透華「は、ハギヨシ! わわ、私を抱きなさい!!」ハギヨシ「……」 (83)

龍門渕透華が突然に発したその言葉に、表面上何らの反応も示さなかった萩原は、紛れも無く一流の執事であるといえる。
一呼吸、二呼吸。不自然でない程度の間を置いて内心の動揺から回復し、従者は主人の命に答えた。


「お嬢様、申し訳ございません。不肖ハギヨシ、お嬢様の仰せ付けを聞き逃してしまいました」


無論、執事が主の言葉を、例え半句であろうと聞き逃すなどありえない。
だからこれは主を諌める言葉であり、執事の精一杯の懇願だ。
今ならばなかったことにできると。限度を超えた戯れはここまでにして欲しいと。
龍門渕に、龍門渕透華に心からの忠節を誓う執事に敵う最大限の抵抗。


「で、ですから! わ、私をだ……じょ、女性にしなさいと、そう言っているのです!」

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そんな執事の抵抗を意に介さず、透華は再度命令する。
顔をこれ以上ないほどに真っ赤に染めた透華の、けれど有無を言わさぬ迫力を込めた言葉。
それは台詞こそ変わっているものの、先ほどと意味は変わらない。
強い決意を込められたそれに負けぬよう、一縷の望みを懸けて萩原は言葉を続ける。


「大変失礼致しました。しかしながらお嬢様、透華お嬢様は既にこの上なく魅力的な女性であられます。私ごときがするべきことなど何一つとして――」

「――……っ! そう、ですわよね。あなたは私のことなんて――」


果たして望みは叶った。萩原にとって望まぬ形で。
執事の誤算は主の推察が深読みにまで至ってしまったこと。
萩原の内面を知らない透華にとってそれは仕方のないことであり、いつもの萩原であれば容易に想像できたことだった。
拙いと感じたときにはもう遅く、萩原は続く透華の言葉を待つ。


「……ハギヨシ。今のは……そう、あなたを試すために言ったのです。ですから忘れてくださいまし。……どうか、おね、がい、で、すから……」

気丈に、何事もなかったかのように振る舞おうとしているが、それだけに聞いていられない。
後半の台詞には嗚咽が混じり、声も掠れている。それが何より萩原の胸を締め付けた。
こんなことを望んだわけではない。何故もっと上手く答えられなかったのかと後悔が萩原の中で渦巻く。
透華は後ろを向き、この場から逃げ出すようにゆっくりと歩き出す。
このまま行かせるわけにはいかない。萩原はそう考えて主の背中を呼び止めた。


「お嬢様」

「なん、ですの。……出来れば今はそっとして――」

「ガーデンテラスへ参りませんか」

「はい?」

「申し訳ございません。先ほどは私も動転しておりました。ですがお嬢様はお悩みの様子。
 お役に立てるなどとは思いませんが、落ち着いたところで語らい、解決のための一助になれればと思った次第でございます」

涙に濡れた目をぱちくりとさせ、主は執事を見つめる。
呆気にとられた顔が徐々に恨めしいものへと変わる。
珍しく前言を翻した執事に感謝をしつつ、それはそれとして問い詰めるのが主の務めと言わんばかりに口を開いた。


「私、先ほどどなたかに手ひどく振られた気がしますの」

「どなたか存じ上げませんが、その者はよほど見る目がないか、あるいはどうしようもなく愚かのどちらかでしょう。お嬢様が気にされる必要はございません」

「まだとぼけますのね……まあ、聞く耳を持っただけよしとしますわ」

「寛大な御心に感謝いたします」

「さ、ガーデンテラスに参りますわよ。エスコートなさい」

「はっ」

龍門渕透華はこの場所が気に入っていた。
広い邸宅と不相応に狭い場所。2人でいてちょうどという広さのガーデンテラスは、事実彼女の母親が愛する夫と2人で過ごすために作らせたものだ。
ここは龍門渕家にとって特別な空間である。この場所を管理する執事を除けば、ここの主に呼ばれない限り、使用人はもちろん当主でさえもここへ立ち寄ることはない。
母親が亡くなってからは透華がこの場所の主であり、なればこそ萩原は危険極まる会話をする場所としてここを選んだのだ。


「ここへ来ると心が安らぎますわね」

「ええ。奥様は素晴らしい場所をお作りになられました。……お嬢様、紅茶でございます」

「ありがとう、ハギヨシ」


透華はこの場所をよく利用している。
敬愛する父親と、大切な従姉妹と、かけがえのない友人と、時には1人で。
いずれにも共通するのは、透華がここにいるときはいつでも傍らにこの執事が控えているということ。
この場所で透華と最も長く過ごしているのは萩原だ。このような状況で2人きりであっても心を落ち着けることが出来るのは、つまりはそういう理由だった。

テラスからでは龍門渕の広大な庭を一望というわけにはいかないが、ここから見える景色は珠玉。
龍門渕の誇る庭師が他のどの場所よりも念入りに、持てる技術の粋を尽くして作り上げたその庭は四季折々に姿を変える。
それはいつも透華の目を楽しませていたが、とりわけ自身の、そして小さい頃に失った母親の髪と同じ色をした黄金色の花々が咲き誇る秋を好んでいた。
最高の景色を見ながら執事の紅茶を嗜む。透華にとって最高の贅沢の1つだ。


「お嬢様。そろそろお話いただいてよろしいでしょうか」

「……そうですわね」


そんな主の時間を、あろうことか執事が遮った。普段の萩原ならばおよそ考えられない行為だが、今の萩原に悠長にしている余裕はなかった。
龍門渕透華は聡明である。多少感情に流されるきらいはあるが、それでも自らの立場をわきまえた振る舞いをしている。
だから透華が先刻のような発言をすることは通常であればありえない。
それでも言ったということは、何か止むに止まれぬ事情があったということに他ならない。ましてその悩みは、おそらく萩原自身にも深く関係していることなのだ。
たとえ主の不興を買ったとしても、早急に解決しなければならない。萩原はそう考えていた。

「私に許婚がいるみたいなんですの」

「左様でございますか」

「随分と冷静な反応ですわね。もしかして知っていましたの?」

「とんでもございません。たった今初めて存じ上げました」

「……そう、ならいいんですの」


ホッとした顔をしてそう言うと、透華は緊張で乾ききった喉を潤すために紅茶を口に運ぶ。
ほんの二言三言だったが、透華にとっては自らの死刑宣告を待つ罪人のような心持ちでいた会話だったのだ。
執事が透華の許婚のことを知っていて、それでいて何も態度に表さないというのは自分に興味などないと言われているようなものだから。
萩原はその様子を、内心の動揺を抑えるかのように直立不動で見ていた。
冷静だ、などととんでもない。何でもないことのように反応できたことは我ながら表彰ものだとすら萩原は思う。


(……しかし、妙ですね)

