夏海「これまでも、これからも」雪子「私も」 (97)

アリス「いつも、いつまでも」忍「もちろん」
アリス「いつも、いつまでも」忍「もちろん」 - SSまとめ速報
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どちらもクリスマスssです、あわせてお楽しみください

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仕事に出て行く夫の姿を見送った後、子供たちが起き出してきて我が家はにわかに騒がしくなる。

卓と小鞠はまだいい。

ちゃんと目覚まし時計で起きてくるからだ。

問題は夏海が自分で起きてこない時だった。

居間に出てきた卓と小鞠に朝のあいさつをすると、私は夏海の部屋の扉を開ける。

雪子「ほら夏海! 朝よ、起きなさい!」

夏海「zzz」

せめてドラマのワンシーンのように、瞼をこすって「あと5分」といった返事くらいはしてほしいところだ。

だが夏海にはそれも期待できない。

まず、こちらが声をかけただけでは絶対に目を覚まさない。

雪子「起きなさい、ったら」

その心底気持ちよさそうな寝顔が、余計癇に障る。

私は布団を抱きかかえている夏海を強引に揺さぶった。

少々乱暴かと思えるくらいがちょうどいいのだ。

夏海「今日はもう学校ないじゃんかー」

雪子「なに寝ぼけてんの。後一日あるんよ」

三分ほどねばった後に夏海は体をようやく起こし、居間へと向かった。

三人分の朝食を用意しなければならないので、夏海だけにかまっている暇はないのに。

雪子「昨日夜ふかししとったでしょ。早寝早起きしんといかんでしょうが」

夏海「へいへいわかってますよーだ」

全く可愛げのない返事。

叱りつける暇もなく、私は朝食の支度を始める。

朝早くに作っておいた味噌汁をあたため、グリルでししゃもを焼く。

そうしながら、脳内で悪態をつく。まったく夏海ったら、どうしてこんな――。

その時、心臓の鼓動がにわかに早くなった。

しんしんとこめかみの血管が脈を打っているのを強く感じ、気づくと私は膝に手をついていた。

呼吸が浅く、早くなっていた。

夏海「……」

小鞠「お母さん、どうしたの?」

雪子「大丈夫よ」

しばらくそうしていると、それはおさまった。

小鞠「行ってきまーす」

雪子「いってらっしゃい」

三人が家を出るまでは忙しいが、それからは、主婦にとっては比較的楽な時間帯と言える。

誰にも邪魔をされない一人きりの時間。

洗濯物をたたんでもいいし、ゆっくり朝のニュースを楽しんでもいい。

疲れているなら、もう一度寝床に入っても差し障りない。

朝の慌ただしい時間の後、今日も朝を乗り切ったという淡い達成感を味わいながら一息つけるこの時間は意外と気に入っている。

けれどもこの時間も、今日までで少しの間おさらばしなければならない。

二学期が終わって、冬休みに突入するからだ。

もう、冬休みか。

年々、月日の流れがどんどん短く感じられるようになってきている。

私は居間の座布団に座り、テレビを点けてぼんやりと眺めながら、想いを馳せた。

子供達は、この一年でどれだけ成長しただろう。

そういえば毎年、こんなことを考えている気がする。

卓はもう中学三年生。

いよいよ高校受験が間近に迫っているだけあって、勉強にも力が入っている。

受験という大きな壁に向かって良く努力しているようで、人間的にも彼自身は成長できているようだ。

小鞠は体こそ大きくはなっていないものの、その内面には少しずつ優しい部分が増えてきているように感じられる。

このまま優しい大人になって欲しい。

夏海は――夏海は――。

なにも思いつかなくて、つい笑ってしまう。

中学生になったことで、なにか大きな変化があるかと思えば、変わらず生意気で、減らず口ばかり叩くし、いたずらが大好きだ。

いい加減に大人になって欲しいところだが。

夏海のことを考えると、頭痛がしてくるようだ。

どこをどうしたら、あんな自分勝手な人間が出来上がるのだろうか。

そこでふとある考えがよぎった。それは、夏海がそうなったのは私の責任ではないのか、という思いだった。

いらいらとした気持ちの裏側に、それは確かにあった。

考えるだに馬鹿馬鹿しいような気もするが、不思議とその考えは頭から離れそうになかった。

とかく、最近は心の調子がどこか狂っていると感じる事が多い。

先日久しぶりに麻婆豆腐を作ろうとして豆板醤のビンの蓋を開けようとしたが、固くて開かず、地団太を踏んでいたところを夏海にたしなめられた。

後になって、なぜそのようなことでいらいらしていたのかと思ったものだ。

気分が悪いので、私はテレビを消して寝室へ向かった。

眠れば少し楽になるかもしれない。

目が覚めて、昼食の支度を終えたと同時に、子供たちが帰って来た。

午後一時。

私は彼らが自室に荷物を持ち運ぶ前に言った。

雪子「さあ、通知表見せんさい」

夏海「げげっ……」

卓「……」

まずは卓が何の抵抗もない、という風に通知表を寄こした。

申し分ない成績で、こちらのほうが驚いた。

雪子「よくできました。母さん言うことありません。はい次、小鞠ね」

小鞠も胸を張って通知表を差し出した。

おおむね現状維持、英語の成績は一学期から少し持ち直していた。

雪子「うん。英語がんばっとるね。その調子で、がんばりんさい」

夏海「えぇ……と、私は、また今度でいいっすかね」

雪子「夏海、一学期の件で反省して、成績が伸びてることを期待しているわ、うふふふ」

夏海「母ちゃん、怖いよ……」

雪子「いいから、早く出しんさい」

夏海がおずおずと差し出してくる通知表を、ひったくった。

雪子「……」

夏海「いや……その……」

雪子「昼ご飯食べた後、ちょっとお話しようか」

夏海「ひぃー!」

午前中に感じていたいらいらした気持ちと、その裏側にある沈んだ気持ちは、変わることはなかった。

夏海の通知表の散々たる結果に、つい衝動的に説教をする段取りになってしまったが、実のところそれが夏海にとってよいものなのかどうか疑わしい気持ちが、自分のどこかにあった。

