吸血鬼「アナタの血をいただくわ」格闘家「なんだと!?」(165)

格闘道場──

ある夜、格闘家は一人きりで遅くまで鍛錬をしていた。
といっても、この道場に所属するのは道場主である彼一人だけなのだが。

格闘家「──せいいっ!」

バシィッ!

格闘家の蹴りで、サンドバッグが揺れる。

格闘家「……ふう」

格闘家(長い戦いの末、ようやく世界チャンピオンへの挑戦権を得られた……)

格闘家(俺の最強を証明するためにも、この道場を立て直すためにも、必ず勝つ!)

彼は一週間後に大一番を控えていた。

格闘家「!?」ピクッ

格闘家(──今、なにやら気配を感じた!)ザッ

格闘家「だれかいるのかっ!?」

シ~ン…

格闘家「……気のせいか」

吸血鬼「気のせいじゃないわよ」

格闘家「!?」

吸血鬼「こっちこっち」

格闘家(──上っ!?)サッ

女が天井に立っていた。

格闘家「なっ……!」
   (ど、どうなってるんだ!?)

吸血鬼「よっと」スタッ

格闘家「君は……何者だ!? どうやって天井に立っていた!?
    ……いや、どうやってここに入った!?」

吸血鬼「アタシは吸血鬼。ちょっと栄養が足りなくてね」

格闘家「吸血鬼!?」

吸血鬼「アナタの血をいただくわ」

格闘家「なんだと!?」

格闘家は身構えるが、得体の知れない相手に心は引けていた。

吸血鬼「どうしたの?」

格闘家「なにっ!?」

吸血鬼「抵抗しないの? アナタ、鍛えてるんでしょ?」

吸血鬼「ま、大人しく吸われてくれるんなら、それに越したことはないけど」スタスタ

格闘家「ち、近づくな!」

吸血鬼「どして?」

格闘家「俺は女性を……殴りたくない!」

吸血鬼「クスクス……」スタスタ

格闘家(くっ、やむを得ない!)
   「とりゃあっ!」

ビュッ!

──ピタッ

拳は寸止めだった。

吸血鬼「あら、優しいのね……クスクス」

格闘家「……くっ!」

吸血鬼「でも優しいだけじゃ、自分の命は守れないわよ?」

格闘家「いいから消えてくれ!」

吸血鬼「イヤよ」

吸血鬼「……もしかしてアナタ、怖いんじゃないの?
    吸血鬼(アタシ)に自分の技が通用しないかもって……」

吸血鬼「だからパンチを当てないことで情に訴えようとしたり、
    口で説得しようとしてるんでしょ?」

吸血鬼「見た目に反して、ずいぶんと女々しいヒト……ガッカリね」

格闘家「な、なんだと……!」

格闘家(ここまでいわれて黙っていられるか……やるしかない!)

吸血鬼「あら、やる気になったみたいね。さ、どうぞ」

格闘家「はぁっ!」

ズガァッ!

格闘家の手刀が、吸血鬼の肩に炸裂した。

吸血鬼「フフ……攻撃を通して、アナタの怯えが伝わってくるわ」

格闘家(笑ってる……!? 俺の手刀が、効いてないのか!?)

吸血鬼「肩を狙ったのは、やっぱりアナタなりの優しさなのかしら?
    でもどんどん攻撃しないと、一滴残らず吸われちゃうわよ?」

格闘家「うぅっ……!」

格闘家「うわあぁぁぁっ!」

ドボォッ!

吸血鬼の腹に、格闘家の拳がめり込む。

吸血鬼「クスクス……」

格闘家「うぐぅ……!(やはり全然効いていない!)」

格闘家「せりゃあっ!」

脇腹への回し蹴り。

ドガッ!

肩への正拳突き。

バキッ!

さらには顔面へのヒジ打ち。

ベキッ!

しかし、これだけの攻撃をもってしても、吸血鬼の微笑みを消すことはできなかった。

格闘家(なぜだ……たしかに攻撃が柔肌に食い込んでいる感触はある。
    なのに、なぜ効いていないんだ!?)

吸血鬼「フフ……もう終わり?」

格闘家「うっ……」ギクッ

格闘家「ま、まだだァッ!」

敗北すなわち死。

格闘家は己の格闘人生の全てを賭して、猛ラッシュを仕掛けた。
鍛え抜かれた拳足が、吸血鬼の全身を打つ。

バキッ! ドゴッ! ガスッ! メキッ! ドスッ!

吸血鬼はかわすことも守ることもせず、全てを受け入れた。
不敵な笑みを浮かべながら。

10分後──

格闘家「はぁっ……はぁっ……!」

吸血鬼「……ん、もう終わったの?」

格闘家(ダ、ダメか……!)ドサッ

無駄を悟った格闘家は、大の字になって崩れ落ちた。

吸血鬼「よく頑張ったわね。じゃあ、さっそく──」

血を吸おうと、吸血鬼が横たわる格闘家に近づく。

すると──

格闘家「……うぅっ」グスッ

吸血鬼「あらあら、死ぬのが怖くなっちゃったの? クスクス……」
   (安心なさい。アナタを殺すつもりはないから……。
    ちょっとだけ血をもらうだけだから……)