龍門渕という家柄を考えれば許婚がいたとしてもそれほどおかしなことではない。
透華も妙齢に差しかかる年頃になっており、父親からそのような話をされるにはちょうどよい時期であるともいえる。
だが直接聞かされたのならば透華はここまで動揺するだろうか。少なくとも萩原の知る透華はそうではない。
受け入れがたいことであったならば父親が相手でも構わず反論をする。
龍門渕透華という少女はそのような人間だ。
そして、そのように話し合ったのならば、少なくとも抱いて欲しいと叫ぶような暴走には至らないだろうと萩原は考えた。


「お嬢様、その話は旦那様がおっしゃったということでよろしいでしょうか」

「ええ、そうですわ。まあ直接私に話したというわけではありませんが」

「それはどのようにお聞きになられたのですか?」

「昨日の夜のことですわ――」

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その夜、透華は合同合宿に参加する許可を受けるために父親の部屋を訪れようとしていた。
夏に行った4校合同合宿と同じ参加校であり、合宿所も同じ。
形式的に確認を取るだけで、特に問題もなく許可をもらえるだろうと思いながら廊下を歩いていた。


(ドアが開いていますわね。――あら、話し声。電話かしら)

『お前か。久しぶりだな。突然どうした』


父親が親しげに会話をしている。あまり見ることのない父親の様子に透華は部屋に入ることを躊躇った。
日頃どんなときでも龍門渕家当主としての顔しか見せない父親が、珍しく気を許せる相手のようだ。
急ぎの用件でもないのだから、邪魔をすることもないだろうと透華は扉に背を預けて電話が終わるのを待つことにした。


『……その話か。ああ、別に忘れていたわけじゃない』

『来週末? 随分と急だな。予定は……ちょうど空いているな。まさか私の予定を調べてから電話したのか?』


透華の父はそう軽い冗談を言ってくつくつと笑う。
娘の透華ですら父親が冗談を言う姿など数えるほどしか見たことがない。
よほど親しい相手なのだなと透華は思う。

『何、もう話したか? ……いや、まだ透華には話していない。いずれ話さなければならないのはわかっていたが、これほど急とはな……』

『ああ。私がとやかく言う立場にないのはわかっているが、許婚がいるなどとどう話せばよいものか』

(……え?)


その言葉に、透華は雷に打たれたような衝撃を受けた。
聞き間違いであることを祈りながら、働かない頭と逃げ出そうとする足を叱咤してその場に留まり話の続きを待つ。


『家に来た当日に許婚のことを知らせるというのはサプライズにしても質が悪いだろう。明日か明後日にでも伝える』

『……そうだな。透華にはつらい思いをさせることになる。なんと謝ればいいか。娘の悲しむ顔を見るのをなるべく後回しにしたかった親のわがままの結果だ』

『なにせ大事な――』


透華が耐えられたのはそこまでだった。
弾けるようにその場から逃げ出し、気づいたときには自分の部屋に戻っていた。
息切れは激しく、どこをどう通って戻ってきたのかも覚えていない。
それでも許婚がいるという言葉は耳にこびりつくように残っていて、そのままふらつく足取りで歩くと力なくベッドへと倒れこんで目を閉じる。
悪い夢なら早く覚めて欲しいと願いながら、透華は眠りに落ちていった。

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「お父様はこう話しておりましたわ」

「……」

「私も龍門渕の一人娘。お母様がそうであったように、いつかは外から男性を迎えることも覚悟してはおりました。
 ……それでも、ずっと前から許婚が決まっていたなんてあんまりですわ。こんなに速く、それも私の知らないうちになんて……」


潤んだ瞳から雫がこぼれていないのは、ひとえに透華の精神力の賜物だ。
透華の努力に気づかないふりをしながら、執事は追い打ちのように言葉をかける。


「お嬢様、それでは先ほど私にあのようなことをおっしゃったのは、旦那様から許婚がおられることをお聞きになっておられなかったという理由からでしょうか。
 許婚の方は実際にお会いになれば素晴らしい方かもしれませんし、万一そうでなければ旦那様も無理には――」

「ハギヨシ」

「はっ」

「お父様が認めた方という時点で一般的には素晴らしい男性ということは間違いないでしょう。……ですが、許婚がどのような方であろうと関係ありませんわ」

「それでしたらなぜあのようなことを?」

「……私は精一杯隠しておりましたが、あなたのことですもの。わかっているのでしょう?」

「……」

切ない笑みを浮かべて話す透華に萩原は押し黙る。
一度立ち直らせた心は簡単には折れない。今の透華の決意に先刻のような脆さはなく、ただ純粋に力強く萩原と向き合っている。
透華は一度目を伏せ深呼吸をした。そして決意したように顔を上げると萩原を見つめ口を開く。


「……ハギヨシ、私はあなたのことが――」

「お嬢様、それ以上はなりません」


透華の言葉を萩原が遮る。
それは明らかに分を超えた行為であったが、それ以上に透華の言葉を言わせてはならないと萩原は判断した。
透華が口にしようとした言葉は、透華が主であり萩原が執事である以上、けして口に出してはいけない言葉であると。


「それでも、それでも私は――」

「お嬢様、どうかお聞き入れください」

「なら、それならなぜさっき私を放っておいてくれなかったんですの!?」

「っ!」

透華の痛切な叫びに萩原は一瞬顔を歪める。
自分を抱いて欲しいと言った透華の言葉はどれほど言葉を弄しても、結局のところ萩原が透華を受け入れるか否か。それに収斂される。
あくまで執事に徹するのであれば、たとえ傷つけることになろうと気づかぬふりをし続ける以上の選択はなかった。
そのとおりだと萩原は思う。そしてなぜ執事に徹することが出来なかったのかと自問する。
もっとも、自問などするまでもないことは、他ならぬ萩原が誰よりもよく知っていた。ただ目を背けているだけだから。
返す言葉などあるはずもなく、萩原は無言で透華を見つめる。


「……私のことが好きではないと、嫌いだというのならそれでも構いませんわ。無理になどという気はありませんもの。
 けれど、それならばせめてあなたの口から聞かせなさい」

「それは出来ません」

「女性としては、という枕言葉をつけても構いませんから。……あなたの気持ちを教えて下さいまし。そうでなければ、諦めることなんて出来ませんわ!」

「どうか、ご承知ください」

主の願いを執事は頭を下げて拒絶する。
萩原が執事である以上、本音をそのまま伝えることなど出来はしない。しかし、虚偽を伝えることや誤魔化すことは彼自身が許せなかった。
萩原は一流の執事であるがこればかりは執事に徹することが出来なかったのだ。
必然、萩原の取り得る選択肢は返答をしないことだけだった。


