ホル・ホース、メキシコに行く (155)

タイトルの通り、ジョジョの奇妙な冒険の二次創作です。
敵としてオリキャラとオリジナルスタンドが出ます。ご容赦。

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 メキシコ。チワワ州最大の都市、シウダー・フアレス。

 世界で二番目に危険な都市と呼ばれるここは、麻薬組織や営利誘拐組織の温床でありながら、同時に目覚ましい経済的発展を成し遂げているという、矛盾した性質を持つ街である。

 ここにはあらゆる人種が流入してくる。仕事を求める出稼ぎの労働者や、麻薬を購入しようとやってくる中毒者、度胸試しのつもりで旅行に来る若者。

 そして——殺し屋、暗殺者の類も。

 その男は、街の片隅にある小さな飲み屋のカウンター席で酒を飲んでいた。

 奇妙な格好をした男である。テンガロンハットを被ったその姿は、まるで西部劇に出てくるガンマンのようだった。

 先にも述べたが、シウダー・フアレスは治安が悪い。特にこのような場末の飲み屋ともなれば、利用するのは相応の人間に決まっている。

「よお、兄ちゃんよォ。室内では帽子は脱ぎましょうって、ママに習わなかったのかい?」

 その男に声を掛けてきたのは、先に酒を飲んでいた酔っぱらいの一人だった。既に相当の量を飲んでいるようで、足元も焦点も微妙に定まっていない。

 それでもなお強気なのは、背後に三人ほど仲間がいるからだろう。彼らも酔っているらしく、にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべながら、仲間の悪さを咎める風でもない。

「やめた方がいいぞ、ミゲル」

 唯一、グラスを拭いていた店主が、そんな風に警告を飛ばした。

「そいつに喧嘩を売るなら外でやってくれ。血をふき取るのは大変なんだ」

「んだよ、俺ぁよ、この新顔の兄ちゃんによ、ここでのマナーを教えてやろうってよ」

 呂律の回らない舌で喚く酔っぱらいに、店主もすぐ説得を諦めたらしい。視線を酔っぱらいから外し、テンガロンハットの方に向ける。

「アンタのことを知らないとさ。ブランクが長かったんじゃないかい? 今までどこで何をやってたんだ」

「ちょっとばかし、エジプトで仕事をな。いやまあ、儲けそこなっちまったんだが」

 ヒヒヒ、とテンガロンハットは奇妙な笑いを漏らした。


「おい、無視してんじゃ——」

 店主と親しげに話し始めたテンガロンハットに腹が立ったのか、酔っぱらい男が掴み掛かろうとした、刹那。

 テンガロンハットの腕が、刹那の内に持ち上げられた。
 軽く何かを握るような手つきで、ぴんと伸ばされた人差し指だけが、まるで何かを引くような動きを見せる。

 音はしなかった。酔っぱらいが転倒する音以外は。

「てめえ!」

 殴られでもしたと思ったのだろう。奥のテーブルにいた酔っぱらいの仲間が、激昂しながら立ち上がる。

 そちらを見もせず、テンガロンハットはきっかり三回、先ほどと同じように指を動かした。

「驚いたな。いつからそんな器用な真似ができるようになった?」

 奥のテーブルに突っ伏すようにして昏倒している三人を見ながら、店主は再びグラスを磨き始める。

 店主はこのテンガロンハットの男が持つ、"奇妙な才能"のことを知っていた。
 が、それは"男が指を動かせば、相手は血をぶちまけて死ぬ"という以上のものではなかったのだ。

 少なくとも、テンガロンハットがこの店から長らく姿を消す以前は、そうだった。

「ああ。まあ、前の仕事でへまをしちまった時に、ちょっとな。まさか自分の能力で自分を撃っちまうことになるとは思わなかった」

「そうか。意味は分からんが、清掃代を請求する手間は省けたというわけだ」

「そりゃあそんなもん請求されるなら、素直に表でやるさ。前みたいにな」

 咄嗟の動きで位置のずれたテンガロンハットを直しながら、男はまた奇妙な笑いを浮かべた。

 その笑顔に同調するような笑みを浮かべた店主は、

「そうか。それじゃあそろそろ店じまいだ。この四人は俺が外にほっぽり出しておいてやるから、お前も帰りな」

 なんて、無慈悲な台詞を吐き出した。

「おいおいおい! ちょっと待ってくれ!」

 一方、店主の台詞に泡を食った様子でテンガロンハットは、がたっ、と席をたった。

「オレが来たのは"仕事の情報"の為に決まってんだろうが! じゃなけりゃ誰がこんな小汚い店で飲むかよ!」

「悪いが、そういう請負はもうやめたんだ。あんたも来なくなったしな」

「なぁッ!? なら、何でそれを先に言わねえ!?」

「客が酒を求めたら、酒を出すさ。ここは血なまぐさい仕事情報を売る怪しい店じゃなくて、酒場なんだから。そうだろ?」

 ぐぅっ……とテンガロンハットが気勢を削がれたという風に呻き、やがてガタン、と力なく椅子に座りこんだ。

「じゃあどこで俺向きの仕事が受けられるってんだ? 金がねえんだよ。ここの支払いですっからかんだ。儲け損なったっていっただろうが」

「さあな。だが日雇いの仕事ならいくらでもあるぞ。道路工事に、ライン工に、とび職に……」

 店主が上げていく仕事に、テンガロンハットはもう口論する気も失せたとでも言いたげに手を振り、グラスに残っていた酒の滴を未練がましく舌の上に落とした。

 苦笑しながら、店主はそのグラスを受け取り、流しで洗い始める。

「まあ、なんだ。この街も変わり始めてるってことだよ。そいつは喜ばしいことじゃないか、なあ? ホル・ホース」

◇◇◇


「何が喜ばしいってんだ、畜生!」

 夜。人が溢れる大通りで、人目も憚らずテンガロンハット——ホル・ホースは叫んだ。

 幸い、奇異の目では見られない。つまりまあ、そんなには。精々、彼の周囲三メートルにいた人間が彼をちら見する程度で、
 それもすぐに視線を思い思いに逸らした。その程度には、周囲は喧騒に満ちている。

 マリアッチが音楽を奏で、食べ物の屋台では豪快な肉の塊が売られている。酔っぱらいがあちこちで歌ったり叫んだり、あるいはどちらともつかない奇声をあげていた。

 世界で二番目に危険な街という不名誉な称号を与えられていようが、その中ですら、人々はそれなりの幸福を享受している。

 ホル・ホースもやけっぱちになりながらも、サルサ・ソースのたっぷりかかったタコスを頬張っていた。

 メキシコは物価が安い。1ドル程度の金額で、こういう軽食が3,4個は食べられる。

 だがその物価の安さも、ホル・ホースを慰めることはなかった。正確には、ホル・ホースの財布をだが。
 さっき酒場でも言った通り、彼はもうほとんど文無しである。明日の宿代にも事欠く始末だ。

 というのも、彼は半年ほど前、エジプトで非常に高額な仕事を受け、その金が入ることを見越して、ぱあっと派手に遊んでしまったのだ。彼のガールフレンド達と一緒に。

 で、結果として仕事は失敗。何とか事前に受け取っていた前金のお陰で入院費を支払い、
 エジプトから故郷であるアメリカ、そして以前の稼ぎ場だったメキシコまでは来ることができたのだが、あとは先の通りである。

「はあ。そりゃあ、不幸になる女が減るのは喜ばしいことだけどよ……」

 世界で二番目に危険な街。シウダー・フアレス。だがホル・ホースがエジプトに経つ前、この街はこう呼ばれていた。世界で一番危険な街、と。

 つまりは、急速に治安が回復しつつあるというわけだ。

 懇意にしていたブローカーによると、それはここらの犯罪組織が急速に統合され始めたせいらしい。

 それによって抗争が減り、また、その組織が目を光らせている為、チンピラの暴挙も成りを潜めているというわけだ。

 確かに喜ばしいことだったが、それで稼げなくなってしまいました、というのは笑い話にもならない。

 ホル・ホースは所謂殺し屋だった。彼には特殊な才能が有り、それを利用することで、数々の仕事をこなしていた。ここらでは少し名の知れた存在だったのだ。

 が、この騒々しい街はその名前を半年足らずで吹き飛ばした。もうどのコネも利用できそうにない。別の町に行こうにも、路銀はない。

 完全に詰んでいた。

「もういっそ、日雇いの仕事でいいからするか……? いやいや待て待て、このオレが真面目に労働? 柄じゃねえぞ、ほんとに」

 タコスをぱくつきながら、暗澹とした気持ちで夜道を行くホル・ホース。もっとも、夜道というほど暗くはない。シウダー・フアレスの夜は周囲のネオンで煌々としている。

 ——だが、そこに闇がないわけではない。


 ホル・ホースは、その視界の隅で起きている、奇妙な動きを見逃さなかった。

 十代半ば、あるいはもう少し幼いだろうか。綺麗なブロンドの髪を肩口で切りそろえた少女が、男三人に抱えられるようにして歩いている。

 それだけなら、なんの変哲もない光景だっただろう。酔った女を開放する男友達。
 男たちの格好もあからさまに怪しい黒スーツというわけではなく、若者らしいラフな格好だ。

 だが、それでホル・ホースの目を誤魔化せるはずもない。
 彼らは明らかに非合法な犯罪を行う輩で、少女はその被害者だった。そういう匂いは、衣服では誤魔化せない。

(誘拐か)

 人目のある場所にいるなら安全、というのは、実のところ安全大国を謳われる日本でさえ浸透している"間違った認識"である。

 実際、誘拐事件の半数以上は、こういった人ごみの中で行われているのだ。

 さて、とホル・ホースは呟くと、彼のトレードマークであるテンガロンハットを被り直した。

 被害者が女性でなければ、放っておいても良かったのだが。

「運が悪かったなぁ。ま、文字通りオレの目の前で女に手を出したのが運の尽きってわけよ」

 そう言って、右腕を掲げる。酒場で見せた時のように。

 そうして持ち上げられた手の先から、常人には見えない、だが確かに存在する奇妙な力が湧いてきた。

 生命エネルギーをパワーのある像、ないし現象として発現させる力。それがホル・ホースの才能——俗に"スタンド"と呼ばれる超能力だ。

 この才能は、ホル・ホースだけに備わったものではない。

 この才能を持つ者はスタンド使い、あるいはスタンド能力者と呼ばれ、ある者はホル・ホースのように利己的な目的にそれを使い、
 ある者は正義のためにそれを使い、ある者は自身のそれを制御できず自滅するという、なんにせよ非常に危うい一面を孕んだ力であった。

 そうして、ホル・ホースの"スタンド"が、そのヴィジョンを手の中に発現させる。

 スタンド能力、と一概に言っても、その発現の仕方は個人個人で違うものだ。似たようなタイプこそあれ、完全に同じ、というのは有り得ない。

 ホル・ホースのスタンドは拳銃の形をしていた。彼にとって力強い武力の象徴、リボルバー。ホル・ホースはこれを≪エンペラー≫と呼んでいる。

 誘拐犯からホル・ホースまでの距離はおよそ10メートル。余裕で射程範囲内だった。

 人ごみでごった返す大通り。その中で、ホル・ホースは躊躇いもせずに≪エンペラー≫を作動させた。

 拳銃のヴィジョンから、弾丸が発射される。撃鉄は刹那の内に三度落ちた。三発の弾丸が、銃声とともに発射される。

 スタンドは、同じスタンド能力者でなければ認識できない。その銃声も同じくだ。周囲を歩いている人間は、誰一人としてホル・ホースの方を向こうとしない。

 もちろん弾丸が人を貫けば別だろうが。ホル・ホースと誘拐犯の直線上には、何人もの人がいた。

 もしも≪エンペラー≫がただの拳銃だったのなら、ホル・ホースはこの街では珍しくもないイカれた殺人者の仲間入りを果たしただろう。

 だが、彼の≪エンペラー≫はただ見えない銃というだけではない。

 発射された弾丸は、まるで海を泳ぐ魚のように弾道を自在に変化させ、人ごみをすり抜けた。
 若者の脇の間、老人の杖の横、御婦人のスカートの下——それらを綺麗に通り抜けて、弾丸は、

「あ?」

 ホル・ホースが間の抜けた声をあげる。


 十メートル先では、誘拐犯たちは先の酒場の再現の如く、完全に昏倒していた。

 弾丸の威力を"弱くする"のは、ホル・ホースがカイロで自分を撃ち抜いてしまってから身に着けた技だ。
 もうほとんど能力として完成していた≪エンペラー≫の、最後かもしれない成長である。

 だが、そんなことはどうでもいい。ホル・ホースはびっしりと顔中に冷や汗を浮かべながら、早足で彼らの元に向かう。

 男たちは全員気絶し、女も倒れている。周囲の人々がなんだなんだと騒ぎ始める中、ホル・ホースは大声を上げてその輪の中に入って行った。

「あーあー! だから飲み過ぎだっていったんだよお前ら! ったく、大丈夫だっていうからレディの扱いを任せたのによぉ!
 もういいから、彼女は俺が送ってくぞ。親父さんがうるさいからな。ああ、そこの露店のおっさん。悪いけどちょっとこいつら頼むわ。すぐ起きると思うから」

 適当な嘘八百を並べ立てながら、ホル・ホースは少女に肩を貸し、立ち上がった。

 なにか薬物でも打たれたらしく、少女は転倒した衝撃にも目を覚まさず、すやすやと安らかな寝息を立てている。

 そのままそそくさと人の目から逃れるように、適当な路地裏に逃げ込む。

 表通りの喧噪が嘘のように、路地裏は真っ暗で、饐えた臭いがして、静かだった。その中を、ホル・ホースは焦るような早足で行く。

(やべえやべえやべえ! いらんことに首突っ込んじまった!)

 銃弾は確かに命中した——振り返った男たちの額に、だ。

 スタンドである≪エンペラー≫の発砲音は、同じスタンド使いにしか認識できない。

(そりゃあつまり、あいつらがスタンド使いだったってことだ。んでもってこのお嬢ちゃんはスタンド使いを何人も手元に置いておけるような奴が狙ってるってことで——)

 それこそ、あのDIOのような。

 その名前を思い出して、ぞくりとした怖気がホル・ホースの背筋を撫でた。

 この街は非常に暑いが、それでもなお、その熱気が感じられなくなるほどに、その名前はホル・ホースにとって完全なトラウマになっている。

 あのジョースター一行は最終的にDIOに勝利したと風の噂に聞いたが、ホル・ホースは未だにそれが信じられなかった。

 今でもジョースター一行を暗殺しろと言われればその仕事は受けるし、それが絶対に不可能だとも思えない。
 ある程度の報酬が約束されていて、信頼できるパートナーさえいればの話だが。

 だが、DIOは違う。仮に誰を相棒にしようが、世界中の黄金を積まれようが、絶対に敵に回したくないと思わせる。
 それがDIOの備えていた雰囲気というか、カリスマだった。

 もうこういう輩には関わりたくない。だが女を置いて逃げるというのも、ホル・ホースとしては選びたくない選択肢だ。それが何かの作戦だというなら別だが。

 どうすればいいのか。だが彼に迷う時間は与えられなかった。


「そこまでだ。女を渡してもらおう」

 ホル・ホースの進路を塞ぐように、暗がりから一人の男が出てくる。

 そいつは先ほどの誘拐犯とは違い、どうみてもマフィアだと分かる出で立ちをした黒スーツの男だった。

 この暗闇の中でさえそれと分かるほど鋭い眼光を浮かべ、ホル・ホースと、彼が抱き上げている少女を睨みつけている。

 ホル・ホースは浮かべる冷や汗の量をさらに増やしながら、ヒヒヒ、と余裕のない笑いを浮かべた。

「大勢の男が、こんな小せえ嬢ちゃんを追っかけまわして恥ずかしくないのかい? ロリコンかあんたら」

「……なんだと? "ホイットニー・ハート"の手の者ではないのか」

 黒スーツが訝しげな口調で呟く。

 ホル・ホースはその言葉を聞いて、さらにやばい事態に巻き込まれてしまったことを悟った。つまり、これは組織同士の抗争なのだ。

「ならばその女を庇いだてる必要もないだろう——女を置いて行け。私の部下を殺さずにいてくれた礼だ。お前のことは組織に報告しないでやる」

「ヒ、ヒ、ヒ。んなこと言ったって、そしたらお前さんらと抗争してる組織の方が俺を狙うだろうが!」

「本当に何も知らないのか。"ホイットニー・ハート"は危険な組織ではない。少なくとも、私達ほどはな」

 言外に、要求を呑まないならこちらは武力行使を厭わないぞ、というニュアンスを含ませて、黒スーツは最後通牒を送ってきた。

「最後だ。女を、置いて行け」

「……お前さんの言うことは、信用できねえ。女を見捨てるっていう選択肢も、このジャン・ピエール・ポルナレフ様は選べねえ」

 姑息に偽名を名乗りつつも、ホル・ホースは既にその決断を終えていた。

 冷や汗は引き、震えは止まり、完全な暗殺者としての風格をその身に纏う。

「なら、こうするしかねえよなぁ!」

 能力を使用するのに僅かな思考すら必要としない、熟練したスタンド使い。それがホル・ホースだ。

 腕を掲げ、≪エンペラー≫を出現させる。何度も反復したその動作は、まさに早撃ちのガンマンのもの。

 時間にして一秒足らず。放たれた弾丸は十を超えている。スタンドの拳銃に、リロードの必要はない。思う存分弾幕を張れた。

 スタンド使いにしか認識できないマズル・フラッシュが暗い路地裏を明るく照らす。

 今度は手加減のない、殺すつもりで放った銃撃。銀の猟犬が、複雑な軌道を描いて黒スーツに接近し、

「無駄だ——我が≪メルトダウン・アッシュ≫の前に、お前のスタンドは完全に無力だ」

 その全てが、叩き落とされた。


 いつの間にか黒スーツの前に、黒スーツを守るようにして、人影が佇んでいる。

 全身に小さな注射器が刺さりまくっているという、グロテスクなフォルム。それがこの黒スーツのスタンドらしい。≪メルトダウン・アッシュ≫といったか。

 それが、拳の連打で≪エンペラー≫の弾丸を全て払い落としていた。

「くっそ、近距離型かよ……! 相性最悪じゃねえか!」

 スタンド能力にはいくつか原則がある。その一つが、『スタンドはパワーと射程距離が反比例の関係にある』というものだった。

 遠くまで影響及ぼせるスタンドはパワーが弱く、近くにしか影響が及ぼせないスタンドはパワーが強い。

 ホル・ホースの≪エンペラー≫は遠くに攻撃できる分、その破壊力は拳銃以上のものにならない。

 対して近距離型のスタンドの破壊力は凄まじい。ホル・ホースの知っている近距離パワー型のスタンド使いは、ダイアモンド並の硬さを持つ鉱物の歯を粉々に砕いたという。

 おまけにこの≪メルトダウン・アッシュ≫というスタンドは精密性もトップクラスらしい。

 それぞれが思い思いの軌道を描いていたはずの≪エンペラー≫の弾丸を全て弾き落としたのがその証拠。

 ≪エンペラー≫はシンプルなスタンドだ。弾丸を発射して、その弾丸の軌道を操作できて、加えて弾は尽きない。

 それ以上の能力はなく、それが通じないこの手の敵は、ホル・ホースの天敵と言っていい。

 だが黒スーツは首を横に振った。

「そうではない。お前は運が良かった。見ろ、俺の足元を」

「ああん?」

 言われるままに——ただし敵から意識は外さず——敵の足元を見る。

 そこには弾き落とされた≪エンペラー≫の弾丸があった。ただし、まるで高熱に晒されたかのような溶けた状態で、だ。

 ≪メルトダウン・アッシュ≫——どうやらそれは名前通り、触れた相手を問答無用でドロドロに溶かしてしまうという、危険なスタンドであるらしい。

 これが近距離パワー型であったら、初撃で終わっていたということだ。防御は無意味。攻撃も、相打ち以上なら必殺の一撃になる。

「げ……げええええええッ!?」

「安心しろ、溶けるのは一瞬だ——痛みを敵に与えない私のスタンドは、もっとも優しいスタンドだと組織内でもっぱらの噂だ」

「そんなに優しいなら見逃してくれよ!」

「駄目だ。お前はすでに敵対している——このまま溶けて、アスファルトのシミになって貰おう」

 そう言うや否や、黒スーツはゆっくりとホル・ホースに向かって歩いてきた。同じくして、≪メルトダウン・アッシュ≫も前進する。

 走らないのは意識を集中させている為だろう。だがそれにしろ、ホル・ホースと≪メルトダウン・アッシュ≫の距離は10メートルも離れていない。

 このままでは30秒も経たない内にホル・ホースはオートミールのようにドロドロになってしまうだろう。


「こなくそッ!」

 ≪エンペラー≫を我武者羅に撃ちまくる。だがどれだけ弾道を操作しても、黒スーツは歩きながらそのすべてを叩き落とし、溶かし尽くした。

 もう≪メルトダウン・アッシュ≫の射程まで5メートルもない——というところで、ホル・ホースは≪エンペラー≫を撃つのをやめた。

 無駄を悟り、覚悟を決めたか——無論、そんな殊勝な精神をこの男が持っている筈もない。

「そ、それ以上近づいたら、この嬢ちゃんの頭を吹き飛ばすぞ!」

 ホル・ホースは≪エンペラー≫の銃口を自分が抱えている少女の耳の辺りに押し付けていた。これでは、どちらが悪役かわからない。

 ——もちろん、二人とも悪党なのだが。

(すまねえ! だがマジで撃つ気じゃないから勘弁してくれよな!)

