設定を拾いながら学園生活SS (982)


>>1が地の文形式一人称視点でお話を書いていきます

②登場人物や世界観の設定を書いてくださると、独断と偏見で採用させて頂いたりすることがあります

③イベントや展開を書いてくださると、独断と偏見で採用させて頂いたりすることがあります

④じっくり、まったり、更新


そんな感じでよろしくお願いしますm(__)m



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1385950485

うわびっくりしたっ
20レスくらいまで誰も書き込まれないかと思ってました。なんだこれみなさん優しいですねありがとうございますm(__)m

主人公
性別:男
年齢:16

じっくりまったり書いていきます。




「うおぇ……」

 大の高校生が船縁に引っかかる様子を客観的に観察すれば、さながら洗濯物のようだと感じたかもしれない。けど実際にはそんなことを考える余裕なんてもちろんなくて、僕は腹の底から湧き上がる吐き気を必死に抑え込むことに全精力を注いでいた。

 春の日差しをキラキラと反射する美しい海原も、心地よく肺を満たす潮の香りも、いまではすべてが恨めしい。感傷的な気分を台無しにする大音量のエンジン音と、公園のシーソーを想起させるような船の上下運動に感動していたのも束の間、今ではどうしてもっと大型の船舶を利用しなかったのかと過去の自分を呪わずにはいられない。

 お昼に食べたヤキソバをうっかり海の生物たちに与えないように気を付けながら、慎重に首をひねる。小型船舶が向かう先には、すでに目的地がうっすらと見え始めていた。青い島影は頭の低い三角形をしていて、遠目にも自然豊かな場所であることが窺える。

 親元を離れて親戚の家に厄介になるのは不安もあったけれど、都会の学校で摩耗した精神を療養するには、のどかな島暮らしはちょうどいいのかもしれない。それに新しい環境を楽しみに思う気持ちもたしかにあって、期待半分、不安半分といったところだろうか。

 そんなことを考えていると、むき出しの操船室に収まっていたガタイのいいオッサンが僕のほうを振り返った。

「オイ兄ちゃん、そろそろ着くぜ。フジツボごっこは終わりにして荷物をまとめな」

 そんな斬新な遊びに興じていた覚えはないけど、僕は言われるままにノロノロと四つん這いになって船尾から船首へと這っていく。その様子はさながらフナムシのようだ。そうか、あいつらも海が苦手なのかもしれない。

 船首の先に再び目をやれば、島影は随分と大きくなっていて、街並みが辛うじて確認できるくらいには近づいていた。

 そして山腹に貼りつくように建っている小さな建物。あれが、僕がこれから青春時代を過ごすこととなる学校舎なのだろうか。

 気づけば僕は船酔いも忘れ、期待に胸を躍らせて拳を握りしめていた。



みなさんご協力ありがとうございます! どんどん世界観が見えてきてます。


文章はこんな感じで書こうと思ってます。
文章力はどうしようもないので諦めてください。アドバイスなど頂ければ、ちょっとはマシになるかもしれません……。


登場人物の設定は、「○○は雷や幽霊が死ぬほど苦手」みたいに一言で書いてくださると嬉しいです。たくさん書いてくださった中の一部だけを採用して他の部分を採用しないのはなんとなく心苦しいですので……。


ゆっくりまったり書いていきます。




 停泊した小型船から港へと跳び移る。目の粗いコンクリートを靴越しに感じただけで、感動して涙が零れそうになってしまった。もう小型船になんか二度と乗ってたまるかと、心の中で固く誓いを立てる。

 まだ地面が揺れているような感覚に戸惑いながらも顔を上げると、この小さな港から見える島の光景に思わず見惚れてしまった。都会の狭苦しい景色しか目にしてこなかった僕には、緑を基調とした清々しい自然の風景たちが、さながら名画のように趣深く感じられた。

 操船主のいかついオッサンにスーツケース二つを下ろしてもらって、水際から港の建物へと足を向ける。

 どうやら迎えはまだ来ていないらしく、僕はスマホを取り出して時間を確認する。時刻はもうすぐ約束の十時になろうかといったところ。電話もメールも着信はなく、電波が二本立っていることを確認してからスマホをポケットにしまい直した。

 日曜日だというのに港を行きかう人たちは誰もが忙しそうで、話しかけることを躊躇われた。こういうところが都会っ子の難点なのかもしれない。

 しかしこんなところで一人っきりだというのに、特にこれといって寂しさや疎外感を感じるようなことはない。どこもかしこも風景画をそのまま映し出したかのような壮観な光景で、いつまで見ていても飽きそうになかったからだ。これが東京の市街地なら、三十秒と耐えられずスマホでソシャゲーでも始めていたことだろう。

「…………あれ?」

 港から辺りを見渡していると、ふとそこで、意外なものを見とめた。遠くてはっきりとは見えないけど、海べりの切り立った崖の先端に白い人影のようなものが見える。僕はあまり視力に自信のある方ではないけれど、それでもさらに目を凝らして観察していると、それはどうやら女の子であることがわかった。

 女の子はただただ立ち尽くしている。だというのに、その存在は本当に絵画的で、時折潮風に撫でられて、まとった白いワンピースと、黒くて長い髪の毛がゆらいでいることだけが、彼女が現実の存在であることを証明しているようだった。

「篤実ちゃん」

 突然自分の名前を呼ばれて、僕は驚いて振り返る。するとそこには、ここしばらく会っていなかった祖母の姿があった。最後に会ったのは彼女がこの離島に移り住む直前なので、たしか四年前くらいだったか。

 僕は努めて明るい声で挨拶を返した。

「ひさしぶり、お婆ちゃん」

「大きくなったねぇ、篤実ちゃん。もう、すっかり、背丈も抜かされちゃったよ」

 それを言うなら、お婆ちゃんの方こそ身長が伸びているように見えた。都会にいた頃よりもずっと生き生きとしていて、曲がっていた背筋がすっかり伸びていたからだろう。この豊かな自然の中で暮らしているのだから、不思議に思うよりも、むしろ当然だとさえ思えた。たしか歳は七十歳くらいだったはずだが、この島に住んでいる限りあと半世紀は生きていられるような気がする。もうこの島には病院とかいらないんじゃないかな。

「突然お邪魔することになっちゃって、ごめんね」

「いいんだよぉ、ずっといてくれたってね」

「家事くらいなら手伝えるから、なんでも言ってね」

「それなら孫たちがやってくれてるからねぇ、だいじょうぶだよ」

「…………孫?」

 不穏な単語に引っかかって、僕は思わず聞き直した。

「あれ、聞いてなかったかね。朋絵ちゃんの妹の子供たちも一緒に住んでるんだよ」

 朋絵というのは僕の母親で、その妹―――名前は忘れたけど―――の子供ということは、つまり僕のイトコにあたるということだろうか。ちょっと待って、そんなの全然聞いてないよ。僕にイトコがいたのかよ。

「それじゃあ、まずは荷物を置きに帰ろうかねぇ」

 混乱する僕を置いて、お婆ちゃんはすたすたと軽快な足取りで歩き出す。なにかを言おうとしたけれど、結局かける言葉が思い浮かばずにお婆ちゃんの背中を小走りで追いかけた。

 最後にふと思い出して、さきほどまで見ていた崖を振り返る。

 あの女の子は、もういなくなっていた。



誰かに島を案内させたいのですが、どうしましょう……??

なにもなければ、私が考えて書きますが……

主人公と同じ位の年齢の女の子。
礼儀正しく、しとやかな子。
泳ぎが得意。

こんな感じでどうでしょう?


キャラのベースができたら、いろんな人が「○○は柔道の達人」のようにどんどん設定を付け加えて行ってくれるとありがたいです……!


案内は>>45の子にしてもらおうと思います。煙草先生は学校で会わせようかと。


今さらですが、主人公の名前は久住篤実(くずみあつみ)。

今回のお話で私が名前を考えるときは、苗字は日本百景(久住高原など)の中から取りたいと思います。

というわけで、案内人ちゃんや煙草先生、その他の名前も募集しておりますm(__)m

先生の名前日本百景から取るなら
神高 千穂(かみたか ちほ)で
高千穂から




 港から歩いて二十分くらいで、お婆ちゃんが現在暮らしている家に辿りついた。あとで聞いた話だけど、この家は僕の叔母さんの旦那さんが所有する実家だそうだ。土地が安いからか敷地はとても広くて、庭なんかはちょっとした公園のようだった。離島ってすごい。

 しかし現在、そのだだっ広い日本家屋には人の気配はなく、どうやらイトコたちは日曜の昼ということで遊びに出かけてしまったとのことだ。知らない男が都会からやってくるというのに遊びに行けるなんて、見上げた胆力だと感心させられる。

「あれまぁ、あの子たちに篤実ちゃんを案内してもらおうと思ったのにねぇ」

「べつにいいよ、お婆ちゃん。住んでれば嫌でも覚えるんだから」

 自慢じゃないけど、僕の肌は雪のように白い。そもそも体がそんなに強くないから、外に出かけることがあまりないのだ。だから島を案内してもらっても二度と行く機会はないだろうから、正直言って興味がない。それよりも僕が気になっているのは、この家にはテレビゲームやパソコンができる環境が整っているのかということだ。我ながらお手本のようなザ・現代っ子ぶりに呆れてしまう。

 スーツケースを一つずつ苦労して居間へ持ち運んで、一息つく。たったこれだけの運動で汗をかいてしまったようで、開放的な建築設計によって家を吹き抜ける潮風に身震いする。気化熱で体温を奪われたせいだ。

 障子が取り払われて異様に明るい居間で、小さなテレビを見つける。……驚くなかれ、ダイヤル式チャンネルのブラウン管テレビだ。

「アンテナ付けてあるから、ちゃんと見られるからねぇ」

「……そっか」

 どうやら聞くところによると叔母さんの旦那さんはアンティークマニアらしく、家の至るところにその片鱗が見受けられた。大昔のブラウン管テレビ(火災とか大丈夫なのか……?)の他にも、電話は黒電話だったりする。現代に生きる僕とは相いれない気がして、ちょっぴり不安。

 まぁ最初はストレスも多いだろうけど、どこを切り取っても名画になる得るこの景色があれば文句はない。あとは次第に慣れていけばいいさ。

 そう結論付けてテレビから視線を外し、ソファに腰を沈めたところで……



 障子が取り払われた東側の庭にぽつりと佇んだ女の子と、ばっちり目が合ってしまった。



「…………っ!?」

 驚きすぎてとっさに声が出ない僕を、不思議そうに見つめる女の子。両手を腹の前で重ねる立ち姿には、どこかお嬢様然としたものを感じた。

 艶やかな長い髪は、黒と言うよりむしろ青みがかっている。一瞬、少し前に見かけた女の子のことを思い出したけど、目の前にいる女の子の服装は白のワンピースではなく、ゆったりとしたピンク色のチュニックだった。

「あの、あなたは……」

 女の子は形のいい唇を動かしてなにかを言いかけたが、はっとしたように途中で口を噤んだ。

「私は赤穂美崎です。島の学校で学生をやっています。……あなたは?」

 もしかして相手の素性を尋ねる前に、自分の素性を名乗らなきゃ……とか思って言い直したの? なにそれ礼儀正しすぎて逆に怖い。

 というか普通に可愛い。都会で見かけたって違和感がないような、垢抜けた雰囲気の女の子だった。そして当然、年頃の男子の特性として、初対面の美少女とはまともに会話ができない。

「ぼ、僕は……久住篤実、です……あの、今日来た……」

 終盤の方はほとんど呟くような声量だった。案の定、赤穂とかいう女の子は首をかしげている。その仕草可愛いからやめてください。

 くそぅ、心の準備があればもっとまともな挨拶ができたのに!

「その久住さんが、このおうちでなにを……?」

「えっと、今日から、その……」

 僕が再びキョドっていると、そこへ救世主様が降臨なさいました。

「あれまぁ、美崎ちゃん、いらっしゃい」

 ありがとうお婆ちゃん! 家事のお手伝いはめっちゃがんばります!!

「こんにちわお婆ちゃん、お邪魔してます」

「はいこんにちわ。ほら、篤実ちゃん、この子は一緒の学校になる美崎ちゃんだよ」

「一緒の学校……? あっ、噂の転校生ってもしかして……」

「おうちの都合で、今日この島に来たんだよ。まだ右も左もわからないから、美崎ちゃんがいろいろ教えてあげてねぇ」

 僕がすべきだった説明がお婆ちゃんによってすべて終わりました。どう見てもコミュ障です、本当にありがとうございました。





 お婆ちゃんの説明によって僕の存在が不審者から転校生へとクラスチェンジしたことによって、赤穂さんは僕に対して完全に警戒を解いたようだった。天使もかくやという微笑みを浮かべながら、庭を横切って縁側まで近づいてくる。

「それで、もしよろしければ今から私が島を簡単に案内しますが……?」

「あっ、え……」

「美崎ちゃん、篤実ちゃんをよろしくねぇ」

「わかりました。それでは篤実さん、行きましょう」

 「あ」と「え」しか発音してないのに、なんか行くことになってる。離島って怖い。

 ……いや行きますけどね! むしろ望むとこですけど!

「よ、よろしく……」

 ソファからぎこちなく立ち上がって、僕はおっかなびっくり玄関へと移動する。すると赤穂さんはちょこちょこと小走りで庭から玄関へと回り込んできて、人懐っこいエンジェルスマイルを浮かべる。なんだ、ここが天国だったのか。

 靴紐を結んで立ち上がると、すぐ目の前に赤穂さんの顔が見えた。どうして田舎の子ってパーソナルスペースが小さいんだろうね。僕なんか三メートル以内に知らない人がいると心拍数が上がるんですが。なんなら血圧も急上昇する勢い。

「では、行きましょう」

「あ、はい」

 軽やかな足取りの赤穂さんを追って、僕は新しい自宅を後にした。


日本百景から名前案
男鹿 寒(おが かん)男鹿半島
舞子 新(まいこ あらた)新舞子
笹川 流礼(ささかわ ながれ)笹川流
鬼城 隈乃(きじょう くまの)鬼ヶ城
岩浦 富美子(いわうら ふみこ)浦富海岸
島 忠海(しま ただみ)忠海海岸
青海 夏実(おうみ なつみ)青海島
鳴門 海潮(なると うしお)鳴門
九十九 張由美(くつく はゆみ)九十九島
錦 桜江(にしき おうえ)錦江湾
とりあえず海岸だけで考えてみた
支援してる

小学生 男
未来に生きてるナウなヤングらしい

>>59
これはお手本にすべき




 ドッドッドッドッ……というチェーンソーのアイドリング中のような轟音が低く響き渡る。すでにビビりまくりな都会っ子の僕とは対照的に、赤穂さんはニコニコしたままエンジンに取り付けられている取っ手を勢いよく引っ張って、エンジンを稼働させる。

「あの……これ、なに……?」

「なにって、軌道ですよ?」

 なにそれ初めて聞いたんですけど。え、これって常識なの? 知ってなきゃおバカタレントの仲間入りしちゃうの?

 軌道と呼ばれたそれは、簡単に良い表すなら「バイクとサイドカーが合体してレールの上を走る乗り物」だった。少なくとも僕にはそう見えた。

 あんまりしつこく聞いてアホだと思われたくはないので、「ああ軌道ね、納得したよ。僕が知ってるのと形が違ったから一瞬わかんなかった」みたいな顔をしてやり過ごす。これが世の中を賢く生き残るコツなのだ。

 そしてドルルンドルルンと駆動している軌道のバイク部分にまたがる赤穂さん。僕もへっぴり越しでサイドカー部分に立つと、赤穂さんは躊躇なくアクセルを踏んで発進させる。

「あの、これ、免許とかは……?」

 恐る恐る訊ねてみると、赤穂さんは微笑んだまま僕の顔をじっと見つめて、ゆっくりを首を傾げた。あら可愛い。

「やっぱりなんでもないです……」

 複雑な思いはさておき、軌道の乗り心地は快適だった。木漏れ日の中をゆったりとした速度で進んでいると、足元に気を付けなくて良いぶん景色に集中することができる。新緑のトンネルは本当に綺麗で、少年時代の探検気分がよみがえってくるようだった。

 ふと我に返ると、すぐ隣で軌道を運転している赤穂さんが僕の顔をじっと見つめていた。まるで宝石のような瞳に見つめられて、「うぐっ」と変な声が出た。

「あ、あの……なにか?」

「ふふっ、いいえ、お構いなく」

「いや、お構いなくって、言われても……」

「まだ観光スポットに着いてもいないのに、そんなに楽しんでいただけているのが嬉しかっただけですので」

 かぁっと顔が熱くなったのを、そっぽを向いて誤魔化す。べつに疚しいところはないんだから恥ずかしがることもないんだけど、なんとなく言い訳をしてしまう。

「僕が育ったところは……その、都会でさ、自然なんてあんまりなくって……。だから、珍しくて……」

「私たちにとってはむしろこちらが普通で、都会に憧れたりもします。よろしければ、いつか案内してくださいますか?」

「……まあ、いつかね」

「ふふっ、約束ですよ、篤実さん」

 柔らかく微笑む赤穂さんがあんまり眩しくて、案内してほしいというのがお世辞だとわかっているのに、ちょっとだけドキッとした。





 軌道から降りた僕たちは、山腹に建つ神社を訪れていた。境内から伸びる石段を見下ろすと遥か下まで続いていて、思わず足がすくむほどだった。軌道を使わなかったら、きっと僕なんか半分も登り切れなかったに違いない。標高もすこし高いらしくて、うっすらと肌寒い場所だった。

「ここには、遥か昔に島を救ってくださった守護神様が祀られているんです」

「へぇ」

 信仰心の薄い都会っ子の僕が返せる言葉は、それだけだった。いやだって急にそんなこと言われてもね……

「ちなみにこちらが、その守護神様の偶像を掘り起こした石像です」

 そう言って赤穂さんが手で示した先には、初代仮面ラ○ダーの石像(等身大)が恭しく奉られていた。あまりにも場違いな存在が大真面目に安置されていて、しかも赤穂さんが真顔で説明するものだから、「あふっ」という奇妙な笑い声が漏れてしまった。なにこれ、笑ってはいけない離島24時? ショッカーみたいな人にお尻叩かれちゃうの?

 しかしどうやら本当にボケではなかったらしく、赤穂さんは神社脇の林道へと向かってしまう。この石像を最初に造った人は、この神社の神様に祟り殺されてるんじゃないかな……

 しばらく肌寒い小道を進むと、かすかにホワイトノイズのような音が聞こえてきた。そしてさらにグッと気温が下がったのを肌で感じる。

「この先は、島のガイドブックにも載ってないんですよ?」

 そう言う赤穂さんは悪戯っぽく微笑む。なんだ小悪魔もいけるのか、すげーなこのお嬢様は。

 ……なんてチャラけた思考は、「ソレ」を目にした瞬間に消し飛ばされた。

 ホワイトノイズの音源は、大きな滝だった。しかもただの滝ではなく、複数の虹が常にかかっているというこの世のものとは思えない神秘的な瀑布。ある虹は正円を描き、またある虹は互いに交差し合っている。それらが光の加減で現れたり消えたりを繰り返して、光のリズムを作り上げていた。

 ブルルっと体が震えた。間近で瀑布の飛沫を浴びたことによる寒気……なんて夢のない解釈はできない。どう考えてもこれは、原始的な美にふれたことによる生物的な生理反応だ。

「ここは大切な人にしか教えない、秘密の場所なんです。篤実さんはこれから仲間になるので、トクベツです」

「……ありがとう」

 都会で生きているとなかなか素直に言えなくなってしまう感謝の言葉が、すんなりと口を突いて出てしまったことにさえ気がつかなかった。心を奪われるというのは比喩ではないのだということを体験した。

 しばらくその神秘的な光景を目に焼き付けていたが、本格的に寒くなってきたので僕らは神社へと引き返した。





「神庭家の長女、神庭雫だよ!」「同じく次女、神庭霞だよ!」

 雫と名乗った子は、長い前髪をピンクのヘアピンで左にわけている。一方、霞と名乗った子は、長い前髪を水色のヘアピンで右にわけている。それ以外の識別方法は皆無で、容易に入れ替わることができ、しかも誰にもバレることはないらしい。……ましてや人の顔と名前を一致させることが苦手なコミュ障こと僕には、未来永劫見分けることはできないのだろうという確信さえある。

 前髪は長いが、後ろ髪はスポーティなベリーショート。肌の色も体つきも、僕なんかとは違って健康的で、まさしく田舎娘といった風情だ。ころころ変わる表情やツリ目も相まって、猫っぽいという印象を受けた。手足もしなやかで長いし、なんかバスケとかやってそう。学年は僕の一個下、中学二年生とのことだ。

 服装は、もう春だというのに薄手のニットワンピ。しかし下はミニスカートで、寒いのか暑いのか判然としない。ところでなんで女子って寒い寒い言いながらミニスカートとか履くの? 修行なの?

「「それでそれで? お兄ちゃんのお名前は?」」

「……く、久住、篤実」

 いちいちハモるなよ、なんか怖いよ。

「あれ? 神庭じゃないんだ?」「従兄妹なのにね?」「ね?」「じゃあウチらのお母さんの旧姓が久住なのかな?」「えー、違くない?」「うそー」「お婆ちゃんに聞いてみよっか」「聞こ聞こー」

 あれれー、勝手に二人だけで会話が進んでいくぞー? じゃあ僕はもう帰っていいですかね。っていうか自己紹介という目的は果たしたわけだし、これ帰っていいよね? 自宅だけど。

「ふーむ、しかしお兄ちゃん、よく見たらなかなか良い顔してるかもね」「ウチらとDNA似てるんだから、そうじゃないと困っちゃうよねー」「そうそう、服と髪型を整えたらいい感じになるかも」「どうりで委員長がゾッコンなわけだ」「むしろ委員長はだらしない男の子が可愛いってタイプっぽいよね」「あーそれわかるー」

 なんだこいつらのコンビネーションは。付け入るスキが全くないぞ。しかも対する僕はコミュ力たったの5。ゴミめ。

 っていうか顔がいいとか言われたことなんて生まれてこの方一度もないぞ。いや、父方のお婆ちゃんには昔よく言われていたような……。あ、はい、身内の贔屓目ですね。

「お兄ちゃんのお部屋は、お隣の空き部屋だからね!」「あそこはおとといまで雫が住んでたんだよ?」「女子中学生の残り香に包まれて生活できるなんて幸せ者だね!」「このこのー!」「ベッドの下は見ないようにするから、ガビガビの雑誌はそこに隠してね!」「ぜったい見ないから! ぜったい!」

 この子たち、性への関心高すぎるだろ……。インターネットのない田舎の思春期中学生なら仕方ないかもしれないけどさ。

 だが残念だったな。今は雑誌なんていう物質として存在してしまうものに頼るのは時代遅れだし、ベッドの下なんていう逆に目立ちまくるポイントに隠すのはノータリンだ。僕の「ベットの下」は、USBの中に散りばめた大量のダミーフォルダの中の一つである「政府開発援助の必要性についての論文」フォルダの中の「分野別開発計画書」フォルダに収められている。見つけられるものなら見つけてみろ田舎っぺども。ふはは。

「明日から学校に行くんだよね?」「でも教科書ないんじゃないの?」「それは見せてもらえばいいじゃん」「それに教科書なんてあってないようなものだしね」「そうそう、だいたい個別にプリント配られるだけだし」「それこそ委員長がいろいろ助けてくれるよ」

 さっきから気になってたんだけど、委員長って赤穂さんのことなんだよね? そっか、たしかに彼女は委員長っぽい感じがする。でも委員長っていうのはクラスの団結とかを気にかけて、僕みたいな陰気な人間も無理やりクラスの輪に加えようとするからちょっと苦手だったりする。……もちろん、この双子みたいな元気娘が一番の天敵だけど。



「でも都会の学校って頭よさそうだなー」「あ、そうだ! あとで都会のこといろいろ聞かせてね!」「ウチら、ちょっとしたクリエイティブな活動やっててさ」「都会の人の話を聞きたかったんだよねー」「ひかりんは病院エピソードばっかだもんねー」「だから期待してるよ、お兄ちゃん💛」

「そ、そう。まあこれから、よろしく……。じゃあ、僕は部屋に荷物運ぶから……」

「あ、そーだね、手伝うよ!」「いやー、できた妹だねー」「われらアーティスティック・シスターズにお任せあれだよ!」「お部屋を劇的にビフォーアフターしてあげるよ!」

「いやいや、いいから……どうぞお構いなく」

「遠慮しなくていいってばー」「あ、それともガビガビの雑誌が……」「あっ……!」「……ご、ごめんね、お兄ちゃん」「ウチら、気がきかなくって……」「そうだよね、いろいろ持ってきたんだよね……」「……いろいろ」

「やっぱり手伝ってくれるかなっ!!」

 居候初日にして僕の尊厳が著しく損なわれそうになったので渋々、双子の協力を仰ぐことにした。やばいこの子たちすごい鬱陶しい……。早く集団生活に慣れないとストレスでグレそう。家出することになったらひかりの家に行こう。

「あ、でもでも、荷物運びも模様替えも、静かにやらなきゃだよ?」「そうそう、怒られちゃうしねー」「怒ると怖いからねー」

「えっ……お婆ちゃんって、そんなに怒るの……?」

「え?」「ちがうよー、お婆ちゃんじゃないって」「お婆ちゃんは怒らないよー」「怒るのはヒサメちゃんだよ」「ヒサメちゃんはナイーブだからねー」「攻略難易度すごい高いんだよ」「ヒサメちゃんと仲良くするためにはいろいろルールがあるからねー」「そうそう、それ守らないと嫌われちゃうから気をつけてね」

「ヒサメちゃん……って?」

「氷の雨って書いて、氷雨ちゃん」「神庭家の三女だよ」「そして神庭家のお嬢様だね」「それに天才だしねー」「いやーウチらも鼻が高いよね」「将来が楽しみだよねー」

 ……なんかよくわからないけど、話を聞く限りだと僕が仲良くできそうなタイプではないことは確かだね。よし、極力関わり合いにならない方向で行こう。

「そ、それじゃあ、氷雨……ちゃんへの自己紹介は、後にして……とりあえず、先に荷物を運ぼうかな」

「「あいあいさー!」」

 双子は僕の左右にべったりとくっついて、作業の間ずっと付きまとってきた。元気な子は苦手なのでとても戸惑ったけれど、この子たちは犬かなんかだと思い込むことでストレスを軽減して乗り切った。見た目は猫っぽいけど、人懐っこいところとかはなんだか犬っぽくて、どこにでもちょこちょこついて来るのを見ていると、不覚にもちょっと可愛いなとか思ってしまった。

「霞、見つかった?」「ううん、見つかんない」「あれー、おっかしーなー」「絶対持ってるって先生が言ってたのに」「もう隠してあるのかな」「切り抜いてどこかに紛れ込ませてるんじゃない?」「あーなるほど」「ノートの中とかも探そう」「りょーかい」

 このアホ犬たちには躾が必要みたいだなァ……





 さてお婆ちゃんの手伝いでもしようかな、とか考えつつ玄関を潜ると、いきなり見覚えのない女の子と鉢合わせた。



「……っ!?」

 光源が居間の電気しかないので廊下はとても暗く、一瞬幽霊かなにかだと思って本気でビックリしてしまった。

 その子はずいぶん体の小さい子だった。おそらく小学生か、あるいはとても小柄な中学生といったところだろう。お人形のような……といった形容が的を射ている容姿で、上は可愛らしいフリフリのシャツ、下はショートパンツにハイソックスという背伸びファッションだった。

 向こうも向こうで目を丸くして固まっていて、どうやら僕が何者かと判じかねているらしい。あれ、もしかしてこの子が双子の言っていた……

「ど、どうも。あの、僕は、久住篤実っていって……その……」

「……神庭氷雨です。よろしく、久住さん」

 その子は呟くような声量の早口でそれだけ言うと、もう僕なんかには一瞥もくれず、長い髪を翻して廊下の奥へと消えていった。たぶん向こうには台所とかがあると思うので、お婆ちゃんの手伝いでもしようというのかもしれない。そういえばお婆ちゃんが、家事手伝いを孫がしてくれていると言っていたような気がする。

 居間を覗くと、双子たちは食い入るようにテレビを見ていた。うん、こっちの孫たちは使えそうにないな。テレビを見るときは三メートルは離れて見なさい。

「「あ、お兄ちゃんおかえりー」」

 一瞬だけ僕の方を振り返って、すぐにテレビへ視線を戻す双子。テレビでは一昔前のアニメの再放送がやっていた。

「……ただいま」

 聞いちゃいないだろうが、いちおう返事はしておく。しかし双子が邪魔でテレビは見えないし、これといって興味のあるジャンルのアニメでもない。だから僕は手持ち無沙汰になって、しばらく居間の入口で立ち尽くしていた。それから少し考えて、やっぱりお婆ちゃんの手伝いをしようと思い立ち、さっきのあの子……三女が向かった方向へと足を向けた。

 廊下は本当に暗くて、ともすると暗がりの向こうにこの世のものではない存在が現れそうで、僕のSAN値がマッハだった。よし、ちゃんと寝る前にトイレは済ませておこう。

 適当に目についた引き戸を開けてみる。するとそこは脱衣所で、その先に風呂場の扉が見えた。あ、あっぶねぇ! もしかしたらラッキースケベという名の地雷を踏むところだった。幸い中には誰もいないようだ。ラノベの主人公じゃなくてよかったぁ……

 脱衣所をあとにして、今度は向かい側の引き戸に手をかける。開ける前によくよく耳をすませば、向こうから微かに物音が聞こえてきていた。扉の向こうは案の定台所で、そこには手際よく野菜を刻むお婆ちゃんと、その向こうで鍋をお玉でかき混ぜているエプロン姿の三女がいた。

「おや篤実ちゃん、晩御飯はもうちょっと待ってねぇ」

 お婆ちゃんは僕に気づくと、料理の手を止めて優しく微笑んだ。三女はというと、目だけを一瞬こちらに向けて、すぐに鍋へ視線を戻していた。

「あ、いや、なにか手伝うことないかなって……」

「ありがとねぇ。でも、うちの台所はそんなに広くないからねぇ」

「じゃあ……テーブルを拭いて来るよ。台拭きってある?」

「ああ、台拭きなら……」

 お婆ちゃんの視線を追うと、台所の奥にある多段ハンガーにそれらしき布がかかっていた。

 台所に足を踏み入れて、お婆ちゃんの後ろを通る。さらに三女の後ろを通ろうとすると、その前に三女はお玉を鍋の端に引っかけてから台拭きに手を伸ばすと、それをシンクの蛇口で軽く濡らしてから絞って、僕へと差し出した。

「どうぞ」

「え、あ、ありがと」

「おかまいなく」

「う、うん」

 なんとも他人行儀な会話(事実他人だけど)を交わしつつも台拭きをゲットして、なぜかやけにニコニコしているお婆ちゃんの後ろを通って台所をあとにする。台拭きを手渡されたときに三女と思いっきり目が合ってしまったのだけど、その瞳がすごくきれいで、吸い込まれてしまいそうで、なんだか無駄に心拍数が跳ね上がってしまった。お父さんお母さん、僕の寿命は今日だけで三年は縮んでいる気がします。

 ぎこちなく廊下を進んで居間に着くと、アニメが終わったのか、双子たちが畳の上を走り回っていた。おいお前ら、妹をちょっとは見習えよ!

 双子たちは三女のことを気難しい子みたいに言っていたが、いや、たしかに気難しいのかもしれないけど、僕にしてみればああいう子のほうがよっぽど一緒に生活しやすいと思う。なんていうか、必要以上に慣れ合わないビジネスライクな関係っていうか……うん、そんな感じ。

 というようなことを考えながら大きなテーブルを拭いて、後ろでドタバタ走り回っている双子たちへの負の感情を誤魔化すのだった。



月曜日に篤実が学校へ行ってしまうと、もうそこで子供キャラはほぼ全員集合してしまうのですが……クラスメイトは何人ぐらいがいいのでしょうか?


皆さん、ご協力本当にありがとうございます!
皆さんのコメントが励みになります!

一旦ここまでの登場人物をまとめてみました。
学生は今のところ8人登場しています。


●学生

久住篤実(くずみあつみ)(16)
 備考:コミュ障

神庭雫(かんばしずく)(15)
 備考:思春期ツインズ(姉)

神庭霞(かんばかすみ)(15)
 備考:思春期ツインズ(妹)

神庭氷雨(かんばひさめ)(13)
 備考:ドルオタ

????(????)(16)
 備考:謎の少女

赤穂美崎(あこうみさき)(16)
 備考:委員長

淡路ひかり(あわじひかり)(10)
 備考:社交不安症

笹川流礼(ささがわながれ)(16)
 備考:暇人な二枚目



●大人

 面河継子(おもごけいこ)(68)
  備考:お婆ちゃん

 久住朋絵(くずみともえ)(38)
  備考:久住家の母親

 神庭滔子(かんばとうこ)(34)
  備考:神庭家の母親

 高千穂神奈(たかちほかんな)(27)
  備考:ステルススモーカー



候補
・野生児少女
★未来少年
・バンド少女
・癒しロリ
・女仙人
★特撮巫女
・中二男
・釣り爺


すでに出ているキャラの設定も書いていただけると、おそらくそのキャラの登場頻度が多くなります。


よほど主張の激しいキャラじゃないかぎりは、学校が始まって篤実と同じクラスにいても、しばらくコミュ障の篤実に認識されないのはおかしくないかなと思います。

目下の問題は、四月に発生する大きなイベントと、そこで活躍する(または事件を起こす)ヒロインポジ(または悪役ポジ)のキャラが1~2人いるといいかなと思うのですが、いかがでしょうか?

もちろん、それ以外の設定も募集中です! よろしくおねがいしますm(__)m




 できあがった料理を三人でテーブルに並べて、僕を除く全員がそれぞれの定位置につく。お婆ちゃんは廊下に一番近いところに座って、そのすぐ隣に三女が、三女の対面に双子が腰を下ろす。僕は数秒迷った挙句、三女の横に一五〇センチほど間隔をとって正座した。

 ちなみに神庭家の父と母は海へ漁に出ているので、一週間に一度くらいしか帰ってこないらしい。なんでも父親は漁師らしいのだが、夫婦仲が睦まじすぎて母親も毎回漁について行ってしまうらしい。お婆ちゃんがこの家に住むまではさすがに自重していたらしいのだが、最近ではすっかり海の人なのだそうだ。……お熱いことですこと。

「それじゃあ、いただきます」

 お婆ちゃんの掛け声に全員で続く。そして食事が始まったのだが、お婆ちゃん曰く郷土料理だというソレは、なんとも不思議な食べ物だった。一言で言えば……いろいろな食材を混ぜ込んであるお餅、みたいな。

「それはねぇ、この島にずっと古くから伝わる料理なんだよ。昔は、この島の土で育ったお米は炊くと勝手にくっついて、お餅みたいになったらしくてねぇ。今でもそれが、この島民の主食になってるんだよ」

 なるほど、食べてみるとたしかにお餅だ。でも餅自体にも味付けがちゃんとされていて、すごく美味しい。適度に水っぽくて口の中で粘つかないし、ちょっと変わったお雑煮のような食感だ。

 他にも味噌汁のようなスープ系のものがあるけど、それも初めての味だった。っていうかすごく美味しくてびっくりした。美味しすぎて顎関節がキーンと痛むくらい。

「このスープすごい美味しいね! 見たことない具が入ってるけど、これはなんなの?」

 これもお婆ちゃんに視線を向けて訊ねたのだけど、なぜかその質問に答えたのは三女だった。

「見たことないのは当然。この島特有のきのこと、島の近くで捕れる珍しい魚を使ってるから」

「へ、へえ。そうなんだ」

「スープの具がなくなったら、お餅を入れて食べるとおいしいよ」

「そっか、あとで試してみるよ。それに、この春雨もいいよね。春雨、大好物なんだ」

 ……という発言には特にリアクションはなかった……。べ、べつに今のは独り言なんだからねっ!

 ふと見ると、僕の対面で食事をしている双子が顔を見合わせてニヤニヤしている。無言でニヤつかれると中学生のときのトラウマを思い出して被害妄想に囚われるのでやめていただきたいのですが。

 どうやら三女の意向により、食事中はテレビを消す決まりになっているらしい。まあ僕もテレビはあまり好きじゃないからいいけどさ。でも代わりに双子がしゃべりまくるので、食卓はまったく静かにはならなかった。

 それにしても、こんなに賑やかな食事は本当に久しぶりだった。都会にいた頃はほとんど一人で食事をしていたので、味なんてわかったものじゃなかった。それがこの島に来て、食事の楽しさ、美味しさというものを思い出させてもらった。対人関係において以外は、この島に来て本当に良かったと心から思える。

 ……いつか、対人関係においても、そう思える日が来るといいんだけど。

「ごちそうさまでした」

 はじめと同じように、お婆ちゃんの掛け声にみんなで続く。

 空っぽになったお皿を台所に運ぶ。お婆ちゃんは最後まで遠慮してたけど、どうしてもと押し切って、皿洗いは僕がやることになった。さすがに突然居候させてもらって甚大な迷惑をかけているのに、家のことをなにもしないわけにはいかない。なるべく家事は強引にでも手伝っていくことを、島に来る前から決めていた。

 都会にいた頃は、皿洗いなんて一、二枚程度で済んでいたのに、今日は二十枚近くあった。だけどそれにうんざりしたかといえばそうでもなくて、むしろ逆に、なんだか口元が緩むような気持ちだった。あらやだ、僕ってマゾなのかしら。

 水音と、食器の擦れる音だけが断続的に響く台所に一人っきり……。そういえば今日はずっと誰かと一緒に活動していて、一人の時間なんてほとんどなかったような気がする。そう考えると、いまこの瞬間はなかなか貴重な時間なのかもしれない。

 ……なんてことを考えていた矢先、台所の扉を開いて三女が入室してきた。

 三女は僕に一瞥もくれずに無言で隣に立つと、僕が洗った食器を、持ってきたタオルで拭き始めた。突然のことに驚いてしばらく彼女のことを見つめていたが、それに対してもノーリアクションで食器を拭き続ける三女。とりあえず僕も、無言のまま食器洗いを続行する。

 数分後、僕は最後の皿を洗い終えた。それを見た三女が、無言で手を差し出す。僕もお皿を無言で彼女に手渡すと、彼女はそれをやはり無言で拭いて、拭き終わった食器を食器棚にしまい始めた。僕も無言でそれを手伝う。

「…………」

「…………」

 最後の食器を棚にしまい終えて、互いに無言で数秒間立ち尽くす。そのあいだ彼女がなにを思っていたのかはわからないけど、少なくとも僕は「なんなんだよこの空気は!?」というようなことを考えてパニックに陥っていた。

 しかし僕はそこで思い出した。たしかあの双子が、三女を怒らせたくなければいろいろなルールを守る必要があると言っていたはずだ。それほどまでに気難しい子なのだと。つまり十中八九、僕は三女に面白く思われていないはずだ。だってまだ、そのルールとやらを一個も教わってないんだもの!

 おそらく、どれかのルールを無意識に破ってしまったのかもしれない。もしかしてさっきの食事中に滑ったのがいけなかったのかしら? それとも皿洗いを無理やり奪ったから? はたまた、もっと前から気に食わないヤツだと思われていたのかな?

 いや、そもそも普通の女の子なら…………僕がこの家に来たことそのものが面白くないだろう。

「あ、あの……ええっと、いきなり居候させてもらうことになって、ほんと、ごめん。いやほんと、悪いとは思ってるんだよ」

 僕の言葉には返事を返さず、三女はただ黙って僕の目を見つめていた。いや、だからその綺麗な目で見つめるのはやめてくださいお願いします。

「なるべく、その、気配を殺して、あんまり喋らないように、するから。うん、えっと、それじゃね、神庭さん……」

 三女の無言の圧力が怖すぎて、僕は逃げるように台所をあとにした。あれ以上あそこにいたら間違いなく状態異常こおりになっていた。やれやれ、初代なら即死だったぜ……。





 都会のお風呂とはガスの付け方が全然違っていて手こずってしまったけれど、どうにか無事にシャワーを浴びることができた。僕が一番風呂になってしまったので湯船には浸からず、体を洗ったらさっさと上がる。コミュ障はいろいろと気を遣えるのだ。

 洗濯物が従妹たちと一緒にならないように、持参した洗濯籠に脱いだものを入れて、マイバスタオルで体を拭く。従妹がいるなんて知らなかったので、これらを持ってきたのは完全にただの偶然だった。備えあれば憂いなし。

 風呂からあがったらすぐに歯磨きをして、それが終わるとお婆ちゃんにおやすみと挨拶をし、すぐに自分の部屋に閉じこもる。ついさきほど三女と約束したばかりなので、これからはなるべく自分の部屋から出ないように気を付けよう。

 僕の部屋は双子たちに手伝ってもらったおかげで、そこそこの生活感が出ている。まあ僕の性格からしてすぐに散らかりそうだけど、いつなにがあって追いだされるかわかったものではないので、なるべく部屋は汚さないようにしなくては。

 実家から持ってきたノートパソコンを起動して、携帯のテザリングでネット回線に接続する。やや接続状況は芳しくないが、そう贅沢も言ってられない。圏外でないだけマシと考えることにしよう。

 パソコンのブックマークからニコ○コ動画に接続して、過去にアップした動画の再生数やコメントを確認する。自分の作品の評価を見るとき、ある種の昂揚感や期待感と、そして胸がむかつくような不快感と不安感が入り混じったような独特の感覚が押し寄せる。そうしてコメントの評価に一喜一憂しつつ、次の作品制作へのモチベーションを培うのだ。

 僕の作った動画のタグをチェックすると、「またお前か」「お前じゃなかったらどうしようかと」「期待の病人」「多声類」などといろいろなタグが増えていてニヤけてしまう。ちょっと今回の作品はふざけすぎたので、いろいろ反響があるようだ。ここのところ演じてみた動画ばかりだったので、久しぶりに歌ってみた動画でも上げてみようかな。

「あ、あ、あ……。うん、こんな感じかな?」

 喉のチューニングをして、少しずつ声を、あの双子の声に近づけていく。昔から声帯模写は練習を重ねているので、今ではたとえ女の子の声でも、練習すればそっくりに真似ることができるようになった。

 でもこの特技が他人にバレるとあとで大変なことになることを経験上知っているので、匿名コミュニティであるネット上でしか披露はしない。リアルではせいぜい、アナゴさんの真似くらいに留めておくのが無難だ。フグタくぅぅん。

 時計を見ると、まだ九時半。いつもは一時過ぎとかに寝ているので、いくら今日は疲れているとはいえ、さすがにまだ寝むれるような時間ではない。けれどあの双子がいつ突撃してくるかわかったものではないので、三女に迷惑をかけないためにも早く寝ることにした。電気を消して、ベッドに潜り込む。

 目を閉じると、まるで走馬灯のように今日の出来事がまぶたの裏にフラッシュバックする。こういうのは大抵、大きなストレスを感じた事柄が映るものだ。だから僕の場合は当然、他人との接触の記憶が想起されることとなる。果たして、この島暮らしによって人付き合いに慣れたりするのかな。

 なんてこと思っていると、例の爆弾娘たちが僕の部屋のドアをノックもせずに開け放った。

「「お兄ちゃん、あそぼーっ!!」」

「……うん、明日ね」

「え、部屋暗っ!」「もう寝るの!?」「早っ!!」「都会の人ってこんな早いの?」「うそ、ほんとに?」「ねえねえお兄ちゃん、かまってよー」「そうだよー、可愛い妹とお話しようよー」「UNOしようよー」

 電気は点けないものの、双子は僕のベッドに腰掛けて、しつこく声をかけてくる。僕はかろうじて見える双子の表情を窺いながらも、心を鬼にして対応することにした。っていうかUNOってなんだよ、修学旅行じゃなんだぞ。

「……あの、これから、ずっと一緒なんだし……。嫌でも話す機会あるよ。だから今日はお開きにしよう。いろいろあって、今日は疲れたんだ」

「ええー?」「うーん、疲れたのかー」「まあ、そーだよね」「しょうがないなー」「じゃあまた明日ね」「おやすみ、お兄ちゃん」「おやすみー」

 渋々ではあるものの、僕の体調を気にして従ってくれるあたり、どうやら自己中な子たちではないらしい。双子はベッドから離れると、手を振りながら部屋をあとにした。

 再び訪れた静寂と暗闇に身を任せて、目を閉じる。双子たちの足音が隣の部屋に落ち着き、かすかな話し声へと変わる。普通のボリュームで話すと結構筒抜けで聞こえるようなので、この部屋で電話とかするときは気を付けなければ。まあ電話するような相手なんかいないんだけど。

 しばらくそうやって目を閉じていると、だんだん眠くなってきた。暗闇に慣れた目で時計を見ると、十時を回っている。すると一階から上ってきた静かな足音が、隣の部屋へと吸い込まれるのが聞こえた。どうやら三女も風呂からあがったらしい。そういえば彼女の部屋は見たことがないけれど、どんな部屋なんだろう。すごく気になる。

 僕が妹の部屋を妄想して犯罪的なニヤつきを披露していると、三女が自分の部屋から出て、階段とは逆方向に歩き出す足音が聞こえた。なんだか忍び足っぽく、ほとんど足音を殺しながら歩いているかのようで違和感を覚える。まさか双子たちを奇襲するつもりか?

 しかし微かな足音はなぜか僕の部屋の前で止まって、しばらくそのままなんの音もしなくなった。え、なにこれすごい怖い。心霊現象?

 僕の体感的にはそのまま一分ほど経過して、ようやく次のアクションが始まった。僕の部屋の扉がノックされたのだ。





 突然のことに驚きつつ、返事をするかすまいかで一瞬迷う。でも三女の場合は、双子と違ってなにか重要な話がある可能性も捨てきれない。結局、暖かくなってきたベッドから起き上がって、僕のほうからドアを開けた。

「あの、どうかした……?」

 三女の視線が一瞬、部屋の中へと移った。真っ暗だったことを意外に思ったんだろう。

「すみません、もう寝るところでしたか?」

「うん、まあ大丈夫だよ。それで……?」

 僕が促すと、三女はやや気まずそうに視線を逸らして、沈黙してしまう。そんなに言いにくいことなの? もしかしてもう出て行けとか言われちゃうの? あのぅ、まだ初日なんですが……

 まさかこの状況でドアを閉じて締め出すなんてこともできないし、かといって年下の女の子を部屋の中へ誘うのも憚られるしで、そのまま根気強く待っていると、ようやく三女が口を開いた。

「あの、なんとお呼びすればいいんでしょうか」

「は?」

 質問の意図が読めず、間抜けな声を出してしまった。なんと呼べばいいか? なにを?

「もしかして、僕のことを?」

「ほかに、なにが?」

 若干語気が強い。ちょ、怒んなよ。コミュ障はニュアンスで察するとか苦手なんだよ……主語と目的語抜かないでくださいお願いします。ちくしょう、だから省略言語ジャパニーズは嫌いなんだよ! イングリッシュ圏に生まれたかった……

「……す、好きに呼べば、いいんじゃないかな……?」

「…………」

 ちょ、なんで黙るし。これ以上の答えはないでしょ普通に考えて。どう考えても居候の僕のほうが立場が低いんだから、どう呼ばれようと文句は言えないじゃないか。なんなら「おい駄犬」とか呼んでくれても構わない。え、なにそれ興奮する。

 三女は相変わらずのブラックホールアイで僕を見つめながら、続ける。

「姉さんたちは、「お兄ちゃん」と呼んでいますね」

「そ、そうだね。まあ、厳密にはお兄ちゃんでもなんでもないから、ちょっとおかしいけどね」

「…………」

 だから黙らないでよ! なんなんだよ! 趣旨がまったく読めないよ!!

「そ、そういえば、さっき「久住さん」とか呼んでなかったっけ? それでいいんじゃないの……? な、なんか一番、僕らの関係を的確に表してるような、気がするし……」

「…………そうですか」

 え、なんでちょっと語気強いんだよ。おこなの? まじでなんなの? だから年下の女の子とか苦手なんだよ。もうちょっとコミュ障のことを学んでから出直して来なさい。まあもう二度と来ないだろうけどな。ふはは。

「急にすみませんでした。おやすみなさい」

「え、あ、うん、おやすみ、神庭さん」

 結局話はそれだけで、三女は自分の部屋に戻っていった。僕はしばし呆然と立ち尽くしていたものの、やがてのろのろとベッドに潜り込む。今のでドッと疲れたのでよく眠れそうだ。

 明日への期待と不安を胸に、僕は今度こそ眠りについた。



基本的に、いつでもキャラや設定の募集は行っておりまして、組み込めそうだと思ったらどんどん組み込んでいきます!

ただし全部使うわけではなく、あくまで独断と偏見で>>1が「選んで」いくのでそこのところはご了承ください!

>>151
キャラクターというか生徒は何人くらいにするつもりなの?


>>152

生徒数は、とりあえず20人前後を想定しています。が、なるべく明確に生徒総数が判明しないように篤実くんを誘導していきたいと思っています(`・ω・´)


そして何かのイベント(たとえば文化祭など)での主要メンバーは、今のところ5人前後を想定しています。
主要メンバーとモブがローテーションしていく感じでしょうか。


イメージは、さよなら絶望先生です。


コメントを見ていて人気が高いなと感じたキャラは、露出が多くなっていくと思われます。


そういった感じで、よろしくおねがいしますm(__)m




 校門脇の看板を見てみると、どうやら学校が開くのは八時三〇分らしい。シャツの胸ポケットから取り出したスマホで確認した現在時刻は七時三〇分。ふむ、まるまる一時間はあるな。

 早すぎるだろ!!

 いくらなんでも早く来すぎた! いや、でもさ、もしも教室に着いた時点でみんながコミュニティになってしまっていたらどうする? そんなのコミュ障の僕が入れるわけないじゃないですか! だから朝早くに教室で待機しておいて、少しずつ登校してくる生徒を狙い撃ちにする作戦だったのに……

 っていうか開門が八時三〇分は遅すぎやしないだろうか。都会だったら七時半にはだいたい開いてるもんじゃないの? すくなくとも僕の通っていた学校はそうだった。

 しかしお婆ちゃんの制止の声も聞かずに家から飛び出した手前、このまますごすごと家に帰るのは恥ずかしい。仕方ないので、学校の前でスマホをいじって時間を潰すことにした。

 まとめサイトをサーフィンしていると、思いのほか時間がたつのは早い。いくつか読んでいると、すぐに二〇分ほどが経過していた。ずっと校門にもたれた体勢で立っているのも疲れるので、背伸びでもしようとスマホから顔を上げると……



 すぐ目の前に、ランドセルを背負ったツインテールの女の子が立っていた。



 朝露を反射して煌めく木々のなか、いつのまにか立ち込めていた霧を背景にしたツインテ幼女は、驚愕に言葉を失っている僕をじっと見上げていた。そして、唇をほとんど動かさずに声を発する。

「おはよう?」

 ……な、なぜ疑問形……?

「お、おはよう……」

 切りそろえられた前髪の奥で、女の子の瞳が一瞬揺れる。なんだかその目に強烈な違和感を感じたのでよくよく観察してみると、どうやら目の焦点が微妙にズレているらしいことがわかった。単純に僕の顔を見ているようで見ていないのか、それともロンパリ気味なのか。

「転校生?」

「う、うん。まあ」

「よろしく」

「よ、よろしく……」

 無感情というか、無感動というか……、とにかく台詞を朗読しているような声色だった。まるで上の空で、僕になんかまったく興味がないというような感じ。でもそれなら話しかけてくるのはおかしいし、質問をする必要もないはずだ。彼女の意図がまるで読めなかった。

「携帯電話?」

 女の子の視線が、僕の手に握られた端末に向けられる。しかしそれもやっぱり興味なさげで、さながら義務的に質問を重ねているかのようでさえある。

「うん、そうだよ。スマートフォンっていう……略してスマホ」

「すまほ」

「うん」

「すまほ」

 スマホという言葉の響きが気に行ったのか、その単語を繰り返すツインテ幼女。そこだけ聞くとなんだか可愛い感じがするけれど、表情筋をほとんど動かさず、まるで腹話術のように話す様子は正直……ちょっと不気味だ。

 とはいえ今日から同じクラスになるわけだし、邪険にはできない。ひとまずコミュニケーションを図ってみるとしよう。

「スマホ、いじってみない?」

「みる」

 即答だった。なんなら若干かぶせ気味でさえあった。僕はややたじろぎつつも、女の子にスマホを差し出す。すると女の子は、じっとスマホを見たまま動かず、ややあって僕の手の上からスマホを掴んだ。赤穂さんもそうだったけど、この島の人たちはスマホを自分の手で持っちゃいけない決まりでもあるの?

「えっとね、こうやって画面を直接、指でなぞるんだよ」

「なぞる」

 言葉を反復しながら、僕のやったように画面をなぞる。自分の細い指に沿って画面が動くのを見た女の子は、「すまほ」と呟きながら僕の顔を見上げた。いやそれはどういう感情に基づいたジェスチャーなんだよ。

 結局僕らは校門が開くまでずっと二人っきりで、スマホいじりに興じていた。



キャラの選考基準……というほど大げさじゃありませんが、今まで出たキャラを選んだ理由を考えてみました。

・個人で完結せずに他の設定とも密接に繋がっている、話を広げやすそうなキャラ

・篤実に対して、なにかしらの役割を果たしてくれるキャラ

・これから起こるイベントによって成長しそうなキャラ

・強烈にキャラが立ってるのに、主張しすぎていないキャラ



あとで出したいと思っている子は、今のところ3人くらいでしょうか…

ですが、いろんな人によって設定が追加されていったり、活躍できそうな美味しい設定が後から生まれたりしたら、急にスポットライトを浴びる子もいるかもです。

ゆっくりまったり、長い目で見てやってくださいm(__)m




「僕は久住篤実。きみは?」

「鏡ヶ浦 凪」

 簡単な自己紹介を終えると、ツインテ幼女こと鏡ヶ浦は再びスマホに視線を落とした。

 学校が開放されて教室に移動してからも、彼女はスマホいじりに夢中だった。しかも僕の手の上からスマホを握っているせいで離れられず、つまり他のクラスメイトたちが教室に到着し始めても、彼ら彼女らに接触することができなかった。おいおい僕がクラスで孤立したら責任とれるのかい?

 現在僕は、先生に指定された僕の席(窓際の一番後ろで余ってた席)に座っている。都会にいた頃よりは教室の机の数が少なくてすっきりしているけど、だからといってそこまで生徒数が少ないわけでもない。離島の学校っていうくらいだから、せいぜい十人くらいだと高を括っていたけど、ぜんぜんそんなことはなかった。むしろその倍はありそうだ。

「すっかり気に入られちゃったね、お兄ちゃん」「ナギちゃんに気に入られるなんてすごいね、お兄ちゃん」

 学校が開放されるのとほとんど同時に登校してきた思春期ツインズの二人は最初、登校初日からいきなり置いていかれたことにぷりぷり怒っていた。……いや、いつまでも起きてこないキミらも悪いだろ。結果的には早く出発しすぎた僕が一番悪かったんだけど。

 そして二人の横にもう一人、僕にも見覚えのある女子が立っていた。相変わらずお嬢様然とした物腰の少女、赤穂さんである。

「いつもみんなより早く教室に着くようにしていたのだけど……今日は負けてしまいましたね」

 そんなことを言いつつ、悔しさなんて微塵も感じさせない穏やかな微笑みを浮かべる赤穂さん。彼女はたしか、このクラスで天使を……おっと間違えた、委員長を務めていたはず。だからいつも、みんなより早く学校に来ているのだろうか。真面目すぎるだろ。

 教室の前にかけられた時計を見ると、学校が開放されてから三〇分ほどが経っていた。さすがに九時を回ると、だいぶクラスもだいぶ賑やかになってきていた。しかし教室の隅で四人の女子に包囲されている男子に近づこうなどというチャレンジャーはいないらしく、誰もが遠くからこちらを窺いつつヒソヒソ話に興じている。ねえ順調に僕の孤立化政策が進んでるんだけど大丈夫? なにこの包囲網、すごいこわい。

 そんな惨事が進行しつつあるとはつゆ知らず、赤穂さんが善意百パーセントの微笑みを浮かべる。

「もうすぐ、毎年四月の行事である『写生大会』が行われるんです」

「え、なんて言ったの委員長?」「ごめんよく聞こえなかった」「なに大会だって?」「もっかい言ってくれないかな?」

 おいやめろ思春期シスターズ。

 けしからん双子を睨んで黙らせると、意味がわからなかったらしく首をかしげている赤穂さんに向き直る。なにこの純粋無垢な生き物、ユニコーンの化身?

「写生大会か……。まあ、どこもかしこも綺麗な島だしね」

「ええ。その日は四人一組でグループを作って、朝から夕方まで校外の好きな場所で写生を行うんです」

 うーわっ……出たよ、何人一組のグループワーク。幾多のコミュ障たちに消えない傷を残す悪夢の制度だ。もうすでに参加したくなくなったよ。

 ……だ、だけど四人ならギリギリなんとかなるぞ。神庭シスターズに頼めば、僕と双子と三女でちょうど四人。よし、行ける!

 すると赤穂さんはにっこりとほほ笑んで、まるで当然であるかのようにこう続けた。

「それと篤実さん、クラスの子たちと仲良くなれるチャンスですから、ここは知らない人と組みましょうね!」

 鬼 で す か ?

 抗議しようと口を開きかけたところで、しかし無常にも……朝のホームルーム開始を告げる鐘が鳴り響いた。





 黒板に白いチョークで書かれた「久住篤実」の四文字。教室に集まった十数人もの生徒の視線が僕へと注がれていた。

「久住篤実、高校一年生です。本土の、わりと都会の方から昨日転入してきました。まだこの島の勝手はわからないので、いろいろと教えてやってください。これからよろしくおねがいします」

 スラスラと、ハキハキと、昨日の夜に考えた無難極まりない台詞を暗唱する。緊張しいのコミュ障でも、これくらいならギリギリ可能だ。……ほんとにギリギリだったけど。

 僕の挨拶が終わったのを確認すると、教壇の横に避けていた眼鏡の女教師……担任の高千穂先生が、教室に緊張感のない声を飛ばした。

「あー、うん。そういうわけなんで、みんな仲良くしてね。赤穂ちゃん面倒みたげて」

「はい、先生」

 この先生が委員長を頼るのはいつものことなのか、無茶ぶりにも即答で反応する赤穂さん。さすがです。

「じゃ、久住くん席ついて。次は写生大会の連絡ね」

 等間隔に配置された机の間を縫って席に戻る。途中、明らかにおかしな格好をした子が何人か見えたような気がするけど、脳が記憶することを拒否したのでよくわからない。一般人ともうまくコミュニケーションできないのに、あんな連中とどう接すればいいんだよ……。

「グループは四人で一つね。なんか先週から風邪流行ってるけど、まあ誰か余ったらどっかねじこむからよろしく」

 ぽわぽわした雰囲気の高千穂先生だけど、言ってることはなかなか有無を言わせないものがある。ここまでばっさり言い切られると、余っても恥ずかしくないかもしれない。

「そんでこっから重要。グループには高校生以上の子がぜったい入ってるようにね。あと小学生以下の子は均等に。まあ、うん、そんな感じで。よろしくー」

 なるほど、さすがにすべてのグループに教師が付き添うわけにもいかないから、上級生が監視役になる必要があるんだろう。小学生だけで山に入るなんてゾッとしない話だし。

 それにこうやっていろいろと制約があったほうが、完全に自由よりもずっとグループが作りやすい。なにも考えてないように見えるけど、高千穂先生はああ見えて、意外と切れ者なのかもしれない。

 でもああいう飄々とした感じの人は掴みづらくて、僕は個人的に苦手だったりする。正直言って、あんまり仲良くできるきがしないっていうかなぁ……

「あ、それから久住くんは赤穂ちゃんと一緒のグループね。はい、じゃ、連絡終わり。授業の準備して」

 一生付いて行きます、先生。


未登場の他人のキャラに設定付加するのってありなんでしょうか
付けすぎると出しにくくなるような気もするし


>>195
ぜんぜんアリです! むしろそれがないと、なかなか使いづらくて困っているのが現状です。。。


ですが書かれたものすべてを採用するわけではないので、「本文にその設定が描写されるまでは公式ではない」というのだけ、みなさんどうかご了承くださいm(__)m




 様々な年齢の生徒が入り乱れているということは、当然ながらどこかの学年のレベルに合わせて授業を行うというわけにはいかない。それぞれの生徒に合った問題を、それぞれのペースで学習させなくてはならないわけで、その授業風景はさながら自習のようだった。

 僕の机に配布された、高校一年生レベルのプリントに目を通す。まあ難しくもなく、簡単でもなく……相応の難易度といったところだろうか。

 赤穂さんは転校生のお世話係として、机を僕の隣まで引っ張ってきて、そのまま机同士をぴったりとくっつけた。もうすでにこれだけで僕のハートビートは尋常ではないのだけれど、さらに彼女は一冊しかない教科書を僕らの真ん中で開いて覗き込んだ。もちろん僕らの肩は接触しています。このまま時が止まればいいのに。

 なんかすごい良い匂いがするんだけど、香水でも付けてるんですか? なんか……無防備すぎて……ああもう! 幸せですッ!!

「篤実さん、なんだかお顔が赤いみたいですけど、どうかなさいましたか?」

 今まさにあなたが耳元で囁いてるせいで、どうかなさっちゃいましたよ。なんなの? わざとなの?

「べ、べつに……ちょっと、息止めてただけ……」

「そうなんですか? ちゃんと呼吸しないと苦しいですよ?」

「き、気を付けます……」

 あなたのせいで胸が苦しいです。コミュ障は惚れっぽいんだからやめてくださいよホント……

「久住くーん、赤穂ちゃーん。授業中はイチャイチャしないでねー」

「えっ!?」

 教壇の机に上半身を投げ出して「ぐでーん」としていた高千穂先生が、首だけをこちらへ向けて注意してきた。クラス中の視線が僕らに集まって、二人で俯いてしまう。

 チラリと窺った赤穂さんの顔がほんのり赤くて、僕は余計に顔が熱くなるのを感じてしまう。ノートに差し込んでいた下敷きで顔を仰ぎながら、プリントの内容に意識を向けるように努める。

 ……だけどもちろん、勉強に集中なんてできるわけもなかった。





 休み時間になるのと同時に、見覚えのある子が小走りで駆け寄ってきた。

「篤実くんっ」

「あ、ひかり……!」

 お婆ちゃんを除けば、この島で僕が唯一にしてもっとも心を許している人間、淡路ひかり。今のところ、たった一人の友達である彼に対しては、とてもリラックスした笑顔を向けることができる。

「ほんとは、その、朝、登校したときに、あいさつしたかったんだけど……ご、ごめんね?」

「そんなのいいよ。おはよう、ひかり」

「えへへ、おはよ、篤実くん」

 照れくさそうにほほ笑むひかりを見て和んでいると、ふと隣で目を見開いている赤穂さんが目に入った。ひかりも赤穂さんの方を見て、慌てて挨拶をする。

「お、おはよう、ございます……い、委員長……」

「おはようございます、ひかりさん。あの……お二人は、ずいぶん仲がよろしいのですね?」

「そ、そう、ですか……?」

 ちょっと赤面しつつも、まんざらでもなさそうなひかり。どうやらひかりは赤穂さんに対してもうまく喋れないようなので、代わりに僕が事情を説明することにした。

「昨日、赤穂さんと別れたあと、町で偶然ひかりと会って……えっと、それで島を案内してもらいながら仲良くなって、友達になったんだ」

「島を案内……そうですか、なるほど」

 なぜか赤穂さんはそこで目を伏せて、あきらかにテンションが下がったように見えた。人の顔色を窺い続けて十余年の僕が言うんだから間違いない。しかし今の会話のどこが気に食わなかったのかまでは、さっぱりだった。女の子ってよくわからない。

 僕が内心で首を傾げていると、突然右肩を叩かれて飛び跳ねそうになった。何事かと振り返ると、昨日会ったばかりヤンキー少年こと……あれ、名前なんだっけ。やべっ、ド忘れした! 思い出せない!

