勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」(994)





「いい天気だ」と左隣を歩く戦士は、腰に携えた剣に手を置きながら言った。

勇者は空を見上げる。たしかにいい天気だ。
青く澄み渡るとか、そういう在り来りな表現が似合う、そんな空だ。
鮮やかな青に混ざって、筆で描いたようなやわらかい輪郭を持った雲がところどころに見える。
どこにでもあるような、晴れた昼頃の空だ。

今までに見てきた空と何ら変わりはないのだが、勇者の目にはその青空が新鮮に見えた。
それは今、彼が勇者という場所に立っているからなのかもしれない。
立つ位置が変わると、見えるものも変わるのだ。空だってそうだ。
今までは故郷のちいさな農村から見上げていたちいさな空は、今はとても大きく見える。

「たしかに」と右隣を歩く僧侶は、大きく深呼吸した。「いい天気だ」

たしかにいい天気だ、と勇者はもう一度思った。そしてもう一度空を見上げる。
青空には天気の変化だけではなく、平和の象徴のようなものを感じることができた。
だからこそ“ほんとうに魔王なんているのだろうか?”と思わずにはいられない。
でも彼は勇者なのだ。どこに存在するのかも分からない魔王を討つために
歩かなければならない。それは東の国王直々の頼みであった。


一国の主に「あなたが勇者だ」と言われた時は、内臓が口から零れ落ちそうになった。
果たして彼が勇者だということは最初から決まっていたのか、
それとも彼は抽選か何かで勇者に選ばれたのか、本人には何も分からない。
とにかく王は「あなたが勇者だ」と言うのだから、きっとそうなのだろう。
勇者という存在はおとぎ話のなかだけの存在だと思っていたから、その言葉は彼を激しくを混乱させた。
子供の頃はよく絵本で見たり、ごっこ遊びで演じたりしたものだったのに、僕が本物の勇者だって?

国の主の言葉に反論することが何を意味するのかということは、
ちいさな農村に住んでいた彼にも理解できた。
「あなたが勇者で、あなたに魔王を討っていただきたい」と頼まれたのなら、それに従うしかないのだ。

「旅日和だな、勇者様?」と戦士はからかうように言った。

「やめてくれ」と勇者は言う。「勇者って言われると、ものすごくこそばゆいんだ」

戦士は笑った。「まあしかし、お前が勇者かあ。似合わんなあ」

「まだ言うか? きょう何回目だよ。
べつに僕だってなりたくて勇者になったわけじゃないのに」

「でも、たしかに似合わないよねえ」と僧侶も笑った。

「そんなに似合わないかな」

戦士はうなずく。「お前は昔から泣き虫なやつだったからなあ」

「それは関係ないと思う」と勇者はふくれて言った。
たしかに泣き虫であったという自覚はあるが、他人に言われるとすこし腹が立った。


「そうそう」と僧侶はうなずく。「泣き虫はもう治ったもんね?」

「そうだね」と勇者はつぶやくように言った。
泣き虫は治ったという自覚もあるが、改めて言われるとすこしはずかしかった。
彼女に言われるとなおさらだ。

穏やかな風が、足元から地平線にまで広がるだだっ広い草原を撫でた。
風は僧侶の長く艶のある黒髪をふわりとなびかせ、甘い香りを勇者の鼻に運んだ。
勇者はその香りに誘われるように、彼女に目を向ける。

彼女は白い半袖のローブのような服を着ている。丈は膝辺りまでしかない。
それなりに肌の露出の多い、旅のお供にはすこし心細い服装だ。

「なあに?」と僧侶は勇者に微笑みかける。「どしたの?」

「なんでもない」と勇者は言い、戦士の方に目を向ける。

彼は汚れた白い布の服の上に、申しわけ程度に金属施されたが皮の胸当てを着けていた。
深い森のような色をしたズボンには、つぎはぎのように何かの動物の皮が縫い合わせられてある。
肘にも皮のプロテクターのようなものが見える。彼は用心深いのだ。

「なんだ。じろじろ見て」と戦士は言う。「どうした?」

「ふたりはさ、どうして僕についてきてくれたの?」と勇者は訊ねた。

「そりゃあ、お前が心配だからだよ」と戦士は笑った。
「そう。きみが心配だからだ」と僧侶も笑った。


三人は故郷のちいさな農村で生まれて育った。
彼らは小さな頃からの友人で、もはや家族や兄妹のようなものだった。
勇者から見れば、戦士は兄で僧侶は姉のようなものだ
(戦士は勇者よりもふたつ年上。僧侶はひとつ年上)。
村には歳の近い人間は彼らしかいなかった。仲良くなるのは必然とも言えるかもしれない。

王に会いに行く時もふたりは付き合ってくれたし、こうして旅に出た今も隣に居てくれている。
勇者はそれがとても幸せなことに思えた。ただ、すこし申しわけなくも感じた。
これは自分自身の問題であり、ふたりを巻き込むことはないはずなのだ。
しかし、ひとりでは心細いのもまた事実だった。
おそらくふたりはそれを察してくれているのだろう、と勇者は思った。


「しかしまあ」と僧侶は大きく伸びをした。「なんにもないね」

「ほんとうにな」戦士は引きつった笑みを浮かべた。「びっくりするくらいなんにもないな」

勇者は眼前に広がる草原を眺める。
そこにはたしかに緑以外には何も見当たらない。“怪物”の姿もない。
唯一見える草以外のものは、遥か背後にある巨大な東の王国城下町だけだ。
あそこを発ってからもう二週間は経ったはずなのに、大して進んでいないような錯覚に陥る。

そうすると、改めて自分たちの立っているこの“東の大陸”が巨大であるということを実感させられる。
村の外に出たことがほとんどなかったから、そう感じるのははじめての事だった。
そしてこの草原がこの大陸の大部分を占めているのだ。そう思うとうんざりした。
他の大陸に住むものからは、緑の大陸だとか言われているようだ。

魔王がどこにいるのかなんて知るはずもない彼らはとりあえず、目的地を南の大陸に決めていた。
そのためには、まずこの大陸を南下して港を目指し、そこから船に乗る必要がある。
しかし海は未だに見えない。



この日も三人は、陽が落ちるまで歩き、野営をした。
僧侶は炎の魔法をすこし扱えるので、火に困ることはない。
ただ、勇者は足元に広がるむせ返るような緑の香りが苦手だった。おかげでゆっくり眠れやしない。

勇者は勢いよく上体を起こした。どこかで何かが鳴いている。周囲は夜の暗闇に閉ざされていた。
右隣には寝息を立ててぐっすりと眠る戦士がいる。
そこまでぐっすりと眠れるものかと、勇者は羨ましく思った。

僧侶はどこだ? 辺りを見回してみると、すこし離れたところに座り込んでいるのが見えた。
勇者は僧侶に歩み寄り、隣に腰を下ろしてから、「寝ないの?」と訊ねた。

僧侶は、「ううん。ちゃんと寝るよ。星が綺麗だったから、それを眺めてたの」とゆっくりと言った。

「星?」勇者は空を見上げた。黒い空にはぽつぽつと、星が弱々しい光を草原に投げかけている。

「綺麗だよね」

「そうかな」勇者は素直な感想を言った。
もっと強く、数え切れないほどの星が輝いていれば、綺麗だねと言えたのかもしれない。

しかし、そんなものよりも目の前の黒い艶のある髪のほうが綺麗に見えた。
目の前の白い肌も微笑みも、とても綺麗なものに見えた。


「昔さ、村に旅をしてる人が来たことがあったよね」僧侶はぽつりと言った。

「ああ、あったね。僕らが一〇歳の頃だっけ」昔、故郷の村に旅人が訪れたことがあった。
そのときは馬小屋の掃除を手伝ってもらったんだったか。いい人だった。

「わたしは一一歳だったけどね。あいつは一二歳」“あいつ”というのは、戦士のことだろう。

「そうか。ときどき、君のほうが年上だってことを忘れそうになるよ」勇者は笑った。
「それで、それがどうかしたの?」

「いやあ、あのときは旅に出ることになるなんて、思いもしなかったよねえ」僧侶は笑った。

「確かに」勇者も笑った。

ふたりは黙って、空を見上げた。悪くない時間だった。
しばらくそうしてから、勇者は重くなった瞼を下ろした。





「そろそろ行きましょうか。ユーシャ様」と魔法使いは立ち上がって言った。
左手に嵌めた金の指輪が、夕陽を反射してきらりと光った。

「なんか馬鹿にしてないか?」
ユーシャは地面に寝転がったまま、眩しさに目を細めて言った。
この角度からだと、魔法使いのスカートの中身が見えそうになる。
なので、黙ってそのまま眺めておくことにした。

空と丘を橙色に染めながら、地平線へ溶けるように太陽が消えかかっている。
丘を撫でる風が魔法使いの栗色の髪をゆるやかに浮かせ、きらきらと輝く。
スカートの中身はなかなか見えない。

ユーシャと魔法使いは、西の大陸の中央辺りにある“星見の丘”にいた。
丘の天辺には、一本の木がぽつりと立っている。星見の丘とは言っても、もちろん夜しか星空は拝めない。
では何故そういう名前なのか。生まれたときからこの辺りに住んでいたユーシャも魔法使いも知らなかった。


「それに、そろそろ行くって、もう夜じゃないか。どこに行くんだよ」ユーシャは体勢を変えずに続けた。

「あったかいベッドの上に行くに決まってるじゃないの」

「今からまた西の王国に帰るのかよ。それじゃあ、いつまで経っても先に進めないだろ。
それに、これからは嫌というほど野宿をすることになるだろうから、今のうちに慣れといたほうがいいんじゃないか?」

「それは一理あるけど……」

「嫌ならべつに無理して付いてこなくてもいいんだぞ」

「わかった、わかりましたよ。野宿でいいですよ」魔法使いはふくれた。

小高い丘からは周囲を見渡すことができた。南には小さな港町と、塔が見える。
東西には草原が広がっていて、小さな村が点在している。遠くには海が望めた。
北には西の王国のシンボルでもある、大きな石の城が窺える。
この西の大陸で最も大きな町は、ひときわ大きな存在感を醸し出していた。

あの城で勇者になってから三日が経った。
勇者や魔王なんてものは未だに半信半疑だが、一国の主に「行け」と言われたなら、行くしかない。
しがない農民だったユーシャには、この広い世界で何が起こっているかなんて
ほとんど理解できていないが、とにかく今は魔王とやらを探すしかないのだ。


勇者と魔王。まるで子どもに聞かせる御伽噺のようだ。お偉いさんの口からそんなことを聞いたときは
“もしかしてこいつは馬鹿なんじゃないのか”と微笑ましく思ったものだが、
「お前が勇者だ」と言われたときは、開いた口が塞がらなかった。

しかし、あれは嫌な国王だった。いくら王だからといって、頬杖をついて脚を組み、顎に蓄えた髭を撫でながら
人にお願いをするのはいかがなものかと思う。もちろん、そんなことは言えなかった。
仮にも一国の主なのだし、深い皺を刻んだ顔には有無を言わせない気迫があった。
回想するだけで、ため息がこぼれる。

「どしたの。ため息なんて吐いて」と魔法使いは言った。

「いや、お前のスカートが捲れないかなと思って」

魔法使いは「殺す」と穏やかではない言葉をつぶやき、杖の先端でユーシャの額を小突いた。

「痛い痛い痛い。冗談だって。あの国の王様のことを思い出したら、ちょっと苛々しただけだって!」

「ふうん」


「杖を退けてくれ! 痛い、痛いって! やめろ暴力女! お前それでも魔法使いか!」
ユーシャは叫んだ。

その直後に魔法使いの背後に小さな火球が三つ現れた。
炎に照らされた魔法使いの顔には、かわいらしい笑顔が浮かんでいる。

「ごめんなさい」とユーシャが謝ると杖は退けられ、炎は消えた。

「よろしい」魔法使いは隣に座り込んだ。甘い匂いがする。

どうやら死なずに済んだらしい。ほっとして空を見上げた。
陽は完全に姿を隠し、薄暗いそこには、いくつかの星が散っている。
いつの間にこんな時間が経っていたのだろう。


「今日はここで野営だな」とユーシャが言うと、「そうね」と素っ気ないお言葉が返ってきた。

「そういえばお前、短いスカート穿いてるけど寒くないのか?」

「寒いけど、魔術があるから大丈夫よ」と魔法使いは言ったが、丘を這う夜風は決して暖かいものではない。
魔法使いは身体をぶるりと震わせた。大丈夫なようには見えない。

「俺のマント貸そうか? マント被ればすこしはマシになるだろ」
ユーシャは薄汚れた紺のマントを魔法使いに差し出した。

「やだ。それ、あんたの匂いがするじゃないの」

「俺の匂いが嫌だってか?」そんなに臭うだろうか。

「べつにそうは言ってないけど? 何、わたしにそれ使ってほしいの?」

「べつにそうは言ってないだろ。お前が寒そうだから心配してやってるんだよ」

「ふうん。じゃあ、ありがたく使わせてもらおうかな」魔法使いはマントを受け取り、自身の膝にかけた。
それから身体を倒して、ユーシャの隣に寝そべった。「おー。星が綺麗だ」


ユーシャも空を見上げた。確かに綺麗な星空だった。
紺碧を背景に、あちこちに散りばめられた星が、鋭い光を放つ月に負けないほど輝いている。
視界の端で星が尾を引き、消えた。魔法使いは気付いただろうか。

「“星見の丘”って、こういうことだったのかな」ユーシャは言った。

「かもね」魔法使いは呟くと、「そういえば、昔ここで約束をしたわよね」と続ける。

「そうだったか?」

「まあ、あんたのことだから忘れてるとは思ってたわよ。ほら、丘に立ってる木に書いたじゃないの」

丘に立ってる木に書いた? あの、丘の天辺の木か? 何を書いた?
思い出せない。いったい何年前の話をしているんだ?

ユーシャが黙り込んで回想していると、魔法使いは、やや怒りを滲ませながら「もういい」と言った。
「べつに確認しに行かなくていいから。どうせもう消えてるだろうし。思い出せたら言ってね」

「ごめん」ユーシャが謝っても、返事はなかった。


ユーシャと魔法使いは昔からずっといっしょだった。
故郷の村は小さく、同い年の人間はほとんどいなかったので、同い年のふたりは自然と仲良くなった。
何をするにもふたりはいっしょだった。何度もいっしょに怪物を打ち負かしたし、
剣と魔法のどちらが強いかを確かめるために、一戦交えたこともあった。
約束なんてものは、数え切れないほどしたような気がする。
一七年の月日の中から数秒だけを思い出すというのは、なかなか難しい。

約束って、何だ? 訊くに訊けなかった。

しばらく無言で空を眺めていると、魔法使いは口を開いた。
「それにしても、あんたが勇者だなんてねえ」

「つまんない冗談だよな。星型の痣があるだけで勇者扱いだなんてさ」
ユーシャは空に手をかざした。手の甲には、かろうじて星の形に見えなくもない不細工な形の痣がある。

「星型の痣?」魔法使いは驚いた様子で言った。

「西の王国には、星型の痣がある人間が勇者だって御伽噺があるんだってさ」

「……ふうん」

「どうした。何か知ってるのか?」

「ううん、なんでもない」魔法使いはマントを頭から被った。

「そうか」ユーシャはそのまま瞼を閉じた。甘い香りが漂う。星の残光が瞼の裏で瞬いている。
その日は、なかなか眠ることができなかった。

つづく





「なあ。あれ、村じゃないか?」戦士は言った。

続いて、「おお?」と勇者、「おー!」と僧侶が声を上げた。
戦士の視線の先を見てみると、岩と木と堀に囲まれた場所に
民家の集まりらしきものが見えた。ちらほらと人影も窺える。

「やー、長かったねえ」僧侶は長い息を吐いた。嬉しげな表情を浮かべている。

「なにもう魔王を倒して凱旋するみたいな気分になってるんだよ」戦士は笑った。

草原をさまよって何日が経ったのだろう。勇者たちは、ようやく村に辿り着けそうだった。
しかし、この大陸の最終目的地はあくまで港町なので、ここは通過点に過ぎない。
それでも勇者一行にとっては、喜ばしい進歩だった。



村に辿り着いたのは、発見から約一時間後のことだった。
「明るいうちに着いて良かったね」と僧侶は微笑む。
三人は疲弊した身体で村に入ろうとした。
そのとき、村民と思しき少女に声をかけられた。

「止まりなさい」その少女は少女らしからぬ口調で言った。
ぶかぶかの紅いローブを纏い、背丈と同じほどの長さの杖を携えている。

「や。俺たちは怪しいもんじゃないんだ」と戦士が言った。

「怪しいひとは真っ先にそう言います」

「ん。確かに」僧侶が口を挟んだ。

「目的は何ですか?」と少女は言った。

「目的って……。ちょっと身体を休ませてほしいかなあと思って。旅で疲れてるんだ」

「なぜ旅をしているんですか?」

「まお」戦士が言いかけたとき、勇者は急いで口をはさんだ。
「東の国王のお使いで、南の大陸に行かなくちゃならないんだよ。
それで港を目指してるんだけど、もう何日も草原をさまよってて、へとへとなんだ」


「東の国王……」少女の表情は曇った。

「だめかな?」僧侶は微笑みかけた。

「……長に訊いてきます。すこし、ここで待っててください」
少女は踵を返し、村で最も大きな建物の中に消えた。

村には二〇ほどの建物が窺える。どれも平べったい円錐のような姿をしていた。
平べったいとは言っても、勇者たちの身長の二倍ほどの高さがある。

歩き回る村民の視線が三人に突き刺さる。
色こそ違えど、男性も女性も、皆が同じようなローブを纏っていた。


「なあ。なんで魔王を倒すために旅をしてるって言わなかったんだ?」
戦士は声を落とし、素直な疑問を口に出した。

「そんなの信じてもらえないだろう。もし信じてもらえたとしても、
それはそれで相手を不安がらせてしまうんじゃないかな」

勇者が言うと、「だね」と僧侶が頷いた。

「何を話してるんですか?」先程の少女が戻ってきた。
ぶかぶかのローブを引き摺るその姿は、見た目よりも幼い印象を他人に与える。
見た目もそれなりに幼く見える。一〇歳かそこらだろうか。
ただ、口調だけはやけに大人びている。

「いや、なんでもない」と戦士が胡散臭い笑みを浮かべながら言った。

「怪しい話をしてたひとは皆そう言うんですよ。
まあ、何でもいいです。話は後で聞きます。
とりあえず今から“膜”を剥がすので、わたしに付いてきてください」
少女は杖で地面を軽く突いた。

「膜?」「膜って何?」「膜ってなんだ?」三人はほとんど同時に言った。


「膜というのは所謂、魔術の障壁です。結界だとか呼んだりするひともいますね。
わたし達は、この村を覆っているドーム状の魔術の障壁のことを“膜”と呼んでいます」
少女は踵を返し、ふたたび村でいちばん大きな建物に歩き始めた。

「今、その膜は剥がれてるの?」と僧侶。

少女は振り返らずに、「はい」と答えた。「なので、入ってきてください」

勇者たち三人は少女の後に付いて歩いた。
足元には“膜”の外と同じように短い草が茂っている。
村内を見渡してみると、やはりどこもかしこも円錐の建物だらけで、
紺や紅のローブを纏っている人々がこちらをじろじろと見ている。

余所者というのは、どこでもこういう扱いを受けるものなのだろうか。
勇者は回想する。確かに、故郷の村でも余所者が訪ねてきたときは、
あまり歓迎されているようではなかった。


しばらく歩くと少女は立ち止まり、「入ってください」と言った。
正面には、この村でいちばん大きな建物がある。
潰れた台形のような形をした建物は、円錐型の建物の二倍ほどの横幅があった。

暖簾のように垂れた布を払い、少女はその潰れた台形の中に入った。
勇者たちも後に続く。

真っ先に目に入ってきたのは、正面に座っている老婆の姿だった。
黒いローブを羽織っていて、大きな帽子を被っている。
枯れ木の枝のように痩せた細い腕。灰に染まった長い髪。
その姿は御伽噺に出てくる魔女のように見えた。

「この方々です」と少女は相変わらずの口調で言った。

勇者たちは各々に簡単な挨拶と一瞥を終えると、老婆が顔を上げた。
そして、少女のような笑みを浮かべながら口を開いた。

「ようこそ旅のひと。ここは魔術の村です」

「魔術の村」勇者が復唱する。


「そう。そして私がこの村の長です。どうぞ、ゆっくりと旅の疲れを癒してください」

「いいんですか」少女は表情を歪める。

「ええ」長はふたたび少女のような笑みを見せた。
「あなたの家で休んでもらっては? ひとりは寂しいでしょう」

少女は曇った表情を滲ませながら、「わかりました」と呟いた。



円錐の中身は、四人が寝転んでもそれなりに余裕のある広さだった。
ベッドはひとつしかなかったが、野営よりは何十倍も寛げそうだ。

天辺には光を放つ小さな球体が浮かんでいる。
僧侶はそれを指差しながら、「あれは魔術なの?」と訊くと、
少女は「そうです」と素っ気ない返事をした。

「その堅苦しい喋り方、止めてもいいんだぞ?」戦士が言った。

「わたしはこれが普通なんです」

「ふうん。ちなみに、歳は?」

「失礼なひとですね。一〇歳ですよ」

「しっかりしてるんだねえ。偉い」と僧侶が笑顔で言った。

「ええ、まあ。母が亡くなってしまったので」

円錐の中の温度が下がったような気がした。


しばらくの沈黙の後、「なんだって?」と戦士が言った。

「母が亡くなったんです」

「お父さんは?」僧侶が口を挟む。

少女はかぶりを振った。
「父に会ったことはないです。母は南の第二王国の兵士に殺害されました」

「南の第二王国?」

「はい。南の大陸には、第一王国と第二王国のふたつの国があります。
東に第二王国、間に大きな川を挟んで西に第一王国です。存じ上げませんか?」

三人は仲良くかぶりを振った。

僧侶は続ける。
「どうしてお母さんは南の第二王国の兵士に、その……殺されちゃったの?」

「この村の東に、呪術の村があります。三年ほど前の話です。母はそこに用事がありました。
しかし、運の悪いことに、そこに兵士が攻め込んできたんです。
その結果、呪術の村の呪術師は全滅し、村は滅びました。それだけです」


「どうして呪術の村は襲撃されたの?」

「わかりません。ただ、南の第二王国が呪術を恐れていたという噂があります」

「ところで、呪術ってなんなんだ?」戦士が口を挟む。

「魔術よりも強大な魔法みたいなものです。大破壊を実行したり、ひとを蘇生させたり、
怪物を意のままに操る術などがあったそうです。第二王国はそれが怖かったのでしょう」

どうにも信じがたい話だったが、妙な説得力があるように思える。
勇者は盗み見をするように眼球だけをじろりと動かした。
視界に入り込んだのは、潤んだ大きな目だった。

その大きな目で、この娘は何を見てきたのだろう。
そして、これから何を見ていくのだろうか。
目の前に座り込む小さな魔術師の境遇を想うと、何も言うことができなかった。
きっとこの娘は、これからもひとりで生きていくのだろう。


「大変だったんだね」僧侶は少女を抱きしめた。

「そうなんです」少女は素直に言った。「それにわたし、ものすごく寂しいんです」

「今日はわたしといっしょに寝よう。ね?」
僧侶が言うと、少女は頬を濡らしながら「うん、うん」と大きく頭を縦に振った。

「どうやら、俺たちは地べたで寝ることになったらしいな」戦士が言った。

「まあ、仕方ないんじゃないかな」勇者はその場に寝転がった。

薄暗くなっていく部屋を漫然と眺めながら思う。
大陸間で揉めているのに、魔王を倒したところで世界に平和は訪れるのだろうか。

僕らがやろうとしていることに、いったい何の意味があるんだろう。
魔王なんてものが存在しなくても、この世界は糞まみれなんじゃないのか?

勇者の頭の中の懐疑に答える声はなかった。





「魔術というのは、ある程度の素養、もしくは
生まれ持った僅かな才能のどちらかがあれば、習得は容易です」

「つまり俺には素養も無ければ才能も無いってことか」

「確かに才能はありませんが、それは先天的なものが無いというだけです。
知識なんてものは後からいくらでも頭に叩き込めます。
叩き込んだ知識を正しく理解することができれば、あなたにも魔術が使えるようになりますよ」
少女は歳相応の可愛らしい笑みを浮かべた。

「なあ、見てくれよ。俺、一〇歳の女の子になぐさめられてるぜ」戦士が笑った。

「いや、馬鹿にされてるんじゃないの?」僧侶も笑った。

「だね」勇者も笑った。



村に辿り着いた翌日、勇者たち三人は少女から魔術を教わることになった。
長である老婆が言うには、「あの娘は、この村でいちばんの才能を持っている」だそうだ。
「その才能のせいで、あの娘は村に上手く馴染めないんです」とも言っていた。

勇者には、誰もが羨むようなものを持って生まれたのに、
周りの人間と上手く関わることができないということが、理解し難かった。

考えていると、「じゃあ、あの娘に魔術を教えてもらおうぜ」と戦士が言った。
炎や光、それに傷を癒す術を扱うことができれば、旅も多少は楽なものになるだろう。
そう思うと異論は特に無かった。いつもなら口を挟んでいたであろう僧侶も黙っていた。
ベッドでぐっすりでその場にはいなかったのだから、当たり前だ。

少女と僧侶が円錐から姿を現したのは、昼頃のことだ。
ふたりは仲良く手を繋ぎ、目を擦り、欠伸を漏らした。
「よくそんなに寝られるもんだな」と戦士が笑うと、
「いっぱいお話したもんね」と僧侶が少女を見て笑った。
少女の顔にも笑顔が浮かんでいた。

どうやら、夜通し話し合っていたらしい。
ひとというのは一晩でそこまで変わるものだろうかと思ったが、
少女の笑顔を見ていると、勇者の顔も自然と綻んだ。



「やっぱり俺には、魔術とかそういうのは合わないな」戦士は言った。

「わたしがみっちり教えてあげますよ」少女は微笑んだ。
「自分に膜を張るくらいなら、誰にでもできます。
“膜”が使えれば、怪物から受ける被害を減らすこともできますし、
旅をするなら覚えておいて損はないですよ」

「できなかったりして」僧侶が吹き出した。

「ありそうだね」勇者も吹き出した。

戦士は疑わしげな表情を滲ませながら、
「ほんとうに俺でもできるのか?」と少女に訊く。

少女は、「できます。できないとしたら、
きっとあなたにはそういう才能があるんですよ」と答えた。

「そういう才能ってなんだよ」

「お天道様がエネルギーをくれないとか、精霊様に嫌われてるとか、そういう才能です」


少女は、太陽の光に含まれていたり、大気中に拡散している
“それ”(この村の魔術師は“粒”と呼んでいる)を
体内に取り込み、エネルギーとして練るのだという。
エネルギー生成は、ある程度の才能を持っていれば、
誰もが無意識のうちに行っていることらしい。

そして、ひとには各々に得意とする魔術があるとも言っていた。
勇者は氷の魔術、僧侶は癒しと光の魔術といったところだそうだ。
御伽噺の勇者は光や雷が得意だったはずだが、まあいいか。

得意不得意が発生するのは、精霊という要因があるらしい。
たとえば、炎の精霊に愛されていれば、炎を操る魔術が得意
(精霊の力を借りて消費するエネルギーを抑えたり、
炎の威力を増幅させたりする)という、単純な構造だ。

もちろん、すべての精霊に愛されているようなひとも存在する。この少女のように。
たとえ精霊に愛されていなくとも、金を身に着けることにより、
ある程度はエネルギー節約や威力の増幅を行える。

「ほんとうなのか嘘なのかは知りませんが、昔から言われているようです」
だから魔術師は皆、金の指輪等のアクセサリーを身に着けている。

べつに、得意とする属性の魔術以外は全く扱えないというわけではない。
僧侶は炎や雷の魔術を多少は扱えるし、
勇者も少女から光の魔術と癒しの魔術、そして“膜”を教えてもらった。

教わったのは基本的なことや、簡単な魔術のみだった。
ある一定のラインを超えるためには膨大な年月が必要だったり、
やはり才能が必要だったりするらしい。


戦士は肩を落とす。「才能があるって言われてこんなにも嬉しくないのは初めてだ」

「やっぱり剣がいちばんお似合いだね」僧侶が笑った。

「“膜”は簡単な術ですが、とても応用が利く術でもあります。
身体に纏わせるのはもちろん、剣に付与させたり、
膜の内側に怪物を閉じ込めたり、使い方は何通りもありますよ。
怪物を閉じ込めるにはそれなりの力が必要ですが、
あなたの剣があれば怪物の動きを封じる必要はないでしょう」

「おだてるのが上手いな、お嬢ちゃん」戦士は脹れた。

「世渡りが上手くいく術ですよ」と言って少女は破顔した。

勇者たちは二日に渡って少女から魔術を習った。
おかげで戦士も膜を使えるようになった。





村に滞在して三日目の夜。
勇者は寝付けずに、ひんやりとした石の上に座り込み、星空を眺めていた。
得体の知れない罪悪感に苛まれて、睡眠どころではない。

少女と仲良くなれたのは喜ぶべきことだと思う。
僧侶は彼女を受け入れ、癒した。
戦士の存在は、結果的に少女に大きな自信を与えたのだろう。
そして三人は魔術を学ぶことができた。

しかし目的は、あくまで魔王を討つこと。
早いところ、この村からは離れなければならない。
それは少女と別れるということでもある。
結果、少女をひとりに戻してしまうことになってしまう。

仕方のないことなんだと自らに言い聞かせるも、どこか気分が優れなかった。
やはり、あまり深く関わるのは止めておいたほうがよかったのかもしれない。
どちらにとっても、別れが惜しくなるだけだ。
でも、仕方ない。仕方のないことなんだ。

勇者はため息を吐いた。少女の境遇を想うと、そうせずにはいられない。


「こんなところにいたんですね」背後から可愛らしい声が聞こえた。
振り返ると、ぶかぶかのローブを羽織りながら
大きな欠伸をこぼす少女の姿が目に映った。

勇者は「眠れなくてね」と、弱々しく微笑んだ。

「なら、ちょうど良かった。わたしの話し相手になってくださいよ」
一昨日は僧侶、昨日は戦士と夜通し話をしたらしいので、今日は勇者ということらしい。

少女は勇者の隣に腰掛け、
「聞きましたよ。あなた、泣き虫らしいですね」と続けてから笑った。

「誰から聞いた?」

「ふたりとも言ってましたよ」

勇者はため息を吐いた。「泣き虫は、もう治ったんだよ」

「そうなんですか? でも、ふたりとも心配してましたよ。
“泣き虫の勇者が魔王を倒せるのかなあ”って」

「勇者、ねえ」どうやら、ふたりは耐え切れなくて喋ったらしい。
おどけた雰囲気を纏っていた戦士も、やんわりとしていた僧侶も、
やはり不安を抱えていたのだろう。内側に閉じ込められたものは、外に出たがる。
抱いた不安や恐怖は、どうしても誰かに吐き出したいものだ。

勇者は続ける。「そもそも、ほんとうに魔王なんてものがいるのかが、未だに疑問だよ」


「どうなんでしょうね」少女は視線を頭上へ向けた。
見上げた夜空には欠けた月といっしょに、ぽつぽつと星が瞬いている。
「御伽噺のように、空が暗黒に覆われたりはしてないですし」

「地上に怪物が犇いているってわけでもないし」

「巨大な怪物も見当たらないですね」

「東の王様は何も教えてくれなかったし。
僕の目を通して見れば、世界は平和そのものに見えるんだけどね」

「巨視的に見れば世界は平和かもしれませんが、
微視的に見れば、そんなことはないと思います。
仮令、世界は平和だとしても、決して幸せではないんですよ」
少女の表情は曇った。呪術の村の襲撃の件を思い返しているのだろう。
ほんとうに世界が平和だったなら、彼女の母も死なずに済んだのだろうか。

「魔王がいると仮定して、その魔王を倒せば、世界は幸せになるのかな」

「きっと、なりますよ」

「そうだったらいいんだけどなあ」
勇者には少女の言葉が、なぐさめのように聞こえた。
あらゆるものを映してきた純粋な大きな瞳は、どこか悲しげに見えた。


しばらくの間、沈黙がふたりの間にこだました。風が原っぱを撫で、空を切る。
音が“膜”の内側を満たし、耳をくすぐる。
こんな時間も、もうすぐ終わる。終わってしまうのだ。ここは通過点のひとつなのだから。

「だんまりですけど、寝ちゃ駄目ですよ。聞きたいことはまだまだあります」少女は言う。
「あなたは、あの娘のこと好きなんですか?」

「は?」勇者は素っ頓狂な声を上げた。あの娘というのは僧侶のことだろう。

「どうなんですか?」少女は勇者の顔を覗き込む。

「どうなんですかって……」勇者の頬は仄かに紅潮した。

「赤くなってますよ。あなた、すぐに赤くなるらしいですね。ふたりが言ってましたよ」

「あのふたりはなんでも喋るんだな……」

「で、どうなんですか?」

「……楽しそうだね」

「すごく楽しいです。で、どうなんですか?」少女は大きな瞳を輝かせた。

「どうなんだろう」と、勇者は誤魔化した。


「あのお兄さんと同じこと言ってますよ」

「あのお兄さんって、あの脳筋男?」
今の言葉を戦士が聞いたら、なんて言うだろうか。

「そうです」

どうやら、戦士にも同じ質問をしたらしい。「あいつは、なんて言ってた?」

「それは秘密です」少女は人差し指で唇を押さえた。
そして、「で、どうなんですか?」と続ける。どうやら、もう逃れられないらしい。

「まあ……、好きなのは好きだけどさ……」勇者は頭を掻いた。
「でも、べつに独り占めしたいとか、そういうんじゃないんだ」

「どういうことですか?」


「ふたりから聞いたかもしれないけど、僕ら三人はいつもいっしょでさ、
兄妹みたいなもんなんだ。今でもそうさ。
僕から見れば、ふたりは大事な友達でもあるし、優しい兄や姉みたいなもんだったりもする。
君も知ってるだろうけど、あのふたりといるのは、ほんとうに楽しいんだ。だから、好きだ」

「……なんか、羨ましいです」少女は、ぽつりと言った。

しまった、と思った。勇者は、それ以上何も言わなかった。

「わたしにも友達やきょうだいがいれば、こんなことにはならなかったのかなあ」

“こんなこと”とは、いったい何のことなんだろう。
母親が亡くなってしまったこと? ひとりぼっちで生きていくこと?
勇者は何も言わなかった。

ふたたび、ふたりの隙間に沈黙が生まれた。


しかし、それはすぐに少女の声で破られた。
「はあ。なんか暗くなっちゃいましたね。ごめんなさい」
そう言ってから「ふう」と一呼吸置き、
「で、ほんとうのところはどうなんですか?」と話を再開した。

「なにが?」

「ほんとうに独り占めしたくないんですか?」

少女の目からは眩い好奇心が溢れ出している。
勇者は怯んだ。顔が熱くなる。「言わなくちゃ駄目なの? それ」

「言わないとあなたを魔術で拘束するって言ったら、言ってくれますか?」
少女は妖艶な笑みを浮かべた。
月に青白く照らされたその顔を見た勇者は、思わずどきりとした。

「わかった。言う。言うよ」

「あなたが話のわかるひとで良かったです。で、どうなんですか?」

勇者は周囲に人影が見当たらないか確認した。
人影どころか、怪物や虫の気配すら無いように感じられる。
膜の中というのは、そういうものなのだろうか。


「どうなんですか?」と少女は急かす。

勇者は黙って頭を掻いた。
僕はどうしてこんな小さい子に脅されているんだっけ。
僕はどうしてここにいるんだっけ。

「三、二、一……」少女は背丈ほどの長さの杖を持ち上げながら言う。

「独り占め……したい。と思う」勇者の顔は真っ赤になった。

「やっぱり?」と少女は満足げに笑った。


「ふたりには言わないでくれよ」

「大丈夫です。わたしは口が堅いですからね」

「どうだか」勇者は笑う。そして間を空けてから、
「ところでさ、僕らがそろそろこの村を出るって言ったら、どうする?」と訊いた。

少女は「どうもしませんよ。仕方のないことなんですから」と地面を見ながら呟いた。

「ごめんよ」

「謝ることはないです。それぞれが元に戻るってだけの話ですからね」

「君は強いね」

「わたしは強いですよ。ただ、ものすごく寂しいですけどね」
少女は杖を抱きしめた。その姿は、とても小さなものに見えた。
「ほんとうに寂しいんですよ。だから魔王を倒したら、
みんなでわたしに会いに来てくださいね」

「うん。分かった。約束する」


「絶対ですよ。忘れちゃ駄目ですよ」少女はやわらかい目線を勇者に送った。

「大丈夫。たとえ僕が忘れたとしても、あのふたりは絶対に忘れないよ」

「そこはあなたが“絶対に忘れない”って言うところじゃないんですか?」

ふたりは顔を見合わせて笑った。

「いつ村を発つんですか?」と少女は言った。

「わからない。決められないよ」

「リーダーがそんなのでどうするんですか」少女は呆れ気味だ。

「僕はリーダーではないよ」

「でも、ふたりとも言ってましたよ。
村を出る日を決めるのはあなたに任せるって」

「あいつら、僕に押し付けやがったな」

「で、どうするんですか?」


勇者はすこし間を空けてから言う。
「明日にでも出たほうがいいんだろうけど、
なんか、後ろ髪を引かれるというか、名残惜しいというか」

「それは、わたしと離れたくないってことですか?」

「そういうことになるのかな」

少女は一呼吸置いて、「じゃあ、明日出発してください」と言った。

「明日か。突然だね」

「はい。それ以上ここにいられると、出発の日に崩れちゃいそうですから」

「そっか」と勇者は微笑む。

「だから、今日は早く寝ましょう」
少女は勇者の手を引いて、戦士と僧侶が眠る円錐に向かって歩きだした。
小さな手は柔らかくて、あたたかい。

「あ、そうだ」しかし、少女はすぐに立ち止まる。そして、勇者のほうに振り返り、
「泣き虫で赤い顔の勇者に、おまじないをかけてあげましょう」と言った。

「おまじない?」

「“あなたの旅が良い旅になりますように”っておまじないです」
少女は大きな杖で勇者の頭を軽く叩いて言った。そして、目を瞑った。
「あなたの旅が、なにかを失う旅にならず、なにかを手に入れる旅になりますように」





朝露のへばりついた芝を踏むと、間抜けな音がドーム状の”膜”の内側に響いた。
空は、ようやく白んできたところだ。円錐が薄い影を落としている。
大気には湿り気が混じっていて、大きくそれを吸い込むと、むせた。

勇者たち三人は人気のない村の入り口に立っていた。
あまりにも人の気配が感じられないので、村自体が眠っているように感じられる。
三人のほかには、人影はふたつしか見当たらない。

「お気をつけて。旅のひと」腰をほぼ直角に曲げた老婆――長がそう言うと、
「ありがとうございました」と僧侶が答えた。

「約束、忘れてないですよね」少女は言った。昨夜よりも、声のトーンが低い。

「さすがに一晩では忘れないって」勇者は笑った。


「約束ってなんだ?」戦士が口を挟む。

「魔王を倒したら、みんなでここに帰ってくるんだ」

「なんだ、そんなことか」

「そんなこととはなんですか。
まだまだ話したいことはあるんです。さっさと帰ってきてくださいよ」

「分かってるって。俺たち三人いれば、魔王なんて敵じゃないって。
さっさと倒して、さっさと帰ってくるよ。そしたら、また俺に魔術を教えてくれよ」

「はい。あなたには、みっちりと教えてあげますよ」

「手厳しいな」

「わたしにも教えてね」僧侶は笑った。

「うん、待ってますよ。だから、早く帰ってきてね」
少女は言い終えると俯いて、黙り込んだ。


「約束ってなんだ?」戦士が口を挟む。

「魔王を倒したら、みんなでここに帰ってくるんだ」

「なんだ、そんなことか」

「そんなこととはなんですか。
まだまだ話したいことはあるんです。さっさと帰ってきてくださいよ」

「分かってるって。俺たち三人いれば、魔王なんて敵じゃないって。
さっさと倒して、さっさと帰ってくるよ。そしたら、また俺に魔術を教えてくれよ」

「はい。あなたには、みっちりと教えてあげますよ」

「手厳しいな」

「わたしにも教えてね」僧侶は笑った。

「うん、待ってますよ。だから、早く帰ってきてね」
少女は言い終えると俯いて、黙り込んだ。


何も言えなかった。おそらく、旅は長いものになる。それに、生きて帰れるとは限らない。
志半ばで果ててしまうかもしれないし、魔王にあっさりやられてしまうかもしれない。
その場合、勇者たちの想いがどうであろうと、結果的に少女を裏切ることになってしまう。

ほんとうにこれでよかったのか?
安易に約束したのを、勇者はすこしだけ後悔した。

戦士と僧侶は、どう感じているんだろう。ふと思い、ふたりの表情を覗いた。
どれも同じような顔をしている。それは決して明るいものではなかった。
おそらく、僕自身もこんな顔をしているんだろうなと、勇者は内心で苦笑いをこぼした。

そのまま何も言わず踵を返し、“膜”の外側に出た。
目指すは南の港町だ。いったい、今度は何日かかるだろうか。

一度だけ振り返ると、少女が“膜”の内側で崩れているのが見えた。
少女は震えた声で「またね」と呟き、俯いたまま手を振る。

「またな」と勇者が返すと、続いて僧侶が、
「また会いに来るからね」と言った。
次いで戦士が、「約束は守るから、泣くなって」と微笑を見せる。

少女は大きく頷いて、小さく手を振る。
三人は、それを背にふたたび南下を再開した。





頭上には、数十日前に星見の丘で見たものと似たような星の海がある。
月は消えてしまいそうなほどに、ひょろ長い。
背後にはうんざりするほどの暗緑、眼前には大きな門。
門の奥には、眠った町がある。ひとの気配はほとんど感じられない。

西の大陸の港町に着いたのは、星見の丘を出てから数十日目の夜のことだ。
うんざりするほどの数の怪物たちを蹴散らし、ようやく辿り着いた。
おかげで、ユーシャと魔法使いの気力は限界が近かった。

「やっと着いた」魔法使いは笑みを堪えながら、ため息をこぼした。

「嬉しそうだな」ユーシャは笑いながら言った。


「当たり前じゃないの。ベッドにお風呂。嬉しいに決まってるじゃない」

「ベッドは確かに嬉しいけど、風呂。
風呂ねえ……。風呂の何がそんなにいいんだか」

「あんた、お風呂嫌いなの?」

「あんまり好きじゃないかな。
俺にはそういう豪勢な文化とか風習は合わない」

「きたない」魔法使いは鼻をつまんで、ユーシャを扇いだ。

「俺のマント羽織りながら言うことじゃないよな、それ」

「それとこれとは話がべつなの。ほら、さっさと町の宿屋に行く」

魔法使いは軽やかな足取りで門をくぐり、眠っている町に足を踏み入れた。
羽織っている汚い紺のマントがふわりと浮いた。ユーシャも後に続く。


門をくぐった先は広場だった。目の前に大きな松明が一本立っており、
天辺でぽつりと灯る炎がやけに眩しく見えた。
その松明を中心点に一定の距離をとって、建物が円形に並んでいる。

町の建物は全体的に木造のものが多く、どれも角ばっていた。
ところどころに石造りの建物があるが、片手で数えられるほどしかない。

広場の左手には、住宅らしき建物が密集している。
右手には小さな石垣と階段があり、向こう側に港と海が望める。
ここからでも大きな船が二隻停泊しているのが窺えた。
船の隣には灯台があり、天辺からは眩い光が海に放たれている。

「あの光は魔術か?」ユーシャは訊いた。

「そうでしょうね。松明の炎であんなに強い光は出せないでしょうし」

「ふうん。やっぱり魔術って便利だよなあ」

「教えてあげようか?」

「俺にも使えるのか?」


「簡単な魔術なら誰でも扱えるわよ。使えないひとのほうが珍しいくらい」

「へえ。じゃあ、傷を治す魔術を教えてくれよ」

「あんたには怪物を蹴散らす魔術のほうが似合ってると思うけど、どうして癒しの魔術?」

「お前に傷の手当てをされるのが嫌だからだよ」

「なんでよ」魔法使いは凄んだ目でユーシャを睨んだ。

「なんか申しわけないというか、なんというか」ユーシャは頭を掻く。

「何、今更そんなこと気にしてたの?」魔法使いは呆れを隠さずに言った。

「悪いかよ」ユーシャは唇を尖らせた。

「ふうん。じゃあ、あんたには絶対に癒しの魔術だけは教えてやらない」

「お前、性格悪いな」
ユーシャが言うと、「何とでも言え」と魔法使いは笑った。


潮の香りが混じる夜の町を、ふたりは駄弁りながら歩く(迷惑極まりない)。
波の音とふたつの足音が、石畳に染みる。
慣れない匂いのせいなのか、いよいよこの大陸ともお別れだという
事実がそうさせているのか、ユーシャの胸は早鐘を打っている。

そして、どうやら魔法使いの疲労は限界のラインを超えたらしい。
ゆっくりと回りながら、ふらふらと歩くという奇行を始めた。
表情は笑顔なのが、なおさら気味の悪さを引き立たせている。
ユーシャはすこし心配になった。こいつ、大丈夫なのか?

宿屋は程無く見つかった。広場を円形に囲む建物のひとつが、それだった。
焦げ茶色に塗られた木製のドアの隙間から、微かな光が漏れている。

軽く戸を叩いて中に入った。正面のカウンターの向こう、小さな蝋燭に炎が灯っており、
眠そうな顔をした宿の主人が椅子に座っていた。
ふっくらとした体躯によく似合う脂ぎった肌が、てかてかと照らし出されている。
主人はふたりを見つけると、寝ぼけ眼を擦りながら
怪しい呂律で「いらっしゃい」と言った。こいつ、大丈夫なのか?


「部屋を借りたい」という旨を伝え、決して高額とは言えない代金を渡すと、
主人はのろのろと階段を上り、二階の奥の部屋に案内してくれた。
あまりに眠そうなので、なんだか、すこし悪いことをしてしまったような気分になる。

「ごゆっくりどうぞ」主人は大きな欠伸を残し、ゆっくりとドアを閉める。
そういうところに気を遣う辺りは、さすがだなと感心させられた。

ざっと見渡してみると、部屋は小さなものだった。
せっかく泊まるのなら大きな方がいいとは思うが、贅沢は言ってられない。
ドアをくぐると細い通路があり、奥にはベッドがふたつ並んでいた。
細い通路の脇に、風呂と思しき小さな部屋がある。
しかし、そこにはわき目も振らず、魔法使いは奥の部屋に向かった。

「はあ。ベッドよ、ベッド」魔法使いはベッドに飛び込んだ。

「そこまで嬉しいか」ユーシャが言うと、
魔法使いは頬を染め、無邪気な笑みを見せた。思わずどきりとさせられる。
ユーシャはそんな自分を誤魔化すように、「風呂には入らないのかよ」と訊いた。


「お風呂は、入る。でも、眠い」

「じゃあどうするんだよ」

「入る。だからわたしをお風呂まで連れてってよ……。ねえ……」
魔法使いの目はほとんど閉じかけていた。

「お前って、疲れると別人みたいになるよな」

「そうかなあ……」

「やたらと甘ったるい喋り方になるというか、子どもみたいになるというか」

「甘えたい年頃なのよ……」

いや、お前もう一七だろうに、と言いかけて止めた。
魔法使いは寝息を立て始めている。
布団と間違えて薄汚れたマントに包まるほどには疲れていたようだ。

ユーシャは魔法使いの眠る脇に腰掛けた。
その華奢な身体と、幸せそうな顔を見ながら、考える。


こいつを連れてきて、ほんとうに良かったのだろうか。
確かに、魔術は頼りになる。
怪物を蹴散らすのにも、傷を癒すのにも、魔術というのはとても効果的だ。
いてもらわなければ困るというのが正直なところだった。

しかし、無意味な冒険になるかもしれないのに、
無関係の人間を巻き込んでいいものだろうか。
彼女に大きな怪我を負わせてしまった場合、俺はどうすればいいんだろう?

綺麗な身体に傷が付いているのを想像するだけで、気分は落ち込んでいった。
そうなってしまわないように踏ん張ればいいだけの話なのだが、
相手が魔王なら、そう上手くいくものだろうか。
この先には、見たことのない怪物が溢れているのだろうし。
やはりこの辺りで置いていくのが正解なのかもしれない。……

ユーシャはベッドに身を放り投げた。
意識はぼんやりとして、思考が働かない。

もう止めだ。いっしょに、行けるところまで行ってやろうじゃないか。
なあ? 俺たちは誰にも負けやしないもんな。

隣で眠る無防備な魔法使いの顔を見ていると、知らぬ間に微睡んでいた。





目覚めの第一声は、「なんであんたがわたしの隣で寝てるのよ」というものだった。
次いで律儀に杖で腹を突かれた。痛みのあまり、意識がしっかりと覚醒した。
元気になるとこれだ。もうちょっと魔法使いらしく、スマートに起こせないものだろうか。

「昨日の夜の可愛らしいお前はどうしたんだよ……」
ユーシャは腹を押さえて呻いた。

「な、なによ。それ」魔法使いは赤面した。

「おうおう……。とぼけちゃって」

魔法使いは真っ赤な顔で「殺す」と呟く。直後に腹を突かれた。
吐息と共に、「ぐえ」という間抜けな声が漏れる。

「な、何。あんた、わ、わたしに何かしたの?」

「何かしてるのはお前だろ……」ユーシャは腹を押さえ、呻いた。
「ほんの数時間前のことなのに、憶えてないのかよ……」

「だ、だから、その数時間前に何があったかって訊いてんのよ!」

「お前が疲れてて、子どもみたいだったってだけだろうが……」

「そ、そう? ふうん……」


何か形容しがたい空気が、無言のふたりの間を漂っている。
俺は何か悪いことをしただろうか? ユーシャは考えたが、心当たりはなかった。
いや、同じベッドで寝てしまったのはさすがに拙かったかもしれない。

しばらくベッドに並んで座り込んでいると
魔法使いは立ち上がって、入り口のドアの方に向かった。

「どこ行くんだ?」ユーシャが訊いた。

「お風呂」とわかりやすく素っ気ない返事が返ってくる。

「そうか。結局、昨日は入らなかったもんな」

ユーシャがそう言うと、魔法使いの動きが止まった。
こちらに背を向け、何かを考え込んでいるらしい。

「おい、どうした。大丈夫か?」

ユーシャが声をかけると、振り返ってこちらに歩み寄ってきた。
顔が赤かった。怒りがそうさせているのか、恥ずかしくてそうなっているのかの
区別はつかない。ただ、嫌な予感がした。


「な、なんですか」ユーシャは恐る恐る言った。

「……思い出した」
魔法使いは呟き、その小さな拳でユーシャの腹を突いた。
どうやら、昨晩の記憶が戻ったらしい。なのに、殴られた。

「そ、そりゃ良かった……」呻かずにはいられない。
どうして殴られたのかが全く理解できない。
何が楽しくて朝っぱらから三発も腹を突かれなければならないのか。悲しくなる。

「……お風呂入ってくるけど、覗かないでね」
魔法使いは背を向けて言った。足元がふらふらとしている。

「お、おう……。俺はちょっとそこらを散歩してくる……」

「そう……。いってらっしゃい」
言い残して、魔法使いは浴室に消えた。


ユーシャは腹を押さえながら、足を引き摺るようにして部屋から出た。
芳しい香りが鼻をくすぐる。一階からは、賑やかな声が聞こえる。
宿屋には、ひとの気配が溢れていた。

廊下を渡り、階段を下り、宿のドアを開けようとしたところで、
「昨夜はお楽しみでしたね」と主人に声をかけられた。

「誤解を招くようなことを言わないでくれ」

「すいません。同室に泊まった男女には言うことになってるんです」

「どんなマニュアルだよ。アホか。それに、俺とあいつはそういうんじゃない」

「そうなんですか。じゃあ、昨夜はお楽しみじゃなかったんですね」

少なくとも、それは客にかける言葉ではないだろうと
内心でぼやいたが、無視することにした。ため息がこぼれる。
村の外には、変わったやつがいっぱいいるもんだ。


ドアをくぐると、潮風がユーシャの短い黒髪を撫でた。
足元に敷き詰められた白い石が、陽光をはじいてきらきらと光っている。
思いっきり空気を吸い込むと、突かれた腹辺りに沁みるような痛みを感じた。

とりあえず海を見に行くことにした。
広場から出て、階段を下る。すると、市場のような場所に出た。

ふくよかな商人、たくましい水夫、海を見る老人。
さまざまなひとがそこを行き交っていた。
それぞれの声は混じりあい、ノイズのように港を覆う。
皆の表情はどれも明るい。朝の町は活気に溢れている。

そこから、並んだ大きな木箱の間を縫うように
しばらく歩くと、停泊した船の姿が間近になった。

息を深く吸う。潮の匂いを強く感じる。初めて聞いた、波の寄せる音と返す音。
海面に反射する光は、とても綺麗で眩しい。
遠くから海を眺めたことは腐るほどあったが、間近で見るのは初めてだった。

もちろん、船だってそうだ。
停泊している木造船は、今まで見てきたどんな建物よりも大きく見えた。
あれに乗って南の大陸に行くのかと思うと、気分は自然と高揚した。
あいつが見たら、なんて言うだろうな。


「旅のお方ですか?」背後から声が聞こえた。落ち着いた声だ。

振り返ると、大きな剣を背負った二〇代中頃と思しき男が、そこに立っていた。
傷ひとつない整った顔からは、温和な雰囲気が滲み出ている。
ぼろぼろのマントの下には鎧を着ず、何重かに布の服を纏っているらしい。

「そうだけど、あんたは誰なんだ」ユーシャは不躾に言った。

「失礼。私は所謂、傭兵とかいう類のものです。雇われですよ」

「ふうん」とユーシャは素っ気ない返事をした。
目の前の男の背負った剣に目を奪われていたので、そうすることしかできなかった。

あんな大きな剣は、見たことがない。
男の背丈はユーシャよりも頭ひとつ大きかったが、
刀身の長さはユーシャの背丈とほとんど変わらない。

幅もかなりのものだ。
ユーシャが腰に提げている鉄製の剣よりも、三倍ほど大きい。
ああいうのを、大剣と呼ぶのだろうか。
ならばこいつは、大剣使いといったところか。

「で、その雇われが俺になんの用なんだ?」


「なんの用って、仕事の話をしに来たに決まってるじゃないですか」
大剣使いは笑った。「私を雇いませんか?」

「なんで俺なんだよ。金はないぞ」

「私は、べつにお金がほしいわけではないんです。
そりゃあ、多少は欲しいですけどね。ちょっとでいいんですよ」

「じゃあ、何が目的なんだ?」ユーシャは訝しげな視線を送った。
なんなんだ、こいつは。怪しむなというほうが無理な話だ。

「あなたにも分かると思うんですが、一人旅って寂しいでしょう?」

「まあな」体験したことは無いが、おそらくそうなのだろうとは容易に想像できる。

「そういうことです」

「つまり、いっしょに旅をするやつを探していると、そういうことか?」

「そういうことです」


「べつに俺じゃなくてもいいんじゃないのか?」

「いえいえ」大剣使いは首を振る。
「キャラバンや海賊に混じるのは、あまり好きじゃないんですよ」

「どうして?」

「息苦しいんですよね、男ばっかりで。
でも、あなたには女性のお連れさんがいるでしょう?」

「なんで知ってるんだよ」

「あなたからは女性の匂いがしますからね」大剣使いは鼻をひくつかせた。

「気持ち悪いやつだな、あんた」ユーシャは引き攣った笑みをこぼした。

「心外ですね。で、どうですか? 雇ってくれますか?」

「今の会話の流れで雇ってもらえると思うか?」

大剣使いは笑顔で「はい」と言った。


ユーシャは思案する。
大きな戦力にはなるのだろうが、果たしてこいつは信用に値する人間なのか。
明らかに変人ではあるが、明らかな悪人というわけではないように見える。
だからといって、根っからの善人という風には見えない。

素性もほとんど知らぬ人間を、そう易々と受け入れるのは拙いのではないか。
こいつが裏切った場合、何を失うことになる?
今のユーシャにとって失って困るものといえば、魔法使いくらいしかいない。

こいつが裏切って、魔法使いを連れていく可能性は?
裏切ったと仮定した場合、ほぼ百パーセント連れていかれるだろう。もしくは、強姦か。
そんな気がした。こいつならやりかねない。何と言っても、変人だし。
でも、魔法使いなら大丈夫かもしれない。いやいや、それはどうだろう。

「お前は信用できる人間なのか?」ユーシャは訊いた。


「そんなこと本人に訊いても仕方ないでしょうに。
でも一応答えておくと、私は約束だけは守りますよ。
私みたいなものにとって信用は、とても重要なものですからね」

「そうか。……とりあえず、もうひとりにも訊いてみるとするよ」
ユーシャは振り返って、宿の方を見た。

「もうひとりというのは、お連れの女性?」

「そう。あの暴力女」ユーシャは腹をさすった。

「ほう。暴力女」

「そうなんだよ、魔法使いのくせに。今朝も殴られたんだ。三回もだぜ?」

大剣使いは吹き出した。「あなたが何かしたんじゃないんですか?」

「まあ、確かにあいつと同じベッドで眠っちまったのは拙かっただろうけどさ」

「ほほう、同じベッドでねえ……。お連れさんは美人なんですか?」

「まあ、不細工ではないな」
ユーシャの目を通して見ると、どちらかというとあれは美人に分類される。

「あれですか?」大剣使いは市場の方を指差して言った。
向けられた指の先を見てみると、
真っ直ぐこちらに向かってくる女性の姿があった。


「ああ、あれだ」魔法使いだ。何か穏やかではない雰囲気を纏っている。
歩く速度が早くて、人ごみの中でもすこし浮いている。

「美人じゃないですか。でも、なんか苛々してませんか? 彼女」

「してるな」背筋に冷たいものが走った。

魔法使いはスピードを緩めずに、ひたすら歩く。
そしてユーシャの前で立ち止まり、例の如く腹に拳を埋めた。
吐息と共に、「ふぐう」という間抜けな声が漏れる。

「なんで……」ユーシャは呻いた。

「なんなのよ、あの宿の主人は! 信じられない!」
魔法使いは真っ赤な顔でがなる。ご立腹らしい。

あの糞野郎。こいつにも言いやがったな。「俺は関係ないだろうが……」

「なるほど。暴力女だ」大剣使いは吹き出した。



「で、あんたは誰なのよ」
しばらくすると、魔法使いは大剣使いに向かって不躾に言った。
苛々は治まっていないらしい。

「ふたり揃ってこの強気な感じ、いいですね、嫌いじゃないですよ。
ええと、私は所謂、傭兵とか雇われとか言われる類のものです」

「ふうん。で、こいつになんの用なのよ」

「雇ってもらおうかと思いまして」

「お金はないわよ」

「さっき聞きました」

「じゃあ、なんでこんなやつに拘るの?」

「こんなやつとは何だ」ユーシャは思わず口を挟んだ。

「さっきも言いましたが、キャラバンや海賊に混じるのは嫌いなんです。男ばっかりですからね」
大剣使いが言った。

「何。つまり、わたしがいるからこいつに拘ってるわけ?」

「そういうことです。私の目当てはあなたというわけです」

「ふうん」と魔法使いは興味なさそうに言った。


「気をつけろよ。こいつ、女の匂いを嗅ぎ分けられる変態だぞ」ユーシャが口を挟む。

「やだ、気持ち悪い」魔法使いはユーシャの後ろに隠れた。

「心外ですね。私は常人よりもすこし鼻が利くというだけですよ。
まあ、特に女性の匂いに敏感ではありますがね。
で、どうですか? 雇ってくれますか?」

「この話の流れで雇ってもらえると思う?」と魔法使いは言う。

大剣使いは笑顔で、「もちろん」と答えた。


「どうする?」ユーシャは魔法使いに視線を送る。

魔法使いはユーシャだけに聞こえるような声量で、「でも、鼻が利くって便利そうね」と言った。
しかし、大剣使いはそれを聞き逃さなかったらしい、「でしょう?」と微笑んだ。
「それに、頼りになりそうな剣背負ってるじゃないの」「でしょう?」

「でも、雇うって言ったらお金取るんでしょう?」魔法使いは続ける。

「べつに、お金はちょっとでいいんです」

「あんたの言う“ちょっと”と、わたしたちの思ってる“ちょっと”が一致すればいいんだけどね」

「ほんのちょっとでいいんです。
なんなら、金貨一枚でも構いませんよ。私を雇いませんか?」

「ふうん……。それなら、わたしはべつにいいけど、あんたは?」

「お前がいいって言うんなら、俺はべつにいいけど」

「決まりですね」大剣使いの顔は緩んだ。


「でも、ひとつだけ頼みがある」
ユーシャは魔法使いを指差して、「こいつには手を出すなよ」と続けた。

大剣使いは頷き、「私にはくだらない拘りがあるんです」と笑顔で続ける。
「私は雇い主と、必ずひとつ約束をするんです。
拘りというか、信用のためでもあるんですがね。
まあ、どちらかというと拘りという意味合いの方が強いです。もはや習慣ですよ」

