大切な思い出なのだった。


「……ふふっ」
 十秒も立たない内に、翠の表情が変わっていく。

 悲哀から歓喜へ。
 俺を見るその目が、笑う、喜ぶ。そういった物になっていた。


「ではその『晴れ姿』を今、Pさんに見せてもいいですか?」

 彼女とのあの出来事をちひろさんに秘密にしつつ思いを伝える事に成功して安堵する俺に対して、翠は衣装を抱きしめながら訊ねた。

 その頼みなら、俺からも是非お願いしたい。
 青色を身に纏った、穢れ無きその姿を見てみたい。

「おお、見せてくれるのか。じゃあ俺は外に出てるから…すみませんちひろさん、手伝ってあげてくれませんか?」
「むう、何だか内容が気になりますが……いいですよ」

 すみませんちひろさん、それだけは絶対に言えません。

 イケないことの範疇を認識しておきながらその中に片足を突っ込んでいる状態を、わざわざ知らせられる訳がない。

 申し訳ないが、彼女に何らかの感情の変化が起こるまでは俺達二人だけの秘密にさせてもらおうと思う。

 そう思いつつ事務所の外に退避して、着替え終わるのを待つことにした。



  *



 ――こんこん、とドアの向こうから扉を叩く音がする。

 寒い外に放り出されてからおよそ十分程度。
 メイクをする程のものではなく、あくまで試着なのだから、この時間でも早すぎる訳ではない。

 そしてわざわざノックをして教えてくれたということは、翠の着替えが完了したということだ。


 ずっと思い続けていた想像上の衣装姿が、扉を開ければ現実となる。

 アイドルとして一つの区切りであるライブ。
 そのためだけに用意した翠だけの衣装が、ようやく本人と一つになるのだ。


 心臓の音が高まる。
 焦燥感でも、緊張感でもない。

 ただ俺の中にある興奮が心臓を一層締め付け、ドアノブを握る拳に力を加えた。


 ゆっくりと回す。
 まるで勿体ぶるかのように。

 極めてスローモーションな扉の動きが、外と内の境目を消す。



 ――味気ない事務所の中に、一人のシンデレラが現れた。






「…どうでしょうか」

 今日の空を覆い尽くしている陰りなど一瞬で吹き飛ばしてしまいそうな、空色の穢れ無き衣装を身に纏う少女が目の前に立っている。

 そのシンデレラの顔に、曇りはない。

 彼女の言葉にも、訊ねるのではない、披露し、魅せて当たり前だと言わんばかりの毅然たる雰囲気が表れていた。


 唾を飲む音が、こくんと骨に伝わる。

 制服姿で出会い、弓道着姿に魅了され、私服姿で共に歩き、そして今度は一つの旅立ちを迎える。

 俺が思っていた翠は。
 俺が願っていた姿は。


 これほどまでに幻想的で…現実なのだと、その存在が脳に焼き付いた。





「……いい」
「え?」

 湧き上がる称賛の言葉を厳選するがあまり、排除されたはずの感想が漏れでてしまう。


 何といえばいい? 何と表現すればいい?

 一人の少女をアイドルにして、そしてここまで導くことが出来たその本人の見違える姿を……どう称賛すればいいのだろう。

 考えを放棄して、溜め込んだありったけの言葉を解き放つ。

「最高…最高だよ、素晴らしい。誰よりも可愛くて、綺麗で可憐で、それでいて気高い……まさしくシンデレラだ」
「え、ええっ!?」

 自分でも何を言っているのかよくわからなくなってくるほどに、彼女の姿というのは何よりも代えがたい、この世で似るものはない美しさだった。

「はいはい……プロデューサーさん、変なオーラが出てますよ」
 見かねたらしいちひろさんが呆れながら俺を窘めた。

 …まあ、確かに調子に乗って褒めすぎたきらいはあるかもしれない。


 だが、それだけ嬉しいのだ。

 決して一本道ではなくても、こうして成功へ道のりを歩んで行くことが出来たのだから。


 素人が素人を、無事導くことができたのだ。

 湧き上がる感情が、悲しいものであるはずがない。





「――ありがとうございました」

 俺の無遠慮な言葉を全て聞いて飲み込むと、翠は深々と礼をした。
 ドレス姿であるが故に、品の良さがより強調される。

「…少し早いですが、聞いてくれますか」
 そして顔を上げ、俺に問う。

「ああ、聞くよ」
 隣でにこやかに微笑んでいたちひろさんが、この場を離れて給湯室へと入っていった。

 俺達の声は、他の誰にも聞こえない。

 何故今のタイミングで出て行ったのかは流石の俺にも理解している。
 翠の表情を見て『そういう雰囲気』を察知したから離れる、そんな気遣いだろう。


 ちひろさんの靴音を聞き届けた翠は語る。

「不安でどうしようもなかった、何も知らない私がこのような綺麗なドレスを着れるなんて思わなくて…でも本当に嬉しくて」

 誰にでもある不安。いつか、俺はそう翠に伝えた。
 だが、彼女の持つ不安は彼女だけのものだ。

 それを乗り越えて俺を信頼してくれたから、ここまで来れたのである。
 決して偶然でも虚実でもない、あるがままの事実だ。


 ふふ、と笑ったあと、翠は俺の目を貫くような綺麗な瞳を俺に向けた。


「私……あなたと出会えて、本当に良かったです」

 そして、私を見つけてくれた人があなたで――本当に幸せです。




 自然と目頭が熱くなる。
 さながら結婚式を迎える娘を見つめる父親のような気分だ。

 別れる訳でもないのに、まだまだこれからも歩き続けていかなければいけないのに。

 どうして、こうも顔が熱くなってくるのだろう。


「私はPさんの願うアイドルになれましたか?」
 再度、翠は問う。

 答えなんて言わなくてもわかってるくせに。
 前の仕返しだろうか、それでも俺は言ってやる。

「…勿論だ。翠なら、ファンの皆全てを魅了できるさ」

 できないはずがない。
 これだけ一生懸命やってきて、成功以外の道を歩くつもりはないさ。

 すると翠は何が琴線に触れたのか、くすりと俺に笑いかける。

「何がおかしい?」
 いえ、違うんです、と翠は釈明してからこう言った。

「ファンの皆を魅了する前に…ふふ、先にあなたを魅了したいな、と思いまして」
 できてますか、と首を傾げて訊ねる姿を、どことなく小悪魔と錯覚する。


「……とっくの昔にされてるっての」

 何となく心を見透かされたような気がして、不意に俺は翠の頭をぽんと叩いたのだった。





  *


 ――事務所は再び日常に戻る。


 試着状態である上、衣装がシワになると不味いので適当な頃合で着替えてもらったからだ。
 貧相な事務所のせいで、あのままだと背景と人物に違和感が付き纏って離れないのである。


 ちひろさんはその衣装を収納してから、ソファに座りつつも未だ興奮冷めやらぬ翠に再び仕事の話を振り出した。

「翠ちゃんは、何かこう…自分を表す言葉とか思いつく?」
 ソファで向かい合った俺達の手元のテーブルに、ちひろさんは一枚の紙を置いた。

「……なるほど、ライブ用のアピールのための言葉ですか」
 それを翠が手に取ると、書かれた文字を素早く読んで理解したようだ。


 有り体に言えば、二つ名のようなものである。

 通常のソロで行うライブであれば、訪れるファンは披露するアイドルの名前を知っていて当然なので特に必要はないが、合同フェスのような様々なアイドルが出入りするイベントにおいては、その本人の詳細を知らない事も稀ではない。

 なので、本人を端的にわかりやすく観客に知ってもらうために、そのアイドルを色濃く表すような言葉を付けるのが恒例であった。

 ちひろさんが渡した紙には、翠用に考えた言葉が羅列されていたのである。




「なんだか自分でそれを考えるのは恥ずかしいですね……」
「…まあそうだよな」

 無理もない。

 誰が好んで自分を評価して名付るのだろうか。
 ナルシストでも無ければ自分から進んで言える人はそう多くない。

「とりあえず私達でこれだけ考えてみたんだけど…何か気に入ったのはありますか?」
 ちひろさんの言葉に、再度翠は目を通す。

 やれ女王だの、妖精だの、カタカナ言葉やら難解な言葉を使用したネームがずらりと並んだ紙面。

 俺達ですら、その紙を作成するときはうんうんと悩んだものである。
 それだけ名付けというものは責任重大で、尚且つセンスが問われるのだ。


 うーん、と上から下に視線を下ろし終えた翠は、不意に俺の顔を見る。

「……Pさんに決めて欲しいです」

 責任放棄ととるべきか、はたまた信頼ととるべきか。

 眉を下げて苦笑するちひろさんを他所に、受け取った紙を改めて眺めることにした。





 翠を一言で表す言葉。
 これほど簡単なようで難しい事はない。

 何故なら、数えきれない程の仕草や行動、性格、趣味、ひいては人生をたった少しの文字で表さなければいけないからだ。


 しばし目を閉じて考えてみる。

 俺は何を見てきたか。
 翠の何に惹かれたか。

 彼女の人生の中のたった十八分の一にも満たない時間を過ごして、俺は何を思ったのか。



 出会った最初の頃から早送りで記憶を再生していると、共通する言葉がふと頭に浮かんだ。


「純真……」


 思いついた時、俺は妙に納得してしまった。





「純真、ですか?」
 翠は不思議そうに訊ねる。


 ――思えば、翠の性格は純真というべきものだった。

 素性の知らない俺を疑わず助け、先の分からない道を信じて歩き、中身の分からない俺に迷わず付いてきてくれた。

 そして、俺や彼女自身に纏わりつく全てを無視してでも好きだと言って俺を苦しめ、悩ませた。

「純真だけじゃ物足りないから…そうだな、娘という意味で子女を入れて『純真子女』ってのはどうだ?」

 いつの間にか父親のようになった気分になって、娘を思うような気持ちになってしまう。

 翠にぴったりで……ある種、彼女への皮肉めいた言葉だった。


「純真子女……ふふ、いいですね。ちひろさんはどうですか?」

 半ば思いついきのような意見ではあったが翠は気に入ってくれたようで、ちひろさんに顔を向けて是非を問うた。

「プロデューサーさんにしては良いセンスですね。採用しましょう」
「にしては、は余計ですよ」
 大方、翠に関する会議での俺の言動への当て付けだろう、にやりと笑ってから紙を俺から受け取って、彼女のデスクへと戻っていった。




「これから活動していく際にも当面その名前を使うとして…相手方にもそう伝えておきますね」
 かたかた、とキーボードを叩く傍ら、ちひろさんはそう言った。

 相手方、というのは無論合同フェスの運営である。
 それらアイドル達の資料をまとめあげ、当日でゴタゴタすることのないように利用するのだ。


 これでイベントに向けた大体の準備が終わりとなる。

 後必要なのは、当日に向けた確認の打ち合わせと別の日にライブのリハーサル、そして翠はCDのジャケット撮影も残っている。


「本番は合同フェスだからな、今喜んでると当日楽しめないぞ」

 気を抜くな、とは言わない。
 全力で臨んで欲しいのは言うまでもないのだ。

 だったら、無理に意識させる必要もあるまい。

「……はい!」


 本番まで、そう多くの時間はない。

 休みたいなら過ぎてから沢山休めばいい。
 だからそれまでは、俺は本気で向かって行きたい。




  *



 しばらく曇りがちだった秋空も久しぶりに綺麗な太陽が昇り、堂々たる冬の季節柄暖かくはないが心地良い空気が会場を包み込んでいた。


 合同フェス。

 開催まで既に一ヶ月を切っている12月初め、参加者の担当プロデューサーを集めて当日の流れをスムーズに行うための確認の打ち合わせが行われることになっていた。


 イベントの開催場所は首都郊外の広大な公園。

 その内の芝生のある広場にてイベント会場が設置されることになっている。
 また広場周辺では合同フェスに向けて屋台や商店街のコラボなども多く行われており、もはや街ぐるみの巨大な商売機会を形成しているようだった。


 当たり前の話ではあるが、会場は既に完成されている。
 舞台が無ければかなりの敷地を誇っていただろうこの広場も、舞台が角を埋めるようにせり立ったおかげで狭く感じるほどだ。

 実際にはここから観客が大勢入るのだから、当日は相当混雑を覚悟しなければいけないだろう。




「おはようございます。シンデレラガールズ・プロダクションの者です」

 むき出しにされた骨組みの舞台を横目に、数人のスーツ姿の男性が集まっている所に加わると、一斉にこちらを振り向き、口々に挨拶が返ってくる。

「ああ、あなたがそうですか。はじめまして」
 その中でも一際熟練じみた風格の男性が、俺を待っていたを言わんばかりに一際大きく挨拶をした。

 それから改めて自己紹介してもらう。

 皆それぞれ一度は聞いたことのあるような有名事務所でソロないしユニットを担当している人たちで、この世界についてまだお世辞にも熟知しているとは言えない俺でも、無意識に気遅れてしまう。


 同じプロデューサー業という範疇での知り合いはゆかりのプロデューサーだけな上、基本的に今まで対話をしてきた相手は明確に立場も役職も違う人たちだったので、接し方につい戸惑ってしまう。

「確か貴方は初めてだそうですね? 大丈夫です、緊張しないで…成功させましょう。私は運営側の人間ですので、あなたの成功に精一杯協力します」
 またもや先ほどの男性が俺に対して柔和な口調で励ましてくれた。

 これではまるで子供をあやす大人だ。

 こんな姿は翠に見せられないな、そう考えると、せめてもの抵抗として元気よく返事をすることにしておいた。





「実際に参加するメンバーを公表するのは後の特番になりますが、関係者の皆様方には先にこちらの紙面とメールにてお知らせしておきます」

 各々の人と名刺を交換してあらかた顔と名前を覚えたところで、運営の男性が紙を皆にそれぞれ回した。

 最後となる俺の番が来て受け取ると、翠の順番を探す暇もなく話が再開された。

「念の為改めて説明しますが、フェスでは昼の部と夜の部、二つに分けて開催します。今日集まってくださった皆さんは夜の部を担当することになりますので、よろしくお願いします」

 紙面に印刷された一覧にも昼と夜でメンバー表が分けられ、ずらりと並んでいる。
 恐らく舞台の演出なども昼夜で大きく異なってくるのだろう、間に設けられた休憩と称した準備時間の短さが何とも運営委員の忙しさを表していた。


「今ここに居らっしゃるのは……Pさん以外は皆過去のイベントを経験して何度も流れは見てきていますから、必要な方だけ残って私に質問して下さい。以上です」

 彼の掛け声と共に、先程まで集まって視線を注いでいた他所の事務所の男性たちは別れの言葉を残して皆散り散りに去っていってしまった。



  *


 ――あっけなくてびっくりしたのでは?

 まさかここまでとは、と目が点に近づきつつあった俺の下に運営の男性が話しかけてくれた。

 独特な風格であるにも関わらずどこか優しげな雰囲気を感じるのは、やはりビジネスマンとして生きてきた上で身に付けた技能なのだろうか。

「え、あ…そうですね。もっときっちりするものだと思ってました」
 とんでもない、と言うのも一つの回答だが、初心者らしく正直に感想を述べることにしたのだった。


 …そして。

 男性は軽く笑った後、耳を疑うような事をさらっと言った。

「顔合わせを兼ねた最初の打ち合わせはもう既に行なってますから、他の皆にとっては今日は会場の視察が主な目的みたいなものですよ」


 手元に鏡を持っていたなら、きっと瞬間的に青ざめていたことがわかっただろう。





「あれ、どうしました?」
 心配になったのか、はたまた本当に顔が青色に染まっていたのか、男性は不安げに俺に訊ねる。


 どういうことだ?

 俺にとって今日が初めての打ち合わせだ。
 記憶喪失になっていたという理由でなければ、覚えていないはずがない。

 にも関わらず今日は初めてでないという。


 何が起こったのかわからない、そんな言葉が今ほど似合うのは人生で今ぐらいだ。


 なんて声を掛けようか、という表情をしていた男性は、次にもまた驚くような事を言う。

「ああ、確かあの時は女性の…千川さんといったかな、その方が担当していましたね」


 自分の知らない所で何が起こっているのか、それを一度整理する必要がありそうだ。






 確かに、ちひろさんはこの合同フェスに関する各々の処理は彼女自身が片付ける、と明言していた。
 だから俺は言葉に甘えて翠のために時間を注ぐことができたのだ。

 そしてフェスに関する細かい情報は逐一彼女から受け取っているので、段取りも一応理解は出来ている。

 その『各々の処理』という物がどの程度まで彼女がやってくれていたかを想像すると、心臓の鼓動が一段と大きくなった。


 まさか、書面での対応の他にも実際に会議をして今回参加する翠についての説明やアピールなどをしてくれていた、ということなのだろうか。

 …仮にそうであれば、新人のアイドルを参加させていてしかも初対面の俺に対して皆が比較的温和な対応をとってくれた理由も、僅かではあるが納得することが出来る。

 ちひろさんが優秀で手際も要領も良いのは以前から重々分かっていたつもりではあったが、よもや日々の事務所の管理作業をこなしつつ交渉や手配も行なっているとは流石に思わなかった。


 きっと俺の知らないところで人知れず作業をかなりこなしているのかもしれない。

 そう思うと、また今度にでも彼女のために何かしてやりたい、と考えてしまう。

 いつの日かの二人での食事のような形態でなくてもいい。
 俺達が快適に動けているのも全てちひろさんが居るおかげなのだ、叶えられる範囲で何かお願いでも聞こうかな、と不意に思った俺だった。




 と、今の状況を思い出す。

 このフェスでの質問、という話題だったか。

 ちひろさんから受けた大体の説明は頭に叩きこんであるので、あと気になることといえば、と考えて口に出す。

「そういえばあの舞台って、どの程度個人で演出を入れてもらえるんですか?」

 ドーム球場のように予めそれなりの設備がある訳ではない野外のライブにおいて、疑問点は大体それに尽きた。
 以前ちひろさんと相談して取り決めた要望は送っているはずだが、結局その通りに作ってもらえているのかどうかは未だに知らないのである。

「ああ、そうですねえ…」
 彼は近くにそびえ立つ舞台を指さして、動かしながら答える。

「こちらで用意できるのは照明やレーザー、火柱、散水、花火が主ですね。勿論スクリーンも五枚用意してます」
 つまりライブを行う上でよく使用される演出の殆どがここでも使えるらしい。

 これがマイナーな野外ライブであればそうもいかなかっただろうが、流石有名イベント、出演者側の要望はしっかりと応えているらしい。

「ええと、確か翠の時の演出は……」
 ちひろさんと話した内容を回顧する。

「水野さんの時は、現状ではスクリーンの映像とレーザーを聞いてますね。今ならある程度は追加できますよ」

 他のイベントであればまず怒られるだろう話を彼は悠々と答えてみせた。




 回答に感謝して、改めて考えてみる。

 例えば使用楽曲がポップ系ならば、それに合わせて動きのあるレーザーや火柱を用いるのが一般的だが、今回翠が歌うのはあくまで落ち着いた曲調の物だ。

 そこに激しい演出を入れても良い効果はなく、却って違和感が生まれて観客もノリきれなくなってしまう。


 だとすると、実物を見ないとはっきりとはいえないが、現状でも問題ないように思えるが、俺はここで一つ思いつく。

 次に行うリハーサルでもまた調整できるので無理を通すことはないが、一応言うだけ言ってみても損はないだろう。


 では提案を、と頭の中に出来た文章を口に出そうとした時、それとは別として俺は不意に素朴な疑問が浮かんだ。

「……聞いてもらえるのはありがたいのですが、当日まで期間も短いのに大丈夫なんですか?」

 綿密なスケジューリングと意思疎通を経て行う通常のライブと違って、合同フェスは短期間で準備から調整まで全て行うという特殊な形態となっている。

 それが可能なのも、出演する方も手馴れているのに加えて、運営側もスタッフを総動員しているからだろう。

 個人的には、時間に余裕を持って前々から準備した方がコスト面でも得だと思う、と俺が問うと、彼は少し間をとって言い切った。




「…私はね、出演者の方々の全力のパフォーマンスが見たいんですよ。だから要望があるなら前日でも聞きますし、可能な限り応えます」
 言うまでもなく当然の事である。

 自らが主催するイベントで出演者が手を抜いているようなことは、あるべきでないと思うのが普通だ。

「そうするのは、何より『それ』を言い訳にして欲しくないからなんです」

 仮に自分の番で全力を出せなかったとしたら、その事を本人以外の事柄を責任として目を逸らさないで欲しい。

 つまり、土台は全部要望通りに作るから、本番中の失敗は全部本人に原因があるんだぞ、という訳だ。

「あなたの成功を応援しています。ですが、あなたのアイドルの失敗には私共は関係しませんし、観客も黙ってはいないでしょうね」

 彼の目はにこやかに笑っている。
 優しく、迷子になった子供に親身になって語りかけているような、敵対心のない瞳だ。

 しかし、その実彼の目はある意味現実的だった。

 彼が俺に言った「精一杯協力します」という言葉は、後ろから支えるのではなく、道を整備する、という意味合いなのである。

 後ろで支えていて本人が倒れたなら責任があるだろうが、道を整備して倒れてしまっても、彼には何ら責任はない。

 ゆかりのプロデューサーとはまた違った厳密さがこのイベントにはあった。




 恐ろしい、と言ってしまえばそれだけだし、こういった対外でのパフォーマンスであればこれが普通なのだが、その一言で済む程に彼の言葉はいやに冷たく感じた。

「…わかりました。それでは要望ですが――」

 切り替えて、俺は頭でこねくりかえしていた文章を切り出す。


 大丈夫。そんな言葉で焦っても仕方ない。
 普通にやれば失敗することはないんだ。


 半ば反芻するようにして、俺は鼓動を落ち着かせていた。




  *




「……おう、また会ったな」

 伝えたい事項も全て言い終えて、会場を見学してリハーサルに備えようと立地や観客からの角度などをチェックしていると、不意に声を掛けられた。

 振り向くと、今年になってもう何度も見かけた男性…ゆかりのプロデューサーがいつも通りぶっきらぼうな顔つきで立っていたのである。

「ああ、こんにちは。先日の収録ではどうも」
 先日というのは二人揃って出演を果たしたテレビ収録の日の事である。

 レッスンに時間をかなり割いているため通常の仕事量は増やせないが、まだ開拓してない所からも時々オファーが来るようになったのは喜ばしいことである。


「ところで、あなたも会場のチェックを?」
 打ち合わせのため集まった先程の時には彼の姿を見かけなかったので、翠とは違って昼の部の出演なのだろう。

「そうだ。…悪いが、覚悟しておけよ」
「え?」
 バツが悪そうに突然そう言った彼の言葉に違和感が残った。

 覚悟、とはどういう意味なのだろうか。

「……なんだそのよくわかってない顔は」
 どうやら彼には俺の思考がお見通しらしい。




「出演者リストはもうもらっただろう? 翠の一つ前の名前を見てみろ」
「……あ」

 そういえば、渡されたあの時はメンバーの一覧をじっと見る間もなく説明が始まったので詳しく確認ができなかったのだった。

 俺が漏らした声と共に、翠の名前が見つかる。
 問題は、その名前の上にある文字だ。


「……水本、ゆかり」

 水本ゆかり、という言葉はもはや俺や翠の間でも聞き慣れたものになっていた。
 おおよそ親近感の沸く間柄といっても差し支えない。


 昼の部と勝手に思っていたが、よく見てみると翠と同じく夜の部だったのだ。

 運営の男性の話を思い出す。
 あれだけ縛りのない緩い打ち合わせなら、イベントの詳細をすでに知っている前回以前の出演者の中にはそれに出席しない人間が居ても不思議ではない。

 つまり、彼はその中の一人という事だったのだ。

 それ以前に、出演者リストに載っている数と今日挨拶した人の数が明らかにあわないので、彼以外にもいると見て間違いはない。


 …まあ、正直に言ってそこは大した問題ではない。
 一番の問題は、ゆかりが翠の前の番ということである。


 翠にとって彼女は大事な友達だが、今回だけは。

「敵、というわけだ」

 ゆかりは翠の前に立つ……大きな壁となっていた。





 順番なんて、関係ない。

 そう思えるほど自信や実績があればいいが、現時点ではそう安直に楽観視は出来なかった。

 ゆかりの披露する曲は恐らく、最近発売され若い年代に人気を博した女性の恋心を描いたバラード曲だろう。
 初週の売上げランキングのトップ10に入るほどの人気、と言えばわかりやすいだろうか。

 携帯電話会社のCMソングにも起用され、彼女に興味のない人でも聞いたという人は多い。

 俺も購入して聞いてみたが、圧倒的な声量で歌う恋人への思いは驚くほど心を揺さぶってきたのをはっきりと覚えている。



 …奇しくも、音楽ジャンルとしては翠と同じ土俵なのだ。

 それが何を意味するのかといえば、極めて簡単に答えが出る。

「……そうですか」
 当て馬。以前ゆかりが苦しい過去を晒してでも俺に教えてくれた実情と、今回相手方が仕掛けてくる細工の中で出てきた言葉だ。


 まさにその通りの事が起きたのである。

 これも本人が全力を出せない外部的要因に値するのではないかと考えたが、運営の彼や他の方が運営方針に則って順番を決めたのだから、恐らく理解はされない。

 また、下衆な勘ぐりが許されるのなら、イベントの主催に関し何らかの援助をしているのかもしれない。
 でなければ、招待枠の権利を狙って獲得できるとは到底思えないからだ。


 相手にとってみれば、俺達の事務所はたったひとりのアイドルしか所属させられない貧弱な事務所で、潰れてしまっても何ら問題もない、と判断したのだろう。

 後に格下を持ってくることで、披露後に観客がゆかりへの評価を相対的に上げるという算段である。
 …去年実力を満たないゆかりを無理矢理ねじ込んだ割には、今年は随分彼女を信用しているんだな、と呆れさえしてくる。

 結局お上にとってアイドルとは商売道具なのだろう。
 その考えには否定しないが、かといって今のその方針が正しいとは全く思わない。

 それも、事務所が違うから言っても詮ないことなのだけれども。





「俺自身はお前の所とやりあうつもりはないんだけどな」
 そう答える彼の表情も、隠しきれず、苦しそうだった。

 現実を直視して、厳しく、冷静にプロデューサーをやってきた彼でさえそんな表情をするとは、彼なりに俺達に対して友好的に思ってくれているという事なのだろうか。

「…でも、感謝してますよ、私は」

 だったら、尚更俺は下を向く訳にはいかない。

 どれだけ不利な状況に持ち込まれようとも、そもそも彼ら事務所が居なければ今この場に俺や翠は存在できないのだ。

 つまりは、参加する権利をもらう代わりに、少し相手に有利な状況を許してやっただけ。


 そう考えるのが、俺の精一杯だった。

「…そう言ってくれると助かるな。俺も善意を捨てた訳じゃないから」
「わかってますよ」
 冷静と冷酷は似ているようで全く違う。

 その程度の違いがわからないほど俺も目や頭は悪くない。

 彼なりの辛さが偽物であるはずがないのだ。
 それはゆかりの担当になったことで保証している。





「表立っては言えないが、俺もアイツも、お前達を応援してるよ」

 彼はそう言って、会場の別の地点へと去っていった。


 別に俺はいい。本番では舞台裏から見ているだけなのだから。

 ただ翠にとって、ゆかりの後に歌うという事が何らかのプレッシャーにならないといいのだが、と懸念する。


 ……もう決まったことは仕方がない。

 俺の立場では、結局その方面について考えた所で無意味に等しいのである。


 ならば俺に出来ることは、ただ事実をありのまま翠に伝え、そして彼女が全力でパフォーマンスを披露できるように支えてやるだけだ。


 そうと決まれば話は早い。

 出来る限りこの会場の事をまとめて、事細かく翠に伝えられるようにメモをとらなければ、と思い、彼に負けじと俺も作業を再開した。





「大体収容する人のラインがここだから…もう少しパフォーマンスは前に出たほうがいいか」
 視線をメモと舞台を行き来させながら当日の演出についてもう少し考えてみる。


 以前、ちひろさんや翠、麗さんを含めたフェス対策会議を開いたことがある。

 主に舞台上での動き方や口上などを説明、議論していたのだが、そこでも確かにちひろさんは確固たる考えを予め持っていたのだ。

 それだけなら事前に過去のイベントを見て調べ尽くしたから、と言えるのだが、気になるのは麗さんがちひろさんの発言に対して甚く同調していた点だ。

 まるで何度も話し合いをしてきたかのような…俺抜きでやっているような気がして、懐疑心がなかなか抜けない。

 そうでなくとも、ちひろさんの行動が時々不明になる時がある。
 裏で色々サポートしてくれているはずだと思うが、俺が知らないのはどこの事務所でもそうなのだろうか。

 このフェスが終って一段落したら、一度聞いてみるのもいいかもしれない。



 そんな事を思っていると、不意に遠くの会場沿いの建造物群が目に入る。

 舞台にやや隠れてしまってはいるが、土産屋やアンテナショップ、レストランなど、まさにここに来る客に狙った店舗がずらりと並んでいて、商魂たくましいな、と苦笑する。





 ――ああ、そうだ。

 視察ついでに近場で甘いデザートが食べられる場所を探しておいてもいいかもしれない。


 無事成功させて、喜びを分かち合って。
 ライブが終わって、余裕があれば慰労として食べに行って、お疲れ様、おめでとうって言って、笑い合って。

 そしてこれからの活動に思いを馳せ、また一区切りとなるであろうその日に、今までの思い出を語り合うのも悪くない。



 もしかしたらライブ後に人気が爆発してテレビやら雑誌やらに引っ張りだこになって、ゆかりのプロデューサーも羨むほど多忙になるかもしれない。

 ならゆっくり動けるのも今のうちだろうか。


 …目の前にそびえる壁に立ち向かう時、味方をしてくれるのは不安ではなく希望だ。

 少なくとも、俺達が今持つべきものは苦しみではない。


 あともう少しだけ会場を見て回ったら、近くの本屋でスイーツ情報が載った雑誌でも買って、それで翠にも見せてやろう。



 そんな現実逃避にも似た考えを無慈悲にも叩き割ったのは。


「……ん、電話か」


 感情のない、着信音だった。









 ――変化とは突如起きるものなのだと、以前の俺は結論づけた。


 まさしく、それは本当の事だったのである。






  *



「翠…、翠……!」

 激しい動悸が肋骨の内側を痛めつけ、途切れることのない呼吸が喉を荒らす。

 息をすることがこれほどまでに苦しいとは、かつて感じたことがない。

 躰を揺らす。上下に、左右に。

 足が回る。地面を踏み抜き、駆ける。



 何も考えられない。

 ただ走る。ただ走る。ただただ走り続けている。

 足の混濁も心臓の爆発も否応なく、翠のいる場所に向かって……走り続けていた。






 サラリーマンや私服の人間が占領している真昼間の都内。


 何の不幸か、駅前のロータリーにタクシーが留まっていなかったのである。
 それでも待っていられなかったので、我武者羅に走っていたのだった。


 しばらく体力の続くまま歩道を走っていると、少し先に丁度客を降ろすタクシーの姿があった。
 息絶え絶えのまま手を振り上げて今にも走り出しそうなタクシーをそのまま停止させ、半ば倒れこむようにして乗り込む。