「よっ、篤実。また会ったな」

「う、お、おはよ……」

「そんなあからさまに警戒すんなって。ま、これからよろしくな。なんかあったら言えよ」

 言うだけ言うと、ヤンキーはあっさり踵を返して自分の席へ戻って行った。なんていうか、すごく……イケメンです。

「……流礼さんとも、交流があるのですね」

「え、あ、うん。夕方にたまたま会って……」

 なぜだろう、どんどん赤穂さんの表情から温度が消えていってる気がする。

 しかし結局その謎は解けないままに休み時間は終わり、次の授業開始のチャイムが鳴り響いた、



他のキャラから設定を持って来てくっつけるくらいなら、私が設定付加を行うと思います。なので設定の切り貼りとかはおそらくやらないかと思われます。




 最後まで自習のようだった午前中の授業をどうにかやりすごし、ようやく昼休みとなった。クラスの人たちは友達と集まったりどこかへ連れだったりして、それぞれ習慣化した過ごし方をしているようだ。

 さて僕はどうしようかな……と考えかけたところで、内臓がぞくりとざわめくのを感じた。もう一度クラスの人たちをよく見てみると、その手にはお弁当が携えられている。慌てて自分のバッグをひっくり返して探してみるが、やっぱりどう考えてもお弁当は入っていなかった。そりゃそうだ、入れてないもの!

 そうか、学校に早く行きすぎるのをお婆ちゃんが止めようとしていたのは、これが原因でもあったのか。もうすっかり給食だと思い込んで、お弁当の存在を頭から抹消してしまっていた。

 どどどどうしよう……いや、まだ慌てるような時間じゃない。幸い気づいたのが早くて助かった。僕はすぐに立ち上がって、さっきから挙動不審な僕をキョトンとしながら見つめていた赤穂さんに告げる。

「あの、お弁当忘れたから家に帰るね」

 そう、ここは以前通っていた都会の高校ではない。電車通学ではないのだから、昼休みの間に学校と家を往復することが可能なのだ。とても体力を消耗するだろうし、わき腹が痛くなるだろうけど、そんなことは言ってられない。僕はすぐに教室から飛び出して下駄箱へと走った。

 小さな学校なので、教室から下駄箱までは十数メートルほどだった。僕は前の高校で使っていた上履きから靴に履き替え、そのまま山を駆け下りようと、校門へ走り出そうとした。

 するとその時、突然背中に衝撃を受けて転びそうになった。一瞬遅れて、どうやら誰かが後ろから勢いよく抱き付いてきたらしいことを認識する。

 その正体はなんと、三女こと神庭氷雨だった。

「え、あ……なに……?」

 かろうじて声を絞り出して、問いを発する。しかし三女はよほど必死に走ったのか、喘ぐような呼吸を繰り返すばかりだった。頬も上気していて、なんかエロい。

 そして答えの代わりに、その手に持った巾着を僕に突き出す。中身を検めるまでもなく、それはお弁当だった。

「……も、もしかして、その、これって僕の……?」

 わかりきったその問いに、三女は不機嫌そうな目をして頷く。

「そ、そっか、ついでに持って来てくれたんだ。えっと、あの、ありがと。ほんとごめんね……じゃあ、教室に……」

 上履きに履き替えるため靴を脱ごうとすると、突然腕を掴まれた。なにかと思って振り返ると、すでに三女は上履きから靴へと履き替えを完了しており、そのまま僕の腕を引っ張って外へ連れ出そうとする。

「え、あの、ど、どうしたの?」

 もしかしてこのまま校舎裏に連れ込まれてシメられるの? いや冗談抜きでその可能性も考えられるから困る……。

 そのまま三女に引きずられて辿りついたのは、校舎からすこしだけ離れたところにポツンと建っている正方形の小屋だった。ぶら下がっているだけの南京錠を外して重厚な鉄扉をスライドさせると、薄暗い室内からすえた匂いが吹き込んでくる。

 乱雑に積まれたハードルや、丸めて隅に転がされた体操マット。鉄籠に詰め込まれた大小さまざまなボールなどがところ狭しと並べられたその小屋は、いわゆる体育倉庫というやつだった。

 どうしてここに連れられたのかわからずボーっと突っ立っていると、よく見ればもう一つ巾着を持っていた三女が、丸められた体操マットをベンチ代わりにして腰を下ろし、そして僕の顔を見つめつつ自分の隣をポンポンと叩く。なに? 虫でもいたの?

 いや普通に考えれば「今回だけは特例中の特例として貴様如き下賤の民が尊き私の隣に座る無礼を許して進ぜよう」というジェスチャーなのだろうけれど、彼女の姉である双子たちには、三女は気難しい子だと教わっている。つい先刻に理不尽な全力ダッシュを強要されて間違いなく怒っているはずなのに、この行動……。意図がまったく読めない。

 ひとまずおっかなびっくり近づいて、三女の隣に一五〇センチほどの間隔をあけて座ってみると、チラリと窺った三女の視線は冷ややかだった。え、もうちょっと離れた方がいいですか? 既にケツが半分浮いてるんですが。

 三女が巾着からピンク色の弁当箱を取り出すのに倣って、僕も弁当箱を取り出す。黒くて大きな弁当箱で、おそらくだけど神庭家の父親の弁当箱なのだろうと予想される。いやー、それにしてもお婆ちゃんの作るご飯は天下一品だからな。今回のお弁当もすごく楽しみに…………



 カポッとお弁当箱の蓋を開くと、中身がグッチャグチャになっていた。







 ガボンッ!! と激しい音をたてて、三女が僕のお弁当箱の蓋を閉じて再封印した。いや、もう完全に手遅れなんですが……パンドラの箱は完全にオープンして、しかも残ったのは希望ですらなかったんですが。

 そのままお互いに、しばし沈黙する。弁当箱の蓋の上で二人の手が重なってるとか、そんなことを意識する余裕もなかった。これはどっちも悪いといえば悪いし、悪くないと言えば悪くない、そんな事故だったのだ。

 先に沈黙を破ったのは、三女の方だった。

「すみませんでした……私が走らなければ……」

「い、いや、僕が、走らなければ、こんなことには……」

「朝とか、休み時間にお弁当を渡すこともできたのに……」

「そ、そもそも、僕がお弁当忘れたのが、いけないんだし……」

「昨日島に来たのだから、お弁当のことは知らなくて当然です……」

「いや、普通はこっちから聞くべきだったし……」

 それからしばらく不毛な謝罪合戦が続いたが、結局どっちも悪くないということで強引に決着をつけた。だって早く食べないと昼休み終わっちゃうし。

 再びお弁当箱を開く。たしかにパッと見はショッキングだけど、よくよく見てみれば、それぞれの食材はとてもおいしそうだ。とりあえず食べる前に箸で軽く整理整頓してから、手を合わせて「いただきます」と小さく呟く。

 そして一口。ぱくり。

「うンまい!!」

 テーレッテレー♪ という効果音が聞こえてきそうな大声を出してしまい、軽く三女をビビらせてしまった。反省。……いやでも本当においしいんですって。

「さ、さすがお婆ちゃん。ここまで崩れてなお、こんなにおいしいなんて……」

「……そんなにおいしいんですか?」

「うん、神庭さんたちは食べ慣れてるからあんまり感じないかもしれないけどね。でもこれほんとにおいしいよ! これを毎日食べられるなんて、ほんと幸せだよ!」

「……そう」

 すると三女はプイっとそっぽを向いて、自分のお弁当を食べ始めた。え、もしかしてお婆ちゃんをベタ褒めしたから機嫌悪くなったの? じゃあどの選択肢でもバッドコミュニケーションじゃん。なにこれクソゲーすぎる。ヤフオクで売るわ。

 かといって「あと半世紀くらいしたら追いつけるよ!」なんて言うわけにもいかず、僕はおいしいお弁当を気まずい空気で食べ進めた。

 食事中にテレビを消すということは、三女は黙って静かに食べたい派なのかもしれない。だったら僕を誘うんじゃねぇよと言いたいところをぐっとこらえて、僕らはそれから一切の会話なくお弁当を完食した。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせて小さく呟く。食前食後の挨拶を欠かさないなんて、都会育ちにしてはなかなか珍しい殊勝な若者に見えるかもしれない。けどこれは「絶対に検索してはいけない言葉」というので「屠殺 映像」と調べて出てきた映像を見てから始めたことなので、そんな褒められたことではないと思う。

 互いに無言でお弁当箱を巾着にしまって、なんとなく隣を見づらいので正面に視線を注ぐ。やっぱり会話はなく、かといって先に立ち上がるのもなんだかな……と思い三女の出方を窺っていると、思いのほか早く向こうからのアクションがあった。

「おなかいっぱいですか?」

「えっ? あ、うん」

「多かったり少なかったりしませんか? ……おばあちゃんに聞けって言われたんですが」

 三女はこっちを見ずに、正面を向いたままで質問を重ねる。

「うーん、腹八分目ってところかな。おにぎりとかもあったらちょうどいいって感じ。それにお昼前の授業ってお腹鳴っちゃうから早弁したいし」

「なるほど、おばあちゃんに伝えておきます」

「いや僕が直接言っておくよ」

「おばあちゃんに伝えておきます」

「……お願いします」

 わかりましたよ逆らいませんよ!





「そろそろ、行きましょう」

「うん、そうだね」

 ポケットからスマホを出して時刻を確認すると、午後一時十二分。つい癖で時間を見てしまったけれど、五時間目が何時に始まるのかわからないからまったく意味がなかった。

「……一時十二分」

「あと八分ですね」

 おお、僕の意図を汲んで答えてくれた。なるほど、五時間目は一時二〇分から始まるのか、覚えておかなくては。

 僕みたいな人間は、助けてくれたり教えてくれる人間がいないため、なるべくスケジュール管理や時間管理を徹底しなければならない。じゃないと、創立記念日に学校行ったら開いてなくて、おかしいなと思いながら二時間も校門前でウロウロした挙句、偶然通りがかったクラスメイトの女子に失笑されながら真実を教わる羽目になったりするのだ。くそ、あれはどう考えても担任の連絡漏れだろ……忌々しい……!

「それは時計としても使えるんですか?」

 僕が黒歴史を掘り返して苦しんでいると、スマホを指さした三女が僕の目をジッと見つめてそう訊ねた。

「え、うん。ほら」

 小柄な三女にもスマホの画面が見えるように姿勢を低くして、画面右上の時計を指で示してやる。それを見た三女は「ふうん」と興味なさげな反応を見せて、体育倉庫の戸締りを始めた。

「携帯なんて、電話とメールができる時計みたいなものじゃないですか。そんなの、家の電話と手紙と腕時計で十分だと思いますけど」

 うわ、なんか頑固ジジイみたいなこと言い出したぞ、この娘。まあここで「人類の進歩は省略の歴史だからね」などとマジレスしてもいいんだけど、それを語り出すと五時間目に間に合わないので、適当に流すことにした。ぶっちゃけこの子が携帯電話に必要性を感じようが感じまいがどうでもいいし。

「うん、まあ今の携帯は、テレビにネットにゲームに音楽に勉強に読書に、もっといろいろできるけどね」

「えっ?」

 鉄扉の取っ手に南京錠を引っかけていた三女が、けっこうな勢いで振り返る。その勢いで南京錠が落下してしまったがそんなことは意にも介さず、三女はスマホに熱烈な視線を送る。

「そんなこと、できるんですか?」

「うん。ほら」

 適当にYouTubeを起動して、おすすめ人気動画の一番上にあがっていた某人気アイドルグループの総選挙動画を流して見せてやる。

「これは録画で、リアルタイムのテレビを見るのは別のアプリだけど」

 という説明をしてやってるものの、三女はまったく聞いちゃいないようで。いまだかつてないほど輝いた瞳をスマホに注ぎ、頬を上気させている。おいおい、赤穂さんや鏡ヶ浦でさえ、ここまでは興奮してなかったぞ。なんだか普段のクールなイメージとのギャップで、すごく愛らしく感じてしまった。

 その時、校舎からチャイムの音が鳴り響いた。驚いてスマホを見ると、もう十五分になっている。どうやら本鈴ではなく予鈴だったらしいが、急がなければいけないのに変わりはない。YouTubeを終了させて、スマホの画面を消す。

「あっ……!?」

 いやそんな悲しそうな声を出されても……。っていうか、そんな泣きそうな上目づかいで見つめないでください。まるで捨て犬に見つめられているようで、なにも悪いことしてないのに良心に大ダメージを負っちゃったでしょうが。

「遅刻しちゃうから、そろそろ行こっか」

「…………はい」

 なんとも名残惜しそうにスマホをチラチラ見つめる三女だったが、授業に遅れるわけにはいかない。僕らはやっぱり無言のまま、早歩きで教室へと急いだ。





 ひかりの家で遊んでいたら、もうすっかり遅い時間になってしまった。夕飯に間に合うか否かといった時間帯で、一瞬携帯で家に電話をかけるか少し迷ったけど……確実に間に合わないという状況までは電話を使いたがらない僕の性質によって、その案は見送られた。こういう時メールって便利だなぁとつくづく思います。まる。

「や、やっぱり泊まっていかない……?」

「いや、それはさすがになぁ」

「そ、そっか、うん、そうだよねっ」

 ひかりの甘えたような声に一瞬心が揺らぎかけたけど、どうにか理性で振りほどくことができた。ほんとお持ち帰りしたい……なんならうちの次男として甘やかしたい。

 でも僕がひかりのご両親だったら、かわいい息子が六歳年上の男とつるんでるって、ちょっと嫌だからなぁ……。せめてご両親に軽くご挨拶してからにしたいというのが僕の意見だった。

「じゃあひかり、また明日!」

「うん! またね、篤実くん!」

 軽く手を上げて別れを告げる。けどなんていうか、家自体の距離も近いから、別れが寂しいものだとは思わなかった。だからこそ人の距離が縮まるのかもしれない。なんかいいなぁ、田舎って。

 けど今日は、都会出身者であるひかりと久しぶりに都会っ子トークで盛り上がれて大満足だった。本土にいた時はいい思い出なんてちっともないと思ってたけど、あの場所はあの場所で良いところもあったんだと思う。僕が気づかなかっただけで。

 田舎の夜は暗い。都会を知ってる僕にしてみれば、それは余計に感じることだった。ポツリポツリと設置されたなけなしの街灯を頼りに、昼とは違って見える景色に迷わないよう気を付けながら歩いて行く。

 その時、遠目に妙なものを見かけた。沿岸沿いの防波堤に、小さな女の子が腰かけていたのだ。

「…………鏡ヶ浦?」

 思わずポツリと呟きを漏らしてしまう。すると案の定、見覚えのある女の子がこちらを振り向いて、しかも立ち上がり、こちらに駆け寄ってきた。え、なんですか? なんでこっち来るんですか?

 僕の目の前まで辿りつくと、鏡ヶ浦は僕の顔をジッと見て、そして僕の顔を指さして、一言。

「すまほ」

「いや僕の名前はスマホじゃないから。久住篤実だから」

「あつみ」

「うん」

「あつみ」

 僕は胸ポケットからスマホを取り出してみる。すると鏡ヶ浦の視線は一気にその携帯端末に夢中になる。

「いじりたい?」

「たい」

「そっかそっか、じゃあ僕の質問に答えたら、スマホを触らせてあげよう」

「うん」

「どうしてこんな時間のこんな場所に一人でいるの?」

「さがしもの」

「なにか落とした? なにをなくしちゃったの?」

「ちがう」

 鏡ヶ浦はふるふると首を振って、否定する。この子の瞳は相変わらず虚ろで、考えていることがまったく読めない。

「うーん、とにかくキミみたいに小さな子がこんな時間にうろつくのはダメだよ。送ってあげるから、いっしょに帰ろう?」

「……かえる」

 よくわからない子だけど、基本的に素直なんだよなぁ……。だけどほんと、こんな時間になにを探していたんだろうか。さっきは夜の海を眺めていたように見えたけど。

 鏡ヶ浦の小さくて暖かい手を握って、僕は彼女を家まで送り届けてあげた。といっても、家は数十メートル先のすぐ近くにあったんだけど。それでも、玄関でちょっとだけお話をした彼女のお母さんには、すごく感謝された。

 僕が家に帰るまで、みんなで夕食を待っていてくれたらしく、お腹をすかせた双子にぎゃーぎゃー文句を言われたり、三女に冷ややかな視線を向けられたりした。

 ……ひかりの家に泊まっとけばよかったかな。





 お風呂に入る時は、他の女の子に気を遣ってシャワーだけという紳士っぷり。どうも、久住篤実です。

 風呂からあがって歯を磨いて、さて自分の部屋に引きこもるか……と階段を上りかけた時、そういえばスクールバッグを居間に置きっぱなしにしていたことに気が付いた。居間を覗くと、どうやらお婆ちゃんしかいないらしい。

「おや篤実ちゃん、湯加減はどうだった?」

「……い、良い感じ」

 一瞬たりとも浸かってないので、熱いのか冷たいのかもわからなかったけど、とりあえず適当に返事しておいた。ごめんなさいお婆ちゃん。

「……あの子たちとは、うまくやれそうかい?」

「え? ああ……まあ、うん。大丈夫なんじゃないかな」

 またしても適当な返事。いや、だって仮にうまくやれそうじゃなかったら、どう答えればいいんだよ……。

 まあ実際のところ双子たちとは、それなりにやっていけそうな気はする。あんまり裏表のなさそうな子たちだし、僕のほうが多少ガマンすればそれで丸く収まるだろう。……三女は……うん、あんまり関わらないようにすれば、きっと大丈夫だろう。

「雫ちゃんと霞ちゃんはねぇ、篤実ちゃんが来るまで、ずっと、お兄ちゃんができる、お兄ちゃんができるって、喜んでたんだよ」

「……え?」

「弟妹はあとからできるけど、お兄ちゃんはどんなにがんばっても、できないからねぇ。ほんとは誰かに甘えたかったのに、お姉ちゃんだからって、ずっと我慢してたんだねぇ」

「……」

「今日のお弁当はおいしかったかい?」

「え、あ、うん。さすがお婆ちゃんって感じ」

「それはよかったねぇ。氷雨ちゃんも、いつもより早起きした甲斐があったってもんだねぇ」

「……ん? えっ?」

 お婆ちゃんの言葉に、僕は混乱状態に陥る。しかし僕がわけもわからずじぶんをこうげきする前に……

「 お ば あ ち ゃ ん 」

 居間の出入り口から、絶対零度の視線が襲い掛かってきた。いちげきひっさつ!

「おや氷雨ちゃん、ごめんねぇ。お婆ちゃん、うっかり口が滑っちゃったよ」

 さすがお婆ちゃん、あの視線を真正面から受けてもビクともしないとは……

「昨日、氷雨ちゃんが作った汁物を、篤実ちゃんが……」

「おばあちゃんっ!!」

「ああ……ごめんねぇ、またうっかり。歳を取ると、いやだねぇ。歳は取りたくないねぇ」

 白々しいことをぶつくさ言いつつ、お婆ちゃんはすごすごと居間から退散する。……え、ということは……!

「…………」

「…………」

 おいおいマジかよ……この空気で二人っきりかよ。なんて惨たらしい拷問だよ……お婆ちゃんって中国の皇帝だったの?

「……さ、さて、じゃあそろそろ、寝よっかなぁ~……?」

 僕は音を立てずにそそくさと移動して、三女の隣を静かに通り過ぎる。なにかしらの攻撃を受けるかと思ったけど、無事に脇を通り抜けることができた。よし、あとは階段を上って部屋まで逃げ切るだけだ。なにこれホラゲー?

 しかし三女は居間の方を見つめたまま、じっと動こうとはしなかった。その横顔はなんだか儚げで、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気さえ漂っている気がして……

「……きょ、今日のお弁当も晩御飯も、昨日の晩御飯も、ほんとに信じられないくらい、すごく美味しかったよ。ほんと、ありがとう」

 だけどやっぱり、僕は家に置いてもらっているんだから。……これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないから。

「でも気を遣わなくて大丈夫だからね。その、明日からは、お弁当も自分で作るから。……えっと、それじゃあ、おやすみ」

 言うだけ言って、僕は階段へと足を向ける。僕は振り返らなかったし、三女は返事をしなかった。

 多分、きっと、これが正しいんだと思う。





 赤穂さんと三女が睨みあう。ピリリと空気が張りつめ、その激突を見守る全員がゴクリと喉を鳴らした。

「委員長として、ここは負けるわけにはいきませんね」

 いつもは柔らかい光を湛えている温和な瞳の奥に、静かな紅蓮が灯る。

「勝ち負けに興味なんてありませんが、個人的に面白くないので潰します」

 いつも冷ややかな光を湛えている怜悧な瞳の奥に、激しく吹雪が荒ぶ。

 赤穂さんの体が一気に低く沈み込み、次の瞬間には爆発的に右へ跳んだ。それに虚を突かれたかと思われた三女はしかし、直後には赤穂さんの正面に追いついていた。

 けれど赤穂さんも負けてはいない。直前の勢いを殺して一瞬で切り替えし、さっきと逆方向に跳ぶ―――と思わせて、さらにもう一度切り返す。さすがにこれは反応できなかったか、赤穂さんが三女を抜いて走り抜けた。

 ほぼ球形の果実―――マリダマというらしいが―――を地面に叩きつけて弾ませながら駆ける赤穂さんに、さらに双子が立ちはだかる。

「そう簡単には」「いかないんだよね!!」

 双子による完全に息のあったディフェンスに、赤穂さんは一瞬立ち止まってしまう。その一瞬を突いて、背後から追いついた三女がボールを勢いよく弾いた。

「しまっ―――!」

 弾かれたボールは不規則なバウンドを繰り返し、コートの端っこに立っていた女の子―――嬉野さんというらしい―――へと転がっていく。シャープな眼鏡の似合う、温和そうな文学少女である彼女は、突如自分にスポットライトが当たったことに狼狽しつつボールを拾う。そこへ、漫画だったら「ギュンッ」というオノマトペが描かれそうな勢いで接近する赤穂さん。怖すぎる。

「ひぃっ!?」

 圧倒的な剣幕に戦慄した嬉野さんは、ほとんど目を瞑ってボールを放り投げる。それを双子の……僕にはどっちかはわからないけど、とにかく双子のどっちかがキャッチした。

「はいさっ! 雫っ!」「ほいさっ! ヒサメちゃん!」

 どうやら霞だったらしい彼女は、キャッチした瞬間にはすでにノールックパスで雫へとボールを投げ渡し、さらに三女へと流れるようにパスを繋ぐ。一転して、今度は向こうのチームの攻撃だ。

 まず三女にもっとも近かった鏡ヶ浦がとてとて接近したが、何事もなかったように抜かれてしまった。ですよねー。

 続いて三女は妙義の目の前を通るが、妙義は適当に手を伸ばしただけで、あっけなく素通りさせてしまう。おいちょっとはやる気だせ。

 そして一生懸命走ってきたひかりが三女へと立ちはだかるけど、なにもしてないのにその場で転んでしまった。まさか、エンペラーアイ!? いや、違うよね……

 最後にゴール下に立ちふさがるのは僕だ。まあ相手チームも空気を読んで、どうやら赤穂さん以外には本気出さないみたいだし、ここは適当に流して……とか思っていたら三女の視線が一気に鋭くなり、動きにキレが増す。え、なんで僕にはそんな本気なの!? 

 ちっこい三女の素早い動きに翻弄されて、僕はついていくだけで精一杯だった。しかしそれでも中学生女子と高校生男子の体格差でどうにか食いついていた……が、そこは男子と女子……『たとえスポーツでも、男子は女子の体に絶対触れてはいけない』という暗黙の紳士録によって当たりに行けず、ついに抜かれてしまった。

 三女は一気にゴール下へ踏み込んで、華麗なレイアップシュートを決める。

 こうして五時間目の体育、写生大会チーム別マリダマバスケ大会決勝戦は、チーム神庭の勝利に終わったのだった。



 だけど僕としては、今回のMVPは間違いなく赤穂さんだと思うのです。……だって足手まといが四人もいて、決勝まで行っちゃうんだもの……。






 いつもより賑やかな六人での食事を終えて、相も変わらず絶品な夕飯に満足しつつ立ち上がる。お婆ちゃんから奪い取る形で僕が獲得した、この家での数少ない役割であるところの皿洗いをするためだ。少しでもこの家のために貢献しなければ、僕は本当にただ食い扶持を増やすだけの迷惑な穀潰しという立場へと身を落としてしまう。それだけはなんとしてでも阻止しなければならないのだ。

 自分の皿を運ぼうとするお婆ちゃんをどうにか制して、何度も台所と居間を往復してすべての皿を運び終える。そして、では始めますかとシャツの袖を捲ったところで、あることに気が付いた。

「あっ、弁当箱……」

 今朝僕が早起きをして作った弁当はまさしく男の料理といった風情の大味なもので、お婆ちゃんや三女の手料理と比ぶべくもないような天と地ほどの隔たりがあった。半分以上おにぎりだったし。

 けれどもそれによって僕が後悔や悲壮を感じているかといえば決してそんなことはなく、むしろ他人に気を遣わなくていいぶん、僕の昼食はとても気が楽なものとなった。それに自分のことを自分でやるというのは言うまでもなく爽快なことだし、ひかりや赤穂さん、それから双子たちと机を囲んで一緒にご飯を食べるのは、なかなか悪くないな、なんて不覚にも思ったりした。

 まあ三女のいる狭い台所で一切の会話のないままにお弁当を作るというのは、非常に精神を削られるものがあるのだけれど……それはおいおい慣れていくとしよう。

 台所を出て、異世界に通じていそうな薄暗い廊下と階段をすすんで自室に入り、黒い弁当箱の入った巾着を取り出す。そしてすぐに部屋を出ようと入口の扉に向かったところで、僕は突然の衝撃によって吹き飛ばされて転倒した。新手のスタンド使いかッ……!?

「ああっ!? お兄ちゃんごめんね!?」「お兄ちゃんだいじょうぶ!?」「怪我してない!?」「どこぶつけたの!?」

 一瞬だけ凶器と化した扉の向こうから、ショートカットの元気っ娘ツインズがあらわれた。右から左からまったく同じ顔の同じ声が聞こえてくるというのは存外気持ち悪い感覚に襲われるので非常にやめていただきたいです。

「……こういうことにならないように、昔の人たちはノックという偉大な文化を発明したらしいよ……」

「う、ごめんなさい……」「ほら、だからノックしたほうがって言ったじゃん」「あーずるいっ! 霞がせかしたのに!」「そんなことないもーん。開けたのは雫だもん」「ううー! ご、ごめんねお兄ちゃん……」

 感情表現の豊かな双子たちは、元気なときはひたすら元気だけれど、へこむときは結構ガチでへこむ。だからついつい優しい言葉をかけて甘やかしてやりたくなる。この子たちがこんな奔放な性格に育ったのも、これが原因なのだろうか。

「べつにいいよ、死ぬわけじゃあるまいし。それに僕は居候なんだから、家主のすることには文句を言わないよ。そんなことより、なにか用があったんじゃないの?」

「あ、うん! そのとおり!」「お兄ちゃん、今日もお風呂あがったら部屋に来てね!」「今夜は寝かさないからね!」「シオリちゃんもいることだし、昨日より盛り上がるよ!」

「あー……わかったよ。でも明日は学校なんだから、あんまり夜更かしはしないからね」

 双子の言うように、僕は昨晩、二人に呼び出されて彼女たちの部屋を訪れた。そこにはトランプや人生ゲームが容易されており、どうやらゲームを通じて僕と親睦を深めるというのが呼び出しの趣旨であるらしかった。普段なら適当な理由を付けて退散するところではあったのだけれど、直前にお婆ちゃんから気になる話を聞かされていたので、一日だけ付き合ってやることにしたのだ。

 お婆ちゃん曰く、ずっと兄がほしかったのだという双子たちのために……せめて仮初めの兄を演じてやろうと思ってのことだったのだけれど、それはとんだ思い上がりだった。双子はとにかくゲームに関してはなにをさせても強く、まったくもって歯が立たない。そんなこんなで僕も途中からムキになってしまい夢中でゲームに臨んでいて、気がつくと時刻は深夜三時を回っていたのだった。南無三。

 くそう、しかも僕はお弁当をつくるために早起きしたから、実質三時間くらいしか寝ていない。だから午前の授業中は眠すぎて、何度となくうとうとしてしまったんだぞ、まったく! おかげで隣の席で授業を受けている赤穂さんにほっぺたをつつかれて、ハッと顔を上げたら「ふふっ、目が覚めましたか?」って微笑まれたんだぞ! ちくしょう、大変ありがとうございましたっ!

「あ、それからお兄ちゃん」「そうそう、お兄ちゃん」

「うん?」

「「お兄ちゃんは“居候”じゃなくって、“家族”だからね?」」

「…………う、うん」

 蚊の鳴くような声量でかろうじて返事をして、さっさと部屋を出て一階へと向かう。今の言葉がどういう意図のものかはわからないけれど、なんだか無性に恥ずかしくなってしまい、僕はその場から逃げるようにして離脱したのだった。





 両手に華、ということわざがある。まあ主に唾棄すべき糞リア充に対し皮肉を込めるた
めの呪詛の言葉として用いられることの多いことわざであるのだが……



 神庭家の思春期ツインズこと神庭雫と神庭霞に左右の手を恋人繋ぎで握られ歩いている
現在の状況は、いわゆるソレに該当するのではあるまいか。



 場所は外、見知らぬ森の中だった。夕食が終わって、さて風呂にでも入ろうかといった
ところでなぜか彼女らに拉致られ、外へと連れ出されたのだ。

 僕の左手をきゅっと握りなおした神庭雫が、照れくさそうにはにかむ。

「家の外でなら、ずっと話しててもヒサメちゃんには怒られないもんね♪」

 僕の右手をきゅっと握りなおした神庭霞が、照れくさそうにはにかむ。

「お兄ちゃんはトクベツだから、ウチらのとっておきの場所に連れてってあげるね♪」

 さっきから不覚にもドキドキしっぱなしの僕は、つないだ手を通じて脈拍が伝わりやし
ないかと冷や冷やするのが精一杯だった。

「け、けっこう歩いてるけど、大丈夫? その、明日も早いんだしさ、遅くなるとお婆ち
ゃんも、心配するし」

「だいじょーぶだいじょーぶ!」「心配ない心配ない!」「そんなことよりお兄ちゃん」
「お兄ちゃんのこと、もっと聞かせて?」

 左右からぐいぐい寄ってくるので、いろいろ当たっているし、歩きづらいし、しかもい
ろいろ当たっていますっ!

 前髪をピンクのヘアピンで左に分けた雫が、僕の左から訊ねてくる。

「お兄ちゃんの好きな食べ物は?」

「……い、稲荷寿司」

 前髪を水色のヘアピンで右に分けた霞が、僕の右から訪ねてくる。

「お兄ちゃんの好きな動物は?」

「……キツネ」

 左から雫。

「お兄ちゃんの血液型は?」

「……AB型」

 右から霞。

「お兄ちゃんの座右の銘は?」

「……阿諛追従、一言芳恩、臥薪嘗胆」

 左から雫。

「お兄ちゃんの将来の夢は?」

「……特になし」

 右から霞。

「お兄ちゃんの好きな女の子のタイプは?」

「……血が出ないヤンデレ」

 聞いたことのないような鳴き声が響く森の中で、そんな質問攻めがひたすらに続いた。
その間も足を止めることはなく、森の奥へ奥へと進んでいく。





「「お兄ちゃんは、犬派? 猫派?」」

「……どっちかと言えば、犬派」

「ありゃ、それは残念」「うん、ちょっと残念」「でも気に入ると思うよ」「そうそう、
可愛いからね!」

 双子たちは意味深なことを言い合って、左右から悪戯っぽい笑みを向けてくる。

 しかし、その意味はすぐにわかった。



 高い茂みに囲われた森の一角に、たくさんの猫が集合しているファンシー空間が広がっ
ていた。



「おお……!」

「「ねっ? すごいでしょ!」」

 たしかにすごい。猫の数は二〇匹を優に超えており、いろんなところからゴロゴロにゃ
んにゃんと聞こえてくる様は、さながら異世界にでも迷いこんだかのようだった。

 首輪がついていたりついていなかったり、どうやら飼い猫と野良猫が入り混じっている
ようで、さながらここは猫の集会場、猫の楽園といったところだろうか。夜中になるとこ
こに集まって、こうやって水入らずで、猫同士の近況報告でも交わしているのだろうか。

 けれど、一つ問題がある。

 僕が双子たちに背中を押されて、猫の楽園へと一歩、足を踏み入れた時のことだった。



 猫たち全員が一瞬でこちらを向き、そして即座に散り散りに、さながら蜘蛛の子を蹴散
らすかのように逃げ惑ってしまったのだ。



「あー……うん、まあ、そうなるよね……」

 ……説明をしなければなるまい。僕は背後を振り返って、目を丸くしている双子たちへ
と向き直る。

「あの、僕さ、動物に超嫌われちゃうんだよね……よくわかんないんだけど」

「そ、そうなんだ……」「なんか、ごめん……」

 さっきまでのわくわく冒険テンションが、一気にお通夜ムードまで冷え込んでしまう。
え、これ僕のせい? だとしたらごめんなさい。嫌われ者でごめんなさい。

 つい最近までは、こんな体質じゃなかったんだけどなぁ。

「ま、まあだいじょーぶだよ! 今のは序の口だもん!」「それなら、もっともっとすご
いとこに案内してあげるから!」

 一瞬で元気を取り戻した双子たちに笑顔が戻る。再び左右から手を握られ、僕は元気い
っぱいな彼女たちに引っ張られて、さらなる森の奥へと進んでいった。





 現在自分が島のどのあたりにいるのかはわからないのだけれど、それでもだいぶ奥まっ
た場所まで来ていることは確かだった。なぜなら僕のふくらはぎがパンパンになって伝え
てくれているから。

 双子たちが「「まだタイミングが悪いから、もーちょっと待ってて!」」と言ってから
しばらくが経過していた。しかしながらまだそのタイミングが訪れる気配はないらしく、
そのため僕らは、なんだか妖しげな気配を発している洞窟の前で、奇妙キテレツな植物を
眺めて時間を潰しているのだった。

 っていうか、この森の生態系はもはや日本とは思えない。ルイス・キャロルの世界じゃ
んかコレ……

「へえ、これがあのマリダマの樹なんだ……」

 双子が持ってきたらしい懐中電灯を借りて、僕の倍ぐらいある細い樹を照らしてみる。

「意外と細くてちっちゃいでしょ?」「ちっちゃいヤシの木みたいだよね」「樹に生って
る実は中身があるからかなり重たいけどね!」「中身をストローで出すと、軽くなってボ
ールになるんだよ!」

 触ってみると、なるほど。重量のわりには弾力があって面白い感触だった。試合のとき
はほとんどボールに触れなかったので、ここで思う存分堪能しておくことにしよう。あれ
、なにそれ超むなしい。

 周囲を見渡してみると、本土どころか そんじょそこらのジャングルでもお目にかかれな
いような不思議植物のオンパレードだった。

 たとえば森の四方から木琴を鳴らしたような音が断続的に響いて音楽を奏でているが、
双子曰く、雨粒が当たると音の出る植物があるのだそうだ。なんだそりゃ。

 もっと詳しく訊ねようとしたものの、双子たちもそう詳しいわけではないらしく「「ヒ
カリちゃんに聞いて!」」と言われてしまった。この植物のどれかを本土に持って帰って
売れば、ちょっとした財産を築けそう。

 足元に生えていたジャガイモくらいの大きさの豆(のようなもの)を観察していると、
急に辺りが明るくなったのを感じた。空を見上げると、どうやら雲の切れ間から月が覗い
たらしい。

「「ああっ!! お兄ちゃん、急いでっ! こっちこっち!!」」

 途端に慌てだした双子たちが僕の両腕を引っ張って、洞窟の奥へと引きずっていく。え
、中でなにするの? 説明なしで進行されちゃうと超こわいんですけど。

 しかし島の誰よりも肌が白いことを自慢とする美白少年こと久住篤実が、田舎娘の腕力
に敵うはずもなく……

「ちょ、ちょっと、歩くから引っ張らないで!」

 暗い・怖い・気味が悪いの3K洞窟を躊躇なく進んでいく双子たち。男前すぎるだろ。

「いいから急いで急いで!」「せっかくここまで来たんだから、アレを見ないと!」

 僕の意見は完全無視され、むしろ更に強く腕を引っ張られてしまう始末。

 だから危ないってば! 手首掴まれて両腕塞がってるんだから、こんな岩肌の粗い洞窟
で転んだら死にかねないですよ!?

 おいここまでやっといて大したものじゃなかったら、お前らの声で日本赤十字にイタ電
かけるからな、覚悟しとけよ。

 転ばないよう気を付けながら必死に走っていると、突然、双子が走るのをやめた。足元
だけを見ていた僕はその急停止に反応できず、よろめいて数歩前へと飛び出す。 

 何事かと前方へ視線を移すと、そこは洞窟の最奥だった。



 驚愕を通り越して、戦慄する。







「……な、なんだ……これ……!?」

 洞窟の天井は高く吹き抜けになっており、そこから月明かりがスポットライトのように
射し込んでいた。

 地上から月へとまっすぐ伸びるトンネルの途中には光り輝く“虹色の線”が無数に張り
巡らされており、その上を宝石のような雫がひっきりなしに滑っていく。

 幾重にも渡された“虹色の線”によって、さながら霞がかったように輪郭の安定しない
月は、さながら踊っているかのようだった。

 当然、地上へと降り注ぐ七色の月光も常にその形を変え続け、洞穴の内部を神秘的に彩
っている。

 そしてスポットライトの中心、洞窟の最奥には、滲むように発光する巨石が安置されて
いた。巨石は熱を帯びているかのようにぼんやりと紅く発光して、その存在を主張してい
る。

 ……おいおい、いつ竜王が現れて「よくぞここまで辿りついたな、グハハ」とか言いだ
しても違和感がないような場所だな。

 僕が呆然と固まっていると、双子たちは僕の腕を抱くようにして身を寄せてきた。

「この場所は、ウチらが小学生のとき見つけたんだ」「森で遊んでたら迷っちゃって、そ
のとき偶然見つけたんだけどね」「どこかわかんないし、雨も降ってくるしで、散々だっ
たんだけどさ」「この洞窟で雨宿りしてたら、こんなすごい景色が見れたんだよ!」

 次第に月が雲に隠れて、聖域じみたライトアップは幕を閉じた。代わりに、巨石が放つ
紅い光が洞窟内を照らし出す。それは、さきほどまでとは一転して地獄的な絵面だった。

「あの岩もすごいんだよ!」「時間が経つとね、色が変わっちゃうんだよ!」「青とか黄
色とか、だいたい一時間ごとに」「たぶん、色を見ればいまが何時かわかっちゃうんじゃ
ないかな?」

 続いて僕は、巨石から上へと視線を向ける。

「あの糸は、なに……? 神庭さんたちが仕掛けたの?」

「「なにその呼び方!? 名前で呼んでよっ!!」」

 左右からステレオで怒鳴られて、耳がキーンとなる。軽くつばが飛んだじゃないか! 
うちの業界ではご褒美です!

 冗談はさておき……。表情からして、どうやら双子たちは結構マジで怒っているらしい
。え、普通は逆なんじゃないの? 名前で呼んで怒鳴られるんなら理解できるけど。

「……し、雫ちゃんと、」

「「呼び捨てっ!!」」

 ふぇぇ……この子たち超こえーよぉ……






「………………雫と霞が、あの糸を……?」

「ううん、違うよっ♪」「あれはね、蜘蛛の巣なんだよ♪」

 ケロッと笑顔に変わる双子。もう女の子がわからないよパトラッシュ……。

「これはヒカリちゃんに訊いたんだけどね?」「ヒバグモっていう名前の蜘蛛らしいよ」
「糸が透明の筒状になってて、中を水が流れるんだってさ」「その糸を光が通過すると、
あんな風に綺麗な景色になるらしいよ!」

 もう今さら、この島の生態系にツッコミを入れる気力はないよ……。

「あ、この場所のことは秘密だからね?」「まだ誰にも教えてないんだから!」「お婆ち
ゃんにも」「ヒサメちゃんにも」

「えっ……、そんなとこに、僕なんかを連れて来ちゃって、よかったの?」

「「だから、お兄ちゃんはトクベツなんだよ♪」」

 そう言って、満面の笑みで「にしし」と笑う双子。

 正直、僕はすごく感動していた。さっきの景色に対してというのも勿論だけれど、それ
以上に、この二人の言葉に、心に、すごく感動を覚えていた。

 だから柄にもなく、思ったことを素直に口に出してみる気分になったのだった。

「雫、霞、その、ありがとね」

 左右からがっちりロックされていた腕をほどいて、二人の頭に軽く乗せる。頭を撫でる
ってほどでもない、ちょっとした接触だったけれど……。照れくさくて、それが今の僕の
“お兄ちゃん”の限界だった。

「そ、その岩の向こうって、どうなってるのかなぁ!」

 なんだか無性に恥ずかしくなって、わざとらしく話題を逸らしてしまった。巨石に向か
って歩き出し、双子から急いで距離をとる。二人がもし冷めきった表情をしていたら立ち
直れそうにないので、二人の顔を見ることができなかったのだ。

 岩の向こう側なんてまったく興味なかったけれど、いざ近づいてみると「おや?」と思
った。てっきり洞窟の最奥に岩が立てかけられているものとばかり考えていたのだが、よ
くよく注意して観察してみれば、岩が接している壁に亀裂が入っている。この岩の向こう
に、まだ“奥”があるのだろうか……?

 ちょうど僕の目線の高さに大きめの亀裂が走っていて、懐中電灯で照らせば向こうが見
えるかも知れない。そう思って亀裂に顔を近づけようとした、その時。

 ぐいっ、と後ろから腕を引っ張られた。

「うわっ! びっくりしたぁ!」

 ほんとにびっくりした。ジブリ風に髪の毛逆立つかと思ったくらいだ。

 僕は振り返って、すぐ後ろにいた双子にジトッとした視線を向ける。

「もう、脅かさないでよね」

「「……え?」」

 くそ、こいつらキョトンとした顔しやがって……しらばっくれるつもりか。

「……まあいいや。そろそろ帰らないと、ほんとにお婆ちゃんが心配しちゃうし、帰ろう
か」

「あ、うん」「そうだね」

 僕らは足元に注意しながら、来た道を戻った。来たときとは逆に、今度は僕が二人の手
をとって引っ張っていった。

 ちょっとは妹たちに、いいとこ見せたかったのだ。



え、私ですかっ!?

……じゃあ他に案が出なかったら「百景島」とかで……




 よく掃除の行き届いた廊下を、息せき切って駆け抜ける。もしも僕の想像通りのことが
発生していたらと考えると、内臓がざわついてしまう思いだった。

 そしてこういうときの悪い予感というのは、得てして的中してしまうものだったりする
のだ。

「ふん……第一、友達っていうのは口約束をしてなるものなのかな? お互いに友達とい
うことで了解し合って友達らしいことをなぞるのが、キミの言う友達関係なのかい? だ
としたら、それはままごとやごっこ遊びと何が違うのかな?」

「ち、ちがっ……だって、ほんとに……ぼくは……」

 縁側沿いの和室に飛び込むと、そこでは妙義とひかりが向かい合って対立しているとこ
ろだった。涼しい顔をしている妙義と、片や顔を真っ赤にして涙を流すひかりの姿を目撃
した瞬間、頭のどこかが「プツン」という音をたてるのを聞いた気がする。

「妙義っ!!」

 自分でも驚くくらいの声量で、セミロングの少年を怒鳴りつける。二人はそこで始めて
僕の接近に気がついたらしく、驚いてこちらを振り返った。

 ドスドスと大袈裟に足音を響かせながら二人に近づいて、僕はひかりを背にして、妙義
の前に立ちはだかった。

 腹の底に渦巻くどす黒い感情が吹き出すのを抑えきれずに、感情に任せて言葉を叩きつ
ける。

「妙義、お前は僕以外にもこんなことをやってたのかよ……!」

「……事実を口にすることの、なにが悪いと言うんだい」

「悪くないなら、どうしてひかりが泣いてるんだよ!!」

 僕の背中に顔をうずめるひかりの感触を感じながら、拳を握りしめる。こんなに怒った
のは、久しぶり……でもないか。都会でやったこっくりさんの前後にも、この感情に支配
されたことがあったように思う。よく覚えてないけど。

 そこで、どうやらトイレにでも行っていたらしい赤穂さんが小走りで縁側に帰ってきた
。僕の怒鳴り声を聞きつけたのだろう。彼女の後ろでは鏡ヶ浦のお母さんも不安そうに覗
いており、それが僕の沸騰した頭を急速に冷めさせていった。他所さまの家で暴れるわけ
にはいかない。

「……まず、事の始まりはなんだったんだよ」

 背後のひかりを後ろ手に抱きしめながら、妙義のことを睨みつけ訊ねる。すると妙義も、
負けじと鋭い眼光を返してくる。

「淡路くんが、私が久住くんをクズだと言ったのかと聞いて来てね。概ねその通りだと答
えたら、キミに謝罪をするように要求されたのさ」

 ひかりが謝罪を要求した? こんな泣き虫で引っ込み思案な子が、僕なんかのために?

「べつに私がどう思われようが知ったことではないけれど、私はただ隠していることを暴
き事実を述べているだけで、謝る筋合いなどないというのが持論でね。それでもしつこく
食い下がってくるものだから、淡路くんのことも暴いてやったのさ」

 きっと妙義のことだから、間違ったことは言っていなかったのだろう。あくまでひかり
が内に秘めていることを暴いて浮き彫りにしたにすぎないのだろう。悪意に満ちた罵倒を
したわけではなく、事実を述べたにすぎないのだろう。

 しかしそれでも、やっぱり許せないものは許せない。





「僕に対する言葉に謝罪はいらないよ。僕がクズだというのは事実だし、たいして傷つい
ても気にしてもいないからね。だけど、今ここでひかりを泣かせたことについては謝って
もらうよ」

「事実を述べたことを謝れとでも言うのかい? 言っていることが矛盾しているよ」

「いいや矛盾していない。その辺りは人付き合いのめんどくさいところでね。僕も都会じ
ゃ散々痛い目を見てきたよ。いいかい、人を傷つける真実は、悪意となにも変わらないん
だ。逆に人を傷つけまいと繕った嘘は、善意そのものなんだよ。人が心の底に隠して上手
くやっていることをわざわざ暴いて傷つけるというのは、十分に謝罪に値する悪行なんだ
よ」

「…………」

「キミが、ひかりを、傷つけて、泣かせた。それが結果であって、そこに至る過程や思惑
なんてなにひとつ考慮に値しないんだ。大切なのは“結果”なんだよ」

 それを聞いた妙義は、そこで始めて憎悪の表情を見せた。今までの不愉快そうな、迷惑
そうな表情ではなく、明確な敵意の籠った表情だった。 

「……キミたちの、そういう薄っぺらさが大嫌いなんだ。善意の嘘? くだらないね!
嘘に、隠し事に、善意なんてものがあるわけないだろう! どいつもこいつもグチョグチョ
の腹の中でエゴイズムとヘドニズムを抱き合わせて悦に浸ってるくせして、なにが善意
だ! 笑わせないでほしいね!」

 豹変した妙義の剣幕に押され、僕は息を呑んだ。普段はドブ沼のような無気力の瞳が、
今は烈火のごとく燃え盛っている。

「結果が大切? 過程は考慮されない? だったら私の家庭が壊れたのは私のせいだって
言うのかい!? 親の不倫を黙っていれば、幸せ円満に生きて行けたっていうのかい!?
そんな欺瞞と虚偽を塗りたくったもののどこに幸せがあるっていうのさ!」

 妙義の瞳から、一筋の涙が零れた。






「キミたちのような腹の底に後ろ暗い感情を押し込んだ嘘つき者たちが、へらへら笑って
幸せそうに生きてるのを見ると反吐が出るよ……。どうして私がこんな目に遭って……キ
ミたちみたいなのが……」

 俯いて立ち尽くす妙義は、見る影もなく痛々しかった。そこには大人ぶって正論を振り
かざす普段の姿はなく、さながら駄々をこねる子供のようだ。

 ふと、彼の口から聞いたことのある「探偵になりたい」という言葉を思い出す。もしか
すると、同じ真実を暴くという立場でありながら人の役に立ち尊敬される探偵のことを、
彼は羨んでいたのかもしれない。しかしその理想を実現するには、彼は弱すぎたし幼すぎ
たのだろう。

 僕は妙義におそるおそる近づいて、その俯いた頭に手をのせていた。なにか狙いがあっ
たわけではなく、ほとんど無意識の行動だった。

「……やめてよ。気安く、触るな……」

 そう言いながら涙を流す妙義だったけれど、しかし積極的に振りほどくというようなこ
とはしようとしなかった。

 僕は妙義の真似をして、ちょっと見透かしたようなことを口にしてみる。

「探偵っていうのは、悪と対立するから正義になるわけで……。でも世の中、そんなに都
合よく事件に出くわしたりはしないからさ。だから探偵だけがいても、それは隠している
ことを暴くだけの迷惑な人になっちゃうよ」

「……」

「『精霊通信』を毎日確認してたのも、この島にはこれといった事件が起こらないから、
あのメールを通じてしか事件の発生を知ることができないからなんじゃない? そして、
あのメールが暗示する事件を解決したら、みんなに認めてもらえるかもしれないって思っ
たんじゃないのかな?」

 妙義が目を逸らして唇を噛む。どうやら図星のようだ。この子もやはり、ひかりや赤穂
さんのような優しさを本来持ち合わせていたのだ。ただその優しさを素直に表現できない
くらい幼くて、不器用だっただけで。

「けどまあ、こんな平和な島で探偵なんて目指すんじゃなくてさ。僕なんかと違って妙義
くんは頭がいいんだから、もっといろんな方法で人の役に立てるじゃない。そういう道を、
一緒に探して行こうよ」

「……ふん。余計なお世話だよ……」

 妙義は僕の手を振り払うと、そっぽを向いてしまう。うん、やっぱりこの子は攻略難易
度が高いな……。僕程度の言葉じゃ、そう簡単にはなびかないか。

 すると僕の背後にくっついていたひかりが、僕の体からちょっとだけ顔を出した。

「あの……妙義くん、ごめんなさい……」

「……べつに、キミに謝られる筋合いなんてないさ」

 たしかに、ひかりが謝るようなことはなにひとつないと思う。それでも、この場を丸く
収めるために頭を下げてくれたひかりの勇気には敬意を表したい気分だ。

 なんとなく空気が一件落着へと流れていく気配を感じて、僕は内心で胸を撫で下ろす。
そして視界の端から近づいてくる赤穂さんに気がついて、視線を向けた。

「あ、委員長。なんだか騒いじゃって、ごめんなさい」

「いえ、それはいいのですが……その……」

 赤穂さんはなんだか歯切れ悪くそう言うと、周囲を見回しつつ、おっかなびっくりとい
うような慎重さで、こう訊ねてきた。



「……あの、さっきから凪さんの姿が見当たらないのですが、どちらにいるのでしょうか
?」





 家の中をドタドタと走り回る音や、乱雑にドアを開け閉めする音が断続的に響く。廊下
を慌ただしく走っていた僕は、ちょうど赤穂さんやひかりと出くわして足を止めた。

「鏡ヶ浦はいた!?」

「いえ、トイレにも部屋にもいません!」

「な、名前を呼んでも見つからないって、おかしいんじゃないかな……」

 たしかに、広いといっても旅館じゃあるまいし、平屋の一軒家で自分の名前を叫ばれて
聞こえないなんてことはありえないだろう。

 そこへ、目元を腫らした妙義が合流してくる。

「鏡ヶ浦くんの靴が一足見当たらない。それに、玄関にこんなものが置いてあったよ」

 そう言って妙義が差し出したのは、僕のスマホだった。

 背筋にゾクリと悪寒が走る。

「まさか、外に行っちゃったんじゃ……」

 僕の呟きに、赤穂さんが息を呑む。外を見ると、霧のような雨で景色がうっすらと白ん
でしまっている。こんな天気で女子児童が外を出歩くなんて、ゾッとしない話だ。

「多分だけど、また防波堤のところにいるんじゃないかな。ちょっと見に行ってくる!」

「私も行きます!」

「ぼ、ぼくも……!」

 僕が玄関に向けて走り出すと、すぐに後ろから複数の足音がついて来る。

 靴を履きつぶしながら三人で外へと飛び出して、件の防波堤まで駆ける。しかしながら
そこに目当てに女の子の姿はなく、霧雨がしとしと降り注ぐ中で僕たちは立ち尽くしてし
まう。

 念のために防波堤の下をのぞき込んでみると、そこには先日の雨の影響で荒れ狂う高波
がテトラポッドに襲い掛かっていた。もし落っこちたのだとしたら、間違いなく助かりは
しないだろう。……いや、縁起でもないことを考えるのはやめよう。

 すると一足遅れて、防波堤に妙義が駆けつけてきた。

「……ここには、いないようだね」

 彼は人数分の傘を僕たちに手渡すと、神妙な顔つきで全員の顔を見回す。

「鏡ヶ浦くんの母親には、家で待つように頼んでおいた。とにかく心当たりを探して行こ
う」

 しかし心当たりと言っても、鏡ヶ浦と親密な付き合いをしている人間はこの中にはいな
い。そして妙義曰く、鏡ヶ浦の母親にも心当たりを尋ねたが、防波堤くらいしか思い当ら
なかったらしい。

 ここにきて、早くも手がかりがなくなってしまった。

「と、とにかくこうしていても始まりません。ここは二手に分かれて、しらみつぶしに探
しましょう!」

 そう言って赤穂さんが駆け出そうとするのを、妙義が手で制した。

「待って、委員長。まだ手がかりは一つある」

 全員の視線が彼に集中するなか、彼はまっすぐに僕を見つめてきた。

「『精霊通信』だよ」





 僕とひかりが「あっ」と声を漏らす。それはついさっき、僕自身が口に出した単語じゃ
ないか。

 スマホで件のメールを表示しようとすると、なぜかそのメールが見当たらない。あれか
ら誰かとメールをした覚えはないから、受信履歴の一番上に表示されるはずなのに……

「あのメールは受信してしばらくすると、勝手に消えるんだよ」

「ええっ!?」

 いやいや、そんな馬鹿なことがあってたまるものか。そんなの、僕の携帯がクラッキン
グを受けてるとかじゃないと説明がつかないぞ。

 でも、それじゃあメールの内容を確認することができない。鏡ヶ浦に辿りつくための、
たった一つの手がかりなのに……!

「『虹がかかるまでは、島は灰色に沈んでいます。探しものが見つからない時は、胸の中
の足跡を見ましょう。』」

 僕の袖を掴んでいたひかりが突然、すらすらとメールの内容を暗唱し始める。ひかりも
僕と同じくメールの文面は一回見ただけのはずなのに、さすがの記憶力である。

 妙義は軽く頷いて、顎に手をやる。

「私はこのメールを見たとき、“探し物”ではなく、“探しもの”と書かれていたことに
違和感を感じた。この程度なら十分あり得る変換上の差異だとは思ったのだけれど、今思
えば、これは“探し者”という意味だったんじゃないかな」

「じゃあこのメールは、鏡ヶ浦がいなくなるっていう内容のメールなの!?」

「いなくなるかどうかは、私たちの対応次第だよ。もっとも『精霊通信』で予告されたこ
とは大抵、正しく対応できなければ悲惨な結果となることが、多いのだけれど……」

 妙義の縁起でもない言葉に、全員の顔から一気に血の気が引いた。

「とにかく、このメールに従うのなら『胸の中の足跡』を見なければならないのだけれど、
これについてなにか心当たりはあるかい?」

「いや、まったく……」

 僕は俯いて、首を横に振る。そんな抽象的な言葉では、なにを示しているのかなんてわ
かるわけがない。ましてやこんな緊急事態で、常時の思考能力さえ発揮できないような状
況で……

「それじゃあ、『虹がかかるまで』というのは?」

「虹って言っても、こんな天気じゃ……」

 と言いかけて、僕の脳内に電流が閃いたような気がした。さながら全てのパズルピース
がカチリと嵌りこむかのように。

 虹、灰色、探しもの、胸の中の足跡……

「そういえばさっき鏡ヶ浦に、虹の滝について話した!」

 そして胸ポケットに入れておいたスマホの使用履歴―――これが『胸の中の足跡』とい
うことなのか―――を確認すると、今日僕が使った覚えのないマップアプリが起動されて
いることが確認された。まだ終了されないままになっていたマップアプリを呼び出すと、
『虹の滝』という文字が入力されたピンが、マップの中央に据えられていた。鏡ヶ浦が
ここの場所を確認したことは、間違いないようだ。

「鏡ヶ浦がマップで場所を確認した跡がある! きっとここにいるはずだ!」





 全員でスマホの画面をのぞき込む。すると、虹の滝の場所を確認した赤穂さんが、苦渋
の表情を浮かべた。

「ここって、私が篤実さんに教えたあそこですよね……」

「ご、ごめん。鏡ヶ浦も知ってると思ってて……」

「いえ、それは良いのですが……昨晩も夜通しで雨が降っていましたからきっと増水して
いるはずですし、この辺りは地盤が緩かったように思います。とにかく急ぎましょう!」

 僕たち四人は神社に向かって走り出す。いまこの瞬間、僕たちは目的のために一致団結
していた。先ほどまでの対立が嘘のように、みんなで協力し合っていた。これは素晴らし
いことだ。

 ……けれど走り始めてから一分後、、四人のあいだで体力の差が如実に表れてしまうの
だった。

「私は先に行ってますからねっ!?」

 男子三人がへばってしまったのを呆れ顔で見た赤穂さんは、信じられない速度で神社へ
と走っていった。うん、なんていうか、すごく死にたいです。

 どう考えても赤穂さんに追いつけそうにないので、僕は立ち止まってブロック塀に体を
預け、スマホを取り出してマップアプリを再び起動する。他の二人はそんな僕の様子を怪
訝そうに眺めつつ、足を止める。

「なにを、してるんだい、久住くん……」

 ぜぇぜぇと虫の息な妙義が、辛うじて声を絞り出す。ひかりの方は声を出す元気もない
ようで、膝に手をついて今にも倒れそうになっていた。

 僕はマップアプリを終了し、続いて電話帳を起動する。

「ここから神社の麓までは走っても十分くらいはかかる。そこからあの地獄の階段を登っ
てたら、さらに時間がかかる上に体力なんてほとんど無くなっちゃう。……これは今思い
ついたんだけど、成功すれば赤穂さんよりも早くあっちに着けるはずだよ」

 そう言って僕は、電話帳の一番上に登録されている番号にかける。藁にも縋る思いでか
けた電話は、四コール目で繋がった。

「お婆ちゃんお願い! 車で迎えに来て!!」





 早くも雨は本降りの様相を呈しており、よもやワイパーを起動しなくてはフロントガラ
スからの明瞭な視界も確保できないほどだった。余談だが、僕はこのドロドロと視界が溶
けるような大自然の流動テクスチャーがとても好きで、雨の日はこれで二時間ほど暇を潰
すことができるほどだ。

 ともあれ現在の困窮しきった緊急事態にそんな悠長なことをしている暇などはなく、さ
ながら川のように上方から水が押し寄せる通学山道を、僕たちはお婆ちゃんの運転する白
いワゴン車で登っているところだった。

「それで、どうして学校に向かっているんだい? キミがなにか訳あり顔で提案したもの
だからうっかりそれに乗ってしまったけれど、私の精神衛生上の問題を解消するために今
さらながら事情を聞かせてもらっても良いかい?」

「おい、最初の一言目だけでも会話が成立してなかった? 残りの八割は完全に無駄だっ
たでしょ」

「細かい男だな、キミも。いいからさっさと事情を説明しておくれよ」

「はいはい。……いいか、これは僕も先日知ったばかりのことなんだけど、学校と神社の
間には、あまり知名度の高くないらしい通学路が存在しているんだ。あの巫女服の……え
えと、千光寺さんが使っているのを一度見たことがある」

 そこまで話すと、僕の隣で話を聞いていたひかりが「あっ」と声を漏らした。

「たしかに、地図上で見たらけっこう近いんだね!」

 ひかりさん、あなたの頭の中には地図が表示されているんですか……?

「道らしい道じゃなくて、森の中を進むことになるんだけど……でも一度通ってみたこと
があるから迷うことはないと思う。あのときは道がわからない状態で十分くらいだったか
ら、走れば五分くらいで神社の裏庭に出られると思う。そこからさらに一分くらい走れば
、虹の滝に辿りつけるはずだ」

 今度は妙義が「ふむ……」と小さく唸って、

「なるほど。うまくすれば委員長よりもずっと早く、虹の滝とやらに到着できそうだね」

「でしょ?」

 軽くうなずいた妙義は、後部座席の後ろの荷室を覗き込む。そこにはたしか、様々な漁
業関係の工具などが収められていたはずだ。なぜかそこに手を突っ込んだ彼は、何重かに
巻かれた太いロープをふたつ引っ張り出す。見たところ、片方は数メートルほど、もう片
方は十数メートルほどの長さだった。





「久住くんのお婆さん、ちょっとこのロープをお借りしてもよろしいでしょうか?」

「うんうん、大丈夫だよぉ」

 お婆ちゃんは後ろを振り返りもせずに即答で了承してしまう。え、いいんですかほんと
に?

