垣根「魔法少女?」(633)

 まどマギ 禁書クロスです。

 少年の目に最初に飛び込んできた色は「白」だった。
 
 六畳ほどの長方形の部屋の中は、壁、椅子、カーテン、そして自分が寝ているベッド。
その全てが白にそまっていた。

 目を覚ましたベッドの横には「日」の字状の木製の棚がたてつけてあり、
中心の横線の上に小さめのテレビが、下には取っ手が一つついただけの小型の冷蔵庫が
簡素に置かれていた。

 少年は部屋の様子からとりあえずここが病室であることを理解する。

(眠みい……)

 なぜ自分が入院しているのかとかいろいろ考えることはあるはずだが、
寝起きの頭はそこまで急にはまわらず、いや、本当に自分がいたのかも怪しい。
そのくらい頭は働いていなかった。

 しばらくじっとしていると、まるで石を乗せたように重かった頭が少しずつ冴え、
軽くなってきた。

 まわりを見渡すとベッドの下に見覚えのないリュックがおいてある。

 中には携帯、財布、病室のカギ、おそらく少年の着替えだろう。

 上下学生服にシャツ、下着、靴から一式すべて用意されていた。

 どれも以前少年が着ていたのと同じものだ。

 ―――はたからみればなんの変哲もない静かな個室。だが少年の頭には
一つの疑問が沸く。

「―――どういう事だ。そもそもなんで俺は――」

 少年は何かを確かめるように自分の体を見つめる。ふと携帯を手に取り、
ゆっくりと開く。画面のライトアップとともに、今の日付、時刻が表示された。

「11月5日。午前6時12分」と。

「―――!!?」

 顔面に熱湯をかけられたように、脳が一瞬で覚醒した。

 信じられないものでも見たかのように、少年の両目が大きく見開かれる。

(じ、11月だと!? なら俺は一か月ちかく寝ていたってのか!?
いや、そもそも俺はあの時にっ―――)

 わけがわからないというように彼は彼は画面に表示されている日付を見つめる。

 パニックを起こした頭を落ち着かせ、なんとか考えをまとめようとするが、
一つの疑問に対する推測がまた新たな疑問を生み、その疑問に対する推測も
矛盾を孕んでいたりと全く考えがまとまらない。

(まさか奇跡的に助かって下部組織の連中が??? でも助かったとしても
障害くらいは残るはずだ。現にあの時俺の手首は―――)


 画面から目を離すと少年は自分の手首を珍しいものでも
見るかのように、まじまじと見つめる。

 そして、まるで子供がおもちゃで遊ぶように手首をぶらぶらと振ったり、
引っ張ったりしはじめた。

 だが何一つ違和感を感じない。試しに手すりに軽くぶつけてみると、
当たり前だが手に鈍痛が走った。

(マジでどうなっていやがる。 たとえ冥土帰し[ヘブンキャンセラー]でも
これは―――)

 頭を捻りだしてなんとかこの状況を理解しようとするが、
考えても考えても結論が出ない。いや、いくつか自分の中で考えはあるのだが
そのどれもが今の自分の状態を説明できるものではないのだ。

 生きていることがすでに奇跡であり、ましてや五体満足などどう考えても
ありえない。


 起きて早々なんなのだろうかこの状況は。いや、そもそも今こうして
起きていること自体がおかしいのだが。

 その後もしばらく考えてみたが、やはりなにも浮かんでこなかった。

 無理だ。情報がなさすぎる。今の時点では判断できない。
そう考えると、不思議とこわばっていた肩の力が抜けていくような気がした。

(……………………………仕方ねえな。まあすぐに結論づけないとヤバい
ことでもねえだろうし。つか第何学区だここ?)

 焦っても仕方がない。少年は考えるのを諦め、携帯を静かに閉じて椅子の上に置き、
リュックに入っていた服に着替えようとした。

 が、その時あることに気づく。


(あれ? 携帯? …………………………………………………
………………!!!!! そうだ!! 携帯があんじゃねえか!)

 ここにきて、少年はやっと携帯電話で外部に連絡をとるという手段に気づいた。

 そうだ。今でこそごちゃごちゃと余計な機能が付きすぎて、もともとの使用法を
忘れそうになるが、これは間違いなく『電話』であり、『電話』である以上本来の
使用目的は『通話』である。

 なんてことはない。最初から『仲間』に連絡をとって事情を聞けばいいだけの
話だ。どうしてこんな簡単な事にすぐ気付けなかったのだろうか。


 少年は速攻で椅子に置いた携帯を手に取ると、アドレス帳を開いて『仲間』に
連絡を取ろうとした。



 だが、アドレス帳を開いた途端、少年はある事にきづく。

(あれ? なんでアイツの番号が消えて―――)


 ない。電話をかけようとした相手の番号が何故か消えている。

 少年は少し不思議に思ったが、それほど深く考えなかった。
方向キーを操作して、別の知り合いの携帯番号を画面に表示させようとする。

 だが、その知り合いの番号もまた不自然に消えていた。

 ―――何かおかしい。

(…………)

 少し、嫌な予感がする。

 少年はその感覚を振り払うように、さらに別の知り合いのアドレスへと
指をはしらせる。だが、こちらもさっきと同様だった。ボタンを押していた
指の動きが止まる。

 明らかにおかしい。

 そのまま三十秒ほど考えていると、頭に一つの考えがよぎった。

(…………いや、まさか)

 少年はその考えを破棄して、すぐに別の回答を探し始める。だが、どうしても
さっきの考えが脳裏にちらつく。

 そんなわけがない。そんなことあってたまるか。とても受け入れられない。
というより、非現実的すぎる。

 携帯を握っている少年の右手の指先が、怯えるように震えはじめる。
白一色の室内に灰色のもやがかかったような錯覚を覚えた。

(クソッ!!)

 とにかく事態を確認したい。このいやな考えを払拭するものが欲しい。

 その一心で少年はアドレス帳を五十音順にスクロールさせていく。
が、やはり『あるもの』に関係するすべてのデータが消されている。

(ありえねえ……)

 後のほうになるにつれて、ボタンを押す指先の震えが大きくなる。
手のひらからは、じんわりと湿った不快な汗が滲み出ていた。

(なんだよ! どうなってんだよ!! 下部組織や研究者連中から開発官[デベロッパー]
まで『裏』に関わる部分だけがキレイに消されてやがる!! 残ってんのは行きつけの
店とか寮の管理人の連絡先とか何の役にもたたない―――)

 少年は焦りながらもボタンを高速で押していく。着信履歴や送信履歴も
調べたが、結果は同じだった。

 誰だって登録してあるアドレスがある日突然きえていたら驚くだろうが、
彼が焦っていたのはただそれだけの理由ではなかった。

 もし『全ての』データが消えていたのなら、彼はそこまで驚かなかっただろう。
『あの闘い』で携帯ごとぶっ壊れていてもおかしくはないのだから。

 だが、彼の携帯からは『裏』に関するデータだけが抜かれていた。

 これは誰かが作為的にやったということだ。

 一般人ではない。『表』の人間なら、どれが『裏』でどれが『表』のものか
判別できない。

 そして敵対組織でもない。ただ『裏』のデータを消したいだけなら、
全部まとめてクリアすればいい。『表』のデータも消えてしまうが、それで
敵が困ろうがそんなの知ったことじゃない。

 つまりそいつは『裏』のデータを消す必要があったわけで、いくらなんでも
アドレス帳全消去はかわいそうだから『裏』に関係ないデータくらいは
残しておいてやろうと気を働かせて、こんな面倒な作業をしてくれたわけだ。



 だがおかしい。

(…………いや、んなはずがねえ。でもこれは……)

 少年の『仕事』では携帯電話は必需品で、いつでも連絡がとれるように
しておくのは暗黙のルールだ。

(でもこれ以外に理由が…………いや、そんなわけねえ……
そんなことがあるはずねえ!!)

 だが相手は『裏』のデータのみを消している。まるで、少年と『裏』
とを切り離すように。


 そこから導き出される回答は二つ。

 『裏』が少年を不必要と見なしたか、あるいは―――

(俺は超能力者[level5」だぞ! んなことあるわけねえんだ!!…………
でもそれじゃあ―――)





 『裏』そのものが無くなったか。


(ないないないないありえない。大体そんなことしてなんの
意味があんだ!? 俺たちがいなかったらいったい誰が『ゴミ掃除』を
するんだ??? ――――そうだ。最初からおかしいじゃねえか。
統括理事会がそんな馬鹿げたことをするはずがねえじゃねえか)

 そうだ。自分の思いすごしだ。
 血の気が失せていた少年の顔が、少しずつ色を取り戻していく。
自分で結論づけた事の矛盾をあえて自分自身に指摘し、言い聞かせるように
なんとか平常心を保とうとする。

(そうだ、焦る必要はねえんだ。アドレスが消された所で、確かめる術は
いくらでもある。現に俺はこうやって生きてんだからな)

 自分の体を確認するように両腕をぶんぶんと振り、少年はなんとか
平静を取り戻した。いつの間にか指先の震えも嘘のように消えていた。
カーテン越しに差し込む朝日が、少年の金髪をわずかに白く染める。


 もうある程度予想はできていたが、一応メールの受信ボックスも確認することに
した。ここにも何も入っていないようなら、もうこの端末はアクセサリーでしかない。

 もしそうだったら、この場で真っ二つに折ってやろうか。ストレス解消くらい
にはなるだろう。

 そんなことを考えながら、少年は一割の期待と九割の諦めをもって、
カーソルを『メール』の項目に移動させる。



 結論を言えば、以前『仲間』と打ち合わせをした時のやりとりや、
『上』から送られてくる『仕事』の内容がかかれた指令など、ご丁寧に
『裏』に関わるものだけが、まるではじめからなかったかのようにキレイに
消されていた。

 予想はしていたのでそれほどショックは受けなかったが、口から少し
溜息がもれた。わかっていても少しくらいは期待してしまうものなのだ。

 一つくらい消し忘れていないかなー。と思いながら、機械のように指を動かし、
受信欄を上から下へスクロールさせていく。




 ―――残りの受信件数は50件。

 流れていく画面を見つめながら、少年はこの後の行動を考えていた。

 まずは自分の身体と能力をチェックしなければならない。変な機械でも
埋め込まれていないとも限らない。


 ―――残りは約30件

 その後は『裏』に接触して今の状況をつかまなければならない。そこに
『裏』のデータが消されている理由があるはずだ。

(適当な研究所へでも行ってみっか)


 残り5件。

 それよりもまずここがどこの病院なのか知るために、画面を読み切り閉まっている
カーテンを開けようとした。が。

(あん?)

 受信欄の最後の一件。そこに見覚えのないメールが入っていた。

 今日はここまで、続きはまた明日書きます。

 んじゃあのんびり書いていきます


 驚くほど簡素なメールだった。件名の欄にはなにも書かれておらず、
本文には11桁の数字が並んでいるだけ。恐らくは誰かの携帯の番号だろう。

(??)

 少年はアドレス帳を開けると、残された『表』の番号から一致するものがないか
探す。

 だが、結局相当するものは見つからなかった。登録するのを忘れたのだろうか?

 少年はよく考えず、なんとなくその番号に電話をかけてみる。プルルルル、という
無機質な電子音が響く。


 二十秒、三十秒たっても相手はでなかった。忙しいのだろうか?そう考えて
電話を切ろうとしたときだった。


「すいません、少しばかり非常事態でして……。まずはおはようございます、いや、
この場合はおめでとうございますのほうが適切ですか」

 若い男の声。だがその声色には聞き覚えがあった。

(この声は…………たしか――――――――――――――――っ)

 そうだ、忘れるはずがない。けして顔を見せず、いつも『仕事』を持ってきて、
やたらと行動を束縛してくる―――



 





「よお……久しぶりじゃねえかクソ野郎」

「ええお久ぶりです。お体のほうは大丈夫ですか?」

「ああ、何故かピンピンしてるぜ。ありえねえぐらいにな」

 不敵な笑みを浮かべながら、少年は密かに安堵していた。

 今電話に出ている相手は間違いなく『裏』の人間だ。そして彼に
連絡がつくということは、まだ『裏』が存在していることを示している。

(やっぱ俺の思いすごしだったのか? まあいい)

 少年は深く考えない。とにかく、今は相手に状況を聞くのが先だ。

 頭の中で質問の内容を整理し、言葉を紡ごうとする。

 と、ふいに少年の思考が中断された。

 なにか様子がおかしい。電話の向こうで怒号のような声が飛び交っている。
注意して聞いてみると「もうおしまいだ~」という若い男性の情けない叫びも
聞こえてくる。


「オイ、何かあったのか。やたら騒がしいようだが」

「ええ、ですから緊急事態でして。ああすみません、また明日
かけなおします。

「オ、オイ!! 緊急事態ってなんだよ! ふざけんじゃねえ! こっちは
テメェに聞きてえことが山ほどあんだよ。勝手に切ろうとすんな!」

 少年は思わず叫んだ。ふざけるな。緊急事態だかなんだか知らないが、
こっちだって言いようによっては緊急事態だ。

 せっかく確認できた『裏』との繋がり。自分はまだ何も聞けていない。
何も把握できていない。

 相手は明日かけなおすと言っているが、そんな保証はどこにもない。
少年は今電話を切ると、もう二度と連絡がつかなくなるような気がした。

「そう言われましても、本当にまずい状況なんです。それこそこの街……いや、
ひょっとすると世界全体の存亡に関わるくらいの―――」

「ただごとじゃねえことは分かる。いつも冷静で、飼い犬みたいに従順なテメェらが
ここまで騒いでるぐらいだしな」

 電話越しからは相変わらずパニックを起こした人間特有の、悲鳴や絶叫や怒号が
響いてくる。

 現場の統率がまったく取れていないようだ。冷静に話している電話の相手のほうが
場違いに思えてくる。

「だけど俺だってパニックなんだよ! 気がついたら身体に傷一つなく寝てるし、
なぜか『裏』に関するデータが消されてるし。オイ答えろ。『あの日』から今日
までになにがあった。そっちで今起きてる事と何か関係してんのか」

「その質問のすべてにお答えするのは無理です。そんな暇はありません」

 そう言う男の口調は、あくまで冷静で、それでいてどこか突き放すような
冷たさがあった。

「………………わかった。なら一つだけ聞かせろ」

「なんですか?」

「『裏』は今も存在してんだな?」

 少年が一番気になっていたこと。それを隠すことなく直線的に、念を押すように
告げる。

「…………」

 ふと会話のリズムが途切れる。わずかな静寂の後、相手は口を開いた。

「『今、は』……ありますよ」

「『今は』だと? どういうことだ」

「それについてはまた明日話します。少し長い話になりますので――――
ではこれで」

「オイ待て!! わかった、もうテメェと話してても埒があかねえ。今から
そっちに行く。場所を教えろ」

「ああそれはダメです。あなたは一応『あの日』に死亡したことになって
ますから。死人が目撃されるとまずいですよね。それにIDも口座も消えて
しまってますよ。全部復活させるには、一か月ほどかかります」

「あん? なら俺はその間この狭い部屋にずっとこもってろってことかよ」

「?――――外出したければすればいいじゃないですか。そこは学園都市じゃ
ないんですから」

「――――――学園都市じゃねえだと?」


 少年はベッドから飛び起きると、部屋の奥へ行き、カーテンを勢いよく
横に引く。

 ――――特に変わった所のない街の風景。だが、少年が暮らしていた街の景色
とは明らかに違っていた。一目でわかる。なぜなら『家』が多すぎるのだ。


 少年が暮らしていた『学園都市』という街は、住人の八割が学生という特殊な
所だ。

 それゆえに、学生や教員が住むための学生寮やマンションは数多く存在するが、
一方で一軒家の数はかなり少ない。

 学園都市の地価は『外』と比べるとかなり高く、家を建てるメリットが少ないのだ。
そのため、学園都市内の一軒家の内訳は、そのほとんどが一部のブルジョアの
豪邸で占められている。

 しかし、窓から見える住宅の大方は4~5人家族が住むのに適していそうな、
ごく普通の家だった。メイドが紅茶を淹れていそうな邸宅は、それほど見当たらない。



「どこだここは」

「おや、今気づかれましたか。ええ、そこは学園都市ではなく『見滝原市』です」





 『見滝原市』

 学園都市から車で二時間ほどの距離にある地方都市だ。

 元は小さな市にすぎなかったが、近年学園都市との交流とともに急速に都市化。
その際には学園都市の技術の一部も使われている。

 本当に一部なのだが、『外』と『内』で20~30年の開きがあるといわれる
学園都市の科学技術は、そのカケラでさえも見滝原と周りの市との差を顕著にさせていた。

 学園都市で問題を起こし、研究所をクビになった職員が、秘密裏にこの都市に
技術を持ち出そうとすることがあるのを少年もよく知っている。

 もっとも、そういうことを未然に防ぐのが少年の『仕事』なのだが―――。


 「はっ、学園都市にいちゃ不都合だから、とりあえず外部で『裏』の息がかかった
場所に送り込んだわけか」

「いえ、その病院自体は『裏』とはなんの関係もありません。
もちろん名前は偽名で登録してありますし、転院に関しても、親戚がそちらに
いるからという理由で、一応書類も出しています。
まあその『親戚』はこちらででっちあげたものですがね。病院側はまさかあなたが
死んだことになっている人間だなんて思ってもいないでしょうね」

「笑えねえな。じゃあ俺はこれから一か月、知り合いもいねえ街で無駄な日々を
送らなきゃいけないわけだ」

「あれ、あなたに『裏』以外で知り合いなんていましたっけ? いつの間に
友達ができたので?」

 馬鹿にするような口調に少し腹がたつ。

「チッ――言葉尻をとって遊んでんじゃねえボケ。んで、その一か月俺は
どうやって過ごせばいいんだ? 口座はなくなっちまってんだろ」

「ご心配しなくても、その点に関しては新たな口座を開設しておきました。
あなたの名義ではありませんが。暗証番号は●●●●です。メモをとってくださいね。
そこに一か月分の生活費が振り込んであります。多めに入れておきましたので、不足
することはないはずです。
入院費は払ってあります。ご希望なら一か月ずっと入院しておくというのも可能ですが、
いかがですか? ナースの魅力に酔いしれながら過ごすというのも悪くはないと
思いますが」

「そいつぁ非常に素敵な提案だが、俺はどっちかっつーとキャビンアテンダント派
なんだよ。テメェが暇な時にでもやってろ」

「ふふ……そうですね。では今日はこれで。久しぶりに話せて楽しかったですよ
―――『垣根帝督』」


 相手はそれだけ言うと、強引に電話を切った。垣根帝督と呼ばれた少年は
すぐにかけなおしたが、その後相手が電話に出ることはなかった。

 結局、なぜ『今は』なんて言い方をしたのかは分からなかったが、間違いなく
『裏』は存続していた。

 それがわかっただけでも収穫だ。垣根はそう思いながら、リュックに入っていた
服に着替える。

 どれもこれもがまるで新品のようにキレイで、ほつれ一つない。いや、恐らく
新品なのだろう。ただ以前自分が着ていたのと同じなだけだ。

 着替え終わるとバスルームで顔を洗い、置いてあった整髪料で軽く髪を整える。

 着ているものが新しいせいか、まるで自分の身体も生まれ変わったような気がした。



 




 ―――さてどうしようか。

 時刻は午前6時半すぎ。今のところ病院内からはなんの音も聞こえてこないが、
あと三十分もすれば目を覚ます人が増えてくるだろう。
朝食の時間だからだ。

(…………)

 自分がいつここへ運ばれてきたのかは分からないが、看護師たちは垣根が今も
ベッドで寝ているとおもっているはずだ。

 ―――ここに来てどのくらい経っているのだろうか。

 仮に一週間としてみよう。

 科学の最先端をいく街から運ばれてきて、一週間昏睡状態の患者。そいつが
ある日突然、ケロッとした顔で院内を歩いていたらどう思うだろうか?


 まず驚く。
そして次に本当になんともないのか、身体中を検査するだろう。その検査にどれくらい
かかるかは分からないが、それで丸一日潰れたって不思議ではない。

 いや、どちらにしろ退院するためには必ず検査を受けなければいけないのだが、
今の垣根にはその時間が非常に惜しく感じられた。

 とにかく今は学園都市の情報が欲しい。




 ――――病室のカギはかかっている。財布の中を見てみると、とある銀行の
キャッシュカードと、諭吉が5、6人差し込んであった。

 ―――垣根は少し考えた後、何かを決意したように財布と携帯をポケットに入れ、
靴を履くと、部屋の奥に向かって歩いて行く。

 窓のカギを外し、ガラス戸を右に引いた。

 冬の訪れを告げる冷たい風が垣根の頬にあたり、静かに前髪を揺らす。

 垣根は下を覗き込むように顔を外にだすと、そのまま周りを見渡すように
顔を左右に振る。

 しばらくその動きを繰り返した後、一度顔を引っ込めると、右足を窓枠に
乗せる。

 それを支えにして、まるでロイター板を踏み切るように体が大きく前に出る―――



 垣根帝督が空中に飛び出した。

 ―――すぐ下の病室でクラシックのCDを聴きながら窓の外を眺めていた少年が、
声にならない悲鳴をあげたが、恐る恐る窓の下を覗いた時には、ただ閑散とした
細い通りが延びているだけだった。




今日はここまで。続きはまた明後日。



 ―――垣根帝督は人ごみの中を歩いていた。

 時刻は午前8時前。

 駅から一直線に伸びる広い通りは、通勤、通学のために大勢の人が行き交っていた。

 カバンや携帯を片手に、すれ違い、追い越し、たまにぶつかりそうになりながら
それぞれの目的地へ向かっていく人たちは、空から眺めるとまるで一つの大きな生き物
のように見えるかもしれない。

(そういや『スイミー』って絵本があったっけ)

 と、そんなことを考えながら『スイミー』の中の一匹、垣根帝督は駅の方向
へと歩いて行く。

 さきほど病院の5階から命綱なしのバンジージャンプを見事にきめた垣根の
足の動きは、信じられないほど軽やかだ。骨折どころか、捻挫さえしている
様子はない。


 あの後、近くの喫茶店へ入った垣根は、モーニングセットをつつきながら
これからの行動について考えていた。

 店内には彼のほかに、サラリーマンが一人。カウンターに座りながら
マスターと話している。

 ラジオなんとか、というどこかで聞いたことがあるような単語が聞こえた
気がしたが、垣根はそれを右から左に流した。中年どうしの世間話などどうでもいい。

 朝食を食べ終え、店を出る時に垣根は何かを尋ねた。マスターは少し考えるような
仕草をすると、一度店の奥に引っ込み、すぐに両手に何かを抱えながら出てきた。

 卒業証書みたいに丸められたそれは、見滝原市全体の地図だ。ところどころに
赤や青のペンで、分かりやすくチェックがつけてある。

 垣根はしばらくの間、それを眺めながらマスターと話していたが、ふと何かを
見つけたように地図上のある点に指をとめると、納得したような顔で
店を出て行った。



 にしても、と歩きながら彼は思う。

 周りを歩いているサラリーマンは、その多くがだるそうな表情を浮かべている。
みんなが、という訳ではないにしても、明るい顔をしている者はほとんど見受けられない。

(なんだコイツら。朝から死んだ魚みてえな目えしやがって)

 彼らにはこの後、『通勤ラッシュ』という強大な敵が待ち受けている。
20年たとうが、30年たとうが、やっぱり慣れないものは慣れないのだ。
だが学生だらけの街に住む垣根には、そんなこと知る由もなかった。


 彼は喫茶店で見た見滝原市の地図を、頭の中に思い描く。

 信じられないだろうが、彼の頭には小さな路地から幼稚園の位置まで、
その全てが驚くほど鮮明に記憶されていた。

 たった数分眺めただけで、市の地図の細部まで記憶するなど、アインシュタイン
でもできそうにないが、彼はその辺の高校生とはわけが違う。



 学園都市。科学と学問の最高峰であるこの街には、実はもう一つの顔がある。

 それこそが、この都市の存在理由にして存在証明――――――。



 超能力者の創出。

 量子論によって超能力が解明されたこの街では『脳開発』という名目で、
学校の授業の中で、血管にペニシリンを打ち、脳に電極を差し込んで電流を
流したりしながら、人工的に能力者を生みだしていた。

 とは言っても、じゃあ全員が全員漫画やアニメのヒーローみたいな馬鹿げた
力を使うのかというと、そうではない。

 180万人の学生の内、約六割は脳の血管がちぎれるほどふんばったところで、
スプーン一本曲げるのがやっとの無能力者[level0」だ。


 弱能力者[level1」、異能力者[level2」、強能力者[level3」という風に、
学生はその能力[チカラ]の強さによって、六つの階級[レベル]に分けられる。

 上に行くほど、全体に占める割合は少なくなっていき、大能力者[level4」にまで
なると、かなりのエリートとして扱われ、長点上機学園や常盤台中学といった名門校
に通っているものも多い。

 そして更にその上、『軍隊と一人で渡り合える』と言われる、学園都市に七人しか
いない能力者の頂点。超能力者[level5」。

 垣根帝督も、その中の一人だった。

 能力[チカラ]の強度は基本的に、自分だけの現実[パーソナルリアリティ]と演算能力の
二つで決まる。どちらが欠けていても、満足な能力[チカラ]は使えない。

 逆に言えば、高位の能力者はこの二つを兼ね備えているということだ。

 つまりは、能力[チカラ]が強ければ強いほど、それだけ頭がいいということ。

 普通の人間なら、一日中見ていても覚えられない広大な地図も、脳を開発された
垣根にとっては、それくらい容易なことだった。


(―――えーと、あのブティックを左に……その後二つ目の薬局の角を右だな)

 駅前の大通りとは違い、商店街は静かな雰囲気に包まれていた。
別に寂れている訳ではない。まだ時間が早すぎるだけだ。

 垣根は頭の中の地図と視界をリンクさせながら、シャッターが閉まった店の間を
歩いて行く。思い浮かべるのは、一つの目的地。

(おっ、見えてきた。あれだあれだ)

 薬局を過ぎて、しばらく細い路地を歩き続けると、少し広めの通りに出た。
さっきの駅前大通りとは違って、こちらは駅の裏に出る道だ。

 道路を挟んで、垣根が目を向けるその先に、目的地の建物はあった。

 黄色い看板が目印の、三階建てのその店は、24時間営業のインターネットカフェだ。

 漫画喫茶も兼用しており、一階に受付、二階には100台を越えるパソコン、
三階には10万3000冊……ほどは無いが、それでも結構な数の漫画が置いてあり、
一度金を払えば時間内はパソコンも漫画も自由に楽しめるため、地元では『暇を潰すのに
最適な場所』としてそこそこ人気を集めていた。


 だが、もちろん彼は漫画を読みにきたわけでもなければ、インターネットで
『情報』を得ようとしているわけでもない。

 ネットなら携帯で十分だし、そもそも自分が必要としている『情報』はそんな所に
無いことぐらい彼自身よく分かっていた。

 垣根がやろうとしているのは学園都市へのハッキングだ。

 彼は自分の能力[チカラ]を使って、学園都市のデータバンクから『裏』の情報を
抜き出そうとしていた。

(―――さあて、何が出てくるかなっと)

 簡単ではないだろう。なにせ『外』から学園都市内の、しかも『裏』に関わる
最重要機密を覗くのだ。

 しかし垣根は、そこまでしてでも今の状況を知りたかった。明日かかってくるか
どうかも分からない電話に期待するより、まずは自分で行動だ。

(とにかく探れるだけ探ろう。向こうに感づかれるまでが勝負だな)

 ―――どこまで潜れるか。

 首をコキコキッ、と二回鳴らすと、垣根は戦いの場へ歩を進めていった。






 ―――市立見滝原中学校。

 市の中心部、割と駅から近い所に位置する公立中学だ。

 とは言っても、そのフォルムは多くの人が想像する『中学校』とはかなり
違っていたりする。

 まず、やたらと広い。

 ―――尋常ではない広さだ。例えばグラウンド。

 学校のグラウンドといえば、コンクリートの上に土を敷き詰めたものが一般的だ。
体育祭などの時には、石灰で白線を引いてリレーなどに使用する。

 だが、ここではそんな作業は必要なく、石灰もライン引きも置いてすらいない。

 博物館のような校舎の北側、本来ならグラウンドがあるはずのその場所に
位置するのは、競技場にあるのと同じ一周400メートルのトラックだ。
校舎側の直線部分の真ん中には、オリンピックなどでも使われる、据え置き型の
巨大なストップウォッチまである。

 確認しておくが、ここは『市立』見滝原中学校だ。皇族のご子息が通うような
有名私立ではない。

 ではなんなのだろうかこの豪華さは。


 実はこの学校はちょうど都市化の真っただ中に造られたもので、開校にあたって、
霧ヶ丘女学院という学園都市の名門高校と友好を結んでいたりする。

 なんでも、時の市長が教育分野でも学園都市の技術を取り入れたいと思って、
自ら統括理事会に頼み込んだ結果らしい。

 霧ヶ丘サイドは友好の印として、古くなったコンピュータや、使っていない
道具などを大量にくれたのだが、その際に、せっかく学園都市の科学技術を
使うのなら、せめて見た目だけでも近未来っぽくしてみてはどうかと、多額の予算を
寄付してくれることになったのだ。

 それを聞いた市長は、学園都市の方向へ泣きながら土下座したという。

 その後も霧ヶ丘は度々要らなくなったものを送ってくれていて、その友好関係は
現在まで続いている。






 そのだだっ広い校舎を、少女は歩いていた。

 時刻は午後1時過ぎ。

 昼休みの校内は、和気あいあいとした雰囲気に包まれており、廊下や教室内は
生徒がくだらない話で盛り上がっていて、いたる所から笑い声が聞こえてくる。

 その声を尻目に、彼女は下を向いてトボトボと歩いていく。その顔には焦りと
不安と疲れが入り混じったような表情。どうやら何かを探しているようだ。

(ハァ……最悪だよ。どこで落としたかもわかんないし……。ママに言ったら
怒られるだろうなあ……)

 実を言うと、もう半分以上諦めていた。

 少女は昼休みだけでなく、二限目が終わってから休み時間の度に校内を探し
まわっていたのだ。同じ所を何度も通ったりもしている。

 それだけ探しても見つからないのであれば、もう外で落としたとしか考えられないのだが、
どうしてもじっとしている事はできなかった。もしかしたらひょっこり見つかるかもしれない。
そう思っていたからだ。

(あーもう不幸だあああああああああぁぁぁぁ!!)

 キーンコーンと、予鈴のチャイムが鳴る。英語の授業が始まるまであと五分だ。




 そのころ、学園都市の情報を盗み出そうとして、意気揚々と自動ドアをくぐっていった
超能力者[level5」・垣根帝督はというと―――



(オイなにやってんだ! どこに向かって閃光玉投げてんだよコイツ! って
こっちはこっちでなんか変な所に罠仕掛けてるし。そんなとこ来るわけねえ
だろうが! 馬鹿かコイツら)



 おもいっきりオンラインゲームに熱中していた。

(ほら死んだー。だから言ってんじゃねえかよ、閃光玉は画面に向かって投げろって)

 垣根は呆れたような顔でため息をつく。

 よく、生まれてから全くゲームをしたことがない人は、一度やりだすとハマり過ぎて
抜け出せなくなることがあると聞くが、あながち間違いでもないらしい。
事実、彼はこういうサブカルチャーには今までほとんど触れてこなかった。

(生命の粉塵は残しておくべきだな。ここはとりあえず回復薬で―――)

 きっかけは実に些細な事だった。


 あの後、インターネットブースの一画で、垣根は『作業』を始めたのだが……。



 ぶっちゃけて言うと、無理だった。

 学園都市と『外』とでは、回線の作りが完全に異なっていて、『外』のパソコンの
スペックでは到底侵入することなど不可能だった。

 こうして、開始わずか15分でハッキングを断念し垣根は、残りの時間
何をして過ごそうかと考えていたのだが、その時ふと後ろを振り返ると、
大学生ぐらいの男がなにかのゲームを熱心にやっているのに気づいた。

 他の店が開く時間になるまで、こういうのもいいかもしれない。
そう思った彼は、男性の肩を軽く叩いてやり方を聞いた後、人生初の
オンラインゲームをやり始めたわけだが―――。

(よし! 頭部破壊成功だ。次は尻尾だな)

 ものの見事にやられてしまった。もはや当初の目的は頭の隅に追いやられ、
今はただどうやって画面の中のモンスターを倒すかということのみが、
彼の中を支配している。




 ―――結局、垣根が我に帰った時には、もう陽が沈み始めていた。

(…………………………ハァ……)

 パーティを組んでいた仲間に、『今日はこれで抜けます』と打ち込んで
店を出た彼の心は、なんともいえない寂寥感のようなもので溢れていた。

 考えれば考えるほど鬱になりそうなので、垣根はあえて考えない。
現実逃避? 上等だ。

「―――腹減ったな……」

 思えば自分は、喫茶店の時以来何も食べていない。

 とりあえず何か食おう。と、適当に店を探して歩いている時だった。

(??)

 植木鉢と植木鉢の間から、何か白いものが見えている。近くに寄ってみると、
それは薄型の携帯電話だった。

 なんとなしに垣根は手にとってみる。少し汚れているが、機能自体に問題はないようで、
スライドさせてみると、画面に光が灯った。待ち受けにされているのは3~4歳くらいの
男の子。子供か何かだろうか。

 ―――交番に届けようか。いやでも住所とか聞かれたらマズイし、
かといってここに放置しておくのもなー、なんて考えていると―――




 ♪ズン ズンズン ズンドコ キ・ヨ・シ!―――

(………………)

 突如響き渡る聞き覚えのある音楽。

 予想だにしなかった着メロのチョイスに固まる垣根の横を、自転車に乗った
高校生くらいの女の子が走り去っていった。心なしか、自分から顔をそむけて
いたような気がする。

(だ、だっせえ……。 なんで『キヨシのズンドコ節』? コイツ外で電話
出る時恥ずかしくねえのか??)

 着信画面には『自宅』と表示されていた。恐らく携帯の持ち主だろう。

(これ……出るべきだよな)

 垣根は少し迷ったが電話に出ることにした。『表』の人間との接触はなるべく
避けるべきだが、幸いここは『外』だし、これくらいなら問題ないだろう。

 垣根は通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。少しの沈黙の後、相手は
口を開いた。


「…………あ、あの……もしもし」

 若いと幼いの中間ぐらいの少女の声だった。中学生くらいだろうか。
着信音から中年のおばさんを想像していた垣根は少しだけ驚く。

「あ、ああ。アンタがこれの持ち主? 今、見滝原西通り公園の近くで
拾ったんだけど……」

 垣根は周りを確認して、目印になる場所を見つけながら言う。相手がどこに
いるかによって、この後の行動が変わるからだ。

「あ、ありがとうございます。……えっと、西通り公園ですか。そこなら
五分くらいで行けそうです」

「そうかい。じゃあ俺はベンチに座って待ってるよ。紺の学生服着てる。
間違えんなよ」

「はい、わかりました。……あ、私『鹿目まどか』っていいます。
あの、本当にありがとうございます! ずっと探してたんです」

 少女の声が一気に明るくなった。よほど心配だったのだろう。

 その後、2、3言交わして少女は電話を切った。





 ―――思えば、これが全ての始まりだった。既定事項ではなく、ほんの
小さな小さな偶然。

 だが、人生なんてそんなものだ。自分の思ったとおりになんて物事は進まず、
偶然に偶然が重なり、周りに流されながら少しずつ進むべき道が作られていく。

 垣根帝督は、これまでひたすらに一本の道のみを進んできた。逸れたことなどない。
立ちはだかる障害物は、全て自分の手で薙ぎ払ってきたのだから。

 だがこの時確実に、垣根の足は一人の少女によって道から外されようとしていた。

 良いようにも、悪いようにも―――。



(………………)

 夕暮れの公園に足音は響かない。表情の奥は覗けず、ただ静寂のみが
その場の支配する。

 超能力者[level5」・垣根帝督。

 彼の人生でおそらくもっとも長く、そして記憶に残る一か月が始まった。


 今日はここまで。続きは来週になります。



 鹿目まどか。

 市立見滝原中学校の二年生で、某少年のような異能の力を打ち消す右手もなければ、
全ての力の向き[ベクトル]を自在に操ることもできない、どこにでもいるような
ごく普通の少女だ。……たぶん。

 そんな彼女は現在、陽の落ちる住宅街を自転車で爆走している。

 原因は一本の電話。

 実は彼女、今朝携帯電話をどこかに落としてしまっていた。

 気づいたのは一限目の後の休み時間。級友の美樹さやかから、間違えてアドレスを消して
しまったからもう一度送ってほしいと言われ、うんわかったと携帯を取り出そうとした時だ。

 次の休み時間に急いで落とし物置き場に向かったが届いておらず、仕方なくその後の
休み時間の度に校内を歩き回ったが結局見つからず、どうか拾ってくれていますように、
と神にも祈るような気持ちで自宅から携帯に電話をかけたのだった。



 鹿目まどか。

 市立見滝原中学校の二年生で、某少年のような異能の力を打ち消す右手もなければ、
全ての力の向き[ベクトル]を自在に操ることもできない、どこにでもいるような
ごく普通の少女だ。……たぶん。

 そんな彼女は現在、陽の落ちる住宅街を自転車で爆走している。

 原因は一本の電話。

 実は彼女、今朝携帯電話をどこかに落としてしまっていた。

 気づいたのは一限目の後の休み時間。級友の美樹さやかから、間違えてアドレスを消して
しまったからもう一度送ってほしいと言われ、うんわかったと携帯を取り出そうとした時だ。

 次の休み時間に急いで落とし物置き場に向かったが届いておらず、仕方なくその後の
休み時間の度に校内を歩き回ったが結局見つからず、どうか拾ってくれていますように、
と神にも祈るような気持ちで自宅から携帯に電話をかけたのだった。

  

 鹿目まどか。

 市立見滝原中学校の二年生で、某少年のような異能の力を打ち消す右手もなければ、
全ての力の向き[ベクトル]を自在に操ることもできない、どこにでもいるような
ごく普通の少女だ。……たぶん。

 そんな彼女は現在、陽の落ちる住宅街を自転車で爆走している。

 原因は一本の電話。

 実は彼女、今朝携帯電話をどこかに落としてしまっていた。

 気づいたのは一限目の後の休み時間。級友の美樹さやかから、間違えてアドレスを消して
しまったからもう一度送ってほしいと言われ、うんわかったと携帯を取り出そうとした時だ。

 次の休み時間に急いで落とし物置き場に向かったが届いておらず、仕方なくその後の
休み時間の度に校内を歩き回ったが結局見つからず、どうか拾ってくれていますように、
と神にも祈るような気持ちで自宅から携帯に電話をかけたのだった。


 すると、ピッという音がして誰かが電話にでてくれたのだ。

(ハァ……ハァ……ああ怒ってるかなぁ電話の人。なんて言って謝ろう……)

 相手は若い男性の声だった。何故か少し言葉につまっていたが、とりあえずまどかが
来るのを待っててくれることになった、のだが……

(うう……最悪だよう。今日は厄日だあ……)

 五分くらいで取りにいきますと伝え、電話を切ってから既に15分以上経っている。
理由は単純。自転車のカギが見つからなかったのだ。

 自宅から待ち合わせの見滝原西通り公園までは、信号もなくひたすら裏通りを走る
だけなので、自転車だと5、6分で着くが徒歩だと15分ほどかかってしまう。
走っていくという手段もあるが、元々あまり運動が得意でなく文科系の部活に所属している
彼女の体は、体育のマラソンと一日広い校舎を歩き回ったことにより、疲れが充満していた。

 そんなわけで『走る』という選択肢を除外した彼女は、歩くよりかはカギを見つけた
ほうが早いだろうと思って探していたのだが、その時しばらく会っていない親戚から
電話がかかってきたり、あー久しぶりーと夢中になって話していると気づけば10分以上
経っていたりして、まあそんなこんなで今にいたる。


 余談だが、自転車のカギは弟のタツヤがおもちゃにして遊んでいた。

 結局、まどかが公園に着いたのは電話してから20分近く経ってからだった。

 いつまでたっても見えない相手にイライラしてきた垣根帝督は、相手が来たら
おもいっきり皮肉を言ってやろうと思っていたが、

「ハァ……ハァ…………す、すすすいません! あ、あのその、あのですね、親戚から
電話がカギが弟が……ハァ……ハァ、あれ? あ、ち違うんです。ええと……あの、その……」

