澪「bravery」(177)


紬「いらっしゃいませ。当ホテルの案内役は私、琴吹紬が務めさせていただきます。

  澪ちゃん……ご用件はすでにりっちゃんから承っております。こちらへどうぞ」

礼服を着たムギは、このホテルの内装に似つかわしくないほど輝いている。

その光りの後を追うように、私は黙って彼女の後をついていく。

私たちの他には誰もいない。

澪「……久しぶりだな、ムギ。いったいあれからどれくらいの時間が過ぎたんだろう……。

  もう私には遠い過去の、自分とは無関係な出来事のようにしか思い出せない。

  私を為す全てのものはあのまばゆい時代の中にあったはずなのに、私は薄情なことに、今の私が大切なんだ。

  ……今の私はこんなにも汚れているのに」

紬「…………」


ホテルの吹き抜けの天井はおそろしく高かった。

壁はのっぺりとした薄い灰色をしている。

埃の積もった大理石の床はひんやりと冷気を湛えて、辺りは青白い光りに満ちている。

紬「……私たちは今が大事だもの。いつだってそうだったじゃない」

澪「それを望んでいるのは……私たちだけじゃないのか」

紬「…………」

澪「なあムギ。ちょっと寄り道していかないか? このホテルの1階を案内してくれよ」

紬「それなら、あちらのレストランなどはいかがでしょう」

澪「……うん、そうだな。ちょうど喉も乾いてきたし、あそこで休もうか」

私たちはカビ臭いひび割れた扉を開けて、レストランに入った。

とても狭いレストランだったけど、あの薄暗いホテルとは違う世界のように中はきらきらと明るかった。

その小さな部屋の真ん中に、ちょうどいい大きさの丸いテーブルが一つだけある。

テーブルの上には子供が好きそうな丸いモンブランのケーキと、

上品な香りの紅茶がおしゃれなティーカップに注がれて置かれている。

私とムギは向かいあって座った。

紬「澪ちゃんはとっても綺麗だったわ。長くて艶やかな、滑らかな黒髪は私でさえ憧れたもの」

澪「今は綺麗じゃない?」

紬「……澪ちゃんの綺麗だった部分は、もう私の目には見えないほど擦り減ってしまったわ。

  澪ちゃんの美しさは、もはや澪ちゃんの内的な部分にしか発見できないし、それは澪ちゃん自身によってしか

  分かり得ないことなの。…………年を取るということはそういうことなの」

澪「でもムギは今も綺麗だよ」

紬「ありがとう」

ムギは照れたように笑って、いつもどおりの優雅な仕草で紅茶をすすった。

澪「ムギは変わらないな……私はいつも周りに振り回されてばかりで、そのくせ自尊心だけは一人前なんだ。

  笑っちゃうよな。あの時のいかにもな少女らしさは、ある意味では私の誇りの一部でもあったのに、

  私には自覚が足りなかったんだ。結局、何かが歪んでいることに気付かないまま、私は大人になってしまった」

紬「そうね……確かに澪ちゃんは、ちょっと卑屈になりすぎてるかも」

澪「卑屈なのは数少ない私の本性な気もするけど」

紬「そんなことないわ。澪ちゃんは自信がないだけなのよ。

  何もかも自分のせいだと思いつめることが、澪ちゃん自身を変えてしまうんだわ。

  でも変わるのは悪いことじゃないの。駄目なのは、自分の意志で変わろうとしないで周りに流されること」

澪「変わるのは悪い事じゃない?」

紬「むしろ、変わらなければいけないのよ。私は変わることを拒んで、苦しんで、こんな姿になってしまった。

  言っちゃうけど、私の苦悩に比べれば澪ちゃんの悩みなんて大したことないと思う。

  澪ちゃんは自分からも周りからも逃げているもの」

澪「……決めなくちゃいけないんだ。もう時間がないのは分かってる」

紬「そう。だから澪ちゃんはここに来た」


ムギの優しい瞳が、私の小さく落ち窪んだ目を覗きこんだ。

私はかすかに笑って見せた。

ムギは私のために、ここに居てくれている。

澪「そういえば、私が振り返るときはいつもムギがこうやって見守ってくれていたんだな。

  引っ張るのが律で、支えてくれるのがムギだった……。

  私が原点を振り返る時、律と重なって見えた影は、ムギだったんだ。

  今なら言えるよ。……ありがとう」

紬「ふふっ。案内役が私で、よかったでしょ?」


私は食べかけのケーキをそのままにして、小さなレストランを後にした。

薄暗い廊下を私たちは静かに歩いていった。

いくつもの扉が固く閉ざされて壁に並んでいる。

ろうそくほどの灯かりがぼんやりと私の影を形作っている。


澪「静かだな。このホテルには私たち以外、誰もいないのか?」

紬「うーん……いるような、いないような……もしかしたら、いるかも」

澪「あ、あんまり怖いこと言うなよ……」

紬「怖がりなのは相変わらずなのね。……さ、着いたわ」

ムギはある扉の前で立ち止まった。

番号もふっていない、他のどの扉とも区別がつかない、普通の扉だ。

澪「ここに律がいるのか?」

紬「さあ、それはどうかしら……」

ムギはいたずらっぽく笑った。

