藤原肇「釣れますか」 (34)

モバマスSS、地の文あり

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さらさらと流れる渓流に向かって、手頃な岩に腰を下ろして。


自然の中に糸を放ち、ゆっくりと過ぎる時間をじっと感じています。


こうしてこの釣り場で魚を待つ事も、これからは少なくなるのかな。


そう思うと、なんだか寂しい気持ちが溢れてきます。


来月から、とうとう私も高校生。


家から一番近い高校に進学したら、新しい生活が始まって。


友人たちと遊んで、クラブ活動や委員会活動に打ち込んで。


そうしたら、こうやって釣りに来る時間も減ってしまうのかな。


でも、それもまた、私の道なのかな、と感じています。


おじいちゃんに教えてもらった、秘密の場所。


お父さんもお母さんも知らない、私とおじいちゃんだけが知っている釣り場。


釣り竿がなくても、岩に座って渓流に向かって、自然を感じるだけで。


まるで曇の切れ間から光が差すように、気持ちがすっとします。




ぴくり。


何かがかかったな、と気付いて私は竿を引き上げます。


ぐいぐいと竿は引っ張られて。


負けじと私も、竿を引いて。


「……ふう」


澄んだ空気に晒されてぴちぴちと跳ねる魚。


口に引っかかった針を外してバケツの中へと移します。


餌を付け直して、また針を川へと放ります。


次はもう少し長く、ぼんやりとしていたいな。


餌を付けなければいいのに。


そうは思ったけれど……これで、いいのです。


今はただ、じっとこの時間を味わっていたいだけなのですから。




ゆるやかに流れる川。


木々の間から差す木漏れ日。


鳥の声。


自然に囲まれた中で、私はそっと、糸の先へと意識を寄せます。


こくり、と体が揺れて、目を覚まします。


うたた寝をしていたのかなと気付いて、もう一度、しっかりと竿を握り直します。




ぴくり。


また、何かが掛かったのかな。


ゆっくりと、竿を上げます。


ですが、私が思い描いていたよりもずっと強い力で、針は水底へと沈んでゆきます。


大きな魚かな。もしかしたら、川の主かもしれません。


ぐっと力を込めて、ぴんと張った竿を引っ張ります。


「……あれ」


けれども、どんなに力を込めても竿は動きません。


おかしいな。こんなこと、今まではなかったのに。


確かに、私は普通の女の子。特別力が強い訳ではありません。


でも、この渓流でこんなに力の強い魚は、見たことも聞いたこともありませんでした。


少しずつ自分の体が、川に引き寄せられてゆくのが分かります。


「……あっ」


少しだけ、体が宙に浮いたような感じがして。


ここは浅かったかな、それとも。


そんな心配事が、頭をよぎりました。


川の冷たい感触が、頬を撫でました。


跳ねた水飛沫。ふと気付けば、私は両手を離していて。


「……竿」


そのまま、ゆらゆらと流されてゆく竿が見えました。


取りに行かなきゃ。


けれども、体はずっと、固まったままでした。




そうしてようやく、私は気付いたのです。


「……大丈夫か。もっと自分の心配をしろ」


私を支えてくれている、しっかりとした暖かい腕。


「……えっと、あの」


何が起こっていたのでしょうか。


どんなに頭を働かせても、答えにはたどり着けませんでした。


「……あの。ありがとう、ございます」


どういたしまして。


目を逸らし、ぽりぽりと頭を掻きながら彼はそう言うのでした。


じりじりと川へ引きずられる私を見て、咄嗟に助けようとしてくれたそうです。


なんだか、顔から火が出ちゃいそう。


でも、とても暖かくて、温かくて。


不思議な気持ちでした。


「……落ちなくてよかった。それだけだ」


それよりも竿が、と彼は川下の方を見ます。


岩の隙間に引っかかって、竿は流れの少し先に止まっていました。


「よかったな」


ええ。でも、川に落ちなかったことの方が、大事でした。


竿を川から文字通り引き上げて、持ってきていたタオルで濡れた部分を拭き取って。


あとはお日様に当てて乾かしておきます。


そうして、ふと気付きます。


「……えっと、あなたは?」


今更か、と言わんばかりに。


きょとん、とした顔で見つめられてしまいました。




彼も、私と同じでした。


この岡山の小さな町に生まれて、ずっとここに暮らして。


大学を卒業して、来月から社会人として働くそうです。


「……昔、俺のじいさんが……ここを教えてくれたんだ」


そんなところまで、全部一緒。


ひとつだけ違うのは、彼は来月からこの町を、岡山を離れてしまうことでした。


「……芸能事務所の社長に、拾われてな」


就職活動で都会に出ていた時に、突然声をかけられて。


そのままあれよあれよという間に内定を貰ったのだとか。


酔狂な人だ、と彼は笑っていました。


「ここに来ることも……しばらくはなさそうだ」


芸能事務所ということは、東京か、大阪か。