「……そのロープ、なにに使うの?」

「さぁ、それはわからないけれど」

「は?」

「だけど『精霊通信』で予告されているような事態だからね。なにがあっても対応できる
ように、念には念をってところさ」

「……そんな風に言われると怖くなってくるからやめてよ」

「最悪の想定をしておくことは悪いことではないよ。それで足がすくんでしまってはしょ
うがないけれどね。……だけどまぁ、きっと大丈夫だとは思うよ。久住くんがすぐに『精
霊通信』の謎を解いてくれたおかげで、おそらく最速で虹の滝まで辿りつけているだろう
からね。メールの暗示に正しく対応すれば、悪いようにはならないさ」

 逆に言えば、僕の解釈が間違っていた場合は鏡ヶ浦が危ないということになるんだけれ
ど……それこそ今さら言い出しても仕方のないことか。解を出してしまった以上は、他所
見せずに突っ走るしか道はない。

「篤実ちゃんたち、そろそろ学校に着くからねぇ」

 お婆ちゃんの言葉通り、前方には学校の校門が見え始めていた。門が閉じていたらと不
安に感じてたりもしたけれど、幸い朝のまま開きっぱなしになっているようだ。

「お婆ちゃん、ありがとう。急にごめんね」

「いいんだよぉ。それより、なにがあったかは知らないけど、危ないことはしないように
ねぇ」

 いつでも出れるようにスライドドアに手をかけていた僕の後ろで、妙義がお婆ちゃんに
視線を向ける。

「念のために、三〇分くらいはここで待機しておいてくださいますか?」

「はいはい、わかったよ。あなたも気を付けるんだよ」

「お気遣い、痛み入ります」

 そこでちょうど、車は学校の敷地内へと到着した。僕たちは傘も持たずに飛び出すと、
一直線に“通学路”へと駆け出すのだった。





 幸い森で迷うようなこともなく、“通学路”を抜けることにはすんなりと成功した。し
かしそこは体力のないもやし三兄弟こと僕たち。神社に辿りつく頃にはほとんど瀕死の状
態だった。ひかりなんか、僕と妙義が手を引いていなければ森で倒れていたことだろう。

 さらに神社の境内から森のわき道へと飛び込んで、四方八方からホワイトノイズのよう
に響く激しい雨音に囲まれながら、ぬかるんだ山道を駆け抜ける。やがて遠く聞こえてき
たのは、暴力的なまでに激しく轟く水音。本能的に危険を感じてしまうほどのそれは、ど
うやらもう近くまで迫っていたらしい虹の滝によるものだった。……もっとも、現在は島
が灰色に沈んでいるので絶景を拝むべくもないが。

 赤穂さんの予想は正しく、滝は以前見た時よりもずっと水量を増していて、そこから下
流へと流れる川は、地面とほとんど同じ高さとなり氾濫してしまっていた。

 しかし木々に囲まれたこの空間に、鏡ヶ浦の姿は見当たらない。僕は脳裏を掠める最悪
の想像を振り払うべく、なけなしの体力を振り絞る。

「鏡ヶ浦ぁああああああああああっ!!」

 滝の轟音にも負けじと絞り出した声に、しかし反応はない。もっとも僕の声が鏡ヶ浦に
届いていたところで、あの唇を動さずに発声する彼女の声がこちらに届くとも思えないの
だけれど。

 いよいよ僕が絶望的な想像に支配されて、鼻の奥がツンと痛み始めたそのとき。ひかり
が僕の袖を勢いよく引っ張った。

「篤実くん! あそこに絵の具が落ちてるよ!」

 そう言ってひかりが指さした場所を見ると、たしかに青色の絵の具チューブが泥に埋も
れかけていた。

「でかした、ひかり!」

 すぐに絵の具チューブの落ちているところまで駆け寄ったところで、しかし僕たちは息
を呑むような光景を目撃することとなる。



 どうやら雨で地盤が緩んで滑落したらしい泥の斜面。僕たちの場所から三メートルほど
下方で辛うじて斜面に食らいついている樹木に、鏡ヶ浦が座り込んでいたのだ。



「……最悪だ」

 隣にいた妙義が低い声で呟いた言葉は、しっかりと僕の耳にも届いていた。





 僕たちに気づいたらしい鏡ヶ浦が、涙でぐしゃぐしゃの顔でこちらを見上げる。そのほ
とんど動かないはずの唇が小さく動いたのを僕は見逃さなかった。もし僕の自意識過剰で
なかったなら、それは「あつみ」と発音したように見えた。

「鏡ヶ浦! すぐ助けるからじっとしてるんだよ!」

 僕の言葉に鏡ヶ浦が小さく頷いた、その時だった。鏡ヶ浦が座っていた樹木が、ずるり
と数センチ下へと滑る。一気に鏡ヶ浦や僕たちの表情に緊張が走った。

 ひかりが妙義の持つロープへ視線を向ける。

「そ、それを垂らして引っ張ろうよ! 早くしないと……」

 しかしその提案に首を振ったのは、ロープを持ってきた張本人である妙義だった。

「鏡ヶ浦くんの今の状況……体力や腕力を考えると、とてもじゃないが自力で登ってくる
なんて不可能だ。こちらから引っ張るにしても泥や雨でロープが滑るだろうし、そもそも
ロープを掴むために体重を移動しただけでも滑落を招く危険性だってある……」

 しかも滑落のせいで近くの木々はほとんど下に流されてしまっており、この傾斜の下で
轟々と響く激流に飲まれてしまったようだ。かろうじて僕たちのすぐ近くに細い木が一本
だけ残っているが、これも根が半分ほど露出しており、いつ抜けたっておかしくない状態
だった。

 妙義は苦渋の表情で言葉を続ける。

「こうなった以上は、さっきの神社で大人を探してみよう。もしかしたらこういった状況
に有効な知恵や道具を持っているかもしれない」

 なるほど、それは正しい判断だ。こういったときは子供だけで対応しようとはせずに、
大人に頼るというのが最善の策と言えるだろう。さっきまでは本当に鏡ヶ浦がここにいる
のかわからなかったので神社には寄らなかったが、事こうなってしまえば、神社に引き返
して事情を説明するのが最善策と言えるだろう。千光寺の父親は来月までいないらしいが、
あのお爺さんでも僕らなんかよりはずっと頼りになるに違いない。

 だけど。

 僕は妙義の腕から短いほうのロープをひったくって、片側を近くの頼りない木に結び付
け、もう片側を自分の左足に結び付けた。

「ちょ、なにを……!?」

 妙義の言葉はもはや聞こえない。なぜなら今この瞬間にも、鏡ヶ浦の足場の木が、いや
違う、この斜面全体がズルリと数センチずつ下がっているのだ。そして鏡ヶ浦の表情が強
張り、恐怖に染まる。

 それは僕が跳ぶことを覚悟する引き金には、十分だった。





 左足で縛ったロープを左腕にも絡ませて、勢いよく地面を蹴る。

 僕が鏡ヶ浦のすぐ近くに着地……いや、落下した衝撃で、斜面全体は大きく崩れ、鏡ヶ
浦が直前まで足場にしていた樹木はあっさりと滑り落ちて崖に消えていった。

 しかし鏡ヶ浦のことを掴まえることには無事成功し、その冷え切った小さな体を強く抱
き寄せた。僕たち二人は、一本のロープで斜面に吊り下げられている形となる。

「鏡ヶ浦、大丈夫?」

 僕が訊ねると、泥だらけの鏡ヶ浦は小さく頷く。この距離だから、彼女の体がずっと震
えているのも、ひっきりなしに嗚咽を漏らしているのもよくわかる。

「ごめん、あんまり時間がないからさ。鏡ヶ浦、がんばって、僕の体をよじ登ってほしい
んだ」

 返事を待たずに、鏡ヶ浦の股下に右腕をすべり込ませて持ち上げようと試みる。さすが
にこの状況、セクハラとかなんとか言ってはいられない。

「ぐぬぬぬぬぬッ!!」

 小学生とはいえかなり重かったが、火事場の馬鹿力というやつなのか、僕にしては信じ
られない腕力を発揮して、どうにか鏡ヶ浦の鎖骨が僕の目の前に来るくらいまでは持ち上
げることに成功した。

「ほら、このままよじ登って!」

 チラリと斜面の上方を見ると、妙義とひかりがロープを必死に手繰り寄せようとしてい
るのが見えた。おいおい、キミたちの腕力じゃ無理に決まってるだろ。それに足元が緩い
から、踏ん張るとまた地面が滑落しちゃうぞ。

「ロープは引っ張らなくていいから! 鏡ヶ浦を引っ張り上げて!」

 最初に鏡ヶ浦が留まっていたのが、上から三メートルほどの地点だった。つまり僕と鏡
ヶ浦の身長に、さらに腕の長さをプラスすればギリギリ届くラインのはずだ。

 必死に歯を食いしばって、鏡ヶ浦を上へ上へと持ち上げる。鏡ヶ浦も頑張って僕の体を
よじ登ろうとしてくれる。しばしの格闘の末、ようやく鏡ヶ浦の足が僕の肩にかかった。

「よし! そのままロープ伝いに立ち上がって。二人に引き上げてもらって!」

 妙義が慎重に上から手を伸ばして、ぎりぎり鏡ヶ浦の手首を掴んだ。しかし泥で滑るの
か何度も掴み直しながら、やっとのことで引き上げ作業が始まった。すこし鏡ヶ浦の体が
持ち上がると、ひかりも腕が届くようになり、僕の方からも鏡ヶ浦の足を下から押し上げ
る。

 そして三人の協力の末に、ついに鏡ヶ浦が斜面を登り切って、彼女の救出に成功したの
だった。





 そのとき、ズルリ、と僕の体全体が数センチ沈むのを感じた。

「篤実くん、早く登ってきて!」

 約二メートルほど上方で、ひかりが叫ぶのが聞こえた。しかし僕はそれに対して、どう
返事をしたものかと困ってしまった。そんなことができるのなら最初から鏡ヶ浦を背負っ
てよじ登っている。僕にそんな膂力がないことは、僕が一番よく知っていた。

「……久住くん」

 どうやらすべてを察したらしい妙義が、僕を鎮痛な面持ちで見下ろす。

 ロープを結んである細い木が、根本からグラグラと揺れる。さながら歯槽膿漏のコマー
シャルだ。熟れ過ぎたトマトのように。

「ごめん、今ので体力使い果たしちゃったみたいなんだ。だからみんなで神社に行って、
大人の人を呼んできてくれないかな? ついでに、弱った鏡ヶ浦を神社で休ませてきてほ
しいんだ」

 僕は白々しいセリフを吐きつつ、左足の状態を確認する。どうやら結び目が解けてしま
ったらしく、今はほとんど腕力だけで体重を支えているようなものだ。

 ひかりがオロオロと僕や妙義の顔を見比べていると、妙義がなにか覚悟を決めたよ
うな表情になって、おもむろに立ち上がった。

「久住くんの言う通りにしよう。行くよ、二人とも」

 そう言って、ひかりと鏡ヶ浦の腕を引っ張って連れていこうとする妙義。

「え、ぼ、ぼくはここに残るよっ!」

「いいからついて来るんだ。早くしないと久住くんが落ちてしまうよ」

 それは正しい言葉だったけれど、しかし真実ではない。

 僕は妙義が嘘をつくところを初めて目撃した。そしてそれは、妙義自身が先ほど否定し
た“善意の嘘”というやつだった。

 ロープを結んだ木が、ズルリと滑る。

「……はなして」

 妙義の掴んだ腕を、鏡ヶ浦が振りほどくのが見えた。僕は正直その行動に驚きつつも、
なるべく穏やかな声を心がけて呼びかける。

「鏡ヶ浦、妙義の言うことを聞いて。神社に行って、大人を呼んできて。そうすれば僕は
引っ張り上げてもら」

「うそつき!」

 僕の言葉を遮って、鏡ヶ浦の口から出たとは思えないほど大きな声が響き渡った。

 逆光と泥で表情の判然としない鏡ヶ浦は、このとき初めて言葉に感情を込めた……よう
に聞こえた。そしてそれは、いわゆる怒りの感情というやつで……

「うそつき、うそつき、うそつき……!」

 さすがにひかりも状況を察したらしく、傾斜の上からひかりと妙義がもみ合うような声
が聞こえてくる。

 鏡ヶ浦が、ロープを巻き付けた木にしがみつく。このまま木が滑落すれば、間違いなく
鏡ヶ浦も巻き込まれることになるだろう。

「妙義くん! もういいから無理やりその二人を引きずっていって! お願い!」

 しかしいつまで経っても、妙義は鏡ヶ浦を引っ張っていってはくれない。おそらくひか
りを抑え込むのに手こずっているのだろう。

 僕の体が、また数センチ沈む。……これ以上は本当に、鏡ヶ浦まで落ちてしまう。

 もともとそのつもりで跳んだのだから、そろそろ僕も覚悟を決めなければならない。





「鏡ヶ浦! えっと、べつに後悔とかはしてないけど……でも、お婆ちゃんとか、神庭姉
妹に、迷惑かけてごめんって伝えといて!」

 僕の体を探すために捜索費用がかかるかもしれないし、葬式代だってかかるだろう。そ
れ以外にもかなりの迷惑をかけてしまうことに、とても罪悪感を覚えるけど……

 双子に将来の夢を聞かれたとき、僕は特にないと答えたけれど、あれは嘘だ。あの場面
では空気を読んで言わなかっただけで、本当は密かに夢見てることがある。というより、
これといった取り柄のない男子なら誰しも一度は憧れる、当たり前のような夢だ。

 『トラックに撥ねられそうな美少女を助けて死ぬ。』それが僕のささやかな夢である。

 状況は少し違うけど、これはまさしく理想通りのシチュエーションだった。

 冷静に俯瞰すれば、単に落ちたのが鏡ヶ浦から僕に変わっただけにも思えるかもしれな
い。しかし人間的な価値で言えば、間違いなく鏡ヶ浦の死は大損失だ。その損失を考えう
る限り最小限に抑えたと考えれば、僕も跳び下りた甲斐があったというものだろう。

「それじゃあ、ばいばい」

 僕は目を閉じ、深呼吸をして……そしてロープから手を離した。

 滑り落ちていく視界は妙にスローモーションで、ああこれが噂に聞く走馬灯というやつ
なのか、などと考えながら斜面の上に視線を向けたところで……



 体にロープを巻き付けた赤穂さんが傾斜を駆け下りてくるという、もはや冗談みたいな
光景を目撃したのだった。





 信じられない速度で駆け下りてきた赤穂さんが、僕の体をがっしりと掴む。ちょうど、
さっきの僕と鏡ヶ浦の構図にほとんど重なる形となった。

「篤実さん、私の体に掴まっていてください!」

 言われるままに赤穂さんの体へ腕を回すと、彼女は二人分の体重をものともせずにロー
プを手繰り寄せ、少しずつ、しかし確実によじ登っていく。どうやら少し離れた場所の木
にロープを結びつけたらしく、けれどそれでも驚くべき速度で登っていって、数分後には
二人とも傾斜の上まで這い上がることに成功したのだった。あれ、どうしてだろう……た
った今助かったばっかりなのに、既に死にたくなってきたぞ?

 僕と赤穂さんはぜぇぜぇと肩で息をして、ほとんど這うようにしながら傾斜から離れて
いく。

「……あ、あの、赤……委員長。……その、ありが」

 赤穂さんに礼を言わなくてはと、彼女の背中に話しかけた……そのとき。



 バヂンッ!! という激しい音とともに、僕は頭から泥に突っ込んでいた。



 いわゆるビンタをされたのだということに気がついたのは、たっぷり数秒も経ってから
のことだ。

「……最低です」

 滝の轟音の中だったから声は聞こえなかったのだけれど、しかし彼女の唇はきっと、そ
う言っていたように思う。

 赤穂さんは体に巻きつけたロープをほどくと、僕に一瞥もくれないまま神社の方へと去
っていった。

 放心する僕に、続いて更なる衝撃が襲い掛かる。その正体は、鏡ヶ浦とひかりのほとん
どタックルのような抱擁だった。二人とも、せっかくの整った顔が台無しになるくらいく
しゃくしゃに顔を歪めて、それはもう激しくむせび泣いていた。そして少し離れたところ
では、妙義が腕で目元を覆っていて……

 僕なんかのためにこんなにも泣いてくれる子たちを見ていたら、自然と僕の目からも涙
があふれてきた。

 いつの間にやら雨は上がっていて、分厚い雲の切れ間から太陽が覗く。

 灰色に沈んでいた島に差し込んだ光が滝に反射し、幾重もの虹がかかっていた。





 あの『精霊通信』事件から三日が経過していた。

 疲労やストレス、そして雨や泥に体温を奪われたことなどの諸々が重なって、僕は事件
直後から高熱を出して寝込んでしまっていた。ちなみに聞くところによると、鏡ヶ浦や赤
穂さんは翌日もピンピンして登校していたそうだ。……たくましいデスネ。

 水銀式体温計を取り出して確認すると、三七度二分。この具合なら明日にでも学校へ復
帰できそうだ。

 復調したら、まずは鏡ヶ浦の家に菓子折り持って挨拶に伺わなくては。

 事件のあと鏡ヶ浦を家まで送り届けた際に、僕は生まれて初めての土下座をした。鏡ヶ
浦が失踪した原因を作ったことや、高校生としてグループ内の小学生の監督責任を果たせ
なかったことに対する謝罪だった。もちろん謝って済む問題ではないのだけれど、そこは
誠意を見せる意味でもう一度謝罪に出向こうと思っている。

 もう一度土下座をして、それから今後二度と鏡ヶ浦に近づかないことを約束すれば許し
てもらえるだろうか……いや、僕だったら一人娘をあんな目に遭わされたら切腹したって
絶対許さないだろうけど。

 それに赤穂さんにもすっかり嫌われてしまった。そういえば彼女には、しっかりとお礼
を言えていなかったっけ。また引っぱたかれるかもしれないけれど、命の恩人にはしっか
り礼を言っておかなければならないだろう。

 ……結局僕は、都会にいた頃と同じようにみんなに迷惑をかけてしまうようだ。

 僕が憂鬱な気分で天井のシミを数えていると、不意に部屋の扉がノックされる。双子は
ノックしないだろうし、お婆ちゃんか三女のどちらかだろう。

「はーい、どうぞ」

 僕が枯れた喉で返事をすると、部屋のドアが開き、そしてそこには意外な人物が現れた
のだった。

 まず真っ先に部屋に入ってきたのは、ツインテ幼女の鏡ヶ浦 凪だった。

「あつみっ!」

 とてとて小走りで近づいてきた鏡ヶ浦は、そのまま僕のベッドに飛び乗って、驚く僕に
構わず抱き付いてきた。ちっこい! やわっこい! あったかい!

 続いて部屋に入ってきたのは、淡路 ひかりだった。彼はなぜかちょっとむすっとした顔
で、ベッド脇に投げ出されていた僕の手をきゅっと握った。なんだこれ、かわいい。

「おやまあ、すっかり懐かれてしまったようだね、久住くん」

 最後に、なにやら丸めた画用紙のようなものを抱えた妙義 明が部屋に入ってきた。彼は
ドアを静かに閉めると、僕の勉強机の椅子を引き出して腰かけた。

「いわゆるお見舞いというやつに来たよ。もっともこのメンツで、キミの心が休まるかは
甚だ疑問ではあるけれど」

「……わかってるなら止めてよね」

「いやね、一応この面子で来たことには意味があるんだよ。まず一つは、写生大会の結果
についてだ」

 そう言って妙義は、丸めて持っていた画用紙を広げて僕に見せる。それはとても写実的
で、しかしおかしな絵だった。なんせモチーフが、どこかの山の斜面という地味すぎるも
のだったためだ。

「これって、もしかして……」

 呟きながら、すぐ近くにある鏡ヶ浦の顔を見つめる。以前は虚ろで焦点の合っていなか
った瞳が、今はキラキラと輝いて、しっかり僕に向けられている。





「そうさ。これを描いたのは鏡ヶ浦くんで、この絵は見事に小学生の部優秀賞という評価
を受けたんだよ」

 絵のモチーフは非常に地味なもので、山の斜面と、それから画面の中央には今にも抜け
てしまいそうな頼りない木と、それに巻き付くロープが描かれている。

 しかしそれでもこの絵は非常に魅力的で、じつに深い想いが込められている……ように
感じた。なんというか、見ているだけで心が暖かくなってくるような、そんな絵だった。

 画用紙の右下には、小さな紙が貼りつけられている。そこには、

 『題名:ありがとう』

「……どういたしまして」

 なんとも微笑ましい気分になってしまって、ベッドの上で子犬のようにすり寄ってくる
鏡ヶ浦を撫でてやる。

「ちなみに総合の部、最優秀賞という評価を受けた絵も持って来ていてね。それも鏡ヶ浦
くんが描いたものなんだよ。見たいかい?」

「うん、まあ、それはね」

「そうかい、それじゃあ見せてあげよう」

 そう言いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべた妙義が広げた画用紙には……



 僕の寝顔が超リアルに描かれていた。



 『題名:だいすき』

「いつ描いたの!?」

「あの事件の翌日も、私たちはお見舞いに来たんだけれどね。生憎、久住くんはずっと寝
たきりで目を覚ます様子がなかったものだから」

 だからって寝顔を描くことないだろ! しかもなに人の寝顔をクラス中に公開してんの
!? もうお嫁に行けないっ……!

 なんか鏡ヶ浦もちょっと照れてるし。ちくしょう、かわいいから怒るに怒れない……!

「篤実くん、ぼくも描いたんだよ!」

 そう言ってひかりが広げた画用紙には、なんとも奇妙な模様が描かれていた。

「……ええっと……面白い岩石だね。なんていうか、芸術的だよ」

「これも篤実くんの寝顔だよ!?」

 うそ、まじで? 僕って寝てる時、そんなゴローニャみたいな顔してんの?

「ありがとね、ひかり」

「あっ……えへへ」

 頭をなでてやると、ひかりもとろけるような笑顔を浮かべる。ああ、やっぱりこの子は
癒されるわぁ……

 その時、こほんと咳ばらいをした妙義が突然立ち上がった。かと思うと、僕たちの近く
まで歩み寄ってくる。

「一応、ケジメをつけておきたくって。そのために私は、今日ここに来たんだ」

 そう言うと妙義はベッド脇に正座をして、深々と頭を下げた。



「私が間違ってました、ごめんなさい」





「……え?」

「あれから久住くんの言葉や、あの日の出来事を省みたんだ。そして自分がいかに幼稚で
あるかを思い知った。あの事件は私が引き起こしたと言っても過言ではないだろう」

 いや過言だろ。事件に関しては、むしろ妙義は貢献しかしていなかったように思うけど。

 そんな僕の視線を感じたのか、妙義が小さく首を振る。

「どう考えても、久住くんが玄関で絵を描いていた以上、鏡ヶ浦くんが家を出られたタイ
ミングは私と淡路くんが口論をしていた瞬間だけだ。それに、私が鏡ヶ浦くんのことをも
っときちんと見ていれば、あの失踪を事前に止めることは十分にできただろう」

「いや、そんなこと言い出したら……」

「違うんだ、そうじゃない。あの当時、私が考えていたのは、いかに久住くんを攻撃する
かということだけだったんだ。そんなことだから、不覚にも鏡ヶ浦くんの異変に気付けな
かった」

 いやまあ、妙義が僕を攻撃するのはいつものことだったけれども……

「きっと私は、羨ましかったんだ。そして悔しかったんだ。島に来たばかりで、しかもが
っつり本性を隠して、それでもたくさんの人に囲まれていた久住くんが。私の嫌いな嘘ま
みれのキミが、それでも私よりずっと人の支持を集めていたことが、許せなかったんだ」

「……」

「だからずっと、八つ当たりしてしまった。自分はいざというとき、なにひとつ動けなか
ったくせして、足を引っ張ることだけに精を出していた。本当にちっぽけでくだらない人
間だ」

 妙義はべつに、卑屈になっているわけではないようだった。澱んでいた目はまっすぐに
僕を見ていて、冷静に自己分析した結果を報告しているだけらしい。そういうところは、
本当に尊敬する。僕には決してできない、正しさだ。

「淡路くんも、ごめんなさい。一時の感情に任せて、心無いことを言ってしまったよね。
キミのまっすぐな友情は、これで十分に思い知ったよ」

 そう言って妙義は、薄地の長そでを捲った。するとそこには、痛々しい大量の引っ掻き
傷が残されていた。ひかりが布団に顔を埋めてしまったところを見るに、おそらくあの事
件のとき、二人がもみ合ったときの傷痕なのだろう。結構手痛く暴れたなぁ……。

「そういうわけで、今までのことを謝罪しておきたかったんだ。もう一度改めて言わせて
ほしい」

 妙義はまたしても、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 僕は正直、こういう風に面と向かって謝られた経験がないので困ってしまった。都会で
は結構、謝ったら負け的な風潮もあるしなぁ。

「えっと……過ぎたことだし、気にしてないよ。」

 チラリとひかりに視線を向けると、彼も大きく頷いていた。

「……許してくれるのかい?」

「許すもなにも、べつに根に持っちゃいないよ。むしろ妙義くんの正しさには敬意を表し
てるレベルさ。その正しい言葉を正しい場面で使えるようになれば、きっと探偵にだって
なれると思うよ」

「……あ、ありがとう」

 妙義は俯いて、前髪で表情を隠してしまう。なんだかんだでまだ中学生なんだよなぁ。





「それから、久住くん……もうひとつ、言っておきたいことがあるんだ」

「え、な、なに?」

 まさか今度こそ罵倒語が飛んでくるのか……!? などと失礼なことを考えていたのだ
けれど……

「……と、友達に、なってください……」

 そう言って妙義は、恐る恐る右手を差し出してきたのだった。

 予想外と言えばあまりに予想外な言葉に、僕は一瞬、思考停止に陥ってしまった。

 よく見ると、妙義の頬はわずかに赤らんでいた。よほどの覚悟を決めての言葉だったの
だろう。そしてその言葉は実際、すごく嬉しかった。

「……これにオーケーしても、『相変わらず先に好意を示されないと好意を示せない男な
んだね』とか、言わないよね?」

「思っていても言わないさ」

 思ってはいるのかよ!!

「……えっと、うん、それじゃあ……よろしく」

 僕は妙義の差し出した手を、優しく握る。ややぎこちない握手だったけれど、お互い不
器用なのだから、最初はこんなものだろう。

 すると僕のお腹に貼りついていた鏡ヶ浦が、僕の顔を両手で掴んで、ぐいっと鏡ヶ浦の
方へ向けさせた。

「……わたしも」

「あ、うん。鏡ヶ浦も友達になろっか」

「うん。それから、なぎって呼んで」

「ああうん……わかった。これからは友達として、よろしくね、凪」

「うん。いまは、それでがまんする」

 ……んん? なに? どゆこと?

「じゃあぼくたちは親友! 親友だよねっ!?」

 ははっ、おいおいひかり、あんまりはしゃぐなよ。僕が鼻血を出しちゃうだろうが。

 とりあえず今日の用事はこんなところらしく、僕の体調を気にした妙義が二人を連れて
帰る運びとなった。

 ただし去り際に、爆弾を一つ落として行きながら。

「ところで久住くん。ずっとドアの前で待機していた委員長からなにか話があるらしいか
ら聞いてあげてよ」

「えっ」

 再び眠りに入ろうとしていた僕は慌てて飛び起きると、部屋のドアへと視線を向ける。

 するとそこには、妙義に背中を押されながら入室する赤穂さんの姿があった。





 扉が閉ざされると、二人っきりとなった室内は静寂に満たされた。

 チラリと赤穂さんへ視線を向けると、ちょうど向こうもこちらを見ていたところだっ
らしい。なんだか気まずくなって、あわてて視線をそらしてしまう。あぶねぇ、まず最初
に胸とか見てたら、二度と助けてもらえなくなるところだった。クワバラクワバラ。

 ……女子高生に助けてもらう気満々の、クズ男子高生なのだった。

「あ、あのっ!」

 僕が下種いことを考えている隙に、赤穂さんが先に沈黙を破った。視線はあっちこっち
に泳いではいるものの、とりあえず体はこちらへと向けられていた。

 赤穂さんがなにかを言おうとしていたようだが、しかし僕は、まずどうしても先んじて
彼女に礼を言っておきたくって、半ば彼女の言葉を遮る形でベッドから立ち上がった。

 そして、深々と頭を下げる。

「あのときは、助けてくれてありがとう!」

 言った。やっと言えた。ずっと言っておきたかったことが言えて、ひとまず胸につっか
えていたものが取れた気分だった。続けて、感謝のほかに謝罪もしなければならない。

「それと、でしゃばっちゃってごめん。委員長に任せておけば、もっとスムーズに解決し
たのに、引っ掻き回しちゃって……」

 自分のつま先を見ながら言葉を紡いでいたところで、ふと僕の顔に暖かい感触が触れた。
それが赤穂さんの両手だと気づいた直後、頭部をぐいっと引っ張られて直立姿勢となり、
赤穂さんの悲しそうな顔が目の前に現れた。

「……どうしてそんなことを言うんですか? そんな、まるで篤実さんが悪い人みたいに
……ぜんぜん、そんなことないのに」

「……え?」

「このあいだは、理不尽に殴ってしまって申し訳ありませんでした」

 赤穂さんの濡れた瞳が揺れ、長いまつげが震える。

「いや、でもそれは僕が……」

「はい。篤実さんがロープを手放したのは、ぜったい許しません」

「え……ロープ?」

「私が怒ったのは、篤実さんが自分からロープを手放したことです。……あとすこしでも
私が遅れていたら……」

 赤穂さんの目に涙が浮かび、頬を伝う。瞬間、いまだかつてないほどの胸の痛みが僕を
襲う。

「もう二度と、あんなことはやめてください。危ないときは、ちゃんと助けてって言って
ください!」

 僕の頬に添えられていた手が下へと下がっていき、両肩に置かれる。俯いてしまった赤
穂さんは、触れれば壊れてしまいそうなほどに儚くて……

「……ごめん。もう危ないことはしないよ」

「ではもし、また今回と同じような状況になったらどうしますか?」

「…………それは」

「それでも、また跳んじゃうんですよね?」

 僕が沈黙で肯定すると、赤穂さんはすこし困ったように、しかしいつものように柔らか
く微笑んだ。





「それでは私も……次も、その次も、必ず駆けつけますから。どこにいたって助けてみせ
ますから。ですから、今度こそ私に助けを求めてください。私に、助けさせてください」

「……委員長」

「篤実さんは、一目見た時から危なっかしい人だと思ってました。なんだか、ほっとけな
い雰囲気といいますか。ふふ、これも一目惚れって言うのでしょうか?」

 ……そういうこと言われると惚れちゃうんでやめてください。

「そのためにも、私は篤実さんの近くにいないといけませんよね。いつでもどこでも助け
られるように。ですから……」

 息のかかる距離で、赤穂さんは天使のような微笑みを浮かべて囁いた。



「私とも、友達になってくださいますか?」



 僕の肩に置かれていた赤穂さんの手が、今度は胸の辺りまで下がっていく。

「……も、もちろん。こちらこそ、願ってもないって、いいますか……」

「良かったです。しかしそれでしたら、委員長だなんて呼んでほしくありません」

「えっ?」

「友達なのですから、もっと親しい呼び方にしてほしいです……篤実さん」

 なんだこれ! なんだこれ!? なにが起こってるんだ!?

「……あ……赤穂さん?」

 とりあえず以前の呼び方に戻してみると、赤穂さんはなんとなく不服そうにしつつも、

「……とりあえずは、それで」

 と言って、手を離してくれた。これ以上接触していたら、僕のいろいろなものが危なか
ったぜ……

「ふふ、今日は勇気を出してお見舞いに来て良かったです。明さんにはお礼を言わなくて
はいけませんね」

 最初にこの部屋に入ってきたときよりも明らかに上機嫌になった赤穂さんは、軽やかな
足取りでベッドから離れ、部屋の出口へと移動した。そしてくるりと振り返ると、相も変
わらず天使の微笑みを浮かべるのだった。

「明日は、学校に来られそうですか?」

「た、たぶん……」

「そうですか。それでは、また明日お会いできるのを、楽しみにしてますね」

 赤穂さんは両手を前で揃えると、深々と頭を下げて礼をする。

「お邪魔しました」

 ……こうして、今日最後の見舞い客が退室したのだった。





 僕は先日、じつに身近なところに死というものを実感した。それは鮮明に体験として肉
体の記憶に刻み込まれており、こうして三日の時が流れた現在も、あの日の斜面を、泥を、
雨を、滝の音を、ロープの質感を、如実に忠実に想起することができるほどである。

 それだけ多大なストレスや恐怖、心的外傷じみた体験を経たところでしかし、僕がそれ
に関するなにがしかを後悔するところがあるかと問われれば、当然のごとく答えはノーで
あると即答できよう。

 むしろ逆に、あの日、あのとき、あの瞬間に、もしも万が一にも、妙義の“正しい”提
案に従った結果として鏡ヶ浦を喪うようなことがあろうものなら、僕は一生自分を許せず、
軽蔑しながら生きていくこととなっていただろう。だから僕は、何一つ後悔などしては
いなかった。仮にその結果、赤穂さんが危惧していた通りの結末を迎えたとしても。

 しかし。

 先ほどの赤穂さんの言葉を受け止めたことによって、僕は今まで考えてもみなかった可
能性というものに触れることとなった。それは、僕……久住篤実の価値に関することであ
る。

 僕のポリシーとして、極力かけがえのない存在にはならない、というものがある。なる
べく代替可能人物として存在することこそが、取り柄のない僕に課された唯一の役割であ
るということを疑いなく納得し、これまで実行してきたつもりだった。

 しかし赤穂さんは、いや、僕のために涙を流してくれたあの三人も、それからお婆ちゃ
ん、都会にいる僕の両親、雫や霞、それからもしかしたら、他の人も。僕がいなくなった
ら、悲しんでくれるんだろうか。

 さすがにここで、いざいなくなったときに悲しませないように普段から距離を置こう、
などということは考えない。そこまで僕は悟り切ってはいないつもりだし、そこまで自意
識過剰というわけでもない。僕の行動指針は自己保身であり、すべてはそこから始まり、
そこに帰結するのだ。

 だから誰にも迷惑をかけない範囲であれば、クラスの人たちの善意に甘えさせてもらっ
たりもするかもしれない。それに神庭家の人たちの好意に甘えるかもしれない。しかしそ
の分、その借りを別の形で返済すればいいのではないかとも思い始めていた。

 それが、友達というものなのではないかと、僕はらしくもなくそんなことを考え始めて
いるのだ。まったく、なかなかに甘ったれた発想であるし、都会にいたころには考えられ
ないくらい丸い考えだけれど、それだけこの島の人たちに対して信頼を向けることへの抵
抗が薄まっているということでもあるのだろう。

 だからきっと、これからも様々な人たちにたくさんの迷惑をかけることになるだろう。
そしてその分、僕もたくさんの迷惑を、喜んで引き受けていきたい。そうしていろいろな
人々と絆を築き上げていきたいと、そんなことを思ったりするのだ。

 まぁコミュ障こと僕のことだ、きっと一筋縄ではいかないだろうけれど。しかしそれで
も一歩一歩、一人一人、日進月歩で進んでいければいいなと思う。

 そんなところで、いわゆる『僕たちの冒険は始まったばかりだ!』というような月並み
な締め方ではあるけれど、この辺りで幕を下ろさせていただくとしよう。

 それでは今後は、山もなく谷もなくごくごく平穏無事で一般的で面白みに欠ける常識的
な、そんな学園生活が始めることを心より祈りつつ……

 いやしかし、僕はドタバタと階段を駆け上がってくる騒がしい妹たちの足音にやれやれ
と溜息を漏らさずにはいられない。彼女たちが運んでくるのはきっと、平穏とはかけ離れ
たものだろうはずだから。

 どうやら僕に平穏な学園生活が訪れるのは、まだまだ当分先のことであるらしい。



めでたしめでたし。




 五月も中旬といったところだろうか。僕が島を訪れてからすでに二週間以上が経とうと
している。もはや潮風の香りなどは意識してもほとんど感じないほどに嗅細胞が順応して
しまっている有様で、人間関係という最大の問題を除きさえすれば、もはやほとんどこの
島に馴染んだと言って間違いはないだろう。

 古書特有の匂いが、積層される歴史と知識の重みを空想させるような広々とした空間。
世間一般的に「図書館」と呼称されるようなその場所に、僕は妙義を連れだって訪れてい
た。

 いや違うか。妙義が僕を連れだって訪れていた。

「むぅ。今日も『精霊通信』のお告げは受信していないようだね」

 そう言って極めて残念そうに嘆息したのは、セミロングの髪型をして、全体的に色素が
薄く、体の線も細いという中性的なルックスの中学生男子である妙義 明。

「あんな大惨事が、そう何度も起こってたまるか」

 僕はあの日の泥の冷たさと滝の轟音を思い出しながら、軽く身震いする。

 しかし妙義は「なにを言っているんだい」と呆れ声を出して僕に振り返る。

「あれは極めて稀なケースだよ。というより稀でないことの方がなかったのではないかと
言ってしまっていいほどに通例を逸したケースであると言えるかな。そもそも個人の通信
端末が『精霊通信』を受信したというところからして前代未聞なんだよ。私はあれも便宜
的に『精霊通信』として扱うような発言を繰り返してはいたけれど、それに関してはまだ
謎が多いので何とも言えないというのが正直なところなのさ」

「ふぅん」

 まあそもそもというのであれば、あのメール自体がすでに謎しかないような不思議なも
のなわけだけれど。っていうか結局のところ、あれは一体誰が送信しているんだ?

「しかしまあ、あんまり積極的にそういうのに関わるのは感心しないよ。妙義は頭はいい
けれど、肉体的、体力的なハンデもあることだし、対応しきれないことだってあるだろう
しさ」

「え? そういうときは友達である久住くんを頼るよ?」

 僕は勢いよく妙義から顔を逸らした。ちょ、バッ、バッキャロウ! コミュ障をそんな
気安く友達呼ばわりするなよな! 不意打ちだったから顔が赤くなっちゃうじゃないか!

「そ、それは光栄の至りだよ……」

「?」

 妙義はキョトンと首をかしげる。おい赤穂さんみたいな可愛い仕草するなよ。お前くら
い鋭ければ、どうして僕が焦ってるのかくらい察することは簡単だろ……。

「うん、まあそれくらいは簡単なんだけどさ」

「思考を読まれた!?」

「目は口ほどにものを言うって諺があるだろう」

 おい僕の目はそんなにおしゃべりなのかよ。これは宿敵を倒すときには自分で目を潰さ
なければならないな。白面の者のごとく。

「白面の者って誰だい?」

「いや固有名詞を読み取るのはいくらなんでもおかしいぞ!? お前はやっぱり超能力者
なのか!」





「今日び探偵だって、超能力の一つも使えないと食べていけない世の中なのさ」

「ほほう、たとえば?」

「外出先で殺人事件を引き起こしたりとか」

「え! あれって探偵の仕業だったの!?」

「当たり前だろう、日本においてそんなに都合よく殺人事件に遭遇したりするわけがない
じゃないか」

「なんてことだ、とんだマッチポンプだよ……。じゃあやたら同じ警部とかが都合よく毎
回居合わせるのも超能力なの?」

「ああいや、あれは警部たちが出世のために探偵を尾行してるんだ。だから超能力ではな
く努力の賜物だね」

「いやなことを聞いた!!」

 静かな図書室でうっかり大声で突っ込んでしまう僕なのだった。っていうか内弁慶のコ
ミュ障であるところの僕は、気兼ねせずに話せる人とは大抵こういうテンションなのであ
る。妙義との会話は楽しいし。

「しかし例の事件と言えば、たしかキミは鏡ヶ浦くんの家に謝罪に行って、二度と鏡ヶ浦
くんとは接触しないというようなことを言いに行ったのではなかったっけ?」

「ああ、それね。うん、たしかに言いに行ったよ。っていうか実際に凪のお母さんやお婆
ちゃんに直接言ったよ。地面に額を擦り付けながらね」

「その割には、今日だって鏡ヶ浦くんは久住くんにべったりだったように見えたけれど」

「二度と接触しませんから許してくださいと土下座したら、凪が泣いちゃってさ。それで
なんやかんやあった挙句に、うちの娘をよろしくお願いしますって言われちゃったんだ」

 それに、もともと鏡ヶ浦家は僕のことを感謝こそすれ恨む筋合いはない、みたいなスタ
ンスだったらしいし。なんて器の広い人たちなんだろう。

「なるほどね、まあそうなるだろうとは思っていたけれど」

「それでその日、凪の家に泊まったときに湯船の中でいろいろ話し合ったんだけどさ。
むしろ凪と関わらないようにするのは逃げであって、本当に責任を取るつもりなら一生
面倒みるくらいの覚悟じゃないとダメだって諭されちゃったよ。あはは」

「……んん?」

「それに布団の中では、具体的に将来設計みたいな話をされちゃってさ。凪がそういう冗
談を言う子だとは知らなかったから、凪の意外な一面を見れて大きな収穫だったよ」

「…………んんん?」

 あれ、なぜだろう。妙義が首を傾げすぎてフクロウみたいになっている。そこはかとな
く人体の神秘を感じる奇跡的な首の角度である。

 妙義は恐る恐るといった表情で、慎重に言葉を選びながら口を開く。

「あの、私の聞き間違いでなければ、まるで一緒にお風呂に……」

 妙義がなにかおかしなことを言おうとした、その時である。突然僕の肩にポンと手が置
かれた。

 驚いて振り返ると、そこには文学少女、嬉野 汐里さんが立っていた。

 前髪をも巻き込んだ、大きな二つの三つ編み。シャープなフレームの眼鏡。たゆんたゆ
んな一部の脂肪。穏やかな微笑みを浮かべた嬉野さんは、にっこりしながら口を開いた。

「ここ、図書館だから……ね?」

 ゴゴゴゴゴ、という擬音でも見えてきそうな、言い知れない威圧感を感じた僕たちは、
そそくさと図書館をあとにするのだった。





 海沿いの道に壁のように据えられた防波堤を、僕は両腕を広げてバランスを取りながら
歩いて行く。左側には一メートルちょっと下を妙義が歩いていて、右側では遥か下方でテ
トラポッドが波を砕いている。気分はさながららんま1/2(登下校中)だ。

「久住くん、何度も言うけど危ないよ。そこから落ちたら、さしもの委員長でも助けるの
は非常に困難を極めるだろう」

「なになに? 心配してくれてるの?」

「うん。キミが死んだら私は泣くよ」

「……うぅ」

 からかったつもりが、逆にコテンパンにされたでござる。

 僕はおとなしく防波堤から飛び降りて、妙義のすぐ後ろに着地した。

「そういえばさ、妙義って泳げるの?」

 話の流れで、ふと思いついたことを問いかけてみる。妙義は澱んだ目をしばし丸くして、
しかしすぐにいつもの無気力な表情に戻った。

「この島ではね、夏場の体育は海での水泳授業なんだよ。だから泳げない人は……まあほ
とんどいないかな」

 なんか今の言い回し、引っかかるな……おそらく都会出身のひかりが泳げないことを気
遣ったのだろうけれど。

「まあ泳力はピンキリだけどね。委員長のように海底を歩ける新人類もいれば、私のよう
に五〇メートル泳ぐのがせいぜいという者もいる。海沿いの学校では定番の、着衣水泳の
授業もあったりするけれど……そういう久住くんこそ泳げるのかい?」

「まあ普通程度には。小学生の頃にはスイミングスクールに通っていたから、ゴーグルさ
えあればそれなりには泳げるかな」

 っていうか、それよりも着衣水泳という単語のほうが気にかかる。え、赤穂さんが服を
着たまま全身濡れ透けになるんですか? なにそれ超高まるんですけど! ここがユート
ピアだったのか。

 ……海底を歩くとかいう単語は、僕の鼓膜がカットしました。

「そっかぁ、まだまだ僕の知らない島の風習があるんだね。他に、早いうちに知っておく
べき風習とかってあったりするの?」

 僕が尋ねると、妙義は虚空を見つめながら「ふむ……」と小さく唸って、

「聞くところによると、もうすぐ“アンチャン”が帰ってくるらしいよ」

「“アンチャン”……?」

 なんだか妙義の口から出るには似つかわしくない響きの言葉に、僕は思わず聞き返した。

「本名は“鬼ヶ城 獅子彦”といって、褐色の肌に、身の丈七尺二寸、筋骨隆々、サングラ
スにスキンヘッドという男だよ」

「おい身の丈七尺二寸ってなんだよ風魔小太郎かよ! なんでそんなゴリゴリの名前して
んのに一切名前負けしてないんだよ、名が体を表しすぎだろ!」

「そのゴリゴリの名前で人を威圧してしまうのが嫌だから、島民には“アンチャン”と呼
ばせているのだそうだよ。ちなみに名前で呼ぶとアイアンクローで足が宙に浮くらしい」

「そんなことしてるから恐れられるのではないでしょうか!?」

 極力関わり合いになりたくない人だった。っていうか全力で関わらないように避けよう
とここに誓った。

「話してみると気のいい人だけれどね。裏表もないし、少なくとも久住くんよりは人間が
できてると思うよ」

 妙義は相変わらずの正直さ加減だった。まあ、友達同士で言いたいことも言えずに馴れ
合うのは気持ち悪いから、むしろそっちのほうがいいけどさ。

 それに僕より人間ができてないやつなんて、生まれてこの方 数人しか出会ったことが
ないし。





「……ん? ちょっと待ってよ妙義。どうしてアンチャンが帰ってくることを、早めに僕
が知っておくべきなの? っていうかアンチャンはどこに行ってたの?」

「たしか、自転車で日本一周の旅に出ていたんだったかな。それがもうすぐ終わって帰っ
てくると、クラスメイトでありアンチャンの弟である鬼ヶ城 桜香くんが言っていたのを耳
にしてね。それとアンチャンの帰還について知っておくべきだという理由だけど、それは
『アンチャン's レディオ』が再開されるだろうからさ」

「『アンチャン's レディオ』?」

 ……なんだか嫌な予感がする。そしてこういうときの予感というのは、得てして的中し
てしまうものなのだ。

「ざっくり言ってしまえば、島民をゲストに招いて放送するFMラジオ番組さ。そしてこの
ラジオの一番の醍醐味は、ゲストの知られざる一面を明らかにして、より島民同士の親睦
を深めようというものなのさ」

 ええっと……それはつまり。

「そんな趣旨を掲げるアンチャンが島に帰ってきたときに、都会から来たばかりで島に馴
染み切っていない少年がいたら……まず真っ先にロックオンされてしまうだろうね」

 ですよねー……。

 その瞬間、僕の脳裏に蘇るのは中学生のころの給食放送の記憶だった。僕は半ば強引に
押し付けられた図書委員長という立場で放送にゲストとして呼ばれ、そこで緊張のあまり
十分間黙るという、もはや放送事故を通り越して「あれ、今日って放送ないんだ?」と思
われるほどの大失態を演じたのだった。

 こうやって数少ない友達と話していると忘れがちになるが、僕の本質は真面目系クズの
コミュ障なのである。

「さらに言えば、島民は一人一曲ずつ、自分で作詞から作曲、歌唱までしたカセットテー
プを残す習慣なのだけれど……ラジオの合間でそれが流れることになるんだよ」

 ひぎぃ!!

「……まあ、まだ島に来たばかりということを考慮してくれるとは思うけれど。一応その
あたりのことも頭の片隅に置いておくといいよ」

「……ありがと」

 こりゃあ、双子たちの漫画原稿をチェックしてあげてる暇はないな。そっちは嬉野さん
に任せて、僕は自分のことに集中しよう。歌には自信があるけれど、作詞と作曲は如何と
もしがたい。

 たしか以前コラボした歌い手のさんがボカロPでもあったはずから、その人に相談して
みようかな……。あの動画は結構伸びたし、オリジナル曲でまたコラボしませんかって持
ち掛ければワンチャンあるかもしれない。

「作曲って、妙義も自分だけでやったの?」

「いや、僕も含めて大抵の人は花巻くんに相談しているよ。彼女の家系は音楽に造詣が深
くてね。そして彼女自身も歌やギターが達者なんだ」

 また聞いたことのない名前が出てきたぞ……。





「まあそう急くこともないだろう。なにか困ったら、私が口八丁でどうにかしてあげるか
らさ」

「う、うん……そのときはよろしく」

 なんとも頼りになる中学生である。

 そうだ、どの程度の曲を期待されているのかを確かめるために、妙義が作ったという曲
を聞かせてもらえないかな。せっかくガチな曲を作ったのに、みんなの曲が学校の校歌み
たいなのだったら逆に恥ずかしいし。

「ねぇ、妙」

「ああそうだ、急用を思い出したのでそろそろ失礼させてもらうよ。いやはや申し訳ない
ね」

「え、あ、そうなんだ。じゃあ最後に一つだけ、妙義の」

「それじゃあまた明日。なるべく力になれることは協力するから、へこたれないで頑張る
んだよ」

 そう言い残すと、妙義は競歩の如きスピードで去っていった。

 うん、まあ……気持ちはわからないでもないよ。





 神庭家の居間はとても広い。サマーウォーズでしか見たことのないような吹き抜けの和
室には、大きなテーブルと五枚の座布団、アンティークのソファや、オーパーツじみたダ
イヤル式ブラウン管テレビなどが配置されている。

 そして僕は現在、すっかり指定席となった自分の座布団に正座をして、動かずにじっと
しているのだった。これはべつに暇を持て余しているとかそういったわけではなく、ただ
じっとしていろと命じられたからそれに従っているだけなのである。

 テーブルには血まみれのティッシュが大量に丸められており、そして今も新たなティッ
シュが箱から引き出され、トントンと僕の額に優しくあてがわれていた。

「痛っ」

「動かないでください」

 正座している僕の目の前で、神庭家の三女が淡泊な声を発する。

 神庭家三女、神庭氷雨。今日は黒のワンピースに灰色のカーディガンという相変わらず
の背伸びガーリーファッションで、髪型はお団子ヘアー。彼女の髪がアップになるのは珍
しいので、ちょっとどぎまぎしてしまったのは内緒だ。

 この子は姉二人と違って僕に心を開く気配が微塵もないので、いっしょに住んでいても
身近な存在だとは思えず、だから妹ではなく一人の女の子として意識してしまいがちだ。
もしもこの子が小学生並みに小柄じゃなかったら、いろいろ危なかったかもしれない。

 そんな三女は、血を吸ったティッシュをテーブルに放り捨てると、十五センチ四方の木
箱を開いた。中には包帯や絆創膏などが収まっており、どうやらそれは救急箱らしい。そ
こから取り出したガーゼに消毒液を染み込ませ、三女は僕の額にピトピトと押し付ける。

「うぐっ……」

「もう終わりますから」

 言葉通り、三女は消毒を終えた傷口に新たなガーゼをあててテープで貼り付けると、救
急箱をぱたんと閉じる。

 そして、うっすらと微笑んだ。

「はい、おしまい」

 不覚にも、その笑みにすこしドキリとしてしまう。

「……あ、ありがとう」

 僕は妙に気まずい気分になって目をそらすと、手当てしてもらった額に手をやって、ガ
ーゼを軽く撫でる。

 ……顔が赤くなってなければいいんだけど。





「それで」

 三女の声色が急激に冷えたものになり、僕は一気に背筋を伸ばした。三女の瞳はすでに
氷点下を下回っている。

「なにがあったんですか? おでこからあんなに血を出して、顔じゅう血だらけで帰って
くるなんて……それにどうやら、肩も痛めてるみたいですし」

 僕が帰ってきたとき、居間には三女しかいなかった。お婆ちゃんはお風呂の掃除をして
おり、双子はまだ帰ってきていないらしい。そして居間に現れた僕が顔面血塗れなのを見
て、三女は「ひゃあっ!?」と叫びながら腰を抜かしてしまったのだった。普段のクール
さとのギャップで、ちょっと胸キュンしてしまった。

 しかしそれを怒るでもなく、むしろ心配そうな顔で救急箱を取り出して手当てしてくれ
たこの子は、ほんまにええ子やで……

 僕は怪我の理由を思い出す。右肩は、悪霊に憑りつかれたから。額は、黒歴史から逃れ
るため。うん、こんなの三女に説明できるわけがないねっ!

「……えっと……転んじゃって」

「……転んだ?」

 三女の視線がさらに冷え込み、そろそろドラゴンタイプなら即死するくらいの冷気にな
ってまいりました。

「……は、はい……それはもう、奇妙な転び方を……」

「……」

 三女の鋭い視線が、一瞬だけ緩む。

「もしかして、誰にも言うなと脅されてるんですか? 相手は誰ですか?」

 その言葉で、三女がなにを考えているかがようやくわかった。

「い、いや、ケンカとかじゃないから! イジメでもないし! これはほんと、僕の自業
自得だよ」

「……そうですか」

 三女は淡泊にそう言うと、テーブルに散らかった血塗れティッシュを両手ですくった。

「あ、いやこれくらいは、僕が……」

「いいから座っててください」

「……はい」

 三女の殺人的な目つきに威圧されて、浮かせた腰を再び下ろし正座する男子高校生なの
だった。死にたい。

 ティッシュや救急箱を片付けた三女は手を洗ってから、再び居間へと戻ってきた。三女
がいないあいだに、手当てのために接近していた僕たちの座布団を一メートルほど離して
おくことは忘れない。さすがは僕、紳士マスターである。

 三女が座布団に座る直前にちらりと僕に向けた視線は、「わかってるじゃない愚民風情
が」というものだったのだろう。さすがに居候としていろいろと弁えてますとも。

 そして訪れる沈黙。

「……」

「……」

 そもそも僕たちは二人とも、そんなに饒舌なほうではない。もしもここに双子たちがい
たならば、むしろ騒がしいくらいになるのだろうけれど、僕たち二人のあいだにこれとい
った会話が生まれるということはまずありえない。せいぜい業務連絡とかその辺りが関の
山だ。

 それに、お互いに距離を詰めようなどとは考えていないというのもある。僕にとって三
女は、例えるならばお婆ちゃんちに住んでる猫みたいなものだろうか。そして三女にとっ
て僕という存在は、急に家に転がり込んできた迷惑な男といったところだろう。

 だから僕たちの距離は、この決定的な一メートルに分かたれているのだ。





「……学校は」

「え?」

 しかしそこで、予想だにしない出来事が発生した。なんと三女のほうから口を開いたの
である。

「学校は、楽しいですか?」

「……えっと。それって、もしかして僕に、話しかけてる?」

「他に誰かいますか?」

 ぎろりと三女が僕をにらみつける。僕の防御力が一段階下がった。

「えっと……うん、まあ、それなりに……。友達も、できたし」

「そうですか」

「うん……」

「……」

「……」

 なんなんだよこの数年ぶりに会話した親父と息子みたいな会話は!? なんて言うのが
正解だったの!?

「……ではなにか、困ったことはありませんか?」

 三女はなおも続けてくる。意図はよくわからないが、もしかして僕を心配してくれてい
るのだろうか……? きっとまたお婆ちゃんにでも聞けって言われたんだろうけど。

「最近はちょっと、困ってることがありすぎて困ってるところかなぁ……あはは」

「よければ相談に乗りますが」

「え、いや、いいよ……なんか悪いし。雫か霞にでも相談してみるよ。神庭さんは、そん
な気を遣ってくれなくて大丈夫だよ」

 ほとんど接点のない僕にまでそんなことを言ってくれるなんて、ほんとに良い子だなぁ。



 ……とか考えていたら、三女が突然テーブルを「ドガンッ!!」と叩きつけた。



 僕は死ぬほどびっくりして跳びはねる。そして恐る恐る、隣の三女に首を向けると、彼
女はいまだかつてないくらい怖い顔をしている。僕の素早さが二段階下がった。

「いいから。相談してください。今すぐに。速やかに」

 一字一句を僕の耳に叩き付けるような、暴力的な発音だった。あかん、これ従わなかっ
たら殺られるヤツや。

 しょうがない、ここは遠慮とかそんなこと言ってられる場面ではなさそうだし、双子た
ちに相談するつもりだったことを話してみよう。

「う、あ、あの、それじゃあ……この島の人たちって、その、自分で曲を作って、歌った
りするって聞いたんだけど……みんなはどの程度の曲を、作ってるのか知りたいから……
もしよければ、神庭さんの曲を、聞かせてもらいたいなぁ……なんて」

「…………」

「い、いや、ダメなら全然……雫とか霞とか、他の人にお願いするから……」

 三女は僕の話を聞き終えると、しばし瞑目する。そして突然立ち上がったかと思うと、

「わかりました。私の部屋に来てください」

 返事を待たず、三女は踵を返して居間を出ていった。僕はどうしたものかと迷っていた
が、薄暗い廊下の奥から「はやく」という氷点下の声が聞こえたため、そそくさと彼女の
後に続くのだった。




申し訳ありません、ショッカーについて誤解しておりました……

空ちゃんは(真実か否かはさておき)「イーッ」って叫ぶ黒いのなら倒せる、というニュアンスで言ったのだと脳内補完お願いしますm(__)m




 僕のイメージでは、三女の部屋はかなり質素で簡素なものだと思っていたのだけれど、
それは大きな間違いだった。いざ部屋に入ってみると、とても女の子らしい、ファンシー
な内装だったのだ。

 全体的にピンクと水色のカラーリングで、ところどころにぬいぐるみや、そしてアイド
ルのポスターなんかが貼られている。三女にスマホを貸すのがもう日常的になりつつある
現在、検索履歴で三女がアイドル好きというのは知っていたけれど、いざこうして目の当
たりにすると、やっぱり年相応の女の子なんだなと、妙に安心してしまう自分がいた。

「あ、あんまりじろじろ見ないでください……」

 押入れの中を探っていた三女が、ちょっと気まずげに呟く。おおっと、紳士の僕とした
ことがうっかり。

 僕は床に正座すると、床の一点を見つめて心を無にする。これが紳士流の待機スタイル
だ。

 そうしてしばらくジェントルスタンバイを続けていると、やがて三女は押入れからラジ
カセと、そしてガムテープでぐるぐる巻きにされたビニール袋を取り出した。

「あの、はじめに言っておきますけど……」

 珍しく三女は落ち着きのない様子で、視線をあっちこっちさせながら、ガムテープの封
を剥がしていく。どうやらあの中に封印されているのが、三女の歌声を録音したカセット
テープのようだった。……なんでそんな念入りに封印してるの?

「わ、わらわないで、くださいね……?」

 ガムテ封印をすべて剥がし終え、カセットテープを取り出した三女。そしてそれをラジ
カセにセットすると、ちらりと僕の表情を窺ってから、再生ボタンを押した。

 伴奏は、とても静かなピアノだった。てっきり、ギターを弾けるっていうなんとかちゃ
んの伴奏が来ると思っていたので少し意表を突かれたが、このピアノもかなりの腕前で、
聴く者を曲の世界に引き込むような魅力的な音色だった。

 姉である双子をして天才と言わしめる、神庭氷雨の歌声に僕の期待は最高潮を迎える。

 伴奏で僕の心は完全に掴まれた……、さあ、曲が始まる……!



『とじぃーきぃったぁー、カーテンにぃー、うつるぅーさめたしずくぅー』



 いっそ冗談みたいな、超がつくほどの音痴だった。





「……」

「……」

 もうそこからの歌詞は耳に入ってこなかった。なぜかって? そりゃアナタ、この曲を
聞き終えたあと、彼女にどんな言葉をかけるべきかを熟考していたからに決まっているじゃ
ありませんか。

①「な、なかなか良かったね、うん! そ、その歳にしては、かなりの歌声だよ!」

②「ピアノって誰が演奏してるの? 声も歌詞も綺麗だし、聞き惚れちゃったよ!」

③「ずこーっ! いやアンタ音痴なんかいっ!」

 あ、ダメだわ。これ全部不正解だわ。現実は非常である。

 カシャン、という音とともに、テープの再生が終わった。

「……」

「……」

 耳まで真っ赤にした三女が、両手で顔を覆っている。ほっとけばそのうち湯気でも出そ
うな勢いだった。

 いや、どうすんだよこの空気……

「えっと……い、意外とお茶目なところもあるんだねっ! なんか、完璧な人ってイメー
ジだったから、親近感が湧いたっていうか……!」

 我ながら機転の利いたナイスな言葉をかけてみたものの、しかし三女が茹でダコ状態か
ら復帰する気配は皆無だった。

「す、すごく参考になったよ。聴かせたくなかっただろうに、僕のためにわざわざ聴かせ
てくれて、ありがとう」

「……だって、どっちにしても姉さんたちに相談したら、きっと私の曲を聴こうって言い
出すから……」

 たしかに言い出しそうだけれども!

「あはは……まあ、べつに歌がちょっとアレでも、死ぬわけじゃないし、いいじゃない」

「よくないんですっ!」

 顔を覆っていた手をどけて、三女は僕をキッとにらみつける。しかし今回に限っては、
その視線が恐ろしいとは感じなかった。ちっちゃな女の子が顔を真っ赤にして涙目で睨ん
できても、それは可愛いだけなのだ。

 けれど、ただ自分の欠点を晒されたことを恥じているだけとは思えない剣幕だった。な
んというか、もっと死活問題に直面しているかのような……

「でも、歌手になりたいとかでもない限りは、そんな……」

 と言いかけて、ハッと口を噤んだ。この部屋の壁を埋め尽くしているポスターに視線を
やって、もしやと三女に向き直る。

「あの、もしかして……アイドルになりたい、とか……?」

 僕が探るように、そろりと訊ねてみると……

 ボンッ、と三女の顔がいよいよ真っ赤に染まった。そして傍らのベッドの布団に頭を突っ
込んで、足をバタバタさせる。ちょっ、見えそう見えそう! なにがとは言わないけど、
イロイロ見えそうだからやめなさいっ! 白!





「そ、そっか……。それはたしかに、問題かもね……」

 音痴を売りにすることはできないこともないけれど、それではきっとバラエティ寄りの
活動になってしまうだろう。そしてそれは、三女の憧れたキラキラ輝くアイドル像とは違
ってしまうはずだ。スマホの履歴を見る限り、三女は歌って踊って笑顔を振りまくアイド
ルに憧れているはずなのだから。

「けどほら、物理的にハンデがあるってわけじゃないんだしさ! きっと練習すれば上達
するよ!」

 薄っぺらい気休めの言葉をかけてみるが、三女は布団から頭を出してはくれない。こう
なったのは僕のせいだし、なんとかして彼女を元気づけなくては……

「……ぼ、僕もじつは歌が苦手だったんだけどさ。でもネットでトレーニング法とか探し
たりして、自分の部屋で布団をかぶって発声トレーニングとかして……そしたら今では、
そこそこ歌えるようになったんだよ」

 布団と一体化してしまった三女が、ぴくりと反応を示した。お、これはイケるか……?

「なんならトレーニングメニューとかも作って、僕が指導してあげても……なぁんて」

「ほ、ほんとにっ!?」

 バサッと布団が宙を舞う。涙目の三女が、かつてないほどに瞳を輝かせていた。

 圧倒的墓穴の予感ッ!!

「え、いや、今のは、なんというか、その……言葉の綾といいますか……」

 三女の喜びに満ちた表情に、影が差す。

「お、おねがいします……私に、歌を教えてください!」

 ついに深々と頭まで下げる三女に、僕は「うぐっ」とたじろぐ。くそぉ……し、しかし
正直めんどくさい……!! 最近ただでさえ忙しいのにっ!