「じゃあ、こいつには手を出すな。これが約束だ」と、ユーシャ。

「わかってますよ」
大剣使いは笑顔のままで、魔法使いに向かって
「あなたともひとつ約束をします。どうしますか?」と続ける。

「……わたしとこいつを、死んでも守れ」魔法使いはぼそぼそと答えた。

「任せてください」大剣使いは破顔した。
「私は、約束だけは絶対に守る男ですからね」



同日の昼過ぎ。三人は質素な昼食をとってから、南の大陸行きの船に乗り込んだ。
船内には、他にも何人ものひとの姿が窺えたが、女性の姿はほとんど無かった。

重々しい錨が鈍い音を響かせながら、水面から姿を見せる。
大きな帆をぴんと張らせる強い潮風が吹く。
甲板では水夫たちが声を張り上げている。まもなく船は出港した。

しかし出港から数時間経っても、南の大陸は見えない。
到着には、ほとんどまるごと一日を要するらしい。
それは長いのか短いのか、魔法使いには区別がつかなかった。

ユーシャはまだ見ぬ大陸に想いを馳せながら海を眺めていたが、
あまりにも風景が代わり映えしないので、うんざりし始めているらしい。
そしてどうやら、彼は船に弱いらしいことが判明した。
やがて真っ青な顔をしながら、おぼつかない足取りで船内の個室に帰っていった。
魔法使いと大剣使いはそれを無視し、甲板に居座った。


「彼、船に弱いんですね」と大剣使いが言う。

「らしいわね」と魔法使いは笑った。
あいつにそんな弱点があったとは。後でからかってやろう。

「“らしい”って、知らなかったんですか?」

「知らないわよ。わたしたち、船に乗るのは初めてなんだから」
魔法使いも自分の気分が多少浮ついているのを自覚していた。
おそらく、ユーシャもそうなんだろう。今は違うのかもしれないが。

「へえ。じゃあ、今までずっと西の大陸に?」

「そう。北のほうにある小さな村にずっと住んでたの。
田舎者なのよ、わたしたち」

「失礼ですが、おいくつですか?」大剣使いは微笑んだ。
愛想笑いというのだろうか、胡散臭い笑みだった。

「ほんと失礼ね、あんた。一七よ」


「なんだかんだ言って答えてくれるんですね」
大剣使いは魔法使いの全身を眺めながら続ける。
「一七、一七ですか。若いですねえ。彼も同い年ですか?」

「そう」

「ふたりはどういうご関係で?」

「同じ村の幼馴染ってところかな。まあ、腐れ縁よ」

「ほう。どうして旅をしているんです?」

「世の中いろいろあるのよ」
さすがに、魔王を討つためだとは言えなかった。

「ほほう。駆け落ちとかですか?」

「殺す」魔法使いは赤面しながら、大剣使いの腹に拳を埋めた。


大剣使いは呻いた。
「違うんですか……。てっきり、その左手の金の指輪は婚約指……」

「死ね」大剣使いの言葉は遮られた。
先程と同じ部位に、ふたたび拳が刺さる。
「金は魔術の威力を増幅させるの。だから身に着けてるだけよ」

「随分と暴力的な言葉を吐く魔法使いですね……。
それに、二度も殴らなくても……」大剣使いは呻く。

「魔法使いが暴力的で何が悪いのよ」

「魔法使いってもっと知的なイメージがありましたけど、違うんですか?
いや、べつにあなたが知的に見えないと言っているわけではないんですよ?」

「そんなの、ひとによるでしょ。
攻撃のための魔術なんて、わたしに言わせればそれは立派な暴力よ。
だから、べつに暴力的な魔法使いがいたって不思議なことはないんじゃないの?」

「なに開き直ってるんですか。
あなた、女の子じゃないですか。もうちょっとお淑やかに……」

「ねえ、あれは何?」魔法使いは大剣使いの言葉を無視して言った。
視線の向こうには、延々と広がる海原にぽつりと建つ小さな塔が見える。


「自由なひとですね……」大剣使いは息を吐き、視線を滑らせた。
「ええと、あれは塔ですね」

「アホ。そんなの見れば分かるわよ。田舎者だからって馬鹿にしすぎでしょ。
あの塔は何のためにあそこにあるのかって訊いてんのよ」

「知りませんよ。でも、南の大陸にはあの塔に纏わる御伽噺がありますよ」

「ふうん。どんな?」

「まあ、まずは説明をさせてくださいよ」大剣使いは咳払いをして続ける。

「ええとですね、あの塔は、五本のうちの一本なんです。
世界には、あれと同じ塔があと四本存在します。
今見えているのは、世界のど真ん中の塔で、あとの四本は
西の大陸の北端と南端、東の大陸の北端と南端それぞれに一本ずつです。

それで、御伽噺というのは、その五本の塔で空が落ちてこないように支えているだとか、
塔の天辺には人間を監視する神様がいるとか、そんなくだらない話ですよ。
空を支える柱だとか、監視のための目だとか、ほんとうに子どもに聞かせる御伽噺です」

「ふうん」確かに、故郷の村の遥か北にも、薄っすらと塔が窺えた。
おそらく、あれは西の大陸の北端の塔だったのだろう。
しかし、御伽噺だと言われても、自分たちの境遇を思うと危うく信じてしまいそうになる。
なんと言っても、彼女は御伽噺の勇者様に同行しているのだから。


「ご存知ありませんか?」

「なによ。悪い?」魔法使いは脹れた。

「いじけちゃって、可愛らしい。大丈夫ですよ。
私が手取り足取り、いろいろと教えてあげましょう」

大剣使いの腹部に蹴りが刺さった。

つづく





「んん、久しぶりの陸地だねえ」僧侶は長い息を吐きながら、伸びをした。
長い髪が潮風に靡く。露出した脚は健康的な肌色をしている。
ときどき漏れる何とも婀娜っぽい声が、心臓を叩くようだ。

「なに見惚れてんだよ」戦士は勇者の肩を叩いて笑った。

「うるさいな」勇者は頬を薄く染めながら、威嚇するように歯を見せて言った。

勇者たちが南の大陸の玄関口のひとつである東側の港町に降り立ったのは、
魔術の村を出発してから数十日後のことだった。
村を南下して港に辿り着くまで、約二週間を要した。
そこから船に三日ほど揺られ、ようやく今に至る。
不慣れな船上での三日間は、三人にとってはそれなりに苦痛を伴うものだった。

しかし、開放されて安堵したのも束の間で、
今度は未だに足元が揺れてるような、奇妙な感覚に襲われる。
初めて乗ったが、船というのは恐ろしいものだ。
勇者はしみじみ思った。できることなら、もうお世話にはなりたくないところだ。


「さあ、ここからどうしようか」戦士が言った。

「んんー……。今日は船旅で疲れてるし、とりあえず宿でゆっくりしようよ」
僧侶は大きな欠伸を漏らした。

「そうしようよ。もう陽も落ちかけてる」勇者は空を見上げながら言った。
紅い空には、夜の気配が漂い始めている。

「そうするか。なら、さっさと宿屋を探すとしよう」

戦士の後に続き、勇者と僧侶も歩き出した。

脚をのろのろと動かしながら漫然と辺りを見渡してみると、
どうやらこの港町はかなり大きな町らしいことが分かる。
勇者たちが乗ってきた船の他にも巨大な船が三隻、停泊している。
それらから大量の木箱が、水夫たちにより下ろされてるのが見えた。

足元は、どこもかしこも真っ白な石が張られている。
真っ白な階段の上に見える建物も、白塗りのものが多い。
しかし今は夕陽に染められて、ほとんどが橙色だ。
おそらく朝と昼には、町は真っ白になるのだろう。
そう思うと、迫力のある大きな船のむき出しの木の色が、
酷く不恰好なものに見えてしまう。


真っ白な階段を上ると、広場のような場所に出た。

小高い建物に囲まれた広場は、綺麗な六角形をしていた。
中心から半径数メートルにかけて円形に芝が茂っており、
そこに不気味な石像が据えられている。高さは三メートルほどだ。

それぞれの角からは細い通路が伸びていて、どことなく蜘蛛の巣を連想させる。
辺の部分には、武具屋や道具屋が並んでいる。

「なんだろう、あれ」僧侶の目線の先には、不気味な石像が見える。

「竜……ではないよな。なんだありゃ」戦士は眉を顰めた。

確かに、それは御伽噺に登場するような竜の頭を持っていた。
但し、目は陥没していて真っ黒だ。

そして胴体は、明らかに竜のそれではなかった。
どう見ても、連なった山のようにしか見えない。
そこには手足や翼、尻尾は見当たらない。表面は全体的にごつごつとしている。
鱗、もしくは草木等の質感を表現したかったのだろうか。

山の天辺に近い場所から、竜の頭は飛び出している。
その姿は酷くアンバランスな印象を与える。紅く照らされた歪な容貌の石像は、
生物的な気配を微塵も漂わせず、ただ広場の真ん中で異質な存在感を放っていた。
どう見ても場違いに見えるが、広場を行き交う人々は気にも留めない。


「あれかな。“頭は彫ったけど、身体も彫るのはめんどくさいから
このままでいいや”って思っちゃったのかな」勇者は適当なことを言った。
「つまり、この石像は完成形ではない。たぶん、そうだ」

「なんだそりゃ」

「石工は儲からないからね。もしかしたら、途中で逃げちゃったのかも」
僧侶も適当なことを言った。

「儲からないのか」

「いや、知らない。適当に言っただけ」

「なんだそりゃ」


三人は石像に近付かないように辺に沿って歩き、細い通路のひとつに入った。
周囲の建物が高いおかげで、通路は薄暗い。
長く細く暗い通路を抜けると、ふたたび六角形の広場のような場所に出た。
先程の場所と比べると六角形の面積はいくらか小さいが、
それぞれの角からは、やはり細い通路がどこかに伸びている。

戦士があからさまに不満の色を浮かべながら、
「また六角形かよ。ややこしい町だな」と言うと、
僧侶は「ややこしいけど、面白いね」と笑った。

結局、どの通路を通っても先にあるのは六角形だった。
うんざりしながらも彷徨っていると、仕舞いには
最初の不気味な石像がある広場に戻ってきてしまった。


「結局、宿屋はどこなんだ」戦士は肩を落とした。

「誰かに訊いてみる?」僧侶はくたびれた表情を浮かべている。

「それがいちばん手っ取り早いかもね……」

勇者が言うと、僧侶が適当にそこらの通行人を捕まえに行った。
僧侶に捕まったのは、買い物帰りと思しき、(推定)四十代の女性だった。
何を話しているのかは知らないが、やたらと話が長い。

しばらく遠くからそれを眺めていると、四十女は真正面を指した。
指の先の方向を見てみると、大きく宿屋と書かれている建物があった。

「あれか」

「あれだな」

「あれだって」戻ってきた僧侶が言った。


「おう。知ってる。まさか、最初の広場にあったとは」

「僕らは、ものすごく時間を無駄にしてたみたいだね」
どうして気付かなかったんだろう。勇者は自分自身に呆れた。

「この調子だと、目の前に魔王がいても通り過ぎそうだな」

「あれだよ。わたし達、船旅で疲れてるからね。
仕方ないよ。今日はゆっくり休もう」僧侶は目を瞑って頷いた。





宿の主に案内された部屋は、小さなものだった。
小さいとは言ってもベッドは四つあるし、テーブルと椅子を置く余裕もある。
ただ、それらが部屋のスペースのほとんどを占めているので、狭く感じられる。
窓はひとつしかなく、どこか息苦しさを感じた。
もうひとつあれば多少は開放感が出たのかもしれないが、贅沢は言っていられない。

「さあ、とりあえず、ここからどこに向かうか決めておこうぜ」
戦士は腰に提げた剣をベッドに放り投げ、自身もその隣に腰掛けた。

「とは言っても、僕らはこの大陸のことを何も知らないわけだし、どうするんだ?」
勇者も腰の剣をベッドに放り投げ、
テーブルを囲うように並べられた椅子のひとつに腰を下ろした。

「仮にも世界を救う旅をしている筈なのに、行き当たりばったりすぎるよね、わたし達」
僧侶も椅子に座った。

「行き当たりばったりなのは認めるけど、
魔王を討つのと世界を救うのはちょっと違うんじゃないか?」

「でも、御伽噺だと魔王の消滅は結果的に世界の平和に繋がってるよ?
みんな仲良くなって魔王に立ち向かってたし」


「あれは仲良くなったというか、共通の敵を見つけたことにより
皆が“とりあえず”団結したってだけなんじゃないか?
世界がひとつになったとか言っても、そんなの魔王が死ぬまでしか続かない。
魔王が死んだら元通りだ」

「夢が無いねえ」僧侶はため息を吐いた。

「俺は現実主義なんだよ。それに、今は魔王が存在するなんて誰も信じちゃいない。
こいつが勇者だって言っても、誰も信じないさ。団結も糞もないぜ。
それどころか、大きな国が小さな村を滅ぼしてるんだ。平和なんて、ずっと遠いところにある」

「まあ、ねえ……」僧侶の表情は曇った。
戦士の言う“大きな国”というのは、おそらく南の第二王国のことなのだろう。
そして“小さな村”は、呪術の村のことだろう。

「で、結局どうするのさ」勇者はぽつりと言った。
口論が終わるのを待っていたが、なんだか重々しい空気が漂っている。
黙っていた方が良かっただろうか。なかなか返事をしてくれないので、不安になる。

「……どうしようか?」

「……まずは地図が欲しいところだよね。このままじゃ、なんにも分かんないし」
戦士と僧侶は弱々しく微笑んだ。


「地図なら、そこに貼ってあるみたいだよ」
向かって右手に視線を向けると、黒ずんだ壁に貼られた小さな地図が見える。
僧侶は立ち上がり、それを無理矢理引き剥がしてテーブルの上に広げた。
そして、ふたたび椅子に腰を下ろした。戦士もこちらに来た。

地図は南の大陸のものだった。大陸は東西に細長い形をしていて、
中心にはそれを真っ二つに切断するように南北に川が流れている。
西の端のほうと東の端のほうに港町があるようで、今勇者たちがいるのは東側だ。
そして、ここからもっとも近い町は、西にある第二王国らしい。

「……ここからだと、第二王国がいちばん近いみたいだな」
しばらくの沈黙の後、戦士が言った。

「第二王国、ねえ」

『母は南の第二王国の兵士に殺害されました』
『仮令、世界は平和だとしても、決して幸せではないんですよ』
勇者の頭の内側では、数十日前に会った少女の声が響いていた。
そのおかげで、気分はあまり優れなかった。
他のふたりも、似たような表情を浮かべている。


「いろいろと思うことはあるだろうが、行っておいて損はないだろう」

「だね。魔王についての手掛かりも欲しいところだし」

「確かに手掛かりは欲しいけど、どうやって集める?」と勇者は言った。

「ううん、“魔王の居場所を知ってますか”って
そこらのひとに訊くわけにはいかないよなあ」戦士は言った。

「第二王国の王様に訊いてみれば? 何か知ってるかも」と僧侶。

「それはちょっと……。僕らは、あくまで暗躍すべきだよ」

「勇者御一行なのにな」

「御伽噺とは違うんだよ」
御伽噺の勇者は、立ち寄る町で皆から歓迎されるような旅をしていた。
魔王を打ち倒すために――どこに向かっていたんだったか?
「そういえば、御伽噺の勇者って、どこに向かって旅をしてたんだ?」


「そりゃあ、魔王のいるところだろ」

「いや、だからそれはどこなんだって話じゃないか。
もしかしたら、御伽噺に何か手掛かりがあるかも」

「御伽噺をあてにするのか?」

「仕方ないだろ。他に有力な情報は全く無いんだし。
それに、言ってしまえば僕――勇者だって
御伽噺の存在なんだ。すこしはあてになると思う。
もしかしたら、この大陸の御伽噺には、魔王の居場所が語られてるかもしれない。
それが嘘か本当かは分からないけどね。でも、情報が無いよりはマシじゃないかな」

「なるほど。面白いね」

「まあ、無いよりはマシか……?」

「さすがリーダー。いいこと言うね」僧侶は勇者の頭を撫でた。
勇者は緩む頬をなんとか隠そうとしたが、結局綻んでしまった。





三日後、勇者たち三人は港町を出立し、西へ向かって歩き始めた。
道は石で舗装されており、ときどき馬車とすれ違う。
地図を見る限り、どうやらこの道は、第二王国と港町を一直線で結んでいるようだ。

「勝手に地図持って来ちゃったけど、大丈夫なのかなあ」
勇者が言った。

「大丈夫。後で謝っておけばいいって」僧侶が笑う。
“後”って、いったいいつになるのだろう。

「そうそう。べつにいいじゃないか、地図くらい。
そんなことより、周りをよく見ておけよ」

「分かってるって」

勇者たちは何かを探すように、視線を忙しなく動かす。
「この辺りは暑いな」「お風呂に入りたいね」口も動かす。


三人は、怪物の存在を危惧していた。
この大陸の怪物は、もしかすると今までに見たことのないようなものかもしれない。
その場合、勝てるとは限らないのだ。戦いはできれば避けたいところだった。
故郷の村にいたときは三人でよく怪物を退治したが、
この大陸で今まで培ったものは通用するのだろうか。

駄目だと思った場合は、すぐに逃げればいい。
勇者は思う。怪物が現れた場合、何がなんでも僧侶だけは守らなければならない。
おそらく、戦士もそう思っているはずだ。

「あ。あれ」数十分歩いたところで、僧侶は前方を指差した。

遠くで、怪物と思しきものに襲われている馬車が見える。
結局、怪物との遭遇は予測していたものとは違う形で訪れた。
戦いはできるだけ避けたいといっても、
そういうわけにはいかない場合もある。あれは避けられない。

「行くぞ」戦士は強く地面を蹴って駆け出した。

勇者は「わかってる」と答え、
急いで僧侶に「君はどこかに隠れてて」と伝える。
返事は待たず、そのまま戦士の後に続いた。


怪物の全長は三メートル程だった。
カマキリのような上半身を持ち、蛇のような下半身を持っている。
細い脚が二本だけ生えていて、それらと下半身の三点で身体を支えているらしい。
見たことのない怪物だ。

数は三体で、色は灰色。表面は乾いていて、亀裂が走っている。
ひと目見ると、まるで岩のような身体をしているが、頑丈であるようには見えない。
むしろ脆いのではないかという印象を受けた。

「大丈夫ですか?」勇者は真っ先に馬車の脇に倒れていたひとのもとへ向かった。
おそらく三十代の男性。頭を軽く切ったらしく、血が滴っている。
馬もその場に倒れていた。大した外傷は見当たらない。頭でも打ったのだろうか。

カマキリたちは倒れこむふたり(ひとりと一匹)をよそに、
馬車に積まれた荷物を漁っている。目的は荷物のようだ。

「私は大丈夫だが、荷物が……」男は呟くように言った。

こんな目に遭っても荷物の心配ができるとは。勇者には俄かに信じ難かった。


男をその場にそっと寝かせ、振り返る。
そのとき、空気を切り裂くような、甲高い悲鳴が聞こえた。
見てみると、一体のカマキリの(おそらく)目の部分に、剣が突き刺さっている。
残り二体のカマキリは何が起こっているのかが
理解できないのか、首を傾げながらこちらを見ている。

今がチャンスなのかもしれない。勇者は地面を蹴り、腰の剣を引き抜いた。

「脚を狙ってくれ!」戦士が言った。
言われたとおりに、目に剣が突き刺さったカマキリの足を裂いた。
ぶちぶちと、何かを引きちぎるような感覚が手のひらに伝わる。
脆いどころか、見た目からは想像もつかないほど柔らかい。

カマキリはバランスを崩し、頭から崩れたが、鎌の部分でなんとか身体を支える。
そこで戦士は飛び上がり、その目の剣を力任せに蹴った。
刃は目を抉り、黄色っぽい体液を辺りに撒き散らした。

ふたたび甲高い悲鳴が耳を劈く。
あまりに不快な音だったので、思わず表情が歪む。

その辺りで、ようやく他二体のカマキリたちが異変に気付いたようだ。
二体は鎌を振り上げ、威嚇するように鳴いた。


「おい。あいつら、こっちに気付いたぞ。やばいんじゃないか?」
戦士はのた打ち回るカマキリを放って言う。剣は目に刺さったままだ。

「わかってる。やばいと思うんなら、早くそいつをなんとかしてくれよ!」
勇者は一刻も早くここから逃げ出したかった。

二体のカマキリは、こちらに向かってくる。このままじゃ拙い。

勇者は口の中で、もごもごと呪文を呟いた。
呟き終わると同時に地面から氷の槍が現れ、二体のカマキリの足を貫く。
魔術の村で、あの少女に教わった魔術だ。

しばらくはこれで足止めができるだろう。
と思った矢先、カマキリたちは鎌で氷の槍を殴り始めた。大した時間は稼げそうにない。

これは、氷の槍で一体を確実にしとめておいたほうが良かったか?
しかし、エネルギーはすでに空っぽに近い。
たったこれだけで、ここまでエネルギーを消費するとは思わなかった。
判断を誤ってしまったか? いや、後悔しても仕方ない。
氷の槍が破壊される前に、カマキリの頭を落としてやればいい。勇者は駆け出した。


カマキリは勇者の姿を捉えると氷の槍を無視し、何かを追い払うように鎌を振り回した。
これでは近寄ることができない。しかし、氷の槍の崩壊は近い。
今しかないのに。勇者は迷ったが、すぐにカマキリの懐に潜り込もうとした。
鎌の切れ味は相当のものだろう。当たれば即死と考えてもいい。

カマキリは突っ込んでくる勇者を見ると、鎌を振り下ろす。
大した速さではなかったので、跳んで避けた。
想定外の反応だったが、それは結果的にこちらに有利な状況を作り出した。
懐に潜り込み、先程と同じように足を裂く。
カマキリは頭を垂れるが、鎌で身体を支える。

勇者はそのカマキリの頭の付け根目掛けて、力任せに剣を振り下ろした。
頭は音もなく地面に落ち、その場をごろごろと転がる。
まもなく切断面から体液が噴出し、勇者の身体を黄色く染める。
カマキリは身体を小刻みに震わせ、やがて動かなくなった。絶命したようだ。

「おい! 後ろ!」戦士の声が聞こえた。


後ろと言われたが、思わず声のほうを向いてしまった。
全身黄色の戦士の背後には、頭がぐちゃぐちゃになったカマキリの死骸が転がっていた。

そして、言われたとおりに背後を見る。そこには鎌を振り上げたカマキリがいた。
陽光を反射する鋭い鎌は、死を予感させた。

一体をしとめたことで油断していた。もう一体が残っていた。
氷の槍はすでに粉砕されている。これは、拙い。

カマキリはそれを振り下ろす。
勇者は咄嗟に剣で受け止めようとしたが、不可能なのは明らかだった。
鎌の大きさは、剣の二倍も三倍もある。お互いの筋力も違う。
それでも、今の勇者にできるのは、目を閉じて剣を構えることだけだった。


迫る死の瞬間。それは刹那のようにも永劫のようにも感じられる。
しかし、どれだけ待ってもそれは訪れなかった。
ゆっくりと目を開くと、カマキリは、まだそこにいた。
但し、あるはずの場所に鎌はなかった。

鎌部分は付け根から切断されている。両方ともが足元に落ちている。
代わりに、そこには氷の槍があった。どうやら、氷の槍が付け根を裂いたらしい。

氷の槍があるのは、そこだけではなかった。胴体に一本、足にも一本ずつ、刺さっていた。
おかげで身動きが取れないようだ。

「ほんと、君はわたしがいないと駄目だねえ」
背後から聞こえる、僧侶の声。

なるほど。これは彼女の魔術か。


「悪いね……」勇者はほっと息を吐いた。

「どっちが止めを刺す?」

「君に譲るよ」

「そっか」僧侶は口の中で、呪文を呟く。
地面から発生した氷の槍はカマキリの頭を貫いた。
垂れた体液は、勇者の頭にすべて落ちてきた。



「助かりました。ありがとうございます」馬車の男は頭を下げた。
荷物の被害はそれなりだったが、首を括るほどではなかったらしい。
馬も意識を取り戻した。

「いえいえ、べつにこれくらい」と答えたのは僧侶だ。
どちらも鼻を摘まんでいる。

「なあ。俺、そんなに臭いか?」戦士は鼻をひくつかせた。

「くさい」僧侶は後ずさった。

「臭いってさ」勇者が笑う。

「君も」僧侶は更に後ずさった。

その一言は、カマキリの攻撃よりも大きな(精神的)ダメージを与えてくれた。
勇者本人は慣れたのか、それとも鼻が曲がってしまったのか、
匂いはまったく気にならない。ただ粘性の体液が服に絡みついて、気色が悪いだけだ。


「ところで、皆さんはどちらへ?」馬車の男が言った。

「第二王国までです」と僧侶が答えた。

「なら、乗っていきませんか? 私も第二王国に向かう途中でして」

「いいんですか?」僧侶は目を輝かせた。

「ほんとうにいいのかよ」戦士が口を挟んだ。

「ええ。恩人ですし。……その、ここからすこし進んだところに
水場があるんですが、そこで綺麗にしてもらえれば」

「じゃあ、わたしは今から乗せてもらっていいかな?」

「どうぞどうぞ」

僧侶は馬車に乗り込み、男も馬の手綱を握る。馬はゆっくりと歩き始めた。
勇者と戦士はすこし距離を置いて、後に続いた。

「なんなんだろう。この複雑な気持ち」

「命を賭けて戦ったのに、この扱いは酷いよな」

勇者と戦士が愚痴っていると、馬車の後ろから僧侶がひょっこりと顔を出した。
そして、「だって臭いもん。しょうがないよ」と鼻を摘まみながら笑った。





「なんか、この辺りの怪物、異様に弱くないか?」
ユーシャは体長三メートルほどの巨大なムカデのような怪物を、剣で真っ二つに切り裂いた。
黄色っぽい体液が飛び散り、周囲に異臭が立ち込める。

「確かに弱いけど、蟲ばっかり。気持ち悪い」
魔法使いは鼻を摘まみながら口の中で素早く呪文を唱え、百足の死体を焼き払った。

「南の大陸は、蟲の楽園でもありますからね。
しかし、ここまで蟲が弱体化するのはすこしおかしいです」
大剣使いは自慢の大剣を軽々と振り回し、こびり付いた体液を払う。
そして、ふたたびそれを背負った。



まるごと一日船に揺られ、南の大陸に降り立ったユーシャたちは、
港町を出て、そこから東にある第一王国に向かっていた。
かれこれ二週間近くは歩いているが、なかなか城下町は見えてこない。

そしてどうやら、第一王国と港町の間には、大きな森林が広がっているらしい。
足元には植物の根が太いものから細いものまで、これでもかと張り巡らされている。
苔や木の葉が一帯を緑に染め上げ、枝から垂れた蔓や木に巻きつく蔦が眼前を遮る。
頭上は茂った葉っぱに覆われていて、陽の光はほとんど届かない。
木の模様が、ときどき怪物の顔のように見えて、ぞっとする。

魔法使いの魔術の光がなければ、この森林を抜けるのは困難だっただろう。
精神的な面もあるが、いくら蟲が弱いといっても不意打ちを喰らうのは拙い。
光がなければ、今頃三人はお陀仏だったかもしれない。
ユーシャは、ほっと息を吐いた。


「“弱体化”って、ここの蟲はもっと強かったの?」魔法使いは鼻を摘まんだまま言った。

「ええ。少なくとも、今よりは」大剣使いも鼻を摘まんだ。「何かあったんでしょうか」

「知らないわよ。わたし達にとっては好都合だし、べつに何だっていいわ」

「そうそう」ユーシャは頷いた。異臭が鼻腔を突く。「うわ、くっせえ」

「ほら、さっさとこんな場所から抜け出しましょう。鼻が曲がるわ」
魔法使いはユーシャの手首を掴んで歩き出した。
ユーシャは足元の根に足を取られ、転びそうになったが、何とか持ち堪える。

「すこし気になりますが、まあ、確かに好都合ではありますね」
大剣使いはふたりの後に続いた。


三人は、ひたすら東(と思われる方向)に歩き続けた。
どこまで歩いても景色は変わらず、
視界は魔術の光で照らされた粘り気のある緑に覆われている。
ほんとうに進んでいるのかと不安になる。

景色が変わらなければ、匂いも変わらない。
鼻腔を刺すのは青々とした匂いと、倒した蟲の体液の匂いのみだ。
しばらくすると匂いには慣れた。

そして、それらの不快な要素に加え、蛆のように湧く蟲が襲来する。
大きなムカデにハサミムシ。蛭やミミズなんかもいた。
どれも知っているものよりも比べ物にならないほど巨大で、
ほとんどのものがユーシャたちの身長を一メートルほど上回っていた。
ただ、蜂の体長は一メートルほどだった。針は数十センチあった。

先程も言っていたように、確かにどれも強くはないが、
何度も出てこられるとさすがにユーシャたちの体力も徐々に擦り切れていった。
肉体的にも、精神的にも、限界が近付いていた。

特に、魔法使いの消耗は著しいものだった。陽の光が届かない場所で
魔術を使い続けるのは、おそらく相当なエネルギーを消耗するのだろう。
目が虚ろで、足元は覚束ない。それでも魔術の光を消そうとはしなかった。



数時間森林を彷徨ったところで、すこし開けた場所に出た。
この辺りは大きな根が少なく、地面はほとんど水平だ。
開けた木々の隙間から射す光は、なんとも心細いものだった。
見上げてみると、ひょろ長い月が見えた。
どうやら、一日中この森林を彷徨っていたらしい。

「もう夜だ。今日はこの辺りで休もう」ユーシャが言った。

「そうですね。できることなら一日でこの森林からは
抜け出したかったんですが、彼女の体力が心配です」

「ごめんね」魔法使いは虚ろな目をしていて、
露出した脚には、いくつかの切り傷が走っている。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないかも」魔法使いは弱々しく微笑んだ。


「彼女、いつもより雰囲気が柔らかいですね。ちょっと新鮮です」

「疲れてるだけだ。こいつは疲れると子どもみたいになるんだよ」

「ほほう。可愛らしいですね」

「もう駄目かも……」魔法使いは目を閉じ、正面からユーシャに凭れかかった。
魔術の光が消え、青白い月光のみが辺りを照らす。
ほとんど何も見えない。今、蟲に襲われたら、ひとたまりもない。

「明かりが消えちまった。どうする?」
ユーシャは魔法使いを抱きかかえながら言う。


「仕方ないですね」
大剣使いは口の中でもごもごと短い呪文を呟き、光の球体を出現させた。
魔法使いのものよりもすこし小さいが、
それでも光源としての役割を果たすには十分な大きさだ。

「お前、魔術使えたのかよ。なんで今まで使わなかったんだ」

「いざというときに私が消耗していたら拙いかもしれないでしょう。
森林には何がいるか分からないですからね。
それに、私は魔術を長時間使えるわけではありません」

「だからって、こいつがこんなになるまで放っておくのはどうなんだ」
ユーシャは凄んだ目で大剣使いを睨んだ。右拳に力が入る。

「彼女がぼろぼろになって苛々するのは分かりますが、
落ち着いてください。今はゆっくり身体を休めましょう」

「……はあ。そうだな……」
ユーシャはその場に魔法使いを寝かせ、その隣に腰を下ろした。
「あんたのその、いちいち正論を吐くところが気に入らない」

「すいません」大剣使いはこれっぽっちも悪びれた様子を見せずに言うと、
ユーシャの隣に座った。そして、周囲に落ちた枝をかき集め始める。


「なにしてんだ?」

「火を着けようと思いまして」

「炎の魔術も使えるのか?」

「ほんの少しなら、癒しの魔術も使えますよ」
大剣使いはもごもごと呪文を呟き、かき集めた枝葉に炎を灯した。
同時に、光の球が姿を消す。

「なら、あいつの脚を治してやってくれよ」

「分かってますよ。あ、触ってもいいですか? 彼女の脚」

「殴るぞ」

「冗談ですよ。でも、私程度の術では、跡が残るかもしれないですよ」

「でも、こんなところで傷を放っておくのも拙いだろ。変な病気に罹っちまうかも」

「そうですね。わかりました」大剣使いは魔法使いの脚に手を伸ばした。
ユーシャはそれを思いっきり引っ叩いた。

「こいつには触るなよ。触らなくても治療はできるだろ」


「分かってますって」大剣使いは苦笑いを浮かべ、もごもごと呪文を唱えた。
まもなく魔法使いの脚の傷が塞がる。薄っすらとだが、やはり跡は残っている。
「やっぱり残ってしまいました、跡。私、後で殴られるんでしょうかね?」

「いや、ほとんど見えないし大丈夫だと思う。
お前が余計なことを言わない限りは、たぶん殴られない」

「なら、殴られるんでしょうね。本望です」

ユーシャは無視して言う。「あと、頼みがあるんだけど」

「なんです?」

「俺にも癒しの魔術を教えてくれよ」

「彼女に教えてもらえばいいじゃないですか」

「教えてくれないんだ」

「どうして?」

「わからん。とにかく、教えてほしいんだ。癒しの魔術だけでいいからさ」

大剣使いは微笑む。「まあ、暇があるときに教えますよ」

「ありがとう。こいつには内緒にしといてくれよ。怒られるから」

「わかってますって」


ユーシャは隣に横たわった魔法使いに視線を滑らせた。
静かに寝息をたて、呼吸の度に小さな胸が上下している。どうやら、大丈夫そうだ。
ほっと息を吐くのと同時に、身体の底から疲れが鉄砲水のように押し寄せてきた。
瞬時に瞼が重さを増す。

「いやあ、ほんとうに綺麗な脚ですね」

ユーシャは返事をせず、黙って魔法使いの脚にぼろぼろのマントを引っ掛けた。

「過保護ですねえ」

「お前が変態だから余計にだ……」ユーシャの意識は閉じかけていた。

「お疲れですね。寝ててください。私が見張りをしておきますから」

「こいつに触るなよ……約束だ」

「わかってますって。あと、寝ちゃう前に訊きたいことがあるんですが」

「なに」


「あなた達は、どうして旅をしているんです?」

「いろいろあるんだよ」

「駆け落ちとかですか?」

「……ちょっと違うかな」

「ちょっと、ですか。そういえば、あなたは怒らないんですね。
彼女にも同じことを言ったら殴られましたよ」大剣使いは腹を押さえて笑った。

「故郷の村で何回もそんな風にからかわれたんだ。
“お前らはずっといっしょにいるよな”って。……もう慣れたもんだ」

「へえ」大剣使いは気味の悪い笑みを浮かべた。「村は好きですか?」

「あんまり好きじゃないかな」とユーシャは言った。
「魔王を倒したら、いっしょにどこかへ行くんだ……。
俺たちは、ずっといっしょだからな。今までも、これからも……」
ユーシャの意識は深いところに沈んだ。





目には白んできた空と、微かに月が映っている。
耳に届くのは、ぱちぱちと木の枝が弾けるような音。
鼻を刺すのは緑の匂いと、この世のものとは思えない異臭。
おかげで、魔法使いの意識はしっかりと覚醒状態に引きずり出された。

上体を起こし、辺りを見渡す。隣にはユーシャが寝転がっている。
軽く頬を抓ってみたが、起きる気配はない。ぐっすりのようだ。

すこし離れたところに、頼りない炎が見えた。誰がどうやって火を灯したのだろうか。
そして、大剣使いの姿が見当たらない。
しかし、しばらくきょろきょろと周囲を眺めていると、向こうから歩いてくるのが見えた。


「お目覚めですね。おはようございます」と大剣使いは言う。

「あんた、どこ行ってたのよ」

「怪物の死骸をすこし離れたところに運んでました。
起きたときに真っ二つになったナメクジが近くに転がってたら嫌でしょう?」

「匂いはしっかりと残ってるけどね」魔法使いは鼻を摘まんだ。

「それは我慢してください」大剣使いは大きな欠伸をこぼした。

「眠そうね。ずっと起きてたの?」

「あなたたちが寝てしまったので、
私が見張りをするしかないでしょう。おかげでくたくたですよ」

「そう。ありがと。傷が治ってるけど、これもあんた?」

「そうです。でも、すいません。跡が残ってしまいました」

「べつにいいわよ、これくらい。そんなことより、魔術が使えるのね、あんた」

「すこしなら、ね。あなたには敵いません」

「どうだか」


「あなたなら、この程度なら傷跡なんて残さず治療できたでしょう」

「そうね」魔法使いの目を通して見ると、
確かに大剣使いの魔術はすこし頼りないものだった。太ももに、薄っすらと跡が見える。

「話は変わりますが、あなたのボーイフレンド、疲れると苛々するようですね」
大剣使いの表情が、あからさまに明るいものに変わった。

「子どもみたいでしょ」魔法使いはユーシャの頬をつついた。

「いやいや、怖かったですよ。あなたに触るなと、
閉じかかった細い目で睨まれましたからねえ」

「ふうん……」魔法使いは気の無いふりをした。

「あと、そのときに“魔王を倒したら”と彼が言ってたんですが、どういうことでしょうか?」

「言っちゃったのね、この馬鹿」いずればれるだろうとは思っていたが、こうも早いとは。
思いっきりユーシャの頬を抓ってやると、苦悶の表情が浮かんだ。

「魔王って、御伽噺に出てくるあれですよね?」

「そうね」できれば言いたくなかったが、
大剣使いには隠し通せるような気がしないので、素直に肯定した。

「もう一度訊きますけど、あなたたちはどうして旅をしているんです?」

一呼吸置いてから、魔法使いは言った。
「そりゃあ、魔王を倒すために決まってるじゃないの。こいつはユーシャ様なんだから」


「彼が、御伽噺の勇者ですか」大剣使いは鼻で笑った。

「べつに信じてもらわなくてもいいわ。わたし達も半分くらいは信じてないし」

「じゃあ、どうして?」

「田舎者は王様には逆らえないのよ」

「魔王討伐は王様の命令なんですか?」

「そう。西の国王様ね。こいつが言うには嫌な奴らしいけど。まあ、確かに
いきなりわたし達を呼び出したかと思えば、“行け”だなんて非常識にも程があるわ」

「……ほんとうなんですか?」大剣使いは半信半疑のようだ。
それもそうだ。普通なら頭のおかしい奴だと弾かれるようなことを
真面目に話すものだから、対応に困っているのだろう。

「だから、べつに信じてくれなくてもいいの。でも、一応言っておくと、ほんとうよ」
魔法使いはため息を吐いた。しかし、これで大剣使いに訊きたいことが訊ける。
「で、あんたに訊きたいことがふたつあるんだけど」

「なんです?」

「魔王の居場所と、“あれ”について」

「“あれ”って、なんですか?」


「知らないわよ。知らないから訊いてるんじゃないの。
王様は“あれ”の動かし方を知りたくて仕方ないみたいよ」

「王様が、ねえ……。でも、“あれ”だけじゃ何も分からないですよ」

「まあ、そうよね……。じゃあ、魔王の居場所は知ってる?」

「御伽噺の存在がこの世界にいるわけがないでしょう」

「じゃあ、これは何なのよ」魔法使いはユーシャの頬を突いた。
「なんで御伽噺の存在がわたしの隣で寝てるのよ」

「そう言われましても……。困りましたねえ」

「なんでもいいの。御伽噺では魔王がどこから現れたとか、そんなのでもいいの」

「……御伽噺の魔王は、北の大陸にある“門”から現れたと言われてますよ。
これは南の大陸の御伽噺です。……あくまで、御伽噺ですからね」
大剣使いは表情を歪めながら言った。

「北、北ね。ありがとう」魔法使いは唇の端を歪めた。


「もしかして、北に向かうつもりですか?」

「そうね。これからは北の大陸を目指すわ。それしか手掛かりが無いもの。
世界を反時計回りに一周することになりそうだけど、
もちろんあんたにも付いて来てもらうわよ」

大剣使いは苦笑した。「もちろんですよ。目的なんて、なんでもいいです。
お金を受け取ったからには、いいと言われるまでは付いて行きますよ」

「報酬は三倍にしといてあげる」

「それでも金貨三枚ですけどね。薬草も買えやしませんよ」

「こいつに声をかけたのが運の尽きね」

「ですね。まさか、彼が勇者様だったとはねえ」
大剣使いは大きな欠伸を吐いた。そして、その場に身体を倒した。
「さて、私もすこし眠らせていただくとします。
何かあったら、得意の暴力で叩き起こしてくださいね」

「うん。おやすみ」

ごろりとその場に寝転がる大剣使いを横目に、魔法使いは膝を抱えながら座り込んだ。
そして、炎とにらめっこをする。ぱちぱちと、何かが弾けさせるような音を発し、枝は燻る。
揺らめく炎。それはまるで、そこだけが森とはべつの空間になってしまったように錯覚させる。

風に揺れた木々の葉が、乾いた声をあげた。隣で眠るユーシャ様は目を醒まさない。
それらは魔法使いに、ひとりだということを強く意識させる。


もしも今、怪物が現れた場合、自分ひとりで何とかなるだろうか?
ふたりを守ることができるだろうか?
確かに蟲は強敵というほどではないが、ひとりではすこし不安だ。
ユーシャを起こしておこうか?
いや、彼も疲れているだろうし、このまま放っておくほうがいいか。

しかし、森のど真ん中にぽつりと座っているのも寂しいものだ。
冷たい風が木々を揺する。自然と、膝を抱える腕に力が入る。

起きていてほしい。そう思う。
できることなら、隣に座っていてほしいというのが正直なところだった。
隣を見たときに、自分の顔と同じ高さに誰かの顔があってほしい。

魔法使いは自身が寂しがりであることを、薄々自覚し始めていた。
語気が荒かったりするのは、それの裏返しなのかもしれない、と
適当な自己分析をしてみたりした。ほんとうのところは分からない。
もしかすると、全くべつの理由があるのかもしれないし、
理由なんて存在しないのかもしれない。


素直で、女らしくありたいとは思う。甘えたい、とも。
しかし、今更いきなり素直になるのも、それはそれで恥ずかしかった。
胸の内側では、輪郭を持たない煙のような意思や感情が揺れている。
それのほんとうの姿は、今の自分の頭では捉えられない。

結局、何も分からない。だから、誰かに導いてもらいたい。
誰か、というのは、できることなら彼であってほしい。

どこかへ連れ去ってほしい。たとえば、手を繋いで、ふたりで誰もいないような、
勇者も魔王も存在しないような場所へ行けたなら――そんな安っぽいことを夢想した。

いずれはひとりで立たなければならない、ということは理解しているつもりだった。
しかし、隣に彼がいない光景が、まったくイメージできない。
表面では理解しているが、もっと深いところでは、実際にひとりになることを拒んでいる。
脳だけは先に進んでいるが、こころと身体が置いてけぼりをくらっているような感覚だった。


旅に出ていなかったら、わたしはどうなっていただろうか?
一生を村で過ごしたのだろうか?
何も分からなかった。炎も木々も精霊も、答えてはくれない。

ユーシャの頭に手を置いた。もともと大して大人びているわけでもないが、
目を閉じて間抜けに口を開くその顔は、いつもよりさらに幼いものに見える。
そのまま乱暴に頭を撫で、髪をくしゃくしゃにしてやった。

「わたし達、これからどうなるのかな」魔法使いは誰に対するわけでもなく呟く。
ユーシャは答えてくれない。でも、彼なら答えを知っているような気がした。
わざわざ起こしてまで訊こうとは思わないが。

炎を見つめながら静かな孤独に耐えていると、空は朝の表情を見せ始めた。
結局、心配は杞憂に終わり、夜は明けた。



大森林の出口は、休憩したポイントからほんの数キロメートルほどの場所にあった。
もうすこし頑張っていれば、一日でここからは抜け出せたということになる。
鬱蒼とした森から陽だまりのような場所に出たユーシャたちは、
自然の光の眩しさに目を細めた。

そこからしばらく砂漠のような場所を歩くと、それは見えてきた。
砂の海に聳える大きな壁は蜃気楼のように揺らぎ、
その向こう側に大きな石造りの城が見えた。
壁に囲われている面積は、かなり大きい。
王国と呼ぶには相応しい出で立ちだった。

「着いた?」魔法使いは口元に笑みを浮かべた。

「着いたか?」

「着きましたね。あれが第一王国です」と大剣使いは言った。

つづく





高い外壁に囲まれた町の中心には、大きな城が見えた。
壁は六角形になるように配置されている。

第二王国城下町の構造は、まさに蜘蛛の巣を思わせる。
中心からはそれぞれの角に向けて大きな通りが存在しており、
それぞれの通りを繋ぐように、間には等間隔で薄暗く細い通路がある。

「ここが、第二王国」と僧侶は呟く。

「普通の国に見えるね」大きな通りには、たくさんのひとが行き交っている。

「当たり前だろ。悪さをするのは国じゃなくて、ひとなんだから」
戦士が言った。

「なるほど」と勇者は頷く。

「でも何があるか分からないから、
念のためにお前は俺かリーダーから離れないようにしろよ」

「りょーかい」僧侶は不恰好な敬礼をした。
「でも、わたしはリーダーがいちばん心配だよ」

「だから、僕はリーダーじゃないって」

「女に心配されてることについてはノータッチなのかよ」


「カマキリの件を思うと、何も言い返せないよ」勇者は肩を落とした。

「ああ。カマキリ。あれはやばかったな。俺もひやひやしたぜ」

「わたしがいて良かったね、リーダー」僧侶は勇者の頭を撫でた。

勇者は脹れながら、「そうだね」と言った。情けなくて仕方なかった。

「やめてやれよ。リーダー泣きそうになってるぞ」

「なってない」勇者は語気を強めた。

「あ。ごめん……」

「いや。だから、泣かないって」

しばらくの沈黙の後、「そうだね」と僧侶は笑った。
そして、ふたたび頭を撫で、「泣き虫はもう治ったもんね」と続ける。
勇者は酷く赤面した。


「はいはい」戦士は手を叩いた。「いちゃいちゃしてるとこ悪いけど、
そういうのはベッドの上でしてくれ。そういうわけで、宿屋を探そう」

「だね。もう夜だし、さっさと探しちゃおう。続きはそこでしよう」

僧侶は適当な通行人を捕まえにいった。同じ轍は踏まぬということなのだろう。
この城下町は、港町ほどややこしくはないが、幾分大きい。
ぶらぶらと歩き回っていては、きっと夜が明けてしまう。

続きって、何なんだろう。勇者の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
また頭を撫でてもらえるのだろうか。それとも――
顔が熱くなる。胸の内側が、ふわふわとしている。

戦士は勇者の肩を叩いて言う。
「リーダーも男の子だからな、期待する気持ちは分かる。
でも、俺が同じ部屋にいるってことを忘れないでくれ。
それと、あいつはからかうのが上手い」

「わかってる。わかってるって」
勇者は自分に言い聞かせるように頷いた。



翌日の朝。宿の一室の窓から射す光は、力強いものだった。
勇者と戦士はベッドに腰掛けながら、寝ぼけ眼を擦っていた。
僧侶は風呂場に行ってしまったので、ここにはいない。
行ってしまったといっても、風呂場は隣だ。
壁一枚を挟んだ向こう側から、鼻唄が聞こえてくる。

「ああ」戦士は大きな欠伸をしながら言う。
「情報収集だが、三人で固まって行くか
二手に分かれていくか、どっちにする?」

勇者もつられて大きな欠伸をこぼした。
「二手に分かれたほうが効率はいいのかもしれないけど、
御伽噺なんていくつもあるわけじゃないだろう。
それに、三人でいた方が安全だし、三人で固まって行こう」

「それでいいのか?」

「べつにいいと思うけど」


「ほんとうに?」戦士は口元に笑みを浮かべた。

「なんだよ。何が言いたいのさ」

「あいつとふたりきりになれるチャンスだぞ?」

「余計なお世話だ」

「顔が赤いぞ。ほんとうにお前はすぐに赤くなるよな」

「うるさい」

「ほんとうはふたりで行きたいんだろ?」

「まあ、こんな場所じゃなければ……。
でも、やっぱり僕ひとりだと頼りないと思われてるだろうし、三人で行こう」
カマキリの件が頭にこびりついて離れない。思い出すと、気分が沈む。

「もっと自信を持て。応援してやる。お前は俺よりも強いんだ」

勇者は頭を抱えて、ため息を吐いた。俺よりも強いだって? 何の冗談だ。
なぐさめにしても、もっと何か他にあるんじゃないか? 勇者は更に落ち込んだ。


「はあ。さっぱりした……あれ。どうしたの、リーダー」
僧侶が風呂から戻ってきた。

「もうリーダーって呼ばないでくれ……」

「リーダーは酷く落ち込んでる。
カマキリの件で自信喪失しかけている。
でも、お前が頭を撫でれば治る」
戦士は何かを読み上げるように淡々と言った。

僧侶は黙って勇者の隣に座った。
石鹸の匂いか、それとも彼女の匂いなのかは
わからないが、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

そして彼女は勇者の頭を撫でる。「大丈夫、自信を持って。君は強いよ。
それに、これからもっと強くなる。そしたら、わたしを守ってね」

恥ずかしさと情けなさがぐちゃぐちゃになって、勇者の顔は真っ赤になった。
それを見た戦士は堪えきれなくなって吹き出した。



結局、三人で町を回ることになった。

宿屋から出ると、強い日差しに目を襲われた。
左右にはどこまでも道が続いている。

ひとの通りもかなり多い。
それもそのはずであって、第二王国城下町は
この南の大陸でもっとも大きな町なのだ。ここ何年かで、大きな成長を遂げたらしい。

そして、宿屋のあったここは第三大通りと呼ばれているらしい。
大通りにはそれぞれ番号があり、城の正面が一番、
そこから時計回りで順番に二番、三番と呼ばれていると宿の主から聞いた。

三番は商業区、五番は工業区だとかなんとか。一、二、六番は主に居住区だとか。
四番にはあまり近寄らない方がいいだとかなんとか。
とにかく適当な説明だった。

とりあえず、まるごと一日を情報収集に費やすことにした。
しかしお昼を過ぎた頃からは、誰に話を訊いても
似たような返事しか返ってこなくなった。
なので、この辺りの情勢や歴史についてなどを訊いて回った。
気付けば辺りは暗くなってきていた。

「いろんなことがわかったね」
僧侶は地図を裏側に広げた。
そこには、聞いたことがまとめられていた。


①御伽噺の魔王は、北の果てにある“門”から現れた。

②五つの塔には、番人がいるという御伽噺がある。

③この大陸に神様が眠っているという御伽噺がある。

④第一王国は疫病の蔓延により、数年前に滅んでしまった。

⑤数年前から、第二王国付近の怪物が弱っている。

⑥呪術の村のことについては、みんな何も知らない。

⑦王様は怖い顔をしているが、国民想いの良い王様。

⑧第三大通りの城に近い辺りに、美味しい食堂がある。

「役に立ちそうな情報は、こんなところかな」

「最後のは何だよ」

「たまには美味しいものでも食べてゆっくりしようと思って」
僧侶は微笑んで頭を掻いた。「だから今から行こう」


勇者たちは城のほうに向かって歩き始めた。
もう陽は沈んでいるのにも関わらず、ひとの通りは未だに多い。
小さなガラスの内側で灯る炎が、仄かに道を照らす。
結局、危惧していたようなことは何も起こらなかった。
幸せなのかはさておき、この国は平和なのだ。

十分ほど歩くと、食堂は見えてきた。
宿屋ほどではないが、それなりに大きい。繁盛しているのだろう。

戸を軽く押し、中に入る。途端に芳しい匂いが鼻を喜ばせた。
店内は大いに賑わっていた。
老若男女、あらゆるひとがそこに座って食事を取っている。
戦士は嬉しそうな面持ちで、空いている椅子に腰掛けた。

適当に注文を済ませると、僧侶は地図をテーブル上に広げた。
「さて、適当に整理して、今後の予定でも決めよう」

「だな」戦士は裏返しの地図に目を通す。
「①を信用するなら、これからの目的地は北の大陸になるのか」

「そういうことだね」勇者も目を通す。
「北の大陸には、どうやって行くんだ?」


「南の大陸を横断したあと、船に乗って西の大陸へ。
東西の大陸からは北の大陸に向かって大きな石橋が
伸びているから、それを通っていけばいいだろう」

「結局、世界を時計回りにぐるっと回ることになるんだよね」僧侶は笑う。
「ただ、北の大陸はひとが住むのに適した環境じゃないんだよね。
きっと寒いんだろうなあ」

北の大陸は、雪に閉ざされた大陸だと聞く。
辺りの海には氷が漂っていて、船はほとんど使い物にならない。
なので、苦労してわざわざ巨大な石橋を架けたらしい。
死ぬ思いで作り上げた橋は、凍てつく大地に繋げられた。
ひとが生きていくのには厳しい場所に。

いったい、橋を通った人間はいくらぐらいいるのだろう?
そんなところに、ほんとうに“門”と呼ばれるものがあるのだろうか?

「しかし、当てはそれしかないんだ。とりあえずは向かうしかない」

「そうだね」勇者はふたたび裏返しの地図を見る。
「②の五つの塔って、何?」


「ほら。船で見たじゃないか、海のど真ん中に立ってる塔。
それに、村の北にも薄っすらと見えただろう?」と、戦士。

「ああ。あの塔」

村のずっと北に、大きな塔が薄っすらと見えたのを思い出す。
海に立ってたのとあれは同じものだったのか。

「その塔に、番人?」

「そういう御伽噺があるんだって。
あとは、その五本の塔が空を支えてるとか、云々」

「ふうん」と素っ気なく返し、地図に目を落とす。

「③は何なんだ。神様?」戦士が言った。

「うん。この大陸のどこかに、神様がいるんだって。
ほら、港町でへんな石像を見たでしょ? あれが神様なんだって」

「あれが神様だって? 悪魔って言われた方がしっくりくるぜ」

「じゃあ、あの石像はあれで完成形だったの?」
でこぼこの山にくっついた、竜の頭――奇妙な石像の姿が頭の中で再生された。

「らしいよ。石工が逃げ出したわけでもないみたい」


あれが神様の姿だとは、俄かに信じ難い。
戦士の言うとおり、悪魔と言われたほうがしっくりくる。
もしくは怪物と呼んだほうが、断然納得できる。

「で、④」と戦士が言った。

「うん」僧侶の表情が強張った。

「第一王国っていうと、この大陸でふたつ目に大きな国じゃないのか?」
第一王国は、大陸の中心を流れる川の西にある大国だ。

「数年前は、いちばん大きな国だったみたいだね。
だけど、滅んだ。国民はみんな死んじゃったって。
疫病については、この国のひとも詳しくは知らないみたい」

「その疫病って、魔術じゃ治らなかったの?」

「病気っていうのは、魔術じゃどうにもならないんだよ」
僧侶は唇を噛んだ。

沈黙。


「この話は置いておこう。次。⑤」戦士が口火を切った。

「第二王国付近の怪物が弱体化……ねえ」

勇者はため息を吐いた。
情けない。弱体化した怪物に殺されそうになったっていうのか。

「はい、この話は終わり。次。⑥」
僧侶が勇者の頭を撫でながら、先を促す。

「⑥。これは……つまり、呪術の村の襲撃は
国の王により秘密裏に行われた、と」戦士は頬杖を突いた。

「だね。これじゃあ襲撃の目的もわからないよ」

「王様に直接訊けばわかるんだろうが……」

「まあ、そういうわけにはいかないよね」

「次、⑦。これは……どうでもいいか」
戦士が背凭れに身体を預けると、僧侶は地図を畳んだ。


まもなく料理は運ばれてきた。どれも食欲を湧かせる香りだった。
戦士は一心不乱にそれらを頬張った。
木の実ばかり食べていたので、肉や魚を口に入れるのは久しぶりだ。
戦士ががっつくのもわかる。それに、彼は大食らいなのだ。

僧侶もひとくち頬張ると、表情を緩めた。
勇者も続こうとしたが、どうも指が動かない。

「どうしたの?」僧侶が言った。

「僕は、これから大丈夫なのかな……」
脳裏に居座るのは、カマキリに殺されそうになったときのことだった。


「大丈夫、わたしたちがいるよ。それに、君は強い」僧侶は勇者の頭に手を置いた。
「でも、君はもっと強くならないとね。まずはあいつを追い越そう。
だから、今日はとりあえずお腹いっぱい食べよう。あいつ以上に食べてやろう。
それでお腹いっぱいになったら、わたしといっしょにどうやって強くなるか考えよう」
僧侶が言い終える頃には、勇者の髪はくしゃくしゃになっていた。

「……うん。そうだね」

勇者は深呼吸してから、テーブル上の食べ物に手を伸ばした。
どれも美味で、自然と手は動く。
そのまま何も考えず、戦士に負けじと食べ続けた。

おかげで、その夜は酷い吐き気に苛まれることになった。
それは強くなるなんてことを忘れてしまいそうになるほどには酷いものだった。





「どうして勝てなかったと思う?」
戦士は木の枝の先を勇者に向けながら言った。

勇者は暑さの中で尻餅をつきながら、ただ向けられた枝の先を見つめていた。
また勝てなかった。これが真剣なら、死んでいた。
また命を落とすところだった。

町に滞在して三日目の昼。
ふたりは太陽が照りつける中、宿屋の裏の小さな庭で手合わせをしていた。
木陰では僧侶が座り込みながら、ふたりの戦いをじっと眺めている。

窓からは数人の宿泊者が見物している。
見られたくないというのが正直なところだったが、
怒鳴って追い払うわけにもいかない。


「お前はすこしでも相手よりも有利だと思うと、力が抜けるんだ。
それまで張っていた糸が急にほぐれるみたいに、だらけちゃうんだ。
そこに隙ができる。これがお前の悪い癖だ」
戦士は言いながら、勇者に手を差し伸べた。

勇者は手を取り、起き上がる。そして回想する。

確かにカマキリに殺されそうになったとき、力が抜けていた。
それは単純に筋力であったり集中力であったり、注意力でもあったりする。
カマキリを一体倒したことに、舞い上がっていた。
そこへ、鎌は滑り込もうとした。

確かに、戦士の言うとおりなのかもしれない。
これは悪癖だ。何も言い返せなかった。

「厄介な癖だぞ、これは」

「ごめん」勇者は首を垂れた。


戦士は勇者の頭を撫でた。
「謝らなくてもいい。癖のひとつやふたつ、誰にだってある。
それに、お前はひとりじゃないんだ。
危なくなったらすぐに助けてやるから、変に気張らずに動けばいい」

「うん……」

「いいか。俺とこうやってチャンバラごっこするのと
実際に怪物と戦うのは、全く別のことだと思え。
これは戦いじゃなくて、確認だ。お前の弱点の、確認だ。
忘れるなよ。お前には弱点がある。もちろん、俺にもある。

でも弱点があるからって、お前自身は弱いわけじゃないんだ。
ひとりで怪物を倒せる。同じ怪物なら、俺よりも早く倒せるんだ。
お前は十分強い。だから、もっと自信を持て。
自信と自分への理解があれば、俺なんてすぐに超えられる。
いずれは俺なんて、お前の足元にすら及ばなくなる。それくらい強いんだ」

「そうなのかな……」
勇者には、戦士の言い分が素直に飲み込めなかった。

「だから、自信を持てって」戦士は笑って、勇者の髪をくしゃくしゃにした。
「さあ、今日はここらでお仕舞いだ。飯を食おうぜ。
明日は出発だから、今日はゆっくりするんだろ?」

「……うん」


勇者は踵を返す。戦士は、さっさと宿に戻っていった。
食事となると、彼の動く早さはいつもの
三倍ほどになっているんじゃないかと錯覚する。
目の前に肉を吊るしていれば、彼に敵うものはいなくなるんじゃないだろうか。

周囲を見渡すと、窓から顔を出すひとの姿がいくらか見えた。
その中のひとりと目が合うと、小さく拍手をしてもらった。
顔が綻んで、赤くなる。それを隠すように一瞥をした。

木陰のほうを見ると、僧侶がこちらに小さく手を振った。
勇者は急いでそちらに向かった。

「あいつはどこに行っちゃったの?」
僧侶は腰を上げ、尻をはたいた。

「昼飯だってさ」


「なるほど。だから動くのが早かったんだね」
僧侶は呆れ顔で言った。
「じゃあ、わたし達も食べにいこうか」

「うん」

そのとき、高い指笛の音が聞こえた。
どうやら、宿屋の観客のひとりが吹いたらしい。

窓の方へ視線を向けると、高速で拍手するおっさんが、
こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。
拍手はあまりに速すぎて、音が鳴っていない(というか両手が触れ合っていない)。

何か勘違いされているような気がする。
勇者は赤面して、急いで宿へ走った。また指笛が聞こえた。


宿は二階建てで、一階のカウンターの隣の大きなスペースには
丸いテーブルと椅子がいくつも並んでいる。そこで食事を取れるようだ。
ならば、お昼時ともなれば一階は客で溢れているのでは、
と思っていたが、予想に反して空いていた。

勇者と僧侶は、先に椅子に座っていていた戦士の隣に腰掛け、
適当に注文を済ませた。まもなく料理は運ばれてきたが、
以前に出向いた食堂のものと比べると、聊か貧相に見えた。
味も、食べられないというほどではないといった程度のものだった。
可もなく不可もなく、といったところだ。

しかし贅沢は言っていられない。
胃に入れば同じと自らに言い聞かせ、咀嚼し、胃へ送った。
べつに不味くはないが、吐くほど食べた食堂の料理がすこし恋しくなった。

「ちょっと思ったことがあるんだけど、いいかな?」
しばらくすると、僧侶がパンを齧りながら言った。

「どうぞ」と肉を頬張りながら答える戦士。

それを無視し、僧侶は勇者の方を向いた。

「な、なに?」勇者の顔が仄かに赤くなる。


「あのね、わざとではないと思うんだけど、
たぶん君は相手よりも優位にあると思うと、力を抜いちゃうんだよね。
そのときまで凍ってた氷がいきなり溶けちゃうみたいに、だらけちゃうの。
これがきっと駄目なんだよ」言い終えると、僧侶はパンを齧った。

