かずみ「from Connect to Luminous」(104)


――初めて意識が覚醒するその瞬間を、感触を、感覚を、彼女はその身と心で実感した。

  彼女は、ゆっくりとまぶたを開いた。
それまで瞼で守られていた彼女の瞳を得体の知れない液体が余すことなく覆っていく。
瞳を液体に晒した事で生じた刺すような痛みを感じながら彼女はひたすら耐え続ける。

  それは数秒、あるいは数分、もしかしたら数時間に及ぶかもしれない。

  目に走る刺激に慣れると、彼女は目の前の光景をうつろなその眼に焼き付けた。

  液体で満たされた、ガラスの子宮。
それは彼女が最初に目にした光景であり。彼女が最初に存在した場所でもあった。

  彼女は次に水分を吸いすぎてわずかに膨れた唇を開いた。
口の中に半透明の液体が押し流される。が、それも一瞬だ。

  彼女は何事も無かったかのように口を開き続けた。
その表情に動揺や苦しみのそれはまったく表れない。
なぜなら彼女の胃と肺はすでに液体で満たされていたからだ。
何事も無かったかのように、ではなく、本当に、何事も無かったのだ。

  呼吸がしたい。
  酸素が欲しい。
  気持ちが悪い。

  そういった衝動や感情を彼女は一切持っていなかった。

  彼女はまるで機械仕掛けの玩具のように、ガクガクと顎を揺らして唇を閉じる。

  鼻に溜まった水を出しながら、彼女はぼんやりと、うつろな眼でガラスを見つめる。
ガラスに映し出された、一糸纏わぬ少女の姿を眺める。


――誰だろう、と。

  それは純粋な興味であり疑問だ。
ガラスの子宮の中には娯楽も暇潰しも在りはしない。
ただただ液体に身を浸し続けることしか出来はしない。

  だから彼女は自然に興味と疑問を抱いた。
正面のガラスに映る少女へ興味の視線を注ぎ、好奇の心からその正体を探ろうとした。


  そして気付く。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1358701357












――この子は、わたしだ。


  意識、暗転。
次に視界が光で覆われる。


「……んぁ」

  彼女は目を覚ました。
見慣れない天井が視界に映る。
遠近感覚が曖昧な寝起きの彼女には、天井がすぐそばにあるように感じられた。

「んっ……」

  彼女は手を伸ばした。
人の温もりがたっぷりと残っている布団から両腕がするりと抜け出る。
天井との距離が腕の長さの分だけ縮まる。具体的には七十センチ弱。
けれどもその手は届かない。彼女はそこで初めて、自分が寝惚けている事に気付いた。


「ふぁ……っと」

  彼女は体を起こした。
まだ霞がかった意識を覚醒させようと乱暴に頭を振る。
振りすぎて酔って少女は目を回す。回復するまで目を閉じて待つ。
なんとか意識を完全に覚醒させる。そして少女はすぐ右手前を見やる。

「んー……」

  短い髪の女の子が立っている。
彼女は緩んだ頬を引き締め、けれどももういちど緩めて、その女の子に微笑んだ。

「おはよーカオル」

  女の子――カオルはその微笑に満面の笑みで応え、挨拶を反す。

「おはよ、かずみ。よく眠れた?」

  彼女――かずみは、元気良く頷いた。


「うん。すっごい眠れた」

「そいつは良かった。もしかして起こしちゃったか?」

「そんなことないよ? たまたまタイミングが重なっただけ。快眠できたよー」

「ふーん……昨日の今日のでまだ疲れてると思ったけど、そうでもないみたいだな」

  ほっと肩を下ろすと、カオルはベッドに腰を下ろした。
彼女の体重分だけ土台が軋み、キィ、と音が鳴る。
シーツや掛け布団は綺麗だけれど、ベッド自体は相当古いのかもしれない。
かずみは目には見えない歴史の重みを感じる一方で、そこで寝ている自分の身に少しだけ危機感を覚えた。