そういえば気付かなかったけど、この扉、どこかで見たことがあるような……。

カチャ という音を立てて扉が開いた。

澪「ここは……桜ケ丘高校の音楽室……?」

紬「懐かしいでしょう?」


懐かしい……懐かしい。

もう何十年も前にここを去ったはずなのに、私の記憶の中の景色と全く変わっていない。

窓から明るい光りが漂っている。

今とは違う輝きに満ちている。

………

………………


律『ムギ、紅茶おかわり~』

唯『わたしも~』

澪『お、おい。なんでもかんでもムギにやらせちゃ悪いだろ……』

紬『いいのよ澪ちゃん。澪ちゃんはおかわり、いる?』

澪『私は大丈夫だけど……』

紬『梓ちゃんは?』

梓『わ、私も結構です。それよりも練習……』



………………

………

思い出の風景に5人の影が重なって見える。

あの3年間が、淡い水彩画のように蘇る。

澪「……あの頃は無垢だったな。みんなと居られることが何よりも幸せだったんだ。

  悩みも不安もなかった。あったとしても取るに足らないちっぽけな不安だった……」

紬「私たち、あんまり真面目に練習しなかったものね」

澪「まあ、それもあるけど……私が抱えてた不安はもっと漠然としていた。

  でもみんなと同じ大学に進むと決めたときに、それはいつの間にか消えていたんだ」

紬「みんなと離ればなれになるのが怖かった?」

澪「私たちの関係が壊れてしまうことが怖かったんだと思う。

  私は気付かないうちに他の居場所を失ってたんだ。軽音部以外の秋山澪を私自身信じられなかった」

紬「それはきっと私も一緒ね。私たちはお互い依存しすぎたのかもしれない」

澪「5人揃って同じ大学に進学するなんて異常だよ。普通じゃない。

  だけど私たちはそれで間違ってなかったんだ。高校を卒業しても放課後ティータイムを続けることができたのは

  結果として良かったし、幸せだった。誰からも非難されなかったし、私たちもこれで良いと思っていた」

私たちは最後まで選択を間違えなかった。

でも歪んでいたことは事実なんだ。

澪「もしも私たちの選択に間違いがあったとすれば――」

紬「…………」

澪「私たちが出会ったことが、全ての間違いの始まりだったのかもしれない」

気付くと私とムギはホテルの廊下に立っていた。

扉も消えている。

紬「本当にそう思う? 澪ちゃん」

澪「思わない……というより、思いたくない。でも、間違いを認めたくないという気持ちが

  こんな結果を生み出したんじゃないか……そう感じるときもある」

紬「う~ん……それを考えはじめたらキリがないわね。

  それに今懐疑的になってもしょうがないわ。 とりあえず先に進みましょう」

私が口にした言葉はムギを傷つけたかもしれない。

私自身も少し傷ついた。

放課後ティータイムなんて無い方が良かった……そんな考えは認めたくない。

だけど今の私の心には、認めなくちゃいけないという思いもある。

揺らいでいるんだ。

無言で歩くムギの後ろをついていく。

廊下の突き当たりでムギは立ち止った。

その薄明かりの中に古風めいた扉と点滅する数字が見える。

澪「エレベータ……そういえばこのホテルは何階建てなんだ?

  外から見たら結構高かったけど」

紬「実は私もよく分からないの」

ムギは素っ気なく答えた。

どうやら本当に知らないようだった。

紬「知らない方が楽しめることもあるのよ。

  案内役としては失格かもしれないけどね」


大げさなくらい音を立ててエレベータの扉が開いた。

橙色の光りが少し眩しい。

紬「さ、乗って」

私が足をかけるとエレベータは不安定に揺れた。

澪「大丈夫なのか、このエレベータ……」

ムギは揺れる箱など気にも留めず、エレベータの扉を閉めてしまった。

紬「では22階にまいります」

澪「22階……ずいぶん高いところまで行くんだな」

私とムギを乗せた箱は重たそうに動き始めた。

階層を示す錆びだらけの針が2階、3階、4階と徐々に速度を上げていく。


止まった……22階だ。

扉が開くと、そこは相変わらず薄暗い、埃っぽい廊下が続いていた。

紬「さあ、ここから先は澪ちゃん一人よ」

澪「え!? ムギは一緒に行かないのか?」

私は急に不安になった。

紬「私はずっとこのエレベータで待ってるから心配しないで。

  澪ちゃんを待っている人がこの先にいるから、済んだら戻ってきてね」

私は締め出されるようにして廊下へ出た。

廊下はエレベータのぼんやりとした灯かりで照らされているだけで、足元もよく見えない。

私は恐る恐る歩き出した。

時々後ろを振り返ってムギの姿を確認するも、次第にそれも遠退いて

とうとう辺りは真っ暗になってしまった。


私はどうすればいいか分からず、その場に立ちつくした。

ムギは私を待っている人がいると言っていた。

それは多分律のことだろう。

けれど律の姿なんてどこにも見当たらない。

澪(どうしよう……引き返そうかな……)