戦士が笑う。「だってさ、リーダー」

「さっきも似たようなことを言われたよ。ふたりとも、よく見てるんだね」

「まあな。俺は、お前のことならなんでもわかるぞ」
「まあね。わたしは、君のことならなんでもわかるよ」
ふたりはほとんど同時に言った。そして顔を見合わせた。

「なんだよ。真似すんなよ」

「いやいや。それはこっちの台詞だよ」

「いやいやいや。俺のほうが早かったろ」

「いやいやいやいや。わたしの方が早かったよ」

「いやいやいやいやいや」

「仲良いね」勇者はスープを啜った。


「まあ、それは否定しない」僧侶はパンを齧る。

「まあ、俺たちは兄妹みたいなもんだからな」

「わたし達は三人できょうだいみたいなもんだからね」

「だから困ったら俺たちを頼れ、弟よ」

「うん。頼りにしてるよ、お兄ちゃん」

「いざそう呼ばれると、なんかこそばゆいな」

「言うのも恥ずかしいよ」

「あれ、わたしは頼ってくれないの?」


「リーダーは複雑な時期なんだ。ひとりで歩こうとしてるんだ。
一人前に、人間らしく、男らしく、勇者のように、お前を守るために、だ。
だからお前に寄りかかるのは、ちょっと抵抗があるんだ」
戦士は何かを読み上げるように淡々と言った。

「そうなの? 抵抗あるの?」

「そんなことないよ。お姉ちゃんも頼りにしてるよ」

「リーダー。無理して言わなくてもいい。顔が真っ赤だぞ」

「赤くない」勇者は顔を伏せた。

「ほら、弟くん拗ねちゃったよ。お兄ちゃんは余計なこと言わないで」
僧侶は勇者の頭を撫でた。

「うわあ。すげえこそばゆい」戦士は身震いした。
「と、そろそろ茶番は止めにして飯を食おうぜ。冷めちまう」

「だね」ふたたび僧侶はパンを齧る。彼女はパンが好きなのだ。


翌日の朝。勇者たちは巨大な壁を内側から見上げて、目を細めた。
第三大通りは相変わらずの賑わいで、
温かい風があらゆるひとの声を耳に運ぶ。

「さあ。また長い旅が始まるぞ」
戦士は歯を見せて笑った。

「だな。次の目的地は西の港町。で、まずは“蜘蛛の巣”を潜ると」

蜘蛛の巣というのは、この町と大陸中心の川との間にある洞窟の渾名らしい。
由来はその名の通り、洞窟に蜘蛛が住んでいるからだと聞いた。

「蜘蛛の巣……ねえ」僧侶の表情が曇った。

「どうしたの。大丈夫?」

「知ってるかリーダー」戦士は嬉しそうに言う。
「お姉ちゃんはこの世でいちばん蜘蛛が嫌いなんだ。
だから、しっかり守ってやれよ」

「そうなんだ。頑張るよ」

「頼むよリーダー……」

勇者たちは、きょうだいのようにくっついて歩き始めた。
外壁を潜り、ふと振り返ると、どこかから大きな指笛の音が聞こえた。





高いところで照る太陽は、強い日差しを地上に投げかけている。

曲がりくねった外壁に囲われた第一王国城下町は、非常に大きな町だった。
中心には大きな城があり、周囲には水の張った堀がある。
外壁に近い場所の地面は砂がむき出しだったが、
内側へ向かうと知らぬ間に足元は石畳に変わっていた。
しかし、どこを歩いていても、ひとの姿は疎らだった。

「随分とひとの姿が少ないわね」魔法使いは辺りを見渡して言った。
大通りと思しき幅の広い道は閑散としていて、
どことなく寂れた空気が漂っている。

「なあ。ここって、この大陸でいちばん大きな町なんだよな?」

ユーシャも視線を巡らせる。町には建物が乱立している。
通りの両脇にも建物が綺麗な列を作っていて、どの壁もほとんど汚れていない。
あまりに綺麗なので、思わず肌が粟立った。気味が悪い。

大剣使いは顎に手を当て、
「そうなんですが、これはおかしいですね。ひとが少なすぎる」と言った。
「以前に来たときは、もっと賑わっていたんですがね」


「へえ。あんた、ここにも来たことがあるんだ」
魔法使いが興味なさげに言う。

「“ここまで”は何度も来ていますよ。
しかし、お恥ずかしながら、ここから東には行ったことがありません」

「ふうん。あんたも大したことないのね」

「私もまだまだ世間知らずの未熟者ですからね。
知ってると思いますが、私はまだ二十代なんです。
雇われなんて始めたのも、ほんの二、三年前ですよ」

ユーシャが欠伸をこぼしながら訊く。「なんで雇われになったんだ?」

「そのことについては、また機会があれば話すとしましょう。
知っていると思いますが、世の中いろいろあるんですよ」
大剣使いは空を見上げ、眩しさに目を細める。
「さて、宿に行くのはまだ早いですし、御二人はこの町を散策してみては?」

「お前はどこに行くんだよ」

「私は、すこしこの町のことを調べようかと。
何かおかしいです。異常といってもいいほどに、ひとが少ない」

「というのは建前で、ほんとうは女を引っ掛けに行くんじゃないの?」

魔法使いが粘り気のある視線を送ると、
大剣使いはしばらくの沈黙の後、「それもありですね」と笑った。


結局、夜になるまでは別行動を取ることになった。
宿屋で合流しましょう、と大剣使いは言ったが、
ユーシャたちが宿の場所など知るはずがなかった。

なので宿屋の場所を訊くと、大剣使いは
「御二人で手を繋ぎながら、夜までゆっくり探してくださいよ」と、笑顔で答えた。
おかげで、魔法使いの杖(凶器)が彼の腹にめり込みそうになった。
なんとかそれを阻止し、彼女を宥め終わるころには、大きな剣は視界から消えていた。

「どうする?」ユーシャは半ば途方に暮れる。

まだ昼にもなっていない。夜には程遠い。
そして、太陽がいつもの五割り増しで熱を放射しているのではと思うほど暑い。
石畳の上にいると、身を焼かれるようだ。
しかし、閑散とした大通りを通り抜ける乾いた風は、どこか冷たさを感じる。
それに、何か物足りない。いつもの風とは違うような気がした。

「どうするって、宿を探すしかないじゃないの」

魔法使いは歩き始める。ユーシャも隣に付いて歩き始める。


町を眺めるついでに宿屋を探してみるが、それらしいものは見当たらない。
それどころか、乱立する建物はどれも似たような色と形をしていて、
ほんとうに進んでいるのかと不安にさせられる。
細い路地も小奇麗で、葉っぱの一枚も落ちていない。

路地を抜けるとふたたび大きな道に出た。
しかし、そこにも似たような風景が続いていた。

そもそも、大陸でいちばんの町を当てもなく彷徨うというのは
間違っているのではないだろうか、という考えが脳裏を掠めた。
このままだと大剣使いの言うとおり、ほんとうに夜まで探すことになりかねない。

誰かに尋ねるのがもっとも手っ取り早いのだろうが、
しばらく歩いていると人影はゼロになった。
通りに響くのはふたり分の足音と、肌を刺す風の音だけになる。


「そういえば、ふたりで歩くのって久しぶりよね」と
魔法使いは正面を向いたまま呟く。

「そうだな」と、ユーシャも隣を見ずに答える。

「やっぱり、こっちのほうが落ち着く」

「いつも通りって感じだよな」

「そうね」

「あいつがいると、どうも落ち着かないんだよなあ」

「わかる」魔法使いは目を瞑って頷いた。「夜もぐっすり眠れないわ」

「お前、いつも快眠じゃないか」

「そう見えるだけよ」


「いや、それはお前の寝覚めが悪いだけだ。昔からそうだ。
それに、お前はいつもにやにやしながら寝てるぞ。こんな風に」
ユーシャは目を瞑って笑った。「何か良い夢でも見てるのか?」

「ふうん」魔法使いはユーシャの手首を掴んだ。
「……つまり、あんたはわたしが寝た後、
いつもわたしの寝顔を眺めてるってわけね」

「いや、ちょっと待ってくれ。違うんだ。誤解しないでほしい。
俺は、あいつがお前にちょっかい出さないか心配だから見張ってるんだって。
それでついでに見ちゃうだけなんだって。はい、ごめんなさい。殴らないで」

「殴らない。殴らないから、離れようとするな。こっち来い。隣にいなさいよ」
魔法使いは掴んだ手首を捻って、引っ張った。
そうなると、ユーシャは彼女に寄りかからないわけにはいかない。

「……重たい」魔法使いは寄りかかるユーシャを肩で押し返した。
「食べすぎよ」

「お前は軽すぎる。食べなさすぎだ」

「……何そのわたしの体重を知ってるような口ぶりは」

「……まあ、きのう一回抱えたしな」

「え」魔法使いは赤面した。


「いや、待て。早とちりしないでくれ。べつに寝込みを襲ったとかじゃないんだ。
ほら。お前、きのうの夜、気を失って倒れただろ。
俺が抱えなかったらお前は地面に顔からぶつかってたわけで……」

「わかった。わかったから。殴らないし、手首も捻らないから」

「それを聞いても安心できないのがお前なんだ」
ユーシャは言う。それから咳払いをして、
「まあとにかく、お前はもっと食って体力を付けたほうがいい」と続ける。

「食べた分は魔術のためのエネルギーで消費しちゃうの。
身体に回す余裕なんて、ほとんどないわ」

「今以上に食べればいい」

「吐く」魔法使いは舌を出して言った。

「大丈夫だ。お前は吐かない」

「何を根拠に言ってるのよ」

「俺にはわかるんだよ。お前は大丈夫だ」


「……まあ、確かに今以上に食べれば多少は余裕ができるでしょうけど」

「けど?」

「吐く」魔法使いは眉間に皺を寄せ、舌を出して言った。

「大丈夫だ。責任は俺がとる」

「そのときはあんたの顔面をゲロ塗れにしてやるわ」

「それはちょっと」ユーシャは苦笑いを浮かべた。


やがて宿は発見される。
そのころになると、ふたりの脚は棒切れに
なってしまいそうなほどにくたびれていた。
しかし、脚以上に胃が悲鳴をあげている。
空っぽの悲鳴だ。なにしろ、昼食をとっていないのだ。

空のほとんどは未だに透き通るような青色をしていて、
ところどころに絵の具で描いたような白と灰の雲が浮かんでいる。
それらに混じって、薄っすらと月が窺えた。
遠く低いところでは太陽が周囲を紅く染め始める。
日没までは、あと三、四時間といったところだろう。

魔法使いは宿と空を交互に見ながら言う。
「もう夕方じゃないの。はあ、疲れた。お腹すいた」

ユーシャは言う。
「どうする? もう宿で飯食ってゆっくりするか?」

見たところ、彼女はお疲れのようだ。
隣でふらふらと身体を揺らしている。
口は笑っているが、目は笑っていない。

「そうしましょうよ」
魔法使いは覚束ない足取りですこし進み、宿の戸を叩いた。
叩きながら、体重をかけて開く。戸は間抜けな音を鳴らして、ゆっくりと開く。
彼女はそこへ消える。ユーシャは半ば呆れながら後に続く。


戸が嫌な音を鳴らして閉まる。
音は宿の空気を振動させる。カウンター奥で灯った炎が揺れた。
正面のカウンターには、虚ろな目をした、
禿げ上がった男性が立っている。

屋内に入っても、気温の変化はほとんど感じられない。
外と同じくらいか、それよりも少し暑いくらいだ。
ほんとうにここは宿屋なのだろうか。

魔法使いはゆっくり、ふらふらと歩き始める。
足音だけが耳に響く。他にひとはいないのだろうか?
ユーシャもカウンターに向かう。
禿げた男は、ただ中空を見つめている。

魔法使いは立ち止まる。ユーシャも隣で足を止める。
禿げた男は反応を示さない。

「あの」と、魔法使いがおどおどと口を開く。
禿げた男は反応を示さない。

「すいません」とユーシャが語気を強めて言う。
禿げた男の眼球が不自然に動いた。上下に動き、右に、左に、左に、左。
やがて焦点が合わさり、「は、はい」と高い声をあげる。
思っていたよりも可愛らしい声をしていた。


「大丈夫か?」ユーシャは半ば呆れ、半ば心配して言った。

「す、すいません」禿げた男は頭を下げる。

眼前に晒された頭皮は、眩しくも何ともなかった。
肌に艶がない。それに、顔色が優れない。
宿の灯りが少ないからそう見えるだけなのかもしれないが、
ユーシャは何かべつの理由があると確信に近い感情を持っていた。

「なあ。あんたもこの町も、ちょっとおかしいぞ」

禿げた男は目を見開く。
「あなた達、この町のひとではないんですね。旅人ですか?」

頷き、肯定する。

「早くこの町からは出たほうがいいです。
今すぐにとは言いませんが、なるべく早く」

「どうして?」

「……この町では、数年前からおかしな病気が流行っているんです。
おそらく、私も罹っているんだと思います」禿げた男は視線を落とす。

「病気?」ユーシャは眉間に皺を寄せる。「どんな病気?」


禿げた男は頭を押さえ、呻く。そして目を擦り、口を開く。
「何と申し上げたらいいのでしょうか……とにかく、無気力になるんです。
一日ごとに精神がゆっくりと削がれて、やがて動けなくなるんです。

食べ物も食べなくなって、何人ものひとがそのまま亡くなりました。
ここで働いていた仲間も、友人も、妻も、子どもも。
……きっと私も、このまま動けなくなるんでしょうね」

「だから、町にはひとがほとんどいなかったのか?」

「ええ……おそらく、そうなんでしょうね。
しかし最近は外の空気をほとんど吸っていませんから、
詳しいことはわかりません。申しわけありません……」

かける言葉はもう見当たらなかった。
早く彼の前から消え去りたい、と思った。


部屋を借りたいという旨を伝え、食事はどこで取れるかを訊いた。
どうやら食事はここで取れるらしいので、
早足で向かって左側に備え付けられたドアを開いた。
そこで魔法使いがいないことに気付く。

踵を返し、ふたたびドアを開け放つと、
立ったまま眠っている魔法使いの姿が見えた。
ユーシャは彼女の手を掴み、三度ドアを開け、食堂へ入る。
食堂には十メートルほどの長いテーブルが四つ並んでいて、
その脇にテーブルの何十倍もの数の椅子が見えた。

以前は、多くのひとがここを訪れたのだろう。しかし、今は見る影もない。
ガラスの内の炎が寂しげに光っているだけで、ひとの影はひとつも無かった。

「おい。起きろ。大丈夫か?」

ユーシャは魔法使いの頬を軽く叩く。
なかなか起きないので、徐々に力を強める。
まさか、もう病気に罹ったんじゃないだろうな。


しばらくすると彼女の顔が歪む。ユーシャは、「起きろ。飯だぞ」と言った。

魔法使いは目を開いた。寝ぼけ眼で、「ごはん」と呟く。

「よかった。へんな病気に罹ったんじゃなかったんだな」
ユーシャはほっと息を吐いた。空腹感が込み上げてくる。

「……なんで病気に罹ってると思ったのよ」
魔法使いは目を擦りながら、近くの椅子に腰掛けた。

ユーシャも隣に座る。「そりゃあ、あんな話聞いたら心配になるだろ」

「……あんな話って、どんな話?」

「聞いてなかったのか?」

「……たぶん。寝てたみたい」
魔法使いは照れ隠しのような笑みを見せた。

「お疲れのようですね。早く料理を作ってきますので、少々お待ちを」
背後で声がした。
振り返ると、さっきの禿げた男がそこに立っていた。

「あんたが作るのか?」ユーシャは心配して言った。


「ええ。この宿には、もう私しかいませんから」禿げた男は首を垂れた。
「しかし、私も昔は料理で腕を揮ったものです。
食べられないという事はないはずですよ」

「そうか。悪いな」

「いえいえ。大事なお客様ですから。
それに、久しぶりの会話も楽しいものです。元気が出ますよ」

「怪我だけしないようにしてくれよ」

「大丈夫ですよ」

禿げた男は厨房と思しき場所へ姿を消した。
食堂は静まり返る。音という音が消える。


「……ねえ」魔法使いは重い瞼を下ろさないように震わせながら言う。
「あのひと、この宿には私しかいないって……」

「お前、ほんとうに何も聞いてなかったんだな」
ユーシャは空腹と疲労で、すこし苛々していた。

「……ごめん」

「なんで謝るんだよ。……べつに怒ってないって」

「うん……」
魔法使いは視線を落とし、両脚をばたばたと忙しなく動かし始めた。

ユーシャは小さくため息を吐き、
「この町では、へんな病気が流行ってるんだってさ」と言った。
「……その病気に罹ると身体に力が入らなくなって、
そのうち動けなくなって、食べ物も食べられなくなって、死ぬんだって」

「流行ってるって……つまり、みんな病気だから、町が静かなの?」

ユーシャは首肯する。
「だから、明日にはここを出よう。あのひとも、そうしたほうがいいって」


魔法使いは頷いた。そしてふたたび両脚を動かす作業に戻る。
ふたりは漫然と中空を見つめながら、ひたすら待った。
十数分後、戸が開く音が響く。途端に芳しい香りが食堂を満たす。
自然と喉が鳴り、涎が湧いてくる。

禿げた男はふたりの前に皿を並べる。どの皿にもぬくもりがある。
魔法使いは待ちきれなかったのか、さっさと手を伸ばして
その中のひとつを口の中に放り込んだ。
そして咀嚼してから、「おいしい」と頬を緩めた。

ユーシャも後に続く。久しぶりに木の実以外のものを食べた。
自然と頬が綻ぶ。次々と料理に手が伸びる。どれも美味だった。

「気に入ってもらえたようでなによりです」
禿げた男はにこにこしながらふたりの正面に腰掛けた。

「あんたもちょっと元気になったみたいで嬉しいよ」

「旅の話を聞かせてもらえると、もっと元気になれます」

「そうか。……なら、ちょっとだけ話そうかな」


ユーシャは口に食べ物を詰めながら、滔々と話し始める。
ふたりが東の大陸の小さな村から来たこと。
彼女とは幼馴染であること。丘で星を見たこと。
港で変人に出会って、そいつと旅をしていること。
船で吐きそうになったこと。大森林を歩いたこと。
蟲の体液が異臭を放つこと。とにかくなんでも話した。
魔法使いも相槌を打って、ところどころに訂正を加えた。

旅の理由については話さなかった。禿げた男もそれを訊きはしなかった。
ただ、笑みを浮かべて話を聞いてくれていた。

「楽しそうですね。しかし、旅は大変でしょう?」禿げた男は言う。

「そう。ベッドとお風呂がないのがつらいのよねえ……」

禿げた男は笑った。「女の子にはつらいものがあるでしょうね。
代金は結構ですから、今日はゆっくりしていって下さいよ」

「え? いいの?」魔法使いは閉じかかった目を見開いた。

「ええ、どうぞ。お金も大事ですが、私はここを訪れるひと達から
話を聞かせてもらうのが好きなんです。今日は久しぶりに話が聞けて
楽しかったですよ。私が宿をしているのには、そういう理由もあるんです」

「面白いひとだな、あんた」

「そう言ってもらえると嬉しいです。汚い建物ですが、ゆっくりしていって下さいね」


食事を終えてから食堂から出た。
窓の外は綺麗な橙色に染まっている。まだ陽は沈んでいないようだ。

禿げた男に案内されて廊下を渡る。廊下には絵がいくつも飾られていた。
青空。夕焼け。城。海。砂漠。森林。火山。怪物。
「これらの絵は、私が描いたんですよ」と彼は言う。

手先が器用だとも言っていた。自慢げだった。
確かに、どれもよく出来たものだった。
絵の知識が皆無に等しいユーシャにも、それらの美しさは感じ取ることができた。

並べられた絵を眺めていると、奇妙な絵に目を奪われた。
木の生い茂る大きな山から、竜の頭のようなものが飛び出している絵だ。
何かの怪物の絵のように見える。

「これは何だ?」ユーシャが言った。

「これは、この大陸の神様です」

「神様?」こんなものが神様だって? どう見ても怪物じゃないか。
喉まで出掛かった言葉は、唾といっしょに胃に送った。

「ええ。御伽噺の神様です。この大陸のどこかにいるそうですよ」

「ふうん」

「この町がこんなになっても姿すら見せてくれない、薄情な神様ですよ」
禿げた男は視線を落として小さく笑った。


案内されたのは、この宿でいちばん大きな部屋だった。
ベッドが四つとテーブルがふたつ。椅子は八つほどあり、窓が三箇所。
箪笥や本棚も置いてあるが、それでもまだ余裕はある。

禿げた男は戸を開けたまま言う。
「ごゆっくりどうぞ。明日の朝食のときにでも、また話を聞かせてください」

「ん。わかった。……ああ、そういえば、夜になったらさっき話した
港で会った変態が来るから。でっかい剣を背負ってるやつ」

「大きな剣ですか……わかりました。この部屋に案内しますか?」

「そうしといてくれ」

「わかりました」
禿げた男の声に重なるように、軋んだ戸は不快な音を鳴らして閉まった。


音が消え、不気味な静けさが部屋に充満する。
ぬるい空気は、この町の置かれた境遇を思い返させた。

ひとのいない大通り。流れる冷たい風。生活感の無い町の風貌。
足りないのは、ひとの姿とぬくもり。

かつては大陸でもっとも栄えた町は、病により滅びようとしている。
ユーシャにはそれが、他人事のように思えなかった。
どうにかしてやりたいとは思っても、出来ることは何もない。
彼に唯一出来ることは、魔王を討つことだけだ。

魔王を討つことで、この国が救われるのかどうかはわからない。
病と魔王は関係が無いという可能性もあるが、
何かが繋がっているような気がする。
根拠は無いが、そう思った。そう信じたいだけなのかもしれない。


しかし、仮に魔王が消え失せて、病が去ったとしても、
この町は手遅れなのかもしれない。町は既に瀕死の状態のように見える。
おそらく、魔王と邂逅するまでに町は死んでしまう。

この国の王様は、いったいどうしているのだろう?
何も知らないなんてことはない筈だ。
ならば姿を見せて、国民を励ましてやるのが王様としての務めではないのか?
それとも、すでに病に侵されてしまったのだろうか?
結局、病気については、誰も何もわからないのだろうか?

このままだと、この町はほぼ間違い無く地図から消滅する。
いずれは人々の記憶からも消える。存在などなかった事になってしまう。
曲がりくねった壁も、城も、この宿も、あの禿げた男も、みんなだ。
どうにかできないものか――

どうにもならないものだ。ユーシャは自身の非力と無知を悔やんだ。
しかし、それらの葛藤は眠気に上塗りされる。
明日のことで精一杯なのに、ずっと未来のことなど考えていられない。
そんなことをしていたら、頭が爆発しそうになる。


脳を揺すり、頭を空っぽにする。空っぽの頭に、眠気が流れ込んでくる。
「腹が膨れたら眠たくなってきた……」
ユーシャはベッドに腰掛け、大きな欠伸を吐いた。

「んん……眠い」魔法使いは隣に寝転がった。

拙い。このまま寝てしまうと、翌朝は腹に拳が刺さってしまう。
ユーシャは隣のベッドに移動した。しかし、魔法使いはほとんど目を閉じながら
ふらふらと歩き、ふたたびユーシャの隣に寝転んだ。

「……なんでこっち来るんだよ」

「なんか、ここ怖い……」

「俺はお前が怖いよ」

魔法使いはユーシャの手を掴んだ。「これで逃げられない」

「……そうだな」ユーシャは平静を装いながら、小さな手を握り返した。
皮膚がゆっくりと焼けるような感覚に襲われ、唇が乾く。
「でも確かに、ここはおかしなところだよな。俺もちょっと怖い」


「ふうん。……じゃあ、何かあったら助けてあげる」

「どうも」

「だから、あんたもわたしに何かあったら助けてね」

「うん。わかってるって。当たり前だろ」
ユーシャは微笑んだが、頭が睡魔の重さにより、がくんと下方へ落ちる。
反射的に頭を動かし、もとの高さに戻す。

「大丈夫?」

「うん、らいじょうぶだ……うん? だいじょおう」舌が回らない。瞼が重い。

「頼りない」魔法使いは歯を見せて薄く笑った。
そしてまもなく重くなった瞼を下ろし、静かに寝息を立て始めた。


ユーシャも隣に寝転んだ。手が繋がったままなので、逃げられない。
べつに逃げたいとは思わないが、明日の朝がすこし怖い。
しかし、腹へのパンチ一発と引き換えに、
至近距離で彼女の顔を拝めるのは安上がりなのかもしれない。
今のうちに目に焼き付けておこう、とユーシャは自分に言い聞かせた。

さらさらとした長い栗色の髪が、彼女の顔にかかっている。
息を吐く度に揺れて、また顔にへばりつく。
微笑ましく思ったが、なんだか邪魔そうなので、
空いた手で頬に触れて払い除けてやった。

頬はとても柔らかい。もっと触れていたいと思わずにはいられなかった。
ユーシャは彼女の頬に手を添える。手のひらを人肌のぬくもりが撫でる。
今までこんな風に触れたことがなかったからなのか、
彼女はとても脆いもののように思える。
柔らかくて、細くて、脆い、普通の女の子に見える。


そのまま頬に手を添えていると、魔法使いの眉間に皺が寄った。

拙い。やり過ぎた。起こしてしまったか?
ぼんやりする頭で思うが、結局、頬から手を除けなかった。
すぐに魔法使いの表情は穏やかなものに戻った。
どうやら、起きてはいないらしい。ほっと息を吐く。

そのまま穏やかな彼女の顔を眺める。
しばらくすると、微笑み始める。それは救いのように見えた。

なにがそんなに嬉しいんだろう。いったいどんな夢を見ているんだ?
ユーシャは頭の中で問いかける。返事は無い。
ただ彼女は微笑む。唇を小さく歪め、子どものような笑みを浮かべる。
まるで怖いものなど何も無いという風に、無防備に眠る。
それはユーシャの深いところに沈んでいた何かを突いて揺らす。


頬に置いた手の親指で、彼女の下唇に触れる。
湿った唇は、頬とは比べ物にならないほど柔らかい。
今までに触れたどんなものよりも柔らかくて、あたたかい。
吐息が親指を覆う。彼女は目を醒まさない。

そのまま手を添えて、黙って彼女の顔を眺めた。
しばらくすると、何かものすごく悪いことをしているような気分になってくる。

彼女は小さく呻き、目を開く。
細く開かれた目は、意識があることをユーシャに理解させる。
拙い。やり過ぎた。起こしてしまった。
でも、離れようとは思えなかった。手を離すのがめんどくさかった。
それに目も閉じかけていて、頭が上手く回らなかった。

目が合う。魔法使いはユーシャの目を凝視する。
ユーシャも彼女の目から視線を外さなかった。

「……なにしてるの」魔法使いは怪しい呂律で言った。

「ごめんなさい……つい、出来心で」

「……そう」

魔法使いは唇に添えられた親指を舐めた。
手に痺れるような感覚が走る。思わず目を見開いた。


「……なにしてんだ」

「……つい、出来心で」
魔法使いは添えられた親指を咥え、軽く噛んだ。
指が熱い唾液で覆われる。そして、ふたたびそこを舌が這う。
それは一分近く続いた。やがて、吐息が熱いものに変わり始める。

「……あんたの手、大きくて、あったかい」魔法使いは舌を出して言った。
「でも、ざらざらしてて、苦くて、硬い」

「……汚いから止めとけって」
ユーシャは目を泳がせながら、乾いた唇を舐めた。

「……いや?」

「い、嫌じゃないけどさ……」

「そう」魔法使いは妖艶に笑い、ゆっくりと目を閉じた。
ふたたび寝息をたて、小さな胸を上下させる。


訳がわからない。ユーシャは混乱していた。怒鳴られなかった。殴られなかった。
それだけでもおかしいのに、これはどういうことなんだろう。

混乱していたのは確かだが、同時にとてもいい気分だった。
息をしながら水中を漂っているような、
内側が宙に浮いているような、とにかく感じたことのないようなものだった。

まるで全身が液体に変わっていくように、身体の力が抜けていく。
瞼が鉛に変わっているように感じる。
下りていく瞼の隙間から最後に見えたのは、喜色満面の彼女だった。





ユーシャは目を覚ます。視界の端で、蝋燭に灯った炎が揺れた。
眠気が尋常ではないものだったので、
寝転んだまま潰れそうな眼球を動かし、窓の外を眺める。

暗い。空は真っ黒だった。どう見ても朝ではない。星が見える。月も見える。
おそらく、日付が変わったばかりなのだろう。
いつもよりも早く寝たことで、リズムが狂ってしまったのだろうか。
久しぶりにこんなに黒い空を見た。

のろのろと身体を起こす。手は魔法使いと繋がったままだった。
軽く振ると、指は解けた。

「数時間前はお楽しみだったんですか?」
左側の鼓膜を揺する男の声。爽やかなのだが、好きになれない声。


ゆっくりと頭だけを左側に向けると、今までに見たことがないほど
気持ち悪い笑顔の大剣使いが映った。
そこまでされると気持ち悪いを通り越して、むしろ清々しかった。
普段なら苛々したのだろうが、眠気のせいなのか、恥ずかしい。顔が熱くなる。

曇る頭の中に、細い目をした魔法使いの顔が浮かぶ。
柔らかい頬と唇。熱い吐息と唾液。
あれは、夢? 夢じゃない? 幻覚? 妄想?

夢というにはあまりにも生々しく回想できてしまう。
あれが夢じゃないというなら、おそらく彼女は寝ぼけていたのだろう。

「おお、否定しなんですか?」
大剣使いは破顔しながら、向かいのベッドに腰掛けた。
そしてそのままの表情で拍手をする。「おめでとうございます」

「……違うからな。お前が思ってるようなことは何も起こってないからな」

「ほんとうですか? 顔が赤いですよ?」

「うるさい。なんにもないって」


「まあ、確かにベッドは全く汚れていないですしね……。
でも、私が思っているようなことは起こってなくても、何かあったんでしょう?
私にはわかりますよ。ふたりとも嬉しそうな顔して寝てました。
それに、手とか繋いじゃったりしてましたし」大剣使いは最後に吹き出した。

「大したことじゃないって」

「ほほう。やはりあったんですね。それは是非とも詳しく……」

「言わないぞ。聞きたいならこいつに訊いてくれ」
ユーシャは魔法使いの頭に手を置いた。

「私に死ねって言うんですか?」大剣使いは笑った。

「ああ。半殺しにされちまえ」ユーシャも笑う。
そして思い出したように、「で、この町の病気についてわかったのか?」と訊いた。

「すでにこの町に疫病が蔓延ってるという事は知っているんですね」

ユーシャは頷く。「宿のおっさんから聞いた」


「疫病については、症状以外はほとんど何もわかりませんでした。
症状については、もうご存知でしょう」

脳裏に過ぎるのは、虚ろな目をした禿げた男。
町には、あんなものが数え切れないほど犇いているのかと思うと、
ふわふわとした風船のような気分は破裂して消え失せ、
鉛のように重いものが胸の内に居座り始める。

「ほかにわかったのは、病気の流行は数年前からだとか、
王様は何かを隠してるだとか、そんなことです。
あとは生気の無い酒場の酔っ払い達から聞いた愚痴ばかりですよ」

「王様が隠し事をしてるって、どういうことだ?」

「聞いた話では、この国の王様は病的に用心深いんだとか。
外に出るときには、護衛の兵が彼の周囲を何重にも覆うそうです。
他にも、小さな物音に怯えて、それの正体を突き止めないと
気が気ではないんだとか。

で、酒場の酔っ払いが言うには、“あれは何かを隠してるやつの挙動だ”とか
“あいつは秘密が漏れるのを怖がってるに違いない”だとか何とか」

「身も蓋もないな」

「ですね。酔っ払いはこの世で信用してはいけないもののひとつです。
――それで、病気が流行り始めると、
王様は城から全く出てこなくなったそうです」


「……確かに病気は怖いけど、それは王様としてはどうかと思うな」

「そうですね。王には、やるべきことがたくさんあります。
でも、彼はそれを放棄して、国を捨てようとしています。
彼はこの国を滅ぼしたいのかもしれませんね。
今のこの国の形相は、王の意思だとも受け取れます」

そんなことはない筈だ。そんなことはあってはならない。
滅ぼしたいだなんて、思っている筈がない。何か理由があるはずだ。
王様というのは、国と民のことを誰よりも想うひとではないのか?

(嫌なやつだったけれども)東の国王だって、誰よりも自国の民を愛している筈だ。
現に、東の王国の民は、みんな笑顔だったではないか。
しかし、この国の王は姿を現さない。笑顔など微塵も見当たらない。

何か理由があるはずなんだ。ユーシャは自分を必死に納得させようとする。
王はすでに死んでしまったという可能性だってある。
それならば姿を見せないのにも合点がいく。
しかし、死んでしまったのなら、この国はどうなる?
新しい王を迎えられるような状態ではないように見える。

王様って、何だ? 何が正解で、何が間違いなんだ?
俺は何をすればいい? 俺には何が出来る?

ユーシャには何もわからなかった。


大剣使いはしばらくの沈黙を破って言う。
「……もしかすると、王様は病の原因を知っているのではないか、と私は思うんです。
それを隠したい、あるいは知られてはいけないから篭城しているのでは、と。
今更国民に知れ渡っても、どうして黙っていたと責められるだけでしょう。
だから姿を見せない、あるいは見せられない」

「どうしてそう思うんだ?」

「疑わずにはいられない性格でして」大剣使いは微笑む。
「でも、そう考えれば王様の行動にも納得できます」

「でも」

「王としては最低ですが、彼もひとです。恐怖には勝てないものです。
肝心なときは理性ではなく、結局本能に従うようになってるんです。
それに、おそらく彼は身を守るすべを知らないんでしょう。
殻に籠るか、遠くに逃げるかくらいしか。可哀想なひとです」

大剣使いの目にユーシャの顔が映る。
それは普段とは比べ物にならないほどに暗いものだった。

軽くため息を吐き、なぐさめを込めて「……まあ、全部たとえばの話です。
もしかすると、王は死んでしまったのかもしれませんよ」と軽い後付をした。
ユーシャの表情は晴れなかった。


大剣使いは続ける。
「怖い顔しないでくださいよ。この国のことは、
私たちには何の関係もないじゃないですか」

「それはそうだけど……なんか気分が悪いんだよな」

「できる事なら国を救いたい、とでも思ってるんですか?」

ユーシャは頷く。「馬鹿みたいだけどな」

大剣使いは微笑んだ。
「さすがは勇者様。カッコイイこと言うじゃないですか。
でも、憶えておいた方がいいです。
世の中には、どうにもならないことがあるんですよ。
仮令、あなたが御伽噺の勇者だとしてもね」

ユーシャは重い瞼をこじ開け、大剣使いに訝しげな視線をぶつけた。
「……なんで俺が勇者だって知ってるんだ?」


「あなたが寝ぼけて言ったんじゃないですか。“魔王を倒したら”って。
それで彼女に確認したら、全部教えてくれましたよ。旅の理由も、目的地も。
全部信じたわけじゃないんですけどね」

「……そうか」ユーシャの瞼はふたたび重さを増す。
あまりの重さに、ベッドに寝転がった。

「……まあ、どっちにしろ、ここに留まるのは明日の朝までです。
私たちに出来ることは何もありません」大剣使いはベッドに寝転がる。
「それでこの町の話に戻しますが、この町に蔓延っている“これ”は、
病気ではないのではないかと、私は思うんです」

「……病気じゃない? じゃあ、何なんだ?」


「さっぱりわかりません。でも、これが病だと仮定すると、
肉体的なものというよりは、精神的なものだと思うんです。
精神病は伝染するそうですが、
国を丸ごとひとつ駄目にしてしまうような事が起こりうるものなんでしょうか?

どうも私には納得がいきません。しかも、直接の死因は病気ではなく、
身動きが取れなくなることによる飢餓が多いようですし、何か違和感があります」

確かに禿げた男も、“食べ物も食べなくなって、何人ものひとがそのまま死んだ”
という風な事を言っていたような気がする。

「まあ、全てただの推測です。
ほんとうのことは、いずれ嫌でもわかるんじゃないでしょうか。
あなたの旅は、きっとそういうものになるはずです」
大剣使いは言い残し、目を閉じた。

ユーシャも魔法使いの手をそっと握りなおして、瞼を下ろした。





魔法使いは目を覚ました。朝のはずなのだが、窓の外は薄暗い。
天気はあまりよろしくないようだ。
これでは太陽から貰えるエネルギーが半減してしまう。

しかし、灼熱の日差しが厚い雲に遮られているおかげで、
昨日よりも涼しく感じられる。彼女としては、そちらの方が嬉しかった。
この大陸は暑くて堪らない。汗がべたついて、気持ち悪い。
それに、エネルギーなんてどうにでもなる。

上体を起こし、隣を見るとユーシャが眠っている。
お互いの指が微かに触れ合っていた。
ほぼ反射的に握り拳を作ろうとするが、それよりも早く顔が赤みを帯びた。
脳裏には昨夜の出来事が鮮明に再生される。ますます顔が熱くなった。


どうしてあんなことをしたんだろう。
悪い気分では無かったが、恥ずかしくてどうしようもない。

疲れていたり眠くなったりすると、どうもよくわからなくなる。
あれは所謂、ほんとうの自分なのだろうか。
それとも、そのときにだけ現れる、隠れていたものなのだろうか。
はたまた、自分の意思とは何かべつのものなのか。
どうでもいいことなのだろうが、どうでもいいで済ませたくはなかった。

魔法使いは昨晩の出来事をふたたび回想する。
手を握ったまますこし眠って、ゆっくりと目を開けたら
ユーシャの顔が目の前にあって、頬に大きな手が被さってて、
わたしが喋ると彼は目を泳がせて、
そしたらすごく気分が良くなって――

「そんなに嬉しそうな顔しちゃって、昨夜はよほど楽しかったんですね」
鼓膜を揺する男の声。

魔法使いは身体をびくりと震わせた。
ゆっくりと顔を声のほうに向けると、隣のベッドに腰掛けながら
歯を見せて笑う大剣使いの姿があった。


「……おはよう」
魔法使いは真っ赤な顔で、威嚇するように歯を見せて言った。
そして立ち上がり、大剣使いの脇を通り抜け、早足で風呂へ向かう。

「あれ、殴らないんですか?」

「……今日は気分がいいの。でも、黙ってないと殴るわよ」

「ほほう。気分がいい、ですか。じゃあ、私といっしょにお風呂でもどうです?」

「死ね」と魔法使いは足を止めずに言う。

「冗談ですよ」と大剣使いは笑う。

風呂の戸は高く鳴いて、勢いよく閉まった。

「気分がいい、ですって。聞きましたか? ユーシャ様」

返事は無かった。


魔法使いが風呂から戻るころには、ユーシャも目を覚ましていた。
三人は部屋から出て、絵の飾られた廊下を欠伸を吐きながら渡る。

食堂のドアをゆっくりと開けると、禿げた男が椅子に座りながら
中空を見つめているのを見つけた。
ゆっくりと近寄って声をかけても、反応は無い。
昨晩から、ずっとここで座っていたのだろうか。

目を覗き込んでみると、吸い込まれてしまいそうなほどの黒さだった。
そこに光は無かった。生気があまり感じられない。
ほんとうに生きているのかと不安になる。

「おい、起きろ」ユーシャは禿げた男に声をかけ、頬を軽く叩く。
禿げた男は反応を示さない。
「大丈夫?」魔法使いはユーシャが叩いているのと逆側の頬を叩く。

禿げた男の眼球がゆっくりと動き始めた。
上に、下に、右に、左に、左に、左に、左。

やがて焦点が合わさると禿げた男は身体をびくりと震わせ、
「は、はい」と間抜けな声を上げた。


「大丈夫ですか?」大剣使いが後ろで言った。

「……ああ、私は、また」禿げた男は眉間に皺を寄せて、硬く目を閉じた。
そのまま頭を押さえて、揺する。
「すみません。すぐに朝食をお持ちしますので……」

「無理しなくてもいいのよ」と、魔法使い。

「いえ、大丈夫です。あなた達を見送るまでは踏ん張りますよ」
禿げた男は立ち上がり、厨房へ続いているものと思しき扉へ向かう。

しかし、扉の前で立ち止まった。
また病気の仕業かと思った矢先、身体を反転させてこちらを見る。
そして大剣使いに向かって、
「そういえばあなた、ここに何回か来てくれてますよね?」と訊いた。

大剣使いは「はい。憶えててくれたんですね」と微笑んだ。

「それはもう、そんな大きな剣を背負ってる方は、あなたくらいしかいないでしょう。
それに、何年か前に話を聞かせてもらいましたしね。また聞かせてくださいよ」

「もちろんですよ」


禿げた男は笑顔で扉の向こうに消える。
食堂には小鳥のさえずりだけが響く。

やがてユーシャは言う。「顔が広いんだな」

大剣使いは「広いのは剣の顔みたいですね」と苦笑いをこぼした。
「私の顔は誰も憶えてはくれないみたいです」

「綺麗な顔してるのに、それよりも剣が目立ちすぎなのよ、あんた」
魔法使いが言う。「だから女が引っ掛からないのよ」

「嬉しいこと言ってくれますね」と大剣使いは笑った。
魔法使いは「ふん」と鼻を鳴らして、椅子に腰掛けた。
ユーシャもふたつ隣に座る。

大剣使いはふたりの間に立ち、ふたりの顔を交互に眺めながら、
「なんで間を空けて座ってるんですか?
いつもみたいに隣同士に座っていちゃいちゃすればいいのに」と言った。

沈黙。

「複雑な時期なんですね。倦怠期ってやつですか? 私にはよくわからないです」
大剣使いはふたりの間に腰掛けた。


それからほとんど時間も経たないうちに、簡素な朝食が運ばれてきた。
禿げた男も向かいに腰掛けて、四人で
もそもそとパンを頬張りながら、旅の話をする。

魔法使いは大剣使いの昔話が聞けるんじゃないかとすこし期待していたが、
結局彼は港で出会ったときから今までの話しかしなかった。
内容もユーシャと魔法使いのことばかりで、すこし恥ずかしくなる。
彼自身の事については、まったく触れなかった。

そういえば、と魔法使いは思う。
出会ってから今まで、大剣使いは自身の話をほとんどしていない。
ユーシャがどうして雇われになったのかと訊いたときも、はぐらかされた。
語りたくないような不幸があったのだろうか。
それとも、ただ長々と話すのが面倒なのか。それとも、彼は何かを隠してる?

「旅は楽しいですか?」と禿げた男は訊いた。

大剣使いは笑顔で、「それはもう」と答える。「今まででいちばん楽しい旅です」

「ほんとうかよ」とユーシャが笑顔で肘で大剣使いを突く。

「ほんとうですよ」と大剣使いは肘で突き返した。


魔法使いは思わず小さく綻んだ。そのまま肘で思いっきり大剣使いを突いて、
「わたし達の話はもういいから、あんたの話を聞かせなさいよ」と言った。

「そうだ」とユーシャが言う。「結局、お前はなんで雇われになったんだよ」

「それは是非私も聞きたいですね」と禿げた男も耳を傾ける。

「話さないとだめですか?」

「だめ」

大剣使いはため息を吐く。「べつに、これといった理由はないですよ。
ただ、私に残った数少ない道のうちのひとつがこれで、
私がそれを選んだというだけの話です。

何か大きな野望とか夢があるわけではありません。
生きるために仕方なく、ってやつです。
でも、あなた達と旅をするのはほんとうに楽しいんですよ」

「いろいろあるんですね」と禿げた男は言う。

「いろいろあるんですよ」と大剣使いは返す。
「でも、大体の事はどうにでもなるんです。私の先生がよく言っていました」

「先生?」

「そう。先生です。私の、人間の先生です」
大剣使いは目を瞑った。「懐かしいです」


「ふうん」と魔法使い。「あんたはどこの出身なの?」

大剣使いは目を瞑ったまま、「どこなんでしょうね」と言った。

「わからないのか?」と、ユーシャ。

「わからないです。ただ先生に拾われたのは、
西の大陸の端っこの方でしたね」大剣使いは目を細く開く。

「拾われた、ですか」禿げた男は視線を落として言った。

「砂浜に転がっていた、と先生は言ってました。私が五歳か六歳の頃です」

「あんたも大変なのね」

「そうですね。人並みには苦労してきたつもりです」
大剣使いは椅子から立ち上がった。そして食堂の出口に向かう。
「でも、どうにでもなるんですよ」


「雇われにならなかったら、あなたは何になっていましたか?」と
禿げた男は遠ざかる背中に声をかけた。

大剣使いは振り返らずにすこし考えた後、「パン屋さんですかね?」と答えた。
意味がわからなかった。彼はそのまま食堂から出ていった。

「相変わらず、よくわからないひとです」禿げた男が笑う。

「確かに」魔法使いは頷く。「なに考えてるのかさっぱりわからないわ」

「確かに」ユーシャも頷いた。「よくわからん」



パンで腹を満たしたユーシャと魔法使いは、宿の外へ出た。
外気は乾いた熱を持っていた。
太陽が厚い雲で覆われていても、西の大陸と比べるとかなりの暑さだった。

「さあ、そろそろ行きましょうか」先に外で待っていた大剣使いは言う。
「第二王国まではかなり距離がありますけど、我慢してくださいね」

「何、わたしに言ってるの?」魔法使いは言った。

「あなた以外に誰がいるんですか」

「第二王国というと、東に向かうんですね」
禿げた男はふたりの間に割って入る。
「大陸中央の橋を渡って、“蜘蛛の巣”を抜ければ第二王国です。
でも、“蜘蛛の巣”は気を付けて通ってくださいね」

「蜘蛛の巣に気を付けることなんかあるのか?」と、ユーシャ。

「“蜘蛛の巣”というのは、第二王国付近にある洞窟の渾名です」と
禿げた男が補足する。「名前のとおり、蜘蛛がうようよいるらしいですよ」

「ふうん」魔法使いは首を傾げながら言う。
「まあ、みんな焼いちゃえばいいわ」

「頼もしいですねえ」


「じゃあ、そろそろ行くよ」
ユーシャは振り返り、歩き始めた。魔法使いも後に続く。

禿げた男は「また来てくださいね」と言った。

魔法使いの内側は、何かで引っ掻かれたような複雑な気分に陥った。
次に来たとき、この国は存在していて、彼は生きているのだろうか?
わたし達は、戻ってこられるのだろうか?

魔法使いの内心を無視し、彼は言う。
「次に来てくれたとき、あなたたちに見せたいものがあるんです」

「見せたいもの? なんですか?」

「それは秘密です」と禿げた男は笑う。「だから、また来てくださいね」

「うん」魔法使いは微笑んだ。

三人はふたたび歩き始める。進みながら、手を振った。
大きな町の中でひとり、手を振り返す男の姿は、とても小さなものに見えた。

つづく





痺れて、焼ける。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。

抉られる。擦り切れる。削がれる。
吸い込めない。
吐き出せない。
何も感じない。
動けない。進めない。

無限の中に囚われてしまった。





蜘蛛の巣と呼ばれる洞窟は、じめじめとした場所だった。
外よりも空気が冷たく、湿っぽい。
暑さに関してはマシだったが、あまり長居したい場所ではないのは確かだった。

ぽっかりと開いた穴から入ってすぐの通路の幅は五メートルほどあって、
高さも三メートルほどあった。足元は小さな凹凸がある程度で、ほとんど平らだった。
歩くのには苦労しないが、すこし息苦しさを感じる。
壁が迫ってくるのではないかという、根拠もない幻想が脳を掠めた。

洞窟の入り口から数十メートルまでは外の光が射していたが、
やがて届かなくなる。しかし、洞窟の中はまだ明るい。
誰かが光の魔術を使っているわけでもないようだ。

「なんだ、これ」と戦士は見上げる。


勇者と僧侶も視線を上げる。
低い天井は淡く発光する植物らしきものにびっしりと覆われていた。

「苔?」と僧侶は言う。
「茸みたいなのも見えるね」と勇者は言った。「どうして光ってるんだろう」

「そういう植物なんだろ。俺にはよくわからないけど。
まあ、なんだっていいさ。エネルギーを使わないで進めるんなら、それは好都合だ。
蜘蛛が出てきたときのために、体力は置いておいた方がいい。
どうせ馬鹿みたいにでかい蜘蛛だろうからな」

「そうだね……」僧侶は青い顔で言った。

「まだ蜘蛛どころか蜘蛛の巣すら拝んでないのに、顔がすごいぞ」

「そうかな……」

「蜘蛛が出てきても倒れないでくれよ」戦士は笑う。

「大丈夫……たぶん」僧侶は無理やり笑みを作った。


しばらく歩くと、光る苔は足元にまで広がってきた。
道もだんだんとぐねぐねと曲がり始め、急勾配の通路も見える。
ほとんど垂直に続く道などもあったが、肝心の蜘蛛の姿はどこにも見当たらなかった。

どこかに隠れているのだろうか。
それとも、獲物が巣にかかるのを息を潜めながらじっと見つめているのか。
しかし、蜘蛛どころか蜘蛛の巣の姿すら見当たらない。
ほんとうにここには蜘蛛がいるのだろうか。

突然、僧侶は絶叫する。
勇者は鼓膜が吹っ飛んでしまうのではないかと不安になった。
僧侶は叫び続ける。勇者の耳元で叫び続ける。
でも抱きついてはくれなかった。もっと頼ってくれてもいいのに。

「蜘蛛か?」戦士はゆっくりと剣を引き抜く。
もし洞窟のどこかに蜘蛛がいたのなら、間違いなくこちらの存在を伝えてしまっただろう。


「あれ、あれ……」僧侶は青褪めた顔で小さな脇道を指差した。
小さいといっても、幅も高さも二、三メートルはある。

そこには確かに蜘蛛らしきものの姿があった。
体長は一メートルほどだろう。脚は四本しかなく、全身は蛍光色の毛で覆われている。
頭と思しき場所にはつぶらな瞳が十ほどあって、口元が忙しなく蠢いていた。

蜘蛛の目は勇者たちを確実に捉えていた。
しかし、そのまま穴の奥に吸い込まれるように消えた。

「逃げちまったぞ」戦士は剣を鞘に収める。

「不利だと思ったのかな。向こうは一体だけだったみたいだし」

「かもな。俺たちが蜘蛛の巣に引っ掛かったら、うじゃうじゃ出てきたりして」

「もうやめて……」僧侶の顔は真っ青を通り越して真っ赤になっていた。
目が潤んでいるように見える。「もうやだ……」


勇者は無視して言う。「なあ、ところで、ここの出口ってどこなんだろう」

「さあ。でも、そのうち見つかるだろ。一日もあれば抜けられるさ」と戦士は答える。

「早めに見つけようね……」僧侶は勇者の肩に手を置いて、体重をかける。
「一日もこんなところにいたら、わたしおかしくなっちゃうよ……」
僧侶の脚は震えていて、立っているのがやっとのように見えた。





声が聞こえる。女の声。
でも、彼女の声じゃない。
足音が伝わってくる。三人。
ふたりじゃない。

誰も通さない。
怪物も蟲も蜘蛛も人間も、
誰も通してはならない。

約束したから。
約束したから。





水の滴る音が、どこからともなく湧いてくる。
道は勇者たちを締め上げるように狭まっていく。息苦しくて、気分が悪い。

苔が肌を撫で、岩肌が皮膚を擦る。
それでも蜘蛛の巣に引っ掛かるよりは
こちらの方がマシと考えれば、大したことではない。

あの大きさの蜘蛛なら、巣も相当な大きさだろう。
頭の中にある普通の蜘蛛の巣とは別物のはずだ。
巣に引っ掛かったら最後、蜘蛛の餌食になってしまうかもしれない。
考えただけでもおぞましい。

しかし、一時間ほど進んでも蜘蛛の巣はまったく見当たらない。
蜘蛛も、先程遭遇した一匹を除き、まだ見ていない。
聞いた話では、ここには蜘蛛が犇いているはずなのに、これはどういうことなんだろう。


蜘蛛が出ないとわかると、僧侶も落ち着きを取り戻した。勇者は息を吐く。
ほっとしたような、がっかりしたような、その隙間くらいのため息だった。

しかし、蟲が襲ってこないのなら、それは好都合であった。
洞窟を抜けても、先はまだ長い。
無駄な体力は使うべきではない。先では何が起こるかわからない。

突然、僧侶が悲鳴を上げる。「ひっ」という小さなものだったが、
洞窟の岩肌に反響して勇者たちの耳を揺らした後、暗闇に飲まれた。
この“蜘蛛の巣”は異常と言ってもいいほどに音がよく通る。気がする。

「どうした? 蜘蛛か?」戦士が剣に手を添えて言った。

「違う……あれ」僧侶は前方の暗闇を指差した。


目を凝らしてみると、暗闇に白っぽい何かが見える。
ゆっくりと近付いてみると、それは人の頭だった。
肉も毛もない、白骨だった。辺りには他の箇所の骨が散らばっている。

「……蜘蛛の仕業かな」勇者は息を呑んだ。

「かもな。もしかすると、他にも何かがいるのかも。
俺たちもこうならないように、用心深く進まないとな」

「うん……」僧侶は目を瞑った。

勇者は散った骨を眺める。
白骨遺体は初めて見たが、頭蓋骨以外は別段恐ろしいという風には見えない。
生気のない白いそれは、石のようにも感じられる。そこらに転がる、石と同じ。

素人目で見ると、骨はどれも綺麗な状態に見える。
まるで肉だけをしゃぶり尽くして、骨は捨てられてしまったような印象を受けた。
おそらく、こんな場所にいるからそんな考えが浮かんだのだろう。
しかし、骨はそれほど綺麗だった。あまり時間は経っていないようにも見える。

背筋に何か冷たいものが流れる。
もしかするとここは、とんでもなく危険な場所なのではないか?


僧侶は目をゆっくりと開く。そして呪文を呟き、小さな光の玉を出現させる。
弱い光が辺りを照らす。骨の周囲の壁は、真っ黒だった。
ちょうど骨の辺りだけが、焦げて黒に染まっている。
そこが暗いのは、苔が焼かれて消え去ってしまったからなのだろう。

「なんだ? ここの蜘蛛は、火でも噴くのか?」戦士は眉を顰める。

「もしくは蜘蛛ではない何かが、とか」

「……蜘蛛以外にも注意した方がいいかもね」
僧侶は呪文を呟く。三人は頑丈な“膜”に覆われた。



しばらく細い通路を歩くと、今度はだだっ広い通路に突き当たった。
天井が高い。五、六メートルはあるだろう。幅も十メートルはある。

見上げると、苔やら茸やらがびっしりと生えている。
どれも淡く輝き、洞窟内を黄色や黄緑、青に染める。
綺麗なのだが、非現実的で恐ろしく見えた。
この世の光景ではないように思える。

「すこし休憩しよう。暑い」戦士が言う。額と鼻の頭には粒が浮いている。

「確かに暑い」勇者は湿った岩肌に腰を降ろした。

細い通路は蒸し暑くて仕方なかったが、ここは随分と涼しい。
どこかからは、水の落ちる音が聞こえる。小さな滝でもあるのだろうか。


僧侶も腰を下ろし、天井を見上げながら息を吐いた。
「わたし達、ここから出られるよね?」

「たぶんな」と戦士が笑った。

「結構深いところまで潜ったみたいだけど、
この道が正解なのかもわからないんだよね」と、勇者。
「まだ半分も来てなかったりして」自分で言っておいて、ぞっとする。

「ほんとうに行き当たりばったりだよね、わたし達」
僧侶は首を垂れて、長いため息を吐いた。
「もっとこう、綿密な計画を練ってさあ……」

「リーダー、お姉ちゃんが計画を練れってさ」

「そんなこと言われても……」
洞窟の地図もないし、どんな怪物がいるのかも知らない。
どうにもならない。「どうにもならないよ」


「だよな。どうにもならんさ。でも死なずに歩けば、いずれ出られる。
それでいいだろ。“死ぬな、歩け計画”だ」
戦士は満足げな表情を浮かべる。

「お兄ちゃんは、ほんとうに行き当たりばったりだよね……」

「ぬううぇえええいぃああ」と戦士が奇妙な声を上げた。
「その呼ばれ方、最高に気持ち悪い」

「お兄ちゃんは酷いね。妹はすごく悲しいよ……」
僧侶は悲しい素振りを微塵も見せずに言った。

「うわあ……寒くなってきた。早くここから出ようぜ」
戦士は立ち上がり、せかせかと歩き始めた。
ほとんど休憩は出来ていないが、勇者と僧侶も後に続いた。





足音が近付いてくる。
三人分の、人間の足音。
身体が軽い。服が重い。
剣が異常に重い。
でも立たなければならない。

約束したから。
約束したから。





大きな通路を抜けると、開けた場所に出た。
高さは何十メートルもあり、半径五十メートルほどの円形の空間で、
いくつかの通路がここに繋がっているようだ。
ざっと見渡しただけでも、小さな穴が七つは見えた。

一箇所にだけ大きな岩がいくつか重なっている。
崩れて上から降ってきたのだろうか。
見上げると高い天井にはぽっかりと穴が開いていて、そこから陽光が射していた。

この辺りに苔や茸は見当たらない。壁も床も、どこも真っ黒だった。
あちこちに数え切れないほど骨が散らばっていて、
今までの場所とは異質な空気が漂っている。

「なんだ、ここ」戦士は呟く。

「なんか怖いね」僧侶は眉を顰める。


前方に、大きな石のようなものに凭れかかっている人影があった。
しかし、目を凝らして見てみると、それはひとではなく、
何重にも布の服を纏った、ただの骸骨だった。

骸骨の後ろにあるのも石ではないようだ。取っ手があって、刃の部分がある。
どうやらあれは大きな剣らしい。錆びてぼろぼろになった大きな剣は、
刃物というよりは鈍器というほうがしっくりくる。
どっちにしろ、ここには相応しくないように見えた。

ものと呼べるようなものは、それらしか見当たらない。
他にあるのは、床に散らばった無数の骨のみだ。
ここは、いったい何なのだろう。


「でかい剣だな。こんなの見たことないぞ」
戦士は感心したように口を丸く開けた。
「この骸骨、生きてた頃はすごいやつだったのかもな」

「そのすごいやつが骸骨になっちゃうくらいにすごいやつが、ここにはいるのかも」
勇者は言う。「……ここは拙いんじゃないのかな。すごく嫌な予感がする」

「うん」と僧侶は頷いた。「ここには何かがいる」

「じゃあ、俺たちも骨にならないうちに通り抜けちまおうぜ」
戦士は壁伝いに歩き始める。ふたりも後に続く。

焦げた黒い壁はすべすべとした触り心地で、手を黒く染める。
感触は悪くないのだが、背筋がぞっとする。ここで何があった?
頭の中に、黒い煙のような疑問が充満していく。

足音が骨に響く。何かが低い音で鳴いた。風の音だった。
しかし、勇者の内側は焼かれるような焦りに襲われる。
背中に嫌な空気が刺す。骨が転がる軽い音が聞こえる。

たまらなくなって、振り返った。勇者は思わず自分の目を疑った。


「どうしたの?」と言い、僧侶も振り返る。

僧侶の目に映ったのは、布の服を着た骸骨の姿だった。
動かないはずの骸骨はゆっくりと立ち上がり、凭れていた剣を掴み、引き抜く。

剣の長さは骸骨の丈ほどあった。柄を含めて、全長は一・八メートルほどだろう。
幅も勇者や戦士が持っているものの三倍はある。
どこからそんなものを持ち上げる力が湧いてくるのかと疑問に思う暇もなく、
骸骨は地面を蹴ってこちらに突進してきた。

勇者は大声で戦士の名を呼び、剣を引き抜いて構える。
僧侶は三人に素早く“膜”を張り、脇に転がるようにして逃げた。

骸骨は向かってくる。勇者の背筋に冷たいものが流れる。
あの剣を受け止めるのは不可能だ。
あんなもの、まともに受けたら骨が粉々になってしまう。


骸骨は勇者の前で振りかぶり、剣を振り下ろした。
まるで木の枝を振り回しているかのような、軽い動作だった。

勇者は脇に転がって、それをなんとか避ける。大きな剣は足元の岩肌に激突する。
高い音が響き、黒い地面に亀裂が走った。
砂埃の混じった風が頬を撫で、岩の崩れる轟音が鼓膜と身体を揺らす。

音が止むと、骸骨の纏った布が風に靡き、ぱたぱたと可愛げな音をたてた。
そして剣をふたたび持ち上げ、真っ黒な空洞でこちらを睨んだ。
そこにあるはずの目は、もちろん無かった。どんな感情も読み取ることは出来ない。
あるいは、あれには感情など存在しないのかもしれない。

「なんなんだ、こいつ」戦士は引き攣った笑みを浮かべて、剣を構えた。
「元人間じゃなくて、怪物だったのか」

骸骨は足を止め、顎を小刻みに揺らしている。
何か言っているのだろうか。何も聞こえない。

「怪物……なんだろうね」勇者は身体が震えるのを感じた。

ただでさえ大きな剣なのに、岩を砕くほどの力で
叩きつけたら、人間など間違いなく即死だ。
受け止めてはいけない。戦ってはいけない。逃げなければならない。
本能がそう告げている。逃げるべきだ。

しかし、道は七つもある。正解の道はどれだ?
間違って行き止まりに進んでしまった場合、待っているのは確実な死。
ここは一度引き返すべきだろうか? 今できるのはそれくらいしかない。


「どうする?」と戦士は勇者に問いかける。

「一回、戻った方がいいかも」と咄嗟に勇者は答えた。

「追ってくるんじゃないか?」と言い、戦士は剣を強く握る。
「いつまでも逃げてたら、狭い通路で間違いなくやられちまうぞ」

「じゃあ、どうするんだよ」

「倒せばいい」と戦士は言う。
「こっちは三人なんだ。あの剣に当たらなければ何とかなる。
それに、もしやばいと思ったらお前らだけでも逃げればいい」

「馬鹿なこと言わないで」と僧侶が言う。
「みんなでここから出るんだよ。死ぬな歩けって言ってたじゃないの」

「そうだな」戦士は笑う。「じゃあ、さっさとあいつをぶっ壊して、先へ行こうぜ」

「はあ。……了解」勇者は無理やり微笑んで、強く剣を握った。

「頼りにしてるぜ、リーダー」

「頑張るよ」

「わたしもいるってこと、忘れないでね。お兄ちゃん」

「わかってるって」
戦士は苦笑いを浮かべながら、僧侶に向かって中指を立てた手を突き出した。
僧侶も笑顔で中指を立てた手を突き返した。


戦士は両手で剣を握り締め、骸骨へ突進する。
勇者も後に続いた。

骸骨は顎を小刻みに揺らし、かちかちと音を立てる。
それは笑っているようにも泣いているようにも見えた。
楽しんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも何かのサインなのか、
意味など存在しないのか、何もわからない。とにかく不気味だった。

戦士は剣を力任せに骸骨に向かって振り下ろす。
骸骨は巨大な剣を軽々と持ち上げ、攻撃を受け止める。
かちかちと二本の剣が擦れ合うような音をたてるが、どちらも動かない。
戦士の力も相当なものだった。

もしかすると、骸骨の身体には強烈な一撃を凌ぐために
踏ん張るだけの機能が、備わっていないのかもしれない。
しかし、あれだけ大きな剣を軽々と振り回せるのに、
腕力は戦士の攻撃を防ぐのが精一杯という事はないだろう。

あれは人間ではない。動く骸骨――怪物だ。人間の身体とは違う。
いったいどうやって剣を持ち上げているのかといえば、
あれが怪物だからだとしか答えられない。


勇者は追撃を狙い、突進する。骸骨の空洞はすぐに勇者を捉えた。
真っ黒の目を見つめ返すと、吸い込まれそうになる。

骸骨は攻撃を受け止めたまま、戦士の腹を蹴る。
戦士の身体は数メートル先に吹っ飛んだ。
この怪物の細い身体のどこから、そんな力が湧いてくるというのだろう。

骸骨は自由になる。しかし戦士に追撃はせず、剣を構えなおし、こちらに向き直った。

構わず勇者は突進し、切り上げで骨を砕こうと試みる。
だが、やはり大きな剣で受け止められてしまう。
骸骨が剣を振ると、簡単に弾かれてしまった。
勇者の身体はゆるやかに宙を舞い、地面に叩きつけられた。

「大丈夫?」と僧侶は叫んだ。


「大丈夫じゃねえよ……」戦士が呻きながら立ち上がった。「吐きそうだ……」

「大丈夫ではないかな……」勇者も起き上がる。「痛い……」

僧侶は口の中で、素早く癒しの呪文を唱えた。
ふたりの身体から、大きな痛みは取り除かれる。

しかし、身体の内側がずきずきと痛む。
そんなことを僧侶に訴える間も無く、
骸骨は地面を蹴り、ふたたびこちらに向かってきた。

「来たぞ」と、戦士。「わかってる」と勇者が答えた。

ふたりの背後で僧侶が呪文を呟く。
五つの小さな炎の球が現れ、黒い壁を照らす。手の鳴る音が聞こえた。
炎が骸骨に向かって真っ直ぐ、放たれた矢のように飛んだ。

骸骨は構わずに突っ込んでくる。炎は骸骨にぶつかる直前で爆ぜる。

あれが普通の骨なら、今の爆発で粉微塵になるはずだ。
彼女の魔術は相当な威力を持っている。
しかし、勇者は剣を鞘には納めなかった。それどころか手に力が入り、汗が滲む。
あれは普通の骨ではないし、普通の怪物でもないように見える。

爆風により巻き上げられた砂が、煙となって視界を遮る。
骸骨からのサインは無い。勇者は力を少しずつ抜く。


視界が晴れ始める。薄く舞う砂の向こうに、大きな影が見えた。
金属がかち合うような音が響き、かたかたと不気味な音が鳴る。
生きている。骨は砕けていないし、死んでもいない。

勇者は目を凝らす。骸骨は二本の脚で立ち、煙の向こうにいた。
巨大な剣の表面は焦げている。ほかに変化は見受けられない。
炎は防がれてしまったらしい。ふたたび剣を強く握る。

「うそ、無傷?」僧侶は引き攣った笑みを浮かべた。「信じられない」

骸骨は顎を大きく揺らす。なにかを言っているのだろうか。なにもわからない。
そもそも、その行動に意味など存在するのだろうか。
しかし、直後に骸骨の背後に小さな炎の球が三つ現れる。

「うそ」と僧侶は思わず呟いた。表情から余裕は消えた。「魔術?」


聞き馴染みのない高い音が洞窟に響く。
炎は勇者と戦士の間を通り抜け、僧侶に向かって矢のように飛んだ。

勇者は彼女を大声で呼ぶ。戦士は「避けろ!」と叫んだ。

「無茶言わないでよ!」

僧侶は素早く呪文を呟く。
しかし炎は彼女の前で膨らみ、赤みを増し、輝き、破裂した。
熱風が頬を叩き、砂を巻き上げる。咄嗟に手で顔を覆った。

「糞!」と戦士は舌打ちをして、骸骨に向かって走り出した。

どうなってる。どうなってるんだ? 魔術を扱う怪物がいるだなんて、信じられない。
あの怪物はなんなんだ? どうすればあれを倒せる?
いや、そんなことよりも、彼女――僧侶はどうなった?


