なずな「シロツメクサの願い」 (196)

ひだまりスケッチSSです。地の分有りです。
ゆっくり書いていくので、完結まで当分かかりそうな点ご了承ください。


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1年D組 教室

女子「なずな、次教室移動だよ?」

なずな「うん、ちょっと待って……」

なずな「……あれ?」


机から教科書を取り出そうとすると、見慣れないものが目に入った。
白い便箋。表には何も書いていない。


女子「何やってんの?早くー」

なずな「あっ、その、ちょっと先に行ってて!」

女子「へ?何で?」

なずな「えっと、その、えーっと、ノートが見つからなくて、遅れちゃうかもしれないから、その」

女子「?」

女子「まぁ……じゃあ私先行くけど、なずなも急いだ方がいいよ?」

なずな「うん、ごめんね」


そういって友達が教室から出ていき、教室には私一人になった。
何回も振り返って誰もいない事を確認してから、その手紙を取り出して封を開けた。

なずな「あ……」


机に入っていたのは、ラブレターだった。もっとも、薄々感づいていたけれど。
文面は、『今日の放課後、裏の竹林に来てください』とだけ。
差出人はクラスの男子だった。


なずな「……どうしよう」


クラスが同じといっても、この人とはほとんど話したこともないし、どんな人かも良く知らない。
わざわざ告白されに行って、断ってくる。それが普通だとは思うけれど、どうしても気が重い。
とはいえ、無視を決め込むわけにもいかないし。


なずな「はぁ……」


ため息を一つついて、教室から出て行った。

次の授業には、何とかギリギリ間に合った。
とはいえ、さっきのことで頭がいっぱいで、授業の内容なんて頭に入らない。
結局、そのままの状態で授業終わりのチャイムが鳴った。


女子「ねえ、なんかぼーっとしてるけど、大丈夫?」

なずな「うん、ちょっと考え事。気にしないで」

女子「そう?それよりお昼どうする?パン買いにこうか」

なずな「ごめーん、今日はひだまり荘の友達と一緒に食べる約束してるの」

女子「そうなんだ。仲いいよねー、ひだまり荘の人たち」

なずな「えへへ、そうかな……」


乃莉ちゃんに会える。そう思うと、ちょっぴり気持ちが軽くなった。

食堂

なずな「乃莉ちゃーん」

乃莉「なずな、遅い」

なずな「ごめんね、授業ちょっと伸びてて」

乃莉「まあいいけど、授業なら仕方ないし」

乃莉「ほら、食券の列並ばないと売り切れちゃうよ」

なずな「売り切れ?って、何が?」

乃莉「知らないのっ!?」

なずな「えっ?」ビクッ

乃莉「食堂で今海鮮フェアやってるって知らなかった?」

なずな「あ、ポスターみたいなの、貼ってあったかも……」

乃莉「それで今、1日限定20食で、鮪の漬け丼があるんだよ!」

乃莉「相当豪華らしいんだって、その漬け丼」

乃莉「中トロまで入ってるらしいし、なんでも原価率100%超えてて売れるだけ赤字が出るとか」

なずな「そうだったんだ……」

乃莉「これは逃すわけにはいかないよっ!」


どうして乃莉ちゃんは、食堂のフェアになるといつもこんなに気合が入るのだろう。
それに、材料費がどうとか、そういうのどこで聞いてくるのかな。

乃莉「ちょっと出遅れたかなー。列の人数的に今日は売り切れてるかも」

なずな「ごめんね、私のせいで……」

乃莉「それは仕方ないっていったじゃん、怒ってないし」

乃莉「それにフェアは今週いっぱいは続くから、まだ食べるチャンスはあるし」

なずな「じゃあ、今日食べられなかったら、明日も一緒に食堂来よ?」

乃莉「そうだね」


結局、鮪の漬け丼は売り切れで、乃莉ちゃんも私も通常メニューを食べることになった。
でも、明日も乃莉ちゃんと一緒にお昼を食べられると思うと、売り切れでよかった、なんて思ってしまう。
乃莉ちゃんはすごく悔しそうだけれど。

なずな「最近、乃莉ちゃんよくカツ丼食べているよね」

乃莉「そうかな?まあ、食堂のカツ丼、安いし結構おいしいと思うんだよね」

乃莉「家じゃ敢えて作ろうとは思わないし」

なずな「うん、難しそうだし……」

乃莉(そんなに難しくはないと思うけど……)

乃莉「なずな、最近料理してんの?」

なずな「えっと……」

乃莉「ダメじゃん、やんなきゃ上手くなんないよ?」

なずな「それは分かってるんだけど、作れるものがほとんどないから……」

なずな「ヒロさんに教わった唐翌揚げくらいしかおいしく作れなくて」

乃莉「毎日唐翌揚げってわけにはいかないもんね」

なずな「だよね……」

乃莉「あ、そうだ。今日は一緒に料理しようよ」

乃莉「放課後になずなん家行くから、一緒に作って食べよ?」

なずな「ほんと?じゃあ……」


そこまで言って、ようやく思い出した。
さっきまで私が悩んでいたこと。放課後に呼び出されていたこと。
乃莉ちゃんと話していていると、些細な悩みは不思議と忘れていられるけれど、それでもずっと忘れたままではいられない。

なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

乃莉「なに?」

乃莉「あ、もしかして放課後、何か用事あった?」

なずな「用事ってほどではないんだけど」

乃莉「?」

なずな「実は、ね」

なずな「ちょっと放課後に、呼び出されてて」

乃莉「あ、やっぱ用事あった?ごめんごめん」

乃莉「先生とか?」

なずな「そうじゃなくって、その」

なずな「ラブレター、貰っちゃったみたいなの……」

乃莉「えっホントに!?すごいじゃん!」

なずな「ちょっと乃莉ちゃん、声大きいよ……」

乃莉「あっごめん、で、そいつに呼び出された、ってわけ?」

なずな「うん」

乃莉「で、どうすんの?」

なずな「どうって?」

乃莉「どうって?じゃないよ、告白受けるのかどうか、ってことしかないでしょ」

なずな「うん、それで……」

なずな「どうやって断ればいいかな、って」

なずな「乃莉ちゃんに相談に乗ってほしくて……」

乃莉「へ?そんなん普通に断ればいいじゃん」

乃莉「てか私よりなずなのがそーいうの慣れてんじゃないの?」

なずな「そうかもしれないけど……」

乃莉(さらっと肯定したな……)

なずな「でもやっぱり気が重いって思っちゃうの」

乃莉「まあでも、行ってちゃんと断るしかないんじゃない?断るんなら」

なずな「そうだよね……」

なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

乃莉「何?」

なずな「放課後、一緒に行ってくれないかな?」

乃莉「は?私が?何で?」

なずな「何でって、その、えっと……」

乃莉「明らかに無関係な人がいたらそっちのが気まずいじゃん」

乃莉「待っててあげるから、1人で行ってきなよ」

なずな「うん……」

乃莉「じゃあ放課後、靴箱のとこで待ってるから」

あ、途中から酉消えてた
とりあえず今回はここまで

ホームルームが終わり、放課後になった。
皆、授業が終わった開放感からか楽しそうにしているけれど、私だけは重い気持ちだった。
コートを羽織り、鞄を持って靴箱に向かう。乃莉ちゃんの姿をつい探してしまうが、まだどこにもいなかった。

いつもは人気のない学校の裏の竹林に、1つの人影があった。
やっぱり行くのやめようかな。
そんなことをちらりと思った瞬間、その人影は振り返り、私を見てほっとしたような表情になった。
もう、行かなきゃだめだ。

男子「よかった、手紙見てくれたんだ」

男子「何ていうか……俺、君のこと、好きっていうか、その」

男子「よかったら、俺と付き合ってくれないかな」

なずな「えと、その……」

なずな「あの……」

なずな「ごっごめんなさいっ」

男子「あ、うん……そっか」

男子「やっぱ、彼氏とかいた?」

なずな「そういう訳じゃ……ないけど……」

男子「てことは、好きな奴がいるとか?」

なずな「えっと……」

男子「それだけでもさ、教えてくれたりしないかな」

なずな「……」


言えない。
私が好きな相手は、女の子だなんて。そんなこと、誰にも言えない。

靴箱に戻ると、携帯をいじる乃莉ちゃんの姿があった。
乃莉ちゃんの手の下で携帯ストラップが小刻みに揺れている。
夏休みに、みんなでディスティニーランドに行ったときに乃莉ちゃんとお揃いで買った、
四葉のクローバーにティーニーが乗っているデザインのストラップ。
私の携帯にも付いていて、見るたびにちょっとだけ幸せな気分にしてくれるそのストラップは、
いつもは本当に四葉のクローバーが幸せを運んできてくれたように思えていた。
でも今だけは、あのとき「おそろいで買わない?」と声をかけたときのほんのちっちゃな勇気を思い出してしまって、
それがきっと私にとっての精一杯なのだろうと思うと、ちょっとだけ切なくなってしまう。


乃莉「あ、なずな」

乃莉「……どうかした?何で泣いてんの?」

なずな「へっ?私、泣いてる?」

乃莉「いや、なんか涙目だったから」

なずな「そうかな……」

乃莉「まさか、なんかされた、とか?」

なずな「ううん、そんなことない」

乃莉「なんだ、それならいいんだけど」

乃莉「……そんな、好きでもないヤツ振ったぐらいで気にしちゃだめだよ」

なずな「うん……」


そうじゃない。
私は、好きな人に気持ちを伝える勇気もないし、そんなことは許されないから。
ずっと気持ちを胸にしまっていないといけないから。

乃莉「じゃ、帰ろっか」


そういって、乃莉ちゃんは私の手を取った。
落ち込んだ私をさりげなく励ましてくれるような乃莉ちゃんの優しさが、今日はなんだか心に痛かった。
こうやって手を繋ぐことに私がドキドキしてるなんて、乃莉ちゃんはきっと考えたこともないと思う。
いつもはなるべく考えないようにしているこの恋心も、今日は無視していられない。
でも、乃莉ちゃんにとって私はあくまで友達で、なのに私は乃莉ちゃんのことが好き、だなんて―
やっぱりそんなこと、言えない。

夕方
ひだまり荘 203号室

乃莉「で、何作ろっか?」

なずな「うーんと……」

乃莉「あ、やっぱ考えてなかった?」

乃莉「まあ冷蔵庫にあるもので……」バタン

乃莉「……」


ほとんど空っぽの冷蔵庫を見て、思わず絶句する乃莉ちゃん。
普段から料理してる乃莉ちゃんやセンパイ達からしたら、信じられないことなんだろう。


なずな「お買いもの、一緒に行こう?」

乃莉「そだね」

スーパーに向かう道はすっかり暗く、真冬の寒さが身に染みた。
でも、隣に乃莉ちゃんがいるというだけでなんだか心が暖かくなってくる。


乃莉「なずなは何食べたい?」

なずな「うーん……」


こんなとき、自分の優柔不断さが恨めしくなる。
乃莉ちゃんだったら、ぱっと決められるんだろうけど。


なずな「寒いから……」

乃莉「じゃあ、鍋かなんかにしちゃおうか。ラクだし」

なずな「うんっ!」

乃莉「ラクなもの作るんじゃ意味ないかもしれないけど」

なずな「でも、私もお鍋、食べたいな」

乃莉「あれ、なずなん家にコンロあったっけ?」

なずな「コンロはあるけど、土鍋がないの……」

乃莉「じゃあうちから持ってくよ」

なずな「うん、お願い」

乃莉「あ、美味しそうじゃん」


お鍋の中を見て、乃莉ちゃんはそう言ってくれた。
私の切った野菜は大きさがバラバラだし、お豆腐は既に崩れかかっていて、お世辞にも綺麗とは言えないけれど。


なずな「どうかな……」

乃莉「まあ鍋ならそんな失敗することもないし、野菜の切り方なんて味には影響ないし」

なずな「あぅ……」

乃莉「……今のはちょっと言い過ぎたかな」


私たちはこたつに入りながらお鍋をつついた。
バラバラの大きさの野菜も、きちんとダシが染みていて美味しかった。
なにより、普段は一人だけの夕食を誰かと共にできること、その誰かが乃莉ちゃんだということが私にとっては一番の幸せだった。

なずな「だいたい無くなったね、いっぱい野菜買ったのに」

乃莉「うん、私も余るかと思ったんだけど」

なずな「ご飯はあるから雑炊できると思うけど、食べる?」

乃莉「うん」

なずな「じゃあ……」

なずな「あれ、電話だ」

なずな「……お母さん?」


こたつを出ようとする私に「いいって」と言い残し、乃莉ちゃんは代わりに台所へ向かった。
廊下は寒いし、なんだか申し訳ない気分になるけれど、乃莉ちゃんのお言葉に甘えさせてもらうことにした。

なずな「お母さん?どうしたの?」

なずな母『急に決まったことだから、なずなにも早く話さないとって』

なずな「?」

なずな母『お父さん、また転勤になりそうなの』

なずな「えっ?」

なずな母『それで、今度は関東に戻ってこれるから、またなずなと一緒に住めるんよ』

なずな「そうなんだ……」

なずな母『多分春からだと思うけど、それまではなずな、一人でも元気にしてるのよ』

両親が東京に帰ってくる。
またお父さんとお母さんと、一緒に暮らせる。
その知らせは、入学したての頃の私にとっては何よりも嬉しいものだったはず。
今だってもちろん嬉しい。そう、嬉しいはずなのに……
その後のお母さんの話は、ほとんど頭に入ってこなかった。
いつもと変わらずクローバーと一緒に小さく揺れるティーニーの笑顔だけを、ぼんやりと目で追っていた。

ガチャ

乃莉「電話終わった?」

なずな「うん」

乃莉「じゃ、シメの雑炊、やっちゃおう」

なずな「ごめんね乃莉ちゃん、用意してもらっちゃって」

乃莉「いいよそのくらい」

なずな「でも、つくね作るのもおダシとるのも乃莉ちゃんに任せちゃったし……」

乃莉「材料切ったのはだいたいなずなじゃん」

なずな「でも……」

乃莉「じゃあ、こんど鍋するときはなずなが作って?」

乃莉「そういう機会はこの先いくらでもあるだろうし」

なずな「この先、いくらでも……」ボソ


ひだまり荘を出たら、乃莉ちゃんと離れてしまう。
私の心は、そこに強く引っかかった。
乃莉ちゃんといっしょにいられる日なんて、それこそこの先いくらでもあると思っていた。
でも、すぐそこに終わりがあるのかも知れないなんて。

そう、終わりはいつか来てしまう。
ヒロさんと沙英さんを見ていて、薄々気づかされていたこと。
あと何か月かすればヒロさんと沙英さんは卒業し、ここからいなくなってしまう。
その1年後にはゆのさんと宮子さんがいなくなって―
そして、いずれ私たちも卒業しなければならない。
このひだまり荘での楽しい生活も、いずれ終わってしまう。
そのとき、私はどうすればいいのだろう?
乃莉ちゃんへの打ち明けることのできないこの気持ちに、どうやって折り合いをつければいいのだろう?
それはどんなに考えても答えの出ない問題で、だから私は無意識に考えないようにしてきたのだけれど、
こうして目の前にタイムリミットが現れると、どうしていいのか分からず私にはオロオロすることしかできなくなってしまう。
乃莉ちゃんが作ってくれた雑炊は、きっと美味しいはずなのに、なんだか苦い味がしたような気がした。

乃莉「なずな?」

なずな「へっ?」

乃莉「なんか考え事?」

なずな「えーっと、その……」

乃莉「もしかしてさっきの電話のこと?何の話だったの?」


急に黙り込んだ私を見て、乃莉ちゃんは心配そうな顔を浮かべていた。
乃莉ちゃんはこういうとき、いつも鋭い。とはいっても、今回は私から見てもバレバレだったとは思うけど。


