モバP「夏の上に夏を重ねて」 (64)


ぼくは、恋をしている。

それに気付いたのは、8月1日のことだった。
ぼくは、社長にプロデューサーとして雇われた。
この就職難の世の中で、ぼくを救ってくれたのだ。

最初は、女性への対応がわからなかった。
それを社長に伝えると、ぼくもだよ、と笑ってくれた。
社長の人の良さのおかげで、ぼくは上手くやっていけているのだ。

ぼくは、さくらの咲きはじめる4月に入社した。
今年で設立して2年目になります、と彼女は教えてくれた。
彼女は千川ちひろと名乗った。最初は、アイドルだろうと思っていた。

ちひろさんはぼくより1年先輩で、設立当時から勤めている。
仕事慣れしていることもあり、ぼくに親切に教えてくれていた。

最初はただ、美人だ、としか思わなかった。
けれど、いつしかぼくは彼女に惹かれていた。
それは8月1日…つまり、今日、気付いたのだ。

千川ちひろに、ぼくは、恋をしている。



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ちらり、と時計を確認する。

2013年8月1日。今日は木曜日だ。
得意な書類事務を片付けていたときだった。
レッスンを終えたアイドルが、戻ってきていた。

「プロデューサー、ただいま」

『うん、おかえり。お疲れさま』

最初のような、ぎこちない笑みはなかった。
本心から、疲れをいたわるような声が出ていた。

『じゃあ、わたしはそろそろ帰るから』

「わかった。忘れ物がないように」

『ありがとう、プロデューサー』

嬉しそうに微笑みかけられ、ぼくが癒されていた。
ぱたんという音と共に、静寂が訪れた。
そして、転機はやってきた。

『プロデューサーさん』


「はい?」

ぼくが後ろを振り返ると、ちひろさんが嬉しそうに立っていた。
その端正な顔立ちには、どんな表情もよく似合う。
今の、小悪魔のような微笑みさえも。

『お仕事、慣れてきたみたいで、よかったです』

『お疲れでしょうし、コーヒーです』

『あ、プロデューサーさんにはお砂糖が1つ…と』

ぼくのコーヒーの好みを覚えてくれていた。
数度しかいれてもらったことがない、というのに。
このチャンスを逃す手はない。笑顔を携え、ぼくは言った。

「仕事も終わりましたから、休憩にしましょうか」

『はいっ』

絵に描いたような事務用品のチェアから腰を上げ、ソファに下ろした。
ああ、やはりこちらの方がやわらかく、程よい弾力がある。
ちひろさんは、ぼくの対面に腰を下ろしていた。

ガラステーブルをはさんでも、その距離は1メートルもない。
意識してしまったようで、ぼくの頬は熱をもった。
ぼくはまっすぐ彼女をみられなかった。

ああ、意識するまでは、気にしていなかったというのに。


コーヒーに手を付け、カップで顔を半分隠した。

呼吸を整え、ちひろさんをみた。
淡い栗色をした、ゆるやかに弧を描く髪。
つんとすました鼻に、すらりとした輪郭があった。

目は驚くほど大きく、睫毛も非常に長い。
性格も申し分なく、まさに理想の女性と言える。

『あの…コーヒー、お口に合いませんでしたか』

とんでもない。香り高く、文句のつけようがない。
ぼくは、慌ててその誤解を訂正した。

『ああ、よかったです』

嬉しそうに、彼女はにっこりと笑ってくれた。
やはり、笑っている顔はとても美しい。
そうだ。チャンスは今だろう。

彼女を…ええと、そうだ。誘うのだ。
食事でも、酒の席でも、なんでもいい。
そう思っていたとき、彼女は口を開いた。

『では、私はもう仕事もないので、帰ります』

『プロデューサーさん、社長、お疲れさまでした』

奥から社長のお疲れさま、という労いの声が聞こえる。
そんな。このまま誘えないのか?それはダメだ。
考えているうちに出て行ってしまった。

ぼくもすぐに社長に挨拶し、ちひろさんを追いかけた。


「ちひろさん!」

『プロデューサーさん?』

『どうか、したんですか』

彼女の純粋な問いに、一瞬頭が真っ白になった。
恋愛というものは、どうにも難しいものだ。
…けれど、ここで勇気を振り絞らねば。

「ええと、その…よかったら、呑みに行きませんか」

「今まで、2人で行ったこともありませんでしたから」

「ああ、よければ、でいいんです…よければ」

ぼくの最大限の勇気がそれだった。
もっと上手く誘える人もいるだろうに。

『いいですよ』

ぼくは間髪入れぬその返答に驚いた。
誘っているのはぼくだが、驚いてしまった。
すぐに間を開けぬよう配慮し、言葉を続けていく。

「店…どこにしましょうか」

誘っておいて、考えていなかった。
ぼくはいい店、というものをほとんど知らない。
その延長線として、私服のセンスもあまりよくはなかった。

『あ…なら、今回は私のオススメのお店で』

申し訳ないが、ぼくは、彼女に甘えてしまった。
今度からは、店を調べておかなければ。

ぼくはちひろさんと肩を並べ、歩き出した。


連れて行ってもらった先は、少し値の張るバーだった。

ちひろさんは、こういうお店も知っているのか。
こういうところに、1人で来るのだろうか。
それとも、男性と来ているのだろうか。

ああ、邪推してはいけない。彼女のプライバシーだ。

ぼくは、銘柄もわからないので、口当たりのいいものを頼んだ。
ちひろさんは、慣れた様子でお酒を頼んでいた。
どう話を切り出すべきだろうか。

『今日は、誘ってくれて嬉しかったです』

彼女に先を越されてしまった。申し訳ない。
ぼくは、ちひろさんを飽きさせぬよう努力していた。

「こちらこそ、応じてくれて嬉しかったです」

恋愛指南書なるものを、以前友人から押し付けられていた。
今になって、それを熟読しておくべきだった、と後悔した。

『プロデューサーさんは、休日はどうしているんですか?』

彼女の気の利いた一言で、ぼくは饒舌に話すことができた。
それをきっかけに、ちひろさんのプライベートも知ることができた。

交際している男性はいないこと、ひとり暮らしであること。
休日はショッピングをしていたり、読書をしたり。
なんとも知的で女性的な趣味だった。

ひと通り話し終え、その場は割り勘で収まった。
男ならば、好意を寄せる女性には、見栄を張りたいのだが。
そして、さらにちひろさんは、嬉しい一言をつけくわえてくれたのだ。