「なんでもします! 肩を揉んであげます! 耳かきもします! お背中も流します!」

 な、なんだってぇ!? ほんとにいいんですか!? い、いやいや、僕は紳士! そん
な甘言には惑わされないぞ!

「断ったら、委員長と淡路くんにあることないこと吹き込みます!」

 それは世間一般的に言うところの脅迫というヤツではないでしょうかーッ!?

 うぐぐぐぐぐぐ…………!!





「…………わ、わかりました」

 僕は……負けた。

 しかし勘違いしないでほしい。これは脅迫に屈したのであって、誘惑に屈したのではな
いということを、僕は声を大にして主張したい。

「やった! えへへ、ありがとうございます、兄さん!」

「え?」

「あっ……」

 再び布団をかぶってしまう三女なのだった。なにこれ、今のを狙ってやったとしたら、
とんだ天然たらしやで。

 しばらくして、もぞもぞと布団から顔を出す三女。

「姉さんたちは名前で呼んで、私だけ“神庭さん”というのはおかしいと思います」

「えらい唐突だね……」

「唐突じゃありません、ずっと思っていました。それに“久住さん”というのもおかしい
と思います。ですので、私はこれから“兄さん”と呼ぼうと思いますが、なにか異論はあ
りますか?」

 異論があるか聞いているのに、一切の異論は認めないみたいな目をするのはどうかと思
います。

「じゃあこれからは僕も、氷雨ちゃんって……」

「呼び捨て」

「……氷雨」

 三女は……いや、氷雨はちょっと照れくさそうにはにかむと、おもむろに立ち上がった。

「そろそろ下に行きましょうか―――兄さん」

 この呼ばれかたも、彼女の笑顔も……しばらくは慣れそうにない。





 なかなか類を見ないほどのコミュ障であるところの僕は、この島の子たちのように純粋
で優しい人たちに囲まれていなければ、本当に友達というものができなかった。

 実際、小中学校では友達がほぼ皆無で、幼稚園の頃に家が近かったという理由で仲良く
なった友人が、たった一人いるだけだった。あとはたまに教室で話す程度の男子が数人い
るくらいか。

 しかしそれでも僕は恵まれているほうだと思っていたし、そのたった一人とたまに遊ぶ
ことができれば幸せだったのだ。

 けれど中学二年のある日、世間でいうところの“いじめ”というものが始まった。もち
ろんターゲットは僕こと久住篤実で、薄々覚悟はしていたそれが始まった瞬間に、そのた
った一人の友人とも一方的に縁を切った。

 現実に行われるいじめというのは、特殊な例を除きあまりエスカレートはしないものだ。
陰湿ではあるものの、ドラマやなんかで見られるような過激なものはそう多くはない。

 僕の場合もその例に漏れず、ガラスハートの僕でさえも不登校になるようなこともなく
中学校を無事に卒業した。心身ともに傷だらけではあったけれど、卒業すればそれで悪夢
が終わると信じていた。だからその二年間を必死に耐え抜いたのだ。

 唯一の友人は、僕と同じ高校に進学した。そしてなぜか電話越しに謝られてしまった。
どうやら二年間、ずっと僕のいじめに心を痛めていたらしい。それに対して僕は、なんら
悪意的な感情を抱くこともなく素直に感動して許した。むしろ感謝さえした。

 しかしながら子供というのはどこでも同じようなものであるらしく、わざわざ知り合い
のいない遠くの高校に進んだというのに、やはりそこでもいじめというものが発生してし
まった。そしてそういう星のもとに生まれついてしまったのか、やはりそのターゲットと
なるのは僕だった。

 だけど今回はすこしばかり展開が違った。僕の知らないところで、僕をかばってしまっ
たらしい友人がいじめのターゲットにされ、結果的にその子は登校拒否になってしまった
のだ。

 いわゆるリア充であったその子には荷が勝ちすぎていたのか、それとも新しいいじめが
過激だったのか、それはよくわからない。けれど当然のことながら、僕をかばってくれた
らしい友人には心から感謝したし、そのいじめの主犯たちに対してはごくごく自然に殺意
を抱いた。

 しかし彼らを粛清するあたって僕が手を汚すことは、友人にも、そして僕の両親にも重
荷を背負わせてしまうことになるだろう。それはいただけないと思った。

 だから僕は、彼らに“赤目さま”を呼び出させる手引きをしたのだ。





 なんだか久々に嫌な夢を見たような気がして、今日の寝覚めは最悪だった。

 しかしお婆ちゃんの激ウマ料理を口にした瞬間、そんな気分もどっかに吹っ飛んでしま
った。さながら楽園を駆け抜けているかのような爽快感……僕には料理漫画の審査員の才
能があるのかもしれない。さすがに料理のリアクションで照明に張り付いて高速回転した
り、天国まで飛んでいくのは無理だけど。

 都会にいた頃の朝食はチョココロネオンリーだったけれど、いやほんとに料理は人格形
成に大きく関わっていると思います。マジで。

 食事を済ませ、居間で持ち物の点検をしていると、ちょんちょんと肩をつつかれた。

「兄さん、今日のお弁当です」

 振り返るとそこには、結んだ髪を右肩から前に垂らしている氷雨の姿があった。今日は
青を基調にしたチェック柄のチュニックで、白のニーハイソックスを履いている。なんだ
か今日はトクベツ大人っぽい雰囲気だった。

「あ、ありがと……氷雨」

 あんまり直視するとドギマギしてしまいそうなので、僕は目をそらしつつ弁当箱を受け
取る。すると視線の先ではちょうど双子たちがこちらに視線を注いでいて、心なしかその
目つきは冷ややかだった。ちょ、え、なんで……?

 そういえば氷雨が僕のお弁当を作ってくれるのは四月までという約束だったのだけれど、
彼女が自分のお弁当を作っているのは花嫁修業の一環としてらしく、だからふざけたり
冗談を言ったりしない僕に、感想を聞かせてほしいという理由で今も続けられているのだ
った。

 まあ僕にとっても得しかないわけで、まったくもって文句はない。なんなら既に胃袋を
つかまれている説も濃厚だ。やれやれ、市販の食べ物をおいしく感じなくなってしまった
らどうするつもりなのか。僕はどうせ生涯独身なので、それは本当に困るんですが。

 荷物の点検も終わり、僕はバッグを肩に提げる。今日は日直なので、妹たちよりも早め
に登校しなければならないのだ。まあ日直といってもほとんど赤穂さんがやってしまうの
でやることはないのだが、だからといって仕事を放棄するなんてことは真面目系クズであ
るところの僕にはできっこないのだ。

 玄関で靴を履き、すりガラスのはめ込まれた引き戸をガタゴトと響かせながら横にスラ
イドさせた。さあ、今日も一日が始まるぞ……!



 扉を開けた途端、庭先でインターホンと睨めっこしていたゴスロリ少女、鳥羽 聖とば
っちり目が合ってしまった。





 もともと病的なまでに白いと思っていた肌は、晴れ空の下で見るとさらに驚くほど白い。
透き通るような、という形容がぴったりなその白は、僕と目が合うや否や、みるみる赤
く染まっていく。

「ま、また会ったわねっ! ふふふ……これも刻の巡りあわせというものかしら……」

 いやいやいや……玄関前で待機しといてなに言ってるんだコイツ。

 今日は日差しも強く、いくら五月中旬といってもそれなりに暖かい。それなのに鳥羽は、
いくらフリフリの日傘を差しているとはいえ、長袖にタイツに手袋まで装備して、もう
肌が露出している部分が顔しかないような状態となっていた。なんなの? 修行なの?

 しかし彼女はそんな状態でも、傲岸不遜な態度を崩さない。

「ふふふ、さしもの貴方もこの邂逅は予期していなかったようね。驚きで声も出ないのか
しら?」

 たしかにこの遭遇は予期していなかったけれど、しかしながら彼女のほうから再び接触
してきた場合の対処についてはすでに考えてある。

「……」

 そう、ガン無視だ。

「今日も貴方は下等な生命体のペルソナを被って日常を送ろうというのかしら? まあ
それがこの現代において生きやすいというのは認めるけれどね」

「……」

「し、しかしながら、貴方ほどの実力があれば、力によって覇道を突き進むことも可能よ。
この私の助力があればね。くすくす」

「……」

「……ふふふ、き、昨日はおかしなことを言っていたけれど、この世界で稀少な同胞であ
るこの私と接触を断つという宣言をしてしまったことに、そろそろ後悔している頃かと思
って、こちらから迎えに来て差し上げたわ」

「……」

「……なんなら、私の眷属としてあげてもいいわよ! それも、奉仕種族としての眷属で
はなく、親族や仲間という意味の眷属にね! これはとても誉れ高いことよ、誇っていい
わ!」

「……」

「……な、なにか言葉はないのかしら? 嬉しすぎて、言葉もないということ?」

「……」

「…………ね、ねえ……」

「……」

「…………ぐすっ……なにか言ってくださいよぉ……」

 僕は深々とため息をついて、仕方なく鳥羽の顔へ視線を向けた。すると鳥羽は潤んだ瞳
をパァッと輝かせる。





「それで、僕を迎えに来たってことでいいの? 今日は日直だから、ちょっと早めに着い
ちゃうけど」

「だ、だいちょぶですっ!」

「……じゃあ行こっか」

 なんだかんだで甘い僕なのだった。いや、だって、あっち側の気持ちを痛いほど知って
るんだもん! そりゃちょっとは甘くなっちゃうのも仕方ないよね、うん。

「「あっ、キヨミンだ!」」

 するとそこで、僕が開けっ放しにしていた玄関から双子の声が響く。キヨミンと呼ばれ
た鳥羽は、びくりと肩を震わせていた。

「どーしたのキヨミン?」「なにかあったのキヨミン?」

「わ、私の名はキヨミンなどというものではないのだけれど……」

「えー? でもキヨミンはキヨミンだよねー?」「そうそう、それに可愛いからぴったり
だよねー?」

「か、かわっ……おほん! 今日はこちらの、我が同胞を迎えに来たのよ」

 顔を赤くしながら、どさくさまぎれに僕を同胞呼ばわりする鳥羽。

「え、なんで!?」「キヨミンってお兄ちゃんと友達だったっけ?」「っていうかドーホ
ーってどゆこと?」「お兄ちゃんって太陽神だったの?」

「た、太陽神ではないけれど、彼はこの私が認めた選ばれし者なの」

「へー、そうなんだー」「にしても今日は暑いね」「ね、急に暑くなったよね」「キヨミ
ンのマジカルサイコパワーでどうにかできないかな?」

「……ふ、不用意に太陽を遮るのは、ほかの生き物たちに可哀想だからね……滅多なこと
がない限りは使わないと言っているでしょう」

「そこをなんとか!」「お願いキヨミン!」

「え、そ、それは……その……」

 僕は再びブロック塀に頭を叩き付けたい衝動に駆られながらも、またガーゼを血塗れに
するわけにもいかず、いたたまれない気持ちを抑え込んで鳥羽の前に立ちふさがる。

「雫、霞。あんまり鳥羽さんをいじめないようにね」

「「……はーい♪」」

 僕が注意すると、双子たちは意外なくらいあっさりと退いてくれた。あれ、あの子たち
こんなに聞き分けが良かったっけ?

 僕は玄関の引き戸を閉じると、鳥羽へと向き直る。

「ほら、学校行くんでしょ。さっさと行こう」

「は、はいっ!」

 たかがコミュ障に庇われる、天の現人神なのだった。




説明が遅れましたが、聖と書いて、「きよみ」と読みます。ですのでキヨミンです。
「ひじり」や「あきら」ではありません。



出席番号順

赤穂 美崎(あこう みさき)

淡路 ひかり(あわじ ひかり)

芦原 弥美乃(あわら やみの)

嬉野 汐里(うれしの しおり)

鬼ヶ城 桜香(おにがじょう おうか)

鏡ヶ浦 凪(かがみがうら なぎ)

神庭 霞(かんば かすみ)

神庭 雫(かんば しずく)

神庭 氷雨(かんば ひさめ)

久住 篤実(くずみ あつみ)

笹川 流礼(ささがわ ながれ)

千光寺 空(せんこうじ そら)

鳥羽 聖(とば きよみ)

三朝 凛音(みあさ りんね)

妙義 明(みょうぎ あきら)





 いつもなら双子や氷雨と、あるいは僕がひかりや凪を迎えに行って一緒に登校する通学
路を、今日はゴスロリ少女といっしょに歩いていた。

 どこを切り取っても絵画的なこの島において、異様としか言いようのないゴスロリ衣装
は見るからに浮いていた。これが巫女服ならば、ある意味で景色との調和がとれる状況が
想像できなくはないが、この少女の服装が馴染めるのは、中世ヨーロッパとか……あるい
はコミケとかしかないんじゃなかろうか。

 そんな浮きまくりのゴスロリ少女こと鳥羽 聖は、僕の隣で荒い息づかいをしていた。
っていうか、どう見てもへばっていた。なんなんだ、この圧倒的体力の無さは。下手した
らひかりに匹敵しかねないぞ。

「大丈夫?」

「……はぁ、はぁ……だ、だいちょぶです……」

 どう見ても大丈夫そうには見えなかった。まあたしかに、学校へ続く山道は僕も慣れる
までちょっとキツかった。だからこの青白い女の子がへばるのも、無理からぬ話なのかも
しれない。

 いや、ちょっと待てよ。この子も毎日学校に通ってるんだよな? それじゃあ……

「あの、もしかして僕、歩くの速かった?」

「…………」

 あっ、完全にこれだわ。僕のせいでしたわ。

 いくらこの子のことが好きじゃないとしても、ちょっとこれは可哀想なことをしてしま
った。紳士失格である。

「ごめんね、ちょっと木陰で休もうか」

 僕は鳥羽の返事を待たずに、道脇の倒木に腰を下ろす。ついでにバッグからタオルを取
り出して、一メートルほど隣に引っかけた。これだよ、これぞ僕の紳士スタイル。

 やや逡巡しつつも、鳥羽は遠慮がちにちょこんとタオルの上に腰掛ける。通学山道は潮
風が吹き抜けるので、こうして日差しを避ければ幾分か涼しかった。

 風が木立を撫で、さわさわと耳に心地いい音色が鼓膜をくすぐる。

 しばらくそうして休んでいると、鳥羽はようやく息も整ってきたようだった。上気して
いた頬も、だいぶ赤みが引いている。

 僕はコミュ障だ。しかしだからといって、誰とでもコミュニケーションがとれないのか
といえば、そうではない。たとえ相手のことをよく知らなくても、明らかに自分より弱そ
うだったり不利な立場の人間とならそれなりに言葉を交わせるのだ。

 コミュ障は自分を守るために他人の目を気にして、その結果としてコミュニケーション
に不備が生じる。だから僕が“嫌われても問題ない”と割り切った相手とは、それなりに
コミュニケーションできるのである。

 僕は、鳥羽に嫌われてもいいと思っていた。

 けれど鳥羽が誰かに嫌われたり、鳥羽が自分自身を嫌いになるというのは……どうして
だろう、我慢ならなかったのだ。

「ねえ、鳥羽さん。それって疲れない?」

 僕の漠然とした問いかけに、鳥羽はしばし目を丸くしていた。しかし僕の言わんとして
いることを察したのか、すぐに表情を引き締めて答えを返す。

「なんのことかしら。私は生まれたときから特別で、むしろ生まれる前から特別だったの
よ。私にとって特別であることは、呼吸と同じことなの」

「その割には、息苦しそうに見えるんだけど」

「……そ、そんなことはないわ。それを言うなら、貴方こそ」

 唇を尖らせた鳥羽が、僕を鋭い視線で射抜く。彼女なりの、なけなしの反撃というわけ
か。





「貴方も私のように特別なのだから、特別であることをもっと誇示したらどうなの?」

「特別なんかじゃないよ。僕ほど普通な……いいや、普通どころか下等な存在はそうはい
ないと自負しているくらいだよ」

「で、でも昨日……」

「あれはなにかの間違いだよ。それに、人をちょっとブン投げるくらいのことで偉そうに
特別だなんだと騒ぐのって、安っぽいと思うよ」

 ちょっと皮肉を込めた言葉を投げつけてみると、鳥羽は口をパクパクとさせて、そして
俯いてしまった。

「特別にこだわる理由も気持ちも、わからないではないけどさ。だけど能力なんてなくたっ
て、誰かの特別になることはできるんだし……」

「ちがうっ!」

 そのとき、鳥羽は初めて声を荒げた。なにか鬼気迫るような表情で、僕は思わず息をの
む。

 しかしその威勢は、長くは続かなかった。

「ちがう……。そんなんじゃ、ないもん……」

 再び俯いてしまった鳥羽に、僕はどう声をかけたものかと考える。けれど彼女について
なにも知らない僕が、そして人との会話経験が浅すぎる僕が、ここで正しい解答を出すな
んてことはできっこない。そんなことができるのは、せいぜい妙義くらいのものだろう。

 だから僕は、言葉ではなく態度で示した。

「……ごめん。なにも知らないのに、偉そうなことを言っちゃって」

 僕の謝罪に、鳥羽はふるふると首を横に振った。

「ふつうは、そうですよね……これじゃ、頭おかしい子ですよ。……でも、私は天の神の
使いなんです。……聖なる存在なんです」

 鳥羽の口ぶりは、なんだか普通ではなかった。一般的な中二病患者とは、どこか一線を
画しているような……。なにか強迫観念にも似た、頑なさを秘めているかのようだった。

 なにか、彼女はそういった存在でなければいけない理由があるのかもしれない。

 ならば仕方ない。彼女を普通の女の子にできないのなら、さらに痛々しい男の子が現れ
れば良いだけの話だ。

 僕は腕を組み、足を組み、最大限偉そうにふんぞり返ってドヤ顔を決めた。

「フッ……仕方ないな。今まではキミの覚悟のほどを試させてもらっていたが、それもこ
こまでだ。どうやらキミも、僕と同じく選ばれし者だったようだな」

 突然なにか語りだした男子高校生を、自称現人神の少女が目を丸くして見つめる。

「しかしながら、あまりそうやって自分の力を誇示するのはいただけないな。そんなこと
をしていたら、ヤツらに嗅ぎ付けられてしまうじゃないか……」

「……ヤツら?」

 こっちが申しわけない気分になるくらい、真剣な眼差しで聞き返してくる鳥羽。

「“機関”のヤツらさ。あいつらはどこにでも潜入し、そして手段を選ばないからな……
親兄弟や友人を人質にしてでも僕たちの力を狙いにくるだろう。それを避けるために、僕
は今まで普通の人間を演じていたのさ……この右腕を封印してね」

「そ、そうだったんですかっ!?」

 鳥羽の瞳が、ミラーボールもかくやというほどにキラキラと輝く。

 やばい、この子純粋すぎて可愛い! なんなんだ、この守ってあげたい生き物は!?





「キミだって他人事じゃないよ。もしもキミの特別性がヤツらに気づかれたら、機関のヤ
ツらはすぐにでも襲い掛かってくるだろう。そうしたら、特別な条件が揃わないと真の力
を発揮できない僕では、守り切れるかどうか……」

「そんな……」

「こうして二人っきりで話しているときは大丈夫だけど、うちのクラスにだって、スパイ
がいるとも限らないからね。だからあまりキミの特別性に関しても、吹聴して回らないほ
うが身のためだよ」

「わ、わかりました」

 ごくりと喉を鳴らして、神妙に頷く鳥羽。

「キミが天空神の使いであることはよくわかったよ。疑ったり、試すようなことを言って
ごめんね。だけど、これからはあんまり自分の正体については言わないように。特別な能
力も使わないように。わかったね?」

「はいっ!」

 すごくいい返事だった。そしてすごくいい笑顔だった。そしてそれだけに、僕の良心は
ゴリゴリと抉れて、デリケートな内部が空気にさらされてしまっていた。

 しかしどうやら、彼女の“事情”というのは、僕一人が彼女を特別だと認識していれば
それで大丈夫なものらしい。それならば鳥羽が満足するまで、僕がそれをいくらでも引き
受けてあげようじゃないか。ククク、痛々しさなら僕の右に出るものはいないぜ?

「フッ……しかし僕も、こんな島でキミのような存在と会いまみえるとは夢にも思わなか
ったよ」

「……そうかしら。むしろ私は、貴方との出会いは古の盟約によって定められていたこと
のように思えるわ」

「それはいいね。それじゃあ僕たちは、たった今この瞬間より“眷属”だ。いいよね?」

「もちろんよ。ふふふ……こんなに血が滾ったのは久方ぶりだわ」

 通学山道の木陰で、ニヤニヤしながら怪しい会話を繰り広げる僕と鳥羽。ククク、今宵
は胸の痛みをBGMに、枕と踊ることとなりそうだ。

「そろそろ学校へ行こうか。そうやって一般人を装わなくては、機関のヤツらに勘付かれ
てしまうからね」

「お互い大変ね。だけど仕方ないわ、『私たち』は特別ですものね」

 そう言った鳥羽の表情は、かつてないほどに幸せそうだった。彼女の内情を知らない僕
には、それがどういった理由に起因しているのかまではわからないけれど……

 僕たちは並んで、ゆっくりと足を進める。気が付けば僕と鳥羽のあいだには、奇妙な友
情のようなものが結ばれていた。二人でほの暗い微笑を浮かべながら、通学山道を登って
ゆく。

 もしかして僕は、保育士さんとかに向いてるかもしれないなと思いました、まる。



 ……僕らが学校に着くころには日直の仕事は全部終わっており、赤穂さんにジトっとし
た視線を向けられました。くそ、これも機関の攻撃か……!?





 右から左から正面から、三人の熱いまなざしが注がれている。うふふ、あまりの動揺で
僕の瞳が高速で揺れていますよ? 妙義、キミどうしてそうやって僕を攻撃したがるの?

 赤穂さん、前回みたいに妙義を注意してやってくれませんか? はい、してくれません
よね。その笑顔はしてくれないときのヤツですもんね、ええ、わかってますとも。

 前回僕がひかりを選んだのには、それはもちろん唯一の友人であったということが最大
の要因ではあるのだけれど、しかしながら要因というならもう一つ重大な要因があった。
それは、当時の三人の好感度である。

 コミュ障にとって最も重要なのは、波風を立てないということだ。つまり、誰かと対立
したり傷つけたり悲しませたりしてはいけないことを意味する。それで行くと、前回はひ
かりを選ぶ以外の選択肢がなかったということがご理解いただけるだろう。あの当時はま
だ凪も僕に懐いていなかったし、赤穂さんは友人でもなんでもなく、ただちょっと天使な
だけの委員長だった。つまり僕に選ばれなかったからといって彼女たちが悲しむというこ
とは確実にありえない。

 しかし今回はどうだろう。

 まずはひかりだが、彼を選ばないという選択肢はありえない。当時も現在も、彼は僕の
かけがえのない友人であり、それは彼にとっても同じことのはずだ。しかも前回はひかり
を選んでおきながら今回は違う人を選んだら、それはかなりのダメージをひかりに与える
こととなるだろう。下手すれば泣いちゃうかもしれない。ひかりの泣き顔はちょっと見た
いような気もするけれど、それはとりあえず我慢しておこう。

 凪はどうだろう? きっとひかりに比べたら悲しんだりはしないだろうけれど、しかし
僕は凪との今日までの付き合いで、意外にも彼女が涙もろいということを知っていた。ち
ょっと自意識過剰な推論を言わせてもらえば、きっと彼女はこれまでなにかに執着したり
するというようなことがなかったのだろう。それがあの日の事件を経て、彼女は僕に対し
て生まれて初めての執着を見せた。だから僕に関することには、強い感情を露わにする傾
向があるように思われるのだ。きっと今日の宿泊を断るくらいであったら、まさか泣くな
んてことはないだろう。だがこの場で選ばれなかったとき、彼女がその事実をどう受け止
めるかはわからない。

 赤穂さんは……まあ、まさか泣くなんてことはありえないだろう。友人になったとはい
っても、べつに彼女とは特別になにかあったというわけでもないし……たかが僕に選ばれ
なかったくらいで傷つくわけもない。前回同様、無反応が関の山だな。なんなら無反応す
ぎて僕が泣く可能性のほうが濃厚だ。え、なにこれ超悲しい。まあ、今朝の埋め合わせを
引き合いに出されたのに蹴ってしまうと好感度が下がりそうだが、もともと好感度が高い
わけでもあるまいし、まあ埋め合わせは後日ということでいいんじゃなかろうか。

 となると、ひかりか凪になるのだけれど……ううむ、どうしたものか……

「あっ」

 そのとき、僕は閃いた。





「それじゃあ今日は、ひかりと凪がうちにくればいいじゃない? さすがに凪を泊めるの
は倫理的に問題があるけど……とりあえず今日のところは、そんなところで手を打ってく
れないかな?」

 っていうか手を打ってくださいお願いします。

 僕の提案に最初、ひかりと凪はやや不服そうにしていたが、

「むぅ……うん、まあ、篤実くんのおうちにお泊りするのは初めてだし……えへへ」

「おかあさんに、とまっていいかきいてくる」

 ……よし、とりあえずこの場は切り抜けた。誰からも不満の出ない、ベストアンサーだ。

 しかし妙義を振り返ると、彼はなぜかドン引きしたような表情をしていた。そして、

「……まあ、キミのそういうところは理解しているけれどね……だけど私のようにキミの
思考回路を推測できない人にとって、今の解答はどう受け止められるのだろうね」

 妙義のなんだか思わせぶりな呟きに首をかしげていると、かぽん、というお弁当箱を閉
じる音が聞こえた。なんの気なしに目をやると、それは赤穂さんの発した音だった。

 そうだ、赤穂さんにもフォローを入れておかねば。

「赤穂さん、今朝の埋め合わせはもちろんするよ。えっと、ああそうだ、今度ケーキでも
買ってくるよ!」

「それは楽しみです」

 赤穂さんは微笑みを絶やさないままそう言った。よしよし、やっぱり女の子には甘いも
のなんだな。

 見たところ誰も悲しんだりはしていないようだ。やれやれ冷やりとしたけれど、無事に
試練を乗り越えたぞ……

 僕はホッと安堵のため息を漏らし、ふと、双子の表情を窺う。すると二人はなぜか苦笑
いを浮かべていた。

「「……知ーらないっと」」

 双子はそう言うと、お婆ちゃん製のお弁当を片付ける。

 僕がその意図を測りかねていると、昼休み終了のチャイムが教室に鳴り響く。思考の海
から浮上しかけていた考えは、その無機質な音響に押し流されるように消えていった。





 それから五時間目の授業も終えて、放課後となった。

 とりあえず赤穂さんに軌道の運転を習うのは、今朝の埋め合わせが終わってからに改め
るとして……

 僕はスマホの画面を確認した。すると『メール通知1件』という文字列を視界にとらえ、
ぞわりと内臓が浮き上がるような感覚に陥る。恐る恐るメールの内容を確認すると、それ
は以下のようなものだった。



 差出人 りずむ

 件名 Re:歌い手のイナリです。

 本文 すごい風習だねw いいよ、引き受けた (`・ω・´)
    また今度コラボしようね( *´艸`) イナりずむ再結成だ(*^▽^*)



 昨日の夜、以前僕が歌ってみた動画でコラボした歌い手のりずむさんにメールを送って
みた。内容は、僕の移り住んだ島の謎風習によってオリジナルの歌が必要だということを
そのまま伝えたのだけれど、りずむさんがそれを本気と受け止めたか冗談と受け止めたか
まではわからない。たぶんジョークだと思われただろうけど……

 ちなみに、イナリというのは僕のハンドルネームだ。名前を考えてたときに、たまたま
稲荷寿司を食べていたからこの名前に決めた。

 スマホを胸ポケットにしまうと、僕は小さくガッツポーズする。よし、これで歌詞と曲
に関しての心配はいらなくなったぞ。若干ズルしてる感も否めないけれど、社会に出たら
コネも実力のうちだ。これくらいのことは許されるだろう。こういう自分への甘さこそが、
真面目系クズの真骨頂なのである。

 よしよし、この曲ができたらカセットテープに吹き込んで、アンチャン's レディオと
やらもどうにかこれでやり過ごそう。そして二週間後くらいに、この曲でりずむさんとコ
ラボだ。よし完璧! 当面の問題はあらかた解決したぞ。やばい僕の人生が絶好調すぎる。

 気分がいいから久しぶりに演じてみた動画でも上げようかしら。ハム太郎をいろんな
アニメのラスボスのみで吹き替えとかやったら面白そう。

 ……などと徒然なるままによしなしごとを思案していると。



 突然、僕の視界が温かいなにかによって遮られた。



「だーれだ♪」

 突如僕に襲い掛かったリア充イベントに、戦慄する。え、なにこれ? 僕死ぬの?





 声からして女の子。声のした位置からして、僕より頭一つ低いくらいの身長。声は幼い
が、喉の使い方は成熟している。以上のことから、おそらく僕と同年代かちょっと下くら
いの、精神年齢の高い女子ということが予想される。

 となれば『赤穂さんお茶目説』を推したいところなのだけれど……っていうかそうであ
ったら僕は幸せすぎて死ぬんだけれど、しかし残念ながら、この声は初めて聞いた声だっ
た。声のスペシャリストである僕が言うのだから間違いない。

 そしてこの声は、僕が今日まで一度も会話をしたことのない相手だ。なんとなく聞き覚
えはあるような気もするけれど、興味を抱いたものしか覚えられないのがコミュ障の特徴
だ。そのため人の顔や名前もなかなか覚えられない。

 まあなにが言いたいのかというと、要するに完全にこのクイズは詰んでいるわけである。
っていうかこれって声だけで当てられるくらい仲のいいリア充同士がやるもんじゃない
の? なんなの? 嫌がらせなの?

「ちなみに、不正解だった場合は罰ゲームが待ってまーす♪ 五秒前~!」

「え、ちょっ、待っ……!」

 そんなの聞いてないよ!? 理不尽にもほどがある!

「よんさんにーいちハイ終了っ! ぶぶー、時間切れで不正解でーす!」

 しかもカウント超速いし! 一秒も経ってねぇよ!

「正解はぁ~? ドルドルドルドルドルドルドルドル……ドン!」

 突然始まったドラムロールの終わりに合わせて、僕の背中を衝撃が襲った。僕の首に回
された腕や、背中に押し付けられている二つの柔らかい感触によって、背後にいた女の子
が僕におぶさったのだということを知る。すごい良い匂い!

 そして、もうほとんど頬が接触するような距離で、その女の子はにっこりと笑う。

「芦原 弥美乃ちゃんでした~っ!」

「…………だれ?」

 いやマジで誰かわからない。顔見てもわからないってどういうこと? 異世界人?

「ちょ、それはひどすぎないかな!? おんなじクラスだよっ!?」

 芦原と名乗った女の子は僕の背中から飛び降りて、そして僕の目の前まで小走りで回り
込む。そこで彼女の全身を見た僕は、初めて「ああ」と得心がいった。





 この格好……全身真っ黒コーディネートの、喪服のようなこの服装は、つい昨日の神社
で鳥羽といっしょにいた女の子じゃないか。

 いやはや、顔と名前だけ提示されても、コミュ障にはわからないよ。なんならそこそこ
話す知人でさえ、後ろ姿だとわからないことがあるんだから。

「ご、ごめん、いま思い出したよ。そういえば昨日会ってたよね」

「うわぁ、マジで忘れてたんだ……」

 ドン引きされてしまった。てへっ。

「もう、二度と忘れないでね? 網膜に焼き付けてね? 海馬に刻み込んでね?」

「……ぜ、善処します」

 きっとしばらくは、顔だけじゃ思い出せないとおもうけど。

 僕が内心で彼女の期待を裏切っていると、芦原というその子は、なにやらキョロキョロ
とあたりを窺い始めた。

「……あの、なにか、用?」

 ひかりと凪が先に帰ってお泊りの準備をしてくれているので、早く日直の仕事を終わら
せて迎えに行かないといけないのに。朝の埋め合わせの一環として、赤穂さんには学級日
誌だけ書いてもらって、下校していただいたし……

「そ、そう、だよね。うん、よしっ」

 なぜか自分の頬をぺちぺち叩く芦原さん。そして僕の顔をまっすぐに見つめてくる。な
にこれ、告白でもされるの? モテ期到来しちゃった? ふへへ、キモッ。

「あの、さっきの罰ゲームだけど……これからお願いすることを、叶えてほしいんだ」

「え、あ、うん。まあ、僕にできることなら、べつに、いいけど……」

「物理的に不可能なことじゃないよ。だけど、どうしても嫌だったら、その、断ってくれ
てもいいんだけど……」

 ついさっき、僕の背中におぶさってきた元気はどこへやら。急にしおらしくなってしま
った芦原さんは、もじもじしながら視線を泳がせていた。

「あの、あのね……!」

 そして彼女は僕の手をきゅっと両手で包む込むと、ぎゅっと目を閉じながらその言葉を
口にした。



「あたしと、付き合ってくださいっ!」





「篤実くん? 篤実くんっ!」

 つんつん、とひかりが僕の頬を突っつく感触で、ハッと我に返る。つい数時間前の出来
事に思いを馳せていて、呆けてしまっていたようだ。

「な、なにかな?」

「なにじゃないよぉ。篤実くんの番だよ?」

 軽くほっぺたを膨らませながら僕の手札を指さすひかり。僕は手にしているUNOのカ
ード四枚……赤の4、青の4、緑の4、ドローフォーに視線を落とし、薄く微笑む。

「ごめんごめん。ちょっと考え事してて」

 そう言いながら僕は、「緑」と呟いてドローフォーのカードを投げる。ひかりの泣きそ
うな悲鳴を聞いて和んでいると、すでに手札をすべて消費している凪が、僕の顔をじっと
見つめていることに気が付いた。

「どうかした?」

「……あつみ。なにか、あったの?」

「えっ?」

 どきりとして、僕は思わずカードを落としそうになる。

「……な、なんで?」

「ようす、おかしいから。ずっとうわのそら」

 もう虚ろではない、凪の綺麗な瞳に見つめられると弱い。僕は露骨に目を逸らしながら、
曖昧な笑顔を取り繕うことしかできなかった。

 時刻は午後五時頃で、そろそろ空が赤みがかって、どことなくうら寂しい心地になるよ
うな時間帯だった。

 僕とひかり、そして凪の三人は現在、僕の部屋のベッド上でUNOに興じていた。とは
いっても、現在の戦績はひかりの五連敗。最初はトランプで遊んでいたのだけれど、記憶
力のすさまじいひかりが強すぎたため、UNOで遊ぶこととなったのだ。そしたらこのザ
マである。

「うぅ……最初に山札をぜんぶ配るルールだったら、ぜったい勝てるのにぃ……」

 女の子座りをして涙ぐむひかりは、緑の6を場に出す。この時点で勝敗が決したわけだ
けれど、僕のふとももを枕代わりにしている凪の視線によって身動きが取れずにいた。

「あつみ、なにがあったの?」

 ほとんど唇を動かさずに発せられる凪の言葉に、僕はどう答えたものかと思案する。そ
して泳がせていた視線を凪へと戻して、愛想笑いを浮かべた。

「いや、あはは。痛めた右腕がようやく動くようになってきたなぁって思ってただけだよ」

「うそ」

 ぽつりと呟いた彼女の言葉には、わずかに怒気が滲んでいた。僕は表情を強張らせて、
思わずのけ反る。





「ロン毛がいってた。あつみがうそつくとき、右上をみて、へらへらするって」

 ロン毛というのは、凪が妙義を呼ぶときの悪意ある呼称である。あの事件のときに、彼
が僕を見捨てる判断をしたことをまだ根に持っているらしい。それについては僕からも弁
明しているのに、一向に許す気配がないのである。

 ……っていうかあの探偵、凪に余計なこと吹き込みやがって……!!

 僕は三枚の手札を投げつつ、凪の熱烈な視線から逃げるようにそっぽを向く。

「いや、でも、これは僕の問題だし……」

「と、友達の問題は、ぼくたちの問題だよっ……?」

 UNOのカードを半べそで片付けながら、ひかりが噛みついてくる。そして寝っ転がっ
ていた凪が体を起こして、今度は僕の首に腕を回して、コアラのように抱き付いてきた。
なんか小動物みたいで可愛いな。

「そう。あつみの問題は、わたしの問題でもある。だから、わた…………」

 慈しむような優しい表情で、凪がなにか名言じみたことを言いかけた……その時。

 彼女はゆっくりと慈愛の表情を消して無表情となり、そこから徐々に怒りの表情を浮か
べていく。

 そして、ぽつりと一言。



「…………女のにおいがする……!!」



 本日の修羅場、パート2の幕開けだった。





「ええっ!? 篤実くん!」

 集めていたカードをブン投げて、ひかりも僕の胸に顔をうずめる。しかし彼はしばし嗅
いだあとで首をかしげて、

「そうかな……? 言われてみればそんな気もするけど……」

「ぜったいまちがいない。あつみ、どういうこと? せつめいして」

 僕がひかりの言葉に乗っかって誤魔化す暇もなく、凪によって助け舟は爆撃されて沈没
してしまった。この小学生超こえーよ……。っていうかなんでわかるんだよ、芦原さんに
抱き付かれたのは十数秒かそこらだぞ。

「い、いやこれは違くって……なんか、急にあっちから……」

 まだ例の告白に対して明確な答えも出していないし、しかも告白なんていうデリケート
なことを、友達とはいえ部外者に話してしまってもいいものかという葛藤はあった。コミュ
障非リアの僕がこんな葛藤をする日がくるとは思いもしなかったが、とにかくこの件を
打ち明けるのにはやや逡巡があったということは弁明させていただきたい。

 しかしながら、普段は穏やかな凪の目の奥に、嵐の到来を思わせるような高波が荒れ狂っ
ているのを幻視した時点で、僕は白状することを決心しました、はい。女子小学生に怯え
る高校生なのだった。

 というわけで、先刻僕を襲った事件の一部始終を彼女たちに説明した。

「―――とまあ、こんな感じなんだけど……それでどうしようかなって考え事してたんだ」

「あ、篤実くんはどうするの……? ほんとに付き合っちゃうの?」

「そんなのだめ。ぜったいだめ」

 凪のちっちゃな手で襟をぐいぐい引っ張られて揺すられながらも、僕はしばし唸って、

「あっちとしては、もう付き合ってるつもりみたいなんだけど……」

「それじゃあ、わかれたほうがいい。わかれるべき。わかれて。わかれろ」

 あの、凪ちゃん……? そんなにガクガク揺さぶられたら、お兄ちゃん苦しいよ? 
あとキャラが壊れてきてませんか? 気のせいですか?

 一方ひかりは、話の途中あたりから顔を赤くさせながらあわあわ言っていた。

「篤実くん……ちゅ、ちゅーしちゃったんだ……」

「だいじょうぶだよ、あつみ。その部分のひふを、うすく切り取れば問題ないから」

「凪さん!? それは問題しかありませんがッ!?」

 そんな「カビかけのミカンでも剥けば食べられるよ~」みたいな軽いノリで外傷を負っ
てたまるか!!

 その後もなんやかんやと揉めつつ、結局は芦原さんとは付き合わずに徹底抗戦していく
ということで話は落ち着いた。

 たしかにあの場では勢いに流されてしまったけれど、冷静になって考えてみれば、あん
な子が僕に惚れたりなんかするはずないしな。やっぱりなにか罰ゲームとかだったんだろ
う。危ない危ない、うっかり惚れるところだったぜ。

 芦原さんとは付き合わないことを約束すると、ようやく凪の機嫌が落ち着いてきた。し
かし今度はやたら引っ付いてくるようになって、これはこれで困ったことになった。いつ
まで続くのか知らないけれど、凪の「パパと結婚するモード」にも困ったものだ。まあ、
あと一ヶ月もすれば自然と離れていくだろうけどな。

 そんなこんなで、僕たちの夜は更けていった。






 今日の夕食は人数が多い分、それなりに賑やかな食卓となった。とは言っても、ひかり
も凪もあまり積極的に会話に参加するタイプの子ではないので、主に賑やかだったのは僕
と双子たちだったのだが。

 というのも、僕がこの島でトップクラスに気を許している二人が両隣に座ってくれたた
めに僕のテンションがやや高めだったのである。それは双子たちにも指摘されて、ちょっ
と恥ずかしくなった。

 お婆ちゃんお手製の島の郷土料理である練り餅に、特にひかりが感動していた。たしか
にこれはすごく美味しい。

 それと僕の大好物である、氷雨お手製の魚ときのこのスープも出てきて大満足だった。
これは本当に美味しくて、今のところ僕が今まで食べた物の中で一番だと言い切れる自信
がある。そのことを言ったら、凪が「れんしゅうするから」と呟いていた。マジで? 超
楽しみにしてます。

 そうして夕食が終わり、僕は皿洗いを始める。ひかりと凪には僕の部屋で待っているよ
うに言ってあるので、勝手に部屋の中を探られないうちに急いで終わらせてしまおう。

 すると、食器を運ぶのを手伝ってくれた氷雨が最後の食器を持って台所へと現れた。し
かしなんだか様子が変で、どことなく上の空というか、心ここにあらずといった感じだっ
た。

 そういえば夕食中も、一度も喋っていなかったように思える。まあそれ自体は、べつに
変わったことではないのだけれど……それにしても今日はなんだか、雰囲気が違っている
ように見えるのだった。

 僕は気にかかりつつも、しかし男には言えない事情かもしれないので、黙って皿洗い
を続けていた。

 氷雨は洗い終わった皿を無言で拭いてくれていたが、やがて控えめに口を開いた。

「……よかったですね」

 僕は、スポンジで皿をこする手を止めた。ゆっくりと流れ落ちていく泡から目を離して、
そろりと氷雨のほうへ視線を向ける。

 氷雨はただ皿を見つめながら、黙々とタオルを動かして食器を拭っている。

 蛇口から迸る水流の音だけが、やけに大きく台所に響いていた。





「えっと……なにが?」

 散々考えたものの、なにが「良かった」のかがわからなかったので、思い切って質問し
てみた。するとやはり氷雨は皿を見つめたまま、淡々とした口調でそれに答える。

「聞こえちゃったんです。兄さんと私のベッドって、壁がなければ数センチしか離れてま
せんから」

 そう言われても、やっぱりなにが良かったのかはわからない。いったいどの話のことを
言っているのか……

 尚も首をかしげていると、氷雨は拭き終わったお皿をことりと置いた。そこで僕は水を
流しっぱなしにしていたことに気が付いて、皿洗いを再開した。

「えっと、なにが良かったの? 僕に友達ができたこと?」

 洗い終わったお椀を氷雨に差し出しながら問うと、氷雨はお椀だけに視線を注ぎつつそ
れを受け取る。そしてついでに一言。

「彼女ができた……って、聞こえたので。……キスとかも、したって」

「えっ」

 一瞬、彼女がなにを言っているのかわからなかった。しかしおそらく氷雨は、僕が凪た
ちに今日のことを説明した、その前半部分だけを聞いていたのだろう。まあ僕の恋愛事情
なんて興味ないだろうから、途中で聞くのをやめたに違いない。

 氷雨はお椀をタオルで拭きながら、口元だけでうっすらと微笑む。

「兄さんに彼女ができたら、私たち従妹たちも安心です」

 言っている意味を理解するのに手間取ったが、ようするに僕が居候先で従妹に手を出す
ような腐れ外道だと思われていたということだろうか。なにそれ心外すぎる。僕は紳士だ
から、そんな恩知らずなことは絶対にしないとここに誓いますよ、ええ。

 誤解は解いておこうかと考えていた僕だったけれど、しかし氷雨が安心できると言って
いるなら、それはつまり今までは不安だったということになる。そういうことなら、その
誤解は誤解のままにしておいたほうが彼女のためなのではなかろうか。

 思案の末に僕は、

「あはは、うん、まあ、ありがとう。そういうことなら安心してよ」

 勘違いを招くように曖昧な返事をしておく。べつに嘘はついていないし、それでいて
誤解も解かない答えかたのはずだ。

 それから僕たちは、相も変わらず無言のまま皿洗いを終えた。まあ、わざわざ彼女の件
を「よかったですね」なんて言ってくるくらいだから、きっと最初よりは氷雨との距離は
縮んでいるのではなかろうか。……なんかじつに遺憾な警戒をされてたらしいけど。

 皿を食器棚にしまうと、僕は氷雨と別れ、二人の待つ自室へとまっすぐに向かった。





 やはり倫理的な問題もあって、僕と凪がいっしょにお風呂というのはさすがに実現する
ことはなかった。いや、べつに残念とかじゃないけど、凪のほうは露骨にむくれてしまっ
たのでご機嫌をとるのにとても苦労した。

 だから公平性の面から、僕とひかりがいっしょにお風呂に入るということも実現しなか
ったのだけれど、僕はひかりを完全に男の子、少年、という風には見れないので、どちら
にしてもいっしょにお風呂に入るのは遠慮したかったので問題はなかった。

 そんなわけで現在、凪がお風呂に入っているので、僕とひかりは部屋で二人っきりにな
っているのである

 僕がベッドに腰掛けると、ひかりは子犬のようにちょこちょこ寄ってきて隣に座った。
若干肩が触れるような距離で並んで座っていると、男の子とは思えないような良い匂いが
した。なにこれほんとに同じ生命体?

 ひかりのさらさらな髪を見ていると、ふとこちらを振り返ったひかりと目が合ってしま
った。僕はちょっぴり変な気分になって、思わず目を逸らす。

「あ、なんでいま、目をそらしたの?」

 ぷくっと頬を膨らませながら、ひかりが僕の服を引っ張る。拗ねたような声だったけれ
ど、ひかりは楽しそうに笑っていた。

「べつに、目を逸らしてなんかいないよ」

 そう言いながら僕は、ひかりの脇に手を差し込む。ひかりはくすぐったがりなので、も
うそれだけで「ひゃんっ!?」という悲鳴を上げながら飛び跳ねてしまう。

 そんな反応をされるとこちらも嗜虐心が燃えあがって、ついついめちゃくちゃになるま
でくすぐり倒してやりたい気持ちも浮かんでくるのだけれど……

 いつもは普通にしているから忘れがちになってしまうが、一応ひかりは病人だ。そのた
めあまり体に負担をかけそうなことはしたくはない。でもいじめたい。僕の中の天使と悪
魔が拮抗する。

 悪魔が言う。「やめとけやめとけ。ここは精神的にちょっとイジワルするくらいに留め
ておけよ。こんなか弱い相手をいじめたって、楽しくねえだろ?」

 天使が言う。「ヤったればいいのです。彼も体を鍛えられるし、こちらも欲求を満たせ
るし、もうめちゃくちゃにしてやればいいのです。ついでに撮影もすればいいのです」

 あれ、なんかこいつら役割変じゃね? ……まあいいや。

 結局のところ、僕は思いっきりくすぐるということはやめた。そのままくすぐりもせず、
かといって脇から手を抜くこともせず、付かず離れずの微妙なくすぐりを開始した。

 ひかりのちっちゃな脇を、ゆっくりと撫でていく。

「ひかり、いまどんな感じ?」

「んっ、あっ……く、くひゅぐったいよぉ……」

 なんだかひかりがいかがわしい声を出し始めたが、べつに僕は悪くない。都会の学校で
は、みんな友達同士でくすぐりっことか、カンチョーとかしてたしな。むしろ僕のこれは
優しいほうだろう。





 指を動かしたりはせず、あくまで手のひら全体でゆっくり撫でるように動かす。

「あっ……ふぅ、んっ……だ、だめ……」

 ダメなのはお前の反応だ。見た目も声も反応も女の子みたいだから、なんかイケナイ情
熱が燃えあがりそうな気がしてきた。

 座っていられなくなったのか、くたっとしてベッドへ仰向けに倒れこんでしまうひかり。
顔は赤く、涙目で、息も荒い。よし、こんなにかわいいひかりが女の子なわけがないな。

 いや「よし」じゃねぇ! なに言ってんだ僕は!?

 ……でも、ちょっとだけならくすぐってもいいかな……い、一瞬だけ揉んでみよう。

 くにっ。

「ひゃうっ!?」

 焦れったい微弱な刺激に耐えていたひかりが、海老反りになる。こうなると、僕がいつ
再び揉んでくるかわからずに恐怖に怯えることとなるだろう。

「はぁ、……んんっ……」

 小さく震えながら、恐怖と刺激に耐えるひかり。なんでこの子、抵抗とかしないんだろ
う。そろそろ止めてくれないと、エスカレートしちゃうよ?

 って、いかんいかん。ほんとにそろそろ自重しなくては……

 僕は顔を逸らして、ひかりの脇から手を抜き取る。

 雫がこの部屋を使っていたころの掛け時計で時刻を確認すると、もう凪を風呂に向かわ
せてからそこそこの時間が経っていた。

 さて、次はひかりを風呂に入らせるか。もう着替えを準備させたほうがいいかな。

「ご、ごめん、やりすぎちゃったね」

 怒ってたらどうしよう、とひかりのほうを振り返れない僕。しかし、荒い呼吸を繰り返
すひかりの口から返ってきた言葉は、

「……ううん。あ、篤実くんがしたいなら……ぼく、もうちょっと……いいよ……?」

「…………。」

 いいんですか、ひかりさん……!?

 おそらく僕の目は血走っていたかもしれない。両手をワキワキさせて振り返ると、ひか
りは両手を軽くバンザイするような姿勢で寝そべっている。その体勢はどことなく、犬が
腹を見せて行う服従のポーズを思わせた。

 僕の心臓がうるさいくらいに高鳴っている。そしてひかりのほうも、見てわかるくらい
胸がトクトクと上下している。

 僕はゆっくりと、その小さな体に手を伸ばして……

「あつみ、ひかり、おふろあがった」

 ガチャリと僕の部屋のドアが開いて、髪を下ろした凪が入ってきた。

「そ、そっか! よしじゃあひかり、入ってきなさい!?」

「う、うん、そうだねっ!?」

 なぜか慌てふためく僕たちに、凪は小首をかしげて不思議そうな顔をしていた。





 僕は誰もいない音楽室の窓際で、反対側の校舎にある自分の教室を眺めていた。僕のた
った一人の友人を追い詰めて傷つけた馬鹿どもが、まんまと僕の策略に引っかかっている
のを見て、堪え切れずにほの暗い笑みが漏れた。

 彼らは現在、こっくりさんを……いや、うちの高校で言うところの“赤目さま”を行っ
ている。僕が昨日の夜にありったけの呪詛を込めて作成した五十音表に十円玉を添えて、
朝早くに教室の後ろへと置いておいたのだ。

 お調子者のあいつらは、誰が用意したかも知らないソレを使って、面白半分で儀式を始
めるとわかりきっていたから。

「赤目さま、赤目さま、お越しください」

 僕は笑いをかみ殺しながら、呪詛を込めて呟く。

「赤目さま、赤目さま、お越しください」

 本当に“赤目さま”が現れて彼らを憑り殺してくれるならそれが最善だけれど、べつに
そうでなくても問題はない。元々、僕が直接あいつらに祟りを与えるつもりなのだから。

 その日の夜、僕はそいつら四人のうち三人に公衆電話から電話をかけた。携帯番号は、
あらかじめ学校でそいつらのうちの一人の携帯をくすねてアドレス帳から抜き出しておい
た。この復讐は、手に入れた四つの携帯番号を最大限に利用することになる。

 僕は電話に出た三人に、“三人以外の残る一人の声を使って”こう言った。

「大変だ、“赤目さま”は本当にいたんだ! やばい、俺と入れ替わろうとしてる! 助
けてくれ、死にたくない! うわあああああっ!!」

 ……翌日。

 僕に声を使われたそいつは、なにも知らずに登校してきた。昨晩、自分が公衆電話で三
人に助けを求めたことなんて知る由もなく。

 残る三人が自分を心配しているのを見て首を傾げ、昨晩のアレはなんだったんだと訊ね
られて、彼はこう言った。

「なんのことだ? 俺はそんなことしてないぞ」

 けれど、三人はその言葉に納得しない。だって間違いなく“そいつの声で”電話がかか
ってきたのだから。悪い冗談はよせと詰め寄られても、本人は「そんなことは知らない。
からかってるのか?」と困惑するばかりだ。

 三人がこんな疑念を抱くのに、そう時間はかからなかった。



 こいつは本物じゃない。“赤目さま”なんじゃないか……と。





 僕は妙な圧迫感で目を覚ました。なんだか昨日に引き続き、変な夢を見た気がする。背
中にじっとりと嫌な汗をかいていた。

 しかしそんな思考は、僕に左右から抱き付いている小学生二人に気が付いた瞬間に消し
飛んでしまった。なにこれ、どういう状況?

 右を見る。そこには、僕が昨日ドライヤーで髪を乾かしてやった凪がすやすやと寝息を
たてていた。僕の右腕を枕にしていて、幸せそうな顔で熟睡しているようだが……しかし
僕の右腕が指一本動かなくなっている。感覚がない。なにこれすごい怖いんですけど。

 左を見る。そこには、僕の左腕を枕にして天使のような寝顔を披露しているひかりがい
た。そしてやはり、こちらの腕もまったく動かせない。おやおや、屍鬼封尽でも食らった
のかな?

 そうだ、思い出したぞ。こうなった原因は、以前僕が鏡ヶ浦家に泊まりに行ったときに、
僕が凪といっしょに寝なかったからだ。いや、凪が寝付くまでは確かにいっしょの布団で
寝ていた。だって凪がめちゃくちゃゴネて、そのうち凪のお母さんまでお願いしますとか
言い出すんだもの……

 それで渋々、凪といっしょの布団で寝たのだけれど……しかし、やっぱり小学生とはい
え女の子が赤の他人である男といっしょに寝るのはよろしくないと思ったので、凪が眠っ
たのを確認した僕は、こっそりと布団を抜け出して、寝室の隅っこの畳で寝たのだった。

 無論、翌朝になって凪の怒りを買ったのは言うまでもない。

 だから今回はこっそり布団を抜け出せないように、腕枕という案が採られたわけである。
まあこういうわがままも可愛いから、僕としては良いんだけど……でも、凪が中学生くら
いになった頃に黒歴史にならないか心配なんだよなぁ……

 だけどそのうちこの子のほうから離れていくまでは、こうやって甘えさせてあげるのも
いいかな、なんて思ったりもしていて……

 結局僕は両腕の感覚がないまま、二人が起きるまで待ち続けたのだった。





 昨日のドタバタが嘘のように、その日の朝は平和なものだった。修羅場もないし、騒動
もない。変な予言メールが届くこともなければ、嵐が訪れることもないし、天の現人神を
自称するゴスロリ中二少女が襲来することもなかった。

 しかしながらその平穏は、嵐の前の静けさとでも言うべき、束の間のものだったのだ。

 今日の昼食も、机を囲ったのはいつものメンツだった。まず僕がいて、右に凪、左にひ
かり、正面には雫と霞、そして赤穂さん。今日は妙義がどこかへ行ってしまっていたけど、
概ねいつも通りの顔ぶれだった。

 そして、その平穏を台無しにするかのように……真っ白な半紙に、墨汁を垂らすかのよ
うに現れた少女が一人。

「こんにちわ、だーりん♪ 今日はあたしと二人っきりで食べよ?」

 むにゅ、という感触が僕の後頭部に押し当てられる。後ろから伸びてきた腕が僕の頭を
抱きかかえて、黒く艶やかな髪がさらりと視界に流れてきた。

 いきなりのことだったので、僕は大いに慌てふためいてしまう。

「ちょ、ちょっと、芦原さんっ!?」

「だからぁ、“恋人”なんだし弥美乃って呼んでってば♪」

 芦原 弥美乃による突然の爆弾発言に、双子は「「えっ!?」」とハモり、赤穂さんは
目を丸くして固まっていた。

 や、やばい……! この娘、よりにもよってこんな場所で……

「こ、恋人って……あのさ、芦原さん。昨日は言いそびれたけど……」

 僕は昨日から考えていたセリフを、なるべく滑らかに口にしようとした。彼女との恋人
関係とやらを破棄すべく考えた台本だ。

 けれどもその途中で、黒い彼女は僕の耳元ぎりぎりまで顔を寄せて囁いた。

「あたしとしては、みんなの前で昨日の続きをしてもいいんだけど……だーりんはシャイ
だから、二人っきりのほうがいいよね♪」

「……!!」

「ね? 二人っきりで、ゆっくりお話ししよ♪」

 ……遠回しに脅迫してるのか……!? 二人っきりにならなかったら、ここでキスする
って言いたいのか!?

 視界にいる五人の顔をチラリと窺う。今にも噛みつきそうな凪、不安そうなひかり、微
妙な表情の双子、そして赤穂さんは、なぜだろう、なんだか悲しそうな顔をしていた。

「……今日だけ、だよ」

 僕はため息といっしょに吐き出すように、渋々了承した。こんなところで、そんなこと
をされるわけにはいかない。

「やったあ♪ さっすがだーりん!」

 僕の頭を後ろから抱えたまま、頬ずりをする芦原さん。

 僕は立ち上がりざまに、不服そうに眉をひそめている凪の頭を撫でながら「わかってる」
と耳元で囁く。それを聞いた彼女は、こくりと小さく頷いた。

 芦原さんの胸に右肘を包まれながら、僕は彼女に引きずられるようにして教室を後にし
た。





 芦原さんに連れられた先は、体育倉庫だった。校舎から少し離れたところに建っている、
鉄扉を備えた立方体の建築物である。

 それに迷わず近づいていく芦原さんは、「あれ?」と小さく声を漏らした。

「南京錠がなくなってるね? 誰かが外しちゃったのかな」

 そう言いながらも彼女は、数センチ開いた鉄扉に躊躇なく手を伸ばす。僕は南京錠がな
いという事実によって嫌な想像をしたが、止める間もなく芦原さんは扉を開けてしまった。

 開かれた体育倉庫の中では、氷雨が一人でお弁当を食べていた。

「あっ……」

 思わぬ事態に固まる三人。しかし僕には少しだけ予想できた事態なので、最も早く硬直
から復帰することができた。

「あ、芦原さん……他のとこに行こう」

 僕の右腕に絡みついている芦原さんを引っ張ろうとすると、続けて硬直から復帰した氷
雨が信じられないスピードでお弁当箱を片付けて、かと思えば僕たちの横を駆け抜け、走
り去ってしまった。

 声をかける暇もなかった。僕はあっという間に小さくなっていく氷雨の背中をしばらく
見つめていたが、ぐいっと右腕を引っ張られたことで我に返った。

「せっかく場所を譲ってくれたんだから、ありがたく使わせてもらおう♪」

 芦原さんは僕を倉庫内へと引っ張り込み、重たい鉄扉をガシャンと閉じる。入口を完全
に閉じた倉庫内は薄暗く、壁の上方、一ヶ所にだけはめ込まれた小窓が唯一の光源だった。

 教室のみんなや、さっきの氷雨のことが気にならないではないけれど……しかし今は目
の前のことに集中しよう。

 せっかくりずむさんのおかげで僕の悩みの大半が解決したのだ。これ以上面倒事を抱え
るわけにはいかない。彼女とは、今日ここで決着をつける……!