なずな「ううん、何でもないよ」


私は、誰でも嘘だとわかる嘘をついた。

翌日 昼休み
食堂

乃莉「すっごく美味しい!脂乗ってるし、学食のメニューとは思えないよ!」

なずな「そうだね、おさしみいっぱい乗ってるし」

乃莉「急いで来てよかった~!」


私たちはなんとか海鮮フェアの鮪の漬け丼を食べられた。ギリギリ売り切れる前に間に合ったみたい。
乃莉ちゃんはすっごく嬉しそうで、私には鮪丼よりもそんな乃莉ちゃんを見ていられることのほうが嬉しく思える。
食べ始めるのも早かったし、鮪丼が美味しかったこともあって、今日の昼休みの半ばにはとっくに食べ終わってしまった。


乃莉「まだ結構昼休みあるね」

乃莉「早く来た分食堂の行列に巻き込まれなくて済んだし」

なずな「だったら乃莉ちゃん、校内をお散歩しようよ」

乃莉「散歩?いいけど」

なずな「乃莉ちゃんとお話ししたいな、って」

昨日、言わなきゃいけなかったのに言わなかったこと。
両親が帰ってきて、私はひだまり荘を出ることになるということ。
これは事実なのだから、ちょっと気は重いけれど乃莉ちゃんにも先輩たちにもいつか伝えなければいけない。
それに、もしかしたら引き留めてくれるかも、なんてことも心のどこかで考えていたりして。

昼休みの学校は、どこも部活をしたりお弁当を食べたりする生徒で賑わっているけれど、
校舎を回って学校の裏まで歩くと、人影はほとんど見られなくなった。
言わなくちゃ、ダメだよね。
私はひとつ深呼吸をすると、さっきからずっと鮪丼の話ばかりしている乃莉ちゃんに真っ直ぐ顔を向けた。


なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

乃莉「ん?」

なずな「昨日、お母さんから電話、あったでしょ?」

乃莉「うん」

なずな「それでね、お父さんとお母さん、こっちに帰ってくるかもしれないの」

乃莉「えっ、そうなの!?」

乃莉「もう、早く言ってよ、そういうことは」

なずな「ごめんね……」

乃莉「よかったじゃん、なずな」ニコッ


そういって満面の笑みになった乃莉ちゃんを見て、私はまた複雑な気持ちになった。
乃莉ちゃんは友達として、私が家族と再び過ごせることを喜んでくれている。
それはごく自然なことだなんて、分かりきっているのに。


乃莉「いつ戻ってくるって?」

なずな「えっと、来年の春くらい、だって」

乃莉「そっか」

乃莉「じゃあ、3年の先輩たちと一緒になずなもひだまり荘からいなくなっちゃうんだ」

乃莉ちゃんは寂しくなるなあ、と一言つぶやいて、向こうを向いた。
私も乃莉ちゃんの見る方向をぼんやりと眺める。あの竹林が遠くに見えた。

いなくなっちゃうんだ。

乃莉ちゃんのその言葉が、重く心に響く。
私は、ひだまり荘からいなくなってしまう。乃莉ちゃんと離れてしまう。
そのことは何度も何度も考えたはずだけれど、私は心のどこかでフィクションの様に思っていたのかもしれない。
でも、乃莉ちゃんの口から聞かされると、怖いくらいのリアルさを感じられた。
乃莉ちゃんは寂しいと言ってくれたけれど、きっと私はもっと寂しい。
寂しいというより、怖いのかもしれない。
乃莉ちゃんと一緒に居られなくなることが。
乃莉ちゃんの一番近くに居られなくなることが。
だんだんと目頭が熱くなってくるのを感じた。

乃莉「あーもう、何で泣くの?」

なずな「乃莉ちゃん……」

乃莉「引っ越したからって私とか先輩たちとかと会えなくなるわけじゃないんだしさ」

乃莉「ひだまり荘は学校の目の前なんだし、いつでも遊びに来てよ」

なずな「うん、ありがとう」グスッ

乃莉「それに、今すぐってわけじゃないんだからさ」


そういって、乃莉ちゃんは私を抱きしめてくれた。
誰もいない校舎裏、乃莉ちゃんの体温が伝わってきて、思わずドキドキしてしまう。
優しさがすごく嬉しくて、そして辛い。


乃莉「大丈夫だよ」


そう言って私の頭をなでる乃莉ちゃんの姿はとても眩しく見えて、
私は思わず気持ちを口に出してしまいそうになる。


なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

乃莉「ん?」


でも、そんなことは許されないから。


なずな「……ありがとう」


そう、乃莉ちゃんの胸の中で小さくつぶやいた。

午後の授業を終え、帰路に着いた。
とはいっても、校門を出れば目の前はひだまり荘だから、下校の時間は一瞬だ。
階段を上がろうとすると、どこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。


ヒロ「あら、なずなちゃん、おかえりなさい」

なずな「あ、ヒロせんぱい」

ヒロ「ちょうどよかったわ、今日の夕飯、うちでみんなで食べない?って言いに行こうと思ってたの」

なずな「いいんですか?」

ヒロ「もちろん♪」

なずな「……あの、お勉強、とかは……」

ヒロ「大丈夫よ、たまにはみんなとご飯食べたいな、って」


本当なら、手伝います、と言いたかったけれど、私じゃ足手まといになるだけだから、
「夕ご飯楽しみにしてます」とだけ言って私は部屋に戻った。
やっぱり、せめて人並みにはお料理もできるようにならなくちゃ。
それが先輩たちと私のいなくなる春までに叶うかは分からないけれど……

部屋に戻って1人になると、昨日からのことを考えてしまう。
食堂のフェア、クラスの男子に告白されたこと、両親が東京に戻ってくること。そして、
泣いてしまった私を乃莉ちゃんが抱きしめてくれたこと。
ベッドに寝転がり、目を閉じる。あのときのドキドキが、今でも残っているような気がした。

いつの間にか眠っていたみたい。
無造作に何かを叩く音で目が覚めた。それが私の部屋のドアをノックしているのだと気付く前に、がちゃりとドアが開いた。
びくりとして跳ね起きると、そこには宮子さんの顔があった。


宮子「もうそろそろ夕飯の時間だよー?」

なずな「えっ!?」


時計を見ると、6時半を少し過ぎている。
服がシワになってるかも、と思ったけれど、みんなを待たせるわけにもいかないし、すぐに靴を履いて部屋を出た。


宮子「ヒロさんのご飯、なんか久しぶりだねー」

なずな「あの、ゆのさんは?」

宮子「ゆのっちなら夕飯作るお手伝いしてるよ」

宮子「私も手伝おうかと思ったけど、ジャマになるからねー」

なずな「あっ、私も一緒です」

宮子「そーなんだ」

なずな「宮子さん、片付けは私たちでやりませんか?」

宮子「そだねー」

宮子「お邪魔しまーす」ガチャ

なずな「お邪魔します……」


ヒロさんの部屋のドアを開けると、辺りにふわっといい香りが漂い出した。
エプロン姿のゆのさんとヒロさんがこちらを振り向く。


ゆの「あ、宮ちゃん、なずなちゃん、グッドタイミング!」

ヒロ「もうすぐできるわよ」

宮子「おー!おいしそー!」

ヒロ「あ、ついでにお箸とスプーン持ってって?」

宮子「はーい」ガチャ バタン

なずな「あの、ヒロさん、ゆのさん」

ゆの「ん、何?」

なずな「夕ご飯の支度、全部任せちゃってごめんなさい」

ヒロ「いいのよ気にしなくて、私がやりたいからやってるんだもの」

なずな「それで、片付けは私と宮子さんでやろうって話してて」

ゆの「えー、いいのにそんな」

ヒロ「別に気は使わなくっていいけど、そうね、そういうことならやってもらおうかしら」

なずな「はいっ♪」

ヒロ「じゃあ、支度は私とゆのさんでやるから、なずなちゃんはリビングで待ってて?」

リビング

ヒロ「それじゃ、いただきましょ」

5人「いただきまーす」

宮子「おいひーい」

沙英「宮子、食べながら喋らない」

なずな「でも、このエビフライ、本当においしいです」

乃莉「ほんと、お店で食べるより衣がサクッとしてて」

ヒロ「そう?ありがとう」

沙英「こっちのスープはゆのが作ってくれたんだよね?」

ゆの「はい、あの、お口に合いましたか……?」

沙英「うん、美味しくできてる」

ゆの「良かった~」

宮子「うんうん、全部美味しいですぞ」バクバク

ゆの「もう宮ちゃん、そんながっつかなくてもいっぱいあるから」

なずな「でも、ほんとに美味しい」ボソ

乃莉「ん?」

なずな「ヒロさんもゆのさんも、すごいなぁ、って思って」

乃莉「確かに、私もあと1年でゆのさんくらい料理できるようにはなれそうにないなー」

ゆの「えっ、そんなことないよ!私なんて去年のヒロさんと比べたら全然!」

ヒロ「えー?そんなことないんじゃないかしらー?」

ゆの「そんなことないです、ヒロさんはほんとに上手だし、レパートリーも多くて」

沙英「まー、お蔭で私なんてたいして料理やらないまま卒業することになりそうだけどね」

アハハハハ……


6人で食べる夕ご飯はいつだってすごく美味しいし、すごく楽しい。

ヒロ「でもこんなにちゃんと作ったの久しぶりかも」

乃莉「えっ、ヒロさんがですか?」

ヒロ「うん、受験勉強があるから、お料理ばっかりしてるわけにはいかないもの」

沙英「やっぱり家事とかはおろそかになっちゃうよね、良くないとは思うんだけどさ」

宮子「沙英さんは元から……」

沙英「そういう宮子はどうなのー?」

宮子「ここ3日はさつま芋で過ごしてるよ?」

沙英「……」

ゆの「……ねえ宮ちゃん、今度はうちにご飯食べに来て」

宮子「やったー!」

沙英「……宮子、疎開先、決まって良かったね」

宮子「?」

なずな「でも、やっぱりお勉強、大変なんですね」

沙英「まあでも、私なんかは今仕事ストップしてもらってるわけだし」

沙英「そう考えるとそこまで負担ってほどではないかな」

宮子「でも沙英さんの本、最近出たよねー?」

沙英「何で知ってんの……」

ヒロ「あれは短編集で沙英が書いたのは1本だけだし、去年くらいに雑誌に載ったものだから」

沙英「だから何で知ってんの……」

乃莉「『夜明けの僕ら』ですよね、私も読みましたよ」

ゆの「私も読みました♪」

沙英「ちょ、えっ?」

ヒロ「沙英にしては珍しく恋愛小説じゃなかったのよね」

沙英「」///

沙英「ま、まあ、あれはヒロの言う通り去年書いたやつで、ほとんど直しもしてないから」

沙英「ほとんど時間も取られなかったんだよ」

沙英「雑誌に載ったいろんな作家の短編をまとめた本だから、編集さんがほぼ全部やってくれたし」

なずな「でも皆さんちゃんと読んでるんですね……」

ヒロ「なずなちゃんは沙英の本、読んだことないの?」

なずな「はい……そもそも普段本読まないし……」

乃莉「えー、読めばいいのに。私全部読み終わったら貸そうか?」

ヒロ「大丈夫よ、沙英の部屋に何冊かあるから」

宮子「えー沙英さん、自分の本そんなに買ってるの!?」

沙英「んなわけないでしょ!編集から送られてくるだけだよ」

乃莉「なんだー、てっきり何かのランキング工作でもしてるのかと」

沙英「なずな、読みたくなったらうちにあるの貸すからさ」

なずな「あっ、ありがとうございます」

沙英「まあ無理に読めとは言わないけど」

なずな「いえっ私も読んでみたいですっ」


さすがに「本を読むと眠くなっちゃうんです」とは言えないよね。
でも、たまには小説を読んでみるのもいいかな、と思った。

私が3本目のエビフライを齧っていたら、不意に乃莉ちゃんが話しかけてきた。


乃莉「あ、そうだなずな、あのこと先輩達にも言った方がいいんじゃないの?」

なずな「あっ……」

宮子「えっなになに?」


ご飯をもう2回もおかわりした宮子さんが、お茶碗を持ったまま身を乗り出す。
そうだよね、言わなくちゃ。
私はお箸を置いて、みんなに向き直った

なずな「あ、あの、両親が、東京に帰ってくるみたいなんです」

ゆの「えっ、ほんと!?」

沙英「良かったじゃない」

ヒロ「いつ頃戻ってこられるのかしら?」

なずな「春って言ってました」

沙英「年度替わりで、ってことかな?」

ゆの「……てことはなずなちゃんも、ひだまり荘から引っ越しちゃうんだよね」

なずな「え、えと、多分……」

宮子「そっかー、春にはひだまり荘の人口が一気に減っちゃうのかー」

沙英「でも、きっと来年になったら新しい子も入ってくるだろうし」

沙英「それに宮子が1人いれば十分賑やかなんじゃない?」

宮子「うんうん、来年からはもっと騒がしくしないといけませんな」

沙英「そういう意味で言ったんじゃないよ」アハハ

ヒロ「……私も先輩たちがいなくなったときは寂しかったけど」

ヒロ「でも、ゆのさんと宮子さんが来てくれて本当に嬉しかったの」

ゆの「ヒロさん……」

沙英「それは私も同じ。乃莉となずなが来たときだってそうだよ」

ヒロ「新しく入ってくる子を温かく迎えてあげれば、きっと皆で楽しく過ごせると思うわ」

私が夕ご飯を食べ終えたときには、他のみんなは既に食べ終わっていて思い思いにくつろいでいた。


宮子「おなかいっぱーい……」バタン

なずな「あ、宮子さん……」

ヒロ「もう、宮ちゃんったら」

ヒロ「なずなちゃん、洗い物、やっちゃう?」

なずな「へ?でも……」

ヒロ「いいのよ別に、なずなちゃんが手伝ってくれるだけでも十分助かるわ」

ヒロさんと連れ立ってリビングから出ると、キッチンは既にほとんど片付いていた。
作りながら調理器具を洗ったりもしていたみたい。結局洗うものはみんなの食器くらいしかなかった。
お料理がおいしいだけじゃなくて、こんなところにもちゃんと気配りができるなんて。
あらためてヒロさんの手際の良さを実感する。


なずな「やっぱりヒロさんは凄いです」

ヒロ「?」

なずな「料理上手で、家事もなんでもできて……」

ヒロ「そんなことないわよ」

ヒロ「失敗することだってたくさん……」

ヒロ「でも、ずっと続けていれば上手くなるわよ」

ヒロ「なずなちゃんも、きっと」

なずな「私、もうちょっとお料理できるようになりたいです」

なずな「ヒロさんみたいに、っていうのは無理ですけど、せめて人並みには……」

ヒロ「だったら、ご両親が戻ってくるまで頑張ってみたら?」

ヒロ「分からないことがあったら何でも聞いてくれていいから」

なずな「ありがとうございます……!」


うん、やっぱり続けなくちゃできるようにはならないよね。
明日から、スーパーのお惣菜はなるべく使わないようにして、できるだけ自分で頑張ってみようかな。
朝ごはんもちゃんと、ご飯を炊いて、お味噌汁を作ろう。
……って、前にも朝ごはん、パンじゃなくてちゃんと作ろうと思ったんだっけ。たしかヒロさんに唐揚げの作り方を習ったときに。
結局続かずにすぐパンに戻っちゃったけど、でも、今度こそは!