格闘家「ぢ、ぢくじょう……」グスッ

吸血鬼「?」

格闘家「おれのわざ、全然きがなかった……」グスッ

格闘家「おれの今までのじんぜいは、なんだったんだ……!」グスッ

吸血鬼「…………」

吸血鬼「よいしょ」スッ

吸血鬼は涙を流す格闘家の頭を、膝枕の上に置いた。

格闘家「な、なにを……?」グスッ

吸血鬼「ごめんなさいね。少しやりすぎてしまったみたい」

吸血鬼「アタシはアナタを殺すつもりはないし、
    ましてやアナタの人生を否定するつもりなんて毛頭なかった」

吸血鬼「アナタは強そうだったから、
    ちょっとからかってみたかっただけなの……本当にごめんなさい」

格闘家「君は……人の血を吸って生きているんじゃないのか?」

吸血鬼「別に血を吸わなくても生きてはいけるわ。
    アタシが血を吸う時は、本当に命が危ない時くらいよ」

吸血鬼「それに……アタシは人を殺したことはないわ」

吸血鬼「血を吸うといっても、献血の量よりずっと少ないくらいだし」

吸血鬼「吸う前にはちゃんと下調べをして、
    吸っても健康に影響がない人間だと判断した上で吸うわ」

吸血鬼「吸った後にこちらから魔力を注入しなければ、
    アナタに呪いが移るということもないしね」

格闘家「──ってことは、俺のことも……?」

吸血鬼「えぇ、とても大きな試合を控えている格闘家さんでしょ?
    ちゃんと調べてあるわ」

吸血鬼「アナタは強い……それにものすごく努力している。
    だからアタシに勝てなかったからって、気に病む必要なんてないのよ」

格闘家「……なぜ俺の攻撃は、君に効かなかったんだ?」

吸血鬼「人間とアタシたちじゃ、肉体の頑強さがちがいすぎるわ。
    たとえ銃でもアタシに傷一つ付けることはできない」

吸血鬼「生身でアタシを倒そうというなら、それこそ大地を割るくらいのパワーか、
    あるいは拳に魔力を付加する、とかしないと無理でしょうね」

吸血鬼「もちろんそんな術、格闘家であるアナタが知るはずがない」

吸血鬼「だから……気にしないでいいの」

吸血鬼「アタシは下調べした時、修業するアナタにずっと見とれてた。
    とてもかっこよくて、美しかった……」

格闘家「かっこよくて美しい……? まるで君に歯が立たなかった俺が?
    なにをバカな……」

吸血鬼「あらそう?」

吸血鬼「一生懸命努力している姿って、とても尊いじゃない」

吸血鬼「それともアナタは、アナタより弱いヒトが一生懸命練習してるのを見て
    俺より弱いくせにってバカにするの?」

格闘家「いや、そんなことは……ない、けど」

吸血鬼「でしょ?」

吸血鬼「実力はたしかに大事だけど、努力している姿はそれだけでも美しい。
    少なくともアタシにとってはね」

格闘家「…………」

格闘家「さっきまで、俺は君のことを非常識な存在だと思っていた」

格闘家「……しかし、だんだんと親しみを持ってきたよ。
    俺なんかより、よっぽど正しい心を持ってるしな」

吸血鬼「ありがと」

格闘家「なぁ……もう一度、改めて俺と勝負してくれないか?
    君が勝ったら……俺の血を吸ってもいいってことでどうだ?」

吸血鬼「えっ?」

格闘家「むろん、勝敗は分かり切っている」

格闘家「君との差を……知りたいんだ」

吸血鬼「……分かったわ」

二人とも立ち上がる。

格闘家「行くぞっ!」ダッ

シュッ!

格闘家の右ストレートを、吸血鬼は指一本で止めた。

格闘家「…………!」

吸血鬼「じゃあアタシから……」

ピンッ

なんの変哲もないデコピン──

ドガァン!

しかし、百戦錬磨の格闘家はなんの変哲もないデコピン一発で、
壁まで吹き飛ばされ、ノックアウトされた。

格闘家「デコピンでKO、か……」

吸血鬼「……本気でやらなかったこと、怒ってる?」

格闘家「いいや」

格闘家「君が本気を出してたら、俺は今頃三途の川にいるだろう」

格闘家「俺の君との差は、それだけのものがあるってだけのことだ。
    怒る理由なんか、あるはずがないさ」

格闘家「もちろん、もう自分の人生を否定したりはしない。
    君には通用しなかったが、俺は俺なりに精一杯やってきたんだからね」

格闘家「さぁ、俺の血を吸うといい」

吸血鬼「……うん」

格闘家は首筋を差し出した。

吸血鬼「いただきます」カプッ

吸血鬼の牙が、首筋に甘く刺さる。

吸血鬼「…………」チュルッ

吸血鬼「…………」ゴクゴク

吸血鬼「──っぷはぁっ」

格闘家「え、もういいのか?」

吸血鬼「えぇ、これだけで十分よ。いったでしょ、献血よりずっと少ないって」

格闘家「変な質問だが、俺の血の味ってのはどうだった?」

吸血鬼「クスクス……気になる?」

格闘家「いや、まぁ……変な味だったらやっぱりイヤだしな」

吸血鬼「血の味なんか、だれでも大差ないわよ。
    少なくともまずくはなかったわ。安心して」

吸血鬼は嘘をついていた。

吸血鬼(な、なんて……)

吸血鬼(なんて力強く、濃厚な味……!)

吸血鬼(こんな血を飲んだのは、生まれて初めて……。
    ああ、アタシの全身にこの人の炎のような闘志が浸透していく……!)

吸血鬼(体内でこの人の赤い血が、縦横無尽に暴れ回っている……!)