「……わかりました。あなたが答える気がないというのなら仕方ありませんわ」

「感謝申し上げます」

「それにしても今日は色々と疲れましたわね。いつもより少し速く床に就こうかしら」

「はい、それがよろしいかと存じます」

「ええ、ええ、そうですわね。ですが今日は肉体的、というよりは精神的に疲れましたわ」

「……?」


どこかぼかしたような透華の言葉に萩原は困惑する。
漠然とした不安を感じながらも、萩原は黙って透華の次の言葉を待つ。

「こういうときはいい夢を見て安らかな気分になりたいですわ。ですからハギヨシ。手助けをして欲しいんですの」

「……何をご所望でしょうか」

「今夜、私の部屋に来なさい。……一夜の夢で構いませんの。どうか、どうかあなたの手で夢に溺らせてくださいまし」

「お嬢様、ですからそれは――」


主の懇願を拒絶しようとした執事の言葉が詰まる。
透華の瞳には今にも溢れ出しそうなほど涙が溜まり、頬は真っ赤に染まっている。
緊張からか手は小刻みに震えていて、呼吸も浅く速くなっている。
これまでに見たこともない透華の様子から読み取れるのは、不安と諦念、羞恥に恐怖。そしてわずかばかりの期待。
今の透華はこの世の誰よりも弱々しく脆い女性なのだと、事ここに至って萩原は理解した。

きっとここで拒絶してしまえば2人の関係はどうしようもなく終わってしまう。おそらくは、透華に決定的な心の傷を与えることで。
表面上は何事も無かったように振る舞えるだろう。それでも今の関係が続けられないことは明白だ。
……それでも、執事には超えてはならない一線が確かに存在する。それはときに主の希望よりも優先すべき定めだ。
だから、自身と、そして透華の想いを確かめるため、萩原は透華に問いかける。

「お嬢様。それはご命令でございますか」


萩原の問いかけに透華は首を振って答える。


「命令ではありませんわ。これは私が1人の女性として希うことです」

「……そう、ですか」


その言葉を聞いて、萩原の心は決まった。
主を待たせぬように間を置かず、けれどゆっくりと萩原は口を開いた。


「お嬢様、やはり今日は酷くお疲れのようでございますね。いつもの透華お嬢様であれば、今のようなことをおっしゃるとは思えません」

「っ! ……そう、ですわね。そうでなければ言いませんわ。……やはりあなたは――」

「ですから、今宵は幼少のみぎりのように、夜すがらお嬢様のお傍に控えさせていただければと存じます」

「――えっ?」

「……お許しいただけますでしょうか」


この世の終わりを見たようだった透華の顔が、少しづつ驚愕の色に染まる。
萩原は龍門渕透華の執事としてではなく、龍門渕透華を思慕する男として彼女と向き合うと決意していた。


「今、なんて……? いえ、それより、その、も、もし私のわがままのために無理しているのならそれは――」

「いいえ、お嬢様。これは私の本心です。透華お嬢様のためではなく、自分のために言った言葉です」

「ふぇ!?」


萩原は頭を振ってそう答える。
決意したのは龍門渕透華に泣き顔をさせてくないからではなく、透華の泣き顔を見たくないから。
執事の立場を捨てる理由を大切な人に負わせるなどそんなもの、執事の、男のやることではない。
それになにより、たとえここであくまで執事として振るまったとしても、愛する女性を1日に2度も泣かせるような男に仕え続ける資格などないと思った。

「はハギヨシっ。いいい今のはつまり、その、そそそそそういうことで、その、よ、よろしいんですの?」

「はっ。お嬢様のお傍で、お嬢様がよい夢を見られるようお力添えをさせていただければと存じます」

「そっ、そうですわね! 夢! 夢なのです! ですから緊張する必要なんてありませんわ!」

「はい。お嬢様がおっしゃったとおりにさせていただきますので、ご緊張などなさる理由はございません」

「~~~~~!!!」


顔を真っ赤に染めた透華が悶える。
勢いで言っていたことを改めて突きつけられると、顔から火が出るくらい恥ずかしいようだ。
それに油を注ぐ執事の言葉は、言うまでもなく透華の反応を分かって言っているものであるが。
数分経って少し落ち着いた透華は、ゆっくりと深呼吸を数回繰り返し、それから萩原に向き直ってこう告げた。


「よろしい、ハギヨシ。私の部屋に入ることを許しますわ」

「ありがたき幸せ」


真っ赤な頬はそのままだが、主の風格を取り戻した透華の言葉に、萩原は厳粛に頭を下げて応える。
かくして長野は龍門渕の一人娘と、それに仕える執事の間に密約が交わされた。

続きは2週間後くらいまでには書けたらいいなと思います。
それでは。

有給休暇の人か?

>>30
あの人の透ハギは素晴らしいですねー。
とてもあんな表現豊かな文章は書けません。

速報が落ちてたのもありだいぶ遅くなりましたが投下します。

コンコンと響くノックの音に、透華はビクリと体を震わせる。
今日はいつもより長く念入りに体を洗った。ネグリジェはちょっと挑戦して薄めの生地で、ショーツもブラもお気に入り。
準備は万端。それでも心の準備だけはどうにもならなかった。
全力疾走の直後のように早鐘を打っていた胸の鼓動が、ノックを聞いてさらに加速する。


「ど、どなたでしゅの!?」


透華の舌が緊張で回らない。顔は火が出そうなほど熱くて真っ赤。
なんでこんなときにちゃんと出来ないのかと、透華は自己嫌悪で涙が出そうになった。


「ハギヨシでございます。お嬢様、お部屋にお通しいただけませんでしょうか」

「かか、構いませんわ! ど、どうぞお入りなさい!!」

「はっ。失礼いたします」


主の動揺を意に介さずに萩原が透華の部屋に入る。
執事の一挙手一投足を透華は緊張した面持ちで見つめていた。
透華が己の執事に見惚れたことは一度や二度ではないが、それでもこれほど集中して見つめたことは初めてだ。
萩原は透華のいるベッドから少し離れたところで立ち止まり、透華に向けて頭を下げた。

「……その、ハギヨシ。あなたは今日――」

「夕方にお話しさせていただいたとおり、夜すがらお嬢様のお傍に控えさせていただく所存です」

「そ、そうですの」

「はっ」


萩原はそう答えると再び無言で佇立する。顔を少し伏せていて、透華の姿は見えていない。
透華はそのまま数分待ったが萩原は何も言わずにいる。
緊張で頭が真っ白になっていた透華も徐々に落ち着いてきた。それと同時に何も言わない萩原に不安を感じる。
もしかしたらこのままでいるつもりなのでは、という考えを払拭するため透華は萩原に声をかける。


「……ところでハギヨシ。言葉通り一緒にいるだけ、ということはないですわよね?」

「お望みであればそうさせていただきます」

「……あなた、意地が悪いですわよ」

「これはこれは、猛省いたします」


萩原は芝居がかったようにそう答えると、ゆっくりと顔を上げて透華を見た。
その顔は薄い笑みを浮かべていて、透華をからかいながらも見守るような顔をしている。
それを見た透華は、萩原は透華の緊張が取れるのを待つために、何も言わず黙っていたのだということに気づいた。

(だからといって、あんな不安にさせるようなことをしなくてもいいんじゃありませんの!)