そう思って振り向くと、自分が今まで歩いてきた道すら暗闇に閉ざされていた。

身動きひとつ取れない、完璧な暗闇。

空気はカビ臭く、じめじめしていた。

不気味な静寂が私の周りを漂っている。



困ったな、と私は考えた。

このままじゃムギのいるエレベータにも戻れそうにない。

それに、怖い。

自分の心臓の音すらも暗闇に溶けて消えてしまいそうだ。

澪(……怯えていてもしかたない。とりあえず歩いてみよう)

私はそろそろと壁に手をついて廊下を進んだ。

ひんやりとした感覚が手のひらに伝わる。

濃密な闇の中で私の足音だけが巨大に響いている。


……どれくらい歩いただろうか、壁を撫でる私の手が曲がり角に触れた。

身を乗り出すと、その先に小さな豆粒ほどの光りが見えた。

ずるずると体を引きずるようにして光りの方へ行ってみる。

それはドアの隙間から洩れている光りだった。

ドアを開けて中に入る。

澪「…………律?」

揺らめく蝋燭の明かりに人影が映った。

律……じゃない。


唯「久しぶり、澪ちゃん」

そこに居たのは唯だった。

気だるそうにベッドに腰掛けて、私の方をじっと見つめている。

蝋燭に照らされたその顔には掘り込まれたような濃い陰影が浮かんでいた。

澪「唯……? どうして唯がここに?」

唯「居ちゃ駄目なの?」

唯の言い方は刺々しかった。

澪「そんなことはないよ。会えて嬉しい」

私は扉を閉めて部屋に入った。


唯「座って」

私は言われるまま正面のベッドに腰掛け、唯と向かい合った。

唯は無表情で、私の足元に視線を落としている。

あのはつらつとしていた生前の唯とはまるで別人のように暗欝として、

言葉はなく、沈むようにそこに座っていた。

唯「私が」

そう言って唯は顔を上げて、生気の無い目で私を睨んだ。

唯「私が殺された時、澪ちゃんだけが、私の死体を見るのを嫌がった。

  どうしようもないほどぐちゃぐちゃにされて、人間らしささえ奪われて、

  見せしめのように殺された事実を認めようとしなかったのはなんで?」


澪「……恐ろしかったんだ」

唯の問いかけに、私は上手く返事ができなかった。

澪「それに、信じたくなかった」

当時、私たち宛てに届いた唯の死体の写真は想像を絶するほど凄惨そのものだった。

一緒に送られてきた犯人の脅迫文章がなければ、その物体が唯の死体だとは気付かないくらいに。

ただでさえ唯の死に耐えられなかったムギは、それを見て心が壊れてしまった。

そして数日後に唯のあとを追って自殺した。


私はその写真が送られてきたとき、ちょうどその場にはいなかった。

だから実際に写真を見たわけじゃない。

律からその話を聞いただけで吐き気がしたし、しばらく立ち上がれないほどショックを受けた。

唯「でもムギちゃんは受け入れてくれたよ。私の死を受け入れて、自殺の道を選んだんだよ。

  それなのに澪ちゃんは中途半端なまま私の死に責任を感じて、決心も何もなく

  人生をやり過ごそうとしている」

唯の言っていることは半分当たっているし、半分当たっていなかった。

私は今でも唯が死んだことを信じられない。信じたくないという気持がある。

けど、唯が殺された責任は私にだってちゃんとある。

その責任はHTT全員に均等に与えられていたし、私はそれを自覚している。

そして私の人生にも決心と覚悟を持たなくちゃいけない。

澪「大事な人を失ったことが認められないなら、受け入れなくてもいいんじゃないかと私は思ったんだ。

  唯は私の中にこうして生きているし、私が悲しいのはもう二度と唯と一緒に演奏できないことなんだ。

  私にとってはそれで十分なんだよ。上手く説明できないけど、これは逃げとか諦めとかじゃないんだ」

唯は呆れたようにため息をつくと、私を見て笑った。

その白い肌と灰色に濡れた瞳がとても美しかった。

見ている者の魂ごと引き剥がしてしまうような、強烈な、魔力的な美しさだった。

思わず彼女の肌に触れたい衝動に駆られた。

私は唯の陶器のように硬く冷たい皮膚を撫でる想像をした。すると私の指の這った跡に

ひびが入り、粉々に砕けてしまうような気がして思いとどまった。

唯「……そっか。澪ちゃんは澪ちゃんなりに、私の死を乗り越えようとしてるんだね」