 あの表の通りで昏倒させた三人のスタンド使いは、わざわざこの少女を運ぼうとしていた。

 それはつまり、この黒スーツが属する組織は、少なくともすぐには少女を殺すつもりはないということだ。

 そしてそれを証明するかのように、黒スーツの足も止まっている。暗がりでよくわからないが、黒スーツは僅かに顔をしかめたようだった。

「人質のつもりか。それで、どうする? ここでこうやって永遠に睨み合ってるか?」

「いやいやいや、んな面倒くさいことはしねえぜ」

 ヒヒヒ、とホル・ホースは嫌らしい笑みを浮かべ、

「もう分かってると思うが、オレの能力はスタンドの銃で、弾道を自在に操作できるっていうもんだ。
 だからつまり、こういうこともできる」

 そういって、ホル・ホースは再び銃口を盾にした少女の顔の横から突出し、黒スーツに向けた。

「近づくなよ? 動くなよ? そしたら弾丸を即座にUターンさせて、このお嬢ちゃんの額に穴を空けてやる。
 んじゃまあ、鴨撃ちの的になりなぁ!」

 再び、連射。黒スーツは言われた通り、その場から動かず連射される弾丸を防御することに徹した。

「ヒヒヒヒ。確かにお前さんのスタンドは強ぇ。だが見たところ、射程は半メートルってところだろ?
 銃は拳よりも強し! 名言だなこいつは! 俺はお前を一方的にここから攻撃できるが、お前はできねえ!
 さてその防御、いつまで保つ? 一発でも防ぎ損ねりゃ終わりだぜ!」

「なるほど。考えたな」

 感心した、という風に黒スーツは頷いて見せた。

 だが胸中は、ホル・ホースへの侮蔑に満ちている。


(馬鹿か、こいつは。持久戦なら分があるとでも思ったのだろうが……それはこちらも望むところだ)

 今この周囲に居る組織の仲間は表通りで気絶している三人だけだが、その三人とて武闘派のスタンド使いだ。

 そう長くは気絶していないだろうし、仮に数時間この状態が続いたとしても、黒スーツは全ての弾丸を叩き落とす自信があった。

 ≪メルトダウン・アッシュ≫は典型的な近距離パワータイプだ。破壊力、スピード、精密性。その三点に特化している。

 さすがにこの暗闇の中、発射された弾丸を全て視認することはできないが、拳から数十センチ程度のところまでくればそれも見えるようになる。

 そして、≪メルトダウン・アッシュ≫のスピードなら、その距離からで十分、迎撃が間に合うのだ。向こうに勝ち目はない。

 それから、十分も撃ち合っただろうか。

 唐突に、銃火は止んだ。連続していたマズルフラッシュが消え、再び暗闇が路地裏を覆い尽くす。

 だが静寂は未だに破られていた——ぜぇはぁと、みっともなく荒い呼吸を零すホル・ホースのせいで。

「はぁはぁ……どうよ! もう降参したくなっただろうが! 泣いて謝れば、見逃してやってもいいぜ!?」

「……いいや。もう少し、というところだな」

 その自信は何処から出てくるんだ、と言いたげな呆れ顔で黒スーツが呟く。

 だがその返答に、ホル・ホースは狼狽したように数歩、後ずさって見せ、

「……さいならッ!」

 あろうことか、抱えていた少女を放し、≪エンペラー≫を消すとくるりと後ろを振り向いて全力疾走を始めた。

(馬鹿が——逃がさん!)

 それを追い、黒スーツも走り出す。

 敵はスタンドを消した。もはや銃撃を警戒する必要はない。仮に再び不意打ちしてきても、止まって叩き落とせばいい話。

 この時、黒スーツはホル・ホースを完全に侮蔑しきっていた。唯一の利点である人質を捨て、敵に背中を曝すなど、プロがやる仕事ではない。

 ——もしもホル・ホースがエジプトに行かず、まだこの街で名声を保っていれば。ホル・ホースがプロ中のプロだと知っていれば。

 あるいはホル・ホースがわざわざ"スタンドを消して見せた"ことに疑問を抱けば、黒スーツの勝利は揺らがなかったかもしれない。

 だがそんな仮定に意味はなく、黒スーツは既にホル・ホースの罠に嵌っていた。


「っ、おおおッ!?」

 突如、黒スーツが驚愕の声をあげて転倒する。全力疾走中の、予期せぬアクシデント。受け身すら取れず、黒スーツはしたたかに背中を路上に打ち付けた。

 衝撃に息が詰まる。それは完全な"隙"だった。

(な、なんだ——なにが起こっ)

「ヒヒヒ。油断しすぎだぜ、えーと……ああ、名前知らねえや。まあいいけどよ。俺が女を放っぽり出して逃げるわけねえだろうが」

 くるりと再び振り返ったホル・ホースが、ゆっくりと歩きだす。その顔に勝利の笑みを浮かべながら。

「お前さんがすっ転んだのは、地面にばら撒いといた≪エンペラー≫の弾丸を踏んづけたからだよ。真っ暗で良く見えなかったかい?
 それともスタンドが消えて油断したか? 生憎、弾だけ残しとくって芸当もできるんだ、俺は。
 そして俺が撃った弾丸は、全部が全部お前に溶かし尽くされたわけじゃねえ——
 何百発か撃った内の、その内の何十発かはお前さんを狙わず、下に落としといたのさ。地面にめり込まねえよう威力を弱めてな。
 持久戦をする"フリ"をしたのは、この布石を作る時間が欲しかったからでね」

 ——などという説明を長々とする筈もなく、黒スーツが転んだ瞬間には、ホル・ホースは再び出現させた≪エンペラー≫で男の額と心臓を撃ち抜いていた。

 やれやれ、と首を振りながらホル・ホースは寝転がっている少女の元に戻ってくる。

「しかし、どうするかね。抗争に巻き込まれるのはごめんだが、もう巻き込まれちまってるし。この嬢ちゃん側の組織に着くしかないのか?」

 一番いいのは今すぐこの街から逃げることだろうが、なにしろ先立つものがない。

 ぼやきながら、少女を抱き起す。見ると、少女は地面に顔を打ち付けたらしく、額が赤くなっていた。これは翌日になれば青痣になる腫れ方だ。

「あーあー、綺麗な顔が台無しだ。一応、優しく放したつもりなんだが」

 ホル・ホースは女性を尊敬している。女性にだけは暴力を振るったことがないのが自慢だ。

 これは暴力の内に入らねえよな? うん、セーフだセーフ。

 などと胸中で自己弁護をしつつ、少女を再び抱き上げる。薬を打たれたのなら、どうせ起こそうとしても無駄だろう。

 とりあえず、どこかに身を潜める必要がある——


「う、うーん……」

 そんなことを考えていた矢先、少女がうめき声を上げながら、もぞもぞと身じろぎし始めた。

「ん? 起きたのか、早ぇな」

 言いながら、ふと、ホル・ホースは違和感を覚える。

 転倒の衝撃でも目を覚まさなくなるほど強い薬を使ったのなら、こんな短時間で起きる筈がない。

(敵のスタンドの能力だったのか? だがそれなら、昏倒させた瞬間に解除される筈だし——)

「あ、あのぅ……」

「あ、ああ。すまねえな、嬢ちゃん」

 考えている最中に、少女は完全に覚醒したらしい。ホル・ホースは抱えていた少女を開放すると、敵意はないという風に両手を軽く挙げて見せた。

「オレはホル・ホース。敵じゃねえよ。逆だ。お嬢ちゃんを助けたナイト様ってわけだな、ウン」

「はぁ、それはそのぅ……ありがとうございます?」

 微妙に焦点の合ってない瞳と間延びした声のせいで、どこかふにゃりとした感じのする少女だった。

 あと数年もしたら、ほんわか系の美人になるかもな、などとホル・ホースが思っていると、少女は辺りを見渡し、あれぇ? と間抜けな声を上げた。

「私、ケバブを食べて……そしたら急に眠くなって……あれぇ? ケバブはどこ? それとウーゴは?」

「ウーゴ? そいつは知らねえけど、嬢ちゃん。攫われそうになってたんだぜ? で、そこを俺が助けたってわけだ。
 なあそれで頼みがあるんだが、詳しい事情も聞きてえし、とりあえず嬢ちゃんの組織の事務所かなんかに案内してくんない?
 えーと、なんつったか……ホイットニー・ハートっつったか?」

「ああ、病院に」

「病院? いや、違えよ。ホイットニー・ハート。もしかして知らなかったり?」

「だから、病院ですよ。ホイットニー・ハートって。私、そこで働いてるんです」

「は? 病院だ? しかも働いてるって……」

 どうみても、この少女は十代にしか見えない。おまけに所属してるのは裏の組織ではなく、病院?


(変なとこ打って、頭のネジを落としでもしたのか?)

 話を聞いても埒が明かない。むしろ謎が増えるばかりだったので、ホル・ホースはこの少女との会話を放棄することにした。

「わーった。よし、じゃあその病院に行こう。ついでに湿布でも貰って、嬢ちゃんの額の怪我も見て貰おう」

「え、怪我? 怪我してますか、私?」

「あーそうだよ。おでこを打って、腫れちまってる。痛くないのかい?」

「痛くないです。昔から、そうなんですよ」

 えへへ、と笑う少女に、「ああ、あんた神経鈍そうだもんな」という台詞をホル・ホースはぐっと飲み込む。

「じゃあ、とりあえず表通りに出ましょう。そうすれば場所は分かります——って、わあ!?」

 先導しようと歩き出した少女が、唐突にこけた。流石に今度はホル・ホースも慌てる。

 というのも、少女はホル・ホースが消すのを忘れていた≪エンペラー≫の弾丸を踏んだせいで転んだからだ。

「だ、大丈夫か? 悪いな、わざとじゃなかったんだが——」

「び、びっくりしました……何もないはずなのに、ビー玉みたいなのを踏んづけて……」

「あん?」

 どうやら、この少女はスタンド使いではないらしい。

 暗くて見えないだけかとも思ったが、表通りに出て、現場が見えない程度に離れた距離から昏倒させた三人を≪エンペラー≫で射殺した際も、
 少女は何の反応も示さなかった。銃声に驚くこともしなかったのだ。

(スタンド使いでも無い、こんなトロくさい嬢ちゃんを狙うってのは、どんなわけだ?)

 増えるばかりの謎に、せめて少しはそれを減らしてくれる人物がいることを願いながら、ホル・ホースは少女の後をついて行く。

いったん終わりです

投下。説明回につき、退屈。ご容赦。


 結論から言えば、ホイットニー・ハートはホル・ホースが想像するような病院ではなかった。

 ホル・ホースも病院とは慣れ親しんだものである。前の仕事でしくじった時は、それこそ長期間お世話になっていたのだから。

(そういや、オインゴとボインゴの野郎どもはあれからどうしたかね?)

 かつての仕事仲間だった兄弟のことを思い出す。半年も仲良く一緒の病室に居たのだから、それなりに友好関係も築けるというものだ。

 特に一時はコンビを組んだこともあるボインゴは、何があったのか前に輪を掛けてと根暗な性格になっていたが、
 それでも性根の一部が改善されたらしく、これからは予知の能力をもっといいことに使うのだ、とボソボソ呟いていた。

 まあ、過ぎたことはいい。それよりも今のことだ、とホル・ホースは煙草を咥えながら改めて施設を見渡した。

 少女を助けたのは、既に昨晩の出来事だ。

 あの少女を送り届けた後、ホル・ホースは夜も遅いからということで仮眠室を借り、そうして現在、こうして咥え煙草で施設の中を歩き回っている。

 禁煙が徹底されていない辺り、やはりここはホル・ホースが入院していたような普通の病院ではない。

 だが、あの少女の言うことが完全に間違っていたわけでもなかった。

「薬物依存症患者の、療養施設ねえ」

 つまりは麻薬中毒者やアルコール依存症の落伍者たちを押し込め、薬断ちをさせ、更生させる施設ということだ。

 ホル・ホースがその名前を聞いて抱いた感想は、そんな乱暴なものだった。だがまあ、大きく外れてはいまい。

「はい。そうなんです。彼女——パニ君は、非常に優秀な……いえ、異常に優秀なスタッフでして」

 施設を見て周っているホル・ホースの前を、小柄な老人がにこやかな笑顔を浮かべながら先導していた。

 老人の名前はフランシスコ・セディージョ。通称パキートと呼ばれる、この施設の所長を務めるメキシコ人だ。

 ホル・ホースが少女——パニという名前らしい——を送り届けた際、丁寧に対応し、きちんとお礼まで支払ってくれた。

 常に朗らかな笑いを浮かべる、まるで牧師のような雰囲気のこの男には、さしものホル・ホースといえども悪感情を抱きにくい。

 "お礼"として包んでくれた現金が、かなりの額だったということもあるが。


「しっかし、あの嬢ちゃんが優秀なスタッフねえ。そりゃ、他の連中がよっぽど使えないってことか?
 どう贔屓目に見たって、あー……テキパキ働けるようには見えねえが」

 かなり言葉を選んで発言したホル・ホースに、パキート老人も苦笑で応えた。

「ええ、まあ、壊れやすいものを運んだりする際は、彼女にはお願いできませんが……しかし、彼女が得難い人材なのは確かです」

「はあ。まあアンタがそういうなら、オレが口を挟むことでもねえけどよ」

 この老人は、ホル・ホースが抱いていた疑問のほとんどを解決してくれた。

 ホイットニー・ハートについての説明をしてくれたのも彼だし、
 パニを狙った相手が、酒場の店主が言っていた"ここ最近、ここら辺の犯罪組織を急速に統合している組織"だと教えてくれたもの彼だ。

 そして今、あの少女が狙われる理由を見せてくれるということで、施設の見学がてら案内されているというわけだった。

(しっかしまあ、ガチで不味いな、こりゃ)

 テンガロンハットを手で押さえながら、溜息を吐く。

 半年前。この街がまだ世界で一番危険だった時。

 ホル・ホースのような、スタンドを悪用して殺し屋や組織の用心棒におさまっている連中というのは結構な数がいたのだ。

 それがいまやほとんど全員、例の組織に吸収され、傘下になっているらしい。それであのスタンド使いの数というわけだ。

(ジョースターどもがどれだけイカれてたのか分かるってもんだぜ。普通なら尻尾巻いて逃げるとこだ)

 こりゃあオレもさっさとトンズラこかねえとな、などと後ろ暗い決意を固めていた時、目の前の老人が立ち止まった。

 どうやら目的の場所に着いたらしい。とはいえ、パッと見は先ほどまで歩いていた廊下と変わらないが。

「ご覧ください。いまから治療が始まります」

 そう言って、パキート老が指し示したのは壁にはめ込まれている大きな窓ガラスだった。


 ただし、それは採光のための窓ではなく、まるで警察署の取調室のような、建物の内側を見る為の窓である。

 そこからは、ホル・ホースのいる廊下よりも、一段低くなっている部屋の中を見ることができた。

 白い、シンプルな部屋だ。家具や治療器具の類はほとんどない。あるのは部屋の中心に固定された頑丈そうな造りのベッドと、

「彼女が患者です。重度のコカイン中毒者。薬を奪うために売人を一人と、酒場で銃を乱射して五人を殺傷した、凶悪犯です」

『ガアアアアアあアアアアアアアアァァアアフッ!』

 ベッドにはひとりの女性が頑丈なベルトで厳重に括りつけられていた。

 年のころは二十代半ばほど。だが涎をまき散らし、犬歯を剥き出しにして吼えるその凶相からは、女性としての魅力など感じることはできないだろう。

 狼に育てられた狼少女の成れの果て、と言われた方がまだ信じられる。

 ホル・ホースも裏社会の人間だ。薬に関してはある程度の知識もある。

 だが、これは。

 ここまで薬に破壊された人間というのは、見たことがない。それも、彼の尊敬する女性という生き物が、だ。

「……えげつねえ」

 視界を覆うように、帽子を深くかぶり直す。構わず、パキート老は続けた。

「彼女は警察からの依頼です。護送や拘置に支障がでるので、治療をして欲しいとのことで」

「……できるのか?」

「数年がかりの治療になります——本来なら」

 なにか含むところがある老人の台詞に、その真意を問いただそうとして、

「……なッ!?」

 眼下の部屋に、昨晩助けた少女——パニが現れるのを見て、絶句する。

「おいおいおい、大丈夫なのか!? あのトロくさい嬢ちゃんを一緒にしちまって!」

 思わず詰め寄り、パキートの胸ぐらを掴んで問いただす。だが、パキートはさほど狼狽もせず黙って頷き返した。


 そうしている間に、眼下の部屋で事態は進行していく。入ってきた刺激に、患者はさらに酷く暴れ始めた。

 『殺す』だの『食いちぎってやる』だの『この淫売』だの、口汚く罵ってくる患者に、
 パニはまるでその意味が分からないとでも言うかのように、笑顔を浮かべて近づいて行く。

(本当に平気なんだろうな……?)

 気のせいか、患者を拘束しているベルトが、だんだん緩んでいるようにも見える。
 
 そして、それは気のせいではなかった。

「あ、危ねぇッ!」

 ホル・ホースの悲鳴と同時、ベルトを止めていた金具が弾け飛んだ。

 患者の右腕が自由になり、それが既に十分近づいていたパニに向かって振るわれる。

「糞が!」

 ホル・ホースは瞬時に≪エンペラー≫を手の中に出現させた。

 そして窓ガラスに銃弾を叩き込み、叩き割って中に押し入ろうとして、

「……おいおい、こりゃあ」

「そうです。これが、彼女が"異常"に優秀なスタッフである理由です」

 部屋の中の光景が一変していた。その異常さに、ホル・ホースは息を飲む。

 患者の右腕は振るわれ、パニの二の腕辺りに触れた——触れただけだった。触れた瞬間、患者の腕からすとんと力が抜ける。

 抜けたのは腕の力だけではない。患者はその全身からゆっくりと力を抜き、
 まるでアロマオイルの焚かれた部屋の中で、風呂上りのストレッチをしてリラックスでもした後のように、その表情を穏やかなものに変えていた。

『大丈夫、大丈夫ですよ……』

 パニはあのふんわりとした笑みを絶やさぬまま、患者を縛っていたベルトを外していく。

 患者はもう暴れることをしなかった。ただただ穏やかな表情で、だが己の犯した罪に気づいたかのように涙を流しながら、パニに促されるままに立ち上がる。

「何だ、ありゃあ——何が起きたってんだ。まさかオレをペテンにかけたわけじゃねえだろうな?」

「パニ君は、触れただけで中毒患者を"治療"することができるのです。ほんの一瞬で。どんな重度の患者でも。
 完全に依存性を消滅させ、傷ついた神経系すら回復させてしまう——それが彼女の"才能"なのです」

「どういう仕組みだ。スタンド使いでもねえんだろ、あの嬢ちゃんは」

 パキート老人はスタンド使いでこそないが、そういう能力が存在することは知っているということだった。

 パニが狙われるようになってからは、その護衛にスタンド使いを雇っているという。

 だがホル・ホースの質問に、パキートは首を振った。

「分かりません。検査はしたのです。ですが血液検査も、尿検査も、レントゲンも、MRIも——あらゆる検査で、彼女は普通の人間でした。
 とびきりの健康体、ということしか分からなかったのです」

「……」

 専門家にそう言われてしまえば、門外漢であるホル・ホースは黙るしかない。

(さっきはああ言ったが、マジでペテンってこともねえだろうしな……意味がねえし、実際、あの嬢ちゃんは追われてた……追われてた?)