 タクシーの運転手はそんな俺を心配する視線を向けたが、それすらも無視して俺は運転手に一言、行き先を伝えた。

「病院まで、はぁ…はぁ、お願いしま…す」

 そう。
 俺の行きたかった場所は。
 行かなければいけない場所は。


 ――翠が搬送された病院だった。

ここで中断。


  *


 初期設定の着信音が鳴った事に気づくと、ディスプレイの文字を見る。

 そこには『青木 麗』と表示され、それを元に発信相手を判断した。


「麗さんか…どうしたんだろ」

 今日の彼女の予定といえば、相変わらず翠とのレッスンであった。

 昼過ぎの今なら、彼女達は昼食の休憩を終えて練習を再開しようか、といった頃合いだろうか。


 それにしても珍しい事が起きたものだ。

 携帯電話番号とメールアドレスはそれぞれ交換しているが、こうして連絡した事はレッスンの予定変更やスケジュールの相談等以外では全く無かった。

 その連絡さえも俺がほぼ毎日翠に会いに行っているせいかその都度口頭で連絡出来てしまっていて、実際に使われたことはあまり記憶に無い。

 本人も公私の区別は付けていて、この連絡帳を使う時は何か緊急のことぐらいだろうな、と笑って言っていた。





 では何の用だろうか。

 そんな疑問を浮かべって通話ボタンを押す。

「……プロデューサー殿」

 もしもし、という俺の言葉を無視して、麗さんは静かにそう呼びかけた。


 その瞬間から、咄嗟に違和感が頭を支配する。

 落ち込むという感じともまた違う、どこか沈んだ声色の麗さんだ。
 俺の知る限りでは聞いたことのない声だった。

「麗さん……麗さん? どうかしましたか?」

 以降発声しない麗さんをますます訝しんでこちらから何度か声をかけると、麗さんは押し潰されそうな声で、すまない、と呟いた。




 ……この時、既に嫌な予感が全身の神経を通っていた。

 普通である様子が今の麗さんからは一切感じられない。
 それは本当に本人なのかどうかすら怪しいと思ってしまう程だ。


 シナプスが、不快な感情を伝達させる。


 聞きたくないという感情が一瞬にして脳に蔓延る。

 もしも聞いてしまったら。よくない感情が沸き起こってしまいそうな。



 しかし、彼女は続ける。


「翠が……倒れた」


 あまりに突然過ぎて、鼓膜が意味を通さなかった。




「……え?」

 俺の反応は、極めて正常であったように思う。

 理解できなかったのは当然なのか、あるいは理解を拒否したのか。


 それでも彼女は振り絞って言葉を出す。

「倒れて――病院に運ばれた」


 聞かなければいけないのに、聞きたくないという意思が押し寄せる。



 どういうことだ。

 レコーディングもして、無事終わって、褒めて、笑って。

 昨日だって、レッスンに立ち会った時は翠は俺に笑いかけてくれて。
 仕事どうですか、疲れてませんか、って心配してくれて。

 彼女のほうが大変なのに、気遣ってくれて。


 ……それが、どうして。




「すまない……すまない。私の目が曇っていた」

 搬送先の病院名を告げた後は、麗さんはひたすら悲痛な声で謝罪した。


 だが、そんな言葉は全く脳に伝わってこない。


 ただ今どうなっているのか。どうしてこうなったのか。
 何があったのか。

 そんな疑問ばかりが目の前を覆っていた。


「……すみません、切ります」

 居た堪れなくなって、俺は一方的に通話を切ってしまう。
 怪我なのか体調不良なのか、症状を聞くことも無く、持ち上げた手を下ろした。



 ――目の前の闇を振り払うには、確かめるしか無い。


 手元から落ちそうな携帯電話をかろうじでポケットに放り込むと、俺はスーツを破る勢いで走り始めたのだった。




  *


「まあ大事をとってもニ、三日安静にしていればすぐ良くなるでしょう」
 彼女の診察を行った医師は、一つ息をついて翠の状態をそう表現した。

「……そ、そうですか」
 急いで来た癖に翠が倒れた理由を何一つ知らなかったため、心底安堵し、弾む鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し始める。

「とりあえず今日はここで休ませられますから、薬の方も出しておきますね」
 医師はカルテらしきものにボールペンを走らせつつ、時折パソコンを操作した。


 とりあえず、アイドル生命に関わるような……翠の命に関わるような自体にならなかったことが俺を安寧に導いた。




 ――翠は、軽い過労により誘引されたウィルス性の風邪と診断された。


 麗さんも救急車に同乗して当時の状況を説明し、改めて状態を確認したところ、救急救命士や搬送先の医師である彼はそう判断したという。
 喉は腫れ、熱もやや高く、放っておけば更なる悪化を招いていた可能性があるとも言っていた。

 ひとまず点滴治療を行なって熱は下がっていくだろうという話だが、疲労などは依然として色濃い。

 疲労と体調不良のダブルパンチが今回のアクシデントを引き起こしたのであった。



「アイドルが大変なのはわかりますが、水野さんもまだ未成年です。くれぐれも無理をさせ過ぎないように」
 医師から今後の治療法などの説明を受けた後、お見舞いに行こうと去る間際、医師は俺に釘を刺す。

 まるで異常な程の練習を強制させる悪徳プロデューサーと言わんばかりの冷たい言葉だった。

 無論、彼にそんな悪意はない。
 人命を救う立場の人間だからこそ、純粋に彼女を心配したのだろう。


「……はい。気をつけます」


 当たり前だ。そんなこと言われなくても翠は俺が一番わかってやれている。


 ……そう言い放ってやりたかったが、今の俺にはその資格がなかった。




  *



 こつ、こつ、と形が潰れつつある黒い靴が床を鳴らす。

 白い床。白いソファ。白い制服。
 どこにでもあるような、まるで色を失った寂しい世界を俺は歩いていた。



 翠には個室を用意してくれたようで、医師からは321という番号が告げられていた。

 この階の病室は全て個室となっているのだから、この病院が多数の民衆の生命をカバーする大規模な施設であることは明白である。


 ただ、ひたすら歩く。

 頭の中にある番号の下へ、たどり着くために歩く。



 ……そんな道を歩いていると、嫌でも自分の姿がありのまま映された。




 今回のアクシデントは誰の責任なのか、と自問する。


 …言うまでもなく、俺だろう。

 元々無理のあるスケジュールでレッスンを強行しなければならない状態に持ち込んだ事が原因なのだ。
 学園祭のライブでも似たような過密スケジュールだったにも関わらず無事乗り越えてしまったので、俺も心なしか油断してしまったのだ。


 何より、どうして気付けなかった?

 一番近くで見ていたはずの俺が、何故彼女の兆候に感づかなかった?


 あれほど近づいたのに、何故目に入らなかった?


 俺は、翠の白く綺麗な皮膚だけを見ていたというのか。




 …彼女は元気だった。

 前日も、前々日も。一週間前も、その前も。

 レッスンでくたびれても、俺に微笑みかけて言葉を返してくれた。
 そして次の日には練習の成果を見せつけて、更なるレベルの向上に励んでいた。


 疲労を問うても、彼女は大丈夫と答える。
 具合を問うても、彼女は万全と答える。


 まるで、それ以外の答えは認めないかのように、翠はそう主張していた。




 俺は、彼女を追い詰めていたのだろうか。


 螺旋を描く罪の意識が、全身を嫌らしく舐め回していた。



 俺と翠は、しっかりと繋がっていると思っていた。
 彼女は俺のことを好きだと言い、俺も彼女を良く思っていると言った。


 遥か昔の時代を語り、お互いの知らなかった心の奥底を晒すことで、信頼し合ったつもりであった。



 だがそれは、虚像…あるいは俺の妄想だったのである。


 もし翠は素直に疲れていることを俺達に申告していたら?

 練習内容を再チェックし、余裕のあるパートから負担を少なくし、また休憩時間やオフも多めに取るように変更しただろう。


 もし俺が翠の言う事を疑って、真剣に体調を調べていたら?

 すぐさま麗さんと話し合い、無理矢理にでも休暇を取り入れさせただろう。


 …それができなかったのは、彼女が俺を頼らなかったから。
 そして、俺が彼女の虚勢を本当の姿だと誤認したからなのだ。


 自身を顧みないで練習した理由については不明だが、もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――。



「サンニーイチ……と、ここか」
 俺の視界に321という三文字の数字が印字された看板が入り込んでくる。

 医師に指定された番号と合致し、ここが翠の病室だと判断して奈落へ沈んでいく暗い意識を消し去る。




 重苦しい戸。冷たい取っ手。

 全く翠に似つかわしくない、こんなところに居るべきでない…簡素な扉だった。
 あのライブと比較すれば、天と地程に鮮やかさに差がある。


 右手を裏返し、ノックをする手つきに変える。


 どんな状態であるにしろ、絶対に休暇を入れよう、と決意する。
 真面目で練習熱心な翠のことだから、もしかしたら休むことに異議を唱えるかもしれない。

 だからこそ意地でも休ませなければいけないのだ。

 翠の意識の高さに自惚れた結果がこれなのである。
 多少彼女の意に沿わない形になろうとも、それだけは貫き通す。



 …まあ、今は何よりも翠の完治が先だ。

 左手には病院の売店で購入した飲み物やデザートなどを幾つか入れたビニール袋を携えている。
 今は休んでいいよ、と労いつつ、何てこともないような他愛もない話でもしようか。



 そう思って、小さくノックをする。




 ……それから静かに開いた扉の先には、信じられない光景が広がっていた。




  *


 正直に言えば、自分の目が本当に自分の物なのか疑わしくなる程、眼前に現れた彼女の姿というものは異様であった。

 そう、異様。
 本来あるべき姿でない様子だ。

 もしかしたら彼女は翠に似ているだけの別人なのかもしれないという疑惑が一瞬頭によぎるが、少なくとも俺の意識は彼女を翠だと認識していた。

「あ……Pさん」

 『立っていた』翠が俺の姿を視認すると、ぺこりと頭を下げた。
 声色には、若干の威勢の良さが残っている。

「ご迷惑を…けほ、おかけして本当にすみません」
 汗などで汚れたいつもの練習着姿ではなく、入院患者が着る真っ白い綺麗な病衣を纏っている翠は、そう言って俺に謝罪する。


 そんな翠の言葉にすら、反応できない俺がいた。



 ……何故だ。


 何故翠は壁に手をついてまで練習の続きをしているのだ。


 まるで意に介していない、現実を受け止めていない彼女の様子に、俺の中の何かが切れた。




「……なあ、翠」
 ゆっくりと俺は近づく。

「けほ…はい、なんでしょうか」
 一度咳き込んだ後、にこりと笑って翠は俺を迎える。


 翠は一体何を考えているのか、もうわからなくなってしまった。

 倒れたのは自身の体力を鑑みていなかったからだろう。
 病衣を着ているのは、安静にして治療をするためだろう。

 手が届く位置にまで近づくと、俺は無意識に翠の肩を掴んだ。
 瞬間、彼女の顔が歪む。

 決して軋むほど力を入れている訳ではない。
 苦しませようと掴んだ訳ではない。

 なあ、痛いんだろ?
 なあ、辛いんだろ?

 彼女の痛覚を思うと、顔の表面が急速に沸騰した。


「――なんで練習してるんだ!」

 噴き上がった熱のこもった感情が、怒号となって周囲に放出される。


 初めてだ。
 俺の知る限り、こんな声色をして翠に話しかけた事は一度もない。

 同様に彼女もそうだろう。
 一体何が起こったんだ、という表情で、困惑と恐怖が入り混じった顔をしている。


 だから俺は怒った。




 言葉を続けることもなく、肩を掴んだまま彼女を無理矢理ベッドに寝転ばせると、おもむろに近くにあった簡素な椅子に腰を下ろして翠を見つめた。

 熱も下がっていくだろうという状態であろうとも、運動などご法度だ。
 それに痛みや怠さが完全に引いているという訳でもあるまい。


「…今の翠の状態は、君が一番わかっているはずだ」
 先ほどの口調とは反転して、なるべく穏やかに声をかける。

 沸騰した感情がオーバーヒートを起こさないように、黙々とした表情の裏で必死に頭を回転させていた。
 腹が立つからと言って、本能のまま喋っていい訳がない。
 それが許されるのは、せめて中学生の喧嘩ぐらいまでである。


 俺はプロデューサー。
 新米で、新人で、未熟で、無知だけど。

 翠の人生を引き受け明るい未来に導いていく、彼女だけの魔法使いなのだ。

 混濁して絡まっていく怒髪衝天の狂いを、そのままにしてはいけない。


「……っ」
 俺によって強制的に倒れこまされた翠は、露骨に俺から目を逸らす。
 無言なのは、俺の問いを肯定しているからだろうか。


 無理をして練習したって何の収穫も無いことぐらい、賢明な翠ならわかっているはずだ。

 なのに……どうして彼女は体に鞭打って練習をしているのか。




 俺の中に集う疑問は、翠の蚊の鳴くような声が解決する。

「…練習しないと…けほ、間に合いませんから」


 そういうことか、と心の奥底で少しだけ納得する。
 そして、この時ほど『真面目』という言葉を恨んだことはなかった。


 翠の性格から推測するに、恐らく弱音を吐いてしまってはフェスで失態を犯してしまうという脅迫概念に追われていたのだろう。

 疲労が溜まって倒れたというのに頑なに練習を止めないその姿を見れば、彼女の思いを想像するには難くない。


 ただ、問題はそれが間違いだということだ。

 真面目という概念は、見方を変えれば愚直である。
 進むべき道、思うべき願い、目指すべき頂をしっかりと定めて歩くことはむしろ素晴らしいことだが、それらが狙い通りに運ぶという保証はどこにもない。

 そういった壁が立ちはだかった時に必要なのは、今自分が取り得る行動の中でどれが一番合理的で建設的なのかという問題提起なのである。


 しかし、翠はそれをしなかった。

 合同フェスという大きな壁を目の前にして、ある種の思考放棄をしてしまっていたのだ。

 真面目や練習熱心という言葉を盾に、ひたすら突き進むことだけが唯一の選択肢だと勘違いしてしまっていた。


 それが今の事態を招いた種火と言える。




「…ほら」
 ベッドテーブルに載せたビニール袋から、スポーツドリンクを取り出して翠の顔の近くに置く。

 近くで観察すれば、きっと喉が赤く腫れ上がり、狭まっていることがわかるだろう。
 返事として改めて聞いた翠の声は、以前のような美しさを失っていた。


「…ごめんなさい」
 相変わらず視線をこちらに向けないまま、翠は小さく罪を認めた。


 ――いや、本人もわかってはいるのだと思う。

 それでも折れることが許されなかった雰囲気や重圧が、彼女の周囲を酷く曇らせていたのだ。
 もし理解していなければ、俺の言葉に耳を傾けてはいないのだから。

「喋るな。…痛いんだろ」
 ベッドに横になっている翠は無言でゆったりと頷いた。

 初めから俺に体調が優れない事を申告してくれていたら、初期治療でここまで酷いことにはならなかったのに。

 彼女の弱る姿を見て、やり場のない怒りがくすぶる。
 それは異変を打ち明けなかった翠に対してでもあれば、それを察せなかった過去の俺に対してでもある。

 そして同時に、打ち明けてくれるほどの信頼関係を構築できなかった俺の行動にも腹が立ったのだった。


 結局、無意識の内に俺は自惚れていたのだ。

 少なからず好意を抱かれ、はっきりと信頼していると口にされ、その気にさせられただけなのである。


 ……思いをあえて言葉にして伝える意味。
 それを理解していれば、もっと早く気付けていたのかもしれない。




「…悪かった」
「そんな――ごほっ!」
 俺の言葉に反論しようとした翠の言葉は、咳によって強制的に中断される。

 咳も役立つことはあるらしい。
 少なくとも、喋ることに対しての抑止力という点では彼女へ有効的に影響していた。

「だから喋らないって…ほら」
 近くに置いたまま手を付けていないペットボトルを改めて手渡す。

 翠は上半身を亀が如き遅さで起こすと、パチリ、と封を切った。


 ――あの元気な少女がここまで弱るとは予想だにしなかった。

 無論、誰だって病気になるとこうなることは考えなくともわかることだ。

 しかし、彼女の言動や姿勢、今までの軌跡がその常識に霧を吹きかけていたのである。


 翠はドリンクを少し口に含んで苦しそうに飲み込むと、ふう、と息を吐いた。

 この調子だと、呼吸にすら苦しんでいるのかもしれない。


 余計な事を喋らせる前に、俺も退散したほうがいいのだろうか。




「喋らなくていいから聞いて欲しい。とにかく今日から最低三日は休養とする。ちひろさんや麗さんには俺の方から言っておくから、自分のことだけを考えるように」

 既に冷えた頭で近々の予定を組み直す。

 電話口ですらあれだけ憔悴した表情を安易に読み取れたのだ、実際の所は麗さんも酷く落ち込んでいるに違いない。
 ベテランだからこそ、こういう事態に陥った時に冷静に切り替えて欲しいものだが、そうするためにも、話し合いを設ける必要がありそうだ。

 ともかく、翠に仕事の事を考えさせないようにしないと、また無理をしてしまうに違いない。
 ちひろさんには明日になるだろう退院後の翠の状態を少しでもいいのでこまめに診てもらうようにお願いすることにした。

 彼女も今仕事で忙しいのは俺も承知しているが、俺が翠に会えるのはこうして外に出ている間だけだ。
 実家での翠を見られるのはちひろさんだけなのだから、申し訳ないが止むを得まい。


 となると、電話で打ち合わせするよりも三人で一度きちんと集まって連絡し合うほうが絶対に良い。

 翠が搬送されたと聞いたのは午後を少し過ぎた頃。
 今もまだ日は落ちていないから、もしかしたら今日中に設けられるだろうか。




 説明をしている間、翠は悔しそうな素振りを見せていた。

 迷惑をかけてしまったことへの罪悪感か、あるいは疲労に耐え切れなかったことへの不満か。

 どちらにせよ、今持つべき感情ではないことは明らかだ。

「…急ぐ気持ちはわかる」
 もはや当たり前のようになりつつある手つきで俺は翠の頭に手を置いた。

 喋るな、という命令のせいだろうか、上半身を起こしたままの彼女は俯いて何も言わない。

「明日も朝から来るから、ゆっくり休むこと。…何か欲しいものはあるか?」
 軽く何回かだけ頭を撫でると手を離し、立ち上がって足元の鞄を持ち上げる。

 命じておいて喋らせるのもどうかと思うが、今日一日はこの病室で過ごすことになるのだから何か入り用があるのかもしれない。

 何が必要かと考えれば、きっと小腹が空いた時に食べられる食品類や時間をつぶす雑誌類だろうか。

 念の為、事前に買っておいたゼリーなどをビニール袋から取り出して翠に見せていると、彼女は細切れた声で呟く。


 ――Pさんを、と。




「…そうか」
 ビニール袋から手を離して元の椅子に座り、改めて彼女と向き合う。


 お望み通り、翠の傍に居ることにした。

 それで彼女の気が休まるなら、いくらでも俺の時間を使うといい。


 …思わぬことから生まれたこの空白の時間は、俺達だけで埋めることになった。




  *



「…改めて申し上げる。本当にすまなかった」
 事務所に着くなり、俺の姿を視認した麗さんはかつてみたことのない程の角度で俺に頭を下げた。

 こちらも寒い中事務所に入ってまずは暖まりたいと考えるばかりだったので、突然の行為に狼狽えてしまう。


「おかえりなさい、プロデューサーさん。コーヒーを入れますのでソファにどうぞ」
 ちひろさんはそんな麗さんの肩を持って彼女を起き上がらせると、にこりと笑って給湯室へと向かっていった。

「座りましょうか」
「…ああ」
 こちらを悲哀の目で見る麗さんにひと声かけて、ソファに誘う。
 対面する彼女にはいつもの機敏さは全く見られなかった。



 午後になってから時間が経ち、空が暗くなりつつある事務所。

 数カ月前の明るい夕方もすっかり姿を消して、小学生が遊びから家に帰るぐらいの時間にもなれば、辺りからは自然と夜が出始めていた。


 病室での時間を過ごした後、ちひろさんに電話を入れて、急遽打ち合わせをセッティングしてもらった。
 俺は今回の件を麗さんから聞いた時、翠の事に集中するがあまりちひろさんへの連絡を忘れてしまっていたのだが、麗さんは俺へと同様に彼女へも報告してくれていたようで、比較的すんなりとこの時間を設けることができたのである。




 ――翠の病室で過ごした時間はたった半日にも及ばなかった。

 喉を痛めているのでまともに会話すら出来ない上、饒舌に喋る程の気力も失われているようであったからだ。

 本人も、俺と会ってしばらくは体調不良であることを頑なに否定して健康さをアピールしていたものの、指摘されて認めた途端に病人らしく静かになってしまった。


 …認めることの大変さは、俺もよくわかっているつもりだ。
 そうすることは、すなわち失敗を自覚するということに他ならないからである。

 翠は仰向けになって布団を被り、物言わずじっと天井を見ていた。


 やはり、心の奥底では孤独感があったのだろう。
 辛いことを誰にも言えない状態が続けば、精神も摩耗していってしまう。


 布団から外に出した翠の手に俺のそれを重ねることで、いつのまにか彼女は目を閉じて意識を深層に沈めていた。

 それは病気だからか。
 あるいは、恐怖心だからか。

 どちらにせよ、次からは本意でもって俺と接してくれることを願うばかりだ。




「すみません遅くなりました。どうぞ」
 麗さんに何と声をかければいいのだろう、と迷っていると、ちひろさんはフォローするが如く俺達の前に現れ、コーヒーをローテーブルに置いた。

「ありがとうございます。寒かったから余計に美味しく感じますよ」
 それに口をつけて早速胃に流し込む。

 俺はいつも砂糖を入れているので、言わなくてもちひろさんも理解して砂糖を適量入れてくれている。
 いつもの味が口に広がると、いよいよ事務所に帰ってきたな、という安心感が体に伝わった。

 一方麗さんはというと、目の前に置かれたコーヒーをただ見つめていた。

 今の彼女は見ていられない。
 ある意味、翠よりも深刻であった。


 しかし、前を見なければいけない。
 失敗して打ちひしがれるのは自由だが、責任ある立場である以上は、俺も麗さんも、逃げることは許されないのだ。




 俺は温めて体を落ち着かせると、スケジュール帳とペンを取り出して、話を切り出す。

「…今回の件は、少なくとも麗さんだけの責任ではありません。一番近くで見ている私が気付けなかったんですから、言い方は変ですが仕方がないことでしょう。むしろ、体調不良であることを隠し通してきた翠の演技力に感心すべきですよ」

 褒めることじゃないですけど、と付け加えて笑ってみせる。
 今唯一できる精一杯の冗談だ。


 自分で言っていても、本当に驚くばかりであった。

 体に異変があれば、どれだけ取り繕おうとも無意識の内にどこかでほころびは出る。
 それすらも体の内に隠して俺達を欺き続けた翠の精神の強さは、まごうことなき本物である。
 何よりも、喉を痛めて声を出すのも辛かろうに、それでも麗さんに気付かせなかったという事実が色々な意味で俺を唸らせる。

 …それを今回以外の面で出してくれればな、と思うのだった。


「では改めてスケジュールの方変更して行きましょう。とりあえずは三日間は必ずオフにします。それからですが――」

 あの時翠に伝えた事を、一字一句間違わずに伝える。

 消沈しきっていた麗さんも、俺の言葉のおかげかどうかはさておき仕事をする程度の気力は戻ってきているようで、メモを取っていた。

「不幸中の幸いですが、翠の次の予定はフェスのリハーサルだけなので相手先にも迷惑はかかりません。休ませることに集中させたいと思います。…麗さんはどうですか?」
 静かにメモをとっていた彼女に質問をする。

 担当トレーナーなのだから、彼女なりの考えもあるのだろう。
 場合によっては俺の案よりも良い物を出してくれるに違いない。

「…いや、大丈夫だ。それでいこう」

 しかし、存外素直に麗さんは俺の意見に賛同した。
 まあ、翠の担当プロデューサーとして、翠の性格を考えた上で作り上げたものだからこそ麗さんは異論を呈さなかったのかもしれない。

 俺も、胸を張って翠のプロデューサーだと言えるようになりたい。
 そのためにも落ち込んでいる余裕はないのだ。




 それからも、翠へのレッスンの方針や内容の吟味、今後こういった事を引き起こさないためにどうすべきかを話し合ったことで、結果的に白紙だったメモ部分の殆どが黒色に塗りつぶされてしまっていた。

 今回の件は、俺達全員にとっても悔しさの残る事である。
 それだけに対策という部分にも熱が入っていたのだ。

 麗さんも例外ではなく、こまめな状態観察について詳しく意見を出してくれた。
 彼女の経歴の大部分を俺は未だ知らないままではあるが、過去にだって一人や二人、失敗したこともあるのだろう。
 肝心なのはリカバリーであり、フォローである。

 若干特殊な素質とも言える翠のため、臨時でも責任強くいてくれていた。

 それもこれも皆、翠のことが大切だからだ。
 信頼しているからこそ、こうして話しあえている。


 …それだけに、翠が俺達を信頼しきってくれなかったことに一抹の悲しさを覚えるのだった。




「――とまあ、こんな感じです。最後に何か意見はありますか?」
 訊ねると、両者とも首を横に振った。

 問題ない、ということだろう。

「わかりました。麗さんも急なのに来てくれてありがとうございます。…大事なのはこれからですから、よろしくお願いします」
「…勿論だ。全身全霊を持って尽くすことを誓おう」

 話し合いを経て、麗さんの目つきも変わっていた。

 それは翠が彼女と出会った時と同じ。
 変化を感じ、底に落とされたことで湧き上がる気力。

 俺の意思が少しでも彼女に伝わってくれることを願うばかりだ。


「ちひろも…この度はすまなかった。嫌な思いをさせて」
 麗さんは少し温度の下がったコーヒーを一気に飲み干してから立ち上がると、ちひろさんに対しても頭を下げた。

 ながらの行動でも、ありきたりな行動でもない。
 ゆっくりと、落ち着いて、それでいて強い意志で腰を折ったのだ。

 それは俺へ行った物とは少し違うような気がした。
 具体的にどうなのだ、と問われると回答に窮するのだが、俺と麗さん、ちひろさんと麗さんの関係の違いによるものなのだろうか?

「…いえ、無事ですから」
 それに対してちひろさんは静かにそう答えた。

 にこりと笑ってはいるが、事務所で仕事をする時はいつも一緒にいて彼女の顔を見ているのだから俺にはよくわかる。

 さっきのちひろさんの笑顔は、作っている。




 それがどうしてか、この場で訊く蛮勇はない。
 しかし、理由や思惑について過去にも少し考えたことがあったので、一層疑問は深まっていくばかりだった。

 もし、タイミングがあれば――。

「麗さんもよかったら翠の顔を見に来てやって下さい。練習したがってますから」
 …いや、やめておこう。

 翠のために使う時間を、別の…言い方を顧みなければ、どうでもいい事のために使わなければいけない義理はない。

 少なくとも、それをすることが正解ではないだろう。

「わかった。今度ちひろの家に寄らせてもらうよ」
「…ちゃんと来る時は連絡してくださいね?」
 はは、と麗さんは笑う。

 久方ぶりに見る彼女の笑顔だった。

 絶対的に見ればたった一日や二日ぶりなのだが、あまりの空気の重さに、認識している時空が弄られてしまっていたのだ。




「今回の件は本当に申し訳なかった。この事は真剣に反省し、次がないように全力で仕事にあたることを約束する」

 事務所の扉の前で麗さんは改めて謝罪する。

 とりあえずの帰宅先である彼女の所属する会社に車で送ろうと提案したのだが固辞されてしまったので、こうして事務所前で見送ることにした。

 麗さんも重々気をつけてくれるようだし、翠も…練習への気持ちに対してだけは問題なさそうだ。

「それはフェスの結果で判断させてもらいますよ」
「…キミも随分偉くなったものだな」
 そう言って、二人で笑いあう。

 正直に言って、心から笑っていられる状況ではない。
 しかし、関係改善のためには笑顔が絶対に必要なのだ。

 だから、無理をして笑うという程でもないが、少しぐらいは気持ちを底上げしておかないと不意にボロが出てしまいそうなので俺は笑った。


 明日の予定は翠を迎えに行くことから始まる。
 それからは流動的だが、翠の意思を尊重したいと思う。




 ――冬の訪れには、翠だけの特別なイベントが待っている。

 それなのにこうなってしまった事は残念だが……いい機会だ、俺はこれを存分に利用することにする。


 麗さんが帰った後の事務所の中には、ちひろさんはかたかたとキーボードを鳴らす音だけが舞っていた。


 いつもの光景。
 少し違うのは、寒さが扉を貫通しており、事務所の中でも厚着をするか動いていなければ体がどんどん冷えてくる冬の独特の季節性だろうか。



 俺はカレンダーを見る。


 12月2日。

 間に合うかどうかはわからない。

 だが、翠が心から俺を信頼してくれるように、あの日のための準備をしたいと思う。




  *



「ああ、あなたがちひろの言っていた?」
 名前を告げて十数秒。
 玄関の扉から一人の女性が出てきて、俺の顔を見るやいなやぴょんと跳ねる声を上げた。



 ――事務所から電車で数十分。

 近からず遠からず、電車通勤の距離としてはなかなか優秀な距離に位置する年季を感じさせる一軒家。
 割と古い町並みの中に上手く溶け込んだ、ある種風情を残しつつ平成の雰囲気を併せ持つ家に俺は来ていた。

 ここは、翠が現在寝泊まりしているちひろさんの実家だ。
 だが、その当人はここに居らず、彼女は今日も事務所で仕事をしている。


 どうして俺がここに居るかというと、予め連絡していた通り翠の見舞いに来たのだ。


 ちひろさんに日時を伝えると、彼女の母親に言ってくれていたようで、つい先程インターホン越しに名前と所属、目的を述べるとすぐに反応してくれた。

 母親はウェーブがかった茶髪で、それほど歳を召してはいないように見える。

 しかし態度は比較的落ち着いていて、それでいて元気そうな声色をしている。
 思ってみれば彼女とちひろさんにも何か類似点があリそうな気がした。




「改めてご挨拶させて頂きます。シンデレラガールズ・プロダクションに勤めております、千川ちひろさんと同僚のPと申します」
 彼女の口ぶりから察するに、ある程度はちひろさんから俺のことについて話してくれているらしい。

 木製の艶のあるテーブルに対面して座ると、母親はへえ、と言っていた。

 リビングルームにはインテリア小物が棚に数多く並んでいて、どこかの国の装飾品類が異彩を放っていて目を引かれる。

 俺の実家はというと、家具はあるものの贅沢品などは少なく、こことはおおよそ対照的であった。
 決して裕福ではなかったが、かといって明日に困る程貧乏であった訳でもない。
 きっと両親が質素を良しとする性格だったのだろう。

 子供心では金がないのだと思っていたものの、いざ大人になって仕事に忙殺される日々が続くと、あまり家の中にお金を使う気も失せるというもの。

 この歳になってようやく、両親の気持ちというものが垣間見れたような気がした。


 その後はしばらく母親とちひろさんについての事務所内での仕事ぶりを質問され、それに答える時間が続いた。
 様相といえば、もはや尋問というべき食いつきっぷりである。

 やはり実の子供、それも娘とあれば行動が気になるのだろう。
 卒業して未だ音沙汰ない俺の両親に比べれば、随分と羨ましく思えた。




  *


「ああ! そういえばそうだったわね!」

 翠の部屋はどちらでしょうか、という俺の問いに、彼女の目が覚める。
 ぽんと手を叩いて、忘れてたわうふふと笑う母親に俺も苦笑せざるを得ない。

 当然ちひろさんの母親と与太話をしに来たつもりではなく、目的は翠のお見舞いなのだ。

 ここ数日に関しては、完全休養という訳あって俺は翠と会わない時間が以前より多くなっていた。
 とはいっても、翠の方から些細な事でもメールが来るので状況は粗方把握はしている。