 一体なにがあったというのだろうか。何故か足をガクガク震わせ息も絶え絶えな少女の姿
を見て、彼は思わず言葉を引っ込める。

「ま、まあとりあえず落ち着け。支離滅裂ってレベルじゃねえぞ。何が言いたいのか
全くわからん。別に怒ってねえからまず呼吸を整えろ」

 垣根はなだめるように言うと、

「は、はい…………スゥー……ハァー……スゥー……ハァー…………ふぅ。あ、ありがとう
ございます。なんとか落ち着けました」


「そうか、そりゃ良かった。じゃあ確認だが、アンタがコイツの落とし主ってことで
いいんだよな」

 念を押すように言うと、彼は目の前の少女に向かって携帯を軽く投げた。

「わっ。…………はい、間違いないです」

「中のデータも見とけよ。誰かさんみたいに消されてるかもしんねーぞ」

「は、はい。えっと………………アドレスは大丈夫……はい! 全部問題なかったです」

 よかった、という風に少女は彼に向かってニッコリと笑った。邪気も屈託もない
純粋な笑顔。それを見て彼は、

「……………………良かったな。じゃあ俺はこれで」

 笑みは返さず、何故か複雑な表情を浮かべると、彼はさっさと公園を立ち去ろうとした。
その時。

「まどか? まどかじゃねえか。なにやってんだそんな所で。ん? そっちの人は誰だ。
知り合い?」

「マ、ママ!?」

 スーツを着た30歳くらいの女性。いや、今『ママ』って言ったということはもう
40近いのだろうか。それにしては若く見える。

「君、うちの娘の友達か何かか?」

 彼女は垣根の全身を訝しげに見ながら尋ねる。どうやら第一印象はあまり良くなかった
らしい。まあ彼の外見からすれば当然といえば当然だが。


 彼自身もそれは分かっているようで、その風貌に似合わない柔和な笑みを浮かべて
返す。

「いえ、貴方の娘さんがどうも携帯電話を落としてしまったようで。それをたまたま
僕が拾って、取りに来てもらっただけですよ」

 完璧な答えだ。加えて完璧な演技だ。垣根は自分でもそう思った。だがその台詞を
言った瞬間、さっきまで笑顔だった少女の顔が一気に青ざめた。何か変なことでも
言っただろうか。

「携帯電話を……落とした……だって?」

 続いて女性の表情も変わる。色で言えば青から黄色といった感じだろうか。

「オイまどか。私がさっき電話した時には、携帯に出ないのはマナーモードに
してたから気づかなかったっつったよな」

「え、ええと……」

「大事なもん失くした時には私にすぐ連絡するようにって、この前家のカギ落とした
時に言ったばっかだよな」

 女性の声の中に、静かに赤信号が灯る。

「ええと、それは……」

「なんで嘘なんかついたんだ? 正直に言ってみろ」

「あの、だってママ……なんか最近機嫌悪かったし……携帯だって買い替えたばっかり
なのに、落としたって言ったら……その……すごく怒られると思って」

「…………………………………………ふーん、なるほどな」

「……えっと、その」

「まどか」

「は、はい!」

 少女はなにか釈明しようとしたみたいだが、それは母の言葉によって無理やり
中断させられる。


「アンタは、私が八つ当たりなんてすると思ったのか?」

「え……?」

「アンタが本当の事を言わなかった理由の中には、最近私の機嫌が悪かったってのが
あるんだろ? まあ……否定はしない。実際、最近仕事のことでちょっとイライラしてたしな」

 彼女は続けて、

「でも、それをアンタたちにぶつけると思ったか? 私が……まどかやタツヤを怒鳴り散らして
ストレスを発散させるような、そんな人間に見えるか?……いや………………………………………
…………………………………………見えたん、だろうな。…………悪かったなまどか。
家の中ではなるべく顔には出さないようにしてたつもりだったんだけど、隠し切れてなかった
みたいだ。………………次からは気をつけるようにするよ」

「…………ママ」

 すると、彼女は何か吹っ切れたような顔になって、

「でも、アンタはそんな事気にする必要はねえんだ。その歳で親の顔色うかがうように
なったら、社会に出た時ストレスで押しつぶされるぞ」

「うん…………ごめんなさい。ママ」

「ああ。だからもっと子供らしく純粋に生きろ。今だけだからな。そういう生き方が
できるのは」

「わかった。もう嘘はつかない。本当にごめんね、ママ」

「うん。わかったならよし! にしても久しぶりだな、まどかが嘘ついたの。私なんて
親に嘘つきまくってたけどな~」

 うりうりー、と少女の頭を乱暴になでる彼女。どうやらなんとか和解したらしい。
一見すると母娘のほほえましい一幕。しかし、端からみていた垣根の心中はおだやかでは
なかった。


「あ、君。ありがとうな携帯拾ってくれて。おかげで買い替えずにすんだよ」

 少女の母親は、まるで初めて彼の存在にきづいたように礼を言った。それに対して
垣根は、

「いえ。それでは僕はこれで」

 相変わらずの柔らかな笑みとともに、ただそれだけ言うと、彼はその場を立ち去ろう
とした。もうこれ以上ここにいる理由はない。
と、

「あ、あの。待ってください!」

 突然背後から声がかけられる。

「あの、ええと…………今日は本当にありがとうございました! よかったら、お名前
だけでも教えていただけませんか……」

 少女の問いに対して、彼は少し逡巡したが、

「………………………………垣根、帝督」

 そう小さく呟くと、今度こそ本当にその場を去って行った。




「垣根帝督さん。かあ……」

 ベッドに横たわりながら、鹿目まどかは大きく手を広げる。

 時刻は午後11時過ぎ。

 夕食を済ませ、お風呂に入り、明日の宿題をしていた彼女だがどうしても集中できなかった。
夕方に会った少年の顔が脳裏にちらつくからだ。

 母に対しては笑みを浮かべていた少年だが、彼女は見逃さなかった。公園を去っていく時、
彼が寂しそうな、悲しそうななんともいえない表情をしていたことを。

「…………なんであんな顔したんだろ」

 理由は分からない。気にしたところで自分には関係ないことだ。それはわかっているのだが
何故か妙に気になる。あの複雑な表情が。

「……うーん」

 もやもやした気持ちを抱えたまま、彼女の夜は過ぎていく。ちなみに宿題はまだ全然
終わっていない。




 同時刻、垣根帝督も同じようにベッドに寝転がっていた。まあ、こちらは病院の
ベッドだが。

 あの後、適当に夕食を取り病院に帰った(窓から)垣根は、今朝起きたときに着ていた
パジャマに着替え、部屋を片付けると、まるで今起きましたといわんばかりにナースセンター
に歩いて行った。その時の看護師の驚いた顔はしばらく忘れそうにない。

 結局、今日はもう遅いので、検査は明日行われることになった。医者と看護師のやり取り
を聞く限り、午前中いっぱいで終わるらしい。

 そうして病室に戻ってきた垣根だが、真っ先に頭に浮かんできたのは学園都市の現状でも
今後の行動指針でもなく、夕暮れの公園で見た母娘のやり取りだった。あの光景を見て、
彼の心の中は妙な気持ちで埋めつくされていた。

「…………………………………………」

 彼には家族がいない。物心ついたときには親戚の家に預けられていて、五歳になった
途端学園都市に入れられた。いや、『捨てられた』というべきか。

「………………親子……か…………」

 今、学園都市では入学費用だけ払って姿をくらます、置き去り[チャイルドエラー]が
問題になっているが、彼もまたその一人だった。

 学園都市には置き去りにされた子供たちを制度があるが、それを逆手に非人道的な
実験を行う連中もいる。『プロデュース』『暗闇の五月計画』。彼はそういった実験の
犠牲になった子供たちを嫌というほど見てきた。その中には施設で仲良くなった同級生
もいる。

 垣根がそうならなかったのは、彼には『才能』があったからだ。


「……………………チッ」

 だから彼は家族の在り方というものを知らない。いや、ずっと『裏』の世界で
生きてきた彼にとって、そもそも愛という感情が理解できないのだ。そんなものは
とっくの昔に忘れてしまった。

 彼が他人に向ける感情なんて、敵意と殺意ぐらいだ。一応『仕事仲間』はいるが
仲間意識など微々たるものだ。いなくなればまた補充すれば済む話なのだから。

 だが、人は自分にないものほど欲しくなる。彼は自分にはない『家族』を持っている
あの少女を、誰かに大切に思ってもらえるあの少女を、実は心のどこかでうらやましい
と思ってしまっていた。

(何を……何を考えてんだ俺は! 俺は『裏』の人間だぞ。そんなものが与えられるはず
ねえだろうが!…………そうだ、俺みたいなクズにそんな暖かいものはいらねえんだ。
一体何を感化されてんだ俺は)

 だが、彼はそれを無理やりに否定する。自分みたいなヤツにそんな感情不要だ。
家族なんて不要だ、邪魔だ。そう思い込むことで。

 彼はまだ気付かない。それが欲求の裏返しだということに。

「…………クソッ。もう寝るか」

 電気を消して、乱暴に毛布をかぶると彼はそのまま目を閉じた。






 ――――――――――10月9日―――――

 学園都市の独立記念日であるその日は、内部に限り祝日となる。

 オープンカフェやブティックが建ち並ぶ第七学区の大通りは、せっかくの休みを
恋人や友達と過ごそうとする人たちで溢れていた。ある者はコーヒーを片手にたわいもない
会話に花を咲かせ、またある者はショーウインドに飾られている新作のコートを
物欲しげに眺め、皆が皆楽しそうな表情を浮かべながら、通りはにぎやかな雰囲気に
包まれていた。

 柵川中学の一年、佐天涙子も例外ではなく、いつもより少しオシャレな恰好をした
彼女は、級友の春上衿衣と共にショッピングに出かけていた。

 親友である初春飾利も誘ってみたのだが、なにか迷子の案内をしているとかで
行けないらしい。

 後でもう一度電話をかけてみるか。そんなことを考えながら、なんとなく春上に
話しかけようとした時だった。

 


「ッ!?」

 ゴン!っと、誰かに殴られたような痛みが突然後頭部に走った。
となりを歩いていた春上がこちらに振り向き、どうしたの? と聞いてくる。

 頭を押さえながら後ろを見ると、手の平ほどの長さの木の枝が、アスファルトに
転がっていた。

(どうしてこんなものが――)

 佐天は腰をかがめると、手を伸ばして枝を拾い上げようとする。と。



 その刹那、前方から烈風が襲いかかった。

「き、きゃあっ!!」

 轟!! と、まるで竜巻を横にしたような暴風が通りに吹き荒れた。
オープンカフェの丸いテーブルが乱暴に倒され、食べかけの大型甘味パフェが潰した
果物みたいに路面に散らばった。それまでの和気あいあいとした笑い声が、一瞬にして
悲鳴に変わる。

 明らかに自然に起きるような風ではない。

 よく見ると、竜巻の前を二つの影が高速で移動している。一人は背中から天使のような
羽を生やした背の高い少年。そして、もう一人は白く濁った髪と、充血しているような
赤く鋭い瞳の少年だ。




 二人は一進一退の攻防を繰り広げていた。並行するように移動しながら互いの能力を
激突させる両者は、時に風力発電のプロペラに飛び移り、時に信号機の側面を蹴飛ばしながら、
恐ろしい速度で街並みを駆け抜けていく。

 だが、その均衡も長くは続かなかった。





 ―――――少年はスクランブル交差点の真ん中に、うつぶせで倒れていた。

 意識が朦朧としている。遠巻きに見つめている野次馬の顔が、蜃気楼のように
ぼんやりと上下に分かれて見える。

 頭のほうで『カチャ』という音がした。今までに飽きるほど聞いてきた、拳銃の安全装置を
外す音。おそらく『アイツ』は、自分の頭に銃口を向けているのだろう。
避けることはできない。身体は、まるでコンクリートに固められたように指一本動かない。
だがなんとかしなければ待つのは『死』のみだ。

(――――――――死、か)

 それもいいかもしれない。少年の心の中で、何故か悟ったような感情が芽生え始めた。

 そうだ。ここで死んでしまおう。どうせ自分は『裏』に浸かりきった、人を[ピーーー]しか
能のない人間のクズだ。

 たとえここで生き残ったとしても、また汚れ仕事をこなすだけの日々が待っているだけだ。

 そんなの生きているといえるだろうか。何の役にもたたない、ただ死体を生みだすだけ
の存在が。これならその辺の牛や豚のほうが百倍ましだ。彼らは自らの死をもって人間に
貢献している。

 だが自分はたとえ死んでも誰の役にもたたない。喜ぶ者もいなければ、悲しむ者いない。


(ハハッ、やべえ鬱になってきた。…………やっぱ深く考えるとキツイよな、こういうのは)

 そうだ。やっぱり死んでしまえばいい。

 幸いここは死ぬにはうってつけの場面ではないか。今まで数えきれないほどの人間を葬ってきた
クズが、汚い地面に倒れたまま、野次馬に囲まれて死ぬ。

(……まるで公開処刑だな)

 実に悪党にふさわしい最期だ。少年はなぜか清々しい気分にさえなってきた。

(親に捨てられ…………周りに見放され…………ククク。何のために生まれてきたん
だろうな……俺)

 もし生まれ変われるなら今度はヒトデにでもなって海底でじっとしていよう。
そんなことを考えながら少年は静かに目を閉じた。



 だが、いつまでたっても銃撃が来ない。

(…………あの野郎、まさか今更になって情けでもかけるつもりじゃ)

 彼の心の中に沸々と嫌な感情がわき始めた。少年は目を開け、相手の顔を睨み
つけようとする。

 しかし、相手はこちらのことなど見ていなかった。銃口はこちらに向いているが、
その鋭い視線は丸腰の警備員[アンチスキル]の一人の女性に突き刺さっていた。

 女性は、どうやら説得しようとしているらしい。余計なお世話だ、と思いつつも
少年は二人が話している内容に耳を傾ける。


「一方通行[アクセラレータ]。お前が善人か悪人かなんて関係ない。お前がどんな世界に浸っているかも
関係ない。重要なのは、そこから連れ戻す事じゃんよ。どれだけ暗い世界にいようが、どれだけ
深い世界にいようが、私は絶対にお前を諦めない。そこから必ずお前を引きずり上げてやる」

 少年の頭が一気に沸騰した。今までびくともしなかった手足に、信じられないほどの
力が入る。ほとんど無意識だった。気がつけば、少年は彼女を攻撃していた。

「……どれだけ暗い世界にいようが、どれだけ深い世界にいようが、必ずそこから
連れ戻す、だと……」

 少年が彼女を狙ったのは、彼女が邪魔だったからではない。少年は最初から
一方通行[アクセラレータ]しか見ていない。彼女の前で『悪』を中断しようとした、
そのわずかなためらい。少年を[ピーーー]理由そのものを取り下げるという行為。それこそが
『邪魔』だったのだ。

 これでは、何のせいで負けたのかも曖昧だ。だからこそ少年は憤る。

「できる訳ねえだろうが。そんな簡単な訳ねえだろうが! これが俺達の世界だ。
これが闇と絶望の広がる果てだ!! さんざん上から偉そうな事言っておきながら、最後の
最後ですがりやがって。これがテメェの語る美学かよ!!」

 支離滅裂な言葉。怒りと悪意が先行し、結果として論理と整合性が失われた言葉の数々が、
ただ衝撃波となって一方通行[アクセラレータ]の体を叩く。

「結局テメェは俺と同じだ。誰も守れやしない。これからもたくさんの人が死ぬ。
俺みてえな人間に殺される。なぁ、そうだろ一方通行[アクセラレータ]!! 今までだって
こんな風に大勢の人間を死なせて来たんだろうが!!」

 のろのろと、少年は血まみれの体を引きずって起き上がる。一方通行[アクセラレータ]に
牙をむくためではない。彼の怒りの矛先は、地面に倒れている警備員[アンチスキル]にしか
向いていない。


 そうだ、コイツが悪いのだ。『表』の人間のくせに、『裏』に干渉しようとしたから。
『裏』の世界のことなど何も知らないのに、勝手にその深さを推し量って、『表』の世界に
連れ戻そうとしたから。

 少年は容赦なく彼女に攻撃を加えていく。一方通行[アクセラレータ]は大声を上げるが、
そんなものほとんど気にしなかった。

 『表』と『裏』は住み分けされるべきだ。『裏』の人間が光を求めてはいけないし、
『表』の人間が興味本位で『裏』を覗こうとするのも許されない。

 『裏』の世界とは少しだけ覗きこんで引き返せるような、そんな甘い場所ではないのだ。
本気で『裏』の世界から引きずり上げるというのなら、まずは自分が二度と『表』に戻れない
のを覚悟した上で、『裏』に浸からなければいけない。
それぐらい困難なことなのだ。

 だが目の前の彼女は、警備員[アンチスキル]という『表』の中の『表』にある組織に
属していながら、一方通行[アクセラレータ]を『裏』から連れ戻すと言った。

 少年はそこが気に食わない。『裏』という世界をよく知っているからこそ。

 だから少年は彼女に攻撃を加え続ける。まるで『裏』の恐ろしさを見せつけるように。




 ふとその時、どこからかブシュ、という音がした。

 刹那、爆音と共に一方通行[アクセラレータ]の背中がはじけ飛んだ。

 ―――――いや違う。背中からどす黒い『何か』が噴射されるように伸びている。
『何か』以外に表現しようのないそれは、あっという間に数十メートルも伸びてアスファルトを
薙ぎ払い、ビルの外壁を削り取った。

 周りを取り囲んでいた警備員[アンチスキル]や野次馬が、悲鳴を上げながら逃げるように
距離をとる。だがそんな中で、少年は一歩も動かずただ薄く薄く笑っていた。

「は」

 確かに一方通行[アクセラレータ]からは凄まじい殺意を感じる。立っているだけなのに
後ろに押されるような気もする。だが少年はそれを『恐ろしい』とは思わなかった。
『勝てない』とは思わなかった。

 コイツは所詮優しさに負けて光に手を伸ばそうとした未熟者だ。そんなヤツに自分が
敗北するとは考えられなかった。確信ではないが、自身があった。





 ――――だが、その幻想は無惨にも打ち砕かれることになる。




(ご……はっ!)

 意味がわからなかった。

(が……ば、ァ!! な、何が、一体何が―――ッ!!)

 一方通行[アクセラレータ]は特にこれといった動作はしていない。ただ手を少し動かしただけだ。
ただそれだけなのに。

(い、一体……何の力で――――ッ!!)

 少年の体はなぜか、先ほどのように地面に縫い付けられていた。

(まさ……か、これは、0930事件の時の―――)

 一方通行[アクセラレータ]はゆっくりゆっくりと少年の下へ歩いてくる。その一歩一歩が
命を刈り取る鎌となる。

 そしてすでに、一方通行[アクセラレータ]は最後の一歩を踏みこんでいた。

「は、は」

「―――yjrp悪qww」

「ちくしょう。……テメェ、そういう事か!! テメェの役割は―――ッ!?」

 最後の最後に少年はこの謎の力の正体を理解する。だがもう遅い。視界が黒く塗りつぶされ、
少年の意識は奥深くに沈んでいった。

 
 今日はここまで。続きは来週になります。

 何か所か原作そのまま載せましたけど大丈夫でしょうか……



「――さん――――――さん――――――――」

「……ん…………んん……」

 どこからか声が聞こえる。遠いような、近いような。方向や質もはっきりせず、
大正時代のラジオみたいにノイズも混じって、音が切れぎれになっている。
いや、途切れそうになっているのは自分の意識か。だがそんなことはどうでもいい。
今はただ奥深くからこみあげてくる睡眠欲に身を委ねるだけだ。

「――――さん――――――さん――」

 そう。今はただ眠気に身を任せて、もう一度レム睡眠とノンレム睡眠の往復へと
戻ろうとした、のだが何故か意識は声に引っ張られるように覚醒へと向かっていく。
しかし睡眠欲も負けていない。今はちょうど現実[リアル]と虚構[ユメ]の真ん中で、
両者が意識[カキネ]を引き合っている状態だ。

 さて、この均衡を破るべく、意識[カキネ]は現実[リアル]さんに背を向け、迷わず
虚構[ユメ]さんのいる方向へ歩き出そうとして、


「玖渚友さんっ!!」


 ――強引に引き戻された。

(夢であって欲しかった……)












  11月6日。時刻は午前8時前。

「いつまで寝てるんですか玖渚さん。他の患者さんは皆起きちゃってますよ」

 目の前にいるのは今年の春まで制服きてました、と言われても不思議ではない
若い看護師。わざわざ起こしにきてくれたようだ。

「ん、ああ悪りいな」

 そう生返事したのは、金と茶の中間ぐらいのやや長めの髪をもった少年。見た目は
新人ホストとヤクザを足して二で割った、といった感じだろうか。

 彼の名前は垣根帝督。学園都市の超能力者で、とある事情によりこの病院に入院している。もっともその事情とやらは彼自身もよく把握できていないのだが。

「玖渚さんなんかすごいうなされてましたよ。嫌な夢でも見てたんですか」

 『玖渚友』というのがどうやら‘この病院での’彼の名前らしい。聞いたこともないな
と彼は思う。まあ偽名に使う名前などどうでもいいが。

「ふーん、うなされてた。って俺が?」

「はい。なんか『……ち、ちくしょう』とか言ってましたよ」

「別に悪い夢を見てるって感じはなかったんだけどな。俺が覚えてんのはアンタに耳元で
叫ばれたことだけだ」

「な、何回も何回も呼んだんですよ! こっちは。でも玖渚さん全然起きる気配がないん
ですから」


「だーからわざわざ起こしに来てもらって悪かったって言ったじゃねえか。なんで
朝からそんなテンション高けえんだよ……」

 だるそうに少年はそう呟いたあと、

「つか俺のメシは? もう皆食ってんだろ。『寝坊した人はご飯抜きです☆』なんて
サービスはいらねえぞ」

「寝坊してもしてなくても玖渚さんは元々朝食抜きですよー。今日は9時から検査が控えてますから」

  ああそうだった、と彼は思い出す。実を言うと、垣根は昨日まで寝たきりになって
いたのだ。それで今日は午前いっぱい精密検査が行われることになっている。
彼女が起こしに来たのも恐らくそのためだろう。

「あ、そうそう。検査の時にはこれに着替えておいてくださいね」

 ホイっと手渡されたそれは、検査の時に使う衣服だった。と言ってもボタンは無く、
バスローブを水色にしたような感じだ。

「はいじゃあ伝えましたからねー。9時に一階の第一診察室、ちゃんと来て
くださいよ」

 適当に言うと若い看護師は病室を出て行った。去り際に、二度寝は禁止ですとか
言っていたような気もするが、

(……ハァ、コーヒーでも飲むか)

 検査の前だがそれくらいならいいだろう。と勝手に判断して、ん、と小さく伸びをすると
彼は財布を持ち、ロビーにある自動販売機を求めて部屋を出ようとした。
 その時、





(??)

 扉に手をかけた彼の背後から、いきなり聞き覚えのあるメロディーが流れだした。
携帯電話が着信を知らせる音だ。

(着信……? まさか――)

 彼は急いで携帯を手に取り、表示されている番号を見る。――間違いない。
昨日電話したのと同じ番号。――ということは――――、



「おはようございます。入院生活はいかがですか」

 ある意味で聞き慣れた声が耳に入ってきた。昨日電話した相手――元グループの
制御役の男だ。

「ああ、おかげ様でな。『病院』に運び込まれるなんぞ何年ぶりか」

 まさか本当にかかって来るとは思わなかった。彼は皮肉を返しつつも、驚きと
嬉しさのあまり自然と顔がにやけてくる。

「んで、もうそっちの方は大丈夫なのかよ」

 だが決して感情を声には出さず、彼は今一度確認する。昨日話した時にはなにか
緊急事態だとかで、中途半端に会話を切り上げられていた。

「ええ、その件でしたら三人の少年によって見事に解決されましたよ」

「……?」

 比較的騒動に慣れているはずの『裏』の人間がパニックを起こす、それほどの
案件をたった三人で対処した少年というのが少し気になったが、


「……ん、まあいい。そんな事よりもオマエに聞きたいことがあるからな」

 今の自分にとってはそこまでの重要事項ではないような気がするので、彼はそれ
について質問を返さない。

「今は時間あるんだろうな」

 それよりも、彼には他にはっきりさせておきたい事があったからだ。

「はい、今は大丈夫ですよ」

「わかった。それじゃあまずは――――」

 彼は少し考え、頭の中で質問の内容と順番を整理してから口を開く。

「昨日、俺が『裏』はまだあんのかって聞いた時に『今は』って答えたことについてだ。
ありゃどういう意味だ」

「ああ、それですか。それについてはですね、……うーん……と」

「? なんだ、言いにくいことなのか」

 何故か言いよどむ相手を、彼は少し不審に思う。

「いえ、そういう訳じゃないんですけど……結論だけなら簡単ですよ。『裏』は
一度解体されたんです」

 これに関しては、彼ははっきりと言い切った。

「解体、された? 『裏』が? 暗部が? なんだ? 一体どういう事だ」


「それの説明が少し面倒くさいんですよね。えーと、何から話しましょうか。
まずは第三次世界大戦の説明からですね」

 第三次世界大戦。10月19日にロシア連邦大統領、ソールジエ=I=クライコニフが
学園都市に宣戦したことで始まり、わずか十二日で終結した戦争。
というのが垣根が昨日ネットカフェで得た情報だ。といっても、ハッキングに失敗して
Googleで調べただけだが。

「ああ、確か学園都市とロシアがドンパチやりあったんだろ」

「おや、ご存じでしたか」

「昨日ネカフェで調べた。つうかこんなもん『学園都市 ニュース』で検索したら
普通に出てきたぞ」

「そうですか。まあその辺を歩いていれば人々の会話から分かりそうですが」

「それ以前に兆候はあったしな。世界のあちこちで学園都市に対するデモが起きたり、
逆にこっちがアビニョンを爆撃したりもしてたな」

「そう言われればそうですが。それより何故ネットカフェなんかに行かれたんです?
もしかして学園都市にハッキングでもかけようと思いました?」

「……、」

「……図星でしたか」

「いいから続けろ。その戦争と、暗部が無くなったのとなんの関係があんだ」

「そうですね。実はその戦争で学園都市はちょっとした危機にさらされたのですが、
それをある能力者が救ってくれまして、対価として学園都市はその能力者の申し出
を聞き入れたわけです」


「ある能力者?」

「はい」

「……誰なんだ、そいつは」

「あなたもよくご存じのはずですよ」

「…………?」

 首をかしげる垣根に、一呼吸おいて相手は答えた。



「学園都市の第一位、一方通行[アクセラレータ]ですよ」



「!?――――ッ」

 彼の脳裏に、嫌な出来事が思い出される。10月9日の、あの事件が。

(そうだ、アイツが――ッ!)

 垣根の体の奥底から怒りがこみ上げてくる。フラッシュバックした記憶そのものが
恨めしく感じるほどに。
が、そこで電話の相手は言った。

「思い出して腹を立てるのは結構ですが、それは後からでもできますよ。説明を
続けてもよろしいですか」

 垣根の心中を見透かすような声はあくまで淡々と、それでいてどこか突き放す
ような冷静さがあった。感情のこもっていない、ビジネスの取り引きで使うような声。


「…………ああ、そうだな。続けてくれ」

 だが、その声につられるように垣根は落ち着きを取り戻す。人の感情というものは
意外に周りに左右されるらしい。冷静な人の中で自分一人興奮していると
馬鹿らしくなるんだとか。

 それを知ってか知らずかは分からないが、垣根を落ち着かせた電話の相手は
話を再開する。

「一方通行[アクセラレータ]の提示した条件。一つは妹達[シスターズ]の解放。そして
もう一つ――それが『裏』の抹消です」

「……、」

 正確には無理矢理汚れ仕事をさせられている『裏』の人間の解放、なのだが、
電話の主には一方通行[アクセラレータ]の一語一句までは伝わっていなかったようだ。

「ふん」

 それを聞いて垣根は鼻で笑った。

「なんだよ、結局アイツは自分の保身に走ったわけか」

 妹達[シスターズ]というのは超能力者[level5]の一人、御坂美琴のクローン体のことだ。
そしてその中には一方通行[アクセラレータ]が気にかけている打ち止め[ラストオーダー]
と呼ばれる少女がいる。
おそらく一方通行[アクセラレータ]は彼女を失う事を恐れてそんな事を言ったのだろう。

 『裏』の解体もそうだ。自分がもう一度『裏』に浸かってしまうのが恐ろしくて、
『表』の世界を手放したくなくて――――。そう垣根は思った。

「保身? かどうかは分かりませんが、一方通行[アクセラレータ]によって一度暗部が
解体されたのは事実です」


「……くっくく……ハハハハハハハハハハッハハ!」

「……垣根帝督?」

 やっぱりアイツは未熟者だ。彼は改めて思う。そしてそんなヤツに倒された自分は
一体なんなのだろうか。考えていると、なんだかおかしくなってきた。

 垣根帝督は笑う。そうでもしないと一方通行[アクセラレータ]への憎悪で我を忘れそうに
なるから。そして笑いながら彼は決意する。

(一方通行[アクセラレータ]。テメェは必ず殺す)と。

「クハハハハ。オーケイオーケイ、そういう事かよ。んで、テメェが電話に出るって
事はすぐに『裏』が再結成されたんだろ?」

「ずっと『裏』の世界で過ごしてきた人は、『表』での生き方を忘れてしまうのですよ。
悲しいものですよね、人を喰い物にするしかできないなんて……。まあ、私もその
中の一人かもしれませんが」

 垣根とは対照的に相手は声のトーンを下げて言った。『裏』に依存しつつも、それを
内心では喜ばしく思っていないようだ。
相手は続けて、

「新たに結成された『裏』は、『新入生』と呼ばれているそうです。彼らは既に
活動を始めていますよ」

 ふーん、と垣根は興味無さそうに答えた。名称などどうでもいい。彼にとっては
『裏』が存在しているという事実だけが重要なのだ。

「あなたはどうされますか?」

 と、ふいに相手は尋ねた。
どうする、というのは学園都市に戻った後どうするのかという意味だろう。
『裏』に戻るのか、それとも――。


「そんなもんは、決まってる」

 それに対して、垣根は即答した。

「でしょうね。そうおっしゃると思いました」

 相手も垣根のニュアンスを読み取ったらしく、すぐに言葉を返す。

「でも覚えておいて下さい。『選択肢』は一つだけではないという事を」

 その言葉は相手が初めて見せた本心だった。上層部からの連絡事項でも、
返答マニュアルでもない、心からの言葉。
もしかしたら、相手は垣根に対してどこか負い目を感じていたのかもしれない。
もう『裏』に戻って欲しくないという思いがあったのかもしれない。
だが、垣根がそれに気づくことはない。

「んなことテメェに言われなくても分かってるっての。上から抗弁垂れてんじゃ
ねえよ」

 言葉の意味をろくに考えもせず、彼はいつもの調子で軽く返した。

「…………そうですか」

 少し悲しそうに呟いた相手の声を、垣根は聞いていなかった。
代わりに彼は、別の質問をぶつける。

「『裏』については分かった。じゃあもう一個だ。俺の身体はなんで傷一つねえんだ?
 まず、どうやって生き残った」

 こちらも垣根が昨日からずっと疑問に思っていたこと。一方通行[アクセラレータ]が
見せたあの謎の力からは、とてつもない殺意と憎悪を感じた。
どう考えても無事に済むはずがない。あれはそんなレベルではなかった。


「今さら隠しても仕方ないので、全部話しますが」

 相手は少し黙ったあと、

「あなたの身体は特殊な処置を施した後、下部組織によって『回収』されました」

「……、」

 『回収』という言葉が少し気に障ったが、垣根は言葉に出さなかった。

「ご想像の通り、身体はバラバラになっていて、もはや人間としての形を保って
いませんでした」

「……だろうな」

「脳は三分割されて別々の容器に入れられ、潰れた臓器を補うために冷蔵庫より大きな
機械を身体に取り付けられる有様です」

「……、」

 普通はこんなグロテスクな話を聞かされれば気持ち悪く思うが、あいにく二人とも『裏』の人間であり、こういった事には耐性がある。

「何故そこまでして生かしておくのかは言うまでもありませんよね」

「『未元物質[ダークマター]』に需要があるからだろ」

 垣根は即答した。そうだ、分かっている。上層部が必要としているのは『垣根帝督』
ではなく自身の能力[チカラ]だという事くらい。
『垣根帝督』など、しょせん『未元物質[ダークマター]』の容器に過ぎないと
いうことくらい。

「……ええ、そのとおりです。あなたの能力[チカラ]は先の大戦でも活用されて
いましたよ」


「……そうかい。そりゃ良かった」

 垣根は自虐的な笑みを浮かべながら言った。相手は続けて、

「でも、ここで問題が発生しました。その大戦で活躍した一方通行[アクセラレータ]
により『裏』は解散。そうなるとあなたの身体をそんな状態のまま放置しておくのは
まずいんですよ」

「……まあ、そうだろうな」

「でも、身体は破損しすぎていて修復もできない」

「……、」

 完全に『物』として扱われている自分の身体に少し嫌気がさす。

「そこで着目したのが妹達[シスターズ]です」

「オイ、まさか……」

 量産型能力者[レディオノイズ]計画というものがあった。超能力者[level5]の量産化を
目的に、国際法で禁じられている人間のクローンを大量生産しようとした実験。
垣根は暗部にいたので、その実験の表面くらいは知っている。

 その実験で生み出されたのが妹達[シスターズ]。先ほども言ったが、超能力者[level5]、
御坂美琴のクローン体だ。
最終的に、量産型能力者[レディオノイズ]計画は頓挫して、彼女たちは『別の実験』に
回されることになるのだが。

 彼が注目したのは妹達[シスターズ]が『クローン』であるということ。
これが垣根の脳裏によぎった考えを裏付けようとする。

 そんな垣根に対し、続く相手の一言がその予測を真実へ変える。






「はい。あなたのご想像のとおり、その身体は10月9日までの『垣根帝督』では
ありません。DNAマップから造られた、クローンです」

「……………………………………………………………………、」

 訝っているわけではない。辻褄は合っている。ただ驚愕やら何やらよく分からない
気持ちが先行して、言葉が出てこないのだ。

「……垣根帝督?」

「え!? あ、あぁ……」

 唖然としている所に名前を呼ばれ、思わず口から情けない声が漏れる。
話を続けてもいいかということだろう。

「我々はあなたのDNAマップからクローンを作成。それを培養機に入れて以前の
あなたの身体年齢と同じくらいまで成長させました。
いやあ、普通なら二週間ほどかかるのを、我々は特殊な培養液を用いることでたった
二日で完成させたんです。これは凄いと思いませんか? まあ、その分妹達[シスターズ]
の時とは予算が桁違いですがね」

 後半トーンを上げ軽口を叩く相手に対して、垣根は『あ、うん、そうだな……』と
歯切れ悪く返しただけだった。
一応話は聞いているが、今彼の中では感情が入り混じり、交錯し、渦を巻いている
状態だ。理屈は分かるが実感が伴っていない。当然、皮肉を返す余裕などない。

 誰だっていきなり『あなたの身体はクローンです』なんて言われても信じられない
に決まっている。それが事実だと分かった所で、すぐに受け入れられる者が一体
何人いるだろうか。


 いくら『裏』の住人とはいえ、超能力者[level5]であるということを除けば、
垣根帝督は一般的に高校生と呼ばれる年齢層の少年でしかない。
一部欠けている感情があるかもしれないが、彼は決してロボットなどではない。
嫌な事があれば塞ぎ込み、ラッキーな事があれば笑みを浮かべる、喜怒哀楽のある
『人間』なのだ。

 そんな『人間』が、自分はほんの少し前に機械で造られたばかりだと言われて、『はい
そうですか』と受け止められるわけが――、

(ん?)

 と、そこで垣根は何かに引っかかった。

(ん? あれ? 今……何かに)

 自分に言い聞かせるように紡いだ言葉。だが、彼はその中に何か違和感のようなもの
を感じ取った。

(なんだ……何がおかしかったんだ……)

 今までショート寸前の回路のように不安定だった感情の波が急速に治まっていく。
代わりに、機能を停止させていた脳が、コンセントを刺されたように信号の伝達を
活性化させる。

(妹達[シスターズ]、量産型能力者[レディオノイズ]計画、クローン、DNAマップ、
三分割された脳、培養機……)

 言葉の一つ一つを頭の中で咀嚼しながら、彼は違和感の正体を暴こうとする。

(クローンはDNAから造られる、素体と全く同じ容姿、血液型、遺伝子を持った
個体……)

 シナプスとシナプスが絡み合い、垣根の思考回路が形成されていく。
彼は考える。ひたすら考える。


(この身体は最近造られた。つまり俺は生まれて間もない……)

 と、

(ん?…………生まれて間もない……?)