澪「正確には、唯が死んだ意味を理解しようとしてる。心を整理したくてここに来たんだ」

唯「少しは役に立てたかな?」

澪「たぶん……」私は少し考えてから言った。

唯はまたも呆れたようにため息をついた。

唯「大丈夫かなぁ……。あんまりのんびりしてたら澪ちゃん自身が救われないんだよ」

澪「ごめん。今は謝ることしかできない。

  でもきっといつか、お互い笑顔で会える日がくると思う」

唯「うん」

唯は静かにうなずいた。

死んでしまったはずの彼女がこうして目の前に現れても、私はちっとも恐怖を感じたりしなかった。

唯は死んでもなお、完全な存在として私の記憶の中に生きていた。

私にはいつも悩みがあり、ためらいがあり、迷いがあり、不完全な人間だった。

私は唯に憧れていたのだった。

澪「私は唯に憧れていたんだ。誰よりも純粋な唯に」

唯はその純粋さゆえに私たちの歪み、間違いをすべて背負って、そのために殺された。

私たちがデビューしてから15年ものあいだ活動を続けられたのは、全て唯のおかげだった。

世間にもてはやされ、手に負えないような莫大なお金を得たときでも、

唯は放課後ティータイムと私たちの他には何も見えていなかった。

私たちがやりたいようにやってこれたのは、全部唯がいたおかげだったのに、

私たちは唯を守ってやることさえできなかった。

唯「誰も悪くないんだよ」と唯は言った。

唯「もちろん私を殺したファンの人は悪いことをしたけどね。

  ただ自業自得とまではいかないけど、そうなった原因は私たちにもあるわけだし」

あ、ID変わっちゃいました
それはそうとダークナイト面白いですね
続けます

やがて世間から飽きられ、人気のピークを過ぎてしまっても、私たちの活動は何も変わらなかった。

確かに私たちを支えてくれたファンの人たちはたくさんいたけど、私たちは彼らの期待に応えたり

彼らのために演奏することはなかった。

澪「そのことで私たちも散々悩んだよな。どうすればみんなに満足してもらえるのか、

  どうすれば私たちは怒られないで済むのか……」

唯「私たちはただ好きなことをやっているだけだったのに、ね」

澪「……そもそも、私たちは自分たちのやり方を変える術を知らなかったんだ。

  あまりに純粋すぎて、あまりに無垢すぎて、何をするべきかなんて答えは1つしかなかった」

唯が殺されて、ムギが死んで、初めて私たちは放課後ティータイムの夢から覚めた。

その時にはもう遅かったんだと気付いた。

お金も名誉もいらなかったのに。

唯「澪ちゃんは後悔してるの?」

澪「……後悔なんて、ない。私たちは何も間違っていなかったんだから。

  他人から見れば間違っていたかもしれないけど、私たちがそれを認めたら

  何もかも終わってしまう気がするんだ。でも……」

唯「分からないんだね。それが本当に正しいのかどうか」

私は急に泣きたくなった。

そう思うと涙が次々にあふれて、自分がすごく惨めで哀れな人間に感じられた。

澪「どうしてもっと素直になれないんだろう?

  殺されるのが唯でなく、私だったら良かったのに」

今まで何度もそう考えて、その度に死ぬことを想像して怖くてたまらなり、

心の中で唯とムギに謝り続けてきた。

それすら私にとっては表面的な部分でしかないことに果てしない絶望を感じるのだった。


次第に涙はぽろぽろと流れだして、私は懸命に手で覆うけれど、

涙は私の顔の色々なところを伝って床に落ちていった。

喉の奥があつくなって、なぜ自分がこんなにも泣いてるのか分からないまま、私はしばらく声が出なかった。

唯「泣かないで、澪ちゃん」

とても優しい声が聞こえた。

混乱する私の頭のなかに、"あの頃"の唯の、陽だまりのような笑顔が浮かんだ。

唯「誰も澪ちゃんを恨んだりなんかしないよ。

  私、澪ちゃんが好きだもん。だから誰も嫌いになったりなんかしないよ」

澪「……うん。…………」

それでも私は泣き続けた――

…………

紬「誰に会ってきたの?」

私がエレベータに戻ると、ムギがとぼけたように聞いた。

澪「唯がいたよ。と言っても私たちが知ってるような唯じゃなかったけど」

でも、最後に現れた唯はなんだったんだろう?