 しかし、彼女の顔が見れないのはどこか寂しく感じるのだ。

 最近では毎日顔を合わせるぐらいの頻度で合っていたので、たかだかこんな短期間でさえそう思ってしまう。
 いよいよ俺も翠にとり憑かれたかな、と心の中で嘆息した。


「二階の空き部屋を貸してやってるのよ。今は多分起きてると思うから、案内するわね」
 母親はそう言って椅子から立ち上がると、リビングルームを退室する。

 この家の構造的には他の一軒家のタイプと変わらない一般的なもので、リビングルームを出ると玄関の近くには二階へと続く螺旋状の階段がある。

 それを手すりと持ちながら上がる母親の後ろを俺も歩く。

 家の匂い。
 ちひろさんの着けている香水とはまた違った心地良い匂いがする。

 それぞれ家によって違ったっけな、と昔友達の家に遊びに行った時の事を不意に思い出して笑ってしまう。

 こうして他人の私生活を行う家にお邪魔することなど翠をスカウトした時以来だったので、どうにも感傷的になるのである。


 それだけ密度ある時間を過ごしてきたのだ。
 例え胡乱な感情で入ったこの仕事も、今となっては悪い気はしない。




「ここよ。…後で飲み物も持ってくるから、ごゆっくりね」
 二階に登ると、二人が並行して通れる程度の廊下を少し歩いて、一番奥の部屋に案内される。

 木製の戸にはセロテープで何かを貼り付けていた痕跡があった。
 きっとこの部屋は遠い昔息子か娘かの部屋だったのだろう、とても古い跡が歴史を感じさせた。

「はい。何から何までありがとうございます」
 幾許か観察した後、母親に頭を下げる。

 仕事で関係を持っている少女とはいえ、他人を家にしばらく生活させるなど並の人間は許可できまい。
 とても広い心を持っているのだな、と素直に感心した。


 母親が下に降りたのを見届けると、改めて扉を注視する。

 いつも会っていて昨日もメールで色々話していたのに、いざこうして時間を空けて会うとなると、無意識に緊張してしまう。
 遠距離恋愛で久しぶりにあう恋人の感情はこのような感じなのだろうか。


 俺と翠の関係は決して恋人と呼ぶべきものではないんだけども。

 なし崩し的に感情を伝え合ったとはいえ、俺達は仕事仲間であることに変わりはない。
 そう言い聞かせることで、少しづつ高まる心拍数を抑えることにした。


 指の関節で扉を叩くと、こんこん、と綺麗な音が鳴る。
 扉が枠にきちんとはまっている証拠だ。廊下と扉の向こうに響く音に揺れがない。



  *


「…お久しぶりです、Pさん」
 しばらく待つと、向こうから扉を開けてくれた。

 絶対安静としつこく言い続けた結果か素直に聞いてくれたようで、翠の髪は片側だけボリュームが失われている。
 きっと今日も寝て過ごしていたのだろう、顔つきも病室での頃に比べても幾分と穏やかだった。

 何より、翠の発する言葉が初めて会った時のような涼しげでかつ芯のある綺麗な声に戻っている事が、俺にとって嬉しかった。

 ビジュアルも勿論大切だが、声が失われるともうアイドルとしてはやっていけない。
 風邪ぐらいで大げさな、と言われるかもしれないが、ある意味俺達に起こった最初のアクシデントなのだ、過剰に心配するぐらい許して欲しい。

「はは、何だか少し直接会わないだけで久しぶりに思うよ」
 つい先程思ったままの事を言う。

 微かに感じていた不安……やつれているとか、心が折れているとかいう未来にならなかった事が俺を安堵させる。

「不思議ですね。…メールで繋がっていても、近くに居る気がしないんです」

 ちらりと部屋の中を覗くと、ベッドの枕元に翠の携帯電話が転がっている。

 今日も見舞いに行くことの連絡を含めて何度かメールを交わしているのだ、雑談の文面とか、他に時間を潰す方法とかを考慮しても、彼女は俺とのメールをちょっとは楽しんでいたのだろう。

 翠の表情にも、笑みが溢れる。
 しかし、それは単純に嬉しいとか、幸せとか、そういった固定的な感情ではないように思えたのだった。




「…翠らしいな」
 部屋に入れてもらうと、翠は俺をベッドに座るように案内した。

 借りている部屋には、フローリングの床にベッドが一つと丸テーブルが一つ、クッションが一つ、そしてクローゼットや収納棚が一つと実に簡素なものだった。
 その内テーブルやクッションは翠が実家から持参したものらしいので、ベッドや収納棚は元々この部屋に置かれていた物なのだろう。

 化粧品や日常で使用する消耗品類が、使う頻度順にきちんと整頓されていることがパッと見ただけでわかる。
 彼女の几帳面とか真面目とかいう性格がここぞと表れているのがどうにも面白かった。


「…そんなに見ないで下さい。何だか恥ずかしいです」
「ん、ああ、ごめんごめん」
 借りているとはいえ、今は翠の私生活の全てが秘められたプライベートルームなのだ、周りを観察されて平気である訳はないだろう。

 プライベートルームといえば、翠をスカウトして両親に説明した際にも一度翠の部屋に入った事がある。

 あの時は俺も翠のことをあまり知らなかったし、ただの仕事をする上での関係者としてしか見ていなかったので何とも思わなかったのだが、今では少し事情が違う。

 改めて変わった心で見てみると、如何ともしがたい羞恥心が俺をゆるやかに襲ったのだった。

 …大人のくせに情けないな。




「最近はどうだ? 何か変わったことはないか?」
 偶然にも、俺の家に翠が来た時と状況が似ている。

 ベッドに隣同士で座っているこの距離が、自然と緊張を和らげた。


「お陰様で体調もよくなりましたし、ちひろさんのご家族の方にも良くしてもらっていますよ」
 何だか新しい両親が出来たみたいです、と翠は笑う。
 それを本当の両親が聞いたら複雑な気持ちになるだろうな、と考えると俺も無意識に笑ってしまった。

「あ、それと、昨日は麗さんが来てくれました」
「おお、そうなのか」

 正直に言えば少し不安ではあった。

 直接的な関係性は薄いとはいえ、麗さんは間近で翠が倒れるのを見てしまったのだ。
 そういう状況が彼女二人の間に何か変な軋轢を生んでしまっているのではないか、という懸念が頭の中にあったのである。

「麗さんが悪いわけではないのに、すごく謝ってもらって…私も申し訳なかったです」
 しかし存外よそよそしさと言った部分は無く、温和に元通りの関係に戻っているようだった。

「その後は自宅でのトレーニング法を改めて教えて頂いたり、栄養のある食事を教えてくださったりしましたよ」
 真剣に反省しているからか職務を全うすることに集中しているからかはわからないが、麗さんも謝った後はトレーナーらしい話題を提供していた。

「麗さんも真面目だな。ずっとそんな話だったのか?」
「…あと、甘い物を幾つかもらって一緒に食べたりしました」


 なるほど、ああ見えて麗さんも甘いモノは好きらしい。




  *


 ――改めて謝りたいと思います。本当にすみませんでした。


 ちひろさんの母親から頂いたジュースとケーキを食べながら、メールで話しきれなかった今日の新鮮な話題を交わし合ったが、それも時間をすぎれば大体出尽くした。

 その後は独特の静寂が俺達を包んだかと思えば、翠は体を俺に向けて頭を下げたのである。


 ……何度謝れば彼女は彼女自身を許すのだろうか。


 俺は翠も麗さんも責めるつもりはなく、ただ心配しているだけなのだ。
 それが怒っていると取られるのは少し残念である。


「これからはもっと頑張りますから、どうか見捨てないでくださると……嬉しいです」
「…見捨てる訳ないだろう。俺も、ちひろさんも。勿論麗さんもな」

 すっと手を上げて、彼女の頭の上に置く。
 まるで素振りをした時点で予想できたのか、いつものように可愛らしい声は上げなかった。


「ふふ、Pさんも慣れましたね」
「…お互い様だ」
 身長差で俺を見上げる翠はくすりと微笑む。

 それが良い事か悪いことかは置いておくとしてもだ、彼女との友好的関係を築くために大きな功績となっているのには間違いはないだろう。

 後ろを向いて考えてみると、これを選択した当時の俺はよくもこんなことができたものだ。
 常識で言えばまずこんなことにはならないのにな、とただ笑うしかなかった。


 ……なら、そんな馬鹿げた選択をしたついでだ、もう少し歩を進めてみようではないか。




「…翠、明日は何の日か知ってるか?」
 ジュースを飲む翠に、一つ訊ねる。

「明日ですか? ええと…何かのイベントでしょうか」
 本当にわからないといった態度で、グラスをテーブルに戻した後に頬に手を当てて逡巡しても、どうやら明確な回答は出て来なかったようだ。

 まあ、急にこんな事を聞かれてわかる人はそう多くはないか。
 カレンダーにも明日には何も記載されていない、ただの365日の内の一日である。


 しかし、彼女にしてみれば真実は異なる。

 俺は訝しげな表情の翠を他所に、持ってきていた普段から使っているドクターバッグからあるものを取り出すと、おもむろに彼女の手に置いて、こう伝える。


 ――誕生日おめでとう、翠。


 明日、12月5日は水野翠の誕生日なのだ。




「え、え?」
「はは、自分の誕生日を忘れるなよ」
 彼女の頭を撫でる。
 予想通りというか、意地が悪いが思い通りの困惑ぶりに、俺も思わず笑ってしまった。


 しかし、彼女の反応にも理由がないわけではない、

 そもそも俺は翠と誕生日といった関係の話をした事がなかったのだ。
 学園祭の時も、俺の家に来た時も、生まれの話はしても、誕生日の話はしていない。

 故に、俺が翠の誕生日を知っていた驚いていた、というのが真相だろう。

「私の誕生日、知っててくれてたんですね……嬉しいです」

 彼女の手には、一枚のチケットが握られていた。
 それを胸に当て、かつて無いほどの美しい笑顔を見せている。


 チケットとは、郊外にある有名なレジャーランドの一日フリーパス券である。

 そのレジャーランドでは一年中季節にあったイベントが催されており、夏にはプールも併設され、性別、年齢層、入園者の構成を問わない万人受けするアトラクションを多数取り揃えた日本有数の巨大施設なのだ。

 翠の手に一枚あるチケットは、俺の手にもう一枚同じ物がある。

「本当はフェスの後の約束だったけど、ちょっとはやいプレゼントだ。……楽しみにしてろよ」
「…ああ!」

 それを見せると、彼女も即座に理解したようだった。




 約束。

 その言葉を訊けば、瞬時にあの時の視界が脳裏に映し出される。


 ――また今度、デートに行こう。

 俺の寂れた部屋での言葉だ。

 我ながら恥ずかしい事を言ったものだ、と思うが、今日ばかりはこの言葉に感謝をせざるを得なかった。

 何故なら、フェスに向けての日々の過酷なトレーニングが今回の騒ぎを引き起こしてしまったのは自明だからである。

 フェスの前という時期ではあるが、思い切って気分転換をして欲しい、そんな思いで誕生日プレゼントとしてこのチケットを翠に渡したのだ。


 当の本人はというと、少女が更に幼くなったような自然体で無垢な笑みを浮かべて、幸せそうな目でチケットを見ていた。

 勿論デートに行けるという嬉しさもあるのだろうが、俺が誕生日を覚えてくれていた、という意味合いでの嬉しさもあるのかもしれない。

 好きという感情は非常に複雑で、この文字程難しい表現もそうそうない。
 自分に降り掛かった現象が、どんな内容かだけではなく、誰からのものかという点によって印象が大きく違ってくるからだ。

 誕生日プレゼントを家族からでも友達からでも、あるいはただの知り合い程度の人間からでも、翠なら心から喜ぶだろう。

 しかし、もらった相手が俺だったら。
 …彼女の表情にはそんな恋心が微かに含まれているような気がするのは、俺のフィルターの所為なのだろうか。




「…でも、いいんでしょうか。本番も近いのに……」
 ひとしきり喜んで感謝の言葉を口にしていた翠は、不意に静まり返ってそう呟いた。

 翠の言う通り、一ヶ月の境界線はとっくに通り過ぎてもう残り三週間というべきところまで来ている。
 にも関わらずフェスのことを忘れて遊ぶのはどうか、と翠は考えていた。


 ……それが問題なのではないか、と俺は思う。

 勿論、本番に備えて必死に練習をするのは悪いことではなく、むしろ全てにおいて推奨されるべき事である。

 しかし、それを信じて突き進んだ結果、彼女は自身の力量を顧みず倒れてしまったのだ。


 俺は、それが怖い。

 今回は運良く過労も酷くなく、数日安静にしただけで風邪の症状と一緒に体から追い出すことができたが、いつもそうだとは限らない。

 いつか己の力を…己の精神を過信して、取り返しの付かない事態に陥ってしまうのではないか。
 そんな不安が、ここずっと俺の頭を占領しているのである。




 翠は、自分を知っているようで知らない。
 むしろ自分の全てを知っている人の方が少ないのだが、懸念すべき点は、翠は心が強い、という部分にある。

 意思に背いて倒れるということは、体が意思に追いつかなかったという事に他ならない。

 たまたま今回は軽い過労という結果に落ち着いたものの、これを反省せずに繰り返せばまた同じ事になることだって十分に考えられる。

 それどころか、『もうあんなことにはならないから』という根拠のない自信めいた何かが彼女に植え付けられれば、この仮定以上の事態になる時が来るかもしれない。


 何故ならば、彼女は一人で抱え込むからだ。

 たとえ辛かろうと、痛かろうと、それを外に漏らそうとはしない。
 不安をいくら口にしても、真の苦しみは伝えない。

 それは彼女が己の立場を理由にして自身を追い詰めているからである。


 だから俺や麗さん、ちひろさんに不調を訴えなかったのだと推測している。


 一度は心配をかけてしまった。だからもうこれ以上は心配を掛けたくない。


 ――そんな思いが、より危険な事態を引き起こすのだ。




「翠はさ、我儘ってどう思う?」
 先程とはうってかわって不安そうな表情をする翠に、俺は突然問いかける。

「……我儘、ですか?」
「そう、我儘。ああしたい、こうしたい。それを伝える事だな」

 一見前の話題と全く関係ないような話題を振られて、翠はきょとんとして俺の言葉を跳ね返す。
 数秒のラグを経て彼女が理解すると、膝に落とした手に握られているチケットに視線を向けて考え始める。


 我儘には、良い時と悪い時がある。

 己の力量をわきまえないで、自分の意志を最大の根拠に据えて行動することは、悪い我儘だ。

「…よくない事だと思います。我儘は周囲を混乱させるだけで、得にはなりません」

 しかし、その日その時で移り変わる状況の中で生まれる変化のために自身が適応した結果、周りを変えていこうとするのは良い我儘なのである。

 もしあの時我儘を言っていたら、翠が倒れることもなかったのだから。


「そうでもないさ」
 再度翠の髪を梳く。
 ぺたんとした髪が滝のように俺の手を流すと、翠はくすぐったそうに目を閉じた。




 この質問を通して彼女の考え方が俺の中に映し出される。


 …翠に足りないのは、自己主張と言う名の我儘だ。
 彼女は、『意見』を言うことが場を乱してしまうのだと考えている節がある。

 それが仮に同級生や友達といった対等な立場であれば、翠も向上のために率先して意見を言っただろう。

「俺達の指示に従って、頑張ってくれるのは嬉しい。……でもな」

 しかし、この場は年上ばかりである。

 自分の中だけで完結して力を身に着けていく習慣が子供の頃に備わった事に加え、指示をする人間が軒並み目上の人間でかつ本人が表向きでは信用しているから、言い出すことが出来なかったのだ。



 髪を撫でる手を下ろすと、翠は俺の目を見つめた。
 その表情は先程ともまた少し違っているが、それが喜怒哀楽のどれに位置するかはわからない。

 翠がどう考えているのか。
 俺の予想というのはあくまで想像の範疇にすぎず、真実を表してはいない。

 だからこそ、俺は翠に本心を伝えて彼女の中心を探る。
 その本心の伝える方法というのが我儘であり、自己主張であり、また自己表現なのだ。


「――ぶつかってきてくれたほうが、信頼を感じることだってあるんだ」

 暖簾に腕押し、糠に釘という程のものではないものの、それでも彼女はどうしても受け身になりすぎている部分がある。

 それも見方によっては利点だが、こと人間関係においては欠点にもなり得るのだ。




 俺は彼女に対して常に本心を伝えているつもりだ。
 多少隠すことはあっても、本意はいつも言葉に含めている。


 だが、翠はどうだろう。
 ただ頷いて受け入れることだけが、信頼に繋がるのか。

 翠が俺を信頼しているとよく口にするのは、信頼しなければ自分の行いの正当性を間接的に主張できないからではないのだろうか。


 決して伝えはしないが、今回のデートというのはそれを打開するための一つの方策であった。




「我儘が、信頼…」
 ぽつりと翠は呟く。

 罪悪感が無い訳ではない。
 少女としての翠が心からデートを喜んでくれているのに、俺はプライベートの服を着ていると見せかけて、中にビジネススーツを着ているのだ。


 しかし、翠のそういった点を改善するためにはこの場が必要だった。
 きっかけもなく、ある日突然直接面と向かって言ったところで、表向きは頷いても本心はそれに従わない。
 それは、心の何処かで主張をすることに歯止めをかけているからである。


 素直であることはいいことだ。
 しかし、心を隠蔽して耐えるということも、端から見れば素直と取られてしまう。

 自分を隠して相手に本心を晒せるか?
 相手に隠して自分を伝えることが出来るか?


 今の翠に足りていない部分はそこだ。
 意見して、我儘を言って、要望を伝えていくことが、ひいては本心を伝えると言っても過言ではないのである。

「だから俺は我儘を言うぞ。日々の辛い仕事を忘れて翠とどこかに遊びに行きたい、てな」
「それはどうかと思いますが…」
 ここにきて翠の冷静なツッコミに苦笑する。


 ――だが、その表情に曇りはなかった。




「……では、私も言わせて下さい。明日、Pさんと一日中遊びたいです」

 普段通りの静かな、それでいて芯のある美しい声が俺の耳を撫でる。

「おお、一日中か……俺も気合いれないとな」
 一日中とは大きく出たものだ、と笑う。

 そう言ってくれるのも、俺がこの話をしたからだろうか。


 明日のデートでは、俺は翠を仕事仲間の担当アイドルとしてではなく一人の女性として扱うつもりだ。
 かつて俺が翠に伝えた言葉が本心であるとすれば、その行動こそが俺の本心となる。

 それを受けて、翠はどう対処するか。
 彼女がアイドルという立場を忘れて、俺の立場も忘れて、対等な関係として我儘や意見を言って、その日を楽しんでくれたら。


 ……それは、本物の信頼へと繋がるはずだから。


「…フェスのことを忘れて?」
「フェスのことを忘れて、です」


 冗談めかしてお互い笑いあうこの空気がやけに久しぶりなように思えて、何だかとても心地よかったのだった。




  *


「ちょっとプロデューサーさん。翠ちゃんに何を吹き込んだんですか?」
 翠の見舞いに行った後は事務所に戻って普段通り仕事をしている午後。

 企画書作成のためにパソコンと長らく見つめ合っていると、不意に横からボールペンでつんつんと突かれる。

 その方向を見ると、疑心暗鬼になってこちらを可愛らしく睨むちひろさんの姿があった。
 普段怒らないせいか彼女が頬を膨らませるのが意外に思えて、何だか面白かった。

「吹き込んだって…どういうことです?」
 今日のことを回想すると、確かに吹き込んだと言われればある意味吹き込んだようにも思える。
 しかし、決して間違った知識を教えたという訳ではないのだから、ただ単に伝えたと表現するべきだろう。

 ちひろさんは俺の回答に対し半目でしばらくこちらを睨むと、一つ大きな息を吐いた。

「…さっきお母さんからメールがあって、翠ちゃんが何だか今まで見たこと無いくらいそわそわしているんですって。それって今日プロデューサーさんが私の家に来た後のことですよね?」
 わざわざ該当のメールが表示された画面をこちらに突きつけた。

 文面には、嬉しそうな顔をしていること、様子を見に行くと落ち着きが無い事、プロデューサーである俺のこと、そして俺と翠の関係に対する母親なりの余計な推測云々が記入されていた。

 ご丁寧にも、文章の最後には『アイドルとプロデューサーなんてもしあったら禁断の愛よね、キャー』などと言った文字がカラフルな絵文字と共に添えられている。

 全く、どうしてこうも母親という人種は好奇心が旺盛なのか。
 いや、あるいは女性という区分にすべきだろうか。

 どちらにせよ、ちひろさんもその光景を見た母親の考えを看過することはできないと判断したのだろう。
 彼女の訝しむ視線の意味がようやく理解できて、そっと溜息を付いた。


 翠よ、そんなに嬉しいのか。
 ……そして、それこそ隠すべきではないのか。




 いい加減な回答をする前に、思考にクッションを挟む。

 当然ではあるが、翠が俺に対してどう思ってくれているのか、そして俺の家に来たこと、明日デートをすることなどは全てちひろさんには秘密にしてある。

 まあ出かけること自体は他の事実に比べれば比較的健全であるはずだが、それを白状してしまうと更なる尋問が待ち受けているような気がするのだ。

 そうでなくとも、以前翠の髪を撫でている姿を既にちひろさんには目撃されている。

 ちょっとでも匂わすような事を言ってしまったら、すぐさまマンツーマンの独裁的裁判が事務所で開かれるに違いない。

 かといって誤魔化せば、後で絶対にボロが出る。
 翠があんな状態になってしまっては、まず確実に口が滑るだろう。

 ではどうすればいいか、といくらか案を練ったところで答える。
「明日、翠は誕生日じゃないですか」

 その言葉に、ちひろさんは目を大きく見開き、あ、と小さく漏らした。


 ちひろさんはどうやら忘れていたらしい。
 有能な彼女にもこういうことはあるのだな、と『やだ…私ったらなんてこと』と呟く姿を見て思った。
 ここ最近の激務があれば、そうなるのも仕方のない話かもしれない。

 どうしよう、と言っているちひろさんに対し、俺は続ける。

「それで明日も休養ですし、せっかくだからプレゼントで欲しい物を買わせてあげようということで出かけるんです。もしかしたら、それで楽しみにしてくれてるのかもしれませんね」
 あくまでよそよそしく言う。
 知っているのにこんなことを答えるなんて、白々しいにも程がある。




 プロデューサーさんも結構気が聞くんですね、とちひろさんが小さく呟く。余計な一言である。
「……そうだ、買い物が終わったら、私の家で誕生日パーティをしませんか?」

 おお、という声が無意識に出る。

 なるほど、そういう手もあったか。
 俺はチケットの事で頭が一杯になっていて、翠の誕生日自身へのお祝いという物がすっかり抜け落ちていたのである。
 そういう意味で、ちひろさんの提案は願ってもない事だった。

「いいですね、やりましょうか。でも家の方は大丈夫なんですか?」
 ただでさえ部外者であるちひろさんの母親に迷惑をかけているのだ、更に場所を借りるとあっては申し訳が立たない。

「大丈夫ですよ。前にも言いましたけど、お母さんったら孫どころか娘みたいに接してますから…」
 そう判断して言ったのだが、対するちひろさんははっきりしない声色で答えてみせた。

 実のところ、ちひろさんの胸中としてはさぞ複雑だろう。
 例えて言えば、弟か妹ができた姉の気分。

 俺の目から見ても、母親は翠によくしてくれているのがわかるくらいだ、ちひろさんから見れば余計に印象強く見えたに違いない。

 この歳で嫉妬ということもないが、実の娘から見れば母親の翠への愛娘っぷりはどうも直視し辛いのだろうか。

「はは…なら大丈夫みたいですね。とりあえずケーキだけでも買っておきますか」
「それは私が買っておきますよ。サプライズのほうが二倍も嬉しいでしょうし」

 衣装を翠に見せた前回の時も含めて、ちひろさんも中々粋な事をするものだ。


 総合すると、俺が翠と出かけている間にちひろさんはケーキを購入して帰宅。
 その後誕生日パーティをするという事だ。




「なるほど…了解です。プロデューサーさんはいつ頃私の家に来ますか?」
「ちひろさんの準備が完了する頃合いに合わせますよ。…まあ、夜がいいでしょう」

 彼女の中では買い物だが、実際はレジャーランドで遊ぶのだ。
 翠自身が一日中遊ぶといっているのだから、そう早くは帰宅できないだろう。

「私も仕事がありますからね……なら、20時でどうですか?」
 普段ならちひろさんは提示された時刻よりももう少し遅くに事務所を後にする。

 翠の誕生日パーティのために、少し早めに切り上げてくれるようだ。

 俺としても、20時に帰宅するのであれば、と当日の行動を逆算する。
 県外に行くと言っても立地上アクセスはかなり便利だし距離的にもそこまで遠くないので、開園から向こうに着いたとしてもかなり遊べるだろう。

「わかりました。では明日お願いしますね」
 晩御飯を食べないようにしても20時であれば間食程度でごまかせるだろうし、丁度いいと判断して了承する。


 じゃあ今からケーキ予約しておかないと、と受話器を拾うちひろさんを見ながら、俺はふと申し訳なさが沸き起こる。


 翠の心情も、いつかは露わになる時が来る。


 …その時が来てしまうのが、俺は怖かった。

投下中断。
この時間重すぎてエラー出まくり。怖い…

きらびやかなドレスってよりは艶やかな着物って印象なんだよなぁ
SR+の
無難にドレスでまとめました^^
みたいな感じがなんとも

>>515
今回のイメージは千秋とのユニット扱いみたいな感じだったからねえ。
イラスト的にソロユニット扱いじゃないのかも。

そうなると、今後のイベントで二人組として出るのかという推測ができますね。


あ、投下です


  *



「うお…思ったよりかなり大きいな、ここは」
 晴天の冬空の下。
 車から降り立った俺は、駐車場からでも見えるレジャーランドの建造物の屋根を見て思わず呟く。



 翌日。
 俺は朝にちひろさんの家に行って翠を車に乗せると、あとは高速道路を通って件のレジャーランドにやって来たのだ。

 天気予報は裏切らず無事に快晴となったことで、肌を撫でる風は冷たいものの心地良い日の出となったのであった。

 途中でコンビニに寄って車中でつまむお菓子やジュースを買った後は運転しながら今日の事について談笑しながらここに辿り着き、今に至るという訳だ。


 朝早くから出発したおかげで、多少移動時間はかかるものの入園開始時刻の少し過ぎ位に到着することが出来た。

 駐車場に足をつけて早々、窮屈な車内から開放された反動で無意識に大きく背伸びをすると、何故か翠も同じタイミングで背伸びをしてしまう。

 それに気づいた俺達は見つめ合うと、勝手に笑みが零れた。
 なんて事のない些細な物なのだが、示し合わせたかのように同時に背を伸ばす互いの姿がどうにも面白かったのである。


 くすりと笑った後は、同じ歩幅で歩き出した。






「もう…Pさんがチケットくれたのに知らなかったんですか?」
 身長差から、微かに見上げる翠は一つ息を吐く。


 そう言われると耳が痛い。

 そもそも俺はこういったレジャーを楽しんだ経験があまりない。
 無論学校の行事で行ったことはあるが……、家族とでさえ数は劣る程だ。

 ごめん、と頭を掻きながら苦笑すると、翠も同じ表情を取る。


「…ですが、好都合かもしれませんね」
「好都合?」
 車からレジャーランドの正門まで歩きながら彼女は言う。

 むしろ一般的な理論で言えば男性側からエスコートできない事に呆れるシーンであると思うのだが、翠はそんな素振りも見せないで微笑む。

「その方が、たくさん楽しめて…たくさん思い出に残りますから」


 見上げている翠の顔からは、アイドル特有の雰囲気は何も感じられない、純粋な少女の笑顔。
 だからこそ彼女は輝いているような、そんな気がした。






「最初は何に乗りたい?」
 数多の入園者と共に通ったゲートでもらったパンフレットを二人で覗きこむ。

 位置が悪いのか、雪のような新品の白いキャスケット帽を少し触りながら翠は考え始めた。

 当然だが、ある程度の変装と言った類の事はしなければならいという認識は持っている。

 もしも彼女が誰もが認める有名アイドルだったならサングラスも必要だったろうが、そうであってもせっかくの楽しいオフなのに周りの目を気にかけさせるのは些か不躾だ。

 そのため、翠には普段のイメージとは違ったファッションをしてもらう事で手を打ったのである。
 慣れない帽子を気にするのはそのせいだ。

 髪型もトレードマークのポニーテールから普通のロングヘアーにしている。


 …まあ、普段とは違う印象の翠を見ることが出来て、俺としては役得なのだけども。




「…ジェットコースターでもいいですか?」
「最初にそれを選ぶか」
 数秒ほど間を開けて、翠は該当の場所を指差しつつこちらを見た。

 指先に記された文字を見るとどうやら本格的なジェットコースターらしく、あちらこちらへと縦横無尽に駆け巡る写真が記載されていた。

 まさか翠がそんなものを、しかも最初に選ぶとは流石に予想ができなかった。
 翠自身も俺と同様にそこまでこういった場所に来たことがあまり無いと言っていたので、てっきり優しいアトラクションからから行くと思っていたのだが、存外彼女は気力満点らしい。
 その瞳は期待に満ちて、さながら未来への希望を感じさせる程だ。

「よし、じゃあそれでいくか!」
 正直に言ってジェットコースターに乗った経験はあまりない。
 かといって、テレビで芸人が騒ぎながら乗るようなタイプの恐怖を煽るものでもないだろうし、俺でも大丈夫だろう。

 …何より、高校生に負けるのは悔しいしな。

「ふふ、ありがとうございます」
 そんな俺の表情を察したのかどうかはわからないが、翠は一つ笑う。


 最初が肝心とも言うからな。
 ここらで『らしい』ところを見せようか。


 そう思って、パンフレットに従って歩き出したのだった。



  *


 翠にとって運動というのは比較的親和性のある存在だったようで。
 そして、ジェットコースターという存在は中々に彼女の好奇心を駆り立てる物だったようで。

「…だ、大丈夫ですか?」
 ベンチで勢い良く座り込んで真っ白になりかけている俺を翠が心配そうに覗きこんだ。

「あ、ああ…ジェットコースター楽しいもんな」
 青い空を呆然と見上げて呟く。


 入園して一時間は経過しようとしている今。

 このレジャーランドにいくつかあるジェットコースターを即座に制覇した後、クッションで優しい乗り物に乗った後、二周目に入ったところで俺の心臓が限界を迎えた。

 普段から強い人だと思ってはいたが、恐怖やスリル耐性すら強いとは全く思わなかった。
 そして俺とは対照的にどんどん元気良くなっている翠に感心すら覚える。




「すみません、調子に乗りすぎて…あ、飲み物買ってきますね」
「いや、俺が買いに――」
 行くから、と言う前に、翠は足早に自販機のある方向へ走って行ってしまった。

「…情けないな」
 あまりに非情すぎる現実に、ただうなだれるしかなかった。





 翠の姿を少し巻き戻して回想する。

 いつも仕事として接する時は、自然体ながら真剣な表情で真面目に取り組む優等生。
 たいそれたことはせず、二人でただ時間を過ごすだけの時は大人くて尚且つ恋慕に思いを寄せる少女。
 そして、完全に仕事と切り離して遊んでいる時は品がありながらも元気な女子高生。


 この一年を通して、俺は翠という存在について三つの顔を見ることが出来た。
 それのどれが本当の翠なのかと問われれば、間違いなく全部そうである。

 彼女の特性は、高い気品を持ちながらも接する人間に対して壁を作らず、不愉快のない自然体で居られることだ。
 その結果、仕事で共演することになった人などの仕事に関わる人間とも気分を害させずに交流することで良い関係で居られ、それが理由で新たな仕事を回してくれることだってあった。
 また、人当たりの良さで地元の商店街の方々とも親身になって応援してくれるまでになっているのだ。

 それは言うまでもなく利点である。
 もしも翠が自堕落で体裁を守るだけに集中するような人間だったら、今頃事務所を辞めて元の生活に戻っているだろう。
 努力家で、素朴で、綺麗な翠は、堂々と最高の存在と言える。

 いい事なのだ。
 いい事なのだが。

 …それ故に、俺は困っていた。





 このまま、この先も同じままで居られるのだろうか。


 今の時点では、公私の区別はしっかりつけて、言うべき言葉、すべき態度というものがはっきり出来ている。
 しかし、翠の感情が爆発する可能性だって今後無い訳じゃないのだ。


 常識で考えても、今の関係がずっと続くとは思えない。

 人は、常に欲求を持つ。
 故に人類はあらゆる分野で進化を遂げてきた。

 同様に、彼女もアイドルであると同時に一人の人間なのだ。

 今はただ隣にいるだけで満足している翠も、一年後、半年後……いや、あるいは一ヶ月後にはもっと深い関係を望むようになるかもしれない。
 好きという感情がエスカレートしてしまっては、確実に悪影響となる。

 そうなってしまえば、どうあがこうとも無事で済ませられはしないだろう。
 どんな手段でもってしても、必ずケリを付けなければならないのだ。


 …そうすることで、彼女はきっと傷つく。


 立ち直るならまだいい方だ。
 最悪なのは、それすら抵抗し、明確な境界線を持つ彼女がいつしかそれを失ってしまった時。


 アイドル・水野翠は終焉を迎えてしまうのである。




 多面性は、言い換えれば不安定と同じだ。
 それぞれ成長させていけば、どこかで足の悪い土台に乗ることになる。

 まさに、今がそれに近い。

 もし初めからきっぱりと断ってちゃんとした境界線を引いていれば。
 育てることを放棄して、感情を管理していれば。


「お待たせしました……と、どうかしましたか?」
 ペットボトルのお茶を二本携えて翠が戻ってくると、訝しげに俺を見た。
 彼女にはまだ調子が悪いと見られているのだろう、俺にペットボトルの片方を渡すと、翠はゆったりとした動作で隣のベンチに座った。

「いや、ちょっと昔の翠を考えてた」
 ありがとう、と言って自販機の中で暖められたお茶を飲む。
 寒空のおかげで、懸念に駆られた寒い心がとても暖かくなった。

「昔の私……ですか」
 両手で暖かいボトルを転がしながら、翠は空を仰ぐ。

 こんな楽しい場所に居ても尚、二人だけで話す時のこの雰囲気は健在だった。




「…不思議、というのが改めての感想でしょうか」
 彼女はぽつぽつと語る。
 遠くを見つめ、思いを馳せる姿はまるで少女でない――何十年も生きた大人の姿だった。

「思えば私もよくここまで来れたと、我ながら驚いてます」
「そういえば最初は自信がなかったって言ってたな」
 隣に座る翠は視線をこちらに向けた。

「はい…、私のようなただの人がいきなりアイドルに誘われるなんて全く思いもしませんでしたし、それが最初は不安でしたね」

 誰もが持つ感情、そして彼女だけが味わう感情だ。
 それを弓を引く事で間接的にだが伝え、俺に決断をさせた。


 ――間接的だって?