「なあ爺さんよ。嬢ちゃんが何かすげーのは分かった。だが、それと嬢ちゃんが狙われる理由ってのがどう関係する?」

「……それについては、私のオフィスで説明しましょう」

◇◇◇


「これです。これが、例のパニ君を狙っている組織がばら撒いている新しい"麻薬"なのです」

 パキート老人のオフィスで、応接用のテーブルを挟んでホル・ホースと老人は向かい合っていた。

 そのテーブルの上に、ことり、と透明な容器が置かれる。だが音からして、ガラス製ではないだろう。
 つまり、それだけ割れるのを警戒しているということだ。

「これが、か?」

 ホル・ホースはその容器を満たしている、鮮やかな赤い粉末を眺めた。
 素手で触れないようにと事前に忠告されている為、犬食いでもするかのように顔をテーブルに近づけて、だ。

「ロッホ・サル——この国の言葉で、"赤い塩"という意味の名前で流通しています。
 原料は不明で、再現もできません。例の組織が急速に拡大したのも、この麻薬の力のお陰のようなものです」

「そいつはどういう意味だ?」

「この薬は非常に強力な依存性を持っています。さらに浸透圧が恐ろしく高い。つまり肌に触れるだけで吸収され、効果を発揮する。
 つまりは広まりやすい。この街に出回ってるクスリの7割は、すでにこいつにとって代わられました。
 おまけにこいつが厄介なところは、その……」

 認めたくなかったのか、パキートは言葉を探すようにしばらくもごもごと口の中で舌を動かした。だがすぐに観念したようにその言葉を紡ぐ。

「……どう考えても、肉体的な健康の向上には役立つ、というところです」

「健康にいいだぁ? 麻薬なんだろ、これ?」

 疑わしく、ホル・ホースはその"赤い塩"とやらを見つめた。毒々しい色をしたその粉は、どう見ても健康食品の類には見えない。

「はい。悔しいことに、事実です。それがまた、この薬が広まっている理由のひとつで」

 若い少女たちや、金持ちの主婦など。美容目的でこの薬を使う者が後を絶たないのだという。

「っても麻薬だろ? 麻薬って言ったらアレだ。こう、神経をボロボロに溶かしちまうんじゃないのかい?
 直線や円を上手く引けなくなっちまった患者の絵とか、どっかで見たことあるぞオレ」

「いえ、全ての麻薬が肉体の機能を損なう、というわけではありません。
 この国で所持が合法化されているコカインやマリファナも、実際問題になっているのは依存症だけです。
 他にも、例えば覚醒剤として有名なアンフェタミンは、ほぼ肉体を損なうことなく、精神のみを高揚させることができます」

「じゃあ別に問題はないじゃねえか。好きにやらせとけよ」

「本気で仰っているので?」

 つい口を滑らせたホル・ホースを、パキート老が悲しげな瞳で見つめた。

「先ほどの患者を見たでしょう。彼女もコカイン中毒者なのですよ?」

「あ、ああ。そうだったな。悪かった。スマン」

 どうもやりにくい。ガールフレンドを除けば、こういう根っからの善人と会話をあまりしたことがないせいだ。

 これならあの酒場の店主とくだをまいていた方がよっぽど楽だぜ、とホル・ホースは胸中で嘆息を漏らした。


 パキート老が説明を続ける。

「依存性がある。それだけで問題なのですよ。先ほどの患者のように、何をするか分からない。
 麻薬の一番の害悪は肉体を損なうことではなく、精神を損なわせることです」

「ああ、分かった。そりゃあ分かったぜ。だがよ、爺さん。俺が聞いたのは、なんであの嬢ちゃんが狙われてるか、ってことだぜ?」

「ロッホ・サルは依存性が非常に強い。耐性をほとんど獲得できないので、一定量を定期的に摂取していれば問題はありませんが。
 ですが、いったん手を出すをもうやめることはできません。通常の更生施設でさえ、患者の収容が困難なのです。
 ですが、パニ君の力なら……」

「触れるだけで治療できる。そいつはオレも分かってんだよ。さっき見たからな」

 煙草を携帯灰皿に落としながら、ホル・ホースは鋭い目つきでパキート老を睨んだ。

「だがよ、それなら昨晩の連中の行動が腑に落ちねえ。依存症を治療できる、つまり顧客が減る可能性があるから嬢ちゃんを狙う。
 なるほど、分からんでもない。だが、それなら嬢ちゃんを"始末"しちまえばいいだけの話だ。
 連中は彼女を捕まえようとしていた。こいつはどういうことだ?」

 何か隠していることがあるのではないか——

 既にホル・ホースも巻き込まれた身だ。自身の命がかかっている以上、この人の良さそうな老人にも、警戒は怠らない。

 そうした油断の無さこそが、ホル・ホースをここまで生かした性質なのだった。

「……それは、私達にもわかりません」

 問い詰められたパキート老は目を瞑り、静かに首を振った。

「本当に、分からないのです。ホル・ホースさんがの意見ももっともですが、
 私が彼女について知っているのは、不思議な力を持っている優しい女性だというくらいで……」

「連中の金とか薬を横領したりとか、そういうのはねえのか?」

 言いながら、ホル・ホース自身も胸中で『ないな、そりゃ』と呟いていた。

 あの少女に横領が勤まるのなら、自分は今頃、世界を股にかける大怪盗くらいにはなっている。

 だが、パキート老は再び首を振り「分からない」と同じ答えを返した——その様子に、ホル・ホースは首をひねる。

「分からないってのはどういう意味だ? だってあの嬢ちゃんだぜ? 有り得ねえって答えるとこだろ、そこは。
 そもそもだ。こんな真っ当な職場なら、雇う時に身元確認くらいするもんだろうがよ? 昔はどこで働いていました、とかさ」

 その質問を受けて、パキートは微笑んで見せた。

 悲しい微笑みだった。まるで泣くのを我慢して、必死に歯を食いしばっているような。

 そんな不快な笑いもあるのだと、ホル・ホースはこの時知った。

 そして、パキートが口を開き、ホル・ホースの質問に答えを返した。

◇◇◇


「ホル・ホースさぁん!」

 施設の中庭に設置されたベンチに腰掛け、売店で売っていたミート・サンドイッチを頬張っていたホル・ホースを、
 同じく昼食の入っているらしい紙袋を抱えたパニが見つけ、駆け寄ってくる。

 中庭は広く、緑であふれ、手入れが行き届いている。ホイットニー・ハートは金で潤っていた。
 政治家やら市民団体やらから、寄付金が大量に集まってくるのだという。

 それもすべて、この少女の奇妙な才能のお陰だった。身内が麻薬漬けになっても、この少女なら醜聞になる前に一瞬で完治させることができる。

 だからこそ、懇意にしているお偉いさんが法外な寄付金を払ってくれるのだ。

 もっとも、この少女はそんな後ろ暗い事情はしらないだろうが。

 にこにこ笑いながら紙袋を大事そうに抱える少女に、ホル・ホースは軽く手を挙げて挨拶した。

「よぉ、パニ嬢ちゃん」

「あ、名前……パキートお爺さんから聞いたんですね。良かったぁ、そういえば自己紹介してなかったな、って思ってたんですよ」

「ああ。パニキーア。良い名前だな。医者の女神様から取ったんだって?」

「はい! パキートお爺さんにつけて貰ったんです!」

 明るく朗らかに、パニは笑顔で肯定した。

 親がおらず記憶もないという、その事実を。

 パキートとパニに血縁関係はない。パニは数年前、パキート老が拾った白人の子供だった。

 それも、死にかけの。発見当時、パニは全裸で、頭を拳銃で撃たれていた——つまりは、ここではよくあるくそったれた暴行事件の被害者だったわけだ。

 世界で二番目に危険な都市の名前は伊達ではない。この街では、死体が見つかるだけ幸運な方だ。

 だが、パニはもっと幸運だった。それこそ、女神様に祝福を受けたかの如く。
 傷は脳にまで及んでいた筈だったが、奇跡的な回復を見せてほとんど障害も残らなかった。

 ——唯一、撃たれる前の記憶を失ったことを除けば。

 方々手を尽くして彼女の身元を探ったが、ついに分からなかったのだという。

『それが、彼女にとって不幸なのか幸運なのかは、私にもわかりません』

 パキート老は言う。辛い記憶を背負わなかったことを幸いと喜ぶべきか、幸福な思い出がひとつも残されなかったことを不幸と呼ぶべきか。

 その悩みを聞いて、ホル・ホースは——


「ホル・ホースさんもお昼ですか? 私もなんですよ。一緒に食べませんか?」

「ああ、ほら。ベンチ、半分詰めてやるからよ」

「ありがとうございます。お、売店の肉サンドですね。おいしーですよね、これ」

 私も買いました、とパニは紙袋からサンドイッチを取り出して笑った。お腹ペコペコです、と嬉しそうにサンドイッチに齧りつく。

 その様子を見ながら、ふっ、とホル・ホースも笑った。

(これだから、女はイイんだ)

 ホル・ホースは女という生き物を尊敬している。美醜、老若関係なく。

 それは、こうして笑うだけで男の気持ちをどうしようもなく落ち着かせてくれるからだ。

 少女は可憐に、女は快活に、老女は優しくふんわりと。

 男ではこうはいかない。女だからこそ、女が笑うからこそ、この世界は楽しいのだ。

 ヒヒヒ、とホル・ホースは笑い、帽子をかぶり直した。

 ほどなくして二人ともサンドイッチを食べ終わる。

 瓶詰の水を飲みながら、中庭の植物を眺めるという、静かな時間が少しだけ続いた。

「ホル・ホースさんは」

 沈黙を破ったのはパニだった。手の中で温くなった水の瓶を弄びながら、迷うように言葉を選んでいる。

「昨日、私を助けてくれたんですよね」

「……」

「ありがとうございました。昨日は、ちょっと寝ぼけてたみたいで」

 薬の影響もあったのだろう。その奇妙な才能のせいで、パニ自身にも薬の類はほとんど効かない。

 だからあの連中は、普通の人間なら完全な致死量になるほどの麻酔薬を売店の軽食に混ぜたのだ。

「私、外出はあんまりしないように言われてるんです。悪い人に狙われてるから。
 昨日は、私を守ってくれてるウーゴさんって人に無理を言ってついて行ったんですけど」

 だが、そのウーゴとやらは彼女を守れなかった。

 死んだわけではないらしい。彼も同じく薬入りのケバブを食べて昏倒したのだが、
 寸前に気づいて全部吐き出したおかげで、永眠することはなかったという。

「でも、やっぱり駄目だなぁ。迷惑ばっかりかけちゃう。パキートお爺さんには、拾ってもらってからずっと。
 恩返しのために働かせてもらってるのに、これじゃ本末転倒ですよね?」

「……んなこたぁねえよ。あの爺さん、嬢ちゃんのことを孫娘みたいに思ってるぜ。目に入れても痛くないだろうよ」

 ホル・ホースはベンチの背もたれに腰掛け、空を仰ぎながらそう言った。そうだったら嬉しいですけど、とパニが呟く。


 パニは笑っている。こんな話をしている間も、ずっと笑っている。

 だが、ホル・ホースは気づいていた。その笑みは嘘だ。

 楽しいから笑う時もあるだろう。だけど、彼女は辛いときさえも笑っている。

 それが周りの人間に一番心配を掛けない方法だと、彼女はよく知っているから。

 トロくさいように見えて、彼女は他人の心の機微に敏感だ。それはおそらく、過去の、暴行されたという経験に起因している。

 人の顔色を伺い、愛想笑いを浮かべる。それは、少女の歳には不相応の処世術。

(もしかしたら……撃たれる前の記憶がないのは本当でも、"撃たれた時"の記憶はあるんじゃねえか?)

 それを、わざわざホル・ホースは問うことはしなかったが。

 時間は過ぎる。ホル・ホースは自分の左腕に巻いてある古めかしい機械式の腕時計を眺めた。

 例の仕事でへまをすることになった原因である縁起の悪い代物だが、長年連れ添った相棒だ。いまさら変える気にもならない。

「休憩時間、終わっちゃいました」

 ぽつりと呟き、パニはベンチから立ち上がった。くるりと振り向いて、ホル・ホースにぺこりと頭を下げる。

「それじゃあ、ホル・ホースさん。本当に、ご迷惑おかけしました。
 助けてもらってなんのお礼もできませんけど……」

「——その言葉は、まだ早いぜ嬢ちゃんよ」

「え?」

 疑問符を浮かべるパニに、ニッ、とホル・ホースは笑みを返し、彼女を追うように立ち上がる。

 パキート老は全ての説明を終えた後、ホル・ホースに依頼をしていた。

 護衛役を引き受けてくれないか、と。スタンド使いの数では、完全にこちらが劣っているのだ、と。

 提示された金額は莫大だった。だから仕事を受けた。ホル・ホースは悪党である。金で人を殺す殺し屋である。

 女を尊敬しているとはいっても、女のために身を投げ出す正義の味方ではない。自分が一番。女は二番。その程度の認識だ。

 だからこれは、給金目当てで引き受けた仕事に、ほんの少しだけ、別の理由が加わっただけの話。

「俺はまだ、嬢ちゃんを助けちゃいねえ」

『それが、彼女にとって不幸なのか幸運なのかは、私にもわかりません』

 パキート老は言った。辛い記憶を背負わなかったことを幸いと喜ぶべきか、幸福な思い出がひとつも残されなかったことを不幸と呼ぶべきか。

 その悩みを聞いて、ホル・ホースは笑った。「馬鹿な悩みだぜ、爺さん」と。

 そんなのは、飛び切りの幸運に決まっている。何故ならまだ彼女は笑えるのだ。これから存分に、幸福な思い出を作れるのだ。

 それを邪魔するような奴が敵なら、女という生き物に敬意を表さないような馬鹿が相手なら、そいつは——

「俺が、嬢ちゃんを助けてやる」

 ——この"皇帝"が裁くだけだ。

今回分は終了

投下ー


 ホル・ホースは施設の中を歩く。

 ホイットニー・ハートは中毒者医療施設の例に漏れず、病室やベッドも完備していた。

 が、パニの才能のお陰で入院が必要な患者というのはほとんどいないらしい。

 結果として、そうした空き病室はパニの護衛として雇われたスタンド使いの控室のような扱いになっていた。

「で——この先にそいつらがいるってわけだ」

「はい。先に新しい護衛の方がくるということを伝えてあるので」

 その控室となっている大部屋を目指して、ホル・ホースとパキート老は歩いている。

 ホル・ホースはパキートからの依頼を受け、正式にパニの護衛となった。故に、他の連中との顔合わせをこれから行うのだ。

「そういや聞いてなかったが、こっちのスタンド使いは何人くらい居るんだ?」

「二人です。ホル・ホースさんを入れて三人になりますね」

「た、たったのふたりぃ!?」

 思わず叫んでしまうホル・ホース。

 無理もない。確かにこちらが劣勢だとは聞いていたが、昨晩、ホル・ホースが始末した敵のスタンド使いは4人。

 その時点で、もう敵の組織との戦力差は倍以上だったということだ。

「よ、よく今まで無事だったな!?」

「はあ、スタンドのことに関して私はよく知りませんが、お二人ともかなり強いスタンド使いらしく……」

 言われてみて、なるほど、とホル・ホースは心を落ち着かせる為に深呼吸する。

 スタンドには強弱がある。例えばかつての仕事仲間だったJ・ガイルという男は非常に強力なスタンド使いだった。

 他にも対処しようがないといえばボインゴのトト神もそうだし、
 どんな攻撃だろうと暗黒空間にぶち撒けてしまうヴァニラ・アイスのクリームなどはどうやって倒されたのかもわからない。

(確かに、スタンドによっちゃ"タネがばれない限り無敵"なんてのも珍しくねえからな。
 そういう奴とコンビが組めりゃ、勝ちの目も見えてくるってもんだぜ)

 ホル・ホースは基本的にひとりでことを成すタイプではない。

 むしろ、誰かと一緒に組んで、初めて力を発揮するタイプだ。

 彼自身のスタンドはその性質が単純だが、その分、他人と歩調を合わせ、他人の長所を生かすのが上手い。

 NO.1よりNO.2。それが彼の人生哲学である。


「しかし、金はあるんだろ? もっとじゃんじゃん雇えばいいじゃねえか」

「この街で裏稼業についていた方々は、最初から向こうに組み込まれていましたし……
 新たにやってくるスタンド使いも、裏の仕事を受けるなら向こうの組織に接触しますから。
 オセロのようなものです。一度優劣が決まってしまうと、なかなかひっくり返りませんよ」

「つまるとこ、これ以上仲間が増えることはねえってことか……」

「無論、機会があれば別ですが……ああ、着きました。この部屋です」

 言って、パキート老はある扉の前で足を止めた。

 ホイットニー・ハートは二階建ての施設だが、この部屋も二階の奥まった場所にあった。

「襲撃の時、咄嗟の対応が遅れるんじゃねえか? ここだと」

「スタンド使いの一人——ケネスさんという方のスタンドの能力だと、ここが一番いいそうで」

「ふーん」

 適当に頷きながら、ホル・ホースは扉の取っ手に手を掛けた。

 どういうスタンドなのかにもよるが、スタンド使いにとって、自分の能力の秘密は基本的に守らねばならないものだ。

 条件が限定される能力なら当然のことで、ホル・ホースの≪エンペラー≫のような単純なスタンドでも、
 弾道操作のことを知らない相手になら、一回目は不意打ちができる。

(さて、相棒になるにあたって、きちんと胸襟を開けて話してくれる野郎どもだといいんだが——)

 扉を開ける。パキート老は中に入らず、外で待っているようだった。それを横目で見ながら、ホル・ホースは部屋に足を踏み入れる。

 入ってきたホル・ホースに、中にいた二人の視線が一気に集中した。

 こういう時、狼狽えると舐められる。ホル・ホースも負けじと、尊大ぶった態度で二人を見返した。

 ひとりは黒い肌をした大男である。丸々とした太鼓腹だが、二の腕の筋肉は凄まじい。
 いかにも力が有り余ってそうなタイプだ。

 そして、もう一人は——


「あああああああああああああああああ!?」

 もう一人の顔を見て、それまでの余裕ぶった態度など月の彼方までぶっ飛ばし、ホル・ホースは叫び声をあげた。

 そいつは冴えない小男だが、ホル・ホースと同じアメリカ人だった。
 根暗そうな雰囲気を纏い、胡乱な目つきでホル・ホースを見つめている。

 そいつとは知り合いだった。以前の仕事場で、何度か顔を合わせたこともある。

「て、てめえ、ケニーG! こんなところでなにしてやがる!?」

「……仕事だ。見ての通りな」

 ぼそぼそと、かすれた声でそいつ——ケニーGは答えてくる。

 ケニーG。本名、ケネス・ゴーリック。

 前の職場では、DIOの館を警護する役目を負っていたスタンド使いだ。

 ホル・ホースはこいつが苦手だった。

 見ているだけでこっちまで暗くなる雰囲気が嫌いだというのもあるし、分かりやすく金で動く奴でないということも原因だ。

 前の仕事で、DIOに雇われていたスタンド使いは僅かな例外を除けば、二つに分類できる。

 ホル・ホースのように金に目が眩んだ連中と、DIO自身に心酔していた連中。

 そして、このケニーGはそのどちらでもない、僅かな例外のひとりなのだった。

「また本を読んでやがるのか……」

「……俺の≪ティナー・サックス≫には必要なことだ」

「半分以上はテメエの趣味だろうが。だからそんなスタンドが発現するんだよ」

「否定はしない……」

 開いた本から目を離しもしないケニーGに、ホル・ホースはやれやれと首を振った。


 こいつはいわゆる"本の虫"であった。

 彼がDIO側についたのは、DIOが収集していた本の中に貴重なプレミア本があったからだ。

 その本を閲覧する権利を得る代わりに、ケニーGは雇われた。

 ホル・ホース達が必死こいて外回りしてる間、こいつは優雅に読書に勤しんでいたのだ。これで仲良くなれる方がおかしい。

「あれからどうしてたんだ。DIOの野郎はくたばったらしいが、お前は?」

「犬にやられた……袈裟切りにされて、死ぬかと思った……スタンドで、そこらの通行人に助けを呼ばせなければ死んでいた……」

 怪我人の幻覚を通りに出現させ、救急車を呼ばせたらしい。

 ホル・ホースは思い出す。≪ティナー・サックス≫——それがケニーGのスタンドだ。破壊力はないが、広範囲に幻覚を見せることができる。

 使い方次第では非常に強力なスタンドだ。相棒にするには申し分ない。

 思いがけない再会への驚きと、いけ好かないケニーGへの印象を無理やり押しつぶし、
 ホル・ホースはヒヒヒ、と笑いながら握手を求めるように右手を差し出した。

「まあ、なんだ。こうして生きて再会できたのも縁があったってことよ。ひとつ仲良くやろーじゃないの」

「ああ」

 そう言いつつ、ケニーGは差し出した手をちらと見るだけで、握手に応じようとはしなかった。

 内心舌打ちしながらも、にこやかに笑いながら——コンビを組むにあたって、相手を立てるというのは大事だ——
 ホル・ホースはもう一人の、大男の方に視線を向ける。

「で、もうひとりのスタンド使いはあんたか。確か——そうだ、ウーゴとか言ったか?
 あの夜、嬢ちゃんの護衛をしてたって聞いた……」

「う、ウーゴ・ロペスだ」

 愛想のないケニーGとは対照的に、人の好い笑顔を向けながら、どこか舌足らずな発音でそいつ——ウーゴは手を差し出してくる。 

 ぱっと見は脳みそだけ成長し損ねた子供という印象で、一言で言ってしまえば見るからに馬鹿面だったが、
 ホル・ホースはその手をしっかりと握り返した。わざわざ指摘して、雰囲気を悪くすることもない。

 ウーゴの手は巨大で力強く、確かな熱を感じた。

 握った手をぶんぶんと振りながら、ウーゴはどこか尊敬のまなざしでホル・ホースを見つめてくる。


「あ、アンタ、先生を助けてくれたって聞いた。お、オデがやられて、攫われそうになっちまった先生を」

「先生?」

 ウーゴの言葉に、思わず聞き返す。

 察するにパニのことらしいが、あの少女と"先生"という単語がすぐには結びつかない。

「お、オデの妹がクスリにやられちまった時、せ、先生が助けてくれたんだ」

 どうやらウーゴがホル・ホースに見せる尊敬の眼差しは、パニへの敬意が伝染したものらしかった。

 ウーゴ・ロペス——おそらく金で雇われたのではなく、
 家族を助けてくれたパニへの感謝の気持ちからこの仕事を引き受けているのだろう。

「先生は、お、恩人だ。だから、あ、アンタもオデの恩人だ。い、いつか、礼はするよ」

「あーそうかい。んじゃ期待してるぜ」

 そう言いつつ、ホル・ホースは胸中で毒づいていた。

 このうすら馬鹿がへまさえしなければ、自分はこんな危険な抗争に巻き込まれずに済んだのだ。

(まあ、幸い金の当てもできたから、マイナスばかりってわけじゃねえが)