「ねえ、芦原さん。僕は……」

「弥美乃って呼んでくれないと、聞こえないな♪」

「……弥美乃」

 やっぱり僕がイニシアチブを握ることはできそうにない。

「ねえ弥美乃、その、どういうつもりなの?」

「どうって?」

 今日は黒のワンピースを身にまとっている彼女は、体育倉庫の薄暗さですっかり闇に溶
け込んでいた。白い顔だけが闇に浮かんで、可愛らしく首をかしげている。

「いや、だからさ、恋人とかなんとか……なにが目的なの?」

「ねえ、だーりん、ちょっと座って?」

 僕の質問を黙殺して、弥美乃は僕の腕を引いて体操マットに座らせる。そしてなにをす
るのかと思いきや、なんと彼女は僕と向かい合うようにして僕の足に跨ったのだ。





 この体勢は何度か凪としたことがあるけれど、凪の場合はいつも僕が見下ろすような形
となる。それに対し弥美乃はスタイルがいいので僕を見下ろす形となり、僕の目の前には
彼女の胸が来ることとなる。

「ちょ、弥美乃……なにして……!?」

「だーりんは、ちゅーだけじゃ物足りないみたいだから……もっと、楽しいことしてあげ
る♪」

 そう言って顔を近づけてくる弥美乃。しかし今回は突然ではなかったので、どうにか
反応することができた。僕は彼女の肩を掴んで遠ざける。

「だーりん、どうしたの? あ、もしかしてだーりんが上のほうが良かった?」

「だから、こういうのはよくないんだって。もっと自分を大切にしなよ」

 彼女を横に押しのけて体操マットに転がすと、僕は立ち上がって倉庫の鉄扉へと向かう。

「“事情”を言ってくれる気になったら、ちゃんと話を聞くよ。じゃあね」

 ドッと疲れながらも、僕は鉄扉の引手の部分に手をかけた。

 そのとき、背後から“シャキン”という金属が擦れるような音が聞こえて、僕は扉を開
こうとしていた手を止めた。

 シャキン、シャキン。

 僕は引手に手をかけたまま、しばし固まっていた。このまま扉を開けてしまうか、それ
とも背後を振り返るか。

 シャキン、シャキン。

 この音、なんだったか。なにか聞き覚えがあるような気がするが、思い出せない。

「ねえ、だーりん。扉から手を離して♪」

 シャキン、シャキン。

 数秒悩んで、僕はゆっくりと手をひっこめた。そして、恐る恐る背後を振り返る。

 そこには……



 小窓からの逆光で黒いシルエットとなった弥美乃が、大きな鋏を手にしていた。





 シャキン、シャキン。

 鋏がゆっくりと開き、そして閉じられる。そのときに、例の音が体育倉庫へとこだまし
ていたのだった。

 鋏のサイズは三〇センチほどで、いわゆる裁ち鋏と呼ばれるものだった。持ち手から刃
先まで全身が真っ黒で、光を反射しないそのボディが、まるで生き物のように開閉してい
る。

 思わず後ずさると、背中が鉄扉にぶつかった。どう考えても、この扉を開いて外に出る
よりも、彼女が僕のところにたどり着くほうが―――速い。

「お、落ち着いて……弥美乃……」

 僕が両手を挙げて説得に臨もうとすると、弥美乃は突然吹き出して、おかしそうに笑い
だした。

「ふふっ、あはは! もぉ、だーりんってば怯えすぎだよ! もしかしてあたしがこの鋏
で、愛するだーりんに襲い掛かると思ったの? そんなわけないでしょ♪」

 くすくすと笑いながら、黒い裁ち鋏を自分の顔の前に持ってくる弥美乃。逆光で表情は
窺えないが、声色からしてヒステリーを起こしているわけではないようだ。僕はすこし安
心して、胸をなでおろす。

 しかしそれなら、どうして今このタイミングで裁ち鋏を取り出したのか。その疑問を僕
が口にするより早く、弥美乃が実演をもってそれを説明してくれた。



 弥美乃は裁ち鋏を操って、自分が着ている黒のワンピースを躊躇いなく切り刻み始めた。



 あまりに理解を超えたその行動に、僕は思考停止に陥ってしまった。そのあいだも弥美
乃は、迷いなく、容赦なく、躊躇なく、自分の服を切り刻んでいく。

 ジョキジョキ、ジョキジョキジョキジョキジョキ。

 やがて僕が我に返って状況を認識する頃には、弥美乃は穴だらけのワンピースの胸元に
鋏を突っ込んで、パツン、となにかを切った。まさか、とゾッとした僕だったけれど、ワ
ンピースの下に落ちてきたのは、血液ではなく黒い布だった。





 続けて、腰のあたりに鋏を突っ込んで、バツン、と切る。またしても黒い布が弥美乃の
足元に落ちた。

 ようやく逆光に目が慣れてきた僕の目には、これだけ異常な行動をしているのに、いつ
も通り穏やかな弥美乃の顔が映った。

 弥美乃は裁ち鋏を体操マットの上へ適当に放り投げると、ズタボロの格好で僕へ歩み寄
ってきた。

「えへへ、どうしよう? 服がこんなんじゃ、教室に戻れないね♪」

「……ソウデスネ」

 彼女は昨日と同じように、僕の胸に顔をうずめる。そして頬ずりをしながら、

「だーりんは教室に戻ってもいいよ? あたしはここで誰かが来るまで、ず~っと待って
るから♪」

「いやぁ……こんな格好の女の子を置いていくなんて、とてもとても……ふへへ」

「やん♪ さっすがだーりん、優しいな~」

「いやいや、それほどでも」

 性犯罪者の謗りを受けるのは御免ですから☆

 僕は上着を脱いで、弥美乃に羽織らせる。ちょっと下半身がパンクなファッションにな
っているけれど、これならギリギリ外を歩ける……かもしれない。

 弥美乃は、先ほど切り落とした黒い布と裁ち鋏を回収して僕のズボンのポケットにねじ
込むと、僕の腕に抱き付いた。

「それじゃあ、あたしのおうちに行こっか!」

「もう好きにしてください……」

 僕は振り回されるのに疲れ、うんざりと答えた。この子に勝とうとするのは、もう諦め
たほうがいいのかもしれない。

 終始にこやかだった弥美乃だったが、しかし一瞬だけ真顔になって、

「……だーりんが知りたがってた“事情”も、そこで教えてあげるからさ」

 どんよりと冷え込んだ声色で、彼女はそう呟いたのだった。





 これまでの弥美乃を見てきた僕としては、もしかしたら彼女の家も全身真っ黒なんじゃ
ないか、なんて若干失礼なことを考えていたのだけれど、もちろんそんなことはなくって、
ごくごく普通の一軒家だった。イメージ的にはのびたくんの家に近いかもしれない。

 玄関側から見ると、二階の窓は雨戸で閉ざされていて中を窺うことはできない。もしあ
の部屋が弥美乃の部屋なんだとしたら、この子は案外横着なのだろうか。

 そんなわけで、僕は弥美乃の家に連れてこられてしまった。

 幸いここまでの道中でお巡りさんに遭遇することはなく、弥美乃のパンクなファッショ
ンに突っ込まれることもなかった。本当に奇跡である。

「それじゃ、入って入って♪」

 相変わらず僕の肘に柔らかい感触を押し付けながら、弥美乃は僕を引っ張って玄関へと
誘い込む。やはりこの島の防犯意識の例に漏れずにノーロック・ノーセコムらしく、鍵も
使わずに玄関扉は開いた。



 その瞬間、弥美乃は僕の顔面を抱きかかえるようにして自分の胸に押し付けた。



「もがっ!?」

 なにが起こったのかわからずに混乱する僕の頭の上で、弥美乃の忌々しげな舌打ちが聞
こえた。

「ママ! 早くどっか行ってよ!!」

「あら、弥美乃? 学校はどうしたの?」

「今日は午前で終わり! いいからどっか行って!」

「はいはい、わかったわよぉ。もう」

 真っ黒な視界の外で、バタン、という扉の閉まる音が聞こえた。するとようやく僕の頭
部は解放されて、新鮮な空気にありつくことができた。危ない危ない、世界一幸せな死に
方をするところだった。

「ぷはっ!? ……い、今のは……?」

「……ママがいたから、だーりんには見られたくなかったの」

「え、これからお邪魔するなら挨拶とかしないと。っていうか、お母さんを見られたくな
いってどういうこと?」

「うちのママ、家では裸族だから」

 ……僕はこの瞬間、初めて弥美乃の逆セクハラに対して感謝した。

 その後、彼女に手を引かれた僕はまっすぐに、二階のある一室へと案内された。二階に
は部屋が二つあって、奥のほうがあの雨戸の閉まっていた部屋らしい。そこは扉に鎖のよ
うなものがかかっていて、まるで“開かずの間”といった風体だった。

 弥美乃が僕を通したのは手前の部屋で、そこは小ざっぱりとしたレイアウトだった。散
らかっているわけではないけれど、特に趣味物のようなものも見当たらず、女の子らしい
装飾が施されているわけでもない。なんというか、冷めた感じの部屋……という印象。
なんかギャルゲーの主人公の部屋みたいだな。

 家具はベッドと勉強机、タンスにチェスト、棚、クローゼット、そして部屋の中心には
ガラステーブルが据えられていた。やっぱりというかなんというか、全体的に黒が基調と
なっているようだ。





 弥美乃はベッドの上からクッションを二つ取って並べると、

「だーりん、なに飲みたい?」

「い、いや、べつにいいよ。それより……」

「あ、そうだったね」

 僕の意図を察したように頷くと、弥美乃は僕が羽織らせた白シャツを脱ぎ捨てた。

「これでよし。それでだーりん、なに飲みたい?」

「全然よくないよ!? なんで僕が服を脱ぐように催促したみたいになってるの!?」

 パリコレとかにも出れそうな格好となった弥美乃は、不思議そうに首をかしげていた。
え、なにこれ僕がおかしいの? 違うよね? 間違ってるのは世界のほうだよね?

 僕はため息をついて、クッションの一つに腰を下ろした。

「……いや、まあいいや。まず着替えてから話をしようか」

「えっとごめん、あたし家では裸族なんだ♪」

 母娘揃って蛮族どもが!

「じゃあなんでさっき、お母さんに怒ってたの?」

「べつに怒ってないよ? ただ、だーりんにあたしの裸よりも先に、ママの裸を見せたく
なかったから♪」

 なんだこれ、気持ちはわからないでもないが微塵も共感できそうにない。そもそも弥美
乃の裸を見る予定は今後一生無いので……

「よい、しょっと♪」

 とか考えてたら、弥美乃が突然ズタボロのワンピースを脱ぎ捨ててしまった。

「うおゎ!?」

 僕は全速力で体を反転させて、弥美乃に背中を向けた。

 っていうか、チラッとだけ見えてしまった彼女の体(もちろん放送コードに引っかかる
ような部分は見えていない。ジャンプだったら船長旗で隠されるような部分など断じて見
えていないと僕はここに誓言する!)は、僕の見間違えでなければ下着をつけていなかっ
たように見えたのだけれど……

 そこで僕はハッとなり、先刻彼女が僕の尻ポケットにねじ込んだ黒い布を抜き出して、
明るいところで改めて見てみた。そして、それをすぐに背後の弥美乃に投げつける。

「あれ? これはだーりんにあげるよ?」

「いらないよ!! っていうかポケットからはみ出してたこれを、誰かに見られてたらど
うするの!?」

「そしたら、見せつけちゃえばいいんだよ♪」

 そう言いながら僕の背中に近づいてきた弥美乃は、僕の左肩にあごを乗せて、僕の脇の
下から腕を回すようにして抱きしめてきた。なんだかこれまでとは背中の感触が段違いだ
と思ったら、たった今二人を隔てているのは僕のTシャツ……つまり布一枚だという事実
に気が付いた。

 女の子の部屋に連れ込まれて、全裸で後ろから抱き付かれている……こ、これはちょっ
と、さすがのヘタレ神でもヤバイかも……って誰がヘタレ神だっ!





「や、弥美乃……だ、だから、こういうのは、やめなって……」

「なんで? 恋人同士なんだし、これくらい良いでしょ?」

 すらっとした白い脚が、僕の腰に巻き付いた。ちょ、マジでやばいって……!

「……こッ、恋人じゃ、ないよ……それに、弥美乃の言う恋人っていうのは、“手段”で
しょ……!」

「ふふ。やっぱりだーりんはステキだなぁ♪ 委員長とか、あの男ども二人と違って……
“本当のこと”がよく見えてる。しかもそれでいて、こんなに優しい♪」

「……ぼ、僕に優しさなんてないよ……あるのは、甘さと臆病さだけだよ」

「それでも」

 弥美乃が僕のTシャツの下へ手を滑り込ませた。さすがにこれはまずいと思って、僕は
服の上から弥美乃の手を握って抑え込む。

「だーりん、すっごいドキドキしてるね♪」

「……そりゃ、こんなことされちゃね」

 すると弥美乃は、僕の体を引っ張って後ろに反らさせると、僕の首に吸い付いた。

「ちょっ!?」

 ぞわぞわとした感覚が、首を中心とした皮膚表面を走り抜ける。これにはさすがに、こ
こまで繋ぎとめていた理性がぐらりと揺れるのを感じた。

 そもそも僕だって、そういう欲求がないわけじゃない。ただこの島に来た当初は精神が
衰弱してて、そういう欲求が沈み切っていたし、しかも双子がしきりにゴミ箱を漁ってく
るものだから……この島を訪れてから今日まで一ヶ月、一度もそういった行為をしていな
いのだ。それが結果として、この鉄壁の理性を築いているのである。

 しかし『精霊通信事件』以降の僕の幸せっぷりや、ここまでの誘惑で、さすがにそれも
限界が見えてきていた。

 さながら吸血鬼のように僕の首に吸い付いていた弥美乃はようやく口を離すと、

「だーりんのすべてはあたしのものだし、あたしのすべてはだーりんのものなんだよ?」

「……」

「だから……ね? 好きにしていいよ♪」

 僕の理性の糸が、ぶちぶちと切れかかるイメージが浮かぶ。そして、それはただのイメ

ージではないことも、このままではマズイということも、直感で理解できた。

 だから、僕は。



「きぃ~~~みぃ~~~がぁ~~~あぁ~~~よぉ~~~おぉ~~~はぁ~~~~~♪」





 僕の耳元で、弥美乃の「ふぇっ?」という声が聞こえた。しかし僕はかまわずに、国家
独唱を続行する。

「ちぃ~~~よぉ~~~にぃ~~~いぃやぁ~~~ちぃ~~~よぉ~~~にぃ~~~♪」

「ちょ、ちょっ、だーりん……? どうしたの?」

「さぁ~~~ざぁ~~~れぇ~~~、いぃ~~~しぃ~~~のぉ~~~♪」

「だーりん……? ね、ねえってばぁ……」

「いぃ~~~わぁ~~~おぉ~~~とぉ~~~なぁ~~~りて~~~♪」

「…………」

「こぉ~~~けぇ~~~のぉ~~~、むぅ~~~うぅ~~~すぅ~~~う、まぁ~~~あ

ぁでぇ~~~♪」

 僕の歌声が響き終わったあとには、静寂が室内を満たしていた。僕の服に潜り込んでい
た弥美乃の手はもう脱力していたし、僕の理性も完全に復活していた。そりゃそうだ、こ
んな歌をなんの脈絡もなく披露されれば、あらゆるムードは台無しになる。

 昔、僕は本土にいた頃、当時唯一の友人と一度だけケンカをしたことがあった。険悪な
ムードだったのだけれど、しかし突然その友人が君が代を歌いだして、それがなんだか異
様にシュールで、二人して笑い転げたことがあったのだ。ちなみにその後、友人とはすぐ
に仲直りができた。それを思い出して、一か八か実行してみたのだ。

「ぷっ、ふふふっ」

 ワンテンポ遅れて、弥美乃が僕の背中で笑いだした。僕は笑いこそしなかったけれど、
こんなムードになってしまえば、間違っても一時の過ちを犯すことはないだろう。

「ふふ、うふ、ふふふふっ、あはははははははははっ!」

 弥美乃はそのままひとしきり笑うと、僕の背中に頭を押し付けて、しばらく沈黙してい
た。

 ……そして、



「いい気になってんじゃないわよ、このヘタレ男っ!」



 僕の背後から、先ほどまでの甘ったるい声色とは正反対の刺々しい声が炸裂した。





「……や、弥美乃……?」

「こっちが下手に出てれば調子に乗っちゃってさぁ……! あーもう、やっぱりあたしに
こういうのは向いてないのよ!」

 弥美乃の異様な豹変ぶりに驚いて、まともな言葉が出てこない。この声の変わり方はも
はや、喉の使い方が違うとか息の出し方が違うなんて生ぬるいものじゃない。違うという
なら、それはもはや人格ごと違うかのようだ。

 僕は混乱しつつも、背後にいる弥美乃の表情を窺おうとした。するとそのとき、シャキ
ン、という金属音が首のすぐ後ろで響いた。最悪の想像が脳裏を駆け抜け、一気に全身が
硬直する。

「おとなしくあたしの言うことを聞いてれば、あんたもイイ思いできたってのに……ほん
とバカね。まあ、あたしには心に決めた男がいるから、こっちとしてもあんたなんかに処
女を捧げずに済んでラッキーって感じだけど?」

 心に決めた男って、もしかしてうちのクラスの……? などと考えていると、ヒタリと
冷たい金属が首に当てがわれる。僕の喉から「ひっ!?」という引き絞ったような情けな
い声が漏れた。

「あたしは手段を選ばないわ。どんな手を使ってでも、どんなに手を汚してでも、目的を
達成してみせる……必ずね」

 シャキン、という音が、再び僕の耳元で響いた。あの黒光りする巨大な鋏がありありと
想起させられて、思わず背筋がぶるりと震える。

 さきほどまでの彼女は、鳥羽の言葉を借りれば“ペルソナ”……いわゆる仮面だったの
だろうか。だとすれば、今のダークサイドこそが弥美乃の本性ということなのだろうか。

「あんたは今からあたしの奴隷よ。あたしの言うことには絶対服従…………いいわね?」

「え、いや、あの……」

 シャキン。

「かしこまりました弥美乃様!!」

「そう、そうよ。最初っから、そうやっておとなしくあたしに従ってればいいのよ。ふふ、
震えちゃって、かわいい♪ 良い子には、ご褒美あげちゃうわ」

 弥美乃は僕の上半身を引っ張って後ろへ倒すと、僕の頭を抱きかかえる。さっきまでの
ムードでこれをやられていたら、この後頭部の感触にコロッとやられていたかもしれない。

「あたしに逆らったりなんかしちゃ、だめなんだからっ!」

 いろんな意味で迂闊に動くことのできない僕は、おとなしく弥美乃の胸に抱かれるしか
ない。なんかもう命の危機がチラついているということもあって、この体勢もまったく嬉
しくないのだけれど。





「最初からこうしておけばよかったわ。あんたなんかに気を遣うことなんてなかった。
いくらあんたがあたしの救世主でも、手段を選ぶことなんてなかったのよ」

「……救世主?」

 巨大な鋏を開閉させながら、上下逆さな弥美乃の顔が喜悦に歪む。

「そう、あんたはあたしの救世主。これでやっと、あたしの世界を壊せるのよ……!」

 その意味深な言葉に、僕はわずかに首を傾げる。彼女はじつに嬉しそうで、紅潮した頬
がその興奮を物語っていた。

「ほんとは、あの人以外の男なんて大っ嫌い。だけどあんただけは特別よ。あたしの目的
を達成してくれるなら、あんたになにをされたっていいわ。あたしの体なんていくらでも
使わせてあげる」

「……あの、さっきからなにを……」

 恐る恐る口を挟んでみるけれど、しかし弥美乃は取り合ってくれない。

「満月は、たしか明後日よね。きっとその日がいいわ。あんたがいれば、きっと辿り着け
るもの」

 弥美乃は僕の首に回していた手をほどき、背中を押して僕を解放した。

「今日はもう帰っていいわ。そのまま振り返らずに行きなさい。ただし今日のことを誰か
に他言したら……その相手には、酷いことしちゃうから」

「……は、はいっ」

 僕は振り返らずにゆっくりと立ち上がると、重い足を引きずって部屋の扉を開いた。

「!」

 するとそこには、見覚えのない若い女性が立っていた。見たところ、二十代半ばくらい
に見えるけど……

「ちょっとママ! 盗み聞きしてたの!? 最低っ!」

 弥美乃が声を荒げると、ママと呼ばれた若い女性はたじろいで後ずさりをする。今度は
ちゃんと服を着ている彼女の脇を通り、僕は「お邪魔しました」と呟いて小走りで逃げ出
した。一秒でも早く、この家から脱出したかったのだ。

 僕は弥美乃の家から飛び出すと、そのままわき目も振らずに走り続けるのだった。





 僕は現在、遥か下方で岩に砕かれる波を眺めていた。

 場所は、あの白いワンピースの少女が出没する崖の先端。僕はそこに腰を下ろし、ここ
まで走ることで消費してしまった体力の回復に努めているのだった。ここには気持ちのい
い潮風が吹いている。

 僕が弥美乃によって学校を連れ出されたのが昼休みのことだ。それからまだ一時間も経
っていないので、もちろん五時間目の授業はまだ続いている。ということは必然、家に帰
るわけにもいかない。

 もっとも、双子や氷雨がお婆ちゃんにチクってしまえばサボりはバレてしまい、この時
間潰しも完全に無意味なものとなるわけだが……

 教室で食べることのできなかった氷雨のお弁当を、この場所で食べておく。するといつ
もおいしい氷雨のお弁当が、さらにおいしく感じるかのようだった。友達と机を囲って食
べるお弁当もおいしいけれど、やはり根本的に孤独体質であるところの僕は、こうして芸
術的な風景の中で一人寂しく食事をするというのが肌に合っているのかもしれない。

 しかしそんな久方ぶりの孤独を噛みしめていられたのも束の間。

「あれぇ? きつねさんだぁ!」

「っ!?」

 振り向くとそこには、やや長めの髪の毛を後ろに流しておデコを露出している少年・三
朝くんが立っていた。足音がまったくなかったので、話しかけられるまで彼がすぐ近くま
で迫っていることにも気が付かなかった。っていうか“きつねさん”ってなんなんだよ、
ホントに……

 いかにも陽気で快活そうな顔つきの三朝少年は、かわいらしい八重歯をのぞかせながら
雑草……、もとい“んっごい草”とやらを食んでいた。

「きつねさん、学校はどうしたの? 開校記念日?」

「い、いや、今日は、学校あるけど……」

 というか今日が開校記念日かなんて、先月この島に来たばかりの僕に聞くようなことじゃ
ない。

「三朝くんこそ、どうしたの……? まさか、また寝過ごした……とか?」

「えへへ、じつはそうなんだぁ。なんか最近、ぽかぽかしてるよねぇ」

 悪びれる様子もなく頭を掻く三朝くん。こんなお日様みたいな笑顔をされちゃ、誰だっ
て怒れなくなってしまうというものだ。

「……でも、ちゃんと学校行かなきゃだめだよ」

「はーいっ!」

 いい返事だけれど、きっと彼はこの忠告をすぐに忘れてしまうだろう。そういう感じの
頭の軽い返事だった。

「きつねさん、おとなり、いい?」

「あ、うん。いいよ」

 僕はとなりに置いていたお弁当箱の蓋をどかして、三朝くんの座るスペースを確保する。
そこへ迷いなく腰を下ろした彼はきょろきょろと辺りを見渡して、

「あれぇ、きつねさんのかばんは?」

「ちょっと、学校に置いてきちゃって……あとで取りに行こうかと、思ってるんだけど」

 弥美乃に連れ出されたときに僕が手にしていたのはお弁当だけだったからな……。帰り
のホームルームが終わってみんなが帰りだしたら、僕も自分の荷物を取りに教室まで戻ら
なければならない。

 あれ、そういえば弥美乃はバッグを持っていなかったように思うけど、置き勉したのだ
ろうか? あるいはこうなることを見越して、バッグを持ってこなかった……とか。あの
娘ならそれも十分にありうるから怖い。

 お弁当を食べる僕のとなりで、三朝くんはポケットから取り出した雑草をもぐもぐ食べ
ていた。





 ……そういえば三朝くんはいつもその雑草を食べているけれど、もしかしてあの草はお
いしかったりするのだろうか?

 思えば僕も小学校時代、校庭の花壇に植えられていた花(名前は忘れたけれど、ユリの
ような形をした二センチほどの小さな花で、花弁の付け根を吸うと甘い蜜が出てくるのだ)
を吸っていたり、意味もなく柏餅の葉っぱを食べたりしたものだ。

 それを鑑みればだよ? もしかしたら、じつはその雑草はおいしかったりとかするのか
もしれない。

 僕はごくりと喉を鳴らして、三朝くんに訊いてみた。

「ね、ねえ。その草って、おいしいの?」

「え? きつねさんも食べてみる?」

 そう言って、雑草の一本を僕に差し出す三朝。いや、僕が食べなくても三朝くんが味
を伝えてくれればいいだろう……とは思ったけれど、勧められたものを断るのは僕の流
儀に反するので受け取ってしまった。

 匂いは……特になし。しいて言うなら芝生の青臭い匂いが仄かにするような気がする。

 となりからの視線を感じつつ、僕はおそるおそる雑草を口に運んでみた。

 ぱくり。

「………………うん、草だね」

 草だった。THE・草って感じの、草の中の草ってくらい草だった。特に味もない。

「おいしくはないよねぇ。でも栄養はあるらしいよ? 牧草としても食べられてるから」

 え、今この子なんて言った? おいしくないってわかってるならなんて食べさせたの?
おばかなの?

 氷雨の激ウマ弁当で口直しをしつつ、僕はふと思いついたことを訊ねてみた。

「ねえ、三朝くん。そういえば、その、写生大会では、誰とグループを組んだの?」

「んー? えっとねぇ、まずぼくでしょー、あと鬼ヶ城でしょー、それから鳴門でしょー、
それで最後は、花巻! 高校生がいなかったから、先生がついてきてくれたんだぁ」

「…………へぇ……そ、そうなんだー」

 あれれー、おかしいぞぉ? 一ヶ月も同じクラスなのに誰も顔が浮かばないなんて……

 いやまあ、僕は中学校で三年間同じクラスだったらしい女子に「え、誰ですか?」って
訊いて泣かせたこともあるくらいだし……っていうかそもそも会話をしなければ顔と名前
が一致しないのは不思議じゃないと思います!

 僕はお弁当の最後の一口を嚥下し、「ごちそうさまでした」と小さく呟いてお弁当箱を
片付け始めた。すると、なぜか僕を見ていた三朝くんがにこにこと笑いだした。

「……えっと、なにか?」

「んーん、べつに?」

 そう言いつつも、三朝くんのニマニマ笑顔は継続中だ。なんとなく居心地の悪さを感じ
つつも、僕はお弁当箱を巾着に入れて立ち上がる。

「それじゃあ、えっと、僕はこれで」

「おうちに帰るの?」

「え? あ、いや、ちょっとその辺を、ぷらぷら……みたいな」

「そうなんだっ!」

 ぴょこん、と三朝くんは立ち上がると、小動物のような懐っこさで僕の袖を掴んだ。

「それじゃ、きつねさんにおもしろいもの見せてあげる! えへへ、きっとびっくりしちゃ
うよっ!」

 そう言うと三朝くんは、返事も待たずに僕の腕を引いて、森の中へと導くのだった。





「きつねさん、だいじょうぶ?」

 三朝くんの声が頭上から聞こえる。僕は膝に手をついて肩で息をしつつ、「だ、大丈夫
……」と虫の息で強がった。あれ、前にもこんなことなかったっけ……?

 場所は、以前僕が白いワンピースの少女を追いかけて三朝くんと遭遇した動物広場……
の先に広がる岩石地帯だった。鍾乳洞の天井が地面から生えているかのような物騒な足場
は、ただ歩を進めるだけでも著しく僕の体力を奪っていった。

 しかしながら一方で、野生児チックな三朝くんは涼しい顔でひょいひょいと安全な足場
を確保しては軽やかに進んでいく。そうして僕から少し距離を取っては、僕が追いつくま
で待っていてくれるのである。

 こうしていると、まるで子犬を散歩しているかのような気分だな。三朝くんのおしりに
ふりふり揺れる尻尾を幻視して、テンションが上がってきたぜ。よしっ。

 振り返ると、さきほど抜けてきた森がだいぶ下のほうに見えていた。岩石地帯は段々畑
のような形になっていて、進めば進むほど標高が上がっていくのだ。今でマンションの四
階ぐらいの高さはあるだろうか。

 後ろに投げていた視線を前方へ戻すと、三朝くんが消えていた。驚いて視線を上げると、
彼は二メートルほど上の段差から僕を見下ろしている。え、なにこれ意味わかんない。

「きつねさん、つかまって」

 三朝くんはそう言いながら、僕に手を差し出してくる。おいおい、小学生かそこらのキ
ミに高校生である僕を支えられるわけないだろ……と思いつつも、しかし差し出された手
を無視するのもきまりが悪いので、とりあえずその小さな手を握っておいた。

 次の瞬間、肩から腕が引っこ抜けそうな勢いで体を引き上げられ、気が付くと僕は三朝
くんと同じ高さの場所に立っていた。

「どうしたの?」

 僕が理解の追い付かない現象に白目をむいている様子を見て、首を傾げる三朝くん。僕
は「今のは気のせいだ」と自分に言い聞かせて、正気を取り戻す。

 すると三朝くんは僕の袖をちょいちょいと引っ張って注目を促す。

「きつねさん、あっち見てみて?」

「あっち?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべた三朝くんが指さす先へと視線を向ける。すると僕は、彼がど
うして僕をここへ連れてきたのかという理由を知ることになるのだった。

 眼下に広がる鬱蒼と茂った森を穿つように、大きくて美しい湖がぽっかりと口を開けて
いた。キラキラと輝く湖面は宝石の海のようで、そしてそこからいくつもの噴水が噴き上
がっている。

 いや、あれは……噴水じゃない……?

 水飛沫による霧が晴れる。するとその水柱の根本には、なにやら黒くて大きな影が。

「あれは……もしかして、クジラ!?」

「そうだよ、すごいでしょっ! 昔からクジラさんといっしょに暮らしてきた人たちがい
るんだよ。ほら、あそこ!」

 三朝くんのちっちゃな手指がどこを指しているのかはよくわからなかったけれど、しか
しながらなにを指しているのかはよくわかった。だって三頭ほどのクジラが泳いでいる湖
(おそらく海水だろうから、あれを湖と呼ぶのは不適切なのだろうけれど)の中で、クジ
ラのとなりを小さな人影が泳いでいるのが見えたから。

 となりで泳いでいるのがクジラなので縮尺がよくわからないが、人影はなんとなく子供
であるような気がした。肌は小麦色で、髪はやや長い。





「あの子は青海ってゆーんだよ。青海夏実ちゃん。いっつも海に潜ってて、魚とか貝を獲
ってるの。野生児だよねぇ」

 お前が言うな。

「『クジラ便』っていってね、クジラさんがお荷物をはこんでくれるの。島と外だったり、
島のこっち側とあっち側だったり」

「へぇ……」

 つまるところ、彼女の一家、あるいは一族はクジラ便という職を生業としていて、あの
クジラたちは彼女たちに飼育、ないし共生関係を築いている……ということか。

 もうこの島に住み始めてから一ヶ月だ。さすがにこの島の不思議風習に驚くことはない。
ただ、本土でクジラに載せた物資を積み下ろしする人たちが気の毒で仕方ないなと感じた
だけだ。それとも、あっちにもクジラ使いの一族が常駐しているのか?

 とすれば、あの子……青海夏実ちゃんとやらは一族の跡継ぎ修行の一環として、ああやっ
てクジラたちと一緒に泳いで戯れているのだろうか。

 青海ちゃんは、僕たちの眼下、遥か下方でキラキラと輝く湖面を泳いでいる。その姿は
優美で、野生児というよりは人魚のようだった。時おり水中に潜っては、クジラたちが息
継ぎをするのに合わせて浮上している。そして一際大きなクジラの前に回って鼻っ面を撫
でていたところで、



 パクッ……と。青海ちゃんは、あっけなくクジラの口の中へと消えていった。



 ―――ッ!!?!??!!?

「うぉわあああああああああああああっ!?」

 あば、あばばばばっ!? た、食べ、食べらららららッ!!





 慌てて三朝くんを見ると、彼はささくれをいじくるのに夢中になって、湖の方を見てい
なかった。

「ちょ、み、三朝、クンっ!? ちょっ、いま、今……青海さん、しょ、食されっ……食
されッ……!?」

 まったく呂律の回っていない僕の言葉は、もちろん三朝くんには通じない。そうこうし
ているうちに、大きなクジラは水中へと潜ってしまった。

「ああっ! ちょ、待っ、ぅええええッ!? あの、え、青海、死ん、食され……!?」

「どうしたの、きつねさん? あ、そういえばね、このへんには陸クラゲが出るかもだか
ら、足もとには気をつけてね?」

 陸クラゲってなに!? っていう突っ込みをしたいところだったけれど、しかし今はそ
んなことに構っている猶予はない。

「そ、そんなことよりも三朝くんっ! あの、クジラの子が……!」

 そう言いながら湖の方を指さした僕はそこで、



 再び浮上してきたクジラの口からひょいっと出てきた女の子を目撃した。



「…………」

「きつねさん、クジラさんがどうかした?」

「……えっと……いえ、なんでもないです」

 三朝くんはクジラを近くで見てみるかと僕に訊ねてくれたのだけれど、しかしこれ以上
理解の及ばないことをされると僕の精神の健康が脅かされるため、謹んで遠慮しておいた。

 また、どうやらこの湖は島の真ん中辺りにあるらしく、青海夏実ちゃんとやらは島の反
対側の学校に通っているらしいことが三朝くんによって明かされた。

 この島の反対側に町があるというのはひかりから聞いて知っていたことではあったけれ
ど……でも島の反対側というのが、あのクジラ娘のように強烈な子がたくさんいるような
人外魔境ダンジョンなのだとしたら、僕は決してあちらへ渡りたいとは思わない。決して。





 その後、僕たちは森の奥深くに存在する、ある場所を訪れていた。鬱蒼と茂る森の中に
あって、しかしそこだけは一切の植物が根を張らず、灰色にくすんだ地面がむき出しになっ
ているというサークル状の異様な空間だ。

 円形に広がる荒廃の中心には、さながら墓標の如き巨石が地面へと突き立っていた。そ
れだけでも十分に驚かされる光景ではあるのだけれど、しかし三朝くんが僕に見せたかっ
たという“おもしろいもの”というのはこの墓標のことではなかったらしい。

「あれぇ? おかしいなぁ、いつもならここにいるはずなのに」

 それからしばらく待ってみたのだけれど、結局のところ三朝くんが探しているものは現
れなかったようだ。

「すっごいきれいな鳥さんなんだぁ。きつねさんにも見せたかったんだけどなぁ……」

 いや、相手が動物なのだとしたら、僕がいるかぎり現れることはないだろうな……多分。

「ううん、ありがと、三朝くん。十分すごかったよ。ひかりからいろいろ聞いてはいたけ
ど、実際に見てみると、やっぱりすごいね」

「そうかな? えへへ、よかったぁ!」

 三朝くんはそう言って無邪気に笑うと、ふと空を見上げて「あっ」と声を上げた。

「もう二時半だねぇ。学校おわっちゃった」

 胸ポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、なんと二時三〇分ちょうどだっ
た。え、なにを見て判断したの? 太陽の位置? 空の色? ……まさか学校のチャイム
が聞こえたとかじゃないよな?

 ともあれ、いつまでもこうしてぷらぷらしているわけにもいかない。そろそろ帰ろうか
ということになり、もと来た道を引き返すことにした。

 その途中、僕たちはとあるY字路へと差し掛かる。そこは先刻の荒廃した墓標を見に行
く途中にも通りかかった道で、岩石地帯から続く道を進んだ先に左右へと別れる道だった。

 最初にそのY字路を通りかかったとき、三朝くんはこう言った。

「ここはね、『右』に行かなきゃなんだよ? 『左』はあぶないって、このへんの動物さ
んたち、み~んなが言ってるから。だからきつねさん、『左』には行っちゃダメだよ?」

 相変わらず三朝くんはふわふわした雰囲気で言うものだから、あまり危機感は感じなかっ
たのだけれど……しかし森の動物たちが恐れるなにかがあるというなら、もちろんそんな
ところへ行くつもりは毛頭無い。

 だからその時の僕はあまり深く考えずに、「わかったよ」と言葉を返したのだった。





「痛いっ!?」

 蝋のように真っ白だった鳥羽の額が、見る見る赤く染まっていく。

「まあ、ある意味……組織よりもずっと手ごわい相手と戦ってたかな……」

 僕がしみじみと呟くと、それを聞いた鳥羽は心配そうに眉尻を下げる。

「だ、大丈夫なんですか? 私にできること、ありますか……?」

「いや、こうやって話相手になってくれるだけで十分だよ」

 それは意外にも、本心からの言葉だった。『精霊通信事件』を経て友達になった彼らと
は、昼の一件で気まずくなってしまった。笹川や赤穂さんは、僕の知らないところでなに
かをやっているようだし、最近はなぜか気が付くと妙義の姿が見えないことが多い。

 そして極め付けに、今日の弥美乃だ。

 それを思えば、こうやって気の置けない会話をすることができる相手というのは、今の
僕にはとても貴重なのだった。彼女の存在は十分に僕を助けてくれていると言って過言で
はない。

「今の僕には、鳥羽さんみたいな存在がすごく助かるよ。えっと、だからまあ……これか
らも今みたいな感じで接してくれると嬉しいな」

 言い終わってから、我ながら恥ずかしいセリフを言ってしまったと後悔した。ずっと気
を張っていたものだから、自分で思っていた以上にリラックスしていたのかもしれない。

 僕の言葉を受けた鳥羽は目をぱちくりとさせて……かと思えば、これ以上ないくらいの
ドヤ顔をかましつつ腕を組んだ。

「くくく、この私の能力の恩恵に授かるなんて、とても光栄なことなのよ、感謝なさい?
まあ私としても、大切な眷属のために一肌脱ぐというのも吝かではないけれどね」

「………………」

「痛いっ!? な、なんでデコピンするんですかぁ!?」

「あ、いや、ごめん。なんとなく」

 涙目になる鳥羽の額を撫でてやる。なんかいいなぁ、こういうの。鳥羽とひかりが妹だっ
たら、僕の精神衛生はかなり良好だったのではないだろうか。……あれ、今なんかおかし
かったような……

 するとそのとき、僕の胸ポケットのスマホが振動する。どうやらメールを受信したらし
いのだが、友達のいない僕のスマホは滅多にメールを受信しないので、よもや『精霊通信』
かと緊張が走るため心臓に悪い。

 メールボックスを開くと、



 差出人 りずむ

 件名 できたよーっ!(*^▽^*)ノシ

 本文 例の曲が完成しました! おまたせっ!('◇')ゞ
    詳しくはパソコンの方を見てね(*^。^*)





「早っ!?」

 思わず声に出して突っ込んでしまった。それくらいの衝撃だったのだ。

 いやいやいや、いくらなんでも依頼して一日で曲が作れるわけがない。もしかしたら、
すでに完成間近の曲があって、それを僕に譲ってくれたのかもしれない。だとしたらあり
がたい話だ。

 スマホから顔を上げると、鳥羽が興味津々といった様子で僕を見上げていた。一瞬メー
ルの内容を口にしようかと思ったけれど、そうすると僕の“ズル”がバレてしまうことに
気がついて、曖昧な笑みを浮かべつつスマホを胸ポケットへと戻した。

 代わりに、僕は次のステップへ移行すべく鳥羽に質問を投げかける。

「ねえ鳥羽さん。みんなは自分の曲を録音するとき、どこで録ってるの?」

「えっと……ほとんどの人は、花巻さんのおうちで……」

 花巻……たしか、妙義が言ってた音楽一家の子だったかな?

「鳥羽さんも、その花巻さんのおうちで?」

「いえ、私は自分のうちです。私の部屋、防音ですから」

「そうなの!? ちくしょう、なんで僕の部屋は筒抜けなんだ……!」

 防音設備と施錠機構があれば、どれだけいろいろなことが捗ることか……!

 僕が本気で悔しがっていると、それを見た鳥羽は遠慮がちに、

「あの、よかったらうちに来ませんか?」

「……え?」

「今日はもう遅いですけど……明日とかはどうですか?」

「……い、いいの?」

「大丈夫ですよ。えっと、放課後でいいですか?」

「う、うん、鳥羽さんがよければ、その、お願いします」

「はいっ!」

 なぜか僕よりも嬉しそうな笑顔を浮かべた鳥羽は、もうすっかり夕陽が沈みきってしまっ
た山の方へチラリと目をやって、

「くくく、あまり帰りが遅くなると、我が“器”の親が心配してしまうわ。名残惜しいけ
れど、そろそろ行かなくてはね」

 なんだかんだ言いつつ、門限にビビる現人神なのだった。

「うん、それじゃあ、また明日」

「再び我が力の出ずる刻に、出逢いましょう」

「お、おう……」

 くそ、いきなりだったから対応できなかった……!!

 鳥羽を家まで送って行こうかとも考えたけれど、さすがに馴れ馴れしいかと思ってやめ
ておいた。まだそんなに暗くはないしな。

 鳥羽に手を振って別れたあと、僕は疲れ切った体と頭を労わるようにゆっくりと歩きな
がら空を見上げた。まだ西の空には朱色が滲んでいるものの、東には輝く星空が浮かび始
めている。五月でこれなら、十二月にはかなりの星空が期待できるのではないだろうか。

 そんなおセンチな気分で歩いていたためだろうか、それとも鳥羽と出会ってしまったた
めだろうか、僕はとても重要なことを忘れたまま帰宅してしまったのである。

 疲れ切ったまま神庭家にたどり着いた僕は、そこで双子たちに午後の授業をサボってな
にをしていたのかという詰問を受け……

 そしてすっかり忘れていた首筋のキスマークについて、それはもう根掘り葉掘りと質問
責めに遭うのだった。





 一人目は、野球部の男子だった。その日は雨で、野球部員は階段での昇降トレーニング
をしていたらしい。彼はそのトレーニング中に足を滑らせて、階段から落ちてしまった。
部員によると、彼はこのところずっとなにかに怯えている様子だったとのことだ。利き腕
を骨折してしまったので、一年からレギュラー入りしていた彼は夏の大会には出場できな
いことが確定した。

 二人目は、高熱を出してしばらく学校を休んでいた。クラスメイトがお見舞いに行くと、
ひどく取り乱した様子で「お前は本物か!?」と叫びながら追い返していたらしい。家族
の用意した食事にも手を付けない彼は、極度の栄養失調により入院したとのことだ。

 三人目は、授業中に突然叫びだして倒れてしまった。ずっとまともに眠れていなかった
らしく、見るからに精神に異常をきたしている様子の彼は、聞くところによると自分の腕
を切りつけて病院に運ばれ入院。電話の音を聞くと極度の興奮状態になってしまう彼は、
ほどなくして転校していった。

 四人目は、包丁を持って深夜徘徊しているところを逮捕された。その際、警官二人を切
りつけたことによる公務執行妨害や傷害罪、諸々によってしょっ引かれてしまったようだ。
クラスメイトを殺害するということを仄めかす供述をし、更生の兆しが見えないことから
少年院に送られてしまったらしい。

 電気も点けずに真っ暗な部屋で、僕は笑った。

 それはもう楽しそうに、おかしそうに、腹筋が攣りそうなくらいに笑った。

 いまだかつで、こんなに愉快な気分になったことはない。

 両親が心配して部屋を覗きに来ても、構わずに笑った。

 真っ暗な部屋でひたすらに笑った。

 笑い疲れて眠り、目が覚めると……



 僕は空っぽになっていた。



 それから一週間後、僕は離島に住んでいるというお婆ちゃんの家に預けられることになっ
た。心を蝕む都会から離れて、のどかな自然に囲まれることで元気になってほしいのだと
両親は言った。それが本心なのか、それとも頭のおかしくなった息子を厄介払いしたかっ
たのかは、わからなかった。

 荷物をまとめている最中に、机の奥にしまっておいた五十音表と十円玉を見つけた。し
ばらく悩んでから、それらを封筒に入れて、スーツケースに詰め込む。

 クラスメイトの誰にも告げずに、唯一の友人に挨拶もなく、僕は本土を後にした。





 ここのところ、なんだか眠りが浅いような気がする。あんまり疲れが取れている感じが
しないし、寝起きも悪い。

「ふわ~ぁ」

「「ふわ~ぁ」」

 大きなあくびを一つすると、正面でいっしょに食卓を囲んでいた双子、雫と霞もいっせ
いにあくびをする。僕は昨日、りずむさんにお礼のメールを送ったあと、送られてきた曲
をひたすら聴きこんでいたのだけれど……すっかり夜遅くなってからベッドへ横になって
からも、隣の部屋からは話し声が聞こえていた。どうやら夜通しで漫画を描いていたらし
い。

 どれ、ここは一つ兄貴風を吹かしてやるとしよう。

「雫、霞。あんまり夜更かししちゃだめだよ?」

「うーん、そうなんだけどねー」「やっぱり締切間近は徹夜気味になっちゃうんだよねー」

「え、締切とかあるの?」

「うん。『サンサイダー』っていう、島のマスコットキャラの漫画を頼まれてるんだけど
さ」「それは島の自治体から頼まれてるから締切があるんだよね」

 そうだったのか、それは初耳だ。まあ、そういう風に締切に追われたりした方が漫画家
の実態に即していると言えるかもしれないな。それでも嫌になったりせずに続けられるな
ら、きっとそれは“本物”なのだろう。

「楽しい?」

「「当然っ!!」」

「ふふ、そっか」

 思わず笑みがこぼれる。なんていうか、こういうのを父性っていうのかな。僕は自分の
恋愛を諦めてからというもの、なんだか女の子や子供に対して親みたいな感情で接するこ
とが多くなった気がする。え、なにそれ悲しい。

 ともあれ、そうやって将来の夢に邁進できるというのは羨ましいものだ。しかし夢を持
つというのは、自分のことが好きでいられる人間の特権だとも思う。だから僕には、将来
の夢と呼べるようなものがないのだ。





 そうだ、夢と言えば……

「ねえ氷雨。今日の放課後、予定あったりする?」

 僕らの会話に我関せずといった態度を貫いて食事していた氷雨が、ちょっと驚いたよう
な顔で振り返る。相変わらず僕たちの座布団は、一メートルほど離れていた。

「……なんですか?」

 予定が空いてるかどうかは答えずに、まずはこちらの意図を訊ねる。ふむ、僕がコミュ
障だからよくわかるが、これはあわよくば相手の誘いを断ろうとしている人に多い対応だ。

 そして、相手に心を許していない人に多い対応でもある。

「今日の放課後、鳥羽さんの家で僕の曲を録りに行くんだけど……よかったら、来ない?
……ほら、ついでにさ、“例の件”を……」

「「行く行くーっ!!」」

 キミたちは誘ってないから! ちょっと黙ってて!!

 僕は双子を強引に無視して、氷雨の反応を待つ。べつに断ってくれてもいいのだけれど、
歌を教えると約束した手前、一応はこちらから誘うモーションはかけておかないといけな
いからな。

 さっきの反応からして断る可能性が濃厚だし、これで断られたら、しばらくは誘わなく
ても大丈夫だよね。むふふ。

 ……などと僕の黒い部分が打算的なことを考えているあいだ、氷雨は茶碗に視線を落と
して沈黙していた。

 そして、茶碗から視線を挙げないままに、

「……いえ、今日は……ごめんなさい」

「あ、うん……そっか。いきなりだもんね、ごめん」

 よし、計画通り。思えば僕の誘いに乗る人なんて、昔からほとんどいないもんな。これ
を聞いたら大抵の人は、気の毒とか可哀想だと思うかもしれない。だけど逆に、結果を簡
単に読み取れるということは、相手の行動を思い通りに誘導できるということでもある。

 それを逆に利用できるようになれば、さきほどの僕のように快適な環境づくりに応用も
できるというものだ。……べ、べつに寂しくなんかないんだからねっ!

 食事を終えた僕たちは、各々準備を整えて学校へと向かったのだった。





 山腹へと張り付くように建つ学校から下校する道すがら、左右を木々に切り取られたこ
の通学山道で、僕はかつてない憂鬱に襲われていた。

「だーりん、どうしたの? 浮かない顔しちゃって♪」

 僕の左腕に抱き付く弥美乃が、白々しいことを言いながら微笑む。今日も今日とて喪服
のように全身真っ黒なコーディネートの彼女は、明らかに意図して僕の腕に二つのふくら
みを押し付けてくる。

「……あつみ、その女を今すぐ海に捨ててきて」

 僕の右手を握っている凪が、ギリシャ神話とかだったら人が消し飛びそうな視線で射抜
いてくる。どう考えてもランドセルを背負った幼女が発していい殺気じゃありません。先
ほど弥美乃のいないところで僕と弥美乃が恋人関係にないことは説明しており、それにつ
いてしばらく目を瞑るかわりに、今度凪の家に泊まることを約束させられてしまった。

「こ、これは何事なのかしら……まさか、機関の攻撃!?」

 僕の右後方をついてくるのは、黒のゴスロリファッションに身を包んだ中二少女の鳥羽。
彼女は彼女でそれはもう強烈なキャラクターをしているのだけれど、溶接工場もかくやと
いうほど火花が散りまくっているこの空間に足を踏み入れる勇気はないらしい。僕もでき
れば今すぐ逃げ出したいです。

「……」

 僕の左後方から無言のまま冷ややかな視線を送ってくるのは氷雨だ。最初、僕は氷雨と
二人で帰ることを想定していたのだけれど、それがあれよあれよと増えてゆき、こんなこ
とになってしまったのである。せっかく、珍しく機嫌がよさそうだったのに……

「これでは、明さんの言った通りですね……」

 最後尾でなにやらため息を吐いているのは、我らが委員長の赤穂さんだ。どういう風の
吹き回しか、今日の放課後を僕と一緒に過ごしたいなどと血迷ったことをおっしゃってお
り、彼女も今日、鳥羽の家についてくることとなっている。

 なんだこれ……どういう状況なんだ。こんな嬉しくないハーレムが存在していいのか?
僕は今までハーレムものの主人公に対しては黒い感情を抱き壁ドンしていたのだけれど、
これはちょっと認識を改める必要があるかもしれない。

 こ、これが妙義の示唆していた、八方美人の代償なのか……? い、いや、これがハー
レムだとは一概に言い切れないのも事実だ。だって彼女たちとの関係性は、恋人(偽)、
友達、友達、眷属、従兄……よし、こうして整理してみると可哀想な人だな。

 だけどそれぞれの事情をすべて知っているのは僕だけであり、つまり僕以外から見ると、
かなりえげつない男という風に見えてしまうのかもしれない。

 そう、たとえば僕に興味を持っているような人物が、折悪しくもこの状況を目撃してし
まったとしたら……そしてその人物が、島内の人々に対し大きな影響力を持っていたとし
たら……

「お、お前さんが……久住篤実?」

 通学山道の麓で仁王立ちしていたその男を目撃したのは初めてだったけれど、しかしな
がらその特徴的すぎる外見は伝聞通りの威容で、即座に記憶の水底から浮上してきた。

 褐色の肌、身の丈七尺二寸、筋骨隆々、サングラスにスキンヘッド、南国を思わせるよ
うなアロハシャツを肩に引っかけたその男は、人の良さそうな顔つきを渋面に歪ませてド
ン引きしていた。

 鬼ヶ城獅子彦。

 『アンチャン's レディオ』なるラジオのパーソナリティをしているというその男が、
この最悪のタイミングで満を持して現れたのである。

 南無三ッ!!





「こりゃあ、聞いてた以上にとんでもない新星が現れたもんだぜ」

 野獣の唸り声のような野太い声質で、フランクなセリフを吐く巨漢。戦国時代に生まれ
ていたら鬼神の類かと疑われていたであろうその男は、気軽な足取りで僕にまっすぐ歩み
寄って手を差し出してきた。

「俺っちは鬼ヶ城獅子彦。おっと、だけど名前で呼ぶんじゃないぜ? 俺っちのことは、
『アンチャン』って呼んでくんな」

「は、はあ……」

 差し出された手を、恐る恐る握り返して握手を交わす。手のサイズがとんでもないので、
リアルにバスケットボールを握りつぶせるんじゃないかってレベルなのが超怖い。

 アンチャンなるその大男は、僕の周りにいる女子たちを順番に見渡す。

「ふんふん、なるほどねぇ。なんていうか、特に気難しそうなのを懐かせたもんだな。こ
ん中じゃ、俺っちとも碌に話してくれねぇのだっているぜ?」

「な、懐かせたっていうか、普通に、友達ですよ……ははは」

 なぜか左腕と右手が同時につねられる。痛い! やめて!?

「ふぅん、そうかい? いや、それはここでは深く聞かないことにしようじゃねぇか。兄
ちゃん、そんなお前さんにビッグニュースだ!」

 そう言いつつ両腕を広げるアンチャン。いきなりだったからびっくりして、思わずのけ
反ってしまった。

「俺っちのラジオ、『アンチャン's レディオ』については知ってるな? 今度の放送に、
お前さんをゲストとして招待するぜッ! イエァ!!」

「ゲ、ゲストですか?」

「おうよ! なんなら今夜だって構わないぜ?」

 褐色の肌に真っ白な歯がコントラストしていて眩しいアンチャン。これが日本人だなん
て僕は認めない。どっちかっていうと、アメリカとかのパニック映画で最後まで生き残る
黒人キャラみたいだ。この人なら人食い鮫を素手で引きちぎりそうだけど……





 ただでさえ人見知りな僕はその勢いに圧倒されつつも、

「あ、あの、ラジオで流すっていう自作の曲を……その、今日、録っちゃおうかと思って
いて……」

「おおッ、そうだったのか! いやぁ、感心感心! そういうことなら、準備ができたら
桜花……俺っちの弟に言ってくんな」

「わ、わかりました……」

「おう、それだけ言いに来たんだ。それじゃ、良いところを邪魔して悪かったな! また
近いうちに会おうぜ!」

「はい、その、また……」

 地震のように襲来したアンチャンは、嵐のように去って行った。一体なんだったんだ……

 あとに残された僕は、苦笑いしつつ振り返る。

「えっと……それじゃあ、帰ろうか」

 それから弥美乃は「明日の準備があるから♪」と不穏なことを言い残して僕らと別れ、
凪は「たのしみにしてるから」と呟いて帰って行った。

 当初の予定よりも大幅に増えてしまったメンバー四人で向かい合い、僕はチュニックを
身にまとった天使に目を向ける。

「赤穂さんって、鳥羽さんの家知ってる?」

「クラスメイトの家は、一通り」

 さ、さすが委員長……

 続いて視線を氷雨に向けると、彼女は小さく首を振りながら、

「すみません、わからないです」

「そっか、それじゃあ悪いんだけど赤穂さん、一回うちに寄ってもらってもいいかな?」

「ええ、大丈夫です。というよりも私は家に帰る必要がないので、このままいっしょにつ
いて行きますよ」

 にっこりと天使の微笑みを浮かべる赤穂さんに、僕の胸が高鳴る。くっ、久しぶりの全
開エンジェルスマイルだったから威力がヤバイな。

 しかし家に帰る必要がないってどういう意味だ? 親が心配しそうなものだけど……

「じゃあ鳥羽さん、またあとでね」

「う、うんっ」

 一度その場で解散して鳥羽と別れた僕たちは、三人で神庭家へと向かうのだった。





「おかえり。……あら美崎ちゃん、いらっしゃい」

 家に帰ると、居間でお茶を飲んでいたお婆ちゃんが出迎えてくれた。

「篤実ちゃんがあの三人以外の子を連れてくるなんて、珍しいねぇ」

「あはは……うん、これからまた出かけるんだけどね」

「晩御飯までには帰るかい?」

「氷雨はそうかもしれないけど、たぶん僕は遅くなっちゃうと思う」

「そうかい、それじゃあ帰ってきておなかが減ってたら、簡単なものを作ってあげるから
ねぇ」

「うん、ありがとうお婆ちゃん」

 それから僕はまっすぐに自室へと向かう。僕がパソコンやマイクなどの機材を揃えてい
るあいだ、なぜか氷雨と赤穂さんもいっしょに僕の部屋に入ってきて、それぞれくつろぎ
始めてしまった。

「篤実さん、相変わらず部屋を綺麗になさってるんですね。とても男の人の部屋とは思え
ません」

「うん、まあ、物はあんまり置かないんだ。いつ追い出されてもいいようにね」

 半分冗談のつもりで言ったのだけれど、悲しいかな僕の普段の行いのせいか、わりと本
気で言っていると取られてしまったようだ。赤穂さんは眉をひそめ、氷雨へと向き直る。

「……そんな家庭環境なんですか?」

「そんなことありません。兄さん、適当なこと言わないでください」

「うっ……ごめんなさい」

 僕のベッドに腰を下ろしてくつろいでいる氷雨の冷凍視線に縮こまる。相変わらず家庭
内カーストは最底辺の僕なのだった。

 しかしそこで僕は閃いた。今みたいに氷雨と赤穂さんが会話をするように仕向ければ、
氷雨のぼっちも解消できるのではなかろうか。赤穂さんって割と誰とでも話しているし、
基本的にコミュ障が集団の中で孤立しないための一番の方法は、コミュ力の高い人間を一
人味方につけることなのだ。

 だが僕が黙っていると、二人の間に会話は生まれないらしい。赤穂さんは世話焼きタイ
プなので、わりと一人でなんでもできる氷雨とは相性が悪いのかもしれない。

 そんなわけで僕は、二人に話題を提供することにした。

「一つ心理テストをやってみない?」

 僕の唐突な提案に、目を丸くして注目する二人。

「自分の赤ちゃんが泣きました、電話が鳴りました、インターフォンが鳴りました、洗濯
物を干しているのに雨が降ってきたことに気が付きました。さて、あなたはどれからどう
取り掛かる?」





 これはわりと有名な心理テストで診断結果もさまざまな亜種があるのだけれど……今回
は人間関係についてのテストだ。赤ちゃんが家族、電話が友人、来客が知り合い、洗濯物
が職場の同僚を表していて、どれから取り掛かるかで身の回りの人間の優先順位を知ると
いうものだった気がする。

 ……けどまあ、そんな結果はどうでもいいのだ。コミュ障の僕が言うのもなんだが、こ
ういうのはコミュニケーションの種になるということが重要なのであって、血液型占いと
かと同じようなものなのである。こういうのは当たるとか当たらないとか誰も期待しちゃ
いないんだから。

 しかし僕はこのとき、目の前の二人のことを甘く見ていたのだ。

 赤穂さんは可愛らしく首を傾げながら、虚空を見つめてこう言った。

「玄関の外にいる人に待ってくださいと声をかけながら赤ちゃんをあやして、電話を肩で
はさんで応対しながら洗濯物を入れます」

 氷雨は静かに目を伏せながら、床を見つめてこう言った。

「条件が自分と離れすぎていて想像できません。とりあえず一番大事なものから処理する
のではないでしょうか」

 僕は性格診断や心理テストの類をまったく信じていない人間だったのだけれど、ほんの
一瞬で考えを改めた。この二人の性格が、よぉ~くわかったからだ。

 まずは赤穂さんに視線をやって、淡々と答える。

「……赤穂さんの診断結果は、『あなたは好き嫌いなどでは人に順位をつけず、誰にでも
平等に世話を焼いてあげられる聖母タイプ。だけど他人に深く踏み込めないため、その幅
広い交友関係の中で親友や恋人に発展する人は残念ながらいません。もっと好き嫌いをし
ましょう』です」

 診断結果を楽しみにしていたらしい赤穂さんの笑顔が、ピシィッ!! と石化する。

 僕は構わず、続いて氷雨へと顔を向ける。

「氷雨の診断結果は、『あなたは自分にとって本当に大切なもののためだけに一途になれ
る情熱家タイプ。だけど理屈っぽくて融通が利かない上に、じつは必要なものでさえも気
づかずに切り捨ててしまうストイックさのせいで学校や職場では孤立してしまいがちかも。
つまらないプライドは捨てましょう』だね」

 診断結果なんてどうでもいいと思っていたらしい氷雨の目尻が、ピクピクッと痙攣する。

「さて、と……録音機材の準備ができたから、鳥羽さんの家に行こうか」

 機材を詰め込んだバッグを背負った僕が二人のあいだを通り抜けようとした、その時。
ガシィッ!! と凄まじい勢いで僕の両腕が掴まれたかと思うと、ブン投げるようにベッ
ドへと押し倒され、怖い顔した二人に馬乗りされて押さえこまれてしまった。





「……な、なんでしょうか……?」

 苦し紛れに愛想笑いを浮かべてみるが、完全フラット無表情となった二人はまったく笑っ
てくれない。ミラー効果ってアレ嘘だな。これ映ってねぇよ、反射されちゃってるよ。

「篤実さんは?」

 赤穂さんが、聞いたことないような低い声を出す。

「……は、はい?」

「だから、兄さんの診断結果は?」

 氷雨も、絶対零度の向こう側に到達した声色で詰め寄ってくる。

 うわぁい、なんだこれ。女の子に押し倒されるのってこんなに怖いことなの? もっと
嬉しいイベントかと思ってたわ。なんかもう命の危険を感じるレベル。いっそのこと、こ
こで「「お兄ちゃーん!」」と双子が部屋に飛び込んで来てくれたらどんなに助かったこ
とか。

 しかしそんな都合のいいラブコメ風イベントは発生しない。現実は非常である。

 だから僕は、この心理テストを初めて見たときに考えたことを、包み隠さず正直に答え
たのだった。

 まず、僕に子供ができるわけがない。

 次に、電話をかけてきてくれるような友人もいない。

 当然、宅配を受け取ったり来客が訪ねてきたりする状況も発生するわけがない。

 つまり僕の答えはこうだ……『静寂に満ちた室内で、洗濯物を入れてから二度寝する』。

 診断結果は、『あなたは幸せになる権利がありません。誰にも迷惑をかけないように、
一人静かに暮らしましょう』となる。

 ちなみにこれを二人に言ってみたところ、わりと容赦なく酷い目に遭わされました。

 みんなも女の子と心理テストをするなら、デリカシーには気をつけよう☆





「ちょっ、篤実さんの顔がひどいことに! なにがあったんですか!?」

「「べつに、なんにも」」

 鳥羽の僕に対するクエスチョンを、氷雨と赤穂さんが声を揃えてアンサーしてしまう。
いやぁ、お二人が仲良くなれたみたいで僕も感無量ですぅ(血涙)。

 いきなり曲の収録を始めるのではなく、せっかくなのでちょっとリビングでくつろがせ
てもらうことにした僕たち。鳥羽のお母さんが淹れてくれた飲み物を飲んで人心地つきつ
つ、室内を観察してみる。

 家のつくりはそれなりに新しい現代風で、最近建てられたものであることがうかがえる。
外から見たときに古めかしい日本家屋がくっついているのが見えたので、おそらく祖父母
の家を増築するような形で建てたのだろう。斬新な和洋折衷だ。

 それにしても先ほどから、鳥羽の様子がなんだかおかしい。そわそわと落ち着かないと
いうか、なにかに怯えているというか。まあじつは、その理由に検討はついているのだけ
れど。

 僕はちょっと悪戯心を燃やして、とても苦そうな顔をしながらブラックコーヒーをちび
ちび飲んでいる鳥羽へと向き直る。

「鳥羽さんの家っていうくらいだから、もっと太陽神の遣いっぽいデザインを想像してた
よ。神社みたいなさ」

「ブフッ!?」

 コーヒーを噴き出した鳥羽に、お母さんが慌ててティッシュを手渡す。

「ああもう、だからオレンジジュースにしなさいって言ったのに。どうして飲んだことも
ないのにコーヒーなんて……」

「は、母上は、ちょっと黙っててもらえるかしら……」

「なによ母上って。それより太陽神の遣いってなに?」

「うわああああああああんっ!?」

 耳をふさいでリビングから飛び出してしまった鳥羽を、彼女の母親は怪訝そうに見送る。

「ごめんなさいね、いつもはあんな感じじゃないんだけど……」

 すみませんお母さん、九割くらい僕のせいです。

「だけどあの子がお友達を連れてくるなんて珍しいわ。ゆっくりしていってね」

「はい」

 僕らは出された飲み物を飲み干すと、鳥羽が半べそかきながら走り去っていった方へと
向かうのだった。





「もう! ばかばかっ!」

 めちゃくちゃラブリーなドアプレートに丸っこい文字で『きよみのへや』と書かれた扉
を開けると、その向こうに広がっていたのは魔界的なおどろおどろしい部屋……なんてこ
とはなく、普通に女の子チックな可愛らしいお部屋だった。

 僕たちはピンクのふわふわクッションを勧められて腰を下ろすと、涙目になった鳥羽が
僕の胸をぽかぽかと殴ってきた。ふはは、全然痛くねぇ。もっとそこの二人みたいに殺気
を込めて殴らないと。

「ごめんごめん、母上には言ってるのかと思って。母上には……ぶふっ!」

「うにゃあああああああああっ!?」

 鳥羽のぽかぽかパンチが倍速になる。いやあ、鳥羽は反応が面白くてかわいいなぁ。

 そんなご満悦な僕の様子を見た氷雨が、怪訝そうな表情になる。

「……兄さん、外だとそんなテンションなんですね」

 それに対して赤穂さんは首を横に振り、

「いいえ、篤実さんがひかりさん以外の人をからかっているのは初めて見ました」

 この島の人たちはみんな気が強いからな……僕が優位に立てる人が少ないのである。

 それを聞いた鳥羽は、一転して得意げな顔になった。

「くくく、私と彼は眷属なのよ。すなわち血族にも等しい強固で特別な繋がりを有してい
るの。そんな私が彼にとって特別であることは当然……自明であり摂理なのよ」

 どやぁ、という擬音でも聞こえてきそうな顔でふんぞり返りながら、氷雨と赤穂さんを
見下ろす鳥羽。すると氷雨が僕に背筋も凍る視線を向けて、

「……彼女がいるのに、ほかの女の子をたらしこんでるんですか」

「い、いや、これはなんといいますか……」

「「彼女?」」

 氷雨の言葉に、赤穂さんと鳥羽が反応する。氷雨は僕に彼女がいると思っていて、赤穂
さんはそれが嘘だと思っていて、鳥羽はそもそもなにも知らないらしい。この三竦みを誤
解なく攻略することは、コミュ障の僕には無謀極まりない。

 だから全力で話題をスルーしてしまうことにした。

「さ、さぁて! そろそろ録音の準備をしないとね!!」

 みんなの視線が冷ややかだけど、僕はくじけないぞぉ☆ ……どうして僕は事実無根の
恋人に振り回されているのだろうか。

 とにかく機材をセッティングして、まずは僕の用事から済ませてしまうことにしよう。


ところで、ものごっつい霊障が居るらしき状態で、ちゃんと録音なんてされるのか?

>>590
その発想はありませんでした! そのネタいただきますっ!