優しく慰めてくれたあの声は、私の罪悪感と未練の幻想なんかじゃなく、

かつて私たちが愛した唯の温もりそのものだった……ように思う。

紬「ふぅん……それで、何を話したの?」

澪「私が今後どうするべきか、とか……。それから、唯が死んだ時のことについて色々」

紬「難しい話題ね」

澪「難しいけど、そんなに混み入った話というわけじゃないんだ。

  答えの目前まで近づいているって分かってるけど、問題なのは私自身の気持ちだから……。

  ……あとは律と会って話せば全部解決するような気がする」

紬「じゃあ、そろそろりっちゃんの居る部屋まで行きましょうか」

そう言うとムギはエレベータのボタンを押した。

がこん、と不安定に揺れてエレベータは動き出した。

澪「ムギ……あの部屋に唯が居たって知ってたろ」

紬「あら、私はそんなの知らなかったわ。本当よ」

澪「なら何であの階で私を降ろしたんだ?」

紬「誰かが澪ちゃんの名前を呼んでる気がしたからよ。

  このホテルには色んな宿泊客がいて、みんな勝手に出たり入ったりしてるの。

  中には誰かの来訪をずっと待ってる人もいて、そういう人たちが私なんかを通じて部屋に招いたりするの。

  ただ実は私、好きで案内役をやってるだけで、本当はそんな役職は必要ないのよね。

  だから誰がこのホテルに住んでるのかなんてほとんど知らないの」

澪「そうだったのか……」

そんな会話をしながら、エレベータは止まることなくどんどん上へ昇っていった。

階を示す針は消えてなくなっていた。

澪「どこまで昇っていくんだ? このエレベータ……」

私が不審に思って聞いてみると、ムギは可愛らしく首をかしげて返事した。

紬「さあ? どこまで行くのかしら?」

その能天気な素振りに、私はなんだか呆れてしまった。

呆れると同時に、少し笑ってしまう。

紬「どうして笑うの~?」

澪「いや、なんだか可笑しくって……」

ガシャアン!という音がしてエレベータが急に止まった。

足元が激しく揺れたせいで私とムギはバランスを崩し、その場に尻もちをついてしまった。

澪「いたた……」

紬「大丈夫?」

ムギがすぐに起き上がって私を抱きかかえた。

歳のせいか足腰が弱くなって、私はすぐに立ち上がれなかった。


やっと目的の階に辿りついたにしてはずいぶんと乱暴だな、と私が思っていると、

紬「一体どうしたのかしら……。今までこんなこと無かったのに」

ムギがここにきて初めて不安の表情をした。

私はそれを見て急激に心臓が萎縮したような気持ちになった。

澪「まさか故障?」

思わぬ事故に私たちが狼狽していると、ごうんと低い音がしてエレベータの扉が開かれた。

私とムギは扉の向こうを見て驚いた。

そこに居たのは梓だった。

梓「……………」

梓は私をまっすぐに見つめて、何かをぽつりと呟いた。


澪「梓……?」

私が声をかけようとすると、梓はふわりと私たちに背を向けて

そのまま漂うように走って行ってしまった。

唐突に私は(なぜだか分からないけど)梓を追いかけなきゃいけないと感じた。

澪「梓! 待ってくれ!」

半透明に、亡霊のように遠ざかっていく梓を追って私はエレベータから飛び出した。

紬「澪ちゃん!」

ムギが呼び止める声も無視して私は梓を追いかけた。

梓はゆっくりと、跳ねるように私から逃げていく。

鬼ごっこを楽しんでいる子供のようだった。

澪(なんで梓がここに……。一体どういうつもりなんだろう?)

そんなことを考えながら懸命に追いかけた。

けれど年老いて体力もない私は、途中で息が切れて梓の姿を見失ってしまった。


澪「はぁ……はぁ……」

私は苦しくなってその場で立ち止まった。

汗だくになり顔を歪めながら辺りを見渡してみる。

いつの間にか大きくひらけた廊下に出ていた。

梓はどこへ行ったんだろう?

梓「澪先輩」

後ろから声がして振り向くと、扉の前で梓が笑っているのが見えた。

澪「梓……?」

梓は無言で私に笑いかける。

そこで私は初めて、梓が桜ケ丘高校の制服を着ていることに気付いた。

彼女の不器用な笑い方もあの頃のものだった。


梓はそのまま吸い込まれるように部屋の中へ入っていった。

私を誘っているんだろうか?