 帽子の位置を直しながら、気持ちを切り替える。悪い方にばかり考えていたってしょうがない。

 むしろ、いいところもある。ウーゴはどうやら自分に対して恩義を感じているらしい。なら、いくらでも使いようはあるというものだ。

「んじゃ、ウーゴさんよ。できればアンタのスタンドについて教えて貰いてえな。おっと! 別に飯のタネを暴こうってわけじゃねえぜ?
 だが、俺たちはこれから仲間なんだ! 仲間なら隠し事は無しだ。だろ?」

「あ、ああ。オデ、オデのスタンドは——」

「そいつのスタンドは≪アトミック・スイング≫。典型的な……いや、ある意味"究極的な"近距離パワー型だな。
 もっとも、破壊力に特化しすぎていて使いどころが限られている。名前通り、"抑止力"にしかならんスタンドだ」

 口を挟んだのはケニーGだった。台詞を取られる形になったウーゴが、ぎろりと不機嫌な目つきでケニーGを睨む。

「お、オデが説明しようとしたんだ。な、何で先に言っちまうんだ、おめえ」

「お前に説明の類を任せると、馬鹿みたいに時間が掛かるからだ……俺はこの会話を終わらして、静かに本を読みたいんだ」

「て、てめえ! またオデを馬鹿にしたな!」

「ま、まあまあ! 落ち着けって! ここで仲間割れしてもどうしようもねえだろうが! な?」

 いきり立ったウーゴと、我関せずという面持ちで本を読み続けるケニーGの間に、ホル・ホースが割って入る。

 始終不機嫌面をしているこの小賢しい小男と、単純で筋肉だけは有り余っているこの大男は、見た目通り反りが合わないらしい。


(こりゃあ、俺が手綱を握るしかねえな)

 少なくとも、ウーゴは扱いやすい輩だ……相棒には向かない、どちらかというと捨て駒にしかならなそうな奴だが。

「そんじゃまあとりあえず、どれくらい威力があるのか見せてくれねえか?
 こればっかりはいくら説明されても、実際見てみねえと分からねえからよ」

 そんなホル・ホースの言葉に、ウーゴは困ったようにぽりぽりと頬をかいた。

「あ、あんまり、先生に使うな、って言われてるんだ。みんな、びっくりしちまうからって」

「ああ? だけどそれじゃあ、嬢ちゃんを守ることもできねえだろうが。お前さん、護衛なんだろう?」

「だ、だけどもよ……」

 もごもごと言葉に詰まるウーゴ。それを見かねて——というわけでもないだろうが、ケニーGが再び口を挟む。

「言っただろう。そいつの役目は"抑止力"だ。そいつがぽんぽんスタンドを使うと、この病院は更地になってしまう。
 二ヶ月ほど前だったか。俺が雇われたばかりの時に、一度だけそいつがスタンドを使ったのを見たが……」

 そこまで言うと、ケニーGもまた、言葉を探すように目線をあちこちに飛ばしながら黙考した。

 だがやがて観念したかのように嘆息すると、読んでいた本を閉じ、

「確かにお前の言う通りだ、ホル・ホース。こればかりは見ないと分からんだろう。待っていろ、いま現場を"再現"してやる」

 ケニーGがそう言った瞬間、それまで何の変哲もない病室だった風景が、まるで数種類の絵の具を滅茶苦茶に混ぜたかのように、
 ぐにゃりぐにゃりと変化していく。

 ≪ティナー・サックス≫——その能力の発現であった。

 ケニーGのスタンドは、一言でいえば幻覚を見せるスタンドだ。ただし、見せる幻覚はケニーGの抱くイメージに依存する。

 つまりケニーGが見たことも想像したこともないものは幻覚に出来ないし、
 強烈な光や音や臭気で相手を昏倒させる、というような芸当もできないということだ。それ程のイメージを抱けば、ケニーGも気絶してしまう。

 だが逆に、一度見たものを再現するのは得意だ。本人曰く、読書もそうしたイメージの訓練に必要らしい。

 そしてケニーGはウーゴが能力を使用した際の記憶を思い起こし、ホル・ホースの前に再現してみせた。

◇◇◇


「なるほどなあ……」

 冷や汗をかきながら、ホル・ホースは帽子に手を当てる。無意識に位置を直そうとしたのだが、別にどうもなっていない。

 だが、それほどの衝撃だったのだ。間近で体験したウーゴの≪アトミック・スイング≫の威力は。

 幻覚が解除され、今や目の前の風景は元通りの病室に戻っていた。

 ホル・ホースは手近なベッドにどっかと腰を下ろすと、やれやれという風に頭を振って見せる。

 その様子を見て、呆れられたとでも思ったのか、ウーゴはその巨体に似合わぬオドオドとした声を上げた。

「あ、や、やっぱり、オデの能力はあんまり役に立たねえか? 危ねえし……」

「いや、お前さんのスタンドは大したもんだよ……ある意味な」

 ウーゴの≪アトミック・スイング≫の能力は把握した。なるほど、ケニーGが"抑止力"と言った意味も分かるし、
 あの晩、昏倒したウーゴを敵のスタンド使いが始末しなかった理由も分かった。

 薬で昏睡させても、なお反撃されることを恐れたのだ。ウーゴのスタンドはそれほどのパワーを秘めている。

 スタンドを解除したケニーGが肩を竦めて見せる。

「こいつのお陰で仕事は楽だ。あれ以来、敵は攻めてこないからな……昨日はそのこいつが間抜けをやったが」

「だ、だって、先生が外に出たいって言うから……」

「……それでお前の言う恩人を危険に晒すなら、お前のことを馬鹿以外のなんと形容すればいいんだ?」

 ケニーGの言葉に、むぐぅ……とウーゴは黙り込む。昨晩の失態には彼も思うところがあるのだろう。

「……ひとつ疑問に思うことがあるんだが」

 再び悪くなりかけた空気を払拭するように、ベッドの上で行儀悪く胡坐をかいたホル・ホースが呟く。

「二ヶ月前に敵が来たのが最後だって言ったな? んじゃ、その間お前らは何やってたんだ?」

「せ、先生の、て、手伝いしてた。荷物を、運んだり」

「……本を読んでいた」

「給料泥棒じゃねえか……あ、ああ。ウーゴは働いてたな、ウン」

 ホル・ホースの言葉にショックを受けたような表情を見せるウーゴをフォローしつつ、それでもなお、ホル・ホースは溜息を吐いた。


「……とは言うがな、ホル・ホース」

 閉じた本を開きながら、ケニーGが反論する。

「俺たちの仕事は護衛だ。ここにいる限り、パニキーア嬢の安全は確保されている……何の問題がある?」

「問題あるだろうがよ。外出も気ままにできねえだろうが」

「俺は本が読めて、書店からの配達が届いて……あとは三食食えればどうでもいい」

「……そういう奴だったな。てめえは」

 DIOの館でもこいつはそんな生活をしていたのだ。いつも書斎に籠っていて、ひたすら影の薄い奴だった。

「で、でも、オデもそう思う。先生が無事なら、オデはそれでいい」

「別に外出できねえってのは、俺たちだけのことを言ってるんじゃねえぞ。
 嬢ちゃんも外に出たがってるだろうがよ。だからお前さんに無理言って外に出たんだろ?」

「……そ、そりゃ、そうだけど……」

「そこまで言うからには、お前には何か考えがあるんだろうな?」

 ケニーGの問いかけに、ホル・ホースはおう、と自信満々に頷いて見せた。

 確かに、このまま均衡を維持すれば労せず金は入ってくるだろう。

 だがそんな退屈な人生をホル・ホースはよしとしない。金があってもそれを満足に使えない生活など御免だった。

 ここである程度金を稼いだら、また世界中のガールフレンド達に会いに行くのだ。

 いいか——と、ホル・ホースは指立てて説明する。

「まず、戦力はこっちが圧倒的に負けてるな。ウーゴのスタンドは確かに強力だが、無敵ってわけじゃねえし。
 まともにやったらこっちが負ける。だからこういう時はな、相手の"理由"を潰すんだよ」

「り、理由ってなんだ?」

「まあつまりは、なんでパニ嬢ちゃんが狙われてるかってことだが……こいつをまずは知る必要があるな。
 可能性として一番でかいのは例の治癒能力だが、それだけじゃ嬢ちゃんを攫う必要はねえし。
 まずは適当な奴をとっ捕まえて拷問でもするか」

「……それは無駄になるだろうな」

「あ? あんでだよ」

「同じことを二ヶ月前にやったからだ……俺も興味はあったからな」


 二ヶ月前の襲撃で、ウーゴのスタンドの余波を食らって死なない程度に行動不能になった奴がひとりいたらしく、
 そいつを手術室に押し込めて拷問にかけたらしい。

 詳しい描写は避けるが、そいつは最終的に口を割った。そして分かったことは、

「……パニキーア嬢を無傷で捕えるようにというのは、組織のボス直々の命令だということだけだ」

「ほっほー。なら話は早いじゃねえか。そのボスをぶっ殺せば問題解決ってわけだ」

「……そんな簡単な話なものか」

 不快そうな顔で、ケニーG。

「組織のボスの居場所など分かる筈がない。大部分が統合されたとはいえ、この街にはまだ例の組織に反抗する勢力もある。
 分かりやすい、襲撃を受けやすい場所などにボスはいないだろう」

「そこで諦めちまっちゃ駄目なのよ」

 まあ、確かにお前らじゃそこまでだろうな、という言葉は胸中に秘めておく。

 ケニーGは基本的に相手を待ち構えるタイプのスタンド使いだし、ウーゴはそもそも裏社会の出ではないだろう。

 対して、ホル・ホースの戦闘スタイルは、基本的には"暗殺"である。

 至近距離からスタンドを出して、撃つ。大抵の相手は反応できないか、反応できても変化する弾道に対応できず、死ぬ。

 それでお終い。もともと、正面切って撃ち合いをするタイプではないのだ。

 昨晩パニを攫おうとしていた三人組にしたような、不意打ち、闇討ちが専門なのである。そしてその分、その技術には秀でている。

 相手組織のボスだけを狙うということになれば、それはホル・ホースの独壇場だった。

「いいか? 今の状態は"均衡"だ。均衡っては変わらないってことだ。分かるか? 5:5なんだ。
 ボスの居場所を見つけるんなら、まずはこの5:5を崩さなきゃならねえ」

「……ここからこちらが優勢になる、そんな方法があるのか?」

「それができりゃあ一番良かったんだなぁ」

 ヒヒ、とホル・ホースは、悪だくみをするような笑みを浮かべる。

「だが、そいつは無理だ。戦力が足りねえからな。そういう時は"こう"するのさ——」

◇◇◇


 現在、急速に成長し、パニを狙っている組織の名は"ロッホ・レラシオネス"という。赤い絆、という意味だ。

 その名前は、組織をここまで成長させた麻薬である"赤い塩"に由来する。

 つまりは、このクスリあっての組織というわけだ。

 ところで、麻薬というのは新規参入が非常に難しいビジネスである。特に問題となるのは輸送ルートだ。

 生産地から運び、税関をすり抜けて、市場に流す——この一連の流れを確立するのが非常に難しい。

 だが裏技がないわけでもない。

 例えばイタリアのとあるマフィアは、"麻薬を作る能力"を持ったスタンド使いを利用し、莫大な利益を上げている。

 もっともそれは極秘事項であり、知る者は数少ない。だが、そういう裏技があるのは事実だ。

 このロッホ・レラシオネスがばら撒く"赤い塩"に関しても、産地や輸入ルートなどが全くの不明であり、
 なにがしかの"裏技"を使っているというのが組織内でもっぱらの噂であった。

「ど〜なんすかね〜。上から直々に卸されてますけど、これどこでどうやって作ってるんすかね〜」

 そこは町中に点在するロッホ・レラシオネスの事務所の一つだった。

 三階建ての雑居ビルひとつを借り切った——正確には彼らが借りたら他の借主は出て行ってしまったのだが——事務所であり、
 彼らが事務所として使っている最上階以外はがら空きであった。

 そうした事情もあって、そこはクスリの保管庫にもなっていた。

 その薬——小瓶に入った"赤い塩"を摘まみながら、チンピラのひとりがそんなことを誰ともなしにぼやいている。

 そのチンピラが、疑問に思ったことはすぐに何でも口に出してしまう性分であることは誰もが知っているが、
 一応この事務所を預かる身分である幹部の男が、チンピラに警告を飛ばした。

「気にするな、早死にしたくなければな。それと、日に当てるなよ。商品が台無しになる」

「いや別にルートを乗っ取るとかじゃねえっすよ? 儲けさせてもらってるし。でも気になるじゃないっすか」

「それでも、気にしないことだ。口を閉じていろ。特に、その薬で儲けている、という事実はな」


「はあ……でも不思議っすよねぇ」

 チンピラは小瓶を机の上に戻すと、腕を組んで学者のように首を捻って見せた。

「なんでボスはこのクスリで"儲けちゃいけない"なんて言うんすかね? タダ同然の値段で市場に流せ、なんて」

「知らんさ。それに、それを守ってる奴は少ない。我々のようにな。精々、稼げるときに稼がせてもらおう」

「はあ。でも、ボス達にはばれてないんすかね? あの側近の人、めちゃ怖いじゃないですか」

「ばれてるだろうな。だが、見逃されてるんだろう。我々のように儲けている末端の組織が多すぎる。
 下手に静粛でもしたら、この街の勢力図の半分が空白になるからな。
 おそらく、厳格な対処を行うのはこの街を完全に支配下に置いた後だろう」

「はあ……まあ、ボスが何考えてるかなんて分かりませんよね。姿を見たこともないですし。
 あの命令も、意味わかんなくないですか? ほら、例の女の子を攫えってやつ」

「ああ。始末するだけなら簡単なんだがな。例のウーゴ・ロペスが護衛についている以上、
 下手に手を出すと対象ごと吹っ飛びかねん」

「なんで誘拐なんすかねえ。もしかしてボスはロリコンすか? ほら、側近の人、いつも小っちゃい子連れてるじゃないですか」

「さあな。だが、例の少女に関しては気を付けた方がいい。昨晩、外出した際に誘拐を試みた連中が全滅した。
 あの≪メルトダウン・アッシュ≫が率いていたグループだ」

「うえ!? バリバリの武闘派グループじゃないっすか! あれとまともにやりあって勝てる奴とかいるんすか!?
 あ、それともあの肉ダルマがまたスタンド使ったっすか?」

「いいや、ウーゴ・ロペスのスタンドではないそうだ。全員が銃で撃たれたような傷口で、それも一撃で急所を射抜かれてる。 
 かなりの使い手だぞ。これまでは睨み合いが続いていたが、そいつがホイットニー・ハートにつけば状況が動くかもしれん」

「っても、流石に急には変わらないでしょ。たった一人敵に加わっただけじゃ……」

 と、そこまで言って。

 チンピラは硬直した。その視線は、幹部の背後——通りに面している、防弾仕様の大きな窓ガラスに向けられている。

「どうした?」

 急に黙り込んだ部下を訝しみ、幹部の男も背後を振り返る——そして、同じように絶句した。

 彼らがいるのは雑居ビルの三階である。クスリを運搬する際に、階段を往復する回数を減らしたいという理由で、
 事務所の機能は最上階に集中させたのだ。

 だが、その地上十メートル近くある三階の窓いっぱいに、巨大な黄金の拳が——その肘から手首までの部分が映っている。

 ウーゴのスタンドである≪アトミック・スイング≫の発現であった。

◇◇◇


 スタンドの性能はおよそ破壊力、スピード、精密性、持続力、射程距離の項目ごとに表すことができる。

 それぞれが備える固有の能力——例えば"物を直す能力"や"生命を生み出す能力"といったものを除いた基本性能とでもいおうか。

 スピードが高ければ素早く動け、精密性が高ければ精確な動作ができ、持続力が高ければ長い間スタンドを維持でき、
 射程距離が高ければスタンドは本体を離れ遠くにまで行くことができる。

 ウーゴ・ロペスのスタンドに特殊な能力はない。

 人間の動き以上に早く動くこともできない。精確な動きもできない。スタンドのヴィジョンも数秒しか保つことができない。
 射程距離に至っては0m——本体から離れることは不可能だ。

 だが、それを補って余りあるほどの破壊力を備えたスタンド——名前の通り、核ミサイルが吹っ飛んでくるような絶大さを持つスタンド。

 それがウーゴ・ロペスの能力。黄金の巨大な拳を発現させる≪アトミック・スイング≫である。


◇◇◇


 ズ、ズン、という、腹の底から響き渡るような音が町中に響く。

「おーおー、かなり離れてるのに、流石の威力だねぇ」

 通りを吹き抜けてくる小さな衝撃が頬を撫でる。ホル・ホースは思わず帽子に軽く手を添えた。

 それは雑居ビル一棟が、一撃でぺしゃんこに潰された音だった。

 直接見たわけではないが、そういう段取りになっているし、あのスタンド威力は幻覚とはいえ間近で体験している。

 ≪アトミック・スイング≫は強力なスタンドだ。もっとも、実戦向きかと言われれば首を捻らざるを得ないが。

 スタンドヴィジョンは一瞬しか保てず、スピードも精密性もないため、あのスタンドは防御ができない。

 つまり、今回のような不意打ち以外では相打ち以上の結果にはならないということだ。

 極端な話、近距離パワー型が石を投げつけるだけで勝てる——ウーゴ本人に、あの巨体に見合ったタフさがなければの話だが。

(二ヶ月前の襲撃でも、攻撃を受けながら敵を全滅させたらしいしなぁ。まあ、確かに"抑止力"としての性能はあるんだろうが)

 敵がホイットニー・ハートへの襲撃に消極的なのは、あのウーゴが警護についているからだろう。

 ボス直々の命令とやらで、彼らはパニを生かして捕えなくてはならない。

 つまり、下手に刺激して碌に制御もできないウーゴのスタンドを発動させたくないのだ。

 それがいままで圧倒的な戦力差がありながらも均衡を保たせてきた"抑止力"の正体だ。

(だからまずは、そいつを捨てる)

 さっきの一撃は宣言だ。ウーゴが外に出て、パニの護衛からは外れたと敵に知らせたのである。

 "均衡を崩し、こちらが不利な状態にする"——それがホル・ホースの策だった。

 連中はこぞってホイットニー・ハートに襲撃を掛けるだろう。だが、そこはすでにもぬけの殻だ。

 ウーゴにも一発スタンドを打ったら、すぐにその場を離れるように指示してある。

 まあ、もしかしたら組織の連中と鉢合わせするかもしれないが、その時はその時だ。

 こちらが不利である以上、ある程度の賭けはどうしても必要になってくる。


「さて、んじゃまあ、こっちも始めるかね」

 均衡は崩れた——だから連中は動き出す。動き出さねばならない。その隙を突く。

 ホル・ホースはとある大通りにいた。中央には二車線の車道が走り、左右の歩道は人で溢れかえっている。

 そんな活気ある通りにも例の組織——"ロッホ・レラシオネス"の事務所は存在していた。

 その場所をちらと横目で確認すると、ホル・ホースは同じ歩道側で土産物を売っている露天商に近づいて行った。

「よお兄ちゃん、これいくら?」

 その中から適当な——ある程度重みがあれば何でも良かった——置物を手に取り、値段を聞く。

「あー、お客さんアメリカ人? なら、1ドルでいいよ」

(吹っかけやがんなこいつ)

 内心で苦い顔をしながら、ホル・ホースは言われた通りの金額を渡した。

 それを見て、露天商がこいつはいいカモだとほくそ笑む。ついでにもっと何か買わせようと、商品をごそごそといじり始めた。

 無論、ホル・ホースが何も考えずこんな募金の真似事をする筈もない。

 ホル・ホースはさっさと露天商に背を向け、そして——たった今購入したばかりの置物を、事務所の窓ガラス目掛けて全力投球した。

 けたたましい、耳障りな音と共に、ガラスが砕け散る。

「あんぎゃああああああーーーーー!? お客さんなにしてんのーーー!?」

 露天商が奇天烈な悲鳴を上げる。無理もない。自分の店の商品が、ギャングの事務所に投げ込まれたのだ。

 商品もそのままに、売り上げだけポケットにねじ込むと、こちらを罵倒しながら逃げていく。

 通行人たちもそれに倣った。中央を走っていた車も道端に乗り捨てられ、ドライバーは近くの建物の中に避難する。


「さっすが、訓練されてるねえ」

 ホル・ホースはヒヒヒ、と笑いながら、がらがらになった車道の真ん中に歩いて行った。

 事務所の中からは既に怒号と足音が響いている。そう時間はかからず、連中は出てくるだろう。

「さて、早撃ち勝負と行こうか」

 事務所出入り口前に陣取り、口端を吊りあげながら、ホル・ホースは右手を構えた。

 そして、次の瞬間、拳銃やら機関銃やらで武装した男たちが事務所から飛び出し、あるいは窓から身を乗り出してホル・ホースを狙う。

 だが、銃弾が発射される音は聞こえなかった——スタンド使い以外には。

 まるで西部劇のように、悪党どもは全員が額に穴を空け、その場に崩れ落ちている。

 ただ一人、銃口から硝煙を立ち上らせる≪エンペラー≫を構えたホル・ホースを除けば、だが。

「スタンド使いだ!」

 事務所の中から、声が響く。

 いま倒されたのは下っ端だったのだろう。つまり、これから出てくるのが組織に取り込まれたスタンド使いというわけだ。

 そしてその予想通り、事務所の中から白い狼のような姿をしたスタンドが飛び出してくる。

 それも一頭ではない。群れでだ。出入り口や窓から、どっと十数匹が飛び出し、ホル・ホースに殺到する。

「流石にこの数は捌けねえなぁ」

 呟いて、ホル・ホースはさらに≪エンペラー≫の引き金を引いた。ただし、一発だけ。

 その一発で十分だった。放たれた銃弾は、狼の群れがホル・ホースに辿り着く前に事務所の出入り口から飛び込み、
 廊下を器用に曲がって、部屋のひとつに飛び込み、そこにいた狼のスタンド使いの内臓を撃ち抜いた。