夏海が居間にゆっくりと入って来た。

私が座るように言う。

雪子「さて。なんね、これ」

私は荒くなりそうな声を抑え抑え言った。

夏海「私の二学期の努力の証であります」

雪子「ふざけなさんな!」

私は机を叩くと、夏海は驚いて肩を揺らした。

夏海「いやだってその、テストが難しいのが悪いんだって……」

雪子「夏休みの時も同じ言い訳聞きました。まったくもう、言い訳ばっかり先に出て、解決しようと前向きに考えたことある?」

夏海「はい……」

私は夏海を叱りつけている。

はたから見ればそれ以上のなにものでもないし、それは勉強という学生の本分を怠ったことを戒める、至極正当なものとして写るであろう。

しかし、私の中で、なにやらもやもやとした気分が渦を巻いている。

雪子「まったくもう、あんたはいつまでたっても、物事から逃げてばかりいるんよ。一回腰を据えて、勉強に打ち込んでみたらどう?」

夏海「はい……」

雪子「あんたはいはいばっかり言ってるけど、しっかり聞いてるの?」

夏海「はい……」

雪子「母さんが言いたいのはね、あんたが普段身の回りの嫌なこと、辛いことから逃れようとするところから直さんとダメだってことで……」

思いとは裏腹に、言葉は次から次へと出る。

まるで他人が話しているかのようだった。

その言葉が夏海にとっては害になっているかもしれない。

雪子「あんた、ちょっとは私のこと手伝ってみんさい。家事の大変さを知ることが、あんたが立派になる第一歩かもしれん」

夏海「え……」

雪子「そうね、じゃあこれから毎日風呂洗いをしてもらおうかね」

自分で言って、私はさらに暗い気分になった。

私は夏海を正しい方向へ教え導こうとして、ただそれだけの理由で説教をしているはずだった。

しかし、この場においてふと感じたあるともしれない単純な怒りを、ただ夏海にぶつけているだけではないか。

夏海「そんな……」

雪子「文句あるん?」

夏海「い、いえ……でも、それはちょっと理不尽じゃないかと」

雪子「ん?」

夏海「いえ……なんでもありません」

雪子「はい、じゃあこれからは素行に気をつけること」

私はその場を後にしようとした。

なかなか腰が持ち上がらなかった。

足に力を込めて、なんとか腰を持ち上げると、電流が流れたような痛みがそこから発せられた。

雪子「いたた……」

夏海「母ちゃん……」

雪子「なに?」

夏海「もしかして、もしかしてだけどさ。更年期障害?」

雪子「な……まだ、そんな年じゃないわよ!」

夏海「でも最近特に怒りっぽくなってるし、ときどき息切れしてるし、今も腰が痛かったんでしょ?」

雪子「で、でも違うわよ」

夏海「一回婦人科へいって診てもらったら?」

娘に健康のことを気遣われるような歳では、まだないはずだった。そこで私はかちんときた。

雪子「人の心配するより自分の心配をしなさいよ! そんな散々な成績で、人にも迷惑かけてばっかりで……」

夏海「は、はい……」

その日の夕食の食卓で、夏海は嬉しそうに言った。

夏海「クリパだよ、クリパ! クリパやるんだ!」

夏海「ほたるんとれんちょん、このみちゃんも呼んでさ」

雪子「私に報告されても困るんだけど」

夏海「いや、会場は多分ウチになるからさ」

雪子「もしかして、私がお料理振る舞わないといけないの?」

夏海「お願いします!」

夏海は両手を合わせた。

私は、やれやれという風にうなずきを返した。

ご飯を作ってあげることは、嫌いではなかった。

雪子「遊ぶのはいいけど、宿題もちゃんとしんさいよ」

夏海「分かってるって」

夏海は茶碗の米をがつがつとかき込み、さっさと食卓を後にした。

雪子「ゲームはほどほどにしときんさいよ」

夏海「へいへい」

夏海はその気のなさそうな返事をした。

クリスマス、か。

クリスマスには特段の思い出があった。

それは、夫とのひととき。

あの頃は私も若かった。

当時恋人同士だった彼の用意した指輪に心をときめかせたものだ。

あのころの締め付けられるような甘い胸のうずきは、私の心の中に一生とどまり続けることだろう。

小鞠「おかーさーん?」

雪子「へ、なに?」

小鞠「なんか遠い目をしていたよ。昔を振り返るみたいに」

雪子「あら、そうかしら」

振り返る昔がある、その事実は私に、歳をとったことを深く感じさせ、妙に悔しかった。

けれども今、こうして子供を三人もうけ、普通に生活ができていることはとても幸せなことだ。

子供達も、クリスマス会のできる友達がいて、幸せなのだろう。

小鞠「なに考えてたの?」

雪子「内緒よ」

その夜も、なかなか眠りにつくことができなかった。

寝床に横になりながら今日叱りつけた夏海のことを考え、頭の中で濁ったものが行き来していた。

次の日、小鞠が起きてきたのは朝10時だった。

早寝早起きをしてほしいが、休みの日くらいは大目に見てやる。

小鞠「お母さん、お父さんは?」

雪子「今日も仕事よ」

小鞠「年末なのに忙しいね。夏海は?」

雪子「なんだか用事があるって言って、朝から家飛び出して行ったけど」

小鞠「そうなんだ」

私は小鞠の分の朝食を温めなおしながらきいた。

雪子「今日の晩ご飯、なにがいい?」

小鞠「うーんと、なんでもいいよ」

主婦の身として、献立がなんでもいいという答えは聞きたくない返事ベストテンに入るだろう。

雪子「なんでもいいって言われても……」

卓「……」

雪子「え? ――そうね、それでいっか」

卓の考えを採用して、晩ご飯はカレーにすることにした。

昼ご飯を済ませた後、カレーに入れるジャガイモを切らしていたので、コープまで買いにいくことにした。


家の外に出ると、冬らしいカラッとした空気が肌を切って過ぎた。

ここからコープまで、歩いて20分ほどかかる。

大通りを折れ、車も通れない畦道を右へ左へと歩いていく。

放置されている冬の田は、寒風に吹かれて静かに波打っている。

辺りは驚くほどひっそりとしていて、まるでこの世界に自分以外の生き物はいないかのような錯覚に陥る。

私はこの村が好きだ。

好きでなければ、不便だという理由でもっといいところに住むことができたはずだからだ。

夫と結婚したとき、田舎に住もうと提案したのは私だった。

親戚のつてで、なんとか手に入れたのが、今私たちが住んでいる平屋の建物だった。