乃莉「それじゃ、私たちはそろそろ」

ゆの「ごちそうさまでした~」

ヒロ「ゆのさんの作ったスープもおいしかったわよ」

沙英「ありがと、ヒロ」

ヒロ「いつものことじゃないの♪」

沙英「うっ……」

なずな「おやすみなさい、ヒロさん」

ヒロ「うん、おやすみなさい。洗い物手伝ってくれて助かったわ」

なずな「そんな、私は全然」

ゆの「あれ?宮ちゃんは?」

乃莉「宮子さんなら……」

宮子「んー……」スヤスヤ

ゆの「寝てる……」

ゆの「もう宮ちゃん、そろそろ部屋戻ろ?」ユサユサ

宮子「ゆのっち、あと一口……」

乃莉「あはは……私たちは先行ってましょうか」

沙英「そうだね」


私は乃莉ちゃんと沙英さんに続いてヒロさんの部屋を出た。
冷たい風が頬を掠めていく。
前を歩く沙英さんに、私は声をかけた。


なずな「あの、沙英さん」

沙英「ん?どうかした?」

なずな「さっき言ってた本なんですけど……」

沙英「ああ、持ってく?」

なずな「お願いできますか?」

沙英「あ、全然気にしなくて大丈夫だから。うちに5冊もあってもしょうがないし」

沙英さんはちょっと待ってて、と言って部屋に入っていった。冬の夜の寒さに、私はコートの襟の中に首をうずめた。
1分もしないうちにドアが開き、部屋から沙英さんが出てきた。


沙英「ごめん、なずな」

なずな「?」

沙英「いや、どこ置いたか分からなくなっちゃってさ。寒い中待たせるわけにもいかないし」

沙英「見つけたら持っていこうか?それとも上がって待つ?」

なずな「えっと……」


忙しい沙英さんにわざわざ時間をとってもらって探してもらうのも気が引けたけれど、
今更断っても沙英さんはやっぱり探してくれそうで。
だったら私も手伝った方がいいかな。


なずな「あ、じゃあ、私も探します!」

沙英「そう、散らかってるから覚悟しててね」


そう言って、沙英さんはいたずらっぽく笑った。

そういえば、沙英さんのお部屋にお邪魔したことはほとんどない。
ご飯のときはヒロさんかゆのさんの部屋だし、皆で遊んだり絵をかいたり、ってときは宮子さんの部屋が多いし、
最近はこたつのある私の部屋にみんなが集まってくれる。
沙英さんのお部屋には、玄関先までなら何回もあるけど、上がったことなんて2回か3回くらい。
そう思っていると、沙英さんが部屋の電気をつけた。あちこちに散らばった本の山が目に入る。
その中には、小説だけじゃなく、参考書やノートもたくさんあった。


沙英「ね、散らかってるでしょ」

なずな「え、えと……」

沙英「さすがにそろそろ掃除しなきゃ、と思ってたんだけど、勉強にしろ原稿にしろ、始めると他のこと見えなくなっ
ちゃって」

なずな「すごく集中力あるんですね……」

沙英「まあ、そういえば聞こえはいいけどさ」

なずな「お片付け、手伝いましょうか?」

沙英「さすがにそれは悪いよ」

沙英「それに、今どこになにがあるか分からなくなると困るし」

沙英「もうちょっと収集がつきそうな状況にならないと人に手伝わせるのは……」

なずな「そうですか……」

沙英「なずなは部屋、綺麗にしてるよね」

なずな「えっ、えっと」

なずな「ちょっと前まではすごく散らかってたんですけど」

なずな「こたつ出して、皆さん家に集まってくれるようになって」

なずな「だからちゃんと片づけておかないと、って」

沙英「そういうことかー。でも、それでも偉いよ」

なずな「でも私、乃莉ちゃんに『片づけなよ』って言われるまで何もしなかったし、だから全然……」

沙英「そうかな」

なずな「へ?」

沙英「人に言われて出来るんだったら、自分でだって出来るはずだよ。ほんのちょっとのことで」

なずな「ほんのちょっとのこと、ですか……」

沙英「あ、ここにこれがあるってことは、この奥に」ゴソゴソ

沙英「……やっぱりあった」


そういって、沙英さんは1冊の文庫本を私に手渡した。
2人の人物が、夜空を見上げている表紙の絵が目に入る。
粗いタッチで、しかも後ろ姿のシルエットだから男性なのか女性なのかも分からないけれど、
何故かしばらく、私はその絵に目を奪われていた。


沙英「短編だし、そんなに時間かからずに読めると思うよ」

なずな「はい」

沙英「他の人の作品もすごく良いから、気が向いたらそっちも読んで」

なずな「えっと、いつ読み終わるか分かりませんけど……」

沙英「そんなの、いつまで借りててもいいから」


普段本なんて読まない私だけど、どこまで読めるか分からないけど、それでもこの本は読んでみたいと思った。

沙英さんに「おやすみなさい」と挨拶して102号室を後にした。
階段を上って自分の部屋に戻り、真っ先に給湯器のスイッチを押した。それでもお風呂が沸くまでには少し時間が空いてしまう。
さっきまでみんなといたせいか、一人っきりの部屋は余計に寒く感じた。
とりあえずこたつに潜り、さっき借りたばかりの本をぱらぱらとめくってみた。
目次をみると、2番目に、『夜明けの僕ら』という作品がある。確かこれが沙英さんの小説だよね。



 夜明けの僕ら

                                         橘 文
   

 太陽が街中を赤く染めながら、音もなく西の空に沈んでいく。
 校門の前の道に佇み、朱色に染まる校舎を眺めるのはもう日課になってしまった。フィルムを早送
りするような速さで伸びていく私の影が街路樹の幹に重なり、今日最後のチャイムが響く。毎日見か
ける白髪の用務員さんが校門を閉めるのを見届けると、小さくさよならと呟き、踵を返して帰路に就
いた。
 3月とはいえ吐く息は仄かに白く、まだ冬の寒さを残していた。あと何週間かすれば桜の咲く陽気に
なるだなんて信じられないな、なんて考えていると、ポケットの中で携帯が震えた。

……



『夜明けの僕ら』を読み終わって、ようやく我に返った。
時計を見ると、もう30分以上経っていたみたい。とっくにお風呂は沸いていた。
こんなに集中して本を読んだのは初めてかもしれない。やったことがなかっただけで、私も意外とやればできるのかも。
小説の余韻に浸りつつ、お風呂場に向かった。


なずな「ふう……」


お風呂に入ると、体が内側まで温まっていくのを感じる。
私は何故か、さっき読んだ小説のことばかり考えていた。
いつも臆病な主人公が悩みにぶつかって、変われずにいるときに、かけてもらった言葉。

「君は勇気がないから変われないわけじゃない。変わらないことを選ぶ勇気を持っているんだ。
だから、変わることだってできるはずだよ。どちらも同じ勇気なんだから。」

私は無意識に、何度も何度もこの言葉を反芻していた。


なずな「あっ……」

そっか。
どうしてこんなにこの小説に夢中になれたのか。それは、きっと、この主人公が私に似てるからなんだ。
臆病で、何の取り柄もなくて、いつも前に進めずにいる私と。


なずな「同じ勇気……」


今年の春、高校に進み、ひだまり荘に入って一人暮らしをすることになった。
来年の春には3年の先輩たちはやまぶき高校とひだまり荘から卒業し、私は家に戻ることになる。
私の周りはすごいスピードで変わっていく。変わってしまう。
でも、私には変わる勇気もなければ、変わらない勇気だって……

朝 ひだまり荘前

乃莉「なずな、おはよ」

なずな「うん、おはよう……」

乃莉「?」

乃莉「なずな、眠そうだね」

なずな「うん……」

なずな「ちょっと夜更かししちゃって」

乃莉「珍しいじゃん、なずなが夜更かしなんて」

乃莉「私といるときとか一瞬で寝るのに」

なずな「あぅ……」

乃莉「何してたの?」

なずな「えっと、沙英さんの本、読んでて」

乃莉「あー、あれね」

乃莉「……そんなに遅くまで?すぐ読み終わると思うけど」

なずな「何回か読み返したりしてて……ふぁぁ」

なずな「でね、朝ごはん、今日はちゃんとご飯炊こうと思ってたんだけど、それも忘れちゃって……」

乃莉「ふーん?」

なずな「パンの買い置きもなかったし、他に作る時間もなくって」

乃莉「え!?じゃあ朝ごはん抜いたってこと?」

なずな「牛乳があったからそれだけ飲んできたけど……」

乃莉「そんなんじゃ昼休みまでにお腹すいちゃうよ?それに朝抜くとか体に悪いし!」

乃莉「なんかうちで食べてった方がいいんじゃない!?」

なずな「でも、そしたら遅れちゃうかも……」

乃莉「別にホームルームくらい大したことないよ」

乃莉「食パンあるから食べてきなよ、時間ないし焼かなくていいよね?」

なずな「……ありがとう、乃莉ちゃん」

乃莉「いいって別に」


結局今日も朝ごはんはパンになっちゃったし、すごく慌ただしかったけれど、
乃莉ちゃんの部屋で食べたパンは、普段よりもすっごく美味しく感じた。

冬休みに入って、私は早めの帰省を済ませた。
ゆのさんが「3が日はヒロさんと沙英さんの講習がお休みだから、その時は一緒にいたいね」と提案してくれて、
私もお母さんたちのところにはクリスマスが終わってすぐに行き、12月30日の今日、ひだまり荘に帰ってきた。
改めてひだまり荘の表札を見たら、もうすっかり、ひだまり荘に“帰ってくる”という感じになった自分に気づき、
ここから出ていかなければならないことが、また、寂しく思えた。


ゆの「あっ、なずなちゃん、お帰り!」

なずな「あ、ゆのさん、ただいまですー」

なずな「えっと……お掃除中ですか?」

ゆの「うん、大掃除とかしたいな、って」


そう言ったゆのさんの手には、竹ぼうきが握られていた。

なずな「毎年、大掃除してるんですか?」

ゆの「ううん、普段は年末は帰省しちゃうから……」

ゆの「でも今年は3日のお昼まで私と宮ちゃんはこっちにいるし」

ゆの「せっかくだから、綺麗なひだまり荘で沙英さんとヒロさん、送り出したいな、って」

ゆの「とはいっても自分の部屋以外でできることってそんなにないんだけどね」アハハ

なずな「私もお手伝いします!」

ゆの「ほんと?じゃあ……とりあえず、なずなちゃんは帰ってきてすぐだし、一休みしよっか?」

ゆの「私もちょっと休憩しようかと思ってたんだ」

201号室

ゆの「なずなちゃん、早かったね」

なずな「えっと、荷物置いてきただけで、荷解きとかは夜でもいいかなって」

ゆの「今、お茶入るから。紅茶でいいよね?」

なずな「あっ、すみませんっ」


ゆのさんが紅茶を淹れてくれて、しばしティータイムになった。
数日ぶりにひだまり荘の心地よい空気に浸れるような気がした。


なずな「沙英さんとヒロさんは講習でしょうか?」

ゆの「そうみたい。宮ちゃんは何か製作中って言ってたし、乃莉ちゃんは明日だっけ?」

なずな「はい」

ゆの「そっか~」

なずな「ゆのさんは、この何日か、何してたんですか?」

ゆの「大したことはしてないよ~、宿題したり、お掃除したり、年賀状書いたりはしたけど、あとはダラダラしてた♪」


あっ……
年賀状、忘れてた!


ゆの「あ、結構時間たっちゃったね。日が暮れる前に庭の掃除しちゃおうか?」

なずな「は、はいっ」


勢いでそう答える。
消しゴムはんこの年賀状を作るのに挫折してから放置していた年賀状は、今から出してももう元日には間に合わない。
すぐ出せば3が日中には……でも、それもちょっと大変かも。
クラスのみんな、ごめん!年賀状は、始業式までには何とか……

庭に出ると、もう落ち葉はほとんど片付いていた。
これ、ゆのさんが全部一人でやったんだよね?私には凄いなあ、偉いなあ、という感想しか出てこない。


なずな「何をすればいいですか?」

ゆの「えっと、そのへんなんだけど」


そう言って、ゆのさんは物置の脇を指差した。
このあたりは日当たりがいいからか、真冬になっても雑草が枯れずに残っている。


ゆの「端っこだからいつもはやらないんだけど、今日はここも綺麗にしようかな、って」

ゆの「はい、なずなちゃん、軍手」

なずな「あっありがとうございます」

ゆの「よーし、どんどんやっちゃおう♪」

なずな「はいっ♪」

なずな「ん……しょっと」

ゆの「結構根っこが張ってて大変だね……」

なずな「そうですね……」

ゆの「あ、物置にスコップあったかも」


そういってゆのさんが物置の扉を開ける。
そういえば、この物置の中を見るのは初めてだ。ゆのさんの後ろから中を覗き込んだ。


ゆの「えっと……」ゴソゴソ

なずな「あの、ゆのさん、これなんですか……?」

ゆの「へ?あ、それはホース」


変な生き物の像……えっと、マーライオンっていうんだっけ?
昔の美術科の先輩が作ったのかな?他にもタイヤとか、変なものばかり入っている。
やっぱり美術科の人って、変わった人が多いんだなあ。

ゆの「あれー?確かあったと思ったんだけど」

なずな「無いですか?」


そう言いながら私も物置のガラクタをかき分けると、何かが足元に転がってきた。
白くて丸っこい、なにか人の顔みたいな……人の顔!?


なずな「きゃああああああああ!!」

ゆの「なずなちゃん!?」

なずな「今、なんか、生首みたいのが、今、そこにっ!!」

ゆの「なずなちゃん、落ち着いて!これただのブルータスだよ!」

なずな「ブルータス……?」

ゆの「えと、デッサン用のモチーフの石膏像」

なずな「何だ……」ホッ

ゆの「これ去年まで埋められてたんだけど、私が掘り返しちゃったからここに入れておいたの」

なずな(埋められ……?)