『また、誘っていただけるのを、待ってます』


ほどよく頬の紅潮を感じていたぼくは、すぐに家に戻った。

別れ際のあの一言。期待をしてもいいのだろうか。
好意を抱いてくれなくても、きっと、悪印象ではないだろう。
それだけがわかれば、ぼくとしては最高の収穫であったと言うしかない。

酔いを覚ますために、冷水でシャワーを浴び、ベッドに入った。

エアコンを3時間稼働設定にして、ぼくは思案していた。

次はどうするべきだろうか。そうだ。
ええと、言う所の、デートの約束を取り付けなければ。
デートと言えば…なんだろう。遊園地?それは、子供すぎるだろうか。

ならば…映画?そうだ。映画がいい。
けれど、ぼくは、まともな私服を持っていない。
趣味に使うお金もなく、預金ならばある。なら、買おう。

でも、服のセンスがよくないぼくが、どうやって…ぼくの服を。
店員に押され購入してしまうのは目に見えている。
ああ、アイドルたちがいるではないか。

事情を話し、協力してもらえはしないだろうか。

考えを細部まで整理したぼくは、体温が戻るのを感じていた。
そのあたたかさと、吹き抜ける涼しい風にまどろみ、夢をみた。

そこにいた彼女は、ぼくと共に笑っていた。


翌日、ぼくは担当アイドルに事情を話した。

すると、快く承諾をしてくれて、アドバイスをくれた。
デートに行く服がないのだ、と伝えると、笑われてしまった。
なんだかプロデューサーらしい、と付け加え、フォローしてくれた。

事務所に置かれている男性用のファッション雑誌を手に取った。
最近の流行はこれ。こういうのもいいかもしれない。
言われてみれば、格好いいものばかりだ。

あとは、美容室で髪を整えて、整髪料をつけるといい。

そう教えられ、ぼくは土曜日に、美容室の予約を入れた。
礼を伝え、彼女は頑張って、とぼくを応援してくれた。
なんだか、その横顔は、少し寂しそうな顔だった。

帰りに勧められたセレクトショップに足を運び、衣類をまとめ買いした。

上質な服とは値が張るものなのだ、とぼくは思った。
けれど、彼女のような美しい女性の隣に並ぶためだと意識した。
美容室の帰りに、コンタクトレンズをつくることを自発的に決めていた。

そして、土曜日の朝が来た。


美容室というのは、どうしてこうきらびやかなのだろう。

もっと、床屋のように落ち着いていてもいいではないか。
背よりずっと高い鏡に映されるぼくは、少しわくわくしていた。
雑誌の切り抜きを渡すときは恥ずかしかったが、気にしていないようだ。

髪を切られている間、ぼくはずっと目を閉じていた。

終わりましたよ、と目を開くと、そこにぼくはいなかった。
ああ、適切な表現をすると、元のぼくはいなかった。
いまどきの清潔感を残した髪型だった。

ぼくは美容師に、正直に整髪料の使い方がわからない、と伝えた。

すると笑うこともなく、ていねいに使い方を教えてくれた。
ありがたい限りだ。また、ここに来たいと思った。
迷わずこの美容師を指名することだろう。

帰りに、コンタクトレンズを作りに行ったが、思いの外時間がかかった。

隣接している眼科で診断を受けねばならず、そこが混んでいたのだ。
ぼくの名前が呼ばれるまでは、携帯を顔を合わせていた。
ちひろさんにメールを送っていたのだ。

日曜日の17時、映画を見に行きませんか。
端的に日時と目的を伝えた味気ない文章だ。
けれど、ぼくにはそれしか思いつかなかったのだ。

そして、ぼくの名前が呼ばれた。


1dayのコンタクトレンズだったので、なかなかに値が張った。
さらにぼくは乱視だったので、助長する原因だった。
だが、これでメガネともおさらばだ。

髪を整え、上質な服を着たぼくは、見違えるようだった。

これはぼくのためであり、彼女のためでもあるのだ。
もし、デートを了承してくれれば、隣を歩く。
その際に、彼女に恥をかかせたくない。

そういえば、メールを送ったままだった。

携帯を開くと、ちひろさんからメールが来ていた。
楽しみにしています。待ち合わせは、駅前で。
見たい映画のリストを添えてくれていた。

彼女は本当に機転がきく。

ぼくは彼女に映画の好みを聞いていないし、場所も。
感謝を通り越して尊敬を覚えるほどだった。
さて、家に帰ることにしよう。

家に戻り、シャワーを浴びる前に、ぼくは躊躇った。

この髪型をよく覚えておかなければ。
プロデュース業で培った記憶力で定着させた。
ぼくは、明日の映画を楽しみに、眠りについていた。

ちひろさんは、驚いてくれるだろうか。


そして、ようやく待ちに待った日曜日がきた。

女性と私的な用事で肩を並べ歩くことなど、ぼくは殆ど経験がない。
ぼくは早朝に起床し、インターネットで情報を集めた。
ささいな仕草、やっていいこと悪いこと。

ぼくは、それらを全て頭に叩き込んだ。

洗面所で整髪料を使い髪を整え、コンタクトレンズをはめた。
美容師にやってもらったようにはならなかったが、形にはなっている。
ぼくとしてはもう少し上手くやりたかったが、これでも及第点と言えるだろう。