私のわがままであったが、けれども夫もそこまで反対しなかった。

職場まで毎日電車で二時間かけて通勤することをいとわない辺り、夫も田舎が好きなのだろう。
あれこれ思索にふけることが、雑音に邪魔されない冬は気に入っている。

もしかしたら私の名前に起因しているのかもしれないが。

コープで買い物を済ませ、家に帰る。

いつもの大通りにさしかかったところだった。

村人「雪子さん。こんにちは」

雪子「ああ、どうもお世話になってます」

声をかけてきたのは、近所に住んでいるおばあさんだった。

村人「ちょっとジャガイモを多く買いすぎたものでしてね。雪子さんにお裾分けしようかと思って」

雪子「ええ、そうなんですか。いつも助かります。つい先ほど、ジャガイモを買ってきたばかりだったんですが……」

村人「まあまあ、取っておきんさい。クリスマス会をするらしいからね。食材はいっぱいあった方がいいでしょう」

雪子「え、どうしてそれをご存じなんですか」

村人「お宅の夏海ちゃんが、大声でお友達とそう話し合っていたものですから」

雪子「そうですか……」

村人「若い子はやっぱり元気が一番だね。お友達とクリスマス会だなんて、賑やかでいいじゃないですか」

私は夏海が昔、遊んでいて彼女の家の窓ガラスを割ったことを思い出した。

雪子「賑やか過ぎて、迷惑をかけるのはダメだと思います。――あの時は本当にごめんなさい」

村人「なに、いいんですよ。それぐらい元気な方が頼もしいじゃないか」

雪子「そういうものでしょうか……」

彼女とはそこで話が途切れ、別れた。

そろそろ夕食の支度をしなければならない時間だった。

太陽はもうとうの前に沈んでいる。

しかし、まだ夏海は帰って来ていなかった。

家に連絡の一つも入れず、どこをほっつき歩いているのか。

それからさらに一時間が過ぎた。私と卓、小鞠が晩ご飯のカレーを食べてしまっても、夏海は帰ってこなかった。

小鞠「夏海、誘拐されちゃったのかも」

小鞠が涙声で言った。

雪子「こんな田舎で、それはないと思うけど」

卓「……」

私自身も、無視できない大きさの不安を感じてはいた。

小鞠「わたし、いろんな人のところに電話をかけてみるね」

まず夏海が行きそうなところを押さえて、電話をかけるのが先だろう。

小鞠「……ダメだ、駄菓子屋、応答なし」

小鞠「ほたるんの家……は誰も出ないし」

小鞠「もしもし……あ、先生ですか? そちらに夏海いませんか? ……そうですか」

小鞠「いないって……」

小鞠のその声が、深刻な沈黙に包まれた家の中に響いた。

私たちの不安が、頂点に達したころだった。

インターホンが鳴った。

この田舎において、家の人を呼ぶのにインターホンを押すような人間はいない。

受話器をあげると、聞きなれない声が聞こえてきた。

蛍母「どうもすみません、私いつもお世話になっている蛍の母です」

雪子「あ、はい……どうも」

蛍母「うちに遊びに来ていた夏海ちゃんを、送りに来ました」

驚きと安堵の混じった溜息が、意識せず出た。

雪子「それは、すいません。こんな遅くまでいさせてもらって」

蛍母「いえいえ、いいんですよ。それより、夏海ちゃんって結構面白い子ですね」

雪子「はあ……」

ということは、夏海は蛍ちゃんのお母さんと話をしたということだろうか。

雪子「外に出ますから、しっかりお礼をさせてください」

蛍母「いえいえ、そんな丁寧にして頂かなくても」

その時、玄関のドアが開く音がした。

夏海「ただいまー!」

雪子「こんな遅くまで、家への連絡もなしに……ほら、あんたもついてきんさい」

夏海「いたた、そんなに引っ張らないでよ……」

玄関のドアを開けると、30代前半くらいの綺麗な女性が立っていた。

雪子「どうも、お世話になりました」

私はついてきた夏海の頭を押さえつけながら言った。

蛍母「いえいえ」

彼女は律義そうに右手を振った。

蛍母「それより、うちの蛍をクリスマス会に呼んでくれるんですか? ありがとうございます」

雪子「あ、いいんですよ。蛍ちゃんみたいな子が来てくれるのは、私も嬉しいわ」

雪子「うちの夏海と違ってお利口な良い子ですもんね」

蛍母「あはは……それより、クリスマス会のことで、私にもお手伝いできることあるでしょうか?」

雪子「そんな、気をつかって頂かなくてもいいんですよ」

蛍母「でも、夏休みの時みたいに、お料理とか出して頂けるんでしょう? 私も手伝わないと悪いですよ」

夏海「母ちゃん、来てもらおうよ。……実は私が誘ったんだけどね」

雪子「こら、あんたまた他の人に世話かけて……」

蛍母「まあまあ……クリスマス会に呼んでもらうなんて、楽しそうでわくわくします」

雪子「……じゃあすいませんけど、お願いしてもいいですか?」

蛍母「はい!」

彼女はにこりと笑った。

笑うと5歳ぐらい若返って見え、蛍ちゃんの面影がより強く顔に出た。

人懐こいが、どことなく気品のある笑み。

彼女は乗って来た車に戻り、発車させた。

家に入ると、早速夏海の説教をしなければならない。

雪子「夏海……あんた、私たちをどれだけ心配させたと思ってるの」

夏海「え? いや、別に……」

しかし私の甘いところだろうか、夜遅くまで遊んでくる娘に対し抱くのは怒りの感情よりも安堵の気持ちの方が大きかった。

今年の春のある日、夏海が小鞠を連れて家出をした時だってそうだった。

夕暮れ時、無事帰って来た二人を私は叱りつけず、頭をなでさすった。

それが正しい教育なのかどうかはわからない。

けれどもとにかく怒鳴りつけたりする気は起きなかった。

雪子「次からは、気をつけなさいよ」

夏海「……あれ、今日は雷が落ちない」

雪子「……晩ご飯できてるから。食べんさい」

夏海がお風呂を掃除している間に、私は一条家へ電話をかけた。

もう一度丁寧にお礼を言った後、クリスマス会で披露する料理をなににするか相談した。

そして明日、共に材料を買いに行くことに決めた。

あのもやもやとした気分は、今日も寝床に入ってからやってきた。

心配をかけた夏海。やはり叱りつけておいた方が良かったのではという考えが、頭をもたげた。

昨日の成績の件へと、考えは至った。

毎回毎回、私は子供の成績が悪いことを、叱りつけることにしてきた。

しかし私が説教をするしないの選択をこれまで間違い続けてきたから、夏海はああなってしまったのではないか。