ゆの「驚かせちゃってゴメンね?」

なずな「いえ、スミマセン……」

宮子「ゆのっちー?なんかあったー?」

なずな「あ、宮子さん」

ゆの「ううん、何でもないよー♪」


宮子さんが部屋のベランダに出てきて、こちらに呼びかけてきた。
多分私の悲鳴を聞いて出てきてくれたのだろう。ちょっと申し訳ない気分になる。


宮子「ゆのっちになずな殿、何してるの?」

ゆの「ここらへんの雑草取りしてたんだけど……」

宮子「おお、雑草取り!?私もやる!」

ゆの「ほんと?じゃあ宮ちゃん軍手とか……」

宮子「とうっ!!」

なずな「!?」


宮子さんがベランダから飛び降りた!
あまりのことに私は頭の中が真っ白になり、声も出せないまま私は反射的に強く目を瞑った。
ドシン、という音がしてしばらくは目を開けられなかった。

ゆの「もー、宮ちゃん、駄目だよ飛び降りちゃ~」

ゆの「それに靴は?」

宮子「へーきへーき」


恐る恐る目を開けると、宮子さんもゆのさんもいつも通りの様子だった。


なずな「宮子さん……大丈夫ですか?」

宮子「へ?」

なずな「?」

ゆの「あー、宮ちゃん、よく2階から飛び降りてるから」

なずな「えっ?」

宮子「このくらい全然平気―」

ゆの「私も1回やったことあるよ」

なずな「えっ?えっ?」

ゆの「危ないからやめたほうがいいと思うけどね」アハハ


結局、宮子さんはベランダに置いてあったヒロさんのサンダルを(勝手に)借りて、素手で草取りに参加することになった。
宮子さんのたくましさは、私には絶対マネできないなあ……

なずな「宮子さんは、さっきまで何してたんですか?」

宮子「んー?木炭やってた」

なずな「???」

ゆの「えっと、デッサンのときに木炭で描くことがあるの」

なずな「へえー……」

ゆの「木炭デッサンは質感が出しやすいんだよね~」

ゆの「それで、消しゴムの代わりに食パン使ったりするんだよ♪」

なずな「知らなかったです……」

ゆの「あっ、だから宮ちゃん昨日パン買ってたの?」

宮子「いやー、全部食べちゃったから消せなくなってしまって」

ゆの「えっ!?一斤全部!?」

なずな「それで、絵、完成したんですか?」

宮子「だいたいねー」

なずな「冬休みの宿題とか、そういうのなんですか?」

宮子「ううん、全然?」

ゆの「美術の課題は別にあるけど……」

宮子「そっちは昨日やったー」

ゆの「私もだよ♪ほら、帰省前に終わらせないといけないから」

なずな「すごいです……!」

宮子「とはいっても、数学とかそういうのは残ってるけどね」

ゆの「ねえ宮ちゃん、絵、見せて欲しいな」

なずな「私も見たいですー」

宮子「じゃあ、これ終わったらね」

3人で集中して雑草取りをしたら、思いのほか早く綺麗になった。
普段は目につかない一角だけれど、それでもひだまり荘全体が少し明るくなったように感じられる。
その後、先輩たちと宮子さんの部屋に向かった。
散らかった宮子さんの部屋に入れてもらうと、木や絵の具が入り混じったような、美術室と同じ匂いがした。
窓際のイーゼルに大きなスケッチブックが置かれている。そこには見慣れた風景が描かれていた。
ひだまり荘から見た景色だ。
隣の私の部屋の窓からも同じ風景が見える。ひだまり荘の庭や塀、街並み、遠くにかすかに見える山々。
宮子さんはイーゼルの前に座って、窓の外を見ながら指で絵をこすり、線を微妙にぼかしていく。


宮子「……よしっ、ま、こんなもんかな」

なずな「すごーい……」

ゆの「うん、やっぱり宮ちゃん上手~」

宮子「そんなことないって」

ゆの「でも、どうしてひだまり荘から見える風景なの?」

宮子「よくぞ聞いてくれました!それはですな……」


そう言って宮子さんは別のスケッチブックを取り出した。
ぱらぱらとページをめくっていく手が、ある絵で止まった。

なずな「……あれ?」


同じ景色だ。
宮子さんが昔の絵もイーゼルに並べて飾った。どっちも上手で、私には違いが良く分からなかった。


宮子「これは去年書いたやつなんだけどー」

ゆの「宮ちゃん、前からデッサン上手だけど、こうやって比べるとすっごく上達してるね」

なずな「やっぱり美術科の人だと、そういう違いも分かるんですね。私には同じに見えちゃいます」

宮子「そうじゃなくて、ここ」


宮子さんが指さした完成したばかりの絵には、高いビルが描かれていた。
それほど高層ビルというわけではないけれど、このあたりでは良く目立つ。
窓の外を見ると、確かにそのビルが建っている。目を細めて見ると、屋上にはクレーンのようなものが見えた。
てことは今、工事中なのかな。
そして去年宮子さんが描いたという絵には、そのビルの姿はなかった。

ゆの「ホントだ、あのビル建ったの、最近だもんね」

なずな「なんだか間違い探しみたいですね」

宮子「でしょー?」

宮子「いつも見てるこの風景も少しずつ変わっていっちゃうから」

宮子「だからこうやって……」


そう言って宮子さんは窓を開けると、透明な液体の入った瓶にストローみたいな不思議な道具を挿して、息を吹き込んだ。
液体が霧になって、宮子さんの絵に吹き付けられていく。


ゆの「木炭はこするとかすれちゃうから、描き終わったらフィキサチーフっていうので表面を保護するの」

ゆの「そうしないと、絵をとっておけないから」

なずな「そうなんですか」

ゆの「普通はスプレーのを使うんだけどね」

宮子「こっちのが安上がりだから」


宮子さんの描いた、ひだまり荘から見えるこの風景が、スケッチブックの中に閉じ込められていく。
目の前に見えるのと同じ風景のはずなのに、絵の風景は1秒ごとに懐かしいものになっていくように思えた。

宮子「風景もこうやって変わっちゃうし、私達もずっと変わらずここにいられるわけじゃないし」

宮子「だからなるべく描いておきたいんだよね、こうやって」

ゆの「宮ちゃん……」

宮子「いつか懐かしくなるかもしれない風景を閉じ込めておく、っていうのかな」


さっきまでとは違って真剣な表情になった宮子さんの横顔に、思わず見入ってしまう。
私も、ひだまり荘のこの風景をどこかに閉じ込めてしまわないといけないのかな。
今の楽しい生活を。
乃莉ちゃんと一緒にいられる時間を。
そう思うと、宮子さんの絵はなんだか悲しくて……
私が窓の外をぼんやりと眺めている間も、建設現場のクレーンは忙しく動いていた。

大晦日に乃莉ちゃんが帰ってきて、年が明けて3が日が過ぎるまでは、久々に6人の穏やかなひだまり荘が戻ってきた。
皆で集まってお菓子を食べたり、お喋りしたり……でも、やっぱりヒロさんと沙英さんはお勉強が大変そう。
3日の午後に2年生の先輩たちがそれぞれ帰省すると、急にひだまり荘が静かになったような気がした。

ゆのさんが帰省するからって余り物のおかずををいろいろとおすそ分けしてくれたから、
結局今日の夕ご飯もご飯を炊いただけで、料理らしい料理はしなかったなあ。
洗い物を済ませると、そういえばまだ年賀状を書き終わっていないことを思い出した。
どうせ3が日に間に合わないからと先延ばしにしてしまっていたけど、さすがにそろそろ書かないと……
年賀はがきとペンを用意したところで、部屋の扉が開く音がした。

乃莉「なずなー?」

なずな「あ、乃莉ちゃん、どうしたの?」

乃莉「んー?特に用はないけど。もう夕飯食べ終わったよね?」


そう言った乃莉ちゃんの手には枕が抱えられている。てことは、お泊りしに来たのかな。


乃莉「今日さ、なずなの部屋泊まっていい?」

なずな「もちろん!でも、なんで?」

乃莉「……いや、なんとなく」


ベッドに枕を投げながら、少し照れたような表情で乃莉ちゃんが答える。


乃莉「お風呂沸かすのも面倒だし、節約にもなるし」

なずな「そっか~」

乃莉「まあヒマだったからっていうのが一番大きいんだけど」

なずな「乃莉ちゃん、宿題とかは?」

乃莉「んー、まあまだ残ってるけど、ペース的には余裕で間に合うし」

乃莉「あ、年賀状書いてた?」

なずな「そうなの、まだ終わってなくて」

乃莉「ふーん」

なずな「そうだ、お茶入れる?」

乃莉「あ、私やるよ。なずなは書いてた方がいいって」

なずな「でも……」

乃莉「だってもう3日だよ?」


乃莉ちゃんに促されて、私は年賀状を書き始めた。
あ、け、ま、し、て、お、め、で、と、う、っと。集中して書かないと、年末の時みたいに失敗しちゃう。
ほどなくして、乃莉ちゃんが2人分のお茶を持ってきた。
私の前に湯呑を一つ置き、こたつの向かい側に乃莉ちゃんも潜り込む。

乃莉「あー、やっぱ廊下は寒いね」


そう言いながら、乃莉ちゃんは湯気の立つお茶をすすった。私も一口、湯呑に口をつける。


乃莉「進んでる?」

なずな「うん、多分今日中に終わるよ」

乃莉「そっか」


テレビを見たり携帯をいじったりしている乃莉ちゃんと、年賀状を書く私。
ぽつりぽつりと話すことも、帰省の話とか宿題の話とか、他愛のない話題ばかりだけど、この時間はとても居心地がいい。

乃莉「はぁ~……」


乃莉ちゃんが大きく伸びをして、テレビのスイッチを切った。
時計を見ると、いつの間にか10時前になっている。


なずな「あれ、もうこんな時間だ。お風呂沸かすの忘れてた!」

乃莉「あ、そうだね、私もすっかり忘れてたよ」

なずな「すぐ沸くと思うから」

乃莉「てか、年賀状、まだ終わんないの?」

なずな「これが最後の1枚だよ♪」

乃莉「そっか」

乃莉「……お風呂わいたらさ」

なずな「?」

乃莉「一緒に入る?」

なずな「のっ、のの乃莉ちゃん!?」

動揺して、年賀状の最後の1枚を思いっきり書き損じてしまった。
自分でもみるみるうちに顔が真っ赤になっていくのが分かる。
誰かと一緒にお風呂に入るだけでも恥ずかしいけど、乃莉ちゃんとだなんて。
頭の片隅で想像した乃莉ちゃんとお風呂でじゃれ合うイメージを、頭を強く降って振り払う。


乃莉「もう、冗談だってば。さすがに家のお風呂じゃ狭すぎるし」

なずな「うぅ……」

乃莉「でもさあ、そんな恥ずかしがらなくたっていいじゃん」

なずな「だって……」


だから、理由なんて言えないんだってば。
いたずらっぽく笑う乃莉ちゃんに向かって、心の中で、そう呟いた。

最後の年賀状を書き直し、しばらくするとお風呂が沸いた。
順にお風呂に入って、体が冷えないうちにベッドに入る。


乃莉「んじゃ、電気消すよ」

なずな「うん」


電気を消し、乃莉ちゃんと私は並んで横になった。


なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

乃莉「なに?」

なずな「どうして今日は泊まりに来てくれたの?」

乃莉「……迷惑だった?」

なずな「ううん全然、私はすごく嬉しいよ」

乃莉「……あと、3か月なんだな、って」

乃莉「なずなが引っ越しちゃうまで」


考えまいとしていたことを指摘され、思わずどきりとしてしまう。
乃莉ちゃんの方を向いてみると、シャンプーのいい香りがした。


乃莉「まー、だからって会えなくなるわけでもないんだけどさ」

なずな「うん……」

乃莉「でも、こういうのは、やっぱ少なくなるじゃん」


暗い部屋の中、仰向けのまま話す乃莉ちゃんの表情はわからなかったけれど、
いつもの乃莉ちゃんとは違う憂いを含んだような言い方で、私も物悲しい気分になってくる。
規則正しく響く時計の音が、いつもよりも大きく聞こえていた。

なずな「……そうだよね」

乃莉「それに、なんかなずな、嬉しくなさそう」

なずな「えっ?」

乃莉「いや、何となくだけど」

乃莉「なずな、家族と一緒に暮らせるって聞いたときも、あんまり嬉しそうじゃなかった」

なずな「……」


乃莉ちゃんにそう指摘され、私は何も言えなくなってしまった。


乃莉「……もしかして、ひだまり荘に、残りたかったりする?」

なずな「えっと……」

なずな「……どうかな」


何と答えていいのか分からず、はぐらかしてしまう。
乃莉ちゃんは小さく、そっか、と呟き、そのまま何も言わなかった。
私もそれ以上何も言えず、黙り込んでしまう。会話が途切れたまま、時間だけが流れて行った。

結局、会話はそれで終わりだった。
乃莉ちゃんは普段はすぐに寝てしまう私がまだ起きているとは思ってなかったのかもしれないし、
もしかしたら乃莉ちゃん自身、もう寝てしまったのかもしれない。そう思ったからこそ私からも声はかけられなかった。
ねえ、乃莉ちゃん。
身じろぎしただけで触れそうなほど近くにいる乃莉ちゃんに、心の中で呼びかける。
乃莉ちゃんも、寂しいと思ってくれてるの?

いつもだったら眠くてしょうがないはずの時間なのに、今日は全然眠れそうにない。
やがて乃莉ちゃんの規則的な寝息が聞こえてきた。どうやら本当に寝ちゃったみたい。
顔だけ動かして乃莉ちゃんの方を向き、乃莉ちゃんの横顔を見ながら、また考える。
答えの出るはずない、乃莉ちゃんへのこの気持ちのことを。

真っ暗な中で目が覚めて、ぼうっとした頭で考える。
何か夢を見ていたような……てことは私、いつの間にか寝てたんだ。
……今、何時なんだろう?
乃莉ちゃんを起こさないようにゆっくりベッドから這い出ると、上着をはおった。
携帯を充電器から外して開くと、まぶしいディスプレイには3時12分と表示されていた。

何となく目が冴えてしまって、すぐにベッドには戻らず何となく窓のそばまで行った。
音を立てずにカーテンをめくり、窓の外を見る。

星が綺麗……

上着のチャックを閉めてから、手近なタンスの上に置いてあったマフラーを手に取って、ベランダに出る。
真冬のぴん、と張りつめたような冷たい空気が顔に触れ、思わず一瞬目を閉じた。
ゆっくり目を開けると、視界の真ん中を、光るものがひとつ横切って行った。


なずな「流れ星……?」


寒さも忘れて空を見つめる。
次に流れ星が流れたら、何をお願いしようか、なんて思いながら……
静かに瞬く星を見つめながら思い浮かぶことは、乃莉ちゃんのことばかりだった。
ずっと離れたくないとか、もっと近くにいたいとか、そんなこと願ってもしょうがないのに。

小さく音を立ててベランダの扉が開いた。


乃莉「なずな?」

なずな「あ、乃莉ちゃん!?もしかして起こしちゃった?」

乃莉「いや、そういうわけじゃないけど」

乃莉「寒くないの?」

なずな「寒いけど……」


そう言いさして、私が空を見上げると、またひとつ、光の線が空を横切って行った。


乃莉「けど?」

なずな「ねえ乃莉ちゃん、今の、見た?」

乃莉「見たって、何が?」

なずな「今、流れ星流れたの」

乃莉「流れ星?いや、全然見てなかったけど」

なずな「さっきも流れ星、見えたんだよ」

乃莉「ふーん、なんか、すごい確率……」

薄手のカーディガンを羽織っただけの乃莉ちゃんがぶるっと肩を震わせた。
それを見て、私は乃莉ちゃんの横に寄り添う。
乃莉ちゃんは寒そうにしているけれど、私は何故か全然寒さが気にならなかった。


乃莉「体、冷えちゃうよ?」

なずな「……うん」

乃莉「……何か願い事してた?」

なずな「えっと……」


さすがに、乃莉ちゃんのことを考えてた、なんて言えず、もう1度夜空を見つめる。
それにつられて、乃莉ちゃんも隣で空を見上げた。
ベランダから真正面に見える、名前の分からない明るい星を2人で眺めていて、ふと思った。
沙英さんが貸してくれた小説の表紙。今の私たちは、あの絵にそっくり。

なずな「……勇気がないから変われないわけじゃない。変わらないことを選ぶ勇気を持っているんだ」ボソッ

乃莉「ん、何か言った?」

なずな「だから、変わることだってできるはずだよ。どちらも同じ勇気なんだから」

乃莉「なずな?」

なずな「……あのね、願い事、決まったんだ」

乃莉「あー、願い事考えてたんだ」

なずな「私、自分を変えたいの」

乃莉「……なずなはなずなのままでいいと思うけど」

なずな「ううん、勉強とか、お料理とか、そういうの、ちゃんとできるようになりたいなー、って」

なずな「それだけなんだけど……」

乃莉「……いいんじゃない?」


また、流れ星がひとつ、星の隙間を翔けていった。


乃莉「今、流れたね」

なずな「うん」

乃莉「願い事、した?」

なずな「うん」

乃莉「……きっと叶うよ。なずななら、きっと叶えられるって」

なずな「……うん」


ひだまり荘で過ごせるあと3ヶ月。
乃莉ちゃんの隣にいられる3ヶ月。
その間に、私は少しだけ変わってみたいと思った。

1月も終わりに近づいたその日は、良く晴れて暖かかった。いつもはきっちり巻きつけるマフラーも今日は少しゆるめていられる。
学校が終わり、昇降口で靴を履きかえていると、友達と一緒にいる乃莉ちゃんと目が合った。
私はなんだかばつが悪いような気がしたけれど、乃莉ちゃんは友達に何か声をかけると、すぐに私の方に近づいてきた。