新品の衣類に身を通し、商品のタグがないか確認していく。

せっかくのデートなのだ。完璧にエスコートをしたい。
ああ、よく見れば、もう時間ではないか。
そろそろ向かうとしようか。

実際には30分ほど早く着いてしまったが、これでいい。

女性を待たせるようなことがあってはならない。
待ち合わせの駅前に行くと、そこには既にちひろさんがいた。
ぼくは遠くから、その姿を歩きながら眺めた。ああ、私服のセンスもいい。

落ち着いたデザインの衣類でまとめ、けれど女性的な服だった。
事務所に置いてあるファッション雑誌で言えば、モアだろうか。

彼女は、ぼくがかなり近づくまで、ぼくに気付かなかったようだった。


「ちひろさん、お待たせしてすみません」

『…プロデューサーさん?メガネはしていないんですか』

「ええ、コンタクトにしました」

ここで服を買い直した、とは言わなかった。
映画の後、お酒の席へ誘えたなら、話の種にしよう。

「あ、映画を調べてみたんですが、これが評判がいいらしくて」

ぼくは調べたことを彼女に伝えた。
なら、それにしましょう。楽しみです。
そう言ってくれたので、映画館へ向かった。

ぼくは、さりげなくチケットを2枚購入し、当然のように渡した。

ちひろさんは一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに笑ってくれた。
ここは譲るべきだと判断してくれていたのだろう。
本当に聡明な女性だと思った。

パンフレットや飲食物を整え、ぼくはちひろさんの隣に座った。

腕置き1つを挟んでいるが、その距離はぼくには近すぎた。
腕を乗せると、彼女の腕にあたってしまいそうだった。
思春期の中学生のような思考だが、仕方がない。

そして、映画がはじまった。


『本当におもしろかったです。あのシーンには、涙が出そうでした』

謝るのは、ぼくの方だろう。
映画の内容など覚えていないのだから。
隣にいる彼女にあまりに気をとられすぎていた。

けれど、最大の盛り上がりシーンは記憶に留めている。
ぼくはそれを、客観的に端的に、前向きに感想を述べた。

『はい。見に行くことができて、よかった。ありがとうございます』

彼女はそう言って、また笑ってくれた。
この笑顔は、何物にも代えがたいと思った。

時刻を確認すると、既に19時を過ぎ、20時近くになっていた。
ええと、ここから、彼女を酒の席に誘うのだ。
以前と同じように、普通に。

『あ、そうだ。よければ、この後どうですか』

ああ、またちひろさんに気を使わせてしまっただろうか。
それを確かめる間もなく、ぼくは活発にその提案を肯定した。

「はい。少しだけ何か食べていきましょうか」


今度は、ぼくの提案した店に行くことになった。

言うなれば、隠れ家的雰囲気、というのだろうか。
入るのははじめてだったが、その内装には目を奪われた。
ほのかな明かりが見事に室内のシックさと合致しているのだ。

なかなか気の利いたおしゃれなメニューもあった。

ぼくは悩むこと無く頼んだビールで、ちひろさんと乾杯した。
彼女もお酒に慣れているようで、ペースは早い。
普段から、ある程度飲んでいるのか。

「今日は、付き合っていただいて、ありがとうございました」

『いえいえ。こちらこそ。あ、ここは私が持ちますから』

先を越されてしまった。けれど、ここは譲るところだ。
ときには素直さも大事だろう。ぼくは思った。

「ありがとうございます」

すみません、よりもこちらの方が前向きだろう。
言葉を選んで、ぼくは彼女に礼を述べた。
酒のお陰で、ぼくは饒舌になった。

彼女もそうであるようで、ぼくたちは楽しく語らい合った。


ひと通り今日のデートへの意気込みを伝えていた。

そうだったんですか。と彼女は目をまるくした。
そして、ちひろさんに酒のせいではない頬の紅潮が見て取れた。
少し嬉しそうに、呑みなおした酒の氷を、少しだけ揺らしながら、だった。

ぼくは少しだけ声を落とし、真剣なトーンで尋ねた。

「…また、お誘いしてもいいですか」

『ふふっ。もちろん、ですよ』

『…楽しみに、してますから』

なんと肯定的な返答なのだろう。
ぼくは飛び上がりそうになってしまった。
その喜びは、ひざの上の握りこぶしに収束させた。

ぼくたちは、互いに背を向け、夜の明かりの中に消えていった。

できることなら、家へ送り届けるくらいはしたかった。
無論、邪な考えなど抱いてはいない。
彼女は美人だ。

それが意味するところを辿れば、誰しもがそう思うだろう。

ぼくは家に戻っても、この酔いをさましたくはなかった。
夢をみていたかったのだ。彼女との夢を。
さめなければいい。

この、真夏の夜の夢が。


それから3日経った水曜日のことだ。

あのデートの後から、ぼくはちひろさんと話していない。
互いに忙しく、時間がとれなかったのだ。
今度の仕事の件もある。

ぼくは夕方前に仕事を終え、ソファでコーヒーを飲んでいた。

そのついでに、ぼくは仕事の企画を進めていた。
アイドルの合同ライブのことだ。
難しい内容だった。

いかに盛り上げるか、というのもプロデューサーのテクニックだ。
アイドルの本質を見抜き、それを生かさなければ。
彼女らの未来はぼくが預っている。

ひと通り思案をまとめた上で、社長に確認をもらった。
うん。これなら、きっと上手くいく。
続けて、笑ってくれた。

仕事も終え、後は帰るだけになったときのことだった。
奥から事務作業を終えた彼女が出てきた。

『社長。では、いまから事務用品の買い出しに行ってきます』

このチャンスも、逃す手はない。
ちひろさんに同行することを伝え、了承をもらった。
近くの懇意にしている文房具店までだが、それでも十分に嬉しかった。

さて、何を話そうか。


以前より、ちひろさんの態度はさらに軟化していた。

交流を深めた結果もあったのだろう。
けれど、どこかその両肩は落ち着いていない。
どうかしたのだろうか。ぼくは、隣を歩く彼女に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