 先ほどとは比べものにならないほどの確かな違和感。絶対にここに何か矛盾がある。
そう信じて彼は熟考する。

 黙ったままの垣根を不審に思ったのか、相手は電話越しに呼び掛けるが、今の垣根に
その声は届かない。

 そして――

「――――!?」

 彼はついに違和感の正体を突き止めた。



「……オイ、この身体はDNAマップから造られたクローンなんだよな」

 垣根帝督は静かに言った。

「ええ、そうですよ。やっと口を開いたとおもったら、いきなりどうしました?」

「……、」

 垣根は小さく息を吸い込むと、





「なら、なんで『それ以前』の記憶が残ってんだよ?」




 それは明らかな矛盾点。相手が嘘をついていると思ったのか、垣根の声色には
疑心に交じって少しの苛立ちのようなものが見てとれる。

「クローンってのは容姿は同じでもあくまで別の個体だろうが。記憶までは
共有できねえはずだ」

「あら、お気づきになられましたか。さすがですねー」

「ああ?」

 垣根は低い声で早口に言葉を紡ぐ。対して相手は、まるで良い点数をとった子供を
褒めるような口調で返した。

「学習装置[テスタメント]ってご存知ですか?」

「学習装置[テスタメント]ぉ? あぁなんだっけか。確か電気的な信号を通して、
脳内に技術や知識を入力[インストール]するための装置、だったか……」

 彼は続けて、

「でも、逆に言やそれだけだろうが。いくら知識を入力[インストール]した所で、
記憶が引き継がれるはずねえだろ。現に俺は、ガキの時の事までしっかり覚えてんだぞ」

「ですから、その記憶も入力[インストール]したんですよ。もちろん学習装置[テスタ
メント]そのままではできませんから、改良させていただきましたが。
電気信号に変換するというプロセスは同じですから、不可能ということはないはず
ですよ。思考パターン、自分だけの現実[パーソナルリアリティ]、人格データ。
それらを全て一度データ化して、出来上がった身体に入力[インストール]させていただき
ました」

「……………………………………マジかよ……」

「ええ。ですからあなたは以前の『垣根帝督』と全く変わりません。ただ『入れ物』が
新しくなっただけです」


 これで垣根の身体がクローンだということが決定したわけだが、彼は先ほどみたいに
取り乱すことはなかった。全く実感が湧いてこない。なんだかSF小説を読み聞かされて
いるような気分だ。

「つか、それなら量産型能力者[レディオノイズ]計画成功してんじゃねえのか」

「残念ながらそうもいかないんです。自分だけの現実[パーソナルリアリティ]は複製が
できないみたいで、だから一度脳を別の機械に移し替える必要があるんですね。
つまりコピーではなく、本物を直接データにして入力しなければならないんです」

「じゃあ残った『本体』はもう抜け殻か」

「そういう事です。御坂美琴のクローンが失敗したのもそれが原因だと思われます。
クローンだからといって、自分だけの現実[パーソナルリアリティ]まで同じには
ならないということですね」

「…………なんか、頭痛くなりそうだ」

「そりゃ、いきなりこんな話をされて信じろってほうが無理です。普通の人なら、
発狂して走り回ってもおかしくないレベルですよ」

「……、」

 彼は初めて、学園都市の科学技術を恐ろしいと思った。今まで自分はとんでもない所
に身を預けていたんだと、改めて実感させられる。

「でも、あなたの場合は自分だけの現実[パーソナルリアリティ]を直接移し替えて
いるので能力使用に問題はありません。何なら今そこで暴れてみますか?」

「テメェらがきちんと『後始末』してくれんならな。つか昨日ちょっとだけ使ってみたんだよ。
まぁ、ほんとにちょっとだけど」


「あなたにしてはえらく慎重的ですね。なにか身体に細工でもされてると思いましたか」

「……、」

 なんなのだろうかコイツの読みの鋭さは。垣根は本当にそう思う。

「先ほども言いましたが、『裏』は一度解体されたんです。なので今のあなたは
『裏』とは全く無関係です。心配しなくてもそんな事はしていませんよ。
発信機[ナノデバイス]は注射しましたが、これは『外』に出るときの決まり
ですから。我々は関与していません」

「本当だろうな」

「本当ですよ。間違っても変な行動をとった瞬間ドカーン! なんてオチは
ありませんので安心してください」

「……、」

 いまいち信用できないが、チェックする機材がない以上相手の言うことを
信じるしかない。無理矢理学園都市に戻っても、以前の設備がそのまま残って
いるとは限らないのだ。そうなれば、大パニックを起こした挙句、『新入生』との
追いかけっこが始まる。

「他に何か質問はありますか」

 垣根は少し考え、

「いや、いい。大体の事は分かったからな」

 これ以上聞いても、自分が混乱するだけだと彼は思う。分からない事があれば、
学園都市に戻ってから自分で調べればいい。


「そうですか。もし分からないことがあればいつでも聞いてください。寂しくなった
から電話した、でもいいですよ」

「そうだな。もし寂しくなったら野良犬にでも話しかけるよ」

 ふふ、それでは。と相手は電話を切りかけて、

「ああそうです。一つ言い忘れていたことがありました」

「? なんだ」

「余計なお世話かもしれませんが、たまには『裏』とかそんなものは忘れて、
気ままに過ごしてみてはいかがですか」

「………………オマエ、大丈夫か?」

 今まで『上』からの命令を機械的に伝えるだけだった相手が、急に日常生活を
満喫したらどうかと言いだした。
予想もしなかった言葉に、垣根は少したじろぐ。

「ちょっと言ってみただけですよ。そういう手段もあるということです」

 それでは、とだけ言って今度こそ相手は電話を切った。

「……、何だあいつ」

 わずかな期間とはいえ、一度『闇』から抜けたことで心境の変化があったのだろうか。

「訳わかんねえ事言いやがって」

 いずれにしてもくだらないと思う。第一、気ままに過ごせと言われても知り合いも
いないこの土地で何をしろというのか。


「とりあえず生活用品を買わなきゃな。検査が終わったらデパートにでも行ってみっか」

 学生服とパジャマ以外、彼は衣服を持っていない。一か月間過ごすとなると
それ以外にも要るものはたくさんある。銀行に行って金も下ろさなければならない。

 大方の行動指針を決めると、彼は検査服に着替え一階の第一診察室へと向かっていった。
携帯のデジタル時計は8時50分を表示している。結局、コーヒーは飲みそびれてしまった。







 11月6日は土曜日。鹿目まどかは駅前の大型ショッピングモールの中にいた。

「……、」

 時刻は午後12時過ぎといったところ。外の快晴な天気とは裏腹に彼女の心の中は
陰鬱な気分に支配されていた。なぜなら、

「うう……、暇だ~~……」

 そう、暇だからだ。

 まどかはほんの数十分前まで友人の志筑仁美と一緒にいたのだが、突然かかってきた携
帯に出たと思うと、『こちらから誘っておいて申し訳ないのですが、急用ができましたので
今日はこれで失礼いたしますわ』といつものように丁寧すぎる口調で言って、
そのまま帰ってしまった。

 久しぶりの仁美とのショッピングにはずんでいたまどかのテンションは、ジェット
コースターの如く急降下していった。

 そんな訳で、現在彼女はだだっ広いモールの中を一人でぶらぶらしていた。


「パパはタツヤと一緒に病院に行ってるし、家に帰っても一人かぁ……」

 タツヤというのはまどかの弟の名前で、昨晩急に熱が出たため今日は父に
連れられて病院にいっていた。
母・絢子もついていくと言ったが、仕事の関係で出向かなければいけなかったらしく、
そこは父が説得して仕事を優先してもらった。土曜なのに本当によく働くと思う。

 こうして、家族みなそれぞれに用事ができ、家は夜まで無人になるはずだった。

「どうしようかなぁ」

 という呟きは白紙になった予定と、まだ済ませていない昼ご飯に関するもの。

 外で一人で食べるのは恥ずかしいし、かといって買って家で食べるのも寂しい。
というより家に帰ってしまえば、昼食の後することがなくなる。せっかくの休日を
一人ぼっちでごろごろして過ごすしかなくなる。

 企業勤めの中年サラリーマンならそれもありだろうが、まどかはまだ中学生だ。
それにせっかくショッピングモールまで来たのだから、やっぱり買い物を楽しみたい
と思う。一人だけど。

 そんな事を考えながら、まどかはふと横に目をやった。

 そこは全国チェーンのおもちゃ屋の一角で、俗にゲームコーナーと呼ばれる場所だった。
――正確にはゲームソフトコーナーか。

 細長い三角形の棚が奥に向かって置かれており、その斜面には新品から中古まで大量の
ソフトが並べられている。
一口にゲームソフトといっても対応するハードがそれぞれ違うので、棚ごとに分類し、
入り口から見えるように棚の側面にはゲーム機の名前が書いたシールが貼ってある。

 その中の一つのコーナーでまどかは目を止めた。


 彼女が見ているのは、携帯型ゲーム機・PSPのソフトが置いてあるブース。
PSP自体は彼女も持っている。だが別に目を引くような商品を見つけたわけではない。
そもそも、彼女はゲームソフトを見ていたのではなかった。

 彼女の目線の先にあるのは、一つの背中。

 顔は見えないが、その金と茶の中間くらいの髪と、上下の学生服には見覚えがあった。









 同じく垣根帝督も駅前のショッピングモールを歩いていた。こちらはもとより一人だ。

 普通なら丸一日かかる検査も、学園都市の先端技術の恩恵を受けるこの都市では、
わずか二時間少しで終了した。

「ほんとこういう時は便利なんだけどな――学園都市の技術力も」

 科学の特徴は、それ自体は意思を持たないことだと彼は考える。
洗練された科学技術は日々の生活に利便性と潤いをもたらす。だが使い方を間違えれば、
無駄な脅威も生み出してしまう。

 戦争などその典型だ。

 古代の戦争の主役は弓や剣だった。このような武器ではよほど急所でもつかない限り、
相手を一撃で倒すことはできない。
戦いは長引き、結果、数が多いほうが勝つというのがセオリーになっていった。


 中世に入り銃火器が発明されると、徐々に弓が廃れ戦争の仕方が変わっていく。
少人数でも行動できるようになり、数より装備が重視されるようになった。

 戦車や戦闘機が登場すると、一人の操縦士が大勢の人間を薙ぎ払った。

 核爆弾は一発で街を灰塵に変え、十万の人間を焼き尽くした。

 科学は人間の意思によって発展してきたが、それ自体は意思を持たない。
こめかみに銃口をあてて引き金を引けば、例え大統領であろうが二歳の子供であろうが、
鉛玉は容赦なく射出されてその頭部を打ち砕くのだ。

 だから、科学が人間に幸福をもたらすか破滅をもたらすかはそれを使う側に左右される。
今回垣根を救った科学技術も、別の所では人殺しに使われているかもしれない。

『あの実験』のように。

「こんな風に考えるってことは、もしかしたらまだ残ってんのか――善意が」

 そうだとしたら笑える話だ。と吐き捨てて、彼は吹き抜けのアーケードを歩いて行く。
その左右にはオシャレなブティックや高級時計店などが並んでいる。

 元々、複数のデパートが合併してできた経緯のあるこのモールは、都市部に位置する
にしてはかなり広大な敷地面積を持つ。
真上から見ると、東西に広くのびており、その一階の中央を店が立ち並ぶメインの
通りが貫いていて、そこから枝分かれするように出入り口への細い通路が伸びている。
二階より上は吹き抜けになっていて、垣根のいる一階からは半円状のプラネタリウムの
ような天井部分が見える。

 一階および二階は、主にファッションのフロアだ。100近い店舗の中から垣根は
適当な店に入り、適当なブランドの服を購入していく。

 金の心配はしていない。ここに来る途中で銀行に寄って渡されたカードを使って
下ろしてきた。電話の相手は確か一か月分と言っていたが、口座の中にはサラリーマン
の平均年収くらいの金が入っていた。


「一か月分……ねえ」

 自分もそうだが、高位能力者や研究者連中は金銭感覚が一般とずれ過ぎていると思う。同じ超能力者[level5]の中には、プライベートプールを何か月も借りっぱなしに
しているヤツもいるらしい。いつまでも学園都市の中にいられる訳ではないし、
こんなのでいいのだろうかと少し心配になる。





衣類を一通り買いそろえると、彼は三階の生活用品のコーナーへ向かった。
歯ブラシ、筆記用具、カミソリ、整髪料などを手当たりしだいカゴに入れていく。
垣根は退院した後はそこらのホテルで過ごす気でいるので、そこまで
大した量にはならない。旅行カバンを買って、購入したものを詰めてみると
優に半分以上隙間ができた。

「スッカスカじゃねえか。なんか他に入れるモンねえかな」

 他に買い忘れたものはないかと、垣根はふらりと周りを見渡してみる。
すると、

「ん?」

 彼の目に入ったのはおもちゃ屋の入り口においてある新作ゲームの看板。
それを見て、彼は昨日のネットカフェでの事を思い出した。

「あれ……なんてヤツだっけ」

 ふらふらと導かれるように彼はゲームコーナーへと入っていく。タイトルが
分からなかったので店員に、『あの、なんか色んな武器でモンスターをズバズバ狩る
ゲームとかってない?』と少し恥ずかしくなりながら聞いたら『? モ●スター
ハンターの事ですか?』と即答された。
聞けばかなり有名なソフトらしく、店員もハマっているということだった。
『外』のゲーム業界も色々進歩してるんだなあと彼は思う。


 そのモ●スターハンターとやらはシリーズ化されていて、いくつかのハードで
出されているらしい。ゲーム機なんて持っていないと伝えると、『ではこれを機にPSPを購
入されてはいかがですか? かさばらないですし、モ●ハンも何種類か出ていますよ』と
言われた。
PSPのモ●ハンでは2ndGと3rdというシリーズが双璧らしく、店員いわく、やりこみ度なら2ndG。グラフィックやシステムの目新しさなら3rdという事だった。

「……どっちにすっかな」

 PSP用ソフトのブースで、垣根は両方を手にとってじまじまと見比べてみる。
なんとなく入っただけなのに、店員に言われるがままにPSPを買い。いつのまにか
モ●ハンを買う事も決定してしまったが、彼はあまり深く考えていないらしい。


「垣根さん?」


 と、後ろから急に声をかけられた。

「ッ!?」

 暗部の習慣なのか、瞬間的に反応し、声の方から一歩距離をとって振り向く。
と、

「ん? あれ?」

 だが、そこにいたのは銃火器を構えた敵ではなく、小柄な少女だった。

「ご、ごめんなさい。驚かせる気はなかったんですけど」

 明るい色の髪をサイドで束ねたその少女は、昨日公園で会った、その彼女だった。
垣根がいきなり臨戦体勢をとったので、少女も少し驚いたようで、わずかに体を後ろへ
のけ反らせている。
もっとも、垣根の両手にはゲームソフトが構えられているせいかどう見てもギャグにしか
思えないのだが。


 垣根もそれに気づき、バツが悪そうに顔をそむけると、

「いや、別にそこまで驚いてねえよ。――えーと、なんだっけ。哀川潤さんだっけ」

「か‘鹿目まどか’です! わたしは人類最強じゃありません」

 少し声のトーンを上げて返してきた。自分だけ名前を覚えられていなかったことが
気に障ったのだろうか。

「ああ悪りい悪りい。確かそんなんだったな」

 興味なさそうに垣根は言った。『確かそんなんって……』と少女が呟いた気がするが、
垣根に悪びれた様子はない。

「んで、俺に何の用だよ」

 横柄な物言いにまどかは少しムッとしたが、決して顔には出さず、

「あの、昨日は本当にありがとうございました。あと……」

 そこで、少しまどかは言いよどみ、

「すいません。あの……あんなとこ、見せちゃって」

「あん? なんのこと?」

 一体何を言っているのだろうか。と垣根は少し考えて、

「ああ、もしかして……オマエと母親とのやり取りのこと?」

 まさかな、と笑いながら垣根は言う。だがちらりとまどかの顔を見てみると、
わずかに頬が赤くなっている……どうやら図星らしい。


「えと、本当にお恥ずかしい所を……み、お見せいたしまして――」

「ああいいからいいから。つか別に無理に敬語使わなくてもいいよ。そんなに年も
離れてねえだろうしよ。そもそもそんなこと俺に謝る必要なんかねえだろ。
あの茶番に俺関与してねえし」

 まどかの声を遮り、どうでもいいといった様子で喋る垣根。空気が重くなるのを
避けるためにわざと軽い口調にしたのだろうが、元々あれは垣根の余計な一言が
発端だということに罪悪感は抱いていないようだ。
そもそも、今垣根は他人の母娘のやり取りを『茶番』と言ったわけだが。

「あ、はい、そう……ですか」

 そこにはツッコミを入れず、拍子ぬけしたように言葉を漏らすまどか。
もしかしたら『茶番』の意味を知らないのかもしれない。

 垣根は目線をまどかから手元のゲームソフトに戻すと、そんなことよりさあ。
と前置きして、

「オマエ、休日に一人でショッピングかよ。寂しいヤツだな」

 3rdのパッケージの裏をジマジマと見つめながら、垣根は相変わらず軽い調子で言った。
思ったことを何も考えずに口に出したといった感じで、別に悪意はないのだろうが。
そもそもまどかの方を見ていないことから、彼女自体に興味がないのだろう。
おそらく、今まどかがそっと立ち去ったら気付かないんじゃないだろうか。

「な、か、垣根さんだって一人じゃないですか。友達いないんですか」

 ムッと、少し怒ったような感じでまどかは言い返す。それが自分の方を見ていないことに対するものか、余計な事を言われたことに対してかは分からないが、

「あん? 俺は旅行みたいなモンだから仕方ねえの。今日だって、別に買い物を
楽しみに来たわけじゃねえよ。色々と要るものがあるから買いに来ただけだ」


 あくまで軽く、メンドくさげに垣根は言った。

 見ると、確かに彼の横には小さな車輪のついた旅行カバンが置かれていたが、

「ゲームソフト眺めながらそんなこと言われても」

 えー、と少しイタズラっぽく目を細めて言うまどかに、垣根はなんだよ、と言い返して、

「これはついでだよ。ついで。なんとなーく目についたから入っただけだっつの」

 ついで。と二回繰り返したあたり、垣根も少しムキになってきたらしい。
『俺って今までゲームとかしたことなかったからよお。まあ一回どんな感じかと
思って入ってみたんだわ』と聞いてもいないのに語り始めた。

 自分がゲーム好きだと思われたくないのか、それとも一人で買い物に来てる
理由はともかく、友達がいないことは合っているのが悔しかったのか。

「そうですか」

 と、それだけまどかは小さく言う。彼女にも、垣根がムキになっていることが分かった
らしい。逆に垣根からすれば、自分はさんざん喋ったのに急に大人の対応をされたことが
頭にくる。しかも年下の女の子に。

「ああん!? テメェ信じてねえだろ。じゃあテメェはどうなんだよ。なんで休日に一人でこんなとこブラブラしてるんですか~~?」

 内心アホらしいと思いつつも、垣根は言葉を返さずにはいられない。無視すれば
いいだけなのだが、彼の負けず嫌いな性格がそれを許さないのだろう。

「わ、わたしはさっきまで友達と一緒にいたんですよ。でもなんか用事ができたみたいで、
急に帰っちゃって……」


「そんなテンプレみたいな言い訳、俺が信じるとでも思ってんのかあ? いいかげん
認めろよ。わたしは友達のいないぼっち野郎です。って」

 ギャハハハ、と意地悪そうに笑う垣根。年下の女の子相手にムキになっている姿は、
傍から見れば情けない以外の何物でもないのだが、垣根はそれに気づかない。

 しょぼーんとしているまどかに、完全に言い負かした気で笑っている垣根。
通りががった小学生が、まるで不審者を見るような目つきで去っていった。







(……………………………………………………………………………………………………………………………………、何やってんだ俺…………)

 数分後。我に返った垣根は激しい自己嫌悪に襲われた。
本当に何やってるんだと思う。仮にも暗部組織の元リーダーが、『外』で女の子と口論など、
『仲間』が知ったら失笑されるだろう。

(気まずい…………)

 まどかの方を見ると、顔を下に向けたまま泣きそうになっていた。さっきまで営業
スマイル全開でモ●ハンを語っていた店員が、腫れものを触るようにこっちをちらちら
見てくる。

(チッ――)

 普段ならこのまま立ち去るところだが、なぜかそれは憚られた。

「オイ。鹿目まどか、だったか」

 垣根は下からまどかの顔を覗き込みながら言った。
名前を呼ばれたのと、垣根の顔が急に視界に入ってきたので、わっ、と間抜けな声を
上げて後ろに下がる。




「ええと、なんか…………悪かったな」

 垣根はそれしか言わなかった。謝るのにこれはどうかと思う。とは言っても普段の垣根
を知っている者からすれば、彼が謝ったということが驚きなのだが。

「い、いえ。あの、わたしの方こそすいませんでした。その……友達いないとか
根拠もないこと言っちゃって」

 グサリ、と垣根の心に見えない矢が突き刺さる。事実を指摘されるのはキツイが、
謝られるのはもっとキツイ。
垣根は思わず『オイやめろ』と言いたくなったが、

「……、いや……気にしてねえよ」

 力の抜けた声で虚勢を張ってみた。彼のせめてものプライドだ。

 垣根は一度ハァとため息をつくと、

「もうこの話はなしにしようぜ。もういいだろ。お互い禍根を残したってしょうが
ねえしな」

 垣根は吹っ切れたように言って、

「んで、もう用は済んだんだろ。じゃあな。お互い一人ショッピングを楽しもうぜ」

 自虐的な言葉と共に、垣根は右手を左右に振る。
だが、

「……、何だよ。まだ何かあんのか?」

 まどかはその場で垣根の方をじっと見つめている。いや、正確には垣根の
両手を見つめている。


「それ――――――」

 彼女の小さな唇が動く。

「あん?」

「モ●ハン……買うんですか」



「は?」



 思いもよらない言葉に、垣根から変な声が出る。

「ん、ああ……、そうだけど……」

 何でそんなこと聞くんだ? と思いつつ彼は適当に返事をする。
まどかはふーん、と何かを考えるような仕草をして、

「二つ持ってますけど、どっちを買うんですか」

「? いや、まだ決めてねえけど……それが何か?」

 なんなのだろうか、と垣根は少し不審に思いつつ

「なに? オマエのオススメでも教えてくれんの?」

 垣根の質問に対し、まどかはそうですね、と言った後、

「わたし的には3rdの方が……、いや、2ndGの方がいいです。そうです。クエスト
も多いし、G級もあるし――」


「??」

「はい! 絶対2ndGの方がいいです。そっちにしましょう」

「……、」

 急に少女のテンションが上がった。一体何の根拠があってそんなこと言ってるんだ? 
と垣根は思ったが、

「んー、じゃあこっちにするか。まあ所詮は暇つぶしだしな」

 3rdを棚に戻すと、PSPと2ndGのソフトを持ってレジに向かっていった。









「なあ、なんでついてくんの?」

 カラカラとスーツケースを引っ張りながら、垣根は迷子のように後ろを歩く
少女に尋ねる。

 おもちゃ屋を出て今度こそじゃあな、と言って別れたはずなのだが、その後
も少女は垣根の後にくっついて来ていた。

「なあ、マジで何なんだよ」

 垣根は立ち止まって少女の方を振り向くと、もう一度尋ねる。
少し凄みのきいた声に、少女こと鹿目まどかは一瞬ビクッとしたが、


「ええと、垣根さんさっきモ●ハン2ndG買ったじゃないですか……」

「それが?」

「じ、実はわたしも持ってるんですよ。おんなじの……」

 えへへ、と愛想笑いを浮かべながらまどかはポーチからPSPを取り出した。
中には確かに2ndGのUMDが入っていた。

「……、なに、いつも持ち歩いてんの。コレ……」

「え、いや、別にゲーマーってわけじゃないですよ。ただ、少しハマっているだけで」

「どれくらい?」

「えーと、夜中になんとなく始めて気づいたら朝になってたくらい、かな」

 ニコッと笑って言うまどかに、そりゃ末期だろ、と垣根は冷静に言い放つ。

「んで、それとオマエがついて来てんのと何の関係があんだよ」

「も、モ●ハンって一人でやってもつまらないじゃないですか」

「俺は何でついてくんだって聞いたんだけど………………………………、まあ確かに
一人でやるよりかは協力プレイの方がおもしれえだろうな。昨日ネカフェでやった時は
パーティ組んだヤツがクソだったからムカついたけどな」

「あ、フロンティアですよね。わたしもやってます」

 やっぱお前ゲーマーだろ。と垣根は心の中で思いつつ、

「んで、それがどうしたって?」


「だ、だから一人でやるより協力したほうが面白いんですよ」

 垣根は言葉の意味を少し考えた後、

「なあ、まさかオマエ『一緒にモ●ハンやりましょうよ!』とか言う気じゃねえ
だろうな」

「え、と、駄目……ですか?」

「駄目とか以前に何で昨日会ったばっかのヤツとそんなことしなくちゃならねえんだよ。
友達とやってろよ、そんなモン」

「だって……周りでモ●ハンやってる人がいないんですよ」

「フロンティアやってりゃいいじゃねえか」

「わたしは2ndGで協力プレイがしたいんです」

「知らねえよそんなモン。何だよその無駄なこだわりは。てかオマエ昨日会った時は
あんなにオドオドしてたくせに、何でゲームの話になるとそんな食いついてくんだよ!」

「ゲ、ゲームじゃなくてモ●ハンですよ」

「うるせえボケ。モ●ハンだってゲームじゃねえか! てかテメェが2ndG勧めたの
このためだな。ふざけやがって! テメェの暇つぶしになんぞ付き合ってられるか」

 思わず垣根も声を張り上げるが、まどかは全く動じていないようで、『とりあえず
一回やりましょうよ。一回だけ』としつこく言い続けている。

 その後もしばらくこんなやり取りが続いた。カプコンの社員が聞いたら感激しそうな
熱意にさすがの垣根も諦めたのか、


「分かったよ! やりゃあいいんだろうが。ちょっとだけだぞ。こっちも暇
じゃねえんだ」

 さっき暇つぶしって言ったのと矛盾しているが、まどかはそんな細かいことは
気にしない。というかそもそも気づかない。

(てかなんでコイツはこんなに俺に食いついてくんだよ。適当な友達にモ●ハン
持たせりゃ済む話じゃねえか。メンドくせえ)

 何だか小さな子供をあやしている気分だ。そんなことを思いながら、垣根は
ぐったりした様子で携帯を取り出して時間を見る。

 午後一時前。おそらくモール内のレストランはどこも満席だろう。

「……オマエ、もう飯は食ったのか」

 だるそうに垣根は尋ねる。

「いえ。まだです、けど……」

 都合よくおどおどキャラに戻りやがったな。と垣根は面倒臭く思いつつも適当に
声を出す。

「んじゃ飯食いながらやろうぜ。まあこんな時間じゃどこもいっぱいだろうから、
フードコートとかでいいよな」

 垣根は興味なさげに言うと、スーツケースを引っ張ってさっさと歩き始めた。
後ろでまどかが『え、ごはん……食べるんですか、一緒に? ……まだ会って二回目
なのに』とか呟いていたが、彼は聞こえないふりをした。

 今更何を恥ずかしがっているんだと思う。さっきまでガンガン絡んできておきながら。

(ほんとメンドくせえ……。学園都市第二位が何だよ、このザマは)

 心の中で悪態をついてみる。普段ならこの時点で少女の全身を粉々にしてその辺に
捨てておこうと考える垣根だが、何故かまどかにそれをするのは躊躇された。


(『気ままに過ごしてみたら』、ねえ……)

 ふと電話の男の言葉を思い出す。それはこういう状況にも当てはまるんだろうか、
とぼんやり考えながら垣根帝督は軽いスーツケースを引っ張って歩いていく。

 二人の間に会話はないが、不思議と気まずい雰囲気にはなっていない。
周りから見れば、それは恋人同士というよりも、不釣り合いな兄妹といった感じだ。

「ほんと何やってんだよ……俺」

 ぽつりと漏らした言葉。それに今の垣根帝督の全ての気持ちが集約されていた。

 今日はここまで。遅くなってすいませんでした。
今週中にもう一回くらいは更新するつもりです。






「あの……何かすいません。ごはんまでおごってもらっちゃって……」

「んー? 別に気にすることはねえよ。金ならクソほどあるしな」

 垣根帝督と鹿目まどかはさっきのフロアから一階上って、四階のフードコートの一席に
座っていた。
 昼時ということもあり、席の八割以上が埋まっている。土曜日のモール内は家族連れや
カップルも多く、奥にある飲食店街には垣根の予想通り、昼食にありつこうとする人たち
が列を作っている。人気店だと一時間近く待たされる所もあるらしく、流石は見滝原市最
大の商業施設といったところか。

「あるって言ったって、垣根さんも学生なのに……、や、やっぱり自分の分は払います!
そんなに迷惑ばっかりかけられませんよ」

 言って、まどかは自分のポーチから財布を取り出した。垣根は右手でとんこつラーメン
をすすりながら、左手でそれを制して、

「だからいいって。オマエ、俺をそこらの坊っちゃん連中と一緒にするなよ。ほら見てみ
ろ」

 パッと財布を広げて、中身をまどかに見せつける。

「うわあ……」

 思わず声がもれる。詳しくは分からないが、諭吉が軽く二十枚以上は入っているだろう。
どこかの企業の御曹司か何かだろうか、とまどかは思う。でもそれにしてはチンピラみた
いな格好してるし、なにより雰囲気に全然優雅さとかそういったものがない。すごく失礼
だけど。
 この金は元々垣根のものではないのだが、まどかはそんなこと知る由もない。

「すごい……、パパやママの財布にもこんなに入ってないのに……」

 だろ? と垣根は少し得意げに言って、


「だから、これくらい何ともねえんだよ。じゃんじゃん使っちまえばいいんだよ、こんな
もんは」

 どうせゴミになるしな、と言いかけて止めた。余計な事を言って、自分の素性をばらす
わけにはいかないのだ。
 学園都市は流通する金札すべてにICチップを付けているため、基本的に『外』からお
金を持ち込むことは禁止されている。加えてこの金は『裏』の連中が用意したものだ。お
およそ綺麗なものではないに違いない。
 垣根がまどかにおごるのも、別に彼が優しい性格だからという訳ではない。単純に自分
の金じゃないからというだけの事だ。
 残った金は暗部に回収されるか、もしくは捨てられるか……そんなことになるくらいな
らいっそ使える時に使ってしまったほうがいいだろう。

 食事が終わると、垣根はさっき買ったばかりのPSPを取り出しながら、

「んで、やるんだろ? さっさと始めようぜ。ぱぱっとやってぱぱっと帰るぞ」

「あ、はい。じゃあ始めましょうか」

 言って、まどかもポーチからPSPを取り出し電源を入れる。垣根は説明書を全く読んで
いないが、フロンティアの方をやった事があるらしいのでたぶん大丈夫だろう。

「で、通信ってどうやんの? ケータイみたいにアドレス交換すんの?」

「……、」

 やっぱり説明書読んでもらったほうがいいかもしれない。PSP本体の方の。








 同じ時間、同じ場所をまた別の少女は歩いていた。

 ショートカットの髪や服装から、どちらかというとボーイッシュな印象を与える少女は、
ガラス張りのとあるテナントの前で立ち止まった。

 音楽CDやDVDを扱う、某有名チェーン店だ。

 万引き防止用のセンサーが取り付けられた入り口の横には、海外の女性ロック歌手が髪
を乱しながら豪快に歌っている、DVD宣伝用のポスターが貼り付けられている。
 が、少女はそのポスターには目を向けず、そのさらに横に申し訳程度にセロテープで貼
られている『新作・クラシック全集入荷』の文字を興味深そうに眺める。
 しばらくして、ふうん、と納得したような顔をすると少女は店内に入った。

 白を基調とした、ショッピングモール内のテナントにしては広い作り。
 店内はまずCDのブースとDVDのブースに分かれていて、そこからさらにCDであれ
ばJ-POP、演歌、アニメドラマソング、洋楽といった感じでそれぞれのジャンルごと
に分類されている。
 入り口正面の柱には店内売り場の案内図が飾られているが、少女はそれに見向きもせず
にCDのブースへとスタスタ歩いていく。
 もう何度も何度も来ていて、場所を把握しているのかもしれない。

 レジであくびを噛み殺している店員を尻目に、少女が一直線に向かったのはクラシック
音楽のブースだった。
 J-POPなどに比べると扱いは小さいが、それでも五段の棚を丸一つ占めている。
 少女は棚の前で腰をかがめると、一番下の段、新譜CDの列を右から左に目線を移動さ
せていく。

(あれー? ないなあ。ポスター貼ってあったのに……)

 左端まで全て見終えると、少女はんん? と不思議そうな顔をした。
 肝心のモノが見つからなかったらしく、確認のため、少女はもう一度CDの列をさっき
よりもゆっくりと見ていく。


「……、」

 ない。やっぱりない。今度は見落としていないはずだ。
 売り切れたのかなあ珍しい、と首をかしげて呟いていると、それを見ていた若い女性の
店員がやって来て、少女に話しかけた。

「こんにちは。今日はどうしたんですか? 何かを探しているみたいですけど」

 気軽な口調や『こんにちは』と言ったことから、少女がこの店の常連客というのは間違
っていなかったようだ。

「店の前に貼ってある新作クラシックのことなんですけど」

「あ、すみません……あれには『入荷』って書いてあるんですけど、販売は明日からなん
です」

 『ああ……そうですか』と言って、シュンと少女の瞳から期待の色が消える。
 店頭に並んでないだけで在庫があるならそれでいいが……いや、在庫があっても発売日
が明日というのならどうしようもない。

 少女は店員に『分かりました。ありがとうございます』と礼を言い、諦めて別のCDを
探そうとする。

「……、」

 店員は少しの間その光景を見ていた。
 すると、うーんと急に何かを考え始めたかと思うと『いいかな』と小さく呟いてどこか
へ走り去ってしまった。

 店員はすぐに戻ってきた。
 手に新譜のクラシックCDを持って。




「え!?」

 予想外の展開に驚いたのは少女の方だ。これは明日まで販売してはいけないはず。
 だけど、

「お客様にはここをご贔屓にしてもらってますので。バイトの子はみんな知ってますよ。
いつもクラシックCDを買いに来る女の子って」

「は、はあ……、」

「だから今回は特別です。どうぞ」

 そう言って、女性店員はスマイルを浮かべながら少女にCDを手渡す。
 受け取った方の少女は少し戸惑ったような表情で、

「あの……ほんとにいいんですか? こんなこと……」

「心配しなくても大丈夫ですよ。店長に許可はとりましたし。会社によって発売日厳守っ
て所もあれば、そんなに気にしないって所もあるんです。これは書店とかでもそうらしい
ですね。クラシック関係はそこまでって感じですので、少しなら気にする事はありません
よ」

 よく分からないがそういう事らしい。店員への感謝の気持ちと、何か悪いことをしてい
るような気持ちを半分ずつ抱えたまま、少女はCDを購入して店を出た。

 でも、よく考えたらこれは凄いことなのではないか?
 少女は歩きながらふと思う。
 本来ならこのCDは明日発売されるものだ。でも、自分は今それを手にしている。
 クラシックCDなんて元々それほどの売り上げを記録するものではないし、もしかした
ら現在これを私有しているのは自分一人だけかもしれない。

「……、」


 なんだか気分が高揚してきた。『俺店員と友達だから一日早く手に入るぜー』と自慢す
るバカの気持ちも今なら分かる気がする。

 誰かに自慢したい。

 実を言うと、このCDは少女が自分で聴くために買ったものではない。とある事情で入
院している、クラシック好き(だと思う)の幼なじみにあげるためのものだ。
 明日発売のCDを手渡されたら、相手は一体どんな反応をしてくれるだろうか。

「……、」

 喉の奥がゴクリと音を立てた気がした。
 足の動きが自然と速まる。一刻も早く反応がみたい。喜んでもらいたい。
 心臓の高まりに共鳴するように、足の動きはさらに加速する。
 早歩きというよりはむしろ走るといった動作に近くなる。
 周りの人々が不可解な目線を向けるが、少女はそんなものに見向きもしない。昼食を食
べていない事すら忘れて、下りのエスカレーターに差し掛かった時だった。

「ん?」

 見えない壁にでもぶち当たったように、少女が突然足を止めた。

 四階と三階を繋ぐエスカレーターの一歩手前。今まさに動く手すりに手を置こうとして
いる状態で、一時停止したDVDみたいに少女が不自然に固まっている。
 その双瞳はどこか一点を見つめている。
 その先にあるもの。
 少女の目線の先には、










 時刻は午後6時前。7月ならまだ陽が昇っているような時間だが、あいにく今は11月。
その太陽も八割がた沈んでしまっている。後30分もすれば、完全に夜になるだろう。

 モール内の飲食街はディナータイムに突入し、再び行列を作り始めた客を前に従業員が
慌ただしく動いている。
 そして、飲食街と同じ四階にあるフードコートの一画に、

「……、」

 その男、垣根帝督は座っていた。

(何だろう、すっげえデジャブ)

 確認するが、今は午後6時前だ。垣根がモ●ハンを始めたのは午後1時頃。
 そして、確か垣根はゲームを始める前に言っていたはずだ。

「いやあ、でも垣根さんあの時は『分かったよ。ちょっとだけだか……』ぶふっ!?」

 ポンッ、という小気味いい音と共に、何かを言おうとしたまどかの口を垣根が右手で無
理矢理塞いだ。
 突然の事態に、むーーーーっ!! っと顔を赤くして訴えようとする少女に、垣根はゆる
ゆると首を振って一言。

「言うな。自分でも分かってんだ……」










『うんわかった。じゃあ一旦家に帰るね――え? わたしの予定は大丈夫だよ。うん、ま
た後で』

 ピッという電子音と共に、少女は通話を切る。
 フードコートの一席にだるそうに腰かけながら、垣根はまどかの様子を見て言う。
 その右頬に赤い手跡をつけて。

「もういいか? なら俺は帰んぞ。ったく、何なんですかこの仕打ちはよお。長時間ガキ
のお守りしてやったっつうのに、お礼は平手打ちかよ。素晴らしい思考回路だな、テメェ
の脳みそは」

「それは……本当にごめんなさい。急に口を塞がれて……パニックになっちゃって」

 ミスをした新入社員のように深々と頭を下げるまどか。
 それを見て、垣根は心の中で舌打ちする。

 謝罪されるということに慣れていない垣根は、こんな時どう返せばいいのか分からない。
 いっそ開き直ってくれれば、『こんのクソガキがあああ!!』と言えるのだが。
 
 垣根は気まずそうに頭を下げたままのまどかから目を逸らし、

「ああもういいから顔上げろよ。とっさに手が出ただけだろ。別に謝罪なんて求めてねえ
んだよ。こんなところで謝られると目立つから、マジで顔上げろって。もういいから」

 面倒くさい。垣根は心の底から思う。

 執拗に絡んできたかと思えば、ちょっと皮肉を言っただけで本気で平謝りしてきたり、
普段垣根がつるんでいる『連中』とは反応が違いすぎてどう接していいのかまるで分らな
いのだ。

 やっぱ一緒にゲームするなんて無理にでも断っておくべきだったと少し後悔する。


「あの……本当にすみません……。あと……今日は一日わたしの暇つぶしに付き合っても
らってありがとうございました!」

(ああ、やっぱり暇つぶしだったんだな……)

 改めて断っておくべきだったと垣根は思った。まあ今となっては過ぎた事だが。

 垣根帝督はがっかりしたようにスーツケースの取っ手を掴んで、椅子から立ち上がると、
何も言わずにフードコートを去って行った。

「……やっぱり迷惑だったのかなあ」

 垣根の後ろ姿を見送りつつ、まどかは思う。
 
普通に考えてみれば、迷惑に違いない。昨日会ったばかりの、素性も分からないような
人間に付き合わされて、貴重な休日を潰されたのだから。

「……ハァ……」

 そうだとしたら自分の行動はあまりにも軽薄すぎた。というよりも……、

(これって、周りから見たら……逆ナン?)

「……、」

 うぅ、と思わず自己嫌悪に陥りそうになる。何であんな事したんだろうと後悔する。元
来自分はそんな積極的な性格だったか?
 と、

(あれ? じゃあ何で垣根さんに話しかけたんだろう?)