乃莉「なずなも今帰り?」

なずな「うん」

乃莉「そっか」


私が靴を履くと、乃莉ちゃんは、じゃあ行こっか、と言って歩き出した。
一緒に帰ろう、じゃなくて、一緒にいることが当たり前みたいな言い方が、すごく嬉しい。

乃莉「なずなは今日ヒマなの?」

なずな「うん、宿題もないし……あ、でもお買い物行かなきゃ」

乃莉「買い物?」

なずな「うん、夕飯のお買い物。何作ろうかなあ?」

乃莉「あ、ちゃんと作ってるんだ」

なずな「最近はね」

乃莉「なずなのことだからすぐやんなくなると思ったのに」

なずな「乃莉ちゃん、ひどい~!」

乃莉「あはは、ごめんってば」

話をしながら学校前の道路を渡ると、ゆのさんと宮子さんがちょうど階段を下りてくるところだった。
早めに学校が終わったのか、二人とも、もう私服に着替えている。


ゆの「あ、乃莉ちゃんなずなちゃん」

宮子「いいところに!四葉のクローバー探そう!」

乃莉「四葉のクローバー……ですか?」

宮子「うん、見つけるといいことがあるよ」

なずな「えっと、幸運のしるしなんでしたっけ?」

宮子「そうそう、1つにつき約1000円相当の幸せがやってくるんだって」

乃莉(なんか具体的だ……)

乃莉「でも、こんな季節にクローバーなんて生えてるとこあるんですか?」

ゆの「うん、なずなちゃん、こないだ、年末に雑草取りしたとこあるでしょ?」

なずな「あ、はい」

乃莉「雑草取り?」

なずな「この前ね、お庭の掃除したの、乃莉ちゃんが帰省してる間に」

乃莉「そうだったんだ」

ゆの「あそこにクローバーが生えてるんだって」

宮子「私が発見したのだー」

乃莉「へえー、まだ寒いのに」

ゆの「ちょうどお日様が当たる場所だからかなあ?」

なずな「じゃあ、私たちも着替えて行きますね」

乃莉「そうですね、さすがに制服のままじゃアレなんで」

部屋に戻り、着替えのため制服のポケットから携帯を取り出す。
四葉のクローバーの上で微笑むティーニーの携帯ストラップが目に入った。


なずな「四葉のクローバー、かぁ」


いつもは特に気に留めないけれど、さっきクローバーの話をされたせいか、ストラップをまじまじと見てしまう。
去年の夏、乃莉ちゃんとおそろいで買ったこのストラップを、私も乃莉ちゃんもずっと付けている。
ただそれだけのことで、乃莉ちゃんとの繋がりを強く感じられた。
私が引っ越しちゃっても、きっとこれがあれば乃莉ちゃんを近くに感じられるかもしれないな。
乃莉ちゃんの近くにいることは、私にとっての一番の幸せだから……


なずな「やっぱり、四葉のクローバーは幸運のしるしかも」

着替えながら、これから探す四葉のクローバーのことを考える。
見つかったら、定番は押し花にしたりするのかな?不器用な私には難しいかもしれないけれど。
でも、それよりも、乃莉ちゃんと一緒に四葉のクローバーを探す時間それ自体の方が、私にとっては大切なことのように感じた。
それはまるで、乃莉ちゃんと二人で幸せを探しているような、そんな気がして。


乃莉「なーずなー?」


遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。
私は急いで上着を羽織り、携帯をポケットに入れた。小走りでドアまで急ぐ。
勢いよくドアを開け、階段の下にいる乃莉ちゃんに答えた。


なずな「ごめーん乃莉ちゃん、おまたせ!」

ひだまり荘 庭

宮子「ほらほら、これ!」

乃莉「……?」

乃莉「クローバーって、こんなのでしたっけ?」

なずな「なんか、丸い葉っぱですね……」

ゆの「うん、クローバーって、もっとハート型の葉っぱの……」

なずな「こういうのですよね?」


そう言って私は携帯を取り出した。
ストラップの葉っぱの形は綺麗なハート型で、ここに生えている草の形とは全然違っている。

宮子「えー、私はクローバーっていったらちっちゃい頃からこれのことだと思ってたんだけど」

ゆの「んー、九州だと違うのかな……?」

乃莉「ちょっと調べてみますか?今パソコンつけっぱにしてあるんで」


そう言って乃莉ちゃんは部屋に戻っていった。
宮子さんは気にせずにもう四葉を探し始めている。


なずな「ありそうですか、四葉の……」

宮子「うーん、まだ見つからないね」

クローバーの生えている庭の一角の陽だまりはそれほど広くないとはいえ、ひとつひとつ葉の数を確認するのには
時間がかかるようで、宮子さんは時々首をひねりながら黙々と作業していた。
2、3分くらい経って、乃莉ちゃんが戻ってきた。


乃莉「分かりましたよ。クローバーって、これのことを指すらしいです」


そう言って、目の前の丸い葉っぱの群れを指差した。


乃莉「私たちがクローバーだと思ってたハート形のは、カタバミっていうみたいです」

なずな「へぇー……」

ゆの「そうだったんだ~」

なずな「じゃあ、これも?」


そう言って、携帯を取り出す。乃莉ちゃんも同じように携帯を取り出して、お揃いのストラップを揺らしながら笑った。


乃莉「……カタバミ、だね。多分」

なんだか出鼻をくじかれたような気分になったけれど、私たちも四葉のクローバー探しを始めた。
先に探し始めた宮子さんもまだ見つけていないらしく、地面に顔を近づけている。
ゆのさんが宮子さんの隣に行き、私と乃莉ちゃんはその反対側で探すことにした。


なずな「四葉のクローバー、見つかるかな?」

乃莉「どうだろう……さっき四葉になる確率は1万分の1って書いてあったし」

なずな「そんなに少ないんだ」

乃莉「で、ここには1万本もないよね、多分。どんくらいあるのか見当つかないけど」

なずな「そっかあ……」

乃莉「まー、探してみないと分かんないか」

なずな「乃莉ちゃん、四葉のクローバー、見つけたらどうするの?」

乃莉「んー……別にどうもしない、かな」

なずな「そうなの?」

乃莉「見つかったら嬉しいけど、別にどうしても欲しいってわけでもないし」

乃莉「なずなが欲しいならあげるけど」

乃莉「なずなは、見つけたらどうすんの?」

なずな「えっと……」

なずな「私も、何かするってわけじゃないんだけど」

なずな「んー……四葉のクローバーが欲しいとか、そういうのよりも」

なずな「乃莉ちゃんとこうやって一緒に探してられるのが、なんか嬉しいな、って」


ポケットの外で揺れているティーニーのストラップに触れる。
なんだか心がぽかぽかと温まるような、そんな気がした。

乃莉「……クローバーって、日本語ではシロツメクサっていうんだって」

なずな「シロツメクサ?」

乃莉「うん、『白い』に『詰める』に草で、白詰草。昔日本に入ってきたときに、あれ、緩衝剤、っていうの?」

なずな「えっと、プチプチみたいな?」

乃莉「そうそう、そういうのの代わりに使われてたんだって」

なずな「へぇ……」

プチプチ、かぁ。
去年、ひだまり荘に引っ越してきたときの光景を思い出す。
段ボールにぎっしりと詰まったプチプチから、中身をひとつひとつ取り出して……確か途中で寝ちゃったんだっけ。
初めての一人暮らしの不安でいっぱいだったあの日。そして、乃莉ちゃんと出会った日。
今、別れの不安で張り裂けそうな私は、あの日から少しでも変わっているのかな……


乃莉「そういえば、引っ越しのとき以来触ってないな、プチプチ」

なずな「あ、乃莉ちゃんも引っ越してきたときのこと、考えてた?」

乃莉「なずなも?」

乃莉「あれ、包むときに潰したい気持ちをガマンするのが大変なんだよね」

なずな「うん、私も気づくとプチプチ潰してる」

乃莉「そうそう、私、越してきてから荷物片付ける前に真っ先にプチプチ潰してたもん」

なずな「あはは」

それから10分くらい探したけれど、四葉のクローバーは見つからなかった。
ゆのさんと宮子さんはもう探す手を止めてお喋りしている。
もう一通り探し尽くしてしまったし、これ以上乃莉ちゃんを付きあわせるのも悪いと思って、
ぱんぱん、と手に付いた土を払って立ち上がり、乃莉ちゃんの方を向く。
乃莉ちゃんも立ち上がり、ひとつ息を吐いた。


なずな「んー、全然見つからなかったね」

乃莉「まあしょうがないよ、そこまでいっぱい生えてるわけじゃないしさ」

なずな「そうだね」

乃莉「……なずなが引っ越すまでに、クローバー、もっと増えるかな」

なずな「えっ?」

なずな「……あっ、私が引っ越すときにプチプチいるから?」

乃莉「……」

なずな「あ、あれ?」

乃莉「……そうじゃなくってさ」

乃莉「四葉が見つかるくらい、いっぱい増えるといいな、って」

乃莉「この辺全部、なずなと先輩たちで綺麗にしてくれたんだよね?前は雑草だらけだったのに」

なずな「うん」

乃莉「だからクローバー、今はちょっとしか生えてないけどさ」

なずな「うん、ここだけお日様よく当たるもんね」

乃莉「春になったらもっと生えるかな、って」

春のひだまり荘の一角に、一面のクローバーが生い茂っている風景を想像する。
そのどこかには、きっと四葉のクローバーも。
巡り来る季節に幸運のしるしが隠れているのだとしたら、何だかちょっとだけ勇気を貰えるような気がした。


なずな「……うん、いっぱい生えてくるといいね」


乃莉ちゃんからの視線に気づき、口を開く。


なずな「今年の春も、来年も、その次も……」

なずな「それで、ひだまり荘の皆がちょっとだけでも幸せになってくれたらいいな」

乃莉「……なずなじゃなくて?」

なずな「うん、私って、いつも人に迷惑かけてばっかりだから」

なずな「だからね、ひだまり荘の皆……」

なずな「……それに乃莉ちゃんが、少しでも幸せな気分になれるお手伝いができたら、それが一番嬉しいの」

乃莉「私たちが?」

なずな「うん」

なずな「私ね、思うんだ」

なずな「私にとって一番のラッキーは、これだよ」

そう言って、ポケットから飛び出て揺れるティーニーのストラップをなでる。
乃莉ちゃんはちょっと不思議そうな面持ちで、でも真剣な表情で、それを見つめていた。


なずな「ひだまり荘で皆と出会って」

なずな「ひだまり荘で乃莉ちゃんに会えて」

なずな「こうやって一緒にいられることが、私にとってはなによりも幸運なことなの」

なずな「だから……」


風が、目を伏せた私の髪をなびかせていく。冷たい空気の中にかすかに緑の香りがした。
その一陣の風が止み、少し照れたような表情になった乃莉ちゃんが何も言わずに私の頭を撫でた。


なずな「……乃莉ちゃん」

乃莉「……私もよかったと思ってるよ。なずなに出会えて」

乃莉「あと2ヶ月くらいでなずなは引っ越しちゃうけど、でも、まだも2ヶ月もあるわけだし」

なずな「……うん」

乃莉「それに、その後だって、ずっと友達でしょ?」

乃莉「今度の引越しも、なずながいつかラッキーだったって思えるようになれば、私だって嬉しい」

今の私には、乃莉ちゃんと離れることが幸せだなんて思えないけれど、
それでも変わっていこうとしている私を、このクローバーたちが覚えていてくれるのだとしたら。


なずな「……ありがと、乃莉ちゃん」

乃莉「……何が?」


ただ乃莉ちゃんがいてくれるだけで、言葉をかけてくれるだけで、私はいつも励まされているの、と、
言葉に出しても伝えられる自信がなかったから、私はほんの小さく首を横に振って乃莉ちゃんに答える。

もう一度、柔らかな風が吹いた。
ふと乃莉ちゃんが話したシロツメクサの名前の由来を思い出す。
引っ越しの荷物の隙間にクローバーが詰められているイメージは、ちょっと現実離れしているけれど、
その中に四葉のクローバーがあるとしたら、それは幸運のしるしと一緒に引っ越しをしているみたい。
私の未来の幸運をクローバーたちが願ってくれているような、そんな気がした。

うん、きっと大丈夫。

心の中ではっきりと言葉を紡ぐ。
ただの空元気かもしれないけれど、本当は不安で仕方がないけれど、でも、
今日のこのときのような乃莉ちゃんとの大切な時間がこれからも増えていくのだと信じよう。
私がこの場所にいた思い出を、ひだまり荘での幸せな日々を、クローバーたちが閉じ込めてくれるなら……

2月に入り、沙英さんとヒロさんの受験が始まった。
ゆのさんから、先輩方の受験の時のお弁当は持ち回りで作ってあげよう、と提案されて、
そのときは深く考えずに賛成してしまったけど、よくよく考えると私に作れるものはあまりない。
ゆのさんか乃莉ちゃんに手伝ってもらおうかとも思ったけれど、でも。
私だって、このひと月、頑張ってきたんだから。


スーパーから帰ってくると、乃莉ちゃんに声を掛けられた。


乃莉「あ、なずな。買い物帰り?」

なずな「うん」

乃莉「何買ったの?」

なずな「えっと、豚肉とパン粉と……」

乃莉「うわ!?何この量!なずな、どんだけ食べるの!?」

なずな「そうじゃなくて、沙英さんとヒロさんのお弁当の」

乃莉「それにしたって多くない?いくらヒロさんでもこれはちょっと……」

なずな「でも、トンカツ作る練習しないといけないから」

なずな(……ん?いくらヒロさんでも、って……)

乃莉「なんだ、なずながお弁当作る当番なのは明後日なの?」

なずな「うん、だからそれまでに練習するの」

乃莉「で、なずなが全部食べるの?」

なずな「うぅ……の、乃莉ちゃん、味見してくれない?」

なずな「食べられるようなのができたら、の話だけど……」

乃莉「うん、じゃあ夕飯、貰おうかな」

乃莉(でも、なずなもトンカツかー。私もこないだトンカツ弁当にしちゃったんだけど……)

乃莉(ま、いいか)



203号室

なずな「よしっ」


エプロンを着て、料理の本のトンカツのページを開いた。
材料を確認する。お肉とパン粉は買ったし、卵も小麦粉もちゃんとある。
えっと、まずはお肉のスジを切って、それから塩コショウをして……

乃莉「これ全部、なずなが作ったの?」


夕飯の時間になり私の部屋に来た乃莉ちゃんは、食卓を見るなりそう言った。
お膳の上にはトンカツとサラダ、ひじきの煮物、それとおみそ汁が並んでいる。
ちょっと前までの私からしたら考えられないほどちゃんとした献立で、乃莉ちゃんが驚くのもよくわかる。


なずな「ひじきは昨日作ったのの余りだし、キャベツは千切しただけだけど」

乃莉「にしても、あのなずながここまで料理できるようになるなんてねえ」

なずな「えへへ、いまお茶いれてるから、ちょっとだけ待ってて。あとご飯もよそうから」

乃莉「あ、ご飯くらい私やるよ」

なずな「そう?ありがとう♪」

乃莉「いただきまーす」

なずな「はーい、召し上がれ♪」

乃莉「……うん、美味しいんじゃないかな?」


トンカツをかじって乃莉ちゃんがそう言った。
私も食べてみる。生だったりコゲてたりしたらどうしようと思っていたけど、きちんと美味しくできていた。
もちろん、ヒロさんの揚げ物みたいにすごくサクッとしていて美味しいってほどではないけれど。
ちゃんとレシピ通り作ってるのに、何が違うのかなあ。