  とはいえ、すぐに壊れるようなことは無いだろう。

「……ねぇ、カオル」

  彼女の名を呼ぶと、彼女は優しげな瞳をかずみに向けて首を傾げた。

「どした? もしかしてあたしのこと、思い出したか?」

  質問には答えずに、かずみはじっと彼女の事を観察した。

  肩にかからない程度で揃えられたショートの髪。
ぱっちりと開かれた橙色に見えなくもない瞳。
引き締まった体躯と、女の子らしいしなやかさ。
染みや傷や荒れた箇所が一つもないきれいな肌。

  そんなカオルの姿を自分の記憶と照らし合わせ、

――憶えていない。

  愕然と俯き、トーンを下げた静かな声で告白する。

「……ごめんね。やっぱり思い出せないや」

  なんだ、そんなことかと目の前の少女は肩をすくめて見せた。


「気にするなよ。あたしはそんなこと気にしてないからさ」

「でも……」

「そのうち思い出すかもしれないだろ。それにほら、あたしとの思い出なんてまたいくらでも作れば良いんだから」

  カオルはかずみの頭に手を乗せた。
彼女の繊細な指先が、かずみを労わるように“ベリーショート”の黒髪をさらさらと梳いていく。
手のひらからじんわりと伝わる人肌の熱が彼女の心をほぐし、どうしようもないほどの温もりを与える。


  ――カオルの指、柔らかいな。


  さら、さら。
髪を梳かれ頭を撫でられる感触を受けてかずみは心地良さそうに笑った。
窓から差し込む日差しとカオルの思いやりに包まれながらかずみは目を閉じる。

  温かくて、気持ち良い。いつまでもこうしていたい。
そんな我侭で贅沢な事を考える自分に呆れてかずみはふたたび笑みを浮かべた。

  カオルの顔も、声も。
一緒にいた事すらも、今の自分は憶えてはいないけれど。
こうしている今でさえ何の懐かしみも感慨も湧かないけれど。

  それでもきっと“過去”の自分は今と同じように彼女と接し、
彼女もまた同じように受け入れてくれていたのだろう。
そう思うと、どうしても心が安らいでしまって。

  覚醒した意識が浅いまどろみの中で漂うような曖昧な感覚に浸り続けた。


  いつまでそうしていただろうか。

  ぼんやりと揺らぎ、安寧の中を彷徨い、たゆたっていた意識が覚醒していく。
かずみは気付いた。先ほどまで耳に届いていた歌、小鳥のさえずりが途切れたことに。
次いで、さらに気付く。
自分の左頬に、なにやら柔らかい感触が伝わってきている、と。

「……あれ?」

「よっ、おはよう。二度目だな」

  右耳から拾った声を聴いて、ようやく自分の姿勢に気付いた。
いつの間にか、ベッドに腰掛けたカオルの太腿に頭を預けていたらしい。
撫でられている内につい気持ち良くなり、そのまま本格的に二度目を始めてしまったのかもしれない。

  慌てて頭を起こし、その事を謝罪すると、

「気にすんなよ。あたしとかずみは友達だろ?」

  との言葉を受けた。
妙に気負うのも失礼だと割り切って受け止める。
カオルの笑みがどこか喜ばしげだったのも大きい。

  安心すると、かずみは腹の辺りがうごめきだしたのに気付いた。
今にも飛び出しそうにその中身を弛ませ、身震いする竜のごとく叫ぶ音はまさに、


―――ぐうううぅぅぅぅ


  腹の虫だった。


  羞恥に頬を赤く染めてシーツを手繰り寄せていると、カオルが大いに笑った。
そして懐かしい物を見るような目でかずみを見る。
懐かしい目? ――違う、とかずみは思う。
それはきっと、別の何かを秘めている目だ。

 それが分かるのに、それの正体がかずみには分からなかった。

  この曖昧な推察をあえて言葉にして表現するならば、それは遠い目だ。
真っ直ぐに物事を見据えながらも、しかしその本質はその遥か後方を見るような目。

  かずみがその正体を見抜こうと思考を重ねていると、

「朝ごはん、作るか?」

  カオルからそんな提案を受けた。
断る理由は何一つない。腹の虫が鳴っているということは自分が空腹状態にあるという証左に他ならないのだから。
かずみが頷くと、彼女は微笑を浮かべて立ち上がった。