抽象的な問いだが、それで十分だろう。
私的な悩みでなければ、話してくれるだろう。

『え?ああ、はい。大丈夫です』

私的な悩み、もしくは何もないのだろう。
…話を途切れさせまいと、ぼくは続けた。

「また、いい店を見つけたんです。よければ、どうですか」

『嬉しいです。では…仕事もあるので、今度の土曜日…10日に』

「よかった。では、楽しみにしています」

『…こちらこそっ』

ああ、なんと素晴らしいひとときなのだろうか。
この時間が永遠に続けばいいのだが、そうはいかない。
ぼくは、女性が運ぶ量には多いものを抱え、事務所に戻った。

土曜日が楽しみだ。


そこから土曜日までもちひろさんと話さなかったが、満足していた。

ぼくは、前述の仕事の企画のため、朝の11時には営業に向かった。
担当アイドルの名を伝え、企画の再確認などを行った。
向こうも快く了承してくれ、後は本番だ。

仲のいいディレクターに呑みに誘われたが、成功したときにと伝えた。

なんだか残念そうだったが、楽しみはとっておくべきだ。
それはもちろん、今のぼくのようにだが。
ぼくはさらに数社を回った。

広告の宣伝、掲載許可を貰わなければならない。忙しいが、楽しい。

アイドルの輝く手伝いをできるのだ。これほど楽しいことは他にない。
ぼくは嬉々とした表情でアイドルの素晴らしさをアピールしていった。

全ての営業を終えて、時計をみると16時42分だった。
ここから歩いて帰れば、17時過ぎには着くだろう。
ぼくは事務所に向かって歩き出していた。

夜が楽しみだ。


『それでは、すみません。失礼します、社長』

ちひろさんはそう挨拶をし、ぼくと共に事務所を出た。
これからのことで頭がいっぱいだ。
何を話せばいいか。

「とりあえず、少し歩きましょうか。お腹はすいていますか」

『ええと、まだ、少しです』

「なら…繁華街近くにでも出ましょうか」

『はいっ』

彼女はぼくの顔をちらちらと見て、すぐに視線を逸らしている。
メガネをかけていないぼくの姿は不自然だろうか。
あとあと、聞いてみることにしよう。

アイドルたちには、お世辞かもしれないが、うけがいいのだ。
プロデューサー、かなり格好良くなった。すごい。
そう褒められていたのだが。

髪もおかしいのだろうか。今日は営業で、少し汗をかいている。
崩れないように、スプレーもしているのだが。
だが、表情には出さなかった。

彼女はある一点で目を留めた。


小さなネックレスだった。

1万円くらいのネックレスで、ハート型をしていた。
彼女は愛でるようにそれを見て、ぼくに気がついた。

『あ…す、すみません。行きましょうか』

ぼくはそれを確認し、ちょっと待っててください、と告げた。
そのまま店に入り、ショーウィンドウのそれを注文した。
包装なさいますか。尋ねられたが、断っておいた。

店を出て、ぼくはそれを手渡した。

『い、いえ。そんな。ごめんなさい、そういうつもりでは…』

「ぼくが持っていても、仕方がないので。もらってください」

これではどうみても好意を伝えているようなものだが、気にしていない。
ぼくは彼女に好意を抱いているのだ。ならば、当然だ。
彼女も戸惑いながらも、それを受け取った。

『ありがとうございます。大切に…大切にしますから』

彼女はすぐにそれをつけて、ぼくに見せてくれた。
ちひろさんの細く白い、美しい首筋に、それはよく映えていた。
こう喜んでくれると、ぼくもプレゼントしたかいがあったというものだ。

『じゃあ、行きましょうか。プロデューサーさん』


『今日は私が出します。これだけは、譲りませんから』

彼女はちょっと困ったような表情で、ぼくにそう告げた。
ネックレスのことなら、気にしなくてもいいのに。
そう思ってはいたが、ぼくはそれに甘えた。

『そうですよ。私の方が、先輩なんですから』

小さく細い、可愛らしい仕草で威張っていた。
本当に一挙一動までが可愛らしい。
美しくもあるのだが。

『で、でも…その、ありがとうございます』

『本当に…本当に、大切にしますから』

『出勤日に、つけていこうかな』

『ううん。次の出勤日だけ、着けていきます』

『あとは…その。プロデューサーさんの前でだけ』

頬を紅潮させ、上目遣いでぼくを見るその姿。
ぼくは愛おしくてたまらなかった。
嬉しすぎるではないか。

それでは、次も期待してくれているような一言ではないか。


次の月曜日、それは大騒ぎになった。

ちひろさんがネックレスをしている。
これ、どこで買ったの。みなも一斉に食いついた。
彼女はちらりと目をやり、自分で買ったと述べてくれていた。

ああ。その方が、ぼくとしても助かる。

彼女は質問攻めにあっていた。
それをみて、ぼくは少しだけ、誇らしげになった。
その中のひとりが、ぼくの方をみて、にっこりと微笑んでくれた。

アドバイスをくれた彼女だった。

ぼくは軽く頷き、彼女だけには真実を伝えた。
ありがとう、と伝えるように、ぼくは笑いかけた。
彼女も、おめでとう、と言うかのように笑ってくれた。

彼女は口の動作だけで、頑張って。そう言ってくれた。

次は、ぼくは大きく頷きを返し、彼女はその談笑に身を任せた。
その姿をみて、仕事を頑張ろうと思った。
失敗などさせるものか。

その想いは見事に実を結び、大きく華を咲かせた。


それから4日後の木曜日、ぼくたちは集まっていた。

アイドル合同ライブの成果が、あまりにも大きかったのだ。
以前話したディレクターや、スタッフのみなを集め、酒の席についた。
その中には、社長もちひろさんも同じ席についていた。嬉しかったが、心配だ。