勇者は立ち込める煙を払いながら、僧侶を呼ぶ。「大丈夫!?」

まもなく煙の中から「大丈夫じゃない」と、か細い声が聞こえた。
勇者は胸を撫で下ろした。彼女は死んでいなかった。

煙を掻き分け、急いで僧侶に駆け寄る。
僧侶の頭からは血が滴っていた。脚にはいくつかの擦り傷が見える。

「大丈夫?」と勇者は青い顔で言った。

「だから、大丈夫じゃないって……」と僧侶は笑う。足元が震えている。
「……“膜”が無かったら死んでたかも。あの子に感謝しなきゃね」

煙の向こうから、金属のかち合う音が聞こえてくる。戦士が骸骨と戦っている。

音は鳴り止まない。それは戦士が生きている証明のはずなのだが、
勇者の胸は鉛が詰まったように重い。

やがて煙は強い風により晴れた。
その風に飛ばされるように、隣に戦士が転がってきた。
皮の鎧に申しわけ程度に施された金属が焦げて、すこし変形している。

「大丈夫?」と僧侶が訊くと、「大丈夫じゃない」と即答した。

熱の混じった風は骸骨の魔術によって生まれたもののようだ。
炎が破裂したことにより生まれた爆風だろう。


骸骨はこちらに向かって来ず、その場でただ顎を揺らしている。
かちかち、かちかちと、嫌な音が洞窟に反響する。
その姿は笑っているように見えた。
追い詰められていく三人を見ているのが楽しいのだろうか。

「剣だけならなんとかなるかもしれないけど、魔術が厄介だ」
戦士の表情は暗い。「やばいかも。あれは普通じゃない」

「すごく拙いと思う」勇者は僧侶のほうをちらりと見る。
癒しの魔術で傷は塞がっているが、脚が震えていた。戦えるような状態ではない。

「すごく拙いね」と僧侶は言う。恐怖からか、口元には笑みが浮かんでいる。
脚の震えは止まらない。「ねえ」と彼女は勇者に囁く。
「……ちょっと肩借りてもいいかな。
拙いと思ったらわたしを突き放して逃げてもいいからさ」

勇者は黙って彼女を支え、手を強く握った。「みんなでここから出るんだよ」

「そう。三人でな」戦士は低い声で言う。「でも、どうすればいい?」


「一回逃げよう。引き返すんだ」と勇者はふたたび提案する。
「このままじゃだめだ」

「今はそれしかないみたいだな」今度は戦士もすぐに頷いてくれた。
「……逃げても叩き潰されそうだけどな」

確かに戦士の言うとおり、骸骨が追ってきたら間違いなく全滅してしまう。
しかし、このままでも間違いなく全滅は免れられない。
とにかく今は逃げて、時間を稼ぐしかない。僧侶の心的ダメージが心配だ。

もしかすると、安全な道はもう残されていないのかもしれない。
骸骨に見つかったのが運の尽きだったのかもしれない。
三人でここを出るのは不可能なのかもしれない。……


どうすればいい? どうすればここから三人で生きて出られる?
勇者の頭は焦りと恐怖に蝕まれる。
それを煽るように、「あれ」と僧侶は暗い声で呟いた。

「あれ?」勇者は僧侶の視線の先を見る。笑う骸骨が見える。
その背後に、壁を這いずり回る数匹の蜘蛛の姿が見えた。

「最悪だ」戦士は頭を掻き毟った。「さっさと逃げるぞ」

「うん」と勇者は頷く。

しかし、骸骨は何かに弾かれたように、巨大な剣を構えてふたたび向かってきた。
蜘蛛は未だに黒い壁を這いずり回っている。
ゆっくりとこちらと距離を詰めているようにも見える。

「わたしを置いて逃げて」と僧侶は呟く。勇者は踵を返し、僧侶を抱きかかえて走った。
背後からおぞましい殺気が迫ってくる。見えなくても感じ取れた。

誰かが欠けるなら死んだほうがマシだ、と勇者は思う。
でも、いるかもわからない御伽噺の存在のために命を賭けるべきではない。
それに、なによりも死にたくない。こんなところで死んでる場合ではない。


必死で仄暗い道を目指して走った。

背後で高い音が鳴り、空気を振動させる。直後に風と石が背中に叩きつける。
骸骨が剣を振り下ろしたのだ。でも、あたらなかった。
視線を後ろへやると、戦士が剣を構えながら骸骨の前に立っていた。

「受け止められるもんだな……」戦士は呻く。
声からは苦痛が漏れ出していた。
「後ろには気を付けろよ、リーダー」

「ごめん」と勇者は呟いて立ち止まり、
骸骨を睨みながら、「早く逃げよう」と続けた。

「……わかってるって」

骸骨はかたかたと、空っぽの骨がかち合う音を鳴らす。
魔術の詠唱か? あれの魔術を“膜”で受けきれるか?
いや、今のうちに仕留めるというのも手か? ……

そのとき、骸骨の背後で閃光が炸裂した。
青白い光だった。それは雷のように見えた。
骸骨は振り返る。どうやら、骸骨の魔術ではないようだ。

「今度はなんだ」戦士はくたびれた様子で言った。


「蜘蛛、蜘蛛」と僧侶は呟く。「いま、蜘蛛が雷を吐いた」

「蜘蛛が雷?」勇者は壁を這う蜘蛛に目を向ける。
どれも蛍光色の毛は逆立っていて、どれも骸骨を凝視している。
怒っているのだろうか。

何匹かの蜘蛛は身体を小さく震わせる。
一メートル程の身体の上に、三〇センチメートル程の青白く発光する球体が現れた。
蜘蛛は蠢く口から空気を吐き出すような声で鳴いた。
球体から骸骨に向けて、雷が落ちる。
しかし、どれも命中しない。ある程度しか制御できないのだろうか。

こちらに雷は落ちてこない。「もしかすると、今がチャンスなのかも」
勇者は僧侶を抱えたまま、ゆっくりと後退し始める。

「みたいだな」戦士もじりじりと後ずさる。「住処を荒らされて怒ってんのかも」

「いい蜘蛛だ」と僧侶は言い、小さく呪文を唱える。
勇者の頭上にふたつの炎の球が現れた。
僧侶は骸骨に向けて、中指を立てた手を突きつけた。


炎は骸骨に向かって直進し、ぶつかる寸前で破裂する。
今度は命中した。骸骨の左腕部分の骨が吹き飛んだ。
「ざまあみろ」と、僧侶は中指を立てたまま親指も立てた。

白い欠片が周囲に飛び散る。
それに混じって、錆びた指輪らしきものがこちらに飛んできた。
勇者は後退しながら、それをそっと拾い上げる。「なんだ、これ」

「怪物が一丁前に指輪なんか嵌めてたのか」

「みたいだね」と僧侶は言い、青い顔をしながら
「粉々にしてやりたい」と強がりを吐いた。

「抱えられながらなに言ってんだ。今は逃げるんだよ」

骸骨はこちらを睨む。苛立っているのだろうか。
こちらに向かってくる――と身構えたが、
すぐに骸骨の脇に粘つく糸が放たれる。蜘蛛のものだ。

蜘蛛は雷を纏い、糸を伝いながらゆっくりと骸骨に進んでいく。
それは光に群がる虫や、餌を見つけた怪物のように見えた。

「早く行くぞ。死ぬな、走れ!」戦士は叫んだ。
勇者たちは暗い通路を遡り始める。
背後で青白い閃光が炸裂した。振り返らずに、必死で駆けた。





粘つく蜘蛛の糸。
迸る青白い雷。
痺れて、焼ける。

蜘蛛はふたたび私の邪魔をする。
蜘蛛はふたたび私を殺そうとする。

ああ、三人組を見失ってしまった。

こいつらがいなければ。
こいつらがいなければ。

殺してやる。殺してやる。

約束したから。
約束したから――





「どうしたらあそこを通り抜けられる?」
勇者は息を切らしながら、僧侶をそっと地面に降ろした。
喉が焼け付く。腕が悲鳴をあげている。

頭上では苔やら茸やらが不気味に瞬いている。
どこかから、水の滴る音が聞こえてくる。
一度休憩したポイントだ。道幅が広くて、天井も高い。
流れる冷たい空気は勇者たちに少量の落ち着きを取り戻させた。

しばらくすると、「いいアイデアがある」と戦士が言った。

「“いいアイデアがある”とか言う奴に限ってろくでもないアイデアを提案するんだよ」
僧侶は戦士を睨んだ。「どうせ、“俺を置いて先に行け”とか言うんでしょ?」

「よくわかったな」

「馬鹿なこと言わないでくれ」

「ほんとうに、馬鹿なこと言わないでよ」

「じゃあ、どうするんだ」

「それは……どうにかするんだよ」

「……」勇者は口を閉ざす。
良案は浮かんでこない。時間がないかもしれないのに。


戦士は言う。「……だから、俺がちょっとの間あいつを止めるから、
お前らは正解の道を探すんだ。もしくは俺とお前であいつを倒す」

「……倒せるのか?」

「倒せる」と戦士は頷いた。

「その心は?」と、僧侶。

「俺ならあいつの剣を受け止められる。
だから、その隙にリーダーがうまいことやればいい」

「うまいことって。また適当な計画かよ」

「いいや。お前なら大丈夫だ。
それに、あいつは腕が一本吹っ飛んでるんだ。こっちが有利だ」

「でも、あいつには魔術がある」勇者は頭を掻いた。
「それに、蜘蛛もいる。あいつらはみんな怪物で、僕らの味方じゃない。
いつ襲ってくるかわからないんだよ」

「でも、やるしかないんだ。もう時間はない」

僧侶は立ち上がる。「そう……やるしかないよね」


「歩ける?」と勇者は訊く。

僧侶は「もう大丈夫」と答えた。「絶対に三人で出るんだからね」

「ああ。わかってるって」戦士は険しい顔で頷いた。「……わかってる」

どこかから、かちかち、かち、と不規則な音が聞こえてくる。
それはゆっくりと、確実にこちらに近付いてきている。
猶予はほとんど残されていない。

「来るぞ」

大きな通路に木の枝が転がるような、軽い音が響く。
目の前の暗闇から、またべつの気味の悪い音が湧いてくる。
骸骨は、すぐそこまで来ている。この暗闇の向こうにいる。

僧侶は呪文を呟き、全員に膜を纏わせる。
「そろそろエネルギーが拙いけれど、死んじゃったらごめんね」

「大丈夫。お前は死なない」戦士は剣を強く握る。「絶対に死なせるもんか」


闇の底から湧きあがるように、骸骨の姿はゆっくりと視界へ入り込んでくる。
片腕の骨は無い。頭の半分が吹っ飛んでいる。
剣も焦げていたり、欠けていたりしている。蜘蛛にやられたのだろうか。

その姿は、まさに怪物という言葉に相応しい形相だった。
しかし、今の勇者たちからすると、死神というのがもっともしっくり来た。
死神は片手で剣を持ち上げながら、ゆっくりと歩く。

「いいか」と戦士は口を開く。「もし蜘蛛が来たら、俺があいつを止めてる間に、
お前らは脇を通り抜けてさっきの黒い壁の場所に向かえ」

「やめてくれ」と勇者は語気を強めて言った。

戦士はそれを無視し、続ける。
「あの黒い壁の場所に、大きな岩が重なってる箇所があっただろ。
あれを魔術で吹っ飛ばせ。あの奥がたぶん出口だ。
岩の隙間から苔の光が見えたし、気持ち悪い風も吹いてきてた。
それでたぶん、こいつはそれを隠そうとしてる」

「ねえ」と僧侶は不安げな声で言った。

「蜘蛛が来たら、な。来ないように祈っててくれ。俺も祈ってる」


蜘蛛が全滅しない限り、間違いなく蜘蛛はここを嗅ぎつけるはずだ。
その場合、こちらの全滅は免れないと考えてもいい。
但し、それは戦士が囮にならなかった場合の話だ。

戦士がここで蜘蛛と骸骨の相手をするのなら、
勇者と僧侶の生存確率は跳ね上がる。
しかし、戦士が生きて戻ってくる確率はゼロになるといってもいい。……

「信じてくれよ、俺は死なないって」戦士は言う。
「もっと頼ってくれ。俺はお前らに頼られるのが生きがいなんだ」

「なんだよ、それ」

「かっこいいだろ?」

「全然」

「そうか」


骸骨は迫ってくる。戦士の前で巨大な剣を掲げ、振り下ろした。

戦士は両手で剣を掴み、それを受け止めた。高い音が通路に鳴り響く。
身体に骨や剣よりも遥かに重いものが圧し掛かる。
思わず呻き声が漏れた。

勇者は目の前の異常な光景に目を奪われながらも、
剣を構えて骸骨の懐へ向かう。

骸骨は巨大な剣で、戦士の剣を折り、肉を断とうとする。
しかし、お互いに動かない。

やがて骸骨の頭上に光の球が現れる。
それは小さなものだったが、徐々に明るみを増し、膨らみ始める。

「目を閉じて!」と僧侶は叫んだ。

勇者は咄嗟に目を瞑る。視界は暗闇から、薄っすらと白く変化する。
瞼の向こうで、光が爆発したのがわかった。


目を開くのと同時に、身体が吹き飛ぶような衝撃に襲われる。
しばらく宙に浮いたような感覚に陥った後、背中に激痛が走る。
吹き飛ばされた。瞬時に理解できた。戦士が隣を転がっている。

地面を転がる勇者たちと入れ替わるように、
僧侶のもとから炎の球が骸骨へ向かう。
まもなく炎は骸骨の前で破裂した。

しかし、やはり骸骨は無傷だった。
剣から煙が立ち昇っているのを見ている限り、また防御されてしまったらしい。

「だめだ」と戦士は地面に這いつくばりながら言った。

「まだ、わからないだろ……」勇者は立ち上がる。「みんなで出るんだろ」

「でも、もう……」僧侶は恐怖からか、呼吸のペースが狂っていた。
エネルギーの限界も近いようだ。

「だめなんだ」戦士は天井を指差した。


勇者は視線を上げる。見覚えのある不気味な輝きが見える。
あれは、蜘蛛の目。ぎょろぎょろと蠢くその数は、百を超えている。
天井には蜘蛛が二〇匹は見えた。

「蜘蛛が来ちまった」戦士は立ち上がって言う。
「このままだとみんな死んじまう」

「嘘だろ」

頭上で、青白い光が広がり始める。
雷光は洞窟の凹凸を不気味に照らし出す。
勇者は、ただそれを眺めているしかなかった。


「行け」

考えろ。生き残る方法だ。違う。そうじゃない。全員で生き残る方法だ。

「走れ」

どうすればいい? 蜘蛛を倒す? どうやって? 骸骨を倒す? どうやって?

「早く」

「やめろ……黙っててくれ。今考えてるんだよ……糞」

「行け!」

「……」

「早く!」

「……糞が」

「死ぬな、走れ!」戦士は骸骨へ突進する。


「……絶対に戻れよ。やばいと思ったら逃げろよ。絶対に死ぬなよ。
死んだら許さないからな!」勇者と僧侶も戦士の後に続く。

「俺が死ぬかよ。死ぬわけないだろ」

「わかってる! わかってるよ! ああ、糞……! 糞が……」
勇者の声は震えた。これから起ころうとしている事態を理解したくなかった。

「絶対に追いつくんだよ。帰ってこなかったら承知しないからね」

「わかってる。おいリーダー、そいつを頼んだぞ! 約束だ!」

洞窟全体に言葉にならない絶叫が響く。剣がぶつかり合う音が隣で鳴った。
勇者と僧侶は死に物狂いで足を動かした。

背後で青白い閃光が炸裂し、轟音が響く。
ふたりは振り返らずに、ふたたび暗い道に飛び込んだ。

何かの壊れる音がした。それは外側からも聞こえたし、内側からも聞こえた。
それはいくつも聞こえた。


10


「数が多いな」ユーシャは蜘蛛の脚を切り裂く。

脚が三本になった蜘蛛はその場から逃げようと試みたが、
すぐに大剣使いの巨大な剣で叩き潰されてしまう。
緑っぽい液体が飛び散る。まもなく異臭が立ち込めてくる。

魔法使いは鼻を摘まみながら呪文を呟き、潰れた蜘蛛を火葬してやった。

「それに、くさい」と魔法使いは眉間に皺を寄せた。
「あんた、鼻が利くのによく平気でいられるわね」

「慣れたものですよ、こんなもの」大剣使いは鼻を摘まんで笑った。


第一王国を出立したユーシャたち三人は、数十日かけて“蜘蛛の巣”に辿り着いた。
宿の禿げた男が言っていたとおり、洞窟には蜘蛛がうようよいた。
ただ、それらはユーシャの知る蜘蛛とはすこし異なったものだった。
大きさは尋常ではないほど大きいし、脚は四本しかないし、雷を吐く。
どう考えても、あれは蜘蛛の形をした怪物だった。

洞窟自体も奇妙なものだ。光る苔に、光る茸。
蜘蛛も十分におぞましいが、なによりも青や緑に発光する植物の存在が恐ろしかった。
照らされた壁に、凹凸によって模様が浮き出るのだが、それもまた恐ろしい。

現在、ユーシャたちは洞窟内の広い通路を歩いていた。
幅は四、五メートルあるし、高さも同じくらいある。
苔が道を照らしているおかげで、光の魔術を使う必要もない。
蜘蛛以外に、特に不便であることはなかった。
空気も冷たくて、外よりも涼しい。ただ、湿気がすこし気になる程度だ。


「ねえ。なにか話をしてよ」と魔法使いは唐突に言った。

「また無茶振りですね」大剣使いは巨大な剣を背負い直して薄く笑った。

「黙って歩くのもつまらないじゃないの。ねえ?」

「そうだな」とユーシャは適当な返事をした。

「ほら」

「いや、今のユーシャ様の返事は、“べつにお前の話なんかどうでもいいけど、
話すんならちょっと聞いてやろうかな。どうせ暇だし”みたいな返事でしたよ」

「そんなことないって。ねえ?」

「そうだな」

「ほら」


「相変わらず息ぴったりですね。あなたたちには敵いませんよ」
大剣使いは肩を落として笑った。「なにを話しましょうか」

「なんでもいいわ。話したいことを話して頂戴」魔法使いは言った。

「急に話をしろといわれましても……難しいですねえ」大剣使いは唸る。

「お前の昔話が聞きたいな」とユーシャが言った。

「私の昔話ですか」大剣使いは表情を歪める。

「話したくないんならいいけど」

「……わかりました」大剣使いの表情が、すこし翳ったような気がした。
「でも、あんまり面白い話じゃないですよ」





第一王国で、“私が五、六歳のころ、西の大陸の端っこの砂浜で
先生に拾われた”というのは話しましたね。
私には、それ以前の記憶はありません。
親の顔も知らないし、どこから来たのかもわかりません。
だから、私を拾ってくれた先生は、親のようなものなんです。

どうして先生と呼ぶのか、ですか? それは彼が学校の先生だからです。
剣の先生ではなく、学校の先生です。
ちなみに言っておくと、彼は筋骨隆々の男ではなく、よぼよぼのお爺さんですよ。

私が先生と過ごしたのは、西の大陸の北西にある、小さな漁村でした。
海沿いの、ほんとうに小さな村です。
男は皆、早朝から日没まで海に漁へ行くんです。
女は皆、村で男の帰りを待つんです。
子どもは学校へ通い、老人は懐かしむように海を眺めるのです。

先生はそんな村で、小さな学校の教師をしていました。
二、三〇人ほどの子どもたちに、いろいろなことを教えていました。


彼は早朝の海岸を散歩するのが趣味でした。
その日もいつものように散歩していた彼は、砂浜で私を見つけます。
すると、私を抱えてすぐに家へ戻ったそうです。

彼はひとりで小さな家に住んでいました。奥さんは先立たれたのだとか。
寂しかったせいもあるのかもしれませんが、私が何も憶えていないと話すと、
すぐに「ここで生きなさい」と言ってくれました。

先生は優しい人でした。でも、村の人間はそういう風にはいきません。
私は、余所者なのですから。

あなたたちにもわかるでしょう。小さな村の人間というのは、
村の中だけで人間関係を完成させようとします。意味もなく外の人間を嫌うのです。
“昔からそうだった”と、思考を停止させて言い張るんです。
あなたたちの村に余所者が来たとき、
おそらくそれを歓迎するものは少なかったでしょう。

もちろん、私も村に歓迎される存在ではありませんでした。
外を歩けば、刃物のような視線が飛んでくるのです。
でも、当時の私は何も理解していませんでした。馬鹿でしたからね。
どうしてみんなこっちを見るんだ? と、首を傾げていただけです。


やがて私は学校へ通うことになります。
もちろん孤立します。誰からも相手にされません。
皆が皆、虫の死骸を見るような目で私を見るのです。
子どもというのは残酷ですね。味方は先生だけでした。

私が九歳か一〇歳のころです。その日は、いつものように晴れた日でした。
私もいつものように学校で過ごしていました。いつものように、ね。

しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、私はだめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。


しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、だめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。

内側に溜まっていた不満や不一致、失望や憤怒が、破壊衝動に姿を変えます。
私はその“誰か”の顔をぐちゃぐちゃになるまで殴り続けました。
ほんとうに、ぐちゃぐちゃにしてやりました。鼻も目も歯も口も潰してやりました。

でも、それだけじゃ足りないんです。
染み付いたものは、そんな小さなことでは消えないんです。
あなたたちにはわからないでしょうが、限界が来ると、
自分が何をしているのかがわからなくなるんです。

その“誰か”から血が噴き出しても関係ありません。
悲鳴をあげても、骨の砕ける音がしても、知ったことではありません。
たぶん、そのときの私はそいつを殺してやるつもりだったんでしょう。
きっと、殺しても、バラバラに切り裂いても足りなかったでしょうけど。

結局、誰だったんでしょうね、あれ。今となってはどうでもいいですが。


私を止めるものは誰もいませんでした。
その“誰か”は、ほかの誰かが自分の身を危険に曝してまで
救う価値のある人間ではなかったのでしょうか。
それとも、みんな私が怖かったのでしょうか。

私は馬乗りになって、その顔を叩き潰そうとします。
しかし、しばらくすると先生が駆けつけてきます。
もちろん私は怒られます。でも、さっきも言ったとおり、私は馬鹿だったんです。
どうして怒られてるのかが理解できませんでした。
もしかすると、自分が悪いと認めたくなかっただけだったのかも。

その日は学校が終わってからすぐ、先生に連れられて
“誰か”の家に謝りに行きました。“誰か”は死んでいませんでした。
非常に残念なことに、生きていました。


私は“誰か”の母親にこれでもかと罵声を浴びせられ、
父親からは何度も殴られました。
もちろん、どうしてなのかは理解できていませんでした。
とても苛々したのを憶えています。殺してやりたいほどには苛々してました。

でも、先生は必死に頭を下げました。もう、なにがなんだか。
わけがわかりませんでしたね。

“誰か”の母親はひたすら、常識がどうだの、
“これ”は人間として終わっているだのと怒鳴り散らしました。
常識って、なんなんでしょう。人間らしさって、なんなんでしょう。
私には未だにわかりません。

家に戻ってから、先生は何度も私に謝りました。
もちろん、私には意味がわかりませんでした。

先生はとても後悔していました。
どうしてこいつにもっと大事なことを教えてやらなかったんだ、と。
でも、それは遅すぎました。私は大事なものを失った後でした。
先生の言う大事なものとは“信頼”とか“信用”とかいうものでした。


その日から先生は私を登校させず、夜になってからいろんな事を教えます。
言葉遣いから笑い方まで、赤子を育てるようなものだったのでしょう。
私は先生の言葉を必死に憶えました。
先生の悲しむ姿を見るのだけは、嫌だったからです。

ちなみにこの話し方は、先生から教わったものです。
どうです、完璧でしょう? 必死だったんですよ、ほんとうに。


時間は過ぎ、私は一四歳になります。

以前あなたにも言われたとおり、私は昔から「顔は綺麗」だったんです。
先生の真似をして海岸を散歩していると、何も知らない馬鹿な女の子が寄ってきます。
とてもいい匂いがするんですよね、女の子って。
私は優しくて敵意のない匂いが、たまらなく気に入りました。今でも好きです。
でも、女はこの世で信用してはいけないもののひとつです。

その頃くらいからでしょうか。
私は自分の腕力が、普通とは違うという事に気付きます。
異常だったんです。やがて女の子も離れていきます。

村を歩けば、化け物と言われました。女は悲鳴をあげて逃げていきます。
怪物が現れた、と。
私は教わったとおり、破壊衝動を必死に堪えながら先生の家へ戻ります。

家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。


家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。

しかし、それも私が一六歳になるまでの話です。あれはとても寒い日の早朝でした。
先生はいつまで経っても起きてきません。
私がいくら呼んでも返事をしてもらえないんです。
信じられませんでした。先生は死んでしまったのです。

嘘のようですが、私は悲しみました。ほんとうですよ。
初めて悲しんだのだと思います。
先生は私の唯一の味方で、友達だったんです。

私はその日のうちに村を出ました。
もう、あの場所に居場所はありませんでしたし、未練もありませんでした。
最後に火でも放ってやればよかったかもしれませんね。



その後もいろいろありました。
鍛冶屋で働きながら剣を作ったり、小さな魔術師から魔術を習ったり、
誰かから頼まれて怪物を退治したり、パン屋で働きながらパンを齧ったりしてました。

特にパン屋で働くのは楽しかったです。まあ、女の子が居たからなんですけどね。
私にも甘酸っぱい思い出のひとつくらいはあります。

でも、どれも私の居場所ではありませんでした。

それで数年前、私は傭兵になりました。
信頼という曖昧なものが、お金として視覚化されるのです。
このシステム、わかりやすくて私は好きです。

やがて、私は港であなたたちを見つけます。
そしてあなたたちとの旅は、とても楽しいものになるのでした。

めでたし、めでたし。





大剣使いは笑顔を浮かべる。「どうです。面白かったですか?」

「ぜんぜん」魔法使いは寂しげな目をしながら言った。

「へんなこと訊いて悪かった」
ユーシャは大剣使いのほうを見ずに言う。「ごめん」

「どうしたんです。つまらない話だったなら、
いつもみたいに鼻で笑ってくれていいんですよ。
“つまんねえ、さっさと死ね”って、笑い飛ばしてくださいよ」

ふたりは何も言わなかった。

「立ち止まらなければ、どうにでもなるんです」
やがて、大剣使いは光る苔を見上げながら言う。
「進むべき道は曲がりくねっているし、そこを照らす明かりも
壊れていたり眩しすぎたりします。でも、生きて歩いていればどうにでもなるんです。
先生が言っていたんです、間違いありません」

たぶん夜へつづく


しばらく歩き続けると、広い空間に出た。
高さは歩いてきた通路とほとんど変わらない。

天井にはびっしりと苔と茸が生えていて、
どれも足元と壁を不気味に照らし出している。
どこかから、大量の水が岩にぶつかるような音が聞こえてくる。
近くに滝でもあるのだろうか。やけに涼しかった。

「ちょっと休憩しましょうか?」と大剣使いは涼しい顔で言った。

「なに、わたしに言ってるの?」
魔法使いは額に粒のような汗を浮かべながら言った。

「しんどいなら言えよ」と、ユーシャ。「倒れられても困るからな」

「……しんどい」魔法使いは仄かに顔を赤らめた。「休憩したい」


「ふふん」大剣使いは満足げに笑った。そして、その場に腰を下ろした。

「なに」

「いやあ、かわいいなあって」

「そう、ありがとう」魔法使いは大剣使いの隣に座り込んだ。

「あれ、怒らないんですね。いつもなら気持ち悪いって言われてるところですよ」

「疲れてるの」

「そうですか」


ユーシャは黙ってふたりを眺めていた。なんだか話しかけづらかった。
余計なことを尋ねてしまったと、ユーシャはひどく後悔していた。
大剣使いという人間の見え方が変わってしまった。
話を聞いてみると恐ろしいやつにも思えるし、かわいそうなやつにも思える。
なんて声をかければいいのかがわからない。

「どうしたんです。ユーシャ様も座ってくださいよ」大剣使いは笑顔で言う。

ユーシャははっとして顔を上げる。「うん」と、頷いて魔法使いの隣に座った。

「なんだか、元気がないですね」

「あんたの話を聞いて落ち込んでんのよ」魔法使いは言う。
「こいつはちっちゃいことで落ち込むの。
わたしに癒しの魔術を使ってもらうのが申しわけないとか、
そんなつまんない事を気にするやつなのよ」

「なるほど。それで私から癒しの魔術を……」
大剣使いは小さく呟いて、笑いを堪えながら続けた。
「そういえば、第一王国の人を助けてやりたいとか、
そんなことを言ったときも暗い顔してましたね。
意外と他人想いなんですね、ユーシャ様。かわいらしい」


「うるさい」ユーシャは頭を掻きながら言う。「さっきはへんなこと訊いてごめん」

「まだ言ってる」魔法使いは呆れた。

「べつにいいんですよ。わたしが話したかったんですから。
それに、ちょっとくらい私のことも知ってもらいたかったですからね。
普段はこんなこと話さないんですよ。あなた達は特別です」

「うん、ありがとう」ユーシャは嬉しくなった。
すこしは信用してくれているのだろうと思うと、顔が綻ぶ。
彼の居場所になれるのなら、それはいいことだと感じた。

「なにか訊きたいことがあるのなら、答えますよ」と大剣使いは続ける。

「いや、もう大丈夫。悪かったよ」

「そうですか」

三人はしばらく天井で瞬く苔と茸を眺めていた。
涼しい空気は火照った身体を冷やしてくれる。
どこかから水の音が聞こえてくる。蜘蛛の気配はない。
なんだか、心地良い時間だった。


「いい匂いがしますね」と、突然大剣使いが言った。

「そうだな」とユーシャは答える。

「いい匂い?」魔法使いは首を傾げて、鼻をひくつかせる。「どんな匂い?」

「優しくて、敵意のない匂いです」

「それって、もしかして」魔法使いは汚いマントに包まって、ふたりを交互に睨む。
「わたしの匂い?」

「え? どうなんですか? ユーシャ様」

「え? なんで俺に押し付けるんだよ? おかしいだろ?」

「最低」魔法使いはユーシャの顔をじっと睨んだ。
ユーシャは引き攣った笑みを浮かべながらそれを見つめ返した。
頬が赤い。怒りからか恥ずかしさからか、唇が震えている。とても嫌な予感がした。

「し、仕方ないだろ。だって、いい匂いがするんだから……」
ユーシャはしどろもどろに言い訳をする。
最後まで言ってから、これは言い訳になっていないと気付く。

「……汗かいてるのに、ひとの匂いを嗅がないでよ」
魔法使いはマントに顔を埋めた。「恥ずかしい……」

「あれ、怒らないんですね。めずらしい」大剣使いは嬉しそうに笑う。
「今日はいつもの五〇〇倍くらいかわいいですよ。どうしたんです?」


魔法使いは首を振り、マントに顔を擦りつけた。
「……わたしがいつも怒ってると思ったら大間違いよ」

「……あれだよ。たぶん、お前に気を使ってるんだよ」ユーシャは言う。
「あんな話を聞いた後だから、殴るのはやめておこうとか思ってるんだよ」

「そうなんですか?」

魔法使いはマントに顔を埋めたまま、無言で小さく頷いた。

「ほら」

「あなた達は変わってますね。それなのに、似たもの同士です」
大剣使いは小さく笑う。
「ふたりとも優しくて、私は好きですよ。それに、とても羨ましいです」


「羨ましい? なにが?」

「ふたりの間にあるものの大きさです。信頼とか、そういうものです。
つまるところ、あなた達の仲の良さが羨ましいです」

「そうか」

「ほかにも愛とかね、そういうよくわからないものが超羨ましいです。
あなた達の間には、眩しいくらいに愛的な何かが迸ってますよ。
ベッド上のパフォーマンスが終わって、
その愛的な何かが残っていたとしたら、私にもちょっと分けてくださいね」

「黙れ」魔法使いはマントに顔を埋めたまま言う。「やっぱりお前死ね」

「ありがとうございます」大剣使いは破顔した。


ふたたび心地良い沈黙が訪れる。
それから三人はほとんど話し合わず、その場でたっぷり身体を休めた。
やがて魔法使いは立ち上がり、黙って歩き始める。
男たちも、それを追いかけるように歩き出す。

眼前で大口を開けて待っている道は、真っ暗だった。
ごつごつとしていて、明かりは灯っていない。
冥府の底へ続くような深淵のように見える。

深淵の果てでは、青白い光が輝いている。
それは救いなのか、拒絶なのか、今のユーシャには何もわからなかった。





急勾配の坂になった通路を走り抜けると、大きな空間に突き当たった。
半径五十メートルほどの円形の空間で、
通ってきた道以外にもいくつかの通路が見える。
小さな穴が七つは見えた。ぜんぶ道なのだろう。

背後からは蜘蛛が迫ってきている。轟音が鳴り、青白い火花が炸裂する。
魔法使いは呪文を唱え、魔術の障壁でそれを受け止める。
表情には苦痛が滲んでいる。
どうやら、雷を打ち消すのには相当なエネルギーを消費するらしい。

早めに蜘蛛を蹴散らしてしまおうと、ユーシャは駆け出そうとした。
しかし、「待ってください」と大剣使いに止められる。
「全員できるだけ下がってください」

「なんで。このままだと拙いだろ」

「だからこそです」大剣使いは通路の出口辺りの天井を指差して、
魔法使いに向かって続ける。「あの辺りを魔術の炎で崩してください」

「わかった」と魔法使いは頷き、素早く呪文を詠唱する。
彼女の背後に七つの小さな炎の球が現れた。


かん、と間抜けな音が広い空間に響き渡る。杖で地面を突いた音だ。
それを合図に、炎は上昇し、破裂し、頭上の岩盤を破壊する。

空気が揺れ、天井からは大きな岩が大量に降ってくる。
地面に衝突する岩は、大きな音を鳴らし、砂埃を巻き上げる。
蜘蛛の大群は岩の向こうの通路に閉じ込められた。

しかし、一体の蜘蛛がこちらにはみ出していた。
四の脚のうちの一本を岩と地面にすり潰され、
奇声をあげながらのた打ち回っている。
蜘蛛はこちらに十ほどの目を向け、青白い球体を作り始める。

ユーシャはそれに歩み寄り、目を蹴った。
奇声が洞窟に反響する。耳を劈くその声を無視し、剣を振り下ろす。
蜘蛛はふたつに裂かれた身体から粘ついた体液を吐き出しながら、絶命する。
青白い球体も徐々に光を失い、まもなく跡形もなく消滅した。


「これですこしは時間が稼げるでしょう」大剣使いは言う。

「なるほど」とユーシャは異臭に顔をしかめながら言う。
「道を塞げばよかったんだな」

「でも、ここは蜘蛛の庭みたいなものです。
なので、いずれ他の道から回り込まれてしまいます。なので、早く進みましょう」

「そうね」魔法使いは額に汗を浮かべながら言った。
「もう後戻りできなくなっちゃったし」

「でも、どれが正解なんだ?」

ユーシャは辺りを見渡す。ここも不気味に輝く苔や茸が壁を覆っていた。
ただ、先程の炎の爆発で開いた穴から
外光が射しているおかげで、今までの場所よりもずっと明るい。
見上げると、かなり高いところに開いた穴から青い空が見える。
すこし目線をずらし、天井に目を向けると、そこには大きな蜘蛛がいた。


「なんだあれ」と思わず声が間抜けな漏れた。
今までの蜘蛛もかなりの大きさだったが、
頭上のそれは今までと比べ物にならないほどの巨大さだった。
全長は五〇メートルを超えている。先程の蜘蛛の五〇倍以上の大きさということになる。

鋭い鉤爪のようなものが脚の先端にあり、全身は蛍光色の毛で覆われている。
今までのとほとんど同じ形態をしているが、
唯一違うものがあった。腹が異常に膨らんでいる。
剣で突いたら破裂してしまうんじゃないかと思うほどに張っていた。風船のようだ。

「どうしたの」と魔法使いは言い、天井を見上げる。
まもなく隣から、「なにあれ」という間抜けな声が聞こえた。

「蜘蛛ですね」と大剣使いは答えた。
「メスのようです。女王蜘蛛といったところですかね」

「なに余裕ぶっこいてんのよ」


女王蜘蛛は巨大な鉤爪を天井の岩から引き剥がし、重力に身をゆだねる。
宙で体を翻し、まもなく広い空間のど真ん中に、大きな音をたてて着地した。
埃が舞い上がる。

今までのとは違うというのは一目瞭然だった。
目でも肌でも本能でも感じ取れた。
こいつがこの巣のボスなのだろう、とユーシャは即座に理解した。
すべてが巨大化したその身体は、嫌でも細部までを見せ付けてくれる。

口内は粘性の涎のようなもので覆われていて、
円を描くように配置されたいくつもの小さな突起が蠢いている。
全身の蛍光色の毛は細くて短い。毛の下には、土のような茶色の肌が見える。
あとから接合したように不自然な大きさの腹には毛がほとんど生えておらず、
なにか大きな筋がいくつも通っている。
それは時々、大きく脈動する。生理的な嫌悪感を催さずにはいられなかった。

十の真っ黒な眼球は三人を映している。
今までの蜘蛛とは違い、その目に感情を読み取ることが出来た。
それは炎が揺れるように、黒い目に光を灯している。正体は怒りだった。


女王蜘蛛は身体を震わせた。洞窟に入ってから、何度も見た光景だ。
この後、蜘蛛の頭上に青白い球体が現れ、雷が放たれる。
全長一メートルの蜘蛛の生み出す球体のサイズは
直径三〇センチメートルほどのものだった。

魔法使いはほとんど反射的に杖を構える。

女王蜘蛛の数メートル頭上に青白い球体が現れる。
しかし、大きさは今まで見たものとは比べ物にならない。
直径は二〇メートルに達しそうな巨大さだった。
ぱちぱちと、何かが破裂するような小さな音が連続して聞こえてくる。
宙に紫色の筋が見えた。雷だ。

「なにあれ」魔法使いは身体を震わせた。口元が歪んでいる。
「あれを受け止めろっていうの?」

「通路に逃げ込むという手もあります」大剣使いはゆっくりと後ずさる。

「小さい蜘蛛がうじゃうじゃいるかもしれないぞ」ユーシャは剣を構える。

この空間には今、七つの逃げ道がある。
しかし、すべてが出口に繋がっているとは限らない。
行き止まりや巣にぶち当たる可能性もある。
もちろんユーシャの言ったとおり、蜘蛛の大群にぶち当たる可能性だって存在する。


「しかし、このままだと彼女のエネルギーが擦り切れてしまいます。
あんなものを何度も受け止めたら、間違いなく倒れてしまいますよ。
ユーシャ様もそれは嫌でしょう? 小さな蜘蛛なら私たちでなんとかできます。
でも、おそらくあれはそういう風にはいかないと思います」

視界に、困り果てた顔で、なにかに縋るような目をしながら
こちらを見つめる魔法使いが映る。
一メートルサイズの蜘蛛の雷を受け止めるのですら
かなりのエネルギーを消費するのに、
その五〇倍以上の力で攻撃された場合、魔法使いはどうなる?

ユーシャにでもそれくらいのことは理解できる。
大剣使いの言うとおり、選択肢は逃げることしかなかった。

もう時間はほとんどない。逆に言えば、すこしならある。
具体的に言うならば、一撃だけを浴びせられる僅かな時間がある。
しかし、渾身の一撃でも女王蜘蛛を倒せるとは思えない。
倒せなかった場合、全滅は免れられない。

ユーシャは剣を鞘に収め、後退する。背後にあるのは岩で塞がれた通路だ。
壁沿いに十メートルほど走れば、隣の通路に入ることができる。

「逃げろ」とユーシャは隣の通路を指差して叫んだ。
それを合図に、他のふたりは駆け出す。
ユーシャも後を追って、暗い通路に飛び込んだ。背後で青白い閃光が迸った。



「なによあれ!」と隣を歩く魔法使いは息を切らしながら怒鳴った。
誰も返事はしなかった。

三人が飛び込んだ通路は、かなり狭かった。
幅も高さも二メートルほどしかない。息苦しくて、暑い。
苔や茸のおかげで明るいのが唯一の救いだった。

しかし、しばらく進むと行き止まりにぶつかった。
大剣使いは振り返り、「どうします?」と問いかける。

「どうしますって、戻るしかないじゃないの」魔法使いは苛立たしげに言った。

「それはそうですが、そこからどうするのかは考えないといけないでしょう。
やり過ごす、もしくは倒す。どっちにしても何か案が必要になってきます」

「倒せるのか?」ユーシャが言う。

「わかりません」大剣使いは目を瞑った。

「やり過ごす方法を考えたほうがよさそうね」

「できることならそれがいちばんですね」


「じゃあ、さっきみたいに雷が落ちてくる前にべつの道にいけばいいじゃないか。
それなら、そのうち正解の道が見つかるだろ」ユーシャは言う。

「先程は運が良かっただけです。
たまたまべつの道が近くにあったから、無事にここに飛び込めました。
わかっていると思いますが、あの女王蜘蛛がいる場所には、
さっき塞いだものを除いて道が七つあります。
しかし、ここ以外の六つの道は、かなり離れたところにありました」

「……つまり、ここからだと他の道に辿り着く前に、
あのバカでかい蜘蛛の雷で黒焦げってわけね」
魔法使いはため息を吐いた。「どうするのよ」

「あの雷、魔術の障壁で受け止められませんか?」

魔法使いは眉間に皺を寄せて言う。
「一度だけならなんとかなるかもしれないとは思うけど、
やってみないことにはなんとも言えないわ。あの大きさは反則よ」

「そうですか……一度攻撃をやり過ごして、
その隙に通り抜けるというのはだめですね。
そんな危ない賭けに出るわけにはいかないです」


「雷の放出を止めるってのは?」ユーシャが言う。
「あの蜘蛛の腹、突いたら破裂しそうなくらいに張ってたぞ。
脚と比べると、かなり柔らかそうだった。
そこを切って怯ませて、その隙に通り抜けるってのは?」

「……もしかすると、ショックで雷を放出する可能性もありますが、
試してみる価値はあるかもしれませんね」大剣使いは頷く。
「しかし、通用するのは一回きりでしょう。あれも馬鹿ではないはずです。
二度目からは、なにか対策を立ててくるでしょう。
まあ、一回で正解の道を見つけられたらその心配は必要ないんですがね」

「次のが正解の道じゃなかったらどうするの?」と、魔法使い。

「その場合は、次のアイデアを考えなければならないですね」

「光であいつの目を眩ませるってのはどう? もしくは潰す」

「蜘蛛は目よりも音を頼りにしています。なので目が見えなくても
私たちが部屋に入ってきたと分かりますし、そこで雷を放つことも可能なはずです」


「じゃあ耳を潰せば」とユーシャ。

「蜘蛛に耳はないです」

「意味が分からない。だったらなんで聞こえるんだよ」

「蜘蛛には耳の代わりに聴毛というものが脚にあるんです。
身体のちいさなくぼみからは地面の振動を感じることもできます」

「じゃあ何、歩いたら音と地面の揺れでばれるってこと?」と魔法使い。

「どうですかね。そこまでは知りません」

大剣使いがそう言うとほとんど同時に、道の奥に青白い光が見えた。
雷だ。しかし、それはこちらに届く前に消えた。


ユーシャは剣を構え、目を細める。
歩いてきた道のずっと奥に、蛍のように淡く光るものが覗える。
あの色には見覚えがある。蜘蛛だというのはすぐにわかった。
それも一体ではない。他のふたりもすぐに気がついた。

魔法使いは呪文を唱え、杖を構える。
正面に七つの炎の球が現れ、円を描くように回転し始める。

「ちょっと熱いかもしれないけど、我慢してね」
彼女はそう言うと、杖で軽く地面を突いた。
直後に七つの炎の球がぶつかり合い、ひとつの巨大な炎の球に姿を変えた。
それはまるで太陽のように見えた。

もう一度彼女が杖で地面を突くと、
通路を埋めるほどの熱線が炎の球から打ち出された。
焼かれる蜘蛛の断末魔が聞こえてくるが、それはすぐに炎で上塗りされる。

やがて炎は消える。通路に残ったのは焦げた黒い壁と、
焼き切れずに千切れた蜘蛛の脚だけだった。苔や茸はすべて焼けたようだ。
魔術というのは暴力的なものなのだと改めて思い知らされる。


「なあ」ユーシャは剣を収める。
「今の魔術で女王蜘蛛を倒せるんじゃないか?」

「試してみる価値はありそうですね」

「無理。相手は五〇メートルを軽く超えてるのよ。
わたしが撃てる熱線の太さは限界でも三メートルくらいよ」

「十分だと思うんですが」大剣使いは引きつった笑みを浮かべる。

「一回では倒せないでしょ。これだとせいぜい脚一本を撃ち抜くくらいね。
そもそもこれは何回も使えるような魔術じゃない」
魔法使いは息を切らし、赤い顔で言った。「それにもう、ちょっとしんどいの」

「そうですか。それはすみません」

三人はふたたび女王蜘蛛の待ち受ける広い空間へ向かった。



ユーシャたちは広い空間の手前で立ち止まる。
女王蜘蛛は、まだ中心に居座っていた。
真っ暗になった空間で、淡く光を放っている。
どうやら最初の雷の放出で苔や茸はすべて焼け、壁も黒焦げになってしまったらしい。

「どこに道があるかがわかりにくいな」と、ユーシャ。

「蜘蛛の向こう側に一つ、左奥に三つ、右奥に二つですね」大剣使いが言う。
「一番近いのは右側の道です。まあ、それでも
直線距離で五〇メートルほどの距離がありそうです」

「速くても七秒くらいはかかっちまうのか」

「でもこの距離なら、必死で走ればなんとかなるかもしれませんね。
ただ、蜘蛛の脚で引っかかれてしまう可能性があります。」

「引っかかれる?」ユーシャは眉間に皺を寄せる。

「女王蜘蛛が脚をぶん回したら、わたし達は薙ぎ払われるってことでしょ。
あいつの脚はかなり長いもの」魔法使いは息を切らして言う。

「その場合はどうするんだ?」

「私に任せて下さいよ」

「任せろって、あの巨体をどうやってなんとかするのよ。大丈夫なの?」


「さっき話したじゃないですか。私の腕力は異常なんですよ」
大剣使いは笑う。「信じてください。私は約束だけは絶対に守る男です。
最初に約束したじゃないですか。私は死んでもあなた達ふたりを守る、って」 

「……わかった」

「よし」ユーシャは剣を鞘から抜いた。「じゃあ行くか」

魔法使いは口の中で光の魔術を詠唱した。
すぐに光が灯る。それを合図に、三人は道を飛び出した。
女王蜘蛛は即座に反応し、天井近くに青白い球体を生成する。
それは部屋中を綺麗な青色に照らしだす。

しかし、そんなものに目を奪われている場合ではない。
三人は死に物狂いで脚を回し続けた。

次の道まであと二〇メートルほどのポイントで、蜘蛛は動いた。
このままでは逃げられると思ったのか、勢いよく脚を地面に叩きつけ、
こちらに向かって引きずるように地面を薙ぐ。巨大な脚は倒れた大樹を連想させる。
それは砂埃を巻き上げながらユーシャたちを潰そうとしている。

大剣使いが前に出る。
必死に走っているはずのユーシャよりも、二、三倍は速いように見えた。


「そのまま走りつづけてください!」と彼は叫び、
巨大な剣を地面に引きずりながら走る。
脚は速度を緩めることなく向かってくる。

脚との距離が五メートルほどになったとき、
大剣使いは立ち止まり、巨大な剣に力を込めた。
脚は地鳴りのような音を響かせ、近づいてくる。
頭上では雷が瞬き始める。それらは小規模な世界の終わりのような光景だった。

大剣使いは飢えた怪物のような低い唸り声を上げて、大樹のような脚を切り上げた。
岩同士がぶつかり合うような、鈍い音が響く。蜘蛛の脚は千切れなかった。
産毛のような毛に守られていた皮膚は、まるで岩のような硬さだった。

しかし、蜘蛛は高い悲鳴を上げた。
大剣使いの切り上げにより、脚は地面から数メートル浮いた。
それに、硬い皮膚もすこし抉れているのが見える。
傷口からは吹き出す緑色の体液が、雨のように降ってくる。


「うそ」魔法使いは思わず目を丸くして言った。
「あの脚を持ち上げたの? 信じられない」

「早く、行ってください!」大剣使いは走りながら言う。

「なんなの、あんた?」魔法使いも走る。

「ただの、化け物、です、よ!」大剣使いは一足先に次の道に飛び込んだ。

ユーシャと魔法使いも後を追うように飛び込んだ。背後で、青白い閃光が炸裂した。



飛び込んだ先にあったのは、緩やかな勾配の下り坂だった。
足がもつれて、ユーシャは肩を地面にぶつける。そのままの勢いで転がり落ちた。
結局、全身を強く打ってしまった。うめき声が漏れる。でも、生きている。

寝転がったままぼんやりとする頭を働かせ、周囲の状況を把握を試みる。
わかったのは、ユーシャ以外のふたりがちゃんと着地できたことと、
天井にいくつかの苔と茸があることだけだった。

しばらくすると、魔法使いが「ほんとうに、異常ね」と微笑みながら言った。
息をするたびに肩と胸を動かすその姿は、つらそうに見える。
頬は薄く紅潮していて、額は汗まみれだった。栗色の髪が顔にへばりついている。

「……だから、言ったじゃないですか」大剣使いも、めずらしく息が上がっていた。
額にも汗が見える。ただ、顔だけはいつもの涼しいものだった。

「でも、助かった」ユーシャは汗と泥で染まった顔で笑う。「ありがとう」


「ユーシャ様にそう言ってもらえると、とても嬉しいですね」
大剣使いは歯を見せた。「やっぱりあなた達に付いてきてよかった」

「こんな状況でなに言ってんのよ」魔法使いは歯を見せて笑った。

「あなただって笑ってるじゃないですか」

「これは、あれよ。あんたが剣を振るとき、へんな声を出したせいよ。
なによ、あの唸り声。おっさんみたいじゃないの」

「お恥ずかしい」大剣使いは振り返り、ユーシャに手を差し伸べる。
「立てますか?」

ユーシャはそれを握り返して、立ち上がる。「うん、大丈夫だ」
喋ると口の中に砂利が入り込んだので、唾といっしょに吐き出した。

「なに、その顔。泥まみれじゃないの」魔法使いは吹き出した。「きたない」

「ほっとけ」

大剣使いは微笑む。「さあ、行きましょう」



今度の道は、幅が五メートルほどあった。
高さは先ほどと変わらず、二メートルほどだった。
苔や茸は壁一面にびっしりと生い茂っている。目がちかちかしてくる。

道は複雑に曲がりくねっていた。当たり前のように、急勾配の坂道もあった。
蜘蛛の姿はない。
ユーシャたちはここが出口であることを祈って、ひたすら歩を進めた。

しばらく歩いたところで、三人は立ち止まる。
どうやら、この先には広い空間があるらしい。

大剣使いは小声で「止まってください」と言った。

「どうしたの?」と魔法使い。

「外れでした」大剣使いは壁に凭れてため息を吐いた。
「女王蜘蛛の部屋に戻ってきてしまいました。ここはさっき入った道の隣のようです。
どうやら、右側のふたつの道は繋がっていたようですね」


「残る道は四つか」ユーシャは長く息を吐く。「どうする?」

「今度はいちばん近い道でも直線距離で七〇メートルほど離れています。
おそらく、普通に走り抜けるだけでは間に合いません。雷でお陀仏です」

「腹を叩いて即離脱、で間に合うかな?」

「それで雷が収まれば大丈夫ですが、
攻撃のショックで雷が放出されたときが心配です。
しかし、おそらく生成が中断されて放出されるので、
最大出力の放電ではないでしょう。なので……」
大剣使いは魔法使いにちらりと目を向ける。

「もしかすると、わたしの魔術の障壁で耐えられる“かもしれない”ってことね」

「そういうことです。いちおう全員に、
ある程度の強度を持った壁を張っておいてください」

「了解」魔法使いは詠唱する。三人は薄い膜のようなものに覆われた。
「で、誰が叩きに行くの?」

「私が行きますよ」「俺が行く」
ユーシャと大剣使いはお互いの声に被せて言った。


「どっちなの」

「だから、俺が行くって」

「ユーシャ様」大剣使いはユーシャの肩に手を置いた。
「“こいつに申し訳ないから今度は俺がやる”だなんて、
余計なことは考えないでください」

「そんなんじゃない」

「じゃあ、なんなんです」

「それは」答えられなかった。図星だった。

「危険なことは私に押し付けてくれればいいんです。
申し訳ないと思ってくれているのは嬉しいんですが、
あなたは生き残って、魔王を倒すことだけを考えていればいいんです。
もし女王蜘蛛が脚を振り回しても、私なら大丈夫です。死にはしませんよ。
……それに、ユーシャ様の剣は小さすぎますからね。期待できません」
大剣使いは微笑んだ。

「……それもそうだな」
ユーシャは弱々しく笑い、頭を掻きながらため息を吐いた。
「勇者って、いったいなんなんだろうな。
世界を救うような力を持ってるんじゃなかったのかよ」


「さあ、なんなんでしょうね。でも、少なくとも
あなたは私の持っていない武器を持ってますよ」

「武器かよ」

「剣のことではないですよ。……たとえば、私には腕力という武器があります。
私にはこれしかないんです。でもあなたは違うんです。
ユーシャ様は、もっとたくさんの武器を持っているんです。
確かに力はあるとは言えませんが、力と強さはイコールではありません。
あなたは強いんです」

「ふうん」ユーシャは眼前の暗闇を見据える。
そこには淡く浮き出た女王蜘蛛のシルエットが見える。「よくわからない」

「いずれわかります」大剣使いは道と女王蜘蛛の部屋の境界に立つ。
「さあ、行きましょうか」

「いつでもどうぞ」魔法使いは杖を構える。



まもなくふたつの光の球を出現させ、三人は道から飛び出した。
大剣使いはわき目もふらずに、女王蜘蛛に直進する。
ユーシャと魔法使いは次の道へ一目散に向かう。

部屋が青白く染まる。充電が始まった。
もう十秒もしないうちに、部屋は雷で埋め尽くされる。

女王蜘蛛は向かってくる大剣使いの姿を捉える。
それを捕らえてやろうと、禍々しささえ感じられる口内から粘つく糸を放った。
しかし、簡単に避けられてしまう。

大剣使いはそのまま蜘蛛の脇に潜り込み、腹を狙う。
そして先ほど脚を裂いたのと同じように切り上げる。
脈動する管は簡単に引き裂かれて、緑の体液を吹き出した。
身体が緑に染まった。

女王蜘蛛は絶叫する。あまりに高い音で鳴くので、ほとんど聞こえてこない。
まもなく身体全体で怒りを表現するかのように脚先で地面を何度も突いた。
放電は起きない。代わりに小さな地震が起こるが、大剣使いは無視して離脱した。


ユーシャと魔法使いは次の道まであとすこしというところで、
思わず脚を止めてしまった。道から、数十にも及ぶ蜘蛛が現れたのだ。
しかし、このまま立ち止まると拙い。
一瞬ほどためらったが、ふたりはすぐに走り始める。
蜘蛛は身体を震わせ、発光する小さな球体をいくつも生成し始める。

「どけ! 糞が!」ユーシャは剣に力を込め、蜘蛛の大群を薙ぎ払った。
肉が引き裂かれ、そこから飛び出した体液が水たまりのように地面を覆っていく。
蜘蛛の断末魔が響く。異臭が立ち込めてくる。どうでもよかった。
このままだと時間が無いかもしれない。まだ蜘蛛は半分以上残っている。

小さな球体の出現から二秒ほどで、蜘蛛は一斉に細い雷を放った。

「止まるな! 進め!」と魔法使いは叫び、
ユーシャの目の前に魔術の障壁を作り出し、雷を受け止める。
受け止めながら、詠唱する。次に現れたのは、二本の炎の槍だった。
赤く光る槍はまもなくその場から射出され、蜘蛛の身体を貫き、内側から焼く。

まだ蜘蛛は残っている。
残っている蜘蛛は、先ほどの細い雷よりも強力なものをぶつけてきた。
ユーシャは構わず走る。魔術の障壁で覆われた剣で、それらを受け流す。
蜘蛛との距離がほとんどゼロになったとき、ユーシャは力の限り剣を振るった。
その一閃は何匹もの蜘蛛の身体をふたつに切り裂いた。