 改めて思い出してみる。
 仁美と別れて、特にやる事もなくふらふらしていて、なんとなくおもちゃ屋を見るとそ
こに昨日会った少年がいて、何故かスーツケースを持っていて(旅行にでも行く予定だっ
たのだろうか)。

(えーと、確かそれで昨日のお礼を言おうとして、それで、昨日別れ際に何であんな顔を
したのか気になってて、見てみると垣根さんが手にモ●ハン持ってて、それで……)

「あ」

 口から間の抜けた声が出た。そうだった。昨日ずっと気になってた一番肝心な事。

(聞くの、忘れた……)

 ここに某有名青タヌキがいたら『君は本当にバカだなあ』と言うところだろうか。
 何やってるんだ自分は、と本当に自分の鈍臭さに呆れる。
 モ●ハンに夢中になって本来の目的を忘れるなんて、これじゃ本当に、

「ゲーマーじゃないっ!」

 と、それだけは自分自身に否定する。なんだか認めたら負けな気がする。
 
それにしてもさすがはモ●スターハンター。だてに400万本売り上げていないという
事だ。モ●ハンの効果でPSPが売れるというくらいなのだから恐るべしソフトだ。

(……カプコンの社員はすごいなあ……)

 これ以上自分の非を認めたくないので、なんとなく相手を称賛してみる。まあ、そんな
ことをしても傍から見ればまどかが間抜けなだけなのだが。

 でも、と彼女は思う。


 確かに、他の事を忘れるくらいゲームに夢中になるなんて、バカ、間抜け、ゲーマー
(本人は否定)以外の何ものでもないだろう。もし社会人なら失笑されて陰口を叩かれる
くらいみっともない事だ

 それでも、とまどかは思った。確かに相手にとっては迷惑だったのかもしれないし、時
間を無駄に使っただけかもしれない。
 でも、

(……楽しかったなあ)

 そう、まどかは楽しかったのだ。
 それが初めて協力プレイをした事に対してなのか、垣根と一緒にいた事に対してのモノ
なのかは分からない。
 でも、間違いなくまどかは楽しんでいた。これだけは確信を持って言える事だ。

(さて、そろそろ帰らないと。やる事もあるし)

 だから心の奥底ではそこまで残念に思っていないのかもしれない。当初の目的はどうあ
れ、結果的に楽しめたのだからそれでいいんじゃないかと。

 雑踏のモール内を歩きながら彼女は思う。
 次に会ったら、あの公園での事を聞きたいなと、そして……もう一度一緒にモ●ハンが
したいと。





 今日はここまで、久しぶりの癖に短くてすいません。ネタが思いつかないんです。

 次は来週になります。多分……






『一体何やってるんですか玖渚さんっ! 六時半ですよ! 院内の晩御飯もう始まってま
すよ! ていうかそもそもあなたは病人なんですよ!』

 滝を打つような声が、スピーカー越しにこだまして鼓膜を揺らす。
 若い男の声だ。
 台詞から察するに、恐らくは看護師か医者といったところだろう。

「ああ飯はいいっスよもう。こっちで適当に済ませとくんで」

 日が暮れて冷たくなったアスファルトの上を歩きながら、玖渚と呼ばれた長身の少年は
面倒くさそうに返事する。もっとも、これは本名ではない。
 彼の名前は垣根帝督。『名前』だけなら他に三つくらい持っている。

『いや、よくないよくない! 普通に考えて入院患者が外食なんてできる訳ないでしょう
が!』

「あーもううっせえなあ……、身体には何の異常もなかったんだから別にいいじゃねえか
よ。大体よお、俺に外出許可を出したのはアンタだぜ、先生。確かに予定の時間はちょっ
とオーバーしちまったが、それほど騒ぎ立てるような事でもねえだろ?」

 とは言ってみたが、最初から異常など見つかるはずもない。何せ『今の垣根の身体』は、
まだ出来て一週間も経っていないのだ。
 だが、相手の方はそんな事情など窺い知るはずもなく――、ただでさえ昨日まで昏睡状
態だった垣根帝督だ。そのような患者に外出許可を出すこと自体、医者の権限としてはか
なりグレーなのだろう。恐らくは、執拗に迫る垣根に医者の方が根負けしたといったとこ
ろか。
 そんな理由なので患者が予定を過ぎても帰って来ず、連絡も取れなければ(垣根は携帯
の電源を切っていた)焦るのは当然で、

『ちょっと? どこがちょっとなんですか!? たかだか日用品買うのに一体何時間かかっ
てるんですか』


「ああ? それについては俺のせいじゃねえ。……ちょっと、暇を持て余したぼっちのク
ソガキに絡まれててな。俺は何度も何度も断ったんだぜ? 忙しいから無理だって。テメ
ェの暇つぶしに付き合ってる時間なんざねえって――」

 彼の右手には、旅行などで使う小さな車輪がついたスーツケースの取っ手がある。中に
入っているのは、そのほとんどが衣類だ。とは言ってもぎっしり詰まっているわけではな
く、その上半分ほどは隙間になってしまっている。
 フードコートを去った後もいくつか店を回ってみたが、やはり必要に感じるモノは見つ
からなかったのだ。
 結局、一階のジュース屋でオレンジジュースを買って、垣根はモールを出た。その場で
果実をミキサーにかけて作るので、なかなかに美味しかった。

「――でもそいつがしつこくてよ。こっちもやっと解放されたところだっつの」

本当のようで本当でない言い訳をする垣根だが、当然相手がそれを信じるはずもなく、

『ああそうですか。それで? ちゃんと楽しめましたか』

「少しは信用しようぜ。つうか、それが医者の台詞かよ。仮にも俺は『患者』なんだぞ」

 とは言われても、全く信用ならない垣根の言葉を適当に受け流して医者は言う。

「『患者』は植物状態から覚めた翌日に、元気に街中を歩きまわったりしません。……も
う本当に勘弁して下さいよぉ……。玖渚さんに外出許可を出したのは僕です。つまり外出
中のあなたの身に何かあれば、それは僕の責任って事になるんですよ! あなたのご親族
に何て説明したらいいんですか!?」

「別に何も起こらねえよ。だから何も言わなくていいんじゃね?」

 情けない声で懇願する若い担当医に、どうでもいいといった調子で垣根は薄っぺらく返
した。
 垣根は医者の都合などいちいち考えていない。事態が問題化して、相手が責められよう
が、クビになろうが知ったことじゃない。
 そもそも自分の身が危なくなるとは一体どれほどの状況なのだろうか。核ミサイルでも
ぶち込めばいいだろうか。


 そんな事よりも、

『とにかく、早く帰って来てくださいよ! 特別に玖渚さんのぶんの食事は取っておいて
あげます。本当に特別ですよ!?』

「はぁーい。ありがとござまーす」

 受け取りかたによってはツンデレにも取れそうな医者の言葉に、全く感情のこもってい
ない声でお礼? を言って、垣根は通話を切る。
 そしてぼんやりと考える。

(『あなたのご親族になんて説明したらいいんですか!?』だってよ。何も説明する必要な
んかねえっつの……んなモン顔も覚えてねえよ)

 駅前大通りから一つ中に入ったこの裏通りに、人はそれほど歩いていない。脇にあるの
も、レストランやビルではなく、民家や個人経営の小さな電気屋、喫茶店などだ。既にシ
ャッターが閉まっている店もある。
 一つ道を外れるだけで、ここまで雰囲気が変わるものなのか。もしかしたら、都市化の
際に取り残された地域なのかもしれない。
 表の通りとは対照的な、廃れた道を歩きながら、垣根はふぅと息を吐いた。そして吸う。
 秋の終わりの伝えるような冷たい空気が、鼻孔から肺いっぱいを満たす。コートも買っ
ておくべきだったかと少し後悔。

(……家族)

 改めて確認するが、『玖渚友』というのはただの偽名だ。
 現在、彼は戸籍[データ]を失っているため、『垣根帝督』で通すと色々と不都合があ
る。
 置き去り[チャイルドエラー]出身の垣根にとって、家族など存在しないのと同義だ。
 いたとしても、別に逢いたいとは思わない。向こうとしても、恐らく捨てた息子と再会
なんて気が重いだろうし、第一垣根はそんな事が許される人間ではない。





(あなたの息子さんは立派な殺人鬼になりましたー、ってありえねえよな。んなこと告げ
られたって戸惑うだけだっつの)

 垣根帝督は今一度確認する。
 名前や容姿、生死すらも分からない見果てぬ家族ではなく、己の生きる『世界』を。
 そしてその『世界』は悲しいほどはっきりと、その答えを、その生き方を垣根帝督に提
示していた。

(……ああ、そうだ)

 垣根帝督に家族は必要か? その問いに対して彼の生きる『世界』、そして彼自身が弾
き出した答えは実に簡単だ。

「いらねえっての。そんなくだらないモン」

 一言。
 実際に声に出して呟いてみる。そうだ、いらない。会うことさえ許されない。
 何故なら、垣根帝督は人間のクズだからだ。社会からはみ出たゴミだからだ。人間失格
とは正に自分のような者の事を言うのだろう。
 自虐ならいくらでも出来る。尽きる事はないくらいに。

(まあ……)

 自分はよく気まぐれと言われるが、これだけは忘れてはいけない。
 だが恥ずかしいとは思わない。自分の行いを振り返って、深く反省したところで何が変
わるのか? 殺した人間は生き返らないし、何より、自分のやった事は帳消しにはならな
い。垣根帝督はそんな次元にはいない。
 だからひたすら突き進む。金と悪意と暴力が支配する、はみ出し者が集まるクズの道を。

(別に悲しくなんざねえんだけどよ)

 虚勢は張っていない。本心だ。これが垣根帝督なのだ。


 彼は一歩も踏み外すことなく、ただ着実に進んでいく。
 終わりなどない。引き返すことも出来ない。入り口は既に見えず、出口も何もない、た
だ混沌とした真っ暗な一本道。
 これまでも。そしてこれからも。

「……、」

 学園都市に戻ればまた『ゴミ掃除』の日々が始まる。
 『裏』は一度解体されたため、強制的ではないが、そんなもの、垣根にとっては些末な
事だ。
 垣根にはそれ以外の選択肢など存在しない。与えられても、使い方が分からない。サル
に札束を握らせるようなものだ。
 もう『表』の世界では生きれないのだ。生き方を忘れてしまったのだ。
 だからそちらへは目を向けない。闇の奥へ奥へ潜っていく。その最深部がきっと彼にと
っての楽園に違いない。

 だが、その前に、

(一方通行[アクセラレータ]。テメェは――)

 ボソッと垣根は何かを呟いた。そして沸き起こるように浮かんだ笑み。歪みに歪んだ、
誰かの不幸を心底楽しむような、そんな笑みだった。見ていて気持ちのいいものではない。
 垣根帝督は歩いて行く。軽いスーツケースがアスファルトの起伏でわずかに揺れる。
 その道の先に光はない。この時間にしては異常に人通りの少ない、ただただ暗い裏道。
 まるで垣根の未来を表しているような。

(さあて、つまんねえ医者のおかげで変なこと思い出しちまったし、病院に戻るか。クソ
不味い病院食だろうが仕方ねえ、どうせすぐ退院するんだ)

スーツケースを左手に持ち替えて、垣根帝督は先へと進む。頭を切り替える。
 さて、病院に戻るにはどこを通れば速いかなと考えて、

「あん?」

 ふと思考が中断された。何かを見つけたのだ。






 時刻は午後六時半過ぎ。
 すっかり陽の落ちきった裏通りを、鹿目まどかは自転車で走っていた。
 その様子は昨日公園に携帯を取りに行った時と非常に似通っている。まああの時ほど急
いではいないし、時間も少し遅いが、走っているルートは全く同じだ。

(……、)

 彼女は一体どこに向かっているのか?
 家に帰っているのではない。今走っている方角は、自宅とはまるで逆方向だ。いや、そ
もそも家には一度帰った。モールを出て、家に帰った後、一〇分ほどしてまた出てきた。

(大丈夫かなぁ……)

 走行中の自転車の前カゴには大きな紙袋が入っている。入っているとはいっても、袋は
どこから見ても分かるくらいパンパンに膨らんでいて、紙袋の底と前カゴの底は触れ合っ
ていない。どちらかというと引っ掛かっているといった状態だ。
 紙袋を膨らませているモノの正体は、子供用の衣類品だ。
 その他にも、旅行用の小さな洗面用具などが、ビニール袋にまとめられて入れてある。

 まどかがこんな事をしている原因は、フードコートでモ●ハンに熱中していた時にかか
ってきた一本の電話。父、知久の携帯からだった。
 内容は、
 ――タツヤが入院する事になった。
 ――マイコプラズマ肺炎の疑いが強い。
 ――まさか入院するとは思わなかったので、何も準備なんてしていない。
 ――母、絢子は駅から直接病院に来るらしい。
 ――なのでまどかも一度病院に来て欲しい。
 ――その際に、タツヤの着替えを持って来て欲しい、という事だった。


 こうして、まどかは言われたとおり、弟のパジャマや下着など、目についたものを適当
に畳んで紙袋に詰めていった。
 余ったスペースには、絵本やタツヤがよく遊んでいるおもちゃなどを入れた。
 入院がどれくらいの期間になるのかは分からないが、その間、出来るだけ退屈しないよ
うにという彼女なりの気遣いだ。



 だが皮肉な事に、その思いやりが仇になってしまった。



 まどかが走っている場所は、人通りの少ない裏道だ。
 周りは先進的な街並みには不釣り合いな、古い集合住宅やアパートで囲まれている。
 元々交通量も多くないので、街灯もポツリポツリとしか設置されず、さらに明かりの点
かない空き家の多さも相まって、辺りは予想以上に暗くなる。

 田舎に行った事がある人なら分かるだろうが、建物やネオンの輝きがなければ、夜に懐
中電灯も持たずに外を徘徊するなどほぼ不可能に近い。
 故事にあるような月明かりなど頼りになるはずもなく、ほとんど『真っ暗』な状態だ。

 この裏道はそこまで何も見えないというほどではないが、やはり他の通りと比べると見
通しは悪くなる。
 それはいくらなんでもという事で、恐らく申し訳程度に街灯を作ったのだろうが、広い
間隔で置かれたそれは、路面全てを照らす事ができていない。
 つまり、通行人の視点になって見ると、明るい場所と暗い場所を交互に通過する事にな
る。
 不自然な明暗のコントラストは、距離感を狂わせ、通行人の目を疲れさせる。
 設置した側は、それが事故を誘発する危険性に気付かなかったのだろうか。

 いや、確かにそれ以外にも原因はあった。

 一番の原因は、相手が交通ルールを軽視した事だろうし、彼女にも、過失とは言えない
が要因くらいはあった。


 それが、前カゴの紙袋だったりする。
 淵に引っ掛かって半分浮いているような紙袋はかなり不安定で、まどかもバランスを取
りづらそうに、ややふらふらしながら走っている。
 さらに、大きな袋にパンパンになるまで荷物を詰めたので、小柄なまどかの視界の一部
は、袋の上部分に遮られてしまっていた。

 だから気付くのが遅れてしまった。
 左の脇道から、スピードを落とさずに曲がってきた黒いワンボックスに。
 普段なら反応できたのかもしれない。
 だが、荷物で重くなった前の車輪は簡単には動いてくれなかった。
「!?――――」



 ガシャン!! という金属音と共に、少女の華奢な体が空中へ投げ出された。



 柔道の有段者でもないまどかに、受け身を取る事などできない。
 彼女が何かを思う前に、浮いた体が肩から地面に墜落する。ゴキリ、と鈍い音が聞こえ
た。肩の骨が外れる音だ。

「が――あああああぁッッ!!」

 一瞬遅れて襲ってきた激痛に耐えられないといった様子で、まどかは左肩を押さえて絶
叫する。
 汚れたアスファルトに転がるまどかの目線の先、そこには今まで自分が乗っていた自転
車が倒れている。そして、前カゴに乗せていたはずの紙袋は、そこからさらに三メートル
ほど先で中身をぶちまけて落ちていた。

「ぁ――」

 弟のために用意したおもちゃが、ゴミのように散らばっている。せっかく畳んだ着替え
も、無造作にも飛び散ってしまっている。

 
 まどかは思わず泣きそうになった。
 痛みと、鈍臭い自分に対する情けなさと、準備が無駄になった虚無感と、それら負の感
情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、訳も分からずに涙だけが溢れそうになる。
 と、そんなところへ、

「――オイオイどうしてくれんだよコレ――」

 急に背後から男の声がかけられる。
 まどかは痛む左肩を押さえながらも、声のした方向へ顔を向ける。
 二〇代後半くらいの、スーツを着崩した長身の男だった。
 誠実な雰囲気は見受けられず、仕事の都合上ピアスだけは外してきましたといった感じ
だ。胸元にはどこかの社章が描かれたバッジがつけられている。

 まどかは初め、事故を起こした相手を心配して出てきたのだと思った。当然そうするべ
きだし、自転車と自動車がぶつかって、少女が投げ出されたのを相手も見ているはずだ。

 だが、様子がおかしい。

「オイ、どうなってる!? やっぱへこんでるか?」

 男はどこかを向きながら叫んだ。その先にいたのは、男と同じようなスーツを着た小太
りの男だ。
 停止したワンボックスカーの前でかがむようにして何かを調べている。

「右のライトが割れてます。側面にも、へこんではいませんが傷がついちゃってますね。
あと、自転車の塗料も――」

「チッ!!」

 相手の返事を聞き終える前に、長身の男はあからさまに舌打ちをした。『畜生、面倒臭
せえ事になりやがった』と呟く男は顎に手をあてて何かを考えているようで、まどかの方
など見向きもしない。


(え……?)

 まどかは信じられないものを見るような目をする。
 どうして、跳ね飛ばした相手の心配をしないのか。反応からして、まどかが怪我をした
のは分かっているはずなのに……。
 救急車など呼ぶつもりもないらしく、長身の男は、また小太りの男と何かを言い合って
いる。
まどかに駆け寄るどころか『大丈夫?』の一言もない。

(な、んで……)

 相手の考えが分からなかった。
 どうして倒れている人間より車の心配をするのか。どうして駆け寄って体を抱き起こさ
ないのか。事故を起こした相手の事などどうでもいいのか。

(……う、ぅ……)

 自然と涙が溢れた。今度は堪える事などできなかった。
 何となく、理解した。
 今までまどかは善人に囲まれ過ぎていたという事に。
 家族や友達、担任の先生もそうだ。みんな虫がよすぎるほどの良い人たちだ。

 そういった善意に触れ続けて、まどかはいつの間にか世界中がそんな人たちばかりだと
思い込んでいたのだ。
 凶悪な事件をニュースなどで目にする事はあったが、それは彼女からすれば画面の中で
起こっている事でしかなかった。
 そんな人たちはほんのほんの一部で、自分には絶対に関わる事はなく、出会う人全てが
良識を持っていると信じていた。

 そうではなかったのだ。
 悪意はすぐそこらじゅうに蠢いていて、自分がたまたまそれらに触れてこなかっただけ
なのだ。それに初めて気づかされた。
 画面の中の出来事が、急に現実味を帯びる。


「はぁ……さてと――」

 鬱陶しそうに溜息をつく声と、コツンという足音が背後から聞こえた。
 逃げるつもりか。
 まどかは首を動かしてそちらに振り向こうとしたが、それは無駄だった。

「!?」

 動かそうとする前に、少女の頭が勝手に持ち上がった。
 男が髪を掴んで強引に引っ張り上げたのだ。

「う……、あ……」

 相手は逃げようとなどしていなかった。むしろ逃げてくれた方が良かった。
 涙で濡れたまどかの顔を見ても、男は顔色一つ変えずに言う。

「どうしてくれんだよ、ああ? ありゃ会社の車なんだぞ。これが何を意味してるか分か
ってんのか? ――俺がクビになっちまうかもしれねえって事だよクソガキィ!!」

 髪を掴んだまま、男はまどかの脇腹をズドン! と殴りつけた。

「が、は――ッ」

 小柄な身体に重たい衝撃が走る。一瞬だが確実に呼吸が止まった。まどかは悲鳴を上げ
ようとしたが、それすらも体の中に押し留められる。

「待ってたみたいにぶつかってきやがって! しかも自転車で塗料まで付着させるときた
――どうしてくれんだァボケ!! これじゃあ言い逃れもできねえじゃねえかよ!!」

 狂ったように叫びながら五発十発一五発と、男は何度も何度もまどかの腹を殴る。
 まどかは抵抗しようとしたが、全身を打ちつけられたときのダメージで身体は全く動い
てくれない。
 そうしている間にも拳は容赦なく叩き込まれ、口の中に鉄臭い液体が充満していく。


「はぁ……はぁ……クソ! まだだ。まだ飽き足らねえ」

 もうすでに気を失いかけているまどかの前で、殴り疲れた男は目をぎらつかせる。
 異様な光景だが、運悪く通行人は周りに見当たらず、男は気を遣う様子もない。
 そもそも通りかかったところで、誰がこれを止めれるだろうか。

 男はまだ殴り足らないという顔をしているが、なにせ腕が疲れてしまった。
 気づけば顔には汗がこびりつくように出ていて、スーツの中のシャツにも気持ち悪い感
触が広がっている。
 11月の夜だが、とりあえずスーツとシャツを脱ぎ、中のT-シャツ一枚になる。
 冷たい風が体を打つが、湿気がなくなったからか、それほど悪い感覚ではない。

 男は目の前に倒れている少女を見た。
 口からは唾液と血が混じった液体が地面にこぼれ出している。折れたのか、外れたのか、
左肩はおかしな方向へ曲がっていて、アスファルトにぐったりと横たわる体からは動こう
とする意思すら感じられない。
 そして、顔を見る。
 改めて見ると、かなり幼い顔立ちをしている。まだ中学生くらいだろうか。
 ――と考えたところで、男はいたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべた。

「オイ!」

 呼ばれて、今まで少し離れた所で見ていた小太りの男が走ってきた。
 長身の男は、脱いだスーツとシャツを乱暴に投げ渡して、ニヤニヤしながら尋ねる。

「コイツ、どうだ?」

「そうですねー。少し対象外なような気もしますが全然イケますよ」

「犯れ」

 男は一言で命じた。


 小太りの男も、りょーかい、と疑問も持たずに軽く返事しただけだった。
 だがその一言で、今まで地面に倒れて、死んだ魚のようだったまどかの目色が変わった。

(今、なんて――?)

 冷たいアスファルトの感覚が、消える。
 そのやり取りの意味を理解すると共に、不快感すら消失する。

(あ、あ……)

 恐る恐る目線を少し上げる。小太りの男の顔があった。
 ハァハァと息を滾らせ、よだれが出そうなくらい口元に笑みを浮かべた男の顔が。

『い、いやあああああああああああああああああああああああああああああッッ!!』そう
叫んだつもりだった。しかし実際には、その声は一言たりとも外にこぼれていなかった。
 マスクをするように、男のブヨブヨした掌がまどかの口と鼻を塞いだからだ。

「ん! むぐッ!?」

 長身の男が足を掴んで持ち上げた。会話を聞くに、どうやら車の中に運ぼうとしている
らしい。
 痛みを発する全身の感覚を振り切って、まどかは死ぬ気で抵抗する。
 あそこに連れ込まれたら終わりだ。
 絶対にそれだけは、それだけは――。

 外れた左肩の痛みもどうでもよかった。そんな事を気にしている場合ではない。
 今はただ何をしてでも振り払って逃げなければ。
 しかし、相手は大人の男二人だ。
 そう簡単に振りほどけるはずもなかった。

 加えて、口と鼻を塞がれているので、まどかは息ができなかった。暴れれば暴れるほど
酸素を消費し苦しくなる。
 すぐに意識が朦朧としてきた。
 男たちの粗雑な声を聞きながら、気を失う直前に彼女は思った。
『どうしてこんなことになったのだろう』と。






 垣根帝督は立ち止まってどこかを見つめていた。
 場所は奇しくも昨日少女と会った西通りの公園。
 別に思いを馳せているわけではない。特に何かを考え込んでいる訳でもない。
 思案の時間はもう終わった。
 今はただ、少々ヒステリック気味の若い医者をこれ以上イラつかせないためにも、さっ
さと病院に戻って夕飯(不味い病院食)を食べて寝る。それだけの予定だったのだが……、

「……、」

 まさに事故現場と呼ぶに相応しい光景だった。
黒いワンボックスカーの近くに自転車が一台倒れている。
自転車の側面から車が突っ込んだのだろう。前タイヤのフレーム部分が、まるで粘土の
ように外側へ歪んでしまっている。
 恐らく前カゴに乗せていたであろう大きな紙袋からは、中身を吐き出すようにぶちまけ
られていて、その衝撃で紙袋自体が一部破けてしまっている。

 だが、垣根はそんなところを見ているのではない。
 そこからさらに一〇数メートル離れた場所で、男二人が一人の少女を囲んでいる。
 小柄な体に二つにまとめた明るい髪、垣根はその少女を知っていた。

 何故なら、その少女こそが昨日この公園であった彼女であり、さっきまでショッピング
モールで一緒にモ●ハンをしていた、鹿目まどかだったからだ。

「……、」

 どうして家に帰ったはずの彼女がこんな事になっているのか。垣根はそこに疑問を抱か
なかった。
 実を言うと、彼は事故が起きた直後からここで一連のやり取りを見ていた。
 まどかが殴られてボロボロになるのを、しっかりと見ていた。


 見知らぬ他人であれば、彼は何も考えず通り過ぎただろう。彼は間違っても自ら進んで
人助けをするような人間ではない。
 だが垣根帝督は二度もまどかと関わってしまった。
 両方とも本当にどうでもいいようなくだらない事だが、間違いなく知り合いにはなって
しまった。
 だから立ち止まった。
 こんな短時間で再開するなんて何の因果だ? と思いながらも、自然に足が止まった。



 でも、それだけだった。



 立ち止まって見ているものの、彼はそれ以上動こうとはしない。
 まるで戦況を見極める軍師のように、ただ突っ立ってひたすらに一点を見つめている。
 普通の人が見たら『コイツは何をしているんだ?』と思うだろう。『早く助けるなり助
けを呼ぶなりしろ』と思うだろう。
 だが彼はそうは考えなかった。
 何故なら垣根帝督は『普通の人』ではないからだ。
 『表』の人間ではないからだ。

 怪訝な顔をしながらも、垣根帝督は迷っていた。
 まどかに恨みはない。しかし『裏』の人間である自分が『表』の人間を救うのはどうな
のだろうか? 携帯を拾ったのとは訳が違う。あれは別に救ってなどいない。目の前で財
布を落とした人に向かって声をかけるようなものだ。
 でもこの場合は違う。

 垣根は改めて男二人を見る。長身のガラの悪そうな男に、その舎弟のようにも見える小
太りの男。
 二人ともスーツを着ているが、会話は断片的にしか聞こえてこないため、暴力団関係者
かただの不良社員かは分からない。
 どちらにしても、穏便にとはいきそうもない。そもそも助けるならば、垣根も穏便に済
ますつもりはないが。


 そうなれば、これは確実に人助けになってしまう。
 『裏』の人間が積極的に『表』に関わってしまった事になる。そうなれば、それは自分
のアイデンティティをも揺るがしてしまう。
 自分が軟弱者と見下してきた一方通行[アクセラレータ]と同じになる。一方通行[ア
クセラレータ]を殺す理由そのものがなくなる。
 それでいいのか? さっきの決意はどうなるのだ? 学園都市の『外』ならいいのか?
そんな例外があるのか?

 垣根帝督は分からない。自分が何をするべきなのか。何がしたいのか。

 だが戸惑っている暇はない。
 男二人は気絶したまどかの手足を持ち上げて、車の方へ移動しようとしている。
 何をしようとしているのかは一目瞭然だ。

「……ッ!」

 垣根は思わず唇を噛みしめた。
 さっさと決めろ。身体の内側から急かすように熱がこみ上がってくる。
 見捨てるのか。助けるのか。

 何もしなければそれは見捨てるのと同じ事になる。間違いなく彼女は汚され、無様にそ
の辺に捨て置かれるだろう。もしかしたら殺されるかもしれない。
 動くなら今しかない。
 今ならまだ間に合う。
 しかし、

(クッソ、何考えてんだ俺は!! 何でアイツを助ける事ばかり考えてんだ! 見捨てりゃ
いいじゃねえか! 今までだってそうしてきたじゃねえか!!)

 垣根は頭を掻き毟る。いつの間にか、まどかを助けるために理屈をつけようとしている
自分に怒りを向ける。
 何やってるんだと思う。
 『裏』のくせに。


 だが、それを邪魔するように浮かんだのは、今視線の先で犯されようとしている少女の
顔だった。
 一緒に協力プレイをした時の、純粋無垢な笑顔だった。
 それは悪意に満ちた『裏』の世界では絶対に見られないものだ。
 脳内の映像は、振り払おうとするたび鮮明になっていく。

 自分は、見捨てるのか? こんな人間のクズに笑顔を向けてくれた、あの少女を。
 放っておくのか? その笑顔が、苦痛に歪ませられるのを分かっていながら。
 助けれるくせに。誰よりも強い力を持っているくせに。

 垣根帝督は歯噛みする。血が出るほどに、拳を強く握り締める。
 少女の笑顔と己のプライド、どっちが大事だ?

(どうすりゃ……どうすりゃいい!? ダメだ、余計な事は考えるな! 無視しろ。見捨て
ろ! 俺の役目はあくまで『ゴミ掃除』だ。それ以外は――)

 と、

(あん?)

 急に垣根の思考が途切れた。

「……、」

 一瞬の空白、そして、

(……ああ。そうじゃねえか)

 今まで険しかった垣根の表情が一変した。
 ぐらついていた瞳に明確な色が宿る。口元がチーズのように裂け、端正な顔立ちが崩れ
る。
 ――狂笑。


(おーおーすっかり忘れてたぜ。俺の役割を)

 垣根帝督の仕事は『ゴミ掃除』だ。
 だが、この場合の『ゴミ』というのは別に道端に落ちてる紙クズを指しているのではな
い。
 簡単に言えば社会のゴミといったところか。
 学園都市では正規の警備員[アンチスキル]にそんな事をさせるわけにはいかない。
 なのでそういった役目は垣根を始め、『表』に出ていない連中が請け負う事になってい
る。
 『ゴミ』の始末は同じ『ゴミ』が、という訳だ。

 それを踏まえた上でこの二人組について考えてみる。
 一時停止の標識を無視して少女を跳ね飛ばした上に、その怪我の心配もしないで、逆に
車に傷がついた事を少女のせいにして殴りつける。
 さて、改めて考える。



 これは立派な『ゴミ』ではないか?



「ククク……」

 静かに笑いながら、垣根はスーツケースを引っ張って歩いて行く。
 よく考えもせずに設置された街灯が光のコントラストを作り出しているおかげで、相手
はまだ垣根に気付いていない。
 悲劇が今まさに降りかかろうとしている事に、彼らは全く気付かない。
 小太りの男は、今からどんな事をしようか、と楽しそうに汚い笑みを浮かべている。
 垣根帝督も同じように笑みを浮かべている。
 楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに、面白そうに――。

(『スクール』外部派遣だ。浮ついた『ゴミ』を処分してやる)






 カラカラという音に、先に気付いたのは長身の男だった。直後、暗闇からヌッと現れた
少年は、その風貌に似合わない柔和な笑みを浮かべていた。

(光の加減で見えなかったのか……。クソ、まずいな。人に見られちまった)

 街灯を設置した間抜けな業者を恨みながら、男はどうしようかと思った。
 警察を呼ばれる前に少し脅しておくか。それよりもさっさとずらかるか。
 と、そんな事を考えていると、なんと向こうから声をかけてきた。

「すいませーん」

「あん?」

 場にそぐわない明るい声をだす少年に、男は少し警戒する。

「俺達に何の用だよ?」

「いや、別に大した用じゃねえんだけどよ――ちょっと聞きたい事があってな」

「……、」

 ふざけてんのか、と男は思った。
 この状況で、大した用でもないのに声をかけるヤツがいるか。
 とすれば、

(んだあ? もしかして、このガキを見かねて助けにきた主人公[ヒーロー]気どりの
痛々しい低能くんか? あーあー頑張っちゃって)

 ということはこの柔和な表情は恐怖の裏返しか。
 男の顔に不気味な笑みが浮かぶ。抱えていたまどかの身体を一度地面に置き、男はスー
ツケースを持った少年に向き直ると、


「おお、何だ? 言ってみろよ。でも、生憎こっちはこれからお楽しみの時間だからよお
……あまりにもくだらねえ事だったらお兄さん怒っちゃうかもしんないよ?」

「いやいや、くだらなくなんざねえよ。少なくとも俺にとってはな。だからそう殺気立た
ないでくれ。まあ聞きたい事は一つだけだ」

 茶髪の少年は、そこで一度区切り、



「テメェら、人の妹に何してくれてんだ?」



 ぞわり、と周りの空気が質を変えた。
 それに即して、今まで営業スマイルみたいだった少年の表情から色が消える。
 小太りの男が、うっ、と小さく声を漏らして一歩後ろにのけ反った。

 だが、長身の男は顔色一つ変えない。
 気押された後輩を一睨みした後、へぇ、と感心したような声を上げただけだ。
 口もとの笑みを一層強くしながら、男は一歩前へ出る。

「何だよ、どこぞのクソガキがナメて突っかかって来ただけかと思ったら、大した根性じ
ゃねえか。ガキにしてはイイ敵意だ。最近のヤツらはヘタレばっかだからよお……向こう
から喧嘩吹っ掛けてくるくせに、こっちが『ちょっと』やり返したらすぐ音を上げやがる。
どいつもこいつも上っ面ばっかりだ。ああいうヤツらが群れてんのは自分一人じゃ怖くて
何もできねえからなんだろうな……」

 懐かしそうな、悲しそうな顔をしながら男は言った。
 でも、と彼は続けて、

「お前は何か違うっぽいな。目で分かるぜ。んーなんつーか全体的な雰囲気が違うんだよ。
そこらのチンピラとは。……ああこれ一応褒めてんだぜ?」

「……、」


 わざとらしい言葉を口にする男に対して、少年は何も答えない。
 直立不動で、ただただ男の目を一点に見つめる。
 その表情には恐怖や後悔といったものは感じられない。
 その様子を見て、男はつまらなそうに言った。

「何か喋れよ。つまんねえ野郎だな。ああそうそう、さっきの質問の答えだ。何してるか
だって? お前の想像どおりだよ。車に連れ込んで犯ろうとしてたのよ。んで? それを
聞いてどうすんの? いや、どうするかなんて言うまでもねえよなぁ。どうせこのままコ
イツを返したところで見逃す気なんてねえんだろ?」

(……まあ、こっちも見逃す気はねえけどな。顔と車のナンバーを見られた以上、ここで
確実に潰しておかねえと)

「ま、じゃあさっさと始めようぜ。さっきも言ったとおり近頃の若者は軟弱者だらけだか
らさあ。お前には期待してんぜ」

「……、」

 少年は相変わらず何も答えない。
 体勢も顔色も何一つ変えない。
 男は冷え症に悩むように肩を軽く叩き、腕をぐるぐると回しながら少年に近付いていく。
 そして、
 一言。



「そんじゃあ頑張ってくれよ、‘お兄ちゃん’」



 ビュン! と男の拳が空を切った。プロボクサーのような綺麗なフォームから放たれた
右ストレートは、最短距離で少年の顔面を捉えようとする。

(イイ声で鳴けよ小僧ォ!!)


 だが、その拳が少年の顔を打ち抜く事はなかった。

(え……?)

 ふと男の目の前を何かがよぎったと思ったら、次の瞬間には手首から先が消えていた。
 ボトリ、と何か丸いものが地面に落ちた。握りしめた自分の右手だった。

「ぅ――」

 男に痛みはなかった。
 そう思った直後、わずかに遅れて激痛が襲いかかってきた。

「ぐ、ぅ、がァァあああああああああああああああああああああああああああああッ!?」

 あまりの痛みに、男は思わず中腰に屈む。そのまま後ろに下がる。一歩、二歩。
 切り口から、水風船を握りつぶしたように血が溢れ出した。
 男は左手で、なくなった右手首の少し上を力強く掴む。痛みに耐えられないのか、止血
しようとしているのかは分からない。

 その後ろでは、小太りの男がポカンと口を開けて立っている。
 どうやら、何が起きたか理解が追い付いていないらしい。
 長身の男は、湧き上がる痛みと汗を堪えながら少年の顔を睨みつける。

「ぁ、が、て……テメエ、一体何だ!? 何をしやがっ――」

 言い終える前に男の身体が真横に飛ばされた。
 少年が、持っていたスーツケースをハンマー投げのように振り回したのだ。
 ゴン! という衝撃とともに、男の意識はそこで途絶えた。






 ノーバウンドで数メートルも吹っ飛んだ半そで男を、垣根帝督は冷めた目で見つめてい
た。
 気絶した男の方を見ながら、垣根はようやく口を開く。

「……俺が何だって? しゃーねえなあ、特別に教えてやるよ。俺の名前は『玖渚友』だ。
よーく覚えとけよ脳筋野郎。って聞いてねえか」

 どうでもいい事を仰々しく言った垣根帝督の口調は、やけにゆっくりしていた。
 足元を見ると、さっき切り取った男の手首が転がっている。

 なんとなく拾い上げてみた。
 断面からは血がボトボトこぼれ落ちている。

(きったねーなあ)

 垣根帝督は周りを見渡す。
 数メートル先に、小太りの男がガクガク震えながら立っていた。その手には白いシャツ
と、安っぽいスーツ。向こうで倒れている男のものだ。

「オイ」

 と、垣根は声をかける。
 小太りの男は、ビクッ、と身体を震わせただけだ。逃げたくても足が竦んで動けないだ
けか。それとも、怖くても仲間を見捨てる事なんてできないという意思表示か。

(……、)

 試してみようか。

「これも一応テメェの先輩? のモンだからオマエに返しときゃいいんだよなあ、子豚く
ん?」


 言って、垣根はぶらぶらと振っていた血まみれの手首を軽く放った。
 弧を描くように飛んだそれは、ボスン、と男が持っているスーツの上に納まった。

「ひッ!」

 さっきまでは、何かリアルなおもちゃのようにも見えていた。
 だが間近で見るとやはり違う。おもちゃは赤い液体を垂れ流したりしない。
 そして何より、切断面から顔を覗かせるもの。薄紫色のブヨブヨした肉に囲まれた、白
い無機質な棒のようなもの。
 それは――。

「あ、ぁ――」

 直視する事など、できなかった。

「う、うわあああああああああああああああああああああああッ!!」

 シャツもスーツもかなぐり捨てて、絶叫と共に男は糸が切れたように走り出した。
 倒れている仲間がどうだとか、そんな事はもうどうでもよかった。
 本当にどうでもよかった。
 男が向かう先にあるのは、右のライトが割れた黒いワンボックス。

(死ぬ! 殺される! アイツはヤバい。逃げないと、早く逃げないと!!)

 その体型からは考えられないほどのスピードで駆け出していく男。これが火事場の馬鹿
力というやつだろうか。
 垣根はそれをつまらなそうに目で追いながら思う。

(後者だったか……)

 まあ薄々分かっていた事だ。こんな事をする連中に、仲間意識などどいうキレイなもの
を期待するのが間違いなのだ。
 垣根には分かる。
 何故なら彼もそうだからだ。


(少しくらいお涙頂戴のハートフルな展開になるかと思ったんだが……案の定コイツもク
ソ野郎だったな。ったく、これじゃあ学園都市も『外』も変わんねえじゃねえか。つまん
ね)

 逃げるロリコンを尻目に、垣根はハァ、と溜息をついてアスファルトを軽く蹴る。
 それだけだったが、轟!! と猛烈な風が垣根から男に向かって吹き荒れた。
 垣根が追ってこないのを完全に油断していた男は、背中を空気の弾丸で叩かれ、勢いよ
く空に舞う。

「え!?」

 気づいた時には遅かった。
 何をする事もできず、浮いた男の身体はワンボックスカーのフロントガラスを粉々に砕
いた後、勢いを殺せずにそのまま車内に飛び込んだ。
 ボン! と運転席の辺りが膨張する。エアバッグが起動したのだ。

「望みどおり車に乗せてやったぜ豚。まあ運転はできねえだろうが」

 これにて『ゴミ掃除』は終了した。
 開始からまだ二分も経っていない。

(とりあえず能力使用に問題はねえみたいだな。……さてと、『後片付け』か)

 垣根は辺りを見回してみた。右手がなくなった男が倒れている。

(……、)

 何を思ったのか、垣根はその男のT-シャツを引っ張って公園に入って行った。
 こんな時間に子供が遊んでいるはずもなく、夜の公園は静寂に包まれていた。
 もちろん、シーソーやブランコで遊ぶわけではない。
 彼が向かったのは手洗い場だ。


(重い……)

 何とか男を運び終えると、垣根は勢いよく蛇口を捻る。
 仰向けにされていた男の顔に、大量の水が注がれた。

「……ぶ、ぶはッ!? ゲホ、ゲホッ!?」

 気を失っていた男が目を覚ました。
 垣根の顔を見た途端に悲鳴を上げようとしたので、彼は鳩尾を殴って黙らせる。
 思わず腹を押さえる男に、垣根はしゃがんで静かに言う。

「黙れよ……。テメェもここで死にたくはねえんだろ?」

 騒げば殺す、という警告だった。
 ドスの効いた声に、男はただ頷くことしかできない。
 もうそこに、さっきまでの威勢はなかった。

「なら黙って言うことを聞け。そうすりゃ命は助けてやる。まず、警察には行くな。テメ
ェらがやった事は見逃してやる。お互い様だろ? なあ?」

 今にも消えそうな声で男は、ぁぁ、と返した。

「手首の件は事故って事にしろ。あと、俺の事は誰にも言うな。そして、これをもう一人
のヤツにも伝えろ。もし何かの拍子で発覚したら、俺は問答無用でテメェらを殺す。言っ
とくがそうなったら、もう警察も当てにならねえぞ。例えムショにぶち込まれてたとして
も殺す!」

 ひぃぃ、と男から情けない声が漏れる。
 後悔した。心の底から後悔した。
 最初に見た時に、その辺のヤンキーとは何かが違うと思った。
 本当にそのとおりだった。
 世の中には触れてはいけない世界がある。その事を、身をもって思い知らされた。


「その事をよく胸に刻んで生きろよ。俺は確実に『やる』ぞ。テメェらみたいなクズ殺す
のに躊躇なんかしねえ。びっくりするくらい愉快な死体[オブジェ]に変えてやんよ」

「わ、分かった。絶対誰にも言わねえ……絶対警察になんか行かねえ!」

 男は震えながらも、声を振り絞って答えた。垣根はそれを聞いて二ヤリと笑い、

「よおし、いい覚悟だ。分かったらコレ持ってさっさと消えやがれクソ野郎!!」

 そう言って垣根が押し付けたのは切り取った手首だった。
 男は一瞬ギョッとしたが、すぐに受け取ってフロントガラスのないワンボックスで走り
去って行った。

 垣根はそちらには目も向けなかった。
 彼が見ていたのはさっきまで男が倒れていた路面だ。
 血が飛び散っている。
 手首を切った時のもあるだろうし、まどかが吐いたのもあるだろう。
 今は夜なのでそれほど目立ってはいないが、また陽が昇ればどうしても浮いてしまう。

「面倒臭せえなあ」

 垣根は心底嫌そうな声を出した。
 いつもなら下部組織に任せてたのによ、と呟く。
 本来こういった後始末は彼の仕事ではないのだ。
 彼の役割は『散らかす』こと専門なのだから。

 だからといって放っておく訳にはいかない。
 『裏』が解体されてバックの組織がない今、派手な事をしてもそれをもみ消してくれる
者などいない。
 学園都市の中とは勝手が違うのだ。

(あーあ)

 結局、自分でやるしかなかった。


 とはいっても、バケツに水を汲んで血を洗い流していく訳ではない。
 垣根がとった行動は単純だった。
 ただ、血の上を歩いていくだけ。
 それだけなのに、垣根が歩いた後は、まるで最初からなかったかのように血が消えてい
た。
 一分もかからずに、現場は事故の前と同じ状態になった。



 倒れている少女と、壊れた自転車を除いて。



「……、」

 垣根帝督はしばらくの間、ボロボロになった少女を眺めていた。
 やがて、

「チッ!」

 忌々しそうに舌打ちをして、垣根帝督はどこかへ去っていった。
 鹿目まどかを、自転車を、散らばった衣類を、そして、



 スーツケースを置き去りにして。



 その時、スーツを着た中年の男性が通りがかった。
 何気に事故が起きてから初めての通行人(垣根以外で)なのだが、少し立ち止まっただ
けで、結局救急車を呼んだりする事はなかった。


 その顔には、『大丈夫だろうか?』という心配より、どちらかというと『関わり合いに
なりたくない』といった色合いが強い。

 非情に見えるかもしれないが、案外これは賢明な判断なのかもしれない。
 『触らぬ神に祟りなし』という言葉もあるくらいなのだから。
 家族を養わなければいけない父親サラリーマンなら特に。





 その後やって来たのは一台の大型タクシーだった。

「おうここだ。一旦止まれ」

 バン、と乱暴にドアを開けて、助手席から垣根帝督が降りてきた。
 首をコキコキと鳴らし、彼はスーツケースの方へ歩いて行く。

「お、お客さん。これ一体どういう状況なんですか!? ケガ人がいるって……」

 運転席のドアを開けて、恐る恐る運転手が出てきた。四〇代後半くらいの、少し白髪の
見える男性だった。

「だからケガ人じゃねえか。ぼーっとしてないで早く手伝えよ」

 手早い動きでスーツケースをトランクに詰めながら、垣根は何食わぬ顔で言う。
 だが、運転手からしてみれば、はい分かりましたと言える状況ではない。

「いや、どう見ても事故じゃないですか!! 警察に通報するべきでしょう!?」

「いいっていいって。別に大した事じゃねえからよ。心配すんな。アンタにゃ迷惑はかけ
ねえよ」


「迷惑はかけないって……。そういう問題じゃ――って何してるんですかお客さん!?」

 運転手が垣根を見ると、あろうことか彼は自転車を後部座席に乗せようとしていたのだ。

「んん? 決まってんじゃねえか。こんなのトランクに入りきらねえしな。――よっと!」

 止める間もなく、ガシャン! という音を立てて自転車が中に放り込まれた。

「ああああァァ!! ソファが、ソファがあああ!!」

 迷惑はかけないと言っていたわりに、運転手にとっては大迷惑を被ってしまった。
 声を上げて嘆く運転手に、垣根は、うるせえなあ、と一瞥して、

「ソファのクリーニング代くらい払ってやるよ。ほらよ」

 言って、垣根は何かを握らせた。
 運転手は手元を見る。
 諭吉が一人二人三人四人五人六人七人八人……。

「手伝え」

「はい」

 それ以上会話はなかった。
 まっさらになった事故現場を後に、タクシーは見滝原総合病院へと向かっていった。


 今日はここまで。いつもながら小学生並みの文章ですいません。

 ではまた来週。






「遅い……」

 見滝原総合病院の一階のロビー。一〇人以上が座れそうな大型のソファーにもたれなが
ら、鹿目絢子は呟いた。

(一〇分ぐらいで来るって話だったけど、アイツ一体何やってんだ?)