「でもPさんに期待してもらって、熱心に私を見てくれて…だからこそ、頑張れたんだと思います。本当に、有難うございます」
 俺は翠の事を、芯の強い真っ直ぐな人間だと考えていた。

 今彼女が言っているような不安も、ただ誰もが感じる感情だと思っていた。


 …しかし、それは本当にそうなのだろうか。


 間接的、という言葉に頭が強く揺さぶられる。

 思い返せば、翠の方から先に判断や決定、あるいは提言をしたことがあまり無いような気がする。
 一番強く印象にあるのは学園祭での彼女の言葉だが、それの前後では記憶に無い。




「翠はいつだって頑張ってて偉い。だからここまで来れたんだよ」
 遥か昔、俺は翠にこう言った事がある。


 ――『もう少し肩の力を抜いていい。もっと頼ってくれていい』。


 その時は確か…初めてのオーディションの時だったか。
 俺の言葉に呆れつつも、そんなプロデューサーさんなら相談できそうです、と言っていた。
 そういえばあの頃は名前じゃなくてプロデューサーと呼んでいたんだな、と関係の変化に感慨深くなるが、見るべき点はそこではない。


 ……相談できそうです、と言って、今まで相談されたことがあるか?


「だから、これからもやっていこう。俺は君の隣に居るから」
 ひたすら記憶を掘り起こす。


 不安を打ち明けられた事はあった。
 しかし、それすらも俺が励ますだけで問題は表面上解決したのである。

 最近でもそうだ。
 翠のネームを決める際に、自らは意見せず俺の判断を仰いだ。
 ただの少女として俺に何かを言う時はあっても、アイドルとしては滅多に言わないのである。

 彼女は自らで完全な意思決定を行わない。
 イエスノーでは答えても、5W1Hでは答えない。

 それは俺の質問の仕方が悪いのか?
 今までの翠への対応を顧みても、曖昧なままで分かりかりそうにない。


「…ありがとうございます。私もずっと、あなたの隣に居ますから」

 一体俺のこの感覚は何なのだろうか。
 不安でもなければ期待でもない、何か別の感情が心の中に静かに宿っていた。



「…ふう、もう大丈夫だ。ごめん、行こうか」
 そんなことを延々と考えていると、かつて体に巡っていた疲れが吹き飛んでいたことに気づく。

 確かにそういった各々の問題を片付けるために今日という日を作ったのは間違いではないが、何よりも翠の気分転換が一番の目的なのだ。

 ひたすら考えたところで良い結果が生まれるとも限らないし、今は翠のために時間を使おう。

「次はどこ行きたい?」
「私が先に決めたので、今度はPさんが決めて下さい」

 翠からパンフレットを受け取って、アトラクションの一覧を眺める。


 意外に翠はスリルに耐性があるからな……。

「よし、じゃあここに行くか」
 せっかくだから、どれだけそういった物に強いのか見てみたい気もする。

「お化け屋敷ですね、わかりました」
 明るい園内にも関わらずやたらおどろおどろしい装飾がある場所へ、俺達は行くことにした。



  *


「はい、ポテトとハンバーガーな」
「ありがとうございます。こういう所で食べるのは嬉しくなりますよね」

 楽しかったといえば、完全に嘘となる。
 腕に残る彼女の柔らかいそれが、今もなお纏わりついていた。



 お昼時。

 園内のフードコートには同じ目的でやってきた来園者が多く駆けつけており、店内は勿論、寒いはずの屋外もごった返していた。

 正午よりも早めに来た俺達が危うく外に放り出される位に盛っていた店内の小さなテーブルに座ると、翠は俺の顔を見て笑った。

 どうにも、俺の座り方が老けているらしい。



 ――午前最後のアトラクションとして俺が選択したのはお化け屋敷である。

 大人にもなると所詮作り物だとついつい斜に構えてしまうが、思いのほか内装や演出はよく出来ていたのだった。

 何故このアトラクションを選んだかと言えば、今までのジェットコースターで精神的に劣勢に立たされていたから、せめて何かで一泡吹かせたいと思ったからだ。

 年下の翠が楽しんでいるのに大人の俺がひぃひぃ言ってるのは、どう考えてもみっともないじゃないか。

 ……いや、その考え方自体がもはやみっともないのを通り越して情けないのだけども。





 お化け屋敷では、翠は狭い通路を俺の少し後ろからゆっくりと付いてきていた。

 おどろおどろしいサウンドと暗闇が彩るスリル的感覚を、彼女は少し強張らせながら歩いている。
 ちらりと見える彼女は楽しさ半分、怖さ半分といった所だろうか。
 表情も元気であるように見せかけて、暗闇の中でも少し眉が下がっていたような気がしていた。

 普段そんな表情をあまり見せない彼女がこうした顔をするのを見れただけでも、ここに来た甲斐があったのかもしれない。


 …退屈なことを言えば、豊かな表情はリポーターとしてもそこそこの才を見いだせそうだ。

 喜ぶ顔も寂しそうな顔も、幸せそうな顔も落ち込む顔も、どれを切り取ってもそこはかとない綺麗さ、上品さがあるのだ。

 そう考えてしまうのも、俺という特殊な立場だからなのだろうか。
 一度昔の知り合いと会う機会でもあれば、翠について聞いてみてもいいかもしれない。


 入り口から歩く俺達に待ち受ける様々な仕掛けを乗り越えて、何だか楽しむと言うよりも楽しませてもらった時間も、外への出口を以て終了…という時だった。




 アトラクション側の人間としては、もうすぐ終わりという安心感を与えた所で最後のスリルを味わってもらおう、という魂胆なのだろう。
 狭い廊下の一部分だけが暗幕でカモフラージュされていて、俺達が通り過ぎようとするタイミングで血の色に染まったミイラ男が大きな音とうめき声と共に襲いかかってきたのだ。

「うおわっ!?」
「ひゃあっ!?」
 これに驚かない人は居ないだろう、と少し前を歩く俺が大きく後ろに仰け反って翠と共に驚きの声を上げたその刹那、腕に何か予想外の感触が押し込まれてきたのである。

 だが目の前の驚きに比べれば全く強い衝撃ではないので、意識は前のミイラ男にだけ集中していた。

 そんな俺達のあまりの驚きぶりにむしろあちらのほうが驚いたのかもしれない、演じきった後そそくさと元の場所へ立ち去るのを見つつも、俺の心臓の音は収まること無くしばらく大きく音を立てていた。




「相手の方が一枚上手だったな…」
 やがてその場で安静を取り戻すと、暗がりの中俺は誤魔化すように翠に言う。

「…Pさんはあんな声も出すんですね、ふふ」
 俺が驚いた時の声をからかう翠。
 表情は暗くて見えなくとも、何となく感心しているのはわかる。

 そんな彼女の声は、視界とは違って暗闇の中でもよく通るようで、恐怖を煽るサウンドの中でも耳に素直に入ってきた。


 しかし、ここで俺は違和感に気づく。

 …声がやけに近いのだ。

 通常の距離感で聞く声の濃さではない。
 明らかに近い距離で発せられているのである。

 そして、加えて先程の掻き消された感触が思い出される。
 恐怖がひと通り落ち着いてくると、あの時俺の腕に感じたよくわからないふんわりとした圧力を再び脳が認識したのだ。


 嫌な予感と共にようやく現れた冷や汗が背中を下りつつ、翠が居た方向を振り向く。
「……どうして腕に抱きついているんだ?」

 その感覚は的中していた。

 左腕、丁度肘を包むように、彼女の体が強く触れていたのである。




「み、翠?」
 この時冷静に指摘が出来たのは、恐らく先ほどの驚きがあったからか、あるいは驚きが感情発現の許容範囲を大幅に上回ったからだろうか。

「せめて、ここを出るまでは…いいですよね」
 橙色の外灯と細切れの白い布が暗闇を照らす、昼夜が正反対となっているこの屋敷の中で、彼女の瞳は揺れるように煌めいていた。

 後ろにも前にも、他の来園者は居ない。
 出口への光が僅かに見えるこの場所から向こうまではどの位の距離があろうか。

 目測で見ても、20歩に届くか届かないかの距離だった。


 たったそれだけの空間を、彼女は二人だけの物として宣言したのである。

 限りなく公共的な場所で生まれた、ほんの少しのプライベート。
 それを腕に抱きつくという半ば恋人的行動によって証明したのだ。


 …それは変化の証。
 もしかすると、翠はこういった願望があったのかもしれない。
 それ自体は、言うまでもなく大体の人間が当然持っている感情だ。

 しかし、それを今行ったという結果が、良い事か、悪い事かは俺には判断が出来なかったのだった。



「…うん、美味しいです」
 翠は小さな口で一生懸命ハンバーガーを齧っては、俺の緊張など露知らず、ゆっくりと咀嚼して味を堪能していた。

 決して高級な食材を使っている訳ではないし、この値段の高さも施設特有のサービス料のによるものだ。

 にも関わらず本当に美味しそうに食べる翠は一体何の味を楽しんでいるのだろうか。


 俺の気持ちは一向に安寧の気配を見せない。

 お化け屋敷を出た後、少し早めに昼食を取ろうと俺が提案したのも、今も尚その感触と彼女の綺麗な髪からくる爽やかな香りが皮膚を貫通して、心臓の鼓動を加速させているからだ。

「…全く、あの時の翠には驚かされたよ」
「あの時?」

 ハンバーガーに上品という概念があるのかどうかは不明だが、それでも丁寧に食を進めている翠は首を傾げてこちらを見た。

「出口で…な?」
 改めてその時のことについて翠に言うと、用意された紙のケースにハンバーガーを置いてから、やや恥ずかしそうに視線を下げた。

「勇気が要りましたけど……周りには誰にも居ませんでしたから」
 出来るだけ長くやっていたかったんです、と翠は小さく微笑んで答える。

 しかし、その表情は羞恥心と言うよりもどことなく充足感に似た何かが漂っていた。


「変わったなあ、君も」
 出会った時の頃からすれば、今の翠の状態は全くと言っていい程の別人である。

 まさか恋人的行動を殆ど知らなかった翠が、こうも積極的に動いてくるとは思いもしなかったのだ。

 無論、嬉しくないはずがない。

 立場を抜きにしてしまえば、好意を抱いてくれる相手がこんな可愛い女性だったら、昇天モノである。




 一体どこでそういう方向にシフトしていったのやら、と一つ息を吐くと、翠は少し笑って、とんでも無いことを口にする。

「ゆかりさんに感謝しないといけませんね」

 俺の耳を疑うが、彼女の声はフードコートの喧騒の中でも透き通ってよく聞こえているのだから聞き間違えではない。


 すると、だ。

「……もしかして、ゆかりの入れ知恵か?」
「はい、教えて頂きました」
 良き大人として俺は一度あの娘を叱ってやらなければいけない気がする。


 そう言ってまるで何事もなかったかのように微笑む翠を見て、俺は再び息を吐く。


 つまり、あの時俺の腕に抱きついてきたのは、ゆかりの戦略的アドバイスによるものだったということらしい。
 いや、確かに翠の恋愛方面の知識・経験量から推測してもそういう行動にはおおよそたどり着かないのは俺がよく解っているのだから、ある意味主犯がゆかりであっても驚きはない。

 ところで、大きな問題点が一つある。

 それは。

「ゆかりは……俺達の事を知ってるのか?」
 俺達の事、というのは何も存在という意味ではない。

 翠が俺に対してどう思っていて、俺が翠にどう答えたかという事だ。 

「はい…というよりも、私の方が好きとだけですが」

 その一言で強く安堵感が感情を支配する。
 よかった。担当アイドルに恋するプロデューサーなどと言いふらしていた訳ではなかったようだ。

 ……あながち嘘でもないのが悩ましい所であった。





 何といえばいいのやら。
 立場としては当然怒るべきなのだろうが、ゆかりならそんな秘密も守ってくれるから大丈夫だろう、とも思う。

 アイドルが仕事上であろうとなかろうと異性として好きだという状況が危険なのに、具体的な対処をして来なかった俺に、危機感が足りなさすぎるのだろうか。


「話すのはいいけど……そういう話は危ないから無闇にしないようにな」
「…すみません」

 こういう会話をしていると、翠を可哀想にも思う。
 決して翠は周囲の環境が恋愛に盛んではなかったとは言え、一人の少女として恋愛にもそれなりに興味を持っていたはずだ。
 であるにも関わらず、このように思想や行動に制限を掛けられるというのは精神的なストレスもかなり背負うことだろう。

 背中を丸めて視線を落とし、あたかも落ち込んだような格好を取る翠を見て俺も焦ってしまう。

「ああ、いや、悪い訳じゃない。ただ、もし外部に漏れでもしたら大変なことになるから気をつけて、という意味で……って、俺に対しての事なのに俺が言うのも変な話か」
「…ふふ、確かにそうですね」

 別に怒っているのではなく、単純に今後のスキャンダルの種が発芽するのを避けたいだけだ。

 仮に俺以外の男性が好きだったとしたら、今の状態を話してから理論的に説得し、すぐにとは言わないが、徐々に霧散させるように命じていただろう。

 しかし、なまじっかそれが俺に向いているので、そう簡単に無下にし辛いのであった。


 …そう考えると、俺も男だったという訳だ。




「ですが、今までそんな話に入ったことがなかったから……Pさんの話をゆかりさんと出来るのが楽しいんです」
「本人の前でそういう事を言われると流石に恥ずかしいな…」

 特に我慢すること無く翠はそう言ってのけた。

 数カ月前までは色恋を知らなかった彼女も、今では口にできる程に成長しているらしい。
 翠の恥ずかしいながらも自信を身に付けた赤い顔が、それを表していた。

「…ちなみに、どんなことを話してるんだ?」
 そこまで言われると、本人である俺も段々と気になってくる。

 本来なら俺が立ち入るべきではないエリアだと思うのだが、下手にアイドルにとってのタブーに触れかかっているのだ、俺が知ろうとする行動も決して非難されるような事ではないはずだ。

 何より、この二人でオフに出かけるという行為が、プライベートに踏み込んでも許されるような雰囲気を増長していた。

「そんな大したことではないんです。ただ――」

 それにあてられたのか、恥ずかしそうにしていた彼女も今まで抑圧されてきた物が反動で拡散していくように、こまめに区切りつつも話し始める。

 Pさんはどんな事が好きなのでしょうか。
 どんな女性が好みなのでしょうか。

 聞いているこちらのほうが恥ずかしくなってくるような事を俺に言う。

「ちょっとした仕草とか普段の仕事をする姿とか、Pさんに関わる色んな事を見て、知って、ゆかりさんから色々アドバイスをもらっていたんです」

 …やがて言い終えて口を閉じると、振り切ったように俺を直視する。


 その顔は上気していながらも、とても幸せそうだった。




 ――ああ、なんだ。

 心の中で、喉に絡まっていた灰色の何かが胃に落ちた。



 ちゃんと信頼してくれているのだ。
 本当に、俺のことを信用してくれていたのだ。

 本人を目の前にしてこんなことが言えるなんて、信頼以外の何物でもないではないか。

 心の中では俺を信用していないとか表面上とか、明確な所在もなく色々と疑ってしまったが、彼女は純粋な目で、真っ直ぐに俺を見てくれていたのだ。


 それを知った時、彼女に対して疑心暗鬼ともとれるような様々な憶測をしていた俺が途端に恥ずかしくなった。



「…気分転換だとかデートだとか、体の良い理由を挙げてここにきたけどさ。本当はそういう目的じゃなかったんだよ」
「え?」

 フードコート内は、既に昼食のピークを過ぎて喧騒が失われつつある。
 ただでさえ広いこの空間が余計に広く感じられ、それだけ俺達の空気というものが周囲と隔離されているような錯覚すら覚えた。

 ジュースの入ったカップの氷が崩れる音を鳴らす。
 ある意味で残酷な俺の言葉に、翠は黙っているしかないようだった。


 障壁が瓦解したかのように、ここまでの経緯が次々と俺の口から出てくる。
 その度に翠の表情が暗くなっていくのが話しながらでも読み取れた。


 言い訳染みた理由だ。

 本人の願いや思惑を全て踏みにじるような言葉達は、いとも容易く彼女の心に傷をつけていく。
 それが癒えるのか、ずっと刻まれ続けるのかは俺にはもう判断できない。


 ある意味、懺悔であった。

 人と人が出会えば、必ず衝突する。
 それ自体はどこの世界の誰にでも起こりうる話で、俺もここまで心を痛めたりはしない。


「つい最近の話だけど……倒れただろ、翠」

 ただ、今回は違う。

 翠の抱えている純白の感情を、仕事に蝕まれた汚らわしい意識によって蹂躙してしまったのだ。
 低次元で見てしまえば単に目的が違っただけの事だが、こと彼女の立ち位置からすれば恐らく許されるものではない。




「……っ」
 翠が俯き、小さく唇を噛んだ。
 それは先ほどあった感情とは全く正反対の物。


 ここに来てからどれだけ長い時間が経ったのだろう。
 密度ある濃い時間は、相対的感覚を失わせるのに十分だった。


 そして、俺は言わなければならない。
 それが俺に出来る彼女への償いなのだ。

「それで、いくら翠が俺達に責任が無いと言っても、俺は思ってしまうんだ――」

 翠は、俺の事を本当は信頼していなかったんじゃなかったのか?


 ――そう告げた瞬間、突如机が衝撃を受け、軋むような悲鳴を上げた。




「い……いい加減にして下さいっ!」

 彼女は机を叩くと、酷く憤った顔で立ち上がって俺を睨んだ。

 かつて見たことのない、未知の翠の姿だった。



 その瞳は、微かに揺れていた。
 外灯や影ではない、純粋な神秘の水が、そっと瞳に溜まり始めていた。

「み……翠?」
 あまりに突然な翠の行動に、俺は椅子の木製の背もたれに体重を思い切り預けてのけぞってしまう。

 周囲に居たもう数少ない他の来園者の中には、机を叩く声と翠の声に振り向く人がいくつか見られたが、我関せず、せっかくの楽しい時間を壊したくないとそそくさと去ってしまう。


 一体何が起こった?

 突然舞い込んだ事態に理解が追いつかず、ただ何も言えず彼女を呆然と見ているだけの俺に、翠は溜め込んだ物を吐き出すように続ける。

「…私、前にも言いました。あなたのことは本当に信頼しています、と」
 確かに言った。

 俺は、それが翠自身の歩みを正当化させるための暗示だと愚かにも疑ってしまった。

「信頼しているから、今の私が居るんです。……信頼しているから、あなたのことが――」
 句読点が到達する前に翠は強引に言葉を切るが、俺にはしっかりと届いていた。




 きっと、好き、と言いたかったのだろう。

 ここが公共の場であることが、それを躊躇わせたのだ。
 変装をして、現状では他の来園者やスタッフにバレては居ない。

 しかし、今の状態ではそうなる可能性もゼロではないのだ。

 それを瞬時に判断して言葉を飲み込んだ翠は、決して感情的ではなく、むしろ驚く程に冷静であった。


 彼女は続ける。

「…教えてください、Pさん。どうすれば、私を信頼してくれるんでしょうか?」

 俺の背中に誰かが氷を大量に投げ込んで、心が強く軋み始める。


 数十秒、お互いが見つめ合ったまま時間が過ぎる。
 フードコートの店内を響き渡らせる場違いな明るいサウンドが、より一層俺達を隔離させた。




 彼女は俺を信頼してくれていた。
 だから、辛そうな表情をして、怒りを露わにしているのだ。


「……翠が倒れたのは、疲れが抜け切らないまま更に練習をしてしまったせいだ。それを俺に言わなかったのはどうしてなんだ?」

 だったら、何故俺に体調の事を申告しなかった?

 元々俺がそう考えてしまうようになったのも、体調不良を誰にも言わず、我慢しようとした事が原因なのだ。


「もしもちゃんと俺に言ってくれていたら、翠が倒れることもなかったんだよ。…だから、本当は俺の事を信頼していないんじゃないかって思ってしまったんだ」
「それは……その」

 もはや指摘するにおける障壁はどこにもない。
 包み隠さず訊ねると、彼女はさっきの勢いなどとうに消え、言い淀んでしまった。

 俺を見つめていた瞳も下を向き、再び黙りこくる。


 報告しなかったのには、どんな理由があったのだろうか。


 一旦口をつぐんだ翠が再び開くのは、コマ送りをするようにゆっくりと元の椅子に座ってからだった。




「……怖かったんです。あなたに嫌われるのが」

 再三の経験。
 俺はまたしても、耳を疑った。

 翠に言ってやりたい反論も、無理やりねじ伏せて続きを待つ。

「私は、本当は何をするにも怖くて、Pさんが居なければアイドルなんてできなくて」


 彼女に纏わりつく永遠の闇は、不安であった。
 それ自体は、何回か本人の口から聞いている。

「でも、Pさんが期待して応援してくれるから、今まで頑張ってこれたんです」

 その度に、俺が居たから頑張れた、期待してくれているから頑張れた、と彼女はくり返し俺に伝える。


 それがどういう意味を持つのか。

 自分で結論を導く前に、翠は素直な感情を…本当の感情を打ち明けた。

「ずっと応援してくれているPさんを私が頼って負担を掛けてしまったら……失望されると、思ったんです」
「そんな訳が――」
「わかっているんです、そんなことは無いって!」

 咄嗟に出てきた俺の反論を、翠は潰した。


 翠の中で、大いなる矛盾がひしめき合っていたのだ。

 そんなはずはないと確信しているのは、言葉通り俺に対する確固たる信頼があったからこそだ。

 しかし、その裏でもしかしたら失望されるかもしれないという不安から、二つ対なる感情がせめぎあっていたのである。


「それでも……怖いんです。優しいPさんが私に愛想を尽かすのが」

 始終俯いたまま、彼女は口を閉ざす。




 ――翠の不安は、そもそもの原因として俺の評価のし過ぎであった。

 俺が言っては説得力がないのだろうが、翠にとって、好きな相手に失望されることが一番の最悪な未来なのかもしれない。


 すると、俺の頭の中にふと昔の思考が滑りこんできた。

 『もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――』。


 みっともない妄想だとすぐさま抹消したその推測は、不幸にも的中していたのだ。


 幼い恋心は、唯一無二である自身の体よりも実像のないそれを恐怖したのである。


「…ごめんな」

 ああ、なんて無様な擦れ違いなのだろう。

 全ては俺の責任だった。


 ずっと、翠のことを芯のある強い人間だと思っていた。

 ……それが、余計に彼女に架空のプレッシャーを与えてしまっていたのだ。
 そして、翠の思いに真正面からあたらなかった事が、悲痛な矛盾を生み出すきっかけとなってしまったのだった。




 沈黙を続ける彼女を見て、俺は続ける。

「翠が初日からずっと頑張って練習して、毎日見違えるように力をつけてるから、俺は無意識の内に期待をかけすぎていたみたいだ」

 必要以上の期待を受けて、必要以上の重圧を背負って。
 背中よりもずっと大きな物を背負い続けて。

「…いえ、いいんです。あなたに期待されて、嬉しくないはずがありませんから」
 そんな俺の言葉に、翠は小さな声で反論した。

 精一杯のフォローのつもりだろうが、その気持ちがより一層俺を惨めにさせた。

「俺は翠と出会えて本当に幸せで、嬉しくて……舞い上がってたのかもしれない」


 疑いようのない事実だ。

 水野翠という人間をスカウトしてから、熱心に練習をする光景を見た時は思わず彼女をスカウトできた俺を自画自賛をしてしまう程に喜んでいた。

 それは、事務所の運命を託す人間としての嬉しさだ。

 だが今は違う。
 純粋に一人の人間としての彼女と出会えて喜んでいる自分が徐々に生まれてきたのだ。


 どちらかと言えば、確実にそれは悪い感情だ。

 あくまで仕事のパートナーなのだから、そういった気持ちを持ち込むべきではないというのが、業界人としての義務なのである。


 しかし、と俺は常識に反論する。

 些細な偶然で出会えた彼女が、間違った判断とはいえ身を挺してまで俺のために頑張ってくれていたのだ。


 ――そんな彼女を、人として愛おしく思わないはずがないじゃないか!




「翠のためと言っておきながら、関係ない、俺の個人的な目的で誘って本当にごめん」
 ゆっくりと、俺は頭を下げる。

 申し訳なさしかなかった。
 そんな彼女を間近で見ておいて、どの口が『信頼してくれていない』などとほざけるのだろうか。

 感情を見透かしたのか、翠は顔を上げ溜め込んだ瞳の水を手で拭ってから小さく笑う。

「例え関係のない目的だとしても、私は今日Pさんと遊べて幸せでしたから……気にしないで下さい」


 結局は、俺の考えすぎだった。
 まだまだ新人であるが故の、無意味な不安が行き過ぎていただけなのだ。

 もしも彼女の本意に気付いて受け止めてやれていたのなら、倒れることもなかったに違いない。


 今まで俺は、翠を導く立場だとずっと考えていた。


 しかし、本当はそんな偉大な存在ではない。

 俺は一人の少女をシンデレラにする格好いい魔法使いなどではなく、宮殿までの道をシンデレラの横で共に歩く、物語に描写されない、頼りない従者だったのだ。




「ありがとう、翠」

 何度間違えば気が済むのだろうか。
 翠の担当プロデューサーが俺でなければ、もっと早く彼女をよりよい存在に仕立て上げられたのかもしれない。

 だが、所詮それはイフの世界である。
 数奇な導きによって同じ場所に会してしまったのが俺なのだから、俺なりのやり方で、俺なりの全力で、彼女と共に歩いて行きたい。

「だからこそ君に言う。喜びも、悲しみも、不安も、怒りも、全ての感情を俺にぶつけて欲しい、晒して欲しい。……例えそれが欠点であろうとも、俺が君を好きであることには変わらないし、もっと翠を好きになれるから」

 痛みが無かった訳ではない。
 彼女の涙という形で、少なからず傷つけてしまったのは紛れもない事実である。

 しかし、それも決して悪い痛みではないようにも思える。
 何故ならば、そのおかげで翠の心の奥底が露わになり、俺の心の奥底も晒せたからだ。

「好き……」
 翠は小さく呟いた。

 一体彼女と出会って何回その言葉を頭に浮かべたのだろう、全く想像もできないぐらいに、好意というやっかいな存在と相対してきたような気がする。


 だがそれも今日で終わりとなるだろう。

 お互いの視線が重なり合った時、生まれたのは軋みではなく癒合。


 正真正銘、翠のパートナーとして、俺を見てくれているのだと確信した。




 あれだけ物々しかった雰囲気が、一瞬にして静かになる。
 周囲に見える人物は数えるほどにしか居ない。

 今から来る人は、少し遅目の昼食かデザート類を間食が目的だろう。
 各々が手に持っているトレイには、透明なジュースカップや甘い香りを漂わせるスイーツが載せられていた。


「…初めて言ってくれましたね」
「初めて?」
 この状況から次の会話をどう切り出そうかと言葉に迷っていると、翠はゆっくりと己の両手を重ねて、こちらに微笑みかけた。

「前に聞いた時は……そうでした、スカウトだとか言って濁されてしまいましたから」
「……ああ、そういうことか」
 質問の前後が繋がり、意図を合わせるように相槌を打つ。


 実時間では数日前の出来事でも、俺が覚えている過去の距離とは遥かにかけ離れて遠い昔のような錯覚をする。

 少女・翠として俺の家に行きたいと言ったあの日、思いを告げた彼女に対しての俺の返答の言葉であった。

「…言い辛かったんだよ」
「わかってます」

 当時の心境としては、担当アイドルに対して好きという言葉を用いることが不適切であるように思えて、表現を別の物に変える必要性に駆られたのである。

 無論、今でも尚常識の範疇として誤解されるようなそういった表現は避けるべきという概念は持ち合わせている。

 ただ、翠と顔を合わせる度、翠と会話する度、翠の頭を撫でる度、ますますのめりこむように惚れ込んでいっている自分が居たのだった。

「…出来れば忘れてくれると嬉しいんだけど」
「ふふ、忘れませんよ」
 いたずらっぽく彼女は笑う。

 その笑顔がまたもや少女的で、水を得た魚のような、鯉が泳ぐが如し快活さが表情に表れていた。




「何だか本当に気分転換ができた感じがします」
 一般的に昼食と言われる時間もとっくに過ぎ去り、既に二人ともトレイの上の食べ物は失くなっていた。

 ごちそうさまでした、と手を合わせて呟いた後、翠は首を傾げて笑みを見せる。

 俺の考えていた気分転換と今彼女が言った気分転換とでは意味合いがかなり違うのだが、ある種の修羅場を越えたのだから、もはやそんな些細な違いなど気にならなくなっていた。

「色々言ってしまったけど、改めてごめん。俺も気をつけるよ」
 わざとらしく――もう過ぎたことだ、と大げさに頭を下げる。

 普段であれば、それを真に受けて本気で制止しようとする翠も、ふふ、と冗談と受け取ってくれていた。

 ある意味、これも信頼なのだろう。
 冗談が通じる仲というのは一種の指標である、と俺は感じた。

「もう謝るのは終わりにしましょう。お互い様、ですから」
 あれだけ怒りを露わにしていた翠も、すっかり落ち着いてそう答える。

 謝ろうとすればキリが無い。
 それは俺が麗さんに対して言えることでもあるし、俺と翠、両方に対しても言えることだった。

「…はは、そうだな」
 これ以上深くは掘り下げないし、掘り下げる必要がない。

 紆余曲折を経て信頼を勝ち取れたのだから、今度こそこれを信頼したいのだ。




「――あっ」
 頭を冷やすように、底に溜まり始めていた溶けた水とジュースの混ざった薄いブレンドをストローで吸っていると、翠は不意に思い出したように呟く。

「どうかしたか?」
 何か言うのを忘れていた事でも思い出したのか、天井を見上げて少し考えるような仕草をする。

 翠が俺の仕草を見てくれているというのなら、俺も翠の仕草を覚えてもいいのかもしれない。
 それでからかってやったら、翠はどんな表情をするのだろう。
 普段なら絶対に考えないような事もすんなりとシミュレートできる程に、今の俺の気持ちは羽のように軽かった。


 彼女は重ねた手を解くと膝の上に置いて、真っ直ぐな目で俺を見る。

「…もしもあなたに申し訳なさがあるというのなら、一つお願いをしてもいいですか?」
 ハンバーガーを詰め込んでいた箱を畳んでナプキン類と一緒に纏めているあたり、真面目と言うよりも綺麗好きか、整頓好きの気があるのだろう。
 トレイの上をスタッフも喜びそうな位に整理にした翠は、俺にそう訊ねる。

 何だか改まったような口ぶりだな、と俺は素朴に思った。

 少女としてのお願いなら、これまでにも幾度と無く受けている。
 これが、今度はアイドルとしても積極的に意見を言ってくれるに違いない。


 そんな未来への期待と過去からの自信を胸に秘めて、耳に入れた翠の言葉は、おおよそ考えうる限り、素直で、純粋な願いだった。


 ――今日、私とあなたとしての最高の思い出を、私と一緒に作って下さい。





 下衆な企みが全て明るみに出て見事完遂された今、それを行う上での障害は何もない。

 今こそ全力で翠に付き合う時だ。


 おう、という短い返事と共に、何気なく差し出した俺の拳は、テーブルの中心で彼女のそれと触れ、通電したかのようにお互い笑っていた。





  *


「はあ……楽しかったですね」
 やけに甲高い音を挙げてぶるぶると震わせながら、車は動いていく。


 冬ともなれば、日の落ちが早いのは誰でも知っている。

 まだ一般的な晩御飯の時刻でないにも関わらず、夜の街灯が点き始めるような、そんな夕方に俺達は自宅への道を走り出していた。

「気に入ってくれたか、それ」

 車内には夕方のラジオが流れている。
 高速道路を降りて、翠の現寝泊まり先であるちひろさんの家に向かって下道を走りだす最中、パーソナリティが軽快にトークを繰り広げられていた。

 助手席に目をやれば、帽子を脱いだ翠がお土産として買ったレジャーランドのマスコットらしい独特なセンスを持つキーホルダーを手でぶら下げて遊んでいる。

 そして翠の肌白い首には、行く時にはなかった小さなネックレスが付けられていた。
 銀色が夕日に照らされて、彼女の持つ白い肌を艶やかに演出しているそれは、俺が選択した物である。

「ずっと付けることにしますね」
「いや、そこまでやらなくてもいいからな」

 横目で俺を見て翠は笑う。

 元々以前まではチケットが誕生日プレゼントという名目にしていたのだが、前日ちひろさんとの会話の中で、それとは別にプレゼントを渡した方がいいという結論が出たために彼女に選んでもらったのだ。

 丁度高速道路に入る前、視界の端に大型のショッピングモールが映ったので、そのまま車をそちらへ向かわせたのである。


 そういった類の事は一切伝えていなかったため、今日という日とレジャーランドの土産屋で買った物が誕生日プレゼントだとすっかり思い込んでいた翠は、その事を知ると甚く喜んでくれたのであった。




「これからは……どんな事でも、私の全てをPさんに見せたいと思います」

 ラジオから流れる音は、トークから昔に流行した懐かしい曲に移り変わっていた。
 きっと番組内のコーナーなのだろう、あまり良いとは言えない音質ながらも微かな懐かしさを思い出させてくれた。

「ああ、勿論言いたくない事なら言う必要はないからな。ただ、言いたいことがあったら俺に遠慮しなくていい、という意味だ」

 シートベルトを着用し、翠は綺麗な姿勢で粗末な助手席に座る。

 タイヤからの衝撃はどこにも吸収されず、直接的に俺達の体を揺らしていた。
 社用車で、ただの移動用の手段として設けられたものなので快適さを求めてはいけないのである。

「わかっています。それでもこうしなければ、きっとあなたはまた私を疑ってしまいますから」
 ふふ、と車内にくすりとした小さな声が漂う。

 最近…いや、今日のあの時を乗り越えてから、翠との距離感がぐっと近づいたような気がする。
 物理的な意味ではなく、人間的な意味で、だ。

 以前はこうした冗談を言うような感じではなかったはずだが……これも、彼女の本性なのだろうか?