蜘蛛は全滅した。と、思った矢先、魔法使いの目に、何かの影が映った。
それは天井から真っ直ぐ、ユーシャを目指して降ってくる。
蜘蛛だ。魔法使いは言葉になっていない、絶叫のような声をあげる。

ユーシャは絶叫の中に聞こえた僅かな言葉を頼りに、目を頭上に向ける。
蜘蛛はもう目と鼻の先に迫っていた。剣に力を込めるが、間に合わない。

そのとき、脇から大剣使いが視界に飛び込んできた。
跳び上がった彼は最後の蜘蛛を手で引っ張り、地面に叩きつける。
そして追い打ちをかけるように、巨大な剣でそれを叩き潰した。

「ありがとう」とユーシャは息を切らして言った。脚は止めない。

「拙いです」大剣使いは暗い顔で言う。脚は止めない。
「怯ませられませんでしたし、中途半端な雷の放出も引き起こせませんでした」

「あんたはよくやったわよ」魔法使いは言う。脚は止めない。
「あとはわたしにまかせなさい。一回くらいなら受け止められる、たぶん」

「すいません、お願いします。信じてますよ」


視界が青白く染まる。三人は立ち止まる。魔法使いは素早く詠唱をする。
三人はドーム状の頑丈な魔術の障壁に閉じ込められた。
それから瞬く間もなく、障壁に紫や青の雷が激突した。
女の悲鳴のような異常な音を響かせて、障壁は軋みながらも三人を守る。

魔法使いは歯を食いしばりながら、苦しそうに声を漏らす。
全身から汗が滴っている。顔は真っ赤だった。
ユーシャと大剣使いは見守るしかなかった。早く終われと祈ることしかできなかった。

五秒ほどで放電は止んだ。。
小さな蜘蛛の五〇倍の力を受け止めた魔法使いは、その場に倒れこんだ。

「大丈夫か!?」ユーシャは彼女に声をかける。

「いいから、わたしを抱えて早く行きなさいよ……」魔法使いは弱々しく微笑む。

しばらく(といっても二、三秒だ)すると女王蜘蛛は身体を震わせ、
ふたたび大きな青白い球体に電気を貯めこむ。ユーシャは彼女を抱え、走りだす。
そして暗闇にぶつかるように、暗い道に飛び込んだ。



「ここが正解の道でないと、そろそろ拙いですね」

「うん」と、ユーシャは頷く。

抱えられた魔法使いは「ごめんね」と言った。

「どうして謝るんです」

「わたしすぐにバテちゃうから、足引っ張ってるような気がして」と
魔法使いは言い、弱々しく微笑んだ。

「いや、そんなことないよ。お前はすごい。
お前がいなかったら、俺たちはもう死んでたんだ」ユーシャが言う。

「そうですよ。謝ることはないんです。もっと自信を持ってください。
あなたの魔術は素晴らしいものなんですから。
暴力的でもあり、母性的でもある。私はとても頼りにしていますよ」

「そう……それならよかった」


「お前はすごい魔法使いなんだ。でも、俺は違う」ユーシャは頭を垂れた。
「結局、いちばん足を引っ張ってるのは俺だよ」

「そんなことはありませんよ」「そんなことない」
大剣使いと魔法使いは同時に言う。

「なんだよ」

「たしかにあんたは魔術も使えないし、こいつみたいな腕力もないけど、
わたし達には無いふしぎな力を持ってるのよ」

「安っぽい表現だな。ふしぎな力って、具体的になんなんだよ」

「……それは」魔法使いはユーシャの目を見つめながら、
もどかしそうに口を動かした。「その……」

「答えられないんじゃないか」

「違いますよ、ユーシャ様」大剣使いが割って入る。
「彼女、恥ずかしくて言えないんですよ。
私たちはユーシャ様といると、元気が出るんです。
力が湧いてくるといいますか、なにが相手であろうと負ける気がしなくなるんです」

「それは俺の力じゃない」ユーシャは首を振る。


「いいえ、これはあなたの力です。
そしておそらく、数あるうちの最大の武器です」
大剣使いはそう言い、
「言い方は悪いかもしれませんが、あなたは生きていてくれればいいんです。
勇者とは希望であり、私たちの行く先の暗闇を照らす唯一の光――でしょう?」と
魔法使いに微笑みかけた。

魔法使いは小さく頷いて言う。
「それに、あんたは弱いわけじゃない。十分に強い。ただ、わたし達が強すぎるのよ」

「なんだよ、それ」ユーシャは笑った。

「自信を失ってはいけませんよ、ユーシャ様。
自信の喪失から人間の崩壊は始まるのです」

「うん」ユーシャは頷く。「わかった」

「じゃあ、さっさと魔王を倒しに行きましょう」



大剣使いは歩く。あとに続く形で、ユーシャも魔法使いを抱えながら歩く。
しかし、十分も経たないうちにゴールへ辿り着いてしまう。

「またか」ユーシャの目に映るのは、途切れた道だった。

「ええ。行き止まりです」大剣使いは振り返る。
「これはいよいよ拙いことになってきましたね」

「……どうするの?」と魔法使い。

「残る道は三つですが、その三つは
この道の入口から八〇メートルは離れています」

「普通に走っただけじゃ間に合わない、か……」
しかし、腹を叩いても効果はないし、魔法使いのエネルギーもすでにない。

「はい。そこでわたしに提案があります」

「……なに」

「先ほど、女王蜘蛛が放電したあと、すこし間を開けてから充電を再開しましたよね」

たしかに、二、三秒の余裕があった。「……それがなんなんだ?」


「怒らないでくださいね」大剣使いは言う。
「一度、私だけがあの部屋に入り、雷を受け止めます。
たぶん、女王蜘蛛を叩いてここまで戻ってくるには
時間が足りないでしょうから、受け止めるしかないです。

それで、放電が終わった瞬間にユーシャ様は道から飛び出して走ってください。
もしも二回目の放電までに、次の道に間に合いそうになかったら
私を呼んでください。この怪力で次の道にふたりをぶん投げます」

「ふざけるな」ユーシャは険しい目で大剣使いを睨んだ。

「怒らないでって言ったのに」

「俺はお前に危険な目に遭ってほしくない」

「ほほう。そこまでユーシャ様が私のことを想ってくれていたとは。勃っちゃいそうです」
大剣使いは微笑む。それは悪魔的でもあり、天使的でもあった。
「でも大丈夫ですよ。私は死にませんし、負けませんよ」

「勝つとか生きるとか、そういうのじゃない。俺たちのために命を賭ける必要はない」

「必要はないですが、私から見ればあなた達は命を賭ける価値のあるひとです。
これは私の意思です。それに、あなた達はこんなところで死にたくないでしょう?
それとも、他になにかいい案があるんですか?」

「……」ユーシャは唇を噛んだ。

「信じてください」


しばらくの沈黙の後、ユーシャは言う。
「……どうやって雷を受け止めるつもりなんだよ」

「さあ。でも、この剣があればなんとかなるんじゃないですかね」

「ばかだろ、お前」

「そうですね。でも、今なら負ける気がしないんです」

「そうか」

「さあ、行きましょう」

「待って」と魔法使いが小さな声で言う。

「なんです?」


「これ」と、魔法使いは小さな何かを放り投げた。

大剣使いはそれをキャッチする。「これ?」

「お守り。あんたが死なないようにね」

大剣使いは握りこぶしを開く。そこには眩く光を反射する、金の指輪があった。
「いいんですか? これ、大事なものじゃないんですか?」

「そうね。だから絶対に返しなさい。約束よ」

「ええ、約束しますよ」大剣使いは左手の薬指にそれを嵌めて、笑った。
「信じてくれていいですよ。私は、約束だけは絶対に守る男ですからね」



来た道を遡るのにも十分ほどかかった。
女王蜘蛛は飽きもせずにそこに居座っている。
ユーシャは魔法使いを背負い、息を潜めてその時を待つ。

「じゃあ、いってきます」大剣使いは道から飛び出した。
ふたりは唇を噛んで、それを見送る。

女王蜘蛛はすぐに大剣使いの姿を捉えた。まもなく青白い球体が発生する。

大剣使いはスピードを緩めずに、女王蜘蛛へ突進する。
大樹のような脚が叩きつけられるが、怪物的な腕力で押し返す。
そのまま懐に潜り込んでから跳び上がり、巨大な剣で三つの目を叩き潰した。
それでも目は七つ残っている。緑の液体が噴水のように噴き出す。

女王蜘蛛は超音波のような悲鳴をあげる。構わず巨大な剣は脚の根本を切り裂く。
しかし脚は切断されない。皮膚は岩のように硬い。


まだか。まだなのか。ユーシャは恐怖と不安で潰れてしまいそうだった。
ほんとうに大丈夫なのか? 信じて大丈夫なのか?
あいつが死んでしまったら――

いいや、大丈夫だ。信じていればいい。約束したじゃないか。
だから、俺たちは生き残ることだけを考えていればいい。

そのとき、目の前の空間が青白い光で埋まった。
轟音が鼓膜を貫くような感覚に、足元がすこしふらつく。

いよいよだ。この光が消えたときが勝負だ。
ユーシャの心臓は跳ねた。背中にも、心音が伝わってくる。
恐怖を象徴するかのように、短い間隔で激しく背中を押す。

「大丈夫だ」とユーシャは言う。吐く息が震えた。

「わかってる」と魔法使いは答えた。身体の震えが伝わってくる。

「そろそろ行く。しっかりつかまってろよ」

「うん」

光が消えた。放電は五秒ほどで終わった。
ユーシャは力強く地面を蹴って、暗い道からさらに暗い空間へと飛び出した。


しかしそこで想定外の事態が起きた。
ユーシャの目に映ったのは、ほか六つの道から這い出てくる大量の蜘蛛だった。
淡く輝く蜘蛛の輪郭は重なり、壁を覆う。その数は百を超えている。

「そのまま進んでください!」大剣使いは叫ぶ。

言われたとおりに、真っ直ぐ進む。
七〇メートルほど先には、二〇匹ほどの蜘蛛が待ち受けている。
でも、大丈夫。信じていればいい。

部屋が青白く照らされる。二度目の充電が始まった。もう六秒ほどで放電が始まる。
しかし、次の道までの距離は、まだ六〇メートルはある。
それに魔法使いを背負っているので、全力で走ってもまず間違いなく間に合わない。

「無理だと思ったら呼んでくださいって、言ったじゃないですか」
大剣使いが背後から声をかけてくる。


「……」ユーシャは黙って脚を回し続けた。

「いいですか。私がここで蜘蛛を止めますから、あなた達は出口を探してください。
出口を見つけたらそのまま彼女を安全な場所まで連れていってあげてください」

「……」魔法使いは何も言わなかった。

「安心してください。蜘蛛でもほかの怪物でも、何が来てもここで食い止めますよ。
あなた達を死なせたりはしません」大剣使いは笑う。
「私も死にません。あとで追いつきます。迎えは要りませんよ」

次の道までの距離が二〇メートルほどになった頃、
大剣使いはふたりを抱え上げ、三つ並んだ道の右側に投げ飛ばした。
宙を舞いながらユーシャは大剣使いの顔を睨むように見つめる。

彼の顔の皮は熱により爛れていた。
服もところどころ焼け落ちていたし、腕も真っ黒だ。
剣から煙が立ち上っている。完全に雷を受けきることはできていなかったのだ。

ユーシャは魔法使いを抱きしめ、彼女のクッション代わりになる。
地面に叩きつけられた身体に鈍い痛みが走る。

「さあ、行ってください!」大剣使いは大量の蜘蛛に埋もれた。

ユーシャはなにかから目を逸らすように、必死に起き上がる。
急いで振り返り、魔法使いを抱えて走りだす。
背後からは、ふたたび雷に伴う閃光が射した。





「ひとつ言い忘れていました」

「ユーシャ様」

「この世でもっとも信用してはいけないものって、なんだと思います?」

「この世でもっとも信用してはいけないもの。それは」

「怪物の言葉です」

「私の言葉ですね」

「聞こえてますか?」

「聞こえてないですよね」

「聞こえてたらあなたは怒りますもんね」

「ごめんなさい」

「楽しかったですよ」

「ほんとうに楽しかった」

「だからもう一度、いっしょに旅をしましょう」


「くだらない約束をしましょう」

「聞こえてますか? ユーシャ様」

「私に声を聴かせてください」

「そしたらもう一度、私を救ってください――」


11


身体を失くしてしまった。でも、意識はある。宙を彷徨っているのは、私?

ああ、約束を守れなかった。彼女から受け取った指輪も失くしてしまった。
やっぱり怪物は嘘吐きだ。何ひとつ成し遂げられなかった。

でも、終焉を見つめるだけの時間は終わった。長かった。とても長かった。
あとは骸骨の永遠のような、途方もない時間の牢獄を彷徨うだけだ。

女王蜘蛛を倒したのはよかったが、そこで力を使いすぎてしまった。
小さな蜘蛛どもに肉を食われるのは気が狂うほどの痛みだった。
雷で皮膚を焼かれ、鉤爪で筋肉を引きちぎられるのは、耐え難い苦痛だった。
でも、私は死ななかった。死ねなかった。
それは私が怪物であるという、何よりの証明だった。

認めたくなかったが、私は間違いなく怪物だった。
人間のふりをした、ただの化け物だった。


私にも仲間がいた。先生を除いて、最初で最後の友だちだった。
あのふたりは無事なんだろうか? 無事に魔王を討つことが出来たのだろうか?
また私に会いに来てくれるだろうか?

いや、私はもうここにはいない。これは私じゃない。ただの、怪物の死骸。

私の身体を返してください。
私の身体を返してください。

そしたらまた、あのふたりの隣を歩けるのに――


骸骨は戦士の剣で粉砕された。





お前の敗因は三つある。

ひとつ目は、お前に仲間がいなかったこと。
あいつらのおかげで、お前の片腕は使い物にならなくなっちまった。
リーダーとお姉ちゃんに感謝しないとな。

ふたつ目は俺の剣を受け止められる器がなかったこと。
剣を振る力があるけど、ある程度の力をぶつけられると、骨がだめになるみたいだな。
たぶんお前、相当な時間あそこにいたんだろう?
そのでかい剣も相当ぼろぼろだったしな。

三つ目は俺とお前の力が互角だったこと。相打ちになるとは思わなかった。
てっきり、俺はすぐにやられると思ってたよ。


俺の敗因はふたつある。

ひとつ目は蜘蛛を甘く見ていたこと。こんなにいるなんてな。参るぜ。
せっかくお前を潰したのにな。結局こうなっちまった。

ふたつ目は、余計なことを考えちまったこと。
生き残りたいって、あのふたりの隣を歩きたいって、つまんないこと考えちまった。
でも、ちょっとくらい夢見たっていいよな。俺だってまだ一九なんだ。

ああ、死にたくねえなあ。もうちょっとだけ、歩いていたかったよなあ。
あいつに言いたいことが山ほどあったのに、もう伝える方法も機会もないんだもんな。
信じられねえよ。こんなの、あんまりだ。結局なんにも言えなかった。

約束もぜんぶ駄目になっちまった。あのふたりに戻って来いって言われたのに。
魔術の村のあの娘に、すぐに三人で戻るって言ったのに。

いやだ、死にたくねえよ。待ってくれよ。あとすこしでいいんだ。
あと、一言でいいんだ。俺は、まだ、生きていたいんだ――


戦士の視界は、滲んだ青白い光で埋め尽くされた。





岩石を吹き飛ばすことでエネルギーを使い果たしてしまったらしく、
僧侶はそのまま気を失った。戦士の言ったとおり、先には道があった。

勇者は僧侶を背負い、脚を動かし続けた。
走り続けることで自分を痛めつけて、納得しようとした。
これは仕方のないことなんだ、と。

でも、こんなもの、戦士が受けた苦痛と比べれば糞のようなものだ。
わかっていたが、勇者にはそうすることしか出来なかった。あとは祈るしかなかった。

生きていてくれ。戻ってきてくれ。お願いだから、いなくならないでくれ。
お前が居ないと、僕は駄目なんだ。
誰かが欠けてしまうなんて、あってはならないんだ。

それでも勇者は走り続けた。喉が焼け付く。筋肉が悲鳴をあげている。
戦士を助けに行きたい。しかし、僧侶をここに置いていくわけにはいかない。
それに、背後からは蜘蛛が迫ってきている。

死にたくない――


いったいどれくらいの時間、走り続けたのだろう。眼前に光が差した。
それは青白い光ではなく、青や緑の光でもなく、赤い光だった。
外の光だ。間違いない、夕陽だ。すでに陽は沈みかけている。

勇者は洞窟から飛び出した。赤い光に目が眩む。
急いで振り返るが、蜘蛛は洞窟の中からこちらを見つめているだけで、追ってはこない。
巣から出ていったので、これ以上追う必要はないと判断したのだろう。
結局、巣を荒らされたのが彼らの怒りを買ってしまったらしい。

勇者はほっと息を吐き、僧侶を背負ったままその場に倒れこんだ。
脚が動かない。足の感覚がない。咳き込む度に吐き気が込み上げてくる。
手の力だけで湿った地面を這いずりながら、近くの木に凭れかかった。
そして必死に思考を揺さぶった。


戦士、戦士――助けに行かないと。
でも、僧侶をこんな森に置いていくわけにはいかない。
僕はどうすればいい。僕になにが出来る?

信じろ、信じるんだ。あいつは帰ってくる。死ぬわけがない。
あいつは強いんだ。世界でいちばん強いんだ。
あいつは僕の大事な友だちで、きょうだいで、家族なんだ。

死ぬわけないだろ。信じて待ってればいいんだ。
きっと、何食わぬ顔で戻ってくるに決まってる。
しばらくしたら「ほら、死ななかっただろ?」って、あいつは笑顔で言うんだ。
そしたら思いっきり殴ってやる。だから、思いっきり殴り返してくれよ。
だから、戻ってきてくれ。まだ、言いたいことが山ほどあるんだ。……


血のように赤い夕日は地平線へ落ち、死のように冷たい夜がやってくる。
地獄のような時間は終わった。それでも覚めない悪夢のような時間は続く。
やがて、なぐさめのように明るい朝日が勇者と僧侶を照らす。
眩しすぎて、目が潰れそうになる。

そして、ついに戦士は戻ってこなかった。
勇者は朝焼けの中で静かに頬を濡らした。

なにが勇者だ。人間ひとりも救えないじゃないか。
弱くて、泣き虫な、ただの子どもじゃないか。
なにが勇者だ。大事な人ひとりも救えないなんて。
それどころか救おうともしないなんて、人間以下じゃないか。……


目の前に続く滲んだ道は、ぐねぐねと曲がりくねっている。
それは、間違いなく勇者が進むべき道だった。きっと、この道の向こうには何もない。
魔王がいるだけで、そのほかには何もない。
魔王が消えた後に残るのは、今まで通りの世界だけだ。

「魔王は必ず存在する」と誰かが言った。存在してもらわなくては困る。
内側で燃え盛る感情をぶつける矛先が、どうしても必要だった。
魔王には、存在してもらわなくてはならない。魔王がいないと、あいつの死は何になる?

勇者は僧侶の手を強く握った。彼女の手は、とても温かかった。
このぬくもりだけは、どうしても失ってはいけない。

約束したんだ。あいつは僕に、「頼んだぞ」って言ってくれたんだ。





背後からは蜘蛛が迫ってくる。なにが“何が来ても、ここで食い止めますよ”だ。
ユーシャは苦笑いを歯で噛み潰す。
そのまま歯を食いしばって脚を動かし続けた。

三十分ほど走った。脚の感覚はすでになかった。
喉が乾く。顔が熱い。息が苦しい。胸が痛い。
魔法使いが申し訳なさそうにこちらを見ている。
止まったりはしない。背後には蜘蛛もいるし、ふたりで生き残らなくてはならない。

そしてユーシャは確信した。この道が正解だったのだと。ついに光が射したのだ。
それは今までのような青や緑の植物の光ではなく、太陽の輝きだった。
縋るような想いで脚を回す。
背後では蜘蛛がこちらに雷を放つが、どれも当たらない。

ユーシャは魔法使いを抱えながら、転がるように地上へ飛び出した。
そのまま倒れ込む。泥濘んだ地面から、泥が跳ねる。
急いで脚を動かそうとするが、動かない。限界だった。

頭だけを動かし、背後を見る。
蜘蛛は洞窟の外には出てこず、出口ぎりぎりのラインで留まっている。
雷も飛んでこない。


「大丈夫……?」魔法使いが怯えたような顔で言う。

「うん」ユーシャはぼんやりとする視界を縦に揺らした。「もう大丈夫だ」

「俺たちは、大丈夫だ。でも――」と続けたつもりだったが、声が出ていなかった。
目の前が霞んでいく。周りにあるのは緑ばかりだ。きっとここは森の中なのだろう。
腕から力が抜ける。魔法使いが小さく声をあげて、地面に転がる。

たかだか三〇分、全力で走っただけなのに、どうしてこんなに身体が重いんだろう。
ユーシャの視界は狭まっていく。
今の彼を地面に押し付けているのは、肉体的疲労が三分の一ほどを占めていた。
残りは精神的疲労、そして己の非力を呪う思いだった。
それは自信の喪失の始まりでもある。

もう何も考えることができなかった。言葉だけが頭の上で回っている。
理想との不一致。自身への失望。現状への不満。理解の拒絶。
それらは脳を押しつぶすようにユーシャの頭に降ってくる。

彼はそのことに耐え切れなくなり、そのまま目を閉じる。
誰かの声が聞こえた。しかし、意識は途切れるように暗黒に落ちた。
それでも声は止まなかった。

つづく


12


遠くに、曲がりくねった大きな壁がある。それはいやに無機質なものに見える。
自分の物事を見る目が変化してしまったからなのかもしれない。

どうでもいい。

“蜘蛛の巣”をあとにして、数十日が経った。戦士はここにいない。
勇者は僧侶と身体を引きずるように歩きながら、
西を目指して歩いていたが、ようやく次の町に辿り着いた。
あの壁の向こうにあるのは、この大陸で二番目に大きい町、第一王国だ。

大きな壁は、近づくに連れてまた大きくなる。
巨視的に見ると力強い壁なのだが、微視的に見ると頼りないものだった。
ところどころが崩れていて、残った箇所のほとんどはツタのような植物で覆われている。
壁を挟んでいるからなのか、町から声は聞こえてこない。

「行こう」と勇者は言い、崩れた箇所から壁の内側に入った。僧侶もあとに続く。


町は荒れていた。まるで怪物が暴れたあとのような悲惨な状況だった。
整列した建物の壁は抉れていたり、剥がれていたりする。
赤く汚れた石畳を突き破って飛び出した木の根が、
ツタといっしょに仲良く壁を這っている。

見上げると、町の中心に黒ずんだ石の城が見える。
そこから魔王が現れても驚かないのではないかと思うほど、不気味な風貌だった。
しかし、空は澄んでいて、町を明るく照らす。
その光は町が平和であると錯覚させる。

「どうしようか?」と僧侶は顎に手をあてた。

「どこかで休もう」と勇者は歩き続ける。

城の周囲には水の張った堀がある。水は濁っている。
赤にも見えるし、緑にも見えるし、灰色にも見える。
川には油が浮いていて、虹色に光っているのかもしれない。


数十分歩いたところで、大きな建物を見つけた。その間、ひとの姿を見なかった。
こんな大きな城下町なのに、ひとは一人もいない。

大きな建物には、わかりやすく宿屋と書いてくれている。
勇者はゆっくりと戸を開き、宿屋と思しき建物に入る。僧侶もそれに続く。

戸が嫌な音で鳴きながら閉まる。音が建物内に反響する。
正面にはカウンターが見える。ひとはいない。
ここだけではなく、町全体にひとの気配はない。

勇者は第二王国の食堂での会話を思い出す。
『数年前は、いちばん大きな国だったみたいだね。
だけど、滅んだ。国民はみんな死んじゃったって。
疫病については、この国のひとも詳しくは知らないみたい』

僧侶がそう言っていた。第一王国は滅んだ。
みんな死んだ。なにも知らない。病で国は滅びるのだ。
しかし、道や建物には怪物の爪痕があった。文字通り、爪で岩を抉った痕だ。
なにも病だけで国が死んだわけではないように見える。

病で弱った国に怪物が攻め込んできたのではないかと勇者は推測した。
ほんとうのことはなにもわからない。
病の正体も、この町の昔の姿も、真実はなにもわからない。

どうでもいい。


そんなことよりも――食堂での会話の内容よりも、
あの時に流れていた空気を思い出してしまう。
あの空間は温かくて、いい匂いがした。
なによりも、あいつが――戦士が隣に座っていた。

それはとても懐かしい記憶のように感じられる。
たったの数十日前のことなのに、遥か遠くで起きた事のように思える。

今、彼はここにいない。何日待っても彼は帰ってこない。
勇敢なひと。彼は僕の友だちで、兄弟で、家族でもあるひと。

勇者の内側に、黒く粘つくものが湧き上がる。
“それ”は沸騰するほどの熱を持っていたり、皮膚を突き破るほどの鋭さを持っている。
内側に湧く“それ”は勇者の目の前に立つ。
“それ”は、まるで勇者自身を鏡に写したような姿をしていた。

どうして救えなかった。どうして救わなかった。
どうしてきみなんかがここに立っている。
どうしてきみみたいなやつが生きている? と“それ”は言う。

違う。仕方のないことなんだ。ほかにどうしようもなかった。
勇者は自分自身と“それ”に言い聞かせる。

いいや、違うね。
きみが囮になって死ねばほかのふたりは助かった。違うかい?

違わないけれども、僕だって死にたくなかった。


ふうん。じゃあ、たとえば僧侶が戦士の代わりに“行け”と言ったとしよう。
きみはどうしてた? きっと逃げなかっただろうな。
まるで御伽噺の勇者のように、彼女をかばって勇ましく死んだだろうな。
死ねば逃げられるもんな。勇者だとか魔王だとか、
よくわからないたくさんの鎖からさ。きみは弱虫だもんな。

違う。

ほんとうは僧侶とふたりきりになりたかったんじゃないの?

違う。

だから見捨てたんだな。きみの中では、あいつを助けるメリットがないんだよな。
邪魔者がいなくなってすっきりしたな。
あとはきみの願ったとおり、彼女と交わればいい。

違う。違う。……


彼女、嫌がるだろうな。大泣きだ。きみはそんな子に返り討ちに遭うんだろうな。
きみは弱虫で、あの子のことを想ってるんだもんな。
でも、きっと彼女はあいつのことを想ってたんだろうな。
きみは彼女の気持ちを考えたことがないんだもんな。
彼女はお前の何万倍も悲しんでるのに、きみは慰めもしない。
ただ、気付いていないふりをする。あいつの存在を時間で消そうとしてる。
彼女の思いを知ろうともしない。知りたくないもんな。
めんどくさいからな。それのほうが楽だ。
きみは人形。きみの一生は与えられたものを受け取るだけの作業だ。
きみはそれを噛み締めて人間のふりをするんだ。まともな人間のふりをな。
きみはそれにさっき気付いた。
そして形だけの後悔をした。こうやって自分を責めて、許された気になった。
どこからどう見ても人間だ。おめでとう。きみは大きな壁をひとつ乗り越えたんだ。
立派なにんげんに近づいてる。でもきみは知らない。
その大きな壁はきみを守ってくれてたんだ。唯一の救いだった。不思議な壁さ。
でも乗り越えちまった。もう守ってはくれない。振り返っても見えないんだ。
それくらいきみは前に進んだ。進んでしまった。


あーあ。きみはなんで生き残っちまったんだろうな。ああ、勇者だからか?
だったら早くこの糞みたいな世界を救いにいこうぜ。
そしたらきみもあいつのように勇ましく死んでやればいい。
きっと彼女は悲しまない。きみの死を見送る人間はいない。
彼女も死んでるんだ。悲しむわけがない。
みんな死んじまうんだ。きみが世界を幸せにしてくれないからな。
もしかすると、きみがみんなを殺すのかもな。こんな世界、いらないもんな。
まるで御伽噺の魔王だ。欲望のままに破壊の限りを尽くすんだ。
それはとても楽しいんだろうな。なにも我慢しなくていいんだ。
壊したいものを壊して、殺したいやつを殺すんだ。
きみを止めるものはいない。きみを止められるものはいない。
きみが魔王なんだ。いや、きみは勇者だったか? なんでもいいか。
結局、勇者ってなんなんだろうな。
きみってなんなんだろうな。なんの為の旅なんだろうな。
でも、わかってることはあるよな。きみは立ち止まってはいけない。
これは手に入れる旅じゃない、失う旅だ。もう失っちまったんだもんな。
きっと、これからもっとたくさんのものを失う。
夢、希望、自信、自我、信頼、感情、意思、信念、
思想、信仰、理想、思考、感覚、慈悲、愛、記憶。
みんな失くなるんだ。もちろん彼女も、どっかに行っちまうんだ。
きみのせいで。きみのせいで。全部きみが悪いんだ。きみのせいで、あいつは死んだ。
きみが勇者なんかに選ばれなければ、あいつはあんなところで死なずに済んだのに。

そうだろう?


「ねえ、泣かないで」僧侶は言う。「きみは悪くないんだよ。悪いひとは誰もいない」

勇者の意識は暗い水たまりのような曖昧な場所から戻ってきた。
目の前には僧侶が不安げな顔をしながら立っている。でも、滲んでほとんど見えない。
ぱた、ぱた、と頬から落ちるしずくが汚れた木の床で音をたてる。
それしか音は聞こえない。風の音さえしない。町はそれほど静かだった。

「きみは悪くない」僧侶はもう一度そう言って、踵を返して歩き始める。
それは勇者に言い聞かせるというよりも、僧侶自身に言い聞かせているように響いた。
勇者は目を擦りながらあとを追うように歩き出す。

入り口から向かって右側に備え付けられた扉を開くと、廊下があった。
歩くと床が軋んで悲鳴をあげる。そこにはたくさんの絵が飾られていた。
どれも埃をかぶっていて、絵の具の色が薄くなっている。
それでも綺麗な絵であることに違いはなかった。
青空。夕焼け。城。海。砂漠。森林。火山。怪物――


「これ……」勇者は一枚の絵に目を奪われ、足を止める。
長方形の紙に描かれていたのは、この大陸でいちばん最初に訪れた港町で見た、
あの気味の悪い石像だった。山から飛び出した竜の頭――あの石像そのものだった。

しかし、石像とは違い、絵には色が付いている。
山の部分は殆どが緑だが、ところどころに白や赤、茶色などが覗える。
竜の頭の部分は濃い茶色で、目はやはり真っ黒だった。
影が付いているわけではなく、真っ黒に塗りつぶされていた。

これはいったいなんなのだろう。ほんとうに神様なのだろうか。悪魔にしか見えない。
物事を見る目が変わってしまったからそう見えるだけなのだろうか?

「港町で見た石像だね」僧侶は興味なさげに言う。「カミサマだって」

「カミサマ」勇者は反復する。

僧侶はそれを聞いて、苦笑いを浮かべた。「カミサマ、ね」


ふたりはふたたび足を動かし始める。靴と床のぶつかる音だけが響く。
僧侶の歩くスピードはあまり速くない。なので勇者はゆっくりと歩く。
普通に歩いていると、ぶつかってしまう。

いつもの僧侶なら、よくわからないリズムでステップを踏んだりしていた。
「はやく」と手招きをしたり、暢気な声をあげていた。
でも、今は口を閉ざし、一定のリズムで重々しい足音を鳴らすだけだ。
その音は勇者の胸を殴りつけるように内側に響く。
彼女の胸にも戦士の不在が重くのしかかっている。それは間違いなかった。
思っている以上に、彼女は悲愴を感じているのかもしれない。

廊下の左右に一定の間隔で配置された扉を、片っ端から開けて回った。
どの部屋も荒れていた。本棚は倒れているし、
机も刃物で切り裂かれたみたいにバラバラだった。
ベッドも脚が折れていたり、大きな傷があったりした。
怪物が暴れまわった? 病気で頭のおかしくなった人間が暴れた? なにもわからない。

僧侶は戸を開ける。その部屋で一三個目の部屋だった。
今まで見て回った中では、いちばん大きい部屋だ。
それに、わりと小奇麗な部屋だ。埃はすごいが、爪痕のような傷はほとんどない。
四つあるベッドのうちのひとつは脚が一本折れていたが、それ以外は無事だ。
机も椅子も綺麗なものだ。埃はすごいけど。


僧侶はベッドに腰を下ろした。「疲れたね」と勇者に微笑みかける。
「そうだね」と勇者は答える。もうひとつあるはずの声は聞こえてこない。

勇者も隣のベッドに腰を下ろす。それからしばらくは沈黙が続いた。
重くて、痛くて、苦しくて、暗い沈黙だった。

窓の外からは心細い光が射してくる。空は厚い灰色の雲に覆われていた。
雲の隙間から射す細い光は、さらに細くなって、やがて見えなくなる。

「雨が降りそう」僧侶は窓を眺めながら言った。
「あいつ、戻ってきたらびしょ濡れだ。風邪はひかないだろうけど、心配だよね」

勇者も窓を眺めながら、「そうだね」と素っ気ない返答をした。
喉に何かが押し寄せてくる。

「……どうして戻ってこないんだろう」
僧侶は震える息を吐き出し、両手で顔を覆った。
「戻ってこなかったら承知しないって言ったのに」

「……」勇者は黙ってそれを見ているしかなかった。

僧侶は震える声で言う。
「もう何日も経ったのに、なにしてるんだろう、あのばか」


「……ここでまた何日か待とう。あいつは絶対に帰ってくる」
根拠も糞もない幻想だとわかっていても、言わなければならなかった。
そうすることで、自分を必死に奮い立たせた。
魔王という不完全な存在を探し出して殺してやるまでは、歩かなければならない。

「うん……」僧侶は頷く。
ぱた、ぱた、と頬からこぼれ落ちるしずくが埃塗れの床で小さな音をたてる。

それに答えるように、窓を雨粒が叩き始める。
弱い雨は徐々に強くなり、優しい音も轟音と呼べるようなものに変わる。

ふたりは窓を眺め続けた。雨は止まない。
窓には数え切れないほどの雨粒がへばりついている。
外の景色はほとんど見えない。そこに映るのは部屋の景色だった。
埃をかぶった暗い窓は、鏡のように自身を映し出す。見たくなかった。
勇者はベッドに身を投げた。

しばらくは雨音だけが空間を満たした。
勇者は寝転びながら天井を見つめ、雨音に耳をすませる。
それは暴力的とも言えるほどに激しい音だった。
僧侶はベッドに座りながら、窓を見つめる。窓はなにも見せてくれない。
進むべき道のように、暗くて曖昧だ。



どれくらいの時間が経ったのだろう。雨は徐々に弱まり、やがて途絶えた。
空は真っ黒だった。星は見えないし、月も見当たらない。
もちろん太陽の光もない。海の底のようだった。
どこか遠くで怪物が吠えた。それは夜の闇に飲まれて消える。

「ねえ」と僧侶は言う。「そっちでいっしょに寝てもいいかな」

「うん」と勇者は答えた。断る理由はなかった。

「ごめんね」と彼女は言い、勇者の隣に寝転がった。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「なんか、空っぽになったみたいで、へんな感じがするの」

「僕もたぶんそんな感じだと思う」と勇者は僧侶に背を向けて言った。

「寂しい?」

「うん」

「わたしも」

「もう、なにがなんなのか、わけがわからない」

「うん……」

「どうしたらいいんだろう」

「わからない」僧侶は勇者の背中に凭れかかった。「わからないよ」


「ごめん。僕だけじゃないよね」

「ううん、いいんだよ。きみはわたしを頼ればいい」

「僕は大丈夫だよ」

「我慢しなくてもいいんだよ。
泣きたいときは泣けばいいし、甘えたいときは甘えればいい」
僧侶は勇者を後ろから抱きしめた。
「……ただ、これだけは覚えていてね。きみは悪くない。悪いひとは誰もいない」

「うん……」

「だから、わたしも我慢しない」僧侶は勇者に巻きつけた腕を緩める。
「ねえ、こっち向いて」

勇者は黙ったまま、ゆっくりと身体を僧侶に向けた。
目と鼻の先に彼女の顔がある。鼻の頭が触れ合いそうだった。
彼女の目は、勇者の目と同じように潤んでいた。顔が赤くて、息が荒い。
勇者は自身の内側で膨張する彼女への想いと
罪悪感に耐え切れなくなって、彼女から目を逸らした。


「わたしね、今からきみにひどいことをするよ」と彼女は言う。
「でも嫌がらないでほしい。ちゃんと応えてほしい。
今日だけはわたしのわがままを聞いてほしい」

「うん」と勇者は頷く。“ひどいこと”とは、なんなのだろう。
今から殴られたり、罵声を浴びせられたりするのだろうか。
べつにどうでもよかった。殺されたっていいと思えた。

「ごめんね」僧侶は勇者を仰向けになるように倒した。そして上に重なり、キスをした。
それはとても柔らかくて優しいものだったが、驚かずにはいられなかった。
勇者の顔は思い出したように真っ赤に染まり始める。
彼女はそれを無視して、唇を貪る。熱い吐息は燻っていた気持ちを昂らせる。

唇の味を確かめるように舌が這う。やがてそれは口内に滑りこんでくる。
勇者も舌でそれに応えた。彼女の舌は柔らかくて熱い。そしてなによりも美味だった。

それは一分ほど続いた。彼女が苦しげに声を漏らし始めたので、勇者は舌を止めた。
僧侶はゆっくりと離れていく。ふたりの唇の間には銀色の橋が架かっている。
彼女はそれを舌で舐めとるようにして切った。
そのまま勇者のズボンの中に手を滑らせた。
細い指で勇者の硬くなったそれを弄り、締め付ける。


勇者は小さく驚きの声を漏らす。
それを聞いた僧侶は満足そうに妖艶な笑みを浮かべ、勇者のそれを優しく撫でた。
勇者は腰の辺りに押し寄せてくる心地よさに、ふたたび小さく声を漏らす。

「どうかな。気持ちいいかな」

勇者は目を伏せて頷いた。

「よかった」彼女は言い、頭を勇者の腰まで持っていった。
そのままズボンからそれを取り出して咥える。そこに絡みつくように舌を這わせる。
覚えたことのない感覚が押し寄せてくる。思わず腰が彼女の喉を突くように跳ねた。
小さなうめき声が聞こえた。

「ごめん」と勇者は小さな声で謝った。

彼女はすこし顔をしかめたあとに微笑み、頭を前後に動かし始める。
勇者のそれは彼女の口内を出入りする。
時々、粘り気のある艶かしい音が聞こえてきたり、
先が歯や頬の内側に擦れたりするのが、勇者のそれをさらに熱くさせた。

「も、もうだめ」と勇者は息を漏らすように言った。

限界だった。腰に気怠い感覚が押し寄せてくる。僧侶は一心不乱にそれを咥える。
唾液が落ちてシーツに染みを作る。
汗まみれの彼女の顔には黒い髪が張り付いている。


まもなく勇者は精を吐き出す。僧侶はそれを口で受け止める。
勇者の腰は小さく跳ねる。それは僧侶の喉を押すような形になる。
彼女はそれから送られてくる粘つく液体を、喉を通して体内に送った。

「ごめん」勇者は呆然と天井を眺めながら言う。
頭と視界がぼんやりとする。腰の辺りだけが水に浮いてるみたいな感覚だ。

「ううん」と彼女は首を振る。「わたしの方こそ、ごめん」

勇者の視界に僧侶が入り込んでくる。顔は赤くて、汗が浮いている。
すこし目線を落とすと、胸がはだけていた。

「さわって」と彼女は言う。

勇者はゆっくりと、その女性的な膨らみに触れる。

「もっと」と彼女は勇者の手を握る。

勇者は彼女の胸をやさしく撫でた。
柔らかい胸は潰れて、もとの形に戻る。彼女は小さく声を漏らす。
まるで壊れ物に触れるような怯えた手つきだったが、
彼女はそれでも悦んでくれたらしい。


僧侶は勇者の下半身を弄る。「また硬くなってるね」

「ごめん」

「嬉しい」

「うん」

「服、脱いで」と彼女は言う。

勇者は言われるままに、寝転んだまま器用に服を脱いだ。
彼女が腰の辺りにまたがっているので、起き上がれない。

改めて自分の身体を眺めてみると、小さな傷が無数にあるのがわかる。
旅で出来た傷がほとんどだが、小さな頃にできた大きな傷もところどころに見える。
小さな頃――思い出そうとしたが、やめた。思い出したら、崩れてしまう。
自分が自分じゃなくなるような気がした。

彼女の身体は綺麗なものだった。大きな傷はひとつもない。
汗で濡れて光る肌は宝石のようだった。
性的に曲線を描く身体は、勇者をさらに熱くさせる。彼女の匂いが理性を崩していく。

彼女は勇者に向かい、倒れこむ。勇者の胸で彼女の胸は潰れる。
勇者は彼女の身体をきつく締め付ける。
激しい心音が伝わってくる。それはとても熱くて、どこか不安定な響きだ。

「あついね」彼女は大きく息を吐き出して言う。「すごくあつい」

「うん」と勇者は頷いた。


やがて僧侶は勇者の胸に手を置き、力を込めて上半身を起こす。
濡れた身体に長い黒髪がへばりついている。
勇者はそっと手を伸ばし、彼女の性器に布越しで触れる。
それでも湿っているのはわかった。彼女は小さく声を漏らす。
手を離すと、指先と糸を引いた。糸は垂れて、勇者の身体に落ちた。

「はずかしい」と彼女は言う。

「僕も恥ずかしかった」

「ごめんね」

彼女は下着をずらし、性器で勇者の硬くなったそれを咥えようとする。
お互いの腰辺りに、雷が走ったような感覚が込み上げてくる。
彼女はゆっくりと、押し付けるようにしながら勇者のそれを飲み込んでいく。

彼女は小さく声を漏らす。スカートで隠れて、繋がっている部分は見えない。
でもたしかに繋がっている。なにか熱い液体が彼女から流れ出てきている。


勇者のそれは彼女で包まれた。締め付けられ、それはさらに熱く硬くなる。

彼女は時々目を閉じて、小さく身体を震わせる。
目には涙が浮かんでいるように見える。
小さな罪悪感を覚えても、もう止まることはなかった。すでに理性は焼き切れていた。

繋がったまま、しばらくはキスをした。手を絡め、舌を絡めた。
最初の一方的なものとは違い、今度はお互いを貪り、
味わうような情熱的なものだった。
身体を震わせ、攀じる姿は、決して今まで見ることのなかった彼女だった。

窓を叩く音が聞こえる。どうでもいい。雨がふたたび降り始めたのだ。どうでもいい。
雨脚はすぐに強まり、叩きつけるような暴力的なものに勢いを変える。

どうでもいい。


「うごくよ」と彼女は言い、小さく腰を前後に振った。艶かしい音が響く。
甘い声が聞こえる。それは大きな雨音にほとんどかき消される。
彼女は目をつむり、指を噛み、快楽と苦痛の滲んだ表情を浮かべる。

耐え切れなくなって、腰がすこし跳ねた。
彼女は大きく身体を震わせ、驚いて可愛らしい声をあげた。
そのまま腰を前後に振り続ける。

「もうだめかも」と勇者は言う。

彼女はそれでも腰を止めない。
目はじっと勇者の方を向いているが、見ているのはべつのものだった。
彼女が見ているのは勇者ではなかった。ほかの誰かだった。
勇者はそれに気づかない。まともにものを考えることができなかった。


「いいよ」と彼女は腰を振り続けながら言う。
「全部わたしの中に出していいよ」

「だ、だめだって」

「いいの。わたしはきみのがほしい。全部ちょうだい」

「でも」

「わたしのこと、嫌い?」

「そんなことない。好きだ」

「嬉しい」彼女は微笑む。「わたしも好きだよ」
荒い息を吐き、快楽に任せて声をあげる。
それは雨音にかき消されることはなかった。

勇者は耐え切れなくなり、彼女の内側に精を放った。
彼女は内側の肉壁にそれがぶつかるのを感じながら、
女としての悦びに大きく身体を震わせた。

ふたりは気を失うように眠りについた。





責任なんだよ、と影は言う。

きみは勇者になったということに責任を負わなければならない。
具体的に言うならば、きみは魔王を討たなければならないんだ。
仲間の死で足を止めてはいけない。悲しいのはわかる。
でもな、きみは人間でもあるが、勇者でもあるんだ。

でも、ほんとうは勇者も魔王も存在しない。
勇者という人間と、魔王という怪物が存在するだけなんだ。
きみは生まれつきの勇者ではない。
私は王ではあるが、御伽噺のように破壊の限りを尽くす、生まれつきの魔王ではない。

誰かがきみを勇者と呼ぶなら、その誰かの中ではきみは勇者だ。
きみが私を魔王と呼ぶなら、きみの中では私は魔王だ。

ほんとうは勇者なんていない。魔王もいない。平和も幸せもない。
全部にせものなんだ。でも誰かの言葉は、いずれきみにとって真実になる。
きみは誰かの言葉を信じ続けて、本物になる。
そして、ほんとうのことを知る。きみのその目で観測するんだ。

きみは世界を救う人間として、真実を知る義務と責任があるんだからな。
私にはきみにそれを伝える責任と義務がある。ひとつの国の王としてね。





おかしな夢を見たような気がするが、なにも思い出せない。

身体が重い。昨晩は腰辺りにあった気怠い感覚が、全身を覆っている。
勇者は身体を起こし、とりあえず服を着た。
彼女はすでに部屋にはいなかった。どこに行ったのだろう。

窓の外は気味が悪いほどの快晴だった。射す光は、部屋に舞う埃を映し出す。

勇者は部屋の外に向かう。
戸は嫌な音を鳴らして開いて、また同じような音を鳴らして閉まった。
廊下には、部屋よりは涼しい空気が漂っていた。

そのまま廊下を渡り、カウンターのある玄関に向かった。彼女はいない。誰もいない。

向かいの扉を開く。そこはどうやら食堂のようで、長いテーブルが四つ並んでいた。
椅子はそれの何倍も置いてある。どれも埃まみれだった。

彼女はその椅子のひとつに腰掛けて、なにかの絵を眺めていた。
勇者は隣に歩み寄り、「おはよう」と声をかけた。僧侶も「おはよう」と返す。

「なにを見てるの?」

「あの絵」と僧侶は呟く。


勇者は僧侶の視線の先に目を向ける。
木の壁には、埃をかぶった書きかけの絵があった。
それに描かれていたのは、見知らぬ三人組の姿だった。
女がひとりと、男がふたり。

女性は黒っぽい服を着ていて、膝までくらいの丈の短いスカートを履いている。
杖を持っているところを見ると、この女性は魔術を扱うひとだったのだろうか。

その隣に立つように描かれた男性は、女性と同じくらいの歳に見える。
一八かそこらだろう。短い髪に、腰に携えた剣。
その姿は、どことなく戦士の影を感じる。
でも、顔は全然違う。雰囲気はすこし似ているが、やはり違う。

そこで勇者は既視感を覚える。
それは雲の切れ間から射す光のように弱いものだったが、やがてその雲は晴れる。
僕はこのふたりに会ったことがある、と勇者は確信した。
でも、どこで会った? どこで見た?

思い出せない。思い出してはいけない。頭が記憶を引き出すのを拒んでいる。
雲が晴れても、太陽を拝むことはできない。


絵の中のそのふたりの背後には、背の高い男が立っている。
爽やかな笑顔を浮かべ、ふたりを後ろから見守るように立っている。
背中に大きな剣を背負っているのが印象的だ。
それは、蜘蛛の巣で見た大きな剣を回想させる。

「あの剣」と勇者は思わずこぼした。

「うん」僧侶は立ち上がる。「もしかすると、あのひとなのかもね。骸骨」

いったい、なにがどうなっているんだろう。勇者にはなにもわからなかった。



宿の外には井戸があった。昨日の雨のおかげなのか、水はたっぷりある。
汲み上げて、布に染み込ませて、適当に身体を洗った。
宿の箪笥に布の衣服が入っていたのでそれに着替え、今まで着ていた服も洗った。
信じられないくらいに汚かった。勇者も僧侶も苦笑いをこぼした。

もちろん落ちない汚れもあった。
緑っぽい染みや、赤っぽい染みはどうしても残ってしまう。
血というのはなかなか落ちないものだ。それは呪いのように、永遠に付きまとう。

僧侶も普段の肌の露出が多めの服ではなく、ゆったりとしたローブを着た。
それから袋に詰めていた木の実を胃に収め、
綺麗なのかよくわからない水で喉を潤した。


服が乾くのを待っていても仕方ないので、
この町の玄関口に向かって、あいつが帰ってくるのを待つことにした。

町をふたりで歩く。それはとても久しぶりのことのように思える。
あいつがいなくなってからふたりで歩いた時間が、すべて偽物だったように感じる。
あれは僕ではなかった、と勇者は思う。それに、あれは僧侶ではなかった。

でも、昨日までとはなにかが変わった。胸のわだかまりがほぐれたような感じだ。
彼女もそうなのだろうか。今日は“普段”と同じように見える。
すこしスキップしたりしている。

昨日の夜の出来事で、彼女の苦痛は和らいだのだろうか。
それとも、あれは諦めから来る空回りなのだろうか。
僕は彼女の力になれるのだろうか。もしくは、なれたのだろうか。

なにもわからない。


宿から町の出入口に付くまでは三〇分ほどを要した。
陽光と石畳からの照り返しのおかげで、服はすぐに汗まみれになった。
それに、喉が乾く。井戸の水を汲んでこればよかったなとすこし後悔した。

壁の外は砂漠のようだった。
ゆらゆらと空気が揺れて、海のように小さな粒が広がっている。
雨が降るのは珍しい場所ではないのかと思う。
この砂の山の向こうには小さな森があり、その奥に蜘蛛の巣への出入口がある。
ここまで来るのに大した日にちはかからないはずだ。なのに、あいつは戻ってこない。


結局、その日は夜になってもあいつは戻ってこなかった。
昼の暑さが嘘みたいに思えるほど、夜は冷え込んだ。ふたりは駆け足で宿に戻った。
そして昨夜と同じように、なにかを忘れ去ろうとするように交わった。
貪欲にお互いの身体を求め合った。

そんな日が七日間続いた。毎朝戦士を待ち、毎晩獣のように交わった。
戦士は戻ってこない。身体を重ねている間は、そんなことは忘れられた。

町に来てから八日目の昼、ふたりは第一王国城下町を出た。あいつは戻ってこない。

「いつまでもくよくよしてちゃだめだ」と彼女は言う。
それは勇者に言うというよりも、自分自身に言い聞かせているように耳に響いた。

続く


13


魔法使いは目を覚ます。目に映るのは、暗い天井だった。ここはどこなのだろう。
身体になにかが被さっている。どうやら、感触で布団らしいことがわかる。

上体をゆっくりと起こし、周囲を見渡す。小さな部屋だ。
正面の壁には扉があり、向かって右側の壁には小さな窓がある。
正方形の室内には、彼女が寝転んでいたベッド以外に、
本棚と小さな机と椅子がひとつずつあるだけだ。
窓からは月光が仄かに射しているだけで、それ以外に光はない。

わたしはどこでどうなったんだっけ。魔法使いは曖昧な記憶の糸を手繰り寄せる。
ユーシャに抱えられて、蜘蛛の巣から出た。でも、ユーシャはそのまま倒れた。
だからわたしが彼を引きずって歩いた。必死だったのは覚えてる。
あの場所はカマキリみたいな怪物がいて、あのままでは危なかったと思ったから。
でも、結局わたしも倒れたような気がする。エネルギーは空っぽだったし、
身体が自分のものじゃないみたいに重くて硬かった。それから――

それからどうなった? 思い出せない。
誰かが助けてくれた? ずっと眠ってた? そもそも、ここはどこなんだろう?


魔法使いは小さな光を出現させ、暗い部屋を照らした。
これといったものは家具以外に見当たらない。
足元に目を向けると、椅子に座りながら頭を伏せるようにして
ベッドで眠りこけているユーシャの姿が見えた。
でも、もうひとりの憎たらしい男はいない。

魔法使いはそっと布団から出て、正面の扉を開いた。
扉の先の部屋は明るかった。思わず目を細める。

「おお。起きたんだね」と、なんだか聞き覚えのあるような口調が耳に響く。
でもすこし違う。それに、あの憎たらしい男の爽やかな声ではない。
低くてくたびれた声だった。光に対抗するように目を開けると、
正面には椅子に座っている白衣を着た男がいた。

男はいかにも眠そうな顔をしていた。声に似合ってくたびれた顔だ。
皺も見える。歳は四〇くらいだろうか。
ぼさぼさの髪の毛や無精髭は不潔な印象を与えるが、
白衣は真っ白で、なんだか不釣り合いだった。


「あなたがわたし達を助けてくれたの?」と魔法使いは素直な疑問を口にした。

「うん。そういうことになるね。嫌だった?」
白衣の男は笑う。自分が不潔に見られていると、わかっているらしかった。

「ううん、ありがとう」魔法使いは頭を下げた。「ところで、ここはどこなの?」

「ここは南の大陸の第二王国城下町の、僕の研究所だよ」

「第二王国」魔法使いは反復する。

「そう。第二王国」白衣の男は顎の髭を撫でて言う。
「いやあ、森に……散歩しに行ったら、
きみ達が倒れてたもんだからびっくりしたよ。なにがあったんだい?」

「ちょっとね」と魔法使いは誤魔化した。あまり話したくない。

「そうかい」と白衣の男はそれ以上食いつかずに引き下がった。
「まあ、見たところ旅をしてるようだし、そりゃあいろいろあるよねえ」

「うん」と魔法使いは頷く。
「……ねえ。もうひとり、知らない?
でっかい剣を背負った背の高い男なんだけど。
憎たらしいくらいに綺麗な顔をしてる奴」

「いいや、知らない」と白衣の男は言う。

「そう」魔法使いは目を閉じた。あいつは戻ってきていない。


「……まあとにかく、意識が回復したようでよかった。
お連れさん、三日間ずっと心配してたよ。“俺が悪いんだ”って」

「三日間?」魔法使いは首をかしげる。

「うん。きみ、三日間ずっと眠ったままだったからね」

「そうなんだ」それは驚きだ。

「それであの男の子、きみの隣でずっと座ってるんだな。ご飯も食べずに。
なんだかすこし怖かったよ。依存してるって言うのかな、こういうのって?
きみがいないとだめなんだろうか、彼」

「……そんなことはないと思うけど」複雑な気分になった。
想われているのは嬉しいが、そこまでしなくても、と思う。
それとも、大剣使いの不在がユーシャのなにかを変えてしまったのだろうか。

「……まあ、今日はゆっくり眠って、明日の朝にあの子に元気な顔を見せてやってよ」
白衣の男は大きなあくびをした。「僕も眠いんだ。質問は明日だ」

「ごめんなさい」魔法使いは頭を下げる。「助けてくれてありがとう」

「はいはい、また明日聞くよ。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」


魔法使いは振り返り、戸を開く。
ユーシャはさっきと同じ場所で眠っている。
それは今まで見てきた姿と違って、とても弱いものに見えた。
理由はわからないけれど、とても悲しくなった。

そのままユーシャに歩み寄り、ベッドに腰掛けた。
彼はぴくりとも反応しない。相当深い眠りのようだ。

「ばかじゃないの」魔法使いは小さくつぶやいて、彼の頭を撫でた。

どうしようもなく寂しくて、悲しかった。
いつもなら、もうひとつの声があったのに。もとに戻っただけなのに。
憎たらしいやつが消えたのに。全然嬉しくない。ただ悲しかった。

大剣使いのことを想う。彼は、あんな目に遭う必要はなかった。
もっと安全に出口を見つけられる方法があったはずのに。
今更になって後悔が荒波のように押し寄せ、魔法使いの胸をうつ。

でも、もう遅い。
あのときのわたし達には、まともな判断能力がなかったのかもしれない。
仕方のないことだったのだと自分に言い聞かせるが、どうしてもやりきれない。
もしもあのとき、わたしにまともな判断ができていたら?