私の教育力不足を、ふと呪いたくなる。

しかし、卓や小鞠はすくすくと心の面でも成長できているところから、そうでもない、という気もしてくる。

どちらが正しいのかわからない。

頭が混乱して、奥の方から鈍い痛みが沸いて出てきた。

次の日は、強烈なめまいに襲われて動けそうになかった。

今日も仕事に出ていく夫に、昼ご飯を外食ですませてもらうよう告げた。

そして9時ごろに一条家に電話し、買い出しを明日にのばしてもらった。

やはり、心身ともに異常が出ているようだった。

さらに一つ、気になることがあった。

今月はまだ生理が来ていない。

おととい夏海に言われた言葉を思い出す。

私は更年期障害なのか。

若年性更年期障害、という言葉も耳にしたことがある。

体が不調であることを起きてきた小鞠に告げると、今日は家事を代わりにやってくれると言う。

たったそれだけのことで涙が出そうになるのは歳をとったからだろうか。

小鞠は卓に昼ご飯の支度を頼み、洗濯機を回した。

私は居間に座布団を三つ並べて横になっていた。

寝坊してきた夏海が、私をまたいで通り過ぎて行く。

叱る気にもならない。

もちろん夏海には家事を手伝う気はなさそうだった。

小鞠や卓は手がかからない上に、私を助け、手伝ってくれる。しかし……

夏海は顔を洗うと自分の部屋に戻った。

すぐにゲームの音が聞こえてくる。

もともと家事は主婦である私の仕事だ。

手伝いをしてくれるのはありがたいが、しなくてもそれはそれで当たり前であるはずだ。

しかし私は夏海に対し怒りを感じていた。

そんな感情を抱くこと自体間違っていると自分でも分かっていた。

しかし、どうしてもきょうだいの中で思いやりの度合いを比較したとき、夏海が末席となることは否めなかった。

昼食ができ、ゲームの音を流したままのこのこと夏海が食卓にやってきた。

誰からともなく食事が始まった。

当然私には食欲がなく、茶碗の米ばかりさっさと食べてごちそうさまをした。

小鞠「ねえお母さん、お父さん明日も仕事なの?」

雪子「いいえ、明日は休みだったと思うわ」

夫はIT関係の会社に勤めていた。

毎朝早く起き、私には想像もつかないような激務をこなしている。

休日出勤もあり家にいる時間が短い。

結婚を決めた時から、そのことについては覚悟ができていた。

夫が外に出て必死に働いているので、私も育児に、夫の分も全力を尽くして専念すると誓っていた。

しかし、私たちの子供に父親の教育というのものが不足している気は、常々していた。

父親にびしっと厳しくしつけられることで、子供達は一定の礼儀作法を身につけやすいという部分はあるだろうからだ。

私もできるだけ心を鬼にしてしつけをしてきたつもりだが、やはり少し足りない。

その結果が、三人の性格のばらつきを生んでいるのではないかという気がする。

個性があっていい、という見方もできるが、逆に言えばまとまりがない。

卓と小鞠は正しい方向に育ってくれているからいいものの、夏海は……

そこまで考えて、やはり考えすぎのような気がしてきた。

子供に影響を与えるものは、なにも親だけではないではないか。

このような考え方は、親のエゴに過ぎない。

もちろんその根底には、子供たちに良い大人に育ってほしいという願いがあるのだが……。

くよくよ悩みすぎるのも良くないと思い、頭痛をこらえて少し家事をしようと思った。

小鞠「いいよお母さん。今日は寝てて」

卓「……」ウン

雪子「あんたたち……でも、そんなにしてもらっちゃ悪いわ」

鞠「今日ぐらい、私たちに任せてよ。ほら、クリスマスプレゼントだと思って」

雪子「クリスマス、プレゼント……」

夏海「……」

その響きが懐かしくて、私はあのころを思い出した。

夫に指輪を渡された、あの時。

それは脳内で鮮明に描くことができた。

しかし、そのイメージには大事なものがひとつ欠けていた。

あの甘く苦しい胸のうずき。

代わりに、あるかないか分からない程度の胸の温かみがかすかに生まれただけだった。

それが起こったのは夕方だった。

私のめまいは治らず、暗い気持ちでやはり居間に寝転がっていた時だった。

夏海がゲームをやめて居間に出てきた。

夏海「あれ、姉ちゃんたちは?」

雪子「洗濯物を取りこんでくれてるわ」

夏海は玄関から二人のところへ向かった。

縁側に据え付けられたガラス戸は開けっ放しにしてあったので、外から声だけが聞こえてきた。

夏海「あれ? 姉ちゃん、これって姉ちゃんの?」

小鞠「うっ……ベ、別に良いでしょ!」

夏海「うーん、こういう大人っぽいのはまだ似合わないんじゃないかなぁ」

小鞠「あ、やめてよ、返してよ!」

夏海「いやだねー」

小鞠「返してったら!」

夏海「ほらー、こっちこっち」

夏海と小鞠の足音が聞こえてくる。

と思うとそのどすどすという音は家の中に響いた。

どうやら二人は家の中で駆け回っているらしかった。

雪子「うるさいからやめんさい」

私は体を起こして音のする方へ向かい始めた。

その時、ものすごい音と共に家中を揺るがす大きな揺れがやってきた。

雪子「こら、あんたら、なにやってんの……」

そこは小鞠の部屋だった。

部屋の隅に置かれた棚が倒れ、中身や上に乗せてあったぬいぐるみがあたりに拡散していた。

雪子「こんなにして……なにしてたの」

そう聞いたが、涙目になっている小鞠と、夏海の手にある小鞠の新しい下着を見るだけで大体の見当はついた。

雪子「夏海、またあんたのせいね」

夏海「いや違うよ、これは追いかけてきた姉ちゃんが悪いのであって……」

雪子「つまらん言い訳をしなさんな!」

少し声を張り上げると、体がふらついた。

けれどもそれよりも夏海に対する怒りの感情が勝っていたので、私は説教を続ける。

雪子「もう、あんたはどうしてそんなに後のことを考えられないかな。いい加減にしんさいよ。こうなることは分かってたでしょうが!」

夏海「でも……」

雪子「ほらまた口答えしようとする!」

そばで肩を強張らせている小鞠には目もくれず、私は夏海だけを叱り続ける。

感情が完全に理性を支配し、自制がきかなくなって口が勝手に動く。

雪子「大体ね、今日は私がしんどいから、小鞠と卓は手伝いをしてくれたんよ!? 二人が苦労してんのに、あんたはピコピコゲームばっかりやってさ……。母さんが今もしんどいってこと、分かってる?」