執事から主への愛にあふれた心遣いに沢山の感謝と少しの不満を感じた透華は、口をとがらせながら執事を呼び寄せた。


「ハギヨシ、もっと近くへいらっしゃい」

「かしこまりました」


萩原がゆっくりと透華に近づく。
一歩二歩と萩原が歩を進める度、一度落ち着いたはずの透華の鼓動が速くなる。
せっかく萩原が気を使ってくれたのだから収まれと透華は願うが、胸の鼓動は全く言うことを聞かない。
結局萩原が透華のすぐ傍に来ても鼓動は収まらず、むしろ最大限に加速していた。


「……お嬢様、お隣に座らせていただいてよろしいでしょうか」

「ひゃ、ひゃい!」


もはやまともに口も回らない。
思考は空回りを続けていて、何か言おうと思っても口から出るのは言葉にならない何かだけ。
萩原は何言か呟いている透華を見つめて優しく微笑むと、腕を透華の背に回して静かに抱きしめた。

「きゃっ!? ははは、ハギヨシ!?」


萩原の突然の抱擁に透華は手をパタパタと振って抵抗する。
これ以上速くなりようがないと思っていた胸の鼓動も、更に加速して爆発寸前だ。
そんな腕の中から出ようと可愛らしくもがく主に向けて萩原はこう呟いた。


「お嬢様、落ち着くまでこうしていましょう。時間はいくらでもございますから大丈夫です」

「で、ですがっ」

「透華お嬢様。私はあなたの敵ではありませんよ?」

「……! わ、分かっておりますわ!」

「それは失礼致しました」


萩原の言葉で透華は落ち着く。
どれだけ時間がかかっても、萩原は透華が落ち着くまで待っていてくれるとわかったからだ。
信頼する執事の腕の中で透華は目を閉じる。
萩原が透華の頭を撫でる度、透華の心も落ち着いていく。
そして、心が落ち着くに連れ、透華の心を不安が襲った。
勢いであんなことを言ってしまって、萩原は承諾してくれたが、本当はどう思っているのだろうと。


「ねえ、ハギヨシ。その……これからすることが嫌でしたら、今からでも止めて構いませんわ」

「急にどうされました?」

「もし、ここまでしてくれたのが私への同情で断れずに、というのであればもうここまでで十分です」

「私は本心からこうしたいと思っていますよ」

「そんなの嘘ですわ。だって私はあなたに助けてもらってばかりで、あなたに何も与えられていませんもの」

小さな声で透華が不安を吐露する。
温和で秀麗で聡明。世の女性であれば誰もが心奪われるような、理想を具現化した男性。
萩原が透華を助けたことは数え切れない。その彼に対して自分は何も出来ていないと透華は思っていた。
そんな自分を萩原が好きになってくれるわけがない。
だから、萩原が嫌々やっているならやめて欲しいと思った。そこまで甘えるなんて、そんな情けない自分は許せない。
そう言って透華は不安げな、けれど決意を込めた目で萩原を見つめる。
そんな透華に萩原は


「……ふぅ」


何も言わず、ただため息で応えた。
そのため息に、透華は怯えたように体を震わせる。言ってしまったことに後悔をしながら、けれど萩原から目はそらさない。
透華の視線を受け止めながら、萩原はゆっくりと口を開く。


「私はお嬢様の金糸のようで艶やかな御髪が大好きです」

「えっ!?」

「海のように澄んだ深い藍色の瞳が大好きです」

「は、ハギヨシ!? とと、突然何をおっしゃいますのっ?」

「桜色の薄い唇が大好きです。
 柔らかく張りのある頬が大好きです。
 白魚のようで滑らかな指が大好きです。
 細く引き締まった脚が大好きです。
 衣様のためにご友人をお集めになられた慈母のような優しさが大好きです。
 原村さんに勝つために努力を惜しまない勤勉なところが大好きです。
 理想に向けて邁進する気高さが大好きです。
 ……私は、お嬢様の全てを愛しています。
 私がお嬢様から何も受け取っていないなどと、そんなことはございません。
 お嬢様にお仕えし、お嬢様にお喜びいただくこと。それが私にとって何よりの喜びです。
 お嬢様が笑顔でいてくださることこそ、何より大切な、私がお嬢様から受け取っているものです」

透華は顔を真っ赤に染めながら萩原の言葉を聞いていた。
不安に思っていたものが杞憂でしかないことを、萩原は言葉で教えてくれた。
愛する人がこれほど思っていてくれたことが嬉しくて、透華の目に涙が溜まる。
その涙を萩原はそっと指先で拭い、透華の耳元に口を寄せる。


「お嬢様、目を閉じてください」

「……! は、はい!」


萩原がやろうとしていることを察して、透華は慌てたように目を閉じる。それを見て萩原も目を閉じた。
ゆっくり、ゆっくりと2人の唇が近づく。互いの唇が触れる直前、息がかかったのに驚き、2人して一瞬硬直し薄く目を開ける。
2人で同じ瞬間に目を開けたことに、萩原も透華も少し微笑んだ。そしてもう一度目を閉じて、そのまま唇を優しく触れ合わせるキスをした。
2人にとって永遠にも感じられる十数秒が過ぎて、どちらともなく唇を離した。


「……夢のようですわ」

「はい、お嬢様。これは夢でございます。一夜限りのお嬢様の夢です」

「そう、でしたわね」


寂しそうな顔で透華は呟く。
萩原は表情を変えず、その胸の内はうかがい知れない。

「……ハギヨシ。つ、続きをお願いしますわ」


少しだけ重くなった空気を振り払うように、顔を再び真っ赤に染めた透華が言った。
萩原はその言葉に頷くと、失礼しますと一言告げてゆっくりと透華のネグリジェを脱がせた。
今や透華の白く透き通る肌を包むのは白い上下の下着だけだ。


「あ、あまり見ないでくださいまし」

「……失礼致しました」


つい見惚れてしまった萩原に透華が非難の声をあげる。
不覚と言わんばかりに頭を下げる萩原に、本当に嫌なわけではないと今さら言い出せない透華はまごつく。


「じ、じっと見られるのは恥ずかしいですけど、頭は下げなくともいいですわ」

「はい。お嬢様、それでは続きを――」

「まま、待ちなさい! 次はあなたが、ぬ、脱ぎなさい!」

「……そうですね。女性に先に肌を露わにさせるなど、無礼をお許しください」

そう言って服を脱ぎ始めようとする萩原を透華が止めた。


「……?」

「わ、私が致します!」

「しかしお嬢様。私は執事でありますからお嬢様にしていただくなど」

「私があなたに脱がされたのですから、あなたも私に脱がされなさい!」

滅茶苦茶な理屈だが、特に反対も出来ないので萩原は言われるがまま透華に服を脱がされる。
緊張して震えている透華の手ではなかなか作業が進まない。
萩原は下着姿で密着してくる透華をなるべく意識しないようにしながら、しかし動くことも出来ず耐えていた。
透華は慣れない男性の服を脱がせるのに苦労しつつも、たっぷり10分程度かけて萩原を下着だけにすることに成功した。


(鍛えているのは分かっていましたけれど、実際に見るとこんなに……)


透華はぼうとしながら熱を帯びた視線で萩原を見る。
萩原はそんな透華の肩を優しく押してベッドに横たわらせた。


「きゃっ」

「お嬢様。お嫌になりましたらいつでもおっしゃってください」


そう言うと萩原は透華の体に指を這わせる。
今まで透華が萩原に触れられていたときとは全く違う感触。
羽で優しく撫でられるような感覚。触れるか触れないか程度の優しい接触。
それなのに触れられたところからは甘い痺れが透華を襲う。
声を出さないように必死にこらえようとするが、その意志に関係なく声が漏れ出てしまう。
経験の差を否応なく感じてしまう。透華にはそれがなぜだか悔しくて。