「勘弁してくれ…」
 そう言って、ひとつ嘆息する。
 やけに突っかかってくる翠の姿を見ていると、何だか弱みを握られたような気分になった俺であった。




  *


 ――今日は、本当にありがとうございました。


 ちひろさんの家の前、塀に沿って車を横付けする。

 抱えるような荷物は何も無いのでそのまま翠と家の玄関まで歩くと、彼女は不意に振り返って礼を言った。

 どれだけ翠のことを探っても関わっても、結局丁寧さという面では不変であるらしい。
 可愛らしい笑顔を見せながらも本意の声は、暗がりの中でもよく聞こえた。

「俺も楽しかったよ。よかったら、また行こう」
「はい!」
 大層嬉しそうに頷くと、それでは、と家に入ろうとする翠を俺は制止した。

「…何か忘れ物でしょうか?」
 彼女にとっては今日はもう終わりで、解散して後はいつも通りの夜を過ごすと思っているようだ。
「いや、そうじゃないけどね」
 止められた訳もわからず俺に訊ねるが、俺はあえて答えをはぐらかす。

 では一体、と続けようとする翠を遮るように、俺は続けた。
「誰も、今日はここで終わりだなんて言ってないぞ?」
「え?」

 ものの見事に巨大な疑問符を浮かべてくれる。
 ちひろさんの家族を含めて準備する側にとっては、これ程嬉しい表情はない。

 驚きが喜びに変わる瞬間こそが、サプライズの醍醐味だからだ。


「まあまあ、行けばわかるさ」
「お、押さないで下さいってば」
 背後から翠の肩を掴むと、ぐいぐいと家の扉の方へ押してやる。

 一応示し合わせた時刻は20時としているが、少し早くなってしまったために高速道路のサービスエリアにて予め連絡している。
 ちひろさんにはそれに応じて帰宅時間を早めてくれたようで、準備も既に終わっている頃だろう。

 見送るだけなのにどうして俺も着いてきているのだろう、という疑問を恐らく浮かべているのだろう。
 一瞬怪訝な顔をしつつも、命令に従ってそのまま家に入った。




 玄関は、電気が付けられただけの寂しい雰囲気だった。
 靴も全て収納されており、どうやら今日のために綺麗に掃除しているようである。

 何度も繰り返した問いかけに俺が答えない事で諦めたのか、先程まで漂わせていた疑問符を解消させ、抵抗すること無く素直に俺の後ろを歩き始めた。

 以前にも似たような事があったが、どうも俺やちひろさんはそういう演出が好きらしい。
 子供っぽいかなと思いながらも、静かな足取りで翠の前を歩く。



 行き着く先はリビングであった。

 廊下とリビングを繋ぐ扉は、すりガラスが埋め込まれた木製の扉で、アンティーク調のおしとやかな雰囲気を持っていた。
 しかし、今日だけは明るい空気にさせてもらおう、と扉の前に立ち止まると、その場を翠に譲る。

「開けてみてごらん」
「…わかりました」
 懐疑は抜けないものの、俺の言う事なら、とでも言いたげた表情で翠はこちらを見た。

 信じているがやっぱり怪しい、そんな妙な緊張感が彼女を少し強張らせていたので、大丈夫だよ、と笑ってみせると、決心がついたようで、一つ頷いてからドアノブに手をかける。

 かちり、とドアを固定する部分が開放されると、小さな軋みと共に扉が開いていく。
 明かりの点いたリビングが、段々と視界に広がっていく。


 そして、視線が真正面を捉えたその刹那。

 ――けたたましい音と共に、翠に色鮮やかなラインが覆い被された。




「ひぁ!?」
 この音は、まさしく祝砲。
 部屋の中に居たちひろさんとその両親が、絶妙なタイミングで翠にクラッカーを放ったのだ。

 まさかの大音量に思わず手を引っ込め、口を大きく開けながら翠は目を白黒させた。
「ち、ちひろさん…?」
「ふふ、驚いた?」
 まさにしてやったり、というような笑顔である。
 これだけリアクションをしてくれたら、準備した方も満足というものだろう。

 …俺も少し驚いたのは秘密にしておく。


 しかし、主役はちひろさんではなく翠だ。
 急展開にまだ状況が掴めていないらしい翠の手がちひろさんによって引かれ、そのままされるがままに背後のテーブルへと案内される。

「これは……もしかして、私の――」
 食卓に並べられた食べ物を見て、ようやく事態が飲み込めたようだ。

 信じられない、といった風に感嘆の声を上げて、再度俺の顔を見た。

「今日はまだ終わってない。そう言っただろ?」
「わ、私の……ために」
 そう答えた瞬間、彼女の固まっていた表情は次第に融解していく。

「翠ちゃんもお腹空いたでしょう? 早速食べましょうよ!」
 ちひろさんの母親が感傷に浸る翠を牽引して合図をした。

「せーの――」

 思いに耽るのも構わないが、それはいつだってできる。

 なら、今しかできない特別な時間を優先すべきだ。



 お誕生日おめでとう、翠。

 微かな火薬の香りが残るこの部屋で、甘美な魔法をかけてから、俺達は特別な食事を楽しんだのだった。




  *


「今回の監督不行き届き、誠に申し訳ありませんでした」

 久方ぶりの愛知で、翠の母親に会った俺は真っ先に頭を下げた。


 こうしなければならない事情といえば、言うまでもなく例の件である。

「なるほど、そんな事が……」
 お菓子が美味しくなる時間帯、父親の方は現在仕事で出かけており、在宅しておられるのは母親だけであった。

 休日にすれば、という話は勿論あったが、せっかく戻るのだから翠にはフェスの宣伝も兼ねて学校に出席してもらう事にしたのだ。

 無論、以前から何度か出席はしているものの、この数日の間に合同フェスの参加メンバーがテレビにて発表されて公式的に宣伝が可能になったので、翠のメンタル面での休息も併せて丁度いい機会に、という事であった。

 そして俺は、地元での活動に際しご縁があった方々に一年のお礼とイベントの告知ポスターの配布活動を行なったのである。

 地元の商店街の方々やラジオ局、許可を得て学校にもいくつか貼ってもらえるということで、業者に頼んでダンボール一杯に印刷してもらったポスターはいとも簡単に消えてしまった事からも、翠の知名度の上昇を肌で感じたのであった。


 また、今回愛知に戻ったのには別の大きな理由がある。


 それは両親への謝罪だ。

 大事な娘さんを預かる事において、何らかの障害を与えてしまったことに関しては弁明の余地はない。
 当然隠し通そうと思えば通すことは可能だが、翠の両親に嘘をつくということは翠に嘘をつくようなものである。

 加えて、いずれふとした拍子に相手に気付かれて要らぬ懸念を抱かれる事だって十分にある。

 両親が怒っても致し方ない、とせめて気持ちだけは精一杯込めて謝ることにしたのであった。

 倒れた時点で両親へすぐに連絡をしなかったのは、無駄に不安を煽るよりも、無事を確認して姿を見せてから謝罪した方がいいと判断したからだ。

 …後ろめたい気分、というものもが少なからずあったのだけども。




「…翠は、アイドルについてどう言っていましたか?」
 母親は静かに、そして小さく切り出す。
 ひとまず顔を上げると、神妙な面持ちの母親が居た。

 恐らく、倒れた上で俺達の事をどう考えたのか、と訊ねたのだろう。
 彼女に対しての回答を、出来る限り正確に伝えるために瞬間的に考えて口にする。

「自分のせいだ、と言って、周りを誰も責めませんでした。完治して練習を再開した後も、以前と変わらず今度のイベントに向けて熱心に練習をしております」
 私どもも細心の注意を払って監督しております、という一言を付け加えるのを忘れない。

「なら私も安心です。これからも翠をよろしくお願いします」
「……え?」
 仕事のために偽装していた目が、彼女の一言で剥がれ落ちる。

 実の娘が遠い所で倒れたというのに、憤ることも声を荒げることもなく冷静に一つ頭を下げたのだ。
 父親でもいれば殴られることも覚悟していたのだが、たやすく彼女は俺の予想を外してしまった。

「……失礼ですが、心配しないのですか?」
 お前が言う資格などないだろう、と心の中で自嘲する。

 しかし、どうにも気になってしまうのだ。
 翠がああいった殊勝な性格になってしまったのは、もしかしたら両親の教育によるものだったのではないかという推測が立ってしまう。

「心配はしていません。あの子を今日見ても元気な目をしていましたし、何より翠の信じた人なら不安に思うこともないですから」
 母親は、特に悩む様子もなく堂々と俺に答えた。

「翠が倒れちゃった時、あなたはとても心配して下さったのでしょう? プロデューサーさんの瞳から、翠を大事に思う心がよく見えます」

 不思議な事を言うものだ。
 いわゆる、翠が俺を信じている限りは私達もあなたを信じる、という事だろう。

「…ありがとうございます」
 それにしても、俺の目からはそんな香りが漂っているのだろうか。
 暗にわかりやすい顔と言われているのかどうかはさておき、本意であることは確かだ。

 母親にそれを理解してもらえて本当に嬉しい限りである。




「――それでですね。もしよろしければ、今度のイベントにご両親も見に行きませんか?」
 とりあえず絶対に話すべき内容を終えて一安心してから、俺は改めて別の用件を持ち出した。

 イベントとは当然合同フェスである。

 本来であればかなりの人気を誇り入手困難な合同フェスのチケットも、関係者枠と言う事で一応入手は可能なのだった。

 母親も入手は難しいのでは、という質問をしたのでチケットに関して詳しい説明をすると、行きたいという希望を明確に打ち明けてくれた。

「わかりました。お父様もご希望でございましたら、今日中に私の携帯電話にご連絡下さい。そこまでの移動も含め、こちらで手配致します」
「ええ、そこまでして頂かなくても…」

 母親は両手を振って、遠慮がちに拒否の姿勢を表した。
 
 しかし、大事な娘をアイドルとして雇わせてもらっているのだ、これくらいの負担でも少ないぐらいだ。

「翠さんを私どもに任せて頂いた内のささやかなお礼です。どうぞ遠慮無くお受取り下さい」
 遠慮することはないのだ、と重ねて言うと、申し訳なさを顔に出して頷いた。


 何と言うか、翠は母親を見て育ってきたのではないだろうか。

 他人に迷惑を掛けまいとする姿勢は素晴らしいとは思うものの、それでは損をすることも多かろうに、と心の中で不意に呟く俺だった。





「それでは、私はこれからまた仕事に参りますので失礼します」
 出来るのであれば父親にも面と向かって謝罪すべきではあるのだが、母親はそれをしなくても構わないと言ったのだった。

 両親の思うことは同じ、という意味だろうか。
 特に何か別の思惑があるという雰囲気もないので、相手の提案を素直に受け入れることにした。

「わざわざ報告してくれてありがとうございました。当日、楽しみにしてますね」
 玄関口で別れの挨拶をすると、丁寧に腰を折った。

 先程はもしかしたら、というような事を思っていたが、高校生らしからぬ判断力や謙虚さといった特性は両親の教育ではなく、ある意味で親を見て育った結果と言えるだろう。

 親と子はよく似るもの、年を経ても未だ美しい母親は、きっと高校生の頃は翠のように可愛らしかったに違いない。

「はい、こちらこそありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」
 そう言ってこの場を後にする。

 今日の愛知は快晴とは言いがたく、雨こそ降らないものの太陽光を遮られては気温もなかなか上がらない。
 スーツの上から冬物のコートをしっかりと羽織ると、少しばかり背を丸めて俺は今度は翠のいる学校へと踵を向けたのであった。




  *


「どうだ、慣れ親しんだ学校の雰囲気は」
 翠が在籍する学校は、私立の名に恥じない程の清潔さを誇っていて、俺と翠が廊下を歩く最中も清掃員があちらこちらで業務に励んでいた。


「当たり前ですけど、変わってなくて安心しましたね」
 隣を歩く俺を見上げて、翠は笑う。

 ここ最近はずっと練習漬けで、そして休養する間もちひろさんの家で過ごしていたのだから、ゆっくりと学校の空気を吸えていないのは当然である。

 彼女の表情もどこか満ち足りて嬉しそうで、やはり三年間通ってきた校舎というものはいずれにせよ愛着の沸くものなのだな、と心の中で頷いた。

「……あ、さっそく貼られているのか」
 放課後のこの時間、どこに行くわけでもなく校舎を散歩していると、ふと視線があるポスターにいった。

「自分の姿をこうして見るのは…何だか恥ずかしいですね、ふふ」

 廊下の途中には、学校からの告知や部活動、委員会の活動連絡などが貼られた掲示板が幾つか点在している。
 そこに、でかでかとカラフルな色合いでアイドル・水野翠が合同フェスに参加する旨のポスターが掲示されているのだ。

「これからは街中に翠のポスターが貼られるんだからな、今のうちに慣れておけよ」
「もう、わかってますよっ」
 くすくすとからかうと、わかりやすく翠は頬を膨らませた。

 今はあくまで仕事としての接触ではあるが、彼女の制服を着た私的な一面はそれはそれで面白いものがあった。




「実は、朝に集会があったんです」
 その言葉を聞いた時、何とも言えない懐かしさが己の身に湧き上がった。

 集会。
 日本の学生であれば誰もが否応にも参加を強制される全校集会である。

 確か俺が学生の時も何の価値も見出だせないような話を壇上でされているのを聞き流していたっけな。
 それすらも翠は全て傾聴しているのだと思うと、それだけで尊敬に値してしまう。


「そこで私の事を取り上げてくださって……アドリブでしたけど、何とかできました」
「…そんな話はしてないんだけどな」
 学校側なりのニクい演出、とでも言うつもりなのだろうか。

 業界人として一言述べさせてもらえば、普通は事前に説明しておくべきである。
 そうでなくとも、プロデューサーたる俺には許可をとっておくべきだろう。

 翠の所属がそういったやり方に嫌悪感を示す事務所であったなら、何らかの問題に発展しているに違いない。

 決して学校も俺達を下に見ていた訳ではない。
 ただ朝の職員会議で突発的にわが校の生徒を応援してあげよう、という提案が出ただけの話だろう。

 まあ、宣伝の場を設けてくれるのは願ってもみないことなのでいざこざは置いておくことにした。

「みんなの反応はどうだった?」
 ポスターを眺めている翠に訊ねると、少し困った風な笑みを見せる。

「大きな拍手を頂いたり、ある人は声援を送ってくれたりしましたね。…その子は先生に怒られてましたけど」

 恐らく学園祭の時も聞きに来てくれた翠の友達なのだろう。
 何度か俺も接触しているが、容易に彼女の姿が想像できた。




「ああ、そうだ。この後弓道部に顔を出す予定なんですが、よかったらPさんも一緒に行きませんか?」
 元々高校にまで来たのは翠の様子と学内の生徒の評判をいくつか知りたかったというだけで、明確な理由はない。
 翠はどちらかといえば休息的な意味合いが強く、決して仕事と評される名義で訪れてはいないのだ。

 なので、彼女が今日の放課後を友だちと久しぶりに出かけるなり遊ぶなりして時間を消費するのだと思っていたら、翠はそれを弓道に使うと言ってのけたのである。

 残念ながらこちらに居られるのはおよそ一日だけで、今日の夜には俺が、そして翌日には翠も東京に行かなければならない。

 にも関わらず弓道を選択するあたり、やはり俺とは根本的に違うのだな、とついつい苦笑してしまう。
 もしも仮に俺が翠の立場であったとしたら、迷わず家で惰眠をむさぼるか、友だちとどこかへ出かけているのだから。

「翠の弓道着姿は久しぶりだな。勿論行くよ」
 当然この日は学校に行く以外では完全に自由時間となっている。
 いかなる選択肢であろうと俺にそれを咎める理由は無いし、むしろまた見てみたいという希望さえあった。

「ふふ、ありがとうございます。では行きましょうか」

 にこりと笑ってから、翠と共に歩き出す。

 勉強もスポーツもそうだが、間が空けばそれだけ実力というものは落ちていく。
 彼女からすれば、昔からやって来たものだからそうそうブランクというものは感じさせないだろう、楽しみだという表情は自信をそれとなく呼応させていた。


 いつかはアイドルの仕事も今よりずっと慣れて、手つきも朝飯前になるのかもしれない。

 ……そう考えると、翠の今の初々しさの残る表情が見れなくなるのではないか,
と少し寂しくなる俺だった。




  *


「アイドル効果、ってやつか」
 顧問に己自身の紹介といくつかの話をすると、例外的に来客用のパイプ椅子を用意してくれた。
 基本的に座るのは正座である道場では、正座の苦手な俺は比較的居辛い場所である。
 なので、顧問に最大限の感謝をしながら、遠くにある的の前に立ってじっと見つめる翠の姿を眺めていた。



 弓道場。
 ほかの武道場と同様、弓道部員だけが使用出来る特別な施設。

 俺はここで、静かに翠の弓を引く姿を見て一層惚れ込んだ。
 ただ、今はそんなかつての弓道場とは全く姿が変わっていて、弓道場の扉にはいくつかの生徒が駆けつけていたのであった。


 無論、生徒たちのお目当てはアイドルの水野翠だ。

 もしも翠がアイドルでなければ一生縁の無かっただろう生徒も、この時だけは弓道という存在に深く入れ込んでいた。


 しかし、翠はその様子にも全く動じていない。

 翠は、ずっと昔…それでも一年以内の話ではあるが、その時と同じく、弓を静かに、ゆったりとした動きで引いていた。


 これも、弓道をやって来たが故の効果なのだろう。
 仮に弓を引いているのが俺であったら、恐らく変な視線がプレッシャーとなり、まともに集中できなかったに違いない。

 そう考えると、俺って何となく子供っぽいのだろうか、と少し心配になってしまう。

 まあ、曲がりなりにもそんな翠に尊敬されているのだから俺だって見限られるような子供ではないさ。


 そんなどうでもいい心配を頭のなかにふとよぎらせる間にも、翠は淡々と弓を引く。




 じりじりと引き絞った弦から手を放す。

 すると、最大限の力を持った弦が矢を押して、その矢が親指の上を通って的に向かっていく。

 風の声が聞こえたそのその矢は瞬く間に彼女の元から離れ、見事的の中央やや下に当る。
 放たれてから的にたどり着くまでに、三秒もかかっていない。

 昔なら俺はここで喜び、マナーを無視して話しかけに言っただろうが、流石に今ではしっかりと学習をしている。

 一切足を動かさず、視線を動かさず、ただ彼女を見る。
 翠が矢を射ると、今度は彼女のすぐ横――弓道場から見て横、という意味で、翠から見れば後ろの――女子部員が射る準備をする。

 的は四つあるが、弓を射る場合は個々で自由に打つのではなく、全員が綺麗に並んで順番に射ていた。

 その姿を顧問が近くで見つめ、各々のおかしな動作や体の向きなどを個別に指導する。


 そんなサイクルが、何度か続いた。


 矢を射るというそれだけのために、弓を持ち矢をつがえ、持ち上げ腕を開いていく。
 数十秒の厳格な準備を怠ることなく進めていく彼女達の姿は、えてして特段美しく目に映らせていた。

 心は、目には映らない。
 しかし、心の美しさは、実像なき雅として見る者の瞳に鮮明に訴えかけてくるのだ。


 結局、部員たちが休憩に入るまで、俺は時間を忘れてただ真っ直ぐにその風景を眺めていたのだった。



  *


「翠にはブランクなんて関係なかったな」

 帰り道。

 夕日も既に落ち、冬特有の寒さと暗さが周囲を満たす頃、俺達は二人きりで彼女の自宅へと歩いていた。
 とはいっても、俺は途中の駅で東京行きに切り替えるのでそれまでの距離の話である。

 翠は時折手袋の上から白い息を吹きかけると、二、三度両手を唇の前でこすり合わせ、頼りない暖を取っている。

 彼女のために何でもしてやりたい所だが、流石に季節までどうにかすることは出来ない、と厚着をする翠をただ見るだけで、何もしてやれないまま隣を歩いていた。



 ――少しの間部活動に勤しんだ後は、顧問の計らいもあって即席の交流会が開かれることとなった。

 扉の向こうで翠の姿を見ていた生徒も靴を脱いで弓道場に入ると、俺の誘導の元に並んでもらい、各々の依頼とともにずっと練習していたサインを書いていったのである。

 比較的怖そうな風貌の顧問からのまさかの提案に一瞬面食らったものの、弓を置いて休憩していた翠に相談すると大丈夫との回答だったので開くことにしたのだ。

 …その顧問も翠にサインをお願いしていたのだけども。


「いえ、やはり以前のようにはなかなか…」
 そうは謙遜するが、傍目には全くブレていない安定さを誇っていた。

 顧問も翠にだけは一言二言述べるのみで、後は見ているだけであったのだから、実力はお墨付きだろう。

「謙虚は美徳だけど、卑屈はただの自虐にしかならないぞ」
 外灯に照らされてきらきらと流れる髪の上に手を置くと、翠は俺の手を落とさないようにこちらを向く。

「…そうですね。Pさんと一緒に居る私が、素敵でない訳がないですから」
 時折、翠はこうして冗談めかした事を言う。

 中々面白い冗談だ、と頭皮をうりうりとしてやると、翠はくすぐったいような笑みをこぼした。




 お互いからかうように、時に笑いながら話を進めていると、いつの間にか通りすがりの泥棒が俺達の時間を盗んでいってしまったようだ。

「ん、もう着いたのか」

 薄汚れた外灯が駅の看板を照らす、小さな駅だ。
 しかし、ここからでも新幹線の発着する駅へは乗り継ぎで行くことができるので、俺はこの駅でそこへ向かう予定を立てたのであった。

「もう着きましたね」
 俺の言葉を反芻するように翠は呟いた。
 ほんのりと湿った唇からは、暗闇の中へ消える微かな息遣いが漏れる。


 その顔は看板を見上げており、俺からは表情を読み取ることは出来なかった。


「今日は楽しかったな。…でも、また明日からレッスン漬けだから覚悟しておけよ」
 はは、と笑う声は、冬の乾いた空に解けて大気と化す。

「はい。よろしくお願いします」
 そんな偽物の脅迫に、翠はくすりという微笑みで返した。


 参ったな。

 澄んだ空気にあてられたか、俺の中身まで彼女に見透かされているような気がする。




「……翠」

 ――では、また明日。
 そう言って暗闇の中に消えて行こうとする翠を、俺は不意に止めてしまう。

 すんなりと別れると思っていたらしい翠は、即座にその行動を中止して振り返った。



 最近では、悪い感情でさえも悪いと思わなくなってしまっていた。

 ただ一つ、確実に言える事は、間違いなく悪循環への階段を一歩降りている、ということだ。


 …いつもであれば、ここでこれからは自制していこう、だとか、気をつけなければならない、だとか考えて己の戒めるのだが、今はそれが出来なかった。


 ――いずれ霧散する運命を持った感情でも、今この時だけは、確かに存在しているのだ。

「家まで送るよ」

 長袖からちらりと覗く時計を見れば、まだ予定していた新幹線までは充分に余裕がある。

 本来なら何の価値もないデッドスペースだったそれも、翠と居れば、ダイヤモンドよりも美しい時の流れを演出してくれるに違いない。


 ありがとうございます、と言った彼女の表情は、冬の寒空の中でも一層暖かく見えたのだった。

中断。やっぱこの日重い。切られそうで緊張したわ



それと追記です。
・この前出たSRでの追加設定により、話の中でいくつか矛盾しているかもしれませんがご容赦下さい。

・今回の話を読んで分かった人も居るかもしれませんが、実は少しミスを犯してしまっています、申し訳ありません。

・長らくでしたが、もうすぐで最終話かもしれません。

以上です。

あ、なんかバラードでも聞きながら読んだら良いんじゃないかな。

もうすぐ投下します。


  *


 太陽も真上に向かって昇り始め、それに伴って僅かに気温も上がってきたと肌が感じるような冬の午前は、翠のリハーサルのために費やされることになっていた。


 合同フェスでは、各グループ毎にそれぞれリハーサルの日時が割り振られており、その時間内であれば自由にリハーサルを行なってよい事になっている。
 それで俺達に割り当てられた時間は、開催一週間前である今日の朝だったという訳だ。

 俺達の前の順番である早朝に充てられたアイドルユニットがリハーサルを終えるやいなや、運営のスタッフたちが一斉に舞台準備の張替えを行い始める。
 このイベントではグループが次々とパフォーマンスを行う上にステージギミックも多彩に富むため、僅かなインターバルでスタッフたちが準備をする必要があるのだ。

 本来であれば翠の前の順番はゆかりであるはずだが、リハーサルでも同じという事でも無いらしく、別の三人組のユニットが練習をしていたのだった。


 彼女達は本番同様に衣装もしっかりと着ている。

 黒が印象的なドレスを三人とも身に付けて、息のあったダンスで舞台を駆け巡る姿はまさにこのフェスの名に恥じないもので、荘厳で品格のある動きを見せつつも、冬の寒さを吹き飛ばすようなほとばしる熱さを感じた。

 当日となれば、彼女達に勝るとも劣らない観客とアイドルが一体となったパフォーマンスが次々と出てくるのだろう。


 いや、パフォーマンスと呼ぶべきではないのかもしれない。

 観客が居てこそのアイドル達の披露なのだ。
 そういう意味では、この会場全てが一つの作品なのである。

 学園祭の時とはどう見てもスケールの違う会場の雰囲気に、俺が直接観客の前に出る訳でもないのに自然と心が震えてしまった。




 翠はというと、当日着るドレスは着用せずに普段の練習着姿で居るものの、広がるように作られたステージの上に立って、観客席となる地面を見下ろしている。

 周囲には忙しなく動くスタッフたちの姿。
 まるで隔離されたかのように、翠は落ち着いて眺めていた。


 少し後ろから翠の姿を見ているせいで、彼女の感情は上手く捉えられない。

 しかし、おおよそ推測するには心地よい緊張感を漂わせているのだろう。
 ゆっくりと首を回して遠くの山々を見渡した翠は、何となく感慨深さを覚えているような気がした。

 …その景色はごく限られたアイドルにしか味わえないものなのだから、今のうちにたっぷりと見ておけばいい。


「大丈夫か?」
 俺は焦点を遠くに合わせてステージに立つ彼女の下へ歩み寄り、そう声をかける。

「一度やってみないとわかりませんが…レッスンで学んだことを、全力で出したいと思います」
 こちらに気づいた翠はゆらりと振り返ると、少し考える仕草をした後に答えた。

 実は、今の翠は普段のレッスンで使用している白のラインが入った青色のジャージを着ており、そのままではとても観客の前には出られない。

 というのも、現在はステージの上に立ってシーンごとのダンスを手拍子ですることで、観客からの見え方のイメージ、ダンスの動きやすさや難易度などを考慮しながら軽い調整をいれているのである。

 練習着なのは、翠の衣装は一品物で構造的にも衝撃に強くはないので、練習であろうとも気軽に着用していては万一の時に対処が難しくなってしまうからだ。

 風貌に似ず華麗に体を一回転させると、どういう訳か、翠は微かに笑みをこぼした。




 ――合同フェスで俺が提案したステージのテーマとは、幽玄であった。

 そのため、空色のドレスに合うような装飾…非日常的で、幻想的なイメージをなじませるにあたって様々な物を搬入させることとなったのである。

 駄目元で運営の人に話してみると、以前言っていたポリシー通り、やってみせましょう、と少しの間を置いてから心よく返事をしてくれた。

 俺の提案を聞いた時の彼のあの表情はよく覚えている。
 過去でも中々例を見ない…それも、新人であれば尚更なのだろう、聞き返した時の声がえらく素に戻っていた。



 舞台は比較的大きく、ニつのグループ程度なら奏者を含めて同時に入場してもパフォーマンスに支障が出ない位にスペースに余裕がある。
 これは広い敷地に入り込む数多の観客の中で、側面で見物する人から見えにくくなるというデメリットを解消するためであった。