それにしても、なぜこのホテルに梓がいるのか不思議に思った。

梓とならいつだって会えるのに。

もっとも、最近は会う頻度もかなり減ってしまったけど……。

私は呼吸を整え、扉に手をかけて部屋に入った。

中は何もなかった。

真っ白な空間に、あの頃の小さな梓がぽつんと突っ立っているだけだった。


その梓を見た瞬間、私は大きな間違いを犯していたことに気付いた。

慌てて部屋から出ようとしてももう遅かった。

扉は勝手に閉まってびくともしない。

梓「澪先輩」

梓は歪んだ微笑を私に向けながら、呟いた。

梓「帰りましょう、澪先輩。こんな場所にいたら頭がおかしくなって、

  律先輩みたいになっちゃいますよ」

私はドアをガンガン叩き、助けを呼ぼうと必死に叫んだ。

けれども喉がぱっくり裂かれてしまったように息だけが抜けて、声が出ない。

澪「…………!! …………っ!!」

手のひらが熱い。

頭がぐらぐらと揺れて、自分が何を考えているかも分からなかった。

私は死に物狂いでドアを叩き、外に向かって叫んだ。

猛獣のいる檻に閉じ込められた子供のように、私は無力そのものだった。

あれは梓じゃない。

梓の姿をした何かが、私の心を蝕んで、破壊しようと近づいてくる。

梓「どうして怯えるんですか? 私はただ、澪先輩を助けたいだけなのに」

澪「はぁっ……はぁっ……」

身体中の力が抜けて、私はその場に倒れ、うずくまった。

目の奥を万力で押しつぶしたような、激しい頭痛に襲われた。


視界は真っ暗で何も見えない。

口の中は異常に乾き、饐えた匂いが鼻をついた。

耳鳴りがする。吐き気もする。苦しむ自分だけが意識の中にいる。

そんな私の遥か遠くで、梓の天使のような囁きが響いていた。

――…………。

紬「澪ちゃん」

私はエレベータの中に立っていた。

正面にムギの心配そうな顔があった。

何が起きたのか分からないまま、私はしばらくぼうっとムギの顔を眺めていた。

紬「どうしたの?」

さっきの地獄のような風景は残らず消え去り、痛みの記憶すらどこにも感じられない。

自分がここに居ることさえ不自然なような気がして、私はムギに訊ねた。

澪「……梓は……?」

紬「梓ちゃんがどうかしたの?」

ムギは首をかしげた。

エレベータは滞りなく上昇しつづけていた。

澪「……いや、なんでもない」

私は小さくため息をついた。


なぜ助かったのかは分からない。

もしかしたら全部夢だったのかもしれない。

……それでも私は、梓の存在が突然目の前に現れた事が無意味だとは思えなかった。


私はじっとエレベータの緩慢な動きを感じながら、幻のような梓の後ろ姿と、

ぽつりと呟いたあの言葉を考えていた。

(――行かないで下さい)

それは今となっては現実感すら消えて、本当に夢の中の出来事だったかのように曖昧な記憶だった。

エレベータは自然に止まった。

紬「さて、元々たいした案内もできなかったけど、私の役割はここでおしまい。

  りっちゃんはこの階で待ってると思うから、後は澪ちゃんに任せるわ」

澪「……ありがとう、ムギ」

扉が開き、私はムギに礼を言うと、エレベータから降りた。

紬「澪ちゃんこそありがとう……会えて本当にうれしかったわ。

  でも、これでもう二度と会えなくなるのね。…………さよなら」

澪「……ああ。さよなら……ムギ」

扉がゆっくりと閉まっていった。

ムギの寂しそうな笑顔が完全に見えなくなったとき、

扉の向こう側で何かがぶつりと切れる音がした。


その直後、地鳴りのような恐ろしい轟音が建物を貫いて、

――――ガシャァァ………ン

地面に叩きつけられて砕けた。


私は深呼吸すると、心の中でもう一度ムギに別れを告げた。

この先に律が待っている。

この階には部屋がひとつしかなかった。

おかげで迷うことなく律に会うことができた。

それはとても見晴らしのいい部屋だった。

律「よう」

律は、私が最後に見た時と同じ格好をしていた。

さっぱりとしたTシャツにジーンズというプライベートのラフな格好だ。

体つきは細く引きしまって若々しいのに顔は妙に老けていて、無理に笑う癖のせいで口元がやや歪んでいる。

澪「律…………」

律「澪もしばらく見ないうちに老けたなぁ~?」

そう言ってにかっと笑った。

私はとても笑う気になんてなれなかった。

澪「こんな所に呼び出して……今まで一体何やってたんだよっ!」

思わず責めるような口調になってしまう。

私はこんなにも心配していたのに、それを笑ってごまかしているのが妙に腹立たしい。

そして同時に懐かしくなって、安心する。

律「私にも色々あってさ。……ごめんな、澪。心配かけさせて」

澪「私と梓を放りだして勝手にどっか行って……消息不明で心配しないわけないだろ……」

5年ぶりに会った親友との再開を喜ぶよりも、溜めていた不満の気持ちが口をついて出た。

私はやっと、私の平和を取り戻したような気がした。


唯とムギが死んでHTTが解散したあと、残された私たちはそれぞれ別々の道を歩んだ。

梓はソロで音楽活動を続け、音楽プロデューサーとしても成功していった。

当時、憔悴しきっていた私は、誰よりも早く立ち直って仕事を再開した梓を薄情だと蔑んだ。

私は世間の目から隠れ他人と接しないようにひっそりと暮らしていたのだけれど、

(お金は沢山あったから働く必要はなかった。つまり引き籠りの生活をしていた)