「……今まで、何人の女性を泣かせてきましたの?」


気づけばそんな言葉が口からこぼれていた。
胸にチクリとした痛みを覚える。なんでこんな意地の悪いことを言ってしまったのかと透華の中で後悔が渦巻く。
それでも透華は、執事に愛された女性が他にもいるかと思うと言わずにはいられなかった。

「……お嬢様、お手を拝借いたします」

「ハ、ハギヨシ?」


萩原はそうして透華の手を自身の左胸に押し当てた。
想像以上にたくましい胸板に透華は少し緊張する。けれどそんな緊張など忘れるほど、その胸から響く鼓動の速さが透華を驚かせた。


「これは……」

「おわかりいただけましたでしょうか。私もお嬢様と同様に緊張しているのです」

「で、でもなぜですの? こういったことには慣れているのでは……」


全くわからないというような透華の困惑ぶりに、萩原は内心少し傷ついたが、それをおくびにも出さず言葉を続けた。


「私は幼少の頃より龍門渕家に仕えてまいりました。この身命は龍門渕に、透華お嬢様に捧げております」

「ハギヨシ? 何の話ですの?」

「……ですから、今までに女性と交際したことも、ましてこのような行為に及んだことも、ただの一度もございません」

「で、でもそれなら、触れられただけであんなに翻弄されるはずがありませんわ」

顔を真っ赤にして透華が反論する。
透華は萩原が透華以外とこういう経験がないということ、それ自体は嬉しいと純粋に感じている。
けれど萩原も経験がないのなら、透華は初めてなのに、理由もなく敏感に感じてしまうということになる。
それが萩原にはしたないと思われてしまいそうで恥ずかしくて、つい否定してしまった。


「私は長く透華お嬢様のお世話をさせていただいておりますから。
 女性の悦ばせ方は分からずとも、お嬢様の喜ばせ方には多少の心得がございます」

「~~っ!」


萩原の返答に、透華は自分が萩原から特別に思われているのだという喜びと、
自分以上に自分のことを知られてしまっているという恥ずかしさで声にならない声で悶える。
思考の回復していない透華に、萩原は追い打ちのように言葉を続ける。


「お嬢様。初めての経験ということで不安になられるのはよくわかります。 僭越ではございますが、私も不安を感じておりますので。
 ……いえ、ことによると私の不安のほうが大きいかもしれません」

「なっ! わ、私だって緊張でいっぱいいっぱいですわ! あなたのほうがなんてことはありません!」

「ですがお嬢様。今に至るまで、私はお嬢様のお気持ちを伺っておりません」

「え?」

萩原の意趣返しのような言葉に、透華は今日の自分の言動を思い返す。
確かに好きという言葉や愛しているという台詞は言っていない。けれどそれにしてもと透華は思う。


「そ、それくらい言わずともわかるでしょう!」

「言葉でおっしゃってくださらなければ不安はなくなりません。お嬢様もお分かりになるかと思いますが」

「うっ……」


それを言われると透華は何も言い返せない。
今まで不安を盾に色々と萩原にわがままを言ったのは透華なのだから。
透華は忙しなく目を泳がせ、口を開いたり閉じたりするのを何度も繰り返し、絞りだすように告白をする。


「は、ハギヨシ……。その、えっと……あ、愛していますわ! この世界の誰よりも、あなたのことが大好きです!」

「……お嬢様。少々声をお控えください」

「へっ? ……あ、ご、ごめんなさい」


透華の言葉を萩原はたしなめる。
少し声が大きかったとはいえ、この部屋は防音だ。なんでそう言われたのだろうと透華は疑問に思った。
一方、何故か萩原の手は頬や口元を隠すように覆っていて、その指の隙間は薄く朱に染まっている。
何のことはない。透華のあけすけな告白が萩原には面映かったのだ。
透華はそんな執事の珍しく親近感のある反応に全く気づかず言葉を続けた。

「ハ、ハギヨシ。こ、ここまで私に言わせたんですから、もう一つお願いを聞いてくれてもいいと思いますの」

「なんでございましょうか」

「私を名前でお呼びなさい」

「透華お嬢様――」

「そうじゃありません」


透華の言葉に萩原は心底わからないというような素振りを見せる。
こんな状況にあってもどこまでも忠実な執事なのだなと、透華は嬉しいと同時に少し寂しく思う。
この執事には主を呼び捨てで呼ぶ発想などそもそも存在しないのだろう。


「私のことを透華と呼んでくださいまし。できれば、敬語もおやめなさい」

「それは出来かねます」

「ここまでしているんですもの。今さら敬語をやめるくらい構わないでしょう」

「……それでもなりません」

透華の願いを萩原は拒絶する。ここが萩原にとって、執事として後戻りの出来ない一線なのだろう。
そして、だからこそ透華は引けない。今この時だけは、主や執事の立場を捨てて愛して欲しかったから。
透華は非難するような視線をを向けるが、萩原はなおも態度を曲げない。
業を煮やした透華は執事に一言、断りようのない台詞を言いつけた。


「ハギヨシ、ここは私の夢の中なのでしょう? あなたも夢なら私の思うとおりになさい」

「……かしこまりました」


お互いの言い訳に使っていた設定を透華は持ち出す。
わかっているのに思い通りにならない夢などないのだ。
これで萩原が断ったならば、透華の夢であるという建前を失ってしまう。
萩原は覚悟を決めて目をつぶる。
深呼吸を一つして、萩原は透華の願いを叶えるため口を開いた。


「……透華、愛してます」

「~~~~~っ!!」


お嬢様と付けずに呼ばれたのはいつ以来だろう。透華の目に涙がにじむ。
感動と羞恥と歓喜が溢れて言葉にならない。
透華は声の代わりに萩原を強く抱きしめて喜びを伝えた。


「敬語は私の癖になっておりますので、どうかご容赦ください」

「か、構いませんわ。名前で呼んでくれただけで十分です」

「ありがとうございます。……それと、透華に先に謝罪しなければならないことが」

「なんですの?」

萩原の胸に埋めていた顔を上げて透華が尋ねる。
透華が見た萩原の顔は今までに見たことがない、けれどとてもいい笑顔をしている。
なぜだか分からないが、透華はふと、笑顔は元々威嚇の表情だという言葉を思い出した。