夏海「いえ、今はすごく元気そうな声が出てますよ」

雪子「あんたなに言ってんの!? まったくもう、どこをどうやったらあんたみたいな子ができるんだか……」

私ははっとした。

昨日までの後悔はなんだったのか。

こんなことを言っても、夏海の害にしかならないではないか。

しかしその思いは、一瞬意識上に上がってきてはまた沈み込んだ。

再び私の中をいらだちが埋め尽くす。

結局、説教をその後20分ほど続けた。

説教が終わった後、夏海はしゅんとした、それでもどこか含みのあるような顔をした。

彼女はなにも言わなかった。

そのまま、私から離れて自分の部屋に移動した。

しばらくしてもゲームの音は聞こえてこなかった。

夜は、大きな重い塊が頭の上に乗っているかのようだった。

私は夏海に嫌われているのではないか。

そのことを考えると、これまでで一番頭が痛くなった。

他のことはどうでもいい、とにかく私を嫌いにはならないでくれと、ほとんど祈りをささげるように頭の中で繰り返していた。

12月23日。昨日より体は動くようになっていた。

小鞠「お母さん、大丈夫?」

雪子「ええ、もう平気よ」

まだ少しめまいがするが、この程度なら大丈夫そうだ。

子供たちに心配をかけるわけにもいかない。

今日は蛍ちゃんの母との約束は果たせそうだ。

小鞠「お母さん、今日蛍とれんげ家に呼んでいい?」

雪子「ええ、いいわよ。おもてなしはできないけど」

小鞠「そんなのいいんだよ」

クリスマス会が明日だというのに、前日にも集まっていては面白みが半減しはしないかと思ってたずねると、クリスマス会の飾り付けなどの用意をするのだという。

まあ、それも楽しみのひとつだな。

居残って文化祭の準備にいそしむような感覚だろう。

午前10時ごろになって家を出た。

蛍ちゃんの母が、週末によく行くというショッピングモールへ車に乗せていってくれるという。

雪子「すいませんね、ホントに」

蛍母「いえいえ。私も他のお母さんと遊びに行くの、久しぶりですから」

田舎で人が少ないせいで、私は母同士の付き合いというものの経験が少ない。

知っているのはこのちゃんとれんげちゃんのお母さんくらいだった。

蛍母「実はこっちへ来て、私も少しさびしかったんです。向こうのママ友と別れるのが」

雪子「ああ、そうなんですね、やっぱり」

蛍母「雪子さんとこうしてお話しできて、私とても嬉しいです」

昨日見知ったばかりでその発言は少し踏み込み過ぎているようでもあるが、彼女の人懐こい笑顔がそんなことを感じさせなかった。

私は車に揺られながら、村の住み心地について尋ねてみた。

夏が涼しくてすごしやすいという。

季節が変わるにつれ大きく変動する田舎の光景も気にいっているようだった。

不便さを感じないかと尋ねると、そんなことはないらしい。

本屋がないのは心配だったそうだが、今ではインターネット通販があるからそれも大丈夫だという。

雪子「気に入ってもらえて、私も嬉しいです」

蛍母「いやでも、冬は怖いですね。今日帰ったら雪降ってた、ってことになったらどうしよう」

雪子「その時は車を押して帰りましょう」

蛍母「いいですね。私意外と力強いんですよ。遺伝なのか、蛍もすごく力が強くてですね」

雪子「そうなんですか!?」

と、くだらない話題で笑いあえるくらいには、車の中で打ち解け合うことができた。

車を一時間半ほど走らせたところに、そのショッピングモールはあった。

食料品から生活雑貨、またちょっとしたフードコートも備えてあり、それなりの規模の大きさだった。

私たちは手わけをして料理に使う食材を買い揃えていった。

そこで私は彼女の主婦としてのスキルの高さを見せつけられた。

野菜や肉類を的確に目利きし、実に迷いのない手つきで品を選んでいっていた。

その姿と、彼女の娘である蛍ちゃんの姿が同時に脳内に映し出された。

強烈な劣等感とともに、この親あっての蛍ちゃんか、という考えが浮かんで、離れることがなかった。

買い物をひととおり済ませると、もう正午をだいぶ過ぎていた。

フードコートへ行き、二人でパスタを注文した。

料理が運ばれてくるまでに、私たちは明日の段取りについて話し合った。

雪子「夏海によると、6時ごろに集合して、まずは食事をしたいということでした」

蛍母「それじゃ、6時より少し前、5時くらいに集合するってことでいいですかね」

雪子「お願いします。そしてそのあとに、子供たちでプレゼント交換をするそうです」

蛍母「参加、させてもらえないんですかね。私雪子さんにプレゼント考えておきましょうか?」

雪子「もうプレゼントなんて歳じゃありませんよ」

蛍母「ええ、でもお若いですよ」

雪子「うふふ、そう言ってもらえて嬉しいです」

そこへ、料理が運ばれてきた。

私たちは同時にいただきますを言った。

蛍母「そう言えば蛍、白い毛糸を買ってきてほしいって言ってたわ」

雪子「プレゼントでも作るんじゃないですか?」

蛍母「そうかも知れませんね」

買い物をしていた時の劣等感が再びよみがえった。

蛍ちゃんはうちに遊びに来ていて顔を合わせると頭を下げてあいさつをしてくれるし、頼んでもないのに植木鉢の水やりを手伝ってくれたこともあった。

本当によくできた子だった。

親の教育がいいのだろう。

雪子「それにしても蛍ちゃんはすごいですね。裁縫もできるし、お料理もよく手伝うんですって?」

蛍母「そんな、まだまだですよ」

雪子「全く、うちの夏海も見習ってほしいものだわ。実は夏海ったら、昨日も家の棚を思いっきり倒して騒ぎになって」

そうして頭の中に思い浮かぶのは、私の出来の悪い夏海の姿だった。

私はこのような子を育てた親だ。

蛍母「あはは……」

雪子「おうちにうかがわせて貰った時に、なにか迷惑をかけてませんか?」

蛍母「大丈夫ですよ。あんまり言うと夏海ちゃんにも悪いですから、このへんで……」

雪子「でもね、夏海ったら……」

なおも話を続けようとすると、彼女は突然笑い出した。

訳が分からず、私は呆然とした。

雪子「どうしました?」

蛍母「いえ。雪子さんって、夏海ちゃんのこと好きですよね」

雪子「そ……そんなことありませんよ! いっつも親の言うこと聞かないし、他人に迷惑かけてばっかりだし……まったく」

蛍母「うふふ」

その後昼食が終わるまで、彼女は笑みを絶やさなかった。

フードコートを後にし、帰る前に毛糸を買ってから帰途についた。

帰りはなにも話さなかった。

会話がないことで、嫌でも頭が要らないことを考え始めてしまう。

私には能力がないのかもしれない。

とにかく自分には、子育てに必要な何かしらの能力が欠けているのではないかという思いにとらわれた。

そして今車を運転している、私より少し若い一人っ子の母親をみて、憧憬に近い気持ちを抱いてしまっていた。

これは嫉妬などではない。

ただ純粋に、自身の至らなさに腹が立っているだけだった。

30分ほど車に揺られていると、不意に心臓の鼓動が早くなった。

私はえびのように背中を丸め、左胸を押さえた。

息が上がっていた。

蛍母「どうしたんですか?」

雪子「いえ、なんでもないんです」

しばらくその体勢のままじっとしていた。

少しずつ、心臓の痛みは消えていった。

蛍母「大丈夫ですか」

雪子「はい、なんとか」

私たちの車は村に入った。

雲で若干空が暗いものの、雪は降っていなかった。

蛍母「本当に車を押すことにならずにすみましたね」

雪子「もう少し遅かったら、まずかったかもしれませんね」