 狼のスタンド使いは崩れ落ち、同時、白狼の群れも溶けるように消滅する。

「あ……なん、で、位置、が」

「悪いな。そこの事務所、以前は仕事で世話になってたから、間取りはよーく知ってんのよ。
 日当たりの良い部屋とか、偉ぶった幹部が座ってそうな椅子の位置とかをな」

 ヒヒヒと調子に乗るホル・ホース。

 その背後に、チビとノッポのコンビが、まるで最初からそこに居たかのようにふっ、と現れる。

 敵の後ろに出現する。そういう能力をどちらかが持っているらしい。

 だがホル・ホースにはその能力をどちらが持っているか知る機会も、振り返る暇も与えられなかった。

 それよりも早く、チビとノッポのスタンド——巨大な蜘蛛と、棘の付いたこん棒——が振り下ろされる。

 蜘蛛の牙はホル・ホースの腹を突き破り、こん棒は首をへし折った。
 
 勝利の感触に、二人の顔に笑みが浮かぶ。


 その笑顔の中心に、≪エンペラー≫の銃弾が叩き込まれた。

 二人は喜悦を驚愕に変えること暇もなく、そのままの表情で倒れ伏した。

「オーケイッ、これでラストみたいだ。幻覚を解いていいぜ、ケニーG」

『……』

 襟口に仕込んだ通信機から応答らしい応答はなかったが、しかし変化は劇的だった。

 道路の真ん中に居たはずのホル・ホースの姿が消え、まるで先ほどのコンビに倣って瞬間移動でもしたかのように、
 事務所の入り口の真横の壁に背中を預けて立っているホル・ホースが現れる。

 事務所の真ん前にいたホル・ホースは、最初から幻覚だった。本物は、安全地帯から≪エンペラー≫を撃ち、弾道を操作し、
 あたかも幻覚が攻撃しているように見せかけていたのだ。

「んっん〜、コンビ結成の初仕事としては、かなりの大戦果じゃねえの? こいつはJ・ガイルの旦那とのコンビより強力かもしれねえ」

『……それで、どうするんだ。事務所をひとつふたつ潰したところで、どうにかなるわけでもあるまい』

「言ったろ? この事務所は前に世話んなったことがあんだよ。
 もちろん例の組織に吸収される前の話だが、ここはこの街でもかなりデカい組織の、それもボスが拠点にしてた場所でな。
 吸収されたとは言っても、その規模が変わるわけじゃねえから……ほら、どんぴしゃだ!」

 無人になった事務所に押し入り、家探しをすること数分。

 ホル・ホースは≪エンペラー≫で鍵をぶっ壊した金庫から、目的の書類を探し当てていた。

「この組織の核は例のクスリだ。それで組織としてまとまっている。だがな、どうにもその輸入ルートが分からねえ。
 だが事実としてクスリはばら撒かれている。つまりは、そのルートを知ってる奴はかなり限られているってわけだ。
 おそらく、知ってんのは組織の幹部でもボスに近しい一握りだけだろうな」

『……そのルートが分かったのか?』

「いいや。こいつに書いてあるのは受け渡し場所のリストだ。今月分のな。
 この事務所が捌く量はかなり膨大で、つまりは上から任されるクスリも大量だ。
 他の組織の襲撃なんかを警戒して受け渡し場所は毎回変えてあるが、そんなに長距離を運べる筈もねえ」

 だから、だ——と、ホル・ホースは懐からこの都市の地図を取り出すと、リストにある場所に印をつけ始める。

 印はある箇所に集中していた。シウダー・フアレスとエル・パソ、メキシコとアメリカの国境になっている、都市東部を流れる川沿いに。


「こいつだ。リオ・グランデ川。おそらくこの上流——多分ここだ。この川に隣接して建ってる廃工場——ここにクスリの集積地があるんだろう」

『……国境の真横とはな。下手をしたら国際問題だぞ』

「だからこそ、国が手を出しにくいってのもあるんじゃねえか? まあこの国じゃ、警察なんざなんの役にもたちゃしねえが」

『……それで、どうする? そこを叩くのか?』

「おうともよ。さっきも言ったが、この組織はクスリでもってるんだ。
 このクスリを処分しちまえば、組織は壊滅——まではいかねえが、少なくとも、ヒヒッ、大混乱には陥るだろうぜ。
 その隙にボスを探し出して、叩く。おまけにこのクスリ、処分は簡単ときた。なあ、爺さん?」

 通信機に呼びかけると、ケニーGではない、老いた声——ここから少し離れた場所で、
 ケニーGと一緒の車に乗っているパキート老の声が返ってくる。

『——ええ。あのクスリの成分は不明ですが、欠点は分かっています。それは直射日光に非常に弱いということです。
 数秒も日光に曝せば、麻薬としての効果は破壊されてしまいます。
 ……ですが、大丈夫なのでしょうか。病院を空にして……』

「ああ? それは仕方ねえって言ったじゃねえか。ま、もぬけの空って連中に知れたら腹いせに放火くらいされるかもしれんが、
 財産も大事な資料も別のとこに移しただろ? 入院患者はいなかったしよ」

『……でも、ホイットニー・ハートは私とパキートお爺さんの家みたいな場所で……』

 通信機の向こうから響く声がさらに変わり、悲しげなパニのものになる。彼女も彼らと一緒の車に乗っているのだ。

 ホル・ホースは聞こえないように溜息を吐いた。

 拠点を早々に放棄して、敵に奇襲を掛けるという超電撃的な作戦を説明した時、最も難色を示したのは彼女だ。

 パニにとって、あの施設は単なる職場というだけではなく、それ以上の意味を持っている。

 確かに彼女の気持ちも分かる。分かりはするのだが。

「そりゃまあな、嬢ちゃん。俺だって守れるならあの病院は守りてえよ? 
 だけどよ、ぶっちゃけた話、狙われる側が拠点から動かなきゃ、相手にとっちゃカモなんだよ。
 これまでは連中が嬢ちゃんを無傷で捕えたがってたから均衡が保たれてたが、そりゃつまり——」

『……相手が気を変えた瞬間、私たちの負けになる、ですよね』

 つまりはそういうことだ。これまでパニの命は、敵の手の上にあったと言っていい。

 敵がなりふり構わず彼女の"始末"に動き出し、奇襲でもかけられたら、絶対に助からなかっただろう。

 そして敵がパニを狙う理由が分からない以上、その決断がいつ下されるかも、全く分からない状況だったのだ。

「ああ。分かってるじゃねえか。な? 嬢ちゃんの為なんだ。なに、安心しろよ。
 この事件が解決したら、また爺さんが新しい病院をダース単位で建ててくれるって」

『そ、そんなには要りませんよぅ!?』

 慌てたような声音の彼女に、ホル・ホースはいつもの笑いを返して。

「ま、そういうわけだ。それじゃ時間もねえし、俺を拾いに来てくれ」

『……分かりました。ケネスさん、車をお願いします。それと……わがまま言ってすみませんでした』

 ぷつっと通信が切れる音に、やれやれと、ようやくホル・ホースは一息ついた。

(嬢ちゃんの為、か。まあ、それもないわけじゃないが……本当は、俺自身の為でもあるんだがな)

 もっと穏便な作戦をとることも、出来ないでもなかった。

 だが勝率や効率、そして何よりホル・ホース自身の安全度のことを考えると、昨晩の事件の情報が相手の組織に出回る前に、
 つまりはホル・ホースが完全に"敵"として相手に認識される前に事を起こした方が得策だと考えたのだ。

 ホル・ホースは女を非常に尊敬している。が、女を騙すことも非常によくある。

 愛してるのはお前だけだ、俺にはお前しかいない、など——まあ相手を笑顔にする為、と言えば聞こえはいいが、
 要は後腐れの無い付き合いをする為でもある。だが、

(この嬢ちゃんとの付き合いには、後腐れが残るかもな)

 ——乾いた風の吹く中、何とはなしに、そんな予感がした。

◇◇◇


 ——日の届かぬ、暗闇の中で。

「……それじゃあ、確かなんだね?」

「ええ。動き出しました。下部組織の内、二つと連絡が取れなくなっております」

「ふぅん。長い間、じっと睨み合ってたのにね。どうして急に……」

「新たなスタンド使いを雇ったようで、その者の入れ知恵かと。かなりの手練れのようです。
 襲撃の手並みが早く、鮮やか過ぎます。思い切りのいい、行動が予測できないタイプです」

「……彼らは、ここへ来るかな?」

「おそらくは。クスリの受け渡し場所などの情報から推察はできるでしょう。
 如何いたしましょうか?」

「……もちろん、彼らとも友達になりたいよ? 君たちみたいにね。僕は世界中の人と友達になりたい。
 僕は弱いから、皆を友達にしたいんだ。ひとりぼっちは寂しいからね」

「我らはその考えに同調しました。ですが、彼らがどう思うかは……」

「……そうだね。残念だけど、駄目だったらしょうがない。
 だけど、"彼女"だけは絶対に殺しちゃ駄目だ。彼女とだけは、絶対に友達になるんだ。
 彼女は、僕にとっての唯一の光なんだから」

「承知いたしております——それでは、迎え入れる準備を。食事の支度をして参ります」

「うん——あ、辛いのはやだよ?」

>>62
粛清な
静粛じゃなく

投下は以上です

>>70
うわやっちまった……脳内変換よろしく

投下ー

なんだこれくっそ重い。ゆるゆる投下になります


「——時間だ。行くぜ」

「……まだあと、数分ありますよ。もう少し、待ってみませんか?」

 パニに言われて、車の車載時計を見やる。確かに、自分の腕時計はまた数分進んでいるようだった。

 ちっ、と舌打ちして、ホル・ホースは腕時計の竜頭に指を伸ばしたが——すぐにやめる。さほど意味のないことだと思い直したのだ。

 首を振りつつ、隣の座席に座ったパニに応じる。

「ウーゴの野郎とは、あれから連絡が取れねえ——ここの場所を伝えたのが三十分前。
 車を調達できてりゃ、もうとっくに到着してる頃合いだ。あと数分待ってみても変わらねえよ」

 ホル・ホース達は、クスリの集積場と思われる、例の廃工場に到着していた。

 今は物陰に車を停め、その中でひとりだけ別行動だったウーゴを待っているところだ。

 ウーゴにも通信機は予め渡していたため、この廃工場の位置を伝えることはできていた。

 だが、それから全く音沙汰がない。こちらからの呼びかけにも応えないのだ。

 こりゃあやられちまったかな、とホル・ホースはあっさりウーゴを見捨てた。

 冷酷なようにも見えるが、そもそも僅か数時間の付き合いでしかない。

 胸の中で十字を切るくらいはするが、それだけだ。

 感傷に流されて勝機を逃すほど、ホル・ホースはアマチュアではない。

「……まあ、ここに来ないからってやられちまったとも限らねえだろ。
 それより奴を待って勝機を逃しちまったら問題だ。そいつは、ウーゴも望んじゃいないさ」

 もっとも、それをストレートに少女に伝えるほど、性格が捻くれているというわけでもないが。

 暗い顔で俯く少女の頭を励ますようにぽんぽんと軽く叩きながら、ホル・ホースはヒヒ、と笑った。

 それに、ここで時間を無駄にできないというのは本当だ。
 奇襲によって得られた敵の混乱というアドバンテージは、時が経過するごとに薄れていくのだから。

 ホル・ホースとケニーGのコンビの強力さは先の戦闘で証明されたが、無敵というほどでもない。

 組織の全スタンド使いが集まってくれば、さすがに抗いようもないだろう。

「……だが、ウーゴがいれば楽なことは確かだ。クスリを日光に曝すのに邪魔な障害物を、一薙ぎに取り払えるからな。
 俺やお前のスタンドにそこまでの破壊力はない。まさかひとつひとつ丁寧に梱包を這いで、外に運び出す気か?」

「んな面倒なことしねーよ。おらッ、こいつを見ろィ」

 胡乱な目つきで見つめてくるケニーGに対し、
 ホル・ホースが後部座席の後ろ——トランクルームから取り出して見せたのは、パンパンに膨らんだナップザクだった。


「さっきぶっ潰した事務所から、ちょいと拝借してきたぜ。ダイナマイトだ。こいつで上手いこと柱をぶっ潰してやりゃあいい。
 ドカーン! ピカッ——あとはお日様が消毒してくれるさ。なに、ちょっと位埋まっちまったって構わねえ」

「……なら構わんが、俺はついていけんぞ」

「そりゃあ嬢ちゃんと爺さんを守らなきゃならねえしな……その役目はお前が適当だろうよ」

「……工場の中に入ってしまえば俺の≪ティナー・サックス≫の援護も効かん。
 精々、入り口を消して新たに入ろうとする奴を妨害するくらいだ」

「あ? ああ、そりゃそうだろうが……」

 ケニーGの言葉に、ホル・ホースは首を捻る。

 ≪ティナー・サックス≫の射程は建物ひとつを覆ってしまえるほどに広いが、
 その範囲の中でなら好き放題に幻覚が出せるか、というとそうではない。

 遮蔽物の陰など、本体から目の届かない場所に幻覚を出す際には、事前にその場所を目で確認しておく必要があるのだ。

 かつての職場であるDIOの屋敷でいうなら、廊下という廊下、部屋の隅々に至るまで隈なく練り歩いて、
 その間取りを全て頭に叩き込まねばならなかった。

 基本的に待ち構えるタイプのスタンドであり、逆に相手の陣地を取り込んでしまう、といったようなことは出来ないのだ。

 そういう意味では、相手の間近まで忍び寄って不意打ちするのが得意なホル・ホースの≪エンペラー≫とは、
 根っこの部分で"噛み合わない"といえるスタンドでもあるのだが。

 無論、ホル・ホースもそのことは知っていた。相棒になるにあたって、お互いの弱点は知っておかなければならないのだから。

 首を捻ったのは、なぜ今更そんな分かりきったことをケニーGが忠告してきたのか、という点だった。

(もしかして——)

「……心配してくれてんのか? お前が? 俺を?」

「悪いか? "安定"を切り捨てて、こんな博打に俺達を引っ張り込んだのはお前だ……なら、精々責任は取れ」

「そういう台詞は、テメエみたいな根暗チビじゃなくて、パニ嬢ちゃんみたいな可愛い女の子に言われたいね」

「……口の減らない奴だ。やはり死ね。そうすれば、俺はまた落ち着いて本の読める生活に戻れるからな」

 そう言って、ケニーGはダッシュボードからポケットサイズの文庫本を取り出すと、
 あとはホル・ホースの方をちらとも見ず、いつものように黙々と読書に勤しみだした。

 いつも通り——それは、おそらく無類の信頼の形。

「へっ。じゃあ悪いが、もうしばらく博打に付き合ってもらうぜ」

 そうして、ホル・ホースは口元を不敵ににやつかせながら降車した。

「ホル・ホースさん——どうか、御無事で」

 助手席のパキート老が、帽子を取って一礼する。パニも祈るように両手を組み合わせ、ホル・ホースを見つめていた。

 そんな姿も、すぐに周りの風景に溶けるように消え去っていく。ケニーGが≪ティナーサックス≫を発現させたのだろう。

 もう車の姿は見えず、彼らの息遣いも聞こえない。地面についたタイヤの痕でさえ、綺麗に修復されていた。

(さて——仕事だ)

 にやけ笑いがホル・ホースの顔から消え、顔つきが真面目なものへと変じる。

 ここは麻薬の集積地だ。警備の数人はいるだろう。

 だが"暗殺"は自分の十八番だ。負ける気はさらさらない。

 ナップザックを背負い込みながら、ホル・ホースは目の前に広がる巨大な廃工場を睨みつけた。

◇◇◇


 ——そうして侵入したのが、かれこれ20分ほど前のことになる。

(……どういうことだ?)

 物陰に身を隠しながら、ホル・ホースは胸中に疑問符を浮かべた。

 もともと、警備の人数はさほどではないだろうと予測していた。

 あまりに大人数だと、他の組織や下剋上を狙う幹部などに勘付かれる恐れがあるからだ。

 だからこそ、ここに居るのは数人の、だが強力なスタンド使いだと思っていた。

 殺せそうなら不意打ちして始末すればいいし、駄目そうだったらダイナマイトだけ仕掛けて逃げようとも考えていたのだ。

(だけど、こいつはどういうことだ? ひとっこひとりいねえってのは——)

 スタンド使いどころか、普通の警備員すらいない。

 最初に思い浮かんだのは、自分の予想がてんで外れていて、ここがクスリの集積地ではなかったのではないか、というものだった。

 だがその後すぐにクスリは発見できた。倉庫らしき場所に、木箱で厳重に梱包された"赤い塩"がうず高く積まれていた。

 爆破の準備をしている間に不意打ちされると不味いので、とりあえずダイナマイト入りのナップザックはそこに隠し、
 まずは警備を片付けてしまおうと工場を見回りだして十数分。

 それなのに、未だに誰とも遭遇していない。

(警備がひとりもいねえ、ってのはおかしい——誰かが悪戯で入りこまねえとも限らないしな。
 それに奇妙といやあ、この"工場自体"も奇妙だ)

 ホル・ホースは自分が身を隠している、巨大な機械を見つめた。

 それが何のために使われる機械なのか、などというのは、門外漢のホル・ホースには分からない。

 だがその機械は明らかにごく最近まで稼働していた。錆も浮いておらず、スイッチを入れれば問題なく動き出すだろう。

 そして、それはこの機械にだけ言えることではなかった。この工場内にあるすべての機械から、新鮮な油の臭いが漂っている。

 耳を澄ませば、ヴ——ンという低重音も響いていた。電気が通っているのだ。

(この工場が閉鎖されたのはン十年前って話だった——なのに、中の機械は最新式だ。手入れもされてやがる。
 誰かがこの工場で、何かを作ってやがんだ。だが、そいつはなんだ?)

 倉庫に山積みにされていたクスリ。その不明な輸入ルート。

(……もしかして、こいつはクスリの"集積地"なんかじゃなくて——)

 製造工場、なのではないか。

 それほど的外れな考えとは思えない。あまりにも多くの事柄が符合しすぎている。

(だが——だとしたらこのクスリの"材料"は何だ? あれだけ大量のクスリが造られてるなら、材料もそんだけ必要だろう。
 そして大量の材料が運び込まれてるんなら、そのルートが判明していないってのはやっぱり変な話だ……)


 疑問は尽きないが、しかし、分からないことを考えていても仕方がない。

 諦めて、さっさと爆破して車に戻るべきか、と、ホル・ホースが考え始めたところで。

 ふと、ホル・ホースの目に、あるものが留まった。

 それは、工場の柱に付けられた"傷"だった。

 柱は標準的なH形鋼で造られていた。H形鋼とは、断面図を見ると名前の通りアルファベットの『H』の形をしている鉄柱のことだ。

 そのH形鋼の、真ん中の一枚に対して、垂直に張り付けられた板——専門用語でフランジと呼ばれる部分に、
 まるで刃物か何かを入れたような、鋭いくの字型の傷が付けられていた。

 周囲の機械が非常に丁寧な手入れをされている中、この傷だけがとても粗雑で、奇妙に映ったのだ。

(なんだ、こいつは——? ……なにか"ヤバイ"気がする)

 一歩。その傷から一歩だけ離れるように後退した理由は、ホル・ホース自身にも分からなかった。

 ホル・ホース自身も気づかないような小さな過去の経験からくる第六感だったのかもしれないし、
 『4は不吉な数字だから近づかない』とでもいうような、本当に根拠のない思い込みからくるものだったのかもしれない。

 いずれにせよ、この時ホル・ホースは知らずの内に——敵のスタンドである≪ディメンジョン・ゼロ≫の有効射程から一歩だけ逃れていた。

『ほう——流石、と言いましょうか。気配はなく、感情の乱れもない。隠れ方も的確で、動きに迷いがない——
 それでこそ一流というものです。私でなかったら、おめおめと我らがボスを危険に晒していたでしょうな』

 柱の傷口から、声が響いた。

 酷く澄んだ、まるで冷たい冬の小川に流れる水のような声だった。それこそ、魚ですら凍り付いて死んでしまうような。

 称賛しながらも、そこには一切の感情が含まれていない。まるでマネキンが無理に声を出しているかのようだ。

(な——ッ)

『声を出さないのも合格です。ただの鎌かけかもしれないのですから。
 口に手を当ててさらに一歩下がり、間合いを開けながら観察に努める——実に素晴らしい。暗殺者としては』

 鎌かけと言いながらも、相手はたったいま声を掛けられてしたホル・ホースの動作を実況して見せた。

(お、オレが見えてるのか。監視カメラの類は一切ないっていうのに——
 い、いやッ! それよりも、こいつは今なんて言いやがった!?)