吸血鬼(スゴイ、なんてスゴイんだろう!)

吸血鬼(ああ、全て飲みたい……この人の血の全てを!)

吸血鬼(でもダメ……アタシには自分で決めたルールがあるんだから……)

吸血鬼(拳ではアタシにダメージを与えられなかったけど、
    アナタの血はまちがいなくアタシに大ダメージを与えたわよ。
    ……格闘家さん)

吸血鬼「ねぇ」

格闘家「ん?」

吸血鬼「アナタ、ここに住んでいるんでしょう? アタシをしばらく置いてくれない?」

格闘家「かまわないが」

吸血鬼「えっ、ホント?」

格闘家「ああ。世界チャンピオンとの試合の前に気が立ってたところに、
    君のおかげでだいぶ気がほぐれたしな」

吸血鬼「ありがとう……」

吸血鬼「ところで、なんでこの道場ってアナタ一人なの?」

格闘家「元々はオヤジが建てたんだ」

格闘家「オヤジは強かったから、どんどん人が集まってきたんだが、
    絶望的なまでに教え方がヘタでな」

格闘家「厳しい上に分かりにくかったら、ついてくる人間なんているわけない」

格闘家「門下生は一人、また一人と去っていき、残ったのは息子の俺だけだった」

格闘家「……で、意外に繊細なとこもあったのか、急に体を悪くして
    今はお袋と一緒に田舎で暮らしてる」

格闘家「そして後を継いだ俺が、道場の立て直しを図ってるってわけだ。
    俺もそれなりに有名になったが、オヤジの悪評も根強く残ってて
    入門してくるヤツは一人もいない……」

吸血鬼「……イヤになったことはない?」

格闘家「辛い時はあるが、イヤになったことはないな。好きでやってることだし」

吸血鬼「やっぱりアナタってステキね」

格闘家「じゃあ今度は俺から質問だ」

格闘家「吸血鬼ってのは君以外にもいるのか?」

吸血鬼「もちろんいるわ」

格闘家「……ってことは、家族も?」

吸血鬼「えぇ、父と母と兄がいる。
    もっとも、もう何十年も会っていないけどね……」

格闘家(何十年……そうか、若く見えるけど人間よりずっと長生きなんだな)

格闘家「なぜ、離れ離れになってしまったんだ?」

吸血鬼「アタシたちは常に人間の“ハンター”に狙われてるわ。
    ひと固まりになっているワケにはいかないの」

吸血鬼「実はね……ここに来る前にも、アタシ狙われてたの」

格闘家「ハンターってヤツにかい?」

吸血鬼「そうよ」

格闘家「君ほどの力なら、そんなヤツら簡単に倒せるんじゃないのか?」

吸血鬼「彼らの装備は万全の魔物対策をしてあるから、アタシは絶対に勝てないの。
    アタシの攻撃は彼らに一切通用しないわ」

格闘家「そういうもんなのか……」
   (なるほど……そいつらとなにかあって、俺の血を欲してたってワケか)

吸血鬼「もし興味があったら、コンタクト取ってみたら?
    アタシを倒せるようになるかもよ」

格闘家「……興味ないな」

格闘家「あくまで俺は人間としての最強を目指すよ」

夜が更けてきた。

格闘家「──さて、俺はそろそろ寝るが、君はやっぱり箱の中で寝るのか?
    棺桶とか……。ロッカーならいっぱいあるんだけど」

吸血鬼「アナタたちと同じよ。フツーでいいわ」

格闘家「そうか。じゃあ向こうの部屋に布団を敷いておくよ」

格闘家「おやすみ」

吸血鬼「えぇ、おやすみなさい」

明朝から、格闘家は黙々と鍛錬を続けた。

格闘家「──せりゃあっ!」

ビュババッ! ババッ!

吸血鬼「………」

吸血鬼(キレイ……)

吸血鬼(この人は、一人きりのトレーニングで、世界チャンプに挑めるまでになった。
    よほど血のにじむ努力をしてきたんでしょうね……)

吸血鬼「ねぇ」

格闘家「ん?」

吸血鬼「もしジャマでなければ、アタシにも手伝わせてくれない?」

格闘家「かまわないけど……吸血鬼なのにこんなに朝早くて平気なのか?」

吸血鬼「夜じゃない時はたしかに動きは鈍るけど、大した影響はないわ」

格闘家「つおぁっ!」

格闘家の繰り出す拳を、ミットで受ける吸血鬼。

バシッ! バババッ! バシィッ!

吸血鬼(拳を通じて、この人の熱いハートが伝わってくる……)

吸血鬼(昨日のこの人の攻撃には焦燥と困惑しかなかったけど、
    今日のこの人の攻撃は熱い……!)

吸血鬼(闇に生きるアタシには、熱すぎるくらい……!)

吸血鬼(んもう……ダメだったら……そんなに激しくしちゃ……!)

格闘家(妙にニコニコしてるな。そんなにミット打ちが面白いのか……?
    なんにせよ、練習相手になってくれるのはありがたい。
    彼女なら、怪我させる心配もないしな)

シュババッ! バシッバシッ!