そんなに早く気持ちを切り替えられる梓を羨ましいとも思った。

無気力で病的な生活を送っていた私の元を訪ねるのは律だけだった。

その時から律は実際的に私の心の支えになっていた。梓とは会いたいとも思わなかった。


それからしばらく経ったある日、突然梓が家を訪ねてきた。

律がいなくなったという知らせを告げると、彼女は泣きながら私に謝ったのだった。

――律先輩が消えたのは、私の責任なんです

そう言って梓は真実を語り、私は梓を誤解していたことを悟った。

律は梓の元にも頻繁に訪ねていたのだった。彼女の心の支えになるために。


梓はまるで懺悔でもするように粛々と語った。

律が自分に音楽を続けるよう勧めてくれたこと。

一人では立ち行かなくなってしまった時、いつも助け船を出してくれたこと。

どんなに些細な悩みや不安も相談にのってくれたこと。

そして梓は、何度も私の元を訪ねようと考えた、と話した。

――律先輩に止められていたんです。澪先輩と会うにはまだ時間が必要だって……。

――それに私のためにも良くないって……そう言って……。



律は私と梓を置いてどこかへ行ってしまったのだった。

私のせいだ、と私は思った。

私が律に依存しすぎて、何もかも頼りにしすぎて、全部を律にまかせっきりにして……。

律が何を背負っているかも知ろうとしなかった。

私と梓は長く話し合った。

律はいつか必ず戻ってくると信じていたけれど、自分たちがこれからどうすればいいかは分からなかった。

最初は取り乱していた梓も次第に落ち着いて、とりあえず仕事はこのまま続けると決めた。

その時私は、今度は自分が梓を支える番なのだと思った。

律の代わりになれるかどうか自信がなかったけれど、私に出来ることはそれくらいしかなかった。


梓はもう、HTTの夢から覚めかけていたのだ。

律が望んでいたのはまさにそれだったのだと気付いた。そして私に対しても。

それから1年も経つと、梓はもう私を必要としないくらい一人でやっていけるようになった。

普通よりもだいぶ遅いけれど、梓は結婚して家庭も持った。

そして自然と会う機会も減っていった。

梓の幸福を考えると、きっとHTTの事は綺麗さっぱり忘れるのが私たちにとっての幸せなのだろうと

思わずにはいられなかった。

梓は救われたのだ。

でも私は納得できなかった。


そして私は自分の役割を終えてやることがなくなり、律を探す旅に出た――。

…………――

律と私はゆったりとした座り心地のいいソファに座った。

律「梓は元気にしてるか?」

澪「ああ。HTTで活動していた頃とはまるで別人だよ。よく笑うんだ」

律「普段からよく笑ってたと思うけどなぁ」

澪「う~ん……なんていうか、自分のために笑ってる感じかな」

律「今までは他人のために笑ってたのか?」

澪「梓は元々気を使うタイプだし、少なからずそういう所あったと思うけど」

律「私はそうは思わないな。笑いのツボが変わったとか、熟女の艶めかしさを身に付けたとか、そんなとこだろ」

律は嬉しそうに言った。

澪「だいぶ単純な分析だけど、あながちハズレでもないかも。梓のロリ熟女っぷりは中々そそるものがあるし」

律「お前、梓のことそんな目で見てたのかよ……」

澪「ち、違うぞそれは! ただ世間一般的に見て梓は良い歳の取り方をしたという話で……」

律「冗談だよ」

律が笑って、私は恥ずかしくなって、そして少し笑った。

この5年間、私は変わろうと努力した。

HTTがなくなっても、律がいなくても一人で生きていけるように。

けれどそれも、所詮やせ我慢していただけだったのかもしれない。

律とこうやって話すことができて、私の中の張りつめていた何かが

ゆるやかに落ち着いていくのが分かった。

澪「……律がいない間、私も変わろうと努力したんだ。

  梓みたいに結婚して、人並みの幸せを手に入れなくちゃって、

  自分の中にある放課後ティータイムを忘れようとしたさ」

私は一息ついて、律を見た。

律は黙って私の言葉に耳を傾けている。

澪「でも無理なんだ。過去の私を否定する勇気なんて、私にはなかった。

  放課後ティータイムはもう昔のことで、今の私には関係ないんだって、

  どれだけ自分に言い聞かせても、怖くてそれを認められなかった。

  私はとても弱い存在なんだって気が付いたよ」

律「……澪だけじゃない。私も、唯も、ムギも、梓も……

  私たちは弱いんだよ。そんなの分かり切ってたことだろ?」

澪「私たちは弱くて、脆くて、誰かに守られないと生きていけなかった。