 正面にかけてある時計に目をやる。
 時刻は午後七時をまわっていた。

(タツヤの着替え選ぶのに迷ってんのか? 別にそんなのどれでもいいんだけどな。まさ
か持っていくもの全部にアイロンかけ直してるとか? いや、そこまで几帳面な性格じゃ
ないし……。ない、はず……多分)

 うーん、と呻きながら考える絢子。
 仕事が終わってから一直線で病院に来たのだが、到着するなり夫・知久から『まどかが
荷物抱えてすぐに来るから一階で待ってて』みたいな事を言われてすぐここに来たので、
まだ肝心のタツヤとは対面していない。
 まあ知久の口ぶりからして、それほど悪い様子ではなさそうだが……。

 一応病室の番号は聞いているので、一度そっちに戻る事もできるのだが、もしそれでま
どかとすれ違いになったら意味がない。

「遅い……」

 絢子はもう一度呟く。
 言ったところでまどかが現れる訳じゃないのは分かってるが、何もせず、何も言わずた
だじっと座っているだけというのは結構な苦痛だ。
 ここは病院なので、その辺を動き回るわけにもいかない。

「……、」

 何となしに急患用の出入り口の方を見てみる。
 さっきまではえらくバタバタしていた。


 何でも、手首の取れた男が自分で車を運転してやって来たらしい。
 ずいぶんと肝の据わったヤツだと思う。

 だがそれも一時的なもので、今の一階はまた元の静寂を取り戻していた。
 このロビーにも、絢子の他には入院用のバスローブのような服を着た患者が三、四人い
るだけだ。
 新聞の夕刊を読んでいたり、自動販売機で買ったコーヒーを飲んだり。
 少なくともスーツでじっと座っているような人物は、彼女以外には見当たらない。

(私もコーヒーでも飲もう……)

 彼女は億劫そうにソファーから立ちあがって、近くの自動販売機コーナーに歩いて行く。
 ちらっと正面玄関の方を見てみたが、誰かがやって来そうな雰囲気はなかった。







 夜の大通りは人と車で溢れていた。
 人口の集中する都市部にとっては、それほど珍しい事ではない。
 軽自動車から一〇トントラックまで、様々な色や形をした車が、自らが作り出す渋滞に
よって足止めされていた。それは荷物を積み込んだ大型タクシーも例外ではない。
 トランクにはスーツケースとパンパンに膨らんだ紙袋、後部座席には前タイヤの曲がっ
た自転車が積まれているこのタクシー。
 何故か車内はピリピリとした空気に満ちていた。

「……、」

 自転車の隙間に埋め込むようにして、ボロボロになった少女――鹿目まどかが乗せられ
ている。
 それを気にも留めずに、垣根帝督が助手席で腕を組んで座っている。
 運転席には当然ながらタクシー運転手。こちらは垣根と違い、さっきからチラチラと後
ろの方を振り向いたりしている。


 運転手は不安そうに助手席の垣根帝督を見る。
 下を向いているので、表情は分からない。寝てはいないようだが、

「お、お客さん。やっぱり、警察に言うべきじゃありませんか」

 垣根帝督は何も答えない。それを肯定と受け取って、運転手は続ける。

「だ、だって……やっぱりおかしいですよ。何で、その娘そんなにボロボロなんですか?
衝突事故だけで、そんな事になるものなんですか」

「……、」

「大体、何で警察に通報するのを躊躇うんですか。別にそれでいいじゃないですか。あ、
あなたがこんな事しなくても……警察に任せておけば、轢き逃げ事件として捜査してくれ
るんですから。救急車も向こうが呼んでくれますし……。それなのに嫌がるって事は、も、
もしかして――」

「俺がやったって言いてえのか?」

 運転手の言葉を遮って、垣根が突然口を開いた。

「実はコイツをこんな風にしたのは俺で、その事を隠蔽するためにわざわざタクシーを呼
んだと? 笑えるな。んな面倒臭せえ事するかよ」

「な、ならどうして……」

「詳しい事は言えねえが、俺にもちょっと事情があってな。警察を呼べば、当然話を聞か
れる。身分確認もされるかもなあ。それが既にアウトなんだよ」

 それを聞いた運転手の表情が曇る。
 警察に話を聞かれるのもまずい。それはつまり――、


「おっと安心しろ。別に指名手配中の凶悪犯罪者って訳じゃねえ。だからオマエをどうこ
うしようって気はねえ。ただ何も言わず目的地まで送り届けてくれりゃそれでいいんだ」

 あっさりとした口調で垣根は言った。
 恐らく彼の意図としては、運転手に余計な心配を与えないのと、これ以上詮索をさせな
いために言ったのだろうが、それは逆効果だった。

 二人の会話は途切れたが、ふと垣根が横を見ると今まで恐る恐る話しかけてきていた、
運転手の腕がブルブルと震えていた。
 どうやら垣根の言葉は、文字通りに受け取られなかったらしい。

「……、」

 『とんでもないヤツを乗せてしまった』といった表情の運転手。
 唇は少し青ざめ始めていて、一刻も早く逃げ出したそうな感じに見える。
 このままでは、車を降りた後一目散に通報されそうだ。垣根としてはそれはまずい。
 では、この状況を打破するにはどうすればいいかと彼は考えて、

「……、とっとけよ。そのかわり口外しするなよ」

 財布から更に諭吉を五人ほど取り出して、運転手の胸ポケットに強引にねじ込んだ。
 垣根としては『うっしっし、お主もワルよのう』的な反応を期待したのだが、どうやら
彼は垣根が想像していたよりも真面目な人柄だったようだ。
 腕の震えが一層大きくなった。
 結局、これも逆効果だった。

(……世の中、金で目の色変えるヤツばっかじゃねえって事か)

 事故現場では言いくるめられた運転手なので、金に執着していないという訳ではなさそ
うだが、垣根は深く考えなかった。







 わずか二キロほどの道のりを、一五分かけて車は見滝原総合病院に到着した。

「じゃあな。お互いイイ結果に終わる事を――」

 ひぃぃという声がしたと思うと、タクシーはアクセル全開といった様子で走り去ってい
った。

(俺に交渉術は向いてないみてえだな。……暇があったら心理学でもやってみるか)

 効率良い方法が思いつかなかったので、最終的に脅す事にした。
 具体的にどうしたかといえば簡単な事だ。半そで男に言ったのと同じように『俺達を降
ろした後警察には行くなよ』と凄みを効かせて釘を刺しただけだ。
 そう言われた運転手はというと、これ事故を起こすんじゃないか? と思えるくらい腕
の震えが頂点に達していたりしたのだが、垣根としては別段気にする様子もなかった。
 これ以上何をやっても無駄だと判断したのだろう。

 こうしてアルコール中毒患者のような運転に揺さぶられながらも、何とか無事に辿り着
いた垣根帝督(と鹿目まどか)。
 フレームの歪んだ自転車をその辺に放置して、垣根は頭の中でこれからの事をシミュレ
ーションしてみる。

(んー、どうすっかなー)

 警察に通報されず、自然に事を収めるにはどうすればいいか?

(……、)

 彼は少し考えて、

(……、確証はねえが、コレでいくか)

 何かを思いついたらしい。
よっ、と小さく声を出してまどかを背に負ぶう。左手に紙袋、右手でスーツケースを引
っ張って、彼は歩きだした。


 ただし、正面玄関ではなく裏庭に向かって。

「う、おっ……」

 思わず変な声が出た。
 実際に担いでみると、思っていたよりも重い。
 まどか一人だけならそうでもないだろうが、両手が塞がっているので、その分余計に身
体を折り曲げなければならず、結果として上半身にはかなりの負荷がかかってしまう。
 死にかけの年寄りみたいな姿勢をとりながらも、垣根はどうにか前に進む。

(クッソ、何で俺がこんな事――ッ!)

 背中越しに伝わる慣れない感触に少し動揺しそうになったが、それを振り切って何とか
裏庭に到着した垣根帝督。
 身体も辛かったが、それ以上に周りの視線が痛かった。
 頭上に輝く月がまるで『よく頑張った』と褒めてくれるようだ。

「……ハァ、ゼェ……チクショー、『重き荷を負うて遠き道を往くが如し』ってのはこう
いう事をいうのか? 大変だったんだなあ、家康も」

 文献でしか知らない歴史上の偉人を労いながら、垣根は置かれていた粗末なベンチにド
カリ、と座り込む。
 まどかについては、その辺に放り投げておこうかとも思ったが、結局横に寝かせる事に
した。
 文字通り、肩の荷が下りた垣根はふぅ、と一息つく。
 第一位ほどではないにしても、普段からそれほど身体を鍛えている訳ではない垣根にと
って、今の運動? は疲労を溜め込むのに十分なものだった。
 彼は肩をトントンと叩きながら、

(やっぱ、能力に頼り過ぎると基礎体力が落ちちまうよなあ……)

 自分の脆弱な身体について憂いてみた。
 一応まだ高校生(年齢では)の垣根帝督だ。将来寝たきりの生活を送るなんて想像した
くはない。


(……、)

 今度筋トレでもしてみるか、と心理学に続いて無駄な決意を固めた垣根だった。







 当然の事ながら、こんな時間に裏庭に出ている者はいない。ほとんどの患者は夕飯を食
べ終わって、部屋でじっとしているだろうし、スタッフについてもこんな所に用はないだ
ろう。
 洗濯物は屋上で干すし、喫煙スペースも中にあるため、実質ほとんど無意味な空間だ。
 植えられている花の種類や、中央にある小さな噴水からして、コンセプトはヨーロッパ
の庭園といった感じだろうが、その噴水の下には色鮮やかな錦鯉が泳いでいたりして、何
だかよく分からない事になっている。
 作られた目的は、恐らく入院患者の気分転換のためだろうが、一一月の今の時期、しか
も気温も下がるこんな時間にわざわざリフレッシュされにくるヤツはいない。
 垣根帝督は周りを見渡す。
 予想通り、人の気配などしない。

(……、ふむ)

 それを確認して、垣根はポケットから何かを取り出した。
 PDA。ぶっちゃけただの携帯電話だ。
 もっとも中のデータは八割方消えて(消されて)しまっているが。

(さて、と。俺様の華麗な演技の見せ所だ)

 彼は着信履歴からどこかへ電話をかける。相手はすぐに出た。


『もしもし!? 良かった! いや、良くないか――今こっちも電話しようと思ってたんで
す。どこにいるんですか玖渚さん!! すぐに帰ってくるように言ったでしょう!? せっか
く取っておいたご飯、もう冷めちゃったじゃないですか! いや、もうそんな事はどうで
もいい。とにかく早く帰って来て下さい! さあ今すぐ! 一分以内に! これ以上はい
くら温厚な僕でも堪忍できませんよ!! 何度でも言います。なあにやってるんですか玖渚
さん!! 玖渚さん!? 聞いてます? あれ? ちょっ、通話を切ろうとしな――』

「……、」

 一〇秒も経たず、今度は向こうからかかってきた。

『玖ぅぅぅ渚さぁぁぁぁん? 何勝手に切ってくれてるんですかあ!?』

「いや、切るつもりはなかったんだけど……何だろう? 何かが弾けた。俺の中で」

『こっちはもうとっくに弾けてますがね! そんな理屈はどうでもいいんですよ。と・
に・か・く、今どこにいるんですか玖渚さん!?』

「わたし玖渚さん。今あなたの病院の裏庭にいるの」

『僕は院長ではないんですが……。それより裏庭!? 何でそんな所に? 帰ったんならさ
っさと入ってきて下さいよ』

「……、」

『何でそこで黙るんですか……』

「いや、そうしたいのは山々なんだが、ちょっと、な……」

 垣根の口調が急に神妙になった。
 電話越しに異変を感じとったのか、若い医者も静かに聞き返した。

「何か――あったんですか。もしかして怪我をしたとか……」


「いや、そうじゃねえんだが……ちょっと訳ありでな。悪いけど、裏庭まで下りてきてく
んねえか? 中じゃちょっと言いにくいんだ」

『……、』

 医者は少しの間何も言わなかったが、垣根の言葉からその緊迫性を感じ取ったのか、

『分かりました。今すぐ行きます』

 そう短く返事すると、彼は通話を切った。







「う、わ――何ですか、これ……」

 患者に言われて裏庭にやってきた医者が見たものは、ボロボロになった女の子だった。

「……酷い」

 服のあちこちが擦り切れており、口からは出血の痕がある。
 脱臼でもしているのか、左肩はおかしな方向に曲がっている。

「当て逃げだ」

 患者の少年が厳しい声で言った。

「……当て、逃げ?」

「ああ」


 彼は続けて、

「人通りのない裏道で倒れてるのを見つけた。あっちに置いてきたが、自転車の前タイヤ
のフレームが曲がってた。十中八九当て逃げだ」

「そんな……」

 もし少年の予測が真実だとしたら、あまりにも酷い話だ。誰もいなかったから、そのま
ま逃げるだなんて……。
 医者は唇を噛み締める。
 事故を起こしたのなら、すぐに相手の無事を確認して、安全な所へ避難させるのが運転
手の義務だ。そんな事は誰でも知っている。

「……、分かりました。でも救急車のサイレン音がしませんでしたが――」

「タクシー拾って、ここまで連れて来た」

 まるで初めから答えを用意していたように彼は言った。それを聞いて、若い医者は怪訝
な顔をする。

「? 何で救急車を呼ばなかったんですか? 今の時間はどこも渋滞しているのに……」

「……、」

 彼は答えなかった。

「玖渚さん?」

「先生――」

 どうしたのか? と尋ねる医者に、少年は口ぶりをさらに重くして言った。







「この娘、先生が見つけた事にしてくれねえか」





「………………………………………………………………………………………………………
………………………………、は?」

 何とも間の抜けた声が出た。
 言葉の意味を理解するのに、五秒ほど時間を要した。

「え? な、何で? そんな事して何の意味があるんですか?」

 訳が分からないといった様子の医者に、間髪入れず少年の声が届く。

「これは事件だ。もちろん警察が動く。その時に第一発見者が先生だったって事にして欲
しいんだよ」

「だから何でですか!? 別にアナタは何も悪い事してないんですからいいじゃないですか。
もしかして自分が疑われるかもって事ですか? それなら大丈夫ですよ。自転車に付着し
た塗料とかから車両を特定する事もできますから。第一、玖渚さんは車に乗ってなかった
んですからどう間違っても容疑者にはなりませんよ。少し話を聞かれるだけです」

「それがマズイんだよ」

「え?」

 少年は即答した。


「警察に事情徴収される。それがすでに駄目なんだよ」

「な、何で?」

「おふくろが心配するから」

「……、」

 医者は少年の言葉を頭の中で反芻して、

「いや、そりゃ親として心配はするかもしれませんけど……。でも悪い事した訳じゃない
ですし……むしろ褒められる事じゃないですか? これは」

 半笑いになりながらも反論してみた。
 確かによく考えてみれば、彼は昨日まで寝たきりだったのだ。どうしてこの病院に送ら
れてきたのか、詳しい事情は知らないが、さぞ不安な事だろう。
 それが、やっと目を覚ましたと思ったら、その翌日には警察に事情徴収を受けている。
 一体何があったのかと思うだろう。
 自分が親の立場なら、驚きで息が止まりそうになるかもしれない、と医者は思う。
 しかし、

「そう言われても、僕がずっと病院にいた事はほかの先生方や看護師にも見られてますし
……」

「じゃあ今、通りすがりの人に任されたって言ってくれ。ちょっと気晴らしに外に出たら、
親切な通行人が、歩いてこの娘を抱えてきてくれていて、たまたま白衣の先生を見つけた
からその場で渡されたって事で」

「第一、こういうのって勝手に捏造してもいいんですか? いくらこっちが加害者じゃな
いとはいえ……」

「バレたら正直に言うさ。筋は通ってる。親に心配かけたくなかったからって言やいいん
だから。それに先生にはアリバイがある。ちょっと嘘がバレたって、容疑者にされる事は
ないはずだ」


「でも……」

 医者としては、そこまでして嘘をつく必要があるのか? と思う。
 心配かけたくないとは言っても、彼に非はない訳だから、詳しく説明すればいいだけの
事だ。
 自分の息子が人助けしたのだから、むしろ喜んでくれるだろう。

「うーん。やっぱり正直に話しましょうよ。ご両親には、きちんと僕から伝えておきます
から」

 そうするのが一番だと彼は思う。
 へたに小細工すると、バレた時に自分も怒られるかもしれない。
 だが……、

「なあ――頼むよ先生。実はおふくろ昔から心臓に持病があるんだ。あんまり驚かせたり
とかしちゃいけないんだよ。なあ、本当に頼む。この通りだ!」

 言って、少年は思い切り頭を下げた。当然嘘なのだが、そんな事医者が知るはずもない。
 これにはさすがに彼も驚いて、

「え? あ? ちょ、いいですよ! そんな事しないで下さい! わ、分かりました!
分かりましたよ!! やりますから! 頭を上げてください」

 結局、迫力に押されて、医者は垣根に乗せられるがままに依頼を受けてしまった。
 頭を下げながらも、垣根の口元が歪んでいたのを彼は知らない。







「じゃあ後は頼んだぜ。何なら、警察に通報しなくてもいいんだけどよ」

「それは無理でしょう、どう考えても。この娘が目を覚ましたら終わりじゃないですか」

「まあそうだな。じゃあ適当にごまかしてくれ。今日は本当に助かったぜ先生。これで余
計な心配かけないで済む」

「う、うぅ……」

 思わずくぐもった声を出す若い医者。本人の都合ではなく、親に不安を抱かせないため
と言われては非常に断りにくい。理由だけなら、親思いの善良息子になってしまうからだ。

(予想通りの無駄なお節介野郎で助かったぜ。テメェみてえなヤツは面倒事を押し付けら
れるのがお似合いだぜバーカ)

 内心はこんな感じの垣根帝督だが、実際の表情は実に嬉しそうだ。
 心の中の声は決して表に出さない。
 一方、まさか馬鹿にされているとは思ってもいない、善人の担当医はというと『そもそ
もこの娘の名前すら分からないし……どうしよう』とまどかを抱きかかえてソワソワし始
めた。
 適当に財布なりケータイなり開いて調べればいいだけなのだが、なまじ善人なだけに他
人の所持品を漁るという行為に抵抗があるのだろう。
 本当に温室でぬくぬくと育てられてきたに違いない。
 垣根はその様子を横目に見ながら、そっとほくそ笑む。もちろん気づかれないように。

「それじゃ、俺は部屋に戻るわ。先生、後は任せたぜ」

 相変わらずオロオロしている医者にそう言い捨てて、超能力者[レベル5]の少年はス
ーツケースを引っ張って急患用出入り口の方へ歩き出した。

(あーあ、無駄な時間食っちまった。でもまあ、能力使用の確認もできたし――これで良
しとするか)


 最終的にプラマイゼロという事で垣根は結論づけた。
 これで終わり。
 あの医者なら警察にチクったりはしないだろう。言った通り上手くやってくれるはずだ。
 恐らくもう会う事もないだろう少女に心の中で別れを告げ、彼は明るい院内に向かう。

(じゃあな。協力プレイは結構楽しかったぜ。オマエ、力尽きてばっかだったけど……)

 そう、これで終わり……のはずだった。
 垣根が向かっている急患用出入り口から人影が現れなければ。

「?」

「?」

 そして――、

「あれ? 君は……ん? まど、か? え? まどか!? 何やって……てかその傷! 一
体何があって――アンタはこの病院の先生!? オイ、どういう事!? どういう状況!? 何
でまどかが怪我してる! 何で裏庭なんかにいる!? 君は? 何? ここで何してたん
だ!?」

 その人物が、少女の母親でなければ。

(……、あれ? 何だコレ?)







 話は少し前に遡る。
 いくら何でも遅すぎる。鹿目絢子は息を吐いた。

(あと五分、あと五分待とうと思ってたらこんな時間になっちまったけど……これはない
よなあ)

 もうかれこれ四〇分以上待っている。
 家から病院までは裏道を使えば一五分ほどだ。
 知久がまどかに連絡した時間から考えても、整合性がなさすぎる。

「どうされたんですか?」

 後ろから急に女性の声がした。
 振り向くと、『今年の春まで学生やってました』と言わんばかりの若い看護師が立って
いた。手には小さな紙袋が握られている。薬品でも入っているのだろうか。

「三〇分くらいずっといらっしゃいますよね? 誰かと待ち合わせですか?」

 鈴の鳴るような可愛らしい声色で彼女は尋ねた。
 絢子は愛想笑いを浮かべながら返す。

「い、いやー、娘と待ち合わせしてるんだけどね? すぐ来るって話だったのに、これが
全っ然!」

「はぁ、そうですか。事故とかに巻き込まれてないといいんですけど……」

「……、」

 事故。
 絢子は少し考える。
 まどかは進んで信号無視をしたり、猛スピードで走ったりするような子じゃない、と思
う。多分。

(アイツの事だから持っていくもの何度も何度もチェックし直してるのかと思ってたが…
…事故、か)


「ご心配なら一度お電話されてはいかがですか?」

 ニコッと微笑んで、看護師が言った。

(電話……一度かけてみるか)

「うんそうするよ。ありがとう、心配してくれて」

 絢子も笑顔で礼を言う。
 軽く挨拶して、看護師は去って行った。
 それを見送って、絢子はソファーから立ちあがる。

(よっこらせっと……。あ、ヤバ。心の中でジジくさい台詞が出ちまった)

 基本的に院内で携帯電話の使用は禁止されている。
 電波が精密な医療器具に影響するかららしい。特に今絢子がいる一階は、診察室が集中
しているため通話はご法度だ。
 二階も手術室があるため禁止。
 となると、ケータイで通話をするには外に出るか三階以上に行くか、

(……裏庭に行くか)

 ロビーの近くには急患用出入り口がある。右に曲がればすぐ裏庭があるはずだ。

(はぁぁ。電話にでんわ、何てやめてくれよー)

 そんな事を考えながら、絢子は裏庭へと向かった。


 今日はここまで。申し訳ありませんが、所用のためこれからしばらく
更新できなくなります。
 
 プロットは完成しているので、途中で投げ出すことはないです。多分。

 ではまたの機会に。






 先に口を開いたのは医者だった。

「ええと……と、とにかく落ち着いて下さい。こ、これはです、ね……あ、と――」

 何かを言おうとしたのか、とりあえず沈黙に耐えきれなかっただけか。医者の声はほと
んど文章になっていなかった。
 もちろんそんな言い方で詢子が引き下がるはずもなく、

「落ち着け? なら事情を説明しろ! 何で娘がこんな事になってる!? 何だこの酷い怪
我は!! 誰がやった!?」

「う、ぇ……と」

「それとも何か事件に巻き込まれたのか!? 事故か? 大体何で裏庭なんかにいるんだ
よ! アンタが運んだのか!?」

「ぁ、う……そ、それは……」

 どうにもならないと分かったのか、ヘルプミー! といった様子で医者は垣根に視線を
送る。
 だが、当の垣根はというと……、

(……、何だ? 何でコイツがここにいる? 何でこのタイミングで出てくる!? もしか
して見てたのか? いや、それはない。そんな事する意味はないし、この態度は演技じゃ
ない。だとすれば何だ? 何で病院に……いや、そんなことよりどうする? ごまかしき
れるか? 俺達の話は聞かれていないか? 正直に話すか? 嘘をつき通すか? という
かコイツがこんな状態でんな事できんのか? どうする? どうするどうするどうするど
うするどうするどうする……)

 突然の事態に頭が混乱しかけていた。
 少しのイレギュラーなら対応できるが、これはいくら何でも予想外すぎる。
 どれだけ優秀な頭脳があろうと、彼は決して歴戦の兵ではない。
 能力がなければ、ちょっと背伸びした高校生にすぎない。
 医者からの救難信号なんて、気づきもしなかった。


(逃げるか?)

 そんな中、唐突に浮かんだ古典的すぎるアイデア。
 根本的には何の解決にもならないし、今後の事を考えたら、どう見ても得策とは思えな
いが、今の垣根にいちいちそれを吟味している余裕はない。

(よし、逃げよう!)

 法案は二秒で可決された。
 そうと決まれば話は早い。泣きそうになっている医者にはもう目も向けなかった。
 スーツケースを握る手に力を込め、表の通りに向かって彼は勢いよく駆け出そうとした。
 だが、ここで黙っていなかったのが医者だ。
 恐らく、彼は垣根が逃げ出そうとしている事を悟ったのだろう。
 そうはさせるか。
 詰め寄る詢子を前に、医者は腹に思いっきり空気を溜め込む。
 そして、詢子の後方へ向かってビシィ!! と何かを投げるように指を差し、

「あ、あの人ですよ!! 僕は何もしていません! ただ任されただけです。あの人です!
全部あの人が知っています!!」

 病院中に響き渡りそうな勢いでそう叫んだ。

「あ……」

 いきなりの事に、思わず足を止めてしまった垣根。
 何? と詢子の瞳が不気味に輝く。目線を移すと、そこには今まさに逃げ出そうとして
いる少年の姿が。

「テ、テメェ!! 裏切りやがったな!」と言う間もなく取り押さえられる垣根。
 思っていたよりも力が強い。

「ちょ、待っ。――痛てててて、やめ――首しまってる! ちょ、分かった。話す! 話
すから首を――グエッ。マジで止めろ! だ、から話すつってんだろうがこの野郎!!」


 一般人[レベル0]に倒され、思わず叫び声を上げる超能力者[レベル5]。
 一見するとシュールな光景だが、本人達は必死だ。
 医者の叫びに釣られてやってきた野次馬が遠巻きにそれを見つめていた。







「え? 君がまどかをわざわざ連れて来てくれたの? なんだー。最初から言ってくれれ
ば良かったのに」

「言う前にテメェが実力行使に移ったんだろうが。勝手に容疑者扱いしやがって。あー痛
かった。血が出るかと思ったぜ」

「それは君が逃げようとしたからだろ? ちゃんと説明してくれれば、私だってあんな事
しなかったさ」

 嘘つけ、と垣根は忌々しげに呟く。
 要りもしないギャラリーが集まってきたので、一旦場所を移す事にした。
 今三人(垣根、詢子、医者)がいる場所は、一階の小児診察室だ。
 もう診察時間はとうに過ぎているので、特に問題はない。

「にしても……それが君の『素』なんだな。昨日の好青年っぶりは何だった訳?」

「演技に決まってんだろうが。気に入ったならやってやるけど?」

「いや、そのままでいいよ。昨日のは何か白々しかったし……こっちの方が自然で話しや
すい」

 と、ここで医者があれ? という顔をして、


「あのー、会話に横槍入れて申し訳ないんですけど……昨日って? あなた昨日の夜まで
昏睡状態でしたよね?」

「昏睡状態?」

「はい。玖渚さんはここに運ばれてきてからずっとぶべらぁ!?」

「あ、悪い。無意識にグーが出た。多分他人のプライバシーを勝手に喋ろうとしたから天
罰が下ったんじゃないかな?」

「いや、天罰って!? アンタが個人的にやった事がどうして天罰にずびしぃ!?」

「あらあらまた天罰だ。多分神様が『お前もう喋んな』って言ってんだよ。何かツッコミ
もうざいし」

「うざいって言ってんじゃないですか!? それ明らかにあなたの感想どふうっ!? あれ? 
怒ってる? もしかしてさっきの事怒ってます? でも玖渚さんも逃げようとしたんだか
らお互いげぶらぁっ!?」

「あのー、ボコボコにしてる所に横槍入れて申し訳ないんだけど……君って確か『垣根帝
督』って言ってなかったっけ? え? 玖渚?」

「『垣根帝督?』何言ってるんですか。この人の名前は『玖渚友』ですよ。カルテにもそ
うやってぐべらあっ!? え? まだやるんですか? もうそろそろ……どぶしゃぁっ!?」

「やめられないとまらない」

「いや止めて下さい! そんな事言わずに」

「あれ? 結局玖渚か垣根かどっち?」


 もはやどれが誰の発言か分からなくなるくらい混沌とする診察室。
 病院内で暴力の嵐という光景が、先ほどよりもカオスさを加速させている。
 あと、本当に今更だが三人とも髪が乱れ、服のあちこちに土が付いている。
 言うまでもなく、裏庭での一悶着が原因だ。







「さて、と本題に入るか」

 ただの屍になったツンデレ医を床に倒して、垣根帝督はあっさりと言った。

「どうして一晩寝かせたカレーは美味いのか」

「残念、大ハズレだ。ってかもうコメディーパートは終いな。ツッコミも動かなくなった
し」

 白い床には、一ラウンドKOされたボクサーのような男が転がっている。
 それを無視して詢子は言う。

「単刀直入に聞くけど、娘は何であんな事になってるんだ」

「当て逃げだ」

 垣根は即答した。正直に。
 もっとも、医者と同じ質問をされたので同じように答えただけとも取れるが。

「当て逃げだと?」


 詢子は眉を細めた。
 垣根としては、この医者と同じ反応で何か複雑な気分だ。
 このままいけば、医者の時と同じやり取りをもう一度繰り返す事になるんだろうか。
 あの男達の事も言ってみようかと、一瞬思ったがやめといた。
 正直に言ったら、それこそ怒り狂って話ができなくなりそうだからだ。

「どんな車だった」

「悪りいけど見てねえよ。俺が通った時にはもうアイツが倒れてた」

「……、そうか。ありがと」

 詢子の声のトーンが下がる。

(そんなテンションで礼言われてもなあ……)

 どんな車だった? の言い方からして、男達の事を話したら殺しにでも行きそうな雰囲
気だ。これはますます言えそうもないなと垣根は思った。というより、垣根が言わなくて
も娘本人から直接話を聞けばいい。
 ちなみに、その娘こと鹿目まどかは現在別の部屋で治療を受けている。
 垣根は現場を見ていたのである程度は分かるが、医者の話によればそれほど大した怪我
ではないらしい。
 左肩の脱臼以外、見た目ほど内部にダメージはないとの事。

(むしろ問題は精神的な傷の方なんだがな)

 ああいう事があると、たまに男性恐怖症に陥る人がいるらしい。
 身体の傷よりも、そっちの方が治療は厄介だろう。

(……まあ、俺が気にする事じゃねえか)

 そこまで自分が関わる事ではないだろう、と彼は思考を放棄する。
 どうせ明日か明後日には退院だ。


「ええと、玖渚くん? でいいのかな?」

 と、唐突に偽名が呼ばれた。どうやら医者の言った方を信じたらしい。

「垣根帝督だ。そっちは偽名」

「ぎ、偽名!? 何でそんなもの――」

「ちょっと訳ありでな。ああ、玖渚ってのは偽名だって事は秘密な。病院にバレると騒ぎ
になるから黙っててくれると助かる」

 驚くほどあっさりと偽名を認めた垣根。
 何だか身元を隠すのがおざなりになっているような気がするが、実際そのとおりだった。
 裏庭で詢子に遭遇した時点で、垣根の計画は破綻していたのだ。続く医者の裏切りで完
全に崩壊した。
 正直な話、嘘をついて辻褄を合せるのが面倒臭くなってきたのもある。
 今の垣根の考えは『何かあったら能力使って逃げよう』というものだ。
 いくら暗部に属していないとはいえ、垣根帝督は学園都市第二位の超能力者[レベル5]だ。
 何かあったら統括理事会が何とかしてくれるだろう。
 ものすごく大雑把だが、実際そうなのだから仕方ない。
 学園都市としても、七人しかいない超能力者[レベル5]を失いたくはないはずなのだ
から。

「偽名って、君、その歳で何が……」

 半信半疑といった様子で、詢子は恐る恐る尋ねた。
 対して垣根はそれに答えず、

「んな事アンタに関係ねえだろ。それで? 他に聞く事あるんじゃねえのか」

「あ、ああ。えと、本当にまどかは君が連れて来てくれたのか?」


 ハァ、と垣根はつまらなそうな顔になって、

「ああそうだよ。タクシー呼んで一緒に来た。自転車も積んできてやったぜ。前タイヤの
フレーム思いっきり曲がってるけどな」

「タクシー? 救急車呼ばなかったのか?」

 そう聞かれて垣根は一層嫌そうな顔をした。
 無理もない。垣根にしてみれば一度医者にした説明をもう一度させられているのだから。

「タクシーがたまたま通りがかったんで一緒に来たんだよ」

 適当に垣根は答えた。

「もう聞かれる前に言っとくけど、裏庭にいたのはアイツをこの医者に引き渡すためだ」

「いや、そんな事しなくても普通に正面玄関から――」

「話は最後まで聞けよ。実は俺のおふくろはすんげー心配性でよ。加えて心臓に病気を持
ってて、あんまり驚かせちゃいけねえんだよ。んで、一方の俺はつい昨日の朝まで昏睡状
態! さあ、こんな息子が警察に事情徴収されたと聞いたらおふくろはどうなってしまう
でしょうか?」

 本当にわざとらしく、仰々しく垣根は言った。
 ツッコミ所は色々あるのだが、それはとりあえず置いといて詢子は肝心な事を聞く。

「……、つまり君はこの人に第一発見者になってもらおうとしたって訳?」

「そういう事。当て逃げ事件の第一発見者となれば当然警察に話を聞かれる。でもそれは
マズイ。じゃあどうするか? 他の誰かに代わってもらえばいい。だからそうするために
俺は目立たない裏庭に移動したって訳」

「……うーん」


 垣根の説明を聞き終えて、詢子は首を捻った。
 昏睡うんぬんは初めて聞いたが、警察に話を聞かれる事くらい別にいいんじゃないかと
彼女は思ってしまう。
 そもそも、その話自体本当かどうか分からないが、偽名を使ったりしている事からも何
か事情があるのだろう。
 だが、

(……、)

あまり深入りはするべきじゃないと思う。
 そもそも、彼に感謝する事はあれど、問い詰める理由はない。
 彼は先日携帯を拾ってくれて、さらにまどかを病院に連れて来てくれた親切な青年でし
かないのだから。

「さあ、他に聞く事は?」

 少年は言った、なんだかイライラしているような口調だった。
 長時間拘束されて、容疑者にされたりしたら当然かもしれないが。

(……悪い事しちまったな。せっかくまどかを助けてくれたのに)

 これ以上質問するのは失礼だろう。詢子はそう思って、

「いや、もう大丈夫。……ゴメン、君がやったみたいに扱って。あと、ありがとう。事情
を押してまでわざわざまどかを助けてくれて――」

「助けてねえよ」

 だが、

「俺は助けてなんていねえ。何勘違いしてるかしんねえが、俺は他人のために動いたりな
んかしねえよ」

 彼は一言で言いきった。


 詢子が不思議そうな顔をする。

「え? 何でさ。君はあの娘を病院まで連れて来てくれたんだ。私はそれに感謝してるし、
あの娘自身だって――」

「そうじゃねえ」

「え?」

「そうじゃねえんだ……」

 少し悲しそうな顔をして、彼は言う。

「オマエらがどう思ってるだとか、そういう事じゃねえ。ほんとに……助けてねえんだ」

「……、」

「詳しい事は言わねえが、俺は助けてなんざいない。これだけは絶対だ」

 詢子は何も答えない。いや、答えられない。
 垣根が何を理由にこんな事を言い出したのか、彼女には理解できなかった。
 何か彼独特の行動理論みたいなものがあるのだろうか。

「もういいか? 後の事はソイツか本人に聞いてくれ」

 垣根はそう言って、静かに診察室を出て行った。
 呼び止める事はできなかった。そんな雰囲気ではなかった。
 詢子が垣根に感謝を述べた時、明らかに彼の顔色が変わった。
 何故か苦虫を噛み潰したような表情が、妙に印象に残った。
 そして、その直後に彼の口から発せられた言葉。

(……、助けて、ない?)






『――明日も、日本列島は高気圧に覆われ軒並み晴れとなるでしょう。さて、続いては週
間予報天気です――』

「……、」

 病室に帰って来て、残されていた夕飯を食べた垣根だが、生憎気分は優れなかった。

「……助けてくれてありがとう、か」

 理由は詢子と気まずい雰囲気で別れたからか、それとも礼を言われるなんて慣れない事
態に直面したせいか。

「……、」

 彼には分からなかった。

(もう、寝るか)

 時刻はまだ九時前。小学生でも眠らないような時間だが、彼は掛け布団を被るように顔
を埋める。
 モヤモヤした気分も、一晩眠ればスッキリするだろう。
 入浴もしていないが、まあ別にいいだろうと考える。どうせこんな時間に眠れば、朝早
く目覚めるだろうから、その時にシャワーでも浴びればいい。
 確か浴場は一階だったはずだ。
 ……使えるかどうかは分からないが。
 垣根帝督は両手を上に伸ばし、大きく欠伸をした。
 さっきから院内に蛍の光が流れている。
 面会終了の時刻が迫っているのだろう。『入院患者以外はさっさと帰れ』という合図だ。

(まだ消灯までは一時間以上あんのにな……)

 どうでもいい事をぼんやりと考えながら、垣根は部屋の電気を消そうとした。
 その時だった。


「あん?」

 ベッドに置いていたPDA[携帯電話]が突然鳴り出した。メールではなく着信の方だ。

(こんな時間にわざわざねえ……)

 垣根は着信の画面も見ずに、ケータイを手に取る。
 もう相手の予想はついている。

「はぁーいもしもし? 玖渚でも垣根でもお好きな方でどうぞ」

『垣根さんにしておきましょう。未元物質[ダークマター]でもいいですけど』

 そして予想通りの相手。ある意味で聞き慣れた声だった。

(もしかして、俺が今まで一番話したのってコイツじゃねえのか?)