 "ボスを危険に晒していた"……つまりは、今ここに組織のボスがいると、謎の声の主はそう宣言したのだ。

 すでに敵に見つかっているなら、隠れても無駄だ。それよりは視界を広くして、いち早く敵を探し出すべきだ。

 ホル・ホースはそう判断すると、柱の傷口からさらに離れるように後退し、周囲を見渡した。
 
「どこだ!? 隠れてないで出てきやがれッ」

 つい数分前の自分のことは棚に上げて、叫ぶ。おそらく、声が"柱の傷"から聞こえてくるのは敵のスタンド能力だ。

 声を掛ける前に攻撃してこなかったのは、直接的な攻撃力のないスタンドなのか、あるいは——

(敵対を望んでないから……ってのは都合よく考えすぎかね?)

 相手の声が無感情すぎて、そこから考えを読むことはできない。

 だがホル・ホース達は、組織の事務所を二か所も潰したのだ。

 即座に攻撃されてもおかしくないのに、こうして対話を臨んでくるのは何らかの意図があるに違いない。

『そう構えなくても結構ですよ——いま、明かりをつけましょう』

 その言葉と共に、天上に設置されていた電灯に灯りが入った。

 影が払拭され、工場の全容が露わになる。そして、その異常も。


(な、なんだ、こりゃ……!? よくみたら、そこらじゅう"傷"だらけだ!)

 柱の傷は、ホル・ホースが見た一か所だけではない。

 天上や床、機械を除いた工場の至る所に、同じような"くの字型"の傷があった。

 その全ての傷口から、同時に声が響いてくる。

『さて、如何でしたかな? 我らが"ロッホ・レラシオネス"の、ロッホ・サル製造工場見学ツアーは』

「……とっくの昔に気づかれてた、ってわけかい」

『その通りです。であればこそ、我々があなたと話し合いを望んでいる、ということを信じて貰いたいのですが』

「話し合いだぁ〜?」

 ホル・ホースは疑わしげに顔を歪めた。

 全く予想できていなかったわけではないが、だからと言ってホイホイ信じるわけにもいかない。

「俺らがおたくの事務所をぶっ潰したのは知ってんだろうがよ?
 そんな奴らと話し合いがしたい、だなんて信じられると思うかい」

『彼らなど。所詮はクスリで利益を貪ることしか考えていない輩です。我々と真の"仲間(レラシオネス)"ではない』

「クスリをばら撒いてるのは、お前さんたちの意思じゃない、とでも言うつもりかよ? 
 こんな御立派な工場まで造っておいて」

『その辺りは難しい話になります。そこらも踏まえて、お話ができれば、とボスはお考えです』

「なるほどねえ……」

 ホル・ホースは考え込むように、帽子のつばを指で擦りながら唸って見せた。

 ——もっとも、それは完全な"フリ"だったが。

「んじゃあ、オレがこうしたらどうするつもりだい?」

 即座に≪エンペラー≫を出現させ、適当な方向に向かって撃つ。

 もっとも、適当なのは銃口を向けた方向だけだ。

 発射された弾丸は操作され、ホル・ホースの狙い通りに機械の間をすり抜け、目的地に進んでいく。

(敵は得体が知れねえ。そんな奴らの言う通りに行動するなんて、それこそ自殺行為だ。
 だから、ここは奇策に徹するぜ)

 ホル・ホースの狙いはクスリの貯蔵庫に置いてきたダイナマイトだ。

 ここからそこまでの道順は頭の中に入っている。

 撃ち抜けば大爆発を起こすだろう。配置が適当なので、屋根を崩落させるまでには至らないだろうが——

(敵を混乱させることは出来る筈だ——その隙に外のケニーGと合流する)

 ボスがここに居ると分かった以上、全力で打ち倒すだけだ。

 奴らが建物から抜け出すところを、≪ティナー・サックス≫と≪エンペラー≫のコンビで始末する。それがホル・ホースの目論見だった。

 だが、

「な——」

 操作していた弾丸の感触が、ホル・ホースの中から消える。

 消失——ダイナマイトに向かっていた弾丸は完全に、一瞬で、この世から消えてしまっていた。


(な、何が起こった——?)

『ふむ——察するにあのナップザック、中身は爆発物か何か、というところですか?
 さすがにあの量のクスリをダメにされるのは、少々響きますので——』

 こともなげに、傷の声はそう告げてくる。

 敵が、何らかの手段で、≪エンペラー≫の弾丸を消した——そうとしか思えない。

 どっ、とホル・ホースの背中に冷や汗が浮かんだ。

(あ……甘かった! 俺の考えが甘かったんだ! 敵は、ここに入った瞬間からオレのことを監視していた!
 オレのことを、いまやられたみたいにいつでも消せたんだ……!)

 おそらく敵は遠距離型——それでいて、弾丸を消し去ってしまうような能力もあるスタンドだ。

 相手の居場所が分からない限り攻撃できない≪エンペラー≫にとってはまさに天敵だった。

『さて——プロの方としては、みすみす敵の言に乗る愚など犯したくない、というところでしょう。
 ですが我々は貴方と友達になりたい、と思っています。ですから——誠意です』

 かつん、という固い足音が背後から聞こえた。

 思わず振り返る。そこに、先ほどまで人影ひとつ見えなかったはずの背後に、壮年の男が立っていた。

(背後を……取られた!? こんな簡単にか!)

 反射的に右手を構え、≪エンペラー≫による反撃の構えを取るが、それよりも相手の言葉の方が早かった。

「驚かせてしまいましたかな? ですが、これは私なりの"誠意"です」

 そいつは"攻撃の意思はなく、また攻撃されてもそれに対する備えがある"とでもいうかのように、
 両手を大きく広げて、ホル・ホースに冷たい視線を注いでいた。

 東洋系、おそらく中国人だろう。目つきは細く、鋭い。それこそ、ナイフで入れたような鋭利さだ。

 酷く痩せていて、手足は針金のように細く、長い。それも合わせて、まるで全身が刃物のような印象を受ける。

 そんな男が、その鷹のような目で、ホル・ホースをじっと見つめている——

「——そう、誠意です。姿を見せましょう。貴方の前を歩きましょう。それを見て、貴方が何を選択するかは自由です。
 ボスは貴方と友達になりたいと思われています。私も同様です。
 ボスは貴方と友達になれず、なおかつ貴方が敵対するのなら、殺すこともやむなしと思われています。私も同様です」

 それだけ言うと、その刃物男は言葉通り、ホル・ホースの横を無造作に通りぬけて歩き出した。

 ついてこい、ということだろう。男はゆったりとした足取りで、振り返りもせずに歩き続けている。


 即座に、ホル・ホースは≪エンペラー≫でその無防備な背中をぶち抜こうとして、

「……ッ」

 だが、引き金を引けなかった。

 もはやこれは不意打ちではない。敵に気づかれてしまい、さらには敵の手のひらの上にいる。

 完全に、手玉に取られている——

(撃てば、俺は死ぬ……)

 その予感が、ただの思い込みだとは思えない。

 かつて似たような状況があった。DIOを、その真の恐ろしさを思い知らされる前に殺そうとした時の話だ。

(だが、こいつにはDIO程のプレッシャーは感じねえ——殺れる。その感触がある。
 だが今は不味い。まだだ。こいつと勝負するとしたら、そのタイミングは今じゃねえ……)

 手の中の≪エンペラー≫を消す。

 その気配を察したのだろう。刃物男——ウィンシンは、振り返ることも歩調を緩めることもなく、
 ひたすら事務的な口調で言葉をつづけた。

「ご理解いただけたようで幸いです。ならば名乗っておきましょう。劉栄成(リュー・ウィンシン)です。
 ボスの——我らが友の、身の回りのお世話をさせていただいております」

 その自己紹介に、ホル・ホースはケッ、と唾を吐いて応じた。

 ズボンのポケットに両手を突っ込みながら、必要以上に不遜な面持ちでウィンシンの後をついて歩いて行く。

(……とはいえ、かなりヤベエ状況には変わりねえなぁ〜……!
 できれば"へーわてきカイケツ"って奴を望みたいもんだが……)

 ——そんな態度の半分以上は、背中に掻いた大量の冷や汗を誤魔化すためのものだったのだが。


◇◇◇


 そこは工場の地下だった。

 おそらく、もとはデリケートな資材を置く場所か何かなのだろう——空調設備が整っており、
 温度も湿度も一定に保たれているという、非常に過ごしやすい場所だった。

 その部屋の中心に、大きな円卓が用意されている。中華料理店にあるような、回転式のテーブルだ。

 テーブルに掛けられた白いテーブルクロスの上には、赤を主調とした彩りの料理が並べられている。

 おそらく、四川料理だろう——炒められた香辛料の芳香が、ホル・ホースの鼻をぷんとついた。

「あ、いらしたんですね」

 その料理を並べているのは、テーブルの向こう側にいる、ひとりの少年だった。

 年のころは10歳前後というところか。

 ピアノの演奏会か何かで着るような、半ズボンの黒いスーツもどきを身に着けて、蝶ネクタイまで締めている。

 顔はメキシコ系だが、髪と肌の色素は薄い——メキシコ人はその大半が原住民であるインディオと
 それを植民支配したスペイン人の混血であるが、おそらくスペイン人の血が濃く出たのだろう。

 あるいは、近い世代で別の白人人種の血が混じったのかもしれない。

 だが、そんなことはどうでも良かった。問題は、なぜこんなところに子供がいるのか、ということだ。

(小姓かなんかか?)

 ぱっと思いついたのは、そんな考えだったが。

 それを口に出さずにおいて良かったとホル・ホースが安堵したのは、ウィンシンが先ほどの無感情振りからは想像もできない、
 焦ったような声音でその少年にこう呼びかけたからだ。

「ボス——いや、ジョジョ。そのような雑事、私がやりましたのに」

「ああ、ごめんね。でも、ウィンシンにはお客様を迎えに行って貰ったからさ。これくらいは僕がしようかと思って。
 もう盛り付けて並べるだけだったし。上手いもんだろう?」

「確かに、上達の跡は見られますが——」

「ウィンシンは手厳しいなぁ——」

 そんな和やかに会話する二人に、思わず割って入って、 

「こ——こんな餓鬼がボスだっていうのか!? オレを担ごうってんじゃないだろうな!」

「……口を慎め」

 ホル・ホースのある意味無礼ともいえる言葉に、ウィンシンがぎろりと例の鋭い目つきで睨み返してくる。

 だが、それをやんわりとした手つきで少年が制した。

 すると訓練された犬のように、ウィンシンはすぐさま険のある表情を解き、少年の背後に控える。


(マジだってのか……)

 世界で二番目に危険な都市を支配しかけているのが、こんな小さな子供だったとは。

 到底納得などできなかったが、その事実をとりあえずは飲み下して、ホル・ホースはその少年と相対した。

「それじゃあ、アンタがマジにボスなんだな?」

 ホル・ホースのその言葉に、少年は僅かに顔をしかめた。

 "ボス"という風に呼ばれるのが、心底気に入らない——まるで不快な仇名で呼ばれたかのような、そんな表情を一瞬だけ浮かべた後。

「ボス——そうですね。対外的にはそう呼ばれています。本当は、そう大したものじゃないんですけど。
 でも、間違いじゃないですよ。ええ、初対面の方にはそういうべきでしょう」

 最後の料理皿をテーブルに置いて、少年は丁寧に——それこそピアノの発表会で挨拶でもするかのように、
 ホル・ホースに向かってぺこりと頭を下げ、

「"ロッホ・レラシオネス"のボスをやっている、ジョバニ・カスティージョです。近しい者は"ジョジョ"と呼びます」

 そういって、少年——ジョバニ・カスティージョ、通称ジョジョは元の位置に戻した顔に太陽のような笑顔を浮かべた。

「よろしく、ホル・ホースさん。長い付き合いになれば、と思っていますよ」

「……」

 その笑顔に、ホル・ホースは無言で返す。

 否、正確に言えば、何も返すことができなかったのだ。

(なんだ……こいつは?)

 違和感がある。この少年には、何かとてつもない違和感が。

 このナリで組織のボスだというのはまだいい。見た目に反してなかなか理知的な物言いをするのもマセガキの一言で済む。

 ホル・ホースが覚えた違和感は、そうした表面的なものではない、もっと根本にある"何か"だった。

 その悪党の反応をジョジョはどう捉えたのか、笑顔を絶やさないまま、手近にある椅子を引いた。

「よっ……と。さあ、話は料理でもつつきながらするとしましょう。
 ウィンシンの中華料理は本場仕込みですから、とても美味しいですよ」

 身長が足りないせいだろう、ジョジョはそれにぴょこんと飛び乗るように腰掛け、ホル・ホースにも着席を促す。

(ほ、本気で会食しながらお話ししましょうってのか……)

 先ほどまでウィンシンと自分との間にあった緊張感が、この少年に消されてしまった。欠片もなくなってしまっている。


 だが、だからと言って敵に出された料理を口にする気にはなれない。

「ここまで来たんだし、話はするがな。だが座って咄嗟に動けなくなるのは御免だし、飯もいらねえ。
 あの元の王様だったチンギス・ハーンの親父も、敵部族の宴会に参加した挙句毒盛られて死んだっていうしな」

「毒なんか入ってませんったら」

 そう言って、証明するようにジョジョは麻婆豆腐をひと匙、レンゲですくって口の中に流し込んだ。

「うん、美味しい——ちゃんと辛くないようにしてくれたんだね、ウィンシン」

「ええ、それはもちろん」

 ジョジョの称賛に、ウィンシンが優しい微笑みを浮かべながら頷く。

 こうして見ると、仲の良い親子という風にしか見えない。

 そこにはボスとその手下という上下関係はなく、まるで本物の家族のような暖かみがあった。

「……いや、信用できねえな。毒が入ってるのは俺のだけかも知れねえし、
 そうじゃなくても予め解毒剤くらいは飲んでるかもしれねえ」

 そうした暖かみの外から、努めて冷たい声音を維持しながらホル・ホースは頭を振った。

 その様子に、ジョジョは文字通り匙を投げた。手にしていたレンゲを取り皿に、カチャリ、と放り出す。

「ジョジョ。行儀が悪いですよ」

「ああ、ごめんよ。ウィンシン。うーん、でも、出来れば料理は食べて欲しいんだよ。
 ウィンシンがせっかく作ってくれたんだし、食べながら話した方が円滑に進むと思うんだ」

 咎めるウィンシンに首を竦めながら、ジョジョ少年はうんうん唸りながらしばらく首を捻っていたが、

「それなら——こういうのはどうでしょう?」

 人差し指を立て、ジョジョはまるで素晴らしい名案を思いついたとでもいう風に、その解決方法を提示してきた。

「あんまりこういうやり方は好きじゃないんですが、要はこちらに殺意がないということを証明すればいいんですよね?」

「ああ、まあな。だが、証明できんのかい? 宇宙人がいないってことを証明しろ、って言ってるようなもんだぜ?」

「ええ、簡単です——ホル・ホースさんが、僕をスタンドで攻撃すればいいんですよ」


 そんなジョジョの提案に、ホル・ホースはたっぷり数秒は固まった。

「——マジで言ってんのかい。俺に、お前さんを撃てってか? だが、そいつが何の証明になる」

「やれば分かりますよ。やる前に理由を言わないのは、さっきも言いましたが、こういう方法は好きじゃないからです。
 できれば言葉にもしたくないほどなので……」

 本当に、その方法の問題はそれだけ——自身の好みではないということだけが問題だ、とでも言う風に、
 ジョジョはあっさりと頷いて見せた。

 その様子を見て、ホル・ホースは頭を振りながら深い溜息をついた。

「……いや、やめとくぜ。ガキを撃つのは趣味じゃねえし、そこまで言うんだ。その"誠意"って奴を信じることにするさ」

 ヒヒヒ、といつもの笑いを浮かべながら、ホル・ホースは自分の椅子を引いた。

 だが、その時——椅子に座るよりも先にテーブルに着いた右手が、端に置かれていた取り皿にぶつかってしまう。

 衝撃を与えられた白い陶磁器は、そのまま転がるようにテーブルから落下し、そして砕け散る。

「ああ、大変だ。代わりの皿を取ってきましょう」

 とでも、ジョジョは言おうとするだろうか。

 だがその口が開く前に、それよりも早くホル・ホースは≪エンペラー≫を出現させていた。容赦なく引き金を引いていた。

 全員の目が、意識が、床に落ちる皿に注目する一瞬。

 その一瞬でホル・ホースは笑いを引込め、冷酷な暗殺者に成り代わっていた。

 響くのはスタンド使いにしか聞こえない銃声。たなびくのはスタンド使いにしか見えない硝煙。

 だがそれが耳に届くよりも先に、目に映るよりも先に、最短の軌道で≪エンペラー≫の弾丸はジョジョのいた空間にぶち込まれていた。

 鮮血が散る。それは紛れもなく、ジョジョ少年の血液だ。


「……驚きました。まさか、傷をつけられるなんて」

 しかし、『感心した』とでもいうような少年の声は、ホル・ホースの"後ろ"から響いた。

(な、あ——?)

「いや、本当に驚きました。凄い。こんなのは、見たことがない——まさに"暗殺"って感じです。
 あと一瞬、僕のスタンドの発動が遅れていたら危なかった。いや、本当にびっくりしました——」

 しきりにホル・ホースを称賛する背後からの声。その声が積み重なっていく度に、ホル・ホースの脈拍が早くなっていく。

 先ほど、ホル・ホースはウィンシンにもその能力で背後を取られた。だが、これは"違う"。

 その性質が、まるで波の出るプールと大津波ほどに違っている。

(ば、馬鹿な……有り得ねえッ!)

 絶対に意識は逸らしていなかった。瞬きさえしていなかったという自信がある。
 
 だというのに——

「これじゃあ証明にならないな。すみません、もう一度チャンスをくれませんか?
 今度はキチンと避けてみせますから——」

 敵が台詞を言い終わる前に、ホル・ホースは振り返って、再度≪エンペラー≫を照準していた。

 もっとも、引き金は引かない。引く必要がない。既に弾丸は放ってあるのだから。

 初撃で放った銃弾をコントロールして引き戻し、テーブルの下を潜らせ襲わせる。

 ≪エンペラー≫の銃口はただの囮だ。二度目の奇襲。敵の意識を逸らして、その隙を突く。

「さすがに二度目は通じませんよ——いや、でも、ないかな? 来週くらいになったら、またやられちゃうかもしれませんね」

 だが、ホル・ホースの振り返った先に、少年の姿はない。

(い、いや——違う! オレは、オレは確かに"振り返った"! なのに、なのに……!)

 今のホル・ホースは、"振り返っていない"。

 一瞬前まで、ホル・ホースは床の上に二本の足で立って、上半身だけ背後に向けていた筈だった。

 だというのに、いつの間にか椅子に座っている。前を向いて、姿勢よく、背筋を伸ばして。

 いつのまにか、再び対面に座る少年の笑顔を知らずの内見つめていた。 

 その少年の頬からは、一滴の血が流れている。

 それがホル・ホースが少年に与えられた、唯一の損傷だった。


(催眠術? 違う。幻覚なら頬に傷はつかない。
 超スピード? 違え。それなら、オレを椅子に座らせた時に分かるし、ばれないほどの速度じゃオレの体が砕けちまう。
 瞬間移動? 馬鹿が、それなら"移動した瞬間"をオレが見てねえのはおかしいだろうが……!)

 可能性を潰しながら、思い当たったのは一つの仮説。

 それはこの半年間、病院のベッドの上で、無駄に余っていた時間を発散させる為に行っていた思考の産物だった。

 かつて、ホル・ホースの心を震撼させたDIOの能力。

 それがどのようなスタンドによるものだったのかを、一緒に入院してたオインゴ達と戯れに話し合ったことがある。

『だからよー、俺は絶対"瞬間移動"だと思うッ! 蜘蛛の巣を破らずに後ろに回るにはそれしかねえって!』

『いや、オレはその"消える瞬間"を見てねーのよ。あるだろ? ワープならこう、"ふわっ"として消える瞬間がよ』

『そんなの、お前が油断してただけじゃねーのかホル・ホース』

『ああん!? テメエ、言うに事欠いてオレの油断だぁ!? 言っとくがな、オレは暗殺のプロだぜオインゴ!
 テメエみたいな詐欺にしか使えそうのないへっぽこな能力の持ち主じゃあねーのよ。分かったかこのトンチキ!?』

『んだとこの野郎——』

『や、やめなよ兄ちゃん……暴れて傷でも開いたら、退院が伸びるよ。せっかく一緒に退院できそうなんだから……』

『お、おう。すまねえなボインゴ』

『そういうてめーは何か意見ねえのかよボインゴ? え? テメエの≪トト神≫で予知してみやがれってんだ』

『と、≪トト神≫はそういう能力じゃないですし、はい……で、でも、ぼ、ぼぼ、僕の考えは、……その』


(そう、それは——)

 三度目。ホル・ホースは左手を掲げ、≪エンペラー≫で再びジョジョを狙う。

「ふむ。そういえば、もしかして持ってるかと思ったのですが……ああ、やっぱり。
 襟のこれ、通信機ですね。すみませんが、スイッチを切らせてもらいますよ。無論、あとでお返ししますので」

 今度は弾丸を発射する前に、ジョジョはホル・ホースの横に佇んでいた。

 その手にはホル・ホースが襟元に隠していた、小型通信機が握られている——
 だがそれを奪われた瞬間さえ、ホル・ホースには知覚できなかった。

(や、やっぱりだ……)

 突き出した左手をカタカタ震わせながら、ホル・ホースは敵の能力を悟った。

 ホル・ホースが今、三回目の暗殺の時に、"右手"ではなく"左手"を掲げたのには理由がある。

 最初から、ホル・ホースには撃つつもりなどなかったのだ。ただ、確認ができればよかった。

 ジョジョのスタンドが発動する瞬間に、左手に巻いてある時計の秒針さえ確認できていればよかったのだ。

(進んでねえ……一秒どころか、半秒も! 消えて、俺の真横に立つまでのタイムラグが全く存在していねえ……!)