  あっ、と思ってしまう。
恐らくカオルは朝食を作りにいこうとしているのだろう。
それ自体は平気だ。ただ、一人で行ってしまおうとしているのが少しだけ寂しい。

  思いを口に出せずに俯いていると、視界の中に手が飛び込んできた。
驚いて顔を上げると、そこにはカオルがいて、

「ほら、かずみ」

「え?」

「一緒に作りに行こうぜ」

  嬉しい言葉に、かずみは表情を綻ばした。
そして差し伸べられた手を取り思うのは、











――次からは、と。










    ●    ●    ●


  見慣れぬ台所で、見慣れぬ調理器具を使い、見慣れぬ調味料を使った結果。
完成したチャーハン――否、作品を前にして、かずみとカオルは後じさりした。

「こ、これは……」

「食べ、も……食べ物?」

  なぜか疑問系で言葉を発してしまい、思わず天を仰ぎたくなる衝動を抑える。
そして口にする前から渋そうな表情を浮かべるカオルと共に料理をまじまじと観察した。

  見た目は決して悪くない。
丸くお椀状に盛られたそれは食事処などで出されそうなほどに美しく形が整われている。
ただし色合いはというと、小麦色通り越して真っ黒に片足を突っ込みかけていた。
例えるならば、そう。ひっくり返したフライパン。

  ならば香りはどうかと嗅いでみれば、これも決して悪くはない。
香りが鼻腔に吸い込まれてからほんの数秒程度ならば、香ばしい香りに表情を綻ばせているところだろう。
しかし数秒を越えるとどうだ。香ばしいを通り越してむせ返るような匂いが直撃して、かずみたちは実際にむせた。
こういった罰ゲーム用の料理だと考えれば完成度は高いと言えよう。

「……だ、大事なのは味だろ!?」

「いやぁこれはさすがに……」

「記憶を失う前のかずみは料理が得意だったからな、大丈夫……大丈夫!」

  カオルはまるで自分に言い聞かせるように叫んでスプーンを炒飯に突っ込んだ。
そして焦げ茶色ではなく焦げ色の米を掬い上げ、ぷるぷると震わしながら――


  ぱくり。


  なんとか料理を口にしたものの、カオルは微動だにしなかった。
もしかすると――これは奇跡が起こったパターン、つまり味はイケる、というパターンなのだろうか。
鼻を抓みたくなる欲求をなんとか抑えながら、かずみは恐る恐る彼女の顔を覗き見る。

  しかし、かずみが密かに抱いていた期待とは裏腹に、彼女は眉間に皺を寄せていた。
頬が不規則に引き攣り、いかにも苦しげな表情をしている。

「……」

「……」

  沈黙が、そっと降りる。
誰が悪いわけではないというのに――原因は料理を作った自分だが――妙に気まずい。
記憶を失う前のかずみ、つまり過去の自分と比べるとやはり今の自分はかなり劣っているのだろう。
過去の自分を信じて厚い壁に特攻したカオルに敬意を表し、自動処理型のダストボックスを差し出す

「カオル、ぺって、していいよ?」

「……いや、いいよ」

  ごっくん、と飲み込む音が嫌というほどに耳に残る。
居心地の悪さがどうにも胸を締め付ける。
だからかずみは大仰に頭を下げ、

「ごめんねカオル! あたしまだ色んな記憶が戻ってないみたいだし、うん、これは捨てておくから!」

  さらに盛り付けられた炒飯を捨てようとするも、カオルは首を横に振ってそれを制した。

「いいよ、あたしが食べる」

「で、でも!」

「なぁかずみ。良いこと教えておいてあげるよ」


  カオルはどこか遠くを見つめるような寂しい目をして息を吐いた。
それは自分と同じ少女と呼べる年齢の人間が持つ瞳にしては、あまりにも達観している。
牧カオル。過去のかずみと行動を共にしていた魔法少女。
その本質は、記憶を持たないかずみには把握しようもないほどに深いのかもしれない。