魔法使いは頭を振って、濁った思考を脳から消し去る。
それからユーシャをベッドに寝かせ、開いた椅子に座る。

彼もわたしも変わってしまった、と魔法使いは思う。
良くも悪くも、変わってしまったのだ。
わたしは歪んだ彼の内側をもとに戻さなければならない。
傷を埋めなければならない。自信の喪失を防がなければならない。
そんな心配はいらないと思っていたが、そういうわけにはいかなさそうだ。

近しいひとの死――不在は、彼が得たことのないダメージを精神に与えた。
それに加え、彼は“自分が足を引っ張っている”と思い込んでいるようだった。
それらが彼にとってどれほどの苦痛なのかはわからない。
でも理解しなければならない。

そのためには、まず眠って身体を回復させなければならない。
わたしが元気になることで、彼は安心できるのなら、やらないわけにはいかない。

魔法使いはユーシャの隣に寝転がった。
近くで見ると、彼の頬には涙の跡があるのがわかる。

そのまま目を閉じた。それから弱くなった勇ましい者を抱きしめた。
彼はとても小さかった。怯えきった小動物のようだった。





さほど眠いわけではなかったので、意識はすぐに覚めた。
ユーシャは、まだ隣で眠っている。

魔法使いは窓の外を見る。空はようやく白んできたというところだ。
ベッドから這い出して、大きく伸びをした。
三日間眠っていたのが嘘のように身体が軽かった。

ベッドの正面の扉を開けて、白衣の男がいた部屋に入る。
白衣の男は椅子に座りながら、机に顔を押し付けるようにして眠っていた。
あのまま眠ったのだろうか。放っておいたほうがいいだろうか。

放っておこう。魔法使いは部屋を見渡す。四方の壁は本棚で覆われていた。
背後と向かって右側に備え付けられたふたつの扉の前だけはなにもないが、
窓にはかぶさるようにして本棚が置かれている。
しまわれているのは分厚い本ばかりだ。故郷の村の図書館を思い出す。
昔はユーシャとよく遊びに行ったものだ。

右側の扉を開けた。先にあるのは廊下だった。
結構大きな建物のようだ。研究所と言っていただろうか。


外に出ようと玄関扉を探していると、白衣を着た女性とすれ違った。
魔法使いはそれを呼び止める。「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」

「は、はい? なんでしょう……」白衣の女性はおどおどとしながら言った。
表情にも怯えがにじみ出ている。若い女性だった。
二〇になるかならないかくらいの歳だろう。幸が薄そうな顔立ちだった。

「いや、そんなに怖がらなくても……」魔法使いは呆れて笑った。

「え、ああ、す、すみません……」

「……まあいいわ。ちょっと外の空気を吸いたいんだけど、
外に出るにはどこにいけばいいの?」

「ええと、廊下の突き当りが小さな部屋みたいになってるんですけど……
その部屋の向かって右側に扉があって、そこから外に出られます……」

「わかった。ありがとう」

「は、ひゃい」白衣の女性は頬を赤らめた。

「なにそれ」


「ああ、ああ、す、すみません。すみません……」

「……ねえ。わたしってそんなに怖い?」

「い、いえ、違うんです!」白衣の女性は高速で首と手を振った。
「あの、わたし、ひとと話すのがすごく苦手で……」

「大変ね」

「そうなんです」白衣の女性は照れ隠しのような笑みを浮かべた。
「……あの、朝早いんですね」

「三日も寝てたから、目が覚めちゃって」

「三日」白衣の女性は目を丸くした。「すごい」


魔法使いも照れ隠しのような笑みを浮かべた。「あなたも随分早いのね」

「え、あ、ひゃい。あの、わたし、夜は起きていてもやることがないので、
すぐに寝ちゃうんです。本を読むにも集中力がないというか……」

「ふうん。おもしろいのね、あなた」

「へ? そ、そうですかね……そんなこと初めて言われました。えへへ……」

「もし忙しくないんだったら、いっしょに外に行きましょうよ」

「え、あ、ひゃい。ぜひ、お願いします」

「やっぱりおもしろい」魔法使いは微笑んだ。



外気は冷たい。空から射す陽は、まだ心細い。足元の芝生は湿っている。
大きく息を吸い込んで、肺に綺麗な空気を送った。
すぐ正面には城がある。見上げると、首が痛くなるほどの大きさだ。

「随分と城が近いのね」魔法使いは言う。

「はい。えっと、王様のお願いで、ここで国のために研究をしているんです」
白衣の女性は答えた。

「へえ。どんな研究?」

「そ、それは言えないんです。す、すみません……」

「まあ、それもそうね。国の機密みたいなものだもんね」

「すみません……」

「謝らないで。謝るなら一回でいい」

「ひゃ、ひゃい。す、すみ……」

「謝らないで」

「ひゃい……」白衣の女性は頭を垂れた。


「まあ、いろいろね……」魔法使いは目を伏せた。

「あ、あの、厚かましいかもしれませんが、
わたしにできることがあったらなにか言ってくださいね。
できるだけ協力します……から」

「うん」魔法使いは頷く。「じゃあ早速」

「へ?」

「あなたが落ち込んだとき、なんて声をかけられたら嬉しい?
もしくは、なにをしてもらったら嬉しい?」

「う、嬉しい、ですか?」
白衣の女性は、いかにも困っているという表情を浮かべる。

「うん。今のあいつは、あなたとすこし似てる気がする」

「……いいえ。たぶん、そのひととわたしは違う……と思います」

「どうしてそう思うの?」

「そのひとは、その、崩れそうなんですよね?
だったらそのひとは、まだ崩れていない、と思います。
でもわたしは、もう崩れたあとで、何年も時間をかけて再生して、
ようやく今に至る……みたいな感じなんです。たぶん……」


>>366>>367の間が抜けた)


魔法使いは気付かれないように、ため息を吐く。
「もっと自信を持って話したらどう?」

「……言い訳がましいですが、わかってても、なかなかできないんです。
生まれつきというか、遺伝子に刻み込まれているというか……」

「自信の喪失は人間の崩壊の始まり」と魔法使いは言う。

「へ?」

「誰かが言ってたのを思い出した」

「崩壊、ですか」

「あなたもあいつも、崩れそうなのかもしれないわね」

「あいつ……?」

「わたしといっしょに運ばれてきたやつ」

「あ、ああ、あの男の方……なにがあったんですか?」


(それでこれが>>367の続き)


「ふうん……」詳しいことは訊かないことにする。
自分に自信を持たない性格のおかげで、随分と苦労してきたようだということは
なんとなくわかった。きっと訊かれたくないし、話したくもないだろう。

「あ、ああ、す、すみません。質問の答えでしたよね。ええと……」

「ゆっくりでいいのよ」魔法使いは言う。「自分のペースで進めばいい」

「はい……。あの、わたしが落ち込んだときは、
そういう風に言ってくれると、嬉しい、です」

「そっか」

「あ、あと、声をかけてくれなくても、誰かが隣にいてくれれば、
わたしはそれでいいんです。とても幸せ……だと思います。
そんな経験はないから、わからないんですけど……すみません」

「ううん、ありがとう」魔法使いは微笑んだ。「わたしも頑張ってみる」

「ひゃ、ひゃい……。そう言ってもらえると、わたしは、とても嬉しい、です」
白衣の女性の顔は真っ赤になった。


「さあ。そろそろ戻りましょうか」魔法使いは踵を返す。「お腹へった」

「そ、そうですね」白衣の女性もあとに続く。

「あなたは食べたの? 朝食」

「い、いえ、まだ、です。いつも先生と食べるので……」

「先生」と魔法使いは感心したように言い、扉を開いてふたたび研究所内に入る。
「先生って、あのぼさぼさの髪で髭を生やしたひと?」

「は、はい。たぶん、そうです」白衣の女性は魔法使いの後ろを歩く。

「ふうん。みんなで食べるんだ」

「はい。あ、でも、みんなって言っても、
ここにはわたしと先生しかいないんですけどね……」


「ふたりでずっとここで研究してるの?」

「い、いえ。わたしは一年くらい前からで、先生は四、五年くらい前からです」

「なんの研究をしてるの?」

「そ、それは言えません」

「流れで言ってくれると思ったけど、引っかからなかったわね」

「ひ、引っかかりませんよ!」

「おもしろい」



白衣の男が眠っている部屋に帰ってきた。
どうやらここは彼の――先生の部屋らしい。
白衣の男は未だに机に顔を伏せたままの体勢で眠っていた。
涎で小さな水溜りが出来上がっている。きたない。

ユーシャもまだ起きていない。
魔法使いがこの部屋を出てから二〇分ほどしか経っていないのだから、
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。空から射す陽は頼りない。

「ふたりとも、起こさなくていいの?」と魔法使いは言う。

「はい」と白衣の女性は微笑む。
「先生は時間になったら起きますから。
そ、それに、あの男のひとは疲れているでしょうし」

「そっか」


「え、ええと、なのでわたしは朝ごはんを作ってきます。
あ、いえ、作るって言っても、
買ってきたパンと卵を焼くだけなんですけどね……」

「へえ。わたしももらっていい?」

「はい。もちろん」

「ありがとう」

白衣の女性は頬を赤らめた。「ひゃ、ひゃい」

「あいつの分もいい?」

「もちろんです」

「多めでお願いね」魔法使いは照れ隠しに笑みを浮かべる。
「あいつもわたしも三日間なにも食べてないの。
空腹を通り越してお腹が痛いわ」

「ふふ」白衣の女性は微笑む。
「じゃあ、すぐに戻ってきますので、ま、待っててくださいね」
そう言ってばたばたと慌ただしく部屋を出ていった。



魔法使いはユーシャの眠る隣の部屋に入り、ゆっくりと扉を閉じた。
彼は未だに眠っている。死んだようにベッドに埋もれている。

「ねえ、起きて」魔法使いはユーシャを揺する。
起こす必要はなかったが、自分が目覚めたということを早く知らせてあげたかった。

ユーシャは目を閉じたまま、すこし顔をしかめた。
今度は「起きて」と耳元で囁く。ユーシャは寝返りをうって、頭をあげた。
細く開かれた目は魔法使いを捉える。その瞬間、大きく見開かれた。
幽霊でも見たみたいな反応だった。

「おはよう」と魔法使いは言う。

ユーシャは、まだ信じられないというような表情で魔法使いを見つめている。
魔法使いは「なに、じろじろ見て。はずかしいじゃないの」と笑顔で言った。

「……起きた」ユーシャは力が抜けたようで、そのままベッドに倒れ込んだ。
「よかった。ほんとうによかった……」


「なに、寂しかった?」
魔法使いはからかうように言い、ユーシャの隣に座った。

「うん……寂しかったし、怖かった」

「そっか」

「このまま起きなかったらどうしようって、
ほんとうに怖かったんだ……あいつも戻ってこないし」
ユーシャは魔法使いの隣に座り直し、頭を抱えた。
「でも、お前が起きてくれてほんとうによかった……」

「泣くな」と魔法使いは言い、ユーシャの頭に手を置いた。

「……ごめんな。俺、なにもできなかった。
ふたりはあんなに頑張ってくれたのに……」
ユーシャは手で顔を覆う。「俺が、俺だけが悪いのに……」

「あんたは悪くない」

「違う……俺が悪いんだ。あいつが帰ってこないのも、
お前がずっと起きなかったのも、ぜんぶ、俺が役立たずだから……」


「あんたは悪くない」と魔法使いはもう一度言う。
「だから、自信をなくしちゃだめ。あいつも言ってたじゃないの」

ユーシャはすこし間を開けてから、「うん」と頷く。なにかを思い出したようだ。
「ありがとう……。俺、恨まれてるんじゃないかって、怖くて……」

「誰もあんたを恨んでなんかいないわ。あいつだってそうよ」

「うん……でもあいつ、戻ってこないんだ。約束したのに。
あれから毎日あいつが夢に出てきて俺に言うんだ……
助けてくれ、助けてくれ、私を救ってください、って…….。

でも、なにもできないんだ……。
俺は夢の中ですら自分の思い描くように動けないんだ……。
そしたらそこで夢が途切れて……目が覚めたらお前はまだ眠ってて……
俺はひとりで……もう、なにがなんなのか……」

「……」魔法使いはなにも言えなかった。
真っ先に今の彼に対して抱いた感情は同情や憐れみではなく、恐怖だった。
別人だ、と魔法使いは思った。今の彼は彼じゃない。それがとても恐ろしく思えた。
情けなくて弱々しいその姿を見ていると、自分も飲み込まれてしまいそうになる。

「わからないんだ。どうしたらいいのかが、わからないんだ……。
ふたりの力になりたいのに、なにもできないんだ……」


魔法使いは「ふう」と息を吐き出し、「ご飯」と呟く。
「まずはご飯をお腹いっぱい食べる。それから考える。
今のあんたはお腹が減ってて、ちょっとおかしいだけ。
お腹いっぱい食べたら、わたしといっしょに次のことを考えましょう。
だから、絶対に立ち止まっちゃだめ。わたしが支えるから、いっしょに歩くのよ」

「うん……ありがとう」

「……あんたのことを心配してるひとがいるってことを忘れないで。
わたしもあいつも、あんたを恨んでなんかいない。あんたはひとりじゃないのよ」

ユーシャは顔を覆ったまま、無言で何度も頷いた。

「だから泣くな」と魔法使いは言い、ユーシャの手を顔から引き剥がす。
彼の顔は涙と鼻水でくしゃくしゃだった。
そして片側の頬をつねりながら、「笑え」と続ける。

ユーシャは魔法使いの目を見ながら、ぼろぼろと涙をこぼした。
彼の目には光が灯っていなかった。
深海をそのまま写したような、先の見通せない暗闇だった。
吸い込まれそうになる黒さで、魅力があるほどの闇だ。


「泣いた顔も悪くないけど」と魔法使いは言い、彼の両側の頬をつねって引っ張った。
「わたしはあんたの笑った顔が好き」

「……なんだよ、それ」

「あんたが悲しんだらわたしも悲しい。でも喜んだら嬉しい。力が出る。
だから、わたしの力になって。わたしを助けて。いま、わたしはすごく悲しい」

ユーシャは頷く。「ごめんな」
そして結局、笑わずにふたたび泣き崩れた。

魔法使いは頬の手を離し、ベッドから立ち上がる。
そして隣の部屋への扉の前で立ち止まり、ユーシャに顔を向けて言う。
「落ち着いたら、こっちに来てね。待ってるから。いっしょにご飯を食べよう」

彼は顔を手で覆い、何度も頷いた。
魔法使いは寂しげな目でそれを見送り、白衣の男が眠る隣の部屋へ引き返した。





そこで真っ先に感じたのは、鼻をくすぐる芳しい香りだった。

先生――白衣の男の部屋に、小さな丸いテーブルが運ばれてきていた。
その周りには、椅子が三つ並べられている。
そこらから適当にかき集めたらしく、椅子には統一性がない。高さもバラバラだ。

テーブルには山盛りのパンと、山盛りの目玉焼きの乗った皿が置かれている。
しかし、白衣の女性の姿は見当たらなかった。
十分な量に見えるが、まだ焼きにいったのだろうか。

どうでもいい。


今は彼の――ユーシャのことを考える。
わたしになにができる? どうしたら彼の自信を取り戻すことができる?
どうしたら彼自身を取り戻せる? どうしたらもう一度歩くことができる?

大剣使いの不在、わたしに無理をさせたこと、
そして自分はなにもできなかったこと。
それらが彼に罪の意識を背負わせている。
特に、“彼自身が無力であるという思い込み”がそうさせているように見える。

彼は無力ではない、と魔法使いは自身に言い聞かせる。
そう、彼は役立たずなんかじゃない。

でも彼は無力な自身へ失望している。それ自体は悪いことではない。
でも、彼にとってそれは死に等しい出来事だった。
世界がひっくり返るのと同じことだった。勇ましい者は壊れて、死んでしまった。
今は抜け殻が感情だけを吐き出しながら呼吸をしている。
魔法使いが好いていた彼は、今はいない。

でも取り戻すことができるはずだ、と魔法使いは自分を奮いたたせる。
しかし、方法がわからない。伝えたいことがいっぱいあるのに、
どうやってそれを正しく伝えられるのかがわからない。

わたしはどうすればいい?


「あ、あの、大丈夫ですか? ご飯、出来ましたよ」

魔法使いはゆっくりと顔を上げる。
そこでは白衣の女性が、おどおどとした顔でこちらを不安げに見守っている。
手には四本のフォークと、水の入ったコップを持っていた。

「うん」魔法使いは椅子に腰掛ける。軋んだ音が響く。
「ううん……やっぱり、大丈夫じゃないかも」

「あの男の方……どうでした?」
白衣の女性はフォークとコップをテーブルに置いて、魔法使いの隣の椅子に座った。

「なんか、別人みたいで怖かった。想像以上」

「普段は、その、どんなひとなんですか?」

魔法使いは目を瞑る。瞼の裏に、彼の姿が映る。
「他人想いで、優しい。なんだか在り来りに聞こえるけれど、ほんとうなの。
今みたいに弱くもない。ちょっと他人に感情移入し過ぎみたいなところはあるけれどね」

「いいひとなんですね。……でも、それがどうしてあんなふうに?」


「たぶん、わたしが起きなかったことと、
あとひとりの仲間が戻ってこないことに責任を感じてる……と思う。
それと、自分はなにもできなかったって思い込んでるみたい」

「責任」

「なにも悪くないのに。ばかなのよ、あいつ」

「……わたしにはすこしわかるような気がします、そのひとの気持ち」

「……あなたとあいつは、根っこの部分が似てるのかもね」

「いや、でも、え、えっと、わたしの場合は大したことではないんです。
なにをやってもうまくいかないから、なにもできなくなった、
みたいな感じ……なんだと思います。
なにをやっても無駄だって、どうせ失敗するんだからって……
でも、しばらくしたら自分がすごく情けなく見えて……それで……」

「失礼なことを訊くけれど、あなたはどうやって立ち直った?」

「先生に助けてもらったんです」と白衣の女性は言う。
「そんなことに気づくまで、ばかみたいに時間をかけたんです……
でもそれは無駄な時間でした。何年かはひとりで考えてたんですけど、
どうしたらいいかは結局わからなかった……。
頼れるひとはいないし、考えても無駄だって、どうせだめなんだって思い始めて……
そしたら先生が……わたしをここに連れてきてくれて……」

「そっか」


「で、でも、あの男の方にはあなたがいるし、それに、
もともと強いひとだから、絶対に大丈夫です」

「うん」魔法使いは微笑んだ。「ありがとう」

「い、いえ、こちらこそ、ありがとうございます……
結局わたしの話ばっかりで……でも黙って聞いてもらって……すみません」

「謝らないで」

「……はい」白衣の女性は顔を伏せる。
「……あの、このお皿、向こうに持って行って、ふたりで食べてください」

「ううん、いいのよ。待ってればあいつは来るわ」


「でも、わたしがいると話がしにくいんじゃないですか?
ふたりだと気兼ねなく話せるでしょうし……先生もそろそろ起きます。
それに、あのひとの隣にいてあげたほうが……」

「……うん」

「わ、わたしは、誰かが隣にいてくれると、とても嬉しいし、安心します」

「わかった」魔法使いはパンの乗った皿を持ち上げた。「ありがとうね」

「なんでも言ってくださいね。わたしにできることはこれくらいしかないですけど……」
白衣の女性は目玉焼きの乗った皿を持ち上げる。
その上にフォークをふたつ置いて、隣の部屋への戸を開けた。


ふたりは部屋に入る。
ユーシャは暗い部屋で顔を覆ったまま、壊れたおもちゃみたいに頷いていた。

魔法使いは彼に近寄り、言う。
「ご飯。あの子が作ってくれたから、いっしょに食べよう」

「ありがとう……」ユーシャは大きく頷いた。

「机の上に置いておきますね。食べきれなかったら残してください。
ちょっと張り切って作りすぎちゃったんで……」
白衣の女性は机の上に皿をそっと置いた。「じゃあ、わたしはこれで……」

「ありがとうね」と魔法使いは言い、机に皿を置く。

白衣の女性は照れくさそうに微笑み、部屋をあとにした。


魔法使いはベッドの前まで机を引っ張り、彼の隣に腰掛ける。
軋んだ音が鳴る。部屋に響く音はそれだけだ。
そしてパンをひとつ掴んで彼に差し出す。「ちょっとは落ち着いた?」

「うん」

「じゃあ食べましょう」

「うん……でも、もうちょっと待ってほしい」
ユーシャは手で顔全体を拭った。

「うん。待ってる。ゆっくりでいいのよ」

「……お前に優しくされると、よくわからないけど涙が止まらなくなるから、
今だけはなにも言わないでほしい……」彼はふたたび顔を覆った。「ごめんな」

「わかった」魔法使いは、まだ温かいパンを皿に置き直した。

「ありがとう……」


沈黙が訪れる。息苦しい沈黙ではないが、決して心地よいものでもなかった。
先程よりは空気が和らいでいて、耐えられないということはない。

窓からは優しい陽が差し込んでくる。
小さな鳥が窓辺でさえずり、どこかからひとの声が聞こえてくる。
がちゃがちゃと、耳障りな音が遠くから微かに、でもしっかりと空気を揺らす。

この町はひとで溢れている。第一王国のように、病気の被害には遭っていないようだ。
ここでならゆっくりとできる。安心して眠ることができる。
今まで安心して宿で眠ることができていたのは、
とても幸せだったのだということを今更になって思う。

「俺さ」とユーシャは口を開く。
「あの……えっと、お前がいてくれてほんとうによかったと思ってる」

「わたしも、あんたがいてよかったと思ってる」

「俺ひとりだとなにもできないんだ」

「わたしもよ」

「でも、もうこんなことにならないように頑張るから、強くなるからさ、その……
どこにもいかないでほしい。隣にいて、いっしょに歩いてほしい。
俺、お前がいないとほんとうにだめなんだ……」


「わたしもあんたが隣にいないと嫌。だから、わたしはどこにもいかない。
それに、約束したじゃないの、ずっと昔に」

「……そうだな。そうだったよな……」

「思い出してくれた?」

「うん。あの丘の天辺の木に、ちっちゃいナイフで書いたよな……。思い出した……」

「思い出してくれたのはいいんだけど、なんか……はずかしい」

「恥ずかしげもなくそんな約束してたんだな、俺たち。ちょっと恥ずかしい……」

「あんたはそれを忘れるくらい図太いやつだったのに、今は昔のわたしみたいじゃないの」

「そうかもな……」

「そういうところもそっくり。今のあんたは、あんたの言う弱虫そのものね」

「いいんだ、これで……」ユーシャは自身の大きな手のひらを見つめて言う。
「俺は、ゼロからやり直すんだ……」

「ゼロなんかじゃない」魔法使いはユーシャの手を握る。「わたしがいるじゃないの」


「……そうだよな」ユーシャは手を強く握り返した。「ありがとう」

「何回でも引きずり出してやる」

「いいや、もうこんな事にはならない。今度は俺がお前を守る番だ」

「それでいい」と魔法使いは微笑む。
「もう弱気になっちゃだめよ。あいつも、戻ってくるって約束したじゃないの。
どうせそのうち、『いい匂いがしますねえ』とか言って戻ってくるわよ」

「なんだそりゃ」ユーシャは微笑んだ。
涙と鼻水まみれのが乾いた顔は、それはひどいものだった。

「それに、指輪も渡したままだし、お金も渡してない」

「そうだな……」


「でも、あいつは放っていても戻ってくる。信じていればいいのよ。
だから今はわたし達が元気にならなきゃ」
魔法使いはパンを掴んでユーシャに差し出す。「でしょう?」

「うん。でも、ちょっと待ってくれ」

「なに。涙も鼻水も、あとで拭けばいいじゃないの。
今更はずかしがることもないでしょうに」

「いや、そうじゃなくて、水がほしい」ユーシャは歯を見せて笑う。
「喉がさ、からからなんだ。このままパンを食べたら喉に詰まって死んじまう」

「それもそうね」魔法使いは、すでに冷めたパンを皿に置き直した。





白衣の女性から水を貰い、差し出されたパンと卵をぜんぶ頬張った。
一口食べると、忘れていた空腹感が湯水のように湧き上がってきた。
冷めたパンと卵は非常に美味だった。
皿が綺麗になる頃には、胃を満たしていた空腹感は嘘みたいに消えてなくなった。

損なわれかけていた機能が回復する。思考も聴覚も視覚も、
元通りかそれ以上に研ぎ澄ませれているような気分だ。
目を凝らさなくても、耳を澄まさなくてもわかる。
町は明るく、賑わっている。たくさんの声が聞える。

しかしこの部屋だけは、喧騒から除外されたように穏やかだった。
とても居心地がいい。隣にはふたたび前を見始めた彼がいる。
魔法使いが好いていた、以前の彼に近い今の彼がいる。


ユーシャは窓から射す光の眩しさに目を細め、手で顔を拭う。
それを遮るように、「行こう」と魔法使いは言う。
「あんた、あのふたりに迷惑かけたんでしょ? どうせ」

「覚えてないけど、たぶん……」

「いっしょに謝って、お礼を言いにいきましょう」

「うん」ユーシャはベッドから腰を上げる。魔法使いも食器を持ってあとに続く。

扉を開き、白衣の男と女の待つ部屋に戻る。
ふたりは椅子に座りながらパンをもそもそと頬張っていた。

「あ、お、おはようございます」白衣の女性はユーシャに向かって小さく一瞥した。

「おはよう」とユーシャは返す。「ご飯、ありがとう。すごく美味しかった」

「そ、そうですか。それはよかった……です」

「それと、ごめん」ユーシャは頭を下げる。「俺、ひどいことをしたと思うんだ」

「い、いえ、そんなことはないですよ……元気になってくれてよかったです」

「あ、ありがとう……」

「は、ひゃい。ど、どうも……。えへへ……」


「これがあれか。恋の始まりってやつか。
ようやく僕の助手にも春が来たわけだ。なんだか微笑ましいな」
白衣の男は笑い、パンを齧る。「嫉妬しちゃうくらいに羨ましいな、ねえ?」

「なに、わたしに言ってるの?」と魔法使い。
空の皿を机に置き、空いた椅子に腰掛ける。

「きみ以外に誰がいるんだ」

「さあ」

「うかうかしてると僕の助手が彼を虜にしてしまうぞ」

「ほんとうね」

「な、なに言ってるんですか先生!」
白衣の女性は真っ赤な顔で声を張り上げた。「べつにそんなんじゃ……」

「なんだ。きみはずっと彼のことを心配してたじゃないか。
追い払われて悲しんでたじゃないか」

「せ、先生!」

「だってさ」と魔法使いは言う。「ごめんなさい」とユーシャは頭を下げた。


「その“ごめんなさい”は僕の助手の好意への返答なのかな?」

「え? いや、あの、追い払って悲しませちゃったみたいだし……」

「“みたい”って、覚えてないのかい?」

「……ごめん」ユーシャは白衣の女性に向かって深く頭を下げた。
「ほんとうにごめん。俺、ぼーっとしてて……」

「い、いえ、いいんですよ」

「どうやら彼は、すでに彼女の虜らしいぞ」白衣の男は笑う。

「わ、わかってますよ」

「きみが落ち込んでる間、彼はずっと彼女のことを考えてたんだな。羨ましいな?」

「そうですね……」白衣の女性は言ってから、はっとして口を塞いだ。
「ち、違いますよ? 違いますからね?」


「俺たち、ばかにされてる?」ユーシャは言う。

「すくなくとも男の方には悪意があるように見えるけど、
彼女にはそういう意思はないと思う。
悪意のない、純粋な感想が嫌味に聞こえちゃうこともある。たぶん」

「なんかへんな感じだ」

「村でからかわれるのはある程度慣れてるけど、こういうのはなかったわね」
魔法使いは微笑む。「やっぱりおもしろい」



朝食を終え、魔法使いは風呂を借りて身体を洗った。
彼女が上がってから、ユーシャも嫌々ながら風呂に身を沈めた。
汚れといっしょに、常にまとっていた緊張感のようなものが流れ落ちていく。
それはすべてを最初からやり直すための儀式のように思える。
まずは腹を満たして、身を清めることから始める。もう一度ここから始めるのだ。

それから服を借りて、それに着替えた。男物の服からは煙草の匂いがした。
白衣の男のものだというのはすぐにわかった。彼は煙草が好きなのだろうか。
女物の服からはいい匂いがした。肌色のローブのような服だった。

ふたりは白衣の男の部屋へ戻る。
部屋には白衣の男女がぼーっとしながら座っていた。
男が突っ伏していた机を見てみると、そこには灰皿があった。山盛りの煙草も。


「ああ、戻ったんだね」白衣の男は興味なさげに言う。

「失礼かもしれないけど、研究とやらはしなくていいの?」と魔法使い。

「まあ、二、三日くらいは休んでも罰はあたらないんじゃないかな」
白衣の男は笑う。「まあ、もし良かったらあと二、三日はゆっくりしていっていいよ」

「ありがとう。そうさせてもらうわ」

「あの、服、洗っておきましょうか?」と白衣の女性が控えめに身を乗り出す。

「いいや、大丈夫」ユーシャは言う。「これ以上は迷惑をかけられない」

「そ、そうですか……」

「洗わせてやってくれよ」と白衣の男が笑う。
「この子、きみ達の役に立ちたいんだ」

「じゃあ、わたしはお願いしようかな。あんたは?」

「ええ? じゃあ、俺もお願いします……」

白衣の女性の表情は陰から陽だまりに出たみたいに晴れた。
「じゃ、じゃあ、洗ってきます」そしてそのまま部屋を飛び出していった。
微かに鼻歌が聞こえた。


「おもしろい子だろう?」

「たしかに」ユーシャと魔法使いは頷き、高さがまちまちの椅子に腰掛ける。

「センシティヴでイノセントなんだ、彼女。普段はスタティックでとてもフィーブルだ。
怯えきった小動物みたいな感じだ。昨日までのきみと同じさ。
でも今の彼女はちょっと違う。今のきみと同じだ。きみのおかげでな」

白衣の男はポケットから煙草を取り出し、小さな魔術の炎で火を付けた。
立ち上る煙が不規則に揺れて、空気に溶け込んでいく。
魔法使いは煙草の香りは嫌いではなかったが、
煙が目に染みるので、煙草の存在自体は好きではなかった。

「さて、じゃあ、ちょっと質問してもいいかな?」と彼は煙草を咥えたまま言う。
先ほどまでとはすこし雰囲気が違った。
ほぐれた糸が張り詰めたみたいに空気が強張っている。

「どうぞ」

「きみ達はどうしてあんなところで倒れていた?」

ユーシャと魔法使いは蜘蛛の巣での出来事を簡単に説明する。
あまり思い出したくなかったが、誰かに聞いてもらいたいのも事実だった。
しかし、それはユーシャにとっては決して簡単なことではなかった。
話しているうちに表情が曇っていくのがわかったが、話を止めはしなかった。
前に進もうとしているというのは感じ取れた。忘れてはいけない出来事なのだから。


「なるほどねえ」白衣の男は煙草の火をもみ消し、新たな煙草に火を付ける。
「それで、もうひとりが帰ってきてないんだな」

「……」ユーシャは頷く。忘れかけていたなにかが内側に湧いてくる。

「まあいいや。その話は終わりにしよう。じゃあ次だ。きみ達はどうして旅をしている?」

「……」

「言えないような理由で旅をしているのかい?」

「言いたくない、ばかみたいな理由で旅をしてるの」と魔法使いは言う。
そんなことのために大剣使いは命を張ったというのが、可哀想で仕方なく思えてくる。

「ふうん。僕はとても気になるな、その理由とやらが」

すこし間を開けてからユーシャが答える。「魔王を倒すんだ」


「魔王?」と白衣の男は眉を顰めて言う。
二、三秒、目を瞬かせたあと、ひとりで納得したように頷く。
「そうか、魔王。魔王か……」

「居るのかもわからないようなもののために、ばかみたいに長い旅をしてるんだ」

「ほんとうにね。べつに信じてもらえなくてもいいわ」

しばしの沈黙が訪れる。
嘲るような視線と空気が皮膚を刺す。もう慣れたものだ。

白衣の男は長い息と煙を吐き出して、口を開く。
「いるよ。魔王は、いる。存在するんだよ」


それは今までにない反応だったので、思わずふたりは目を見開いて、顔を見合わせた。
「今、なんて言った?」とユーシャが言う。

「魔王は存在する。今この時に、実在している」

「あなた、なにか知ってるの?」魔法使いが椅子から立ち上がる。
旅に出てから、唯一の手がかりになりそうだった。
今までなんの手がかりもなくここまで来たというのが阿呆らしくなる。

「……僕は魔王を実際に見たことはないけれど、王様は見たって言ってるよ」

「王様が?」

「うん。ひとみたいな姿だったってさ」

「どこで魔王を見たの?」

「さあ。それは僕にはわからない。
でも王様は、ほか三人の国王といっしょだったというね」

「ほか三人って、第一王国と、西と東の国王?」

「それ以外に誰がいる」

「じゃあ、西の国王も魔王を見たのね?」

「この国の王様の話を信じると仮定した場合はね。
まあ、ここは信じると仮定して話を進めようじゃないか。
それで、どうして西の国王が話に出てくるんだ?」


「俺たち、西の国王に魔王を討てって言われたんだ」ユーシャは言う。

「西の国王か……なるほど」白衣の男は意味有りげに頷く。
「それだけ? ほかになにか言われなかった?」

「……“あれ”の動かし方を聞き出せって。
でも、“あれ”ってのがなんなのかがわからないんだ」

「“あれ”ねえ……。魔王に訊けというんだから、魔王と関連するものなんだろうな」

「なにか知ってるのなら、教えてほしい」

「ひとつだけ心当たりがあるかな」

「なんだ?」

「魔王は東、西、南の三つの大陸に、ひとつずつの贈り物をしたんだ」

「贈り物」と復唱し、ユーシャは首を傾げる。

「そう。それが何なのか、僕にはさっぱりわからないけどね。
きっとろくなもんじゃない。
たぶん西の国王が言う“あれ”ってのは、贈り物のことじゃないかな」

「ふうん……」


「それにしても西の国王は酷いひとだな。なにも伝えずにきみ達を送り出すなんて。
ここの王様も大概だけど、これくらいは教えてくれたよ」

「そういえば」と魔法使いは思い出したように言う。
「あなた、ここでなんの研究をしているの? 王様から直接命令されたんでしょう?」

「あんまり言いたくないけれど、それじゃあフェアじゃないからね。言うとするよ」
白衣の男は二本目の煙草を灰皿に置いた。
「僕は、怪物の研究をしているんだ。正確に言うと、怪物を操る研究をね」

「怪物を操る? それ、王様が言ったの?」

「そうなんだ。怪物を操る手段がわかったところで、きっとろくなことにならないよ。
間違いなく王様はろくでもないことを目論んでる」

「たしかに、怪物を操ってできる事といえば、
わたしには他国を襲撃するくらいしか思いつかないわ」
まさかペット代わりに愛でるわけではあるまい。


「だろうね。もしくは他国からの攻撃の抑止力にするとか。
たぶんそれはないだろうけど。
力に貪欲な人間が力を手に入れても、それは守るための力にはならない。
この国の王も御伽噺の魔王も、僕から見れば同じだ。

まあ何にしろ、僕はこの研究を止めることはできない。
僕は逆らえない。死にたくないからね。

権力ってのは厄介なものだ。弱いものを思いのままに動かせるんだ。
チェスの駒みたいに、なんでも思い通りだ。さぞかし楽しいんだろうな。羨ましいよ。

そうそう、きみには“森へ散歩しに行ってきみ達を見つけた”とか、
ばかみたいなことを言ったけれど、あれは嘘だ。
僕らはあの森に怪物を捕まえに行ったんだ。
研究の成果を試すには実物を使うのがいちばんだからな」

「ふうん……それで、怪物を操る方法は見つかりそうなの?」


「全然」白衣の男は笑顔で肩を落とした。
「もう五年くらいになるのにな、さっぱりだよ。
脳に電流を流しても、頭蓋の内側を撹拌しても、
薬品に一週間漬け込んでも、操ることは出来なかった。

このまま見つからないほうがいいのかもしれないな。
でも、見つからなかったら僕は殺されるのかもしれない。
なんと言っても、王様からいろんなことを聞きすぎてしまった」

「わたし達、騙されて利用されてるだけなのかもね」

「だろうね。間違いなく、大事なことを隠されてる。でもやらなきゃだめなんだな。
王様とその他の人間、糞みたいなシステムだ。なにが平等だ。
お偉いさんは綺麗なことばっかり言ってるけど、結局僕らは
使い捨てられる無数の駒のひとつなんだよな。白黒の盤上で踊らされているんだ」

「そうね」

「……」ユーシャは黙っている。


「……ああ、すまん。つい熱くなってしまった」
白衣の男は三本目の煙草に火を付けた。
「なにか、ほかに聞きたいことはあるかな? なんでもいい」

「魔王の居場所、知らない?」魔法使いは言う。

「知らないな。御伽噺だと北の大陸から来たって言われてるけど、それ以外はなにも」

「そっか」

「ほんとうに魔王を倒しに行くのかい?」

魔法使いはユーシャの方をちらりと見る。
彼は言う。「行くよ。決めたんだ。贈り物とやらのことを聞き出して、平和に暮らすんだ」

「平和、ね」白衣の男は笑う。「期待してるよ、勇者様」





あっという間に三日が経った。
ひとつのベッドで身を寄せあって眠るのも、なかなか悪くはなかった、と魔法使いは思う。
ふたり分の重さを確かめるみたいに軋むベッドはとても小さかった。
耳障りだったけれど、決して嫌なものではなかった。暑かったけれど。
それ以上に熱くてどうしようもなかったけれど。

ユーシャと魔法使いは綺麗になった服に身を包み、息を大きく吸い込んだ。
太陽が姿を隠しているのにも関わらず、早朝の空気は蒸し暑い。

「じゃあ、気を付けて行きなよ」白衣の男はあくびをもらした。

「三日間、ありがとうね」と魔法使い。

「いやいや、お礼は僕の助手に言ってくれ。
この子がいちばんきみ達の心配をしていたんだ」

「せ、先生……」白衣の女性はどぎまぎと言う。


「ほんとうにありがとう」とユーシャ。

「ひゃ、ひゃい……き、気を付けてください……ね」

「また来てくれってさ。きみには嫉妬しちゃうな」

「せ、先生!」

「相変わらずおもしろいわね」

「おもしろくないですよ……」

魔法使いは微笑む。「じゃあ、行くね。ありがとう」

「あ、あの……ちょっといいですか?」

「なに?」

白衣の女性は魔法使いに近寄り、鼻をひくつかせた。


「な、なに?」

「す、すみません……いい匂いなんで……つい」

「優しくて、敵意のない匂いだ」とユーシャは笑う。

「そ、そう。それです」白衣の女性も笑った。

「なんでわたしばっかり……」
魔法使いは頬を赤らめて俯いた。「はずかしい……」

「仕方ない。いい匂いなんだから」

「そ、そうです。仕方ないんです」

魔法使いは真っ赤な顔で唇を震わせた。
耐えろ、耐えろと自分に言い聞かせた。

それを見た白衣の男は吹き出した。「おもしろいな。ぜひ、また来てくれ」

続く


14


久しぶりの船だ。大きな海が眼前に広がっている。
勇者の気分は海の底へ沈む錨のように落ち込んでいく。
入れ替わるように吐き気が込み上げてくる。
海はいいものだが、船はどうにも好きになれない。

甲板から海を眺めるのは決して悪くはない気分だった。
潮の匂いもどちらかというと好きなものだった。
大きな海は小さなことを忘れさせてくれる。でも吐き気だけは忘れさせてくれない。

遠くには海の他に、塔が見える。一度目に船に乗った時に見た塔だ。
海の真ん中の塔は、いったいなにを意図して建てられたのだろう。
そんな小さな思考は陽光を反射する波に攫われて、巨大な海に溶けていく。



第一王国を発った勇者と僧侶は、真っ直ぐ大陸の西側の港町を目指した。
港町までは約二週間を要した。
途中には枯れた森があり、そこには大きな蟲が跋扈していたが、
どれも大した強さではなかった。森にも蟲にも、生命力がないのだ。
まるで滅んでしまった町を歩いているような気分だった。

あの森も病で滅んだのだろうか、と勇者は考える。
怪物が弱っているのはそれで説明が付くが、
森が枯れたことを考えると病は関係ないのでは、とも思う。

今更になって、吐き気といっしょに疑問が込み上げてくる。
第一王国は、ほんとうに病で滅んだのだろうか?
枯れた森と第一王国は、同じ理由で死んだように思える。
そう思い込みたいだけなのかもしれない。でも、そういうふうにしか考えられない。

どちらも病で滅んだのではなく、まるで生命力だけを何かに――
あるいは誰かに――ごっそり持っていかれたように思える。
ふたつが同じ理由で滅んだというのであると仮定した場合の仮説だったが、
勇者はそれが正解であると、確信に近い感情を持っていた。
そしてそれには魔王が関係している――そう確信した。


「どしたの、ぼーっとして」と隣の僧侶が言う。

「いや、ちょっと考え事をしてたんだ」と勇者は言う。
「いったいなにが起こってるんだろうね。あの大陸に」

「そうだね。ちょっとおかしい。森も町もだめになるなんて、異常だ」

「それも大陸の西側だけ。でも港は大丈夫だった」

港町は静かで、でもたしかに賑わっていた。
以前に訪れた港町と、ほとんどなにも変わらない光景だった。
枯れた土地を抜けてそこを見たときは、
不安定だった心が内側に根を下ろしたように落ち着いた。
その時は改めて、自分たちが異常な空間にいたということを知った。

「西の大陸はどうなんだろうね」僧侶は海を眺める。
その目はどこかに想いを馳せるように淋しげなものに見える。
あるいは誰かに想いを馳せるような。

思えば南の大陸にも長居したものだ。すこし名残惜しくもある。
勇者はそう思うが、僧侶はすこし違った想いだった。
それは複雑で混沌としたもので、ある意味では破壊的な感情でもあった。

「西の大陸かあ」勇者はその言葉を噛みしめるように語尾を引き伸ばす。

「あんまり実感は湧かないけど、遠いところまで来たもんだね」

「ほんとうにね」



西の大陸の港町に降り立ったのは、その日の夕方だった。

船から降りた勇者は、いつか感じた足元が揺れるような感覚に襲われる。
それは懐かしい感覚だった。踏ん張って辺りを見渡す。周りにあるのは木箱ばかりだ。
木箱の向こうには市場のような場所があり、その奥には階段が見える。
階段から右に視線をずらすと、たくましい灯台が見えた。

「大丈夫?」僧侶は勇者を支える。

「大丈夫じゃないかも」と勇者は答える。「船は苦手だ……」

「さっさと宿で休もうか」

「うん……」


僧侶に肩を借りて、木箱の間を縫うように歩く。
以前なら彼女に支えられているだけでも心臓がはちきれそうになったのに、
今はなんとも思うことができない。良くも悪くも変わってしまったのだ、と勇者は思う。
どちらかというと、悪い方に傾いてしまった。

どちらにも大きな傷ができてしまった。それは決して埋まることのない深い傷だ。
ある程度は時間が癒してくれるが、それ以上は回復しないような傷だ。
そしてふたりはその傷の再生を待たずに、無理やり泥で埋めてしまった。
泥はもう固まっていて、取り除くことはできなくなってしまった。
泥を掻き出そうとするものなら、きっとさらに大きな傷ができてしまう。
傷は海のように深くて暗い。

でも、このまま進むしかない。仕方のない事なんだ。勇者は自分に言い聞かせる。


宿は階段を登った先の広場にあった。
ふたりは迷わずにそこへ入り、部屋をひとつ借りた。
ふっくらとした体躯の老けた男はふたりを部屋に通すと、
「ごゆっくりどうぞ」と模範的な捨て台詞と、業務的な笑顔を残して去っていった。

しばらくすると夜が訪れる。月光が窓を通してふたりの身体を照らす。

そしてふたりは暗い部屋で身体を重ねる。躊躇も抵抗も拒絶もなく、
ふたりは当然のように簡単にそれを受け入れる。
交わることは、もはや呼吸と変わらなくなってしまっていた。

止めることで死んでしまう部分がある。お互いを感じることで前に進むことができる。
依存することで人間の姿を保つことができる。
これは脳を騙す薬のようなものだ、と理解していても、
止めることはできなかった。止めるつもりは微塵もなかった。

それは決して苦痛ではなかったからだった。
むしろ心地よく、天国に昇るような快楽をふたりにもたらした。
ふたりはその行為により、いくつもの傷を泥で埋め合った。
慰め合うようで、押し付け合うようでもあった。

心の底ではいつかこうなることを望んでいたのも事実だった。
勇者は、ずっと焦がれてきた彼女と交わることを、どこかで喜んでいた。


勇者が果てると、僧侶はしばらく宙を見つめたあと、キスをしてから風呂へ向かう。
ベッドの上に取り残されるような形になった勇者は酷い罪悪感に苛まれる。
吐き出した精と入れ替わるように、黒々とした泥水のようなものが内に湧き上がる。

これでいいのだろうか、と勇者は思う。
彼女はほんとうに僕のことが好きだったのだろうか?
いいや、好きだったのは間違いない。僕と彼女の間には愛があった。
ただ、それはきっと兄弟愛や家族愛のようなものだった。
決して肉体を求めるようなものではなかったはずだ。

彼女は、ほんとうは戦士のことを異性として好いていたのではないか?
きっと僕は弟のようなものでしかなかった。でもあいつはいなくなった。
彼女の心の拠り所はなくなってしまった。
支えてくれる柱を失ってしまった。守ってくれる壁を失ってしまった。

だから僕は代わりに選ばれた。
彼女が見る僕の姿には、戦士の影が写っているということに、最近ようやく気がついた。
だから彼女は最初の日に、「きみにひどいことをする」と言った。
それはきっとそういうことなんだろう。
それでも構わない。彼女の力になれるのならもう、なんだって構わない。


でも、僕と交わることで彼女は決して癒されない。
彼女もそれを理解している。それでも僕と身体を重ねる。
もしかすると、彼女は僕を慰めるためにこうしてくれているのだろうか?
でも、それなら「ひどいこと」にはならないはずだ。
すくなくとも、僕から見ればそれはひどいことではない。

彼女は僕にひどいことをしていると思っている。
「ひどいこと」の意味を説明せずに、僕を利用していると思い込んでいる。

つまり、そういうことだ。僕は彼女の最後の居場所ではない。
僕は彼女の終着点への階段のようなものだ。
それはとても悲しいことだと思う。でも、仕方ないとも思う。
僕は戦士のように力もないし、勇敢でもないし、泣き虫で赤面症だ。
勇者とは名ばかりだ。人間として欠落している部分があるようにも思える。
もしかすると、僕は怪物なのかもしれないな。どうだろう?


「どしたの、ぼーっとして」風呂あがりの僧侶は言う。
タオルを巻いているが、なめらかな曲線を描く身体はくっきりと見える。

「なんでもない」と勇者は言う。手で周囲を探り、散らばった服を掴む。
「ちょっと頭がくらくらするんだ」

「わたしのせいかな?」

「かもしれない。君はすごいからね」

「喜んでいいのかよくわからない褒め言葉だね」僧侶は勇者の隣に腰掛ける。
小さなベッドが悲鳴を上げるように長く軋んだ音を吐く。
「わたしもくらくらするよ。君はすごいからね」

「そう言ってもらえると僕は嬉しいな」

「そっか」彼女は勇者の額に触れる。それ以上はなにも言わない。


勇者は彼女の顔を見つめる。
彼女は優しい視線を落としながら、女神のように微笑む。
しばらくすると、何かを思い出したように表情は翳りを帯びる。

額に置かれた細い指が頬を這い、唇にぶつかる。
何かを忘れ去ろうとするように、ふたりはもう一度身体を重ねる。

それは数日間続く。その後ふたりは町を出て北上する。





きみの内側の感情の波はぶつかり合い、大きな渦を作り出す、と影は言う。
今は内側にあるが、すぐにきみはその渦に飲み込まれてしまう。

いくつもの感情が混ざったその渦には境界線がない。
それらの混沌とした感情は、ひとつのものとして生まれ変わろうとしている。
そしてそれは近いうちに底知れない破壊衝動に姿を変える。
きみはそれを何かに、あるいは誰かにぶつけたい。できることなら私に。

それでいいんだ。自分だけを信じて進めばいい。
きみは勇者なんだから、魔王を討つことだけを考えていればいい。
私はきみを迎え入れる責任がある。私はきみを肥溜めのような世界に
送り出した原因のひとつであり、王であり、きみの中では魔王である。
きみは勇者ではなかったはずだ。そうだろう?
しかしもう、誰かの言葉はきみにとって本物になってしまった。


きみは勇者で、私は魔王だ。
私たちの関係は太古から続く因縁のようなものであり、大きな流れの中にある規則だ。
隠された法則、それは必然として世界の中に存在する。運命というやつだ。

そして今、きみの渦はひとつの完成形になった。歪んだ欲望、真っ直ぐな殺意だ。
でもここは、まだ通過点のひとつなんだ。
それは完成されてはいるが、巨視的に見れば綺麗なものだ。

きみの渦はもっと黒く濁っていく。血と泥で汚れていく。
殺意なんて生易しいものでは終わらない。
破壊衝動の先にはきっときみの望んだものがある。
きみはどこまでも落ちていくことができる。

なにも心配することはない。近いうちにきみは私と出会う。
そういう運命なんだ。私はきみと会うのが楽しみだ。

すこし怖いけれどな。


15


第二王国を発ったユーシャと魔法使いは、時間をかけて大陸西の港町に辿り着く。
奇妙な石像が印象的だったが、その他にはこれといったものはなかった。
強いて言うならば、複雑な構造をしている町だったということくらいだろう。
まるで蜂の巣か、蜘蛛の巣のようだった。

到着から一日開けて、船に乗り込む。船の旅は二日目に差し掛かっていた。

ユーシャはベッドに寝転びながら、青い顔で言う。
「だから、船はだめなんだって……」

「情けないわね」と、ベッドに腰掛けた魔法使いは呆れながら言う。
そして彼の額を撫でる。なんだか今にも死んでしまいそうな表情をしている。

ふたりは東の大陸行きの船の、小さな部屋でくつろいでいた。
部屋にはベッドと机と椅子と窓がひとつずつあるだけだ。


円形の窓からは、うんざりするほどの広さの海が望める。
光を弾く波に混じって粒のように小さな泡がいくつもある。
海にはなにもない。海があるだけで、ほかにはあの塔しか見えない。
遠くに聳え立つ塔はここからだと小さく見えるが、かなり大きなもののようだ。

海の中心に立つ塔。五つのうちのひとつと言っていただろうか。
あれは空を支える柱で、その天辺には番人と呼ばれるようななにかがいる、と。
得体の知れないものに意味をこじつけたいという気持ちもわからなくはないが、
それにしても、もうすこしまともな意味を与えるべきではないのだろうか。
どう見てもあの塔は空まで届いていない。いや、それ以前の問題が多々ある。
そんな適当な御伽噺を信じろというのが無理な話だ。

ならば、結局あの塔にはどんな意味があるのだろう?


「ねえ、あの塔って結局はなんだと思う?」と魔法使いは言った。

ユーシャはゆっくりと視線を窓の外に向ける。
「さあ、何なんだろうな。俺にはさっぱりわからん」

「だと思った」

「なんだよ。じゃあ、お前にはあれが何なのかがわかるのかよ」

「さっぱりわからん」と魔法使いは声を低くして言う。

「だと思ったよ」ユーシャは笑った。



三日ぶりの揺れていない地面だ、とユーシャは安堵する。
でも足元は揺れているような感覚だ。いい加減にしてほしい、と地面を蹴る。
敷き詰められた石と擦れて、靴がきゅっきゅと間抜けな音で鳴く。
なんなんだ、これは。苛々する。

「なにしてんの?」と魔法使いは笑いをこらえて言う。

「足元がふらふらしてて、なんか落ち着かないんだよ」

「杖を貸してあげようか? おじいちゃん」

「いらない。なんでお前は平気なんだよ」

「あんたがおかしいのよ」魔法使いは杖をユーシャに投げる。
ユーシャはそれを反射的にキャッチする。
「反応がいいのね。おじいちゃん」と魔法使いは続けて、辺りを見渡す。

この港街も、今まで見てきたものと劇的に違うというようなものはない。
船に市場に大量の木箱。そして潮の香り。どこにいても大して変わらない。
でも、流れている空気は南の大陸と比べるとすこし冷たい。
それは自分たちが東の大陸に来たということを改めて確認させてくれる。
あまり実感はないが、随分と遠いところまで来たのだ。


「どうする? もう宿でゆっくりする?」と魔法使いはユーシャの周りを回りながら言う。
空は赤く、夜が近づいてきているのを感じさせてくれる。

「できることなら今日はゆっくりしたい」とユーシャは杖に体重をかけて言う。
顔色はあまりよろしくない。「船はだめだ」

「なさけない」

魔法使いはふらふらと、ユーシャを笑顔で見守りながら歩き始める。
彼は杖を突いてそれに続く。

町はそれなりに大きなものだった。
木箱の間を縫い、停泊所から市場へ、市場から広場へ向かう。
どこにもひとが溢れている。心なしか、みんな楽しそうに見える。
そういうものを見ると、どうしても第一王国のことを思い出してしまう。

あの禿げた男は元気なのだろうか?
結局、見せたいものとはなんだったのだろう?



広場をぐるぐると回っていると、宿屋は見つかった。小さな宿だ。
ほかに宿を探すのも面倒だったので、そこに入って部屋を借りた。

案内されたのは、二階にある小さな宿によく似合う小さな部屋だった。
窓と箪笥と本棚、それと椅子と机がひとつずつ配置されている。
ベッドはふたつある(ベッドがふたつある部屋を借りたのだから当たり前だ)。
船の中とあまり変わらないのではないかと思うが、それでもユーシャは満足げだった。

魔法使いは風呂で身体に染み付いた海の香りを落とし、
船旅で身体にできた錆を取り除く。湯船の中は温かくて、眠ってしまいそうになる。

瞼が完全に閉じきる前に風呂から出る。
箪笥から持ってきていたローブのような服を着る。
火照った身体に触れる夜の空気は冷たくて心地よい。
髪を後ろで縛ると首筋がひんやりとする。
また眠くなる。身体が重い。瞼が重い。

小さな部屋に戻る。ユーシャが椅子に座って何かを考えこんでいる。
彼は魔法使いになにかを言う。彼女にはほとんど聞こえない。
彼女は眠気に押し倒されるようにそのままベッドに潜る。

身体が温かい。彼の声が聞える。
満たされているというのは、きっとこういう感覚なんだろうな。
でも、すこしだけ足りない。あとひとり分の声が、足りない――





ユーシャはベッドに潜る魔法使いをまじまじと見つめる。
呼びかけても反応はない。そのまま眠るつもり、
あるいはすでに眠ってしまったのかもしれない。
疲れてたんだろうな、とユーシャは微笑ましく思う。
女の子なんだし、仕方ないよな。

ローブの隙間から、綺麗な脚が見える。膨大な距離――大陸ひとつを横断した脚だ。
それは頼りないくらいに細い。薄っすらと傷が見える。色は白くて肌には潤いがある。
束ねられた栗色の髪の隙間からは、綺麗なうなじが見える。

今までに何度も見たような無防備な姿だったが、この日は
このまま彼女を眺めていると心臓がどうにかなってしまいそうだったので、
宿の外へ散歩しに行くことにした。
足元が揺れているような感覚は未だに残っている。厄介なもんだ。


そっと戸を開け、廊下に出る。床は軋んだ音を、時間をかけて吐き出す。
部屋の空気よりも、すこしだけひんやりとしている。涼しくてちょうどいい。

できる限り音を鳴らさないように階段を下り
(それでも鳴るときは鳴る。致し方なし)、宿の外へ出る。
建物の壁に凭れ掛かり、視線を上げる。
細長い月が弱々しく海を照らしている。星は疎らだ。
町は眠っている。静寂に飲み込まれた町は、どこか寂しくも見える。


海の方から象徴的な音と共に、風が吹いてくる。
涼しい潮風は頬を打ち、短い髪を撫でる。
それは西の大陸の港町で、初めて大剣使いと出会った時のことを回想させる。
波のように寄せてくる記憶を、頭を振って紛らわせた。

もう考える必要はない。信じていればいい。
だから、俺は自分の心配をしていればいい。
ユーシャは自分に言い聞かせる。
それでも思い出は湧き水のようにゆっくりと滲み出し、脳に染みていく。

ぼんやりと空を眺める。月と星は、黙ってユーシャを見つめ返す。
空で瞬くそれらは特に綺麗なわけでもなく、
ただ光を放っている物体としてしか捉えられない。
なんだか寂しくなるし、感傷的な気分になってくる。

やがて湧き水は脳を満たし、大きな思い出の湖を作り出す。
ユーシャは思考をそこに浸す。大剣使いのことを想う。

彼には得体の知れない魅力があった。恐ろしい魅力と言ってもいいくらいだと思う。
俺は、それに惹きつけられたのだろうか?


彼との出会いは運命的でも、必然的でもなかったように思える。
よくわからない、適当な出会いだった。
とくべつ馬が合うわけでもなかったし、完全に信用できるわけでもなかった。

それでもいっしょに旅をした。旅は決して長いものではなかったが、
その短い時間の中で、更に彼の何かに惹きつけられることになった。
強くて可哀想で恐ろしい怪物。冷静で頼りになる優しい人間。
話を聞けば聞くほど訳がわからなくなった。
彼の中に飲み込まれていくような感覚に落ちたのを思い出す。

それはあんたが他人に感情移入しすぎなのよ、と魔法使いが頭の中で言う。

彼は――大剣使いは今、ここにはいない。
いなくても大したことはない、と言えばそれは大嘘になる。
元に戻っただけと考えても、胸の真ん中に穴が空いたみたいな、
どこか満たされない気分だった。

でも、今はすこし違う。ほんとうに少しずつ、胸の空洞は埋まろうとしている。
魔法使いの言葉は、まるで魔法のように傷を埋めてくれる。
だから今は、なんとか自分のことを考えることができる。


蜘蛛の巣での一連の出来事を回想する。それはいやに鮮明に脳裏で再生される。
もう二度とあんな事を起こさないように、強くならなければならない。
理解はできている。でも、方法がわからない。

彼女を頼ってはいけない。無意識の内に彼女へ寄りかかって
依存するのは、そろそろ終わりにしなければならない。
ひとりで、それこそ勇者のように歩かなければならない。

しかし、どれだけ考えてもわからない。
ユーシャには昔から苦手なものが五つあった。
風呂と、ぶ厚い本と、文字の読み書きと、おとなしくしていることと、考えることだ
(旅で船が苦手という事実が発覚したので、今は六つだ)。
なので、おとなしく空を見上げながら
自分の事を考えるというのは、どうも上手くいかない。


じっとしていても仕方ないので、適当に身体を動かすことにした。
広場を思いっきり駆け抜けたり、逆立ちしながら歩いたりして、
自分の身体に備わった運動能力をあらためて確かめる。
旅に出てから特にこれといった変化はない。
腕力も脚力も体力もとくべつ伸びたようには思えない。身長や体重だってそうだ。

でも、すこしだけ強くなったような気がする。
そう思いたいだけなのかもしれない。根拠は皆無なのだから。
なにがどう強くなったと訊かれたら、答えることはできない。

しばらくそうしていると、汗で服がべたついてきたので、
身体を横にして空を眺める。じっとしていると、冷たい夜風が身体を刺す。
汗が引くと、もう一度適当に身体を動かす。

いったい、どうしたら強くなれるだろう? 逆立ちしても答えは見えてこない。
そもそも、答えなどほんとうにあるのだろうか?





目を覚ましたとき、まだ空は暗かった。朝が近いというわけではない。
寧ろ、今がいちばん暗いのではないかと思う。
それもその筈で、魔法使いが目を閉じてから、まだ一時間ほどしか経っていない。

魔法使いは重くて温かい身体を起こす。隣にユーシャはいない。
見渡しても、彼の姿は部屋の中に見当たらない。

風呂に入ってるのかな?
いいや、ありえない。あいつに限ってそれはない。だったら、どこに行ったんだろう?


大きなあくびをしながら曇った窓をローブの袖で擦り、外を見る。
外は部屋以上に暗い(部屋には小さな蝋燭に火が灯っている)。
細長い月と微かな星だけが町を照らす。
広場を見下ろすと、そこを素早く横切る影があった。あれか? なにしてんだろ。

魔法使いはベッドから靴を履いて立ち上がり、部屋から出る。
廊下は冷たい空気と軋んだ音で彼女を迎える。
階段を下ると、外への扉はすぐ右側にある。それを押して外へ出る。

夜の外気はとても冷たい。身体もすぐに冷えてしまう。
でも、ひとりで部屋にいると、もっと寒く感じる。
歩きながら周囲を見渡すと、宿の横側の影になる場所で
逆立ちしているユーシャを見つけた。


「なにしてんの?」と魔法使いはあくびを吐きながら訊ねる。

「逆立ち」とユーシャは逆立ちしたままで答える。

「なんで?」

彼はすこし考えてから、「お前のスカートの中を見る練習をしてるんだ」と答えた。

「ふうん」魔法使いは彼の腹を蹴ってやろうかと思ったが、止めた。「見えそうなの?」

「ぜんぜん」

「だと思った」

彼は逆立ちをやめて、その場に座り込む。「なにも見えないし、なにもわからない」

「ふうん」魔法使いは彼の隣に座る。「ほんとうはなにをしてたの?」


「身体を動かしながら考え事をしてただけ」

「考え事、ねえ。どんな?」

「どうしたら強くなれるか、とか。でも、結局なにもわからない」

「あんたは考えるのが苦手だものね」

「そう。だからお前に頼ろうと思ったけど、それじゃだめなんだ」

「どうして?」

「このまま寄りかかってると、ほんとうにだめになりそうなんだ」

「べつにあんたはわたしに寄りかかっているわけではないと思うけど」

「いいや、たぶん寄りかかってる。俺は知らないうちにお前に甘えてるんだ」

「甘えればいいじゃないの。わたしがなんの為にあんたの隣にいると思ってるのよ」

「わからない」

「考えればわかるわよ」

「考えるのは苦手だ」

「知ってる」


ユーシャは弱々しく微笑む。大きく息を吐き出し、空を見上げる。

魔法使いは言う。「甘えたいときは甘えればいいのよ。考えたいときは考えればいい。
でもひとりだと、なにをするにも時間が掛かりすぎる。ひとりだとすぐに限界が来る。
ふたりならちょっと違う。疲れたときや困ったときは、お互いに寄りかかることが出来る。
わたしはあんたに寄りかかって、あんたを支えるためにここにいるの」

そしてすこし間をあけてから、「たぶん。よくわからないけど」と付け足した。

「難しいこと考えてるんだな」とユーシャは頭を掻きながら言った。

魔法使いはその言葉には答えなかった。
いま言ったのは、すべて後付の理由でしかない。
彼の隣にいるほんとうの理由は、おそらくべつにある。
でも言わなかった。言う必要はない。

「じゃあ、凭れ掛かることにする」とユーシャは言う。「どうしたら強くなれると思う?」

「知らない」と魔法使いは間髪入れずに答えた。

「なんだそりゃ」


「わかるわけないじゃないの。だからわたしといっしょに考えるんでしょ。
でも今は考えるときじゃないの。まずはお風呂に入って、ゆっくり寝て、
ご飯を食べて、それからよ。眠いとき、考え事はうまくいかない」
魔法使いは大きなあくびをした。

「そうか」ユーシャは立ち上がる。
「ずっと夜にひとりで考えてたけど、それじゃだめだったんだな」

「だめではない。ただ、もっと良いやり方があるってだけよ」
魔法使いも腰を持ち上げ、尻をはたく。ひんやりとしている。
「じゃあ、戻りましょう。まずは、あんたが嫌いなお風呂の時間よ」





「ほら、さっさと入りなさいよ」と魔法使いは腕を組みながら言う。

「いや、そこに居られるとすごく入りにくいんだけど……」
ユーシャは頭を掻く。

ふたりは風呂場の前の脱衣所でぐだぐだと話し合っていた。
魔法使いは十分ほど、ユーシャに風呂の良さを語った。
彼はそれに納得した(うんざりした)ようで、しぶしぶ風呂に入ろうとした。
しかし彼女は脱衣所から出て行かなかった。
ほんとうに入るか確認するつもりらしい。

「大丈夫よ。あんたが服を脱ぎ始めたらどっかに行くから」

「服が脱ぎにくいんだけど」

「なんで」

「まあ……ちょっと」

「ちょっと?」


「見られたくないというか、なんというか」

「なに女みたいなこと言ってんのよ」

「たぶん、俺が上を脱いだ瞬間に、お前は怒ると思うんだ」

「どうして」

「なんとなく」

魔法使いはため息を吐いた。
「怒らないから、さっさと風呂に入りなさいよ。きたない」

ユーシャは嫌々ながら服を脱ぎ始める。
露出した肌が目に入った瞬間、魔法使いは口を開く。
「なに、その傷」声には少々の怒気が含まれていた。


彼の身体には小さな傷が無数にあった。
まだ新しいものもあるし、すでに塞がっているものもある。
命に関わるような大きな傷はないが、それでも見ていて気分のいいものではない。
青く腫れ上がった箇所もいくつか見える。
すべて、怪物と戦ったときに出来た傷なのだろう。

「もしかして、怒ってる?」と彼は訊ねる。

魔法使いは黙って頷く。
命に関わる傷ではなくても、もうすこし自分の身体を大事にしてほしいと思う。
どうしてもっと頼ってくれないのだろう。すこし悲しかった。

「ごめんなさい」と彼は控えめに頭を下げた。

「なんで傷のこと黙ってたの?」

「……前も言ったけど、いちいち癒やしの魔術で治してもらうのが、
なんか申し訳なくて。それに、道端の怪物と戦っただけでこんなになるなんて、
情けなくて言い出せなかった。でもちっちゃい傷ばっかりだし、大したことないって」

「その痣は?」魔法使いは彼の胸の辺りにある青あざに指を向ける。
出来てからあまり日が経っていないように見える。
「まだ痛いんじゃないの?」

「ちょっとだけな」と彼は弱々しく笑った。


魔法使いは彼に歩み寄り、その痣の上に手を置いた。
ユーシャはどきりとする。柔らかい手のひらのぬくもりが伝わってくる。
そこに激しくなる心音が伝わっているのかと思うと、恥ずかしくなってくる。

しばらくはふたりとも、そのままで固まっていた。
気付いたときには痣のあった箇所の痛みは消えていた。
魔術というのはふしぎなものだと思う。とてもふしぎな、魅力の塊だ。

魔法使いは痣の上に置いた手をゆっくりと剥がす。
「……これで、ちょっとはマシになった?」

「うん」ユーシャは頷く。「ありがとう」

「べつにいいわよ、これくらい。だから、これからはちゃんと言って。
もっと自分の身体を大事にして」

「ごめん」


「なんのための癒やしの魔術だと思ってるの。
あんたにできないことを出来るのがわたしなんだから、もっとわたしを頼って。
わたしにできないことを出来るのがあんたなんだから、わたしはあんたを頼る。
遠慮はしなくていい。わたしもしないから。
それに、いまさら申し訳なく思う必要もないでしょう?」

「ありがとう」

魔法使いは微笑む。「じゃあ、さっさとお風呂に入ってきなさい」

「うん。入るよ、入るけどさ」

「けど?」

「お前がそこにいると下が脱げない」

「……それもそうね」
魔法使いは仄かに頬を赤らめながら踵を返し、ベッドのある部屋に向かった。
冷たい夜は更けていく。身体は温かかった。

続く


16


小高い丘を撫でる風は、どこか温かく感じられた。
海の匂いと、むせ返るような緑の匂いが混ざっている。
それは僧侶の髪を優しく、緩やかに浮かせる。

空は赤い。太陽は地平線とひとつになろうとしている。
それを勇者たちに見せつけるように、広がっていた雲がそこで途切れている。

「世界の終わりみたいだ」と僧侶は言う。

「そうかな」と勇者は答える。「よくわからない」

「適当に言っただけだよ。でも、すごく綺麗」


勇者は周囲に目を向ける。赤黄色に染まった草原は、風が吹くと波のように靡く。
遠くの海も、星を散りばめたように輝いている。
北には大きな石の城が見える。それも夕日で赤く染まっている。
たしかに綺麗だが、どこか儚さを感じる風景だった。
すこし感傷的な気分になってくる。

「世界の終わる瞬間って、綺麗なのかな」と勇者は言う。

「どうだろう」僧侶は太陽の眩しさに目を細める。「綺麗だったらいいのにね」

ふたりは丘を歩く。丘の天辺の部分には、一本の木が立っていた。
この辺りには、それ以外に木はない。
淋しげに、それでも存在感を放ちながら、そこに佇んでいる。

僧侶はそれに手を添える。壊れ物に触れるような、優しい手付きだった。
「今日はこの辺りで休もうか」と彼女は言う。

「そうしよう」と勇者は頷く。


ふたりは木に凭れ掛かるように腰を下ろす。
夜に近づく空を見上げながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。

まもなく夜がやってくる。綺麗な星空だった。
ほとんど隙間なく星が瞬いているのではないかと思うほどの数だ。
魔法みたいだと勇者は思った。

僧侶はその場に寝転んで言う。「綺麗だね」

「綺麗だね」と勇者も言い、隣に寝転がった。

旅に出てから七日目の夜を思い出す。
あのときは星よりも彼女のほうがずっと綺麗に見えた。
でも今は、またすこし違って見える。というよりも、まったく違って見える。
たしかに星の数が圧倒的に違うけれども、それは大した問題では無いように思える。
明らかに目が変化してしまった。それは見えるものも変わってしまったということになる。
立っている場所や、持っているものは劇的と言ってもいいほどに、悪い方へ変化した。

でも、立ち止まってはいけない。生きて、歩くんだ。
戦士がそう言っていた。それに、あの影も言っていた――

影? なんて言ってた?