 そのため、ポップや動きのあるロック系のジャンルで参加するユニットにとっては、少しでも控えめにダンスをしてしまうと途端にステージに負けてしまうという懸念を生み出している。

 恐らく、同じバラード系で勝負を仕掛けてくるゆかりも演劇さながらの大きな動きで目と耳両方に強く訴えかけてくるのだろう。
 以前プロモーション・ビデオで見た切なげに歌う姿とはまた違った物が見れるに違いない。

 そして翠だが、野外ライブという条件では非常に不利であると言わざるを得ない状況になっている。
 何故なら、広い観客席に対し仕掛ける曲がバラード系で、動きもそこまで大きくないからだ。
 下手をすれば、『何をやっているのかわからない』などと言われる事だって十分にあり得るのである。


 それへの対抗策が、先程述べたテーマにある。

 広々とした人工物であるステージに、夜の人ひとり居ない舞踏会を想起させるようなテーブルクロスのかかった丸テーブルや木椅子、観客席下の地面にまで届くような特別な赤色のペルシャ絨毯を用いることで、ステージを大きな絵本に仕立てあげたのだ。

 そこで翠が舞うことで、ジオラマの世界に入り込むような視覚的インパクトを与える、という算段である。

 しかし、これはいわば博打に等しいもので、ただ前の順番がゆかりであることを意識しての提案だった。

 初めての舞台でわざわざそんな博打に興じる必要はないのでは、という指摘もあって至極当然だが、そうせざるを得ない理由も確かにあるのだ。


 ――歌声だけで翠に興味のない人間も全て魅了できるなら、その人以外はステージに必要ない。
 むしろ過剰な演出は、その本人の足を引っ張ってしまうことすらある。




 しかし、現実は非情だ。

 翠の立場や状況を考慮すると、多少大げさであろうとも観客にとってインパクトのあるものにしなければ、他のアイドル達の並ぶスタートラインにすら立てないのだ。
 どうあがいても観客の色眼鏡を外させることは出来ないのだから、その色眼鏡ごと染める事が大事なのである。


「ドレスを着てこの会場で歌うなんて……まるで映画にでも出ているみたいですね」

 翠は運営陣の懸命なセッティングによって見事にあつらえられた舞踏会を歩いて周り、かつ、かつ、と耳を小突くような絨毯の下の無機質の音を響かせて、物語の場面に飛び込んだ。

 それまでむき出しであった右にも左にも伸びた柱は壁紙によって隠され、野外ライブ特有の感触が全くない。

 もしも翠が昼の部の出場であれば、当然この構成をすることも無かっただろう。
 確かに昼であればステージ全体がよく見えて良いのかもしれないが、インパクトがある分全体が鮮明に映し出されてしまうと、観客の視線が翠から背景に移ってしまう危険性がある上、暗さがないと舞台が陳腐に見えてしまうからだ。

 夜で、照明だけが頼りのステージだからこそ、今の演出が効果的に表れるのである。

 残念ながら、流石に実物のシャンデリアまで搬入することは不可能だった。
 より搬入までの管理が大変なのは勿論、設置においても事故の危険性が指摘されたからである。

 そもそも、今の状態ですら準備や次のユニットのための片付けに時間がかなりかかっているのだ、天井部まで手を回していれば運営自体に支障がでてしまう。

 ここは、限りなく本格的に再現してくれたことを素直に感謝すべきだろう。




「このフェスの映像も、後で映像になって店頭に並ぶからな。そんな目的を意識して歌うのもいいかもしれないぞ」
 過去にも言ったが、大事なのは演劇的な動きだ。

 こと一挙一動が映えるミュージック・ビデオを意識することが、翠に良い影響を与えるのではないかと思う。
 歌だけを意識せずに自分の姿を含めた全てが演奏なのだという考えは、あながち間違いではないはずだ。

「…いえ、そういう雰囲気では歌いません」
 しかし、意に反して翠は俺にそう言って拒否をする。

 その表情は落ち着いていながらも真剣で、冗談めかす香りはしない。

 どうしてだ、という俺の問いに、翠は再び観客席の方を視線を戻して答える。

「この場は、聞いてもらえる皆さんとあなたに対して歌うためにあるんですから。余所見をするつもりはありません」

 …なるほど、翠らしいといえばそうなるだろうか。
 いつかの頃と比べると見違える彼女の顔を見て、俺は一つ頷いた。



 ――こうして率直に意見や感想を言ってもらえるようになったのも、きっと前に起こった二人の言い争いの賜物だろう。

 あれ以降、翠は俺や麗さんに対しても物怖じすること無くどんどん進言するようになっていた。
 いくら考慮した上で反論や拒否をされようとも決してそこで終わらせず、場を良くしていくためにと意見する姿に、麗さんも些か驚いているようだった。


 愚直である事よりも、翠は賢明を選んだ。

 それこそが、彼女を良い方向へと導いた選択に違いない。


 以前よりも自信に満ちた目をしている翠を見て、そう思わずにはいられなかった。




 ――ニ、三会話をしていると、準備が完了したとの声が舞台袖から聞こえた。


 前のユニットの片付けと俺達のための準備を続けてしなければならないのだから、時間がかかって当然だろう。
 それでも十数分程度で完了できるあたり、本当に彼らの力量には脱帽せざるを得ない。
 無論、今回は生演奏ではなくただのオフボーカルの音源を用いてのリハーサルである上に厳密なリハーサルの内容は各個人に委ねられているため、極端に言えばリハをしないことも可能だ。

 しかし俺達は挑戦する側なのだから、怠慢にだけはなってはならない。

「では、Pさんは下がってください。…ここは私だけの世界、なんですよね?」
 事務所で翠に衣装を渡した時の俺が述べた言葉を、からかうように彼女は言った。

 どうせ舞台の上では彼女は独りなのだから、せめてその時だけは孤高であって欲しい、そんな願いも今では不要になるくらい、翠は充分な程自信を付けてくれた。

 休養からの復帰後も気落ちすること無く練習を続けていたその姿に、麗さんもいつにも増して気合が入っていたのは強く覚えている。

「はは、そうだな。じゃあ俺は後ろで見ているから、まずは通しで足元に気をつけながらやってみてくれ」

 今日確認すべきことは、翠の披露する衣装の詰めとダンスの調整で、あとは翠の慣れを助けることだ。
 麗さんは会場側から舞台を見て彼女のパフォーマンスをチェックしてもらっているので、後で来てもらって指摘を請う予定である。


 彼女の威勢のよい返事を聞き届けた後、担当の人に曲を流してもらうようにお願いをする。


 すると、機械を操作する担当者の合図の後に、翠のための曲の前奏がやや控えめに会場に響き始めた。



 ……いくつもの困難も壁もアクシデントも俺達の前に現れたが、それでも乗り越えることが出来たのだ。

 だからこそ、これが最大の壁だとは思わない。

 翠がアイドルとして大きく踏み出す表舞台への第一歩を最高のパフォーマンスで幕を上げるために、まずはこの場を最高のものにしたい、と俺はふと空を見上げたのであった。




  *


 ――冬の夜空というものは、何とも言いがたい特別な空気があるものだ。

 地域によっては雨が降り、雪が降り、様々な顔を見せてくる。
 しかし、冬という季節であるだけでそれらは何か違う物を醸し出しているのである。


 そんな不思議な空気は薄い壁を通り抜け、俺の居る事務所の中にもそこはかとなく充満していたのだった。


「……長かった、ですねえ」
 エアコンだけでは到底賄い切れないと分かってからすぐさま導入した電気ストーブに手を当てながら、ちひろさんはしみじみと呟く。

 型落ち品でも暖を取るには問題はない。
 手元には温かいお茶を、足元にはストーブを身に付けて左右に回転椅子をゆらゆらと動かしながら手をストーブに伸ばす彼女の姿は、何とも子供みたいである。

 とは言っても、彼女の目だけは冬の季節に充てられてか、どことなく感傷的であった。


 まあ、無理もないだろう。

 アイドルもプロデューサーも居ない、まさに一文無しの状態から始めてからもうすぐ年を越すところまで来たのだ。
 俺ですら当初はこの事務所の存続を心配していたのだから、最初からここに居る彼女はもっと感じているに違いない。

 この激動の年を回想した所で、誰も責めはしないはずだ。

「そうですね。…まさか俺もこんな仕事をするなんて、全く思ってませんでしたよ」
 はは、と笑い、おもむろに頭を掻く。

 ただ普通に生活を送ったとしても一年後の自分というものはおおよそ想像出来る人は少ないが、こと俺に関しては尚更である。

 就職先の決まらない一般の大学生がまさか芸能事務所でプロデューサーをやるだなんて、一体誰が予想できるだろうか。

「でも似合ってますよ、その仕事。天職なんじゃないですか?」
「まさか」
 似ても似つかぬ言葉に苦笑して肩をすくめる。


 …本当にこの仕事に就いてよかったのか、そんな疑問は今でも時々心の底で湧き上がる。
 失敗は今までもよくしてきたし、これからもずっと付き合って行かなければならないのだろう。
 他の人に比べても、俺は優秀という訳ではない。

 しかし、それでも翠に出会えたという事実があるのだから、彼女の問いを否定するのは何となく気が引けてしまう俺であった。




 出力全開でも一向に暖まり切らない貧相な事務所の中で、ふとした拍子で始まった一年の思い出話で談笑していると、殆ど来客のない事務所の扉が小さく音を立てた。

「ただいま戻りました、Pさん、ちひろさん」
「お邪魔するよ」
「お、お邪魔します」

 こんな時間にアポもなく誰が訪れたのだろう、と俺たち二人とも扉に視線を向けると、その薄い扉から見慣れた二人と久方ぶりの一人……翠と、現在のトレーナーである麗さん、そしてその妹で前トレーナーの慶さんが現れたのだ。


「あれ、慶さん……それに今日は直帰だったんじゃ?」
 今日の予定を思い出して、麗さんに問う。

 最近では、レッスンが終わると麗さんが翠を送ってくれるようになっていた。
 当然俺も送り迎えをすることはあるが、一番身近にいるのですぐに移動しやすいという利点があるが故に、麗さんさえ良ければお願いするようにしている。

 それに、彼女自身も翠とよく話す機会ができて嬉しいと話していた。

 普通のアイドルならまだしも、翠とだけは、ただ見ているだけでは彼女のことを解ることは難しい。
 目を見て、よく話し合って初めて彼女の本来の姿が見えてくるのだ。

 一般論や常識ではない、翠と接してきて色々なミスを犯してきたからこそ言える事だった。

「ああ、そういうことだったんだが……ほら」
 麗さんの手には、何かが入ったビニール袋が握られていた。
 その袋には近所のコンビニのロゴがあったので、何かを買ってきた、ということなのだろうか。




 それを掲げて俺達に主張する麗さんの隣で、翠が続きを請け負った。
「私がお願いをして、皆で…その、何と言いますか、決起集会をしようと思いまして」
 視線を少し逸らして、翠は苦笑する。


 よもや彼女からそんな提案をするとは思わなかった。

 いや、そういう類の事であれば、俺と翠とちひろさんの三人で打ち合わせをした時に簡素ではあるが以前にも既にやっている。

 しかし、翠は彼女自身を育ててくれた慶さんや麗さんがいないことが不満だったのだろう。


 ……翠からすればそれも当然か。

 思えば、アイドルになって右も左も分からない時には慶さんが道筋を示し学園祭のライブを成功に導いてくれて、更なる大きな壁に立ち向かう時には麗さんが厳しくも時に優しい一面を見せながら一緒にやってきてくれたのだ。

 時間で言えば俺やちひろさんとは全く及ばないが、密度という点ではもう同じ存在と言っても差し支えない。

 それ程までに、彼女達トレーナーとは不思議な縁もあって、翠のために頑張ってくれていたのだった。

「…それにしても、よく許可しましたね?」
 ちひろさんがくすり、と笑って麗さんに問いかける。

 俺もそれには気になっていた。
 ただでさえ練習に関することであれば食事に対しても真剣に指導する立場の人間が、イベント直前になってジュースやらおやつやらをテーブルに広げようとするのだから、何とも不思議である。

「翠なら、こういう事があっても羽目を外さないのはわかってるからな。それに慶も会いたがってたのだよ」
 慶さんはというと、麗さんに担当が変わってからは滅多に合わなくなっているような気がする。

 もちろん、本来の担当トレーナーとして近況報告などはメールで時折するし、慶さん自身も麗さんからいくつか話を聞いているとは思うが、こうして面と向かって話すのはどれほど久しぶりなのだろうか。



「それでは、折角来てくれたんですから少しだけやりましょうか」
 あまり夜遅くまで翠を起こさせるのは些か不安が残らないでもないが、明日が本番という訳ではないのだ、今日ぐらいは少しはしゃいだって悪い事にはならないだろう。

 何より、翠がそれをやりたいというのなら断る理由はない。

 また俺としても、麗さんや慶さんも含めてみんなで居てこそ俺達なのだと改めて感じたいのだ。


「ありがとうございます。あ、私用意手伝いますよ、プロデューサーさんっ」
 テーブルに置かれた雑誌類を片付ける俺に対し、麗さんからビニール袋を受け取った慶さんがテーブルにぴょこっと近づいて片付けを手伝う。

 ちひろさんは、寒かったろう、と給湯室から暖かい物を持ってきてくれているようだ。

 そんな姿を見て麗さんは翠の肩を叩いてニ、三話しかけると、空いているソファに座らせてからちひろさんの下へ歩んでいった。


 世間ではクリスマスと呼ばれる今日の夜空に見下ろされ、ささやかな風が頬を撫でるが如く、小さなパーティが開かれた。


 もう狼狽えている時間はないのだ。
 だからこそ、今この時をあるがままに過ごしたい。




  *


「…寒いなあ」
 アルミの窓枠からは、本来なら訪れることのないはずの肌寒い隙間風が部屋を否応なしに凍らせていく。

 肝心の遮断機能を有さない不良品のガラス越しには味気ない暗闇が見え、それを申し訳程度に街灯と空の星が防いでいた。



 暖房をつけようとも室温が一向に上がらないボロアパートの一室。

 もはや普段着と言っても過言ではないスーツを脱いで風呂に入り、体が冷える前に寝巻き姿に着替えた俺は、何をする訳でもなくベッドの側面に背を預け、シミの付いた天井をただ仰いでいた。

 しなければならないことは探せばたくさんあるのに、何もする気がおきない。
 そんな矛盾した感情を、俺は知っている。


 ――それは、例えるなら受験前日の夜。

 高校受験でも大学受験でも、行われるのは大体十二月から翌年のニ月までの寒い時期である。

 そこで、明日に控えた試験を前にして緊張で普段通りの感覚が失われてしまう学生は全世界に多々居ることだろう。


 だがそれは、受験から完全に開放された社会人であっても例外ではない。

「……明日なんだな」
 無駄な熱量を消費させて虚空を響かせると、ぼんやりとした空間が俺の頭をつんざいた。




 決戦の日。

 誰であろうとも容赦の無い、栄枯盛衰、弱肉強食を体現したかのような芸能界という戦場で、細く小さな一歩が踏み出せるかどうかを決める、最初で最後の日だ。

 あらゆる過程を吹き飛ばして参加が決まった合同フェスにおいて、成功すれば間違いなく翠の活躍は天命に護られる。

 だが失敗してしまえば、すなわちオープニングテーマが流れている最中に打ち切りを命じられたと同じ事が彼女の身に起こるのだ。


 …いや、厳密に言えば終わりはしない。

 仮に失敗したとしてもアイドルとして活動するのに問題がある訳ではないのだから、翌年から普通に活動しても何ら問題はないだろう。


 かと言って、平穏無事でそれができるかといえば難しいのが現実だ。

 権威あるイベントである合同フェスで失態を晒したという事実が一旦立てられれば、それは翠に永遠に付き纏い、彼女の精神を確実に削っていく。


 そう考えていると、ふと頭にもう一人の親しいアイドルの顔が思い浮かぶ。


 …水本ゆかりという存在は、レアケースなのだ。

 真実は想像することでしか察することはできないが、当時組んでいたユニットの相方も含め、彼女の下には数多の誹謗中傷が訪れたに違いない。


 それで彼女の相方は壊れた。

 ステージに立つことを夢見て必死に練習してきた少女がそんな結末にいとも簡単に辿り着いてしまうなど、よほどの事ではありえない。

 それが、俺の想像を遥かに越えた酷い罵声が彼女達を襲ったという推測に繋がるのだ。




 アイドルとしての全てを否定され、心ない人間からは人格すら否定されたのだろう。

 それを目にした当時のゆかりは、一体どんな感覚だったのか。


 夢見る純粋な少女に与える仕打ちとしては、これ以上に残酷な物はない。



 だが、ゆかりはそれでも諦めなかった。

 襲いかかる嵐の中に放り込まれても、心を折らなかったのだ。



 それがゆかりのプロデューサーとの出会いに繋がり、再び立ち上がって、また同じ舞台に上ることになったのである。

 …怖くないはずがない。
 自身を見るであろう観客達は、生肉を舌なめずりで睨む猛獣に見えることだろう。


 何故立っていられる?
 何故逃げなかった?

 例えゆかりがアイドルに対して確固たる信念を持っていたとしても、合同フェスという舞台で結果として失態を犯したという扱いになった事実は変わらない。


 にも関わらず、周囲の冷た過ぎる視線に耐えて、今日までやってこれたのだ。



 これを強いと言わずして何と言えばいいのだろう。

 彼女の芯の強さには、尊敬以上の感情さえ沸き上がってくる。



 ――そして、その舞台に今度は翠が立ち向かう。

 丁度一年前のゆかりと同じ、新人での合同フェス参加だ。



 もしも、翠がそこで失敗をしてしまったら。


 …そんなことにはなるはずがないという意識を、深層の心が締め付けていた。




 冷たい空気によって喉をかすめていた呼吸が、不意に苦しくなる。
 乾いた咳が出てしまうのは、唾液が全く分泌されていなかったからだ。


 ……大丈夫、翠は誰よりも練習してきた。
 ベテランである麗さんからも評価は得ている。

 デビュー曲であるこの歌だって、プロの人も認めてくれる程の歌声にまでレベルも上がった。
 規模は違えど、ライブだって経験している。

 雑誌の特集にも載ったし、ラジオにも、テレビにも出演した。


 地元では、皆が翠を応援してくれている。
 そうでなくても、翠のファンと言ってくれる人だっている。


 当日は彼女のファンも数多く駆けつけてくれている事だろう。

 そこで頑張って、披露して、喝采を浴びて、喜びを分かち合って、同じく見に来てくれた家族に報告をして、新たなる第一歩を踏み出せたと確信して。


 そんな未来を想像すればする程、俺の中の見えない傷は広まっていく。



 人は、成功よりも失敗に目を向けてしまう。
 それは俺も例外ではなく、捉えようのない痛みが体の中に溜まっていった。


 失敗すれば、一体翠はどうなるのだろう。

 挫けずにまた立ち上がれるのか。
 また俺に笑顔を見せてくれるのか。


 おはようございます。お疲れ様でした。
 事務所でごく当たり前のように交わされる挨拶は、これからも続くのだろうか。


 はっきり言って、俺の中でいつの間にかそれらが心地よくなっていた。
 日常生活の一部に…人生の一部に彼女が居ることが、何よりも嬉しく思うようになっていたのだ。


 もしも、それが喪失してしまったら?



 ――俺がステージに立つ訳でもないのに、誰よりも俺が恐怖していた。




 冬の夜。

 明日は大事な日なのだから、厚着をして布団を何枚もかぶってさっさと寝なければならないのに、俺のまぶたは一向に目を閉ざしてはくれない。
 まるで俺をいたぶるかの如く執拗に視界を開かせていた。


 心臓の音が絶え間なく体に響き渡る。
 それがどうにもうるさくて仕方がないのだ。


 もう、いっその事止まってくれればいいのに――。


 そんな現実逃避にも似た感想を抱き始めつつある俺の部屋に、突如電子音が鳴り響いた。


 ――ピリリリ、ピリリリ。

 情緒や流行の欠片も無い、古臭い携帯電話から流れる古臭い電子音に、所有者から離れかけた意識が再び喉を通り抜ける。


 こんな時間に誰からだろう。

 テーブルの上に雑に置かれた携帯電話の光る画面を見ると、何と担当アイドルの名前が表示されていたのだった。

「……何か起こったのか?」

 絶えぬ不安を身に纏いつつも一つ二つ咳をして声色を戻すと、通話ボタンを押して耳に当てる。


「あ、こんばんは。夜分遅くにすみません」
 しかしその機械から流れたのは、古臭さなどどこかへ飛んでいくような聞き慣れた翠の声だった。

 通話口からはとてもじゃないが明日という日を理解していないかのような様子が見え隠れしている。


 疑念と不安が入り混じりながら、彼女の言葉を待った。




「今、大丈夫ですか?」
 翠の問いに促されて無意識に天井近くの壁を見上げるが、残念ながらこの部屋には壁掛け時計がない。
 なので、近くに置かれていたいつも使っている腕時計を見て時刻を確認する。


 現在午後十時を回った頃だ。

「明日は本番なんだから、君は早く寝ないといけないんだけど…何か用か?」

 緊張して眠れず、結果的に夜更かしをしてしまうというのは誰にでも起こりうる事態だが、それが原因で当日のパフォーマンスが全力でできませんでしたと言われても、ただの負け惜しみにしか取られないのである。
 そうなってしまえば、得をするのはゆかりの所属する事務所の上層部くらいで、他は誰も喜ぶ事はまずない。

 観客も、俺も、皆翠の最高のパフォーマンスを見たいのだ。


 そういう意味でも、万全の状態で本番に臨むために俺は自分の感情とは裏腹に語気を強めて話すが、それに対する翠の回答は致命的なものだった。


「…きっとPさんは不安なんだろうな、と思いまして、つい電話をしてしまいました」


 どうやら、本当に心が見透かされているらしい。




「……いきなり何の話だ」
 傷めつけるように震えていた鼓動は、僅かながらも熱を帯び始める。

「ベッドの上に居ると、あなたの声が私に届くんです――不安だ、不安だ、と。おかしいですよね、そんなの……ですが、だから励まそうと思ったんです」


 本当に致命的だ。

 見せてもいない物を…見せたくもない物を、いとも容易く彼女は見破った。

 いや、見てもすらいない。
 ただそう感じたからといって、見事的中させてみせたのだ。


 奇妙な関係になってしまったものだ、と心の中で嘆息する。

 俺が当初望んでいたのは、結局彼女の心の中を覗きこんで適切な対処を採りたいと思う、極めて即物的な関係だった。

 翠の悩みも不安も、特性も短所も全て読み取って指導して、よりよいアイドルへと導きたいと思っていたものだ。


 しかし、いつのまにかそれは逆転していた。

 彼女の方が俺の思いを読み取って適切な対処をしたのである。


 何とも情けない話だ、と肩をすぼめる。

 すると、肩に降り掛かっていた見えない重みがするりと汚れた床に落ちた気がした。



「…翠は、自分のプロデューサーが情けなくて幻滅しないか?」
 溜め込んでいた薄暗い感情が、どろり、と通話口へ流れ込む。

 俺の中で、翠という存在がどういうものであるか度々考えてきたが、考える度に違った答えが出てきていた。

 ある時は、俺が導いていくべきアイドル。
 ある時は、横一列で共に歩いて行く仲間。

 そして……ある時は、寄りかかりたくなるような尊敬する人間。


 嫌われるのが怖い。
 そんな少女的感情で己の身を滅ぼしかけた彼女だが、俺にそれを打ち明けたことで一つ成長した。

「ふふ、やっぱり」
 彼女はその成長を見せつけるかのようにくすくすと笑い、言葉を続ける。

「幻滅なんて、絶対にしませんよ。この世界を知らない者同士、時には前に、時には横に。そうして一緒に歩いてくれてきたんです…あなたの性格も、弱さも、いっぱい知ってますから」
 こんな弱音を吐くなど、もう慣れたと言わんばかりの声色だ。
 相手を気落ちさせるような話し方ではなく、同調するような話し方。

 前に立って俺の手を引っ張るような、そんな姿が連想された。


 …俺が導いていたアイドルは、成長を続ける内に俺を追い越してしまったらしい。

「だから私に教えてください、あなたの不安を。そして…分かち合いませんか?」

 社会人のくせに、大人のくせに。
 完全に固まりきった常識を、翠の言葉が溶かし尽くした。




「どれだけ頑張る翠の姿を見ても、不安は消えない。むしろ、それでも失敗したら翠はどうなるんだろう、って怖くなってくるんだ」
 俯瞰して見れば見る程、俺という存在が矮小化されていく。

 いや、本質が見えてきたというべきだろうか。

 今までの俺は、所詮虚勢を張っていただけのハリボテに過ぎない。
 プロデューサーという皮を被ることで一丁前に大人ぶっていたようなものなのだ。

 そうすることで立場を守ってきた結果、迷い、惑い、間違え、翠に損害さえも与えてしまったのである。


 もう、正直に言って俺はどうすればいいのかわからなかった。

 ありきたりで、かつ莫大な不安が、自身の境遇すらも疑念の渦に巻き込んでしまっていたのだ。


 途絶える事無く延々と湧き出てくる不安を有りのままぶち撒けると、ようやく終わりが見えてきた。

 吐き出したかった感情が、いつの間にか底をついていたのだ。


 今までそんな悩みもなく生きてきた俺にとって、ここまで追い詰められるというのは恐らく初めてだろう。
 未知の感覚に意識の制御が失われつつあり、話が途切れた今、次はどんなことを言えばいいのか戸惑っていると、翠は小さく息を吐いた。


「…よかった。私も同じ事、考えてました」
 その声は神妙というよりも、どこか安堵したような声色だった。

「同じ事?」
 どんどん暗い方向に向かっていった意識が、彼女のよくわからない言動によってふと我に返る。

「私も、失敗してしまったらPさんはどうなるんだろう、と思ってたんです」
「俺がどうなるか、って…」

 一体翠は何を言っているのだろうか。

 失敗したら大変なのは翠であって、俺ではないのだ。


 そんな懸念は無用の物である、と反論する俺に被せるように、彼女は言葉を続けた。




「もし私が失敗してしまったら、きっとPさんは自分を責めてどんどん追い詰めていってしまうのではないか、責任を感じてプロデューサーを辞めてしまうのではないか……そんな不安が尽きないんです」

 不明な前後関係が、蜘蛛の糸によって繋がれていく。


 ――同じ事。
 彼女がそういう表現を用いた意味が、雨が上がるかのように現れてくる。

「Pさんは失敗する事で私が落ち込んでしまうと考えているのでしょうが、私なら大丈夫です。あなたが信じてくれるなら、あなたの隣に居られるなら、いつまでも歩いていけるんです。だから私は……あなたがあなたでなくなってしまうのが怖い」

 そういうことか、と俺の中の曖昧な感情が一気に収束した。


 俺は彼女の凋落を心配し、彼女は俺の凋落を心配している。
 すれ違っているようで、実は重なりあっているという、表現し得ない何とも可笑しな状態になっていた。

 心配している相手から心配されているなんて、一体どんな関係なら起こりうる状況なんだろう、と俺は思わず笑ってしまう。

「…お互い様だったな」
「ええ、お互い様でした」
 電話越しの彼女も小さく笑う。


 翠の持つ全ての苦しみを俺にさらけ出して欲しい、という言葉は、翠の誕生日に出かけた時に俺が彼女に伝えた物である。

 しかし、それは同様に彼女が俺に伝えていた言葉でもあったのだ。


 過去の内で俺が翠にそういった弱音めいた言葉を口にしたのは、状況に惑わされてか誘発されてか、いわば強いられた状況下での言葉だった。

 それを俺はよくないものだという風に捉えたから、なるべく外に出さないで、内に、内に、と溜めこんできたのだ。

 今思えば、それは彼女にいらぬ心配をかけなくないという心もあったのかもしれない。




「あなたが居るから私は居て、私が居るからあなたは居る、たったそれだけの事なんです。あなたは弓で、私は矢。どちらか片方がなくなっただけでも、意味のない物になってしまう……大事な、繋がりなんですよ」

 俺は翠をつがえて、険しいアイドルの頂に放つ弓。

 意識下に落とすまでもなく、翠らしい例えだった。


 彼女の言葉に、そうか、と一つ呟いて返す。
「なら、俺は弦をしっかり張っておかないとな」

 いくら美しく鋭い矢であろうとも、弓が折れていたり、あるいは弦がきちんと張れていなかったりすれば、それはただの塵と化してしまう。


 両者があって、初めてその存在の価値が生まれるのだ。

 弓と矢、プロデューサーとアイドル。
 片方が片方を利用するのではない、密接に結びつくことで真価を発揮する、共生の形であった。


 最終的、という言葉を用いることには若干の抵抗感はあるものの、俺は心から思う。


 ――俺と翠の関係は最終的にそこへ辿り着き、それこそがあるべき絆なのだ、と。


 かねてからずっと体の中に燻っていた要らぬ感情が、彼女の声により散っていく。

 清々しい、晴れ晴れだ。
 どんな表現を使用すれば正しく伝えられるのかはわからないが、見事に切り替わったこの気持ちはまさに理想であった。




「明日、寝坊するなよ」

 顔から携帯電話を少し離すと、一つ息を付く。


 成功したら、共に喜びと幸せを。
 失敗したら、共に悲しみと苦難を。

 背負うのではなく持ち合う事が、二人で歩く意味なのだ。


「勿論です。…迎え、待ってますね」
 最後にお互い就寝の挨拶を交わすと、雑な音を経て電波の繋がりが失われた。


 誰かから思ってもらえるという事がどれだけ幸せであるのか、改めて俺は知る。
 そのせいか、この寒い空間の中でも何故か笑みがこぼれ続けてしまった。


「…さて、寝るか」

 携帯電話をベッドの枕元に放ると、立ち上がって乗り上がり、綿の潰れた布団を被る。
 欠伸をした後は、何も考えない、ただ寝るという本能的欲求に従い、意識を沈めていく。


 体の中でつっかえてストレスを発していた何かは、跡形もなく消え去っている。

 あれだけ下がらなかったまぶたが今ではすんなりと落ちたという驚きが、薄れゆく自我の中での最後の発現であった。




  *


 ――合同フェス、当日。


 午前の時間帯はいつものレッスン場で細かい動きと体の柔軟運動、そして全体の流れなどの最終確認を行い、昼ごはんを挟んで現地入りする。

 いつもであれば俺と翠の二人で移動していた時間が、今回はちひろさんを入れて三人で移動することになっていた。
 すなわち、本日事務所は休業という訳である。


 会場が設置されている特別な雰囲気を醸し出す公園に俺達が足を踏み入れた時には、既にそこは関係者や観客、激しいサウンドが入り乱れる混沌とした場所と成り果てていた。


 年末で誰もが忙しいのでは、という疑問など遥か彼方に吹き飛ばしてしまうような熱気が会場やその周辺に溢れ、景色だけ見れば夏と勘違いしてしまいかねない程の盛り上がりである。

 ステージには溢れんばかりの熱さを纏った音楽とダンスが披露され、それに呼応するように観客がある曲ではタオルを振ったり、またある時ではタイミングを合わせてジャンプをしたりと様々なリアクションが行われていたのであった。

「体調はどうだ? 変な所はないか?」
 急なアクシデントでライブの時間に間に合わなかった、だからごめんなさいでは許されない。
 なので、必要最低限の事は済ませてからこうして早めに行動することにしたのである。


「はい、万全です」
 関係者用の通路の中で問うと、対する翠は元気よくそう答えてみせた。


 表情から見ても、決して強がってはいない。
 心の底からそう思っているのだろう、かつて見たような緊張の色はあまり見えなかった。

 ちひろさんもそんな翠の姿を見て安堵したような表情をする。




 さて、そんな当日の今からできる事といえば、本番に向けてのシミュレーションや確認の打ち合わせなどが主ではあるが、俺の立場からすればそれ以外にもまだ仕事がある。

「では、ちひろさんは先に到着している麗さんと合流して打ち合わせをお願いします」
「わかりました。翠ちゃんをお願いしますね」
 即座に意図を理解したらしいちひろさんは、俺の言葉に快く了承する。