アイドルたちは、アイドル同士で交流をはかり、同じ店の違う席にいる。
年長組のみなは、また別の席で違う話題で盛り上がっていた。
ぼくたちはぼくたちで、番組の成功を祝い、乾杯。

成功の喜びからか、慣れない大規模な呑み会でも、箸は進んだ。

肴が美味だったというのも一因だが、ぼくも喜びを噛み締めていた。
社長は番組の上司と顔を合わせながら談笑している。
彼女は忙しなく、みなに酒をついでいた。

申し訳なくなり、ぼくも隣のスタッフの方に酒を注いだ。
そして、みなのテンションも最高潮になってきたころだった。

前述のディレクターが悪酔いをしていた。
そして、店に響き渡る大きな声で言った。

「千川さんって、すごく美人じゃないですか。彼氏とか、いないんですか」

彼…つまり、ディレクターだが、彼はとても端正な顔立ちだ。
局にいなければ、今頃モデルになっているだろう。
そんな彼が、彼女に声をかけるのか。

けれど、ぼくは彼女の何者でもなく、ただ口を閉じるしかなかった。


『はい。お付き合いしている方はいません』

「なら、俺!…俺とか、どうですか」

最初はテンションのみで聞いていたのだろうが、二言目のトーンは本物だ。
プロデューサー業をしていれば声の抑揚1つでわかってしまう。
ああ、彼はなんてことを聞いているのだろうか。