  だからこそ、かつての私たちは信じられないくらい美しかったんだと思う」

律「そうだな……。昔は良かった、なんて言うつもりはないけど

  あの頃は確かに全部がうまくいってた。私たち自身も、私たちを取り巻く環境も……」

いつからだろう。

私たちのやりたいことと、私たちに求められていることがずれていったのは。

澪「外の世界は、私たちにとっては取るに足らないちっぽけなものだと思ってた。

  でも、その世界が私たちを守ってくれていたと知ったのはずっと後になってからだった。

  結局、私たちは外の世界によって守られ、そして破壊されたんだ」

律「…………」

私たちは純粋な空気の中でしか生きられない。

そして私たち自身の中にある純粋さは、自分たちの手で最後まで大切に扱ってきた。

私たちのうち一人でも欠けると崩れてしまう、とても複雑で分かりやすい構造の、見えない形を。

澪「私には律と唯とムギと梓がいないと駄目なんだ。

  放課後ティータイムを捨ててしまったら、私が私でなくなる。

  私たちがやってきたことを否定したら、今の私も死んだも同然なんだ」

律「放課後ティータイムがやっていきたことは間違いじゃなかったと思う?」

澪「間違ってなんかない」

口にした言葉は、自分の声とは思えないくらい力強かった。

澪「私たちはずっと正しいことをしてきたはずなんだ。

  今日、律に会ってそれがよく分かったよ。

  後悔なんてする必要ないんだ。だから私は――」

私の心にあった暗い影は、いつの間にか綺麗に消えてなくなっていた。

急に世界が眩しく輝いているように感じられた。

とても懐かしい光りが、内側から溢れるように私の心を満たした。


澪「だから私は、受け入れるよ。

  唯が殺されたのも、ムギが死んだのも、全部正しいことだったんだ。

  私は変わることができないし、変わっちゃいけない。

  誰かのために生きるんじゃなく、放課後ティータイムのために生きなくちゃならない。

  それは私自身のためでもあり、最後に残された希望でもあるんだ」

律「……本当にそれでいいのか?」

律はどこか遠くを見つめながら言った。

それはまるで私の決意を先へ導いてくれているような言葉であり、

あるいは死に際の人間が最後の別れを告げる時のような言葉でもあった。


澪「唯とムギなら、私のこのバカげた決心も許してくれると思う。

  二人の気持ちを無下にしてしまうことになっても、それは二人のために必要なことだから」

私の中にいる唯とムギは、笑っていた。

一点の曇りもない澄みきった青空のような、心地良い感覚。

だけど一つだけ、空っぽの存在がその景色を不完全なものにしていた。

澪「…………梓はきっと、こんな私を軽蔑するだろうな。

  今の梓はもう過去の梓じゃなくなってしまった。今の梓は私の中に含まれていない。

  だから私は放課後ティータイムの梓だけしか受け入れられない。

  それはとても悔しいし、残念なことだと思う。

  でもそうしないことには、私は救われることができないんだ」

律「梓は梓の道を行くさ。大事なのは忘れないことと、諦めることだ。

  今の澪ならそれが出来る。そうだろ?」

澪「律と一緒なら……なんだって出来るよ」

律は背伸びをするように立ちあがった。

律「行こう」

私に手を差し伸べる。

私は律の手を握る。


律と一緒ならなんだって出来る。

私にはもう怖いものなんてない。

ふわり、と体が宙に浮いた。


…………。

…………。


――――続いてのニュースです。今朝、放課後ティータイムの元メンバー秋山澪さんが
自宅マンション下で死亡しているのが発見されました。部屋など荒らされた形跡はなく、
検察は飛び降り自殺とみて現場周辺を調べています。遺書などは見つかっていません。
秋山さんはバンドグループ「放課後ティータイム」が解散した後、音楽業界を引退して
しばらくメディアに登場していませんでしたが、突然の死亡に大勢のファンからは戸惑
いと悲嘆の声が叫ばれました。平沢唯さんの衝撃的な事件から10年余、当時社会現象を
巻き起こした同バンドグループですが、メンバーの相次ぐ死去により残ったのは田井中
律さんと中野梓さんの2人だけとなりました。うち田井中さんは5年前に行方不明とな
り未だ所在は分かっていません。秋山さんの通夜は今夜行われ、告別式には――――

おわりです。
稚拙な駄文でお目汚しすいませんでした。

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