……

………

格闘家「はぁ、はぁ、はぁ……」

吸血鬼「ねぇ、アナタってなんで世界チャンピオンになりたいの?
    やっぱり道場を立て直すため?」

格闘家「それもあるが……俺は今のチャンプを尊敬している。
    尊敬してるからこそ、勝ちたいんだ」

格闘家「なにしろデビュー戦以降、無敗……。
    そんな相手とようやく戦えるんだ、悔いのない試合をしたい」

吸血鬼「ふうん……」

吸血鬼と格闘家の奇妙な同居生活は続いた。

吸血鬼「ねぇ、なんでカーテン全部閉めるの?」

格闘家「え、だって太陽の光とかマズイだろ」

吸血鬼「平気よ。暗所の方が好きだから浴びないに越したことはないけど、
    浴びたって体がどうなるわけじゃないしね」

格闘家(けっこう俺が考えてた吸血鬼とはちがうんだな)



格闘家「せいぃっ!」

バオッ!

格闘家「つぁりゃっ!」

ブオンッ!

吸血鬼(いいわぁ~……この人のトレーニング姿って、ホントドキドキする)

ワー…… ワー……

吸血鬼「なんのビデオを見てるの?」

格闘家「今度の対戦相手、つまりチャンピオンの試合だ。もちろんチャンプが勝つけど」

吸血鬼「えっ……」

格闘家「どうした?」

吸血鬼「いえ、すっごい険しい顔してて強そうだなぁ、と思って……」

格闘家「このチャンプは無口でいつも険しい顔してるけど、最後には勝つんだよ」

吸血鬼「負けてもめげないでね」

格闘家「お、おいおい……」



吸血鬼「ちょっと、何やってるの!?」

格闘家「ニンニクだよ。精がつくからな」ポリポリ

格闘家「食う?」

吸血鬼「やめて、絶対近づけないで! アタシ、ニンニクだけはダメなのっ!」

格闘家「わ、分かった、分かった。悪かったよ」
   (そういやニンニクって、吸血鬼の弱点だっけ)ポリ…

ついに試合前日となった。

格闘家「これがチケットだ。けっこう貴重品なんだぞ」

格闘家「──といっても、貴重品なのはチャンプのおかげなんだけどな。
    他にも数試合あるが、客の目当てはチャンプただ一人だろう」

格闘家「俺の勝利を予想してるヤツなんて、ほとんどいない。
    いたとしても、競馬の大穴くらいに思ってるにちがいない」

格闘家「だからこそ……勝つ」

格闘家「……最前列の特等席、必ず見に来てくれよ」

吸血鬼「えぇ、絶対行くわ」

吸血鬼「……頑張ってね」

格闘家「もちろんだ」

格闘家「俺は君と出会えてよかったよ」

吸血鬼「どして?」

格闘家「一週間前まで、俺は自分が世界でトップクラスに強いと本気で思っていた。
    チャンピオンにだってなれると思っていた。
    それが誇りでもあり、また重圧でもあったんだ」

格闘家「しかし、君に出会い──」

格闘家「世の中には俺なんか到底敵わないような存在がいると知った」

格闘家「泣きベソをかくくらいショックだったが、なんかとても気が楽になったんだ。
    肩の荷が下りた気がした」

格闘家「こんな気持ちで明日の試合に臨めるのは、君のおかげだ」

格闘家「ありがとう」

吸血鬼「……こちらこそ」

格闘家「……なぁ」

格闘家「明日の試合、もし俺が勝ったら──」

格闘家「この道場もきっと忙しくなる。
    そしたら、少しの間だけでいい。俺を手伝ってくれないか?」

吸血鬼「……ん、考えとく」

こうして二人は試合当日を迎えた。

翌日──

吸血鬼「いよいよね……」

格闘家「よし……行くか!」

格闘家「じゃあ俺は、試合の準備とかがあるから先に会場に行ってる。
    リングの上で……待ってるからな」

吸血鬼「うん……分かった」

格闘家は道場を後にした。

会場 選手控え室──

通常、選手には誰かしらスタッフがつくものだが、格闘家には誰もいない。
一人で黙々とストレッチを行う。

格闘家(なんだか気持ちがとても楽だ……)

格闘家(これも彼女のおかげで、自分が世界最強だのという自惚れから
    解放されたおかげだ)

格闘家(彼女の見ている前で、恥ずかしい試合はできない……)

格闘家(いや、勝って彼女の前に立ってみせる!)

会場 観客席──

最前列の席で、格闘家の試合を待ちわびる吸血鬼。

数試合が終わり、次が格闘家と世界チャンプによる試合(メインイベント)である。
観客の盛り上がりも最高潮に達している。

ワアァァァァァ……!

吸血鬼(いよいよ次ね……)

しかし──

「こんばんは」

ワアァァァァァ……!

ハンターA「お元気そうでなによりです」ニコッ

吸血鬼「アナタたちは……!」

吸血鬼「!」ビクッ

吸血鬼(体が……動かない……!)

吸血鬼(くぅっ……!?)ビクッ

ハンターA「おっと、話しかける前にあなたの肉体と魔力は封じさせてもらいました。
      もうあなたは人間の女性よりも無力な存在です」

ハンターB「格闘家の道場に逃げ込んで、たらしこむとは考えたもんだな。
      俺たちは対魔物には万能だが、人間相手じゃ分が悪い」

ハンターB「だが、ヤツはまさにこれから試合のハズ……助けに来られるはずがない。
      もう前みたいに逃げられないぜ」

ハンターC「逃げられないぜぇ~」

ワアァァァァァ……!

ハンターA「……多少あなたを動けるようにしました。さぁ、我々についてきて下さい。
      この騒がしさの中では、いくら叫んでも無駄ですよ」

ハンターA「もっとも、あなたがそんな見苦しい真似をするとも思えませんが」

ハンターC「思えませんがぁ~」

吸血鬼「分かったわ……」スッ
   (ごめんなさい。アナタの試合……見られそうにないわ)

ワアァァァァァ……!