「あのさ」勇者は思い出したように言う。「最近、おかしな夢を見るんだ」

「おかしな夢」と僧侶は確認するように復唱する。「どんな?」

「うん。気付いたら真っ暗な場所――真っ黒な場所かな。そこに立ってるんだ。
右も左も足元も見えないんだけど、立ってるのはわかる。

しばらくは何も起こらないんだけれど、そのうちに影がどこかから湧き上がってくる。
影というか、真っ黒な煙みたいな感じでさ、それはひとの形になったり、
四本足の怪物の形になったり、綺麗な球体になったりするんだ。
真っ暗なのに、真っ黒の影が見えるんだよ。わけがわからない」

「たしかに」僧侶は笑う。

勇者も弱々しく微笑む。「それで、今度はその影が喋り出すんだ」

「なんて?」

「それが……思い出せないんだ。
何度も同じ夢を見ているはずなのに、細かいことはさっぱり覚えてない」

「ふうん……たしかにちょっと変わってるかもね」

「うん。まあ、ただの夢って言ってしまえばそれで終わりなんだけどね」

「それを言っちゃあおしまいだ」


それっきりふたりは黙りこむ。
星はなにも変わらずに瞬いている。月がどこにあるのかがわからない。

勇者の右手に、僧侶の左手が触れる。
彼女は勇者の手を握る。ふたりはそのまま空を見上げる。

勇者は目を閉じる。星の残光が瞼に焼き付いている。
なにかが胸に引っかかっている。もやもやとした、黒い煙のようなものだ。
吐き出すことも出来ないし、消し去る方法もわからない。
そもそも、それの正体がわからない。

目を強く瞑る。波のように闇が歪み、視界を満たす。
意識は夜に飲み込まれる。まるで波に攫われて、海の底に沈むみたいに。





きみは酷く曖昧で、完全に中立的な場所に立っている、と影は言う。
生と死、人間と怪物、大人と子供、勇者と魔王、現と虚、天国と地獄、
快楽と苦痛、崩壊と再生、破滅と創造、古い世界と新しい世界。
きみはそれぞれの隙間で、必死になってもがいている。

いくつもの線がきみの足元で交わっているんだ。
あるいは可能性という言葉として、きみの足元から伸びている。
しかしきみはそこで、責任という鎖に縛られている。
逃げることは出来る。でも逃げることは許されない。

きみはそこから動こうとはしない。きみ自身がそれを許さないし、
そこはとても居心地が良くて、魅力的な場所だからだ。
鎖が断ち切れたとき、きみはほんとうの意味で自由になる。
誰にも頼らず、ひとりでどこへでも行くことが出来る。
きみはそれに耐え切ることが出来るはずだ。
なんといっても、きみは勇者なんだからな。

そう、きみは勇者なんだ。きみの心には誰かの言葉が重くのしかかっている。
誰の言葉かなんてことは重要ではなくなってしまった。
きみはそれを声としてではなく、文字として記憶に留めている。
僕は勇者だ、と。


好きなようにすればいい。信じたようにすればいい。
邪魔なものはすべて壊してやればいい。
きみにはそのための力が備わっているんだから。
氷の槍のように冷たくて鋭い、そして硬い芯を持っている。

そのままでいいんだ。正解や間違いなんてものは存在しない。
すべてきみの手で終わらせてやるんだ。
しかし終わりは近いようで、すこし遠い。


17


「ようこそ、旅のひと。ここは呪術の村です」
薄い灰色のローブを着た青年は微笑んだ。
短い金色の髪によく似合う笑顔だった。顔立ちも整っている。
すこしだけ大剣使いの面影を感じる。でも、やっぱり違う。

彼の背後には、夕日を受けて濃い影を落とす歪な形をした大きな岩と、
いくつかの円錐型のものが見える。
円錐の高さは二、三メートルはある。おそらくあれが家か何かなのだろう。

「呪術の村」と魔法使いは眉を顰めながら呟く。

呪術という魔法が存在するのは聞いたことがあった。何かの書物で読んだこともある。
大破壊を実行したり、死者を蘇らせたりする魔法のことだと聞いた。
しかし、ほんとうにそんなことが出来るのか疑わしいものだ。
そんなことをするのに、いったいいくらのエネルギーを使うことになる?

「どうしました?」青年は薄っぺらい笑顔を浮かべて言う。

「いいえ、なんでもないわ」



ユーシャと魔法使いは青年のあとに付き、村に足を踏み入れる。
村には灰や黒のローブを着た老若男女がいる。数はそれほど多くはない。
村自体がそれほど大きなものではないし、時間も遅いせいだろう。

円錐の間を抜けるようにしばらく歩くと、
ひときわ大きな円錐の前で青年は立ち止まった。
円錐の高さは四、五メートルはある。

青年は無言で垂れた幕のような布を捲り、
薄っぺらい笑みを浮かべたまま中に入れという具合のジェスチャーをする。
ユーシャと魔法使いはそれに従い、中にゆっくりと足を踏み入れる。

中は外よりはいくらか温かい。
それでも南の大陸の空気と比べるとかなり涼しい。
それは太陽や炎の熱による温度の上昇ではなく、
ひとの体温による微かな温度の変化だった。

円錐の底部分にあたる足元には、簡単な家具が円形に配置されている。
箪笥に、本棚に、ベッドに、テーブルに、椅子。どれも木製のもので、
かなり使い込まれている、あるいはかなりの時間が経っているようで、色が褪せている。
焦げていたり破損していたりするものも確認できた。


正面には低い椅子があり、そこには若い女が腰掛けている。
ふくらはぎ辺りまで届きそうな長い髪が
首の辺りで束ねられているのが印象的だった。
今は座っているので、長い髪は床に垂れている。
ほかの村民と同じように、彼女も黒いローブを着込んでいた。
長袖の隙間からは細い色白の腕と、金のブレスレットが見える。

歳は二〇の前半くらいだろうと、ユーシャは推測する。
女の年齢を判断する自信が特にあるわけではないが、そうではないかと思った。

「ようこそ」と髪の長い女は口を開く。落ち着いた声だった。
「きみ達もどこかの王国からここに来るように頼まれたの?」

魔法使いは首を傾げた後、「いいえ」と答える。きみ達“も”?
「いったい何の話?」

「そう。違うのならいいんだけど。だったら、きみ達はどうしてここへ来たの?」

「たまたま通りかかったんで、ちょっと休ませてもらおうかと思って」とユーシャが言う。

「ふうん」髪の長い女は好奇心をむき出しにした目でユーシャを見つめる。
ユーシャはその大きく綺麗な目に惹きつけられるのを感じた。
ふしぎな感覚だったが、悪くはない感覚だった。顔がすこし熱くなる。
それを見て彼女は目をすこし細めて笑った。唇の間から舌が覗く。

ふたつの視線がぶつかっているのを横目で見ている魔法使いは、
すこし苛々し始める。気に食わない。なんだ、このババアは。色目使いやがって。


しばらくすると手を叩きながら、
「まあ、あなたの言葉を信じるとしましょう」と髪の長い女は言った。
「好きなだけ休んでいってくださいな」そして魔法使いの方を見て続ける。
「見たところあなたは魔法使いのようですし、呪術を覚えていってみては?」

「考えておくわ」と魔法使いはぶっきらぼうに言う。

「そうですか」と髪の長い女は上品な笑みを浮かべた。

魔法使いは、それもまた気に入らなかった。
彼女が自分からいちばん遠いところにある存在のように見えたし、
それにユーシャがすこしでも惹きつけられたというのが腹立たしかった。



髪の長い女のいた円錐から出てすぐに金髪の青年は言う。
「美人でしょう?」

あの女のことを言っているのだろう。
「そうだな」とユーシャは答える。

「あれでも五〇歳近いんですよ、彼女」

「五〇?」ユーシャは素っ頓狂な声を上げる。
まさかそこまで予想が外れているとは思わなかった。
「そんなふうには見えなかったけど」

「でも、もうすぐ五〇のはずです。そして、そろそろ亡くなります」

「亡くなる? 死ぬってこと?」魔法使いは思わず訊ねた。

「はい」と青年は頷く。「呪術とは、そういうものです」

「どういうこと?」


「彼女は呪術により、あの若々しい姿を保っているのです。
呪術というのは莫大なエネルギーを使用するのです。
ときには命――所謂、寿命を削るなんてこともあります。
彼女はまさにそれです。寿命を削って若さを手に入れたのです」

「馬鹿げてる」と魔法使いは言う。それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
「ほんとうに馬鹿げてるわ」

「僕もそう思います」と青年は言う。
「でも、彼女の価値観では、若さというのはとても大事なものなのでしょう。
寿命を削ってまで手に入れたいものなのでしょうね。
僕には到底理解できません。だからこそ彼女は村の長になれたのかもしれない」

「ふうん。まあ、お偉いさんって変わり者が多いものね」
どこの国の王も、あるいは村の長も変人ばかりだ、と魔法使いは思う。

「その通り。あなたとは気が合いそうです」青年は微笑む。

「どうも」と魔法使いは素っ気ない返事をした。
なんとなく、好意のようなものが伝わってくる。

ユーシャはそれを見て既視感のようなものを覚える。
どことなく、大剣使いの面影をこのやりとりに感じる。
でも、なんだかこの青年は気に入らない。



しばらく青年のあとに付いて歩くと、
彼は数ある円錐の中の小さなものの前で立ち止まった。
すでに空は暗色に染まり始めている。足元を照らす光はすこし心細い。
青年は振り返り、「ここでゆっくりしてください」と言う。
「ありがとう」と魔法使いは言い、中に入る。ユーシャもあとに続く。

中はお世辞にも綺麗であるとは言えなかったが、
くつろぐには十分な機能が備わっている。広さも十分だ。
家具は埃をかぶってはいるが、ちゃんと家具としての役割を遂行している。
ベッドもふたつある。ひとはいない。ここには元々、誰かが住んでいたのだろうか?

ふたりが適当に木の実をつまんだ後に、椅子に腰掛けながら
今後の予定についてだらだらと話し合っていると(今後の予定といっても、
次の目的地は東の王国ということを確認しただけで、ほかは雑談ばかりだった)、
村の長である髪の長い女が円錐の中に現れた。


「ねえ、きみ。わたしの話し相手になってくれない?」と
髪の長い女――長はユーシャに言う。
魔法使いはあからさまに嫌そうな顔をしながら彼女を睨んだが、無視された。

「俺?」ユーシャは首を傾げる。「なんで俺?」

「興味があるから」と長は言い、微笑んだ。「きみにとても興味があるの」

「興味って」

「ちょっとこの子、借りていっていいかしら?」と長は魔法使いに言う。

魔法使いは苛立たしげな声で、「勝手にすれば」と返した。

「じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわ」長はユーシャの腕を掴み、引っ張った。

「え、ええ? ちょっと……」
ユーシャはバランスを崩しそうになりながら、椅子から立ち上がる。

「いってらっしゃい」と魔法使いはふたりを見ずに言う。「ごゆっくりどうぞ」

「い、いや、ちょっと……」
どう見ても怒ってるし、拗ねている。
ユーシャの目には、彼女がそういうふうにしか映らない。
どうやって機嫌を直してもらおうかと考えている間に、円錐から外に出た。


外はすでに夜の暗さに飲まれていた。
明かりは所々に固定された松明に、頼りない炎が灯っているだけだ。

ふたりは微睡みの町の中を黙々と歩く。ひとの姿はひとつもない。
まるで眠っているものを起こさないようにしているみたいに、口を閉ざす。
靴と草が擦れて、乾いた音が聞こえる。

しばらく歩くと、歪な形をした岩の下辺りで長は立ち止まった。
ユーシャも立ち止まる。そこは村の中でも一段と暗かった。

「そこに腰掛けてくださいな」と長は出っ張った石を指さして言う。
ユーシャは言われたとおりに腰掛ける。石はひんやりとしていた。空気も冷たい。
長は隣に座った。長い髪を首に巻き付けて垂れないようにした。


「その髪、不便じゃないの?」とユーシャは素朴な疑問を口に出す。

「たしかに不便ね」と長は笑う。「でも綺麗でしょう?」

「たしかに綺麗だけど」

「綺麗ならいいのよ。それはわたしにとってもっとも重要なこと」

「ふうん」ユーシャは長を見る。
「五〇歳近いって聞いたけど、ほんとうなの?」

「ほんとうよ」長は微笑む。

「見えないなあ」

「ありがとう。嬉しいわ」


「で、話ってなんなの?」とユーシャは言う。
さっさと戻らないと、魔法使いの機嫌が更に悪くなるような気がする。

「特にないわ」と長は微笑んだ。

「はい?」

「特にないわ」と長は繰り返す。「きみとふたりきりになりたかっただけよ」

「ふうん」ユーシャは彼女から目を背けて、頭を掻いた。「どうして?」

「持っていない欲しいものを手に入れたいと思うのは、自然なことなのよ」と彼女は言う。
「見たところ、きみは強くてたくましいみたいだし、ふしぎな魅力みたいなものがある」

「強くはないし、たくましくもない」とユーシャは否定する。

「魅力はある?」

「何回かそんな感じのことを言われたことがある。ふしぎな力とか言ってたかな」

「あの子に言われたの?」

ユーシャは頷く。「それと、もうひとり。そっちは男だけど」


「好かれてるのね」

「どうだろう。頼りないやつと思われているかもしれない」

「そうかしら」

「わからない」とユーシャは言う。「だから強くなりたいんだ」

「ふうん。あの子に好かれたいから?」

「それもあると思う」

「どれくらい強くなりたい?」

ユーシャはすこし考えてから言う。「なにも失くさないくらい」


「完璧になりたい?」

「たぶん」

長は長い息を吐き出す。首に巻きつけた髪がすこし揺れた。
「強さにもいろいろある。でも、きみの求める強さはつまらないものね。
持っていないものを求めるのはたしかに自然なことだけれど、
完璧というのは人間としては不完全なものよ」

「なんだっていい。とにかく今のままじゃだめなんだ」

「たとえば、自分の命を削ってでも強くなりたい?」

「たぶん」

「あの子はそれを望んでいる? きみが完璧になることを」

沈黙。たぶん、そんなことは望んでいないと思う。どうだろう?


「きみがひとりでなんでも出来るようになったら、
あの子は寂しいんじゃないかしら?」と長は言う。

「どうかな……。なんか、全部わからなくなってきた」

「それでいいのよ。今のきみはとても魅力的よ」

「それもわからない」

「真っ白な紙なんてつまらないわ。ちょっと汚れているくらいのほうが味がある。
その汚れにもいろいろな色や形があるわ。たとえ紙全体が汚れていても、
それもまた個性のひとつでしょう。悪いことではない。それはいいことにもなり得る」

「余計にわからない」

「それでいいのよ」と長は言う。「そういうところがいいのよ」


またすこし間が空き、夜の穏やかな沈黙がそれを埋める。
しばらくしてユーシャが言う。「結局、なんでふたりきりになりたかったの?」

長は微笑んだ。「持っていなくて欲しいものを手に入れたいと思うのは自然なこと」

「だから、それがわからない」

「あらあら、わからない子ね。彼女も苦労してるんじゃないの?」

「はあ」

「わたしはきみを求めている」

「はい?」

「わたしはきみを求めている」と長は繰り返す。「あらゆる意味で」

「求めてるって」


「こういうことね」と長はユーシャに凭れ掛かりながら言い、
彼の服の中に手を滑り込ませる。それから、腹の辺りを優しく撫でる。
「わたしはきみの身体がほしいし、心もほしい」

「ちょ、ちょっと……」くすぐったい。心臓がべつの生き物のように暴れ始める。

彼女の手はユーシャの腹から胸を撫で回す。「あら、傷がたくさんあるのね」

「情けないことにな……」筋肉が強張る。身体がなかなか動かない。

「いいえ、それもわたしにとってはとても魅力的よ」
長の手はズボンの隙間から下腹部へ手を滑り込ませた。
「熱くなってるし、硬くなってる」

「やめてくれ」ユーシャはその手を振り払う。

「続きはいらない?」

「いらない」

「嫌だった?」

「嫌ではないけど……」


「勃ってるものね」と長は笑った。
「わたしがそろそろ五〇だから気に入らなかった?」

「そういうのじゃなくて……その、怒られるから」

「誰に?」

「あいつに」

「あの子?」

ユーシャは頷く。「早く戻らないと怒られる」

長はすこし間を空けて言う。「きみはあの子としかこういうことはしない?」

「したこともない」

「でも、したい?」

ユーシャは彼女の細く緩やかに曲線を描く裸体を想像する。
すぐに顔が赤くなった。それからすこし考えて、「わからない」と答える。
どうなんだろう。あいつは俺のことをそういうふうに見てくれているのだろうか?


「きみは古臭い考え方をしているのね」

「かもしれない」ユーシャはその場から立ち上がる。
「俺はめんどくさいやつなんだ。でも、あいつはずっといっしょにいてくれてる」

「あら、惚気話?」と長は微笑む。

「そうだよ」と言ってユーシャは来た道を引き返した。
「俺にはあいつが必要なんだ」





苛々する。なんだあのババアは。それに、どうしてあいつは戻ってこない。
魔法使いは円錐の中で椅子に腰掛けながら、頭をかきむしっていた。
ユーシャが出ていってから三分も経っていないが、
彼女はもやもやと苛々で頭が沸騰しそうだった。

落ち着け、落ち着け。なにも起こらない。わたしは黙って待っていればいい。
魔法使いは大きく深呼吸をする。吐く息は空っぽの円錐の中に寂しく響く。
今度はため息がこぼれた。同じように響いて消える。

二七回の深呼吸を終えて、一六回目のため息を吐いた辺りで、
金髪の青年が円錐の中にやってきた。

彼は薄っぺらい笑顔を浮かべながら、「こんばんは」と言う。
魔法使いもいちおう頭を下げておいた。


「なにか用?」と魔法使いは言う。

「ちょっとあなたと歩きながらお話しでもしたいなあ、と思いまして」と
青年は笑顔のままで言う。

「ふうん」

「お連れの方は?」青年は円錐の中を見渡す。

「さあ」

「いないのならべつにいいんですが。いっしょにどうですか?」

「そうね」魔法使いは椅子から立ち上がり、きょう一七回目のため息を吐いた。
「ちょうどいいかも」



外には円錐の中よりも冷たい空気が流れていた。
魔法使いは汚いマントを羽織り、青年の隣を歩く。
彼の背は高い。魔法使いよりも頭ひとつ分高い。

「お話しするって、わたしからはなにも話すことはないわよ」と魔法使いは言う。

「僕はあなたに訊きたいことがいくつかあります」と青年は言う。
「ところで、お連れの方はほんとうにどこへ行かれたのでしょう?」

「あの髪の長い女に連れて行かれたわよ」

「長が」青年は目を丸くする。「へえ」

「わけがわからないわ」と魔法使いは吐き捨てるように言う。

「怒ってます?」と青年が訊くと、被せるようにして「怒ってない」という返事が来た。
どう好意的に捉えても声には怒気が含まれていた。


「まあいいです」と青年は話をユーシャのことから逸らす。
「呪術のことをどう思いますか?」

「どう思うって、詳しく知らないのに、なんとも言えないわ」

「詳しく知らないからこそ、あなたに訊きたいです」

魔法使いは考えてから答える。「あまりいい印象はないわ。
簡単に言えば、寿命とエネルギーを交換するんでしょう?」

「簡単に言えばね。実際にはもっと複雑ですが、そういうことですね」

「なんでもいいわよ。どっちにしろ、こんな魔法は間違っているわ」

「僕もそう思います。やっぱり僕は間違ってはいなかった」

「呪術は必要のないものだと思う。今はね」

「今は、というと?」

「存在するんだから、なにか意味があるとわたしは思う。
昔のひとはそれだけの力が必要だったのかもしれない」

「こんなコントロールの効きにくい魔法、なにに使うんです?」

「たとえば」魔法使いは間を空けてから言う。「魔王を殺すためとか」


「魔王」と青年は繰り返す。「御伽噺の?」

「そう」

「おもしろい仮説ですね」

「ありがとう」

青年はすこし考えてから言う。
「たぶんあなたの言ったとおり、呪術には正しい使い方があるんでしょうね。
大破壊を実行したり、死者を蘇らせたり、
怪物を操る術にも、なにか意味があるんでしょうね」

「え?」魔法使いは素っ頓狂な声を上げる。
いま彼はなんと言った? “怪物を操る術”?
「怪物を操る術なんてものがあるの?」

「はい」と青年は頷く。

「ふうん……」


「……東の王国が、それを求めてここにやってきたことがあります。
だから長はあなた達に、“きみ達もどこかの王国から
ここに来るように頼まれたの?”と訊いたんです」

「東の王国」と魔法使いは繰り返す。

東の王国も怪物を操って、何かを企んでいるのだろうか?
どうする? この事を南の第二王国のあのふたりに話すべきなのだろうか?
研究は終わり、彼らは開放――されるのだろうか? なにが正しいのだろう?

「どうかしました?」

「ううん。なんでもない」話すにしても、それはずっと先の話だ、と魔法使いは思う。
旅が終わったら、とりあえずもう一度第二王国へ戻ろう。
第二王国にも行かなければならない。また来てくれって言われたし。

青年はすこし間を空けてから言う。
「それで、あなたにこれを受け取ってもらいたいんです。
これがひとつ目の用事です」

彼は懐から、ぶ厚い本を取り出した。
何かの動物の皮を鞣して作られた表紙には、何かの文字が書かれている。


「これはなに?」と魔法使いは言う。

「呪術について記された書物です」

「そんなもの、わたしが受け取ったら拙いんじゃないの?」

「いいんです。あなたじゃないとだめなんです」

「大事なものなんでしょう?」
本の風貌はそういうふうにしか見えない。大事に保管されてきたようにしか。

「そうですね。でも、あなたに渡さなければいけないような気がするんです。
運命じみたなにかが僕に囁くんです。もしくは呪術的ななにかが。
あなたなら呪術の正しい使い方を見つけられる。
だから、あなたにこれを渡すべきだと」

「わたしじゃなくても、あなたなら見つけられるんじゃないの?」

「いいえ」と青年は首を振る。「僕はすこし呪術について詳しくなりすぎてしまった。
でも、僕の知識はおそらく間違った知識なんです。
簡単には消し去ることは出来ません。遺伝子のようなものです」

「よくわからないわ」

「それでいいんです」彼はぶ厚い本を魔法使いに差し出した。
「僕には呪術に意味があるなんてこと、思いつかなかった」


彼女はそれを受け取る。見た目の通り、かなりの重さだった。
両手で抱え込むように持って、やっと足元が安定する。

「では、ふたつ目の用事です」と青年は言う。
「僕はあなたのことがとても気に入りました。恋に落ちたというやつです」

「はい?」

「ええと、好きです」

「そう。ありがとう」と魔法使いは素っ気ない返事をする。
「あなたがわたしを好いてくれているのは嬉しい。けれど」

「けれど」と青年は繰り返す。

「わたしには心に決めたひとがいるの」


「そうですか」青年は微笑んだ。「そうだろうと思ったんですよ」

「ごめんなさいね」

「あのお連れの方でしょう?」

魔法使いは頷く。顔が熱くなる。
「あいつじゃないとだめみたい。わたしにはあいつが必要なの」

青年はすこし翳った笑みを浮かべた。
ふたりは軽い挨拶を済ませて、お互いのいるべき場所へと戻っていった。





さあ、なんて謝ればいいだろう?
ユーシャは魔法使いがいる円錐の前で、腕を組みながら悩んでいた。

そもそも、俺はなにか悪いことをしただろうか?
していないとは思うけれど、あいつの機嫌が些か悪かった。
きっと俺があいつの気に障ることをしてしまったのだろう。
でも、それは何なのだろう? 原因がわからなければ謝りようもない。
どうしたものか。いっそこのまま玉砕覚悟で突撃するか……

「なにしてんの」と背後で声がした。

「ひっ」ユーシャは小さく身体を震わせ、ゆっくりと振り返った。
そこには重そうな本を、大事そうに抱えた魔法使いが立っていた。


「なにそんなに驚いてるのよ」と魔法使いは笑いながら言う。

「あれ、怒ってない?」

「なに。あのババアといっしょに、わたしに怒られるようなことをしてきたの?」

「滅相もない」とユーシャはすぐに答えた。

「あやしい」魔法使いは彼を睨む。

鋭いやつだなあ、とユーシャは感心しながらも内心怯えていた。

やがて彼女は「まあいいわ」と言って、今日一八回目のため息を吐き出す。
「寒いからさっさと中に入りましょう」

「そうしましょう」と言い、ユーシャは円錐の中に足を踏み入れる。彼女も続く。


魔法使いは中に入ってすぐ、机の上に重そうな本を置いた。それからベッドに腰掛けた。
「その本、どうしたんだ?」とユーシャはもうひとつのベッドに腰掛けながら訊ねる。

「貰った」と魔法使いは簡潔に答える。

「誰に」

「あの金髪の男のひと」

「もしかして、今までそいつといっしょにどっかに行ってた?」

「うん」

「ふうん……」やっぱり気に入らないやつだ、とユーシャは思う。

「好きだって言われた」

「はい?」


「わたしのことが気に入ったって。恋に落ちたって」

「で?」

「で?」

「なんて答えたんだ?」

「さあ?」

「……」

「あんたはあのババアとなにを話してたのよ」

「好きだって言われた」

「はい?」


「俺のことを求めてるって。身体も心もほしいって」

「で?」やっぱり気に食わないババアだ、と魔法使いは思う。

「で?」

「なんて答えたの?」

「……さあ?」

「なんて答えたの?」と彼女は声に力を込めて言う。

なんて答えたんだったか。ユーシャは必死になって回想する。
でもなんだか、記憶がひどく曖昧だった。はっきりと思い出せない。
はっきりと思い出してはいけない気がする。

「……なんて答えたのかは忘れたけど、そういうのはやめてくれって、
そんな感じのことを言った」とユーシャは言い、小さな声で「はず」と付け加えた。

「ふうん……」

「で?」

「で?」

「結局、お前はなんて答えたんだよ」

「嬉しいけれどお断りします、みたいなことを言った。はず」


「ふうん……。嬉しかったんだ?」

「ひとから好かれて悪い気はしないわ」

「そうだな」長に好かれているとわかったときは、たしかに悪い気分ではなかった。

「ねえ。あんた、なんか怒ってない?」と魔法使いは言う。

「べつに怒ってなんかない」

「怒ってないとしても、随分機嫌が悪いみたいよ」

「かもしれない」

「なんで?」

「お前だって俺がここから出ていったとき、御機嫌斜めだったじゃないか」

「……だからなによ」
もしかすると、わたしと同じような理由で彼は機嫌が悪いのだろうか、と魔法使いは思う。

「……べつに」
もしかすると、俺と同じような理由で彼女は機嫌が悪かったのだろうか、とユーシャは思う。


話は途切れ、沈黙がふたりの間を満たす。
冷たいようで温かいような、なんとも言えないぬるさの空気だった。

しばらくしてユーシャが言う。「寝ないのか?」

「うん」と魔法使いが答える。「あの本を読もうと思うの。あんたこそ寝ないの?」

「今日はなんだか眠れなさそうだ」

「どうして?」

「わからない」

「じゃあ、あの本を読むのに付き合ってよ」
魔法使いは机の上の本を手に取り、ふたたびベッドに腰掛けた。

「うん」

「こっち来て」

「はいよ」ユーシャはゆっくりと立ち上がり、魔法使いの隣に向かう。


彼女はぶ厚い本を枕元に置き、ベッドの奥に寝そべった。
それから隣に空いたスペースをぽんぽんと叩きながら、「ここ」と言った。

「ここ?」ユーシャは彼女の指定した場所に腰掛ける。

「そう。で、寝転がる」

「狭くないか?」

「いいからさっさと寝転べ」

「はいよ」ユーシャはうつ伏せになり、上半身を腕と肘で支える。
同じ体勢で魔法使いも寝転がる。彼女の向こうには壁がある。

彼女は小さく口を動かし、小さな魔術の光を灯す。すこし温かい。
それからゆっくりと本のページを捲り始める。
びっしりとなにかの文字が書かれている。

見ているだけで頭がくらくらしてくる。
呪術に関することが記されているらしいが、
ユーシャにはなにがなんだかさっぱりだった。
所々に図解があったが、それでもさっぱりわからない。
彼はぶ厚い本と文字の読み書きが非常に苦手なのだ。


難しい顔をしながら首を傾げているユーシャを横目に、
魔法使いはさっさとページを捲っていく。
五分の一ほどを彼女が読み進めたところで、ユーシャは眠くなってきた。
頭をがくりと落としては閉じかけた目をひらき、また眠気に襲われる。

魔法使いはそれを口元に笑みを浮かべながら見守っていた。
彼がこうやって眠るのはわかっていた。
故郷の村の図書館でも、彼はよく眠っていた。
眠っていた時間のほうが多いのではないかというくらい眠っていた。
やっぱりベッドの上で読んだのは正解だった、と微笑ましく思う。

やがてユーシャは頭を下ろして寝息を立て始める。
魔法使いはそのまま本を読み続ける。
なにかに憑かれたみたいに、黙々と手を動かす。

すべてを読み終える頃になると、外から鳥のさえずりが聞こえてきた。
朝が来たのだ。瞼が重いし、首が痛い。一眠りしたいところだったけれど、
あまりこの村には長居したくない。あのババアから彼を引き離したい。
なので、そのまま目を開いて彼が目覚めるのを待つことにした。





ユーシャはゆっくりと目をひらく。かなり近くに、魔法使いの眠たそうな顔がある。
口が半開きで、瞼が小さく震えている。

彼女はユーシャが目覚めたのに気がつくと、「おはよう」と言った。

ユーシャも「おはよう」と返して、「眠そうだな」と続ける。

「眠くてたまらないわ……」

枕元に転がっている本を横目で見ながら、ユーシャは言う。
「一晩中読んでたのか? あの本」

「うん」

「読み終わったのか?」

「うん」

「すごいな」とユーシャは感心したように言う。到底真似できない。
「おもしろかった?」

「けっこう」

「そっか」


魔法使いは大きくあくびを吐き出して言う。
「さあ……さっさと東の王国にいきましょう」

「もうちょっとゆっくりしてけばいいんじゃないのか?」

「だめ」

「なんで」

「だめなものはだめ」

「そうですかい」

「だから早く立って」

「はいはい」ユーシャは起き上がり、ベッドから降りる。

「おんぶ」と魔法使いは寝転がったまま手を伸ばして言う。

「なに?」

「おんぶ」と彼女はもう一度言う。「して。はやく」


子どもみたいだ、とユーシャは思う。久しぶりに見た気がする。
「はいはい」と彼は言い、彼女の手を掴み、起き上がらせる。
それから彼女の腕を自身の首に巻き付ける。「ちゃんとつかまってろよ」

「うん」

すこしだけ巻きつける力が強くなった。ほんのすこしの差だ。
そうとう眠いのだろうと思う。
ユーシャは彼女の脚を持つ。ものすごく柔らかくて温かかった。
そのまま立ち上がる。彼女はとても軽い。

「すごくあったかくて、いい」と魔法使いは言う。「わたしはここで寝る」

「今から寝るのか? 怪物に襲われても知らないぞ」

「あんたが守ってくれるでしょ」

「もちろん」

「なら大丈夫」


出入口に垂れた布を払いのけ、外に出る。空気は湿っぽくて、冷たい。
朝日は眩しかった。円錐や歪な岩が落とす影がくっきりと見える。

「いちおう挨拶だけしておいたほうがいいよな」とユーシャは言う。

「あの男のひとにだけ言えばいい」と魔法使いは言う。
「あのババアはいらない」

「呼びました?」と背後から男の声がした。
振り返ってもそこにあるのは今まで眠っていた円錐の出入口だけだ。

「どこだ?」とユーシャが訊くと、「ここです」とさっきと同じ場所から声が返ってきた。

もう一度円錐の方に前を向けると、円錐を回りこむように歩いてくる人影が見える。
あの金髪の青年だった。「おはようございます」と彼は言う。

「覗いてた?」とユーシャは眉を顰めながら訊ねる。


「朝ごはんを持ってきただけですよ」と青年は苦笑いを浮かべながら言い、
パンが入った袋を差し出す。ユーシャはそれを受け取る。
「もう行っちゃうんですか?」と青年は言う。

「うん」と魔法使いはユーシャの肩に顔をのせて答える。
「本、ありがとう。なかなかおもしろかった」

「もう読み終わったんですか?」

「うん」

「すごい」

「ベッドの上に置いてあるから、要るのなら持っていって」

「わかりました」と青年は言い、ふたりをまじまじと見つめる。

「なに」とユーシャは言う。

「いいえ。べつに」青年は薄っぺらい笑みを浮かべる。
「ふたりとも嬉しそうな顔してるなあって思っただけですよ」

続く

>>478

第二王国にも行かなければならない。また来てくれって言われたし。

第一王国にも行かなければならない。また来てくれって言われたし。


正直自分でも第一と第二がごちゃごちゃしてる


18


西の王国の城下町は、これもまた大きな壁に覆われていて、
大きな門をくぐって中に入ることが出来る。

門のある部分だけが出っ張りになっている。
町には四つの門があるので、空から見ると、
歪な形をした胴体から不細工な短い足が伸びている、
四本足の奇妙な生物のように見える。かもしれない。
実際に見たことはないから、勇者にはなんとも言えなかった。

門をくぐった勇者は石畳を踏みつけて、周囲を見渡す。

門のすぐ前は上り階段で、その上は広場になっているようだ。
階段の両端には壁がある。
おかげで、いま勇者と僧侶が立っている場所は、昼の割にはすこし暗い。

階段を上がり、広場へ向かう。
町の玄関口だからなのか、広場にはかなりの数の商店が並んでいる。
宿も見える。外観はどれも似たような石造りで、どこか重々しい雰囲気を感じる。

広場にはいま上がってきた階段以外にも階段が見える。
正面には下り、右にも下り、左には上りがある。


「階段ばっかりだ」と勇者は言う。「めんどくさそう」

「またややこしそうな町だねえ」と僧侶は笑う。

まだ空は明るいので、町をすこし散策してみることにした。
とりあえず左側の階段をのぼる。上りきった先には芝生の広場があった。
すこしの遊具と、必要なのかあやしいベンチが四つもある。

小さな子どもがはしゃぎ回る声が聞こえる。
そちらに目を向けると、やはり数人の子どもがはしゃぎまわっていた。
それは燦々と降り注ぐ陽光に負けないくらいに眩しい光景のように見えた。

勇者だとか、魔王だとか、聞き慣れた言葉が聞こえる。
昔は僕らもああだったのか、と勇者は懐かしく思う。
小さな頃は御伽噺の勇者になりきって、よくごっこ遊びをしたものだ。


勇者は回想する。ごっこ遊びをするとき、戦士はいつも僕に勇者の役を譲ってくれた。
ずっと三人で遊んでいたので、いつも僕が勇者で、あいつが魔王で、
勇者が魔王を倒して彼女を救い出すとかいうよくわからないお話に沿って遊んでいた。
懐かしい。十年ほど前のことだ。僕らの歳が一桁だった頃だ。

ほんとうはあいつが勇者役をするべきだったんだ、と今の勇者は思う。
僕にはきっと魔王のほうが似合っている。
ほんとうは僕は勇者じゃなくて、あいつが勇者になるはずだったんだ。

きっとそうだ。きっと、なにかが間違っているんだ。
でも、仮にあいつが勇者だったとしても、僕はそれを引き継がなければならない。
彼はここにはいない。でも、まだなにも終わっていない。

“死ぬな、歩け”と影が言う。


「平和だ」と僧侶は言い、ベンチに腰掛けながら長い息を吐いた。
そして空を見上げ、陽光に目を細めながら、
「ほんとうに魔王なんているのかな」と呟く。

「どうなんだろう」勇者も空を見上げる。
透き通るような青色をした、穏やかな空だった。小さな鳥が、地面に影を落とす。

「魔王がいなかったら、わたしはこの“もやもや”を何にぶつければいいんだろう?」

「東の国王にぶつければいいよ」

「そうする」と僧侶は言う。「ぐちゃぐちゃにしてやりたい」

勇者は微笑みながら長い息を吐き出して、
「もしも魔王がいたとして、それを倒したら僕らはどうなるんだろうか?」と言う。

僧侶はその問いかけには答えなかった。
代わりに、「きみは村に帰りたい?」と訊く。

「わからない」と勇者は正直に答えた。


「わたしも、よくわからない。帰ってもいいのかな。あいつがいないのに。
わたし達の帰る場所って、どこなんだろう?
故郷の村? お父さんとお母さんのところ?
みんなわたし達の帰りを待ってくれているのかな?」

「わからない」

「わからないことばっかりだ。迷路で迷子になったみたいだね、わたし達」

「出口のない迷路だ」

「しかも、ぐにゃぐにゃで真っ暗だ。最悪だね」

「独りじゃなくてよかった」

「わたしもそう思う」僧侶は勇者の目を見つめながら続ける。
「ねえ、わたし達、どっかに逃げちゃおうか?」


「逃げる?」勇者は彼女の目を見つめ返す。綺麗な目だった。
純粋であり、深いなにかの感情がそこにある。
彼女の言葉がどこまでほんとうなのか理解できない。「どこへ?」

「どこだっていい。隣にきみがいれば、どこでもいい。わたしにはきみしかいないの。
ぜんぶ忘れて、ふたりで幸せに暮らすんだよ。今なら、きっと間に合うよ」

「きみはそれでいいの?」と勇者は言う。たしかに悪い提案ではないと思う。
確かに心のどこかで、この重荷を捨てて逃げてしまいたいと思うことがあった。
でも、使命感と責任のようなものに魂を縛られていて、逃げ出すことができない。

“死ぬな、歩け”と影が言う。

「わからないよ」と僧侶は答える。それから、両手で顔を覆った。
「わたしは怖いの。きみまでいなくなったら、わたしはどうすればいいの……」

「僕は死なないよ」

「……わたしが死んだら、きみはどうする?」

「僕も死ぬかもしれない」

「さっき死なないって言ったじゃないの」

「きみが生きている間は死なない」と勇者は訂正する。


僧侶は顔を上げて勇者を見据える。彼女の両目は潤んでいる。
「約束だよ。いなくなっちゃ嫌だからね」

「僕もきみがいなくなるのは嫌だ」

僧侶は微笑む。「魔王か東の王を殺したらわたし達、静かに生きていこうね。
なににも脅かされることのない、穏やかな時間を過ごすんだよ。
きみが危険な目に遭わなくて、誰にも責められることのない場所で――」



ふたりは夕方になるまでその広場のベンチに腰掛けながら、子どもたちを眺めていた。
子どもたちも遠目でこちらを眺めていた。
見ない顔だから、めずらしく思われていたのだろう。

やがて陽が見えなくなる。ほとんど同時に子どもの姿も途絶えた。

「わたし達も宿に行こうか」と僧侶は言う。

ふたりは上って来た階段を下り、最初の広場にあった宿へ向かう。
そこで小さな部屋を借りて、ふたりは眠る。
身体は重ねない。意識は夢の中に落ちていく。





きみにも名前があったはずだ、と影は言う。
でも、きみの名前を呼んでくれるのはもう彼女しかいない。

たとえばきみが魔王を倒して歴史に名を残すことになっても、
それはきみ自身としてではなく、勇者という容れ物に入った状態で
記録されるはずだ。そうして皆の記憶に残っていく。
ひとりの人間としてではなく、勇者としてのきみが永遠に記憶される。
それはある意味ではとても喜ばしいことなのかもしれない。

でも、きみの名前は勇者という名誉ある称号で塗りつぶされてしまうかもしれない。
十年も経ったら、魔王を倒したのは“きみ”ではなく、
“勇者”ということになるのかもしれない。
それはなにも間違いではない。でも、意味合いは大きく変わってくると思うんだ。

御伽噺の勇者の名前を誰もが知らないように、
きみの名前もまた“余計なもの”として歴史から除外されてしまうのかもしれない。
きみという個人は決して誰からも讃えられることはないのかもしれない。
偶然にもきみに“勇者としての力”が備わっていたから
魔王を討つことができたんだと、皆はそう思うかもしれない。
そいつらの頭の中では勇者が魔王を討つのは当然で、
勇者は負けないのが当たり前なんだ。


でも、実際はどうだろう? ほんとうにそうだろうか?
きみがこうして苦しんで、それを必死になって乗り越えて、
“悪”を討つことが“できる”というのは当然なんだろうか?
きみはほんとうに魔王に勝つことが出来るのだろうか?

きみはそのことについてどう思う?

わからない、と勇者の影は答える。

わからないでは済まされないんだ、と影は言う。
きみは魔王とぶつからなければならない。
勝利した場合は、きみの物語は続くんだ。敗北した場合は終了だ。
勇者としての物語は勝ち負けに関係なくそこで完結する。

きみは自由になれるんだ。
そうしてゼロから始めることができる。きみ自身の物語をもう一度始めるんだ。

勇者という容れ物を捨てたきみを支えてくれるのは誰だ?
導いてくれるのは誰だ?
きみをその曖昧な場所から引きずり出してくれるのは誰だ?

きみには大事なひとがいるだろう? ふたりで静かに生きていくんだろう?
勝たなければならないんだろう? それとも、そこから逃げ出すのか?


わからない、と勇者の影は答える。
わからないんだ。ほんとうに魔王を討ち滅ぼす必要はあるのか?
仮に魔王を殺したとして、世界にどんな変化がある?
たとえ偽りだったとしても、いまの世界は平和なんだ。
魔王に怯えている人間なんて、僕くらいしかいないんだよ。

僕はいますぐに逃げ出して、心置きなく彼女と身体を重ねたいんだ。
静かに深く愛し合いたいんだ。朝も昼も夜も忘れるくらいに、
それこそ獣のように交わって過ごしたい。
もうその感情は抑えきれないほどに身体中を迸っている。
ぶつける場所のない怒りと混じって、それは僕と彼の身体を満たしているんだ。

家へ帰りたい。でも、振り返っても道がない。
今まで歩いてきた道は、ぜんぶ焼け落ちていった。
もう彼は前に進むしかないんだ。

死ぬな、歩け、と頭のなかで影が言う。

でも、それからどうしたらいいのかがわからないんだ、と
勇者の影は言い残し、大きな黒い渦に飲み込まれる。

僕は進んで、なにをすればいい?
どうしたら家に帰れるんだろう?
彼は、どうして前に向かって歩いているんだろう?





翌朝、勇者が目覚めると、僧侶は部屋の真ん中に置かれた
椅子に座りながら、机に頬杖を突いて難しい顔をしていた。
朝日を受けるその姿はとても美しかった。
まるで手の届かないところにある絵を眺めているような、ふしぎな気分になる。

勇者が「おはよう」と言うと、
彼女もこちらに振り返り、「おはよう」と言った。

「難しい顔してたね」と勇者はあくびを噛み殺しながら言う。

「ちょっと考え事をね。そろそろ覚悟を決めないとだめかなと思って」と彼女が言う。
「わたしは迷ってたんだけど、決めた。もう、くよくよしない」
その言葉には静かな決意のようなものが含まれていた。

「覚悟」と勇者はぽつりと言う。それから寝ぼけた頭で自身に問いかける。
果たしてここから先でなにが起ころうと、
僕には結果を受け止めるだけの覚悟があるのだろうか?

わからない、と影は言う。


「気分をばっさり入れ替える」と彼女は言い、椅子から腰を上げる。
「だから、今日は買いものをしよう」

「買いもの?」

「そう、お買いもの」

勇者にはそのふたつの間になんの関係があるのかが理解できなかったが、
とりあえず「わかった」と言った。

「でも、なによりまずは腹ごしらえだよ。
お腹が減ってると、悲しい気分になるからね。
まずはお腹いっぱい食べることから始めよう。
いっぱい寝て、お腹いっぱいになってからが始まりだ。そこがゼロなんだよ」

「あんまり食べると太るよ」と勇者は笑う。

「太らない」と彼女は勇者を睨む。もう一度「太らない」と言ってから、
ふたりはゆっくりと宿の食堂へ向かう。

途中で彼女は「わたし達は、もう一回ゼロから始めるんだよ」と言った。
その言葉には静かな決意が含まれていた。





町は小さな山のような形をしていて、天辺に城がある。
階段はその城に向かって、所々に広場を挟んで螺旋状に配置されている。
町の地下(山の内側に該当する部分)にも商店街や宿はあるらしいが、
あまり治安が良くないので、近寄らないことに越したことはないと宿の主人に言われた。

町の住民は、いま勇者たちがいる「外」の人間と、
地下にいる「内」の人間で構成されている。
その関係は所謂、裕福層と貧困層そのものだった。
ふたつの層の隙間には深すぎるといってもいいほどの溝がある。
そこに友好の橋が架かることは、
たとえ魔王が現れて皆が団結しなくてはならなくなってもあり得ないだろう。

高い場所に行けば行くほど裕福な人間が住んでいる。
たとえ低いところにいる人間でも、「内」の人間から見れば
それは十分に裕福な暮らしをしていると言える。

町の深いところには今日も飢えを凌げずに死んでいく子らがいる。
下水道の水で身体を洗うものがいるし、
飢えから共食いを始めるものだっているかもしれない。

しかし裕福層はそんなことを知る由はなかった。
彼らは「内」のものを人間としては見ていなかった。
もちろん勇者たちがそんなことを知るはずもなかった。



「昨日は階段を上ったから、今日は下ることにしよう」と僧侶は言う。

理屈はよくわからなかったが、とりあえず勇者もそれに従って、
彼女を追う形で階段を下る。幅の広い石段に、足音が染みる。

下り終えたところにあるのは、また似たような広場だった。
ここにも大量の商店が並んでいる。
僧侶と勇者はそれを通り過ぎ、もうひとつ階段を下る。

結局、どこまで行っても似たような風景があるだけだった。
途中に住宅街と、また芝生の広場があった。
ほかは工房ばかりの広場だったり、歓楽のための如何わしい
建物の集合した小さな空間だったり、場所によって景色も様々だった。

ふたりは最初の広場まで、今度は階段を上る。
それだけでもかなりの時間がかかってしまう。
宿の前に戻ってくる頃には時刻はお昼を過ぎていた。
脚も棒になりかけていたので、もう一度腹ごしらえをして
ゆっくりと休んでから、階段を下りて商店へ向かう。


僧侶が最初に向かったのは、武具を扱う店だった。
肌の焼けた筋骨隆々の男がカウンターの向こうで嬉しそうに頷いている。
歳は四〇かそこらだろう。切り揃えられた髭と、穏やかな顔が印象的だ。

できるだけそれを見ないようにして、「なにを買うの?」と勇者は僧侶に訊ねる。

「ナイフがほしいの」と彼女はそれなりに大きな声で答える。
「小さいやつだよ。護身用というか、お守りみたいな」

「ナイフが欲しいのかい、お嬢ちゃん」と筋骨隆々の男は嬉しげに言う。

「うん」と僧侶は答える。「自分の身は自分で守れるようにならなきゃね」

「うんうん」と彼は満足げに頷いた。「立派じゃないか」

「そんなに使う予定はないんだけどね」

「あるに越したことはない?」

「そう」


「たしかに、いざという時にあるのとないのではやっぱり違うからな。
よくわかってるじゃないか、お嬢ちゃん。
きっと立派なトレジャーハンターになれる」

「どうしてトレジャーハンター? まあ、なんでもいいけど。
個人的には立派なお嫁さんになりたいところだね」

「お嫁さん? 彼の?」と男は勇者に微笑みかけながら言う。

「そう」と僧侶は答える。
「この子は泣き虫ですぐに赤くなるから心配なんだよ」

「泣き虫は治ったんだって……。それに、お、お嫁さんって……」
勇者は赤くなる。

「ほんとうだな」男は声を上げて笑った。
「でも夫婦って言うよりは、姉弟みたいだ。きみがお姉さんで、彼が弟だ」

「鋭いね、おじさん」僧侶は口元に笑みを浮かべた。「だいたいそんな感じだよ」

「俺の目と俺の作った剣ほど鋭いものは世の中にはなかなか無いからな」

「そういうの嫌いじゃないよ」

「気に入ってもらえたようでなによりだ」男は目を細めて笑う。

よく笑うひとだなあ、と勇者は思う。
細かい違いはあっても、表情はずっと笑っている。


それから思い出したように、
「ああ、ナイフだったな。お嬢ちゃんに似合うのを探してこよう」と男は言った。

「お嫁さんっぽいのをお願い」と僧侶はからかうように言う。

「難しいことを言うね」男は背後にあった木箱を探る。
中にはナイフが大量に入っているらしい。
「ここで刃物を買うのはほとんど男だからなあ……」

「ほんとうはなんでもいいんだけどね」

「いいや。なんでもいいなんてことはない」
男はがちゃがちゃと箱をいじくりながら言う。
「ナイフに限った話じゃないが、剣だって、刃だけがすべてじゃない。
いくら切れ味が良くても手に馴染まなければ、それは剣のほんとうの姿じゃない。
まずは自分の手に馴染む柄を見つけないとな」

「ふうん。ナイフにもいろいろあるんだね」


「うん。これはどうかな」と男は言うと、箱から一本のナイフを取り出した。
刃の長さは一五センチメートルほどで、柄には布が巻かれている。
続いて男は刃を収めるための鞘を取り出す。革製の鞘だ。

僧侶はそのナイフが手に馴染むか確かめるために、一度持ってみた。
しばらくそれを眺めた後、彼女はナイフを軽く振る。

「すごく軽い」と彼女は感心したように言う。

「なんといっても俺が作ったナイフだからな」男は自慢げに言う。
「どうだい? お嬢ちゃんの手にそいつは馴染むかな?」

「すごくいいと思う」彼女はナイフを空に向けて言う。
鈍色に輝く刃に、陽光が反射する。勇者は思わず目を細める。
「これがいい。これをもらうことにする」

「それでいいのか? ほかにもあるぞ?」

「ううん。これがいい。なんか、びびっと来たよ。こう、胸に雷が落ちたみたいな」

「そうか。うんうん、そういうのも大事だよな」男は革製の鞘を僧侶に差し出す。
「じゃあ、そのまま持っていってくれ。金はいらんから」

「いいの?」と僧侶は目を丸くする。


「いいぞ」と男はまた笑う。「今日は美人さんと話せて気分がいいんだ。
兄ちゃんもなにか欲しいものがあるのなら持っていってくれ」

「僕?」と勇者は素っ頓狂な声を上げる。

「おう。兄ちゃんに馴染む剣もきっとあるぞ」

「ありがとう。でも、僕はいいよ。僕にはこの剣があるから」
勇者は腰に携えた剣の柄を撫でる。柄は随分と擦り切れていた。
思えばこいつとも長い付き合いだったのだと思う。

「随分と使い込んでるみたいだな。きっと剣も喜んでる」

「うん、大事な剣なんだ。貰い物なんだけれどね」

「ほう。誰から貰ったんだい?」

「僕の兄のようなひと」と勇者はすこし淋しげな目をしながら言う。
「ずっと昔に貰ったんだ」

「そうか。うんうん、剣に愛着が湧くのはいいことだ。
思い入れがあったってふしぎな事はない。
俺は兄ちゃんのことが気に入ったぞ」

「ありがとう」


「剣を大事にするやつに悪いやつはいない」
男は自分の言葉を噛みしめるように頷く。
「悪いのは剣を道具としか思っていない輩だ。
剣はなにかを殺めるためだけの道具じゃあないんだ」

「そう」と僧侶は自分の髪を首の後ろ辺りで束ねながら言う。
左手で髪を縛り、右手にはナイフを持っている。
そして、「こんな使い方だってある」と続ける。

言い終えるのと同時に、彼女はナイフをうなじ辺りに持って行き、
縛った髪をナイフでばっさりと切り落とした。
それはまるで蟻を踏みつけて殺す子どものように迷いがなかった。

彼女は切り落とした髪の束を握りしめながら、左手を胸の前に持ってくる。
ナイフを持った右手は、力が抜けたみたいに重力に従っている。
「よく切れるね」と彼女は切り落とした髪を見ながら言う。

そしてその手をゆっくりと開く。
艶が失われつつある綺麗な黒髪は、指の隙間から花びらのようにこぼれ落ちていく。
それは綿毛のように、風に乗ってどこかへ飛んで行く。


彼女は髪に付着した水滴を払うように頭を振る。
艶のある黒い髪はさらさらと揺れる。それはばっさりと首筋の辺りでなくなっている。
ほんとうに切り落としてしまったのだ。勇者は唖然としながらそれを見守る。

それでも彼女が綺麗であることに変わりはなかった。
その美しさは先程よりも増したようにさえ見える。
真っ直ぐな光が目に射している。太陽のようで、真っ黒な炎のような鋭い輝きだった。
形はどうであれ、彼女の決意の証明は終わった。彼女の心は決まったのだ。

「な、なにしてるの?」と勇者は目と口を丸くして言う。

目を丸くする男どもを気にせず、彼女はナイフを見つめながら言う。
「でも、これも自分を一度殺したようなものなのかな」

男は目を丸くしたまま小さく吹き出し、「男らしいな」と言う。
「綺麗な髪だったのに、もったいない」

「綺麗なものはもう必要ない。綺麗なものがあっても、強くはなれない。
でもわたしはこうすることで、強くなれる気がするの。
今まで引きずってた重荷をばっさり失くして、わたしは前に進む」

「難しいな」


「とにかく、こうすることでわたしはすこしでも変われる気がするの」
僧侶はナイフを鞘に収めて言う。「ナイフ、ありがとう。大事にする」

「おう、大事にしてくれよ。詳しいことは知らないけど、負けちゃだめだ」

「ありがとう」と僧侶は微笑む。

「うんうん、若いってのは素晴らしい」男は頷く。
「勢いがあるってのはいいことだ。
慎重なのも悪くないけど、時には強引になるくらいがいい。
そういうのはびびっと来るね。こう、胸をナイフで貫かれたみたいな感じだ」

「ふふん」と僧侶は満足げに笑う。それから勇者の手を引いて、「行こう」と言う。

「う、うん」勇者の顔は熱くなる。誰かに見られていると、どうしてもそうなってしまう。

「若いってのは素晴らしい」と男はもう一度言う。
「やっぱり強引になるくらいがいいよな。兄ちゃんもそう思うだろう?」

勇者は彼女に手を引かれながら彼に言い訳をしようかと思ったが、
なにがなんだかわけがわからなくて、それどころではなかった。





勇者は僧侶と手を繋ぎながら、昨日の芝生の広場へ向かう。
すれ違うひとの視線を感じるが、彼女は気に留めない。勇者もそうすることにした。

べつに男女がいちゃいちゃしてるから見ているわけではなく、
“よそ者”が歩いているということが彼らを不快にさせているのだろうと思う。
しかし、そんなことは知ったことではない。不快ならば追い出せばいい。
彼らは小さな敵へ立ち向かわずに、ただ通りすぎるのを待っている。
簡単に追い払える虫を、ただ不快な目線を送るだけで殺せると思い込んでいる。
あるいは誰かが殺してくれると。

そういう時だけ、個人個人は町とは無関係の人間のように振る舞う。
責任を押し付けあうことで、自分の身を危険に晒さないようにする。
それは決して間違った判断ではない。正しいと言い切ることもできない。

でも、ふたりにとってそんなことはどうでもよかった。
周囲にどう思われるよりも、彼女にどう思われているのかが大事だ、と勇者は思う。
僕の世界は彼女がいることで、かろうじて廻っている。


「買いものは終わり?」と勇者が訊ねると、「そう。今日はおしまい」と彼女は言う。

「でも、髪を切るためのナイフを買っただけだよ?」

「わたしはそれでいいの。今日はおしまいだけど、明日は防寒具を買いに行こう。
北の大陸は寒いからね。きみはなにかほしいものがある?」

勇者はすこし考えてから、「特にないと思う」と答えた。

「お守りとかいらない?」

「どうかな。ちょっとほしいかも」

「じゃあ、これをあげよう」と彼女は言い、懐から金貨を一枚取り出して
勇者にそれを差し出す。「これをお守りだと思うように」

「わかった」勇者はそれを受け取って握りしめる。「ありがとう」

「それはわたしのお守りみたいなものだったけれど、わたしにはもう必要ない」と
彼女は笑う。「きみに持っていてほしい。きっとそれがきみを守ってくれる」



芝生の広場には、昨日と同じように子どもたちがいた。
風景も気温も匂いも、昨日とほとんど変わらない。
違いといえば、強いていうならすこし風が強いくらいだった。

僧侶は昨日と同じようにベンチに腰掛ける。
勇者も隣に座り、ふたりは隠すようにして手を繋いだ。

「平和だ」と彼女ははしゃぐ子どもたちを見ながら微笑む。

「そうだね」と勇者は言う。それから彼女の横顔を眺める。
別人だ、と思う。たしかに、髪を切ったことによる見た目の変化もあるが、
もっと大きなものが変化したのは間違いなかった。
それはたしかに勇者の目に映っている。彼女の纏っている強くて柔らかいなにかが。

「なあに、じっと見て」と彼女は微笑みながら言う。

「いや」勇者は目を伏せる。「新しい髪型も似合ってるなあと思って」

「ありがとう。わたしも気に入ってる。涼しくて気持ちいいよ」

「そっか」と勇者は笑う。それから黙って子どもたちを眺める。


しばらくして、唐突に彼女は「たとえば」と口を開く。
「たとえばだよ、わたし達の間に子どもが生まれたとしよう」

「え?」と勇者は言ってから、むせた。「子ども?」

「そう、赤ちゃん」と彼女はなんでもないみたいに言う。
「そしたらその子は、幸せになれるかな?」

すこし間を空けてから、「なれる」と勇者は言う。
それは確信というよりは希望だった。

「そっか」彼女は微笑む。「ねえ、きみはいま幸せ?」

「だと思う」

「わたしも、幸せだと思う」彼女は淋しげな目をしながら言う。
「ずっとこうやっていられたらいいのにね」

たぶん夜に続く


19


「うん、やっぱり似合う」とユーシャは言った。

「そ、そうかな」魔法使いは言う。

「うん、魔女みたいだ」

「それって褒めてるの?」

「もちろん。ここまでその帽子が似合うやつはなかなかいないんじゃないかな」
ユーシャは魔法使いの頭に乗っかったとんがり帽子を眺める。
鍔の広い、黒い帽子だ。天に伸びる三角は先の方で折れ曲がっている。
彼はそれがとても気に入った。「すごくいいと思う」

「そ、そうかな……?」魔法使いは口元に込み上げる笑みをこらえて言う。

「これください」とユーシャはカウンターの向こうで
ふたりを見守っていた女(三〇代中頃に見える)に言う。

「若いっていいわねえ」女は頬杖を突きながら唇を尖らせた。「うらやましいよ」

「ありがとう」とユーシャが言い、代金を払うと、
女は弱々しく微笑みながら「まいどあり」とつまらなさそうに言った。



洋服屋から出る頃には、時刻は昼を過ぎていた。
まだすこし過ぎただけのはずなのに、町は随分と暗い。
見上げると、鈍色の雲が青色を遮って空全体を埋めている。
風は強くて冷えている。町に叩きつけるような風が鼓膜を叩く。