もちろん彼女に抱いた憧れなどは封じ込めて、茶化した言葉に応じることはできた。

そう、さっさとくだらない考えは軽く捨ててしまったほうがいいのだ。

しかし靴底についたガムのように、それは脳にねばりついていた。

家に帰ると、人の気配が多かった。

そこでようやく、小鞠に今日れんげちゃんと蛍ちゃんを家に呼ぶと言われていたことを思い出した。

私はお茶と、ちょっとしたお菓子の用意をして、気配のする小鞠の部屋に入った。

雪子「こんにちは。いらっしゃい」

小鞠「あ、お母さん帰って来たんだ」

蛍「おじゃましてますー」

れんげ「にゃんぱすー」

雪子「あれ、夏海は?」

小鞠「明日に必要なもの、色々買いに行ったよ」

雪子「あら、そうなの」

蛍「あ、すみません。お茶、頂きます」

しばらくして、夏海が帰って来た。

夏海「げげっ、母ちゃん」

雪子「なに、げげって」

夏海「いや……なんでもないよ」

彼女がたくさん抱えていた荷物の中に、新聞紙にくるまれたブーケ状のものがあった。

その先から、ポインセチアの花がちらりと見えていた。

雪子「あら、きれいなお花」

私がそれを触ろうとすると、夏海は私の手から花束を遠ざけた。

夏海「な、なんで触ろうとするんだよ」

雪子「あら、別にいいじゃない」

夏海「よかねえよ! こっちは他にも……」

雪子「え?」

夏海「あ、ななな、なんでもないよ」

夏海は苦笑しながらそそくさと小鞠の部屋へ向かった。一体なんだと言うのか。

クリスマス、当日。

午後5時を少し過ぎたころに、蛍ちゃんのお母さんが歩いてやってきた。

歩いて、というのは、先日の夜から雪が降り、10センチほど積もっていたからだ。

今は空に雲がなく、夕日が白い世界に朱色を加えていた。

その様子がなかなか美しくて、私は彼女が来た時外で待っていた。

雪子「それじゃ、始めましょうか……」

家のドアを開けようとした時だった。

一穂「おいーっす」

雪子「かずちゃん!? どうしてここに」

一穂「いやあ、れんげがクリスマス会どうこう言ってたもんで、手伝うことないかって思って来ちゃいました」

雪子「あらそう。まあ助かるけど、どうせ手伝うとか言ってずっと寝てるんでしょ」

一穂「そんなことはないですよ。まあ色々任せてくれちゃってokです」

一穂は胸を張ったが、あまり期待しないでいる。

私たちは家に入った。

玄関に入ると卓の弾くギターの音がかすかに聞こえてきた。

雪子「すいませんね、うちの息子が。やめさせましょうか」

蛍母「いえ、いいですよ。私ロックとか好きなんで」

そこに、卓がやって来た。

トイレにでも行くつもりだったらしいが、客人二人の姿を見ると頭を下げた。

蛍母「ねえねえ、上手いね。ギター見せてもらっていいかな?」

卓「……」ウン

卓は部屋に戻り、ギターを持ってきた。

蛍母「わあこれすごい! レッド・スペシャルじゃない!!」

卓「……」エッヘン

蛍母「Queen好きなの?」

卓「……」ウン

蛍母「そうなんだ! なにか弾いてみてよ!」

雪子「あの……」

私は台所の方を指でさした。

実は時間が迫っていてよそ事をしている暇があまりなかった。

蛍母「あ、はい……じゃあ、ご飯食べたら披露して! お願い!」

卓「……」ウン

なおも名残惜しそうにする蛍ちゃんのお母さんを引っ張って、台所に入った。

材料を手わけして、三人で料理を作り始めた。

料理を作る段においても、蛍ちゃんのお母さんの手腕は確かなものだった。

薄い衣の唐揚げを揚げられたし、キャベツの千切りも三人のうちで一番薄くできた。

そこで少しの劣等感を例によって抱くかと思いきや、そんなことはなかった。

蛍母「子供たちのために、こうしてなにか出来るってことは素敵ですね」

雪子「……母親としての幸せってのは、そこに尽きるのかもしれないわね」

既に仕事を放棄してダイニングテーブルで眠っている一穂をよそに、私たちは意気投合する。

どちらが上手いとか、そういうのはどうでもよかった。

こういった特別な場において料理を作ってあげて、子供たちが喜ぶ姿が見られる、その期待で胸がいっぱいで、お互い他のことを考えられなかったのだ。

ジャガイモを四等分して、フライパンで揚げていると、玄関が開いた。

いよいよお客さんが来た。

どたどたと廊下を鳴らす音。

夏海と小鞠が出迎えに行ったのだろう。

お客さんはまずは居間に通すことになっていた。

そこは子供たちで作った紙の鎖や、夏海が昨日買ってきたポインセチアで彩られていた。

私は様子見に居間へ向かった。

蛍「あ、どうもこんにちは」

このみ「ちわー」

れんげ「にゃん、ぱっす!」

雪子「はい、いらっしゃい。もうちょっとでお料理できるから、しばらくここで待っててね」

れんげ「わかりました。んにー」

夏海「はははれんちょん、なにそれ、バカにしてんの?」

れんげ「ありがとうを体で表すとこうなん」

小鞠「わけがわからないよ……」

れんげちゃんは変わらずちょっと不思議だ。

しかし学校の成績はいいらしい。

天才肌なのだろうか。

ようやく料理ができ、私たちはそれを居間へと運び始めた。

一穂も叩き起こして手伝わせた。

私は居間に炊飯器を持ち込み、茶碗にごはんを盛る係になった。

蛍「そう言えば、夢で思い出しました」

小鞠「え?」

蛍「今日とっても不思議な夢を見たんです」

蛍「私たちと同じように、高校生たちが女の子5人でクリスマス会を開いてるんです」

蛍「開催してるおうちがすっごいお金持ちで、広い広いお部屋にとても豪華な料理が出て」

蛍「そのあと、楽しいひと時を過ごすんだけど、5人の中でふた組、いい空気になってるカップルがあったんです、キャー!」

小鞠「蛍……」

蛍「ねえこまセンパイ、女の子同士の恋愛ってどう思いますか?」

小鞠「いや、えーっと、まあそういうのもあるんじゃない?」

蛍ちゃんは、少し残念そうな顔をした。

夏海「それでは!」

一同「いただきまーす(のん)!」

蛍「これ美味しいです! こっちも」

雪子「ありがとね。いっぱい食べてね」

蛍「はい!」

私はそこでその場を後にする。

居間は子供たちに使ってもらって、私たち保護者組は台所で食べることにしていた。

居間からはバカでかい夏海の笑い声がときどき響いてきた。

私はその心底楽しげな声が、なぜだかとてもいとおしいもののように感じられた。

日頃あれだけ迷惑をかけ続け、世話の焼ける娘だと言うのに。

私の記憶は、子供を産んだときにまでさかのぼった。

卓の産声を聞いた時、私はこの瞬間のためだけに生きてきたのだ、と思ったものだ。

やはり出産というものは、本能的に見れば女性の生きる目的に違いないのだ、と。

はっきりいうと小鞠の時の泣き声は、それに劣る印象だった。

やはり二番目と言うことで、少し慣れがあったのだと思う。

しかし、三番目に産んだ夏海の声は、卓と同等、あるいはそれ以上に克明に記憶に刻みつけられていた。

彼女ははじめ泣かなかった。

仮死産だったのだ。

懸命な措置のおかげで、なんとか肺呼吸を始めた。

そこで聞かされた鳴き声はか弱いものだったが、そこには生きよう、生きようという彼女の強靭な意志が感じられたのだ。

私は未だにその時のことを思うと、涙が溢れそうになる。

彼女は出来が悪かろうがこうして友人と語らい、豪快に笑うことができている。

元気があればよい、というこの前近所のおばあちゃんから聞いた言葉を思い出した。

しかし、しかし。

今や夏海は迷惑をかけまくるやっかいな娘である。

その責任は、どこにある?