司会『お待たせいたしました!』

司会『いよいよ本日のメインイベント、チャンプVS格闘家です!』

ワアァァァァァ……!

司会『青コーナーより挑戦者、格闘家選手の入場ですっ!』

声援に応えながら、リングインする道着姿の格闘家。
だが、すぐに気づいた。

格闘家(──いないっ!?)

いるはずの特等席に、吸血鬼がいない。

格闘家(そんな……どうしていないんだ!?)

同じように、赤コーナーからチャンピオンが入場してきた。

リング上──

何年もの間、対戦を熱望してきた世界チャンピオンと向き合う格闘家。
しかし、彼の心は、一週間寝食を共にしただけの吸血鬼でいっぱいだった。

実況『お~っと、挑戦者の格闘家、チャンプと目を合わせようともしない!
   これは臆してしまったのか!? はたまた挑発の類でしょうか!?』

ワアァァァァァ……!

格闘家(どうしていないんだ!?)

格闘家(来てくれなかったのか……? いや、そんなハズがない!)

格闘家(彼女は絶対来る! ……だが、現に来てないじゃないか!)

格闘家(なら……何かがあったとしか──)

格闘家(何か……。まさか、彼女がいってたハンターとかいうのが来たのか!?)

格闘家(しかし今さらどうしようも──!)

格闘家(とにかく早いとこ試合を終わらせて、彼女を探しに行こう!)

ワアァァァァァ……!

カァンッ!

ゴングが打ち鳴らされた。

ワァァァァァ……!

格闘家(早く──早く終わらさねば!)

格闘家「つおぉっ!」

チャンプ「…………」

ガガッ! バシッ! ドカッ!

試合は打撃アリ、関節技アリ、寝技アリの総合格闘技ルール。
格闘家もチャンプも打撃を得意としており、両者立ったまま戦いを繰り広げる。

お互い一歩も引かぬ攻防──といいたいが、明らかに格闘家が押されていた。

格闘家「はぁっ!」

格闘家のハイキックをガードしたチャンプが、右ストレートでの反撃。

ガッ!

格闘家「……ぐっ!」

格闘家(ダメだ……こんな心持ちじゃ、とてもかないっこない!)

チャンプ「…………」

チャンプ「君は……」

チャンプ「なにか……重大な問題を抱えているようだな」

格闘家「!?」

滅多に口を開かないといわれるチャンプが、よりにもよって試合中に口を開いた。

格闘家「な、なんのことだ……試合中だぞ」

チャンプ「口で語らずとも、拳で語らえば分かるというもの。
     君の拳からは焦りしか伝わってこない」

ドヨドヨ…… ガヤガヤ……

審判「コラッ、両者減点するぞっ!」

チャンプ「黙れ」

審判「……は、はいっ!」

格闘家「……だったらなんだというんだ。アンタにゃ関係ないだろう。
    人間、誰だって重大な問題を抱えているもんだ」

チャンプ「迷いのある挑戦者を打倒しても、なんの価値もない……」

チャンプ「行け」

格闘家「行け……っていわれても……」

チャンプ「東だ」

チャンプ「東へ向かえ」

格闘家「東……!? なぜ分かる……!?」

チャンプ「王者としての……本能(カン)だ」

格闘家「…………」ゴクッ

格闘家「分かった……。ありがとう、チャンプ……!」

格闘家はリングの外へ飛び出した。
当然、会場は大騒ぎになる。

実況『どうしたんでしょう!? 挑戦者の格闘家、リングから飛び出してしまった!』

ザワザワ…… ドヨドヨ……

「どうしたんだァ!?」 「試合放棄か!?」 「逃げちまったぞ!」

すると──

チャンプはマイクも使わずに、凄まじい大声を発した。

チャンプ「たった今っ!」

チャンプ「試合中ではあるが、挑戦者が重大な問題を抱えていることが分かった!」

チャンプ「私とて、100パーセントの力が出せぬ相手に勝っても嬉しくはないっ!」

チャンプ「だから私はチャンピオンとして、彼がリングから降りることを許したっ!」

チャンプ「だが案ずるなっ!」

チャンプ「彼は30分もすれば必ず戻るっ!」

チャンプ「ゆえに、しばしの休戦をお許し願いたいっ!」

ワアァァァァァ……!

チャンプのド迫力に巻き込まれ、観客は大盛り上がりとなった。
こうして異例の試合中断が成立してしまった。

格闘家は走る。
体を鍛えてきたのはこの時のためだ、とばかりに走る。

もはや彼に、試合のことなど頭になかった。

格闘家(東へ──)

格闘家(東へ……)

格闘家(東へっ!)

格闘家(きっと彼女はそこにいるっ!)

吸血鬼は三人のハンターに連行されていた。

ハンターB「チンタラしやがって、さっさと歩け!」

吸血鬼「アタシは……どうなるの?」

ハンターA「我らが拠点に連れて行き、身も心も浄化してあげますよ」

ハンターB「テメェの薄汚れた魂をキレイにしてやるんだ。感謝しろよ」

ハンターC「感謝しろよぉ~」

吸血鬼(つまり、魂ごと焼き尽くされるってワケね)
   「分かったわ、もうジタバタしない。連れてって」

ハンターA「ふふふ、潔いですね。
      大抵の魔物は、動きを封じてもわめき散らすものなのですがね。
      さすがは誇り高き吸血鬼、往生際がよろしくて助かりますよ」

ハンターA(女とはいえ吸血鬼をハントすれば、私の名も上がるというもの……。
      組織内での待遇もよくなる……!)