「……ふぅ。こんなとこかな」

 三人の視線を感じながらという気まずすぎる状況の中で、なんとか納得のいく一曲を歌
い終えた僕はマイクから離れて一息つく。そして録音したカセットテープを歌い出しの数
秒だけ再生して、きちんと録れていることを確認する。

 歌うということは意外にもかなりのエネルギーを使うものだ。独特の気だるさがじんわ
りと襲ってきて、僕は椅子の背もたれにぐったりともたれかかる。

「す、すごいではないか!」

 すると今まで静かに息をひそめてくれていた鳥羽が、興奮気味に声をあげる。

「さすがは我が眷属、惚れ直したぞ! やはり私の聖なる瞳に狂いはなかったようだな!」

「あ、ありがと。でも大げさじゃないかな?」

「大げさなどではないと思いますよ」

 続けて赤穂さんも、天使の微笑みを浮かべて鳥羽に同調する。

「とてもお上手でした。それに歌っているとき、普段の篤実さんとは全然雰囲気が違くっ
て、なんだかどきどきしちゃいました」

 おぅふ……そんなことを言われると、今日まで歌の研鑽を積んできてよかったと心から
思う。やばい、お世辞でも超うれしい。

「それ、曲と歌詞も兄さんが?」

 氷雨が突然痛いところを突いてきて、僕は内心けっこう焦る。

「うっ、ま、まあね……ちょっと本土の知り合いに手伝ってもらったりもしたけど」

 その言葉に特に反応したのは、赤穂さんだった。

「篤実さんの、前の学校でのお友達でしょうか? 都会での篤実さんのこと、そういえば
なにも知りません。よろしければ、教えていただけませんか? すごく興味があるんです」

「そ、そんなの聞いたって、なんにも面白くないよ……?」

「私も、我が眷属の過去を知っておきたいぞ。お互い隠し事はなしにしようではないか」

「うぐっ……」

 僕が氷雨に視線で助けを求めると、彼女はなんだか不安そうな表情を浮かべていた。

「私も、兄さんみたいに歌えるようになりますか……?」

「うん。僕ぐらいのレベルなら、きっと練習をすればすぐだよ。ちょっと休憩したら、今
度は氷雨のレッスンを始めよっか」

 録音場所にしていた鳥羽の勉強机から離れると、僕は床で横になった。久しぶりに全力
で歌ったので、思いのほか疲れてしまったのだ。





 さすがに女の子の部屋のクッションに頭をうずめることは気が咎めたので、カーペット
に直接頭をつけていたのだけれど、すぐに後頭部が痛くなって寝返りを打つ。すると、す
ぐ近くのベッドの下になにかが落ちているのを発見した。

 僕は特になにも考えず、無意識に手を伸ばしてそれを太陽の下へと引きずり出す。それ
は手作り感満載の装丁が施された分厚いノートのように見えた。僕は上半身を起こすと、
その表紙に書かれた文字列を声に出して読んでみた。

「『愚理喪環亞瑠』……グ、リ、モ……ワール。……グリモワール?」

「だめええええええええっ!?」

 恐ろしい勢いで突っ込んできた鳥羽のタックルを食らって、後頭部をベッドの角に強打
する。しかし鳥羽はそんなことには気づかずに、僕の手から『愚理喪環亞瑠』なるものを
ひったくった。

「こ、これはほんとにダメです! いくら篤実さんでも!! っていうか人の部屋のもの
を勝手に触っちゃダメですよ!?」

「ついさっき、お互い隠し事はなしにしようではないかって誰かが言ってたような……」

「ひうっ!?」

「よしよし、じゃあ僕の本土でのエピソードを聞かせてあげよう。代わりにその魔導書を
閲覧させてもらうけど。ぐへへ」

 ゲスい顔を作った僕が手をワキワキさせながら、子犬のように怯えて震えている鳥羽へ
とにじり寄る。そして魔導書へと手をかけようとした、その時。

「篤実さん」

「兄さん」

 にっこりとほほ笑んだ赤穂さんと、冷ややかな目をした氷雨が、怒気を滲ませて僕を呼
ぶ。室内にピリッとした緊張が走り、僕は両手を挙げて「降参」のポーズをとった。

 すぐに鳥羽は小走りで二人の後ろに隠れて、僕から距離をとる。やれやれ、すっかり嫌
われてしまったようだ。

 人と人を繋げるのに最も有効な状況は、共通の敵の出現だ。ラディッツを前にすればサ
イヤ人もナメック星人も手を取らざるを得ないのだ。

 コミュ障たる僕は人に嫌われたくはないのだけれど、しかしながら嫌われることには嫌
というほど慣れている。だからここは、可愛い従妹に友達ができるように、僕はラディッ
ツになってあげるとしようではないか。

「うーん、僕らは眷属になれると思ったんだけどね……残念」

 僕は肩をすくめて、このアウェーな空気を受け入れることにした。





 本格的に氷雨のレッスンが始まると赤穂さんや鳥羽は手持ち無沙汰になってしまい、二
人はガールズトークに花を咲かせていた。僕としてはあの中に氷雨も加わってほしいとい
う思いもあったのだけれど、あまりにも真剣に氷雨がレッスンに臨んでいるものだから、
僕も意識を切り替えて全力で歌い方のコツを教えてあげることにした。

 幸いというかなんというか、氷雨は飲み込みの早い方だった。そのため目に見えて上達
しているのがわかって、氷雨本人としても自信につながってくれたように思う。

 しかしまあ、そうは言ってもまだ並以下。カラオケで平均点を取れるラインには達して
いないため、まだ要練習といったところだけれど……氷雨も歌うことが楽しく感じてきた
ようだから、きっとすぐに上手くなれるのではないだろうか。

 そうこうしているうちに、すっかり陽も暮れていた。

「氷雨、ずいぶん上達したんじゃない?」

「……嫌味ですか。まだぜんぜんです」

 まあ、うん、そうだけどさ。

「焦ることはないよ、焦って良いことなんて一つもないからね。だけど自分の部屋と違っ
て、思いっきり声が出せるっていうのはやっぱり違うでしょ?」

「そうですね。音の違いもよくわかりますし、それに歌っていて気持ち良かったです」

 氷雨は鳥羽の方を振り返って、

「あの……また、こうやって歌いに来ても、いいですか……?」

「も、もちろん! くくく、我が居城の瘴気にあてられてしまうのも無理からぬこと……
私もこうなってしまった責任を取らねばなるまい」

 とか言いつつ、嬉しいのか顔がにやけてしまっている鳥羽なのだった。

 親交を深めるのは劇的なイベントではなく、何気ない時間を長く共有することが最も大
切だ。だからこうして家を訪れたりして時間を共有していれば、いずれ彼女たちのあいだ
に友情が生まれる日も遠くはないだろう。

「聖さん、私もまたお邪魔してもよろしいですか?」

「ふ、ふふふ。もちろんだ!」

 僕が言うのもなんだが、赤穂さんも誰か特別に仲のいい友達を作った方がいいと思う。
つまりこの三人が仲良くなってくれれば、僕としてもかなり嬉しい。

 鳥羽がチラリと僕の顔を見る。え、お前はさっさと帰れってことですか? はいはいわ
かりましたよ。

「すっかり遅くなるまでお邪魔しちゃったね。そろそろ帰ろうか」

 出しっぱなしにしていた機材を片付けようとすると、赤穂さんがふと思い出したように、

「そういえば、録音したテープを最後まで確認しなくて大丈夫なのでしょうか? 最初の
数秒だけしか聞いていませんでしたが」

「え……まあ、大丈夫だとは思うけど……」

 いや、しかし万が一ということもある。僕は基本的にデジタル人間なので、カセットテー
プで録音なんてしたことがないし、なにか予想だにしない不具合が発生していないとも言
い切れない。

「……一応、最後に聞いてみようか」

 僕はテープを巻き戻して、再生ボタンを押した。

 古めかしいラジカセから残念な音質の曲が流れる。まあパソコンにも録音しているので
問題はないのだけれど。

 しばらく曲を流していると、氷雨が突然「えっ」と小さく声を上げた。





「……どうかした?」

「いえ、あの……」

 なにか言い淀む氷雨に気を取られていると、今度は鳥羽が「えっ」と声をあげて怪訝な
表情を浮かべる。

「な、なにか変だった? 歌詞間違えてるとか?」

「い、いえ、そうじゃなくって! なんか変な声聞こえませんでしたか!?」

「変な声?」

 僕は結構マジメな声で歌ってたつもりだけど……とテープの音声に意識を向けると、そ
こでちょうど僕の歌声に「ザザッ……」という奇妙なノイズが走った。そして音楽は流れ
ているのに、僕の声だけがプッツリと消えて途絶えてしまう。

「なんだ……? 故障してるのかな?」

「な、なんか怖いですよ! それ止めましょう!」

「いや、でも……」

 女子三人がにわかにパニック状態に陥りかけるなか、僕は異変を感じつつも努めて冷静
でいようと心がけていたのだけれど……

 その瞬間、きちんと録音したはずの僕の声の代わりに……女性の声で、ゾッとするよう
な冷たい声が聞こえた。

 『……こえた……やっと……明日の夜……』

 ガチンッ!! と凄まじい勢いで停止ボタンを押した僕は、首の関節が錆びついたかの
ようにギギギ……とぎこちない動きで振り返る。後ろの三人も放心状態で、表情筋が完全
に機能停止している。





「……さて……と」

 僕は深呼吸を一つして、精いっぱいの笑顔で告げる。

「よし、帰るか! 氷雨、赤穂さん、行くよ!!」

「はい、帰りましょう!!」

「もう外も暗いですしね、急ぎましょう!!」

「ちょっと待ってください皆さんっ!? え、本気ですか!? 私を一人にして帰るつも
りですか!? 嘘ですよね!?」

「いやぁ鳥羽さんが太陽神の遣いで助かったなぁ!! この程度のことじゃなんともない
んだろうなぁ!!」

「都合のいい時だけその設定持ち出すのやめてください!! ちょっ、これ篤実さんに憑
いてるやつじゃないですか!? ちゃんと持って帰ってくださいよ!!」

「いやいやオカルトの話をすると霊が寄って来るという説を信じるなら、普段から現人神
を自称してる鳥羽さんに寄って来てるんだと思うんだよね! それじゃあ頑張って!!」

「絶対いやですっ!! もうこうなったら私も篤実さんたちの家に泊まりますから!!」

「ちょっ、やめろし! うちに憑いて来ちゃったらどうするんだよ!」

「先に連れてきたのはそっちじゃないですかぁ!!」

 なんかもうしっちゃかめっちゃかの大パニックになりつつ、鳥羽が死んでも離してなる
ものかと僕の腰に巻き付いてくる。すると、いつの間にやら氷雨と赤穂さんが部屋の外に
退避していた。

「え、ちょ、二人とも? なにしてんの?」

「委員長、今日うちに泊まりませんか?」

「いいんですか? それじゃあ、ぜひ!」

「うおおおおおおっ!? 今日家に帰れば風呂上がりの赤穂さんが見れるんですか!?
くそ、意地でも帰りたい! こら鳥羽、離せ! 僕はこれから天国に向かうんだ!」

「違います! 篤実さんはこれから私と地獄に落ちるんです!」

 氷雨は鳥羽の部屋のドアをゆっくりと閉めつつ、

「兄さん、明日 千光寺神社へお祓いに行ってくださいね。じゃないと絶対家には上げま
せんから」

「篤実さん、聖さんをよろしくおねがいしますね。それでは、また明日」

「ウェイトウェイト!! ちょっと待ってくださいお願いします!! は、話せばわかる!
よしわかった、ここは公平にジャンケンで決めましょう! じゃーんけーん」

 バタン。

 無情にも扉は閉ざされ、「最初はグー」の形に握られた僕の右こぶしだけが、虚しく空
を切るのだった。



もうずっと直らないんじゃないかとか、アクセスでいないのは私だけなんじゃないかとかヒヤヒヤしてました……

というわけで再開します! あんまり書き溜めはないですが……




 たとえば少年向け週刊雑誌に掲載されているようなハーレム漫画の主人公の境遇を閲読
するにあたって、僕はじつに率直にこう思う―――「爆発しろ」と。

 しかしそれは他人の幸福が恨めしいからであって、自分の境遇に不満を抱いているだと
かそんなことは決してない。なぜなら僕のような人間がそんな境遇に置かれて、まともな
人間関係を築けるはずがないということは重々承知しているためだ。

 多くの種類の人間と仲良くなるということは、つまり一人一人に割くことのできる時間
が減るということなわけで、せっかくのジュースに水を加えていくように、構築した関係
性が希薄になっていくことを意味している。

 そしてもしも。その中の一人にでも自分の正体を看破されてしまおうものなら、芋づる
式に周囲へと情報は拡散され、あっという間に自分の居場所から放逐されてしまうのだ。

 だから僕は、恒常的に多くの人に囲まれて生きるのが怖い。たとえそれが、可愛い女の
子だったとしても。

 ようするに、はやく面倒事を片付けて、気兼ねなくひかりとイチャイチャしたい……

「えろいむえっさいむ、えろいむえっさいむ……」

 僕は鳥羽のベッドに背を預けて、部屋の隅で怪しげな呪文を唱えながら盛り塩をしてい
る黒髪の少女に視線を注ぐ。

 現在、彼女は女の子らしいふわふわ生地の白いパジャマに身を包んでいる。いつもは全
身真っ黒な服装で、指先でさえ露出を避けているのだけれど……今の彼女は半袖に裸足と
いう無防備な格好だった。

 平時は巻かれているボリューミーな黒髪は現在、頭の後ろでまとめてタオルで包んでい
る。それはつまり彼女がお風呂に入ったということを意味しているのだけれど、なぜか異
様なくらい厳重に風呂を覗くなと念を押されてしまった。僕ってそんなにムッツリに見え
ますかね……?

 ついでに補足すると僕もお風呂をいただいたのだけれど、直前に女の子が入ったという
事実をこんなにも意識させられたのは今日が初めてだった。……こんなこと本人たちに言っ
たら怒られそうだけど、家族である神庭シスターズや小学生の凪とは、やっぱり違うも
のなのだ。

 ……やけに排水溝に白髪が引っかかっていたのを、僕は涙を呑んで見なかったことにし
た。苦労してるんだね、そのキャラ……

 家に帰ることが許されない僕には着替えがないので、当然同じ服に袖を通すことになる。
そのため これでけっこう潔癖な僕は、すごく気持ち悪い思いをしなければならなかった。

 しかしこうして露出の高めな鳥羽のレア姿をまじまじと見てみると、彼女はとにかく肌
が白い。いつもあれだけ厳重に肌の露出を避けているのだから当然ではあるけれど、その
ことを差し引いたとしても、まるで陶磁器や絹のような純白の皮膚は、見ているこっちが
不安になってくるような儚さを備えていた。

 儚さ。そう、彼女の印象を表すのにこれほど適切な言葉は他に思いつかない。ひかりの
ように病弱というわけではないだろうけれど、しかし彼女を見ていると、無性に不安に駆
られるような、守ってあげなければならないような、そんな感覚に囚われてしまいがちだ。

 鳥羽はくるりと振り返ると、部屋の隅の盛り塩から離れて僕のほうへと歩いてくる。ど
うやら、科学的根拠どころか霊能的にも効能が皆無であろう謎儀式が終わったらしい。

「くくく……この部屋は太陽神の加護によって守られているから安心なさい」

「そ、そうなんだ」

「塩―――それは大いなる生命の海が、太陽の光によって神聖なる力を注がれたものなの
よ。だから悪しきモノは近づくことができないってわけ」

「じゃあ、悪しきモノが元々部屋の中にいたら外に出られなくなるんだね」

「…………」

 普段から真っ白な鳥羽の顔が、白を通り越して青くなる。

 っていうか鳥羽が一階の台所から持ってきたのは岩塩を砕いたものだった。地中で生ま
れるはずの岩塩が、いつ太陽光線なんて浴びたんだろうか。まぁあんまり言うと可哀想だ
から黙っていよう。





 鳥羽は僕の隣へ腰を下ろすと、同じようにベッドへ背を預ける。

「……その、お、怒ってない、ですか?」

 突然鳥羽の口から出た言葉に、僕は面食らった。

「怒る? なにを?」

「その、ですから、篤実さんをむりやり、泊まらせちゃって……」

 鳥羽は小さな体を丸めるように膝を抱え、まるで親の説教に怯える子供のような目を僕
に向けてくる。さすがにそんな仕草をされて、さらなる追い打ちをかけるような非情さの
持ち合わせはない。

「べつに、怒ってないよ。むしろあの二人じゃなく僕なんかが残っちゃって申し訳ないく
らいだよ。ごめんね」

「あ、あやまらないでください! 私は、篤実さんに残ってほしかったから……」

「……え?」

「だ、だって……眷属、ですし」

 徐々に語気を失っていく鳥羽は、伏し目がちにごにょごにょ口を動かすと、すっかり俯
いてしまった。

 僕はこの機会に、今日まで気にかかっていたことを訊ねてみることにした。

「鳥羽さんの言う『眷属』っていうのは、どういう意味合いで使ってるの?」

「え? 意味合い、ですか?」

 鳥羽は伏せていた目を丸くさせると、視線をあっちこっちにやりながらうんうん唸り、
そうしてようやく答えを出した。

「と、友達……かな。ううん、それ以上……親友? 相棒? そんな、感じです」

「とても親しい人って感じ?」

「そ、そんな感じですっ! あ、でも、ただの友達じゃなくって、特別な友達っていいま
すか……!」

 どうやら鳥羽の方は、僕のことを友達のように思ってくれていたらしい。やっぱりこの
島の人たちは心の距離が近いというか、僕のようなおっかなびっくり腰の引けた人付き合
いはしないらしい。

「僕の他にも眷属はいるの? うちのクラスとかには」

「普通のお友達はいます。……けど、眷属は篤実さんだけです。私の言葉を真剣に聞いて
くれたのは、篤実さんだけでしたから」

 私の言葉、というのは、おそらくあの電波な設定のことだろうか。だとしたら僕もそん
なに真面目に聞いていた覚えはないんだけどな……

 僕がなにげに酷いことを考えていると、鳥羽は途端に陰鬱な面持ちになる。よもや心を
読まれたか!? とちょっぴり焦る僕を尻目に、鳥羽は低い声でポツリと言葉を漏らした。

「でも……隠し事をしちゃってる、から……友達とは言えないのかも」

 ドキリ、と。僕の心臓が大きく跳ねる。

「どういう、こと?」

「そのままの意味です。私、みんなには言ってないことがあって……それを隠して付き合っ
てるのって、なんだか、おかしいことのような気がして……でも、今さら明かすのも怖い
し、それで……」

 ともすれば泣き出しそうな声色に、僕は思わず露骨に視線を逸らす。

 ……そんなことを言い出したら、僕なんかどうなるんだ。隠し事だらけの僕に本当の意
味での友達なんて、できるはずがないじゃないか。





「……隠し事なら、まだいいんじゃないかな。嘘じゃないんだし。直接聞かれたわけじゃ
ないなら、わざわざこっちから言うようなことじゃない限り、言う必要はないよ。むしろ
言わないほうがいいってことだってあるんだから」

「篤実さんにも……そういうことって、あるんですか?」

「……まぁね」

 鳥羽の視線から逃げながら、僕は小さくそう答えた。

 それからしばらく沈黙が流れ、階下から聞こえてくるかすかな生活音だけが室内に満ち
る。

 やがて鳥羽は大きく深呼吸をすると、なにか覚悟を決めたような顔つきで僕に向き直る。

「私、その、嘘ついちゃいました」

「嘘?」

「最初は隠し事だったんです。言わなければ大丈夫だと思って……だけどそのうち、それ
だけじゃ隠し切れないことに気がついて、そうしたら、嘘をついて隠し続けなくちゃいけ
なくなって……」

「……」

「でも、いつかバレるんじゃないかって思ったりもして……! だからって自分から言い
出すのも、怖くって……」

 鳥羽は膝を強く抱き寄せる。小さく丸まった体はよく見れば震えていて、彼女がとても
思い詰めていることが窺えた。

 鳥羽がなにを秘めているのかは知らないけれど、ここで不用意なことを言って彼女の人
間関係に亀裂を入れるような結果だけは避けなければならない。もしも鳥羽が僕のような
えげつない隠し事をしていたとしたら、それを明かすべきだと助言でもして鳥羽がその通
りにしてしまったら、彼女が孤立することになってしまうだろう。

 もしそうなっても僕は彼女の味方でい続けたいとは思うけれど、しかしたった一人の味
方が僕だというのはあまりに可哀想すぎる。それに僕だって壊したくない関係はある。

 だから僕は、なにも言えなかった。ただ黙って、鳥羽の部屋に敷いてもらった布団に視
線をやりながら思考に没頭していく。

 たとえば僕の立場だったらどうだろう。過去に僕が働いた悲惨な罪をみんなに告白する
ことにメリットはあるだろうか?

 いいや、それは確実に皆無だろう。答えはノーだ、間違いない。みんなドン引きして僕
から離れていくに違いない。そして今までそれを黙っていたことに幻滅し、ひかりたちは
心に傷を負ってしまうかもしれない。

 けれどもそれは、僕レベルに最低な人間に限る話ではないだろうか? 僕の勝手な主観
ではあるけれど、この鳥羽という少女が他人の人生を踏みにじるような子だとは到底思え
ない。それに鳥羽は生まれたときからこの島に住んでいるはず。それを今まで秘密にでき
ているということは、誰にも迷惑をかけていないということではないのか?

 それで大多数の人間から非難を浴びるような隠し事というのが本当にあるのだろうか?

 仮にそれが原因で鳥羽が友達作りに消極的なのであれば、早急に解決すべき事案だ。さ
らに以前、鳥羽が電波発言をするのにはなにか理由があるらしいことを仄めかしていたよ
うに記憶しているが、その理由とも繋がっているのなら、ますますどうにかしてあげなく
てはならない。

 僕は妙義や赤穂さんではないので、こういった事態を華麗な手際で解決に導くなんてい
うスキルは持ち合わせていない。僕に思いつくのは、せいぜい単純で誰にでも思いつくよ
うな泥臭い案でしかない。

 やれやれ仕方ない、下には下がいるということを彼女に教えあげようじゃないか。その
結果、僕が軽蔑されるようなことになっても……まあ構わない。慣れっこだもんねっ!





「鳥羽さんの隠し事を僕が聞いたら、もう僕はこうやって鳥羽さんとは口をききたくなく
なるのかな?」

 僕の問いかけに、鳥羽は困惑して視線を泳がせる。

「わ、わからない、ですけど……そうかもしれません」

「僕はもっとひどい隠し事をしているとしても?」

「え……?」

 僕は目を伏せて、鳥羽に気づかれないように深呼吸をする。こんな話を他人にするのは
さすがに初めてのことなので、嫌われる覚悟を決めてはいても、やっぱり緊張してしまう。

「僕はね、じつは魔法使いなんだよ」

 鳥羽の動きが完全に停止する。あれ、おかしいな。時間を止める魔法なんて使った覚え
はないんですケド。

 目が点になっている鳥羽へ、僕は構わずに続ける。

「べつにこれはからかってるとかじゃないんだ。本土にいたころ、僕は同じ学校に通って
いた四人の生徒に『呪い』をかけたんだよ」

「の……ろい?」

「そう、『呪い』。そうしたら、どうなったと思う?」

「ど、どうなったんですか……?」

 鳥羽の表情に怯えの色が混じったのを、僕は見逃さなかった。呪いという単語の凶悪性
と、そしてそれを僕の口から聞いたことによる恐怖だろう。

「一人は骨折して野球の大会を欠場した。一人は栄養失調で入院した。一人は発狂して転
校した。一人はおかしくなって警察に逮捕された。僕が呪った四人は、夢を、体を、心を、
人生を壊されたんだ。僕の悪意のせいでね」

 鳥羽は、なんと言っていいのかわからないのだろう、ただ黙ってゴクリと喉を鳴らして
いた。

「これは嘘でもなんでもない。やろうと思えば今すぐにでも誰かを呪える。僕を本気で怒
らせたヤツには、地獄を見せてやる。僕はそういう人間なんだよ」

 千光寺神社で僕の右腕を動かしたものの正体を、きっと僕は最初から知っていたのだ。

「こんなの、聞きたくなんかなかったでしょ? そりゃあ、言ったほうはスッキリするよ?
もう隠し事をしなくて済むんだからね。だけど聞かされたほうは堪ったもんじゃない。だっ
て知らなければ不要な心労を感じないで済んだものをわざわざ聞かされて、その上今度は
聞かされたほうも、その事実を他の人から隠してあげないといけなくなるんだから」

 秘密を打ち明けるというのは信頼の証のようにも見えて、実際のところは単なるエゴで
あることが多い。勝手な都合で隠すべきことを共有させて、相手の心労を増やすだけだ。

「だから、自分が楽になりたいだけなんだとしたら……それは優しさじゃないし、思いや
りでもない。ただの身勝手になってしまうんだよ。それをよく考えて、友達に秘密を明か
すかどうかを考えてほしい」

 言いながら僕は、鳥羽の瞳をジッと見つめる。僕の放った言葉がより深く鳥羽の心に届
くことを願って。

 鳥羽は怯えからか萎縮した様子で、言葉もなくただ黙っていた。

 僕はなにも言わずに立ち上がり、そのまま部屋の出口へと足を進めた。そしてドアの左
右に盛ってある岩塩を散らさないように気をつけながら、ゆっくりと扉を開く。





「ど、どこに行くんですかっ?」

 僕の背中にかけられた、わかりきった質問に嘆息する。

「帰るんだよ」

「どうしてですか!?」

「いや、どうしてって……」

 逆にどうしてそんなことを訊ねるのか、こっちが訊きたいくらいだった。

「だって……気持ち悪いでしょ?」

 そう訊ねられたときの鳥羽の表情は……なんと言えばいいのか、驚いたような、悲しそ
うな、なにやら複雑な表情だった。

 やがて俯いてしまった鳥羽は、しかしそれでもポツリと言葉をつづける。

「……どうして篤実さんは、その人たちを呪ったんですか?」

「え?」

「本気で怒ったから呪ったんだって、さっき言ってたじゃないですか……。篤実さんは、
なんのために本気で怒ったんですか……?」

 さっきの話を聞いて、それでも僕を良い人みたいに見ようとする鳥羽の健気さに、僕は
ちょっぴり心を打たれた。

 だけど、これはそういう問題じゃないのである。

「理由があれば、人を傷つけてもいいの?」

 質問を質問で返すのは心苦しかったけれど、僕のこの問いに、鳥羽はハッとしたように
目を見開いて黙り込んでしまった。

「……まあ、そういうことだよ。それじゃあ、また明日」

 改めて扉を開けて退室しようとした、そのとき。



 バタンッ!! という激しい音をたてて、鳥羽が開きかけた扉をほとんど体当たりのよ
うな格好で閉ざしてしまったのである。





「えっと……鳥羽、さん?」

 鳥羽は呆気にとられる僕の手を引いて扉から遠ざけると、彼女にしては意外なくらいの
力強さで僕を部屋の真ん中に座らせる。

 そして言った。

「ふ……ふふふ……天の現人神たるこの私の眷属を名乗るのだから、呪い程度は扱えなく
ては困ると思っていたところなのよっ!」

 ふわふわパジャマを身にまとった天の現人神は仁王立ちして、正座する僕を思いっきり
見下ろしていた。しかしそのドヤ顔は明らかに引きつっているし、声も震えていた。無理
をしているのは誰の目にだって明らかだ。

「え、あの……鳥羽さん?」

 想定外なその反応に困惑する僕を尻目に、電波モードになった鳥羽は饒舌に言葉をまく
し立てていく。

「しかしたかだか呪い程度で私の腰が引けると思ったのであれば、あまりにお粗末な思考
回路だと判断せざるを得ないわね! 前世では、この私を怒らせた者は神であろうと凄惨
な目に遭わせてやったものだわ。それを思えば、貴方のソレは稚戯にも等しいわ!」

「……」

「それに、この私の神眼を甘く見てもらっては困るわね! あなたが自分のためには万全
の力を発揮することのできない星のもとに生まれ落ちていることなど、ばっちり見えてい
るもの! だからきっと、あなたは友達か誰かのために怒り、そしてそのささやかな呪い
とやらを行使したに違いないわ!」

「……うん」

「!! ……そ、そうね、そんなことは既にわかっていたわ! ええ、とっくの昔にね!
我が眷属のことなど、お見通しなのよ! ふ、ふふふ、しかし私ほどの神通力がなければ、
勘違いしてしまう哀れな輩もいるかもしれないわね。だからその事実は私以外に他言しな
いようになさい?」

「……そうだね。うん、わかった」

 思わずうるっときて、鳥羽から顔を逸らす。自分でも気づいていなかったけれど、偉そ
うなことを言っておきながら、その実 僕も自分の隠し事を誰かに話して、そして受け入れ
てもらうことを心のどこかで望んでいたのかもしれない。

 僕はこの時を境に、鳥羽に対する認識を大きく改めることになる。彼女の不器用な生き
方と、そして不器用な優しさに初めて触れ、心を打たれたためだ。やばいこの子、良い子
過ぎる。

「そ、それから……はい、これっ!」

 そう言って鳥羽が真っ白な顔を赤く染めながら僕に押し付けてきたのは、ベッドの下に
隠されていた分厚いノート……『愚理喪環亞瑠』だった。先刻 僕が勝手に触れただけで
凄まじい剣幕となったソレを、今度は自分から僕に差し出してきたのである。

「これ……いいの?」

「いいんですっ! 篤実さんだけ秘密をバラすのは、不公平ですから」

 変なところで律儀な子である。





 しかしそういうことなら、ここはお言葉に甘えて中身を検めるのが礼儀というものだろ
う。僕は早速『愚理喪環亞瑠』を解放し、その書に記された真理を読み解かんと目を走ら
せる。

「『ナウマク・サマンダボダナン・アニチャヤ・ソワカ』……が呪文の始動キーで、それ
に続くのが『フレイム・ブレス』『アシッド・レイン』『ライトニング・エルボー』……
いやちょっと待て、エルボーってなに?」

「背後を取られたときに、こう、勢いよく鳩尾に……」

「まさかの物理攻撃!?」

「ちなみに前の二つは、平たく言えば毒霧です」

 その三つの魔法(物理)の下に記された呪文を見ると、どうやら太陽エネルギーを溜め
れば『シャイニング・ドロップキック』が使えるようになるらしい。

 ……この娘はマジカル☆プロレスラーにでもなるつもりなのだろうか? とか思ったけ
ど、最近の日朝マジカルアニメは少女向けのくせにサイヤ人より近接格闘をするので、よ
く考えたらなにもおかしくはなかった。日本やべぇ。

「こっちは……自作の歌詞かな? イントロから死の呪文を詠唱してるけど」

「『あばだ☆けだぶら』って語感がよくないですか?」

 そんな感覚的な理由でリスナーを殺そうとするんじゃない。闇の帝王もビックリだぞ。

「こっちは設定集か。なになに、快晴時は太陽の力が強いので……」

「い、いちいち口に出さなくてもいいじゃないですかぁ!」

 ぷりぷり怒る鳥羽は、しかしふと真剣な面持ちになると、

「……あの、明日の夜って、時間、ありますか?」

「え……どうだろ、なにかあるの?」

「見てもらいたいものがあります。……今度は私の隠してきた『秘密』も、篤実さんに知っ
てもらいたいんです」

「……そっか、わかった。明日の夜、またここに来るよ」

 それから鳥羽がウトウトし始めるまでのあいだ、僕らは魔導書(愚理喪環亞瑠)片手に
とりとめのない話を延々していた。それこそ僕が今日泊まる原因となった心霊現象のこと
なんてすっかり忘れて、新しく曲を作ろうかとか、新技を考えようだとか、本当にくだら
ないことを、じつに楽しく語り合い、笑い合ったのだった。

 やがて夜は更け、じきに太陽が顔を出すだろう。明日は『満月』で、さまざまなことが
同時に動き出す激動の一日となる。

 そして僕はその日―――大切なものを失うことになる。





勇者「このコードを切断すれば、電波発信はできなくなるってことか」

書記「そうだね。そうするとあの二人はすごく慌てふためくはずだよ。そして……」

魔女「……」フッ

書記「ほら来た」パチン

勇者「!!」

書記「時を操るキミが、コードを切断される前の時間軸にいる私たちへと干渉しにくる」ニヤッ

魔女「伏兵はあなたでしたか……エルフ! 魔族の裏切り者!」

書記「人間との共存を謳うキミに言われたくはないけど」クスクス

魔女「あなたが私に敵うと思っているのですか? 私を倒したいのであれば、不意打ちの即死しかありえないことくらい知っているでしょう」

書記「そうでもないんだよね。勇者、やっちゃって」

勇者「これは毒ガス兵器だ。お前が逃げた瞬間に、俺たちはコードを切断する!」

魔女「……ハッタリです。エルフがそんなギャンブルをするはずがない」

書記「私がいるからこそ、そのギャンブルができるのかもよ?」

魔女「―――っ!」

勇者「くらえっ!」カチッ


ブシュゥウウウウ!!




>>49
魔女はどういう行動をとった?

1、「ならばもう一度、やり直せばいいだけです」自分が入室する瞬間へと時を巻き戻す。
2、「ハッタリに決まっています」没収していた拳銃でエルフを狙う。
3、「なにか、嫌な予感がしますね」圧倒的優位ではあるけれど、念には念を入れて今日のところは退散する。


誤爆しましたごめんなさい(泣)

サボりじゃないんです! ネタが浮かばないから気分転換なんです!

ネット環境が吹っ飛んでおりました。お待ちいただいてくれた方々には大変申し訳ございません。

もはや再開のタイミングを逸したような気がしますが、書き溜めていた分をこっそり投下させていただきます。




 都会生まれ都会育ち、まともなスポーツ経験と言えば小学生の頃のスイミングスクール
以来という、典型的なもやしっ子であるところの僕こと久住篤実。

 そんな僕は勢いに任せて教室から飛び出したは良いものの、学校からの通学山道を半分
も行かないうちに体力の限界を迎えてヘバってしまうのだった。なにこれ死にたい。

 細い糸でキリキリと締め付けるような痛みが、脇腹を蝕む。僕は背中を丸めて脇腹を擦
りながら、鉛のように重い両脚を引きずって斜面を下っていく。

 頭の中で、絶え間なく回り続けるたくさんの言葉。それらが駅の喧噪のように騒がしく
脳内を駆け巡るせいで、整然とした思考がまったくできずにいた。考えないようにしても
勝手に湧き出してくるそれらの言葉は、毒となって思考を侵していく。

 それは先ほどの千光寺の言葉であり、無邪気な笑顔を浮かべる弥美乃の言葉であり、あ
るいは昨日の赤穂さんの、氷雨の、鳥羽の言葉でもあった。

 過去の言葉だけが堂々巡りをしていて、熱を帯びた頭では、僕自身の思考は生み出され
ない。

「考えても仕方ないんだ」

 自分に言い聞かせるために、わざわざ声に出してみる。

「わからないことを考えても仕方ないんだ」

 僕の声、僕の言葉。それを聞いていたら、幾分か頭の熱は発散されたように思えた。

 今、僕がやるべきことを考えてみる。まずはお婆ちゃんに、昨日の無断外泊を謝らない
といけない。お婆ちゃんにとって僕は娘の子供であり、一時的に預かっているという立場
だ。だからあまり勝手なことばかりしていると心配させてしまうかもしれない。

 そして今日、弥美乃の家に外泊するということを伝えなければならない。それから着替
えなどの生活用品をかき集めて、弥美乃の家に向かうのだ。

 彼女がどんな目的で僕を利用しようとしているのか……それはまったくわからないけれ
ど、よほどのことじゃない限り僕はそれを断らないだろう。だから、それを今考える必要
はないのだ。

 ああ、そういえば今日、鳥羽の家にも行く約束をしていたんだった。確か、夜に来いと
言っていたように思う。弥美乃の家からちょっとだけ抜け出して、鳥羽にも会いに行かな
ければならない。

 今日やるべきことを整理したら、なんだか頭がとてもスッキリした。そうだ、べつに気
に病むようなイベントはないじゃないか。

 懸念すべき材料は、じつのところたくさんあったのだけれど……僕はそれらを無理やり
考えないようにして、一人きりの通学山道を下って行くのだった。





 お婆ちゃんは、赤穂さんや氷雨から事情を説明されていたらしく、僕の無断外泊を寛容
に許してくれた。むしろ怖がっていた鳥羽のために一人だけ残ってあげた、という解釈を
しているらしく、なぜか褒められてしまった。罪悪感がマッハです。

 そんなわけで僕は、適当なバッグに着替えや歯ブラシなどの生活用品をポイポイと放り
込んで家を出た。なんだか家に居つかないで友達の家を渡り歩くなんて、不良学生のよう
で、ちょっと気分はよろしくなかったけれど。

 今は頭の熱もかなり冷え、むしろ開き直ったことによって清々しい気分になっていた。
するとこれまで気にしていなかったような自然の風景にも目が向いて、透き通るような青
空や、宝石が溶けこんでいるかのように綺麗な海に心が癒された。

 もうこの島に来て一ヶ月近くになる。最初は、どこを切り取っても絵画のようなこの島
の景色に感動しっぱなしだったのだけれど、最近は贅沢なことにそれを忘れてしまってい
たように思う。

 この雄大な自然の中で生きていることを思い出すと、僕の抱えている悩みがちっぽけな
もののように思えて、肩が軽くなった。

「……よしっ」

 その場しのぎは僕の十八番だ。なにをあんなに憂鬱になっていたのか、今となっては逆
に不思議なくらいだ。

 僕は道路に転がっている小石や、ブロック塀の亀裂といった、普段気にかけないような
些細なものを観察しながら、ゆったりとした気分で歩き続けた。

 そしてやがて、目的地である弥美乃の家が遠くに見えてくる。

 すると僕はそこで想定外のものを目にして、息を呑み、思わず足を止めてしまった。



 少し距離があったのでよく見えなかったが、弥美乃の家から見知らぬ男の人と、それか
ら恐らく弥美乃の母親と思しき若い女性が現れたのだ。そして家の前でなにか言葉を交わ
すと、軽く口づけをしてから男のほうが去って行く。

 そのまま弥美乃のお母さん(だと思うのだけれど、顔は覚えていないので自信はない)
は家の中に引っ込もうと踵を返そうとして、そこで僕の視線に気が付いたみたいだった。
大きく手を振ってきたので、僕も観念して近づいていった。

 僕が目の前まで行くと、弥美乃のお母さんは嬉しそうに微笑んだ。歳の離れた弥美乃の
姉だと言われればそのまま信じてしまいそうな、とても中学生の娘がいるとは思えないほ
ど若くて綺麗な彼女に、僕はドギマギして視線を泳がせてしまう。

「また弥美乃と遊びに来てくれたの? えっと、篤実くん、よね?」

「え、あ、はい……久住、篤実です……」

「そう。さ、あがってちょうだい」

 なんで僕の名前を知って……いや、娘のクラスメイトなんだから不思議ではないか。

 なぜかとても嬉しそうな弥美乃のお母さんは、さりげなく僕の背中に手を回しつつ玄関
へと誘導する。やや密着しているせいか、かなり濃厚でフェミニンな匂いが鼻腔をくすぐっ
て、なんだか頭がくらくらしてしまった。

 それによくよく見てみれば、彼女はバスローブのようなものを羽織っていて、もしかし
てその下には……いや、余計なことを考えるのはやめておこう。この先はきっと泥沼だ。

 ガチャン、という音に振り返ると、弥美乃のお母さんが玄関扉の鍵を閉めたところだっ
た。べつに普通のことなのに、こんなに背徳的な気分になるのはどうしてなのだろう……

「お、お邪魔します……」

「はい、いらっしゃい。ちょっとそこのソファに座っててね。いま、お茶を出すから」

 そう言ってキッチンへ向かおうとする弥美乃のお母さんに、僕は慌てて、

「い、いえ、お構いなく……! そ、それより、弥美乃さんは……」

「あの子は二階にいるんだけど……。でもその前に、ちょっとだけおばさんと、お話して
くれないかしら?」

「……え?」

「あの子が友達を……それも男の子を連れてくるなんて、今までそんなことなかったから。
あの子、私と口をきいてくれないし、学校でのあの子のことを聞かせてもらえないかしら?」

 そう言った彼女の表情は、なんというか、さっきまでとは別人のように真剣で……

「わ、かりました……」

 僕はその雰囲気に圧されて、おっかなびっくり頷いてしまった。

 それを確認した弥美乃のお母さんはにっこり微笑むと、キッチンへ引っ込んでいった。

 ……まぁ、もう家には上がってるんだし、弥美乃に「来るのが遅い」と怒られることも
ないだろう。

 僕は勧められた通りにソファへと移動すると、ちょっと躊躇ってから、端っこに浅く腰
掛けて、抱えていたバッグを傍らに降ろすのだった。





 キッチンから紅茶とケーキを運んできた弥美乃のお母さんは、一秒たりとも迷うことな
く僕のすぐ隣に腰を下ろした。ちょっ、近すぎじゃないですかねぇ……!?

 なまじ端っこに座ってしまっただけに、これ以上彼女と距離を離すこともできない。そ
れを知ってか知らずか、弥美乃のお母さんは肩が触れるような距離で僕の目をまっすぐに
見つめてくる。

 僕は目を合わせるのが死ぬほど苦手なので目線を下げると、バスローブから谷間さんが
コンニチワしていたため慌てて顔を前に向けた。

「篤実くんは、あの子とはどういう関係なのかしら?」

「どっ、どういう関係……ですか」

 テンパって回らない思考を無理やりフル回転させて考える。一応、僕と弥美乃は対外的
には付き合っている……つまり恋人関係ということになっているはずだ。氷雨や笹川にも
そう言ってあるし、僕が事情を説明していないクラスメイトたちの中には、僕らがそうい
う関係だと思っている人も少なくないのではなかろうか。

 しかし恋人関係というのは、弥美乃が僕の逃げ道を封じるために用意した戦略の一つで
あって、僕がこうやって覚悟を決めた以上、もはやそれは意味を成さないとも言える。

 それに弥美乃は好きな男がいるって言ってたし、あまり詰めてもいない設定を不用意に
持ち出すのは危険かもしれない。

 僕はしばらく目を泳がせながら考えた結果、

「いやぁ、ただのお友達ですよ。あはは……」

 とりあえず事実を述べておくことにした。これ以上嘘を吹聴していると、あとで誤解を
解くのが面倒になりかねないからな……

 それを聞いた弥美乃のお母さんは、なぜか残念そうにまつ毛の長い目を細めて、

「あら、そうなの……ただのお友達、ね」

 意味深に僕の言葉を復唱した。

 なんだか心の中を見透かされそうな気がして、僕は焦りつつ話題を強引に変えようと試
みた。

「そ、そういえばさっきの男の人って、弥美乃さんのお父さんですかっ?」

 それは僕にしてみれば、本当になんでもないような質問だったのだけれど……

「…………いいえ。『ただのお友達』よ」

 一気に室内の温度が冷え込んだような、そんな錯覚を覚えるような声色だった。




 怒っているだとか、不機嫌になっただとか、そんな雰囲気とも微妙に違う表情。コミュ
力が絶望的に低い僕にさえはっきりとわかるくらい、勢いよく地雷を踏み抜いてしまった
ことは明白だった。

 ただのお友達に、人妻が別れのキスをするとは思えないのだけれど……しかしそこは、
所詮は他人事だ。僕なんかが迂闊に踏み込んでいい領域ではないだろうし、実際のところ
興味というものもなかった。

 僕は弥美乃のお母さんが求めているであろう解答を適当に述べて、この気まずい空気か
ら離脱しようと考えた。

「弥美乃さんは、学校でも、その、友達と仲良くやってますよ」

「……そう、それはよかったわ。弥美乃はお友達と、どんなお話をするのかしら?」

「えっ……」

 そう訊かれて、僕は思わず言葉に詰まってしまった。

 改めて考えてみると、僕は弥美乃が誰かと話しているところを見たことがあるだろうか?

 僕が初めて弥美乃をまともに認識したのは、写生大会で笹川と話していたときだ。その
際、彼が同じグループのメンバーを軽く紹介してくれて、弥美乃はその中の一人だった。

 グループ決めのときに弥美乃が余っていなかったことを考えると、おそらく上手いこと
人付き合いはしているのだろうけれど……しかし彼らがどんな話をしていたのかは知る由
もない

 次に顔を合わせたのは神社で、千光寺や鳥羽といっしょにいたところだった。

 そして弥美乃との本格的な初接触は、学校での彼女からの唐突な告白。

 それ以降、彼女は僕に関してのことでクラスメイトと話しているのを聞いたことはあっ
たけれど、日常会話といったものは記憶にない。

 弥美乃は僕以外に対してはぶりっ子をしないらしい。だから友達とは普通の会話をして
いるのだろうけれど……

 僕がすぐに解答を出せず固まってしまったのを見て、弥美乃のお母さんは陰鬱な表情を
浮かべる。そして、やがて覚悟を決めたような顔つきとなると、

「私はあの子の母親として、一五年いっしょにいるけど……最近のあの子は別人みたい。
あんなに楽しそうなあの子を見るのは、本当に久しぶりなの」

「……え?」

「ちょうど篤実くんが最初にうちに来てくれた、すこし前くらいから……かしら。ここ数
年は私ともほとんど口をきいてくれなかったのに、いきなりあの子の方から私に話しかけ
てきてくれたの」

「は、はぁ……」

「今まで男の人なんて大嫌いって言ってたのに、『どうやったら男の人に好きになっても
らえるの?』って訊いてきて……てっきり、篤実くんがその『男の人』なんだと思ってた
んだけど」

 お母さん、それは娘さんの本性を知らなすぎですよ……。絶対そういう純粋で甘酸っぱ
い意味で訊いたわけじゃないと思います……

 ていうか、あの逆セクハラまがいのコミュニケーションやアダルトな駆け引きを吹き込
んだのは、もしやあんたじゃなかろうな!?



「それでね。ちょっと、見てもらいたいものがあるの」

 そう言って弥美乃のお母さんは、お洒落なガラステーブルに置かれたリモコンを手に取
りテレビを点けた。神庭家のアンティーク箱型テレビとは違い、大きくてそこそこ新しい
タイプの薄型テレビだった。

 どうやら録画してあるビデオを再生しようとしているようで、僕にとっては都会で見たっ
きりの懐かしい操作画面をぼーっと眺めていると、やがて目的のビデオが再生され始めた。

 それは、安っぽい画質のハンディカメラで撮影されたホームビデオだった。

『パパぁ、見ててね! 見ててね!』

『はいはい、見てるよ』

 おそらく三歳くらいの、艶やかな黒髪の女の子が浜辺ではしゃいでいる。その様子を、
穏やかな声をした成人男性が撮影しているらしかった。

『えーいっ!』

『おお、弥美乃はでんぐりがえしができるのか』

『弥美乃ちゃん、お服が汚れちゃうわよ?』

 弥美乃と呼ばれた女の子が、屈託のない笑顔で転がりまわる。そんな彼女を抱きかかえ
て幸せそうに寄り添うのは、大学生くらいの女性……というか、たった今僕のすぐ隣に座っ
ている女性の、昔の姿だった。

 僕がテレビの中の幸せそうな風景に見とれていると、突然、太ももにぞわりとした感触
が走る。飛び跳ねながら振り返ると、とても辛そうに表情を歪める弥美乃のお母さんが、
僕の足に手を置いていた。またしても、ふわりと濃厚な女性らしい匂いが立ち込める。

「これを撮影してるのが、私のダーリ……夫なの。ずっと前に、死んじゃったんだけどね」

 弥美乃のお母さんの瞳は潤んでいて、今にも大粒の涙がこぼれそうだった。ふと彼女の
視線の先を追うと、そこにはゴルフバッグが大切そうに安置された棚があり、おそらくア
レが、今は亡き弥美乃のお父さんの、形見のようなものなのだろう。

「あの人が死んでから、弥美乃は変わってしまったわ……。本当なら私があの子の傷を癒
してあげなきゃいけなかったのに、私は自分の傷だけで手いっぱいだった。そのせいで、
余計にあの子を傷つけてしまった」

 テレビの中では、幼い弥美乃が父親に抱き付いて、抱きしめられて、はにかんでいた。

 弥美乃の父親の『よくがんばったね、弥美乃』という穏やかな声は、生まれてこの方褒
められた記憶のない僕の心にも強く印象に残った。



「埋まりもしない心の穴を、私は他の男の人で埋めようと必死になってたの。弥美乃はそ
のせいで男の人が嫌いになって、今でもパパ一筋みたい」

 僕は弥美乃のお母さんの告白を聞いて、痛ましい気持ちになりながらも……不意に僕の
中で、パズルのピースがカチリと嵌まるかのように閃いたことがあった。

 まさか。

 弥美乃がずっと言ってた「心に決めた男」って、自分の父親のことか!? 

 えええええええええっ!? てっきり笹川あたりのクラスメイトのことかと思ったら、
ファザコン娘だったの!?

「だから弥美乃が篤実くんを連れてきたとき、心の穴を埋めてくれる子に出会えたのかなっ
て思って……篤実くん、どうかした?」

「い、いえっ! なんでもないですが!?」

「そう? ……そういうわけで、あの子、ちょっと変わってるけど……でも決して悪い子
じゃないの。だからもしよかったら、これからも弥美乃と仲良くしてあげてね」

「ぼ、僕なんかでよければ、えっと、そのつもりですが……」

 僕の精いっぱいの返事を聞いた弥美乃のお母さんは安心したように息をついて、そして
僕の足に置いていた手をゆっくりと動かす。そのくすぐったさと未知の感覚に、僕は再び
全身で飛び跳ねた。

 内股から電流のように流れ込む刺激に、僕は顔をひきつらせながら弥美乃のお母さんに
引きつった顔を向ける。

「あ、あの、なにか……?」

「足。疲れてるみたいだから、マッサージしてあげましょうか?」

 どう考えてもマッサージの手つきじゃない! しいて言うなら「マッサージ(夜)」って
感じのいかがわしい指使いに、僕はソファの端っこで必死に体を丸めて逃れようとする。
しかし蛇のようにするりと僕の身体に巻き付いた腕が、僕の抵抗を嘲笑うかのようにまと
わりつく。

「ちょっ、なにして……! ひゃあっ!?」

 首筋に息を吹きかけられて、思わず僕の口から女の子みたいな声が出てしまった。いや
女の子の声なんて出そうと思えば簡単に出せるんだけど……!

「あら、カワイイ声。うふふ、弥美乃とはただのお友達だって言うなら、私が味見しちゃ
おうかしら♪」

 バスローブ越しの生々しい感触が、僕の皮膚感覚を通して伝わってくる。その甘美すぎ
る衝撃から逃れるために、ソファから立ち上がろうとした……その時。



「……なにしてるの」



 ありとあらゆる感情を抑え込んだような、おぞましい声色がリビングに響いた。





 僕らがゾッとして振り返ると、そこには全身真っ黒なコーディネートの少女、弥美乃が
立ち尽くしていた。

「や、弥美乃ちゃん……」

 弥美乃のお母さんが、怯えたような声を漏らす。一方で、彼女に抱き付かれているよう
な格好の僕は、声すら出せずにいた。

 目が据わる、というのは今の弥美乃のようなことを言うのだろう……。間違いなくブチ
ギレているであろう弥美乃は足早に僕らへと近づくと、

「だーり……篤実くんに触んないでよっ!!」

 僕の身体に触れている母親の手を、まるで引っぱたくかのように乱暴に振り払う弥美乃。

「……最悪。最悪最悪最悪……信じらんないッ」

「ご、ごめんね、弥美乃ちゃん……でもこれは、ちょっとふざけちゃっただけで……」

 弁明しようとする母親に、弥美乃はまるで道端のゴミでも見るかのような冷たい視線を
向けた。直接向けられたわけでもない僕でさえ背筋が凍るような拒絶と軽蔑の眼差しに、
弥美乃のお母さんは息を呑んで口を閉ざした。

「篤実くん、行こ」

「や、弥美乃、あのさ……」

「お願いだから」

「……うん」

 弥美乃は僕の腕を痛いくらいの力で引っ張って、二階に続く階段へと向かった。しかし
彼女の手は震えていて、その背中は先ほどの威圧感とは対照的な弱々しさを感じさせた。

 最後にチラリとソファを振り返ると、一人残された弥美乃のお母さんは、両手で顔を覆っ
て俯いていた。

 階段を上り、二つある部屋のうち『開かずの間』じゃない方の部屋に引っ張り込まれる。
弥美乃は乱暴に部屋の扉を閉めると、直後、僕の胸に飛び込んできた。

「や、弥美っ……」

 慌てた僕はなにか言おうとしたのだけれど、その前に、僕の胸に顔をうずめている弥美
乃が嗚咽を漏らしていることに気が付いて、僕は急に頭と心が冷えていくのを感じた。

「……最悪……ひっく……最悪っ、さいあく……」

「……ごめん、弥美乃」

 今日まで何度か弥美乃に抱き付かれたことはあったけれど、僕はこの時、初めて自分の
方からも弥美乃の身体に腕を回した。弥美乃は一瞬びっくりしたように身体を硬直させた
けれど、すぐに力を抜くと、僕の身体に回していた腕に、ちょっと苦しいくらいに力を込
めた。

 そして弥美乃が落ち着くまでのあいだ、僕はずっと彼女の感情を受け止め続けたのだっ
た。





「んっ……もっと下」

「う、うん……」

「そう、そこ……あっ💛」

 僕の動きに合わせてベッドが軋み、黒を基調とした簡素な部屋にギシギシという音が響
き渡る。僕の下で熱っぽい声を出す弥美乃が、枕を抱きしめる力を強めた。

 じんわりと汗をかいてきた僕は、弥美乃のお尻に跨ったまま彼女に声をかける。

「こういうのって、初めてなんだけど……痛くない?」

「上手だよ、だーりん……すごくきもちいい」

「僕、もう……」

「ええ、もう限界? ……うん、いいよ」

 弥美乃のお許しが出たので、僕は彼女の上から退くと、

「いやぁ、マッサージって意外に疲れるんだね」

 僕は早くも限界を迎えた親指をパキポキと鳴らしながら、ベッドの端に腰掛けた。

 弥美乃を待たせた上に泣かせた罰として、彼女の肩から腰にかけてのマッサージを命じ
られていた僕は、両手を振りながら親指に溜まった乳酸を追い出そうと試みる。

 まだ少し目元が腫れている弥美乃は、枕を抱きしめたままにんまりと微笑んで、

「でも、かなりよかったよ。才能あるんじゃないかな? また今度頼んじゃおっと」

「あはは……」

 僕としても、女の子の柔らかさを堪能できるのは、悪い気はしないけれども……



 うつ伏せになっていた弥美乃は、ごろんと寝返りをうって僕のほうに体を向ける。

「でぇ~もっ♪ 愛しの彼女をほったらかしにしてママとお楽しみしちゃうようなスケベ
だーりんには、もっとお仕置きが必要だよね?」

「お楽しみじゃなくて、からかわれてただけだってば……っていうかそもそも僕たち恋人
じゃな……むぐっ!?」

 弥美乃は抱きしめていた枕を僕の顔に押し付けて、無理やり口をふさぐ。

「ふ~ん、口ごたえしちゃうんだ?」

「……償いは、なんなりと」

「よろしい♪」

 起き上がった弥美乃が、僕のすぐ隣に寄り添うように腰掛ける。ちょうど、僕が弥美乃
のお母さんと話していたときと同じような構図だった。

 僕の表情で弥美乃もそのことに気が付いたのか、弥美乃は上機嫌だった表情を一瞬で引っ
込める。

「ほんと最悪、あの女。なんであんなのがあたしの母親なんだろ。パパも、なんで結婚し
ちゃったのかな。今世紀最大のミステリーだよね」

「は、はぁ……」

「パパがいなくなった途端、他の男にケツ振るような売女……。きっと私のことだって、
邪魔だとしか思ってないんだ」

 そう言って心から不快そうに目を細める弥美乃の横顔に、僕はちょっと背筋が寒くなる
思いだった。

 けれど先ほどの弥美乃のお母さんとの会話を思い出して、どうにも彼女が弥美乃を邪魔
だとか鬱陶しいと思っているとは、とても思えなかった。むしろ、母親としてきちんと弥
美乃のことを気にかけていたと思う。

 たしかに自分のことだけで手いっぱいになって、弥美乃の心のケアがおざなりになって
いたところはあったのだとは思うけれど、母親だって人間なのだから、手放しで彼女を責
める気には、どうしてもなれなかった。

 だから僕は同情半分で、弥美乃のお母さんをフォローしてあげることにした。

「……ま、まぁ仮にも母親なんだから、あんまり悪く言うもんじゃないよ」

「だーりん、どっちの味方なの?」

「……弥美乃さんの味方デス」

 我ながら、ソニックブームが発生しそうなほど瞬速な手のひら返しだった……。



「そうだよね♪ もうママのことは無視していいから」

 僕の答えに満足してくれたのか、弥美乃はちょっと機嫌を直してくれた。彼女は僕の肩
に頭を乗せるようにして寄りかかると、僕の太ももに指先を這わせた。

「っ!?」

「ご褒美……あげよっか、だーりん? さっきあたしに跨ったせいで、変な気分になっ
ちゃったんじゃない?」

 そう言って、弥美乃は僕の太ももをねちっこい手つきで撫でまわす。

 僕は内心、とても驚いていた。

 僕の身体はおかしくなってしまったのだろうか? こんなことって……あるのか?

 今までの僕なら絶対に変な気分になっていたはずの、弥美乃の手つきが。仕草が。

 まったくエロく感じないだなんて……!?

「……だーりん?」

 僕の反応がおかしいことに、弥美乃も気が付いたのだろう。不思議そうに僕の顔を覗き
込んでくる。

 そこで僕は、とある『可能性』に行き着く。

 これまでの情報と、そして先ほど弥美乃のお母さんとの会話の中で得られた情報。それ
らを的確に組み合わせることで導き出されるかもしれない、衝撃の新事実。

 これはある種の賭けだ。

 もしも失敗すれば、決定的に僕の立場は危ういものとなるだろう。下手をすれば二度と
弥美乃に逆らうこともできず、完全に主従関係が確定してしまうことになる。

 逆に、もしこの賭けに勝つことができたなら……僕は弥美乃に対して、かなり有力な対
抗策と精神的優位性を確保することとなるだろう。今後、彼女とのコミュニケーションに
おいて懸念すべき最大の事項が消失するのだから。

 伸るか反るか……思考は刹那。

 僕はある意味で、久住篤実史上最大にして一世一代の大勝負に出ることにした……!!

「うん……ご褒美、ちょうだい」



 弥美乃の肩を掴んだ僕は、彼女をベッドに押し倒して覆いかぶさった。





「………………へっ?」

 目を真ん丸にして停止してしまった弥美乃が、辛うじて疑問の声をあげた。しかし僕は
それに取り合わず、僕の下で目をぱちくりさせながら身を小さくしている弥美乃に顔を寄
せて囁いた。

「ほんとに、いいんだよね?」

「だ、だーりん……? えと、その……ほ、ほんき……?」

「ごめん、今までずっと我慢してきたけど、もう限界」

 弥美乃は無意識にか、僕の胸に手を当てて押し返そうとしてくる。僕はそのささやかな
抵抗を、彼女の腕を掴んでベッドに押し付け、体重をかけることで完全に無力化する。

 僕がほとんど馬乗りになっている状況の今、たったそれだけで弥美乃に許された行動の
すべてが封じられたと言っても過言ではないだろう。

 その上で、僕は弥美乃の耳元ギリギリまで唇を寄せて囁く。

「最初はすごく痛いと思う。かなり怖いだろうし、血もいっぱい出ると思う。でも、そう
いうのを覚悟した上で、弥美乃は僕を誘ってるんだもんね?」

「え……血? どこから? い、痛いって……?」

「僕は女の子じゃないから、これは聞いた話だけど……ベッドが血まみれになったってい
う知り合いもいたし……だけど弥美乃は僕のために、その痛みも出血も我慢してくれるっ
ていうことだよね?」

 血の気が失せるとは、こういうことを言うのだろう。見る見るうちに弥美乃の表情が強
張り、怯えの色が滲み始める。

「だ、だーりん、えっ、な、なに言ってるの……? うそ、だよね?」

「ごめん、もう止まれないから……痛すぎて泣き叫ぶとか、そういうのはやめてね。病院
の注射とか、そういうものだと思って我慢して。もちろん注射程度の痛みじゃすまないと
は思うけど、なるべく優しくするからさ」

 押さえつけていた弥美乃の腕が、にわかに震え始める。息が荒くなり、見開かれた目に
は明らかな動揺と恐怖がありありと浮かんでいた。

 僕は賭けに勝った。これで間違いない。



 『弥美乃ちゃん耳年増説』が立証された瞬間である。





 この説が浮上したのはついさっき。弥美乃のお母さんの手つきを経験した僕が、弥美乃
の手つきを体感して……そのあまりの力量の差に驚愕したためである。

 よくよく考えてみれば、これは当然のことだ。最近は初体験年齢が下がっていると噂さ
れているらしいが、こんな情報や文化が遅れていそうな離島の中学生女子が経験豊富であ
るとは、いくらなんでも考えづらい。

 性知識といえば、学校の保健の授業がせいぜいといったところだろう。ましてや弥美乃
はパソコンも携帯も持っていないようだし、なにより『男嫌い』という特性を幼少時に獲
得してしまったとのことだ。だからそういった経験はおろか、恋愛経験さえないはずだ。

 では弥美乃が性的な交渉術を会得している原因はといえば、おそらく母親が男に媚びた
り誘いをかけたりしているのを、昔から見て育ったためだろう。そういった経験を経て、
『ああすれば男の人は言うことを聞いてくれるんだ』と思い込み、それを半端な知識で実
践しているだけの……いわば耳年増となってしまったわけである。

 弥美乃のお母さんは『男の人に好かれる方法』とやらをレクチャーしたというようなこ
とを言っていたが、いくらなんでも自分の娘に性交渉を勧めるわけもないから、おそらく
男心をくすぐるちょっとしたテクニックを伝授したのだろう。

 しかし母親の背中を見て育った弥美乃は、手っ取り早く男を従える方法として女の武器
を利用することを選んだ。けれど実際の具体的な知識が伴わないため、「ちょっと不快だ
けど三〇分くらい我慢すれば終わるんだろう」なんて楽観的なことを考えて僕を誘ってい
たに違いない。しかも僕はチキって手を出せないと味を占めていただろうし。

 だから弥美乃は、僕がでっちあげた『大袈裟な嘘リスク』に怯えてしまった。

 ふふ……ふははははっ! これで今後、僕が弥美乃の色仕掛けに動揺することはない!
子供が背伸びして見よう見まねでやってるだけの稚戯だと見抜いたのだから!

 僕は悪戯心を燃やし、さらなる追い打ちをかけて弥美乃を追い詰めることにした。

 乗るしかない、このビッグウェーブに! うっひょー!!