蛍「あの、ごちそうさまでした」

蛍ちゃんが、器を持って台所へやって来た。

雪子「そんな、手伝ってもらわなくてもいいのに」

蛍「いえ、いいんです」

蛍ちゃんはやはり出来のいい子だ。

うちの末っ子とは大違いだった。

私が、悪かった。

私が夏海を、いい子に育てられなかった。

その思いで頭がいっぱいになった。

ただし。

私は私として、やっていくしかない。

母として、へたくそでも、嫌われてもいいから義務をまっとうすればいい。

それが、私の使命だ。

ある意味では諦めかも知れなかった。

しかし、そうすることしか、私にはできない。

私たちは居間へ向かい、食器を片づけた。

蛍ちゃんと一緒に、皿をひとまとめにした。

食器を洗うとまで言ってくれたが、さすがにそこまでしてもらう訳にはいかず、部屋に返した。

居間では卓が、ギターとアンプを持ち出してきてジャカジャカやっていた。

その様子に、蛍ちゃんのお母さんは興味深々だった。

雪子「後は私がやっておきますから。行ってきたらどうです?」

蛍母「いいんですか!? ではお言葉に甘えて……」

彼女は足早に居間へと向かっていった。

すぐに、彼女がしたらしい拍手がこちらへ届いた。

そんなに好きなのか。

蛍母「すごいですよ、卓くん! ほんと、プロみたいで」

蛍ちゃんのお母さんは子供のように声を上ずらせながら言った。

蛍母「ボヘミアンラプソディのソロを完璧にコピーしてて! あれ聞いたらみんな興奮しますよ!」

雪子「はあ……」

子供達は、居間から夏海の部屋に移動したようだ。

ところで、飾り付けは誰が後始末をするのだろうか。

まさか私に押しつけられることはあるまい。

私たち三人は、台所で話をしていた。

特に、一穂がまだ幼い時、私がおもりをしてやった話で盛り上がった。

あの頃からよく寝る子で、それほど手はかからなかったのだが。

そうしていると、玄関をノックする音が聞こえ、私が出た。

楓「あ、ども」

雪子「駄菓子屋さん、だったかしら」

駄菓子屋さんはわきに小さな段ボール箱を抱えていた。

楓「はいこれ、クリスマス会の差し入れです」

雪子「え? いや、結構ですよ、そんなの」

楓「なんも言わずに受け取ってください。これ渡しとかないと後でれんげがうるさいんで」

雪子「はい?」

楓「いや、こっちの話っす。お菓子、子供たちに分けてやってくださいな」

半ば強引に箱を持たされてしまった。

なんだか釈然としないまま、私は夏海の部屋に向かった。

雪子「駄菓子屋さんから差し入れだって」

れんげ「駄菓子屋! 駄菓子屋来てたん!?」

雪子「ええ、もう帰っちゃったわよ」

れんげ「残念なん……」

蛍「こんなに貰ってもいいのかな……?」

わいわいと騒がしい夏海の部屋を後にした。

台所に戻ると、ちょうど8時になったところだった。

私たちは話を再開する。同じ世代の人間と話をする機会は最近なかったので、積もり積もった話を消化していくうちに時間が過ぎていった。

蛍ちゃんのお母さんも同じような感覚らしかった。

すぐに9時になり、10時が来た。

一穂「そろそろ、帰らせて貰ったほうがいいかな」

かずちゃんがそう切り出さなければ、10時が来たことすら気付かなかっただろう。

楽しい時間はあっという間だった。

私は食べてしまったお菓子の袋を捨てに来たこのちゃんに、そろそろお開きにするとの伝言を言い渡した。

このみ「ああ、この役後で絶対恨まれるんですよね……」

雪子「ごめんね」

このみ「いいんですよ」

このみちゃんは戻っていった。

しばらくして、子供たちがそろって台所へと出てきた。

れんげ「楽しかったのん!」

蛍「今日はすっごくいい思い出になりそうです!」

口々に言いあっているのを、小鞠が制止した。

小鞠「はいはいみんな、行くよ。せーの」

一同「今日はありがとうございました(なのん)」

雪子「え……あ、いえいえ」

小鞠「夏海も、頭下げなさいよ」

夏海「えー」

私たちの前で、皆が頭を下げている。私は照れくささを感じてかずちゃんの後ろに隠れた。

このみ「じゃあ、帰ろっか」

このちゃんの一言で、その場は崩れた。

外は真っ暗闇で、開け放した玄関からの明かりが積もった雪に染みわたるようだった。

それがどことなくロマンチックで、しばらく見とれてしまった。

一穂「れんちょん、帰るぞー」

れんげ「ばいばいなのん!」

れんげちゃんは私に手を振った。

私は最後の客を、笑顔で見送り、家に入る。

家の中は先ほどあれだけ楽しげな声がしていたことが嘘のように静かだった。

眠そうに瞼をこする小鞠が、顔を洗いに洗面所へ行ったところだった。

小鞠「居間片づけるの明日でいいよね?」

雪子「しかたないわね……今日は遅いし、いいよ」

小鞠は頷いた。

居間では夏海が立っていた。

雪子「夏海も、今日ははやく寝んさい。疲れたでしょう」