吸血鬼「最後に……一つだけいい?」

ハンターA「なんでしょう?」

吸血鬼「さっきの試合……結果が分かったら、教えてくれる?」

ハンターA「気になるんですか?」

吸血鬼「…………」

ハンターB「あの格闘家もとんだバケモノに惚れられたもんだな! こりゃ傑作だ!」

ハンターC「傑作だぁ~」

ハンターA「まぁ、結果は分かり切ってますがね。おそらく──」

「試合再開後、挑戦者である格闘家が勝つ、だ」

ハンターA「なっ!?」

吸血鬼(どうしてここに!? まさか試合を放棄して──)

格闘家「間に合った……ようだな」ハァハァ

ハンターB「この野郎、試合はどうしたんだよ!」

格闘家「チャンピオンの協力で、一時中断してもらった」ハァハァ

ハンターA(そんなバカなコトが……!)

格闘家「……さて」

格闘家「彼女を渡してもらおうか。
    ハンターってのがなんなのかはよく知らんが、素人を殴りたくはない」

ハンターA「あなたは……人間なのに、吸血鬼の味方をするおつもりですか?」

格闘家「俺は人間の味方でもなければ、吸血鬼の味方でもない。
    ──同じ釜の飯を食ったスパーリングパートナーの味方だ」

格闘家「どうするんだ?」

ハンターA「たしかに我々は魔物にはめっぽう強いですが、
      同じ人間相手には大した戦力を持たない……」

ハンターA「なにしろ魔物の味方をする人間などレアケース……。
      対人間など想定する暇があったら、魔物対策をしていますからね。
      ……が、今日はちがいます」

ハンターA「なぜなら、我々の組織きっての武闘派である彼がいますからね!」

ハンターB「頼むぜ、お前の怪力を見せてやれ!」

ハンターC「見せてやるぅ~」ドドドッ

格闘家「…………」

ガシィッ!

ハンターCの猛突進を、格闘家は真っ向から受け止めた。

ハンターC「ふぅぅぅぅ~!」グイッ

ハンターA(いくら格闘家でも、彼には手こずるはず……! そのスキに吸血鬼を──)

ハンターC「う、うぅう……」グイグイ

ハンターC「う、動かないぃ~……」グイグイ

格闘家「どうした、こんなもんか」

ハンターA「ウ、ウソ……」

ゴッ!

顎へのジャブ。ハンターCの巨体が崩れ落ちる。

ハンターA「こんなハズが……」
ハンターB「マジかよ……!」

格闘家「魔物退治もけっこうだが……俺は人間を倒すのが得意なんだ。
    ずっとそればっかやってきたからな」

格闘家「お前たちは彼女には勝てても、俺には絶対に勝てない」ズイッ

ハンターA「う……くっ……」ジリ…
ハンターB「こっち来るな!」ジリ…

格闘家「今すぐ彼女にかけた呪縛だかなんだかを外して、ここから消えろ。
    今度彼女に近づいたら、格闘仲間全部集めてお前らを叩き潰すぞ」
   (格闘仲間なんていないけどな)

格闘家「彼女は俺の大事なパートナーなんだ」

ハンターA「……正気ですか!?」

ハンターA「吸血鬼など助けても、いつかあなたは餌にされるのがオチですよ!?」

格闘家「かまわんさ。俺はすでに命懸けで挑んで敗れている。
    たとえ体中の血を吸い尽くされようと、悔いはないし、文句もいえない」

ハンターA「…………!」

格闘家「だが……俺はそうなっても、彼女の血となって彼女をお前らから守る」

格闘家「もう一度だけ忠告する」

格闘家「彼女の力を戻して、ここから消えろ。そして、二度と現れるな」

ハンターA「…………」ギリッ

ハンターA「ま、まぁ……いいでしょう」

ハンターA「この女吸血鬼は人間への危険度としては、ほとんどゼロのようです。
      たしかに吸血鬼は惜しいですが、やっきになるほどの獲物でもありません。
      我々も忙しいですからね」

ハンターA「引き上げますよ」

ハンターB「お、おう」

格闘家(色々言い繕ってはいるが、ようするに降参ってことか)