 顔は見たこともないが、と思うと少し哀しくなる。

『二日目の見滝原市はどうでしたか?』

 どうでしたか? というのは何があったか? という意味だろう。
 だが垣根は、

「すげえイイ天気だったぜ。ちなみに明日もイイ天気だそうだ」

『フフ、それは良かった。学園都市も素晴らしい日和でしたよ』

「ふーん、そりゃ良かった」

『フフフ……』

 不穏な雰囲気にも思えるが、両者の間ではよくあるやり取りだ。
 皮肉には皮肉を、冗談には冗談を。それが彼らのやり方らしい。


『では、天気以外ではどうでしたか?』

 明るい声で電話の男が尋ねる。

「日用品買いに駅前のショッピングモールに行ってきた。しかし、とてつもない広さだな。
都市部にあれだけの土地を確保するのも大変だったろうに」

『あのモールは見滝原の象徴のようなものらしいですよ。外見上は確かに近代的に見えま
すもんね』

 件のショッピングモールに限らず、この街にはやたらとシュールな形の建物が多い。
 見滝原中学もそうだが、近未来というものをどこか勘違いしているのかもしれない。
 しかし、

「『外見上』はな。だが中身が伴っていねえ。少しあるいてみりゃ分かるが、あっちこっ
ちに綻びが見えてるぜ。例えば避難経路とかだな。ありゃダメだ。大規模な火災でも起き
りゃ、とてつもない数の人間が一酸化炭素中毒で死ぬんじゃねえのか?」

『どうもデカけりゃ良いと思っているんでしょうかね? 実際、学園都市に巨大な建物は
それほど存在しないんですけどね。客商売目的のデパートなんかでは尚更ですね』

 学園都市内の巨大建造物は、そのほとんどが縦ではなく横に広がっている。
 しかもそういったものはほぼ研究施設か工場などであり、部外者が多数入り込むような
場所ではない。
 よく近未来と聞いて連想される、何百メートルもある超高層タワーが乱立しているよう
な所はないのだ。

「アレについては学園都市[オマエら]も何か言ってやりゃあ良かったのに。馬鹿丸出し
の設備じゃねえか。この街はあくまで学園都市の『実験施設』なんだろ?」

『ほう』

 垣根の言葉を聞いて、相手は感心したような声を上げた。
 気づいてましたか。と何故か楽しそうな様子で呟く。


「気づくっての。あからさますぎんだよボケが。見滝原[こっち]のヤツらは知らねえみ
たいだがな。まあ当たり前か」

『気づくのはあなたが『裏』にいたからですよ。その街の住民はこちらの事情など窺い知
るはずもない。何せこちらの学生だけでなく、警備員[アンチスキル]にも知らされてい
ない事ですからね。『外』の連中が気づく事などありえません』

「ハンッ」

 垣根帝督は鼻で笑った。
 これが彼らの言う『親交』。
 所詮はこの程度のものだったという事だ。別段見滝原市である必要はなかった。どこで
も良かったのだ。
 正直な所、垣根は初めからおかしいと思っていた。
 まだ学園都市にいて、見滝原市の事を知った時から。
 何故なら学園都市が何の見返りも求めずに、ただ相手を援助するだけなどありえないか
らだ。
 忘れてはいけない。
 学園都市統括理事会は、迷える子羊に無償で手を差し伸べるような、そんな親切なヤツ
らの集まりではないという事を。
 暗部にいて、その裏側をずっと見てきた彼には分かる。
 ヤツらは、利益にならない事は絶対にしない。
 見滝原市の住人は、恐らく学園都市のおかげで市が発展できたと思っているのだろう。
 そうではない。
 学園都市のおかげで都市化したのではない。『学園都市』に都市化させられたのだ。

(……俺がコイツらを非難する資格はねえか)

 だが、誰一人として気づく者はいない。
 学園都市側の思惑も知らないで、安穏と科学に満ちた平和を享受している住人に、垣根
は同情せざるを得なかった。

『さて、それ以外には何もありませんでしたか?』


「あん? どういう意味だよそりゃ?」

 何かを知っているような物言いに、垣根は顔をしかめて(電話越しだが)聞き返す。

『いえいえ、何か変わった事はなかったかと思いまして』

「……?」

『そうですねー、例えば――』

 相手の意図がいまいち掴めない垣根に対し、電話の男はよく通る声で告げる。







『かわいらしい女の子とデートするとか?』







「……、」

 ガバッ、とベッドから起き上がる。
一旦携帯電話を耳から離し、垣根は部屋の中をグルリと見渡す。
 特に怪しいものは見当たらない。

「……、ストーキングとはイイ趣味じゃねえか。なあ?」


 垣根はゆっくりと言った。声には軽蔑するような色が含まれている。
 だが、相手がその程度でうろたえる訳はなく、垣根の反応を楽しむように笑う。

『フフ、イイ趣味はあなたの方ですよ。いやいや意外でした。まさかあなたがロリコンだ
ったとは』

 もし男が目の前にいたら瞬時に真っ赤なアートが完成していただろう。
 いやいや意外でした、の言い方がどうも癇に障った。

「……残念なお知らせがある。どういう訳かテメェの余命は残り一ヵ月になっちまった。
お好みの死に方があるなら早めに言っとけよ。出来る限り要望には応えてやる」

『フフ、それについてはじっくり考えましょう。それにしても余程あの娘を気に入ったよ
うですね』

「ああ!?」

『本当に良いものをみせてもらいましたよ。まさかあの垣根帝督が人助けをするなんて』

「……、」

 ゾッ、と垣根の背中に冷たい感覚が突き抜けた。

(こ、コイツらプライバシーって言葉を知らねえのか!?)

 数時間前の出来事を思い出してみる。
 あの場には垣根、まどか、男達二人以外は誰もいなかったはずだ。少なくとも垣根は見
ていない。
 となると、望遠鏡でも使って遠距離から覗いていたか。

(……衛星? はねえよな。んな事すりゃ学園都市内の防衛機能が落ちちまう)


 だとすれば、やはり誰かに見られていたか。垣根は気づかなかったが。
 そもそもそこまでして垣根個人を監視する理由はなんなのだろう?
 スパイは『中』の人間か、それとも『外』の協力的な機関か。
 聞いてもはぐらかされるだけだろう。とりあえず今返す言葉は――、

「オマエら……見てたんなら手伝いやがれ!」

『おやおや……』

「テメェらがちゃんと『後片付け』してくれりゃあ俺がこんな事する必要もなかったんじ
ゃねえか。こっちは『ゴミ掃除』してやったんだぞ! それに加えて何でガキの面倒まで
見なきゃいけねえんだよ」

『我々がいれば、あなたはあの少女を病院に連れて行かなかったと?』

「当たり前じゃねえか! そんな事して俺に何の得があんだよ?」

『……、まあそういう事にしておきましょう』

 つまり垣根にとって、まどかをここまで連れて来たのはあくまで『後片付け』の一環だ
と言いたいのだろう。
 相手の男は無理に反論しようとせず、怪しげな含み笑いをしただけだった。

『でも良いのですか?』

「何が?」

 クスクスと笑いながらも、男は少し口調を厳しくしながら言う。

『我々が手助けするという事は、すなわちあなたが『裏』に戻るという意味ですよ?』

「おう、それが?」


 すぐに快活な返事が返ってきた。垣根の口調は軽い。むしろ何を馬鹿な事を言ってるん
だといった様子だ。
 その反応を聞いて、電話越しに男が呆れたような声を出す。

『分かっていませんね垣根帝督。あなたは本当にきちんと考えているのですか?』

 諭すような言い方に、垣根は些か苛立ちを覚えた。
 彼とすればこの男に説教される言われはない。

「……分かってねえって何がだよ? さっきから曖昧な事ばっか言いやがって……何様の
つもりだテメェ? 結局何が言いてえんだよ」

『今の『裏』は、あなたが所属していた時のそれとは違うって事ですよ』

 少しドスを効かせて言った垣根に対し、相手はこれまた曖昧な言葉を返してきた。
 違うとだけ言われても、一体何が変わったのか彼にはさっぱり分からない。

「ああ? そりゃ一度解体されたんだから少しくらい変わってたっておかしくねえだろう
が。んで、具体的には何が変わったんだよ? 組織の構造か? メンバーか? おっと、
今のメンバーは暗部組織の『メンバー』じゃねえぞ。あっちは俺が潰したからな」

『……、』

 相手はくだらないジョークには応じなかった。
 声を再び厳しくして、男は短く言い放つ。

『敵ですよ』

「敵?」

『はい』

 男は静かに続けて、


『今までの我々の在り方は、あくまで『内部の』危険因子を秘密裏に始末する事でしかあ
りませんでした。しかし、事情が変わりました。もう情報の流出とか、そのような事を言
っている場合ではなくなってしまいました。流出を未然に防ぐだけではいけないのです。
……今回新たに結成された『新入生』。彼らの敵は『内』ではなくむしろ『外』です。何
故なら彼らは――」

「お、オイ! 待て! ちょっと待て」

 思わず垣根は口を挿んだ。話を中断されて嫌だったのか『何ですか?』と相手が不機嫌
そうな声を出したが、それどころではない。
 今の説明は、垣根にとって到底納得できるものではなかった。

「外? 何言ってんだオマエ!? 『外』のためにわざわざ再結成したってのか? そんな
もん無人機で十分じゃねえか。学園都市の『内』と『外』とでは二、三〇年の開きがあん
だぞ!?」

『科学技術ではね』

 だが、相手は一言で断ち切った。

『残念ながら、我々がこれから相手にするのは量子論で塗り固められた世界ではありませ
ん』

「??!?」

 言葉の意味が分からず困惑する垣根に向かって、男はただ一言、短く告げる。







『垣根帝督。あなたは『魔術』を信じますか?』






 ――魔術。
 それは科学と正反対に位置し、未だ世界の半分を支配する勢力。
 その多くが十字教を根幹にしており、超能力とは全く異なる法則を使い、似たような現
象を起こす。超能力と並ぶ『もう一つの異能』だ。

「魔術? ローマ正教?」

 垣根はその言葉に鋭く反応した。
 しかし――、

「魔術ってあれだろ? ローマ正教が独自に行ってる科学的超能力開発の事だろ? つま
り『外の能力者』が敵って訳か」

『……、』

 垣根帝督の持っている情報などこんなものだった。
 確かに、九月三〇日に学園都市は正式に魔術の存在を認めた。
 ではその魔術が学生や教職員に対してどのように説明されたかというと、垣根の言葉の
通りだ。
 学園都市は魔術を超能力の別の呼び名として発表していたのだ。

『そう、ですね……まあそういう事です』

「んだ、そんな事かよ」

 歯切れ悪く言った相手に、垣根は疑問を抱かなかった。もう自分の中で結論が出たのだ
ろう。

「イイぜ、やってやるよ。『外』の連中と殺り合うってのも一興じゃねえか。いい加減雑
魚ばっかで飽き飽きしてたんだ」

 垣根としては、ローマ正教が開発してる超能力がどんなものなのかも気になる。違う理
論を見つけられれば、それで自分の能力を強化できるかもしれない。


(おもしれえ。こりゃ一ヶ月後が待ち遠しくなりそうだ)

『……、』

 相手は何も答えない。魔術についてそれ以上何も言わないし、垣根は『新入生』に入る
と言っているのだが、止めようともしない。

『……、分かりました。では相手の名前だけでもお教えしておきましょう』

 垣根の喉がゴクリと鳴る。
 一月後、自分が相対する敵。

『外の敵組織。その名前は――』

 垣根はその言葉の続きを聞きとる事が出来なかった。







「こんにちはー」という場違いな声と共に、ドアがガラッと開いたからだ。
 入って来たのは鹿目詢子だった。







「!??」

 文字通り一瞬で通話を切る垣根。素晴らしい反射神経だ。


「て、テメェノックぐらいしやがれ!!」

「したさ! 二回も! 返事がなかったから勝手に開けたけど」

「逆だろうが!! 返事がなかったら開けんじゃねえよ! 寝てるかもしんねえって考えな
かったのか!?」

「その時は黙って立ち去るさ。寝てる患者をわざわざ起こすほど私は非常識じゃない」

「返事がないのに勝手に入ってくる時点で十分非常識なんだよ! つうか何でまだいるん
だよ!? さっきから蛍の光流れてんの聞こえないんですかああ!?」

「まだ流れてる最中じゃんか」

「音楽が止まった瞬間テメェは病院から消え去るんだな? よおし分かった! 音楽が鳴
りやんで一秒でも院内にいたら、そん時は窓から放り投げるからな」

 詢子の反応を見る限り、垣根の通話は聞いていなかったようだ。だが、結局垣根も肝心
の名前を聞きそびれてしまった。







「ほら、蛍の光終わったぞ。はいじゃあ放り投げますから気をつけて下さいねー」

「放り投げるのはいいけどせめて話だけでも聞いてくれないかな? これじゃ私ダイブし
にきただけになるし」

「知りませんねーそんな事。もう話す事なんてありませんからねー」


「そこを何とか。五分でいいから」

「うーん、では三分にしておきましょう。それ越えたら人間ミサイルですねー」

「うんじゃあ三分でもいいや。こっちから一方的に言うだけだし」

「??」

 詢子は垣根の顔を見つめて、スゥと息を吸い込み、

「ありがとう。まどかを助けてくれて」

 笑みを浮かべて小さく言った。

「……、その話はもう終わっただろうが」

「いや終わってない」

 詢子は垣根の言葉を遮る。

「だって君は本当の事を言わなかっただろ?」

「……、」

 垣根は答えない。

「あの娘が目を覚ましたから話を聞いた。全てね。ショッピングモールでの事から、事故
の事、そして――」

 詢子は少し言いづらそうにしたが、やがてはっきりした口調で、

「事故の相手から、暴力を振るわれて強姦されそうになった事」

「チッ」


 垣根は舌打ちをして、気まずそうに詢子から目を逸らす。
 だがそれを追うようにして、詢子は垣根の目の前に回り込む。

「何だよ……」

 垣根が鬱屈そうな声を出した。

「それで? 最終的に俺に何の用だよ」

 垣根は目の前の人物を睨みつける。スキルアウトならそれだけでひるませられそうだが、
詢子は臆しない。
 彼女も垣根の両目をしっかりと見つめる。
 そして、

「君が助けてくれたんだろ」

「あ?」

「あの娘の身体には殴られた跡はあったけど、犯された感じはなかった。服も所々汚れて
はいたけど、乱れた様子はなかったしね」

「―――、」

「そんなヤツらなら、犯した後にわざわざ服を着せ直したりはしない。あの娘は犯られる
前に気を失ったって言ってたけど、それはつまりその直後に誰かが助けてくれたって事だ
ろ?」

 詢子は垣根の目を『見た』。本当に『見た』。
 そして理解した。
 現場を見た訳ではないけれど、何があったのか簡単に想像できた。
 彼女は垣根の右手を両手で握る。そして――、

「ありがとう……ほんっとうにありがとう!」

 目に涙を浮かべながら、深く深く頭を下げた。


「……、」

 垣根は何も言わなかった。いや言えなかった。彼の顔には、驚いたような、途方に暮れ
るような、何とも言えない表情が浮かんでいた。







 三〇分くらい経っただろうか。もしかしたら一分も経っていないかもしれない。
 その後も詢子は何かを話し続けていたが、垣根は雷に撃たれたように固まっていた。
 実を言うと、彼は戸惑っていた。
 あんな風に人から感謝されたのは初めてだった。
 今まで経験した事もない気分に、彼は戸惑っていた。

(あれ? 何で俺感謝なんてされてんだ? 殴られてる間、傍観してただけなのに? い
や、てかそもそも助けてなんてねえよなあ? 俺はただ『後片付け』をしただけで……あ
れー?)

 詢子が何かを言っているが不思議と耳に入ってこない。頭の中で色んな考えがグルグル
グルグル渦巻いていた。

「こ、こんにちはー」

 そんな時、引き戸を開けてまた新たな訪問者が。面会時間終わってるはずなんだけどな
あと垣根はぼんやり思う。
 訪問者は二人。鹿目まどかと優しそうなメガネの男。父親か何かだろう。
 少女の左肩はギプスで固められている。

(……脱臼って完全治癒まで半年くらいだっけ? まあアイツ右利きみたいだし別にいい
か)


 今考える事ではないだろうが、何故かどうでもいい事ばかりが頭に浮かぶ。
 それくらい、先ほどの出来事は垣根に衝撃を与えていた。

「初めまして、鹿目知久です。垣根帝督君だっけ? 本当にありがとうね。君には感謝し
てもしきれないくらいだ」

 メガネが何か言った。垣根にしてはそれくらいの印象しかなかった。
 とりあえず、垣根帝督です、と彼は返した。
 その後はしばらく彼ら三人で何かを話していた。垣根もいくつか質問を受けたような気
がするが、何て答えたかすら覚えていない。
 フワフワしていた頭がやっと演算能力を取り戻したのは、知久が垣根のスーツケースを
持って病室を出て行こうとした時だった。

「オイ、何やってんだよ。人の荷物を勝手に持ち出そうとしてんじゃねえ」

 すると、詢子がキョトンとした顔になって、

「何言ってんのさ。先に運んでおいたほうが楽だろ? 今は車で来てるし」

「?」

 垣根は言葉の意味がいまいち理解できなかった。

「運ぶってどこにだよ? オマエら俺の家知ってんのか?」

 垣根が言うと、今度は三人共がキョトンとした顔になった。垣根はますます意味が分か
らない。世にも奇妙な物語でも見ている気分だ。

「話聞いてなかったのか? 君が言ったんだろ。退院した後はホテルで過ごすって」

「……、」

 どうやら知らない間に垣根は余計な事を口走っていたらしい。というより、そんな事を
答えさせるなんて一体どんな内容の質問だったのだろうか。


「じゃあ――余計おかしいじゃねえか。持ち出してその荷物どこに運ぶ気だったんだよ。
実家を調べて宅配でもしてくれんのか?」

「……本当に話聞いてなかったんだな君。まあ確かに何かボーっとしてるなとは思ってい
たけど」

 詢子はこう言ったが、垣根の頭にはもうクエスチョンマークが八個くらい浮かんでいる。
 言っている意味が全く分からない。

「家に運ぶに決まってるだろ。ああ家っていうのは鹿目家の事ね」

「? 堂々と泥棒宣言?」

「違あう!」

 呆れたように詢子が言う。ちなみに知久は苦笑いを浮かべていて、まどかは何か心配そ
うな目線を向けている。
 若年性アルツハイマーだとでも思われたのだろうか。

「はあ? じゃあ何だよコレは? 誰かこの状況を一言で説明してくれ」

 どう考えても意味が分からない。何がどうしたら他人に荷物を持って帰られなければい
けないのか? すぐに使わないものは保管してくれるという事だろうか?
 なら心配はいらない。何故なら垣根は近日退院予定だからだ。

「だーかーらー」

 それを言ったら詢子はさらに呆れたような顔になった。どうやら間違いだったらしい。

「だから?」

 困惑する垣根に詢子は息を吸い込んで一言。






「君はこれから鹿目家に住むの!」







「………………………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………………………
………………………………は?」


 今日はここまで。次は再来週くらいになりそうです。






 上条恭介。
『当麻』ではない。
 彼は四階の個人用病室でCDプレイヤーを使っていた。耳にフィットするやや小さめの
イヤホンから流れてくるのはクラシック。昼過ぎに幼なじみの少女が持って来てくれたも
のだ。彼女曰く『本来は明日発売されるもの』だそうで、融通を利かせた店員さんが特別
に売ってくれたとの事。上条としては、興奮気味に話す幼なじみよりも、むしろ対応した
店員の方が気になったりする。無理を押して店長に叱られていないといいのだが……。
 一方彼女にしてみればそんな上条の態度は何か不服だったらしく、

『ええ!! 何その微妙な反応!? もっと、ほら……喜んだりしない、普通? このCD発
売前のものだよ!? 今持ってるの世界中で恭介だけかもしれないよ!』

『そんな……大げさな。確かにCDを持って来てくれた事は嬉しいけど、別に明日になれ
ば普通に買えるものなんだし……』

『む……何その言い方? 恭介ってそんな無感動だっけ。そんな態度じゃ気を利かせてく
れた店員さんにも失礼だよ!』

『い、いや……CD自体は嬉しいって言ってるじゃん。ただ無理に発売前のものを買う必
要はないかなーって。クラシックなんて他にもいっぱいあるんだし……』

『はぁ!? それはつまり発売前かどうかなんてどっちでもいいって事!? 最っ低! 人の
気持ちも考えないで……もういいよ!』

 と、何故かお怒りモードになった少女は院内にふさわしくない声量で文句を言って、そ
のまま帰ってしまった。
 何だかよく分からない理由でキレられた上条だが、火種となったクラシックCDに罪は
ない。経緯はどうあれせっかく買ってきてくれたものなので、入浴をすませた後一度聴い
てみる事にした。
 就寝前にあまり気分を高揚させるようなものは聴きたくない。
 手元のカーソルを操作して、上条は比較的ゆっくりとしたテンポの曲を選ぶ。

(うん。いい曲だ……)

 視覚、嗅覚と並んで、聴覚――すなわち『音』というのは人の精神を動かすのにとても
有効的だ。落ち着きたい時はゆったりとした、目を覚ましたい時はアップテンポの曲を。
これは誰にでも共通するだと思う。
『俺はロックを聴きながら寝るぜ!』というパンチの利いた人も中にはいるかもしれない
が、大抵は寝る前、寝る時に聴くものといえば静かでゆっくりとした曲になるだろう。子
供を寝かしつけるための子守唄にはちゃんと理由があるのだ。
 それ以外にも人は音に対して『印象』を持っている。
 例えばよく閉店間際に流れるドヴォルザークの『家路~新世界より~』。この寂しげな
曲はまさしくお題の通り、聴いた人に帰らなければならないような心理にさせる、らしい。
先ほどまで院内に流れていた『蛍の光』も同じ目的だ。もし新装開店の飲食店で一日中こ
の曲を流し続ければ、すぐに客が寄り付かなくなる事間違いなしだ。来たとしても会話は
弾まないだろう。
 静かな場所では人は自然と静かになるもの、らしい。確証はないが。
 だからこそそういった所では少しの雑音がやけに気になる。静かな音楽で気分をリラッ
クスさせても、横で喚き散らされればかえってストレスが溜まる。
 そう、例えば今のように。


(……、うるさい)

 上の階から複数の声が聞こえてくる。楽しそうなものではなく、何か言い争っているよ
うな――聞いてて不快になる声だ。

(何だよ、こんな時間に……)

 デジタル時計がしめす時刻は九時半。
 もう面会時間はとっくに終わっている。『蛍の光』は人を帰宅させる効果があるらしい
が、それを意にも介さない輩もいるようだ。
 まあ、すぐに帰るだろうとこの時点では上条は楽観的に考えていたのだが、しばらく経
っても全くそんな気配はなく、『あれ? これ朝まで討論するんじゃね? ビートたけし
来てるんじゃねえの?』というくらいに、むしろ議論は熱を増しているしている模様。
 自分にとっても周りの患者にとっても、はっきり言ってクソ迷惑だ。
 一言文句を言ってやろうと、窓を開けた上条だったが、







「訳分っかんねえ事言ってんじゃねぞ!! クソババア!!」







 向こうから先に叫ばれた。キン……と耳に残る怒声。いかにもな感じの乱暴な言葉づか
い。見なくとも何となく人相風体が想像できる。
 こりゃダメだ、と上条は判断した。自分一人ではどうしようもなさそうだ。もし注意で
も呼びかけようものなら『やかましい! このド素人が!』とでも返ってくるだろう。
 という訳でナースコール。


 議論が白熱しているところ申し訳ないが、あの方達には強制的にご退去願おう。

「あ、すいません。上の人が暴れてるんですけど」







「(だから嫌だって言ってんだろうが……もうほんと感謝の気持ちとかいらねえから。も
う十分伝わりましたからほんと!)」

「(感謝の気持ちとか抜きにしても、キミ行くあてないんだろ? だったら家に泊まれば
いいじゃん。ホテル代も浮くんだし)」

「(僕もそのほうがいいと思うよ。だって一ヵ月もいるんだろ? 宿泊費だけでも馬鹿に
ならないよ? せっかくの旅行なんだからもっと他の事にお金使った方が……)」

「(……、なあ。俺どこまで喋ったの? ってか旅行って言ったの? まあいいけどよそ
れで)」

「(垣根さん本当に覚えてないんですか? 大丈夫ですか? 頭)」

「(……テメェ後から表出ろよコラ。リアルハンティングしてやるからな)」

「(え! あ、すいません。そんなつもりじゃなかったんですけど……。ただ大丈夫なの
かなあって。えーと……頭)」

「(何も変わってねえじゃねえか! せめて言い換えろよ!)」

 五階の病室で、円陣を組むようにして内緒話をするのは鹿目一家(知久・詢子・まど
か)+α(垣根)。
 こんな事をしている原因は病室に訪れた一人の男。


 白衣を着ていたので恐らくは医者だったのだろう。だろうというのは男があまりにも医
者には見えない風貌だったからだ。
 どんな容姿かと言うと、早い話がジャイアンだ。ジャイアンとジャイアンとジャイアン
を足して、二で割ったくらいのジャイアンだ。もうジャイアンよりもジャイアンらしいジ
ャイアンだった。実写化したらお前以外に誰がいるんだというくらいのジャイアンだった。
恐らくあだ名もジャイアンなのだろう。
 では、ジャイアン登場までの経緯をざっと説明する。
『君は鹿目家に住むの!』といきなり謎の宣告を受けた垣根帝督(実際は何度も確認を取
られていたのだが、彼は気づいていなかった)。一応理由を尋ねると、『娘を助けたお礼
に家に泊まっていくがいい』というニュアンスの訳の分からない返事が。
『娘を助けた事とアンタらの家に泊まる事と何の関係があんだよ?』と垣根は当たり前の
ように申し出を断る。
 累計八回くらいは言わされたんじゃないだろうか?
『嫌だ』『断る』『行かねえよ』『逆に? とかないから。行かねえよ』。垣根の口から
次々に飛び出す否定のワードワード……。
 だが鹿目一家(つってもほとんど詢子)もなかなか折れない。
 家に泊まるようにお願いする家族と、それを頑なに拒否し続ける少年。
 端から見れば微塵も理解できないようなやり取りが延々と繰り広げられる病室。何とシ
ュールな光景だろうか。だがシュール極まりないのは垣根の目線でも同じ。
 提案の内容が内容だけに、あまりにしつこい相手に恐怖を覚え始めた垣根は、この薄気
味悪い空気を断ち切ろうと大きく息を吸い込んで、







『訳の分っかんねえ事言ってんじゃねえぞ!! クソババア!!』






 ジャイアン出動の引き金となった一言だが、そこについてはそれほど問題ではない。む
しろ注目すべきは台詞の後半部分――。

『……クソ、ババア?』

 詢子の唇がピクリと動く。空気が瞬時に凍りついた。と思ったらもう燃え上がっていた。
形容するならこんな感じだろうか。

『フフ……そうか。クソババアか……』

 もしかしたら氷の溶ける瞬間を目撃した者がいたかもしれない。だが、『言ってやった
ぜ』と少し満足しかけてすらいた垣根が、そんな繊細な事に気づけるはずもない。







『ふざけんじゃねえぞ!! 私はまだ三四だゴルアアアアアァァァ!!』







 怒声と共に戦いの火蓋が切り落とされた。あら不思議! 平和なはずの病室がルール無
用の不良バトル空間に! 可変式のふかふかしたベッドは相手を叩きつけるためのリング
に! 今まで空気だった他二名はそれぞれレフェリーとセコンドに! はならず予想通り
オロオロとうろたえていた。どうにかやめさせようと間に入った知久だが、虎と獅子の争
いを敬虔な子羊が仲裁できるはずもない。『ま、まあ』と言った途端に詢子の肘打ちをく
らってワンラウンドKO。まどかに至っては、止めようとする気すら起きなかったのか、
部屋の隅でブルブルと震えているだけだった。


 この無意味な争いはジャイアンの『オイ、うるせえぞ』というドスの利いた一声により
治まる事となった。
 そして話は冒頭に戻る。

「(はいはい、分かったよ分かりましたよ! じゃあ完全にホテル代わりって事にしてい
いんだな?)」

「(食事くらいは出すよ。身元も探らないって約束する。君がどんな事情を抱えているか
は知らないけど、それは私達には関係ない事だからね)」

「(ケッ! 後から後悔すんじゃねえぞ)」

 うんざりしたような顔で、垣根は手を横に振る。詢子はそんな態度にはいちいち反応し
ない。

「(じゃあ明日明後日には退院するんだろ? このスーツケースの他には特に持っていく
ものはないみたいだし、これだけ運んどけばいいよな?)」

「(ああそれで十分。ったくよりにもよって俺みたいなヤツを招き入れるとは、物好きな
野郎だ。普通は煙たがるのにな)」

「(昔は私の周りも君みたいなのばっかだったからさ。これでも扱いには慣れてるつもり
なんだけどね)」

「……、」

「(ま、ママ駄目だよ! そんな言い方しちゃ――)」

 詢子の言葉に反応して、慌てたように鹿目まどかが駆け寄る。そして始まる母娘のやり
取り。一見すると微笑ましい光景だ。
 やり取りというか要するにじゃれ合いに近いのだが、まどかの怪我を気遣っているのか、
昨日の公園でのような乱暴さはない。『このーっ!』と手荒く扱うような素振りを見せな
がらも、彼女の手は娘の傷を確認するように、繊細に、丁寧に身体に触れている。
 まどか本人もその事には気づいているだろうが、あえて彼女は何も言わなかった。


『大丈夫だよ』とか『心配しないで』とかそういった類の言葉は一切口にしない。ただた
だ純朴そうな表情を浮かべて『やーめーてー!』と言っているだけだった。
 先ほどまでKOされていた知久は、一歩退いてそれを見守るようにしている。
 垣根には分からないが、これが家族の絆というものなのだろう。
 目で語る……というのは少し違う気がするが、何となく理解できるような気がした垣根
だった。
 だからこそ思うのだが―――、

「(場違いだなあ、俺)」

 誰にも聞こえぬようにそっと呟く。
 確かに、端から見てもこの状況はキツすぎる。いつの間にかできてしまっている。三対
一という構図が。
 元から慣れ合う気なんてない垣根だが、いくら何でもこれは……どう見たって仲間外れ
にされてるとしか思えない。いや、実際仲間外れだけど。垣根だけ鹿目家の人間じゃない
のだから。
 でもよく思い出して欲しい。
 ここは垣根帝督の病室なのだ。
 なのにどうして目の前でこんなホームドラマを見せつけられなければならないのだろう
か。それにさっきまでは喜んで迎え入れる的な事を言っていたくせに、いきなりこんな仕
打ちとはどう考えても酷過ぎないだろうか。まるで友達を何人か家に呼んだらその友達同
士で固まっちゃったような、そんな奇妙な疎外感。
 どうしてこんな感情を抱いたのか、垣根は自分でも分からなかったが、とりあえず居心
地が非常に悪いので鹿目一家には出て行ってもらう事にした。

「じゃあ君の荷物は家に運んどくからね」

 知久の言葉に垣根は『ああ』と頷く。何故か精神的に疲れたので一度一人になりたい。
 今日一日で色々あったせいだろう。

「ええと……お、おやすみなさい垣根さん。今日はいっぱい、その、本当にありがとうご
ざいました! あと……また一緒にモ●ハンしてもらっていいですか……」


 まどかが何か言ったが、よく聞こえなかったのでとりあえず『ああ』と頷く。去り際に
ちょっと嬉しそうな顔をしていたのは気のせいだろうか。
 垣根は特に考えなかった。

「じゃあ家の住所とかはあとでメールで送っとくから。これからヨロシク!」

「何勝手に赤外線通信してんだテメェはああああああアアアアァァァァ!!」

 いつの間にか垣根のPDAを持っていた詢子に大声でシャウトする垣根帝督。彼らはこ
の後、本日二度目のジャイアンを見る羽目になった。







 学園都市の暗部は非情な組織だ。
解体前も後もそれは変わらない。変わったものといえば『敵』と人員くらいか。
 人員。
 能力者がそこら中を闊歩する学園都市では、誰をメンバーに選ぶかというのは非常に重
要な問題だ。
 本来彼らの目的は、『公式の警備員[アンチスキル]が扱えないような事件』を『警備
員[アンチスキル]が行えない手段をもって解決する』事なので、能力開発を受けた学生
を相手にする事は珍しいのだが、かといって全くないという訳でもない。
 直接の対象ではなくとも、もしかしたら標的と協力関係にあるかもしれないからだ。
 弱能力者[レベル1]、異能力者[レベル2]程度なら、最新装備で圧倒できる。だが
高位能力者になるほど一筋縄ではいかなくなる。万が一にも超能力者[レベル5]を相手
にしようものなら、反対にこちらが壊滅させられてもおかしくない。
 度が過ぎた能力[チカラ]はもう便利程度では済まされないのだ。
 そして先にも言ったように、彼ら暗部の目的は『警備員[アンチスキル]が扱えないよ
うな事件』を『警備員[アンチスキル]が行えない手段をもって解決する』事だ。


 これは言い換えれば『表沙汰にできない事を内密に始末する』という意味になる。
 どのように始末するのかは言うまでもないだろう。
 つまりは失敗が許されないという事。どんなイレギュラーがあろうと、例え超能力者
[レベル5]が相手だろうと絶対に成功させなければならないという事。
 ではそんな化け物と戦うにはどうすればいいか?
 簡単な事だ。
 化け物[レベル5]には化け物[レベル5]で対抗すればいい。敵が一匹ならこちらは
二匹出せばいい。事実七人しかいない超能力者[レベル5]の大半は、何らかの形で『裏』
に関わっている。いや、関わっていた。つい最近までは。







 結論を言うと、現在暗部は『戦力不足』なのだ。







 詳しい経緯は割愛するが、黒夜海鳥とシルバークロース=アルファという『新入生』の
主力メンバー二人が撃破された。それも本来の『敵』ではない暗部の『卒業生』に。
 大変遺憾で悲観的な展開だ。このままでは『ヤツら』に勝てないのは明白。
 戦力を補強する必要がある。チャチなライフル銃ではなく、それ一つで戦況をガラリと
変えられるような圧倒的な『兵器』を。
 その『兵器候補』は、現在学園都市の外―――見滝原市に滞在している。
 一ヶ月後にはこの街に戻ってくる予定だ。そう。戻って来てもらわなければならない。
学園都市に。暗部に。


 だがそれを決定するのは彼自身。彼の性格から考えて、高確率で暗部に戻ってくるとは
思われているが、ひょっとしたら直前で止めるかもしれない。
 何せ気まぐれで知られる人物なのだ。
 逆に言えば、彼がそんな性格だからこそ、万が一の不安要素は徹底的に潰しておかなけ
ればならない。
 他の全ての可能性を排除して、確実にこの場所へ導かなければならない。







 ましてや『表』へ戻るように唆すなどもっての他だ。







 夜の学園都市。
 最終下校時刻はとっくに過ぎている。
 まず人が通らないような暗く腐った路地裏で、一人の男が倒れていた。顔は見えない。
うつ伏せで倒れているからだ。だが男は一向に立ち上がる気配がない。
 立ち上がらないのではなく立ち上がれないのだ。
 男の右肩部分。本来そこから伸びているはずの腕が、丸ごと消失している。肩も抉られ、
折れた鎖骨が古びたパイプみたいに突き刺さっている。
 気配はなかった。
 かろうじて聞き取れたのは、カチンという小さな小さな金属音のみ。
 火薬すら使わず、静かに獲物を捉える銃。皮肉な事に、彼はそんな武器を知っていた。

(磁力、狙撃……砲)


 背後からカツン、という音が聞こえた。
 朦朧とする頭を振り絞って、男はどうにか首だけを動かす。
 路地の入り口に黒い人影が立っている。手に大きなスーツケースを持って。

(……どうやら……当たりの、よう、ですね)

 謎の人影は近寄ってこない。その場に突っ立ったままで、相手は懐から丸い何かを取り
出した。鶏卵ほどの大きさに、上部にペットボトル式水筒の蓋のようなものが付いている。
そのフォルムを見て、右腕のなくなった男は微かに笑う。

「どうせ、なら、そっちの方で……とどめを、刺して、欲しかったですね……。まあ――
一撃で決めれないあたり、あなたの腕は、所詮知れてますが――」

「……、」

 返事はなかった。
 代わりに、相手の手から丸い『それ』が男に向かって投げられた。







(……、出ねえな)

 ジャイアンにこってり絞られた後、電話の男が言おうとした新たな『敵』の名前が気に
なった垣根。
 もう一度尋ねようと思ってさっきから電話をかけ続けているのだが、どういう訳か一向
に出る気配がない。

(しゃあねえ。また今度かけ直すか)


 彼は本当の事を知らない。
 電話の男を始末した彼らが、次に狙うのは誰なのか。表面下で何が起きているのか。垣
根帝督は何一つ把握できていない。
 だが相手はいちいちこちらの事情など汲み取ってはくれない。
 すでに彼らは動き出している。
 莫大な『戦力』を手に入れるために、彼らはどれだけ残酷な手段も厭わない。







 学園都市の暗部は非情な組織だ。


 今日はここまで。やっと一章目が終わりました。
 次からは暗部編です。




 一一月八日は体育の日で祝日となっている。
 数ある国民の休日の中でもいまいち位置づけの不明なこの日。体育と冠するあたり、恐
らくスポーツ推奨みたいな意味があるのだろう。
『それぐらい調べろよ』という意見に関しては『面倒臭いので嫌です』という答えでご愛
嬌頂こう。本当の由来を知りたい方は個人的にどうぞ。
 さて、そんな祝日の月曜日。天候もスポーツをするのには最適な快晴だ。
 その素晴らしい天気の下で、運動とかそういった単語とはあまり縁がなさそうに見える
ノンアクティブな若者が二人。

「……、外見は小奇麗にしてやがんな。アイツが植木の手入れをするとは思えねえんだ
が?」

 本日から一ヵ月お世話になる家の前で、ノンアクティブズの片割れ、垣根帝督が呟いた。

「アイツっていうのがどっちの事か分からないけど、家事については大体パパがやってる
よ。うちはママが働いて、パパが専業主夫なんだー」

 垣根の隣で鈴の鳴るような声を出すのは、この家の長女―――鹿目まどか。中学生にし
ては小柄な体に、二つにまとめた明るい髪。どちらかというとキレイというよりカワイイ
といった言葉が似合う少女だ。

「なるほどね。確かにそっちの方がしっくりくる。アイツが汗水垂らしながら草むしりな
んざ、想像しただけで爆笑もんだ」

「最初はパパが働いてたみたいなんだけど、なんか……やっぱり違うって気づいたみたい。
あ、玄関の鍵開けるね」

 タタタ、と可愛らしい動作で走っていくまどか。垣根は何となくそれを目で追う。しか
しまどかの姿をぼんやりと見ているのではなく、彼の視線は体の一部分に注がれている。
 ブランと垂れ下がった彼女の左腕。
 一昨日までのギプスはもう付けられていない。
 昨日、整体師による治療を受けたあと、まどかに施されたのは一枚の分厚いテープのみ
だった。
 警備員[アンチスキル]の運用から外された、発条包帯[ハードテーピング]を改良し
たもので、このテープ自体が医療器具になっている。
 垣根も初めて知ったのだが、この中にはマイクロチップと超薄型のバッテリーが埋め込
まれていて、そこから常に特殊な電気信号が発信されているそうだ。その電波を使って、
一定範囲の筋肉を完全に掌握。脳からの命令を受け付けなくする事で、『無理矢理動かそ
うとする事』すらできなくさせるというもの。要するに、常時麻酔にかけられていると思
っていただければいい。
 利点としては、ショルダーガードなどと比べて目立たない事と、患部以外の自由度が高
い事が挙げられる。特にこれといった処置なしに、どこにでも貼れるというのも高ポイン
トだ。
 欠点としては、学園都市製とあって少々値が張る事と、加えて内蔵されているバッテリ
ーは充電ができない事だろう。つまり三、四日に一度貼り替えなくてはならないのだ。
 家計のやり繰りに苦心するお母さん方(ここではお父さんだが)には胸が痛む金額だと
思われる。
 だが、


(……一気に一〇枚も買いやがった、アイツ)

 しかも悩んで悩み抜いて最終的に一〇枚を買うに至ったのではない。医者から『こんな
ものもありますよ』と紹介され、『じゃあとりあえず一〇枚で』といった態度だった。
 苦笑いを浮かべる医者から金額を告げられても、意見を変えようとしなかったあたり、
鹿目家はまあまあ富裕層に位置するのだろうか。
 確かに、見る限りは家もキレイでそこそこ広そうだ。
 キレイなのは知久の努力もあるだろうが、それ以上に比較的新しいという事が言えるだ
ろう。それを見て垣根は思う。

(前面はガラス張りかよ……。つくづく俺にはふさわしくない所だな)

 形だけでも先進性を求めるこの街では、こういうスタイルが流行りなのかもしれない。
 うんざりしたような顔をしつつ、垣根はまどかが開けた玄関から中に入る。
 今日は祝日で仕事は休みだが、家主である詢子と知久はこの場にいない。
 鹿目家は三人家族だと垣根は思っていたのだが、どうやら下にもう一人いるらしいのだ。
 聞けば、その弟は入院していて、あの晩まどかが自転車に乗っていたのも、弟に会いに
行くためだったらしい。
 なるほど、確かにそれなら辻褄が合う。大きな紙袋にパンパンに詰め込まれていた子供
用の着替えは、弟のものだったという事だ。
 現在、両親二人は病院の方へ行っている。
 この事実を前にして、垣根はようやく理解した。どうしてあれだけ執拗に、家に来る事
を迫ったのか。

(……家政婦代わりか。ナメてやがるなチクショウ)


     *


 全体的に明るい印象を受ける内装だった。
 テーブルの置かれたオープンキッチンに、やたら広々とした洗面所。

「裏庭では家庭菜園もやってるよ。最近は……パパがよくプチトマトとってるかな」


「……ふうん。オマエはやんねえのか」

「た、たまに手伝ったりはするよ! たまに……だけど」

「そりゃやりませんって言ってんのと同じだぜ。まあオマエ家事できなさそうだもんな」

 そんな事ないっ! と喚く少女を尻目に、垣根はぐるりと中を見渡す。

「んで、俺の荷物はどこにあんの? この前のスーツケース」

「え、ああ、それならもう垣根さんが泊まる部屋に置いてるよ。案内するね」

 そう言って、まどかは階段を上っていく。
 垣根もそれについていくと、二階の一番奥の部屋に到着した。
 ドアノブが付いた隣の部屋とは違って、こちらは襖で区切られていた。前の廊下がフロ
ーリングなので、見る人によっては違和感を覚えるかもしれない。

「将来的にはタツヤ……えーと、弟の部屋になる予定らしいんだけど。さ、どうぞ」

 両親溺愛の弟の名前は『タツヤ』というらしい。まあどうでもいい情報だなと思いなが
ら、垣根は中に入る。
 特筆すべき所は見当たらない(この街では珍しい事に)ごく普通の和室だった。
 長方形の六畳間に、何の変哲もない簡素な押し入れ。あえて不自然な点を挙げるとすれ
ば、隣の部屋と繋がっている開放的なバルコニーと、

(……『床の間』と『違い棚』があんだが……その割には花活けも掛け軸もねえってのは
どういう了見だ?)