 麗さんはというと、午前にレッスンをした後は俺達よりも先に現地入りして会場の雰囲気や今日のライブの傾向などを調査してもらっている。


 複数のユニットが次々とライブを行うというのは想った以上に厄介なもので、あるユニットの単独ライブであれば観客もファン故に全部盛り上がってくれるものの、こうして多彩なジャンルのパフォーマンスを披露するとなると曲調によっては盛り上がりの良い物、盛り上がりの悪い物といった傾向が僅かながら見えてくるのだ。
 いくらこの合同フェスの方針が好きな音楽ファンが集まるイベントといえども、人間なのだから無理もない。

 そのため、もしかするとロック・バラードというジャンルが今回の観客には受けにくいという可能性が存在するかもしれないのである。
 もしもそんな兆候が見られるのであれば、今からでも遅くない、若干の流れの変更を進めなければならないのだ。
 無論、ジャンル自体をがらりと変更することは不可能なので、あくまでステップの取り方や位置取りなどを変えるぐらいなのだけれども。

 そういった理由で、数多のライブイベントを経験してきた麗さんにお願いしているのだった。

 ちひろさんにはそんな調査をしている麗さんと合流し、具体的な改善案などを先に話し合ってもらうのである。

 ならば俺達もそれに参加するのが当然である一方、俺達にしか出来ない仕事もあった。


 それは、共演者への挨拶回りを兼ねた営業である。

「行こうか、翠」
「はい」
 俺の考えを読み取った翠は聞き返すこと無く、明瞭に返事をしてみせた。
 こうした挨拶回りもこの一年で幾度と無くしてきたのだから、彼女も不慣れとは思っていないだろう。


 今は昼の部なので、俺や翠とは関係のない人の方が圧倒的に多いだろうが俺達には関係がない。

 いずれ仕事で顔を合わせる可能性だって十分にあるのだ、今から積極的に話しかけに行っても損はしないのである。
 また夜の部には、翠の状態を見ながら再び挨拶回りをするだろう。


 小さくなってくちひろさんの後ろ姿を見届けて、俺達は他のユニットの控え室へと足を運んだのだった。




  *


「テレビでよく見る人が沢山いましたね」

 ライブ前の関係者に話しかけるという行為がそれなりに難しい物であるということを実感した営業であった。
 やはりどれだけ舞台に上がる事を経験した人でも本番前というものは独特な気分にさせてしまうようである。

 癪に障らせないように穏やかに、加えてなるべく下手に出てファンを装いつつ営業をすること一時間、広大な敷地の中に別途建てられた控え室やその周囲に居る他のプロデューサー達に話しかけ終えて、それなりに好感触を得ることが出来たという結果に終わった。

 本番のために集中しておきたい所ではあるが、弱小事務所だからこそそれだけに固執しないで出来る限り横の広がりを強くしていかなければ、この先の道は細くなるばかりなのだ。

 結果がどうであれ、来年の事も見据えて営業をしたかったのである。


 先輩アイドルやプロデューサーと話をするという事から、自信を見せていた翠も少なからず緊張してしまったようで、収録さながらのトーク営業を終えると苦笑して俺を見る。

 すごい覇気でした、とは彼女の弁だ。

 なるほど、圧倒されるというのはすなわちそういうことなのか。

 その言葉に納得しつつ、会場の近くに建設されている売店で飲み物を購入して公園のベンチに座ると、風景を眺めて暫し休憩する。

 この後は翠に用意された控え室でちひろさんと麗さんに合流して最後の打ち合わせを行う予定なのだが、実はその前にここである人と待ち合わせをしていた。

「温かいお茶っていいですよね」
「よくわかるよ、それ」
 両手でペットボトルを持っている彼女は、身長差により自然発生する上目遣いで微笑んだ。

 翠はその待ち合わせの予定を知らない。
 というのも、彼女にその事を伝えるのを憚られる事情があるからだ。
 決して子供染みたからかいがしたいだとか、気恥ずかしいだとか、そんな不真面目な理由ではない。


 青空を彩る白い雲がゆったりと流れていく。

 本番前ということもあって炭酸はご法度だが、そうでなくとも基本的に翠はお茶かスポーツドリンクかの二択である。
 日常的に飲むであろうお茶にも大層おいしそうな表情をする翠に、俺は少なからず安堵感を覚えた。

「さて、そろそろ――と、時間丁度だな」
 スーツの袖をめくって陳腐な腕時計を見ると、針の長針が真上をさしている。
 それに呼応するように、遠くから見覚えのある男性の姿が見えた。




「ああ、見つけた! こんにちは、とうとうこの日がやってきたねえ!」
 小走りで現れた彼は冬特有のダウンジャケットを着込みつつ、大層愉快な表情を見せていた。
 恐らく期待と喜びがぎっしりと詰まっているのだろう。


「あなたは――」
 その顔を見て事情を知らない翠は思わず驚いて立ち上がり、同時に俺はわざわざここまで足を運んでくれた彼に立ち上がって礼をする。

「やあやあ、ご無沙汰しております!」
 そんな対照的な表情をした翠が腰を折る所を見ると、男性は歯を見せて大きな笑みを晒した。

 ……その人は、まだヒヨっ子同然だった頃に大分とお世話になった、地元商店街の会長である。
 そう、待ち合わせの人物とは彼の事なのだ。


 ここに至るまでには、ちひろさんの営業努力が不可欠であった。

 本来イベント関係者向けの優先販売されるチケットは数が少なく、その枚数を翠の家族に充てたために通常では彼の分を用意することができなかったのだが、ちひろさんによる根気強いアピールによって、俺達だけ特別に少しだけ多めに用意してくれたのである。

 まあ、並大抵の言葉では不可能な事なのだから、弱小事務所故の恩情も少なからず入っているような気がするが……それを気にしても意味はあるまい、と素直に受け取っておく事にしたのだった。

「翠ちゃん、今日は頑張って――と、こういう言葉は駄目でしたね」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
 きっと受験を経験した子供がいたのだろう、頭を掻いて苦笑する会長に、翠は微笑んで返事をした。


 それから少し三人で他愛もない話をして区切りの良い場面に移ると、彼はおもむろに『例の話』を切り出す。

「さて、プロデューサーさん。話ですが…」
「わかりました。翠、悪いけど二人で話すために少し離れるから、それまでベンチで休憩しててくれ」
 その言葉を聞いて、俺も本題に気持ちを切り替える。


 そろそろ談笑は終わりだ。

 時間が無い訳ではないが、この後も予定があるのだから悠長にする必要はない。
 疑うこと無く明瞭に翠の了解する返事を聞いてから、ベンチと少し距離を取って彼と改めて向き合った。




「翠ちゃんに言わなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。翠ですから」
 会長は訝しげに俺の行動を指摘するが、そんな彼の表情を俺は掻き消す。

 普通であれば、どういう形であれ仲間はずれにされると少なからず不信感を抱かれるだろう。
 しかし、俺と翠の間柄においてそんな懸念は微塵も持っていない。
 彼女が俺についてどういう感情を抱いているかを知っているからこそ、だ。

「例の計画ですが、夜の部の観客に入れ替わる時間帯に入場ゲートの後ろで全て配布してくれますか?」

 計画。
 未熟な俺がルーキーの集大成として考えた翠のための一計だ。

 それを翠に伝えないのは、発生するかもしれないリスクを回避するという理由であった。
 そのリスクに関してああだこうだと言うのは無意味なので、今は割愛をさせてもらうことにする。

「わかりました。それと緊急ですがこちらにも少し人員が増えましたから、プロデューサーさんの負担も多くはなりませんよ」
「人員……というと?」

 関係者であることを示す許可証を会長に渡して時間と配布場所を改めて伝えると、彼は察せない言葉を口にする。

 人員とはどういう意味なのだろうか、そう聞き返すと、彼は頭を掻いて笑った。
「実は、私の他にも一般抽選で手に入れたウチの商店街の人が居ましてね、その人にもお手伝いしてもらえることになってるんです」
「おお、そうなんですか!」

 何て幸運な出来事だろうか、と思わず彼に頭を下げた。

 この合同フェスは全国からファン達が駆けつけるために競争率がかなり高いはずなのに、そんなチケットを手に入れた人が近くに居て、更に協力を申し出てくれるとは思ってもみなかった。

「なら、その人と一緒に先ほどの場所にお願いします。運営側には伝えておきますから、向こうの人に私の名前を出して頂ければ大丈夫です」

 正直な話、莫大な数の観客に対して数人では『それ』の配布に限界がある。
 そういう意味でも、一人でも人手が増える事は非常に喜ばしい。

「了解しました。あれは運んでおきますから、後で向こうで改めて会いましょう」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いします」

 事前に打ち合わせはしているので、話も深くは入らない。
 それは比較的音が大きいこの場所で細かい話をしていると聞き間違えなどが発生するからである。

 最後の確認を取ったところで、会長は少し離れた場所にいる翠に軽く会釈をしてここを立ち去っていった。




 ……計画は着実に進行している。

 後は夜の部の観客の入場を待って行動を起こせば、全ての準備が完了するだろう。

「お疲れ様です、Pさん」
 翠からすれば何やら俺が一生懸命仕事をしているように映ったのだろうか、労いの言葉をかけてくれる。

 確かに一生懸命仕事はしているが、それは当然の事だ。

 それでいて彼女にそう思われるのだとしたら、それは以前まではどちらかと言えば向こう側が発端となる受動的な仕事や計画が多かった故に、今回のプロデューサー主導で始まるこの話は俄然気合をいれているのが理由だろう。


 今の俺はもう新人という立場に甘えている場合ではないのだ。
 だから、負けないように全力で行く。

「ありがとう。じゃあ行こうか」
「はいっ」
 体で次の予定を指し示すと、翠は寒空に負けない元気な声で返事をする。


 ぬるくなって人肌になったペットボトルを取り出して指先を暖めながら、俺達は翠に縁深い人物に会うため、ここを発つのであった。




  *


「あ、お母さん、お父さん!」
 アイドルから少女に変わる瞬間を俺の目が捉える。


 まだ日が高いと言える午後の時間。

 予め連絡していた近所の小洒落た喫茶店には、翠にとってかけがえの無い人物である両親が彼女を待っていた。
 両親も翠の姿を一度視認すると途端に嬉しそうな表情になり、椅子から立ち上がって小走りでこちらに向かってきたのである。


「翠ちゃんのお父様もお母様も、この度は遠いところから遥々お越し頂きありがとうございます」
 正しくは少し前に翠は両親と会っているのだから、厳密に言えばつい最近会ったばかりだが、というべきなのかもしれない。

 しかし、その時の翠はあくまで両親の娘としての翠である。
 今回二人が会った時に彼らが歓喜の声を上げたのは、今の彼女がアイドルとしての翠だからなのだろう。
 私的な一面を廃したアイドル・水野翠と接するのは、恐らく今回が初めてである。

 やはり両親としては娘が遠い所で働くという事が無性に心配なのだろう。

 そんな三人の大人として、家族としての再会をひと通り喜び合った所で、少し後ろで邪魔にならないように待機していた俺は前に出て頭を下げたのであった。



「…話は聞いた」
 先ほどの跳ねるような声色から一転、父親が冷静にそう言うと、母親から着席するように言われて素直に応じる。


 彼の声色で、容易に内容が想起された。
 話とは、無論俺が母親に対して謝罪した時の内容……すなわち、翠が倒れた事である。

 あの時は父親に話そうとする俺を母親が制して、直接伝えることなく終ってしまったのだが、彼の口ぶりからすると事実をはっきりと母親から聞いたのだろう、その表情は怒っているというよりも沈着した様子であった。


 母親からそれを伝えられた時、彼は何を思ったのだろうか。
 怒りか、悲しみか。それとも不信感か。

 当時の感覚が戻ってくる。
 怒られたとしても仕方がない事をしたのだ、どこまでも謝罪する覚悟はある。


 突き抜けるのであれば殴られたって構わない、と意を決して彼の言葉を待っていると、父親は俺の貧弱な予想の範疇を越えた行動に乗り出した。





「……娘を、ありがとう」
 父親の方が、今度は頭を下げたのである。


「え、あの…!?」
 あまりの出来事に、俺や翠もその場で固まって態度に窮してしまう。


 一体どうして彼が頭を下げる必要があるのだろうか。
 実の娘を倒れさせてしまうという、怒るのも致し方ない事情にも関わらず、彼は気持ちに阻害されることなく俺に礼を言ったのである。


 ――そういえば、以前母親にこの話をした時も似たような事を感じた。

 確か彼女は翠の状態を訊ね、そして何も不安はない、そう答えたのであったか。

 不思議なことに、謝る時の俺の瞳が母親から見れば翠を心から思ってくれている、という風に見えたらしいのである。

 そうして彼女と会話を続けていると、この母親が居たから翠はこんなに素晴らしい子に育ったのだろう、と結論づけたのだった。


 もしかしたら、父親も――?

 俺の心の中での思案を他所に、母親は彼の肩を持ってゆっくりと引き上げる。
 父親の目は、見た目こそ厳しそうであるものの、その言葉を聞いた事で、どこか慈愛に満ちているような気がした。

「翠が倒れた時は、本当にお前を恨んださ。……でもな、翠からの話を聞いてると、とてもじゃないがお前を怒れやしない」


 愛知に行った日。

 俺は日帰りで東京に戻らなければならなかったが、翠は一日本当の実家で夜を過ごしたのである。
 つまり、そこで彼女は父親に今回の顛末について詳細を話したのだろう。

 そう続ける父親の顔に、怒りは全くない。




「自己の体調管理を怠った翠にも反省すべき点はあったし、お前も翠を大切にしていることは十分にわかった。だからこの場で改めて言わせてもらう」

 ――娘を、翠を、素晴らしいアイドルにしてくれて、本当にありがとう。

 …その強烈な言葉は俺の脳を激しく揺さぶり、体内に尽きぬ程の幸福物質をまき散らした。


 大事な子供を預けるという不安や顔を見れない寂しさ、不測の事態が起きたという憎悪がこの一年で彼の心の中を飛び回っていたのだろう。

 それが、最終的に感謝という形に収まったのである。



 ……しかし、それで終わらせていいのだろうか。

 少なくとも俺はそうは思わない。
 彼がそう思っているからこそ、その言葉は尚早なのだ。

「…それは、また今度聞かせて頂けませんか?」
 突拍子もない俺の言葉に、両親は真っ直ぐに瞳を向けてくる。

 確かに、このタイミングは彼らの考える節目と捉えても何らおかしくはない。
 年末という時期にしろ、大舞台前という時間にしろそうだろう。


 だが、アイドル・水野翠はまだ完成していない。
 この合同フェスを大成功で終わらせて初めて、彼らの思うアイドルはとりあえずの完成を迎えるのだ。


 だから俺は言う。

「翠の歌を聴いて、感動して、それからまた聞かせて下さい。……節目を迎えるには、まだ少し早いですから」

 二人組同士で座る配置なので、向かい側には両親が、そして俺の隣には翠が居る。
 そんな隣の翠が、そっと微笑んでいることに気づいた。

「お父さん、お母さん、今日は来てくれてありがとうございます。ステージに上る私の姿を見て、楽しんでいって下さい」

 子供が大人になる瞬間というのだろう。

 俺の宣言に呼応されて発した彼女の言葉は、両親の娘という肩書きではなく、一人のアイドルとして、大人としての区別を付けていたようだった。




「…そうだな」
 続いていた会話が途切れてしばしの沈黙が訪れている間、喫茶店特有の落ち着いた雰囲気がテーブルの上で踊っていたが、幕を下ろすように先に切り出したのは父親であった。

「過程は過程でしか無い。それが翠の立場なら尚更か。なら、俺にこう思わせてくれ――あのステージに立ってる奴は本当に俺の娘なのか、とな」


 テレビ越しにアイドルの翠を見たところで、それは結局ファインダーを覗いて見えた一部分でしかない。

 肉眼で、同じ空気の中で彼女と相対することで本質を理解したいのだろう。
 彼の言っていることはすなわち、成長を肌で感じたい、という意味に他ならない。

「ふふ、期待していて下さい」
 それに張り合うように、くすり、と笑って翠がそう言うと、両親も安心したように頬を緩ませた。


 …恐らく、本番までの間に気楽に笑っていられるのはこの時間が最後である。

 喫茶店を出て彼らと別れれば、そこに残されるのは無謀にも合同フェスに挑むプロデューサーとアイドルなのだ。

 本番では、練習では絶対に味わえない異様なプレッシャーに全身を押されながらパフォーマンスをしなければならない、辛い戦いになるだろう。


 だから、最後の休憩としてこの時間を楽しんで欲しい。

 俺もまるで彼女の家族になったかのような、そんな和気あいあいとした空間の中で、俺はそっと翠を想ったのであった。




  *


 冬と聞いて連想される事と言えば誰しもいくつか思い浮かぶが、その中の一つとして、やはり太陽が沈む時間が早いというのが挙げられるだろう。

 昼の時間帯にあった微かな暖かさなど明度と共にあっという間に消え失せ、残された冷たさがこの周囲を暗闇とともに覆い尽くしていた。

 空はすでに黒色に染まり、訪れた観客たちも肌を刺す寒さをステージ上で舞う彼女の一挙一動に見入ることで掻き消している。


 まあ、冬本番、一年の終わりとなれば暖かさを常に享受できる人は殆ど居まい。



「綺麗な声ですね…」
 翠は目を閉じて、その音ひとつひとつを丁寧に頭の中に入れているようである。

「翠の先輩として、流石の実力だな」
 悲しく揺れるバイオリンの煌めきが波に乗せられて、翠の前の順番であるアイドルの声が会場内に響き渡っていた。



 姿は見えない。

 ただ、ステージの裏側、観客からは完全に隠れた舞台裏で、準備されていた椅子に座りながら俺たちは彼女……水本ゆかりの歌声に耳を傾けていた。


 流石に熱源がステージ裏の照明では余りにも頼りない。

 とてもじゃないが厚さを感じないコートを着たまま、スラックスのポケットに手を入れる俺であった。




  *


 ――時は、誰の制御も受け付けることなく走り続ける。


「ご両親とはどうでしたか?」
 控え室に戻る最中、ちひろさんは俺に問いかける。

「ええ、いい時間でしたよ」
 あの光景を包み隠さずちひろさんに伝えると、彼女はよかったです、と微笑んだ。



 日が落ちるという現象は瞬く間の出来事で、入場ゲート付近での人の大津波に驚嘆しつつも無事『それ』の配布を終わらせた俺とちひろさんは、疲れた顔もせずに翠の控え室に戻っていた。

 翠にその計画を知られる訳には行かないので、一度控え室で合流してから俺とちひろさんの二人で行ったのだ。
 大変ではあったが、かといって麗さんも一緒に行くとなるとその間翠は一人になってしまうので、監督役も含めて麗さんを残したのである。

「本番も全力でできそうですね」
 控え室のドアの前でちひろさんは言う。

 例えそうでなくとも翠なら仕事として切り替えて全力で行けそうではあるが、同じ釜の飯を食べた彼女達の間柄だ、親子関係については何らかの共通点があるのかもしれない。


 できますよ、翠なら。

 端から見ればまるで根拠のない盲目的な信頼をちひろさんに告げると、俺は控え室のドアを叩いて開いた。




 室内では、立って身振り手振りで話し合う翠と麗さんが居た。

「ただいま戻りました」
「やっと戻ってきたか。早速だが始めるぞ」
 予め申請していた数のパイプ椅子が控え室には用意されていたので、ひとまず俺達は彼女の近くに座ることにした。


 恐らく二人だけで先に調整する事項について理解を進めていたのだろう。
 長テーブルには、飲料水のペットボトルや何かが記されたノートなどが置かれていた。

「では私の見てきた事で、調整可能な事案について報告する――」
 彼女達も近くのパイプ椅子に着席すると、ペンを取って俺の方を見る。
 その目に楽の感情は無い。ベテランの意地が垣間見えるほどに、真剣な表情であった。


 ……練習という概念において、麗さんの基本的な方針としては、極端に言えば本番までの時間は一ヶ月前であろうが一分前であろうが全て同じ練習時間である、というものがある。
 それ故か、この時話す彼女の言葉も、冗談の一つも見せないで、今日見て感じた事を余すところなく丁寧に俺達に報告していた。


 そうして話す彼女の手元には古ぼけたノートがある。

 きっと何年も何回も使ってきたノートなのだろう、シミが付き、角が丸くなったそれは彼女の知識の結晶、人生のバイブルそのものなのかもしれない。


 対する翠はメモこそ用意していないものの、聞かされた変更点について頷きながら改めて確認している。

 二人は俺達がここに戻るまでにもある程度話し合いを進めていたのだから、翠から質問が出ることは殆ど無かった。
 しかし、それでも気になる所というものは存在するようで、逐一翠が意見しては麗さんが立ち上がって問題の部分のダンスを披露して翠に教えていた。

 …ちひろさんと俺もただ人形でいる訳にはいかない。
 それぞれ感じた事、気づいた事を時折挟んでは議論になり、いつもの様子ではありえない口論にさえ発展しかけた事もあった。

 しかし、俺達全員に言葉以上の悪意は存在していない。
 誰もがただ翠のダンスをよりよい物にしたいと考えているからである。




「――よし、大丈夫だ」
 あまり変えすぎても、覚えきれず本番に支障が出る。

 ダンスについて軽く流すように微小な変更点を加えつつ、より大きく、より美しくするために洗練させていると、瞬く間に時間が燃焼されていく。

「うわ、もうこんな時間なのか!」
 ふと時計を確認すると、俺は思わず立ち上がってしまう。

 翠が変更点を飲みこんで完全に理解したのを全員が確認する頃には、もうスケジュール上の翠の順番がかなり迫ってきていたのである。

「焦らなくても問題はない。ちひろ、準備を手伝ってくれ」
「わかりました」
 運営の人によるステージ・セッティングの時間を考慮しても、今私服のままで時間を過ごしていては些か不味いことになる。
 麗さんの言葉によってそれぞれが動き出すと、翠の少女からアイドルへの変身に着手し始めた。

 通常であれば必要となるヘアメイクなどのスタイリストとしての役割は、全て麗さんが請け負うことになっている。
 そもそもレッスントレーナーなのに何故そこまで出来るのかが少し気になるものの、熟練の位置にまで辿り着くにはそういった知識や実力も必要なのだろう。
 翠も信頼出来る相手に任せたいと考えているはずだ。


 こうして急ぎでの準備が始まった訳だが、勿論この中で唯一の男である俺が着替えをする控え室の中に居る訳にもいかず、コートの中に収まる程度で必要な物を全て放り込んでから外に出たのであった。




  *


 運営の進行役を手伝うアシスタントから連絡を受けたこともあって、準備を完璧に行うと俺達は控え室のあるエリアからステージに続く舞台裏まで移動する。

 舞台裏は必要最低限の人員のみが同行を許される最後の空間だ。
 それは大人数で行っては準備を行うスタッフの通行に邪魔になるかもしれない、という運営側の判断だろう。
 ちひろさんと麗さんは、快く俺達を送り出してくれた。
 合同フェスは生中継でテレビ放送されているため、彼女達は携帯電話でテレビ視聴をするはずだ。


 そんな二人の思いを背に受けて歩き出していると。

 ふと、遠くから静かな音色が聞こえた。


 ――聞き覚えのある曲。

 咄嗟に俺はコートに四つ折りにされて少し形が崩れた紙を取り出すと、それを破かさないようにゆっくりと開く。

「……ゆかりか」
 その紙とは、出場者のリストや順番などのスケジュールが載せられた関係者向けの紙面であった。
 リハ―サル前の打ち合わせの時に配布された物と同一である。

「ということは、次は私なんですね」
 今パフォーマンスをしているのがゆかりとなると、間違いなく次は翠だ。
 それを知っても翠は全く慌てること無く、ただ歩くことが今の仕事なのだと言わんばかりにそのまま歩みを進めていた。



 時折挨拶と共に駆け抜けていくスタッフを眺めながら、舞台裏に向かって俺達は歩く。

 忙しなく動くのはスケジュールをギリギリまで詰め込んでいるからなのだろう、たった今通り抜けて行った若い男性スタッフは新人なのか、何かの紙と前方を交互に見ながら必死な形相をしていた。


 それもこれも、この合同フェスをより快適に、より品高く運営するための行動なのだろう。
 全ては成功のために、ひとりひとりが皆休むこと無く動いている。


 俺達ができることは、そんな彼らを労うために一々呼び止めるのではなく、合同フェスの名に恥じないパフォーマンスをすることだ。


 一つ歩くごとに一つ捉え様のない何かを思い浮かべながら、かつ、かつ、と音を鳴らして俺達は足を前に出し続けていた。




「――なんだかこの通路、階段みたいです」
 別段饒舌になる事もなく、二人で小さく響く歌を聞きながら歩いていると、視線を前に向けたまま不意に翠が呟いた。


 通路なのに階段とはどういう事なのだろうか。

 正直に言えば、俺はもう本番の事や今までの事の回想で頭が絡まっており、意味を推察する程の余裕がなかったのである。

 恥も外聞もなく、そのままの意味を以て訊き返す。


 そんな気の抜けた回答だったからなのか、翠は、ふふ、と笑って視線を上にあげた。

「思えば最初の頃からでしたね。私の事をシンデレラにすると言い出したのは」
 彼女の言葉に、混雑していた意識の渦が切断される。

「…そんな事もあったなあ」
 明瞭になった意識が、俺を苦笑させた。


 シンデレラ。
 何とも気恥ずかしい言葉なのは今でも重々理解しているつもりだが、どういう訳か俺は翠にそう言ってしまったのである。

 そもそも、それらを口にするきっかけになったのは事務所の名前であって俺が考えた事じゃないんだ、と心中で言い訳をした。


 とすればだ、彼女が階段と表現したのは絵本の中での話の事だろう。
 舞台へと赴く翠を、城へと参るシンデレラと重ねあわせたのだ。

「でも、話通りのシンデレラじゃなくなってしまったな」

 絵本の中の彼女は階段を昇る時、隣には誰もいないが、現実の彼女は違う。
 舞台では一人だが、その隣には見えずとも俺が居るのだ。

「その通りでなくてもいいんです。Pさんが居る、それが私をシンデレラにしてくれた魔法なんですから……そうでしょう?」

 はは、と小さく笑ってやる。




「まあ、そういう話でも悪くないか」
 不意に翠の頭に手を置こうとして、強引に引っ込める。
 せっかくセットした綺麗な髪を無遠慮な手で崩したくはない。


 翠は俺が当初描いていたそのシンデレラにはならなかったし、俺も理想の魔法使いにはなれなかった。

 だが、それも含めて、俺達が昇る階段なのだろう。

 漫画のようにトントン拍子と進むには程遠いものの、階段を上がって目指すは舞踏会。

 そこで参加する人全てに翠の存在を知らしめて初めて物語は成立する。


「…それは、終わったらお願いしますね」
 俺の所在不明の手に気づいた翠が、こちらを向いてにこり、と笑う。

「任せとけ」
 はっきり言って緊張が消えることは全くないのだが、彼女の笑顔だけはそれでも俺を沈めてくれたのだった。




  *


 曲の終わりは、出番への接近という事実となって目の前に表れる。

 転調からのラストのサビは、ゆかりの持つ圧倒的な声量によって絢爛に修飾され、この声を聞く誰もが心を震わせる、華々しい終わりを迎えていた。


「……リベンジ完了、か」
 ゆかりの言葉を聞きながら俺は小さく呟く。
 別の音に掻き消されたのかこの声は翠には聞こえていなかったようで、隣に座る彼女は目を閉じてそっと静かにその空気を感じていた。


 ――別の音。
 その音とは、声でも、楽器から放たれる音でもない。


 人の両手でつくり上げる、壮大な拍手であった。
 ゆかりの歌声に負けず劣らず、周囲の空気を震わせ、そこら辺一体がひしめき合っているかのような異様な大きさの音だ。

 壁によって若干音が減衰している事を加味してもかなりの音量が俺達の耳に入ってくる。
 きっとゆかり本人が味わうその拍手は俺達の今感じている物よりも遥かに膨大であることだろう。

 ライブと言うよりもむしろオーケストラのコンサートのような、全てを褒めちぎらんとする音達は、ゆかりの心を果てしなく満たしているに違いない。


 …そんな彼女について考えていると、成功、という文字がふと頭に浮かんだ。




 ゆかりを語る上では、決して忘れることの出来ない悲しい物語がある。

 期待を持ってアイドルの門を叩き、必死に練習して、そして上層部の画策により受ける必要のなかった屈辱の限りを味わい、どん底に叩き落された。

 しかし尊敬する人間によって再び立ち上がり、諦めることなく続けることで、再登場を果たすことが出来たのである。


 これは間違いなくサクセス・ストーリーと呼ぶべき存在だろう。

 彼女が何を感じてここまで過ごし、これからどんな事を考えて過ごしていくのか、本人でも担当プロデューサーでもない俺には到底推測できようにない。


 だが、完成したということに変わりはないのだ。
 紆余曲折の末、彼女の物語は一つの完結、一つの区切りを迎えることが出来たのである。



 ならば、翠はどうか。

 確かにゆかり程の強い意志は持ってなかったのかもしれないし、耐え難い屈辱というのも翠はまだ経験していない。
 この先起こるであろう失敗や挫折も、アイドルとして生きる限り幾度と無く彼女を襲うのだろう。

 大きくなればなるほど、それらの規模は一層広くなっていく。
 ごく僅かの人にしか影響を与えなかったこの前のトラブルも、彼女が成長していけば損害を被る人は莫大な数になるのだ。

 それらを未だ身をもって知らないということは、それだけで人間として考えるなら平凡と言われても仕方がない。


 しかし、彼女にはアイドルを通じて得た沢山の思いがある。


 寂れた事務所の中で、ごく小さな人間関係の中で生まれた彼女の純粋な心は、鋭くはないが人を惹きつける何かがあるのだ。


 この俺達の軌跡がどういう閉幕を迎えるのか、それはもうすぐわかってしまう。
 成功か、失敗か、続行か、終了か。

 あらゆるエンディングの形を思い浮かべながらも、願わくば彼女の笑顔を失わない結果になりますように、と心に浮かべた。




「――あ、翠ちゃん」
 天を仰ぎ、来るべき時間を物言わず待っていると、不意に細い声が聞こえた。

 この声を間違えるような事は絶対にない。

「……お疲れ様です、ゆかりさん」
 翠は目を開けて、ステージから戻ってきた水本ゆかりに深々と礼をした。

 傍目にはただの挨拶のようにしか見えないが、翠は誠心誠意を持って彼女を労っているつもりなのだろう。

 ゆかりは、彼女の担当プロデューサーに肩を抱かれ、かつて見たことのないぐらいに疲弊した表情であったからだ。

 実時間にしてたった少しだけの物であろうとも、大勢の人に視線を浴びせられながら、気温などの悪い環境条件の中で全身全霊で以て歌い尽くせば、そうなるのも不思議ではない。

 更に、ここは彼女にとって半ばトラウマの源に近い場所だ。
 無事乗り越えたという安堵感も、彼女を疲労困憊にさせた原因だろう。


 翠もそれが解っているから、仕事人としての礼に加えて、本人自身の思いを込めて頭を下げたのだった。


 彼女のパフォーマンスはもうこれで終了を迎えた。

 なのでこのまま控え室に戻ってひとまずの休息を取るのではないかと思っていたら、何やらゆかりがプロデューサーである彼に何かを囁くと、彼女は隣にある椅子に座り、大きく息を吐いてぐったりと固い背もたれに体重を預けたのである。