  カオルは言った。

「食べ物を粗末に扱うやつは悪人なんだ。パンを踏んだ娘は地獄に落ちるんだよ――うおおお!」

「わ、わわ!? カオル!?」

 叫ぶや否や、カオルは黒焦げの炒飯を口の中に押し込み始めた。
その様子が明らかに無理をしているようにしか見えなくて、
おかしいやら嬉しいやら、心配するやらで、かずみは涙を浮かべて笑いながらカオルの肩に手を置いた

  良かった、と、そう思う。

  カオルがいなかったら、わたしはきっとダメだったろうから。

  つい昨日のことを思い出して、かずみはふたたび笑った。
そしてカオルの手元に水が注がれたグラスを差し出し、一息吐く。
この勢いなら食べ終わるのにそう時間は掛からないだろう。が、復活するのにはかなりの時間を要するに違いない
朝食は食べ損なってしまったけれど、昼にその分食べればいいのだ。

  だから、かずみは昨日の出来事を思い返すことにした。

  記憶を失い、街を彷徨っていたかずみが。

  かつての親友を自称する、カオルと出会うまでの顛末を。

投下終了。

以下注意書き

このスレにはまどか☆マギカおよびおりこ☆マギカの登場人物は基本的には登場しません。
かずみ☆マギカの登場人物も全員登場するわけではありません。
自己解釈に基づいた設定が多数含まれています。
またこのスレはとあるスレのセルフ外伝スレです。
更新はそちらを優先するので加速度的に更新頻度は下がっていきます。

以上注意書き

janestyの末尾整形死ねよ本当もういい加減にしろ、あ、レスは大歓迎です。
失礼しました。更新は現在未定です。


  一本の苗木があるとする。
それを育てるために何もかもを投げ打ったとしよう。
投げ打ったものは具体的には血と汗と涙と時間と人生と、他色々。

  時が経ち、苗木は立派な根を張り陽光を受けてきらめく枝葉を風に揺らしている。
大地には幹の影が差していて、大樹と呼ぶに相応しい姿を誇り、あとは果実が実るのを待つばかりだ。

  そんな樹を根こそぎ奪われたとき、人は何を思うのだろうか。

  憤り、悲しみに明け暮れ、絶望を抱いて打ちひしがれるだけなのだろうか。

  答えは否である。

  人は大事なものを奪われたとき、なによりもまず先に行動をする。
大地を踏みしめ、草の根を掻き分け、茂みを探し回り、辺りを見渡す。
それは大事なものであればあるほどに必死に、より懸命に行動をする。

  その過程で、さらに大事なものを失ってしまった。

  どうすればいいのか?

  何がいけなかったのか?

  考えど考えど答えは出ない。
その場における最善策を出すしかない。
場当たり的な対応しか出来ない己を呪いながら行動をする。


  そして私は、それを解き放った。


    ●    ●    ●


『ちゃお! かずみ!』

  朝、散歩をしていたら妖精を拾った。

  現状を的確に一言で表現するならばこれしかないだろう。
テーブルの上に居座るそれを凝視しながら、かずみは眉をひそめた。
かずみは至って冷静だ。正常な判断も出来ると自負している。自分はまともな人間だと信じている。

  普通の人間と違う点などそれこそ数えるほどしかない。
一つ目は記憶が無いこと。二つ目は魔法少女であること。

「ああでも、魔法少女って人間とは違うのかな」

『かずみ! かずみ! そこって一番重要じゃねえか?』

「うんうんそうだよね!」

  聴こえる無邪気な声に思わず同意して頭が痛くなる。
普通の人間と違う点に三つ目を加えよう。
三つ目は妖精が見えること。妖精と話せること。妖精を拾ってしまったこと。
厳密に数えれば五つになるがこれは妖精という括りで一まとめにしておこう。

  かずみは内心で満足すると、あらためて妖精をまじまじと見つめ観察した。

「あなた、名前は?」

『オイラの名前はジュゥべえ! 魔法少女の相棒(パートナー)、つまり妖精だぜ』


  ジュゥべえ――海香という魔法少女が口にしたことのある名前――は猫の姿をしていた。
体と耳は黒の毛で、首元から頭までは白の毛で覆われている。
それだけなら珍しい毛色の猫で済むのだが、妖精が妖精と表現するにたる所以は別にあった。