「鎮痛剤はもう飲んだんだよね? 痛すぎて今夜眠れないとかは困るからね」

「え、えっ……鎮痛剤?」

「避妊薬は……飲んだに決まってるか。最近の研究によると、未成年同士だと妊娠確率は
九五%以上らしいからね。さすがに中学生でお母さんは笑えないよ」

「妊娠っ!?」

 僕は弥美乃の両腕をまとめて片手で押さえて、もう片方の手をゆっくりと彼女のシャツ
に滑り込ませる。

 弥美乃はかなり慌てて、

「こ、今夜は大事な、よ、用事があるから、その、困るって、いうか……!」

「誘ってきたのは弥美乃だよ。それに言ったでしょ……もう止まれないって」

 弥美乃のシャツに入り込んだ僕の手が、スベスベで手触りのいい彼女のお腹を通過しよ
うとする。まるで病人のように弥美乃の身体は熱く火照っており、異常なくらい心臓が脈
動しているのが僕の手にも伝わってきた。

 やがてその先には、中学生にしてはかなり豊かな二つの丘がそびえていて……



「……ごめ……なさぃ…………ごべんなさい゛ぃぃ……!」



 ついに弥美乃は耐えきれなくなり、大粒の涙を流しながら泣き出してしまった。

 って、うぉわあああああぁぁっ!!? やってしまったぁぁぁぁ!!?




「や、弥美乃? 弥美乃ちゃんっ!?」

「ごめんなさいぃ……いたいのやだぁぁ……!」

「う、うそうそ! 冗談だって! この僕が弥美乃の嫌がることなんてするわけないじゃ
ない!? あは、あはは……!」

 僕は弥美乃の上から跳び退ると、えぐえぐと泣き出してしまった彼女の前で、おろおろ
と右往左往してしまう。や、やべぇよ……生まれて初めて女の子を、能動的に泣かせてし
まった……!!

 弥美乃が仰向けなので背中をさすってやれず、代わりに頭を撫でてみる。するとビクッ
と大袈裟に驚いた弥美乃が、僕に怯えた視線を向けてくる。おやおや、罪悪感で僕の寿命
が十年ほど縮んでしまったよ……?

 それから僕はでっちあげた嘘リスクについての誤解を解くため必死に弁解して、さらに
あらゆる手を尽くして弥美乃のご機嫌取りに専念した。

 その甲斐あってか、空が橙色に染まりだす頃には弥美乃も機嫌も直してくれていた。弥
美乃に対して優位に立つために敢行した作戦だったけれど……当然というかなんというか、
僕の立場がさらに危うくなったということは、言うまでもない。





 夜七時を回り、空にはすっかり夜の帳が降りていた。

 弥美乃の部屋のガラステーブルには二つの皿。それらに盛られたカレーライスを、僕た
ちは無言のままに黙々と食べ進めている。

 弥美乃はあれから機嫌を直してくれたものの、しかし今までのように強気な態度で接し
てくるということはなくなっていた。おそらく僕が一瞬だけ見せた悪い意味での男らしさ
に怯えてしまっているのだろう。

 食器どうしの触れ合う硬質な音だけが室内に響き、僕たちは時折お互いの顔色をチラリ
と窺っては、料理に視線を落とす……ということを繰り返していた。

 甘党である僕のオーダー通り、小学校の給食ばりに子供向けな味付けとなったカレー。
それを僕は弥美乃よりずっと早く食べ終えて、黒いマグカップに注がれた水道水で熱くなっ
た喉を冷やす。そして弥美乃が食べ終わるまで、室内を落ち着きなく見渡して時間を潰し
ていた。

 やがて弥美乃もカレーを完食すると、彼女はスプーンを置いた。そして食器の音さえ無
くなった完全な静寂が訪れると、さすがに僕も耐え切れなくなって口を開かざるをえなく
なった。

「えっと、食器、僕が片付けるよ」

「あ、ううん、それはあたしが」

「でも、ご飯作ってもらっちゃったし」

「あたしが無理に家に誘ったんだから、当然だよ」

「うーん、じゃあ、一緒にやる……?」

「そう、だね。うん、そうしよっか」

 どこかぎこちない会話の末に、とりあえずの方向性は決まった。僕はすぐに食器を手に
して立ち上がろうとしたのだけれど、その前に弥美乃が僕の動きを手で制した。

「ちょっと待って、だーりん」

「……?」

 弥美乃は食器も持たずに立ち上がると、小走りで部屋を出て、階下へと降りていく。




 そのまま待っていると、しばらくして弥美乃は部屋へと戻ってきた。僕が表情だけで疑
問を投げかけたところ、

「ママを寝室に押し込んだの。台所からリビング見えちゃうから」

「……べつに、そこまでしなくたって」

「なぁに? だーりんはママとイチャイチャしたかったの? ふぅん、そうなんだ。気が
利かなくってごめんね」

「ち、違うってば!!」

 僕がツッコミのつもりで大きめの声を出すと、弥美乃がビクッと全身を硬直させた。

「……あ、う、ごめん……弥美乃」

「う、うん、だいじょぶだから……」

 またしても変な空気になってしまい、僕らは再び沈黙してしまう。

 ……これはもしかすると、ただでさえ男性嫌いの弥美乃に、男性恐怖症まで植え付けて
しまったのではなかろうか?

 あるいは、弥美乃は僕にやってほしいことがあるらしいし、だから今は必死に嫌悪感を
隠しているという可能性もある。いや、むしろそれが最も自然な考え方なのではなかろう
か? それなら僕とはあまり関わり合いになりたくないだろうし、ここは食器洗いを手伝
わない方がいいんじゃ……?

「えっと、やっぱり、その、僕はここで大人しくしてるよ。ごめんね」

「あ……そっか、うん……」

 僕は気まずさから、窓の外へと視線を移す。僕が座っているこの位置からでは黒い空し
か見えないけれど、そういえば今日は満月だと誰かが言っていたような気がする。誰が言っ
てたんだったかな……弥美乃だったっけ?

 そんなことを考えていると、窓の外を見るために右を向いていた僕の死角、左腕になに
かが触れた。振り返るとそこには、弥美乃が僕に密着するように腰を下ろしていた。もち
ろんテーブルの食器はそのままで。



「……弥美乃?」

「おいしかった?」

「え?」

「カレー」

「あ、ああ……」

 僕はガラステーブルの上の食器をチラリと見て、

「うん、すごく美味しかったよ」

「ほんと?」

「うん」

「氷雨ちゃんの料理より?」

「………………えっと」

「ふぅん、そうなんだ」

 地雷臭を嗅ぎ取った僕の背筋に冷たい汗が滲む。

 僕はこの島における楽しみを三つ選べと言われれば、『ひかりと遊ぶこと』『島の新し
い場所を探検すること』、そして『氷雨の料理』を迷わず挙げる。

 だからこの場においては「弥美乃のカレーの方が美味しかったよ」と言うのが最善の解
答だということはわかっていたのに、咄嗟にそれを口に出すことができなかったのである。
なんだかそれを言ってしまうと、ただでさえ薄っぺらな僕の人格がさらにペラッペラになっ
てしまうように思えて……

 僕と弥美乃はベッドを背にして、お互いに寄り添うように並んで座り、前を見つめてい
た。こうしていると、なんだかこの世界には僕たちしかいないんじゃないだろうかという
荒唐無稽な妄想に憑りつかれそうになる。

 こてん、と弥美乃は僕の肩に頭を預けながら、放心しているかのような声色で呟く。



「あたしは“いちばん”になりたいだけなの」

「……一番?」

「そ。だーりんの“いちばん”は誰?」

「えっ」

「パパ? ママ? 委員長? 氷雨ちゃん? 淡路くん? 鏡ヶ浦ちゃん? 鳥羽さん?」

 それとも……、と言って、僕の目をまっすぐに見つめてくる弥美乃。それはこれまでの
ような媚びている表情ではなく、むしろどこか諦めているかのような……そんな寂しげな
色を宿していた。

「うん。だーりんはあたしのこと好きじゃないよね。むしろ嫌いってカンジ」

「いや、それは……」

「もう知ってるよね、あたしがファザコンだって。あのビデオ見てたもんね」

 僕はテレビの中だけに存在する、弥美乃の本当の笑顔を思い出す。きっと弥美乃はもう、
ああやって全力で、無防備に笑うことはできないのだろう。

「パパはあたしを“いちばん”だって言ってくれた。あたしもパパが“いちばん”だった。
ううん、過去形じゃないね。今でもそう」

「でも弥美乃のお父さんって……」

「うん、死んじゃった。だからあたしのことを“いちばん”だって言ってくれる人は、こ
の世界で一人もいなくなっちゃったの」

「……弥美乃のお母さんは」

「あたしも最初はそんな期待してたんだよ? でも、もう期待しない。あの女の心に……
あたしはいない」

 そんなことないよ、なんて言葉をかけるのは簡単だ。だけどそんな言葉に意味がないこ
とくらい、コミュ障の僕にだってわかる。だから僕は口を開かなかった。

「あたしのことを必要としてない世界なんていらない。だからあたしは、そんな世界を壊
すの」

 そう言った弥美乃の瞳には、暗い暗い深淵がぽっかりと口を開けていて……

「あ、もちろん悪いことしようなんてつもりじゃないから安心してね? 世界を壊すって
いうのは比喩だから」

 そんな風におどけてみせた彼女の笑顔は、やっぱりどこか痛々しかった。

 僕はそこで、ふと、寄り添い合う僕たちの手が……というよりも、僕たちの小指どうし
がかすかに触れ合っていることに気が付いた。



 ―――もしも僕の左手がここで、彼女の右手を握ったのなら。




 そんなことを思った刹那、僕は弥美乃と目が合ってしまった。彼女の潤んだ瞳から視線
を外すことができずに硬直していると、弥美乃の形のいい唇が開く。

「……“いちばん”に、してくれるの……?」

 その言葉を聞いた僕は、一瞬で頭が真っ白になってしまった。どんな言葉を返すべきな
のか、どんな行動を取るべきなのかがわからなくなってしまった。

 いや、本当はわかっていたのだろう。だけどそれを行う勇気がなかった。いいや、勇気
というよりも、これは―――

「…………ばか」

 弥美乃は立ち上がって食器を手に持つと、振り返らずに部屋を後にしようとする。

 残された僕はなにも言えず、ただ今も小指に残るわずかなぬくもりが、僕に慙愧の念を
燻らせる。

 ―――いや、まだ遅くはない!

「弥美乃っ!!」

 部屋の扉が閉まる直前。僕はやっとの思いで声を絞り出すと、目の前の小さなガラステ
ーブルを飛び越えて弥美乃へと迫る。

 弥美乃は目を丸くしたまま硬直して、僕の突然の行動を呆然と眺めていた。

 構わずに、僕は言う。

「自分を“いちばん”にしてくれない相手を、“いちばん”に思うことなんて難しいよ」

 いつか妙義に言われたことがある、「キミは、先に自分を好きになってくれた人間に対
してしか、好意を示せないんだ」という言葉。それは僕のクズさ加減を存分に言い表す一
言だったのだけれど、しかしながらそういった気持ちは誰にだって少なからずあるものな
のではなかろうか?

 好きな人がいる異性に告白するなんて異常だと思うし、自分の恋人が浮気をしていたら
良い気分ではないだろう。自分に対して好意を持っていない人間に好意を抱くというのは、
往々にして勇気の要ることだと、僕は思う。

 今までなんの興味も抱いていなかった相手が、告白された途端に気になりだすというの
はよく聞く話だ。それほどまでに、相手からの好意というものは影響が強い。

「弥美乃がパパを“いちばん”だと考えている限り、弥美乃を“いちばん”だと考え続け
てくれる人は、あんまりいないんじゃないかと思う。その、どうしてもそういうのって、
伝わっちゃうものだから」

「……」 

 弥美乃は、悲しそうな、鬱陶しそうな、なんとも言えない表情を浮かべながら沈黙して
いた。




「……結局、なにが言いたいの。パパのこと忘れろってこと? それでだーりんを好きに
なれってこと?」

「僕を好きになれだなんて、そんな酷いことは言わないよ。僕のことなんか、ずっと嫌い
でいい。だけど今はもういないパパに執心するあまり、弥美乃がちゃんとした人生を歩め
なかったら……あの、わかったようなこと言うみたいで心苦しいけどさ……弥美乃のパパ
だって、悲しいに決まってるよ」

 弥美乃のことを“いちばん”だと言う彼なら、やっぱり悲しいだろう。自分の存在が弥
美乃を縛っていることに後悔するだろう。

「パパのことを忘れる必要はないけどさ。それでもちゃんと誰かに愛されたいと思ってい
るなら、心の整理はつけておくべきだと思うんだ」

 弥美乃はどこか気まずそうに視線を落とす。その様子はさながら、親の説教を受けてい
る小さな子供のようだった。

「僕みたいなヤツと違ってさ、弥美乃には幸せになる権利っていうのがあると思う。だか
ら、その、焦らなくてもいいからさ。それに弥美乃が思ってる以上に、弥美乃はみんなか
ら愛されてると思うよ。弥美乃はさっき僕が嫌ってるって言ったけど、全然そんなことも
ないしね」

 なんだか突然語りすぎて、気持ち悪がられていないだろうか。普段こんなに喋らないか
ら、そろそろ酸欠になってきたし……

「いろいろ急に言っちゃったね。話がまとまってなくてゴメンだけど……えっと、できれ
ば僕の言ったことを、ゆっくり考えてくれると嬉しいな」

「……うん」

 すっかり意気消沈してしまったらしい弥美乃は、食器に視線を落として俯いてしまって
いる。なんだかきまりが悪くて気まずい気分になった僕は、この空気を変えるための提案
をしてみる。

「僕、ちょっと外の空気を吸ってくるね。すぐに戻るけど、そのあいだに弥美乃は、心の
整理をしたりとかさ……ね?」

「……うん」

 弥美乃は小さく頷くと、食器を抱えて階段のほうへと向かおうとして……しかしそこで
一瞬立ち止まると、僕のほうを振り返って、

「相手に“いちばん”だと思われてないと好きになりにくいって……じゃあ、先に相手を
好きになるにはどうしたらいいの?」

「え……」

 弥美乃に突っ込まれて、僕は困惑してしまった。僕はあんまり深く考えずに喋ってしま
うため、よくこういった論理の矛盾が発生してしまうのだ。これが妙義とかなら、即座に
理路整然と話を組み立てられるのだろうけれど……



 僕はちょっと考えてから、

「好きになりにくいっていう、そういう抵抗さえも押しのけて……それでも相手に自分を
好きになってもらいたいって思えるくらい、相手にときめくことって、きっとあるんだ。
それは一目惚れかもしれないし、日常のちょっとずつの積み重ねかもしれない」

「……だーりんの場合は、たとえばどんなふうに?」

 弥美乃は重ねて訊ねてきた。そういうのって、いざ訊かれるとちょっと困っちゃうんだ
けどなぁ……

「えっと、僕は本土でまったく友達がいなかったし、唯一の友達も失ってここに来たんだ
よ。だからこの島で一番最初に友達になってくれたひかりは、一番の大親友なんだ。それ
にこの島で一番最初に会ったクラスメイトは赤穂さんで、しかも彼女には命を救われてる。
それから凪や妙義……今の僕の友達はみんな、とある事件を一緒に経験して乗り越えた仲
間なんだ。そういう特別な繋がりの人たちには、僕も積極的な好意を抱いてるよ」

「たまたま最初にって……そんなの、ずるい。それじゃ誰でも良かったんじゃないの?」

「うん、まぁ、そうかもね。もし一番最初に会ってたのが弥美乃だったら、僕の人間関係
も今とは違っていたかもしれない。だけどさ、僕はキスなんてされたのは弥美乃が初めて
だったから、弥美乃の企みを知らなかったら多分、あっさり惚れてたんじゃないかな」

 それを聞いて、ここまで陰鬱な表情だった弥美乃はくすりと小さく微笑んだ。

「そうだね、だーりんすっごい慌ててたもんね。……でも、あたしも初めてだったから、
内心バクバクだったんだよ?」

「うん、弥美乃は男嫌いだもんね。まぁそれを言うなら僕なんて人間嫌いだけどさ。この
島に来るまでの僕は、一日に一回は人類滅びないかなーって考えながら生きてたし」

「ええっ、そうだったの!? ……ふふっ」

 弥美乃はやや大袈裟なくらいに驚いたリアクションをして、かと思えば急に笑い出す。
なんだか少しだけ上機嫌になってきたようだ。

「え、なにかおかしかった?」

「ううん、ちょっと意外だったから。だって、だーりんっていつもなに考えてるのかよく
わかんないし」

「……それはよく言われマス」

「でも、うれしいかも」

「え?」

 弥美乃のおかしな言葉に、僕は思わず聞き返す。弥美乃はこれまでに見せたことのない
柔らかな微笑みを浮かべながら、

「なんか、だーりんのことを初めて知れた気がする。だーりんの本音が始めて聞けたよう
な気がして……なんか、うれしい」

 そんなことを言ってはにかむ弥美乃の笑顔に―――僕は思わず見とれてしまった。

 弥美乃は止めていた足を再び進めて階段に足をかけると、

「うん、心の整理、つけてみる。……そしたらちゃんと、責任とってね?」

「……へ?」

 彼女が去り際に残していった意味深な呟きの意味を取りかねているあいだに、弥美乃は
二階から姿を消していた。

 僕は彼女を追うように階段を下ると、さきほどの宣言通りに、外の空気を吸うため玄関
へと向かう。その際、チラリと弥美乃のほうを窺うと、彼女はダイニングキッチン越しに
手を振って笑顔を向けてきながら、

「今日は大切な夜だから、ちゃんとすぐに帰って来てね? だーりん♪」

 なんだか吹っ切れたような弥美乃の様子に戸惑いながらも、僕は曖昧な笑顔を浮かべて
頷いておく。すぐに帰れるかどうかは、まだ現段階ではわからないのである。

 僕は謎の罪悪感に苛まれつつも、鳥羽の家へと向かうべく、弥美乃の家を後にするのだっ
た。



書き溜めはここまでです。次は鳥羽のターン。

たくさんの設定をありがとうございます。なんだか一部の人に私の好みが的確に把握されている気がします。

あとどうして私の過去作も把握されているのでしょうか。許してください。




 鈴虫かなにかの奏でる音色が、漆黒に沈む夜の森へと木霊している。常識的な感性の持
ち主が聞けば、それは情緒的だとか幻想的だとかといった感想を抱くところなのかもしれ
ないけれど、あいにく僕はそんなロマンチストではないのだった。

 自然界の生物が音を発する場合、大きく分けて二通りのパターンが考えられる。一つは
危険を知らせるなど、仲間とコミュニケーションを取るため。そしてもう一つは、生殖の
ための求愛である。鈴虫の場合は、当然ながら後者である。

 すなわち、カエルだの鈴虫だのが響かせている音というのは、人間でいうところの「へ
い姉ちゃん俺らとホテル行かなーい?」みたいな意味合いとなるのである。そう考えると、
これらの雑音がいかに軽薄で腹立たしいことか。命の連鎖とか生命の神秘とか、そんなも
んは知らん。

 ……なんて益体もない思考に走ってしまうほどに、僕と鳥羽のあいだにコミュニケーショ
ンはなかった。会話らしい会話と言えば、鳥羽が夜の森へと足を踏み入れようとした際、
僕が驚いて声をかけた、

「え、森の中に行くの?」

「はい」

「危なくない?」

「大丈夫、です」

 くらいのものである。

 かつて笹川と歩いた、『霊山さん』へと続く道を彷彿とさせるような山道だった。舗装
はされていないものの、長年の往復によって自然と生まれたのであろう細道。時折唐突に
自己主張してくる木の根の固さを靴底越しに感じながら、僕たちはただただ黙って足を進
めていく。

 街灯の一つも立っていない夜の森で頼れるのは、ゾッとするほど明るい満月の光だけ。
空を覆い尽くすかのように茂る木々の隙間を縫って降り注ぐ月明かりは、僕たちの進むべ
き道を朦朧と照らし出している。もしも月が雲に切り取られれば、たちまち森は完全な闇
に沈み、僕たちはその場から一歩だって動くことはできなくなってしまうだろう。

 その状況をぼんやりと幻視するにつけ、この鳥羽という少女の、僕に対する信頼という
ものがいかに絶大かということを思い知らされるような気になるのだった。あるいはそれ
は無知とも、無防備とも言い換えることができるのかもしれないが、僕にとってそれは些
細な違いでしかなかった。

 たとえどんな事態になったとしても、僕を信頼してくれるこの少女を、僕はいかなる犠
牲を払ってでも逃がしてやらなければならない。そこに違いはないのだから。

 しかしながら、そんな僕のささやかな覚悟は徒労に終わるようだった。

 いつの間にやら大きく開けた山道へと合流していたらしく、そしてその道は、僕にもよ
く見覚えのあるものだった。当然ながら、その先に待ち構えるY字の分かれ道に関しても、
記憶に新しい。なぜならつい最近、あの野生少年によって案内されたばかりなのだから。

 Y字路を『右』に曲がると、あの浮世離れした超越的なオブジェクトへと辿り着くはず
だが、もしかすると鳥羽は『左』に曲がろうとしているのかもしれない、と一瞬だけ不安
に感じた。あの時、あの少年はたしかに言っていた。絶対に、そちらへ進んではいけない
と。

 なので内心気が気ではなかったのだけれど、そんな僕の心配は呆気なく杞憂に終わる。
鳥羽は特に迷いもなく『右』の道へと進み、僕はホッと胸をなでおろした。

 そうして周囲から下等生物たちによる愛の合唱を浴びながら、生ぬるい風に背中を押さ
れるようにして『その場所』へと辿り着いた。




 半径一〇メートルを覆い尽くす、一切の生命を拒絶する荒廃の領域。

 大地へ突き立つ“墓標”の如き巨石を配したその場所は、やはり変わらずそこに在った。



 ジャリ、という音で我に返ると、すでに鳥羽はサークル状に広がる灰色の荒廃へと足を
踏み入れていた。当然、彼女と手を繋いでいる僕も引っ張られるようにして前へ進みそう
になる。

 ……が、その時。

「うわっ!?」

 鳥羽に引かれているのとは逆の、僕の右手が。なにかに引っ張られたのだった。

 あわてて振り返るが、しかしそこには誰もいない。……あれ、今たしかに、誰かに腕を
引っ張られたと思ったのに……気のせいだったのか?

「どうしたんですか?」

「いや……なんでもない」

 しかしそんなことを伝えて、鳥羽を不用意に怖がらせるわけにもいかない。たった今僕
を襲った出来事については伏せておくことにした。

 代わりに、気になったことを鳥羽に訊ねてみる。

「それよりも、この景色が……鳥羽さんが僕に見せたかったもの、なのかな?」

 すると鳥羽は、一瞬だけ目を逸らし、何かを言いかけて……けれどもやっぱりその言葉
を飲み込んで、俯いてしまった。その仕草には、僕も嫌というほどに覚えがある。それは
相手になにかを伝えようとして、しかし勇気が足りず口に出せなかったといった仕草だ。

 彼女が僕に見せたいものというのは、彼女がこれまでずっと、島民にさえもひた隠しに
してきた『秘密』なのだという話だ。それならば、それを告白するということがどれほど
勇気の必要なことか……それは僕自身も鳥羽に『秘密』を打ち明けた経験として、痛いほ
どに知っている。

 だからこそ僕は、鳥羽に対して言葉をかけることはしなかった。急かすこともせず、先
を促すようなこともせず、ただ待った。ここまで来て「やっぱり秘密をバラすのはやめま
す」なんて言い出したとしても、僕は怒ったりしない。笑って許して、「じゃあ帰ろうか」
と手を引いてこの場所を後にするだろう。

 そんな心積もりをして、揺らぐ鳥羽の瞳をまっすぐに見つめていると……その時、炯々
と輝く満月を、流れる雲が攫っていった。

 ほとんど完全な暗闇に包まれる“墓標”で、僕たちは繋いだ手に力を込めて、互いの存
在を確認し合う。

 そしてその時。


 すべてが頼りなく闇に沈む世界に、バサリ、という空気を叩くような音が響きわたった。





 “墓標”を後にした僕たちは、鳥羽の家へと向かうべく、元来た道を遡っていた。

 鳥羽は気がついていないようだけれど、赤い月に照らされた森は不気味なほど静まり返っ
ていて、“墓標”へ至るまでにイヤというほど聞かされた虫たちの求愛大合唱もすっかり
なりを潜めていた。まるでこの世界には、僕と鳥羽だけしか存在しないかのように……

 そしてもう一つ気がかりなのが、あの灰色の荒廃で目を覚ましてからというものの、頭
の芯に靄がかかっているような、軽い酩酊状態のような感覚がまとわりついていることだっ
た。夢見心地、という言葉がこれほどしっくりくる状況は初めてだ。

 あるいは本当に夢の中なのではないかと、口の内側を奥歯で噛んでみる。が、その痛み
さえも他人事のように現実味のない感覚でしかなく、その行動はまったくもって意味をな
さなかった。

 少し遅れて僕の後をついてくる鳥羽を、ふと振り返る。彼女も彼女なりに、なにか違和
感を感じているのではないかと思ってのことだったのだけれど、僕と目が合った鳥羽は、

「あっ、い、今の、聞こえちゃいましたか……!? べ、べつにおなかがすいてるとか、
そういうわけじゃないんですよ……!?」

 とかなんとか、よくわからないことをのたまっていた。もはや僕一人で変に気を張って
いたのが馬鹿らしく思えてしまい、思わず苦笑を浮かべてしまう。

 するとやがて、僕たちの視線の先にY字路が現れる。こっちへ向かう時にも通った道で、
たしか三朝くんは熱心に『左』に行ってはならないと忠告していた。“墓標”へ向かう時
から見て『左』なので、“墓標”からの帰りでは『右』に行ってはならないことになる。

 念のために鳥羽を振り返るけれど、彼女は特に悩むこともなく『左』へと向かうようだっ
た。僕もそれに続こうと足を踏み出して……

 そこでふと、なにかに引っ掛かりを覚えた。

 なにに対しての違和感かはわからない。ただなんとなくとしか言いようがない。けれど
なんでか、僕にはこの道が、まるで初めて通った道のように思えたのだった。

 しかしそれは、行きと帰りでは風景も違うだろうし、以前に三朝少年と通ったときは昼
下がりだったため、景色の印象が違うのだということも考えられる。

 だからそんな深く気にするようなことはないはずだ……と、僕はそう結論してしまった。

 僕はここで、もっとよく考えるべきだった。

 そうすればもしかしたら、僕はなにも失わずに済んだのかもしれないのだから。





 生き物の気配がまったく無い森を、僕と鳥羽は黙々と進んでいく。僕の体感時間では、
およそ10分くらいは歩いただろうか。

 そのあいだも僕は油断なく周囲を見渡していたのだけれど、やはりこの道にはどうして
も違和感を覚えてしまうのだった。

 ……これはもう、気のせいで済ませてしまえる段階を越えてしまっている気がする。

 とうとう我慢できずに、僕は足を止めて振り返り、鳥羽に意見を仰いでみることにした。

「ねぇ鳥羽さん。本当にこっちの道で合ってたのかな? なんだかおかしいと思わない?」

「そう……ですね。私もちょっと……おかしいような気がします」

 やっぱり鳥羽も違和感を感じていたらしい。彼女は不安そうに周囲を見回して、

「何回かこの道は通っているんですけど、こんな景色じゃなかったように思いますし……
それに、そろそろ獣道みたいなところに入っててもいいはずなのに……」

「うん……でもここまで一本道だったし、道を間違えるとしたら、あのY字路しかないは
ずだよね? だけどあそこは『左』で合ってるはずなのに……」

 そう言いながら、僕はたった今歩いていた道の先へと視線をやる。薄暗くてよくわから
ないが、どうやら道はまだまだ続いているようだ。

 僕たちは迷っているのか、それとも迷っていないのか。その段階からわからないのでは、
今後の方針も決めようがない。僕はこめかみを揉みながら、しばし黙考して、

「……もう少しだけ、進んでみよう。それで道が違っていたら、あのY字路まで戻って、
今度は『右』に進む……それでいいかな?」

「は、はい!」

 僕らは軽く頷きあって、再び歩き始める。無事に町まで帰れるのかという不安感のため
か、鳥羽は僕の裾を軽く摘まんで、若干歩きづらいくらいに寄り添ってくる。そんな仕草
をされてしまうと、年上の男として庇護欲を刺激されてしまうというものである。やだ、
僕ってミジンコより単純……





 僕の言葉に、背後の鳥羽が息を呑むのが伝わってくる。こんな森の奥に住む獣の正体は
なんなのかということに必死で考えを巡らせていると、ふと、いつか三朝くんに島を案内
してもらっているときに教わったことを思い出した。

「そ、そうだ! この島にいる最大の肉食動物は、ヒャッケイイタチっていうオコジョの
仲間なんでしょ!? だから野犬とか熊みたいな物騒な獣が出るわけないよ!」

 僕のそんな言葉に、傍らの鳥羽は少しだけ緊張を解いたようだった。しかしそんな気休
めを嘲笑うかのように、

「そうかな。少なくとも小型動物とか草食動物が、こんな獰猛な唸り声をあげて獲物を包
囲するとは思えないんだけど」

 不機嫌そうな赤穂さんが、僕の楽観論をバッサリと斬り捨てる。デ、デスヨネー!

 そうこうしているうちにも唸り声はどんどん数を増してゆき、茂みの向こう側の獣たち
によって完全に包囲されてしまったようだった。

 僕は鳥羽の手を引いて、彼女を僕と赤穂さんの間に移動させながら、

「この唸り声って、『わーいお兄ちゃんたち遊ぼうよー』とか言ってたりしないかな!?」

「どうだろう。私にはどうも、『消えよ人間ども』っていう唸り声に聞こえるんだけど」

 そんな赤穂さんの言葉を皮切りとするかのように、僕たちの近くの茂みが一際激しく音
を立てると、そこからなにか黒い影が飛び出してきた。

 一瞬のことだったのでよくは見えなかったけれど、シルエットは大型犬のように見えた。
しかしその全身は不自然なほどに真っ黒で……そしてさらに不気味なのが、まるで僕の目
がソレに焦点を合わせることを拒否しているかのように、はっきりと視認することができ
ないのだった。

 そんな大型犬(推定)は、まっすぐに僕たちの中心……つまり鳥羽を目がけて飛び込ん
でくる。その瞬間、あまりの恐怖で立ちすくみそうになった僕の耳に、鳥羽の甲高い悲鳴
が飛び込んできた。

「―――鳥羽っ!!」

 それを聞いた瞬間、僕はほとんど反射的に鳥羽の前に立ち塞がっていた。それはなんと
も格好悪いことに、身を守ったり反撃したりといった構えなんて微塵もない、ただ身体を
割り込ませただけの滑稽な棒立ちである。

 走馬灯のごとくスローモーションで流れていく視界の中で、ゆっくりと僕に迫る、焦点
の合わない獣の影。それが僕の身体に食らいつこうとした瞬間―――



「消えるのはお前だ」



 信じがたい速度で獣の顔面を鷲掴みにした赤穂さんは、そのままソレを地面に叩き付け、
さらに茂みの向こうへとブン投げてしまったのだった。





 僕は、誰も追ってくることのない真っ暗な夜道を振り返る。そして大きな深呼吸を一つ
すると、再び前へと向き直った。

 ……腹は括った。今はとにかく、考えるよりもまず足を動かすべき場面なのだ。

「大丈夫、僕が全部なんとかする……だから泣かないで、鳥羽さん。さ、急ごう」

 そう言いながら鳥羽の背中を押して、僕らはひたすらに道を進み続けた。

 それからしばらくすると、やがて前方に見覚えのあるY字路が見えてきた。僕たちはこ
こで恐らく、道を間違えたのだ。……間違えるはずのない道を。

 鳥羽が不安そうな顔で、僕を見上げてくる。それがどういう意図の表情なのかは、いか
なコミュ障の僕と言えども、さすがにわかる。

 つまり、『さっきの赤穂さんの言葉を信じるのか?』ということだ。

 すこし冷静になってみると、どう考えてもあそこで赤穂さんと出会うというのはおかし
い。僕でさえ、鳥羽が向かおうとしている場所は知らなかったのだ。たとえ僕たちの失踪
に赤穂さんが気がついて探していたのだとしても、こんなにピンポイントで見つけ出すこ
とができるものだろうか?

 それになんだか様子もおかしかった。いつもの赤穂さんとは、まるで別人のように冷淡
で素っ気ない感じがしたし、それにあの喪服はどういうことなんだろうか? 誰かの葬式
から抜け出してきたとでもいうのか?

 極めつけは、“墓標”に戻れという指示。普通は、このY字路で間違えた反対側の道を
通って町へ帰るように促すはずではないだろうか? だって、たとえ“墓標”に辿り着い
たとしても、結局はそこから町へ戻るためにはY字路を通らなけれなならないのだから。

 ……そこまで考えて、僕は自分の感情に対して、少なからず困惑していた。

「行こう、鳥羽さん。……『右』だ」

「え……それって、さっきの逢神烏のところに行くってこと……ですか?」

 どうしてだろう……僕は彼女を、赤穂さん(仮)のことを信じきっていた。

 僕は彼女が赤穂さんでなかったとしても、彼女のことを信用したいと強く考えていた。

 僕は彼女が赤穂さんでなかったとしても、彼女のことをずっと以前から知っていたよう
な……そんな支離滅裂な感覚に襲われていた。

 自分自身でさえも理解できないそんな感覚を、鳥羽に説明できるはずもない。そのため
僕は、鳥羽に対して納得のいく説明をすることはできない。

 だから、このように言うしかなかった。

「お願い……僕を信じて」

 我ながら、ちょっとズルい言い方だったかもしれない。こんな言い方をすれば、鳥羽が
首を横に振ることはできないと知ったうえで口にしたのだから。

 だけど妙な自信……いっそ確信とさえ言えるものが僕の中にあるからこそ、そんな強引
な手法を取ったともいえる。きっと“墓標”へ向かえば、なんとかなるはずなのだ。

 鳥羽が僕の服の裾をちょこんと掴む。それは僕のことを信じてついて来てくれるという
返事に他ならない。僕はその好意による信用を、絶対に無駄にしてなるものかと固く誓う。

 かくして僕たちはY字路を『右』へと進み、“墓標”に向けて歩き出したのだった。





 痛みだったか、痺れだったか、はたまた息苦しさだったか。とにかく僕はなんらかの感
覚によって目を覚ました。

 稼働し始めてから間もない頭をゆっくりと回転させながら、僕は周囲を見回してみる。
地面は灰色の砂利に覆われ、その周囲は真っ黒な森に囲まれている。空は薄暗いが、東の
空から青と黄色の絵の具を滲ませるような色彩が徐々にその勢力を広げていた。

 鳥たちが群れをなして僕たちの頭上を越えていくのを茫然と目で追って……

 そこでようやく僕は、自分の背中にしがみついたまま眠っている少女の存在に気がつい
た。

「……鳥羽さん? え? あれ……?」

 どうしてこんな状況になってるんだっけ? たしか僕は夜に鳥羽の家へ向かって……そ
れから、そうだ、この“墓標”へと辿り着いて、鳥羽の『秘密』を明かされたのだった。
そして帰ろうとしたところで突然眩暈に襲われて……

 そのまま目が覚めることもなく、こうして夜が明けて空が白み始めるまでずっと、この
場所で気絶していたのだろう。

 ……っておいおい、それってマズくないか!? もしかしたら神庭家の人たちとか鳥羽
の家族とかが、かなり心配してるかも……!!

「ちょっ、鳥羽さん! 鳥羽さん起きて!」

 僕は慌てて背中にしがみついていた鳥羽を引きはがして身体を揺すってみるけれど、な
んだか『ぽやーっ』って感じのだらしない寝顔で涎をたらしている鳥羽は、まったく目覚
める気配がなかった。一応、呼吸と脈拍を確認しておく。……よし、異常なし。

 起きないものは仕方がないので、僕は鳥羽を背負おうとして……けれどもバランスを崩
してバックドロップを決めてしまうのが怖かったので、やっぱりおんぶはやめてお姫様抱っ
こで運ぶことにした。知識としては知っていたけれど、実際に意識のない人を運ぶという
のは、想像していたよりもずっと重たかった。

 あんなところで寝ていたせいだろうか、全身の節々がとても痛い。かなりの疲労感と倦
怠感を覚えながらも、僕の腕の中で暢気に「それって機関の攻撃ですよね~……むにゃ」
とか寝言を言ってる鳥羽を頑張って運ぶ僕。泣けてくるぐらい健気ですっ。

 まるで何時間も集中して勉強をした直後のように、なぜかまったく働いてくれない頭。
なんだかとても長い夢でも見ていたような気がするのだけれど……所詮は夢だ。一度忘れ
てしまえば、ちょっとやそっとで思い出すことはないだろう。

 僕はしかし、鳥羽を抱えたままひたすらに歩き続けていく中で、ようやく自分の身に起
こっている変化を具体的に認識するのだった。

 それは一言で表すなら、『喪失感』だった。





 双子の勢いに圧倒されて、僕は急にドッと疲れたような心地になる。そもそも僕がコミュ
障であるおかげで、万全の状態で接したとしてもHPをごっそり持っていかれるような子
たちなのだ。疲れるのは当然である。

 すると続いてお婆ちゃんがゆったりとした足取りで近づいてきて、

「大変だったねぇ、篤実ちゃん。無事でいてくれて、お婆ちゃん安心したよ。篤実ちゃん
になにかあったら、朋絵ちゃんに顔向けできないからねぇ」

 そう言ったお婆ちゃんは、怒りの表情こそ見せていないが、なんだか見るからにやつれ
ているような気がして……お婆ちゃんがどれほど僕を心配してくれていたかが伝わってく
るようだった。さすがにこれはクズな僕の心にも響いたようで、胸がとても痛かった。

「いろんなところに電話をかけたり、ご近所さんに声をかけたりして、昨日の夜からみん
なで篤実ちゃんたちを探してたんだよ。子供たちにも朝早くに起きてもらって……だから、
帰ったらみんなにお礼を言わなきゃねぇ」

「……は、はい。ごめんなさい……」

「それじゃあ、早くみんなのところに帰って、安心させてあげようねぇ」

 お婆ちゃんはにっこりと顔を皺くちゃにして微笑むと、のっそりと踵を返して、妹たち
が向かった町の方へと歩いていく。

 僕はそれに黙って追従するけれど、お婆ちゃんによって説明された現状が、僕の内心を
激しく抉っていた。いや、多分消えたのが僕一人だったなら、ここまでの大事には至らな
かったはずだ。だけどそれでも、僕の不用意で迂闊な判断が、町単位の人々に迷惑をかけ
てしまったことに変わりはない。きっと今日のことは、全部僕が悪いのだから。

 そうなると、僕はこれから先ずっと『女子中学生を深夜の森で一晩中連れ回した犯罪者』
として後ろ指をさされて生きていくことになるのだろうか。え、人生詰んだくせぇ。これ
からはひかりや凪と遊ぶのも控えた方が良いかもしれない……

 というかコレ、『精霊通信事件』のとき凪にしたように、鳥羽のご家族に土下座して、
もう娘さんに近づきません宣言しないといけないじゃないか……。たった今、氷雨にも絶
交されたっていうのに……やっべぇ、とんとん拍子で僕の居場所がなくなっていくよ?

 僕が四面楚歌の状況にガクブルしていると、同じくお婆ちゃんに付き従って歩いていた
二人……千光寺と三朝くんが、無言で僕の両隣に並ぶ。……もしかして僕がまたどこかに
消えるとか思われてるのかな……? 違うと信じたい。

 なんてことを考えていると、ふと、三朝くんが僕の顔をジーっと見つめていることに気
がついた。

「えっと……どうかした?」

「きつねさん、きつねさんじゃなくなっちゃったんだね」

「……え?」

「んーん、なんでもない」

 三朝くんは妙なことを口走ると、チラリと足元に目配せをする。それを合図にするかの
ように、彼の足元をトコトコ歩いていたさっきの子猫が、ぴょんとひとっ跳びして彼の腕
の中に収まるのだった。

「この子がね、おにいさんの匂いをおいかけてくれたんだよ。ねー?」

 にっこりとほほ笑みながら三朝くんが呼びかけると、子猫は可愛らしい声で「にゃーん」
と返事をした。僕が「ありがとね」と頭を撫でてやると、この可愛らしい生物は目を細め
て喉をごろごろいわせてくる。胸キュンボーナスを五点ほど進呈しましょう。

 そもそも僕はどちらかというと犬派だけれど、動物の子供にときめかない人間は存在し
ないのだ。なんなら永遠に撫で続けてもいいくらいの勢い。

 だけど最近は犬とも猫とも接する機会がなかったし……

 ……あれ? ちょっと待て、なにか、おかしいぞ。



 どうして僕が、動物に触れているんだ……?





 とにかくこれ以上弥美乃のサディスティック交渉術を体験したくなかった僕は、まず時
間を稼ぐことを最優先事項に据えてみることにした。僕はベッドに転がされて怯えている
鳥羽へと、縋るような視線を向けながら質問する。

「僕は“正塚”っていうところに行った記憶なんてないから、全然なんとも言えないんだ
けど……もしかしたら“正塚”に関することを聞けば、なにか思い出すかもしれない。鳥
羽さん、昨日の夜にあったことを、覚えている限りでいいから教えてくれないかな……?」

 突然話の矛先を向けられた鳥羽は大いに戸惑った様子だったけれど、ゆっくりと、震え
る声ながらも明朗に、昨晩僕たちの身に起こったという摩訶不思議な体験を赤裸々に語っ
てくれた。

 赤い月、左右反転した森、夜中の二時、焦点の合わない獣、喪服の赤穂さん、排水溝の
ような音、迫り来るおぞましい気配……そして、逢神烏。

 その話を聞いているうちに、僕はもう目眩がしてくるような心地だった。あまりにも現
実味がなさすぎる荒唐無稽具合に、いっそ鳥羽が秘めたストーリーテラーとしての才覚に
感心するほどだった。やけに中二心をくすぐられる世界観だと思ったら、そもそも鳥羽は
ドストライクの中二少女だということを思いだした。

 だがここで「え、意味わかんないんですけどチョーウケル(笑)」とか言おうものなら、
目の前の猟奇的ガールに文字通りの一刀両断に処されるであろうことは明白だ。

 それに“正塚”に関する出来事を語っているときの鳥羽の表情は真剣そのものといった
様子で、そんな彼女に水を差すようなことはできそうもなかった。

 どうしよう……『赤目さま』についてのことを弥美乃に語ってみても良いのだけれど、
そんな胡散臭い話を信じてもらえるものだろうか?

 それにたとえ信じてもらえたとしても、『赤目さま』が現れることは“絶対にない”。
実在するのであれば、そもそも僕が手を汚すまでもなく例の四人は呪われていたはずなの
だから。

 呪いの正体は、僕の“声”だ。『赤目さま』なんて実在しない。

 ……かといって、千光寺が僕の背中に見た“何か”をどこで拾ってきたかなんてことに
心当たりがあるはずもない。そんなの、風邪をどこで伝染されたかを聞かれているような
ものだ。わかるわけがない。

 それなら……そう、もっと根本的な部分に目を向けてみてはどうだろう?

 『王手飛車取り』を避けたいのなら、弥美乃が油断しているこの瞬間に、一気に弥美乃
へと『チェックメイト』を仕掛けるしか手はない。

 弥美乃の精神を殺すことは、いつだってできる。そのための材料は、すでに整っている
のだから。だけど鳥羽が見ている手前、できればそれは最終手段としておきたい。

 僕はおっかなびっくり、弥美乃の逆鱗に触れないように……その問いをそろりと切り出
した。

「あの……さ。もちろん、弥美乃の……ために、えっと、できることは、なんでもしたい
と思ってるんだ。こうなったのも、ほら、僕が約束を守れなかったせいだし……。だけど、
どうしてもこれだけ気になってて……だから、教えてくれないかな……?」

「どうしてあたしが、そこまで“正塚”にこだわってるか……かな?」

「……あ、う、うん……そうです、はい」

 てへ、バレてた☆

 弥美乃は一瞬だけ天井を仰ぎ見るようにのけ反ると、それからゆっくりと姿勢を戻し、
そのどんよりと澱んだ漆黒の瞳を、刃物のように、薄く、鋭く細めていった。

「……だーりんには初めて尽くしだよ。ほっぺにチューしたのも、家に上げたのも、心を
許したのも、手料理を振る舞ったのも、押し倒されたのも、泣かされたのも……そして、
この話をするのもね」

 揺らぐ蝋燭の光に照らし出された弥美乃が、先刻までと雰囲気をガラッと変える。





「原始人から見たら、ライターは魔法の杖なんだよ」

「……はい?」

 弥美乃が突然言い放ったその言葉で、僕は頭の上に疑問符を浮かべた。比喩とかじゃな
く、僕の体感的にはマジで浮かんでいた。それくらい意味が分からなかったのだ。

 僕の間抜け面がおかしかったのか、弥美乃はうっすらと微笑むと、

「それは現在から過去を見た場合ね。……じゃあ、未来から現在を見た場合。もしも今、
あたしがハサミを振るっただけで、だーりんを宙に浮かせることができたら。このハサミ
は魔法の杖なんだよ」

 そこまで説明されて、僕はなんとなく彼女の言っていることの意味がわかってきた。だ
が言っていることはわかるが、言わんとしていることはわからない。

 さながら魔法少女のように、黒い裁ち鋏をくるりと回しながら、弥美乃は上機嫌に語り
続ける。

「ハサミの中に機械が組み込まれていて、それが磁場に作用して浮かせてるのかもしれな
い。あるいは重力を遮断してるとか。透明な糸で身体を吊るしてたりして。特殊な電波で
幻覚を見せているって可能性もあるかな。オーバーサイエンスってヤツだね」

 弥美乃はゆっくりと、木椅子に縛られた僕の周りを歩き出す。

「もしくは、まだ確認されていない物質とか素粒子による作用かもしれない。フィクショ
ンの世界で“魔力”とか呼ばれてるものが、まだ知られてないだけで、本当に実在してる
のかもしれない。だってニュートンさんが騒ぎ出すまで、みんな重力の概念さえ適当にし
か認識してなかったんだよ? 磁力も、電波も、紫外線も!」

 やがて声色は熱を帯びて行き、熱弁と言えるまでに白熱してゆく。

「一万年後の人類は、『昔のニューマンは次元の壁を突破するどころか、認識さえできて
なかったんだぜ、おっくれてるー』とか言ってるのかもしれない! 現代の常識で不可能
だとされてることが、これから先もずっとできないだなんて、誰にも言い切れないんだよ」

 僕の背後へと回った弥美乃が、そこでひたりと立ち止まる。

「地底も、深海も、宇宙も……ううん、もっともっといろんな世界には、まだ知られてい
ない現象が、物質が、きっと存在してる! ううん、存在してないといけないんだよ!」

 弥美乃の細い指が、僕の肩を優しく掴む。相手が弥美乃なだけに身構えてしまうが、ど
うやら今のところ害意はないらしい。

「原始時代におけるライターみたいな、『魔法の杖』を見つけ出す……それがあたしの、
“手段”なんだよ」

「……“手段”? “目的”じゃなくて?」

 思わず口を突いて出てしまった疑問に、弥美乃の指がピクリと反応する。やべっ、失言
だったか……!? と血の気が引いたのも束の間。

 弥美乃はそっと僕の耳元に口を寄せて、静かに……だけどこれまでとは比べ物にならな
いほどの熱を込めて、彼女は言った。



「あたしの目的はただ一つ―――『パパに会う』―――ただそれだけ」





 パズルのピースが、カチリと音を立てて嵌まる感覚だった。これまでに提示された無数
のヒントが繋がって、一つの答えを示すような感覚。

 そうか、そうだったのか……いや、一度気がついてみれば、どうして今までわからなかっ
たのか、わかってあげられなかったのか、それが悔やまれるようなレベルだった。

 弥美乃の長い黒髪が、サラリと僕の首筋に落ちる。弥美乃が俯いたためだ。

「……そのためなら、なんだってするって決めたんだよ。幽霊が存在するとか言ってる千
光寺ちゃんの神社に通ってみたり、神主さんに話を聞きに行ってみたり、本で読んだ降霊
術を片っ端から試してみたり、島中からあらゆる手を尽くして曰くつきっぽい物品をかき
集めてみたり、『霊山さん』にお願いしてみたり、『魔術部屋』を作ってみたり……とに
かく考え付く限りのことはなんでもやった……!」

 まるで声に、血が滲んでいるかのようだった。それほどまでに痛々しくて、傷だらけの
声だったのだ。

「でも、全然だめだった……。世界は当たり前みたいな顔して、白々しい常識にまみれて
るんだ……。あたしのちっぽけな反抗なんて嘲笑うみたいに、今日も世界は平和で、ヒビ
の一つも入らないんだよ……」

 鳥羽が空想志向の中二病だとすれば、弥美乃は現実志向の中二病だ。

 鳥羽は特異な生まれであることを、普通の殻を被って隠し、その上で自身の特異性を肯
定すべく、もっと特異な自分を空想上に創りだして演じていた。

 一方で弥美乃は、普通の生まれでありながら、生き方が歪むほどの事件で特異性を押し
付けられ、そんな自分を普通の殻で覆って隠して生きてきた。

 特異を演じる普通を装った特異な女の子と、普通を装う特異な性質の普通な女の子。

 普通になりたくて苦しむ純白の女の子と、特異に手を伸ばそうと苦しむ漆黒の女の子。

 さながら鏡合わせのような鳥羽 聖と芦原 弥美乃が、惹かれ合うように千光寺神社へ集
い、そして僕の特異性に目を付けた……。これは一体なんの因果なのだろうか。

「何年頑張っても結果は出ない。幽霊も妖怪も見つかりやしない。もうどうしたらいいの
かわからなくって、胸が張り裂けそうだった……」

 弥美乃は僕の背後から正面へと戻ってくると、長い黒髪で顔のほとんどを隠しながら立
ち尽くす。……その声は弱々しく震えていた。

「そんな時だよ……だーりんが現れたのは」

 ぞわり、という悪寒が僕の背筋に走った。これから彼女の口から語られることが、僕に
とって非常な苦痛を伴うということを、思考以下の本能で察したためかもしれない。

「最初は、どこにでもいる普通の男子だと思った。ううん、普通以下の男子に見えたかな。
あたしとしては男ってだけで気持ち悪いと思ってたし、今後も接する機会なんて無いんだ
ろうなって漠然と考えてたのを覚えてるよ」

 艶やかな髪の隙間から覗く彼女の瞳は、昔を懐かしむように遠くを見つめていた。

「だけど先月の、写生大会の日……あたしが絵を描いてたら、すぐ横を委員長が走っていっ
たんだよ。それで何事かと思って辺りを見回してたら、淡路くんと妙義くんを引き連れた
だーりんが見えた。必死の形相で、いつもと雰囲気が違ってたから……すごく印象に残っ
たんだ。その時はなにしてるのかわからなかったけど、あとでだーりんが、滑落に巻き込
まれた鏡ヶ浦ちゃんを命懸けで助けたってことを知った」





 『精霊通信事件』の最中を、弥美乃に見られていたのか……。そういえば鏡ヶ浦が失踪
する直前、笹塚たちと一緒にいた弥美乃を見たっけ。そして赤穂さんに追いつけなかった
僕は携帯でお婆ちゃんを呼び出して……

「それから一ヶ月。千光寺神社の神主さんに話を聞きに行った時のことは、忘れられない
よ。神主さんを投げ飛ばしたこともそうだけど、あたしはあの時初めて、自分の目で超常
現象を目撃したんだ。本当に嬉しかった……こんなことが現実に起こるんだって興奮して、
すぐにでもだーりんに話しかけたかった。……まぁその日の帰りは、鳥羽ちゃんに先を越
されたから諦めたんだけど」

 ベッドの上で縮こまる鳥羽を、横目で見据える弥美乃。鳥羽はその一瞥だけで、飛び跳
ねるくらい怯えていた。

「それからはだーりんも知ってのとおり、とにかくお近づきになろうと思って告白したり、
だーりんを利用しようといろいろ画策して……そして、昨日の夜」

 心臓が締め付けられるように痛い。いや、痛んでいるのは胃かもしれないし、あるいは
……心かもしれない。弥美乃の怒りが、絶望が、この頃になると痛いほどに伝わってきて
いた。

 なぜなら、僕は……

「だーりんに言われた言葉は、あの女……ママにだって言われたことなかった。あんなに
あたしの心に踏み込んできたのは、だーりんが初めてだった。だーりんはいざって時には
力強くて、不器用だけど一生懸命で……あたしのカサカサに乾いた心を、潤してくれた」

 うっとりとした声だった。幸せそうな声だった。弥美乃は僕なんかの言葉に、そこまで
心を動かされてくれていたのだ。

「本当に、だーりんになら、あたしの“いちばん”を捧げたっていいと思った。今まで誰
に対しても興味が湧かなかったあたしが、だーりんのことを本気で好きになった。パパも
きっと許してくれるはず……そう、思ってたんだよ?」

 幸せそうな声はどんどん掠れていき、やがて絶望が色濃く滲み始める。

「だーりんはあたしの汚い部分を見ても、情けない姿を見ても、昨日の夜、あんなに温か
い言葉をかけてくれた。あたしなんかのために、必死になって説得してくれた。だから、
あたしは……だーりんが帰ってきたら森に出かけて、“正塚”を探して……もし“正塚”
が見つからなかったら、すっぱりとパパのことは諦めて、だーりん一筋で生きていこうっ
て決めたの。だからだーりんが帰ってくるのを玄関で、ずっと、ずっと待ってたんだよ」

 僕は弥美乃の顔を見ることができなかった。彼女の震える声を……必死に感情を抑えよ
うとして、それでも抑えきれない声を聞きながら、奥歯を噛みしめることしかできない。

「ずっと……朝まで待ってたのに……」

 ぽたり、と。弥美乃の足元に雫が落ちる。思わず視線をあげて、僕は弥美乃の顔を見た。
見てしまった。

 そこにあったのは、あらゆる感情が複雑に混じり合った、歪な笑顔。

 深い絶望を湛えて頬を濡らす彼女は……僕の、最も聞きたくなかった言葉を口にした。



「……だーりん……どうして、帰ってきてくれなかったの……?」





 なにも言い返すことができなかった。当然だ、一〇〇パーセントの割合で、完全に僕が
悪いのだから。さすがにこんな監禁まがいの仕打ちを受ける謂れはないけれど、それでも
弥美乃の心情を……彼女が僕を待っていた十時間余りを思えば、甘んじて罰を受け入れざ
るを得ないものがあった。

 だけどそれでも……鳥羽を危険に晒していい理由にはならない。

 僕は、ベッドの上で未だに身を丸くしている鳥羽へと視線を向けた。偽りの自分を演じ
ながら悩み続けてきた彼女。今日まで苦しみながらも秘密を守り続けてきた彼女。昨日、
ようやくその呪縛からほんの少しだけ解放されて涙を流した彼女。

 僕はどんな目に遭ったって構わない。それだけのことをしてしまったんだと、今さらな
がらに気がついた。悪いことをしたのだから、どんな罰だって受けよう。

 でもそれは、どうにかして鳥羽をここから逃がした後だ。

 僕は覚悟を決める。僕は『飛車』じゃなくて『歩』だけど、“一歩千金”という言葉も
ある。いつだって『歩』は、誰かの身代わりで、争いの鉄砲玉で、暴力への壁役で、強者
にあてがう囮で、価値が低くて、あっけなく無様にやられるのが仕事だ。

 ……それなら、自分の役割を全力でこなしてやろうじゃないか。

「ごめん……ごめん、弥美乃……謝ってもどうしようもないことは、わかってるけど……
謝ることしかできない。弥美乃との約束を覚えてはいたんだけど……どうしても千光寺さ
んに聞いた“正塚”ってものが、見てみたくってさ。……鳥羽さんに無理を言って、まっ
すぐ帰らなかったんだ」

 弥美乃の眉が、ぴくり、と動く。

「……さっきはしらばっくれてたけど、本当は“正塚”に関する知識も記憶もあるんだよ。
鳥羽さんは、遅くなると親が心配するから帰ろうって何度も言ってたんだけど、“正塚”
を探すまでは戻りたくないって、僕が夜中まで連れ回してたんだ」

 視界の端で、鳥羽がポカンと口を開けながら、体を起こす。僕がなにを言っているのか
がわからず、混乱しているのかもしれない。……頼むから、余計なことは言わないでね。

 弥美乃が無言で、右手に携えた裁ち鋏をカチカチと鳴らす。それだけで僕の背筋は凍っ
てしまうのだけれど、ここでビビって引くわけにもいかない。

「でもまさか、弥美乃がそんなマジメに僕の言葉を聞いてるとは思わなかったんだよ……
だって僕は、沈黙が気まずいから適当な言葉を並べてただけなんだからさ。弥美乃も適当
に聞いてるのかと思ってたんだけど、違ったんだね」

 弥美乃の瞳がどんどん温度を無くし、冷え込んでいく。右手の裁ち鋏が蝋燭の光を反射
し、不気味に黒く煌めいていた。

 あと一押し……あと一押しで、弥美乃は激昂する。そうすれば恐らく、あの鋏を使って
僕に攻撃を仕掛けてくるだろう。

 これまでに、この部屋唯一の扉は二度開いた。その際、僕は扉の外の景色もきちんと確
認していた。扉の向こうには、二メートルもない距離に白い壁があった。日差しは右側か
らで、この部屋の左隣にはもう一つ部屋が存在する。極め付けに、弥美乃が自分の部屋か
ら、意識のない男子高校生を運び出すことのできる場所……

 この条件を満たせる場所は一つ。ここは、弥美乃の部屋の隣にあった『開かずの間』で
間違いない。

 そして弥美乃が我を忘れて鋏で僕を攻撃すれば、かなりスプラッターな光景となる。良
くて出血、悪くすれば死にかねないほどの攻撃が僕に襲い掛かるはずだ。そうなればきっ
と、鳥羽は絶叫するだろう。

 “それ”が脱出への架け橋となる。





 僕のその言葉に、怒髪天を突くほどに怒り狂っていた弥美乃の表情が変わる。同様に、
彼女に髪を掴まれて苦悶の表情を浮かべていた鳥羽も、驚きの表情を浮かべていた。

「これは弥美乃の言う通り、“鳥羽さんを助けるために”使う『魔法』だ。きっと弥美乃
は、これから致命的なダメージを受ける。だから鳥羽さん、そうしたらここからすぐに逃
げだして、助けを呼んできてほしい」

「ま……また、お得意の嘘……?」

 警戒と、若干の焦りが混じる引きつった表情で、弥美乃が上ずった声を発する。対する
僕は揺るがない。既に腹を決めているからだ。

「嘘だと思うんならそれでもいいよ。でも弥美乃は見たがってたよね、『魔法』を。せっ
かくだから、特等席で見ていきなよ」

 さきほど弥美乃自身が言ったことだ。理解の及ばない現象は、それが科学であっても魔
法なのだと。それならばこれから僕の行う攻撃は、きっと弥美乃にとって魔法たりうるも
のとなるだろう。

 僕は弥美乃のお母さんの手によって、見せてもらったのだ。弥美乃が今日までずっと愛
し続けてきた“いちばん”である、弥美乃の父親の映像を。つまり僕の耳には、頭には、
弥美乃の父親の『声』も『抑揚』も『発音』も、しっかりとこびりついている。

 何年も何年も、ずっと父親に会うためだけに尽力し続けて……実らないとわかっている
はずの夢に縋ることでしか自分の心を守ることのできなかった哀れな少女の、最も深い場
所へと大切にしまわれているであろう、愛する人の『声』。

 これまでの青春時代、そのすべてを捧げてまで聞きたかった彼の声で、自分の生き方や
考え方を根本から否定されたなら……ずっと縋りついてきた、大切な人との美しい記憶を
ぐちゃぐちゃにぶち壊すような言葉を叩きつけられたなら……そのダメージは、絶望は、
痛みは、彼女の心を殺すのに十分すぎるものとなるだろう。

 僕が発した言葉を、僕の発した言葉として認識させるようなヘマはしない。信じられな
いかもしれないけれど、本当にそっくりな声というものは、目の前で別人によって発せら
れたところを見ていたとしても、本人による言葉であると錯覚してしまうものなのだ。

 さらに言うなら、弥美乃は幽霊というものがいると信じている。いや、信じざるを得な
い立場にいる。だからこそ、寸分違わず正確に再現された父親の声を、目の前の高校生が
発しているという、それだけことを、それだけのこととして捨て置くことなどできはしな
い。僕が一言、『死者の言葉を伝えることができる』とでも言えば、その言葉は、父親の
言葉として彼女の心を打ち砕くのだ

 これは弥美乃の、今にも壊れそうな傷ついた心を、土足で踏みにじる、最低最悪の行為。

 ―――まさしく『呪い』だった。





「……覚悟は良い?」

 きっと僕は、本土であいつらを呪ったときと、おんなじ顔をしているんだろう。僕を見
る弥美乃と鳥羽の顔を見ていればわかる。蛆虫の湧いた腐乱死体を見るような顔つきだ。
あるいは、曰くつきと名高い旅館で、押入れに貼ってある古びた護符を見つけたときのよ
うな顔かもしれない。

 きっと彼女たちは“ハッタリじゃない”ということに気がついてくれたことだろう。あ
とは僕が、声を発するだけだ。弥美乃の今日までの努力を、人生を否定するような、心を
へし折り粉々にするような言葉を乗せて……

 僕が息を大きく吸い込み、そして喉を絞って声を発しようとした直前……昨日の弥美乃
の笑顔や泣き顔、苦悩や葛藤、そして先ほど知った彼女の過去や想いが頭をよぎり、固め
たはずの僕の覚悟に急ブレーキがかかった。

 その間隙を縫うかのように、

「や、やめてください! 篤実さんっ!!」

 根が控えめな性格である鳥羽にしては珍しい大声が、室内に響いた。突然のことで僕も
弥美乃も目を丸くするが、鳥羽は構わず、涙を滲ませながら言葉を続けた。

「それ、都会でやったっていう『呪い』ですよね……!? そ、そんなの、ダメです!!」

「い、いや……でも、もうこれしか……」

「でも、でもっ……それで一番傷ついてるのは……篤実さんじゃないですかぁ……!」

 …………傷ついてる? 僕が?

 鳥羽の言っていることの意味が分からず、僕は困惑した。僕が都会であいつらを呪った
せいで、傷ついている……?