「先ほどまで、透華が嫌がればすぐにでも止めるつもりでした。……ですが、透華とお呼びしたことで私の中でのブレーキが効かなくなってしまったようです」

「……つ、つまり?」


透華の顔に冷や汗が一筋流れる。
もちろん透華に萩原を拒絶するつもりなど全くないが、それとこれとはまた別だ。


「嫌とおっしゃられても止められませんのでご容赦を」

「……お、お手柔らかにお願いしますわ」

「……失礼いたします」

「ちゃ、ちゃんと返事をしなさ――ひゃぅ!?」


…………

………

……

「ん、んぅ……」


朝の日差しで透華が目覚める。
目をこすって周りを見渡すとそこには常と変わらない光景が広がっている。
掛け布団は初めからそうであったかのように綺麗にかけられていて、グチャグチャに乱れていたはずのシーツは完璧にベッドメイクが施されている。
汗や涙で濡れていたはずの枕も新品同然で、そういえば服もいつものものを着せられている。
もしやと思い布団をめくると、確かにあったはずの破瓜の血の跡も消えていた。
まるでいつもどおりにベッドに入っていつもどおりに目覚めたかのような朝。まさか昨日のことは本当に夢だったではないかと透華は不安にかられる。


(――あ)


けれど、そんな不安はすぐに掻き消えた。
体の中心に残る鈍い痛みが、萩原との繋がりの確かな証拠となって、昨夜の夢が単なる夢でないことを透華に知らせていた。
けして無視できるような痛みではなかったが、透華にはそれが愛おしかった。

「お嬢様、おはようございます」


2つノックを鳴らしたあと、萩原が透華に声をかける。
その台詞もその所作も普段と変わらない執事として完璧な振る舞いだ。
そしてそれは同時に、昨日のことはあくまで夢だったのだと萩原が宣言しているようでもあった。


「おはよう、ハギヨシ。……部屋に入ってもいいんですのよ?」

「お戯れを。そのようなこと、淑女がいい歳の男に言うものではありません」


一刀両断。透華の言葉をすげなく切り捨てる。
取り付く島も一切なく、そこには欠片ほどの私情も含まれていなかった。


「……ええ、もちろん冗談ですわ。すぐ食堂へ向かいます」

「はっ」

わがままは昨日だけ。
一夜の夢で良いと言ったのだ。どれほど寂しくとも、萩原に文句を言うのは筋違いだと透華は心得ていた。
それでも一つだけ、どうしても萩原に聞いておきたいことが透華にはあった。
ドアの前から去ろうとしている萩原に向けて、透華は質問をする。


「そうですわ。ハギヨシ、一つだけ質問がありますの」

「なんでございましょうか」

「昨日、私はとてもとても素敵な、この上なく素晴らしい夢を見ましたの。もしよければ、あなたが見た夢はどうだったか教えて下さいまし」

「……ええ、私もとても良い夢を見ることが出来ました。今までも、そしておそらくこれからも含めて、生涯最高の夢でございました」

「そう。ありがとう、ハギヨシ」

「いえ。先に食堂でお待ちしております」


今度こそ萩原はドアの前から離れた。
透華はしばらくドアを見つめていたかと思うと、突然頭から掛け布団を被って、再び布団に潜りこんだ。
もちろん二度寝をするつもりではない。


「フフ、ウフフフフ」


抑えようと思ってもどうしようもなく漏れ出てしまう笑い声を、出来るだけ外に聞こえないようにしているのだ。
その笑い声は、主がなかなか来ないことを不審に思ったメイドが呼びに来るまで、止まることなく聞こえていた。

朝食後屋敷を見まわることは透華の日課の一つだ。
使用人全員に欠かさずに挨拶をすることも、主の大切な役目だと透華は考えている。
そんな透華の行動を、いつもはどの使用人もありがたく感じているのだが、今日は様子が違った。
有り体にいって、使用人は皆透華にドン引きしていた。異常な事態ではあるが、原因は明白だ。


「フフフ、ウフ、ウフフフフ」


龍門渕の一人娘が、端正な顔をこれでもかと緩ませてニヤニヤとした笑みを浮かべている。
控えめにいってその顔は不気味だった。
朝から続いているその表情は朝食を終えてもまったく収まっていない。
むしろ朝食の席で萩原と顔を合わせたせいで悪化していた。


「と、透華? どうしたのさそんな緩みきった顔して」


誰も話しかけようとしない透華に、おそるおそる話しかけたのは国広一。
透華に仕えるメイドであり、同時に透華の親友の一人である。

「え? そんな顔してますの? 別になんでもありませんわ」


緩みきった顔でチラチラと一を見ながらそう答える。
これはおそらくもっと聞けということなのだろうと一は理解した。


「どうしたの? 萩原さんに頭でも撫でられたの」

「いえ、違いますわ」

「あれ? 自信あったんだけどな」


透華がこういう態度をとるときは間違いなく萩原が関わっている。
一は透華の表情からして褒められたとか手が触れたとかという程度ではないだろうと思い、撫でられたのかと尋ねたのだ。
これ以上となると、パッと思いつくようなことは大抵萩原が断るはずだ。
もちろん透華が本気で命令すれば萩原は従うだろうが、透華がそこまでするほどの覚悟を持つ理由は一には思いつかない。
一はお姫様抱っこくらいが有り得そうなラインだろうかと当たりをつけた。


「んー、じゃあお姫様抱っこでもしてもらったとか? ダメだよあんまり萩原さんに迷惑かけちゃ」

「それも違いますわ」

「え? それじゃ一体何を――」

「透華に国広くんじゃん。廊下で何話してんだ?」

お姫様抱っこでもないのなら一体何をと追求しようとした一に、龍門渕のメイドかつ透華の親友の一人、井上純が声をかける。
廊下の真ん中で話し込んでいる2人に興味を惹かれたようだ。


「あ、純くん。いや、透華が萩原さんに何をされたのか気になって」

「何もされてないって言ってますのにしつこいんですのよ」


一の説明を締りのない顔で補足する透華。一はまだそれをいうのかという目でそれを見る。


「ふーん、ハギヨシにねえ。そういや、ハギヨシがさっき旦那様の部屋に入ってったぜ」

「お父様の部屋に?」

「ああ、呼ばれて行ったなら姿が見えるはずねえから、珍しいなって思ったんだよ」

「ふーん、透華はなんだかわかる? ……透華?」


一が透華を見ると、透華の顔は原村和の牌譜を検討しているときのような、真剣なものに変わっていた。
先ほどまであれほど緩んでいた透華の雰囲気が真剣なものに変わっている。
急な透華の変貌を心配した一と純は何度か透華に声をかけるが、集中しているのか返事はない。


「……まさか!」


透華は突然そう叫ぶと全速力で駆け出した。行き先はもちろん龍門渕家当主の部屋だ。
屋敷で駆けるなど淑女には許されない行為ではあるが、今の透華にそんなことを考えている余裕はなかった。
残された一と純は顔を見合わせると、また透華の悪い癖が出たと乾いた笑いをして透華を見送った。

「執事を辞めたいと。……理由はなんだ? 何か不満があるのなら言いなさい。すぐに解消させよう」

「不満など全くございません。旦那様にもお嬢様にも使用人のどなたにも、この上なくよくしていただいております。これはただ身勝手な、個人的事情によるものです」

「……そうか」

龍門渕家当主は重々しく呟く。萩原の辞表は問題なく受理された。
それは萩原と龍門渕の繋がりが失われることを意味する。


「それでいつ出ていくつもりだ?」

「お許しいただけるのであれば、今日、今すぐにでも出立させていただきたいと考えております」

「ふむ、お前がそういうつもりなら構わんが随分と急だな。そんなに急がずともいいのだが」

「いえ、辞表をお渡しした以上私は部外者。長く居座るわけには参りません」


萩原の言葉に当主は軽く頷く。
引き止めはしたものの、この執事ならばこう答えると分かっていたようだった。
最後の挨拶にと萩原が一礼をしたちょうどそのとき、けたたましい音を上げてドアが開かれた。