 疲れた体でここにわざわざ座る必要性は感じられない。
 とすると、そうしないのには何らかの理由があるのだろうか。


 彼はゆかりの肩から手を離すと彼女から遠ざかり、反対側である俺の隣の椅子に座った。
 アイドル同士、プロデューサー同士で隣に座った状態である。

 ゆかりのプロデューサーの表情は決して楽観的とは言えないし、かといって怒りに震えているという訳でもなかった。

 どこか神妙な面持ち、というべきだろうか。

 ステージの照明は一旦落とされて次の順番である翠のパフォーマンスの準備がされ始めている。


 その最中、彼は少しの間遠くに焦点を合わせていると、ふと俯き呟いた。

「…これがゆかりの実力だ」


 既にステージではパフォーマンスが終了した事から、観客たちのざわめきや物を運ぶ音などが周囲に散っている。


 それでも、彼の言葉は何故かすっと胸に入り込んできたのだ。




 ――その言葉で、彼の思いが全てわかったような気がする。


 きっと、後悔という文字がずっと彼の頭の中にあったのだと俺は思う。

 例え同じ事務所の中でも、担当プロデューサーが違えばそのアイドルと接する機会というのはそこまで多くはならない。
 それが彼ほどの巨大事務所で、更に経営に執心な上層部であったなら尚更だろう。

 休みの日に事務所に遊びに来てくつろぐ、だなんて事が実現する訳がない。


 だからこそ、彼は悔やんだ。

 距離で言えば近くに居たのに、守り、育むべきゆかり達を見殺しにしてしまったのだと感じてしまったのである。

 無論、彼に責任はない。
 責めるべきは、彼女達にそんな無理無茶無策の指示を出した上の者達であり、フォローすることを放棄した彼女達の元プロデューサーだろう。

 しかし、それでも彼は酷く後悔した。
 その事務所に居た人間の中で、誰よりも彼女を心配したのだ。

 理由については察する他ないのだが、恐らく彼のプロデューサーとして働く意義に繋がっているのかもしれない。
 成り行きですることとなった俺とは全く逆の何かであろう。


 彼には強い意志があった。


 リベンジを果たさせてやりたい。
 あんな心にもない非難を受けることのないような、最高のアイドルにしてみせる。


 ……彼女に見せる無愛想な表情の裏には、煮えたぎる魂がふつふつと命を鼓動させていたのだ。




「次、頑張ってね」
 まさに必死のパフォーマンスを終えた後に楽しく雑談など出来るはずもなく、現れるべくして現れた沈黙の、そんな無言を区切るかのように一つ、ゆかりは言った。

 本人だって疲れているはずなのに、出てきた言葉は翠を鼓舞するものであったのだ。


 俺は、彼らに何も言えない。

 まだそんな高みを経験していない俺が軽々しく意見する事は、彼らの積み上げてきた実績や苦しみを侮辱する事に他ならないからだ。


 だから、ただ黙って彼の雰囲気を感じた。

 幾千、いや、幾万の思いを彼らは交わしてここまで来たのだろう。


 俺達は、そこに辿り着けるのか。
 彼らの持つ信頼関係を、俺達が上を行くことは可能なのだろうか。


「……はい」
 そんなゆかりの姿を一瞥してから、翠は小さく頷いた。


 翠も俺と似たような事を考えているのかもしれない。
 何故なら、集中することの難しさ、努力することの意味を彼女は知っているからだ。


 故に、いつものように元気な声で返事をすることができなかったのである。



 そんな声を聞いたゆかりは、物言わずそっと翠の手を握る。
 突然の事に翠は少し驚いたが、それをするゆかりの表情を見て何かを悟ったらしい、 翠の表情がきゅっと引き締まったような気がした。


 そのまましばらく再びの沈黙が訪れていたが、パフォーマンスを終えた者がいつまでも舞台裏に留まっていは他の者の迷惑になるだろう、と判断したゆかりのプロデューサーはふと立ち上がると、ゆかりの肩を叩いて控え室に誘導する。


 ゆかりもそれに抵抗せず素直に従い、翠から手を離すとそのまま舞台裏から立ち去って行ってしまった。




「…もうすぐなんですね」
 二人の後ろ姿を見届けたことで舞い降りた俺達の沈黙は、翠の呟きによって掻き消された。
 彼女はゆかりに握られた手をじっと見つめている。


 ゆかりのパフォーマンス終了から数分もたてば、舞台もいよいよ完成に近づいていく。

 舞台裏を通るスタッフの数も瞬く間に減っていき、あとはセッティングの微調整ぐらいなのだろう、恐らく表舞台では暗い中必死に位置を動かしているに違いない。


「ああ、もうすぐだ」
 隣に座るドレス姿の翠を一瞥すると、俺はぼんやりと仰ぎながら返した。



 ――本当にこの一年は色々あった。

 思えば、仕事一つ取るのにどれだけ心労が溜まったのだろうか、と不意に記憶が蘇る。
 ちひろさんから渡された営業先のリストを穴が空くほど見て、初夏の頃で暑くなり始めていた空の下、あちらこちらへと走り回っていたっけな。

 翠も同様で、女子高生からアイドルへ、そんな急転直下な怒涛の一年を思い出しているのかもしれない。


「でも、これが終わりじゃないからな」

 しかし、これはただのプロローグである。
 あくまで、翠がアイドルという物語の開幕にたどり着くまでの外伝に過ぎないのだ。

 一年を締めくくり、来年から始まるアイドル二年目において更なる飛躍を約束するためには、まずはこの序章を終わらせなければいけない。


 いつか来るであろう翠のアイドル人生の終わりは、まだまだ先なのだ。




 遠くを眺めていた翠は、俺の声を聞いてこちらを振り返る。

 俺がそう言うと予想していたのか、翠は驚きもせず、怒りもせず、ただ平凡に、素直に、純粋に、くすり、と笑った。


 そして彼女は言う。

「勿論です。…あなたが射た矢は、こんな所では止まりませんから」

 らしいな、と、俺もつられて笑ってしまった。



 ――司会者の声が会場に響き渡ると、案内のスタッフが翠を誘導する。


 そこに俺がついていくことはできない。
 ステージに行けば、彼女だけだからだ。

 スタッフの指示により立ち上がった翠は、ステージへ歩き出す前に踵を返してこちらを振り向いた。

 ここで交わすべき言葉は、弱音でも意気込みでも虚勢でもなければ約束でもない。

「…いってらっしゃい」
 下らない画策を講じはせず、ただいつものように俺は言った。


 これからも、ずっと続いていけるように。
 これからも、彼女の隣に居られるように。


 俺の素朴な言葉を聞いて彼女は嬉しそうに微笑み、返事をする。

「――いってきます!」


 空色のドレス姿で笑う彼女は、ずっと少女的で、それでいてアイドルそのものの顔であった。




  *


 明かりのないステージに一つ、ピアノの打音が流れ始める。
 同時に、ざわざわとしていた観客の声がピタリと止まった。


 闇の中で、演奏が広がりを見せていく。

 ピアノがベースを、ベースがドラムを、ドラムがシンセを誘導する、落ち着いた伴奏が、冬の夜空を彩り始めた。

 たった五つにも満たない少ない音源で、シンプルな音色を響かせている。


 相変わらずステージに照明は灯されていない。
 伴奏を聞く観客たちも、何事か、ステージの故障かと周囲を見渡し始めていた。


 それでも止まらずに伴奏は続く。
 まるで観客のことなど全く気にしていないかのように流れるピアノは、絶対的な孤独感を生み出していた。



 それが十数秒続いただろうか。

 伴奏が僅かな溜めを作ったその瞬間、突如ステージの照明が全て明かりを灯したのだ。


 …その映しだされた光景に、会場が一瞬どよめく。



 一体何があったのか、という感想を抱いたに違いない。

 それもそのはず、先程まで見え隠れしていたはずの鉄骨が見えた生命感のない舞台が、いきなり真新しい洋館へと様変わりしていたのだから。

 その中のスポットライトが、手を胸に抱いた翠を映す。
 黒き夜空の中で、空色のドレスが一際異彩を放つ。


 響く音色に乗せられて、アイドル・水野翠のパフォーマンスが始まった。




 ゆらり、ゆらり。
 一つの楽器が増えたかのような、伸びやかで、しっとりとしていながらも感情を持った強い声。

 ピアノやギターと手をつなぎ、一緒になって歌を紡ぐような、暗い夜の寂しい雰囲気を十二分に彩っていた。


 …俺自身、こんな彼女の声を聞いたのは初めてかもしれない。
 やはり雰囲気による補正がかかっているからなのだろうか、レッスン室やレコーディングスタジオで聞いた時よりも、遥かに感情が強く込められている。

 そう感じてしまうのは、遠くでゆっくりと舞う翠の表情を舞台裏からは見ることが出来ないのに、声だけで、彼女が何を思っているのかがありありと伝わってくるからだ。

 ロック・バラード特有の強く、寂しさを持った音階に合わせるように、翠はリリックをありのまま観客に手渡していく。


 ギターを抑えて、ピアノと鈍く響くベースが中心のAメロから、次第に音色が加速し始めるBメロに移る。
 悲しみがメインとなっていた感情が、新たな展開を迎えるためにスピードを増していく。


 前の雰囲気を残しつつ物語の主人公の気持ちが変わり始めたのを、観客は見逃してはいなかった。
 じっと佇んでメロディを聞くだけだった観客が、右に左に、体をゆっくりと揺らし始めたのだ。
 それはリズムの鼓動であり、ドラムの刻印、ベースの波であった。


 観客の心が、翠の歌によって乗せられた証拠だ。
 その歌に『乗る価値がある』と思わせたのである。




 前よりも早いテンポでBメロが進んで徐々に音調が上がっていくと、そのメロディも終わりを告げ、ついにサビが訪れる。

 ピアノの勢いが更に増し、それを支えるようにドラムや先程まで抑えられていたギターが途端に強くなる。


 サビは、流麗な劇場であった。

 ステージの照明やレーザーが舞台を未知の物に姿を変えさせ、宙に浮かぶ空色のグラデーションが、淋しげな洋館の部屋の中で流星群を導き出す。


 流れ、舞い、訴える。

 翠は仕立てあげられた現実の絵本の中に入りきり、絶えぬ歌を続けた。



 すると、ここで翠にとって思わぬ変化が起きる。



 ――暗かったはずの観客席から、ぼんやりとした青い色が突如出現したのだ。


 そしてぽつんと揺れていたそれらは、瞬く間に観客席を覆い尽くしたのである。





 …その正体は、青色に光るサイリウムだった。

 観客の手に持っていたサイリウムが、この時振られるようになったのだ。



 しかし、何故このタイミングで観客が振り始めたのか。

 俺はその理由を、考えるまでもなくはっきりと理解していた。



 ――計画。

 実は、このサイリウムが現れる現象は、俺の計画によるものであった。


 もう分かるとは思うが、合同フェス以前、リハーサル前の打ち合わせの時に、俺はこのステージをインパクトのあるものにしようと提案した。
 その時にこの計画についても運営の人に話しておいたのだ。

 そして合同フェス当日、予め運営側から許可をもらって、夜の部の入場ゲートに俺とちひろさん、そして会長とその偶然手伝ってくれる商店街の人が集まり、ゲートを通る入場者にサイリウムと応援のためのチラシを頒布したのである。

 そのチラシに記載したのはたったの一言で、『水野翠のパフォーマンスを楽しんで頂けましたら、その時はこのサイリウムを振って下さい』というものだった。
 余計な恩情は必要なく、ただ純粋に観客たちに判断を仰いだのである。



 計画とは、単純に言えば『翠の味方を増やす』という目的のために作られた。

 ゆかりの例があることを考慮すれば、見る者が敵対的であるかどうかというものは本人の精神的負担や恐怖に著しく影響を与えているのは間違いない。

 だとすれば、どちらに転ぶかわからず歌うよりも、はっきりと味方であると判別出来たほうが翠もやりやすいのではないか、という事である。

 ならば本人に伝えなかったのはどうしてかというと、もしこの計画が失敗、つまり誰も渡されたサイリウムを降らなかった場合、計画を知っていたら翠はそれを見て失意に陥る可能性があったからだ。

 振れば味方、振らなければ敵と考えるよりも、翠のために振ってくれていると捉えたほうがリスクが少ないのである。


 普通であればこんなことはまず起こり得ない。
 観客全員が同じ青色のサイリウムを持っている事などありえないからだ。

 そして、振られたサイリウムの色は全て青色。

 だからこそ、例え翠に伝えなくとも彼女ならその意図や意味を絶対に理解できるのである。


 舞台で舞う彼女は、その光景を見て一層動きを大胆に魅せていた。




 ――舞台裏の僅かな隙間から覗くことができる会場は、かつてない程に異質な雰囲気を醸し出していた。

 そこはかとない一体感、ブレることのない全体感が俺の心を貫いていく。



 冬の闇夜に、綺麗な青が形を作る。

 それは翠の纏うドレスに凪がれるように右へ揺れ、天高く振り上げた手に集うように左に揺れ。


 歌声に乗せて、会場の一面を彩っていく。



 それは、まるで風に凪ぐ光の絨毯。

 彼女によって編み出された――翠色の絨毯であった。




「ああ……ああ……!」
 その光景を眺めていると、捉え用のない莫大な感情が溢れ、声が漏れ出る。

 俺の心に波打った感動が、涙となって世に顕現したのだ。
 ぼやけ始める視界が、より一層彼女の歌を心に取り込み始めていった。


 その声に意味は無い。意味を持てない。


 どう表現すればいい?

 ただの女子高生で、強くあろうとしても自信が持てず、元気の裏に莫大な不安を纏わせていた少女が、今、確実にアイドルに変身しているのだ。

 幾度と無くすれ違って、互いに果てしなく悲しみ、それでも一緒に前に進んできた人生がこの景色となって映しだされている。



 尽きず溢れ出る感情を抑えられないまま、やがて俺は激しく揺さぶられる無意識が一つの確信となって心に宿った。


 ……間違いなく彼女は観客を魅了している、と!



 未知の世界を観客達に知らしめる一番が終わり、また静かにピアノが静寂を抑えると、翠は集中を途切れせること無く二番を歌い始める。

 一番と似たようなリズム展開にも関わらず、観客が振る青の毛糸はほどけない。


 もう心配はない。
 もう不安はない。


「…君が主役だ」


 そう呟く俺の瞳は、翠色の絨毯で彩られた会場をただ無心に心へ焼き写していた。




  *


「ふう……いくら部活で慣れているとはいえ、東京でのこの時期は冷えますね」
「はい、お茶どうぞ。体を温めてね」
 ソファに座る翠にちひろさんが温かいお茶を渡すと、彼女は心底嬉しそうな表情をして飲み始めた。

 既に数時間、この部屋の暖房で暖められた俺達とは違うのだからそんな顔をするのも無理はない、と残りの冷茶を胃に流しみながら俺は彼女達を眺めていた。



 ――もう今年も終わりという頃。

 まだまだ弱小事務所の所属である俺達に仕事納めという概念が無いのだと知り若干の絶望感に心を苛まれながらも、相変わらずパソコンの液晶やスケジュール帳と睨めっこをする今日。

 いつも通りの仕事をする俺達と同様に、翠も――盛大な歓声に見送られたのが昨日であったにも関わらず――いつも通りに事務所に現れたのだ。


 微かに予想していたとはいえ、そんな調子で大丈夫なのか、と心配にも思ってしまうが、彼女はちひろさんと何気ない会話をして楽しんでいるようであった。




 …あの日。
 次第に音源が消失し始め、再び孤独になったピアノの音がついに姿を消した時、観客席からは期待以上の歓声が巻き起こった。


 成功したのだ。
 翠は、合同フェスにふさわしい人物であれたのである。


 その声援を背に受けながら再び舞台裏に戻ってきた翠の姿を俺が見た時には、彼女は目一杯に涙を溜め込んでいた。

 自身の歌に流されたのか、それとも無事終わったことに感極まったのかは分からないが、舞台裏でただ感動していた俺を見つけるやいなや胸に飛び込んで来たのだ。


 その時、微かにデジャヴを感じた。

 ……確か学園祭の時だったか。
 ライブが終ってテンションが上った翠は、普段ならありえないだろうに俺に抱きついてきたのだ。
 あれはきっと、嬉しさの形だろう。


 しかし、今の翠は俺の胸元で小さく声を上げて泣いた。

 メイクが崩れるだろうに、そんなことは一つも気にしないで、ただ嗚咽を漏らしながら俺の鼓動を聞いていたのである。

 翠がアイドルから少女にふと戻った…魔法が解けた瞬間だ。
 薄く綺麗な仮面を剥がして現れた彼女の表情は、ただの少女であった。


 そんな翠の素顔を見て俺は、おかえり、と一つ言い、彼女の開いた背中に手を回して翠を抱くと、心が落ち着くまでそっと彼女の頭を撫でた。

 これもきっと、嬉しさの形なのだろう。

 その涙は、悪い物ではない。
 それだけははっきりとわかっていたので、余計なことはせずその時間をただ過ごしていた。




 それからはというものの、まるで休む暇が無かった。

 合同フェスの日と同時に発売した翠のデビュー・シングルは当日こそ売上は伸びなかったものの、翌朝のニュースや新聞の芸能記事で合同フェスの事が取り上げられると、瞬く間にCDが売れていき、期待薄で入荷数を少なくしていた都内の一部店舗では売り切れの貼り紙を出さなければならなかった程だ。

 問い合わせも、勝手に休業しているにも関わらず昨日は俺の携帯に、そして翌日である今日には事務所の電話にも一時絶え間なく着信していた。


 おかげで来年の始めですら予定は埋まり、一ヶ月先までは合同フェスに関する話題で翠も引っ張りだことなっている。
 無論三が日くらいは愛知に帰らせて家族の時間を取らせつつ、一方で愛知の仕事をさせるつもりではいるが、それも束の間で、終わればすぐに東京での仕事が待っている。

 それ程に、新人があの場に立つということが異様であるということと、観客の心を掴む事が難しいのだ。

 そう考えると、翠の出した結果による影響は十分に納得できるものであった。


「今日の仕事は…テレビ局でゲストでしたね」
 僅かながらに暖まったであろう翠は、小さな鞄の中から落ち着いた色のスケジュール帳を取り出すと、今日の日程の欄を指でなぞり、俺に確認する。

 これも急遽決まった物で、朝のワイドショーにてゲストとして生出演が決まったのだ。
 本来であればオフであったろうに、無残にも俺のスケジュール帳に新し目の黒いインクでその事が記されている。
 翠の疲労を考慮して予定を決めあぐねていたが、彼女の了解により入れることにしたのだ。


「時間はまだ余裕があるけど…送ろうか?」
 つい先程届いたメールをマウスクリックで返信ボタンを押した所で、パソコンをデスクトップ画面に変えてから翠に訊ねる。

 今日の予定であるテレビ局は距離的にはそう遠くはないが、俺もかつてない忙しさからの現実逃避がてら送るのも悪くないと考えていた。

 しかし、彼女は俺の心を見抜いていたようで、いいえ、と一つ答えて続ける。
「一人でも大丈夫ですよ。それに、一緒に休憩したいですから」


 ……残念ながら、俺の休憩は随分先になりそうだ。




「元気ですね、翠ちゃん」
 がちゃん、と相変わらず歪な音をあげて閉まるドアを眺めながら、ちひろさんはトレイを胸に抱きながら微笑んだ。


 翠はこの件で自信がついたのか、近場であれば一人で仕事先に行くと言い始めた。

 当然ではあるが、気象条件が悪かったり遠かったりなどは絶対に俺が送るようにしているし、そうでなくともアイドルが一人街中をうろつくのはあまりよろしくないので、これからも俺が積極的に送迎するつもりである。

 しかしそれでも一人で行くと言ったのは、それがあんまりわかっていないのか、独り立ちしたいお年頃なのか。

「逆にこっちはしおれていくばかりですけどね」
 仕事と聞けばどことなく力が体から漏洩する程だ。

「ほら、大晦日はお休みなんですから頑張りましょうよ」
 ひとまず連絡を頂いた営業先を今年中に全部回ってから、ようやく俺達の仕事納めがやってくるのである。

「はあ……頑張ります。それじゃ、俺も営業行ってきますね」
 ふと壁掛け時計を見れば、動くべき時間に差し迫ろうかという頃になっていた。

 俺はパソコンに起動しているプログラムを全て終了させると、印刷した資料を整理して鞄に詰め込む。

「はい、車のキーです。いってらっしゃい」
「いってきます。帰りは翠と一緒に戻ってきますね」

 別の場所に保管されている車のキーをちひろさんから受け取ると、汚れの目立ち始めるコートを羽織って事務所を出た。


 ここは俺の家ではないのに、こんな人として当たり前の挨拶をする事がどことなく楽しいように思える。



  *


「はあ…寒い、寒い」
 外気に晒したままの素手をこすりながら階段を降りて地上に立つと、裏に回って決められた駐車スペースに行く。


 そこには見慣れた車があった。
 もはや運転し慣れた古臭く性能の低いかつての白さを失った社用車だ。

 雪こそまだ降っていないものの、外は現代人には耐え難い寒さがたむろっていた。
 乾燥した冷気が肌を撫でる度、体が無意識に振動する。

 これを風情と呼ぶべきか不便と呼ぶべきか、そんなくだらない事を考えながらキーをさし、そのまま車に乗り込んだ。


 車内も当然ながら気温が低く、エンジンをかけるとすぐにエアコンを最強にする。

 とにかく営業に回っている内に車を暖めて、昼ごろ乗り込んでくるであろう翠が寒さに震えないようにしないと。
 この時期に風邪を引いてしまったらかなりの損失だし、俺も悲しいからな。

 それに大仕事を終えてもオフを取らないで平常運行となればまた体調を崩す可能性だってある。
 場を改めての打ち上げもまだ行なっていないのだから、今日か明日にでも時間をとろうか。


 車のエンジンが始動すると共に車内に鳴り響く音質の悪いラジオからは、昨日開催された合同フェスについての話題が取り上げられている。

 もしかしたら翠の事も聞けるかもしれない、と期待しつつ、ブレーキペダルに足を置いた。


「営業先は…と、このルートだな」
 今日の予定先を古臭い車に似合わないカーナビに入力して選択する。
 余裕を持って移動しても、このぐらいの件数なら十分な時間を確保できるはずだ。


 そして何より、目的地を巡っていればその内暖かくもなるだろう。




 シートベルトをしめていると、ふと翠の声が頭に響き渡った。


 ――おはようございます。お疲れ様です。


 いつも聞く言葉であり、慣れ親しんだ言葉だ。



「……よし、頑張るか」


 願わくば、俺はいつまでもその言葉を聞いていたい。

 そんな小さな繋がりを、そんな当たり前の日々をこれからも続けるために、俺は今日も営業を始めたのであった。




 ――了


書き足りない事もあるような気がするけどとりあえず完結したんでくぅ疲。


初めはステマしたくて書いていたのにいつのまにか自分がもっと翠を好きになっているという事実。



仕方ないね。


こんな素人の長文を追ってくださった方々、本当に有難うございました。
願わくば翠を好きにならんことを。

素晴らしかった
終わるのが寂しい

ちょっとドリンク貯めて翠ちゃんお迎えしてくる

>>641
そう言っていただけると幸いです。



ついでに置き土産をいくつか。

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書き溜め中にステマしたくなって作ったコラ。
正直ステマするならこっちの方が早かったというオチ。


あと前回言っていたミスについて。
作中で18歳の誕生日を迎えていますが、それ以前での翠の描写に「齢十八」という単語を用いてしまっています。
そこはかとない矛盾です、申し訳ありませんでした。


最後にニッコリ
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>>642
恒常追加でお財布にやさしい。
是非ともお迎えしてあげて下さい。


というか名前でちってた。でもいいか。
よろしければいつでも会いに来て下さいませませ。。

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最後の貼り直し。連投申し訳ないです

えっ?モバマスの世界って17歳で17歳の誕生日迎えるから何の問題もないよね?(困惑)
恒常入ったら何が何でもお迎えするからもう少し待ってて!

そういえば後日談というなのいちゃいちゃはないのかなーって

ひとまずお疲れ様でした。
後日談でも次回作でも、筆の動くのを気長に待たせていただきます。


某小日向さんってたぶん一期一会ですよね。あれも24万字超だったな…愛ってすごい。



「改めまして……あけましておめでとうございます、Pさん」
 この寒さですら、今日であれば心なしか気持ちよくなってしまう正月のある日。

 いや、正確に言えば三が日の二日目、元旦の翌日である。


 空は正月にふさわしい晴れ晴れとしたものでいて、ここを訪れる人全てに本年の幸福を授けてもらえそうな雰囲気すら感じられた。


 俺達は今、人で賑わう神社の中に居る。


 というのも、今日は新春の特別番組で生放送に先程まで出演していたからだ。

 この神社は有名な初詣スポットらしく、老若男女問わずあらゆる年代の人間が足繁くここを訪れては賽銭箱や出店を行ったり来たりしており、通常では閑散とした神聖な雰囲気の神社もここ最近に限っては遊園地にでもなったかのようであった。

「あけましておめでとう、翠」

 今現在である午前にロケ地であるここに来て、共演者と歩きながら新年の目標を掲げ合ったりたりおみくじの結果を争ったり、また出店を見て回ってぶらぶらするなどの仕事とは思えない何とも和やかな空気をお茶の間にお届けしていた。

 三十分の枠で存分にこの地域の魅力を語れば、今日の仕事は終了である。


 共演者やスタッフに挨拶をした後はそれぞれ解散となり、殆どの人が次の仕事のために移動する中、俺達はもう予定がないので二人取り残されたという形である。

 カメラがあると人は彼女や他の共演者を芸能人として視認するのだが、一度それらが全て無くなってしまうと、この喧騒の中では彼女が翠であることを確信する人はいなくなってしまった。

 人混みに参って道から外れた場所に俺達が移動しても誰も見向きもしないあたり、やはりイメージや連想というのは人の判断に大きな影響を与えているのだな、と思った。




「せっかく来たんですから…初詣、しませんか?」
「翠はもう初じゃなくなってるけどな」
 くく、と引き笑うと、翠は、もう、と息を吐いた。

 当然ながら翠の言いたいことはわかっている。

 何も初詣というのは個人にこだわった話ではない。
 誰と行ったのか、という感情的な側面も存在するのである。

 時間や思い出を共有する感覚。彼女にしてみれば、こうして二人で詣でることが初詣なのだ。


「まあ、念の為に……と」
「ひぁ」
 鞄から帽子を取り出して翠に被せると、驚いたのか彼女は面白い声を上げた。

 放送をするにあたって許可は取っているものの、それは仕事に対してのものだけだ。
 それ以降での行動で神社内を混乱させてしまうのはいけないことだから、と軽い変装をさせたのである。

「じゃあ行こうか」
「はい……ふふ」

 帽子の唾を抑えて頭に深くかぶると、影の入った顔の中、視線を俺に向けて翠は笑う。

 はっきり言ってしまえばこの程度じゃ完全な隠蔽は不可能なのだが、俺が初詣という場面に全く似つかわしくないスーツ姿である点を考慮すれば、プライベートのデート中であることなど誰も思わないことだろう。

 無論、俺だってその通りなのだが、彼女だけは違うようで。

「はぐれないように、ですから」

 腕は組まずとも横にピッタリと引っ付いて歩く翠の姿は、上品であるようで、どうにも子供染みていたのであった。




「熱いから気をつけてくれよ」
 出店で購入した湯気とソースの香りが漂うたこ焼きを翠に差し出す。
 焼きたてのそれからは大層涎が湧き出てくるほどに美味しそうな雰囲気が出ていた。


 ――例えこういう特別な場であろうとも、することは他の人と大差がない。

 神様に苦笑しつつも二度目の参拝を行なって、二人でおみくじを引いて、結果を見せ合ってまだ見ぬ今年を予想する。

 そして飲み物と出店で食べ物を買って、おもむろに食べ歩きを始める。
 神様にお参りをするというよりかは初詣というイベントを楽しむような気さえ感じていた。

「ありがとうございます――はふっ」
 熱いたこ焼きを一口で丸呑みするなど到底不可能で、翠は柔らかく焼けた皮からついばむように口に運んだ。

「はは、美味そうに食べるなあ」
 目を閉じて熱さとおいしさに感心する彼女の表情は、周囲に蔓延る寒さも相まってかほんのりと紅潮していた。

 以前グルメ番組でリポーターを務めたこともある翠だが、食べ方に気をつけたり上手い言い回しをしようと考えていたりする風もない。
 それが嘘偽り無い自然体であるという印象を視聴者に与えられるのだろう、おいしいです、という翠の言葉はとても素直であった。


「俺も腹が減ったな。次食べていいか?」
 そんな姿を見ていれば、空いていようとなかろうと、無意識下で胃が鼓動をするに決まっている。
 いや、実際に朝食を少しか食べずにここまで来ており、俺の満腹度はたっぷり仕事を終えた後の晩御飯前位にまで低下しているのだから、食べたいと思うのは無理もないだろう。

「いいですよ――あ」
 渡していた六個入りのたこ焼きケースを俺に再び返そうと手を伸ばしたかと思えば、すんでのところで翠はその手を引っ込めた。




 何かを思いついたのだろうか。

「どうかしたか?」
 楽しそうな表情をしていた矢先に急に考えこみ始めたのだから、当然彼女の思案している内容が気になってしまい、顔を覗き込むようにして訊ねた。

「……よし」
「よし?」

 恐らくこの神社は、初詣シーズンが終わるまでずっとこの喧騒に包まれながら時間を過ごすのだろう。

 そんな賑やかさから隔離された翠が推察できない掛け声を呟くと、その瞬間、右手に持ったたこ焼きを俺の口に近づけたのだ。


 爪楊枝によって持ち上げられたたこ焼きが顔に近づくことによってより強いソースのいい香りが鼻を刺激する。

 一体何が起こったのか頭が理解する前に、翠はたったの一言で説明してみせた。

「はい、あーん……です」


 ……俺の顔が自覚できる程に赤くなったのは、今日の寒さのせいにしておきたい。




  *


「あら、ちょうどいい所に」
「お母さん?」

 初詣独特の雰囲気を存分に楽しんだ後、俺達は翠の家へと向かうと、玄関にて出会い頭に彼女の母親と遭遇する。

 今日は翠の両親はどちらも休日で、仕事に出かける翠を見送る時も『今日は一日ゆっくりするの』と母親は言っていたのだが、今の彼女の様相はまるで余所行きであった。

「……ふふ、聞いてよ翠。あのね――」
 こうなるまでに至った理由を母親は恥ずかしげもなく言ってのける。

 実は、俺が迎えに行って仕事に向かった後、父親から旅行に行こう、と言われたらしい。
 近場の温泉地に日帰りなのだが既にツアーも予約していたらしく、断る理由もない母親は快諾して即座に準備を始めたのであった。

「もう、お父さんったら、『久しぶりにお前と二人で居たい』なんて言われちゃったら断れないじゃない、ふふ」
 母親の表情は、かつて見たことのない程の浮かれっぷりである。

 それも夫婦共に良好な関係であることの象徴に違いない。
 思うに、結果的にいきなり誘うことになったのも、父親もかなり勇気の要ることだったからなのだろう。
 あの体格の良い強面の父親が照れくさそうにするという場面が全く想像できないのだが、これは母親だけに見せる一面なのかもしれない。


「ということで今から出発して帰りは遅くなるから、翠はお留守番よろしくね」
 丁度いい所、というのはこういう理由であった。

 当然翠にもその事は知らされていなかったらしく、彼女は母親の話を聞いて顔をひきつらせて小さく笑っている。
 彼女にもこんな表情をすることがあるのだな、と蚊帳の外に逃げ出した俺の意識が一つ呟いた。


 まあ、突然ではあったが両親が旅行で家を開けるから娘に留守番を任せる、という事自体におかしな点がある訳ではない。

 時期を除けば事情としてはよくある理由だろう。

 その後一つ二つ会話をしていると、気恥ずかしさを必死に隠して体面を保とうとしている父親が家から出て来ると、あとは頼んだぞ、という言葉を残してこの家を後にしていった。

 父親の足取りがやけに軽々しかったのは言うまでもない。




「……ええと」
 瞬く間に過ぎていった両親を遠い目で見送っていた翠は、困ったように呟いて俺を見るが、その頬はどこかこわばっていた。

「仲のいい両親だな…」
 残念ながら俺にはそう答えることしかできない。

 実際仲が悪いよりかは良い方がいいだろうし、妻を改まって旅行に誘うのに必要な勇気を得るのが難しいことは、独身の俺にも何となく解るからだ。