格闘家「よし、彼女の力を戻して、とっとと消えろ!」

ハンターたちは吸血鬼を呪縛から解放すると、夜の闇に消えた。

格闘家「……大丈夫か?」

吸血鬼「ありがと……まさかアナタに助けられるなんてね」

格闘家「君より遥かに弱い俺が……不思議なもんだ。
    俺と君とヤツらの関係は、ジャンケンみたいなもんなんだろうな」

格闘家「これで最初に会った時の醜態はチャラ……って感じかな?」

吸血鬼「クスッ……」ケホケホッ

格闘家「……だいぶ弱らされたようだな。血を吸え」

格闘家は腕を差し出した。

吸血鬼「ダメよ。アナタ、今から戻って試合をするんでしょう?」

格闘家「関係ない。吸え」

吸血鬼「ダメ……」

格闘家「ダメじゃない。吸え」

吸血鬼の脳裏に、ハンターたちの言葉がよぎる。



『あの格闘家もとんだバケモノに惚れられたもんだな! こりゃ傑作だ!』

『吸血鬼を助けても、いつかあなたは餌にされるのがオチですよ!?』



吸血鬼「──ダメなのよ……!」

吸血鬼「アナタの血を飲んだ時……アタシ、あまりの美味しさに気が狂いそうだった。
    少しタガが外れただけで、全部飲んでしまいそうだった!」

吸血鬼「こんなんじゃ、いつかアタシはアナタを殺してしまう!」

格闘家「よかった……美味かったのか」

吸血鬼「え?」

格闘家「これでも俺は、なんとなく自分の血に自信があったからな。
    “血なんてみんな同じ味”っていわれた時は正直ショックだったんだ」

格闘家「吸え」

格闘家「大丈夫……俺だって死にたくはない。
    もし君が俺の血を全部奪いに来たら、返り討ちは無理だろうが、
    なんとか逃げ切ってみせる。約束する」

格闘家「俺は君を助けたんだ。一回くらいいうことを聞いてくれよ」

吸血鬼「強引なんだから……」

吸血鬼「…………」カプッ

吸血鬼「…………」チュルッ

吸血鬼「…………」ゴクゴク

吸血鬼「──っふぅ」

格闘家「回復したか?」

吸血鬼「えぇ、ありがとう」

格闘家「よし、俺も頭に血が上ってたからちょうどよくなった。会場に戻ろう!」

吸血鬼(ちがう……)

吸血鬼(前とはちがう……)

吸血鬼(前はこの人の熱すぎる血が私の中で暴れ回ったけど……)

吸血鬼(今度は……優しく全身を撫でてもらってるような感触だわ。
    私、この人に抱擁されている……)

吸血鬼(とても優しくて、温かい血……)

吸血鬼(ありがとう……格闘家さん)

吸血鬼(試合、頑張ってね)

吸血鬼(でもアタシは……結果を知っているの。アナタは──)

試合会場──

チャンプ「来たか」
格闘家「待っててくれて、ありがとう」

チャンプの予告通り、格闘家は30分で戻ってきた。
会場のテンションは、試合中断によってかえって高まっていた。

ワアァァァァァ……!

実況『さぁ、挑戦者である格闘家、トラブルを解決してきたのでしょうか!?
   前代未聞の試合中断を経て、いよいよ試合再開ですっ!』

「やったれー!」 「待たせやがって!」 「つまんない試合すんなよー!」

観客の声援にも力が入っている。

だが、さすがはチャンプである。
すぐに態勢を立て直し、幾人もの猛者を倒してきた重い打撃を振るう。

ズドンッ! ドゴォッ! ドカンッ!

実況『チャンプも負けてはいなーいっ! 象でも倒せそうな猛ラッシュだっ!』

防御に徹する格闘家。
が、重い打撃の間隙を突いて、的確に反撃を与えていく。

観客が息を飲むような、一進一退の攻防が続く。

まったくの互角。

実況『お互いに激しく打ち合いながらも、有効打を許しませんっ!
   リングの上で、まるで将棋のような読み合いが展開されているっ!』

これは判定決着になる──誰もが思った。

しかし、試合が動く。

チャンプが勝負に出たのだ。

蹴りのフェイントから、全身を駆動させての右ストレート。
だが、格闘家はこれをかわし、同じく渾身の右ストレートでカウンターを決めた。

バキィッ!

チャンプ「ぐぉ……っ!」

顔面へクリーンヒット。チャンプが勢いよく前のめりに倒れた。
カウントを数えるまでもなく、審判が試合を止めた。

カンカンカンカンカンカン……

ワアァァァァァ……!

会場が沸く。この瞬間、格闘家が新しい世界チャンピオンに決定した──

実況『チャンピオンの不敗神話がついに破れましたァッ!
   ──と同時に、新チャンピオンの誕生だァーッ!』

しかし、この勝利を信じられない者が、この会場に二人いた。

吸血鬼(ウソ……どうして……!?)

格闘家(なんでだ……)

試合は大盛り上がりの末、幕を閉じた。

チャンピオンの控え室──

敗れたチャンプは一人、後片付けをしていた。

コンコン

チャンプ「どうぞ」

ガチャッ

チャンプ「……君か」

格闘家「……アンタ」

格闘家「なんで、わざと負けた?」

チャンプ「わざと……とは、どういうことだ?」

格闘家「奇しくもアンタがいったことだ。拳で語らうと分かることがある」

格闘家「試合中断前は、気持ちが焦っていて分からなかったが、
    再開後はすぐに分かった」

格闘家「アンタ──吸血鬼だろ」

チャンプ「……よく、気づいたものだ」

格闘家「最近、吸血鬼と交流があってね。そうでなきゃ絶対気づかなかっただろう」

格闘家「アンタの異常な強さ……不敗神話もこれで説明がつく。
    アンタが試合中、いつも険しい顔をしていたのは、
    手加減が大変だったからだろう?」

格闘家「指一本でヒトを殺せるようなヤツが、
    相手を殺さないように、なおかつ格闘しているようにするのは、
    とんでもない難作業だったろうからな」

チャンプ「……ヒトに混ざった私を、責めるか?」

格闘家「いいや。アンタにはアンタの事情があるんだろう」

格闘家「ただし、アンタなら俺なんかいつでも倒せたハズだ」

格闘家「お情けでもらったチャンピオンベルトなんてまっぴらだ。
    アンタの答え次第では、すぐに返上させてもらう」

チャンプ「……我々吸血鬼は常に人間のハンターに追われている。
     ハンターの目を紛らわすのに、もっともいいのが人に紛れることだ」

格闘家(……ハンター、か)