「ハギヨシ! あなたどういうつもりですの!?」

「お嬢様……」

「昨日のことは夢だったとそう言ったではありませんの!」

「たとえ夢であったとしても、私が私を許すことが出来ません」

「そんなのわかりません!!」

「……2人とも、少し落ち着け」


戸惑いながらも当主が言い争う2人をたしなめる。
瞬間、放っておけば延々と続きそうだった口論がピタリと止まった。
透華と萩原が沈黙したのを確認して、当主がゆっくりと口を開いた。

「……私にはお前たちの話は見えないが、今まで献身的に尽くしてくれた萩原が辞めたいというのならば、それは尊重すべきだと私は思う」

「感謝いたします」

「お父様! それは私が――」

「それにまあ、切り出すにはちょうどいいかもしれんな」


当主の言葉に、透華は台詞の途中で絶句した。
いくら父親であっても萩原が辞めることをちょうどいいなどと言うのは許せなかった。
ハギヨシは私に必要なのだ。いつであっても彼が辞めるのがちょうどいいタイミングなどありはしない。
烈火のごとき怒りとともにそう叫ぼうとした透華を、続く当主の言葉が再び絶句させた。


「萩原。お前、私の息子になる気はないか」

「……は?」

萩原の長い執事生活で、当主にこのような失礼極まり無い反応をしたのは初めてだ。
それほどに当主の発言は萩原にとって衝撃的だった。
透華に至っては混乱しているのか一言も発さず、体も完全に固まっている。


「旦那様、今おっしゃられたことはいったい……?」

「回りくどかったか? 要は婿養子にならないかということだ。透華も16だし、私としてもお前なら安心だ。
 法的には問題ないだろうが、まだ早いというなら婚約でも――」

「お、お父様!? とと、突然何を言い出すのです!?」


婿養子という言葉を聞いて我に返った透華が顔を赤々と染めて父親に詰め寄る。


「なんだ、嫌なのか?」

「そ、そんなわけありま――そういう問題じゃありません! 私に許婚がいると言っていたのは一体何だったんですの!?」

「許婚? ……ああ、あのときの電話を聞いていたのか?」

「そうです! それを聞いたから私は……!」


透華は萩原をチラリと見る。
許婚がいるという話を聞いたからこそ、透華は萩原に積極的に、強引なまでに迫ることが出来たのだ。

「確かにお前に言っていなかったのは悪かったが、あれは天江の娘の話だ」

「…………え? こ、衣の?」

「ああ。天江の両親が亡くなる前に決めていたものだ。まったく、お前は昔から早とちりするところがあったが……」


そう言って当主は嘆息する。
透華の全身からは嫌な汗がダラダラと流れていて、萩原からは責めるような視線を向けられている。
透華にとって許婚が勘違いだったというのは本来喜ばしいことのはずだが、あれだけのことをしてしまった手前簡単に引くことは出来ない。
ともかく浮かんだ疑問を問いただそうと、透華は当主に向けて疑問を口にする。


「つ、つらい思いをさせるとか言っていたのはなんだったんですの!?」

「大事な従姉妹に許婚がいると聞けば、お前はつらい思いをするだろう」

「龍門渕の跡継ぎにするため私に婿を取らせようとしていたのではありませんの!?」

「私の跡継ぎは龍門渕透華、お前しかおらん。それとも継ぐつもりがなかったのか?」

「そんなわけありませんわ! 私はお父様の娘です!」

「ならばそういうことだ。……少し考え直したくはなったが、まあ器も十分だと思っている」

「うっ……」

当主の答えに対して透華からの反論はない。
つまるところ、許婚がいるというのは透華の勘違いだった。
ようやくそのことに気づいた透華は少し怯えるように萩原を見る。
その視線に応えるように、今まで沈黙を保っていた萩原が口を開いた。


「……しかし旦那様。お気持ちは大変ありがたく思うのですが、私は使用人です。お嬢様のお相手としては釣り合わないのではないでしょうか」

「お前も大概真面目だな。いつの時代の話をしているんだ。当人同士がその気なら私から反対することはない。
 まして相手が幼い頃からよく仕えてくれたお前ならなおさらだ。その気がないというなら別だが、まあそれはないだろう?」

「とおっしゃいますと?」


とぼけつつ、当主の口ぶりから昨日のことが知られていたのではないかと萩原は身構える。
透華も萩原同様、見られていたのではないかという考えに至った。
どういう対応をすべきか2人が結論を出す間もなく、当主は萩原の質問に答えを返した。

「つまりだな。お前たち2人を見ていると非常にもどかしい。お互いが意識しているのはわかったから、くっつくのなら速くくっつけ」

「……え?」


2人は声をピッタリと重ねて反応する。
当主は胸のつかえが下りたような、すっきりとした顔をして言葉を続ける。


「……その反応は本当にお互いバレていないと思っていたようだな。言っておくが、知らなかったのはお前たち2人だけだ。
 龍門渕の人間は使用人も含めて全員知っている。萩原はともかく、透華はあれで隠していたつもりだったのか?」

「な、ななな」

「大体本当に許すつもりがなければ年頃の娘に男の執事などつけるわけがない、というところまで頭が回らんのか」

「……」


当主の言葉に透華は言葉にならない声で返事をし、萩原は沈黙で答えた。
透華は隠し方が下手だっただけだが、萩原は言われてみればまったくそのとおり。
今は衣の執事とはいえ、それまでは高校生となった透華の執事も務めていたのだ。
色恋沙汰を警戒するのであれば、そもそも透華の執事などやらせないのが当然。
それをしていなかったということは、つまりはそういうことだった。


「……話は以上のようだな。萩原、辞表は返したほうがいいか?」

「……お願いいたします」

「うむ、ではここに置いておこう。私はこれから仕事に行ってくる。結果はその後で知らせなさい。
 ……ああ、萩原。透華はこのとおり粗忽な娘だ。これからも支えてやって欲しい」

「はっ」


その答えに満足したように当主は部屋を出た。

部屋に残される透華と萩原。
しばらくはお互いを見ながら目が合うとすぐにそらすということをしていたが、やがて萩原が口を開いた。


「お嬢様、私は旦那様がそうおっしゃったのかと聞いたはずなのですが」

「あなただって私の話を聞いたでしょう? そのくらい察しなさい」

「……ふ、ふふ」

「……ふふ」


どちらともなく笑い出す。
2人の間にあった気まずい空気はいつの間にかなくなっていた。
萩原はおもむろに透華の前にひざまずいて、誓いの言葉を口にした。


「お嬢様。一生お仕えすることをお許しください」


それは透華にとって、ずっと、ずっと言われたかった台詞だった。
一夜の夢ではなく、ずっと隣にいてくれること。
叶わぬ夢と諦めていた。
胸の底から喜びが溢れてくる。
昨夜の夢ではあれだけ苦労して、ようやく伝えられた愛の言葉が、今ならなんとなしに言えるような気さえした。
だから透華は萩原が差し出した手を取ってその目を見つめると、慈母のように柔らかに微笑んだ。