  首元を覆うように膨らむ、まるで縛り付ける首輪のような白い体毛から二本の触手が生えているのだ。
触手と言ってもおどろおどろしい触手ではなく、どこか愛嬌のある三本指の形の触手だ。
そして触手はまるで意思を持った第三の両足――もしくは両手――のように蠢いていた。

  その中ほどの辺りには触手を通した金色のリングが支えも無しに浮いている。
糸で吊られているわけでもローターで浮遊しているわけでもない。
ただ初めからそうであったように、悠然と触手を通したまま浮いているのだ。

  もちろんそれだけで妖精だと判断したわけではない。
この触手とて街に出て金を掛ければ再現するのは不可能というわけでもない。
が、かずみが妖精と表現した理由は何よりもまず、

「でも作り物にしては出来すぎだよねえ」

『かずみ! かずみ! 本人を前に作り物扱いってかなりひどくね?』

  このように人語を介せるからであった。

「まあ仮に妖精だったとして、だからどうなのって思っちゃうんだけど」

『ひでえ……オイラちょっと自信無くしちまう……』

「ごめんごめん」


  人間のようにしょげるジュゥべえを見てかずみは安堵の笑みを浮かべた。
心の中を占めるのは、ますます楽しくなるであろうこれから先の生活への期待感だった。
かずみは友達が少ない。正確に述べるなら知人すらも少ない。
カオルと立花、あと近所を散歩していて仲良くなった老婆。それによく分からない魔法少女、海香。

  それくらいだ。
経験としての記憶が少ないかずみにとって、
知らない誰かと知り合いになるというのは心が弾むほどに嬉しいイベントだった。

  たとえそれが妖精だったとしても、だ。

「ねえ、それでジュゥべえはどんな魔法が出来るの?」

『え?』

「ひらけ! ごまあぶらー油! とか出来ちゃうの?」

『わかんねえ。でもたぶんそれ無理だぜ』

  分かりやすく肩を落とし、かずみは頬を膨らませた。
肩透かしを食らった気分だ。魔法の妖精なのに魔法が使えないのは詐欺だろう。
ぶーぶーとケチ付けていると、ジュゥべえは面倒くさそうに首を振った。

『実はオイラ、記憶が無いんだ』

「……記憶喪失なの? わたしのことは覚えてたよね?」

『そこがオイラも不思議でさ。かずみのことだけはよく覚えてたんだぜ』


  にわかに信じがたい話だった。
記憶喪失の魔法少女と記憶喪失の妖精。
偶然にしては出来すぎている。もはや作為的とすら言える。
しかも記憶が戻ったと言うことはかずみと行動を共にしていたということになる。

「ね、ねえジュゥべえ? わたしってどんな子だった?」

『うーん、良いやつだったと思うぜ。よくわかんねえけど、いつも一緒に居た気がする』

「そっか。いつも一緒に……」

  残念ながら、そのような記憶をかずみは持ち合わせていなかった。
そして過去の記憶が戻る気配は一向に無く手の打ちようも無い。

  だがもしもジュゥべえの言葉が真実であるとするならばこれは大きな進展が望めるかもしれない。
かずみが記憶を失った原因とジュゥべえが記憶を失った原因とが重なっているかもしれないからだ。
そしてかずみと違ってジュゥべえは記憶が回復する見込みがある。

  濃い霧によって一寸先すら見えない状況下で、しかしかずみはカオルと再会した。
カオルは親切だが記憶喪失に関しては関係を持っていないらしく、何の手掛かりも掴めていない。
そしてそのまま二人で肩を寄せ合い蹲っているところに、ジュゥべえという光明が差したのだ。

  カオルがジュゥべえのことを知っているのかは分からないが、それでも話は大きく動く。
上手く行けば――忘却の海の底に封印されているであろう記憶を解き放つことが出来るかもしれない。

  試してみる価値はある。


  それからジュゥべえと意味も無く戯れていると、玄関の方から物音がした。
きっと見回りに出ていたカオルが帰ってきたのだろう。ジュゥべえを床に下ろして、かずみは考える。
カオルとはあれ以来――海香が家を訪れた日から――どうにも接し辛くなってしまっている。
普段どおりの会話はするのだが、妙に壁があるように思えてしまうのだ。