『ええと…そう言っていただけるのは、嬉しいです』

ちひろさんは困ったような、けれど嬉しそうな顔で微笑んだ。
ああ、どうして彼にそのような顔を見せるのか。
ぼくは、大人気もなく嫉妬していた。

「じゃあ!あとで、連絡先を交換してもらえませんか」

全員の視線がそこに集まっていた。
彼女はどう答えるのだろうか、という視線が。
ぼくは、内心で神に祈るしかこの想いを抑える方法がない。

『はい。もちろん、いいですよ』

ぼくの祈りは、どうやらそう簡単には通じなかったらしい。
彼女は笑顔で彼と名刺の交換を行っていた。
そしてまた、喧騒は舞い戻った。

…その中に、ぼくの声はなかった。


8月20日。

あの日から、ぼくはちひろさんに声をかけるのを躊躇った。
大人げない嫉妬が、ぼくのそれを妨げていた。
そして、ぼくはまだ忙しかったから。

夏は、健康的なアイドルの魅力が出るからだ。
仕事に追われ、社長は遅くまで営業に回っていた。
残りは家で片付けよう。腰を上げたときのことだった。

『プロデューサーさん!ちょっと、いいですか』

思わぬちひろさんからの声だ。
何だろう。ミスをしてしまったのだろうか。

『あの…ええと、その』

言いにくそうに手をこすり合わせている。
ぼくは余程重大なことに気がついていないらしい。

『えっと、ぷ、プロデューサーさんさえ、よければ…なんですけど』

『その…今日、お食事…でも、どうでしょうか』

…なんだって?お食事。彼女が、ぼくを。
一瞬彼のことが頭をよぎったが、嬉しいことだ。
ぼくはすぐに笑顔になり、二つ返事でそれを了承した。

『…ああ、よかった』


『仕事も終わりましたし、行きましょうか』

彼女がそういったとき、奥から声が響いた。
社長も仕事を終えていたようだった。
社長も本当に忙しそうだった。

「ちひろくん。仕事、終わったかな。少し話があるんだが」

「ああ、なに。すぐ済むんだけれど」

ぼくは下で待ってます、と彼女に告げ、下に降りた。
エアコンの風ばかりでは、参ってしまう。
天然ものの空気を吸わなければ。

そして1分ほどでちひろさんは降りてきて、お待たせしました。
待つというほどでもないのだが、彼女はそう言った。

「今日は、ちひろさんが連れて行ってくれるんですか」

『はい!プロデューサーさんと、行きたいお店が見つかって』

プロデューサーさんと、という部分が嬉しい限りだ。
ぼくは歩幅が大きくなりかけたが、思い直した。
彼女の歩幅に合わせなければ。落ち着いて。

ありがとうございます、と彼女は小声で呟いた。


『今日、プロデューサーさんを誘うの、すごく勇気がいりました』

『あの先日のお酒の席以降、お話することもなかったので』

『ああ、けれど、ここに一緒に来たかったことは本当です』

そんな思いをさせてしまっていたのか。
知らぬ間に、彼女に嫌な思いをさせてしまった。
ぼくは自分の大人気のなさに、大きな恥を覚えていた。

「…すみません。その…ぼくは、なんというか、彼のことが」

『ええと…あのディレクターさん、のことですか』

「はい。それで…」

『…もしかして、その…嫉妬とか、してくれてたんですか』

「………そう、です」

ぼくは、嘘偽りなく述べた。
嫌な思いをさせたのだから、当然だ。
きちんと述べなければ、あまりにも不誠実だ。

『…ふふっ』

『ありがとうございます…嬉しい、です』

『私も…その。少しだけ、嫉妬…していました』


『ほら。隣のスタッフさんと、楽しそうにお話していたでしょう』

確かにそんなこともあった。
ぼくは、気にも留めていなかった。
あれだけで、彼女はぼくに嫉妬していたのか。

その言葉の意味がわからないほど、ぼくは愚鈍ではなかった。

思い違いであれば、笑い話で済む。
けれど…そうでなければ、お互いが一歩を踏み出せる。
そのためならば、ぼくは可能性に賭けてみることだけを選んでいた。

「…なら、ちひろさん。よかったら、5日後。また、来ませんか」

『はいっ』

『絶対、ですよ』

「ええ」

『楽しみにしていますから』

ああ、ぼくはなんと愚かな勘違いをしていたのだろうか。
恥が恥の範疇を超え、ぼくの中で大きくなった。
それと同時に、胸が幸福感に包まれた。

ぼくは、彼女のおかげで変わることができたのだ。


5日後のデートの約束を取り付けたぼくは、思案していた。

思い違いでなければ、彼女も、ぼくのことを。
ならば、さらに一歩を踏み出すきっかけを作らなければ。
ぼくは彼女と隣を歩いて、共に人生を歩んでいきたいと考えている。

そのためには、ぼくは彼女に想いを伝えねばならない。

どうするべきだろうか。やりかたなど、わからない。
違う。やりかたなど、人によって異なるのだ。
問題は、きちんと想いを伝えることだ。

ぼくは最大限の人脈と知識を振り絞り、考えをまとめた。

担当のアイドルにも、女性うけのいい店を尋ねた。
引き続き頑張ってとまた応援してもらった。
彼女には一生頭が上がりそうにない。

ぼくはなかなか値が張る店を予約し、準備を整えた。

あとは、5日後のデートで、約束を取り付ける。
そして、そのデートで、ぼくは、彼女に。
ぼくらは、共に歩めるだろうか。

8月31日。そこで、全てが決まるのだから。


8月25日がやってきた。

今日は彼女と並んでウィンドウショッピングをしていた。
時刻は夕方、今は18時を回ったぐらいだ。
相変わらず服のセンスがいい。

ぼくはそれをみて、彼女に教えを請おうと思った。

「ちひろさん。よかったら、ぼくの服を選んでもらえませんか」

『はい、いいですよ。どんな服がお好みですか』

敬語なので店員のような口調だが、最大限の配慮を感じられる。
ぼくはちひろさんの選んだ服なら、と端的に伝えた。
そうすると、なんだか頬を紅潮させていた。

『え、ええと…それなら、これとか。プロデューサーさん、格好いいですから』

『あ、こういうのも、似合うんじゃないでしょうか』

『これもいいかも…』

彼女は瞳をきらきらさせながら、ぼくに服を選んでくれた。
いくつかそれを購入したあと、たまたま良さそうな店を見つけ、入った。
場所が違えど、ぼくたちはもう、酒の力がなくとも饒舌に語らうことができていた。

そして、ぼくは、約束を取り付けた。


「ちひろさん。8月31日…夜、開けておいてください」

強い意志を含んだ言葉は、伺うことを知らなかった。
ぼくにとって、これは人生の分岐点なのだ。
言い繕っている暇すら、ないのだ。

『…わかりました。お気に入りの服で、行きますから』

彼女は察しがよかった。きっと、気付いているのだろう。
その後から、ぼくの顔をちらちらをみては、すぐに逸らす。
ぼくも同じようなことをしていたので、人のことは言えない。

時間と場所を端的に伝え、ぼくは約束を取り付けた。

なんだか互いに照れくさい雰囲気になってしまい、箸が進まなかった。
けれど、別にいやな雰囲気でもなく、言葉がなくてもよかった。
ただ、氷を揺らしながら、ぼくたちは笑いあった。

店を出て、夏に珍しい冷たい風が吹き抜けると、酔いもきれいにさめていた。

そしてまた、ぼくたちは背を向け、ネオンの中に消えていく。
けれど…ああ、そうだ。次、ぼくたちが帰るとき。
肩を並べて、同じ方向に消えていければ。

ぼくは、それだけを願った。


書き溜めの投下は以上です。
ここからゆっくりと書いていきます。

よろしくお願いします。

http://i.imgur.com/F45hlxc.jpg
http://i.imgur.com/uAfUzaK.jpg
千川ちひろ(?)

乙です

すげえ読みやすい…おつ。


残りの書き溜めが完成したので、明日チェックを入れて投下します。
明日で完結する予定なので、よろしければお付き合いください。

ありがとうございました。

あれ、ちひろさん天使やん

このちひろさんがエロ本読もうと必死だったとか萌える

ちひろさんメインのドシリアスって珍しいな

最近ちひろさん天使なSSが多くて嬉しい


チェックが終わったので投下していきます。
あと10レスほどなのでさくさくいきます。


その後の5日間は、あまりにも忙しなくすぎていった。

以前のライブイベントの成功もあり、仕事が多々舞い込んだ。
アイドルたちも喜び、心から仕事を楽しんでいた。
ぼくも、仕事に熱が入っていた。

そんなこともあり、ぼくは前日になって慌て始めた。
店と時間は決まっている。けれど、どんな服を着ていけば。
そして、どんなふうにエスコートし、どんなふうに告白をするべきか。