なずな「でもよかった、ちゃんと作れてて」

乃莉「あ、ひじき美味しい」

なずな「そう?」

乃莉「うん、私こーゆうのあんま作んないからさ、自分でやるより美味しいかも」

なずな「ありがと、乃莉ちゃん」

乃莉「私は感じたままを言っただけだけど?」

なずな「そうじゃなくって」

乃莉「?」

なずな「……私がこうやって毎日一応は料理をして、ちょっとは上達したのも、乃莉ちゃんのお蔭だよ」

乃莉「へ?私なにもしてなくない?」

なずな「ううん、乃莉ちゃんのお蔭なの」

乃莉「???」


流れ星に誓った願い事を、クローバーに込めた想いを、乃莉ちゃんが聞いていてくれたから。
「きっと叶うよ」って言ってくれたから。
だから私は、頑張れたんだよ。

夕ご飯を食べ終わって、2人で洗い物を終えてから、私はお風呂を入れた。
その短い時間に、乃莉ちゃんは携帯でフライの上手な揚げ方を調べてくれていた。


乃莉「なずなー、トンカツの揚げ方なんだけどさ」

乃莉「2度揚げするといいんだって」

なずな「2度揚げ?」

乃莉「えっと、最初に低めの温度で揚げて、一旦取りだしてからまた揚げるみたいな」

乃莉「ほら、このレシピに」

なずな「あっ、そういえば、ヒロさんに教えてもらった唐揚げの作り方がそうだったかも」

乃莉「あとは生パン粉を使えとかいろいろ書いてあるけど、それは大変だよね」

なずな「うん」

乃莉「他には……下味付けた後にキッチンペーパーで水気を取るといいとか」

なずな「へぇー」

乃莉「私も作る前にちゃんと調べればよかったよ」

なずな「ありがとう乃莉ちゃん、明日試してみるね」

乃莉「明日?沙英さんとヒロさんの受験、明後日じゃないの?」

なずな「だから、明日も練習するの♪」

乃莉(2日連続トンカツ……)

なずな「乃莉ちゃん?」

乃莉「……いいよね、太んない人は」

2日後 昼

受験会場

ヒロ「ふぅー」

ヒロ「やっと午前の試験が終わったわ、もうお腹ぺこぺこ」

ヒロ「今日のお弁当はなずなちゃんが当番だったかしら」

ヒロ「……ちょっと心配ね」パカッ

ヒロ「あ、サンドイッチだわ」

ヒロ「ん、このカツサンド、美味しい!」

ヒロ「時間が経ってるのに衣はサクッとしてるし、ソースも辛子もちょうどいいわ」

ヒロ「なずなちゃん、きっと私たちのために頑張ってくれたのね」

ヒロ「私も試験、頑張らなくっちゃ」

ヒロ「でも……」

ヒロ「またトンカツ……」

203号室

乃莉「なずなー、荷物だいたい詰め終わった?」


段ボールだらけの部屋の中に、乃莉ちゃんの声が響いた。
3月に入ってからはバタバタと忙しい日々が続いていたが、引っ越しを明日に控え、
荷造りと部屋の片づけをほとんど終わらせると、部屋の中が急にがらんとして何だか急に寂しくなった。
去年の4月に引っ越してきた直後の、段ボールの山の中で途方に暮れていた時とほとんど同じ光景が広がる。
急に無機質になった部屋の中、あの頃と一つ違うところがあるとするならば―


なずな「うん、もうほとんど終わり」

乃莉「ふー、結構疲れたね」

なずな「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」

乃莉「いいって」

なずな「……ありがと、乃莉ちゃん」


それは、乃莉ちゃんと友達になれたこと。

ガチャ

宮子「乃莉っぺいるー?」

なずな「あ、宮子先輩」

宮子「いたいた、こっち一段落した?」

乃莉「ちょうど今終わったとこです。もう買い出し行きますか?」

宮子「乃莉っぺが行けるならすぐにでも」

乃莉「じゃあ行きましょうか」

宮子「そだねー。あ、なずな殿、ゆのっち部屋にいるよ」


慌ただしく出かけていく乃莉ちゃんと宮子さん。
その背中に向かって、いつものように「いってらっしゃい」と声をかけるのも、
もしかしたらこれで最後なのかもしれないな、と思いながら、扉が閉まるのを見つめていた。

沙英さんとヒロさんが卒業し、ひだまり荘から出て行ってしまってからまだ間がないからか、
ただでさえ4人だけのひだまり荘はなんだか寂しく感じてしまう。
私が荷物をまとめてしまうからといって、ゆのさんが皆を夕ご飯に誘ってくれたのも、
もしかしたら他の皆も同じように寂しい気持ちがあったのかもしれない。
本当なら私も準備やお料理をお手伝いしなくちゃいけないと思ったけれど、
乃莉ちゃんも先輩たちも荷造りや片付けがあるから私は何もしなくていいよ、と言ってくれた。
宮子さんと乃莉ちゃんがお買い物を買って出てくれて、料理はきっとゆのさんが。
いつも通りの一コマを目の前にすると、なんだかひだまり荘の暖かさに触れたような感じがして、
荷造りが終わり何もすることがなくなると何もない部屋に一人でいるのが辛くなってしまう。
お料理してたらご迷惑かな、とも思ったけれど、私はゆのさんのお部屋にお邪魔することにした。

201号室

なずな「お邪魔しまーす」

ゆの「あっ、なずなちゃん、いらっしゃい」

なずな「ゆのさん、もしかして忙しかったですか?」

ゆの「全然?宮ちゃんと乃莉ちゃんがお買い物行ってくれてるから、特にやることないんだ」

なずな「そうだったんですか」

ゆの「なずなちゃん、片付け終わったの?」

なずな「はい、だいたいは」

ゆの「そっか。お疲れ様♪」

なずな「いえっ、乃莉ちゃんにも手伝ってもらったし、なんか皆さんに迷惑かけてばっかりで」

ゆの「そんなことないよ~」

なずな「あっ、そうだ、これ」

ゆの「?」

なずな「前に、ゆのさんが帰省する前におすそ分けもらったので」

ゆの「冬休みの時の?」

ゆの「でも、あれは余りものだったから、気にしないでいいのに」

なずな「私のも、余りものですけど、どうぞ」


そう言って、ゆのさんにタッパーを差し出した。
前はだいたいいつも空っぽだった私の部屋の冷蔵庫も、ちゃんと料理をするようになってからは
何かしら食材がいつも入っているようになった。その整理を兼ねて、ゆのさんにお返しをしなくちゃいけないな、と思い、
昨日荷造りの合間に作った煮物は、私の中では美味しく作ることができた。もちろん、ヒロさんやゆのさんの味には敵わないけれど。
そのせいで引っ越し前日の午後まで荷造りが終わらなかったけれど、冷蔵庫は綺麗に片付いた。

ゆのさんが煮物を一口つまむ。
そういえば、だいぶ前に肉じゃがの味見をしてもらったことがあったっけ。
あの時は酷いものを食べさせちゃって、申し訳なかったな……。


ゆの「うん、おいしいよ」

なずな「よかったぁ……」

ゆの「なずなちゃん、お料理すっごく上手になったね」

なずな「そんなことないですよ、元がへたっぴだったから……」

ゆの「ううん、すっごくおいしい」

ゆの「結構量あるし、今晩みんなで食べよっか?」

なずな「なんだか、静かですね」

ゆの「そうだね、今は私たちしかいないもんね」

なずな「……」

ゆの「……」


その時、かたり、と天井から物音が聞こえた。
普段なら、ひだまり荘の賑やかな声に掻き消されて聞き逃してしまうくらいの音。
それでも何となく気になって、ゆのさんと二人で上を見上げる。


ゆの「……そういえばさ、なずなちゃん、屋根登ったことある?」

なずな「屋根……ですか?」

ゆの「うん、ひだまり荘の屋根」

なずな「いえ、ないですけど」

ゆの「ちょっと登ってみない?せっかくだし」

ゆの「けっこう気持ちいいんだよ、眺めも良くって」

ゆの「よいしょ、っと」


ゆのさんがベランダの手すりに乗り、樋に足をかけて屋根に上がった。
私もそれに続く。ちょっと怖いけど、思ったよりも簡単に屋根に上がることができた。
屋根に上がると、私たちが来たことに驚いて、数羽のスズメが飛んでいくのが見えた。
ゆのさんはひとつ伸びをすると屋根の真ん中近くに腰掛けた。私もそこまで慎重に歩いていき、隣に座る。


なずな「うわあ……」


目の前に広がる景色は、部屋の窓から見えるものとほとんど変わらないはずなのに、
何故だか屋根の上から見ると全然違った風景のように思える。

ゆの「今日はお日様があったかいね」

なずな「そうですね、気持ちいいです」

ゆの「宮ちゃんはよくここで日向ぼっこしてるんだよね~」

なずな「そういえば、たまに宮子さんの声が上から聞こえること、ありました」

ゆの「あはは、やっぱり?」

なずな「ゆのさんも一緒に日向ぼっこしてるんですか?」

ゆの「私は何回かしか来たことないけど」

なずな「沙英さんとかヒロさんはどうだったんでしょう?」

ゆの「うーん、それは見たことないなぁ」

なずな「あんまりそういうイメージ、ないですよね」

ゆの「そうだね♪」

なずな「あっ……」

ゆの「?」

なずな「あのビル、前よりちょっと高くなってますね」

ゆの「あ、宮ちゃんの絵の?ほんとだ」

ゆの「でもまだ工事中かなあ?」

なずな「そうみたいですね、クレーンみたいなの見えますし」

ゆの「……言ってたよね、宮ちゃんが」

ゆの「懐かしい風景を閉じ込めておく……だっけ」


ゆのさんの言葉を聞いて、あの時の光景が鮮明に蘇ってきた。
イーゼルに並んだ2枚の絵。
ひだまり荘の窓の外に見える景色。
急に真剣になった、宮子さんの横顔。


ゆの「ねえ、なずなちゃん」


声に気づいて、私がゆのさんの方を向くと、ゆのさんは真っ直ぐ私を見つめていた。
柔らかな風が吹いて、ゆのさんの髪をふわりとなびかせる。

ゆの「私の勘違いだったらごめんね。でも……」

ゆの「なんだかなずなちゃん、辛そうだな、って。今さら言ってもしょうがないんだけど」

ゆの「もしかして、ひだまり荘を出たくないんじゃないかな、って……」


黙って目を伏せた私に向かい、ゆのさんが続ける。


ゆの「……私だって、本当は嫌かも」

ゆの「なずなちゃんと一緒にもう1年、ここで暮らしたい」

ゆの「きっと宮ちゃんも、乃莉ちゃんも、そう思ってる」

ゆの「それに、私がなずなちゃんの立場だったら、引っ越したくないって思っちゃうな」

ゆの「でも、私、思うんだ」

ゆの「なずなちゃんにとっても、私たちにとっても、寂しいことだけれど」

ゆの「きっと何かが変わっちゃうけど……」

ゆの「でも、それは悪いことじゃないんじゃないかな、って」

ゆの「それに、なずなちゃん自身、すっごく成長したと思うよ」

ゆの「なんか偉そうな言い方でごめんね、でも……」

ゆの「なずなちゃん見てると、そんな気がする」

なずな「……私、内気で得意なこともなくて、何もできない自分が嫌で……」

なずな「だから、ほんのちょっとでも変わりたいと思ったんです」

なずな「お料理とか、勉強とか、そんなことでもいいから、ちょっとでもできるようになれば、って……」

なずな「だから最近は、お料理とかも頑張って……」

なずな「でも……」

ゆの「……」

なずな「やっぱり、私、ここに居たい……!」

なずな「乃莉ちゃんと、先輩たちと、ずっとひだまり荘にいたいんです」

なずな「私に、変わっていく勇気なんて……」

ゆの「……多分、だけどね」

なずな「……?」

ゆの「宮ちゃんが、ここから見える風景を描いてた理由」

なずな「理由……」

ゆの「この風景を残したいから、変わってほしくないから、ってわけじゃないと思うんだ」

ゆの「宮ちゃん自身だって、変わりたくないだなんて思ってないと思う」

ゆの「今の風景を絵に閉じ込めておけば、いつでもここに戻ってこれるから」

ゆの「そうすれば、きっとどこへでも行けるんだよ」

ゆの「どんなに変わっても、平気でいられると思うんだ」

なずな「ゆのさんは、この風景が変わっちゃっても、寂しくないんですか?」

ゆの「それはきっと寂しいと思うよ。……ううん、今、すっごく寂しい」

ゆの「先輩たちが卒業しちゃったことも、なずなちゃんが出て行っちゃうことも。でも……」

ゆの「そういった寂しいことも、今までの楽しかったことも、全部思い出の中に閉じ込められるから」

ゆの「そうすれば、どんどん前へ進んでいけるんじゃないかな」

なずな「懐かしい風景を閉じ込める……」

ゆの「私は、なずなちゃんのことも、なずなちゃんのいるひだまり荘も、大好きだから」

ゆの「この1年は……ひだまり荘で、6人で過ごしたこの1年は大切な思い出になると思う」

ゆの「だからね、なずなちゃんが引っ越しちゃっても、また新しい思い出が増やせるように」

ゆの「私も、この風景を閉じ込めておきたいな、って思ったんだ」

なずな「……私にも、できるのかな」

ゆの「うん、絶対できるよ。なずなちゃんなら」


変わってしまうことは、私にはまだ怖いけれど。
それでも……

ふと、足元に鉛筆が転がっているのが見えた。
拾い上げてみると、美術科の人が使っているような鉛筆で、手で削ったような跡がある。
よほど使い込んであるのか、だいぶ短くなってしまっている。それでも削りたてのような真新しい木の香りがした。
その緑色の鉛筆を立てて握り、腕をまっすぐに伸ばす。
片目を閉じて、鉛筆の先をあのビルに重ねる。
私にデッサンができるわけではないけれど、見よう見まねのポーズだけれど、
こうすれば私にも、この風景を心の中に描きつけることができるような気がした。
柔らかな空気の中、この1年、何気なく眺めていた光景が、懐かしい風景に変わっていく。

なずな「ゆのさん」

なずな「私、やっぱり寂しいです」

なずな「でも……」

なずな「大丈夫かも、って」

なずな「私だって、きっと変われそうな気がします」

なずな「ひだまり荘での思い出があれば……」


そよ風が私たちの頬を撫でていった。
今まで何度見上げたか分からないこの空を、今日は未来への願いを込めて眺めている。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
私の心の中に、絶対に忘れない風景が、またひとつ増えた気がした。

私たちが屋上を下りてゆのさんの部屋に戻ると、ほどなくして乃莉ちゃんと宮子さんが買い物から帰ってきた。
ゆのさんはお料理を始め、私たち3人はそのままゆのさんの部屋でだらだらお喋りしたり、お菓子を食べたり。
一応、ゆのさんに「お手伝いしましょうか?」と聞いてみたけれど、
「なずなちゃんは引っ越しの準備で疲れてるだろうし、ゆっくりしてて」と言われてしまった。

6時を回った頃、玄関のチャイムが鳴った。


ゆの「なずなちゃん、出てもらえる?」

なずな「あっ、はーい」


がちゃっ、とドアを開けると、沙英さんとヒロさんがそこに立っていた。

なずな「沙英さん、ヒロさん!?」

ヒロ「あ、なずなちゃん、もうこっちの部屋来てたのね」

なずな「わざわざ来てくれたんですか?」

沙英「え、なずなが明日引っ越しだから今日は皆で夕飯食べよう、ってゆのに誘われたんだけど」

ヒロ「もしかしてなずなちゃん、聞かされてなかった?」

なずな「はい、全然……」

ゆの「ごめんねなずなちゃん、びっくりさせたくて」

なずな「いえ、なんていうか、その」

なずな「……すっごく嬉しいです」

沙英「驚かせちゃったお詫びにさ、ほら、ケーキ買ってきたよ」

宮子「ケーキ!沙英さん最高!!」

沙英「もう、相変わらず調子いんだから……」

ヒロ「これ、冷蔵庫入れといてくれる?」

宮子「はーい……あれ?6個しかない?ヒロさん1個で足りるんですかー?」

ヒロ「ちょっと宮ちゃん!」

ゆの「見せて見せて~」

乃莉「てか、もう箱開けたんですか……?」

ゆの「わあ、すっごく美味しそう……」

ヒロ「引越し先の近所にあるケーキ屋さんなんだけど、すごく美味しくて」

沙英「そうそう、ヒロなんて毎日食べてたら……」

ヒロ「その話はダメ!」


ああ、これがひだまり荘の空気なんだな、とふいに思った。
皆が集まって、皆が笑顔になって……
先輩たちが卒業してしまっても、私が引っ越してしまっても、この空気はきっといつでも私を迎え入れてくれるはず。

ゆのさんの部屋のテーブルに並んだ料理はいつもより豪華で、嬉しいような申し訳ないような。
お茶を運んできたゆのさんと宮子さんが最後に座って、6人で食卓を囲む。
別にそんなに久しぶりってほどでもないはずなのに、なんだか懐かしい気がした。


沙英「それじゃあ、主賓のなずなから一言頂こうかな」

なずな「えっ?」

沙英「簡単でいいからさ」

なずな「え、えっと……」


皆の視線が私に集まった。
でも、緊張するというより、むしろ温かい気持ちになってくる。

なずな「1年間、皆さんのお蔭で楽しく過ごせました」

なずな「いっぱい迷惑かけて、いっぱい助けてもらって……」

なずな「だから本当に、ありがとうございます」


私は深々と頭を下げる。
ひだまり荘での出会いや、増えた思い出の数々。
それが私にとってどれだけ大切なものか、どんな言葉でも伝えきれないだろうから。


乃莉「私たちも楽しかったよ、なずなといられて」

宮子「うんうん」

沙英「そうだね、ひだまり荘になずながいてくれて良かったと思う」

なずな「……そういえば、私が引っ越す、って最初に言ったのも、夕ご飯食べてるときでした」

ゆの「そういえばそうだったね」

なずな「それで、先輩たちにも乃莉ちゃんにもたくさん励ましてもらったから」

なずな「寂しいですけど、でも今は……」

なずな「みんなといられて、私、幸せだな、って……」


いつの間にか目に溜まっていた涙を手で拭うと、皆の穏やかな笑顔が見えた。
私も自然に笑顔になる。
言いたいことはもっとたくさん、キリがないくらいあるけれど、でも今はこの幸せな空気に浸っていたい。
いつも通りの、このひだまり荘の空気に。
うん。やっぱり、この空気に涙なんて似合わないから、泣かないでいよう。今日も、明日も。
皆の前では、乃莉ちゃんの前ではずっと笑顔でいよう。

なずな「……冷めないうちに食べましょうか」

ヒロ「そうね」

宮子「いただきまーす!」

沙英「今日の夕飯は、ゆのが作ったの?」

ゆの「はい、だいたいは」

乃莉「ほとんどゆのさんがやってましたよね。あんま手伝わなくてすみません」

ゆの「ううん、あ、そうそうこれ」

ヒロ「煮物?」

ゆの「なずなちゃんが作ったんです」

沙英「なずなが?引っ越しで忙しかっただろうに」

なずな「えと、冷蔵庫のものを使っちゃわなきゃ、って思って」

なずな「お口に合うか分かりませんけど……」

乃莉「大丈夫だって。なずな、だいぶ料理上達したんだから」

ゆの「乃莉ちゃんももう食べさせてもらったの?」

乃莉「まだですけど、煮物作るの最近かなり上手くなりましたよ、なずなは」

沙英「どれどれ……あ、美味しいよ!」

ヒロ「うん、よく味が染みてるわ」

なずな「本当ですか?」

宮子「えー、私にもー」

乃莉「ちょっと宮子さん、取り過ぎですよ!」


宮子さんがいっぱいご飯を食べて、皆で笑って。この1年、何回も出会ったこの風景も、心の中にしっかりと閉じ込めておこう。
だって、私はこの空気のお蔭で変われたんだから。前に進めたんだから。
もう一度、心の中で皆に向かって「ありがとうございます」とつぶやいた。
そして、とびっきりの笑顔で、この時間を楽しもう。

カーテンの隙間から漏れる光が、今日1日のお天気を約束していた。
朝の陽ざしで目が覚め、ぼんやりとした目をこすりながら時計を見ようとして、はっとなった。
昨日まで時計が掛かっていた場所は、今はもうただの壁になってしまっている。
そういえば、昨日皆と夕飯を食べた後、部屋に戻って、片付けの続きをして、その時に段ボールに詰めちゃってたんだ
携帯を開いて時間を確認する。7時半を過ぎたところだった。
窓を開け、ベランダに出る。朝の空気はまだまだ冷たいけれど、それでも春の訪れを感じられた。
そよぐ風はどこまでも優しくて、青い空をゆったりと流れる雲の白がとてもまぶしい。
視線を落とし、しばらくは緑に染まったひだまり荘の庭を眺めていたけれど、
着替えと洗面具は今日のためにまだ片づけていなかったことを思い出し、部屋に戻ることにした。

顔を洗い、服に着替えると、携帯が鳴った。


なずな「あ、乃莉ちゃんかなあ?」

なずな「朝ごはん、もうできたのかな」


携帯を開くと、案の定乃莉ちゃんから『もうすぐ朝ごはんできるからおいで』とメールが来ていた。
『すぐ行くね』と返信して、前髪を少し整えてから部屋を出た。

103号室

なずな「乃莉ちゃん、おはよう♪」

乃莉「あ、なずな、おはよ。もうできるよ」


乃莉ちゃんの部屋に入ると、トーストの焼けるいい香りがした。
キッチンでソーセージを炒めながら、普段通りの口調で乃莉ちゃんが言う。


乃莉「悪いけどバターとジャム出しといてくれる?」

なずな「はーい」

乃莉「お湯も沸いた、と……。なずな、紅茶でいいよね」

なずな「うん」

なずな「いただきまーす」

乃莉「うん、召し上がれ」


紅茶にスティックシュガーをさらさらと入れ、スプーンでかき回す。
穏やかな朝の空気の中に、紅茶の香りがふらりと漂った。
トーストにジャムを塗りながら、乃莉ちゃんが口を開いた。


乃莉「荷造り、もう終わったの?」

なずな「うん、だいたい。あとは、今日使おうと思ってたものとか入れれば終わりかな」

乃莉「そっか」

なずな「ほとんど段ボール閉じてないから、ガムテープ貼らなきゃいけないけど……」

なずな「しまい忘れたものがありそうで、なかなか閉じられなくて」

乃莉「ふーん……」

なずな「あと、プチプチちょっと足りなかったんだよね」

乃莉「え、それ大丈夫なの?」

なずな「うーん、分かんないけど、お皿とかってタオルとかにくるんで持ってけば大丈夫かなあ?」

なずな「乃莉ちゃん、どう思う?」

乃莉「んー、大丈夫なんじゃない?どうせ大した距離でもないんだし」

なずな「そっかな」

乃莉「引越し屋さん、午前中に来るんだよね?」

なずな「うん、お昼前には。10時半って言ってたかなあ?」

乃莉「ふぅん……まあでも、その様子なら全然間に合いそうか」

なずな「うん、乃莉ちゃんが手伝ってくれたから♪」

お喋りしながらの朝ごはんは、一瞬で食べ終わったように感じてしまう。
後で洗うから食器は流しに置きっぱなしでいいと言った乃莉ちゃんに甘えて、二人で居間でしばらく一休みになった。


乃莉「あ、そうだ。ゆのさん達にメールしなきゃ」

なずな「ゆのさん?」

乃莉「うん、ほら、引っ越しの荷物運ぶのとか手伝ってくれるって」

乃莉「なずな一人じゃ力仕事とか大変でしょ?」


そう言いながら、乃莉ちゃんは携帯を取り出しメールを打ち始めた。
私とお揃いの、ティーニーの携帯ストラップが揺れる。
四葉のクローバー……じゃなくて、カタバミっていうんだっけ?の緑が鮮やかに写る。

なずな「……クローバーが、プチプチの代わりに使われてたって、乃莉ちゃん、言ってたよね」

乃莉「そういえばそうだけど、何で?」

なずな「ううん、ちょっと思い出しただけ」


メールを打つ乃莉ちゃんの手が止まった。
不思議に思い、乃莉ちゃんの顔を覗き込む。何か考え事をしているような、真剣な面持ち。
それはふっと緩んで、さっきまでの笑顔に戻った。


乃莉「……うん、私もよく覚えてるよ」

なずな「ほんと?」

乃莉「今日は髪下ろしてんの?」

なずな「ううん、さっき起きたばっかりだから、まだ結んでないだけ」

乃莉「まー、まだ結構早い時間だもんね、休みの日にしては」

乃莉「なずなにとっては全然『休み』じゃないだろうけど」

なずな「ごめんね、付きあわせちゃって」

乃莉「いいって言ってるじゃん、昨日からずっと」

乃莉「それに、春休みダラダラ過ごすのもなんだしさ」

乃莉「でも、ちょっと安心したな」

なずな「?」

乃莉「なずな、わりと平気そうっていうか」

乃莉「もっと緊張してるかな、って思ってたけど、いつも通りな感じだったから」

なずな「そうかな?」

乃莉「うん、そんな感じ」

なずな「うーん、なんていうか……」

なずな「寂しいって感じてる暇がなかったのかも」

乃莉「あー、まあ部屋片づけたりで忙しかったもんね」

なずな「そうじゃなくって」

乃莉「?」


昨日、ゆのさんと話したことを思い出す。
一瞬ごとに、この場所での大切な思い出が増えていく。
この朝のひと時もきっと幸せな思い出に変わるから。
今はそれが嬉しくて、嬉しくて―


なずな「……乃莉ちゃんと、居られるからだよ」

乃莉「なずな……」

なずな「乃莉ちゃんと、一緒に居られるから……」

乃莉「ねえ、なずな」

乃莉「髪。結んであげる」

なずな「えっ?」

乃莉「ほら、じっとしてて」

乃莉「髪留めは……まあ、私のヘアゴム使えばいいかな?」


後ろに立った乃莉ちゃんが、私の髪に触れた。
ふいに込み上げてくるドキドキも、なんだか幸せな思い出のひとつになるような気がして。
私はゆっくりと目を閉じた。
乃莉ちゃんの温かさを感じながら……

乃莉「ねぇなずな、ひだまり荘で私たちと過ごせるのが一番ラッキーなことだ、って言ってたよね?」

なずな「えっ?」


唐突にそう声を掛けられて、びっくりして目を開ける。


乃莉「それは今でも……」

なずな「?」

乃莉「……ううん、やっぱいいや」

なずな「乃莉ちゃん……?」

乃莉「何でもないって。はい、終わったよ」


振り向くと、そこにはいつも通りの乃莉ちゃんの笑顔があった。

乃莉「あれ、もう9時過ぎてる」

なずな「あっ、私そろそろ戻らなくちゃ」

乃莉「私もちょっとしたら手伝いに行くよ」

なずな「うん、ありがとう」


そう言って乃莉ちゃんの部屋を後にし、私は203号室に戻った。
荷造りはもうほとんど終わりかと思っていたけれど、細々した物のしまい忘れが意外と多くてびっくりする。
どこから手を付けようかな、と考えていると、屋上からガタガタと物音が聞こえた。
ベランダに出てみると鼻歌が聞こえはじめた。宮子さんの声だ。

なずな「宮子さんー?」

宮子「およ?なずなさん?」


そう呼びかけると、宮子さんは屋根の上から顔だけ出してこちらを覗き込んできた。
そんなことして危なくないのかな、と思ったけれど、宮子さんは全然平気そう。宮子さんの長い髪が風に吹かれて揺れた。


なずな「屋根の上にいたんですか」

宮子「うん、風が気持ちよさそうだったから」

宮子「……でも、良かったね」

なずな「?」

宮子「最後の日が、こんないい天気で」

なずな「そういえば宮子さん、屋根の上に鉛筆忘れてませんでした?」

宮子「鉛筆?」

なずな「昨日見つけたんですけど……」

宮子「え、なずな殿、屋根上がったの?」

なずな「はい、ゆのさんと」

なずな「屋根の真ん中辺に置いてきちゃいましたけど」

宮子「んーと」

ばたばたと宮子さんの足音が聞こえ、やがて止まった。


宮子「私のじゃないけど」

なずな「あれ、そうでしたか?てっきり宮子さんのかと」

宮子「んー、ゆのっちが何か描いてたのかなあ?」

なずな「ゆのさんに聞いてみましょうか?でも、昨日は何も言ってなかったし……」

宮子「……これはここ置いとこっか」

なずな「えっ?」

宮子「何となくその方がいいかもしれないなって」

宮子「そういえば、引越しの準備終わった?」

なずな「えっと、だいたい……」

宮子「引越し屋さん来たら私も手伝い行くよー」

なずな「あっ、ありがとうございます」

また宮子さんの鼻歌が聞こえ始めた。
それをBGMに荷造りの仕上げに取り掛かる。
プチプチが足りなくてしまえなかったお皿はとりあえずタオルにくるんで食器の箱へ。
カップラーメンが2つ……これも食器と一緒に入れちゃおう。
スーパーのビニール袋はもう捨てちゃっていいよね。わざわざ持っていくほどの物じゃないし。
ドライヤー……結構大きくて入れる場所が難しいなあ。適当にスペースがある箱に突っ込んじゃおう。
携帯の充電器は、適当に服の中に入れちゃってもいいかな。
髪留めが一個だけ?髪留めはもう全部仕舞ったような記憶が……。どこに入れたんだっけ?とりあえずカバンの中でいっか。

そう思いながらカバンを開いていて、ようやく気付いた。
今日使うはずの髪留めが、乃莉ちゃんにヘアゴム借りちゃったから余ってるんだ。
乃莉ちゃんに結んでもらった髪を手で触る。いつもの髪留めとは違うヘアゴムの感触。
何だか特別なような気がして、洗面所に行って鏡を覗き込んでみた。
いつもと全然変わらない髪型のはずなのに、いつもとはちょっとだけ違うような気がして、
それを乃莉ちゃんはどう思ってくれたのかな、なんて考えちゃって。

鏡の前でずっと髪を触っていた私は、玄関のチャイムが鳴ってようやく我に返った。
「はーい」と返事すると、ドアを開く音に続いて乃莉ちゃんの声が聞こえた。


乃莉「遅くなっちゃってゴメン。どう?進んでる?」

なずな「えっと、まあ……」


ポケットから携帯を出して時間を見る。
乃莉ちゃんの部屋を出てから30分くらい経っていた。


乃莉「まだ片づけてないものは?」

なずな「うーん、だいたい終わってるはずだけど」

乃莉「あ、洗面所のあたりチェックしてた?」

なずな「えっ、えっと、うん」


ずっと鏡を眺めてたとは言えず、ごまかすように洗面台の棚を開いてみた。
そこには洗顔フォームと詰め替え用のシャンプーと……
あれ?ここってまだ片づけてなかったっけ?

なずな「あ、まだここ色々あったみたい」

なずな「多分他は全部片付いてると思うんだけど……」

乃莉「そう?じゃあ、満タンの段ボールだけ閉じちゃうから、なずなはその辺ものしまってなよ」

なずな「うん、ありがとう」


そう言って、洗面所の棚を全部開けて入っているものを取り出していった。
向こうからは乃莉ちゃんがガムテープを貼る音が聞こえる。


乃莉「この辺の箱がまだスペース空いてるけど」

なずな「うん、多分これだけで終わりだから」


洗面所の荷物を全部まとめてから、段ボールを全部ガムテープで閉じた。
ふう、とため息をひとつついて、何もなくなった部屋の床に座る。
乃莉ちゃんは立ったまま携帯を開いた。


乃莉「引越し屋さん来るまでまだ時間あるね。うちでお茶でも飲んでる?」

なずな「うん、乃莉ちゃんが良ければ♪」

乃莉「まあそこまでゆっくりはできないけど」

乃莉ちゃんと並んでドアにの方に向かおうとした瞬間、ベランダの方からドシン、と音がした。
びっくりして乃莉ちゃんと同時に振り返ると、何食わぬ顔で宮子さんが立っていた。屋根の上から降りてきたみたい。


宮子「引越し屋さん、来たみたいだよ」

なずな「えっ、もう!?」

宮子「うん、今トラックが来た」

なずな「予定よりだいぶ早いのに」

乃莉「もう荷物まとまってんだし、問題ないじゃん」

宮子「ゆのっちも呼んでくるねー」


そう言って、乃莉ちゃんは引越し屋さんを招き入れ、その後すぐにゆのさんと宮子さんも手伝いに来てくれた。
引越し屋さんとひだまり荘の皆でてきぱきと段ボールの山を運んでいく。
ずっと運び出しの作業をしていたからそう感じるだけかもしれないけれど、瞬く間に部屋の中は魔法みたいに空っぽになった。

宮子「全部片付いたねー」

ゆの「うん、思ったより早く終わったね」

なずな「すみません、最後の最後まで手伝わせちゃって」

ゆの「ううん、気にしなくていいよ」

宮子「そういえば、今日はご両親は?」

なずな「家でいっぱいやることあるからこっちには来られない、って」

なずな「両親も昨日引っ越してきたばっかりなので、大変みたいです」

ゆの「そっか~」

乃莉「なずなはまだ行かないの?」

なずな「私は自転車で行くから、トラックに乗っていかなくても大丈夫なの」

なずな「お母さんが荷物の受け取りはしてくれる、って言ってたから」

乃莉「そっか」

宮子「じゃあ、私たちはこれで」

ゆの「なずなちゃん、落ち着いたらいつでも来てね」

なずな「はい、ありがとうございます」

ゆのさんと宮子さんがいなくなり、部屋の中には私と乃莉ちゃんしかいなくなった。
人だけでなく、この部屋には2人の他は何もない。


乃莉「なずなもすぐ行くんでしょ?」

なずな「うん」

乃莉「そっか」

乃莉「……遊びに来てよ、いつでも」

なずな「うん」

なずな「……ねえ、乃莉ちゃん」


ひだまり荘で過ごす、最後の時間。
ひだまり荘の住人として過ごす、最後の時間。
もうこんな時間は二度と来ないと分かってはいるけれど、
それでも本当の気持ちなんて―

乃莉ちゃんのことが好きだなんて、やっぱり、言えない。

乃莉「……なずな?」

なずな「ありがとね乃莉ちゃん、いっぱい手伝ってくれて」

なずな「それじゃ、私そろそろ行くから……」


このままこの部屋に居たら泣き出してしまいそうで、私は目に溜まった涙をなんとかこらえながら笑顔を作る。
乃莉ちゃんはずっと優しい表情のままだった。
一緒に階段を下りて、103号室の前まで来ると、涙が一筋こぼれ落ちた。
自転車取ってくるね、と乃莉ちゃんに声をかけて庭にまわり、乃莉ちゃんから見えなくなってから涙を拭った。
乃莉ちゃんの前では泣かない、って決めたんだから。

103号室の前に戻り、乃莉ちゃんに声を掛ける。


なずな「じゃあね、乃莉ちゃん」

乃莉「うん、また」


それ以上何を言っていいか分からず、またじわりと涙が溜まってきた。乃莉ちゃんも何も言わず、ただ沈黙が流れる。
もう、限界。これ以上ここにいたら、きっとまた涙がこぼれてしまう。
私は、またね、と小さく言ってから自転車にまたがって、ゆっくりとひだまり荘を出た。
それを見送る乃莉ちゃんの目も、少しだけうるんでいたように見えた。

自転車で10分ちょっと走ると、ちょうど1年前まで住んでいた家に到着した。
開けっ放しのドアから、忙しそうに家具を運んでいる両親の姿が見える。
これを帰ってきたというのか、それとも新居に越してきたというのか分からず、
「ただいま」と言っていいのかどうか迷いながら、私は玄関をまたいだ。
私に気づいた両親が、嬉しそうな表情になって作業の手を止めた。


なずな父「ああ、なずな。おかえり」

なずな母「なずな、もう荷物着いてるよ」

なずな「うん」

なずな父「それにしても、本当に父さんたちが手伝わなくても、なずな一人で引っ越しの準備できたんだなあ」

なずな「ひだまり荘の皆に手伝ってもらったの」

なずな母「段ボール、部屋まではもう運んであるから、あとは自分でやってちょうだい」

なずな「はーい」

なずな父「重いものとかあったら父さんに言ってくれよ」

なずな「うん、ありがと、お父さん」

自分の部屋に入り、段ボールだけが置かれた殺風景な部屋を見渡す。
去年まで、この部屋でどんなふうに過ごしてたんだっけ。
どこに何を置いていたのかもなんだかうろ覚えで、思い出すのはひだまり荘の203号室のことばかりだった。
何から手を付けていいのか分からなくなってしまうけれど、とりあえず段ボールを開けないことには始まらない。


なずな「よいしょ、と」


とりあえず手近なところに積まれていた段ボールの1番上を床に下ろす。
封を開けると、ぎっしりと服が詰まっていた。とりあえず中身をタンスにしまっていく。
あ、ここら辺はハンガーないと困るな……ハンガー、どの段ボールに入れたっけ?

なずな「お母さーん」

なずな母「どうかした?」

なずな「ハンガーってある?」

なずな母「あれ、持って帰ってきてないの?」

なずな「あるはずだけど、どの箱に入ってるか分からなくて……」

なずな母「んー、ハンガー向こうでいくつか処分してきちゃったから、足りてないのよね」

なずな母「探してもらえる?」

なずな「うん」

しょうがない。手当たり次第に段ボールを開けていく。
お皿とかフライパンとか。この箱じゃない。
こっちは……また洋服。ハンガーは入っていないみたい。
これはかなり重いから、多分本とかが入ってる箱かな。多分これじゃないけど、一応開けて……

そう思いながら段ボールを開けた瞬間、緑の風がそよいだような気がした。
ふと顔をあげて、窓の外を見る。
閉じた窓ガラスの向こうには、ひだまり荘の窓から見えるのとはほんの少し違う景色が広がっていた。
ゆっくりとした雲の流れをしばらくぼんやりと眺めていたけれど、はっと我に返り、段ボールの中身を確認する。
すると、段ボールの中、教科書や漫画がぎっしり詰まっている上に、
たったひとつ、鮮やかな緑色のクローバーが乗っていた。

なんでこんなところに?
混乱しながら葉の枚数を目で数える。いち、に、さん、よん……
四葉の、クローバー……?

乃莉ちゃん!

その四葉のクローバーを拾い上げ、携帯をスカートのポケットの中に滑り込ませる。
自転車の鍵を掴んで、一目散に玄関へと向かう。ポケットから飛び出た乃莉ちゃんとおそろいのティーニーのストラップが揺れた。
お父さんとお母さんが驚いた顔をしていたけれど、そんなことは気にしていられない。
自転車のスタンドを蹴り上げて、勢いよく自転車に飛び乗った。

私にとって、何よりも大切な人がいる場所―
乃莉ちゃんのいる、ひだまり荘へ。

1年前の、ひだまり荘への引っ越しの日と、同じ道を同じ自転車で走っていく。

去年は不安で胸がいっぱいだったけれど、今は違う。
だって、どんなに不安でも、怖くても、寂しくても、変わっていく勇気をひだまり荘で貰ったんだから。


ひだまり荘

なずな「乃莉ちゃん!!」

乃莉「なずな!?どうしたの?忘れ物とか?」

なずな「ううん、そうじゃなくって……」


肩で息をする私を、乃莉ちゃんは不思議そうに見つめている。
春の太陽に照らされた2人の影が、ひだまり荘の庭に落ちた。
四葉のクローバー、乃莉ちゃんがくれたの?とか、
わざわざ探してくれたの?とか、
どうして、とか……
乃莉ちゃんに話したいことはたくさんあったけれど、でも、本当に伝えないといけないことは、きっと。

なずな「ねえ、乃莉ちゃん、言ってたよね。私に引っ越してラッキーだったって思えるようになってほしいって」

乃莉「へ?……ああ、クローバー探してたとき?」

なずな「うん」

なずな「ひとつだけ、良かったって思えること、あるんだ」

乃莉「親と暮らせるってこと?」

なずな「ううん」

乃莉「家事とかしなくていいとか?」

なずな「そうじゃないの」

なずな「私ね、引っ越しちゃうこと、もう怖くないよ」

なずな「いろんなことが変わっちゃうことも、怖くなくなったの」

なずな「全然ってわけじゃないけど……」

乃莉「それが良かったこと?」

なずな「うん、それに……」

なずな「それを願ってくれる人がいるから」

なずな「私の大好きな人が、願っていてくれるから」

なずな「これからの私が、きっと幸運であるように、って」

乃莉「……それって」

なずな「ありがとう、乃莉ちゃん」

なずな「でも……」

なずな「お礼が言いたかったんじゃなくてね」

なずな「もっと大切なこと、言わなくちゃ、って……」

もっと大切なこと。一番大切なこと。
それを、どんなふうに言葉にすればいいのか分からなくなって、言葉を繋げられなくなった。
そんな私を見る乃莉ちゃんの表情が、ふわりとした優しい微笑みに変わったのが、私の目にスローモーションで映る。
ふと視線を落とすと、その時初めて四葉のクローバーをまだ手に持っていたことに気づいた。
その四枚の葉が、まるで私にきっと大丈夫、と語りかけているように感じられた。
私はひとつ深呼吸した。春の空気が体じゅうに染み渡る。
そして私は何も言わずにゆっくり目を閉じた。
ひだまり荘に乃莉ちゃんがいる風景。私にとって、一番大切な風景。
……ううん、今までの私にとって、一番大切な。
それを心の中に閉じ込めて―

目を開くと、風がそよいだ。
柔らかい空気を感じて、何故だか、季節が巡ってまた春がきた、と思った。
新しい季節に、新しい大切な風景が、きっとまた生まれる。
だから。


なずな「乃莉ちゃん」


もう一度、乃莉ちゃんの名前を呼んで。


なずな「あのね」


ぎゅっ、と乃莉ちゃんを抱きしめて。


なずな「乃莉ちゃんに、ずっと伝えたかったことがあるの」


私は、新しい風景へと行こう。
シロツメクサに込められた願いと一緒に。


なずな「乃莉ちゃん、大好き」

乃莉「……なずな」

なずな「変かもしれないけどね、私、ずっと……」

乃莉「ううん」


乃莉ちゃんが私をぎゅっと抱き寄せる。
しばらくの沈黙の後、乃莉ちゃんが口を開いた。


乃莉「ズルいよ、なずなは」

乃莉「そんな風にさ……」

なずな「乃莉ちゃん?」

乃莉「……なずな、変わったな、って思う」

乃莉「何ていうか、今のなずな、かっこいいもん」

なずな「そうかな……」

乃莉「絶対そうだよ」

乃莉「前までのなずなはこんなじゃなかった」

乃莉「だから、そんな風に言われたらさ」

乃莉「私が、ずっと一番近くで見てきたんだから……」

突然、私を抱きしめる乃莉ちゃんの腕が緩んだ。
私が顔を上げるよりも早く、乃莉ちゃんが私の手を取った。


乃莉「なずな。こっち」

なずな「?」


乃莉ちゃんに手を引かれるまま、ひだまり荘の庭に回る。
庭の一番奥、物置のほうまで来ると―


乃莉「ほら、見て」

なずな「うわあ……」

一面に生い茂るクローバーの緑の中に、たったひとつ、白く可憐な花が咲いていた。


乃莉「なずながいてくれるからだよ」

乃莉「こうやって、シロツメクサの花が咲いたのも」

乃莉「私が今、幸せなのも……」



乃莉「なずな。私も、大好きだよ」

乃莉ちゃんはそういったきり、何も言わずに私をずっと見つめていた。
私も言葉が見つからず、だんだんと目頭が熱くなるのを感じながら乃莉ちゃんを見つめ返す。
風が二人の間を通り抜けていった。
もうすっかり暖かくなった風は私の頬を優しく撫でていき、目の奥に溜まった涙を乾かしてくれる。


乃莉「あっ」

なずな「?」

乃莉ちゃんが急に手を伸ばした。
そちらを振り向くと、風に吹かれて飛んでいく鮮やかな緑色が見えた。
私はようやく手に何も持っていないことに気づいた。乃莉ちゃんから貰った四葉のクローバーが風で飛ばされちゃったみたい。
駈け出そうとする乃莉ちゃんの腕を思わず掴む。


乃莉「なずな?」


私はゆっくりと首を横に振る。


なずな「乃莉ちゃん、いいの」

なずな「四葉のクローバーが無くったって……」

飛ばされていった四葉は、一面のクローバーの中に消えて行った。
それはなんだか、いつか誰かがこの場所で幸運を捕まえることを待っているように思えた。
……私には、もう必要ないよね。
だって、ここにはもうこんなにも幸せがあるのだから。
乃莉ちゃんの目をまっすぐ見つめ、手を握る。


なずな「だって私、今、世界で一番ラッキーだよ」

四月、私は高校2年生になった。
春の息遣いはますます濃くなり、そよ風は季節の色に輝いているよう。
私は1年間過ごしたひだまり荘を出て、今は家族と一緒に暮らしている。
不思議とひだまり荘での日々は遠い幸せな思い出のように思えて、それを懐かしむことはあっても寂しい気分になることはあまりない。
他にも学校のこととか、いろんなことが急激に変わって、毎日がすごく慌ただしくすぎていくけれど、
それでも、怖くなったり不安で仕方なくなってしまうようなことはない。
だって、私には心から安らげる場所が、幸せを感じられる場所があるのだから。

放課後

なずな「乃莉ちゃん、おまたせ」

乃莉「あ、なずな。結構遅かったけど、何かあったの?」

なずな「ちょっと授業が長引いちゃって……」

乃莉「そっか」

乃莉「でも、だいたいなずなのが遅いよね。なんでだろ」

なずな「うぅ……ごめんね、乃莉ちゃん」

乃莉「それは別にいいんだけどさ。なずなのせいじゃないし」


学校からひだまり荘までの、道路を一本渡るだけの余りにも短い帰り道。
去年、乃莉ちゃんと何度も何度も一緒に歩いたこの帰り道を、今日もまた二人で歩く。
ひだまり荘までの距離も、放課後の校庭の賑わいも、風の匂いも、去年と少しも変わらない。
変わったことがひとつだけあるとしたら、それは。

なずな「乃莉ちゃん」

乃莉「ん?」


私は乃莉ちゃんの手を取り、指を絡める。
乃莉ちゃんは少しだけ照れたような表情で、私の手を握り返した。
手のひらに伝わる温もりがこのひとときの時間を永遠にも感じさせてくれる。
制服のポケットからはみ出したお揃いのストラップが、小さく揺れた。


なずな「ねえ、乃莉ちゃん」

なずな「今日、こうやってお喋りしたり、一緒に帰ったりしたことも、こんな風に手を繋いでることも」

なずな「いつか、思い出に変わるのかなあ?」

乃莉「へ?」

なずな「素敵な思い出だなって、思い出すのかな」

乃莉「……そうかもね」

なずな「だとしたら嬉しいな」

なずな「今の幸せを、思い出の風景に閉じ込めておけるなら……」

なずな「だって、乃莉ちゃんの隣にいるだけで、こんなにも幸せだから」



おわり

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