 それが意味することは、おそらく——

「と、時を……"時を止める能力"だってのか——あいつと、DIOと同じ……」

「……≪ジ・モーメント・アイ・ニュー≫。それが僕のスタンドです。
 持続時間は最大で"60秒"ほどですが、なかなか使い勝手のいいスタンドでしょう?」

 60秒間。

 それを長いと取るか、短いと取るかは人によって違うだろう。

 そしてホル・ホースのような殺し合いを生業とする人間にとって、その時間はまさに永遠といえる程の長さだった。

(だ、だが——そんなとんでもねえスタンド、パワーやスピードは一体どの程度になるんだ?
 スタンドのヴィジョンは一切見えなかった……ヴィジョンの無いタイプのスタンドなのか?
 もしそうだとすりゃあ、まだ勝ち目はある。相手は餓鬼だ。腕力もねえ、ただの……)

 と、そこまで考えて。

 ふと、疑問が脳裏を掠めた。

 自分が突然椅子に座っていたのは、時間を停止させている間に無理やりそうされたのだろう。

 だが大人の男性を、止まった時の中で、誰からの助力も受けられない中で、ただの子供がどうやって運ぶ?

 その疑問の答えは、ジョジョの頬の傷が教えてくれた。

 ≪エンペラー≫の弾丸によって裂かれ、血が垂れていた頬の傷。

 そのぱっくり裂けた肉の両端が急に"ぶるり"と震えたかと思うと、
 まるで互いを食い合うウロボロスの蛇のように混ざり、癒着し、そして元の綺麗な肌に治ったのだ。

 ホル・ホースは、この傷の治り方を以前一度だけ見たことがあった。

 そう。それもあの時だ。あの館で、DIOに、指につけた火傷の治癒速度を見せつけられた時——

「あ、ああ……て、てめえ、"人"じゃあねえのか……あの化けもんの、吸血鬼、なのか……」

 それは、どうしようもないほどに符合する。

 半年前にエジプトで見たあの悪夢。最強のスタンド能力と、人間を超越した生命力を併せ持った悪の王。

 ——そう、ジョジョが言った"料理に毒など入れないということを証明する"という言葉の意味。

 それは簡単なことだった。毒殺などと、回りくどい手段をとる必要はない。

 殺そうと思えば、いつだって殺せる——それは、そういう宣言だったのだ。

 そうして、ジョバニ・カスティージョ——吸血鬼にしてスタンド使い、この都市を支配する裏組織の首領は、
 犬歯というには鋭すぎるその牙を剥き出しにして、笑った。

「さあ、ホル・ホースさん。話し合いましょう……そして友達になろうじゃありませんか」

投下終了。ボスの名前は考えるの面倒だったのと、覚えやすけりゃいいやと思ってこうなりました。
別に因縁の血統とかはないです。

難産でした。投下します

 メキシコでは、秋に砂漠を起源とする強い季節風が吹く。俗に"サンタナ"と呼ばれる乾いた風だ。

 雷によって起こる山火事を、さらに広げる一因となってしまうこともあるこの風は、度々住民の心に恐怖を生んだ。

 だが——同じ"サンタナ"の名を持つ、山火事以上に恐ろしい存在が、かつてこのメキシコに眠っていたことをほとんどの人々は知らない。

「僕の父は——もう亡くなってますが——その昔、スピードワゴン財団に雇われていた発掘調査員のひとりでした」

 油で揚げた胡麻団子を頬張りながら、ジョジョ少年が言う。

 スピードワゴン財団とは、今から数十年も前にとある石油王が設立した組織の名前だ。

 世界でも有数の経済力を持ち、様々な分野の発展に貢献しているという研究団体。

 特に医療分野においてはかなりの力を入れており、その本拠地があるアメリカ医学界の発展に大きな貢献をしている。

 そんな、福祉的発展に尽くす組織であるが——しかし、組織が大きくなれば、どうしてもそこに"膿"は生じる。

「昔、この国で非常に古い遺跡が見つかったんです。その最奥には、一人の男と無数の仮面が埋め込まれた柱が存在しました。
 それを最初に発見したのが父の所属していたチームです。結局、その遺跡はドイツ軍に接収されてしまったんですが——
 父はその前に、その遺跡にあった石の仮面をいくつか横領していたんです」

 お恥ずかしい限りですが、とジョジョは恥じ入ったように首を縮めながらそう話した。

 実際、発掘品の横領や横流し、盗掘というのは、かつて非常に頻発していた犯罪だ。

 あのクフ王のピラミッドですら、副葬品の類は全て盗掘された後だった。

 そのせいで、考古学者を泥棒の親戚と見なすような連中も多い。

 だが、このジョジョの父がした行為は、ある意味神聖なピラミッドを暴くよりもよほど罪深い行為だった。

「ドイツ軍の件もあって、父はその石仮面をすぐに横流しすることはできなかったようです。
 結果として、石仮面は我が家の倉庫に眠ることになり、父はそのままスピードワゴン財団に勤め続けました。
 ……その石仮面が、どういった道具であるのかを知るまでは」

 それは、全くの偶然だった。

 財団でも石仮面の存在はトップシークレットであり、およそジョジョの父が知ることなどあり得ない筈だった。

 だが——直後に財団のトップが遺跡内部で行方不明となり、財団内部は混迷を極めることとなった。

 トップの生存を信じる保守派と、この機に財団の乗っ取りを図る連中がぶつかり合ったことで、そこに"隙"が生まれたのだ。

 組織的な隙。それを突いて、彼の父は石仮面の秘密を手に入れた。

「それは血によって動作する、人を人以上の存在にまで押し上げる為の"装置"でした。
 吸血鬼——ええ、そうですね。確かにその性質に似ています。ご存知のようですから、説明は省きますが」

 そう言ってジョジョは、対面に座って大人しくしているホル・ホースに笑いかけた。

 あれからホル・ホースは席に着き、促されるままに料理を口に運び、少年の話を聞かされ続けている。

 抵抗は無意味だと、そう悟ったのだ。自分一人でここから逃げ出すのは不可能だとホル・ホースは確信していた。

 十中八九、目の前の少年のスタンドは"時を止める能力"を持っている。

 ≪エンペラー≫がいかに暗殺に特化したスタンドであっても、時を止められれば意味はないし、
 そもそも吸血鬼という生物を殺すのに、拳銃弾をいくらぶち込めば足りるというのか。

(DIOと違って、こいつは体を総とっかえしたってわけでもねえ……純粋な吸血鬼の再生力って奴はどの程度なんだ?)


 そんな疑問をよそに、少年の話は続く。

「父は結局、石仮面の真実を知って、横流しすることを諦めたようです。根は気の小さい人だったんでしょう。
 スピードワゴン財団は石仮面を異常なまでに敵視してますから、横流しが現実的でなかったというのもあるんでしょうが」

 だが同時に、捨てることも壊すこともできなかった。

 金に換えることができないのなら、横領の証拠となる物品は、ただのリスクでしかないというのに。

 石仮面に秘められた"力"——それはジョジョの父の精神を麻酔し、知らずの内に虜にしていたのかもしれない。

「悪いことは出来ないもので、結局、父は石仮面とは別の横領が発覚し、財団を首になりました。
 当時僕は十歳でしたが、酷く苦しい思いをしたのを覚えていますよ」

 そう語る少年の瞳は、その外見には似つかわしくない憂いを帯びていた。

 恨むでもなく怒るでもなく、ただ純粋に、その体験を悲しんでいた。

「そう、地獄のような日々でした——何度も死ぬかと思いました。何度も死のうと考えました」

 まあ結局、死ななかったからここに居るわけですが、と憂いを苦笑のようなものに切り替えて、少年は続ける。

「そうして僕は思ったんです。そんな体験は、この世界に不必要なものではないか、と。
 試練? 精神的成長の切っ掛け? 馬鹿げています。理不尽に与えられる苦しみに、どんな価値があるというのか」

 それを、僕は無くしたい。少年はそう告げた。

「ホル・ホースさん。この世でもっとも価値のあるものは何だと思いますか?」

「ああ? あー、そうだな……」

 ホル・ホースは顎に指を添えてふむ、と考える素振りを見せた。

 が、すぐに止める。どうせこの少年も、自分と哲学的な議論がしたいというわけではないだろう。

 ぱっと思いついたものを、そのまま答えることにした。

「……まあ、金じゃねえか? 金があれば大抵のもんは買えるしよ」

 これ以上ないほど俗な、欲と手垢に塗れた解答。だが、それに対して少年も仰々しく頷いて見せた。

「それは、ある意味で正解だと思います。お金があれば大抵の物事は上手く運びますから。
 でも僕が一番大切だと思うものは、それより一歩、踏み込んだ先にあるものです」

「先にあるもの?」

「必要なのは"飢えないこと"です。精神的充足を手に入れた時、人間は幸福になる。
 すべての人間が幸福になれば、それは"天国"です。僕はこの世界を天国にしたい」

「悪いが、宗教の勧誘なら間に合ってるぜ」

「神は人を救わない。僕が神になろうとも思わない。僕がなりたいのは友達です。
 世界中の人々、そのすべてと友達になりたい」

「……分かりやすく言ってくれねえかな」

 はぁ、とホル・ホースは溜息をついて、取り皿によそったエビをフォークで突いた。

「見てくれの通り、学がねえもんでな。お前さんが何を言いたいのかさっぱりだ。
 要点だけ話してくれよ。あんたらは何がしたくて、その為に何をしてるのか」

「先ほども言った通りです。僕はこの世界を天国にしたい。だから"赤い塩"を製造し、手始めにこの街に流し始めました」

「高い金をとって、か?」


 ホル・ホースの指摘に、少年は表情を曇らせて俯いてしまった。

 その後を、それまで黙って控えていたウィンシンが継ぐ。

「それはジョジョの考えでは有りません。末端の組織が勝手にやっていることです」

「部下の不始末は、ボスがとるもんだと思うがね」

「いずれ、そうなりましょう。ですが、まずはこの街を完全に我々の支配下に置かなくてはならない。
 意識の変革はその後に行う予定です」

「んじゃあその後は、クスリは無料配布しますってか?」

 ホル・ホースの皮肉気な問いに、だがウィンシンは大真面目に首肯して見せた。

 その答えに、ホル・ホースは目を真ん丸になるまで見開く。

「おたくら正気か? 慈善事業ってレベルじゃねえぞ。それにそんなんじゃ、組織として立ち行かねえだろ」

「それに関しては、大丈夫です」

 俯いていたジョジョが顔をあげて、はっきりと言い切った。

 その顔には"覚悟"があった。既にそれに対するあらゆる思考は終えていて、あとは実行するだけだという、そんな顔だった。

「あのクスリは、"僕の血液"が主な主成分として用いられています。だから、材料費はほとんどかかりません。
 足りない分は、ウィンシンの会社が補助してくれています。彼は大きな製薬会社の社長で、スポンサーをやってくれているんです」

 少年の紹介に、ウィンシンが誇らしげに胸を張る。

 が、ホル・ホースはそんな彼らの様子など目に入っていなかった。

 この吸血鬼のとんでもない発言は、彼から余裕を根こそぎ奪い去って行ったのだ。

「あのクスリの原料が、てめえの血液だと!? じゃ、じゃああのクスリを使った奴は、皆……」

「ゾンビにも、僕の支配下にもなっていません。そういう風に、三年かけて僕の血液を調整したんです。
 効果は老化の抑制、免疫力の向上、脳細胞の活性化——その他、あらゆる疾患に対する万能薬です」

 本来、吸血鬼のエキスを取り込んだ者はその肉体と精神に変調をきたし、吸血鬼に隷属を誓う化け物になってしまう。

 その効果を取り除き、利点だけを抽出したのが"赤い塩"だった。

 もっとも、完璧な不老性は得られないし、寿命が延びるということもない。あくまで死ぬまで健康でいられる薬、というだけだ。

 だがそれでも、医学界の常識を根底から覆してしまう代物には違いない。

 なにしろこの薬さえ摂取していれば、病院も介護施設も要らないのだから。

「単なるドラッグとして扱われている現状は、確かに憂うべきものです——ですが、いずれそれは正します。
 そうして、最終的には全世界に"赤い塩"を流通させるのが目標です。そうすれば、人は精神的充足を得ることができる」

(……無理だろ、そりゃ)

 口にこそしなかったものの、ホル・ホースは少年の言葉に現実味がないように感じた。

 世界中に、全ての人間に向けて流通させるとなれば、その量は膨大なものになるだろう。

 仮に、一日の服薬量が一人あたり120gだったとしよう。

 世界人口を60億として考えると、一日の総消費量は70万t以上だ。たった一日でこれである。


 もちろん実際にそんな計算をしたわけではないが、なんにしろ莫大な数になるのはホル・ホースにも予想がついた。

 このクスリの主成分はジョジョの血液だという。確かにそれなら材料費は少なくて済むのかもしれないが、量を賄うことは——

(いや——待て。血液がクスリの主成分? おかしいだろ、そりゃ。
 この街のヤクは、既に半分以上がこの"赤い塩"に取って代わられてんだぞ?)

 この街にどれほどの麻薬が蔓延っていたのか——正確な量は分からないが、
 一回のがさ入れで10t以上のクスリが押収されたこともあるのだ。それを下回るということはあるまい。

(この工場にあったクスリだって、10キロや100キロじゃ足りねえ。トン単位だろう……そいつを用意してるってこたぁ……)

 ホル・ホースの表情から、彼の疑問を読み取ったのだろう。ジョジョは頷くと、ウィンシンに目配せをして、

「覚悟はあります。世界を幸福で満たすために、自分が犠牲になる覚悟は」

 そうして、ジョジョとウィンシンは同時に、自らの服の袖を捲りあげた。

 二人の腕には、小さな青い傷が点々とついていた。注射針を何度も刺した痕だ。

 ジョジョは吸血鬼なのだから、本来なら傷が残る筈はない。それは、わざと残してあるのだった。彼の覚悟の証として。

「僕は吸血鬼ですから、いくら血を抜いても抜いた分だけ生成されます。もちろん、"養分"は必要ですが。
 その養分は、ウィンシンを初めとした"友達"が快く提供してくれているんです」

 吸血鬼。その爆発的な回復力は、吸った血液よりも多く、自身の血液を生成する——

 つまりは、こういうことだった。

 この吸血鬼がいう天国とは、人は血を提供し、その見返りとしてジョジョは"赤い塩"を与えるというものなのだ。

 いや、あるいはその逆か——"赤い塩"の見返りとして、人はジョジョに血を与えるようになるのかもしれない。

「だ、だけどよ、それでも最終的に、てめえはただの"血液を吐き出す装置"に成り下がるぞ。
 世界中に輸出するってんなら、24時間体制で人間の血液を注入して、代わりにお前の血液を抜き出さなきゃおっつかねえ。
 ほとんど"ろ過器"みたいなもんじゃねえか。てめえは、それで——」

「ええ、そうなるでしょうね。でも、それが何か問題ですか?」

 その瞬間。

 咄嗟に投げかけた疑問に、何の気なしに応えるジョジョの表情を見た瞬間、
 ホル・ホースはこの少年に対して覚えていた違和感の正体に気づいた。

「僕はそれでいいんです。世界中の人々と、血が通った友情を築ければいい。
 それ以上は望みません。真っ当な生も、何もかも」

 それは少年のようなナリをしながら裏組織のボスを務めているからだとか、人とは根本から違う吸血鬼だからだとか、
 そういった表面上の理由からくるものでは"なかった"。

(こいつ——本気で、欠片の嘘もなく、なんの引っかけもなく、マジでそう思ってやがる。
 "見ず知らずの他人を幸福にする為に、自分が犠牲になってもいい"なんてイカれた考えを……!)

 ホル・ホースは、自分が悪党であることを自覚している。

 だから、その"対極にある存在"のことも知っていた。

 正義の味方。救世主。キリストや仏陀といった呼吸するかのごとく滅私奉公を行う者の類。

 この少年は——マフィアのボスである筈の、人を食料にする吸血鬼は、どうしようもなく"それ"なのだった。

(さっきはDIOを思い出しちまったが、こいつは"真逆"だ。DIOとは正反対の位置に居る。
 それで、こんな組織をマジに作っちまったって言うのか——)

 その圧倒的なまでの"強さ"に、ホル・ホースは思わず息を呑んだ。


「さあ、ホル・ホースさん——これで僕の考えは全て伝わった筈です。あとは、貴方の返答が聞きたい。
 貴方は、僕の友達になってくれますか?」

「……組織に入れってことか?」

「分かりやすく言えば、そうです。僕たちは"ホイットニー・ハート"との敵対を望んでいません。
 今までは膠着状態でしたからただ静観していればよかった。
 いずれ僕たちが下部組織を統制し、きちんと目的を伝えることができれば、僕らの間にある誤解も解けたでしょう」

 だが、状況は変わってしまった。ホル・ホースという男の入れ知恵のせいで。

「いまやホイットニー・ハートとロッホ・レラシオネスは、完全に敵対してしまいました。
 僕たちの組織は急速に膨らみ過ぎたせいで、下部組織の足並みがそろっていない。完全に彼らを抑えることは出来ない。
 このままでは、そう遠くない内にホイットニー・ハートは致命的な打撃を受けるでしょう。それは、何としても避けたい。
 貴方には、ホイットニー・ハートとの橋渡しを頼みたいのです」

 裏世界では、舐められたらお終いだ。統合されたとはいえ、心からジョジョに忠誠を誓っている者は多くない。

 そんな連中の内、いくらかは恥を雪ぐ為にホイットニー・ハートに攻撃を仕掛けるだろう。

 ホル・ホースもそれは予想していた。だからその前にクスリを潰して組織を混乱させ、ボスを打ち取ろうと考えていたのだ。

 だが、その計画は失敗した。それ故に、こうして岐路に立たされている。

 たらりと、ホル・ホースの頬を冷や汗が伝った。

「もしも、オレがそれを断ったらどうする?」

「貴方を殺すことになるでしょうな」

 ジョジョよりも早く、その言葉を口にすることから庇うように、ウィンシンが告げる。

「部下たちが馬鹿をやる前に、ホイットニー・ハートの全戦力を削いで"彼女"を確保します。
 すでに膠着の原因だったウーゴ・ロペスは、下部組織のスタンド使いに包囲されたと連絡が来ていますので、
 そろそろ始末された頃合いでしょう。彼は強力なスタンド使いですが、"彼女"という枷が無いならさほど恐れる敵でもない」

「……その報告、僕は聞いてなかったけどな、ウィンシン」

「申し訳ありません。ですが、敵とはいえ、人の死をジョジョに知らせたくはなかったものですから。
 ジョジョ。あなたには、崇高な目的だけを見ていてもらいたい——」

(……ウーゴの奴は、くたばったか)

 ジョジョとウィンシンの会話を聞き流しながら、ちっ、と胸中で舌打ちをする。

 もとより、それを想定に入れた作戦だった。取り乱すことはない。

 それでも僅かに苦みを覚える唾を飲み込んで、ホル・ホースは帽子を深く被りなおした。

 だがその時、ふと——彼らの会話の一端が気にかかった。


「……選ぶ前に、ひとつだけ聞かせて貰っていいか? なんでアンタら、そこまで嬢ちゃん——パニキーアに固執する?
 確かに嬢ちゃんはアンタらのクスリの効果を打ち消せるが、ひとりしかいねえんだからそこまで脅威じゃねえだろう。
 いや、脅威なら消しちまえばいいんだ——アンタらはメシア様を気取ってても、人殺しを厭うタイプじゃねえことは分かってる。
 なら、なんだ? なんで嬢ちゃんを攫おうとする?」

「……パニキーア。今の彼女は、そう名乗っているのでしたね」

「あ?」

 小声で何事か呟く少年に、ホル・ホースは眉をひそめる。

 だが、すぐにジョジョは「何でもありません」と頭を振った。

「彼女に固執する理由ですか——そうですね、確かに、それは奇妙に映るかもしれません。
 組織(レラシオネス)にとって、彼女を誘拐して得る利なんてありませんから」

「利がない……だと?」

「ええ。彼女に会いたいというのは、僕個人の想いです。
 以前、うっかり洩らしてしまったそれを耳にした部下が、先走って彼女を誘拐しようとして——
 それからは、手柄を立てられると思った下部組織の方々が、思い思いに彼女を狙っていて。
 お恥ずかしい事に、彼女に害を及ぼさないようにするのが精いっぱいでした」

「……お前さん、さっきはクスリを世界中にばら撒く以外は興味ねえっていってなかったか?
 なんで、それほどまでに嬢ちゃんを——?」

「それはね、ホル・ホースさん」

 それは、非常に誇らしいことなのだというように、少年は胸を張って、

「——僕が"天国を作る"というこの理想に目覚め、石仮面をかぶったのは、彼女のお陰だからですよ」

「んなっ——?」

 予想外の言葉に、ホル・ホースは言葉を続けることができず、口を半開きにしてしまった。

 だから、彼は舌を噛む羽目になったのだ。

 次の瞬間、彼らのいる地下室を凄まじい衝撃が襲った為に。

「な——!?」

「何事か!? っ——私の≪目≫が、消されて——!?」

 驚愕に目を見開くジョジョとウィンシン。

 だがその横で、ホル・ホースは口内の激痛に苛まれながらも、ただひとり、この事態を把握していた。

(この衝撃は——この威力には覚えがある……! ケニーGの奴が再現したのを、すでに"体験"している——)