 そんなはずはない。例の事件の直後から僕が空っぽになったのは、きっと燃え尽き症候
群とか、そういう風なものであって、そんな、罪悪感だとか、当たり前で人情味の溢れる
理由なんかじゃない。僕はそんな立派な人間じゃない。喋れば笑われ、歩けば蹴られる、
そんな人間なんだから。

 だからこそ、弥美乃が僕を標的としているうちは、なんだかんだ思いつつも、自分の境
遇に納得はしていた。不満はあったが、少なくとも理不尽な目に遭っているという感覚は
あまりなかった。なぜなら、僕はそういう星の元に生まれた人間だから。

 だけど鳥羽を狙うというのなら、傷つけるというのなら、話は別だ。平時の二人の価値
は甲乙つけがたいものがあるけれど、少なくとも現状は……被害者である鳥羽と、加害者
である弥美乃。優先すべきはどちらかという選択において、迷いはない……はずだった。

 できれば僕だって、二人が無傷でこの一件を幕引きできるのであれば、それが最善だと
は思う。だけど、もはやそれは叶わないということを今までの流れで痛感させられたのだ。

 それなら、もう、弥美乃を呪うしか……『魔法』を使うしか……



 ―――『魔法』を使うしか?





「……ふっ……くふっ、ふ、ははははっ……!」

 思わず吹き出してしまい、慌てて表情筋を引き締めようとしたけれど、全然だめだった。
僕を見る弥美乃と鳥羽が、さっきよりもドン引きした表情を浮かべるけれど、そんなこと
は全く気にならなかった。たった今僕が見出した光明に比べたら、些末な事だ。

 ……そうか、そうだった。僕にはまだ使える『魔法』があったじゃないか!

「わかったよ、鳥羽さん。本土で使った『呪い』は使わない。……代わりに、一昨日の夜
に習得したばかりの『魔法』を使わせてもらうよ。こっちのほうがパワフルだしね」

「……おととい?」

 思い出してくれ、鳥羽。この『魔法』は僕一人では扱えないんだから。僕は一昨日の夜、
どこで、誰と、なにをしていた?

「鳥羽さん、キミが教えてくれたんだよ。ほら、『愚理喪環亞瑠(グリモワール)』に記
されていた『魔法』だよ。こんな状況なら……いいや、こんな状況だからこそ輝きそうな
『魔法』があったじゃない」

 しばし呆然とする鳥羽だったけれど、やがて「……あっ」という呟きとともに、なんだ
か呆れたような目つきとなってしまった。そんな顔しないでよ、キミのオーダー通りなん
だからさ。

「それに鳥羽さんは、天の現人神としての真の姿を解放することができるでしょ? その
力があれば、今の状況からだって、容易に脱出ができるじゃないか」

 僕たちの会話にまったくついていけてない弥美乃が、困惑の表情を浮かべる。それはそ
うだ、『呪い』も『愚理喪環亞瑠』も『真の姿』も……全部、僕と鳥羽の二人だけの秘密
なのだから。

 僕は弥美乃を睨みつけると、

「お待たせ、弥美乃。今度こそ『魔法』をご覧に入れるよ。……自分で見たいって言い出
したんだ。今更怖がって、やっぱりいいですなんて、通用しないよ?」

「……なに言ってるのかさっぱりだけど、『魔法』があるんなら、さっさと使って見せて
よ。それが拍子抜けだったら……どうなるか、わかってるよね?」

 鳥羽の首筋に当てられた裁ち鋏を弥美乃が開閉させて、カチカチと音を鳴らす。この状
況で例の『魔法』を使うのはやや危険だが、刃の部分が接触しているわけではないので、
多少の無茶はきくと信じよう。

「わかってるさ。きっと今の僕に使えるのは一回きりだからさ。余所見していて見てませ
んでした、なんて勘弁してよ?」

 そう言うと僕は、目を伏せ、顔を俯かせて、大げさに深呼吸をして見せる。波紋エネル
ギーでも生み出せそうな大きな呼吸音に紛れて、僕はこっそりと、後ろ手に手首を拘束し
ている針金の具合を確かめる。今までずっと弥美乃と交渉しながら、ゆっくり、ゆっくり
と手首に巻き付いた有刺鉄線のような針金を押し広げて、引き抜く余裕を作っていたのだ。

 もちろんそんな程度で完全に解くことのできる拘束ではなかったけれど、最初に感じた
感覚の通り、縛り方がそこそこ雑だったこともあり、多少の怪我を覚悟すれば……

 さぁ、反撃の時間だ……!





「……ナウマク・サマンダボダナン・アニチャヤ・ソワカ……ナウマク・サマンダボダナ
ン・アニチャヤ・ソワカ……」

 まるで気を失ったかのように、木椅子の上でぐったりと脱力する僕。その口から漏れ出
した声に、弥美乃と鳥羽が息を呑む気配を感じた。それはそうだ、僕は現在“ホーミー”
という、モンゴルに伝わる特殊発声法を用いているのだから。

 ホーミーというのは、簡単に言えば、複数の高さの声を同時に出すというテクニックの
ことで、喉を詰めた状態で舌と上顎を絶妙な加減で接着させることで実現できる。喉だけ
でなく口腔内の精密な制御を要するこれは、さすがに僕でも簡単ではないけれど……

 まぁ事前情報も無しでこの多重音声を聞けば、なんていうかこう、エクソシスト的な、
悪魔に憑りつかれた感じの禍々しい声に聞こえるはずだ。

 そしてその声で、一昨日鳥羽に聞いた“呪文の始動キー”を唱える。僕自身でさえもか
なりサイコな言動だという自覚があるので、弥美乃にしてみれば恐怖でしかないだろう。

 やがてホーミーでの呪文詠唱の音量は、どんどん上がっていく。僕の禍々しい悪魔的ボ
イスが、室内をビリビリと震わせる。

 極め付けに、僕は全身をガクガクを震わせながら白目を剥いて、ロックフェスもかくや
といったレベルで頭をグルングルンと振り回す。

 そして、叫んだ。『魔法』の呪文を……!!



「ライトニング・エルボーォォォオオオオオオオオオッ!!!!!」



 それを合図に、身体の前で手首を拘束されていた鳥羽が勢いよく腕を前に振りかぶり、
そのまま背後にいた弥美乃の鳩尾に、しこたま強烈なエルボーを打ち付けた。

 僕のイカレた奇行へと完全に意識を向けていた弥美乃は、その不意打ちに「げぅッ!?」
という潰れたカエルのような声を出して、背後のベッドに倒れこんだ。

 しかしそれでも鳥羽の髪を掴んで離さなかったのは、弥美乃の執念の賜物だったのかも
しれない。けれどもそれは、鳥羽に対しては意味がないのだ。なぜなら……

 弥美乃が掴んでいた鳥羽の髪が、まるで頭皮ごとずるりと剥けたかのように持ち主の体
を離れた。弥美乃は知る由もなかったが、それはウィッグなのである。おかげでまんまと
弥美乃の束縛から逃れた鳥羽が、白銀色に輝く長髪をなびかせながら、木椅子に拘束され
たままの僕の元へと駆け寄ってくる。

 本当はそこで鳥羽に「僕に構わず先に逃げろ」とでも言いたかったのだけれど、そんな
ことを言われて僕を見捨てるような子じゃないことは、これまでのやり取りでよくわかっ
ている。

 だから僕は……

「うッ、ぐぉぉおおおぉぉぉらぁぁああああああああっ!!!」

 有刺鉄線のようになった針金から無理やりに引き抜いた僕の手首が、ブチブチッ、ガリ
ゴリッ、というおぞましい音を響かせる。しかし想定していたような激痛はなく、むしろ
ひんやりと冷たい感覚しか感じなかったのが逆に怖かった。熱い液体が手の甲を伝ってい
く感覚もあったけれど、そんなものは気のせいだと自分に言い聞かせ、僕は立ち上がった。

 鳥羽を連れてこのまま脱出、という選択肢もあるにはあったけれど、僕はそれじゃあ逃
げきれないと踏んでいた。よしんば逃げ切れたとしても、凶器片手に僕たちを追ってくる
弥美乃の姿を島民に見られれば、弥美乃の居場所がなくなってしまう。事ここに至っても、
僕はまだそんな甘っちょろい考えに支配されていたのだった。

 だから僕はまっすぐに、ベッドの上で呼吸困難に喘ぐ弥美乃へドタドタと駆け寄ると、
勢いそのままに彼女へと覆い被さった。

 驚いて身構える弥美乃の虚を突いて、彼女の手から裁ち鋏を奪い取る。まずは凶器を取
り上げることで無力化を試みようという咄嗟の判断だったのだけれど、その裁ち鋏を手に
して、僕は驚いた。





 まず疑問に思ったのは、そのあまりの軽さだった。どう考えても鉄製とは思えない軽さ
と、そして手触り。よくよく見てみれば、それは大きめなオモチャのプラスチックシザー
だった。これでは人間の皮膚はおろか、布さえ切り刻むことはできないだろう。切れてせ
いぜい、折り紙程度のものだろうか。

 そこで僕は思い出した。いつも弥美乃が持ち歩いていた漆黒の裁ち鋏は、“シャキン”
という独特の金属音を響かせていた。けれど今日のハサミは、カチカチという軽い音しか
鳴っていなかったように思う。……この部屋が暗すぎたせいで、こうして直接触れるまで
まったく気がつかなかった。

 最初から弥美乃は、僕や鳥羽さんの身体を裁ち鋏で切り刻むつもりはなかった……? 
それどころか、脅すだけならいつもの裁ち鋏でよかったところを、うっかり揉み合いになっ
たときに怪我をさせないように、わざわざこんなオモチャを……

 そんなことを考えながら固まっていた僕の体の下で、弥美乃が瞳いっぱいに涙を溜めて、
覆い被さる僕の顔をグーで殴ってきた。痛ってぇ!

「なにが魔法だっ! ばか! ふざけんな、死ね! 死んじゃえッ!!」

 幼い子供のように泣き喚きながら、がむしゃらに腕を振り回す弥美乃。

 僕はハサミを後ろに放り捨てると、弥美乃の振り回す腕を、やや苦労しながらどうにか
掴み、体重をかけてベッドへと押し付けた。これで完全に、彼女の制圧は成功だ。

 ホッと一息つく僕とは対照的に、「フーッ、フーッ……!!」というかなり興奮気味な
息遣いをしていた弥美乃は、やがて自分に勝機がないことを完全に悟ったのだろう、ぽろ
ぽろと涙を零しながら、

「うわぁ~~~んっ!! ぱぱぁ~~~っ!!」

 いよいよ本格的に、大声で愛する人を呼びながら泣き出してしまった。

 どうしたものかと背後の鳥羽を振り返ると、彼女はウィッグを被り直しながら、目を丸
くして困惑していた。先ほどまでの威圧感など微塵も感じさせない弥美乃の変貌ぶりに、
果たしてどちらが彼女の素なのかがわからなくなってしまう。

 そこで僕は、昨晩の弥美乃とのやり取りを思い出す。僕は昨日、弥美乃が懸命に発して
いたSOSを無視してしまった。孤独に苦しむ彼女の手を握り、救ってやることができな
かった。もしあそこで弥美乃を“いちばん”にしてあげることができていたら、こんな痛
ましい事件だって起こらなかったはずなのだ。

 今がその、二回目のチャンスなんじゃないか? 今すぐ泣きじゃくる弥美乃を抱きしめ
て、今度こそ彼女を“いちばん”にしてあげれば、彼女のひび割れた心を少しでも癒し、
あのビデオに映っていた頃のような純粋な笑顔を、もう一度浮かべることができるように
してあげられるかもしれない。

「ねぇ、弥美乃。今度は、もう……」

 僕は弥美乃の腕からそっと手を離し、その手を彼女の身体に回そうとした……

「……だー、りん……?」

 ―――その時。

 ガチャガチャッ!! という音が室内に響いた。僕たち三人が驚いて、音源である部屋
の扉を同時に振り返ると、

「弥美乃ちゃ~ん? さっきからドタドタいってるけど、大丈夫?」

 どうやら鍵がかかっていたらしい扉の向こうから、妙齢の女性の声が聞こえてきた。さ
きほど僕が弥美乃へと駆け寄った際の足音が、一階にいた弥美乃のお母さんの耳に届いて
しまったのだろう。

 僕は弥美乃に回そうとしていた手を、すんでのところで押し留める。……あっぶねぇ、
僕はいったい、勢いでなにをやろうとしてしまっていたのだろうか。彼女を理解してあげ
て、心の支えになってあげる役割を担うべきは、僕如きじゃないだろうに。

 昨日、この家の一階リビングで弥美乃のお母さんと話したことを思いだす。彼女は本当
に弥美乃のことを心配して、そして彼女に寄り添えなかった自分を悔いて、責めていた。
あれが真実なのだとしたら、きっと僕の思惑通りの行動をとってくれるはずだ。




>>900記念に、鳥羽ちゃんも描いてみた。黒verは描いてる途中で飽きちゃいました。




 僕の下で弥美乃が、ひっく、と可愛らしいしゃっくりをした。なにか言いたげな潤んだ
瞳を、僕は半ば強引に無視するように振り切ると、

「……弥美乃。今から、弥美乃のお母さんが、弥美乃のことをどれくらい大切に思ってる
のかを教えてあげるよ」

「え……?」

 僕は大きく息を吸い込むと、軽く口の中で声のチューニングをして……

「きゃぁぁあああああっ!! ママぁ!! たすけてママぁぁああああ!!」

 かなり逼迫した雰囲気の悲鳴を、“弥美乃の声で”あげる僕。そんな異様な光景を直接
見た弥美乃と鳥羽は、あんぐりと口を開けて絶句するけれど……扉の向こうでは、

「弥美乃ちゃん!? どうしたの、弥美乃ちゃんっ!?」

 ドンドンと激しく扉を叩く弥美乃のお母さんは、声だけでもわかるほどにパニクってい
た。しかし女性の腕力では到底、あの扉を破ることはできそうにない。

 数秒後、扉を叩く音が止んだかと思ったら、今度はドタドタと廊下を走り去っていく音
が聞こえた。どうやら音から察するに、階下へと降りて行ったようだ。

 僕の下で、くすんと鼻をすする弥美乃がうんざりしたように目を細めると、

「……ほら、すぐ諦めちゃった……。ああいう人なんだよ。あたしのことなんか……」

 弥美乃が言い終わらないうちに、再びドタドタという足音が接近してくる。そして次の
瞬間、ズガンッ!! というけたたましい音が扉から炸裂した。僕を含めた室内の三人が、
一斉にビクリと肩を震わせる。

 続けて二発目、三発目、四発目と音は続いていき、そしてついにドアノブがポロリと取
れると、ズガンッ、という音と共に扉が開き、その向こうから女性が転がり込んできた。
彼女の手には折れ曲がったゴルフクラブが握られている。おそらく、あれを使って扉を破
壊したのだろう。

「や、弥美乃ちゃんっ!!」

 弥美乃のお母さんはすぐさま起き上がると、弥美乃に覆いかぶさっている僕へとゴルフ
クラブを横薙ぎに繰り出してくる。運動神経がゼロである僕が暗闇の中でそれをかわすこ
とは困難で、腕に一撃、さらにもう一撃、僕のこめかみを掠めていった。危うく頭をかち
割られるところだった! さすがにこれは予想外っ!!

 僕は無様に転がって弥美乃のお母さんから距離を取ると、そのまま近くでオロオロと立
ち尽くしていた鳥羽の手を取って、破壊された扉から廊下へと飛び出す。追ってくる気配
がないかどうか、チラッと室内を覗き込むと、

「弥美乃ちゃん、怪我してない!? 大丈夫!?」

「う、うん……だいじょうぶ、だけど……」

「良かったっ……!! 弥美乃ちゃんまでいなくなったら、私……!!」

「……ママ」

 母親に強く抱きしめられて、どうしたらいいかわからずに、ただただ顔を赤くして困惑
する弥美乃。

 それを確認した僕は、音を立てないように、鳥羽を連れてこっそりと一階へ降りて行っ
た。そして玄関へと向かう途中、リビングを通過する際に、中身を取り出されたゴルフバッ
グが床に落ちているのを見かけた。

 たしかこのゴルフバッグは、弥美乃のお父さんの形見のようなものだったと記憶してい
る。そこから取り出したゴルフクラブも当然ながら大切な宝物であったはずで……それが
ひしゃげて折れ曲がってしまうことさえ全く意に介さないほどに、彼女は弥美乃を大切に
思っていたということだ。

 それを知って、なんだか心が温かくなるのを感じつつ……僕たちはそのまま、弥美乃の
家をあとにするのだった。


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露骨に雑ですが、せっかく描いたのでこれも。黒鳥羽です。




 弥美乃の家から鳥羽と二人、這う這うの体で脱出した僕たち。

 しかし改めて白日の下、よくよく自分の状態を確認すると、わりと洒落にならない状態
だということに気がつく。というのも……

 まず、両手首から手の甲にかけて、かなり痛々しい引っ掻き傷や裂傷を負っていた。皮
膚に生じた無数の赤黒いクレバスからは、ジュクジュクと血液が染み出しては指を伝い、
アスファルトを点々と汚していく。さっきまでは部屋が暗かったし必死だったのでなんて
ことはなかったが、傷をちゃんと見て認識してしまってからは、もうメチャクチャ大激痛
で、泣きだしたいくらいだった。でも隣に鳥羽がいたので、頑張って我慢した。だって男
の子だもん♪

 次に、鳥羽のお母さんが振るったゴルフクラブを防いだ左腕が、なんか青黒くなってパ
ンパンに腫れていた。……こ、これって折れてないよね? そんなまさかだよね?

 そして最後に、ゴルフクラブが掠った僕のこめかみから額にかけての皮膚がちょっと裂
けて、血がドバドバ出ちゃっていた。額周辺の出血は酷いというのは以前コンクリートに
ヘッドバットした経験で知っていたけれど、今回はさらに酷い。血がワイシャツに垂れて、
なんだか猟奇的な絵面になってしまっていた。

 つまり簡潔に言うと、全身血まみれだった。流石の僕もこれには苦笑い☆

 この惨状のすごいところは、すべての傷が僕の自業自得だという点である。無理やり手
首を引っこ抜いたのは僕だし、他の二つの傷も、僕が弥美乃を襲っているかのように意図
的に勘違いさせたおかげで負ったものだし……

 ……まぁいっか、怪我したのは僕だけだし。それなら被害は皆無と言っていいだろう。

「あ、あの……」

 すると隣を歩く鳥羽が、視聴に年齢制限のかかりそうな姿となった僕へと遠慮がちに声
をかけてきた。

「今日のこと、どうするつもりですか……?」

 今日のこと? どうするつもり? コミュ障である僕に対して、そんな抽象的な問いか
けをするとは、なかなかチャレンジャーじゃないか鳥羽ちゃん。

 ……でもまぁ、さすがに今回はわかる。さっきの弥美乃とのことを、警察とかに届ける
のかどうかってことだろう。そんなの、考えるまでもない。

「……僕は今朝、弥美乃に呼ばれて彼女の家に行った。……でも弥美乃にセクハラしたせ
いで叫ばれて、弥美乃のお母さんに追い返された。弥美乃の家から帰る途中、“正塚”を
もう一度探そうと森に入って、崖から落ちて怪我をした」

「え……?」

「そういうことにしとこうって話。それが一番いいでしょ?」

 僕の言葉に、しばしポカンと口を開けて沈黙していた鳥羽だったけれど……彼女はすぐ
に険しい表情を浮かべると、

「わ、私とのことも、そうやって、嘘で片付けたんですかっ!」

「……騒ぎとか争いの種になる真実なんかより、誰も傷つかない嘘のほうが、ずっと優し
いじゃない」

「誰も傷つかないって……篤実さんが傷ついてるじゃないですか!」

「傷ついてないよ。……それより鳥羽さん、キミはもう、僕に関わらないでほしいんだ」

「……え?」





 そして赤穂さんはそのまま僕や鳥羽を当然のようにグループの輪に加えてしまうのだけ
れど……彼女は知る由もないが、僕と鳥羽は現在、軽い絶縁状態にあるわけで……もう気
まずいってもんじゃない。

 僕がチラチラと鳥羽の表情を窺っていると、鳥羽も同じく僕のことをビクビクと横目で
窺っていた。そしてそんな僕たちの様子にさすがに気がついたのか、氷雨がヒンヤリ涼し
い目つきで射抜いてくる。

「……なにかあったんですか?」

 疑問形というよりも『なんかあったんだろ言えやコラ』みたいなニュアンスのその言葉
に、僕は目をバタフライで泳がせつつ、

「ん、んぅんん~~っ!? い、いや、べつになんでもないよぉ!?」

 と、一流スパイも脱帽しちゃうような完璧なる演技でシラを切った。

 ……氷雨ちゃん氷雨ちゃん、知ってた? そんな絶対零度の視線を叩きつけられるとね、
お兄ちゃんの寿命ね、ゴリゴリ減っちゃうんだよ?

 氷雨からの見えざる暴力に耐えていると、赤穂さんは僕の言葉を完全スルーして鳥羽へ
と向き直った。

「鳥羽さん、なにがあったんですか?」

 なにかあったことは大前提なんですか、そうですか。

 僕は鳥羽に『ばちこーん☆』とウインクを飛ばす。なにもないよねっ☆ ねっ☆

「……篤実さんに、絶交されました」

 Oh……

 そして大きな瞳にうるうると涙を湛えた鳥羽は、震える声でトドメを刺してくる。

「私といっしょにいると……変なことに巻き込まれるからって……それで……それでぇ……
うわぁぁああああああんっ!!」

 Oh……

 ついに耐え切れず、子供のように泣きだしてしまった鳥羽。どうしたものかと僕が慌て
ふためいたのも束の間……

 僕の左半身の体感温度が爆発的に上昇する。全身から怒りのオーラを漏れ出させる赤穂
さんの内なる灼熱を感じ取ったためだ。

 さらに僕の右半身の体感温度が急激に冷え込む。いつにも増して冷血冷酷な瞳の氷雨に
よる絶対零度の怒気を感じ取ったためだ。

 左から地獄の業火、右から地獄の冷気を食らう僕なのだった。こんな目に遭った人物、
地獄先生ぬ~べ~しか僕は覚えがない。

 ……っていうか鳥羽さん!? その言い方だと、『僕と一緒にいるとキミまで危険な目
に遭ってしまう!』という僕のニュアンスが歪められて『お前みたいな貧乏神と一緒にい
られるかよ、絶交だ!』みたいになってしまっていますよ!?

 違う、違うんです! 僕はたしかにクズですけど、そういうタイプのクズじゃないんで
すって! それは今日まで一緒に過ごしてきた赤穂さんや氷雨ならわかってくれるよね!?
そうだよねっ!?

 僕がそんなわずかながらの期待を込めて二人を振り返ると、

「「正座」」

「はい」

 はい。



もうちょっと書き込みたいので、投下は明日ということでお願いします。
ところで私、ここまでで35万文字くらい書いてるらしいです。ちょっとしたラノベですね。




 僕は今日、もともと学校を休むことになっていた。だから怪我の手当てが終わってから
も家に帰る大義名分があるのだけれど……赤穂さんや氷雨、そして聖は、学校から抜け出
してきている身分だ。たった一回くらいのズル休みが内申に響くとは思えないけれども、
そこは真面目な性分である彼女たちのこと。僕の無事を確保して傷の手当てが終わったこ
とを見届けると、昼過ぎになってからでも学校へと戻っていったのだった。……僕にくれ
ぐれも家で大人しくしているようにと釘を刺してから。

 そんなわけで、包帯まみれとなった僕は一人、神庭家へと帰ってきていた。できればこ
んなボロボロの姿をお婆ちゃんに見せて心配をかけたくはないので、こっそり僕の部屋に
戻ろうかとも考えたけれど……それはそれで、いつまで経っても帰ってこないと心配させ
てしまいそうだし。それにどのみち夕飯の時には両腕を見られてしまうので、隠し通すこ
とは不可能だろう。

 そう判断した僕は、いつものように開きっぱなしになっている神庭家の玄関をくぐると、
靴を脱ぎ、こっそりと居間を覗き込んでみた。するとそこには案の定お婆ちゃんがいて……

「ぅ、あ、あの、お婆ちゃん……ただいま……」

「おや篤実ちゃん。おかえり」

 僕に気がついたお婆ちゃんは、顔を皺くちゃにしてにっこりと微笑んでくれた。相変わ
らず、見ているだけで今までの緊張がほぐれて心が落ち着くような、柔和な笑みだ。僕は
それを見たとき、ようやく事件が終わったんだ、日常に帰ってこられたんだと言う実感が
今さらになって追いついてきて、へなへなとその場に崩れ落ちそうになってしまった。

 けれども実際に崩れ落ちたらお婆ちゃんが心配してしまうので、僕は自分の部屋に戻る
までは我慢しようと、なけなしの力を込めて踏ん張るのだけれど……

「……あれ?」

 僕はそこで、さながら出来そこないの間違い探しのように、普段とは違う光景を二つほ
ど発見して、首を傾げることとなった。

 まず一つは、お婆ちゃんが居間のテーブルに広げていた手紙……のようなものだった。
どうやら届いた手紙を読んで、それに返事を書いているところのようだ。それを見た瞬間、
僕の脳裏には真っ先に、ある可能性が浮上して、思わず口をついて出てしまった。

「……もしかしてそれ、僕のお母さんに?」

「ああ、これはねぇ……もちろん、朋絵ちゃんにもたくさん、篤実ちゃんの近況を、お手
紙で教えてあげてるけど……これは、お婆ちゃんの、子供の頃からの友達に送るお手紙だ
からねぇ」

「あ、そ、そうなんだ」

 僕は真っ先に自意識過剰な発想をしてしまったことで、ちょっと恥ずかしくなってしまっ
た。お婆ちゃんは携帯電話を持っていないのだから、誰かに手紙を書いているといっても、
相手が僕の両親であるとは限らないだろうに。





 そしてもう一つ、普段と違っている光景が。

「……その、そこで寝てる猫って……?」

 そう、お婆ちゃんが手紙を書いているすぐ隣……いつも僕が使っている座布団の上に、
真っ黒な子猫が身を丸くして、我が物顔でちょこんと鎮座しているのだった。

「この子かい? なんだか篤実ちゃんと入れ違いになるみたいに、玄関から入ってきちゃっ
てねぇ。ずっと、こうしてるんだよ。ここが気に入ってくれたのかねぇ」

 そんなことを暢気に言いながら、お婆ちゃんは黒猫を優しくひと撫でする。けれども不
遜な黒猫は、そんなお婆ちゃんの愛撫にもまったくもって反応を示さず、置物のようにそ
こへ鎮座するばかりだった。まぁ、猫は犬とは違うからな。まったく……これだから僕は
“犬派”なんだ。

 っていうか、あの子猫……今朝、三朝くんを僕のところまで案内してくれた黒猫じゃな
いか?

「篤実ちゃんが出かけてからねぇ、いろんな子がここに来たんだよ。篤実ちゃんは、たく
さんの子に好かれてるんだねぇ」

「……え、あ、いや、好かれてるっていうか、その……」

「だけど、あんまり心配させちゃ可哀想だからねぇ。やんちゃをしてもいいけれど、ほど
ほどにねぇ」

「は、はい……」

 それは要するに、お婆ちゃんにも、あまり心配をかけさせないでくれと言っているのだ
ろう。娘の子供を預かっているという責任のあるお婆ちゃんにとって、たびたび妙なこと
に巻き込まれては何かしらの負傷を抱えて帰ってくる僕は、とてもストレスの原因となり
得る存在と言えるだろう。

 これからは、お婆ちゃんにも、そして氷雨や、赤穂さんたちにも、あまり心配はかけな
いように気をつけなければ……と、僕は密かに気持ちを引き締める。

 それから一応、怪我のことも先手を打っておくとしよう。

「あの、これ……ちょっと外で遊んでたら怪我しちゃって……でも、大したことなくって、
だからその、心配いらないから……」

 そこまで言いかけた僕は、そこで『スゴ医さん』に診察してもらったことを思いだして、

「あっ、でもその、スゴ医さんに……」

「お金のことは大丈夫だからねぇ。篤実ちゃんは、なんにも心配しなくていいんだよ」

「あ……はい……」

 ……なんていうか、もう、お見通しってカンジだった。





 僕はお婆ちゃんに、もう一度自分の部屋でゆっくり休むという旨を伝えて、そそくさと
薄暗い階段を上がっていく。

 そして三つある扉のうち、真ん中の扉を開き……この一ヶ月ですっかり見慣れた自分の
部屋に戻ってきたことを意識した瞬間、全身の力がすっかり抜けてしまい、僕は扉を閉め
ることさえ忘れて、ベッドに倒れこむのだった。

 昨日の“墓標”や“正塚”の疲れも癒えていないというのに、今朝も弥美乃の家に拉致
監禁されたり、負傷したり、千光寺神社への地獄の階段を昇ったり……とにかく肉体的に
も精神的にも、すっかり疲れ切ってクタクタだった。だけどこの疲労が必ずしも嫌なもの
かと問われれば、意外にそうでもなかったりする。

 都会にいた頃は、ただ襲い来る攻撃に耐え続けるという毎日だった。同じ汗を流すので
も、トラックに轢かれかけて流す汗と、友人たちと野球をして流す汗は、まったく異なる
意味合いを持つ。同じ疲労でも、同じ苦痛でも、この島の彼女たちのために流す汗や血は、
僕にとってはとても気分の良いものだった。

 だから今、僕の身体に蓄積している疲労や傷は、とても大切なものだ。ゆっくりと休め
ばいずれ消えてしまうような儚いものだけれど、それでも僕が傷と引き換えにして得たも
のは、きっといつまでも消えることはないはずだ。

 だから僕は、これからもきっと……

「……あ」

 すっかり全部片付いたみたいな気分でリラックスしていたけれど、そういえばまだ一つ、
直近の問題が残っていたじゃないか。わざわざそれのために、本土のりずむさんに作詞作
曲をお願いしたり、聖の家で収録したりと様々な苦労を……

 そこまで考えた瞬間、僕はベッドに横たえていた身体を跳ね起こし、急いでノートパソ
コンを開いた。そしてデスクトップのフォルダの中から、一つの音声データを呼び起こす。

 ……それは一昨日の夜、聖の家で収録した僕の歌だった。いや、その表現は正確ではな
いか。なぜなら、このファイルは僕の歌を正しく収録してくれてはいないのだから。

 僕は音量をマックスにしたうえでヘッドフォンを装着し、再生ボタンを押す。やがて曲
のイントロが始まり、僕の歌声が流れ始めるが……すぐに歌は途切れ、ノイズ混じりの不
気味で頼りないメロディとなる。

 ヘッドフォンを耳に押さえつけ、僕は目を瞑って全神経を集中させる。

 すると聖の家でも聞こえた、例の声が流れ始めた。あの時はラジカセの残念音質だった
ので、ゾッとするほど冷たい女性の声に聞こえたけれど、よくよく聞いてみれば、むしろ
僕には温かみのある声に思えた。

 あの時は即座に停止ボタンを押してしまったけれど、今度は……

『……きこえた……やっと……明日の夜……』

 ノイズ混じりのメロディの合間を縫うようにして、あの声が聞こえてくる。

『……出ない……家…………いと、……なこと……』

 もはや後ろで流れている曲は原形をとどめないほどの不協和音で、なんだか聞いている
と精神が参ってしまいそうだったけれど……僕は何度も何度もリピートして、“彼女”の
声に耳を傾けた。

『……そうなっ……助け…………いから……』

 声の聞こえる部分を何度も再生しつつ、僕はメモ帳を起動して、聞こえた部分をすべて
文字に起こすと、さながらジグソーパズルを組み立てていくかのように、文章を構築して
いった。

 やがてリピートの数が二〇回を超えた頃……メモ帳に浮かび上がってきた文章を見て、
僕は戦慄した。

 そこには、こうあった。



『きこえたかな。やっと。明日の夜は外に出ないで。家にいて。じゃないと、大変なこと
になる。そうなったら、助けたりはしないから。』





「―――っ」

 僕はゆっくりとパソコンを閉じると、おぼつかない足取りで立ち上がった。そして、僕
が本土から持ってきた荷物の山の中から、一枚の封筒を抜き出す。

 封筒をひっくり返すと、出てきたのは折りたたまれた一枚の紙と十円玉。その紙を勉強
机に広げてみると、そこには見覚えのある五十音表。それは僕がありったけの呪詛と憎悪
を込めて作成した呪いの品だった。

 だけど実際のところ、呪いなんてものは存在しなかった。あいつらに罰を下したのは、
僕自身だ。だから赤目さまなんて存在しなくて……幽霊とか、魔法とか、超常現象とか、
そんなものは幻覚で、妄想で、白昼夢で……

 いくつもの偶然が重なった結果として、たまたまそれらしい像を結び、それを僕たち人
間の有り余る想像力が都合よく解釈したもの……それが、僕の思う『魔法』だった。

 そのはずだったのに……

「赤目さま……赤目さま……お越しください……」

 五十音表にポタポタと雫が垂れたのを見て、僕はようやく自分が泣いていることに気が
ついた。どうして泣いているのか、これがどういう意味の涙なのかは自分自身でもさっぱ
りわからなかったけれど、とにかく、今朝も感じた虚無感のような……胸に大きな空洞が
ぽっかり開いてしまったような、そんな感覚に襲われたのだ。

 勘違いでも、思い過ごしでも、錯覚でも……なんだってよかった。少なくとも僕がそう
信じる限りにおいては、僕の中でそれは事実であり、真実なのだから。

 だからこれは、“いただきます”とか、“ごちそうさま”みたいな、意味以前の礼儀と
して、思わず口から漏れた言葉だった。

「赤目さま……ごめんなさい……ありがとうございました……」

 意味なんてなくていい。伝わるのかもわからない。だけど、僕が勝手に感謝するのなら、
それは誰に邪魔される筋合いもない。僕は十円玉を握りしめて、五十音表を涙で滲ませな
がら、ただ謝罪と、そして感謝の言葉を繰り返した。

 するとその時、

「にー」

 突然足元で聞こえた鳴き声に、僕は思わず「わっ!?」という情けない悲鳴を上げた。
その拍子に、僕の手から十円玉がすっぽ抜けて、勉強机の上に甲高い金属音を響かせなが
ら落下する。

 足元を見れば、そこには先ほど居間で見かけた子猫が、行儀よくちょこんと座っていた。
大きくてくりくりな瞳は―――たしか“カッパー”とか言ったかな―――十円玉のような
赤銅色。その赤い目をした黒い子猫が、僕の足元にすり寄って、ごろごろと喉を鳴らして
いた。

 カタカタカタッ、という音を響かせながら、僕の手からすっぽ抜けて転がった十円玉が、
五十音表の少しだけ下に書かれた『はい』と『いいえ』の、『はい』の上で静止する。

「…………」

 僕は足元の子猫を抱きかかえると、ベッドに腰掛けて、その子猫の頭から首、首から背
中にかけてを、何度も優しく撫でてやった。すると子猫は気持ちよさそうに目を細めて、
またごろごろと喉を鳴らす。

 膝の上で丸くなっている子猫を見つめながら、僕はこっそりと、こんなことを考えてい
た。

 ああ……やっぱり僕、猫派かも―――と。





 時刻は夕暮れ。

 夕陽に照らされて橙色に染まる島を、東の空から藍色が呑み込もうとしていた。太陽に
暖められた島を冷やそうとするかのように海から吹き上げた潮風が、僕たちの髪をなびか
せる。

 僕の傍らに佇む少女―――弥美乃が僕の家を訪れたのは、つい先ほどのことだった。僕
がお腹に子猫を乗せてうたた寝しているところへお婆ちゃんが呼びに来て、階下へ降りて
玄関を見てみると、そこには気まずそうに目を伏せてポツンと佇む弥美乃の姿があった。

「……みてほしいものが、ある……んです」

 そう言った弥美乃の物憂げな眼差しに晒された僕は、彼女の誘いに二つ返事で従って、
神庭家を後にした。今朝とは違い、僕を送り出すお婆ちゃんの表情が穏やかだったことが
強く印象に残っている。

 僕らは現在、町の外れにある墓地にいた。

 夕陽に照らされて橙色に染まる無機質な墓石の群れが、淡い色合いの墓花と線香によっ
て、なけなしの味つけをされている。現在僕たちが前にしている墓石には『芦原家之墓』
と大きく彫られており、周囲の墓石と比べても明らかに、丹念に丁寧に磨き抜かれていた。

 喪服のような漆黒のワンピースを身に纏った弥美乃は新しい墓花と線香を供えて、しば
し合掌と黙祷を捧げると、

「だーり…………久住さん。今日は……ううん、今まで、ほんとうにごめんなさい」

 そう言って、弥美乃は深々と頭を下げた。突然謝られた僕は、どうすればいいのかわか
らずに困惑してしまう。とりあえず「あ、うん……」と返事をするのが精いっぱいだった。

 対する弥美乃はゆっくりと頭をあげると、俯いて足元を見つめたまま、

「……久住さんのおかげで、ママと、久しぶりにゆっくりとお話できました。あたしとマ
マが、ずっと胸に秘めてたこと、感じてたことを、きちんと話し合って……なんていうか、
打ち解けたっていうか、和解したっていうか……」

「……そっか」

 咄嗟に思いついたこととはいえ、僕の行動が弥美乃とお母さんにとって良い結果に繋がっ
たのなら、そんなに嬉しいことはない。僕は思わず、頬が緩んでしまった。

「ママも、だー……久住さんに謝りたいって言ってたから……その、よかったら、またウ
チに来てくれますか……?」

「うん、わかった。いつでもいいよ」

「……よかった」

 弥美乃は心の底から安心したような表情になって、ホッと息をついていた。なんだか、
しおらしいを通り越して弱気すぎる態度の弥美乃に、僕はなんだか妙な感覚を覚えていた。





「ねぇ、弥美乃」

「な、なんですか……?」

「それ。その敬語は、なんなの?」

「なにって……」

 弥美乃は僕からの問いに大いに狼狽えて、きょろきょろと目を泳がせると、

「……だって、馴れ馴れしいかなって……」

 と、今にも泣きだしそうな表情で、そう呟いた。

「馴れ馴れしいって……そんなの、今さらじゃない?」

「た、たしかに、ずっと馴れ馴れしかったですけど……で、でも、これからは気をつけま
すから……」

「え、いや、そういう意味じゃなくって……。ねぇ弥美乃、急にどうしちゃったの?」

「…………」

 相手の顔色ばかりビクビク窺って、言葉を自分に都合の悪いように解釈して卑屈に頭を
下げる……これじゃあまるで、僕みたいじゃないか。手段を選ばず我が道を進んできた、
唯我独尊で泰然自若な弥美乃らしくない。別人のようだ。

 僕の言葉を受けた弥美乃は、泣きそうな顔のままオロオロと地面を見つめ、

「……委員長から、聞きました。あたしの家で起こったことを、言わなかったって。それ
どころか、詮索しないでくれって土下座までして、あたしを守ってくれたって……」

「それは……」

 弥美乃は一瞬、僕の腕に巻かれた包帯へと視線を走らせて、

「……どうして、ですか? あたしのこと、いくら久住さんでも嫌いになりましたよね?
殴ってやりたいって、思ってるでしょう!? なのに、どうして……!」

 そう叫ぶ弥美乃の表情は、とても痛々しくて、ボロボロで……つい最近まで、不遜な表
情をほとんど崩さなかった彼女の面影なんて、ちっともなかった。あるいはこれこそが、
ただの中学生の女の子である弥美乃の、本来の姿なのかもしれないけれど。

 僕はなるべく弥美乃を刺激しないように、優しい声色で語りかける。

「弥美乃を嫌いになんて、ならないよ。そりゃあ、たしかに聖……鳥羽さんを巻き込んだ
のは許せなかったけどさ。でも、あのプラスチックシザーもそうだけど、鳥羽さんを傷つ
けないように気をつけてたのはわかってるし……それにもう、弥美乃は二度とあんなこと
しないって、信じてるから」

「……しん、じてる……?」

「うん。それにさ、僕はクズの中のクズ、最低最悪のクソ野郎だから。そんな僕が弥美乃
を悪く思うだなんておこがましいっていうか……僕のしてきたことに比べたら、弥美乃の
やったことなんて、全然大したことないって!」

 それは謙遜とか卑下とかじゃなく、リアル話だった。……四人ほど葬ってるからね。





「なにをそんなに怯えてるのかわかんないけど……できれば、いつも通り、今まで通りに
接してほしいな。なにがあったって、弥美乃のことを嫌いになったりなんてしないから」

 僕の言葉を聞いた弥美乃は、しばし目を丸くして……久しぶりに僕の目をまっすぐに見
てくれた。

 ……かと思えば、まるで堰を切ったように涙を流して、泣きだしてしまった。

「え、や、弥美乃っ!?」

「……あたしっ、今までは……ずっと、パパにさえ会えれば、パパにさえ嫌われなければっ
て……周りの人から、どう思われたって、全然平気で…………だけどっ……」

 弥美乃はゴシゴシと目元をぬぐう。そして弱気だった瞳に、再び強い意思を込めると、

「……これが、“見せたいもの”だよ……」

 そう言うが早いか、『芦原家之墓』の前に膝をついた弥美乃は、まるでここにはいない
誰かに語りかけるような懸命さ、熱心さで、言葉を紡ぎ始めた。

「―――パパ。世界でいちばん大好きな、パパ。今日まで、ずっとパパのためだけに生き
てきました。あたしの世界にはパパだけがいなくて、だけど、パパだけしかいらなかった」

 ワンピースの裾を強く握りしめる仕草から、弥美乃の葛藤と苦悩がひしひしと伝わって
くるかのようだった。僕の身体にも自然、力がこもる。

「だけど、それも今日までにするね。目を逸らして、逃げるのは、もう、やめます。パパ
のことが誰よりも大好きだから、パパの言いたいことだって、わかるよ。パパがあたしに
してほしいことも、ほんとは、ずっと……わかってたよ」

 涙が頬を伝いながらも、弥美乃はずっと笑顔だった。あるいはそれこそが、今は亡き父
親がいちばん好きだった彼女の表情なのかもしれない。

「これからは、目の前の人を見て、手の触れられる人を愛して、この世界で幸せになりま
す。今まで心配かけてごめんなさい。でも、あたしはもう大丈夫です。ママも、あたしが
守っていきます。だから安心して、天国で幸せになってね……パパ」

 弥美乃はゆっくりと立ち上がると、見たこともないほどに穏やかな表情で微笑んで、



「あたしは、パパを卒業します。今まで、ありがとうございました」

 

 そう言って、弥美乃は墓石に……いや、亡き父親に向かって、深々と頭を下げたのだっ
た。






 僕はなにも言えず、ただその様子を固唾を飲んで見守ることしかできなかった。弥美乃
から父親を取り上げる原因を作ったのが自分であると、罪悪感を感じていたためかもしれ
ない。

 それからしばらく俯いていた弥美乃だったけれど、やがて涙を拭うと、痛々しい笑顔を
僕に向けて、

「あはは……そういうわけで、パパを追いかけるのは、もうやめる。“正塚”とか、曰く
つきアイテムの収集もやめる。これからは、普通の女の子みたいにおしゃべりして、遊ん
で、恋して……パパが望んでるような、普通の青春を送ろうと思うの」

「……そっか。パパも、安心してるんじゃないかな」

「うん……。でも、今までは人に嫌われたって、なんとも思わなかったけど……パパがい
なくなったら、こんなに怖いなんて、思わなかったな……」

 その弥美乃の言葉で、僕はようやく合点がいった。先ほど弥美乃が必要以上にビクビク
怯えていたのは、今まで知らなかった“人に嫌われることへの恐怖”を知ってしまったか
らだったんだ。だから顔色を窺ったり、突然敬語を使い始めたりしたんだ。

 見れば、弥美乃の指先は震えていた。笑顔も、無理して取り繕っているのがバレバレだ。

 そんな恐怖を覚悟してでも、弥美乃は変わろうとしている。僕の自惚れでなければ、きっ
と昨日の夜に僕が弥美乃に言ったことも、彼女に強い影響を与えたはずだ。つまり弥美乃
を恐怖のどん底に突き落としたのは、この僕であるとも言える。

 すっかり怯えきっている弥美乃を慰めて、そして勇気を振り絞って一歩を踏む出した彼
女を讃え、さらなる勇気を与えるために……僕はなにができるだろうか?

 ……答えはすぐに見つかった。

 僕だからできる方法。僕にしかできない方法。



「よくがんばったね、弥美乃」



 “父親の声で”そう言われながら頭を撫でられた弥美乃は、最初、なにが起こっている
のかわからないといった風に放心していた。

 けれど、

「これからは自分のために生きて、そして、いっぱい幸せになるんだよ」

 僕が続けてそう言った瞬間、

「ふぇ……うわぁぁあああああああああんっ!! パパぁぁあああああああっ!!」

 今まで我慢して、ずっと耐えて、心の内に溜め込んでいたすべての感情が、一気に溢れ
かえってしまったみたいだった。

 弾かれるように勢いよく駆け出した弥美乃が、僕の胸に飛びこんできた。そしてそのま
ま僕の胸で、大声をあげて泣きじゃくる。まるで誰かにずっとずっと会いたくて、でもそ
れは叶わなくて……それが長い年月を経て、ようやく成就したかのように。

「ぐしゅっ、うぇえええええええんっ!! うあぁあああああああああああんっ!!!」

 恥も外聞もなく、なにを取り繕うこともなく、ただ溢れだす感情に任せて泣き叫ぶ弥美
乃を、僕はしばしの逡巡の後、そっと抱きしめた。それに気がついたのだろう、弥美乃は
ピクンと肩を震わせると、僕の背中に回していた腕へと、さらに力を込めるのだった。

 喜びと悲しみがごった煮になったボロボロの叫び声は、空の趨勢が藍色に傾き、墓地が
すっかり薄暗くなるまで続いた。





 五月の夕闇は、思いのほか涼しいものだった。……あるいはそれは、今まで腕の中に感
じていた高い体温を失ったためかもしれないけれど。

 ひとしきり泣き喚いた後、僕からゆっくりと離れた弥美乃は、すっかり顔を赤くしてい
た。まだ目元に涙が濡れ光っている切ない表情は、いつしか弥美乃宅で彼女の母親が見せ
た“オンナの表情”を想起させるもので……なんというか、血の系譜、もしくは恐るべき
才能の片鱗を感じてしまうのだった。……ぶっちゃけドキッとしました、ハイ。

 弥美乃はグスッと鼻を啜ると、背中の後ろで手を組んで、上目遣いでもじもじしながら、

「今朝も見たけど……それが、篤実くんの“魔法”なんだね……♪」

「ま、まぁ、そうかもね」

「それって、みんな知ってるの?」

「いや、まだ誰にも言ったことはなかったはずだけど……鳥羽さんも、今朝のはなんだっ
たのかわかってないと思う」

「そうなんだ……じゃあ、あたしだけしか知らないんだね。ふふっ、すっごく嬉しいな♪」

 そう言って、本当に心の底から嬉しそうに微笑む弥美乃に、なんだか僕は調子が狂いっ
ぱなしだった。

 これ以上ここにいるとおかしな雰囲気になってしまいそうで怖くなった僕は、町の方角
を振り返り、

「そ、それじゃあ、そろそろ暗くなって来たし、帰ろっか」

 そう言って、踵を返そうとしたところで……

「待って!」

 ピシャリと鋭い弥美乃の声が墓地に響き渡り、僕は驚いて足を止める。振り返るとそこ
には、なにやら思い詰めたような表情で俯く弥美乃の姿があった。

「……弥美乃?」

「篤実くん……その、あたし、言わなきゃ……伝えなくちゃいけないことが、あって……」

 歯切れ悪くそう言った弥美乃は、豊満な胸の前で落ち着きなく手を揉みながら、

「さ、最初から、やり直したくって……あたしたちが、最初に会ったところから……今度
は、思惑とか、計画とか、そんなのまったくないから……ホントの気持ちだから」

 そうして、僕が彼女の言わんとしていることを悟るのとほぼ同時に、弥美乃は精いっぱ
いの勇気と覚悟を込めたような大声で、



「あなたのことが、大好きです! あたしと、付き合ってくださいっ!」



 僕がこの先 一生、二度と言われないであろう言葉を叫ぶのだった。





 ちょうどその時、海岸から強い風が吹いて墓花を舞い上げた。僕たちの間を、いくつか
の淡い色彩の花びらが舞い踊る。

 ドクン……と、大きく心臓が跳ねる。

 弥美乃以外の、すべての景色が急激に遠くへと押し流される。

 ―――けれども僕は、一回目に告白された時よりも、ずっと落ち着いていた。

 彼女の言葉通り、弥美乃の真剣味は前回よりも遥かに増しているとは感じる。だけど、
不思議と僕の頭は前回ほどのパニックを起こすこともなく、どこか冷静だった。

 もしかしたら、さっきのまでの流れや雰囲気で、僕は心のどこかでこの状況を想定して
いたのかもしれない。だからこそ一瞬でたくさんのことを考えたし、さまざまな事情につ
いても考えた。

 その上で、僕は……



「……ごめん。今は、弥美乃をそんな風には見られない」





「……うん……そうだよね」

 それに対する弥美乃の反応もどこか冷静で……泣きそうな笑顔のまま俯いて、小さな拳
をキュッと握りしめていた。

「……いちおう、理由、聞かせてもらっても……いいかな……」

 なにかを必死に耐えるような、途切れ途切れの言葉。弥美乃の心情がわかってしまうか
らこそ、僕の胸がキリキリという痛みを発する。

「もちろん原因は弥美乃にはないよ。……まぁ、僕と付き合って幸せになれる人がいると
は思えないとか、僕の過去を聞いたら絶対ドン引きするだろうからとか、そういう消極的
な理由もあるんだけど……それ以前に」

 伏し目がちな弥美乃をしっかりと見つめて、僕はハッキリと告げた。

「僕はあの時……追い詰められたあの状況で、とっさに弥美乃より鳥羽さんを選んだんだ。
鳥羽さんを傷つけられるくらいなら、その前に弥美乃を傷つけようとしてしまったんだ。
だから少なくとも今は、弥美乃を“いちばん”だなんて言う資格はないと思うんだ。同情
で人と付き合うなんて、そんなひどいことは……したくないから」

 僕は彼女の怒りを買うかもしれないと、それなりの覚悟や罪悪感を抱きつつも、懸命に
自分の気持ちを伝えたのだけれど……

 対する弥美乃はなぜか、どこか嬉しそうに微笑んでいた。

「……や、弥美乃?」

「ふふっ……“今は”かぁ。やっぱり、篤実くんは優しいんだ♪」

 瞳を涙で潤ませたまま、満足げな笑みを浮かべる弥美乃。その予想外の反応に、僕はポ
カンと口を開くことしかできない。そんな僕の反応がおかしかったのか、弥美乃はくすり
と笑うと、

「ねっ、篤実くん。あたしのこと、嫌いじゃないって言ったよね? それに、今の言葉が
嘘じゃないんなら、今すぐ付き合いたいって思ってる女の子もいないんだよね?」

「え、あ……いや、まぁ、そうなるかな……」

「だよねっ! ……篤実くんにあんなヒドイことしちゃったんだし、フられるってことは
わかってたんだけど……覚悟しててもすごく苦しくて悲しいね、これ。……でもあたしに
もまだチャンスがあるってわかっただけで、幸せ♪」

 そう言うや否や、弥美乃は再び僕の胸に勢いよく飛び込んできた。そして小動物のよう
にすりすりと頬ずりをしてきながら、

「今日から料理の勉強するね! 篤実くんの趣味も勉強する! それに、昨日あたしのベッ
ドでやろうとしたコトの続きもしていいよ! 両手に包帯巻いてるから、治るまであたし
が毎日身体を洗ってあげる♪」

「は、えっ……弥美―――」

 その過激な申し出に対して抗議しようとした僕の口に、弥美乃の細長い人差し指が当て
られる。

「“今は”好きじゃなくてもいい……“いちばん”じゃなくてもいい。だけどいつかぜっ
たい、振り向かせてみせるからっ!」

 そう言った彼女の闇色の瞳には、太陽を山の向こうに押しやった満天の星空と、もうすっ
かり高く昇っていた真ん丸の月がキラキラと映りこんでいて……

「そしたらまた、ママがパパをそう呼んでたみたいに……“だーりん”って呼ばせてね♪」

 瞳を輝かせ、心から幸せそうに微笑む弥美乃からは、出会った当初の底知れない雰囲気
は、もう微塵も感じられなくて―――

 そこにいたのは、無邪気で健気な、一人の可愛らしい女の子だった。







「3ヶ月ぶりに帰って来たぜ!! 『アンチャン's レディオ』ォォオオ!!!」

 『正塚事件』から数日。さすがはスゴ医さんと言うべきか、僕の怪我はわずかな痕もな
く綺麗さっぱり完治していた。

 ……おかげさまで、今 僕は大変な目に遭っています。

「いつも俺っちのラジオを聴いてくれてるリスナー諸君、ありがとよッ!! 今日は久し
ぶりの収録ってことで、“公開収録”だ! たっぷり楽しんでくれ! イエァ!!」

 野獣のような野太い声が、セットされたマイクを通して会場に響き渡る。

 毎年七月に行うという神事に十数年前まで使われていたらしい野外演舞場を借りて急造
した特設ステージ。その檀上には現在、アンチャンこと鬼ヶ城 獅子彦と、そして僕こと
久住 篤実が登壇しており……

 檀上から見える観覧席には、アンチャン's レディオのリスナーや、僕の友人たち、そ
して都会から転校してきた少年を一目見に来た島民たちが詰めかけて、すごい賑わいになっ
ていた。……まるで動物園のパンダのような気分だ。

「お兄ちゃ~ん!」「がんばって~!」

 観覧席の最前列で、双子の妹たちがブンブン手を振っているのが見える。その隣ではお
婆ちゃんも微笑んでいて、僕は憂鬱な心境で苦笑しつつ手を振り返した。

 最前列には、氷雨や赤穂さん、ひかりに凪、聖に弥美乃……他にも僕のよく知らない多
くのクラスメイトたちの姿があった。彼らはおそらく、一ヶ月同じクラスだけどまだよく
知らない転校生が、どんな人物なのかを見極めにきたのだろう。

 ……あれ? 妙義の姿が見当たらないような……あっ、後ろの方で手を振ってる。その
横には、なんだかガラの悪い座り方をした女の子がいて、その女の子を妙義と、あと笹川
が挟むようにして座っていた。友達なのかな?

 時刻は夜の八時を回ろうとしているところだけれど、もしかしたら島のかなりの割合の
人たちがこの場に集まっているのかもしれない。そう思える程には、満員御礼って感じの
客入りだった。

 ……当然、そんな衆人環視に晒された僕はバイブレーション(強)である。帰りたい。
消えたい。死にたい。

「そしてこいつが今夜の主役である、ゲストの久住篤実だ! さぁ篤実、リスナー諸君に
一言頼むぜッ!!」

「はひゃいっ!? ぅ、え、えっと、あの、こ、こんばんわ……?」

「いや、一言ってそういうことじゃなくてだな……」

「え、あ、ごめんなさいっ!?」

 ドッと観覧席が笑いに包まれる。僕はもう恥ずかしすぎて、手で顔を覆うしかなかった。





 その後、アンチャンが司会進行をしつつ、あらかじめ島民のみんなから集めた“久住篤
実に聞きたいこと”を僕に質問していくコーナーとなった。僕は震度5弱で振動しつつも、
緊張に負けないよう必死で質問に答えていく。

「じゃあ次の質問だ。匿名だな……『あつみはどうして浮気するの?』」

「ちょっと待って誰が書いたこれ!? 凪か!? 凪ちゃんでしょ!?」

 観覧席の凪が「はてなんのことやら?」みたいなジェスチャーをしてる。ちくしょう!

「なにも知らない人が誤解しないうちに弁解しときますけど、僕は生まれてこの方、恋愛
とかしたことありませんからっ!!」

「じゃあ続いての質問だ。これも匿名で、『最後にはあたしのところに戻ってきてね♪』」

「誰が書いたっ!? 質問ですらないし!! っていうかこれ多分 弥美乃でしょ!?」

 観覧席の弥美乃が「てへぺろ☆」みたいなジェスチャーをしてる。くそ、かわいい!

「続いての質問。これも匿名で……『篤実さんはいつになったら“埋め合わせ”をしてく
れるのでしょうか?』」

「ちょっと待ってくださいアンチャンさん!! 全然処理が追いついてませんから!! 
あと赤穂さん本当にごめんなさい!! いつぞやの埋め合わせはちゃんとしますから!!」

 このままでは僕のことを今日ここで初めて見た島民の皆さんが、いろいろと勘違いして
しまいかねない……!

 僕は思い切ってアンチャンの近くに椅子を持っていき、質問内容を吟味することにした。
……っていうか、おい双子! 『エロ本はどこに隠してるんですか?』ってどういう質問
だよ!? まだ探してたのかよ! キミたちは僕をどうしたいの!?

 そうしていくつもの苦難を乗り越えながら、ある程度の質問に答えていったところで……
アンチャンはゴツいデザインの腕時計をチラリと見ると、

「よぉし、そんじゃあそろそろ、このコーナーでの最後の質問だッ! 『この島について、
どう思いますか?』……ヘイ篤実、この島についてどう思ってるか、正直なところを聞か
せてくれッ!」

「この島について……どう思ってるか……?」

 僕はその大雑把な質問に少し戸惑いつつ、頭を整理するために質問を小声で復唱する。






 ―――この島を、どう思うか。

 きっとこの場で僕に求められている回答は「すごく楽しい島ですイエーイ」みたいな、
誰にとってもわかりやすい、頭の悪そうな回答だと思う。もしくは、これはラジオなわけ
だから、ツッコミどころを用意したボケ回答だったり、そういうのが正解なんだと思う。

 だけど……

「……僕は、この島に来るまで、ほとんど、心の底から笑ったことが、なかったような気
がします……」

 ついうっかり、僕の口からポロッと出てしまった言葉によって、観覧席の人々は静まり
返ってしまった。その反応に、やべぇ選ぶ言葉を間違えたかと焦る僕だったけれど、一度
口に出してしまった言葉をやり直すことはできない。僕はそのまま、口の滑るままに委ね
ることにした。

「友達もあんまりいなくて、楽しいこともなくって……逃げるみたいに、この島に来ちゃ
いました。だからきっと、ここでも、その二の舞になるんだろうなって、覚悟してたんで
す……。でも……」

 僕はチラリと、観覧席の最前列に座っているひかりを見つめて、

「友達が、できました。遊んだりもしますし……毎日が、すごく、楽しくて……。きっと
いつか、そう遠くないうちに、僕は本土に戻るかもしれませんけど……多分、その時になっ
たら僕は……みっともないくらい、泣いちゃうんじゃないかと思います」

 続いて、お婆ちゃんや氷雨、雫や霞に目を向ける。

「居候させてくれる家の人たちも、すごく、良い人たちで……ご飯も、信じられないくら
い美味しいし、毎日が、楽しくて……」

 観覧席に座っている、僕の知り合いたちを眺めながら、

「こんな、どこもかしこも絵画みたいに綺麗で、のどかな島だから、こんなに良い人たち
になるのかなって……そう思ったら、この島に生まれてきた人たちが、なんか、羨ましい
なって……その、感じました……」

 僕は一度大きく深呼吸をしてから、サングラスで表情の読めないアンチャンを一瞥し、
そして観覧席全体をざっと見渡してから、胸を張って言い放った。



「この島に来れて……この島の人たちと一緒に過ごせて……僕は、幸せです」

 

 観覧席は、水を打ったように静まり返っていた。誰一人身動きせずに、ジッと僕の顔を
注視していて……

 も、もしかして滑った……!? と、僕がにわかに焦りだした時……

 誰が最初だっただろうか。パチパチと、小さな拍手がどこかで起こった。それに同調す
るかのように、続けて各所で拍手が上がり、そしてついに観覧席のほとんどの人たちが、
僕に拍手を送ってくれたのだった。

 僕は熱くなった顔を手でパタパタと仰ぎつつ俯いて、安堵と羞恥を味わっていた。

「サンキュー篤実、エクセレントな回答だったぜ!! それじゃあ続いて、篤実のオリジ
ナルソング―――『泣き虫ジョーカーの献身』だ! 聴いてくれッ! カモンッ!!」

 りずむさんが作ってくれた曲のイントロが流れ始め、やがて僕の歌声が会場に響き渡る。
もちろんというかなんというか、例の霊障ソングを流せば大パニックになること請け合い
なので、当然、今流れているのはあとで録り直したものだ。





 
 自分の歌声を、どこか他人事のように遠く聞きながら……僕は『正塚事件』前後のこと
を思い出していた。

 良い意味でも悪い意味でも、初めての体験をたくさんした。妙義を相手にするのとは違っ
た意味で、僕の内面が、過去が、いろいろと暴かれてしまった。

 今までの僕なら、ちょっとした情報でさえも他人に明け渡すことを良しとはしなかった。
うっかり渡した情報が、後々どう不利に働くかがわからなかったから。

 ……だけど、今は違う。

 自分のことを理解してもらって、受け入れてもらう。それがこんなにも安心することだ
とは思わなかった。あるいはその相手が信頼に足る人物であることをよく知っているから
こその、安心感なのかもしれないけれど。

 僕は聖や弥美乃に対しても、僕が感じた安心を与えられたのだろうか。もしそうだとし
たら……それほど嬉しいことはない。

 今回の事件では、“正塚”にしても“赤目さま”にしても、僕が経験した現象は、結局
のところそれがなんだったのかということはわからなかった。自称霊能力者に問えば幽霊
の仕業と答えるかもしれないし、科学者に問えば幻覚や妄想だと答えるかもしれない。

 だけど、その答えを知っている人物はこの世界に存在しないのだろうし、そこはやはり、
弥美乃の“魔法の杖理論”に従い、未来の人たちに託すほかないのだろう。現代の僕たち
にできることと言えば、ありのまま目の前の現象と結果を受け入れることくらいだ。

 結果として、僕も、聖も弥美乃も、誰も傷つくことはなかった。千光寺さんが言ったよ
うに、今はそのことに満足して、感謝して、これからを生きるべきなのだろう。

 先ほど僕が口にした言葉に嘘偽りはない。この島に来て、みんなと出会えたことは、僕
にとってこれ以上ない幸せだった。できることならこれから先もずっとここでこうやって、
幸せに暮らしていけたらと強く願うほどに。

 けれども、出会いがあれば、いつか必ず別れというものが付きまとう。今までの僕だっ
たら、終わりのある関係性に熱をあげることはできなかっただろうけれど……今の僕は違
う。

 いつか終わりがあるというのなら、その日が来るまで精いっぱい真剣に生きていけばい
いだけの話だ。

 この島での出来事を美しい思い出として、心の宝箱へ大切にしまい込むためにも……今
を全力で楽しんで生きていく。それが、この島に送り出してくれた僕の両親に、今の僕が
できる唯一の感謝の形だと思うから。

 さて、そんなところで……そろそろ僕の曲が終わろうとしている。僕としては、できれ
ばこの後は淡々粛々と平和的な進行を期待したいところではあるのだけれど、おそらくそ
うもいかないだろう。きっとこの後、次のコーナーになれば、また僕の苦手な賑やかで騒
がしい時間が始まるに違いない。

 だけど不思議と……“それも悪くないかも”なんて思っている自分もいたりして。

 これから僕を待ち受ける学園生活がどんなものになるのか―――

 今はそれが、楽しみでならない。







 ―――了。



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