 極め付けには、その床の間には垣根のスーツケースがドカンと置かれている。
 間違ってもここは荷物置き場などではないのだが……。一体何と勘違いしたのだろうか。

「ええと、ふとんは押し入れの中で。あと、何か要るものがあったら言ってくれってママ
が」


 部屋の戸を網戸にして空気を入れ替えながら、まどかは適当な調子で告げた。
 詢子の伝言について垣根は少し考えて、

「いや……いい。金がない訳じゃねえからな。欲しいモンがあったら自分で買う」

(それ以前にこの街に俺が興味引かれるようなモンがあるかって話だがな)

 先日買ったゲームについては、

(アレは例外だな。うん)

 何とも都合の良い思考回路だが、本人曰くそういう事らしい。
 垣根が金銭面で困窮していないのはまどかも承知の事実なので、彼の返答に対して特に
戸惑うような様子はなかった。

「うん、じゃあそうママに言っとくね。あと、何か分からない事とかは……」

「ない」

 即答だった。
 何か一つくらい聞かれるだろうと思っていたのか、まどかは拍子ぬけしたような表情に
なる。

「あ、そ、そう……。えーと、じゃあ何かあったら呼んでね。わたしの部屋隣だから」

 バルコニーを共有する隣がまどかの部屋らしい。ドアノブが付いていたので、あちらは
洋室なのだろう。
 垣根は壁越しに何となく目をやり、

「風呂出た時タオルなかったら、ノックせずに飛び込んでいい?」

「もちろん、駄目ですよ」

 ニコッと笑って返された。思ったような反応が得られず、垣根としては少し寂しい。


(対処法を覚えられたか……。もう下ネタは封印だな)

『もう』というのは、昨日垣根がまどかの事をからかい続けていたからだ。
 垣根はもとより、肩の治療が終わった後はまどかも暇を持て余していたので、なし崩し
的に二人は垣根の病室でモ●ハンをする事になったのである。
 当然無言状態の中、殺伐と電子音だけが響くという事はなく、所々会話を挿みながら、
両者とも気軽な調子でプレイしていた。
 始めの方の会話は、敵の特徴などプレイに関するものばかりだったが、時間が経つにつ
れて次第に打ち解け、だんだんとゲーム以外の話もするようになっていった。
 その中で垣根がポンと放り込んだ少しアダルトな単語。彼としてはそれほど際どい事を
言ったつもりはなかったのだが、聞いたまどかは異常に顔を赤くした。彼にしてみればそ
の初々しさが面白かったのか、図に乗ってその後も下ネタを連発したのだが……、

(……ちょっと早急にやりすぎたな。反応が鈍るのが以外と早かった)

 誰だって何度も同じ事をされれば慣れてくる訳で、最初こそ恥ずかしがったり(たまに
ノッてくれたり)していたまどかだったが、途中からはあしらい方を覚えたようで、最終
的に垣根の一人コントみたいになってしまった。
 そんなくだらない事ばかり言っていたので見下されたのかもしれない。いつの間にか敬
語も使ってくれなくなった。まあ垣根としたら、そっちの方が楽でいいのだが。

(―――てか何で俺あんな事言ったんだろう? もしかして変態だと思われたかも。まあ
いっか)

 この男、思春期の少女に対して下ネタトーク全開だった事については何の反省もしてい
ないらしい。
 詢子が聞いていたら殴られていた所だが……。とりあえず自分が楽しければそれでいい
のだろうか。

(っつーか、よく考えたら一ヵ月も何して過ごせばいいんだ? 観光? ガラじゃねえな)

 垣根帝督は本当に気まぐれな人間だ。周囲からはずっと言い続けられてきた。本人も些
か自覚はあるようだが、具体的に直そうという気はないらしい。


 垣根にそう言われてしまえばもうおしまいだ。誰も逆らう事などできないのだから。
『あ、そうですか』の一言に尽きる。
 恐らくそれが自分のスタンスだと、彼自身自負しているのだろう。

(まあのんびり過ごすか。この『一か月だけ』は休息時間だ。その間に色々調べる事もで
きんだろ)

 そんな気まぐれ少年と鹿目一家の奇妙な共同生活。
 どうなるかは分からないが、とにかく始まってしまった。目は出ていないが、賽は投げ
られた。
 言ってしまえば、ここまではプロローグのようなもの。本当の物語はここから始まる。

(……とりあえず『アイツ』に電話してみねえと。『敵』の名前が知りたい)



 余談だが、まどかが『姉妹丼』という言葉を知っていた事は、垣根にとって少し衝撃だ
ったりする。


     *


 垣根を案内した後、鹿目まどかはリビングに降りて来ていた。
 キッチンの前の四足テーブルの上にはいくつかの書物が投げ出されている。デフォルト
化されたイヌの表紙に並べられた文字は『数学』。もう一冊には『日本史B』。
 なんという事はない。彼女が普段学校で使っているテキストだ。
 まどかはそれを横目に、小さく息を吐く。

(モ●ハンやりたいのに……。でもママとの約束もあるし、うう……板挟みだよう)


 ママとの約束というのは彼女の月の小遣いの事。
 次の中間テストの結果次第では大幅アップも見込めるという話だった。かねてより、そ
の事を訴え続けてきたまどかにとっては朗報と言えるだろう。
 運動と違って、勉強は元々それほど苦手ではない。かと言って得意というほどでもない
のだが……。
 大体いつもクラスで一〇番前後―――真剣にやれば上位に食い込めるかなというのが彼
女のステータスだった。
 逆に、サボればあっという間に落ちる。
 彼女はどこぞの完全記憶能力のシスターとは違う。
 一年の終わりに、友達と遊び過ぎてヒドイ点数を取った時に痛感させられた(本人の名
誉のため点数は伏せておく)。
 結局、凡人が良い成績を収めたければ努力するしかないのである。
 そう考えて、まどかは諦めたように教科書を開いた。
 テストは一週間後。
 金の力は強い。
 やはり小遣いアップは捨て切れなかった。


     *


 垣根帝督の持ち物はこのスーツケースの中にあるだけ。
 荷物の整理(と言えるのかどうかも微妙だが)なんて五分もかからなかった。
『例の男』に電話してみるも……まあ予想通りというか繋がらず、その後もケータイでニ
ュースを見たりしながら度々かけ直すもやはり繋がらず、そうこうしている内に二時間ほ
ども経ってしまった。
 気づけば外は暗ずみ始め、どこからかカラスの鳴き声も聞こえてくる。
 ケータイの待ち受け画面には五時三〇分の表示。
 それを見て垣根はしみじみと思う。

(はあ、もう陽が落ちんのか。早えなあ……。つい数か月前ならまだ昼みてえな感覚だっ
たってのに―――もう一一月か)


 と、哀愁にふけっていた垣根だったが、そこで彼はふと肌寒さのようなものを感じた。
 今日は快晴なので、夜は一層冷え込む事になるだろう。
 畳に座ったまま、垣根は首を動かして部屋を見回す。
 だが見つからない。
 リモコンが。
 嫌な予感がした垣根は、姿勢はそのまま顔だけを今度は上に向ける。


 予感は的中した。


(オイオイオイオイマジですかあ。エアコンすらねえのかよこの部屋は! 今時和室でも
それくらい設置するだろ。ってか、そんな部屋に人を泊まらせようとすんじゃねえよ! 
毛布被って過ごせって事か!?)

 部屋に入って数時間経ってやっと気付いたが、それでもおかしいものはおかしい。
 夏とかどうするつもりなのだろう。
 ここは将来弟の部屋になるらしいが、こんなもん絶対に文句言われるだろうと垣根は思
う。
 見滝原は盆地だ。
 冬には雪が積もる事も珍しくないし、夏には三五度をゆうに超える。
 修行僧でもない現代っ子にとって、クーラーなしで過ごすには少々厳しい気候だ。

(この部屋が使われてなかったのって絶対このせいじゃ―――って寒ッ! やべえ、意識
しだすと余計に寒ッ!)

 色々と思う事(苦情)はあるのだが、とりあえず寒いので下に降りる事にした。
 垣根の部屋とは違って、リビングはエアコンが効いて、暖かかった。
 機械のゴオオオという音に、若干心が和む。

「あ、垣根さん。どうでした―――じゃなくてどうだった? 新しい部屋は」

 垣根の姿を見て、椅子に座っていたまどかが顔を上げた。
 テーブルの上には電子辞書や参考書が積まれている。


 彼はそれを一瞥して、呆れたように告げる。

「どうだった? じゃねえよ。何だよあれ。俺に凍死しろって言ってんのか」

 それを聞いて、まどかは垣根の言いたい事が分かったようで、

「ああ、それは何か‘和の雰囲気を崩したくない’とかってパパが。設計士に頼んで結構
本格的にしてもらったらしいから」

「‘らしい’ってオマエはあれ見ても本格的かどうか分かんねえのかよ。……さては床の
間にスーツケース置いたのオマエだな」

「え!? 床の間って荷物を置く所じゃないの? 旅館とか行ったらいつもそうしてるんだ
けど……」

 キョトンとした顔でまどかが言った。
 どうやら本気でそう思っているらしい。

「……、まあいいや。そんで、俺はどうすればいいんだ?」

「えっと、確か遠赤外線式のヒーターがあったと思うんだけど……」

 曖昧な口調で言って、まどかは隣の部屋に消えていった。
 あの様子だと、探すのには少し時間がかかりそうだ。

(ヒーターなんてモン、まだあったんかよ。学園都市に持ち込めば骨董品扱いだな)

 久しぶりに聞いた単語に少し拍子ぬけした垣根だが、別にここに永住する訳でもなし。
 寒さと雨露さえ凌げれば、後はどうでもいいのだ。
『にしても広いリビングだな』と垣根が庭の方へ目を向けようとした時だった。


 パリン! という鋭い破裂音が垣根の耳を突く。
 そして直後に届く『ギャア!』という叫び声。



 大方、しまっておいた壺か皿でも落としたのだろう。

(ナニやってんだよ。ハァ……)

 案外垣根が自分で探した方が早いのかもしれない。
 ドジっ娘に対して何の萌え要素も感じない彼は、その場で肩を落とす。

「オイ、大丈夫かー。別に無理して探す必要はねえぞ。ないならないで買ってくりゃ済む
んだからよ」

 別にヒーターである必要はない。
 駅前のショッピングモールに行けば、それこそ多種多様な電化製品が並んでいるだろう。
 垣根は家電マニアではないが、『外』の製品に少し興味があったりはする。彼に限らず、
学園都市の学生なら大多数はそうだろう。
 少し遅れて、隣の部屋から返事がきた。

「だ、大丈―――大丈夫! ある、はず。絶対に。だからもうちょっと待ってて。絶対に
あるから」

(……、)

 疑わしいが、声にはやけに自身の色が見えたので、しばらく言われたとおりにする事に。
 絶対に! という限りは、本当に片付けた記憶があるのだろう。

(何かムキになってねえか―――アイツ)

 モ●ハンの時といい、案外頑固な性格なのかもしれない。意地っ張りとも言うが……。
 特にやる事のない(手伝おうとはしない)垣根は、もう一度グルリと部屋を見渡す。
 面積の割にモノが少なく、やや殺風景なイメージを受ける。

(こんだけ広いと、掃除が大変そうだ)


 暗に知久を労いつつ、垣根はテーブルの前の椅子に腰を下ろす。
 課題の途中だったのか、目の前にはA4サイズのプリントと教科書が開かれていた。主
題は共に『幕藩体制の成立』。垣根はそれをじっと眺めて、

(……氏名の欄『徳川秀忠』に書き換えておくか)


     *


「―――あ、あった」

 探し始めてはや一〇分。
 途中金魚鉢を割ったりしながら、押し入れの奥の奥の奥にしまわれていたそれを、鹿目
まどかはようやく見つけ出した。
 よいしょ! という掛け声と共に勢いよく引っ張り出す。
 幅八〇センチ、高さ六〇センチほどの白い薄型テレビのような機材だった。
 付着した埃を手で払って、テーブルを抱えるように両手で持ち上げる。
 そのまま振り返った途端、鹿目まどかはがっくりと疲れたような表情になった。
 彼女の足元には、段ボールやらアルバムやら、何だかよく分からない機械が散乱してい
る。暖房器具を取り出す際に、一旦外に出したモノだ。
 彼女はこれを、また押し入れに戻さなければならない。

「面倒臭い……、垣根さん手伝ってくれるかなぁ……」

 ポツリと呟いて、テスト勉強に追われる少女は、とりあえずリビングへ戻る事に。

「お、見つかったんだ。お疲れお疲れお疲れさん」

 薄い板のような機材を見て、垣根はプリントから顔を上げた。‘プリント’というのは
この男、暇つぶしに日本史の課題を勝手に解いていたのだが……、
 対するまどかの反応は『えー、そんな言い方って酷いよ』というものだった。
 抱えた暖房器具で視界が塞がり、前が見えていなかったのだ。


 椅子から立ち上がって、ヒーターを受け取ろうとした垣根だが、そこで彼はピタリと動
きを止めた。
 彼の目線は下に向けられている。
 今ちょうど一歩踏み出そうとしている、まどかの足元に。

「ぉ―――」

 垣根が何か声を発したが、彼女は最後まで聞き取れなかった。

「―――??」

 何か細い枝のような感触が足裏に走ると同時、自分の身体が前へ傾いたのをまどかは感
じた。彼女の両手にはヒーターが抱えられている。
 そして―――、


 今日はこれまで。あけましておめでとうございます。






 命綱(ヒーター)はスクラップになりました。
 理由は明快。足を滑らせた鹿目まどかが全体重を乗せて、勢いよくテーブルの角に叩き
つけたからだ。
 バギン!! ガシャン!! という一連の轟音の後、両者の間にわずかな静寂が訪れ、彼女
はポツリと呟いた。
『不幸だ……』。
 それから一時間後、彼らは駅に向かう裏通りを歩いていた。

「うう……、まさかあんなベストなポジションにボールペンが落ちてるだなんて」

「まさにギャグ漫画ばりのコケっぷりだったな。ま、今回はもっと早く気付けなかった俺
にもちょっとは非はあるんで、買ってやるよ。もっと新しくてイイやつ」

 ケラケラと小気味に笑いながら、垣根はまどかの肩をポンと叩く。
 破壊された器具か、豪快な転びかたか、直後のポカンとしたまどかの表情か、何かが彼
のツボに入ったらしい。
 後々になって笑いが込み上げてきたのか、片付けの最中もずっとこんな調子だった。何
がそんなに面白いのだろうと、まどかはうんざりしたように息を吐く。

「くく……、にしても傑作だったな。動画でも撮っとくべきだった」

 タイトルマッチの勝者と敗者の如く、両者のテンションは対照的だった。


     *


 そんな訳で新しく暖房器具を買いにきた二人。
 グラウンドのような駐車場。吹き抜けの店内。場所はいつぞやのショッピングモール。 
 その四階の電化製品のブースに、垣根帝督はいた。

「……イイな、コレ。なんつーかこう、男心がくすぐられる」

 ポツリと呟いた彼の手元には、何か黒くて丸い物体が。
 マ●オシリーズに出てくるボム兵の足裏にローラーをくっつけましたというような形状
で、上部には導火線の代わりに、直径五ミリほどの穴がいくつもあいている。上からだと
ボーリングの玉のように見えるかもしれない。
 ほうほうと、垣根が覗き込むようにそれを眺めていると、ふと横から声がかけられた。

「えっと……垣根さん、それ、加湿器」

「分かってるっての。ただ、こんな珍しいモンがありゃあ少しくらい興味持ったっていい
だろ。見ろよこの奇抜なボディ」

 少し興奮気味に言って、垣根はグイっと黒塗りの加湿器を差し出す。
 んん……、と若干引きながらも、まどかは品定めするように眺めて……そこで不思議そ
うな顔をした。


「あ、あれ? 何で加湿器にローラーが」

「お、イイとこに気付いたじゃねえか。そう、それこそがコイツの一番の特徴。実はコレ
はな―――」

 セールスマンのような口調になりながら、垣根は近くのリモコンへと手を伸ばす。

「……?」

 キョトンとするまどかをよそに、彼はニヤニヤと不気味に笑い、ローラー付き加湿器を
床に置いた。
 そのまま数歩下がって、

「オラ、レッツゴー!」


 ブイイイイイイイイイイン!! という音を立てて、加湿器が急発進した。


「……!?」

 水蒸気をまき散らしながら猛スピードで突進してきたボム兵もどきに、買い物を楽しん
でいたらしい若い女性客が『キャアアアァ!!』と叫んで豪快に転んだ。飛び退こうとした
ようだが、ヒールを履いていたので上手くいかず、スカートが捲れて下着があらわに。

「―――、」

 戻ってきた黒マルを抱え上げ、垣根は満足そうな表情を浮かべる。
 ピッともう一度リモコンのボタンを押すと、上の穴から噴き出していた蒸気も止まった。

「な、スゲエだろ? 加湿器にラジコン機能を付けるなんて誰が思いつくよ」

 まどかは暫く唖然としていたが、勝ち誇ったような垣根の言葉を聞いて我に返り、


「い、いや……いやいや、意味分からない。何で? どうして加湿器が走るの。どうして
走らせようと思ったの。もはや悪ふざけのレベルだよ……」

「斬新だろ?」

「斬新……なのかなぁ。ある意味では」

 一体どんな反応を期待していたのか、戸惑ったようなまどかの言い方に、彼は不服そう
な顔をした。『やっぱオマエに男のロマンは分かんねえわ』と言おうとして、そこでふと
垣根は気づいた。

「あれ? そもそも俺達ってナニ買いにきたんだっけ?」

「……、」


     *


 学園都市関連の研究施設は、主に見滝原市北部―――市街地から離れた山間部を切り開
いて造られている。
 理由は、人の目に触れたくないというのが第一だろう。一応周囲一キロに渡って電気柵
が張り巡らせてあるものの、中にはそれを強引に突破してくる好奇心の塊のような若者も
いるらしい。しかしそういった輩でさえも、柵の先にある赤外線レーダーには対処できず、
大音量のサイレンに慌てふためいて逃げ帰ってしまうのがオチだ。
 このような秘匿性のため、見滝原市の市民で、中で何が行われているのかを知る者はほ
とんどいない。
 地元民からは『エリア51』などど呼ばれている建物群。
 一つが体育館ほどの大きさの施設は、それぞれが独立して見えるものの、実は地下通路
で全てが繋がっている。
 正確に言うと、地中深くに巨大な核シェルターのような部屋があり、そこから枝分かれ
するように、各施設へと通路が延びている。
 その中の一つを使って、今四人の男達がとある建物に入った。


―――非科学現象解析研究所。
 長ったらしいだけでいまいちピンとこない名前だが、要するに学園都市にとっての新た
な敵である『魔術』の法則を解明するための施設だ。

「蛇足だとは思うが、今一度確認しておく」

 事務室の扉をバタンと閉め、熊のような大男が口を開いた。
 彼の名は『佐久辰彦』。
 学園都市暗部『ブロック』の元リーダーであり、現在は『新入生』の一員として動いて
いる。
 三人の部下を連れて、今回彼はとある任務を遂行するために、ここ、見滝原に来た。
 この研究所は臨時のアジトという訳だ。

「俺達の目的は言うまでもない」

 彼は部下全員と一度目を合わせて、それから重々しい声で話し始めた。

「そう、元『スクール』リーダー、『垣根帝督』の説得だ。いいか? 説得だぞ。一月後、
必ず『新入生』に入るように、ヤツと話をつけるんだ。たとえ断られても争うなよ。とに
かく下手に出ろ。だから武器は持つな」

 使った所で勝ち目はないからな、と彼は言い聞かせるように付け加えて、そこで苦虫を
噛み潰したような顔をした。

「……あんなヤツに頭を下げるのは俺にとっても屈辱だ。だが今だけは堪えろ。アイツに
は俺達の命運がかかっているんだ」

 神妙に、憎々しげに彼は言った。
 上司の気持ちを汲んでいるのか、部下の男達はただ黙って彼の言葉を聞いている。同じ
気持ちなのか、静かに頷く者もいる。
 そんな部下達の様子を見て、佐久辰彦はフッと小さく笑った。不気味に口角を上げなが
ら、彼は諭すような口調で言う。


「そんな顔をするな。確かに垣根帝督に対しては下手に出ろといったが、それはあくまで
『垣根帝督には』だ」

 佐久の笑みが一層深くなる。
 部下の男達がピクリと肩を震わせた。佐久の言わんとする事を理解したのだろう。
 つまり、と彼は続け、そうしながら懐から一枚の紙を取り出した。
 写真だ。
 部下達からは裏面しか見えないが、佐久はその写真を見て恍惚な表情を浮かべている。
 その表情につられるように、声色も楽しそうなものに変わる。
 佐久は言う。


「別にそれ以外のヤツらには、何をしたって構わねいって事だよな? 上からは何も言わ
れていない。あのクソ野郎に頭下げるぶん、他で鬱憤晴らしといこうじゃないか」


 佐久の手元には、とある少女の写真があった。


 予定通り電気ストーブを購入して量販店を出ると、まどかと垣根のケータイには同じ内
容のメールが送信されていた。送り主は知久。内容は『今日も遅くなりそうだから先にご
飯食べててくれるかな、悪いね』というものだった。

(早速きやがった。まさか初日からとはな)

 画面をスクロールさせながら、垣根は苦々しく息を吐く。

「『今日も』って事は昨日も一人だったのか、オマエ」

「ううん。昨日は病院から帰る時に三人でラーメン屋に入ったんだけど、夜も一〇時を回
ってたからそれまでがキツかったよ……」

「一〇時? んだよ、結局面会時間ギリギリまでいたんかよ」

 確か八時くらいにはゲームをやめて病室を出て行ったはずだけどな、と垣根は昨晩の記
憶を思い返す。

「それからはずっとタツヤの所にいたの。まだ小さいから……心配なんだよ。パパもママ
も」

「おやおや……、嫉妬ですかな?」

「ち、違うよ!」

 と、まどかがツッコンだ所で、彼は肝心な事を聞いてみる。

「じゃあ飯はどうする? 家に何かあんの」

「ううん、ない」

 キッパリと否定された。これはますます垣根=ホームヘルパー説が現実味を帯びてきた
ぞと彼は思いつつ、

「じゃあ食って帰っか。都合よくモールの中にいるしな。何か食いたいモンある? 俺腹
減ってねえしマジで何でもいいんだけど」

 隣にいるクソガキに料理ができるとは到底思えない。
 それに、今垣根は電気ストーブの入った段ボール箱を抱えているのだ。食材を買って、
これ以上荷物が増えるのはご遠慮願いたい。
 垣根の言葉を受けて、まどかは少し黙った。それから彼女は戸惑うような仕草を見せて、

「えーっと……じ、じゃあお寿司、とか……」

(寿司ねえ……)

 垣根は四階フロアの案内図に目をやる。
 ほんの三秒ほど見て、彼は面倒臭そうに歩きだした。

「何だよ、モールの中に入ってねえじゃねーか。ったく、どこだっけな寿司屋。……駅前
の通りにいくつかあったか?」

 何かブツブツ言いながらエスカレータを降りていく茶髪少年。対して、提案者まどかは
『あれ?』と頭に疑問符を浮かべた。
 レストラン街には、回転寿司のチェーン店がちゃんと入っている。案内図でも確認でき
るし、ここからでも行列ができているのが目に見える。
 外にもあることはあるが、今の時間帯ならどこも満席だろう。わざわざ移動する必要は
ない。


「ね、ねえ、どこに行くの? お寿司屋さんなら向こうだよ。ほら!」

 まどかが指差して伝えようとするが、彼はそちらを見ようともせずに面倒臭げに答える。

「この中にはないって。今案内図見たばっかで間違えるかよ。ほら、さっさと行くぞ。オ
マエが言い出したんだろ、寿司が食いたいって」

「……むう」

 適当にあしらわれて、まどかは思わず顔をしかめる。が、こうなったらもう何を言って
もこの少年は聞き耳を持たなさそうだ。
 ここの系列は嫌いなのだろうか? そんな風に考えてとりあえずは垣根について行く事
にしたまどか。


     *


 そう、彼女は思っていたのだが……、

「――――――――――――――――、」

『ウニ』とか『中トロ』などという少年の声を横に聞きながら、鹿目まどかは茫然として
いた。
 現在、彼らは文字通り『寿司屋』の中にいる。そして、寿司を食べたいと言ったのはま
どかの方だ。そこまではいいだろう。
 だが、実を言うと彼女は本当に寿司が食べたかった訳ではない。ただ、垣根はそんなに
お腹が空いていないと言うし、まどかも手持ちはそれほどない。お寿司なら自分の調子に
合わせて食べられるし、腹八分目くらいに留めておけば無駄な出費も抑えられると思った
のだ。
 ただし、


 それは一皿一〇〇円の回転寿司の場合だ。


 彼女は、先ほどから板前に向かって『良く分からない単語』を連呼している茶髪少年に目を向ける。

「あん? どうした。さっさと頼めよ。寿司が食いたかったんだろ」


「いや、だ、だって……!」

 ツケ場の後ろに飾られている「本日のおススメ」の欄には、当たり前のように0がいく
つも並んでいる。普段、マシーンが握る一〇〇円寿司をおいしそうにほおばる庶民派の彼
女は、それを見ただけで目を回しそうになる。

(ひ、一貫一五〇〇円!? こっちは、じ、時価……? ひ、ひやあああああァァァァ―――)

「なあ、いつまでイスの上で固まってんだ? まあいいや。オイ、とりあえず適当に一人
前握ってやってくれ。ん? ああ特上でいっか」

 ギャアアアア!! とまどかは心の中で悲鳴を上げる。
 さすがに不審に思ったのか、板長(らしき人)が垣根に声をかけるが、彼が分厚い財布
をわざとらしく見せつけると、臆したように下を向いた。
 恐らく『危険な団体』の子息かなにかだとでも思われたのだろうが、それを知ってか知
らずか当人は勝ち誇ったような顔だ。
 それとは対照的に、不安と困惑が入り混じったような表情のまどかに彼は声をかける。

「何で落ち込んでんのオマエ? ああ心配すんな。もちろんここは奢ってやるよ。ガキに
払わせたりしねえさ」

 どう見ても未成年の『ガキ』がこんな事を言いながら生ビールを注文した訳だが、彼女
はもうツッコム気さえ失せていた。きっと心のどこかで『コイツなら何をしても不思議じ
ゃない』と思い始めているのだろう。
 今までまどかの周りには全くと言っていいほどいなかったタイプの人間だ。
 友人に『美樹さやか』という少々破天荒な少女がいるが、彼はそんなレベルではない。
『ガキ大将』と『ヤクザの親分』くらい違う。

(大丈夫かなあ……)

 まどかは正直不安に思う。
 これからこの少年と一ヵ月過ごす訳だが、果たして生活自体成立するのか。ここまで価
値観がズれていると、もはやそれすらも怪しくなってくる。

(でも悪い人じゃないんだよね)


 助けられた事に関しては、彼女は心から感謝している。あの時偶然垣根が通りがからな
ければ、少女の心には凄絶な傷跡が刻まれていただろう。
 逆に言えば、そんな事があったからこそ露骨な下ネタや人並み外れた金銭感覚といった
彼の『負』の部分がまどかにとっては残念でならない。長所もあれば短所もあるのが人間
なのだろうが、一度相手に好意的な印象を抱くと、自分でも知らず知らずの内に相手に完
璧を求めてしまうものなのだ。
 スネ夫がのび太を仲間外れにするのはいつもの事だが、同じ事をしずかちゃんがやると
ものすごく悪いヤツに見えるようなものだ。

(……、ちょっとくらいは堪えよう)

 そう結論付けて、まどかは出てきた特上握りを静かに食べ始めた。隣では垣根が中ジョ
ッキをグビグビ飲んでおり、ツケ場の奥にいる板前がそれを渋い顔で見つめていた。


     *


「あん?」

 垣根帝督が何度目かの生中をおかわりしようとした所で、ポケットに入れていたケータ
イがブルブルと震えた。久しぶりの着信に、少しだけ酔いが醒める。そして、次に表示さ
れた番号を見て、電流を切り替えたように彼の脳が覚醒した。
 表示されていたのはよく見知った……そして最近彼が最も待ちわびていた番号。

「……、悪りい、ちょいと出てくる」

「別に店内で通話していただいても結構ですよ」

「いや、いい。他に客もいるしな」

 店主の申し出を断って、垣根帝督は暖簾をくぐって外に出る。
 チラリと後ろを振り返ると、同行している少女が意外そうな顔をしていた。『コイツに
もそれくらいの常識はあるのか』という意味合いだろうか。
 だとしたらそれは半分当たっていて、半分外れている。


「もしもし? オイオマエ何で連絡付かねえんだ。もう『緊急事態』とやらは終わったん
だろ。こっちは質問が星の数ほど残ってんだ。言いたい事だけ言ってあとはシカトしてん
じゃねえぞクソが」

 冷静にじっくり嫌味を言ってやろうとおもっていたのに、そんな思いとは裏腹に彼自身
でも驚くほど早口になってしまった。『早く知りたい』という心が先行してしまったのだ
ろうか。
 はやる気持ちを落ち着けて、質問の順番を整理しようとした所で、垣根の耳に相手の声
が入って来た。

『―――そんなに焦んなよ「未元物質」。「俺達」の世界ではどんな時も冷静に、が基本
だろ?』

「ああ?」

 少年の思考が中断する。届いた声は『いつもの男』のものではなかった。もっと軽薄そ
うで、人を自然に見下しているような、決して心地よくはない声だ。

『相手に感情を読まれるようじゃ甘い。相手に付け入る隙を与えない為にも、「仕事中」
は喜怒哀楽、全ての感情を無にしなきゃな。まあ常に死と隣り合わせの世界だ。これくら
いは常識だと思ってたんだけどよお……』

「貴重なご意見アリガトウ。んで、一体テメェはどこのどいつさんでいらっしゃいますか
あ? 生憎、俺もビビッてツラも晒せねえチキン野郎の説教なんざ参考にする気はねえん
だヨ」

『佐久辰彦だ』

 相手は間髪入れずに言った。もっとも本名かどうかも分からない『名前』など彼は信用
していない。

『元「ブロック」のリーダーを務めていた。今は「新入生」の一員として動いてる』

「『新入生』?」


 聞き覚えのある単語に、垣根帝督は眉をひそめる。
 ただしそれは『ブロック』などではなかった。

『うーん、そっちに反応したか。元暗部組織の長同士、前者に何かコメントは?』

「『散った桜』に興味はねえよ。そんな事より、『新入生』とやらが俺に何の用だ。そも
そも、どうしてテメェがこの番号を使っている」

 連絡を取りたいなら適当な端末からかけてこればいい。わざわざこの番号を使う事の意
味は。

『「ヤツ」なら「闇」から手を引いたよ』

「そんな戯言通用すると思ってんのか? 俺とアイツはまだ話の途中なんだよ。そんな中
途半端に投げ出す訳ねえだろうが!」

 彼は思わず『制御役の男』を擁護するような発言をしていたが、それでもこの佐久より
はマシだろう。まだ『あっち』の方が付き合いは長い。

『信じてくれなきゃ困る。話が先に進まないじゃねえかよ』

「知るか。信用されたいならそれなりの態度ってモンがあるだろうが。俺が無条件で人を
信用するようなヤツじゃないって事を理解した上で、コンタクトを取ってきたんじゃねえ
のかよ」

『それがそうでもないんだ』

 佐久は即答した。

『俺達「新入生」はまだ発足したばかりだ。その様子じゃ、お前だって既に掴んでんだ
ろ? 一方通行によって、一度暗部は解体されている事を』

「……、」

『その際に解体されたのは人員だけじゃない。大量の兵器が破壊されて、データも棄却さ
れた。……まあすぐに再結成されたから俺達がいる訳だけど。それでも全員が戻ってきた
訳じゃないし、それは「他の項目」にも当てはまる』


 つまり、大部分の情報は失われたままだし、大幅な戦力ダウンも避けられないと相手は
言っているのだ。
 そこまで考えて、垣根は佐久の言いたい事を理解した。
 だが彼はすぐに核心をつかない。

「……なるほど。それは『俺』の情報すらも失わせるものだったとでも」

 垣根は『佐久辰彦』という人物と面識はない。書面で少し覗いた事がある程度のものだ。
なので、垣根と同じような立場にいた彼にも大した情報は渡っていなかったと考えるのが
当然だ。
 そんな考えを裏付けるように佐久は言う。

『その通り。今、お前はどこの組織にも属していない状態なんだよ。だから、連絡を取り
たければ「スクール」のリーダーじゃなくて「未元物質」個人として探さなきゃならない。
……これが非常に困難だった訳でして……』

「俺は知り合いが少ないからな」

『言いにくい事を言ってくれて助かる。要するに、「俺達」はお前の連絡先を知らなかっ
たんだよ。だから「譲り受けた」。「闇」を抜けるヤツがもうお前にコンタクトを取る必
要はないからな』

 佐久の言う事は的を得ていた。だが一方で要領を得ない箇所もある。それは……、

(『アイツ』は個人的に俺と話してたのか……?)

 佐久の言う通りだと『暗部関連』で保存されていた『垣根帝督』のデータは破棄された。
しかし『制御役の男』は実際にコンタクトを取ってきた。つまり、それは『彼個人』とし
て垣根の情報を持っていたという事になる。
 だが……、

(何のために?)


 垣根帝督は分からない。
『ヤツ』が、そんな事をしていた理由。垣根は彼の顔も名前も知らないのだ。そんな状態
で『実は友達になりたかった』という訳でもあるまい。そもそも、ここまでの推測は佐久
が正しい情報を伝えている事が前提にある。もし嘘が交じっていれば、その瞬間垣根の考
えは根本から崩壊する。
 むしろ可能性で言えばそっちの方がずっと高いではないか。

「……、」

 垣根は思わずため息をつきそうになった。
 つまるところ、信じれるものなどほとんどない。そうすると、自分で情報を集めるしか
ない訳だが、学園都市から隔離された彼には、それも限られる。結局、学園都市の現状を
知りたければ、嘘だろうが真実だろうが一旦相手の言う事に乗せられるしかないのだ。
 お前の言う事は信用できないと通信を断つのは簡単だが、それでは何も進展しない。

「テメェの言う事は分かった。じゃあそろそろ本題に入れよ。『目的』は何だ?」

 不審な点はいくつも残っている。だが、彼はそれらに触れない。

『「闇」から解放されたばかりで悪いんだけど、「戻って欲しい」』

「清々しいくらいの直球だな。むしろ好意すら抱くぜ」

 こんな言い方だが、相手の言った事は垣根の予想通りだった。もう少し細かく言えば、
『俺達「新入生」はまだ発足したばかり』の時点で彼は気づいていた。

『さっきも言ったけど、俺達は戦力不足なんだよ』

「第一位のクソのせいでだろ。いいぜ、協力してやるよ。ただし条件がある」

『何だ』

「全部話せ。一〇月九日から今までの間に起こった事。一から一〇までもれなくな」

『……、分かった』


 相手は短く返答した。ただし……、

『電話越しでダラダラ話すのも何だ。今から会えないか? 俺も今見滝原にいるんだ』

「……北部の実験施設群か」

 罠の可能性は十分にあった。だが動かない事には変わらない。
 彼は頭の中に街の地図を浮かべ、

「あの辺りなら一〇分もあれば行けるな」

『なら、無人探査機走行実験用の広場で待ち合わせよう。ここなら、電気柵の手前にあるから今のお前でも入れる』

 彼によると、普段は私立公園として一般に開放されているらしい。そうする事で、『学
園都市の科学技術』に対して不信感を抱かせないようにしているのだろう。

(さあて、どうなるかな……)

 通話を切り、彼は明るい店内へ戻る。すると、不安げに寿司をちびちび食べていた少女
の顔が少し和らいだ気がした。
 そこへ……、

「やる事ができた。ここの金は払っておくから、食ったら先に帰ってろ」

「え、え!?」

 突然の事にまどかは表情を急変させる。しかしそんな事は気にも留めずに、会計を済ま
せると垣根は再び出ていってしまった。
 この間わずか二〇秒。
 呆気にとられる少女に残されたのは、まだ半分以上ある握りの盛り合わせ。


 と、電気ストーブの入った段ボール箱。


「……、」


「だ、大丈夫? お譲ちゃん……」

 見かねた板長が声をかけるが、少女は冷凍されたように固まったままだ。やがて……、


「……ぅ、う、うわあああああああああああああああああああん!! こんなのっ……こ
んなのいくら何でも酷すぎるよおおおおォォォォォォ!!」


 ツンツン頭の某少年ではないが、この少女の不幸ももはや異常の域に達している。もっ
とも、こちらの方はその半数以上が他者からの干渉によるものだが。



「面会の約束を取り付けましたよ。今から一〇分後です」

 垣根帝督との通話を終えて‘馬場芳郎は佐久辰彦にこう報告した’。
 返事はすぐに来た。
 傍受対策を施された無機質な無線マイクから、低い男の声が響いてくる。

『ご苦労だった』

 佐久辰彦は短く言った。どことなく上機嫌な雰囲気もうかがえる。しかし……。


『今から「交渉」に入るぞ。お前は引き続き「佐久辰彦」として任務に当たれ』


 はあ!? と馬場芳郎の口から何とも素っ頓狂な声が出た。コイツは今、何と言った?