 ≪アトミック・スイング≫。その一撃が振るわれた衝撃であった。

◇◇◇


「まあ、ホル・ホースの間抜けがとっつかまったんでな……
 それなら、お前を助けにいった方がまだ勝ちの目があるというものだ、ウーゴ・ロペス」

「め、面目ねえ。だけど、先生の恩人さんはた、助けねえと」

 傷だらけのウーゴと、ケニーGが工場の前に立っている。

 ホル・ホースの持っていた通信機の電源がジョジョによって切られる前に流れてきた会話から、
 ホル・ホースが捕まったということはケニーG達の知るところになった。

 そして、それを耳にしたケニーGは待つこともホル・ホースを救助に行くこともせず、市内に戻り、
 まだ生きているかもしれないウーゴを連れてくることを選択したのだ。

 幸い、ウーゴの≪アトミック・スイング≫は、使用すればその痕跡を残さずにはいられないスタンドだ。

 通信機は逃走中に紛失していたらしいが、それでもウーゴを見つけることに苦労はしなかった。

 そして——追っ手のスタンド使いを全て始末した、≪アトミック・スイング≫と≪ティナー・サックス≫のコンビネーションが、
 再びここで発動しようとしていた。

「やれ、ウーゴ。電波の届き具合から見るに、どうせホル・ホースは地下にいるんだ。
 やかましい音は全て≪ティナー・サックス≫が消してやる。壊すのはお前の十八番だろう」

「い、いわれなくともよ——」

 ウーゴが右こぶしを握り、サイドスローを放る直前の投手のように、その腕を後ろに引き絞る。

 ≪アトミック・スイング≫に可能な動作は、二種類しかない。

 それは、全てを叩き潰すか——

「——フゥン!」

 ——すべてを薙ぎ払うかである。

 横薙ぎに振るわれたウーゴの腕。その軌跡を追いかけるように、黄金の腕——≪アトミック・スイング≫の圧倒的パワーが発現する。

 それは総面積100平方メートルにも及ぶ工場を、その屋根を、その壁を。

 一撃で破壊し、粉砕し、吹き飛ばし——根こそぎにしてしまった。


◇◇◇


 衝撃に足を取られながらも、ホル・ホースは行動を迷わなかった。

 料理の乗っているテーブルの上に飛び乗り、瞬時に≪エンペラー≫を抜き撃ちする。

「何を——?」

 それが、もしもジョジョやウィンシンに向けられたものだったら、ホル・ホースは既に死んでいただろう。

 彼らは混乱していたが、だからこそ、害意を向けられるという"分かりやすい"動作をされれば、それに反応することは出来た。

 故に、ホル・ホースはそれをしない。それをするべき時は、今でないことを知っている。

「知ってるか? 水滴でも、ずーっと同じ箇所に落ちてりゃコンクリートを貫いちまうんだぜ?
 じゃあ、それが銃弾だったらどうなるかねえ!」

 ≪エンペラー≫の銃口が向けられていたのは、上。天井だ。

 連続して銃声が轟く。≪エンペラー≫の弾丸に、分厚いコンクリートを貫くパワーはない。

 だが、ひとつめの弾丸が食い込み、続く弾丸がその弾底を捉え続ける。

 <エンペラー>にリロードの必要はない。連射すること数秒。まだ最初の衝撃も収まっていない内に、
 ホル・ホースの弾丸は天井を貫き、外へと飛び出していった。

 何をしているのか——同じ部屋に居るマフィア二人がそれに気づいたのは、ホル・ホースがそのブーツで踏みつけているモノを目にした瞬間だった。

 それはジョジョに取り上げられ、電源を切られ——そしていま、ホル・ホースの爪先によって、再び電源のスイッチが押し込まれた、

「通信機——そうか、貴様——!」

「"オレはここだぜウーゴ!"」

 そう、それは自分の位置を知らせるためのものだった。

 天井を貫いた弾丸は、さらにその先——工場一階部分の床を越えて、外の二人に彼の居場所を知らせていた。

 状況を理解したウィンシンがジョジョに駆け寄り、そしてようやく目の前の事態に理解が及び始めたジョジョがスタンドを展開する、それよりも早く。

 再度の衝撃により、地下室の天井は吹き飛び、そこからメキシコ特有の乾いた日光が降り注いだ。


◇◇◇


「ぺっ、ぺっ——く、くそっ! 助けるんならもっと優しくやってくれよ!」

 崩壊した地下室から這う這うの体で這い出しながら、
 ホル・ホースは工場の——工場だったものの前に立っている二人に悪罵を投げつける。

「……助けに戻ってきただけ感謝して欲しいものだ。まあ、クライアントからの頼みでなければ見捨てていたがな」

「ああ、ああ、てめえはそういう奴だよケニーG」

「お、オデは助けようと、思ってた」

「そいつはどーも。あと五センチ攻撃が低かったら死んでたけどな」

 そうして軽口を叩き、ひいこらいいつつ瓦礫を乗り越え、二人と合流しながら、しかし——ホル・ホースは油断なく周囲を見渡していた。

 その様子に、ケニーGも敵がまだ死んでいないことを察する。

「……殺り損ねたか。確かに今の一撃は、天井だけを吹き飛ばすように攻撃したからな——貴様ごと潰そうかとも考えたんだが」

「いいや、本当ならそれで死んでる筈だぜ……なんせ吸血鬼だからな」

 呟いて、ホル・ホースはさっきまで自分がいた地下室を見やる。

 ケニーGの言う通り、天井だけが吹っ飛ばされて、地面に上面が開いた箱を埋め込んだようになっているその場所には、
 燦々とした太陽の光が差し込んでおり、その中のすべてを見通せた。

 そこには死体も、それを覆い隠していそうな瓦礫の山も存在していない。

 ホル・ホースの発言に、さしものケニーGもいつもの仏頂面を青ざめさせた。

「……吸血鬼、だと? DIOと同じか」

「ああ。おまけに時を止めるスタンドのおまけつきだ。姿が見えないのはそれで逃げたからか……いや、太陽が差し込んでるから無理か。
 ってことは、もうひとりの男のスタンドだな。敵はふたりだぜ、ケニーG、ウーゴ」

 最初にあの中国人——ウィンシンと会った時、奴は突然自分の背後に立っていた。

 おそらく瞬間移動か、それに似た何かができる能力なのだろう。

 そこまで考えて、ホル・ホースは迷わずに次の行動を決断した。

「——とてもじゃねえが勝てねえ! 逃げるぞ!」

「それは、あまりに勝手というものでしょう」

 声がして。

 ホル・ホース達がそちらを見やると、工場の跡地、その真ん中辺り、ホル・ホース達から20メートルほど離れた地点に、
 針金細工のような人影が佇んでいた。

 リュー・ウィンシン。ロッホ・レラシオネスの幹部。

 鋭い殺気を隠そうともせず、そいつは真正面から歴戦のスタンド使い三人と相対していた。


「工場を壊され、ジョジョがその身を削って作り出した"赤い塩"まで台無しにされ。
 この上おめおめと逃げられたとなれば、我が友人に申し訳が立ちません」

 あの衝撃の中にいた筈だというのに、ウィンシンの服や髪は、まったく汚れていない。

 砂塵塗れのホル・ホースと、無傷のウィンシン。その対比は、そのまま両者のパワーバランスを示すかのようだった。

「っ——!」

 最も早く対応したのはホル・ホースだ。暗殺向きの能力と自負するだけあって、スタンドの発現速度は誰よりも速い。

 具現化した≪エンペラー≫が吐き出した弾丸は三つ。それぞれが複雑な軌道を取り、ウィンシンに向かい、

「≪ディメンジョン・ゼロ≫——下等な弾丸など、我が身を傷つけること能いません」

 ウィンシンの体が消え失せる。そして次の瞬間には、そこから十メートルほど右に現れていた。

(瞬間移動。やっぱり奴の能力はそれか! だがな、移動するだけならオレの≪エンペラー≫からは——!)

 弾丸の軌道が変化。直角に曲がり、移動したウィンシンへとさながら猟犬の如く殺到する。

 だがウィンシンは、自身を追尾してくるその弾丸を冷ややかな目で見つめていた。

「傷つけること能わず。そう言ったはずです」

 そう呟くウィンシンの右手には、くの字に折り曲げられた小さなプレートが握られている。

 その右手が、一瞬だけぶれた。

(なんだ?)

 一瞬だけ、ウィンシンの右手が僅かに伸びたようにホル・ホースには見えた。

 だがこの距離からではそれしか分からない。そして、それ以上の考察は許されなかった。

 何故なら、次の瞬間、ホル・ホースの弾丸は三発とも、
 だらりと自然体のまま下ろされていたウィンシンの"左手"に掴み取られていたからだ。

(んなっ——能力は瞬間移動だけじゃねえのか!?)

 ホル・ホースの驚愕をよそに、ウィンシンは掴み取った弾丸を無造作にその場に投げ捨てた。

 いかにスタンド弾とはいえ、一度止まってしまった弾丸を再び動かすことは出来ない。

 だが時間は稼げた。にやり、とホル・ホースの口元に笑みが浮かぶ。


 ぐにゃり、と景色が変化した。ケニーGの≪ティナー・サックス≫による幻惑だ。

 ケニーGから見えない場所に幻惑を作ることは出来ない為、敵地ではあまり役に立たないスタンドだが、
 現在、この場所の見晴らしはウーゴのスタンドによって、良過ぎるほど良くなっている。

 既にこの場所では、五感の全てがケニーGの手のひらの上にあった。

 再現されたのは広大な砂漠である。遠くに見えていたシウダー・フアレスの街並みすら消えて、四方は完全な地平線に囲まれていた。

 ホル・ホースのブーツも、ずぶずぶと砂に埋まっていく。その砂からも、幻覚とは思えない熱を感じた。

「って、おいおいおい! 俺まで幻覚に巻き込むこたねえだろーがよ!」

「……騒ぐな。うっとおしい」

 するりと虚空から手が現れ、ホル・ホースの腕を掴む——瞬時にホル・ホースの視界から砂漠が消え去った。

 見れば傍に立っているケニーGが、ウーゴとホル・ホースの腕を、それぞれその両手で掴んでいた。

「……特定の人物にだけ幻覚が効かないようにするのは疲れるんだ。
 俺に触れてる限り惑わされんよう"設定"したが、それでも長くはもたんぞ」

「逃げるが吉、か」

 ちらり、とホル・ホースは横目で、離れた場所にいるウィンシンを見やる。

 ウィンシンは視線をあちこちに彷徨わせていた。どうやらしっかりと幻覚に捕らわれているらしい。

(今のうちに始末しておきてえが——)

 先の事務所襲撃時のような≪ティナー・サックス≫と≪エンペラー≫のコンボは、ケニーGの負担を考えれば不可能だ。

 前もって打ち合わせしておけば、弾道と銃声を全て誤魔化して全方位から攻撃することもできるが、その時間はない。

 逃げの一手。ここはそれがベストだ。

 だがそうして三人が走り出そうとした瞬間、その背後からがらりと何かが崩れる音がして、

「——ウィンシン! いまの貴方から見て、10時の方向、23メートル先に三人固まってます!」

 あの、小さな吸血鬼の声が響いた。


(な、なにぃ——!?)

 見ればジョジョは、もとは壁であったのだろう巨大なコンクリートの欠片を持ち上げ、
 それを即席の日傘にするようにして、工場の跡地に佇んでいた。

 ちょうど、そこはウィンシンが瞬間移動をする前に立っていた場所だった。

 弾丸を防げるのに、わざわざ一度移動して見せたのは、ジョジョから離れる為だったらしい。

 そして≪ティナー・サックス≫による幻覚は、ケニーGが知らない場所に展開できないように、
 その場所の急激な変化には対応できない。

 ジョジョがいる部分だけ、幻覚が崩れていた。

(だ、だが——)

 幻覚が破れたのは、ジョジョのいる周囲だけの筈だ。他の部分の幻覚はまだ有効な筈である。

 しかし、あの吸血鬼はこちらの居場所を的確に見破っていた。

「お、おいケニーG! どうなってやがる!?」

「分からん……が、不味いぞ。咄嗟のことで、今の声も遮断できなかった」

 ジョジョの指示を受けて、ウィンシンが行動を始めている。

 右手に持ったくの字のプレートを、思いっきり振りかぶって、ホル・ホース達目掛けて放り投げてくる——

 空中でくるくる回りながら銀の軌跡を描くそれを、ホル・ホースは背中を泡立たせながら見つめていた。

(やっべえ……!)

 何かはわからないが、あの金属片はやばい。ウィンシンの放つ殺気と同等のモノが放たれている。

 逃げるには距離が足りない——咄嗟に右手の≪エンペラー≫で銃撃し、金属片の軌道を逸らそうとする。

 だが、それも叶わなかった。

 ≪ディメンジョン・ゼロ≫——そのスタンドが持つ性質の一端を、ホル・ホースは垣間見た。

 放物線を描いて飛んできていたくの字のプレートが、突如、ぴたりと空中で制止する。

 そしてそこから、くの字の形の、くぼんだ"谷"の部分から——ウィンシンの上半身がにゅるりと生えて来ていた。

 まるでガラスの容器を焼くとき、パイプに息を吹き込み、先端の柔らかいガラスを膨らますかのように、
 小さなくの字から、大の大人の体が生えている。

 その体に≪エンペラー≫の弾丸が直撃して——落ちた。

 さきほど受け止められた時の焼き直しだった。一切の衝撃を伝えることができずに、弾丸の持つ運動エネルギーが無くなってしまっていた。


(そ、そうか——何となく分かってきやがった。あいつの能力のキモはあの"くの字"だ)

 "瞬間移動"は自由にできるわけではなく、あの"くの字"を介して行わなければいけないらしい。

 工場の中が"くの字型の傷"で一杯だったのは、あの能力にとって都合のいい環境を作るためだったのだ。

 最初の瞬間移動は、瓦礫に埋もれたくの字型の傷を使って行われたのだろう。

 そしてどうやら、あの"くの字"から出ている部分は無敵らしい——

(さっき≪エンペラー≫の弾丸を左手で掴めたのもこれのせいだな。
 右手に持ったプレートの先から、左手だけを瞬間移動させたに違いねえ……)

 ホル・ホースの戦慄を他所に、空中の"くの字"から完全に抜け出したウィンシンが落ちてくる。

 距離は10メートルほどに縮まっていた。危なげなく軽やかに着地したその鋭い男は、ホル・ホース達をぎろりとその刃のような眼差しで睨みつけた。

「——"鋭角には魔物が住む。それはあらゆる距離と空間を無視し獲物に食らいつくモノ。即ち猟犬である"」

 同時に、停止していたプレートも落下し、それをウィンシンは見もせずに片手でキャッチし、ホル・ホース達に向けた。

「≪ディメンジョン・ゼロ≫。それがこの三次元を超えた"ひとつ上の次元"にある以上、あらゆる作用は私の体を傷つけられません」

 その宣言と同時に、ウィンシンが駆け出してくる——正確に、ホル・ホース達に向かって。

(……っ、不味い! しくじった!)

 先ほどの銃撃は、咄嗟の判断でホル・ホースが行ったものだ。

 それはつまり、≪ティナー・サックス≫による誤魔化しが効いていなかったということで、
 いまやホル・ホース達の位置は完全にばれてしまっていた。

「逃げるぞ! いまならあの吸血鬼は時を止められねえ! 時を止めても日が照ってるこの状況じゃ意味ねえからな!」

「……っ」

 ホル・ホースがそう叫んだ瞬間、瓦礫を抱えているジョジョの顔に、僅かに苦みのようなものが走ったように見えたが——

 その意味を考えている時間もない。ホル・ホース達は背を向けて必死に走り出した。

 幻覚は未だ作用している。少しでも動いてしまえば、敵にはこちらの居場所が分からない筈だ。筈だが——

「ウィンシン! 角度を右に20度変えて転身! その先にまだ二人いる! 30メートルくらい先!」

 ジョジョの声に合わせて、ウィンシンが走る方向を微調整してくる。

 それはあまりにも的確すぎる指示と行動で、完全にお互いを信頼しきっているパートナーのそれだった。

(車の位置までばれてやがる!? どういうことだよおい。あいつの能力は"時を止める能力"じゃないのか?)

 そんな、頭の中を埋め尽くしそうになる疑問を無理やり押し込めながら、ホル・ホースは必死に足を動かす。


 だが腕を掴まれているせいで、思うようにスピードが出ない。小男のケニーGと巨漢のウーゴの体格が違い過ぎるのも問題だ。

 だんだんと、距離を詰められている——

(や、やべえ。本格的にやべえぞ。このまま車まで来られたら——!)

 死ぬ。それは遠い可能性ではなく、既に背後にまで迫っている。

「ど、どうするホル・ホース? 効いてないなら、俺の≪ティナー・サックス≫を解除するべきか……?」

「馬鹿野郎! そんなことをしたら、またプレート投げられて距離を詰められるぞ!」

 ≪ティナー・サックス≫の援護のお陰で、自分たちはまだ生きていられるのだ。

 だがそれも長くは続かないだろう。車に乗り込む際には、どうしても隙が生じる。

 そこで追いつかれて、ジョジョが指示を飛ばせば、ウィンシンは車を破壊したり、どこかへ瞬間移動させたりするかもしれない。

 このまま逃げてもいずれは死ぬ。それを回避するためには、

「……お、オデがあ、あいつを止める! 行けぇ!」

 誰かが身を張って犠牲になるしかない。

 その空気を察したのか、ケニーGの手を放し、即座に立ち止まったのはウーゴだった。

 無論手を放した瞬間から、ウーゴも再び幻覚に取り込まれるが——問題はない。

 彼の≪アトミック・スイング≫は、もとより大雑把な攻撃しかできない。

 振り向きざまに、ウーゴはその黄金の腕を発現させる。

 瞬間、ウィンシンもその場で足を止めた。

 先ほどの≪エンペラー≫による銃撃と同じように、≪アトミック・スイング≫の能力にも幻覚の誤魔化しが間に合わないのだ。

 自身を含めた周囲一帯ごと薙ぎ払おうとしてくる黄金の腕に対し、ウィンシンも己のスタンドで立ち向かう。

「ウーゴ・ロペス——"彼女"を危険に晒す、その厄介な能力をここで終わらせてさしあげましょう」

 ウィンシンは右手の"くの字"を前方に突き出し、左手を自身が着ているスーツのポケットに突っ込んだ。

 と、その左手に異変が起こる。まるで突っ込んだそのポケットが底なし沼だったとでもいうように、左腕がずぶずぶと、
 本来ならポケットを突き破っているであろう程に沈んでいく。

 そして代わりに、右手の"くの字"からは、その沈んだ分の左腕が生えてきていた。

 ≪ディメンジョン・ゼロ≫による"部分召喚"——その真価が発揮されようとしていた。

 
 凄まじいプレッシャーを放ちながら向かってくる巨大な黄金の腕、≪アトミック・スイング≫——

 単純な破壊力なら、スタンドの中でも指折りの性能を持つ。

 それは一撃でビルを叩き潰し、工場を薙ぎ払うという、まさにミサイルのような馬鹿げたパワー。

「……ッ」

 そのパワーを——ウィンシンの左腕は、ぴたりと、指先だけで、微動だにせず止めてしまっていた。

「言ったでしょう。私のスタンドの前には、あらゆるパワーも、如何なる能力も無意味です。そして——」 

 それまで黄金の巨拳を止めていた指先が僅かに動き、ウーゴのスタンドヴィジョンを摘まみ上げる。

「ぬ、ぐぐぐ、ぐ……!」

 ウーゴは渾身の力で捕まったスタンドを引き戻そうとしたが、ぴくりとも動かない。

 それは一匹の蟻がアフリカゾウをくわえて運ぼうとしているようなものだ。
 いや、正確に言えばもっと酷い。ウーゴのスタンドは、そのパワーを蟻程にも相手に伝えられていない。

 それは完全な"ゼロ"。髪の毛一本動かす力をも作用させることができない、完封する能力。

 相手が三次元の、つまりこの世の存在であるのなら、それがどんな物質でも、エネルギーでも、スタンドでさえ一方的に好きなように出来る。

 それがウィンシンのスタンドの本質であり、恐ろしいほどの無敵さの正体だった。

 その無敵の指先が、ウーゴのスタンドをぴん、と弾いた。

 瞬間、ウーゴのスタンドが、その己自身の圧倒的なパワーに耐える強度をもったヴィジョンが、砕けた。

「う、がああああああああっ!?」

 激しい痛みに、ウーゴが絶叫をあげる。

 スタンドヴィジョンへのダメージは、そのまま本体にフィードバックする。

 ウーゴの右腕の手首の辺りが、深く抉られていた。弾かれた部分が削り取られたのだ。

 命を危うくするほどの勢いで、どくどくと鮮血が噴き出していく。

「まずはひとり」

 ウィンシンは左腕を戻し、ポケットから出して静かに呟いた。

 その左手の指先には、全く血が付着していない——それはあたかも、遥か高みにいる相手に、低い場所に居る者が全く手出しできないかのように。

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