  おそらくカオルは何か厄介事を抱えているに違いない。
それに巻き込まないようにと気を遣ってくれているのだ。
嘘を吐かない、吐きたくないからこそ、壁を作り、遠ざかってしまう。
心優しい彼女の気遣いに嬉しく思う反面、それは同時に重荷となってかずみの心に圧し掛かる。


  一方的に気遣われるのは嫌だ。
そう思ってしまうのは、果たして自分が強欲だからだろうか。

  友達だからこそ歩幅を合わせたい。
そう願ってしまうのは、果たして自分が傲慢だからだろうか。


  葛藤を抱くかずみをよそに、戸が開かれた。
そこには満面の笑みを浮かべたカオルがいた。

「お帰りカオル。遅かったねー」

「わるいわるい、かずみに会わせたいやつがいてさ。ちょっと遅れちゃったんだ」

「会わせたい人? だれだれ?」

「ふふーん、実はな……あれ、かずみ。その指の傷どうしたんだよ」

「……へ?」


  正直に白状すれば、緊張した。
やましいことがあるわけではない。
理由を話せば苦笑い半分照れ笑い半分の反応が返ってくることくらいは容易に想像出来る。
だからこそ『今は』隠し通しておきたい、かずみは心の中で思う。

  叶うならばとっておきのサプライズと共に打ち明かしたい。
それがカオルへの最大の恩返しになると信じているからこそだ。


  かずみは曖昧に笑ってみせた。
他者からすれば変な表情を浮かべているように見えたかもしれないが、
しかし嘘を吐かずに隠し通すための最善策はこれより他に無かった。


「ん、ちょっとね。ねえカオル、それで会わせたい人って誰なの?」

  変な表情はカオルが抱えていた案件と上手く相乗効果を発揮したらしい。
カオルも首を傾げただけで深く追求はせず、嬉々とした表情を浮かべて言った。

「人っていうかさ……魔法の妖精がいるって言ったら信じるか?」

  信じるも何も、いま足元に居る。
不思議に思いながら、かずみは頷いた。
それを見たカオルは満足気に両手を前に出すと、何かを抱え上げるポーズをして見せた。

「っじゃじゃーん! 魔法の妖精、キュゥべえだ!」

「わーすごーい!」


  ……あれ?


「……なんかかずみ、あんまり驚いてないね。……どうしたんだ?」

「えっと、そのキュゥべえはどこにいるの?」

  沈黙が芽生え、気まずい雰囲気になっていく。
何かを抱え上げるポーズをしたままのカオルを見上げて、疑問に思うことがあった。
カオルは一体、何がしたいのだろう。

  何かのジェスチャーなのだろうか。それともパントマイム?
まさか『アホの子には見えない魔法の妖精』などではなかろうか。
もしそうならばこちらにも相応の対処法があるというものだ。

  ところがカオルは心底不思議そうにしていて、良からぬ企みを水面下で進めているようにはとても見えない。

「……見えてないのか?」

  あまりにも素直で率直な疑問をぶつけられてかずみは返答を躊躇った。
しかし嘘を返せばそれは不義理だ。ゆえにかずみはありのままの事実を述べた。

「わたしには見えてないよ。それとね、キュゥべえじゃなくてジュゥべえなら知ってるし見えてるんだけど」

『ちゃお! オイラはジュゥべえ! カオル……だっけ? よろしくな!』

  一拍。

「ジュゥべえ!?」

  突然カオルが耳をつんざくような大声を上げた。
その顔は驚きと困惑に満ち満ちている。眉根は険しく皺を刻まれて瞳はゆらゆらと揺れていた。
わなわなと震える口元から溢れ出る言葉はやはり疑問の音を孕んでいた。

「……なんで、ジュゥべえがここに?」

「うん、それがこの子も記憶喪失みたいで分からないんだって」

「記憶喪失? いやそれ以前にキュゥべえが見えてないって……そんな、でも……」


「カオル?」

  かぶりを振り理解できないと眉根を寄せるカオルは見るからに狼狽している。
だがしかし、彼女にとっては不理解であっても自分には理解に通じる。
つまりジュゥべえの存在は彼女が抱える案件と何か繋がりがあるということだ。
不安が胸を過ぎるのを自覚しながら、かずみはさらに尋ねた。