ロマンティックなものの方がよいのだろうか。
ぼくは、さらに背伸びをするべきなのだろうか。
そしてぼくは思い直した。ぼくはぼくらしく、だ。

ぼくは彼女の隣に並びたくて、努力した。
けれど…これから隣を歩くことになったなら。

そう考えると、計画も何もないが、1つの決心が生まれていた。

永遠と思われるような夏が、もうすぐそこで終わりを迎える。
ぼくは…その前に、この夏を全力で過ごすのだ。
安堵と共に、ぼくは眠りに落ちた。

また、同じ夢をみていた。


8月31日。

ぼくは早朝に出社し、ちひろさんと共に仕事を終えた。
…担当アイドルに、先に全てを話しておいた。
この礼は、トップアイドルで返す。

彼女は何も言わず、ぼくに微笑みかけてくれた。

それだけで十分だ。きっと、成功させてみせる。
一度ちひろさんと別れ、改めて待ち合わせをしていた。
ぼくも家で身支度を整え、細心の注意を払って家を出ていた。

ぼくは1時間も前に着いていたのだが、それでも彼女はそこにいた。

ああ、楽しみにしてくれていたのだろうか。
それは定かではないが、そう思うほかなかった。
ぼくは心からの笑顔で、彼女の隣に並び、声をかけた。

「すみません。お待たせしてしまって」

『いえ。私も、早く着いてしまったもので』

「今日は、いつも以上に似合っています」

『ふふっ…よかった。お気に入りですから』

4月には、このような関係になるなど、思いもしなかった。
ただ、普通に日々を過ごし、普通に生きていく。
そう思っていたのは、前のことだ。

今のぼくたちは、未来に向かって歩き出していた。


喉はからからに乾いていた。

予定時刻に、予約していたレストランへと足を踏み入れた。
窓際の一角。夜景も鮮やかに光を放ち始めている。
ドレスコードもあるような店だった。

『プロデューサーさん、私の選んだ服、着てくださってる』

「ええ。選んで頂きましたし、気に入っていますから」

『そう言っていただけると、嬉しいです』

注文をしなくとも、期を見計らって食事が運ばれる。
このような店ははじめてではなかった。
芸能界の付き合いに感謝だ。

マナーも作法もひと通り覚えていたし、苦しむこともなかった。

ただ、美味しいですね。そのような会話が窓辺に響く。
踏み込んだ会話など、そこには必要なかった。
このしっとりとした雰囲気が好きだ。

あまり口にすることのない赤ワインを転がし、味を確かめる。

からからに乾いていた喉には、程よいものだった。
酒の効果以上に、ぼくの顔は赤かった。
コースを終え、ぼくは言った。

「お話が、あるんです」


『…はい。待っていました』

そうだ。ぼくは、伝えるのだ。
彼女に、ぼくの全ての想いを。

「…ぼくは」

「ぼくは…」

上手く口が回らない。
あの饒舌な舌はどこへ。

『はい』

たった一言を口にするだけではないか。
ああ、ぼくの舌よ。回ってくれ。

「ぼくは、ちひろさんのことが」

ぼくは、伝えると決めたのだ。
…それが、どう、転んだとしても。
この気持ちは、抑えられないのだから。

「ぼくは、ちひろさんのことが—————」




「—————好き、です」


『………』

『……は』

『はい…』

『わた…私も、プロデューサーさんのことが、好き、です』

『だから———』

「ぼくと、お付き合いしてください」

『はい…はいっ』

『よろしく、お願いします』

『プロデューサーさん』

『よろしく、お願いしますっ…』

彼女はそう言って、涙を流しながら微笑んだ。
ぼくも泣きそうであったが、表情を引き締め、笑った。
ああ、ぼくの夏は、まだまだ終わりは見えないらしい。よかった。

ぼくの夏と、彼女の夏を重ねて。

ぼくは、彼女に恋をして。
彼女は、ぼくに恋をして。

夏の上に、夏を重ねて。





ぼくは、彼女に、愛を誓った。


彼女と出会って、2度目の夏が訪れようとしていた。

1年と4ヶ月ほどだろうか。今も変わらぬ関係が続いている。
けれど、彼女の口ぶりは変わらない。今も敬語だ。
それが彼女らしい、とも言えるのだが。

7月31日。

最近、久しく彼女と呑みに行っていない。
以前までは、よく行っていた。
誘うことにしようか。

ああ、けれど…事務所にはもう誰も残ってはいない。
事務作業に、手間取ってしまったためだ。やってしまった。
ぼくは最後に事務所の施錠をし、明かりを消して、帰路についた。

翌日、ぼくは朝一番に出社し、契約内容の確認をしていた。

そこに彼女がやってきて、おはようございます、と微笑んだ。
ああ。今日も彼女は美しい。今、誘うべきだろうか。
けれど、結構な量の仕事が残っている。

仕事を終えてから、彼女を誘うことにしよう。

そう思ってはいたのだが、上手くいかなかった。
彼女は、先に挨拶を済ませ、そそくさと帰ってしまった。
何か…用事でもあるのだろうか。ぼくは、かなりがっかりとしていた。

ぼくに、小さな不安の種が生まれた。


ぼくはその種に、知らぬ間に水を撒いていた。

それからは、ぼくはとある企画に精を出していた為、時間がなかった。
あまりにも雑多なぼくのデスクの上には困ってしまう。
ああ、彼女がいれば、お願いできるのに。

その4日後から、ぼくは事務所の変化に気がついていた。

けれど…あえて、口には出さなかった。そうだとすれば。
それからも忙しなく企画を整え、落ち着いたのがそれからさらに5日後だ。
ぼくは、精神的にも、肉体的にも疲弊しており、どこか彼女に癒しを求めていたと思う。

その日の昼、ぼくは昼食を買いに行った帰りに、彼女と食事を共にした。
健康には気をつけてくださいよ、と釘をさされてしまった。
相変わらず愛らしいその仕草は、微笑ましい。

昼食を終え、彼女がコーヒーを入れてくれた。
ぼくの眠気を察してか、無糖のコーヒーをいれてくれた。
本当に気が利く。今だけは、ぼくがそんな彼女を独占しているのだ。

14時頃、ぼくは彼女に呑みに行きたいという旨を伝えた。
けれど…その反応は、あまりよくはなかった。
彼女は申し訳なさそうに言った。

『ええと…すみません。私、その日には先約があって』


「なら…また、今度」

『はい、すみません。誘っていただいて嬉しいです』

『うん、ぼくも楽しみにしているから』

「はい!」

ひとときだけ、ぼくの不安の種は身を潜めた。
…けれど、これは本当にひとときだけだった。

その5日後、ぼくは仕事の呑み会に誘われた。
事務所のみなも、おごりだとわかると声を上げて喜んだ。
彼女らとは私的に出かける機会もないし、こういうときくらいはいい。