少なくともここより、岡山よりずっと都会の街。


修学旅行でしか岡山を出たことのない私にとっては、空想の中の世界。


どんな所かさえ、私にはちっとも想像が付きません。


「……どうした?」


ふと我に帰ります。


じっと一つの事を考えると、すぐに他のことを忘れてしまう私の悪い癖。


それでもおじいちゃんは、


「好きなことに集中できる、いい事じゃないか」


と言ってくれたっけ。




「あ、すみません。考え事が……」


頭を下げると、彼はふふっと笑って。


「……大丈夫だ。俺も……よくある事だからな」


だなんて、本当に不思議な人。


でも、どうしてでしょうか。


今日初めて会ったのに、温かくて不思議な気持ちになる。


きっと、私達は同じだからかな。


この町に生まれて、この町で育って。


この秘密の場所を知っているからなのかもしれません。


それから二人で並んで糸を垂らしながら、ずっとお話をしていました。


私の話。彼の話。この町の話。


彼の紡ぐ言葉は、すっと私の心の中に入り込んで。


私を捕らえて離さない。


何故でしょう。


ずっと、彼のお話を聞いていたい。


そんな気持ちが、心の中に渦巻いています。




ぴくり。


「……あっ」


握っていた釣り竿が川へと引っ張られて、私の意識は心の中から外へと引きずり出されます。


驚いて飛び上がりそうになったのを、ぐっとこらえます。


また、川へと落ちそうになるのはもう御免ですから。


「大丈夫か?」


大丈夫ですと笑って、竿を引き上げます。


今度は、私でも釣り上げられるような大きさの魚でした。


「どうですか?」


「……お見事」


よくやった、と彼は褒めてくれて。


思わず笑顔が溢れます。


「……えっと」


じっと、彼は私を見つめていました。


ふと、目と目が合って。


なんだか吸い込まれてしまいそう。


「……綺麗な目だな」


「笑った顔が、よく似合う」


そんなこと、ないですよ。


言い出そうとした言葉は、ふわふわと宙を舞って消えてしまって。


私はただ、顔を真っ赤にするしかありませんでした。


「……ひとつ、いいか?」


はい、と頷いたつもりでした。けれども、声は出ませんでした。


それを察してか、彼は言葉を続けます。


「アイドルに……興味はあるか?」


「……え?」




ぽかんと口を開けた私。


その表情を見て何か察したのか、彼はしまった、という顔を浮かべます。


「いや……忘れてくれ」


そう言って、彼は釣り糸へと目を移すのでした。


新しい餌を針に付けて、また川へと糸を下ろします。


私と、彼と二人で並んで。


風に揺れる木の葉の音、水の流れる音の中。


会話はありません。


けれども気まずさも、何もそこにはありません。


こうして釣り竿を握り、糸を大自然の中に垂らして。


二人で並んで魚を待つ。


不思議な、なんとも言えないような安心感。


少しくすぐったいけれど、ずっとこうしていたい。


そう思えるような何かが、そこにはありました。


「……あの」


心地よい沈黙を破ったのは、ふとした私の好奇心。


「アイドル、興味があります」


テレビの中に移る、光り輝くその姿。


この、岡山の長閑な町並みしかしらない私にとって。


きらきらと輝くアイドルは、憧れの的でした。


また、しばらくの静寂の後に。


「……そうか」


「はい」


彼はそうか、と呟くと、視線を戻します。


心なしか、嬉しそうな顔。


けれどもどこか、寂しそうでもありました。


ぴくり。


また、私の竿が揺れます。


私のありったけの力を込めて、引き上げます。


「……っ」


けれども、また。


「大丈夫か」


後ろから彼が、私の竿に手をかけます。


私と、彼と。二人分の力でも、釣れる気配はありません。


じりじりと、私達の足は水底へと引きずられて。




「あっ」


足の裏から、地面の感触が消えて。


温かい腕のぬくもりと共に、冷たい水の中へ。


ばしゃん、と大きな音が、木々の間に響き渡りました。


「――初めまして、肇さん」


あら。


不思議なことに私の目は開きました。


息もできる。手も足も動く。


冷たい水の中なのに、そこには息苦しさも何もありませんでした。


「……あなたは?」


目の前にゆらりと漂うのは一人の少女。


その顔は、まるで。


「ふふっ、私ですか」


水の中を歩くように、ふわふわと彼女は私に近づいて。


そっと、私の手を取ります。


「……いつか、分かりますよ」


目の前で起こったことを飲み込もうと、必死に頭を働かせるけれど。


私には、さっぱりわからなくて。


それでも彼女は、私に笑いかけます。


「……いつの日か、貴方は思い悩んで、躓くことがあるでしょう」


「その時にまた、お会いしましょう。……出来ればこの場所に、帰ってきてほしいな」


何故だかわからないけれど、つうっと、私の目から一筋の涙が零れて。


水の中なのに、おかしいな。