夏海は私の言うことを聞いているのか、身じろぎもしなかった。

どことなく思いつめた表情だった。

雪子「どうしたの」

なおも夏海は動きを見せなかった。

かなりたってから、その口元に力が入った。

まるでなにか言うことを決意したかのように。

夏海「母ちゃん」

いつもの夏海のひょうひょうとした声色はどこへやら、それは繊細で、震えていて、今にもかすれて消えそうな声だった。

夏海「その……いつも、ありがとう」

雪子「え?」

しばらく驚きで動けなかった。

なぜ、なぜ夏海の口からそのような言葉が。

その言葉の意味を、脳内でじっくり噛みしめようとしたが、あまりのことに全く実感がわかなかった。

夏海は固まっている私から離れ、自分の部屋へと引き返した。

戻って来た夏海の、手にあったもの。

私の喜びの堰は、そこになってようやく切られた。

雪子「真っ赤な、カーネーション……」

夏海「母ちゃん、いつもありがと」

夏海は私の目をまっすぐ見て、もう一度言いなおした。

その声は、今度は力強かった。

私は全身の力が抜け、もう少しでその場にへたりこんでしまいそうだった。

雪子「どうして……」

自分で発した声は、思ったよりも震えていた。

夏海「母ちゃん、クリスマスプレゼントだよ。昨日買って来たんだ」

はにかみ、体を照れくさそうに左右にゆすりながら、しかし強い語気で言いきる夏海。

私の手に、花束が渡された。

花の甘い香りが鼻孔をくすぐり、それがまた涙を誘った。

夏海「実は昨日遠くまで買い物に行ったのは、ただこれだけのためだったんだよね。ポインセチアはカモフラージュで」

夏海はきっと電車で買いに言ったのだろう。

交通費から花まですべて自費で済ませているはずだ。

田舎に住んでいて不便だが、こういう形でお金をかけてもらうことで思いの強さが知れた。

それでまた、目頭が熱くなった。

雪子「私は、私はこんなこと、してもらうようなことは、なにもしてない、なのに……」

夏海「なに言ってるんだよ。いつも母ちゃんは私たちのためにご飯作ってくれたり、掃除してくれたりしてるじゃん」

雪子「でも……」

夏海「母ちゃん、私のために叱ってくれるじゃん」

夏海「私、時どき私には母ちゃんが必要なんだなって思うことがあるんだ。私一人じゃ何にもできないって思うときが」

夏海「いつも怒られてばっかで、腹立つこともあるけどさ、それでもやっぱり私のためを思ってやってくれてるんだなって思うんだ」

雪子「……その割には、進歩がないわね」

夏海「ははは……」

もちろん、今の私は夏海を叱る気など毛頭なかった。

ひたすら、なんていい娘を持ったんだ、という思いだった。

この子の育て方を、私は間違えたわけではなかった。

夏海「とにかくさ。いつもありがとう。ウチ母ちゃんのこと、大好きです。これまでも、これからも」

大好き。

大好き。

その言葉を、遠い過去のクリスマスに耳にしたことがある。

夫からのプロポーズの言葉。

胸の奥が、締め付けられるように痛むことはなかった。

その代わりに、天国のように心地いい胸の温かみが無尽蔵に溢れ出てきた。

それは出産のときに味わった思いと、どこか似ていた。

若いころに楽しんだ、恋、ではない。これは母の感情だ。

母の、子を心からいとおしむ感情だ。

気付けばカーネーションの花弁に、しずくを落としていた。

嗚咽をこらえるのに必死だった。

夏海「それとさ、これも」

長い沈黙を破って、夏海が言った。

夏海は後ろ手に隠していたものを私に差し出した。

それは、命の母だった。

雪子「夏海、これはどういうこと」

夏海「いやだってさ、母ちゃん絶対更年期障害だって。これ飲んだら楽になるよ」

思い切り怒鳴ってもいいところだっただろうが、そういう気分にはまさかなれず、反応に困った。

雪子「ああ、どうも」

そう言うことしかできなかった。

その夜も寝付けなかった。

しかし、いつもの暗い気持ちのせいではなかった。

心が浮ついて仕方がなかった。

ああ、私の可愛い娘。

出来の悪い、いたずら好きの、たまらなくいとおしい娘。

いつも怒鳴りつけてばかりいて、口うるさくものを言うお母さんを好きでいてくれてありがとう。

たまに感情に任せて必要以上に強く当たって、嫌われても仕方がないような、こんなできそこないの母を好きでいてくれてありがとう。

今日のこのことは、一生思い出に残るだろう。

ホワイトクリスマスの、とっても素敵な思い出。

私は大切にカーネーションの花を指でなぞった。

夏海の頬をなでるかのように。

愛してます。

これまでも、これからも。


おわり

長々とお付き合いいただきありがとうございました
アニメから入ったにわか勢ですもので、設定におかしいところ等あったかもしれません。許して下さい

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