「ち、ちょっと待ってくれ……下さいよ!! 『佐久辰彦』として『未元物質』と会えっ
て、一体どういう事ですか!?」

『ああ心配はいらない。アイツは俺の顔を知らないから、お前が俺の名を語ってもバレる
事はないはずだ』

 そういう問題じゃねえだろうが! と内心で馬場芳郎は糾弾する。そもそもこの男には
『俺のフリをして「未元物質」を呼び出してくれ』と言われただけだ。疑問には思ったが、
一応上司命令なので仕方ない。
 当然、後は勝手に佐久がやってくれるのだと彼も、後ろで『オイどうすんだ』的な会話
をしている同僚二人も思っていた。のだが……、

『じゃあ後は頼んだぞ。くれぐれも機嫌を損ねるなよ。丸投げにしちまったみたいで悪い
が、俺には他にやる事がある』

「お―――」

 ブチリ、と。彼に反論の余地すら与えず無線は一方的に切断された。慌てて通信をし直
そうとするが、機材は全く反応してくれない。電波障害などではなく向こうが完全に電源
を落としているのだ。カチカチとボタンを押す音が、薄明かりの中でやけに滑稽に響く。

「「「……、」」」

 上司から作戦を放置させられた黒ずくめ三人は、互いに顔を見合わせる(とはいっても
装甲ヘルメットをかぶっているため表情は見えない)。
 しばらくの間、彼らは無言のままだった。その間に少し状況を整理してみる。
 佐久辰彦をリーダーとする『新入生』四人は、学園都市に戻れない第二位、垣根帝督を
説得するためにしぶしぶ見滝原に赴いた。そして作戦管理は佐久に一任されている。それ
はつまり責任が佐久にあるという事だ。いや、‘だった’か。何故なら彼は任務を放って
どこかに行ってしまった。つまりこれはどういう事かというと、

「あ、のボケ初めから俺達に押しつける気だったんだ!! 何が『他にやる事がある』だ
よ。これ以上重要な案件がどこにあるってんだ!!」

 馬場芳郎は沈黙を突き破り、持っていた無線機を路上へ叩きつけた。清々しい音と共に
モニターが割れ、裏フタが外れてバッテリーが飛んで行ったが彼は気にも留めない。


 彼らの隠語で表現するなら『亡命』。
 ものすごく簡単に言うと、学園都市の技術を『外』に持ち出す事。
『外』の企業にとって、『中』の技術は咽から手が出るぐらい魅力的な餌だ。当然そんな
『宝石』を持ち込んだ者の待遇など言うまでもない。
 見滝原市には、そうやって『亡命』してきた研究者も数多く住んでいる。もちろん学園
都市との親交を続けるため、体面上は存在しない事になっているが。
 佐久辰彦は待っていたのだろう。『仕事の一環』として安全に学園都市を抜け出す機会
を。
 そこまで考えて、馬場芳郎は憎々しげに舌打ちした。
 元々、彼らは別組織の人間だ。佐久辰彦は『ブロック』のリーダー。馬場芳郎は『メン
バー』の構成員。残る二人は……確か『猟犬部隊(ハウンドドッグ)』の所属だったろう
か。
 そんな経緯もあって、彼らに明確な仲間意識といったようなものは存在しない。馬場芳
郎にしてもそれは同じなため、今回相手が任務を放棄したと分かった時の反応も、裏切ら
れたといったような落胆ではなく、責任を押し付けられた事による怒りだったのだ。
 そもそもにおいて、馬場芳郎は離れた場所から味方に指示を出したり、無人兵器を使っ
てサポートをするような、どちらかというと頭脳派タイプの人間だ。
『メンバー』にいた時も、実動は下部組織に任せて、彼自身が動く事はあまりなかったよ
うに思われる。
 なので、今直面している状況について、彼はかなり焦っていた。
 理由は簡単。
 このままでは、学園都市第二位のバケモノと相対する事になるからだ。少し気に障れば
痛みを感じる間もなく殺されるかもしれない。当然そんな奴と会う気は毛頭ない。
 しかし……、

(どうすりゃいいってんだ……)

 馬場芳郎は頭を抱える。リーダーが蒸発したのだから、任務を続ける必要はないと思う
かもしれない。しかし『裏』の世界では、誰も責任を取らなくていいなどという甘い結末
はまずありえない。責任者がいないのなら、無理にでも責任者を作り出すだけだ。
 そしてこういう時、大抵その役割は下へ向かう。入って数か月の新米が、理不尽な責任
を押し付けられて粛清されるのなどごくありふれた光景だ。

(……、)


 まずい、と思う。
 このまま何の成果もなしに帰れば、白羽の矢がどこへ向かうかは明白だ。
 馬場芳郎はちらりと横に目をやる。
 同僚二人は彼を助ける気などさらさらないらしく、少し離れた所で肩を寄せ合ってコソ
コソと話をしている。作戦を抜けるための言い訳でも考えているのかもしれない。
 そして彼はそんな同僚の力などあてにしなかった。
 なるべく冷静に考える。
 垣根帝督と話した時、彼は叩き壊した無線機とは別の、佐久から渡された携帯端末を使
った。
 それを懐から取り出してみる。
 何の変哲もない、学園都市内の企業製PDA。携帯ショップでも扱っているものだ。た
だし、改造に改造を重ね、中身は全く別のものになっているといっても過言ではないが。

(アイツの弁じゃ変声機も内蔵されてるって話だったが……)

 馬場芳郎は手の平サイズの機器をくるくると回して、

(まあ嘘だろう。最初っから俺達にやらせる気だったんなら、そんな事をする意味はない
し)

 こうして、馬場芳郎を佐久辰彦だと思い込ませる事に成功した訳である。ある意味理に
かなっているなとさえ彼は思った。
 もはや自分も任務を捨てて『亡命』してやろうかとも考えたが即座に諦めた。
 まず、何の準備もしていないし、どこのアポも取っていない。そうすると、学園都市協
力派(表面上)の企業を一件一件回って『私は学園都市の研究者です。技術を売るのでど
うか匿っていただけませんか』と訪問販売のような事をしなくてはならない訳だが、

(……、想像しただけで失笑もんだな)

 そもそも信じてもらえるはずがない。
 その後、特に有益な方法も思いつかなかったので、仕方なく彼は垣根帝督に会う事を決
めた。


 気づけば同僚二人は消えていたが、もはやどうでもいい。
 正直に話そう、と彼は思った。
 嘘をつくとバレた時に恐ろしいというのもあるが、それ以上に普段裏切りと騙し合いの
世界にいるからこそ、嘘偽りなく全て話すというのはそれなりに有効だと彼は判断した。
 垣根帝督は情報に飢えているはずだ。
 知りたい事は星の数ほどあるだろう。
 訳も分からない内に道も知らない街で置き去りにされたのだから、それはほぼ間違いな
いと思う。

(ヤツが『一方通行(アクセラレータ)』に敗れてから約一ヵ月。とても数分で説明でき
るような内容じゃないが、片っ端から話していけばちょっとは俺を信用するはずだ。いや
……信用するしかない。今のヤツにとって『裏』の窓口はほとんど閉じているに等しいん
だからな)

 馬場芳郎は何も好き好んでこんな環境に身を置いている訳ではない。彼にも彼なりの事
情があって、目的がある。
 第二位の力は強い。
 味方につける事ができれば、それだけで大きく前進する。

(パイプを作る。組織と個人じゃなく、個人(俺)と個人(アイツ)の。懐柔するんだ。
利用するんだ『未元物質』を!!)

「やる、俺はやってやる!」

 何なら『グレムリン』に取り入ってもいいとさえ彼は思った。統括理事会に忠誠を誓っ
た覚えはない。便宜上ここにいるだけであって、身の安全と権威が保障されれば、学園都
市にも牙をむく。
 それは彼だけではないはずだ。事実、佐久辰彦はあっさり寝返った。

(はは、そうだよ。よく考えてみりゃ佐久のクソのおかげでビッグチャンス到来じゃねえ
かよ。それじゃあアイツには感謝しなきゃな!)

「はは、ハハハハハハハハハハハハハ―――ッ!!」


 狂ったように突然高笑いする黒ずくめ野郎。
 だが、この急なテンションの高揚が緊張と恐怖を押さえつけるためのものである事は明
白だった。なぜなら、まるで操られているようにその足元はブルブルと震えていた。
 かつて第三位の超能力者(レベル5)を狙った事がある彼でも、やはり怖いものは怖い
し、嫌な事は嫌なのだ。
 と、その時だった。


 コツン、という乾いた音が馬場芳郎の耳に届いた。


(!? 来たか)

 音の主が誰なのかは言うまでもない。
 まだ予定の時刻より少し早いが、とにかくやってみるしかない。
 ビクッと不自然に鼓動した心臓を落ち着け、彼は覚悟を決め、努めて冷静に振る舞おう
とする。

「よ、よお『未元物質』。俺とは初めましてになるか、な―――。あ?」

 ヘルメットを取って、似合わない笑みも浮かべてみたつもりだったが、彼の決意は一瞬
で崩れ落ちた。いや、それどころか一時的に思考が停止した。
 彼が振り向いた先にいたのは垣根帝督ではなかった。そもそも人間ですらなかった。い
や、厳密に言えば‘人間なのかどうかすら分からなかった’。
 両生類なのか爬虫類なのか脊椎動物なのか無脊椎動物なのか動物なのか植物なのかそも
そも生物なのかはたまた機械なのかすら不明な‘名状し難い何か’。
 無理矢理に描写するなら、豆腐に翼を生やして尾を取り付けた、といった感じだろうか。
 よく見ると、その翼全体から何か氷の結晶のようなものが放出されている。風など吹い
ていないにも関わらず、それらは一度二〇メートルほども上昇し、そこで一気に拡散した。


 ドバン!! という爆音と共に青白い光が四方八方へ炸裂した。


「……ッ!?」

 馬場芳郎が身構えたのも束の間、まるで花火のように散らばった氷の粒は、馬場と目の
前の怪物を半円状に覆っていく。
 彼らを中心とした、半径五〇メートルほどの光のドームが形成された。

「な、んだよコレ……」

 数えきれないほどの光点は、もはや巨大なプラネタリウムのようにも見えた。
 だがこれだけではない。
 正体不明な怪物と現象に目をクラクラさせる馬場芳郎に、さらなる異変が襲いかかる。
 怪物の背で翼が大きく羽ばたいたかと思うと、カッと強烈な閃光が発せられたのだ。

「ぐ、あああああああああああああああああ……ッ!!」

 ヘルメットを外したのが仇となった。視界を塗りつぶす真っ白な光に、馬場芳郎は反射
的に手で顔を覆う。しかし異常な光景に気を取られていたせいか、反応するのが少し遅れ
てしまった。
 網膜が焼けるような痛みを必死に堪えながら、彼は何とか目を開け前を見据える。視力
が回復するのに、軽く一〇秒はかかったと思う。

(―――こ、の)

 その間、相手が追撃してくる事はなかった。その事に彼は疑問を抱かなかったし、第一
そんな余裕もなかった。
 とにかく反撃しなければ。
 ほとんど本能的にそう悟った彼は素早く装甲服の内に手を突っ込み、隠し持っていた大
型の軍用拳銃を取り出した。
 9mm弾などは使わない。
『衝槍弾頭(ショックランサー)』―――対暴走能力者用の特殊弾頭だ。表面に特殊な
『溝』を刻む事で、銃弾をなぞるように迫る『衝撃波の槍』を作り出し、破壊力を何倍に
も増幅させている。


 敵の硬度は不明だが、これは三〇ミリの鉄片にも穴をあける。間違いなく豆腐の怪物を
原型さえ留める事なく粉砕するはずだ。
 視力が完全に戻ると同時、馬場芳郎は銃口を標的に向ける。
 しかし、その引き金が引かれる事はなかった。

「あ、れ……?」

 化け物がいなくなっている。しかもそれだけではない。
 今まで彼はプラネタリウムのような光のドームの中にいたはずだが、気づけばそこは古
い絵画のような、なんとも形容し難い奇妙な空間だった。
 広場にあった街灯もグラウンドもベンチも自動販売機も全てが消えていて、アスファル
トだった地面には出来損ないの魔方陣のような模様が描かれている。
 背後の山裾には研究施設が乱立していたはずなのに、振り返ってみてもただ毒々しい色
合いの空間が際限なく広がっているだけだった。
 一連の不可解な現象を前に、馬場芳郎の表情が明確に変わっていく。
 さっきから、この不気味な空間といい豆腐の怪物といい、これは一体何なのだ。
 能力者による襲撃という考えはなかった。
 これでも、立場上彼は一通り量子論と超能力について学んでいる。これほどの規模の能
力となれば必然的に『超能力者(レベル5)』に限られるが、彼の知る七人の超能力者の
中に、該当する人物はいなかった。では、


 この奇怪な状況を作り出しているのはどこの誰なのか。


 そこまで考えて、馬場芳郎はピクリと身体を硬直させた。

(……、まさか)

 心当たりというほどではないが、思い当たる節くらいならない事もない。そもそも彼ら
は何のために垣根帝督を勧誘しに来たのか。『新入生』は何を目的として結成されたのか。
 そう、何もおかしな事はない。



『敵対組織』が作戦を妨害したとしても。


「……、」

 少し考えが甘すぎたかもしれないと、ここにきて彼は初めて思った。
 ここは学園都市(安全地帯)の中ではない。彼らが最も注意を払うべきは、垣根帝督な
どではなかった。
『魔術』『グレムリン』。先の大戦で観測された、超能力ではないオカルト。

(これが……そうなのか?)

 もしかしたら違うのかもしれない。『魔術』でも『超能力』でもなく、『また別の法則
によって引き起こされる現象』なのかもしれない。しかしそうであったとしても、彼は超
能力以外のメカニズムなど知らないのだから、その他は全て同じといっても差支えはない。
 馬場芳郎は、グリップを握る手の平が異常に汗ばんでいる事に気づく。全身を覆う装甲
服が汗を吸い、それが彼に例えようもないほど不快な感覚を与えてくる。
 先ほどまでの、垣根帝督や核兵器などの『目に見える破壊力』とはまた違う、『分から
ない』という恐怖。
『未知』というのはそれ自体が人を混乱に陥れる。特に彼や佐久のような、この世の全て
を科学で解明できると思っている(つい最近まで思っていた)連中なら尚更だ。彼らはど
うしても科学的に分析しようとする。
 十中八九科学以外の法則が使われていると分かっていても、その中で何か一つでも科学
的なヒントを見出そうとする。
 科学崇拝。
 深く浸かり過ぎたがための悪循環。
 より追いつめられるごとに、心の余裕がなくなるほどにその傾向は増していく。自分の
信じるもの以外を拒絶しようとする。
 それが間違いだと分かっていても。

(クソォ……なんだよコレ。一体なんなんだよこの気持ち悪い光景はぁ!! こんな事に
なるなんて聞いてねえぞ。完全に任務外じゃねーか! 大体他のヤツらは何をやってんだ
よ! 何で誰も助けにこねえんだよ。『仲間』がピンチなんだぞ。さっさと救援をよこせ
よ役立たず共がああああぁぁァァァ!!)


 瞳は頼りなく揺れ、銃口はグラグラと照準を向ける事すらままならない。仮に敵が目の
前に現れたとしても、こんな状態では弾を当てる事など出来ないだろう。
 いつからか、馬場芳郎は完全に戦意を喪失していた。本来の任務など頭の片隅にも残っ
ているかどうか。
 地下シェルターに閉じ込められた時と同じ感覚だった。
 この世の全てから切り離されたような孤独感が、彼の心に真っ黒な重圧を加えていく。

(佐久……、そうだ全部アイツのせいだ。そもそもアイツが離反しなきゃこんな事態には
ならなかったんだ! あの野郎……八つ裂き程度じゃ足らねえ。生きたまま口から濃硫酸
ぶち込んで骨まで消化しねえと俺の気が済まねえよ!!)

 と、そんな愉快な妄想にふけっていた馬場芳郎の耳に、


 ゴソリ……、という小さな物音が聞こえてきた。


 音源は背後から。しかし彼は銃口を向けるどころか、振り返りさえしない。
 できない。

「ま、待て……待ってくれ。俺は敵じゃねえんだ。たった今学園都市に嫌気がさしたとこ
ろなんだ。俺も仲間に加えてくれよ。アンタら『グレムリン』なんだろ……? そう、だ
よな?」

 返事はない。
 ただ気配のみがゆっくりと、本当にゆっくりと迫ってくる。
 距離が、縮まる。

「は、はは」

 馬場芳郎は小さく笑う。
 手足の感覚がなくなる。生命線の軍用拳銃が地面に落ちる。


「―――、」

 叫びは声にならなかった。
 比喩表現でも何でもなく、本当に目の前が真っ暗になった。


     *


 夜の街並みを一つの影が走っていた。いや、飛んでいた形容するべきか。まるで空気を
蹴るような動きだった。
 音は立てず。
 それでいて素早く。
 意図的に人の死角を選んでいるのか、方々で騒ぎが起こる気配はない。もっとも、普通
に歩いていたとしても彼女は注目の的になっていただろう。
 白いブラウスにベレー帽、それにスカートやコルセットを組み合わせた、何と言うか
『世界史を全く知らないデザイナーが想像だけで中世ヨーロッパ人の服を作ってみました』
といった感じだ。
 ストライプのニーソックスの上からブーツを履いており、長い金髪をカールさせた頭の
上では花形のヘアアクセが揺れている。

「急がないとね」

 イギリス清教などに見つかればただでは済まないだろう少女はポツリと呟いた。

「それにしても変ね。あの辺りには学園都市の研究施設群くらいしかなかったと思うけど。
こんな時間に広場に人がいるとも思えないし……」

 とにかく今は急ごう、と考えるのをやめて金髪少女は更に北へ北へ。
 影は宵闇に紛れ、一目散に駆けていく。


 長い間お待たせして本当にすみません(_ _) 言い訳になりますが、病気でしばらく入院していたため、
更新が遅れてしまいました。次からは出来るだけせっせと投下していきます。





     *


 食事(中学生が一人で寿司屋にいるのはさすがに気が引けるので、彼女は速やかに店を
出た)を終えて、鹿目まどかは帰路についていた。
 その手には電気ストーブが入った段ボール箱が抱えられている。
 それほど大きなサイズではないが、彼女は小柄な体格だし、元々段ボールは長時間持ち
運ぶ事を想定していない。
 おまけに立方体の箱を前で抱えているので、視界が遮られゆっくりとしか歩く事ができ
ない。寿司屋から自宅まではおおよそ徒歩一五分ほどの距離だが、もう三〇分以上は歩い
ているとまどかは感じていた。
 さすがに腕が痺れてきたので、道端に備えられた簡素なベンチで一度休憩する事にする。
そこは小さなバス停だった。

(だぁーあ。タクシーでも使えばよかったかなぁ……)

 なんてしみじみ考えてみたが、もしそんな事をすれば財布に一足早く冬が訪れる事にな
るのは確実なので実際にやってみる勇気はない。
 バスの時刻表を見てみるも、既に本日の最終便は走り去ったあとだった。というより便
がそもそも一時間に一本くらいしかない。
 この道は表通りから離れているので利用者が少ないのだ。
 荷物を持ったまま通行人とぶつかるのを恐れて裏路地を選んだのは間違いだったかもし
れない。

(もうちょっとだけ休んでいこう)

 邪魔な段ボールをベンチに置いて、まどかは近くの自動販売機に温かい飲み物を買いに
行く。
 最近立て続けに不幸に見回られているせいか、荷物が盗まれないかと一瞬思ったが、特
に人も歩いていないし自販機は目と鼻の先なのでそれほど気にしなかった。
 ほんの三、四ヵ月前まで『つめた~い』の青一色だったボタン列も、今では『あたたか
~い』の台頭(もしくは復活)により、青赤二色がほぼ五分五分で拮抗している。


『いちごおでん』などというマーケティングをサボったとしか思えないような商品も並ぶ
中から、彼女はいたって普通のミルクティーを買ってベンチに戻った。


 ベンチには、熊のような大男が佇んでいた。


「?」

 ゴツいダウンジャケットを着込んだその男は、俯きざまに木の幹のような脚を広げて座
っていた。表情はうかがえない。
 バス停にいるのだから、常識的に考えてバスを待っているのだろう。
 しかし今の時間。
 そこで待っていたって、日付が変わるまでバスが来る事はない。

(もう最終便出ちゃったのに。……気づいて、ないのかな)

 まどかがベンチに戻っても、大男は下を向いたままだった。まるでリストラされたサラ
リーマンのように、ピクリとも動かず、ただじっと座っている。

「……、」

 ベンチで一服すてから帰るつもりだったまどかだが、今の状況でそんなのは高級なフレ
ンチレストランで料理を貪り食うようなものである。
 男から発せられる重い空気が、安らぎといった概念を潰し静寂の意味を変えてしまうよ
うな気がした。
 この少女はそれに気づかないほど無神経でもないし、それを振り切ってここに安息の空
間を作りだすほどの強心臓の持ち主でもなかった。
 今のこの男に話しかけようと思う者など滅多にいないだろうが、しかし、鹿目まどかは
自分が思っているよりもお人好しな性格だったらしい。
 彼女は三五〇ミリリットルのスチール缶をねじ込むようにポケットにしまい、それから
身をかがめて男を下から見上げるようにして言う。


「あ、あの―――。今日は……もうバス来ないですよ」

「……、」

「駅前通りの方へ行けば、まだ走ってるかも……。道、わかりますか……?」

「……、」

「え、ええっと……」

 返事どころか、男は顔を向ける事すらしてくれなかった。
『体調が悪いのかな』。余計かもしれないがそう思ったまどかは心配して続けざまに声を
かけようとしたところで……、


 ズブ……、という鈍い音と硬く冷たい感覚を腹に覚えた。


 膝の上で組んでいたはずの男の右手が、伸びていた。
 それは少女の腹部へと続いていた。
 そして右手の先に何かがあった。暗闇に溶けるような、しかし街灯の光を反射して不気
味に輝くそれは、ステンレス製の筒のような―――それこそ、まだあどけなさが抜けきれ
ないこの少女にとってはフィクションの世界でしか見た事がないものだった。

「―――『衝槍弾頭(ショックランサー)』」

 初めて声を発した男はそんな事を言ってきた。

「騒げばお前の膵臓に三センチの穴があく。声を出さず、それでいて極めて自然な動きで
ついてこい」


短くて申し訳ないですが、とりあえずキリのいいところまで。



     *


 絵の具で塗りつぶしたような空間に二人の人間が立っていた。
 ただし『立っている』のが二人なだけで、もう一人、真っ黒な装甲服を着た男が倒れて
気を失っていた。
 巴マミはこの倒れている男を助けにきたのだった。きたはずだった。

「俺がいたのは予想外だったか? それとも一石二鳥ってとこか」

 この場にいる最後の一人は高校生くらいの少年だった。
 不可解な空間と気を失った男に怪訝な視線を向けていた少年は、どこからともなく現れ
た奇抜なファッションの少女を見て納得したように笑った。

「おいおいスゲエなこりゃ。一体全体どうなってんだ?」

 小馬鹿にしたように彼は言う。

「『精神感応(テレパス)』系の能力とも違う。かといって特殊な周波を一定の間隔で流
す事で脳をある種の催眠状態にして幻覚を見せてるって訳でもなさそうだ。そういう類の
兵器を使っても脳波に働きかける際には必ず『前兆』が起きる。フラッシュバックであっ
たり、モスキート音みたいな耳鳴りだったりな。他には―――そうだな。複数の科学物質
を組み合わせれば第五位と似たような『現象』を引き起こせるかもしれないが」

 勝手に語り始めた少年はだがな、とそこで一度言葉を切って、

「ソイツらは空気中に散布しなけりゃ始まらねえ。だからほとんどの場合、まず『領域』
を区切ってから使う。物質同士の密度が薄くなりすぎないようにな」

 そこまで言うと、彼はぐるりと辺りを見渡し、

「もしこんな山の斜面みたいな場所で使えば、上昇気流に運ばれてあっという間に霧散し
ちまうだろうな。それこそ花火みたいに」

 少年の言う事は巴マミにも何とか理解できた。
 もしかしたら分かりやすく噛み砕いて話をしていたのかもしれない。


 それでいて、彼女の表情は優れなかった。
 別に少年の推測がどうこうという訳ではない。
 結論を言えば、少年の言っている事は思いっきり的を外している。だが、彼女は見てし
まったのだ。


 迫りくる『使い魔』達を、少年が蜘蛛の子を散らすように薙ぎ払う姿を。


「……、あなたは、一体何者なの?」

「ああ、なんだそりゃ? とぼけてるつもりかよ。テメェも『新入生』とやらの一員か? 
それともまだ他に再結成された組織があんのか。もしそうだとしたら、『新入生』より先
に『未元物質』を手に入れておこうって算段か。……そうだな。そう考えれば佐久を襲っ
た事にも納得がいく」

 巴マミの表情がより一層厳しくなる。
 しかしそれは、粗雑な口調が癇に障ったなどというくだらない理由ではない。

(シンニュウセイ、ダークマター? 他にも組織とか再結成とか……、何? この人何を
言ってるの?)

 ほとんど意味不明だったが、何か悪い方向に勘違いされているという事だけわかった。
 少年は先ほど『襲った』と言った。
 おそらくこの一連の現象を、こちらからの攻撃ととらえているのだろう。
 そうしている間も、少年は間合いを計るようにこちらを睨んでいた。
『使い魔』が彼の背後から襲いかかろうとしたが、関係ない。ボンッ! と小規模な爆発
が起きたかと思うと、魔女の手先はジェット風船のように吹き飛んで行く。
 彼は目も向けない。

「で、どうする」

 質問と言うよりほとんど脅迫するような口調だった。


「俺はちょっくらコイツに用があるんだ。佐久を狙った攻撃に俺が巻き込まれたのか、最
初から俺を殺すつもりだったのか。……まあどっちでもいいんだけど、どちらにしろ邪魔
なんだよテメェは」

「だから消えろって訳? 構わないけど、とりあえずそっちの人は連れていくわよ。あな
たがその人に何かしでかさない保証はないからね」

 この少年が何者かは知らないが、少なくとも善良な見滝原市民でない事くらいは彼女に
もわかる。
 たった今『使い魔』を吹き飛ばした謎のチカラ。それがどんな仕組みかは知らないが、
もし少年がそこの男に恨みのようなものを抱いていたとして。いや、恨みなどなくても、
何らかの拍子にあのチカラが振るわれたとしたら。

(反応からして、そんなに友好的な関係じゃなさそうね)

 それなら、なおさら黒ずくめの男性を保護しなければならない。酷い目にあうとわかっ
ている人を野放しにするほど、彼女は冷徹な性格ではない。
 ただ、一つ言っておくならば、巴マミは正体不明のチカラに対して警戒しているだけで、
別に少年と敵対したい訳ではない。
 件の謎の現象といい、本当なら色々と話を聞きたいところだが、今は倒れた男性の方が
優先だ。
 黒い装甲服で外からは見えないが、『使い魔』の攻撃でダメージを負っていた場合、病
院に連れていく必要もでてくる。

「保証ねえ……。テメェがそれを言うかよ。自分自身で襲っておいて」

「これは私の所為じゃないわ。何なら今すぐ元の空間に戻してあげましょうか」

 相手の返事を待たず、少女の周りに無数のマスケット銃が出現した。轟!! とそれら
は一斉に火を噴くと、少年の遥か後方で蠢いていた『使い魔』を紙クズのように巻き上げ
ていく。
 気づけば、気味の悪い絵画のような空間は消え去り、そこは元の、広場のグラウンドに
なっていた。


 普段ならこれで終了だが、今日はもう一つやる事がある。

(とりあえず、この人を安全な場所まで運ぶ)

 いきなりの変化に、少年は少し気をそらしたようだった。しかしその視線は強引に下へ
向けられる事となる。
 なぜなら、次の瞬間彼の足下から突如黄色い布が巻き付いてきたからだ。

「ッ―――!?」

 それはほどけたリボンだった。
 蛇のようにうねるリボンは、少年の身体を這い上がると両手を背に回したままの恰好で
彼を拘束した。
 後ろ手の状態でバランスを崩した少年は、まるで誰かに押されたようにゆっくりと地面
に倒れる。

「一〇分もすれば戻ってくるわ」

 気を失った黒ずくめの腕を自分の肩に回しながら、巴マミは少し早口で言った。

「心配しなくても後から解いてあげる。あなたには聞いておきたい事も言っておきたい事
もあるからね」

「……最後に一つだけいいか」

「なに? って言っても後からたっぷり『お話』するから最後にはならないけど」

「コイツをほどいてその男を渡せ。今はそれほど機嫌も悪くねえし、そうすりゃここでの
狼藉はなかった事にしてやる」

「一〇分後に戻ってくるわね」

 芋虫のような少年の言葉を無視して、巴マミは先の台詞をもう一度告げた。


 装甲服を着込んだ男はずっしりと重く、とてもじゃないが女子中学生に持ち上げられる
ようなものではなかった。
 だが関係ない。
 彼女は『筋力以外のチカラ』を使って、成人男性を抱えたままでも軽々と夜空に跳躍で
きる。

「―――“本当に、いいんだな”」

 完全に背を向けた巴マミに、少年は確かめるように言い放った。
 それが単なる負け惜しみでない事に、彼女は気づかなかった。

「ええ、構わないわよ。一応怪我させるつもりはないけど、勝手に暴れて打ち付けたりし
ても責任は取らないからね」

「……くく。そっかそっか、“残念だな”」

 明らかな『勝者』の口調で冷たく言い放ったのにも関わらず、少年はおかしな含み笑い
をしているようだった。
 交渉決裂だな、と漏れる息を押さえながら彼は言った。


「そうまでして俺の敵に回るってんなら仕方がねえ。その変なコスプレごとスクラップに
変えてやるよ」


 ξ*'ヮ')ξ<うっうー!! 次は超能力者と魔法少女のバトルです。



     *


 見滝原総合病院。
 入院患者用の病棟の一室に、鹿目知久、詢子夫妻はいた。
 大部屋にベッドを並べてカーテンで仕切ったタイプではなく、六畳ほどの個室である。
 通路に面したカードロック式の引き扉の反対側に大きなガラス窓があり、そこから外を
見渡せる位置に可動式のベッドが置かれている。
 ただでさえ大きめのベッドがより大きく感じるのは、毛布に包まれて寝息を立てている
のがまだ小学生にもなっていない幼児だからだろうか。
 鹿目タツヤ。
 彼らの長男であり、現在は肺炎で入院していた。はずだったのだが。

「はぁ……やっと寝やがったかこの元気坊主。熱があるってのに何であんなにはしゃげる
んだか」

「うーん、高熱の耐性には個人差があるからね。この子はかなり強いらしい。ひょっとし
たら四〇度でも走り回るかも」

「勘弁してくれよー。看病する方からしたらたまったもんじゃないわ。今日もどれだけ看
護師に迷惑かけたか」

 この話に関しては、知久は苦笑いするしかなかった。
 別にそれほど体調が悪かったという訳ではない(発熱はしていたが)。
 そうではなく、この坊っちゃんどうもナースコールの呼び出し音が気に入ったらしい。
 事あるごとに意味なく押しては、看護師陣を困らせていたのである。
 九割方イタズラだと思いつつ、それでも仕事上やってこなければならない看護師達に頭
を下げる度、オオカミ少年的理論で本当に必要な時に来てくれなくなったらどうしようと
詢子は少し不安になるのだった。
 いくら白衣の天使といっても、あくまで服装の話である。
 彼女はチラリと腕時計に目をやり、

「さて。もう面会時間も終わりだし、そろそろ帰りますか」

「そうだね。あの子達も待たせちゃってるし、お詫びにケーキでも買って帰ろうか」


「じゃあアタシモンブラン。まどかはショコラだな。ええと……垣根くんは何がいいんだ
ろ?」

「僕が電話して聞いてみるよ。登録した番号が間違っていないか、一度確認もしてみたい
しね」

 タツヤを起こさない程度の声で言って、知久はポケットから携帯電話を取り出した。
 その時だった。


 プオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!! というサイレンのよう
な音が大音量で病室に響き渡った。


 音質は濁っていた。
 それは電子辞書や携帯電話などについている小さなスピーカーから流れている事を意味
していた。

「なっ……!?」

 驚いたのは知久だ。
 隣部屋の患者に怒鳴りこまれてもおかしくないレベルの音量だった。自分の携帯からで
はない。
 ならそれ以外に可能性は一つしかない。
 彼は人差し指を口に当てると、全力でし――――――っ!! と息を吐いた。彼が自分
で思うぎりぎりの小声だ。
 だが、そんな事をしても一度鳴ってしまった事実は取り消せない。
 恐る恐るベッドの上を見ると、彼の最後の希望を断ち切るように愛する我が子が目覚め
のあくびをしているところだった。

(は、はは……。せっかく苦労して寝かしつけたのに。また、また一からやり直しかあ…
…、はははは……)

 突然のハプニングと復活した魔王にちょうど現実逃避したくなった時だった。


「まど、か……」

 呟くような、それでいて何かを探すような声が彼の耳に届いた。

「?」

 見れば、音の鳴り止んだ携帯を握りしめたまま詢子が固まっている。
 なぜそんな事をしているのか。そしてなぜまどかの名前を呟いたのか。その疑問を口に
する前に、彼女はもう一度呟いた。

「まどか?」

 と、今度はさっきよりはっきりとした口調だった。
 そう知久が思った途端。

「まどか!? まどか!! くそっ、まさかあの娘が。警察、警察に通報しないと……!」

「ち、ちょっと!? 一体どうしたんだ? 警察!?」

 気が狂ったかと思わせるような挙措だった。
 全く理解ができないがとりあえず妻をなだめようとした知久は、そこで、詢子が泣き出
しそうな苦悶の表情を浮かべている事に気づく。
 彼は思わず息を止めてしまう。
 詢子はいたって正気だった。“正気でいて、なおそんな事を言っていた”。
 その意味を理解すると同時に思考まで止まりそうになったが、続けざまに放たれた詢子
の言葉がそれを防ぐ。

「―――まどかが、危ない!」

 彼女はゆっくりと、そしてはっきりと言った。
 詳しい事情など分からなくとも、その一言だけで知久の正気を失わせるのには十分だっ
た。

「最近導入されたアプリだ」


 詢子はそんな知久を気遣う事なく続ける。

「故意に携帯の電源を切る際あるコマンドを入力しないと、犯罪に巻き込まれたと判断し
て自動的に警備会社や登録した身内の携帯に信号を送る事になっている。それが今のアラ
ームだ」

「で、でもそれだけじゃまだ分からないだろう。ただ忘れてただけかも……」

「だから電池パックの裏に特殊な電波を流すシールを張り付けて、ただボタンを長押しす
るだけじゃ電源を落とせないようにしている。それを剥がしてまでたった四つのコマンド
入力を忘れると思うか?」

「……、」

「それにこのシステムは電池切れとかで電源が『落ちた』時には作動しない。アイツ――
―もしくは『アイツの携帯を手に取った何者か』が丁寧に電磁シールを剥がしてコマンド
を入力しないまま電源を切るっていう限定的な条件が揃わなきゃ起こり得ないんだよ」

 そんな事ならいっそ叩き壊してしまえばいいと思うかもしれない。
 しかし、そんなのは企業側も織り込み済みだ。
 最近の携帯は無理に破損させると―――いや、中には一定時間操作しないだけで警備機
関に通報するなんてものもある。
 かといってそのまま持ち歩けばGPS機能で容易に居場所を捕捉されてしまう。
 もはや電話という機能を三の次四の次に追いやった携帯端末は、誘拐犯などにとっては
かなり迷惑な防犯ツールだ。
 どんな『仕掛け』があるか分からない以上、懸命なのは電源を切ってしまう事である。
 そんな逃げ道さえも防ぐように作られたこのアプリ。

(まさか……本当に使うはめになるとは―――)

 操作が重くなるからいらないとまどかは言っていた。
 無料なんだからとりあえず付けとけと詢子は押し切った。
 イタズラではない。


 彼女の娘は―――鹿目まどかは、こんな悪質な事をして喜ぶような人間ではない。と思う。
 嫌というほど知っているはずだ。
 嫌というほど知っているからこそ、どうしてもただのイタズラであって欲しいと思ってしまう。
 別に他の理由でも良い。
 機械の誤作動でもいいし、裏フタが外れた時にシールが剥がれたでもなんでもいい。
 そんな事が本当に起こりえるのかどうかなんて知らないが、このアラームが『本来の用
途に従って鳴った』のでなければなんでもいいのだ。
 とはいえ。

(まずは、まどかを見つけ出さないと)

 彼女は家に電話するも、コール音が延々鳴るだけで繋がる様子はなかった。
 垣根帝督の携帯にも掛けてみたが同様だった。
 ちっ、という舌打ちが病室に響き渡った。
 そんな詢子の様子を見て、ようやく正気を取り戻した知久が反応した。
 彼は急いで警察に通報し、拙いながらも何とか事情を説明した。
 状況が把握でき次第、すぐに動いてくれるらしい。

「そうか」

 知久の報告を受けて、彼女は短く言った。そうしながら、詢子は掛けていたコートを乱
暴に引っ張り出す。

「どこへいくんだ!?」

「まどかを探しに」

「警察には通報した! 素人が動くと、余計に事態をややこしくするんじゃ―――」

「人手は一人でも多い方がいいに決まってるだろ!!」


 知久の言う事ももっともだった。
 だが、

「私はあの子の交友関係やよく行く場所もある程度知ってる! 警察だけに任せるより、
絶対効果はあるだろうが!」

「……、」

「……それに、私はあの娘の母親だ。例え誰に何と言われようが、私は行く。そこに理由
なんかないんだよ」

 それだけ言うと、詢子はコートを羽織って、病室から出て行った。
 その言葉の通り、彼女は特別な事なんて考えていなかった。
 悲劇がまだ起きていないのなら、事前に食い止める。
 既に起きてしまったのなら、これ以上は阻止する。
 単純で、普遍で、明快な事。
 それを実行に移すのが、鹿目詢子という人間だった。


     *


 音が消えた。
 視界は明滅していた。
 何か凄まじい力をもって、空中に舞い上げられた。
 巴マミがそう理解できたのは、気づけば地面が一〇メートル以上離れた所にあったから
だ。
 彼女の視線の先には、金髪の少年が笑みを浮かべて立っていた。
 その足元には引きちぎられた黄色いリボン。
 そして、顔以外の全身を覆う装甲服を着た男が倒れていた。

(私だけ……吹き飛ばされた―――!?)


 顔を驚愕の色に染める巴マミに、少年は表情を崩さず、緩やかに片手を掲げた。
 その手を横に振る。
 まるで交通規制をする警備員のような動き。それだけだった。


 直後。
 ゴッ!! と暴風が吹き荒れ、巴マミの身体が勢いよく宙を舞った。


 それはもはや空中を横に駆ける竜巻だった。
 一息に三〇メートル以上薙ぎ払われた少女の身体は、グラウンド外周の高いフェンスに
激突してようやく動きを止めた。
 ガッシャァァァァァァァァン!! というシンバルを叩き壊したような音が辺り一面に
響き渡った。

「ご、ふ……っ」

 声は出なかった。背中への衝撃で、肺の中の空気が全て吐き出されているからだ。

「アホらしい」

 一方で、本当につまらなそうに、垣根帝督は吐き捨てた。
 古びたサンドバックのようになった少女が、浮力を失ってフェンスを転がるように落ち
てきたが、彼はそちらへ目も向けない。
 ボロボロになった少女ではない、『別の場所にいる誰か』に向かって話しかけているよ
うな様子だった。

「大口切って喧嘩売ってくるから、さてさてどんな愉快なクソ野郎かと思えばこのザマだ。
“テメェら”は俺をナメてんのか? 第二位、垣根帝督はそんなに薄い壁なのか? 暗部
組織同士の抗争なんざ興味はねえが、そこに俺を巻き込むってんなら話は別だ。なあオイ。
もうちょっとやる気出してくれねえと無駄に死人が増えるだけだぞ」



     *


 激痛は骨の髄まで浸透していた。
 それでいて、巴マミには叫ぶ事すら許されなかった。
 喉の奥からせり上がる粘っこい液体が、そうする事を阻んだ。

「う……ぐっ、ごぼっ! げほげほ!」

 びちゃ、と地面に血を吐き、ようやく呼吸ができるようになる。
 まるで壊れかけのロボットのようだった。
 そして、そんな彼女を見て垣根帝督はくだらなそうに息を吐いた。

「……生きてんならそのまま寝てろよ。面倒臭せえ。テメェが何者かは知らねえが、無理
に殺す必要はねえんだぜ?」

「勝手に、勝利宣、言しないでくれるかしら……? あなたが何者かは知らないけど、こ
の、私……巴マミはそんなに薄い壁じゃないわよ……ッ!」

 言葉と共に、彼女の前方に三丁のマスケット銃が出現した。
 銃口が火を噴くが、まともに飛んだのは一発だけで、一発は完全に上に逸れていて、も
う一発は目標の遥か手前で地面に着弾した。

「ギャハハ何だよそのお粗末は。演算に全く集中できてねえじゃねえかよ。そんなんで俺
とやり合えると思ってんのかあ!!」

 見え見えの弾道を避けて、垣根帝督が恐るべき速度で巴マミに向かっていく。
 彼女の周りには、一際多数のマスケット銃が展開されていた。

(弾幕張るつもりか。いいぜ、そのまま突破して五枚下ろしにしてやる!)

 ドシャアアアアアア!! という轟音は重なり合って、もはや音そのものを破裂させて
いた。
 しかし垣根帝督は構わず、凶悪な笑みを浮かべたまま少女へ突撃していく。
 表情からして、彼は自分が敗北する事など考えてもいなかった。
 これは金魚すくいのようなものだ。


 この巴マミという金魚を一つ目のポイですくう必要はない。
 二つ目三つ目と使って追い回していけば、いつかは弱って捕獲できる。
 彼が金魚を捕まえる事はあっても、金魚に捕まえられる事はない。
 勝敗なんて、始まる前から決まっている。
 そんな風に考えていた垣根は、


 弾幕に突入する寸前で、突如バランスを崩した。


「!?!!!!」

 右足を何かに掴まれた。
 必然的に前のめりの体勢になった彼の目に、その正体が映り込む。

(―――リボン!?)

 それは不意打ちを受けたのと同じ、ほどけた黄色いリボンだった。
 這うようにして、垣根の右足に巻き付くリボン。数秒あれば引き千切れるが、弾幕はも
う眼前に迫っている。そんな時間はない。
 しかしおかしな事がある。
 なぜこんな絶好の位置に罠があるのか、そしていつの間に仕掛けたのか。

(まさ、か)

 垣根の喉が干上がる。
 思えば、最初の反撃の時。
 三発の銃弾の内、見当違いの方向へ飛んだ二発を狙いが定まらなかったと判断したのは
正解だったのだろうか。
 仮にだ。
 真っ直ぐ飛んだあの一発こそがフェイクで、手前に沈んだ一発が実は本命だったという
考えはできないだろうか。

(!! 空中へ逸れた一撃は『これは集中不足だ』とより強く思い込ませるため!? こ
の野郎、初めからこれを狙って―――)


「どお?」

 少女は笑っていた。完全な勝者の表情で。
 もはや声は聞こえいなかったが、口の動きで何を言っているかは予想できた。
 彼女はこう言っていた。


「そんなに薄い壁じゃなかったでしょ」


 爆音が炸裂し、砂埃が舞い上げられた。
 衝撃波に身体を叩かれた垣根帝督が、ノーバウンドで二〇メートル以上吹き飛んでいっ
た。


今日はここまで。

マミ「(やったか?!)」バッ

マミ「……ふふっ、案外大したことなかったわね」ドヤァ

マミ「もう何も怖くない」クルッ

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2013年12月11日 (水) 09:39:21   ID: syXNiDII

続きは…来ないのか…

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