チャンプ「私は格闘家として生きることを選んだ。
     まさかヤツらも、闇に生きるべき吸血鬼が光に照らされたリングの上で
     活躍しているとは夢にも思わないだろうからな」

チャンプ「身分を偽証し、強さを見せつけ……瞬く間に世界一となった」

チャンプ「しかし、もう疲れたのだ……。
     君の言うとおり、人間と戦うのは非常に繊細な作業だ。
     私はこの試合を最後に、再び闇に消えることに決めていた」

格闘家「……ただ消えるだけなら、別に俺に負ける必要はなかったはずだ。
    なぜ俺に勝ちを譲った!?」

格闘家「俺が先に出会った吸血鬼は、人間(おれ)と吸血鬼(アンタら)の差を
    きちんと思い知らせてくれた。だが、俺はむしろそれがありがたかった」

格闘家「アンタのやったことは……ただの侮辱だ!」

チャンプ「たしかに……私は勝って姿を消すこともできた」

チャンプ「最後の試合で君に勝ちを譲ったのは……せめてもの礼だ」

格闘家「礼?」

チャンプ「同族を助けてくれた……君に対する、な」

格闘家「…………!」

チャンプ「私は会場内に私とは別に、吸血鬼がいることを察知していた。
     その同族がハンターたちに捕まり、どの方角に連れ去られたかまでな」

格闘家(王者としての勘じゃなかったのか……少しショック)

チャンプ「吸血鬼同士がひと固まりになることはご法度……。
     同族が私を見に会場に来るなど、絶対にありえない。
     だから、あの吸血鬼は君と縁がある者だとすぐに分かった」

格闘家「そうか……。だからアンタは俺に仲間を助けさせるために……
    試合を中断させたのか……」

チャンプ「私では、ハンターには絶対勝てないからな」

格闘家「……安心してくれ。ちゃんとアンタの仲間は助けた。
    二度と近づかないよう脅しもつけといた。多分……大丈夫だ」

チャンプ「そうか……やはり君に託して正解だったようだ」

格闘家「…………」

チャンプ「あとは君の心ひとつだ。チャンピオンの座を、返上したくばすればいい」

チャンプ「君の実力であれば、空位になったチャンピオンの座を
     すぐモノにできるだろうしな」

格闘家「俺は……」

うつむく格闘家。

チャンプ「最後に一言だけ」

チャンプ「妹を助けてくれて……ありがとう」

格闘家「!」

格闘家が顔を上げると、チャンピオンは部屋から姿を消していた。

格闘家(チャンプ……)

その後、格闘家は吸血鬼のところに向かった。

格闘家「……やぁ」

吸血鬼「おめでとう、新チャンピオン」

格闘家「……ありがとう」

格闘家「君も知っていたんだろう? チャンプの正体を──」

吸血鬼「…………」

吸血鬼「えぇ、ビデオを見て一目で分かったわ。兄さんだって。
    だから正直……アナタは勝てないと思っていた」

格闘家「だろうな。多分、君の兄さんは君よりも強いんだろうから」

格闘家「譲られた勝利、はっきりいって気持ちがいいものとはいえない」

格闘家「だがきっと、俺は彼に託されたんだろう」

格闘家「だから、俺は世界チャンピオンとして生きていく」

格闘家「……だから……」

格闘家「約束通り……君にも、手伝って欲しい……」

吸血鬼は笑った。

吸血鬼「クスクス……いいわよ。いつまでとは約束できないけど……。
    これから忙しくなりそうね」

格闘家「……ああ!」

三ヶ月後──

世界チャンピオンとなる道を選んだ格闘家。
彼の格闘道場は大勢の門下生でにぎわっていた。

世界チャンピオンの名声に加え、世界最強という地位におごらぬ格闘家の謙虚な態度や
指導の上手さもあり、道場の評判は上々だった。

「えいっ!」 「やぁっ!」 「とぉっ!」

格闘家「もっと声を大きく!」

「せやぁっ!」 「ていっ!」 「はあぁっ!」

格闘家(やれやれ、指導やら経営やらで大忙しだ)

格闘家(有名になるってのも、考えものだな。
    かといって、まだ人を雇えるような段階じゃないし……)

格闘家(……彼女がいてくれて助かるよ、ホント)チラッ

この道場が人気になった理由はもう一つあった。
道場主をサポートしている、美人のパートナーがいるからだ。

門下生(ここは練習は厳しいけど、的確に欠点を指摘してくれるから、
    やりがいがあるな……)ハァハァ

吸血鬼「……疲れたでしょ、はいトマトジュース」

門下生「(嬉しいけど、なぜトマトジュース……?)あ、ありがとうございますっ!」

だが、人々は知らない。

夜中に密かに二人きりで行われている鍛錬を──

ドカァンッ!

格闘家「く、くそっ……やはり勝てない……!」

吸血鬼「クスクス……でも今のはけっこういいセンいってたわよ」

格闘家「本当か!?」

吸血鬼「ウソよ。熱い攻撃だったけど、痛くもかゆくもなかったわ」

格闘家「ようし、もう一回だ!
    君と戦うのは、どんな修業よりも修業になるからな!」

吸血鬼「……今夜は疲れちゃったから、もう一回だけよ」

格闘家「じゃあラストだ! 勝負っ!」

世界チャンピオンのパートナーは、世界チャンピオンよりも強いということを──



                                   ~おわり~

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