「あの、カオル? キュゥべえのことなんだけど」

「どう思う?」

「へ? うーんと、どう思うって言われても」

「箱庭計画……あたしは記憶を保持したままなんだからそれはないだろ。じゃあ何でだ?」


  かずみの返答を無視してカオルは独り言を――会話を続けた。

  それを目撃する至って、かずみはようやく気付く。
いま目の前にいるのはカオルだけではないのだ。
おそらくは彼女がさきほど口にしたキュゥべえが彼女には見えていて、
そのキュゥべえの言葉もまた彼女には届いているのだ。

  自分には見えず、聴こえずとも、彼女は違う。
言葉に出来ないじれったさが静かに心の中で膨れ上がる。
他者との違いがこうも胸をくすぶるとは思いもしなかった。

「ねえカオル! いったいなにが――」

「悪いかずみ。ちょっと出てくる」


  返事をする暇など無かった。

  カオルは床を蹴って身を弾き、弾丸のような勢いで家を飛び出てしまう。
ようやく喉から声が漏れたときにはもうカオルの姿はそこになかった。

  しんとした部屋に取り残されたかずみとジュゥべえ。

  二人はどちらともなく顔を見合わせ、首を傾げるしかなかった。
カオルの心の中でいったいどのような推理が繰り広げられたというのか。
推察するにも材料が少なすぎてあまり意味があるようには思えない。

  はうっと深い溜息と共にかずみは肩を落とした。

  以前から感じていた心と心の距離感。
自分のことを想い、だからこそ連れ回そうとしないカオルの気遣いが生ずる垣根。
それを取り払いたいと、心底思ってしまう。

  海香という少女と、このジュゥべえとが何らかの糸で結ばれた関係なのはすでに百も承知だ。
そしてかずみの記憶喪失に連なる糸もそこにあるに違いない。
そのことをカオルに相談したかった。
彼女の笑い声を聞きながら、本当のことを話してもらいたかった。

  けれども――彼女はこちらの声に応えてはくれない。

  何も話さぬことで決着とし、全てをその身に抱えて突っ走ってしまう。
カオルには感謝している。しかし、そのままではかずみは彼女を信頼出来なくなってしまう。
この場は思考を停止することで全ての問題を先送りにするしかなくなってしまうのだ。
それでもなお思考を走らせれば、行き着く先は不可解なカオルの言動に対する疑問の山。

  疑問はすぐに不信へと変わってしまう。
そんなのは嫌だ――かずみは思う。
信じられないのは嫌だ、と。


  それゆえに、かずみは思考を停止した。
ジュゥべえを抱え、なにをするでもなくただ呆然とその場に居続けるだけ。
それが不信を消す最良の手段だからだ。

  結果的に言えば、二人はただ時間を潰すことしか出来なかった。


―――ぐうぅ


  時間を潰した結果、腹の虫の音が響いた。

  春の陽気な暖かさすら寒く思えてしまう静けさの中でそれはあまりにも激しい主張となった。
腕の中にいるジュゥべえのニヤニヤしたいやらしい目付きを煩わしく思いながら、
壁に掛けられた真新しい時計に目を向けた。
短針はすでに3時を回っていた。

  そういえば、昼食がまだだった。

「ホントはカオルと食べたかったんだけど……」

『どうすんだ?』

「うーん……立花さんのカフェに行ってみよっか?」

『タチバナさん』

  疎外感と憂鬱な心を癒すにはあそこが最適だろう。
カオルとの関係も可能であれば相談してみたい。
彼ならきっと的確な助言が下せるに違いないと、根拠の無い理由を胸にかずみは家を出た。



――消しきったはずの不信の種火が心の中で育っていたことを、かずみはまだ知らない。

投下終了。

以下どうでもいいこと

見えないのは
見ようとしないからか
見る資格がないからかしかし遅くなりましたすいません

以上どうでもいいこと

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom