千早「ソング・フォー・ライフ」(124)

あの日も雨が降っていた
今日と同じように、細くて静かな雨が
その雨の中、私は一人待っている
右手には傘、唇には歌を持って

あの日からもう7年が過ぎたのね
あのころの私はまだ子供だった
いまだって同じ
自分でもよく分かっている

腕時計に目をやると、15時20分を指していた
約束の時間まで、あと40分
早く来すぎてしまったみたいだから、ちょっとだけ、思い出してみよう

「デモテープ聴かせて貰いました。とっても綺麗な声だね」

その一言から始まった、私の……
いえ、私たちのことを

「私は歌いたいんです。聴いた人たちが言葉を失うような、そんな歌を」・

7年前の6月
私はまだ高校1年生だった

「デモテープを聴いて、俺も社長も素直に『上手い』と思った。だけどここはアイドルプロダクションで…何というか……」・

テーブルを挟んで座っていたあの人は、困ったような顔で頭を掻いていたっけ
開け放たれた会議室の窓からは、雨の匂いが忍び込んだ・
それはいまの私へと続く、始まりの一小節

「分かっています。歌だけ歌っていればいい、というわけではないと。ただ、あくまで歌を中心にスケジュールを組んでいただきたいのです。仕事もレッスンも」

……生意気だったわね、私
それに世間知らずで、自己中心的で
自分で思っているような実力なんて、半分も無かったのに

いまは……?
あの頃より少しだけ上手くなったかも・
ほんの少しだけ、ね・

「約束はできないけど、こっちとしても努力はしてみるよ・。最初のうちはグラビアなんかもやってもらうことになるかもしれないけど……」

「グ、グラビア…ですか?私が?」

何故か申し訳なさそうな顔で私を見ていたあの人

「……何かおっしゃりたいことが?」

「い、いや、別に…」

何を言いたいのか、本当はよく分かっていたわ
くっ……

「しかし、高1なのにしっかりしてるよなぁ」

感心したような表情で私を見ながら、あの人が言った

「そう…でしょうか?」

「うん。俺が君と同い年の頃なんて、遊ぶことしか考えてなかったよ」・

「私には…私には、歌しかありませんから」・
顔を伏せてそう呟いた私の頬を、窓から入り込んできた湿った風が撫でた

あの子のことは、言えなかった

「あ、あの!」

会議室から出ると、唐突に声をかけられたっけ

「え、えっと、私、天海春香って言います!」

あのときはたしか、赤色のリボン
そのリボンが微かに揺れていた
春香の緊張が乗り移ったみたいにね

「……如月千早です。今日から765プロでお世話になることになりました。よろしくお願い致します」

そう言って頭を下げると、春香も慌てて真似をした

「こ、こちらこそよろしくお願いします!天海春香です!」

春香はちっとも変わらない
出会った頃もいまも、春香のまま

一つだけ変わったことがあるとしたら……
お互いに忙しくてなかなか会えなくなってしまったことくらい

「如月さんは高校生ですか?私は一年生です!」

「私も一年生。2月生まれだから、年齢は一つ下だけれど」

「じゃあ同じ学年なんだね?やったぁ!」

そのときの765プロには5人しかアイドルが
いなくて、春香が一番年下だった
一番上はあずささんで、次が律子
その下に真と萩原さんが続いて、最後に春香

アイドルと言っても、誰も本格的にはデビューしていなかったけれど
アイドル候補生、ってところかしら

春香以外のみんなはレッスンに出かけていたから、事務所のソファーに腰かけて少し話をした

高校のこと、好きな曲、これからの目標
それから……家族のこと

「私、一人っ子なんだぁ。だからお兄ちゃんやお姉ちゃんがいる人が羨ましくて」

悪意なんて無いのは分かっていた
そのときの春香は知らなかったんだもの
けれど……私の胸はチクリと痛んだ
そのあと一言も喋れなくなってしまうくらいに

5人が帰ってきてからも、ほとんど喋れないでいた私
あずささんは、

「緊張しなくてもいいのよ、千早ちゃん。みんなとっても良い人たちだから」

柔らかな笑顔でそう言ってくれた

「分からないことがあったら何でも聞いてよね!」

真の言葉に春香と萩原さんが頷いていた
律子は何かを察したみたいで、

「今日はもう帰って、ゆっくり休んだ方がいいわ。これからいくらでも話せるんだから」

そう促してくれたっけ

みんなに気を使わせている自分が嫌になった私は。軽く頭を下げて事務所をあとにした
もう『家庭』とは呼べなくなっていた、あの家に帰るために

「おかえり」

「ただいま」

「明るさ」というのは電灯の有無だけで決まるわけではないということを、あの頃の私は嫌というほど思い知らされた

「千早、ここに座りなさい」

すっかり艶を失ってしまった母親の声が、階段を昇る私の背中を叩いた

「…またあの話?」

高校に入る前から繰り返されていた会話
選びたくないものを選ばされるための、ただ苦痛なだけのやり取り

「千早にとって大事なことだから。もう決めてくれた?お父さんとお母さん、どちらに着いてくるのか」

聞き飽きていたその問いには答えずに、私は自分の部屋に駆け込んだ
机の上の写真立てからは、あの子が……
優が、永遠に変わることのない笑顔で私を見ていた

「あれ?如月さん、部活は?」

次の日の放課後
下駄箱のところで、同じクラス、そして同じ部活の女の子に声をかけられた

「ごめんなさい。私もう、合唱部を辞めるつもりだから」

もっと歌いたい
そんな理由で入った合唱部
だけど初日の練習で、私には合わないと分かった
歌っている時間よりも、お喋りの時間の方が長かったから

「なんで?如月さん、歌上手いのに」

「…ごめんなさい。私、用事があるから。それじゃ」

いまだったら……
もっと違う言い方ができる
もっと違う辞め方もできる
だけどそのときの私は、そのやり方が当たり前だと思ってた

あの人たちには歌のことが分からない
一緒にいても、私の時間を無駄にするだけだ

そんなふうに思うことに、なんの抵抗も感じていなかった
学校での居場所を無くすのは、自然な流れだった

「おはようございます」

765プロの一員になってから初めて訪れた事務所
机に向かっていた音無さんに声をかけると、温かな笑顔で挨拶を返してくれた

「お、来たな。あらためてよろしくな、千早」

社長室から出てきたあの人が、そう言いながら右手を差し出した

「…… ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

右手を無視しながら頭を下げると、あの人は一瞬だけ苦笑いを浮かべたあとで、こう言った

「おう、任せとけ」

「そう言えばまだアドレス聞いてなかったな」

「メールの、ですか?」

「そう、メールの」

スーツの胸ポケットから携帯電話を取りだしながら、カチカチと操作し始めた

「アドレス言ってくれるか?」

「はぁ」

そういえば、男の人に連絡先を教えるのは初めてだったのよね
だから何?って話だけれど

「c,a,r,l,_,c,z,e……」

アルファベットと記号を読み上げるたびに、あの人の指がせわしなく動いた

「@idolmaster.jpです」

「オッケー。えっと… carl_czerny50?どういう意味があるんだ?」

「カール・ツェルニーです。ドイツの作曲家で、50はピアノ練習曲50番からです。彼はベートーベンの弟子で、フランツ・リストの」

熱く語り始めた私をもて余したように、あの人は話を遮った

「あ、ああ!ツェルニーな!母親の友達のいとこが好きだって言ってたよ!」

「…まぁ、なんでも、いいですけれど」

もうこの人にクラシックの話をするのは止めようって、初日に決めたわ

梅雨が明け、蝉の合唱が始まり、そして夏休みに入ると、私の新しい生活が始まった
理由は両親が離婚したから

私は……
どちらにも着いてはいかなかった
一人で生活することを選んだ
社会のことなんてまだ何も知らなかったのに

事務所の人たちには当然のように反対された

「気持ちは分かるけど」

そんなふうになだめようとしてくれた人もいた
だから話すしかなかった
あの子の…
優のことを

あの子は優しい子だった
名前のとおり、とても

「おねえちゃんのうたがすき」

いつもそう言ってくれた
だから私は、歌を好きになれた
私の歌で喜んでくれる存在がいたから
たった一人の、小さな観客がいたから
私には弟がいたから

だけど……私は無くしてしまった
一瞬のうちに
私の目の前で
夏祭りの、囃子の音の中で

あれから全てが変わってしまった
どこにでもいる平凡な家族だった私たちの、全てが

日ごとに少なくなっていく会話
冷えていく空気
減っていく笑い声

私はそれでも、歌うことを止めなかった
いえ…止められなかった
まだ小学生だった私には、もう歌しか残されていなかったから……

私の声が止んだ事務所には、重たい空気が流れていた
そうなるのは分かりきってた
だけど言うしかなかった

勝手よね、私
自分のワガママのせいで、たくさんの人に気を使わせて
そのときの私は、そういう人間だったのよね

いまは……
変われたと思う
みんなのおかげで

「私の部屋に、住む?」

その声の主の方へ、全員の視線が集中した

「この中で一人暮らしは私だけだから。社長とプロデューサーさん以外は 、ね?うふふ」

「ですが…」

社長とあの人は何も言わずに、二人のやり取りを見ていた

「新しいお部屋が決まったら、そっちに住めばいいわ。それまで、私の部屋にいらっしゃい」

「ですが…」

芸の無い返答を繰り返す私
そんな私に対しても、あずささんは柔らかな微笑みを向けてくれた

「なぁ、如月君」

腕組みをしたままの社長に名前を呼ばれたから、身体ごとそちらに向き直った

「君は未成年だ。未成年には保護者が必要だ。そして君には、ちゃんと保護者がいる。言いたいことは分かるね?」

「……まずは両親と話せ、と?」

当たり前よね、そんなの
だけどそんな当たり前のことも分からないくらい、私は幼くて身勝手だった

「…ですが」

「ご両親から『了承した』と伺うまでは、この話は凍結だ。君からではなく、ご両親から直接ね」

「…ですが…私は……」

「千早。そろそろ分かれ」

怒気と呆れを含んだあの人の声
その声に、私はただ、頷いた

その日の夜
呆気ないほど簡単に、母親は私の願いを聞き入れた

「千早がそうしたいのなら」

俯いてそう言ったときの声には、怒りも呆れも混じってはいなかった
ただ、諦めがあっただけ

「…必ず返すから、お金」

それだけ言い残して、自分の部屋に戻った
涙なんて出なかった
私にもただ、諦めがあっただけだったから

「少しの間ご厄介になります。すぐに部屋を探しますから」

「ゆっくり探せば大丈夫よ。ここを自分のお部屋だと思ってくつろいでね」

あずささんの部屋は、私の部屋とはまったく違っていた
あずささんと同じように上品で、柔らかで、温かかった

「千早ちゃん、お料理は?」

「えっと…あまり……」

「少しはできる?」

「トーストやスクランブルエッグなら……」

…料理には違いないはずよ

結局あずささんの部屋には10日間も居候しちゃった
その間、いろいろなこと話した
だけどあずささんは最後まで、優に関することは聞いてはこなかった

自分の部屋に引っ越す日の朝
一緒に朝食を取りながら、優の写真を見せた

「うふふ。千早ちゃんと似て、とっても可愛い子ね。それに」

「何ですか?」

「千早ちゃんに似て、とっても優しそうな子」

「…私は優しくなんてありません。だけどその子は……とても優し子でした」

人前で泣いたのは、優のお葬式以来だった
その日からいまに至るまで、私はあずささんに頭が上がらない

すみません寝てしまってました……
続きを書きます

一人暮らしを始めてからしばらく経ったある日の午後
765プロに3人のアイドル候補生が加わった

まだ小学生6年生だった亜美と真美、それから中学2年生だった水瀬さん

「千早ちゃん!年下だよ、年下!」

「はしゃぐのはいいけれど、油断しているとすぐに追い抜かれてしまうわよ?」

「う……頑張ります……」

私はもちろん、先に所属していた5人にも仕事らしい仕事はまだ無かった
いつか訪れるであろうチャンスに備えて、レッスンに明け暮れる日々
3人の加入が良い刺激になったのは確かだった

まだ暑さの残る9月の半ば
春香のもとにその「チャンス」がやって来た

「オ、オーディションですか!?私に!?」

「お前にだよ、天海春香!伝統あるあの『ミス普通の子グランプリ』のな!」

私でもその名前を聞いたことがあるくらい、規模の大きなオーディションだった

「スゴいじゃんか、はるるん!」

「亜美も出たいよ兄ちゃーん!」

「お前らじゃダメなんだよ。このオーディションには限られた『普通の子』しか出場できないんだからな。さらに春香の場合は……」

「わ、私の場合は?」

「審査員からの推薦枠だから、一次予選は免除になる!」

「並大抵の普通じゃないってことかぁ。ボクにはとてもできないな」

……この場合の『普通』って何なのかしら?
いまだに分からないわ

二次予選が開催されるのは毎年10月の第三日曜日
その日まで春香には特別カリキュラムが組まれることになった
水着審査もあるからって理由で、甘いもの禁止令も出てたっけ

「何が特別カリキュラムよ!悔しいわねぇまったく!」

「はいはい。その気持ちを忘れないうちにレッスン行くわよ」

「あ、待ちなさいよ律子!」

自分たちの目の前でチャンスを得た春香を見て、たぶん全員が同じことを思ったはず

「きっと自分にも」

って
あのときから765プロは、本当の意味での『芸能プロダクション』になったのかもしれないわね

物事が進んで行くときって、あんな感じなのよね
春香は順調に二次予選を突破して、本選への出場枠30人に残った
あのときの応募総数は8760人だって聞いたから、本選に勝ち上がるだけでも凄いこと

「はい、765プロです。ええ。萩原雪歩は弊社に所属しております。はい。では、担当プロデューサーにお繋ぎ致します」

音無さんが受ける電話の本数も、誇張ではなく3倍くらいになった
小さなライブの前座がほとんどだったけれど、私も観客の前で歌う機会が増えていたわ

本選には全員で応援に行ったっけ
ライトアップされた華やかなステージの真春香が歩み出てきたときは、私も大声で名前を呼んだわ

765プロに入るまでの私だったら、何も言わずに黙って観てるだけだったと思う
この頃から少しずつ変わり始めていたのね、私も

「エ、エントリーナンバー15番!天海春香です!趣味はお菓子作りです!よろしくお願い…きゃっ!」

……自己紹介しながら転ぶ人、初めて見たわ

まぁ、観客席では大ウケだったけれど

「わ、ワザとじゃないもん!」

というのはグランプリ終了後の本人の弁
私は信じたわよ、念のため

訂正

ライトアップされた華やかなステージの真春香が歩み出てきたときは

ライトアップされた華やかなステージの真ん中に春香が歩み出てきたときは

結果から言うと、春香はグランプリを獲れなかった
このときのグランプリはのちに『平成始まって以来の普通の子』と呼ばれることになる島村卯月さんって人だったから、相手が悪かったってことね

その代わり春香はグランプリと準グランプリ以外から3名に贈られる『特別優秀普通賞』に選ばれた
記念トロフィーを受けとる春香を見ながら、観客席の私たちも泣いていたわ


そしてやっぱり、全員が同じことを思ったはず

「いつか自分も」

ってね

年が暮れていくにつれ、私たちの仕事も増えていった
通販雑誌のモデルのような小さな仕事ばかりだったけど、それでも進歩には変わりないわ

クリスマスには萩原さんの誕生日会も開いた
いまではクリスマスにみんなで集まるのは難しくなってしまったけれど

「みんな、ありがとうございます!とっても嬉しいですぅ!…だけど…その……」

「どうしたんだい、雪歩?」

「ケーキのデコレーションの文字……『萩原』じゃなくて『荻原』になってるんだよぅ……」

みんなから萩原さんにプレゼントを贈るときに『荻原さんへ』って書く習慣ができたのは、あのときケーキを作った春香のせいよ

年が明けて2回目の土曜日
765プロはさらに賑やかになった

「ミキは星井美希、14歳だよ!みんな、よろしくお願いしますなの!」

「高槻やよいですぅ!よろしくお願いします!」

美希は社長直々にスカウトしたって聞いたことがあるわ

高槻さん?
高槻さんのことはいいのよ
だって高槻さんなんだから
それだけで十分よ

「オーディション…ですか?」

「ああ。歌だけのな」

その一報がもたらされたのは、高校最初の春休みに入って間もない頃だった

「そこまで大きなオーディションじゃないけど、グランプリと準グランプリにはCDデビューの特典付きだ。インディーズじゃなくてメジャーからな」

「CD…デビュー……メジャーレーベルから……」

当時の私にとっては、それはまだ夢物語だった
自分の歌を収めたCDが全国の販売店に並ぶ
夢の中でしか見ることの出来ないえ光景だった

「出ます!出させて下さい!」

そう答えるのは当然だったわ
ソファーで寝ていた美希が目を覚ましかけたぐらいの大きな声で叫んでしまった

「よし。オーディションは3月15日。今日からはボーカルレッスンをメインに据えるからな。喉のケアは怠るなよ」

「はい!よろしくお願いします!」

いまにして思うと、恥ずかしいくらいに熱くなっていたわ
ドラマや漫画の中に出てくるような、無知で無鉄砲な、それから無垢なエネルギー
たぶんあれを、青春と呼ぶのだと思う
アイドルになるまでは自分とは無縁だと思っていた、青春時代と

ボーカルレッスンの指導は、それまでよりもずっと厳しくなった

「下手なのにCDを出してるアイドルはたくさんいるわ。だけど彼女たちには他の武器がある。あなたの武器は歌でしょう?自分の武器で負ける気?」

「機械みたいにただ歌うのは止めなさい。それじゃあアナタである意味が無いわ」

「上手いわ。でもそれだけ。もう一度最初から」

何と言われようと、腹は立たなかった
だって全部本当のことだったから
腹を立てている暇があるなら、腹筋でもしていた方がマシだもの

オーディション当日は、自分でも驚くぐらいの出来だった
声はどこまでも伸びていく気がしたし、ピッチも完璧に近かった
歌い終わった瞬間、グランプリを獲ったと確信した
だけど……

結果は準グランプリだった
CDデビューは確定したけれど、嬉しさよりも納得できない気持ちの方が強かった
グランプリを獲った今井田亜沙美さんは確かに上手かったけれど、客観的に見れば私よりだいぶ劣っていた

ニコニコと楽しそうに歌っていたから審査員の人たちに気に入られたのかな?
あんなふうに媚びるような歌い方はしたくないな

バカな私は、本気でそんなふうに思ってた

2年生に進級してから最初の週末
デビュー曲のレコーディングが行われた

タイトルは『Do‐Dai』
ポップな曲調と可愛らしい歌詞
正統派のアイドルソング
どう考えても、私には不向きな

「ちゃんと歌います。私はもうプロなんですから」

レコーディング当日を迎えても釈然としないままの私を気づかって、あの人はいろいろなフォローを試みてくれた
だけど私は同じ返事を繰り返しながら、やっぱり釈然としないままでいた

そして始まったレコーディング
最初の1時間の間にディレクターさんから同じことを20回くらい言われた

「もっと楽しそうに」

そう言われるたびに、私はどんどん仏頂面になっていった

レコーディングはちっとも進まず、スタッフさんたちも呆れ顔になり始めていたわ
そしてそんな空気の中で、ディレクターさんが私に言った

「君はアイドルなんだから」

って
言われた瞬間、自分の中で何かが切れてしまった

「アイドルになりたいわけではありません!私は本物の歌手になりたいんです!聞いた人すべてが言葉を無くすような!」

気付いたときには、そんなふうにまくしたてている私がいた

防音ガラスの向こうには、ため息を吐いているあの人の姿が見えた

ディレクターさんも同じような息を一つ吐いたあと、怒るよりもむしろ慰めるような口調で言った

「君は歌うのが好きじゃないのかい?楽しくないのかい?」

……楽しむ
歌うことを
お金や名誉のためではなく、投稿サイトでチヤホヤされるためでもない
ただ純粋に楽しむ
聴いてくれる人がいるから
聴かせてあげたい人がいるから

それは私が、『あの日』以来無くしてしまっていたものだった

「歌は私のすべてで…歌しかなくて……えっと…えっと……」

言葉に詰まりながら視線を泳がせていると、あの人と目が合った
微かに微笑んでくれたような気がした

「ディレクター」

ディレクターさんの側に歩み寄ったあの人が、迷いも澱みもない口調で言った

「CDデビューのお話は無かったことにさせて頂けませんか?これまでにかかった費用
はすべて弊社が負担致します」

驚いて何か言おうとした私を、あの人は右手で制した
ディレクターさんは私を見つめながら、ただ無言で頷いた

レコーディングスタジオからの帰り道
広い公園のベンチに二人で腰かけて、あの人が買ってくれた温かいカフェオレを飲んだ

「俺の責任だ。お前のことをちゃんとフォローできなかった」

夕暮れどきの空を見上げながらあの人がポツリと言った

「…すみません。本当に……」

大声で怒鳴られたらどんなにラクだっただろう
だけどあの人は、そんな場面で怒鳴り散らせるような冷たい人ではなかった
怒鳴り声なんて、そのときの私にとって何の役にも立たないと知っている人だった

「優君、だったよな、弟さん」

「……はい」

「一番好きな歌はなんだった?」

「『アイアイ』でした……」

「『アーイアイ アーイアイ おさーるさーんだよー』か。懐かしいな」

「二人で振り付けを考えたりもしました」

「楽しそうだな。俺は一人っ子だから羨ましいよ」

「……楽しかったです。とっても…とっても……」

東の空は少しずつ、紫色に染まり始めていた

「…765プロはどうなりますか?」

狭い業界だもの
私がオーディション特典のデビュー曲をキャンセル、しかもレコーディングスタジオで辞退したことはすぐに広まる
765プロは『あの事務所』としてレッテルを貼られることになる

「俺の辞表だけで済ませたいけどな。もちろん辞めたあとも今回の費用は会社に返していくつもりだよ。金額についてはまぁ…社長と要相談だな」

「そんな!なぜプロデューサーが!全部私が悪いのに!」

「俺が現場責任者だからだよ」

そう言うとあの人は、ゴミ箱目掛けて空き缶を投げた
ゴミ箱の縁に当たった空き缶は、コンっ、という音を立てたあと地面に転がている
あの人は右手で頭を掻きながら、ベンチから立ち上がった

ベンチから10メートルほど離れたゴミ箱に空き缶を捨てたあの人に向かって、言葉を飛ばした

「プロデューサー」

「ん?どうした?」

「少しの間、そこにいて頂けませんか?できれば、その…向こうを向いて」

あの人は少し首を傾げたあと、私の言う通りにしてくれた
その背中を見ながら、私はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した

微かに震えている指で携帯電話を操作している私
感情はいまにも溢れてしまいそうだった

「…もしもし」

上着の胸ポケットから取り出した携帯電話を耳に当てているあの人

『どうした、千早?』

とうとう溢れてしまった感情の滴のせいで、夕暮れどきの世界はぼやけてしまった

「…私…なんでもします……お金も私が返します……みなさんにちゃんと謝ります…から……」

途切れ途切れの言葉を携帯電話と、そしてあの人の背中に向かって投げかけながら、必死で次に言うべき言葉を探した

「みんなが…765プロのみんなが…いままで通りにできるなら……私…なんでも……まく…枕営業だって」

『バカ!』

携帯電話を通さなくても聞こえるくらいの声で、あの人は背中を向けたままそう言った
怒鳴らなければならない場面を、ちゃんと知っている人だから

「私…私……」

これ以上いくら探しても、言うべき言葉は見つかりそうになかった
だけどあの人は、ちゃんと教えてくれた
本当はすごく簡単なハズなのに、それまでの私には言えなかった言葉を

『あのな、千早』

それまでで一番優しい声
本当の優しさを知っている人の声

『こんな時にまで取り繕ったりしなくていいんだ。大人ぶったりしなくていいんだよ』

「プロ…デューサー……」

『誰かを頼れよ、バカ。誰だっていい。いまお前の目の前にいるやつだっていいんだ』

そのときの私は幼くて、世間知らずで、そのくせに生意気で
そしてそれを認められないほど子供だった
あの人はそれを、ちゃんと教えてくれた
だから言葉は、驚くくらい自然にこぼれ落ちた

「助けて…ください……私…歌いたい……」

あの人は背中を向けたままで言った
携帯電話を通さなくても聞こえるくらいの声で

『おう、任せとけ』

空にはまだ、オレンジ色の光が残っていた

すみません15分ほど休憩させて頂きます…
支援して下さってる方々、本当に感謝です

最初は765プロのみんなに対してだった
みんなの前で床に手と膝を着いた
そうしなければならないようなことを、私はしてしまったんだから

「これぐらいで許して頂けるなんて思っていません。何でも言って下さい。何でもしますから」

額まで床に着いた私に、誰かが歩み寄ってきた

「千早ちゃん」

私の手を取って身体を起こしながら、泣きそうな顔の春香が言った

「千早ちゃん、私たち、アイドルなんだよ?」

駆け寄ってきた高槻さんが私の身体を抱き締めた
まるでお姉ちゃんみたいに

「千早さん!アイドルって、とーっても楽しいんですよぉ!」

水瀬さんは私の頭をポンポンと叩きながら言った

「まったく不器用ねぇ。子供なんだから子供らしくしてなさいよ」

「おやおやー。普段素直じゃないいおりんには言われたくないですなー」

「な、何よ亜美!」

嬉しくても涙は出るんだということを、私
は知った

あの人と一緒に、何十人もの関係者のところへ行った
門前払いも一人や二人ではなかったけれど、何度も訪ねていった
あの人が現場責任者なら、私は当事者なんだから

「君、大物だねぇ。もちろん悪い意味でね」

あのオーディションの審査員さんの一人は、そう言いながら私たちを追い払うように手を降った
何と言われようとも、黙ってひたすら頭を下げた

765プロの仕事中はやっぱり減っていて、空いている時間はすべてレッスンに当てようということになった

発案者は美希
この頃から美希は、私を『千早さん』と呼ぶようになった

「だって千早さん、美希にはできないことやってるんだもん。歌だってじゅうぶん上手いのに、もっともっと上手くなろうとしてるんだもん。ミキにはマネできないの。ミキ、ちゃんとそんけーしてるんだよ?だから、千早さん」

人から尊敬されるのなんて初めてだったから戸惑ってしまったけれど、何と言うか……
くすぐったいような気持ちだった

それにねミキ
私だってアナタのこと尊敬してるのよ?
まぁ、直接は言ってあげないけどね

夏がきても私とあの人の謝罪行脚は続いていた
この頃になると許してくれる人も出始めていて、仕事も少しずつだけど戻ってきていた

費用の返済については何も教えてはくれなかった
社長もあの人も
ただ笑って

「お前らが売れてくれれば3日で返せるくらいの額だよ」

とだけ言われた
それが本当だったのかどうか、私はいまも知らされていない

秋が深まる頃には仕事量は7割くらいまで戻っていた
そんな中、765プロには新しい仲間が加わった

「アンタたちも物好きねぇ。この事務所の状況、分かってる?」

冗談めかした口調で律子が言った
新しい仲間…我那覇さんと四条さんは、
顔を見合わせて苦笑いしてたっけ

「前の事務所潰れちゃったしね。だけど自分、そんなことで諦めたくないもん」

「右に同じく、でございます」

あとで聞いた話しだと、二人が以前所属していた事務所は脱税か何かで倒産してしまったみたい
そしてそこの社長と旧知の間柄だった高木社長が、二人を引き取ったとも

少しずつ、本当に少しずつ元の状況に戻りつつある中、一人の男性が事務所を訪れた

「やあ、久しぶり」

「あのときの…ディレクターさん……?」

「はは。特徴のない顔だってよく言われるんだけど、覚えていてくれたみたいだね。今日は仕事の話し合い来たんだ。君の仕事の、ね」

そう言うとディレクターさんは何枚かの紙を綴じたものを差し出した
その表紙にはこう書かれていた

『765プロ 如月千早 CDデビュー案』

「そろそろ『みそぎ』も済んだころだと思いましてね」

会議室で音無さんが淹れたコーヒーを飲みながら、ディレクターさんは微笑みを浮かべた

「むしろ前よりも評判いいですよ、765プロさん。みんな明るいし、それに一生懸命仕事してくれるって」

「ですが私は……」

決まっていたCDデビューを棒に振って、みんな迷惑メールをかけた
その私が再びCDデビューだなんて……

「せめて765プロの他のアイドルに」

そうい言いかけて思い止まった
そんな成り行きでデビューしたいなんて思う人は、765プロにはいないから

「千早。また言わせる気か?」

隣りに座っていたあの人が耳打ちした
あの日の公園で言われた言葉
取り繕うな、大人ぶるな
口の中で何度か反芻したあと、自分の正直な気持ちを伝えた

「歌わせて下さい」

それを聞いたディレクターさんは無言で頷いてくれた
あのときと同じように
今度は、微笑みを浮かべながら

レコーディングの日程は決まった
レコード会社は大手というわけではないけれど、数多くの著名な歌手のデビューを手掛けた、老舗レーベル
曲は『蒼い鳥』

「物悲しい歌なんだけど、いまの君なら悲しい歌でもちゃんと歌いこなせるよ。歌うこと、楽しいんだろ?」

「はい」

「じゃあ、大丈夫だ。どんな曲だって歌えるさ」

自分でもそう思っていた
過信でも慢心でもなく、ごく自然に

CDデビューまでの道のりは決まった
だけど私には、どうしてもやっておかなければならないことがあった

あの子への……
優へのお別れを

レコーディングまでの日数は瞬く間に過ぎ、あっという間に前日を迎えた
雪が降りだしそうな曇り空の下、私は一人、その場所を訪れていた

坂を登って立ち止まると、目の前に一つお墓
私の弟が眠る場所
それを認めるのが怖くて、何年間もここには来なかった

方膝を着いてお花を供え、線香に火を点けた

「ずっと来れなくてゴメンね。お姉ちゃん、弱虫だったから」

お墓に右手を当てたままで、そこにいるハズの優に語りかけた

「今日はね。優にお願いを言いに来たの。それと…お別れを言いに」

弱虫な私を、優はどんな顔で見ていたんだろう
あれから何年間も、ずっと

「お姉ちゃんね、お歌をうたいたいの。優君のためにじゃなくて、他のみんなのために」

無意識のうちにあの頃の口調になっていた
私たちがどこにでもいる平凡な家族だった頃の口調に

「お姉ちゃんね…優君のこと大好きだよ。だけどね…だけど…お姉ちゃんね、優君にさよならを言わなきゃいけないの」

そうしないと前には進めないから
私も…それに、お父さんやお母さんも
いつまでも経っても優に心配をかけたままだから

「いまだけは優君のために歌うね。優君が一番好きだった歌だよ?」

言い終わった私は一瞬だけ目を閉じて、そしてまた開いた
優が一番好きだった歌『アイアイ』
お墓には不釣り合いなメロディーと歌詞が、空に吸い込まれていくような気がした

「どうかな?お姉ちゃん、上手くなったでしょ?今度CD出すんだよ?優君、CD分かる?」

それからいろいろなことを話した
優が亡くなったときのこと
そのあとの家族のこと
それから、私と素敵な仲間たちのこと
その人たちのおかげで、歌うことを好きでいられること
時間はゆっくりと過ぎて行った

「…ごめんね優君。お姉ちゃん、もう行かなきゃ。最後にもう一曲だけ歌うね。英語の歌なんだけど、聴いててね。きっと伝わると思うから」

また目を閉じて、今度は開かなかった
そのまま深呼吸して心の中を澄ませる

私の前には優がいて、あの頃と同じように優しい顔で私を見ている
名前と同じように、優しい優しい、私の弟が
そして私は歌い始める
あの子への、お別れの歌を

 天国であなたに会えたなら
 私の名前が分かるかな?
 天国であなたに会えたなら
 あたなたはあの頃のままかな?

 私は強くならなきゃいけない
 そして進んで行かなきゃ
 だって私は、天国にはいられないから

エリック・クラプトンの『Tears in heaven 』
事故で亡くなった息子さんに捧げた、美しい歌
誰かを優しい気持ちにできる歌

 分かってるよ
 扉の向こうには、安らぎが待ってるって
 そしてもう
 天国には、涙は流れないってことを

歌い終わって目を開けると、雪が降ってきたような気がした
だけどそんな漫画みたいなことは起きなくて、空はただ曇っているだけだった

「お姉ちゃんね、英語の歌も歌えるようになったんだよ?ちょっとだけ大人になったんだから。だから……」

涙は流れなかった
そのときのその場所には、涙なんて必要なかったから

「だからもう、心配しないでね。お姉ちゃん、頑張るからね」

立ち上がってもう一度お墓を見た
もう優はそこにいなかった
ただ静かに!眠っているだけ

「行ってきます。バイバイ、優」

お墓に背中を向けた私の頬に、冷たい雫が当たった
今度は本当に、雪が降っていた

レコーディング当日
13時から始まった歌録りは、2時間もかからずに終わってしまった

「もっと歌わせて下さい!」

とお願いしたら、ディレクターさんやスタッフさんに笑われちゃった……

「きっといい作品になる。え、何で分かるかって?」

ディレクターさんは照れたように笑いながらスタッフさんたちを見回すと、あの優しい微笑みを浮かべながらこう言った

「ここにいる全員、君の歌が大好きだからだよ」

あの人ゆっくりと頷いた
そのときの言葉はいまでも、私を支えてくれている

CDが発売された日は、私の17歳の誕生日だった
多くの人たちの尽力によって『蒼い鳥』は力強く舞い上がった
発売から1ヶ月後にはヒットチャートで12位に入り、ダウンロードランキングでは5位に食い込んだ

「これで返済できるよ……」

765プロ宛に振り込まれた金額を通帳で確認すると、あの人はそう呟いた
そういえば、事務所のソファーとテレビも新しくなったのだけれど、音無さんのパソコンは買い換えて貰えなかったみたい

「日ごろの行いです」

これは律子の言葉

15分休憩させて頂きます…

私がキッカケになったのがどうかは分からないけれど、他のみんなも次々と新しく仕事が舞い込んできた
高槻さんなんて、声優としてジブリ映画のヒロイン役に抜擢されたんだから

そうそう
律子はこの時期になるとアイドルを引退していて、プロデューサーに転身していたわ
もちろん経理も兼業でね

律子が結成した竜宮小町は生放送の歌番組への出演をキッカケに人気に火が点いて、結成から1年後には武道館ライブを成功させた
言うまでもなく、765プロで最初にね

舞台女優、映画女優、モデル、グラビアアイドル
他のみんなもアイドルという定点は押さえたみままで、様々なジャンルへと羽ばたいて行った

忙しくなるにつれ顔を合わせる機会は減っていったけれど、心配なんてしなかった
だって私たちは、みんなで『あの頃』を乗り越えてきたんだから

それぞれがそれぞれの道を歩みはじめ、会うたびに少しずつ大人へと変わっていった
恋をしたり、失恋したり、笑ったり泣いたりしながら、私たちは私たちだけの青春を駆け抜けた

その季節が終わり20歳を迎えるころ、私は留学先のイギリスへと旅立った
もちろん一人で
あの人と離れて

旅立ち前夜
私の壮行会を終えたあとで、あの人と二人屋上に上がった
引っ越してきたばかりのビルは前のよりもずっと高くて、渋谷から新宿へとつづく街灯りがよく見えた

30分ほど話したあと、携帯電話を取り出した私

「ここで待っていてください」

「…うん。分かった」

屋上の反対側まで走って行くと、あの日と同じように微かに震えている指で携帯電話のキーを押した

「もしもし、如月千早です」

『知ってるよ。手のかかるやつだったからな』

言うべき言葉
もう教えて貰わなくても分かっていた

「助けてください!」

『何だよいきなり』

「助けてください…私は…私はあなたが好きです!」

『……』

「留学は2年間です。待っていて…くれますか?」

答えは予想できていた
あの人は、うん、と小声で言ったあと、今度は携帯電話を通さなくても聞こえるくらいの大きな大きな声で言ってくれた

『おう、任せとけ!』

もう一度反対側へと走った
そして思い切り飛び込んだ
あの人の胸の中へ
私が帰ってくるべき、その場所へ

あの日も雨が降っていた
今日と同じように、細くて静かな雨が
その雨の中、私は一人待っている
右手には傘、唇には歌を持って

あの日からもう7年が過ぎた
あのころの私はまだ子供で、いまだってきっと同じ
そう、自分でもよく分かっている
自分で分かるくらいには、大人になれたから

腕時計は15時53分を指していた
約束の時間まで、あと7分
早く来すぎてしまったみたいだから、ちょっとだけ、思い出してみた
今日までの、私たちのことを

そしてここから、また始まる
私たちが紡ぐ、新しい歌が
心には、とりどりの音符
そして唇には、歌を持って




お し ま い

終わりです
長くなってすみません。途中で寝ちゃってすみません
支援の数々、本当に感謝です
それでは、読み返して参ります

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