「幼い頃から、ずっとお慕い申し上げておりました。あなたのことが大好きです。私とずっと一緒にいてください。――さん」

カン

html化し忘れてたのでおまけ

一「ねえねえ透華。その後ハギヨシさんとはどうなのさ」

透華「ど、どうってなんですの? いつも見てるとおり、前と変わりませんわ」

純「おいおいとぼけんなよ。ふたりきりでいるときの話をしてんだ」

智紀「あれ以来よく2人で透華の部屋にいるのは知ってる」

透華「な、なぜそのことを!?」

衣「衣たちが気づかないとでも思ったか? 甘いぞ透華!」

透華「衣まで!」

一「速く楽になっちゃいなよ」

透華「……別にふたりきりだってほとんどいつもと変わりませんわ。ただ……」

一同「ただ?」

透華「ふたりきりのときはお嬢様を付けずに……と、透華と。そう呼んでくださいますわ」カアァァ

一「わー、付き合いたてって感じの距離感がいいね!」

衣「うむ、喋々喃々であるようで安心したぞ!」

純「……はぁ~」

一「む、なにさ純くん」

智紀「こんな程度で満足するなんてまだまだお子様」

衣「ほう? どういう意味だ。申してみよ」

純「どういう意味も何も。なあ智紀」

智紀「私たちが知りたいのはそんなことじゃない。夜の生活」

透華「よっ!? な、何を言ってますの! 衣もいますのよ!」

衣「む? 夜の生活とは何のことだ?」

一「はーい。衣はボクと向こう行ってようねー」グイッ

衣「なっ!? 衣を子供扱いするなー!」

一「ああいう汚れた人になっちゃいけないよ」スタスタ

純「これでお子様は消えたな」

智紀「さあ、洗いざらい話しなさい」

透華「言えるわけありませんわ!」

純「言えるわけないってことはやることはやってんだな」

透華「うっ……」

智紀「別にからかおうというつもりじゃない」

純「そうそう。ただお前らが上手くやってるか心配なんだよ」

透華「余計なお世話ですわ! ハギヨシは優しいですもの」

智紀「例えば?」

透華「例えばって……そうですわね。痛くされたことはないですし、むしろ気持ちいいところだけって何を言わせますの!?」

純「されてばっかりだな。何、命令とかしてんの?」

透華「べ、別にしてませんわ! ただその、ここを触って欲しいとかお願いはしますけれど……」

智紀「ちなみにそういうことハギヨシさんから言われたりとかは?」

透華「え? そういえばないですわね」

純「ふーん。透華の命令を聞いてばっかりで、自分からは何も言わねえのか」

透華「で、ですから命令じゃないって言ってるじゃありませんの!」

智紀「ハギヨシさんって実はMなんじゃ?」

透華「な、何言ってますの!? そんなはずありませんわ!」

純「いや、わかんねえぞ。執事って普段から命令聞いてばっかだけど、ハギヨシは本当に絶対服従だろ?」

智紀「それでいつしか命令を聞くのが快感に……」

透華「そんなはずは……でも確かに……」

智紀「もしかしたら今の透華のじゃ物足りないと思ってるかもしれない」

透華「そ、そうかもしれませんわね……でもこれ以上なんて」

純「透華はハギヨシのことが好きなんだろ? ならそういうところも認めてやらねえと」

透華「で、ですけど私そういうのはよくわかりませんわ」シュン

智紀「大丈夫。私が教えてあげる」

透華「本当ですの!」

智紀「任せて」

透華「さすが智紀ですわね! 感謝しますわ!」

純(ほんと透華をからかうのはおもしれえな)クックック

智紀(騙されやすい)フフッ

――その夜――

萩原「」コンコン

透華「は、入りなさい!」

萩原「お嬢様、失礼いたします」ガチャッ

透華「は、ハギヨシ」

萩原「透華? お御足を突き出して一体何を――」

透華「ご、ご褒美ですわ! わ、私の足をなな、舐めさせてあげてもよろしいですわよ!」

萩原「」ピシッ

透華「ど、どうしましたの。遠慮なんてしなくてもいいんですわよ!」クイッ

萩原「……」

透華「……そ、その。も、もし嫌でしたら無理には……」

萩原「……」グイッ

透華「ひゃ! あ、足を」

萩原「」チュッ

透華「ふぁっ」

萩原「私は透華が望むのであれば、今のようにお御足に口付けすることに些かの躊躇もございませんし、お舐めすることもいたします」

萩原「ですが突然このようなことを言い出されるとはどうされたのですか?」

透華「い、いえ。その、ハギヨシがこういうことが好きだと聞いて」

萩原「私は特別こういった嗜好を持ってはおりません。どなたに聞いたのですか?」

透華「純と智紀です」

萩原「あの2人ですか……後できつく言っておきましょう」

透華「その、ハギヨシ」

萩原「なんですか?」

透華「私、あの2人と話して、いつもハギヨシにお願いしてばかりで、ハギヨシの願いを聞いてなかったことに気づきましたの」

透華「ですから、私にしてほしいことがありましたら遠慮なく言ってくださいまし」ギュッ

萩原「透華。私はあなたといられれば望みなど特には……」

透華「ハギヨシ」ジッ

萩原「……わかりました」フゥ

透華「ええ。何でもおっしゃいなさい」

萩原「透華は何もなさらなくとも結構です。ただ、今日は1日耐えてください」

透華「え?」

萩原「ご安心ください。痛みを与えることはいたしませんので」

透華「そ、それじゃあ何を耐えればいいんですの……?」

萩原「覚悟をしてください」

透華「こ、答えになってませんわ! 大体こういう展開は考えてな――ふゃ!?」

…………

………

……

――次の日――

一「あれ、純くんにともきー。どうしたの疲れきった顔して」

純「ハギヨシにメイドの作法を叩き込みますとか言われて一日中やらされてたんだよ……」グデー

一「あー純くんガサツだからね」

純「だからってあんなやらせるか普通」

一「ともきーは?」

智紀「体力をつけるためと言われて屋敷中の掃除をハギヨシさんの監視つきで一人でさせられた……」グダー

一「ハギヨシさんが今日は掃除しなくていいって言った理由がわかったよ」

智紀「もうダメ。動けない……」

純「ちくしょう、あのドS執事め」

萩原「明日もやりますか?」

純・智紀「ひぃ!?」

萩原「……冗談です。ですが今後は透華に妙なことを吹き込まないように」

純・智紀「は、はい!」

一(今透華って言った。恋人としてってことなのかな)

萩原「信用しますよ。それでは」コッコッコッ

一「……それで2人とも透華に何言ったの?」

純・智紀「秘密だ!」

終わり
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