「今日のように、大自然の中に糸を垂らしてください。そうしたら、きっとまた会えますよ」


ぎゅっと彼女は私を抱きしめて、満面の笑顔で、そう告げるのでした。


「だから……行ってらっしゃい。貴方の決めた道を、進んでください――」


真っ白な光が、降り注いで。


そのまま私の意識は、またどこかへと消えてゆくのでした。


ぱちり。


「……あら?」


目を開けると、そこには彼の顔がありました。


緊張の糸が切れたように、彼はへたり込みます。


「よかった……目を覚まさないかと、思ったぞ」


えっと、それは。


ふと、気付きます。


「服……ずぶ濡れ、ですね」


「川遊びをさせられたからな」


いたずらな川の主さんですね、と笑うと。


迷惑な主様だな、と笑い返すのでした。


「……あの」


こんな時に言うのもおかしいですけれど。


「私も、アイドルになれますか?」


やはり彼は、ぽかんとした顔で私を見つめます。


けれども。


「……勿論だ。俺が、君を……トップアイドルにしてみせる」


真剣な顔で、こんな事を言うものだから。


なんだかおかしくて、おかしくて。


「ふふっ、それじゃあ……よろしくお願いしますね」


よろしく、と笑う彼のその顔。


ああ、そうか。


やっぱり、私は。


「どうした、肇……ずぶ濡れじゃないか」


ふと気付けば、そこにいたのはおじいちゃん。


「あ、おじいちゃん……その、これは」


傍から見ると、ずぶ濡れの男女二人。


おじいちゃんから見ては、孫と見知らぬ男性が、服を濡らしている。


えっと、どうしましょう。




「……水遊びです。年甲斐も無く」


彼が、とても真面目な顔で、真面目な声でそう答えます。


「川の主に……呼ばれたものですから」


おじいちゃんは、じっと彼の目を見つめて。


「そうか……。肇、今日は帰ろう。風邪を引くぞ」


と、背を向けます。


「それから、そこの若いの」


背中越しに呼ばれて、彼がびくりと驚いたのが見えました。


「……お前さんも、風邪を引いちゃいかん。近いから、家に寄っていけ」


呆気に取られて、それでもおじいちゃんの優しさに気付いて。


「……ありがとうございます」


と、彼は頭を下げました。




……あとでおじいちゃんに、どうして彼を疑わなかったのか聞きました。


そうしたら、おじいちゃんは一言。


「嘘をつくような男じゃ、なさそうだったからな」


と教えてくれました。


どうやら、おじいちゃんに気に入られたようです。


おじいちゃんが運転席から降りてたばこを吹かし、私達に早く乗れと促します。


私と彼は濡れた服のまま、荷物をトランクへと運びます。


受け取った、彼のクーラーボックス。


手にした途端に、私のイメージに反してとても軽かったことに気付きます。


「あら……今日はどうでしたか」


言葉の意味を図りかねる彼へ、にっこりと笑って。


「大漁でしたか?」


ほんの、冗談のつもり。


だった、はずなのに。


「ああ。……大漁だ」


彼は、私の手を取って、目を合わせて。


やはり真面目な声で、言ったのでした。





「一匹だけだが……大物が釣れた」


「……大漁だろう?」




私はただ、顔を真っ赤にして頷くばかりでした。


「……そうですね。釣られちゃいました」




――――――――――――――――――――


「どうした、肇?」


ぼうっとしていた所に声をかけられ、びくりと跳ね起きます。


けれども体はがっちりと固定されていて、シートベルトに体を少し打ちつけてしまいました。


ああ、女子寮まで送ってもらうところだっけ。


「疲れているようには見えなかったが……何かあったか?」


「……昔のこと、思い出していました」


聞き返す彼に、そう、昔のことですよ、と笑いかけます。


「また、二人で釣りに行きませんか」


この前行ったばかりだろう。いいえ、違いますよ。


じゃあどういうことだ、と少しだけ鈍感な彼に。


「約束したじゃないですか、二人で岡山に帰ろうって……」


言ってから、とても語弊のある言葉だな、と気付いて。


「……いえ、なんでもないです」


あまりの恥ずかしさに、取り消してしまいました。


「……大丈夫だ」


いつもよりも力強い、彼の声。


「後ろの鞄から……スケジュール帳、出してくれ」


少しだけ失礼して、彼の鞄を開けてスケジュール帳を取り出します。


いくつか張られた付箋から、言われるがままに三月と書かれたページを開きました。


「……あ」


「少し急だが……構わないか?」


二本の矢印だけが伸びた、二週間ほどのスケジュール。


たった一言、休暇としか書かれていないその予定を、私はじっと見つめていました。


やっぱり彼には敵わないのかな、なんて思いながら。


「ええ、もちろん」


バックミラー越しでも分かるように、笑ってみせたのでした。

以上で終わりです

ありがうございました

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