ぼくは相席の方と、趣味について語り合った。
ぼくにはあまり趣味がなかったので、困ってしまった。
相席の方は、ぼくのスーツを褒めてくれた。センスがいいと言われた。

みなさん、賑やかでうらやましい。そう言ってくれた。

もちろん。ぼくはみなを尊敬しているし、自慢できるほどだ。
とはいえ、片方ぼくは、いまいち何もないのだが。
ぼくは彼と語り合いをし、酒を楽しんだ。

にぎやかさにもみ消されそうになった声を、ぼくは、聞いてしまった。
…彼氏はいない、と明言する、彼女の姿を。その顔を。

ぼくの不安の種は、華を咲かせた。


ぼくは事の真相を確かめるため、彼女を誘うと決意した。

そんなはずはないだろう。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
ぼくは…ただ、その問いの答えを探した。

その5日後、ぼくは彼女を酒の席へと誘ったが、また断られてしまった。

すみません、とそう言い残し、ぼくの前から立ち去った。
ああ、やはり。彼女は。そういうことか。
先約?先約か。なるほど。

ぼくはさらに3日後、彼女を誘った。

するとあっさり了承してくれ、楽しみにしています、と告げられた。
その微笑みは、ぼく以外の誰に向けているのだろうか。
ぼくは、それを尋ねることはできなかった。

1週間後…ぼくは、彼女から答えを得る。
そうすれば、ぼくのこの心のつかえもとれるはずだ。
そして、ぼくはきれいさっぱり、彼女との関係を…終わらせる。

…ぼくは、気付いていたのだ。

度重なる誘いを断るその理由を。
交際している男性などいない、と言った理由を。
ああ、ぼくは…どんな顔をして、彼女と会えばいいのだろう。

全ては1週間後だ。


それから3日後の金曜日は、彼女は嬉々とした表情で出社した。

ぼくは彼女と出かけたりなどしていない。それは、つまり。
ああ、考えるのはよそう。全ては彼女から。
新たな1歩を祝福するのだ。

考えが巡るのと同じ速さで、ぼくの残りの3日が過ぎ、当日になった。

ぼくは彼女とよく来ていたバーに腰をおろし、隣に座った。
彼女は申し訳なさそうな顔で佇んでいた。
わかっているのだろう。

けれど…それが、ぼくのけじめというものだ。

ぼくは、度数の強い酒を一気に飲み干し、グラスはからんと音を立てた。
それがぼくの心の現状を表すかのように、氷が揺れた。
確かに、ぼくは心が揺れている。

できることなら…ぼくは、彼女と、また。

違う。その感情は振り払わねばならない。
真実を知ったとしても、ぼくはいつも通りの顔で過ごす。
そう決めたはずだ。これは、祝福すべきことではないか。その通りだ。

ぼくは、口を開いた。


「最近、よく…先約が」

『…はい』

「それは…つまり」

『…その、通りです…』

『好きな人が、できたんです』

あのネックレスも、もうつけてはいなかった。
彼女の首元は、固くネクタイで結ばれていた。

それが、暗に答えを示していると感じた。

なら、この関係は断ち切ろう。
彼女の口から聞いておきたかったのだ。
ぼくは、最後に1つだけ、彼女にお願いをした。

「事務所のみなと行くときは…よかったら、付き合ってもらえたら」

『はい。それは、もちろんです』

うん。それだけ聞ければ、十分だ。
もうすぐ、夏は終わろうとしている。
…これは、真夏の夜の、夢だったのだ。

ぼくはひとときでも、とても楽しい夢をみた。

永遠の別れというわけではない。
ただ、呑みに行く機会がなくなるだけだ。
けれど、ぼくは、なんだか…それが寂しかった。

8月30日の夜、ぼくは夢を終わらせる。

ぼくはそっとグラスを置いて、彼女との思い出を巡らせた。
苦手な事務作業に手を貸してもらったこと。
勇気を出して彼女を誘ったこと。

1年間、共に彼女と2人だけでやってきたことを。

にっこりと笑って、彼女は付き合ってくれたこと。
このバーに、よく足を運んだことを。
そして、ぼくは言った。

「じゃあ、また、事務所で。さようなら」

彼女も名残惜しそうに、ぼくを見て、言った。

『…はい。ありがとうございました。さようなら』










「社長」

                       おわり


以上です。ありがとうございました。
html化依頼を出させていただきます。

また、13時まで補足修正を行います。
それを過ぎた場合、補足修正はありません。

>>38 さん
今回の話はそれらとは独立しているつもりです。
言っているスレタイが合っていればいいのですが。

ちひろが浮気してると思い込んでたあああああ!!すげえ!

やられた…乙。


また騙されたorz


>>9 修正です。

× ぼくの名前が呼ばれるまでは、携帯を顔を合わせていた。
○ ぼくの名前が呼ばれるまでは、携帯と顔を合わせていた。

としてお読みください。失礼しました。


>>26 修正です。

× 社長も本当に忙しそうだった。
○ 社長は本当に忙しそうだった。

としてお読みください。失礼しました。


>>42 修正です。

[×]

ロマンティックなものの方がよいのだろうか。
ぼくは、さらに背伸びをするべきなのだろうか。
そしてぼくは思い直した。ぼくはぼくらしく、だ。

[○]

ロマンティックなものの方がよいのだろうか。
ぼくは、さらに背伸びをするべきなのだろうか。

ぼくは思い直した。ぼくはぼくらしく、だ。

としてお読みください。失礼しました。


修正は以上です。ありがとうございました。


>>52

× 「社長」
○ 『社長』

としてお読みください。失礼しました。


これで全ての修正を終えたつもりです。
度々、本当に申し訳ありませんでした。

ありがとうございました。

チッヒは天使

面白かった。
ちひろさんは天使だけど、どうも裏を勘繰ってしまう

ちひろさんは女神

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