「雨が降りそうだ」とユーシャは言う。「戻ろうか?」

「そうね」と魔法使いは帽子の鍔を掴んで言う。「帽子が濡れちゃ嫌だもの」

ふたりは宿に向かって歩き始める。やがてひとは疎らになる。
まもなく人混みと入れ替わるように雨が降ってくる。それからふたりは走り始める。

宿の部屋に戻ってくる頃には、雨はかなり激しくなっていた。
滝のように落ちてくる水は、この大陸をまるごと沈めてしまうのではないかと
すこし心配になるほどだった。
こうなる前に宿に戻ってこれて良かったのかもしれない、と魔法使いは思う。

それでも服は十分に水を吸っていた。
もちろん、さっき買ってもらった帽子もぐしょぐしょだった。
着衣したまま海を泳いだみたいに服は濡れている。
おかげで身体のラインがほとんど浮き出ている。
視線を感じるような気がするが、どうなのだろう。
とにかく、肌に張り付く布が重いし気持ち悪い。さっさと服を脱ぎたかった。


とりあえず魔法使いは風呂で冷えた身体を温めた。
風呂から上がると箪笥に入っていたゆったりとした服を着て、ベッドに座り込む。
入れ替わるようにユーシャは風呂へ向かう。
「最近は風呂がいいもののように思えてきた」と彼は言う。

窓の外を眺める。雨粒が張り付いたガラスに、さらに激しい雨粒が叩きつける。
外の景色はほとんど見えない。水と灰色の世界が広がっているだけだ。

そのままベッドに身体を倒した。しばらく意味もなく天井を見つめる。
雨音と沈黙が部屋を満たす。それは彼女をとても寂しくさせた。
心なしか、部屋の温度がどんどん下がっていくような気がする。
体温も下がっていってるような感覚だ。とても寒い。しかし、この部屋に暖炉はない。
魔術の炎で身体を温めることはできるが、
おそらくそれでは満たされないような気がした。

今度は膝を抱えながらベッドに座り込んで足の指を眺めていると、
ユーシャは風呂から戻ってきた。
風呂がいいもののように見えてきたと言っても、
彼の入浴時間はカラスの水浴びといい勝負かもしれない。


でも、それは彼女にとっては永遠のように感じられる時間だった。
魔法使いは彼が目に映った瞬間に、胸になにかが込み上げてくるのを感じた。
それは彼女が、彼に対して昔から抱いていた感情の延長線上にあるものだった。
そして今回のそれは、今まででいちばんの重みを持っていた。

昔はこの感情が湧き上がることに喜びを覚えたが、
蜘蛛の巣での一件以来、この感情が胸を満たす度に苦しくなる。
それでもその感情はどんどん強くなっていった。

隣に居たい、触れたい、身体を重ね合いたい、昔からそう思うことは何度もあった。
何年も前から、そういう関係になれたらどれだけいいだろうと思っていた。
でも彼女は正直にはなれなかった。恥ずかしくて仕方がなかった。
彼にどう思われているのかはなんとなくわかるが、完璧に理解できるわけではない。

嫌われるのだけは嫌だった。それは彼女にとっては死に等しいものだったからだ。
だから彼女はほんとうの自分を押し殺し続けた。
それでも彼の隣にいることは、とても満たされる時間であった。


そうして仄かな想いは風船のようにゆっくりと膨らみ始める。
それはもう抑えきれないほどに達しようとしていた。はちきれる寸前だった。
隣にいるだけでは満足できなくなってしまった。

行き場のない怒りと同じように、それは彼女の心を焼き続けた。
彼に焦がれ続けた彼女の心は今、狂おしいほどに彼の心を求めている。
彼女の未熟な身体は彼の未熟な身体を求めている。
彼女は彼のすべてを求めている。

心臓は早鐘をうつ。燻っていた想いが煙となり、血液といっしょに身体中を満たす。
炎が灯ったように身体が熱くなる。それでも寒さは和らがない。

甘えたいときは甘えればいい、と過去の彼女は言う。
今がその時なのかもしれない、と彼女は思う。それから大きく深呼吸をした。





ユーシャは風呂から上がって、ねずみ色の長袖のシャツと黒いズボンを身に付ける。
それらからは慣れない匂いがする。誰も使っていない服だ、とユーシャは思う。
誰も使っていないのに、匂いがする。喩えようのない匂いだ。
彼は独特なこの匂いがどうしても好きになれなかった。頭が痛くなるからだ。

匂いに顔を顰めながら、部屋へ戻る。
魔法使いはベッドの上に、膝を抱えてぽつりと座り込んでいた。
クリーム色をしたワンピースのようなものを纏っている。その姿はとても小さく見える。

窓の外は相変わらずの雨模様だった。
先程よりも雨脚が強くなっているようで、外はかろうじて見える程度だ。

「すごい雨だな」とユーシャは言い、魔法使いの隣に腰掛けた。
ベッドは軋んだ音を吐き出す。

彼女は大きく深呼吸をした後に、「そうね」と答えて、「最悪」と呟いた。

「町にいるときで良かったじゃないか」ユーシャは笑った。

もし、この町――東の王国の城下町に居るときの前後に、
窓の外の幻想的とも言えるほどの大雨に遭遇していたらと思うと、
微笑みは苦笑いに変わった。
窓の向こうの景色は、額縁に収まった灰色の絵みたいだ、と思う。


「考えようによっては良かったとは思うけどね」彼女はため息を吐き出す。
「今回だけはそういうふうにはいかない」

「そんなに嫌なのか、雨」

「べつに」と彼女は頬をふくらませて言う。「帽子が濡れたのが気にいらないだけ」
それから窓の付近の椅子に引っ掛けられたとんがり帽子を眺める。
帽子からは水が滴っていた。

「そっか。帽子、気にいった?」

「そこそこ」

「よかった」ユーシャは笑う。「晴れたらすぐに乾くのになあ」

「でも、雨も悪くない」と彼女は言う。

「そうかな。晴れたら、またお前の好きな買いものに行けるんじゃないか?」

「もういいの。今日はこうしていたい」

「そっか」


ふたりは窓を眺める。

ユーシャの目に映るのは、ほんのりと明るい部屋の景色だった。
しばらくそうしていると、とてもこの部屋と窓の向こう側が
繋がっているとは思えない気がしてくる。
空から海の底を見ているみたいな気分だ。

やがて魔法使いは言う。「さむい」

「寒い?」とユーシャは聞き返す。

言われてみると、すこし肌寒いかもしれない。
なんといっても、ここは大陸北の町で、
もう目の前に北の大陸があると言ってもいいほどだ。

「うん」彼女は頷いてから、ユーシャの顔を見る。「だから、“ぎゅっ”てして」

「ぎゅっ?」とユーシャは反復する。「ぎゅっ?」と、もう一度言う。


「こんなふうに」と彼女は言ってから、ユーシャに抱きつく。
頭を彼のお腹辺りに押し付けて、手を腰にまわす。

「え?」彼はぽかんとしながら彼女を見下ろす。
彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「ど、どうした?」

「もう我慢できないの」

「な、なにが」

「察しろ」

「……もしかして、すごく疲れてないか?」

「それは、いまのわたしが子どもみたいに見えるってこと?」
彼女はユーシャの身体を強く締め付けながら言う。
「子どもじゃなくて、女として見てほしい。わたしだって、男のひとに甘えたい」

その言葉は今までなかったくらいに彼女の存在を彼に意識させる。
何度も彼女を異性として強く意識したことはあったが、
今回は今までのものとは比べ物にならないほど、彼の心臓を激しく揺さぶる。

魔法使いは言う。
「男のひとっていっても、誰でもいいってわけじゃない。あんたじゃないとだめなの」


ユーシャは言うべき言葉を頭の中で探し始める。
でも、それはどうしても見つからない。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、それを的確に伝える方法がわからない。
雨音が沈黙を埋めながら、彼の頭蓋を叩く。
頭の中が撹拌されたみたいに、ごちゃごちゃとしている。身体が熱くなってくる。

「ずっとこうしたかった」と彼女は言う。

「ずっと」とユーシャはその言葉を噛みしめるように反復する。

「時間にすればたかが一〇年くらいかもしれないけど、
それはわたしにとって永遠のような時間だった」

「ごめん」ユーシャは彼女の頭に手を置く。

彼女は小さく首を振る。それは頭を彼の腹辺りになすりつける形になる。
「いいの。あんたの隣にいる時間は満たされた時間だったから。
でも、今は違う。隣にいるだけじゃだめになっちゃったの。
もうそれだけじゃ足りないの。わたしは今、すごく苦しい」

「顔を上げてくれ」とユーシャは言う。

彼女は顔を上げて、彼の目を見つめる。
ふたつの視線は互いの目に吸い込まれるように、一直線上でぶつかる。
腰に巻きつけていた手を離し、それを彼の肩に置いてから身体を起こす。
魔法使いの内側に、忘れかけていた羞恥心が込み上げてくる。顔が熱くなる。


それからユーシャは彼女の細い身体を優しく抱きしめる。
「ごめんな。もっと早くこうしてればよかったのに」

「もっと強くして」と彼女は小さな声で言う。

ユーシャは腕にすこしだけ力を込める。

「もっと」と彼女は言う。

彼は彼女の身体を自分に押し付けるように、手に力を込める。

「もっと」と彼女は言う。「優しいのも好きだけど、今はもっと強くしてほしい」

彼は自分の息が苦しくなるほど、彼女の身体を自身に寄せる。

「これくらいがいい」と彼女は言う。「今は息が苦しくなるくらいがいい」

「ちょっとやり過ぎじゃないか?」ユーシャは微笑んだ。「俺も苦しい」

「……緩めてもいいけれど、離しちゃだめよ」

「わかってるって」ユーシャはすこしだけ力を抜く。「ごめんな」

「なにが」


「ほんとうはこんなこと、俺から言うべきだったのに」

「そうよ。いつになったら言ってくれるのかって、ずっと待ってたのに」

「ごめん」

「ずっと我慢してた。でも、ときどき我慢できなくなるときがある」

「ときどき」とユーシャは言う。脳裏には第一王国の宿での出来事が蘇る。

「そう、ときどき。今みたいに」魔法使いは頷く。
そして第二王国で弱くなった彼を抱きしめたことを思い出す。
「でも、もうなにも我慢しない」

「そんなこと言われたら、俺も我慢できない」

ユーシャは魔法使いをベッドに押し付ける。
彼女は満面の笑みで彼を受け入れる。それを見て彼も微笑んだ。
ふたりは迷うことなく唇を重ね、舌を交える。
身体になにかが満ちて、頭の中が真っ白になっていく。


そうしてふたりは交わる。
彼は緩やかな曲線を描く彼女の身体を貪るように求めた。
小さな胸も、細い指も、すこしだけ傷の見える脚も、
柔らかい唇も、ひとのぬくもりを持っていた。
手や舌で触れると、そのぬくもりといっしょに彼女の感情が伝わってくるような気がした。

触れるたび、彼女は小さな声を漏らす。その声は彼を昂らせる。
理性を焼ききるのは、剣で糸を切るよりも容易いことだった。

様々な角度で身体を重ね、内側を掻き回し、彼は彼女の内に精を注ぐ。
それは休むことなく何度か続く。
限界にまで昂った想いをすべて吐き出すのには、どうしても時間がかかってしまう。

ゆっくりと、満たされた時間が過ぎていく。

窓の外の雨は勢いを増す。
ふたりの存在をかき消してしまうかのように、轟音が部屋を満たす。
彼女は抑えきれずに何度も声を上げる。それは彼にしか聞こえない。
ふたりはお互いの身体で、熱い海に溺れる。それは何時間も続く。



ユーシャは魔法使いの中で果てる。もう限界だった。
心臓が激しく鳴っていて、血管が破裂してしまいそうだ。視界が霞んでくる。
自分でしたって五回連続で果てるなんてことは一度もなかった。
彼は彼女の中から出て、ベッドに身を投げる。頭がずきずきと痛む。

しばらくして、「よかった?」と隣で一糸纏わぬ魔法使いが言った。

「すごくよかった」とユーシャは答えた。

それに対して、彼女は大きく息を吐き出して、「よかった」と答えて微笑んだ。
彼女も肩で息をするほどには感じてくれたらしい。
それはユーシャをとてもいい気分にさせる。

「ねえ、わたしは今すごくしあわせよ」と彼女は続ける。


彼女の言葉は麻薬のようなものなのかもしれない、とユーシャは思う。
あるいは魔法のような。魔法だとしたら、それは呪術的なものなんだろう。

彼女が隣に居なければ、もうどこにも行けないような気がしてくる。
肉体も精神も、彼女と鎖で繋がれているようなイメージが脳裏を過る。
ふたつの魂は、ほとんどひとつになっている。
お互いを離れて生きていくことはできなくなっている。
でも、それは不自由であるとか、息苦しいというようなイメージではない。

その鎖が朽ちることはない、と彼は思った。その鎖は言葉であり、信念のようなものだ。
そして炎や雷雨や竜巻のようでもあり、愛やむき出しの欲望のようでもある。
それはとても自然なもので、決して無機質で
冷たいものではなく、生々しい熱を持って脈動している。


「俺も幸せだけど、死ぬかと思った……」ユーシャは微笑みながら言った。
身体は満たされて潤っているのに、喉だけが乾いている。

「なんで」

「まさか五回も続くとは思わなかった……。血管と心臓が張り裂けそうになったよ」

魔法使いは恥ずかしげに頬を赤らめて笑う。「ちょっと休憩したら、もう一回したい」

「も、もう一回?」

「何度でも、何時間でもしたい」と彼女は訂正する。「いや?」

「い、嫌じゃないけど……ほんとうに死んじまうかも」

彼女はすこし考えてから言う。「だったら、明日は? 明日はもっとしたいな」

「明日」とユーシャは言ってから、窓の外を眺める。
なにかの災害みたいな雨の量だ。ときどき、雷が視界を白く染める。
止む気配は微塵もない。「わかった。明日も雨だったら、一日中こうしていよう」

「晴れたらいっしょに買いものに行きましょう。
北は寒いから、あったかい服を買わなくちゃね」彼女は微笑む。
それから、「明日も雨になりますように」と彼に身体を押し付けながら言った。

「なりますように」と彼も言った。
晴れるまでこうして身体を重ねあうのだろうか。それも悪くないかな、と思う。



翌日は相変わらずの雨模様だった。
ふたりは朝から時間をかけて、浴槽の中でお互いの身体を締め付け合う。
そうしてベッドの上でふたたび、ゆっくりと、満たされた時間が過ぎていく。


20


昔々、この世界の下には、この世界を支える三体の神様がいました。
ひとつは竜の頭を持つ巨大な魚。ひとつは蛇のように長い身体を持つ竜。
ひとつは大きな山のような身体を持つ竜、あるいは竜の頭を持つ山。
彼らはひっそりと世界を支えながら、なにかの声に耳を傾けていました。

ある日、彼らはその場所から引きずり出されてしまいます。
彼らを引きずり出したのは、魔王と呼ばれる怪物の王でした。
不思議なことに、魔王は彼らと仲良くなります。とても気が合ったのです。

しかし、彼らには世界を支えるという重大な役目がありました。
彼らがいないことには、世界に空が降ってきて、大地を押しつぶしてしまいます。
そこで魔王は、五本の塔を立てて空を支えることにしようと提案します。
そして、その上に私の友人を置いて、
なにかに耳を傾けるように言おう、と言いました。
彼らはとても喜びました。自由になることができたからです。


やがて魔王は見返りとして、あるお願いをします。
しかし、彼らはそれを断りました。もちろん魔王は怒り狂います。
すると魔王は自らの力で、彼らの自由を奪ってしまいました。
彼らは門の向こうの黒い水溜りに閉じ込められてしまったのです。

しばらくして、勇者が魔王とぶつかり合います。
それは壮絶な戦いでした。時間や空間が歪んでしまったといわれるほどです。
両者は戦いの果てに死んだとも、
どこかで未だに戦い続けているとも言われています。

そうして何百年もの時間が過ぎました。
神様たちは、未だに囚われているのでしょうか。
塔の上には未だに魔王のいう友人が、世界に耳を傾けているのでしょうか。





勇者は眼前に屹立する塔を見上げる。天辺は見えないほどに高い。
遠くから見ると小さく見えたものだが、近くで見るとまったく印象は変わった。
円筒状に積み上げられた煉瓦のような石が、ひとつの建物としてそこに立っている。

塔の太さは直径五〇メートルほどだろう。
色は灰色で(所々変色しているが、大部分は灰色だ)、
あちこちにツタが絡みついている。
窓や内部への入り口はどこにも見当たらない。
塔というよりは、巨大な柱と呼んだほうがしっくりきそうだ。

それからはどこか冷たい印象を受ける。空気が冷たいからなのかもしれない。
頬に叩きつける風は、もはや寒いを通り越して痛い。
いよいよ北の大陸が近づいてきたのだという事実が、勇者の身体を震わせる。

塔があるのは東西の大陸の北端と南端、
それと海のど真ん中で、この塔は西の大陸の北端にある塔だ。
向こうには大きな橋があって、その終着点には氷に閉ざされた大陸がある。
遥か北の空には、濃灰色の雲が見える。きっと、そこが橋の終着点なのだろう。


象徴的な空を切る音と共に、強く冷たい風が辺りを薙ぐ。
草木は乾いた音を鳴らして、寒さに耐えている。
勇者は思わず身体を震わせた。
寒さと未知への恐怖が、まともな感覚を奪っていこうとしている。

僧侶は「風が強くなってきた」と言うと、マントの下で身体を震わせた。
彼女の鼻と頬は、寒さで赤くなっている。それとは対照的に呼気は白い。
「でも、もっと寒くなるんだよね」と彼女は続ける。「寒いのは好きじゃないなあ」

「きみは昔からそうだもんね」勇者は笑った。

それから、故郷の村にいたときのことを思い出す。
彼女は小さい頃、寒い時期になるといつも、もさもさとした服を着ていた。
赤い手袋と肌色のマフラーを欠かさず身につけていて、
マフラーのせいでいつも鼻から下が隠れていた。
それのおかげで、露出した赤い頬と閉じかけた目が印象的であった。

勇者は彼女のその姿が好きだったことを思い出す。
かわいらしい姿だったし、自分と同い年かそれ以下に見えることがあったからだ。


でも今は違う。彼女は勇者のすこし先にいる。
昔のかわいらしい彼女は今と似ているようで、ぜんぜん違う。
今の彼女には、かわいいというよりも綺麗だとか強いだとか、そういう言葉が似合う。
でも、昔の彼女の髪の長さは今と同じように、首の辺りまでだった。
もしかすると、また昔のように戻ったのかもしれない。よくわからなくなる。

「でも、今は簡単に温まる方法があるもん」と僧侶は言う。
それから妖艶な笑みを勇者に向ける。「ね?」

やっぱり変わってしまった、と勇者は思った。
決してそれを悪いことのようには感じないが。
もしかすると、僕も変わってしまったのだろうか。わからない。



塔を回り込んで、さらに北へ向かおうとした時だった。
一〇〇メートルほど先になにかが降ってきて、土煙を巻き上げた。

「なに?」と僧侶は訝しみながら、土煙に目を向ける。

勇者も目を凝らす。煙の向こうに歪な形をした影が見える。
ゆっくりと、こちらに近づいてくるそれは、ひとにも見えるし、蛇のようにも見える。
影の形は知っている生物のどれとも合致しない。

怪物だ、と勇者は思った。どこから降ってきた?
心当たりは背後にある塔しかない。
まさか空から降ってきたわけではないだろう。
あれに羽があるのなら話は変わってくるが。

やがて煙から出てきたのは、見たこともない異形の存在だった。


まず目に飛び込んできたのは、巨大な眼だった。
胴体はほとんど猿のそれと変わらないが、
顔があるはずの場所には大きな眼球があるだけだ。
口や鼻は見当たらないが、尖った耳だけが眼球の両脇から飛び出している。
眼の大きさは肩幅の三倍ほどあった。

次に目を引いたのは、大きな腕だ。
怪物の背中からは羽ではなく、巨大な腕が一本生えている。
後からくっつけたみたいに、その腕には毛が生えていない。
巨大な人間の腕を背中に埋め込んだみたいな印象を受けた。
でも、あんな巨大な人間はいない。
それに、人間の腕に関節は五つもないし、指は六本もない。

怪物は六本の指で大地を掴み、五つの関節を折り曲げて、
器用に背中から生えた腕の上に座る。
大きな目で勇者たちを見据えると、瞼をすこし下ろした。
その仕草は笑っているように見えた。


「こんにちは?」と怪物は言った。それはひどく耳障りな声だった。
高い音と低い音がいっしょになって聞こえる。
両耳のすぐ側で蚊と熊蜂が同時に飛んでるみたいだ。
そして彼は「勇者様?」と続けた。

「は?」と勇者は思わず声をこぼした。怪物が喋るなんて、聞いたことがない。
そもそも、口もないのにどうやって喋ってるんだろうか?

「なにあれ」僧侶はさらに訝しむような表情になる。

怪物は巨大な六本の指で地面を弾いて跳んだ。
そして勇者たちの一〇メートル手前に六本の指で着地する。

猿のように華奢な胴体が宙に揺れる。
腕とそれのどちらが本体なのか、わからなくなる。
個別の意思を持ったものなのだろうか。
あるいは寄生虫と宿主のような関係なのかもしれない。よくわからない。

勇者は剣を引き抜いた。僧侶も呪文をつぶやき、ふたりを“膜”で覆う。


「あれ?」怪物は首を傾げる。眼球の重さで、そのまま首はがくりと折れ曲がる。
「勇者じゃない? あいつらじゃない? あの糞野郎どもはどうした?」

「なんの話?」と僧侶は言う。

「とぼけるなよ人間! さっさと勇者を連れて来い!」
怪物は目を見開いて怒鳴った。
「あの四人組、ふざけやがって……ぶっ殺してやる!」

勇者……。四人組?
「だから、なんの話なんだよ?」勇者が苛々しながら、強い語気で言う。
それはどこか怯えている自分を奮い立たせるためでもあった。

「ほんとうに知らないのか? ほんとうは知ってるんだろ?」

「知らない」と勇者は言った。
自分が勇者だと名乗って、彼を刺激するのは拙い気がする。


怪物は瞼を半分だけ下ろし、勇者と僧侶を交互に睨む。
「だったら、お前たちは何故ここへ来た?」

「橋を渡りに来た」と僧侶が言った。「魔王を倒すために」

怪物は目を見開いた。「なに」

「わたし達は魔王を倒すの」と僧侶はもう一度言う。「彼が勇者だから」

怪物は「そうか」と言うと、大声で笑い出した。
首ががくがくと折れ曲がり、その都度眼球が地面に零れ落ちそうになる。
「そうか、お前があいつの代わりなのか!
そう言われると、お前はあいつに似ているかもなあ!
うははははは! 待ってたぞ、七〇〇年間ずっと待ってたんだ!
忘れるもんか! お前らみんな殺してやる、殺してやる! うははははは!」

僧侶は消えそうな声で「ごめん」と言った。

勇者は頷いて、剣を構える。
「大丈夫。遅かれ早かれ、こうなる気はしてた。これは、きっと避けては通れない壁だ」

「うん」僧侶は頷く。「きみなら大丈夫だ。こんな壁、すぐにぶち壊してやればいい」

「頼りにしてるよ」

「わたしも頼りにしてるよ、勇者様」


「そう、それだよ!」と怪物は声を張り上げ、背後の巨大な手で地面を殴りつける。
足元が揺らぎ、怪物の立っている場所の地面に亀裂が走る。
「それが苛つくんだ! お前らそうやって余裕ぶっこきやがって!
七〇〇年前の四人組もそうだ! 男ふたり、女ふたりだ! 忘れるもんか!
あいつら、挙句の果てには俺を殺さずに進んでいきやがった! 舐めやがって!
そもそも、なんで俺がこんな塔で見張りをしなきゃいけないんだ!
あの餓鬼、なにが魔王だ! 糞!」

「ふうん。七〇〇年前は負けたんだ?」僧侶はため息を吐き出す。
「苛々するのは勝手だけど、それはわたし達には関係ないよね」

「黙れ! ぶっ殺してやる!」

怪物は絶叫に近い声を張り上げる。空気がびりびりと揺れた。
そして五つの関節を折り曲げた後、それを伸ばしてこちらに突進してきた。
まるでばねに弾かれたような動きに見えた。
ただ、勢いは真っ直ぐ飛んでくる矢のようだった。
どう見ても殺傷能力は矢の何百倍もあるように見える。

あの巨大な腕で押しつぶされたらどうなる?
そんなことは容易に想像できる。地面に真っ赤な花が咲くことだろう。


矢のように向かってくる怪物を、勇者は身を屈めて躱す。
勢いは衰えることなく、怪物は勇者の後ろにいた僧侶に向かって飛ぶ。

僧侶は呪文を唱える。すると、怪物と彼女の間に、いくつもの氷の槍が現れた。
かなりの太さの槍だ。勇者のちっぽけなものとは比べ物にならない。

その内のひとつが、怪物の巨大な腕を貫いた。
怪物はつっかえて、首をがくりと折り曲げる。眼球が前に飛び出る。
それから怒りの滲んだ絶叫を上げる。
巨大な腕を振り回し、氷の槍をすべて砕いて、また十メートル向こうに戻る。

「進路を遮るだけのつもりだったんだけどなあ」と僧侶は意地悪そうに言う。
「飛んでる最中は腕を畳んだほうがいいんじゃないかな?」


怪物はもはや言葉になっていない声で、なにかを叫び続ける。
かろうじて「殺す」という単語だけが聞き取れる。相当お怒りらしい。

「七〇〇年前の四人組とやらは優しい――もしくは
甘いひと達だったのかもしれないけど、わたし達はたぶん違うよ」
僧侶は頭上に直径五メートルほどの火球を作り出す。

「殺してやる」と彼女は呟く。「その眼球をぐちゃぐちゃにしてやる」

その声には混沌とした感情が含まれていた。
穏やかな川のような声の中には、激流のような感情が見え隠れしている。
まるで怪物の怒りが伝染したみたいに。

殺せ、と影は言う。


彼女は手を鳴らす。それを合図に火球は弾かれたように怪物に飛んで行く。
勇者は火球の後ろに続く。“膜”のおかげで、熱さはかなりマシだ。

続けて彼女は怪物を氷の槍で囲んだ。
それは檻の鉄格子ように綺麗に並べられたものとは違い、歪な列をなしていた。
槍の先端はほとんど怪物の眼球に向けられている。
太さも長さもまちまちだが、先端はどれも眼に向かっている。
それは明確な殺意を持って、怪物の動きを止める。

動けば殺す、と彼女は声に出さずに言う。動けば殺す、と影は言う。殺してやる。
動かなくても殺す。絶対に殺してやる。ぶち殺してやる。

怪物は怒りに任せて腕をぶん回す。絶叫は続く。
氷の槍は派手な音を鳴らしながら粉々に砕け散り、辺りに小さな氷塊として転がる。
散った氷は雪花のように儚く艶やかであったが、
間違いなく多少の暴力性を持っていたはずだ。

しかし、怪物の眼には傷ひとつない。
どうやら、瞼を下ろすと眼球は守られるようだ。瞼は硬いのかもしれない。
あれだけ大きく目立つ弱点だから、守る機能があるのは当然か。
眼球自体を鍛えるのは、いくら怪物でも不可能なはずだ。
あれがまともな生物であると仮定した場合だが。


怪物が氷の槍を掃除し終わると、休む間もなく火球が押し寄せる。
六本の指がある大きな手が、火球を受け止める。火球はその腕よりも数倍大きい。
怪物は絶叫を続ける。しばらくすると大きな手は地面に押し付けられ、
火球はまるで初めから存在していなかったみたいに消滅した。
残ったのは黒い煙と、土煙だけだ。

火球の後ろに付いていた勇者は跳び上がっていた。
地面に押さえつけられた巨大な手に向かい、剣を構える。

怪物は勢い良く眼球をこちらに向ける。なんとも間抜けな姿だ。

勇者は思わず口元に笑みを浮かべる。もう遅い。狙いはあの手か、眼しかない。
あれを潰せば、もう相手は戦いを続けることができなくなるだろう。狙わない手はない。


怪物は咄嗟に反応しようとして瞼を下ろす。
それはシェルターのように、眼を守る。
しかし、逃げることはかなわなかった。

勇者は落下によるエネルギーで、膜が塗られた剣で太い指を二本、骨ごと断った。
真ん中の二本の指だ。それらは鮮血をまき散らして、冷たい土の上に転がる。

絶叫が耳を劈く。それは空気を揺らすどころか、空間を歪めてしまうような勢いだ。
しかし、歪むのは僧侶と勇者の表情だけだった。

「強くなった」と僧侶は言う。「きみはもう、誰にも負けないよ」

「きみには負ける」と勇者は言った。「それに、僕には悪い癖がある」

「でも、わたしがいる」僧侶は微笑んだ。
「わたしは唯一、きみの背中を守ることが出来る」

それから微笑んだまま怪物に言う。
「はやく立ちなよ。わたし達を殺すんでしょ?
指が二本なくなったくらいで、大げさなんだよ」


勇者は横目で彼女を見る。彼女の表情には喜怒哀楽が混在している。
彼女は戦士の不在を哀しみ、怒りに任せて怪物を蹂躙することに喜びを覚え、
自分が優位にいることを楽しんでいる。
彼女はようやく混沌とした感情をぶつける対象を見つけたのだ。
壊れないおもちゃを手に入れた子どもと同じだ。

今、彼女の身体にはエネルギーが迸っている。
健全なものではないが、間違いなく強力なものだ。
それは波のように綺麗で穏やかなものではなく、
澱のように淀んでいて、滝のような勢いで外側に放出される。

いつの間にか怪物の絶叫は止んでいる。
欠落していた感情を取り戻したみたいに、冷静になったようだ。


怪物は男性的な声と女性的な声で言う。
「ほんとうだな。お前らはあいつらとは違うみたいだ」

「ふふん」と僧侶はすこし誇らしげな顔をしながら言い、
「あいつらって、“四人組”?」と続ける。

「そう」と怪物は低い声だけで答えた。
「お前達はあいつらが持っていないものを持っている」

「でも、わたし達は彼らが持っていたものを持っていないと思うよ」

「かもしれないな」と怪物は眼を細めて言う。それは笑っているように見える。
「“ひと”として大事ななにかが欠落しているんじゃないか?」

「かもしれないね」と僧侶は目を細めて言う。それも笑っているように見える。
「あなたはとても“怪物”らしい。
わたしはときどき思うの。怪物みたいになれたらいいなって」

「ふうん」と怪物は満足そうに言う。
「怪物みたいになりたいって、たとえば? “怪物”になって、どうしたいんだ?」


彼女は深呼吸をする。それは何かの決心をするように見えた。
「わたしはね、幸せそうなひとを見ると、なにかを壊したくてたまらなくなるの。
たぶん、わたしと同じように感じているひとはいないんだろうね。
でもわたしは、その幸せそうなひとをばらばらにしてやりたくなる。

でも、そうすることができないの。
たぶん、そうすることで大事なものを失くしちゃうからね。
それは絶対に失くしたくないものなの。わたしの命よりも大事なものかもしれない」
そう言ってから勇者をちらりと見て、また怪物に目をやる。

そして続ける。
「だからわたしは怪物になって、感情にまかせてなにかを壊したいの。
怪物になったわたしを脅かすものはなにもなくて、奪われるものも失うものもない。
それで、自由なわたしはなにかを壊し尽くすの。御伽噺の魔王みたいに。

なにかってのは、まあ、なんでもいいの。
それがおもちゃでも、食べ物でも、家でも、怪物でも、人間でも、壊したい。
とにかく視界を綺麗にしたい、真っ白にしたい――って、ときどき思うの」


「そうできたら楽しいだろうな」と怪物は言った。

「わたしもそう思う」

「お前とは気が合いそうだ」

「わたしもそう思う」と僧侶はもう一度言う。
「だったらわたしがあなたをどうしたいか、わかるよね?」

「殺したい?」

「はんぶん正解。正解は、殺してからぐちゃぐちゃにしたい、だね」
彼女は口元を歪めて言う。「たぶん、それでも足りないだろうけど」

「お前と俺は同類だ」と怪物は嬉しげな高い声で言う。
それは赤ん坊の声みたいに、耳にこびりつく。
「俺もお前達を殺したくてたまらないんだ」

「ふふん」と僧侶は満足げに笑い、呪文を唱える。背後に小さな炎の球が七つ現れる。
「だったら手加減しなくていいわけだ。仕方ないよね。わたしは死にたくないもの。
生きるためにはあなたを殺さなくちゃだめなんだもんね?」

死ぬな、歩け、と影が言う。殺せ、と影は言う。


「俺も手加減しないさ。どうだ、お前、今すごく楽しいだろう?」

「すごく楽しいかも。こんなのはじめて」

「俺も楽しいぞ。うはは、うははははは!」怪物は大声で笑った。

それにつられたみたいに、僧侶も声を上げて笑う。どこか狂気じみた笑みだ。
込み上げてくる笑みを堪えきれないらしく、彼女は笑い続ける。
彼女のかわいらしさの残る狂気的な声と、
完全な怪物の耳障りな声が空気を揺らし、耳を覆う。

勇者は半ば呆然としながら、僧侶に目を向ける。
彼の目に、笑い続ける彼女の姿は、悲しげでとても寂しい存在のように映る。
それはまるで、ひとりぼっちの怪物みたいだった。
差し伸べられた救いの手を食いちぎってしまうような、そんな憐れな怪物に見えた。

つづく


21


東の大陸の北端の塔が薄っすらと見え始めた頃、
ユーシャと魔法使いは小さな村を見つけた。
質素な木造の家が立ち並び、そこらに小さな畑が見える。
なんだか、故郷の村を思わせる風景だった。よく似ている、とユーシャは思った。
故郷の村と違う点といえば、動物がすこし少ないくらいだろう。

「休ませてもらえるかしら」と魔法使いは村を眺めながら言う。

「どうだろう」とユーシャは言った。

小さな村は外の人間を嫌う傾向があるのはよくわかっているので、
あまり近づきたくはないところだが、ここらはすこし寒い。
いくら温かい服装(といってもマントを羽織っただけだが)でも、
そのまま外で眠るのは出来ることなら避けたい。

魔法使いも寒いらしく、小さく身体を震わせている。
ぼろマント(元はユーシャのもの。星見の丘で渡してから
彼女はそれをずっと羽織っている)の上に
もうひとつマントを羽織っているだけだから、
服装は膝下が露出しているスカートのままだ。
寒くて当然だろうと思う。


村までの距離はまだすこしあるが、ここからでも
訝しむような目線がこちらに飛んできているのがわかる。
「よそ者が来た」と声を潜めて言い合っているのかもしれない。
あるいは「魔女が来た」とか(関係ないのかもしれないが、
彼女の姿は帽子のおかげでどこからどう見ても魔女にしか見えない)。
自分たちもそういうところに住んでいたから気持ちはわからなくもないが、
どうも同情する気にはなれない。

「とりあえず行ってみればいい」ユーシャは歩き始める。
魔法使いもそれに続く。

村は背の低い木の柵で囲まれていた。
まるで飼いならされた山羊みたいに、人々はその中でおとなしく暮らしているらしい。
自分たちもこうだったのかもしれない、とユーシャは思う。
当たり前だが、立つ場所が変わると、見え方も変わる。

村の入り口辺りまで歩くと、何人ものひとから露骨に、刺すような視線を向けられた。
さあ、どうしよう。なんて声をかけようか。……


ユーシャが入り口でしばらく悩んでいると、目の前に小さな女の子が現れた。
首辺りまでの髪が、冷たい風でさらさらと揺れる。肌は陶器のように真っ白だ。
もさもさとした服(動物の毛が温かそうだ)を着て、
赤い手袋に肌色のマフラーをしている。
マフラーで顔の下半分ほどは隠れている。
赤い鼻と頬がかわいらしい少女だ。歳は一〇くらいだろうか。

「どうしたの?」とその少女はくぐもった声で言う。

すこし考えてからユーシャは、
「俺たち旅をしてるんだけどさ、ひと晩だけこの村で休んでいきたんだ」と言った。
「だめかな?」

「わかんない」と少女は答えた。

「だよな」ユーシャは思わず微笑んだ。かわいい女の子だな、と思った。

すこし考えてから少女は、「わたしの家で休む?」と言った。

「いいの?」

「わかんない」

「わからないんだ?」

「うん、わかんない」少女は目を細めて笑った。「お母さんに訊いてくる」


「頼んだよ。この辺は寒くて、外で寝ると凍えそうなんだ」

「わたしも寒いのは苦手だよ」

「なんとなくわかる。すごい厚着だもんな」

少女はユーシャの全身を眺めて言う。「お兄さん、旅をしてるんだよね?」

「そう」とユーシャは答えて、背後をちらりと見る。
「あの魔女みたいなひとといっしょに」

「たのしい?」

「うん。たのしい。でも、時々すごくつらいことがある」

「そっかあ」少女は満足げに笑うと、踵を返して村の奥に向かう。
「訊いてくるから、待っててね」

「うん。待ってる」
ユーシャは小さく手を振った。少女も笑顔で手を振り返す。


少女の姿が見えなくなると、隣に魔法使いがやってきた。
どこか“とげとげ”とした視線が彼女から飛んでくる。
ちいさな木の柵の向こうからも、村の人間の
“とげとげ”とした目線が矢のように飛んでくる。

ユーシャは隣に目を向ける。
そこには案の定、こちらに鋭い視線を送っている彼女の姿があった。
村の人間から飛んでくる棘のような目線に含まれているものはわかるが、
彼女がなぜこちらにそんな針の先のような目線を向けるのかがわからない。

「もしかして、怒ってる?」とユーシャは怯みながら訊ねる。

「べつに」と魔法使いは間髪入れずに答える。怒っていないにしても、
その態度はどう好意的に捉えても機嫌が悪いようにしか見えない。

「怒ってるよな?」

「怒ってない」と彼女はすぐさま言う。

「なんで怒ってるの?」

「だまれ」と彼女は言い、ユーシャの鳩尾に肘打ちを決めた。
彼は肺から勢い良く空気を吐き出し、腹を押さえながら呻く。

「なんで……」とユーシャは呟いたが、彼女はなにも答えず鼻を鳴らした。


しばらく、お互い無言の時間が続いた。
やがて先ほどのちいさな女の子が戻ってきて、その沈黙を破る。

「どうしたの、お兄さん」と少女は首を傾げながら言った。「お腹、痛いの?」

「すごく痛い」とユーシャは腹を押さえたまま答えた。

「気にしなくてもいいわよ」魔法使いは言う。「このお兄さんは、よくこうなるの」

「ふうん。おもしろいね」

「そう、すごくおもしろいの」

「ひとが腹押さえて痛がってるのに、
最初に出てくる感想が“おもしろい”ってのはどうなんだ……」


「感受性が豊かだからね」と少女は嬉しげに言う。

「なに?」

「感受性が豊か」と少女はもう一度言う。

「どういう意味?」とユーシャは訊ねる。

魔法使いは言う。
「気にしないで。ほっとけばいいわ。このお兄さん、ちょっと頭が悪いの」

「そうなの?」少女は首を傾げる。

「そう。このお兄さんは本を読むと眠くなるし、
チェスのポーンの動かし方も理解できないの」

「それは相当だね」少女は笑った。

それを聞いたユーシャはちょっと悲しくなった。
頭が悪いと言われるのは、いまさら大したことではなかったが、
初対面のちいさな女の子にそう言われると、
なんだか今までに感じたことのない中途半端な悲しさが込み上げてくる。


「きみはチェスを知ってる?」と魔法使いは嬉しげに言う。

少女は「うん」と答えて、
「お兄さんはキングで、お姉さんはクイーンみたいだね」と続けた。

「ほかの駒がないから、どっちかが欠けるとゲームはお開きね」

「わたしはお兄さんとお姉さんの味方だよ」

「じゃあきみはポーンかな」

「ポーンだって頑張ればクイーンになれるよ。
わたしもいずれはお兄さんの隣に立つクイーンだね」

「お兄さんの隣にわたし以外のクイーンはいらないわ」

「どうして?」

魔法使いはすこし考えるふりをしてから、「どうしても」と言った。

「わかんない」少女は困ったように笑みを浮かべた。


「俺もわからない」とユーシャは言う。
「俺を置いてふたりで盛り上がらないでくれよ。
わけがわからないし、なんか寂しいんだよ」

「キングはひとりぼっちが苦手なの」と魔法使いが言う。

「みたいだね」と少女が言った。

「クイーンが守ってあげなきゃね」

「ポーンもいるよ」

「もういいかな、その話」とユーシャは言い、
「結局、俺たちはここで休んでいけるの?」と訊ねる。

少女は「うん」と肯定する。
「でも、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるの」

「なに?」

「掃除」と少女は微笑みながら言う。「馬小屋の」


「だってさ」とユーシャは魔法使いを見て言った。

「頑張ってね」と魔法使いは言う。どうやら彼女にその気はないらしい。
「ルアーリングみたいなものと思えばいいわ。
あんたが頑張ることで、わたし達はあったかいベッドを手に入れるのよ」

「キングを犠牲にしちゃだめだよ」と少女は言ってから笑った。

「もういい。わかった」ユーシャは目を閉じて何度も頷く。
そして頭を抱えて言う。「掃除するから、その話をやめてくれ!」



刺々しい視線を肌で感じながら、少女の後ろに付いて歩いた。
村の住民は薄汚れた服を纏っているものがほとんどだ。
それは故郷の村もユーシャ自身も同じなので、大して気にはならない。

ちいさな木の柵に沿ってしばらく歩くと、小屋に突き当たった。
「ここだよ」と少女は言った。小屋は木造で、ところどころ壁が腐っている。
すこし触ると、ぼろぼろと湿った木片が地面に落ちた。
随分と長い間、陽光と風雨に曝されてきたらしい。大丈夫なのか、この小屋。

回りこんで中を覗きこむと、二頭の馬が見えた。茶馬と黒馬だ。
その脇でふたりの男の子が顔を顰めながら床を竹箒で掃いている。
小柄な少年と、大柄な少年だ。どちらもあの少女と同じ一〇歳くらいだろうか。

そのふたりがどうして顔を顰めているのかはすぐにわかった。
魔法使いもすぐに理解して鼻をつまんだ。
そりゃあ掃除なんてしたくないだろうな、とユーシャは顔を顰めながら思った。


ユーシャは少女に手を引かれて小屋に入る。
魔法使いはその場から動かず、それを見守る。
なんだか背後に刺すような視線を感じるが、
振り返るとめんどくさいことになりそうなので、
ユーシャはそのまま小屋に足を踏み入れる。

小屋に入るなり、「掃除、終わった?」と少女はふたりの少年に訊ねた。

「終わってるように見えるか?」と大柄な少年は下を向いたまま言った。

「見えない」と少女は答えた。

「どこに行ってたの?」と小柄な少年は下を向いたまま言った。

「村の入り口だよ」と少女は答える。
「それで、このお兄さんが掃除を手伝ってくれるって」

ふたりの少年は顔を上げて、きょとんとした面持ちでユーシャの顔を見る。
それを見たユーシャは微笑みながら「どうも」と言った。


「誰?」と大柄な少年は首を傾げて訊ねる。

「村のひとじゃないよ。このお兄さんと外にいるお姉さんは旅をしてて、
この村でひと晩休んでいくんだって」

「それで掃除を手伝ってくれるの?」と小柄な少年は言う。
「ほんとうにいいの?」

「不本意ではあるけど仕方ないさ」ユーシャは言う。
「俺だってお姉さんに怒られたくないからな」

「じゃあ、わたしはお姉さんといっしょに外で待ってるね」と
少女は言い残し、小屋から出ていった。

しばらくの沈黙の後、ユーシャはぽつりと言う。
「いつでもどこでも、強いのは女なのかも」





魔法使いは少女に手を引かれて村を歩く。
この村のひとといっしょに歩いているという安心感からなのか、
刺々しい視線は気にならない。
でも、隣にユーシャがいないのがすこし気に掛かる。
パズルのピースがひとつだけ足りないみたいなもどかしさを感じる。
それさえあれば完璧なのに。そう思ってもそれは現れない。だからもどかしい。

「どこに行くの?」と魔法使いは訊ねる。

「わたしの家」と少女は答えた。

馬小屋からしばらく歩いて、少女は足を止める。
魔法使いもその隣で立ち止まる。

目に入るのは、村に乱立する見慣れた建物だ。
そして目の前にあるのが少女の住む家のようだ。
すこし離れたところにちいさな畑があるが、野菜の姿は見当たらない。
収穫された後らしく、もぬけの殻だ。

「大きい家ね」と魔法使いは家を眺めて、感心したように言った。

この家も、村に乱立する木造のそれとほとんど
見た目は変わらないが、すこし大きく感じる。
目に見えてわかる違いは、玄関扉の前にステップがあることくらいだ。


少女はそのステップをリズム良く上がって、玄関扉を開く。
それから、歌うように「ただいまー」と声を伸ばして言った。
その流れは染み付いた習慣のようだ。すこし微笑ましい。

「さっき言ってたお姉さんを連れてきたよ」と少女は家の奥に向かって言う。
「はあい」とすこし間の抜けた声が返ってくる。女性の声だ。

魔法使いは玄関扉からすこし離れたところで立ち尽くしていると、
少女に手を引かれながら、三〇代中頃の女性が現れた。
真っ直ぐ腰の辺りまで伸びた綺麗な髪が目を惹いた。綺麗だな、と思った。

彼女が少女のお母さんなのだろうと、魔法使いはすぐにぴんと来た。
どちらも、おっとりとした雰囲気を纏っている。
それはすこし間抜けでもあるが、多少の凛々しさを感じる。

お母さんは魔法使いを見るや否や、目を丸くして言う。「魔女?」


「ちがうよ。お姉さんはクイーンだよ」少女は訂正する。

「それもちょっと違う」魔法使いは訂正する。
「わたしは旅をしてるただの魔法使いです。この帽子は、プレゼントみたいなもの。
たしかに魔女みたいな身なりだけど、わたしは魔女じゃないの」

「プレゼントって、お兄さんから貰ったの?」

魔法使いはすこし間を空けてから、「そう」と言った。
「似合ってるって言ってくれたの」

「たしかに似合ってる」お母さんは頷いた。
「ほんとうの魔女みたいだ。かわいいよ」

「ありがとう。あいつもそう言ってた」

「あいつって、“お兄さん”?」

「そう」

「そっかあ」とお母さんは満足げに言う。そして笑みを浮かべて、
「まあ、入りなさい。ここは寒いから、中でいっぱいお話ししましょう」と続ける。
「あったかいものでも飲みながら、あの子たちの掃除が終わるのを待つとしよう」

「ありがとう」と魔法使いは言い、ステップを上がった。





ユーシャはふたりの少年から簡単な説明を聞いて、せっせと馬小屋を掃除していた。
しばらくそうしていると、寒かったはずなのに身体はすぐに温まってくる。
マントを外に放り投げて、またせっせと掃除を続けた。

でもほんの二〇分ほどで飽きが来てしまった。それはふたりの少年も同じようだった。
彼らは目の前の、よその人間が気になって仕方がなかった。
やがて三人は手を止め、口だけを動かし始める。

最初に口を開いたのは、大柄な少年だった。
「ねえ、お兄さん。旅をしてるって言ってたけど、どこから来たの?」と彼は言った。

「すごく遠いところ」とユーシャは答える。
「西の大陸だよ。地図の上だと、こことはちょうど反対側にある大陸だな」

「じゃあ、船に乗ってきたんだ?」

「そう。二回乗った」

「いいなあ。船どうだった? でかかった?」

「すごくでかい。でも、波のおかげでずっと揺れてるから、
乗ってると酔って吐きそうになる」

「そうなんだ」

「大丈夫なひとは大丈夫みたいだけど、俺はだめだ」ユーシャは笑った。


「お兄さんは、お姉さんとふたりで旅をしてるの?」と小柄な少年は控えめに訊ねる。

「そうだよ」

「寂しくない?」

ユーシャはすこし考えてから、「寂しくないよ」と答える。
「お姉さんがいつも隣にいるからな」

「お兄さんはお姉さんのことが好き」と大柄な少年は
なにかを読み上げるみたいに淡々と言う。

「うん、好き。超好き」

「やっぱり」と大柄な少年は満足げに言い、「もっと旅の話が聞きたいな」と続ける。


ユーシャは身振り手振りを混じえて、滔々と話し始める。
過去の出来事に改めて想いを馳せるのは、自身にとっても気持ちの整理になる。
話しながら、いろいろなことがあったもんだと思わずにはいられない。
遠くまで来たもんだ。

ふたりの少年は目を輝かせ、それにかじりつくように耳を傾ける。
まだ見ぬ外の世界に胸をはずませる姿は、ユーシャの気分を良くさせる。
なんだか昔の俺を見てるみたいだ、と彼は思った。
思わず話にも熱が入る。でも口しか動かしていないから身体が冷えてくる。

結局、馬小屋の掃除が終わったのは陽が沈む頃になってからだった。





「どう? 旅ってたのしい?」とお母さんは訊ねる。

「たのしい」と魔法使いは答える。「でも、時々すごくつらいことがある」

「だよね」お母さんは腕を組んで頷いた。
「私は旅をしたことはないけど、つらいだろうと思うよ。
特にきみみたいな女の子となるとね」

「うん。すぐに脚が痛くなるわ」

「でしょうねえ。あとお風呂とか、なかなか入れないんじゃないの?」お母さんは笑う。
「チェック」

「そう。それがすごくつらい。あと、ベッドで眠れないのがつらい」

「ああ、そっか。いつも外で寝るんだ? 大変だ」

「ここらは寒くてどうにもならないの。凍え死にそう」


お母さんは笑い、
「こんな女の子を連れ回す“お兄さん”って、どんなひとなの?」と笑顔で訊ねる。
「チェック」

魔法使いは首を振る。
「あいつがわたしを連れ回してるんじゃなくて、わたしがあいつに付いて行ってるの」

「そうなんだ?」

「うん。出発するとき、何度も
“無理して付いてこなくてもいいんだぞ”って言われたけど、わたしが付いてきた」

「どうして?」

「どうしても」

「どうしても離れたくなかった?」

魔法使いは控えめに頷く。顔が熱くなる。

「そっかあ。いいなあ。それで、“お兄さん”ってかっこいいのかしら?」と
お母さんは嬉しげに言う。「チェック」


「かっこいいよ」と少女が言った。

「かっこいいんだ?」

「そうでもない」と魔法使いは言った。

「そうでもないんだ?」

「そうでもないの」

「でも好き?」

魔法使いは頷いた。

「どれくらい好き?」

「すごく」

「どういうとこが好き?」

魔法使いは考えるふりをしてから、「ぜんぶ」と答えた。

「そっかあ。いいなあ。うらやましいなあ」
お母さんは椅子の上で、身体を振り子のように左右に揺らした。「たまらないね」

魔法使いの顔は真っ赤になる。気を紛らわすために、熱いお茶をすすった。


「お姉さんはクイーンで、お兄さんはキングなの」と少女は言う。

「じゃあ、きみがいないとお兄さんはすぐにやられちゃうね」
お母さんは、また笑う。「チェック」

「そうなの」と魔法使いは言う。
「でもキングがいないとわたしのゲームは始まらないわ」

「キングもそう思ってるんだろうね。クイーンがいないとゲームは始まらないって」

「うん」

「前に進むためにはお互いが必要なわけだ」とお母さんは言い、
「チェックメイト」と続ける。


「あ」と魔法使いははっとして言う。「負けちゃった」

お母さんは魔法使いの白のキングを黒のクイーンで取った。
「でも、こんなふうにクイーンの目が届かない場所で、
きみのキングはべつのクイーンに食べられちゃうかもしれないね?」

「ね?」と少女は笑みを浮かべて言った。

「大丈夫」と魔法使いは言った。
それから、「あいつはナイトにもなれるから」と続け、白のナイトを適当に動かした。

「それは反則だ」とお母さんは笑みを浮かべて言った。
それから、「参ったね」と続け、黒のビショップでそのナイトを取った。
「いやあ、参ったよ」





掃除を終えた三人は小屋をあとにする。
外は薄暗くなり始めていて、空気はかなりの冷たさだ。
吐き出した呼気は白く染まり、ふたりの少年の頬や鼻に健康的な赤みがさす。
ユーシャは放り投げていたマントを拾い上げ、
それにこびりついた湿った土を払ってから羽織る。

「手伝ってくれてありがとう」と小柄な少年は言った。

それに対して、ユーシャは「どういたしまして」と模範的な返事をする。

「お兄さん、どこで休んでくの?」と大柄な少年が訊ねる。

「さっきの女の子の家」とユーシャは言ってから、
さっきの女の子の家がどこにあるのかを聞いていないことに気付く。
「そういえば、あの子の家ってどこなんだ?」


「聞いてないの?」

「うん」

「アホだ」大柄な少年はユーシャを指さして笑った。

「うるさい」とユーシャは言う。「きみらはあの子の家がどこか知ってる?」

「知ってるよ」と小柄な少年は答える。

「連れてって。頼むよ」

「しょうがないなあ」と大柄な少年は満足げに言った。



ユーシャはふたりの少年の背後に付いて歩き始める。
目に入るのは、沈みかけた陽の光に曝される多数の似たような造りの家と、畑だけだ。
畑は寂しいものもあれば賑やかなものもある。でも家は古いものばかりだ。
廃村だと言われても納得できるような景色だ。
しかし、決してくたびれた雰囲気はない。ふしぎなものだとユーシャは思った。

時間が時間だからなのか、ひとの姿はほとんど見当たらない。
何度か畑をいじったりしているものの姿を見かけたが、
どれもこちらに刺々しい視線を向けることはなかった。
きっと周囲に味方がいないからだろうな、とユーシャは思った。
余所者になにかされたら、たまったもんじゃないからな。
その点に置いては彼らに同情できる。

ユーシャと少年たちはくだらない掛け合いをしながら歩く。
やがてふたりの少年はひとつの家の前で立ち止まる。

小柄な少年が「ここだよ」と言った。


ユーシャは目の前の家をじろりと見る。大きな家だ、と思った。
大きいといっても、今まで見た家と比べて部屋がひとつかふたつ多いくらいだろう。
玄関扉の隣ではちいさな光が揺れている。
魔術なのかただの炎なのかの区別はつかない。

三人がしばらく漫然と家を眺めていると、背後から声をかけられた。
「うちになにか用かな?」と低い声で背後の人物は言う。
振り向くと、そこには穏やかな顔立ちの中年男性が立っていた。

「こんばんは、おじさん」と小柄な少年は言った。

おじさんも微笑みながら「こんばんは」と返した。
「彼は? ここの村のひとじゃないよな」

「このお兄さんは旅をしてるんだよ」と大柄な少年は自慢げに言った。

「ほほう」とおじさんは口を丸くして言った。


「こんばんは」ユーシャは頭を下げた。

「こんばんは」おじさんも頭を下げる。
「旅人とはめずらしいな。若いのに立派なことだ。いいなあ、昔を思い出すよ。
まあいろいろ訊きたいことはあるけれど、ここは寒いからとりあえず僕らの家へおいで。
見たところ、悪いひとではないみたいだしな」

「お兄さんはいい人だよ。僕ら、馬小屋の掃除を手伝ってもらったんだ」

「そうかあ。よかったじゃないか」おじさんは笑った。
「お兄さんと離れたくないかもしれないけれど、
もう暗いからきみらは早く家に帰るんだよ」

「はあい」とふたりの少年は言う。それからユーシャに手を振って駈け出した。
「また明日お話しようね。お兄さん」

「うん。そうしよう」ユーシャも手を振り返した。


おじさんはふたりを見送ると、のそのそとステップを上がって戸を開いた。
おじさんが低い声で「ただいま」と言うと、
「おかえりー」というすこし間の抜けた声が二重で返ってきた。
どちらも女性の声で、片方はあの少女の声だった。
となると、このおじさんはあの子のお父さんなのだろうか。

「きみも入ってくれよ」とおじさんは言った。

「ありがとう」とユーシャは言い、ステップを上がる。
家の中からなにかいい匂いがする。それは忘れていた空腹感を思い出させる。
家に入ると、身体は温かい空気に包まれる。

奥の部屋にあの少女の姿が見えた。
向こうもこちらに気付いたようで、笑みを浮かべた。
それから「お兄さん戻ってきたよ」と少女は言って、奥の部屋の更に奥に消える。

今度は魔法使いが部屋から現れる。後ろにあの少女と、髪の長い女のひとが続く。
腰辺りまで伸びた綺麗な長い黒髪が印象的だ。歳は三〇くらいだろうか。
あの女のひとは、あの子のお母さんだろう、とユーシャは思った。
雰囲気がとても似ている。

おじさんは魔法使いが視界に入った瞬間、目を丸くして言う。「魔女?」


「ちがうよ。お姉さんだよ」と少女が言った。
「お兄さんといっしょに旅をしてる魔法使いさんで、お兄さんのことが好きなの」

「ほほう。お兄さんって彼のこと?」おじさんはユーシャに目を向ける。

「そうだよ」

お母さんは「きみが“お兄さん”か」とユーシャに言う。「かっこいいじゃないの」

「でしょう?」と少女は言った。

「いいなあ」お母さんは舐め回すような視線をユーシャの全身に送る。「すごくいいよ」

「ど、どうも」なんなんだ、このひと。ユーシャは半ば呆然としながら
魔法使いに助け舟を求めるような視線を送る
(彼女は微笑みながら視線を返してくれただけだった)と、
お母さんはなにかを思い出したように「あ」と言った。
「私はこの子のお母さんだよ。で、こっちのおじさんがお父さん。よろしく、お兄さん」


「よ、よろしく」とユーシャは言った。「ほんとうに泊まっていっていいの?」

「いいよ」

「おじさんは何も聞いてないみたいだけど」
ユーシャがおじさんに申し訳なさそうに視線を送ると、おじさんは弱々しく微笑んだ。

「いいの」とお母さんは言う。「私がいいって言ってるんだからいいのよ」

「僕に有無をいう権利はないんだ」とおじさんは言った。
「だからと言ってきみを追い払ったりはしないよ。ぜひ泊まっていってくれ。
僕もきみの事がなんだか気に入ったからね。
僕も昔は旅をしたもんだよ。いろいろ話を聞きたいな」

「ちなみに言っておくと、きみらの分のベッドはひとつしかないよ。それでも構わない?」

「構わない。ありがとう」

「わたしもお兄さんお姉さんといっしょに寝る」と少女は言った。

「邪魔しちゃだめだよ」とお母さんは言う。
「ふたりの間にあんたが入り込めるような隙間はないよ。今日は私たちと寝よう」
そしてユーシャと魔法使いへ交互に視線を送り、
「夜はできるだけ静かにしてくれよ」と言って笑った。
背中を叩かれた。けっこう痛かった。



その後は五人でテーブルを囲んで、夕食を取った。
夕食はなにかの肉と収穫された野菜を煮込んだ簡単な料理だったが、
ユーシャと魔法使いはそれがとても気に入った。
味もそうだが、なにより温かかった。身体に染みこんでいくようだった。

食事中はおじさん――あらためお父さんとお母さんが
いろいろな質問をふたりにぶつけてきた。
できるだけ答えるようにはしたが、お母さんからはときどき際どい疑問が飛んでくる。
そういうとき、魔法使いは顔を伏せる。
顔が赤くなってるからだろうな、とユーシャは思った。

その魔法使いを見てお母さんは満足そうに笑う。
そのお母さんを見てお父さんは笑う。少女はずっと笑っている。
楽しそうな家だ。うちはどうだっただろう、とユーシャはぼんやりと思う。
家には母も父もいなかったけど、祖母が居た。でも今は家には誰もいない。
すこし寂しかった。魔法使いがいてほんとうに良かった、と思う。

「僕も昔は旅をしていたんだ」とお父さんは上機嫌で言う。「懐かしいなあ」
お父さんは二〇代の頃この村に辿り着いて、お母さんを見つけたと言った。
それからこの村に住むようになったらしい。
「だからきみの気持ちはなんとなくわかる気がする」


食事を終えて、魔法使いは少女といっしょに風呂に向かった。
ユーシャはお父さんと向かい合うように座りながら、ぼんやりと天井を見つめていた。

もうすぐ旅は終わるんだ、と彼は思う。終わったらどこへ行こうか?
村に帰るべきなのだろうか。俺を待ってるひとはいないけれども、
あいつを待っているひとはいるはずだ。

でも、故郷の村に住むのはあまり気が進まない。
どこか静かな場所で、ふたりだけで生きていきたい。
なににも脅かされることなく、静かに深く愛し合えるような場所。
どこにそんな場所があるのだろう? あいつはどう思っているんだろう?

「どうした少年」とお母さんが隣の椅子に座って言った。
「愛しのあの子がいないから寂しいのかい?」

「うん」とユーシャは天井を見つめたまま答えた。

「あらあら」とお母さんは満足げに言った。「たまらないね」


「旅が終わったら、どこに行くかを考えてたんだ」とユーシャは訂正した。

「村に帰らないの?」

「帰るかもしれないけど、そこに住みたくはないかな」

「どうして?」お母さんはわざとらしく目を丸くする。

「ふたりだけで過ごしたいんだ。怪物も人間も、
俺たち以外には誰もいないような場所で、できることなら、ずっといっしょに」

「でも、どこならふたりだけで過ごせるかがわからない?」

「そう。それにあいつは村に帰りたいと思ってるかもしれない」

「でもきみは帰りたくない」

「あんまり」


「あの子が村に帰るって言ったら、きみがあの子をかっさらって
どこかに連れてってやればいいじゃないの。きみの好きな場所に。
あの子も心の底では、それを望んでるんじゃないかな。
たぶん、あの子もきみも同じことを思ってるよ」

「同じこと」とユーシャは反復する。

「そう、同じこと。“ふたりだけで過ごしたい”」

「どうなんだろう。ほんとうにそうなのかな」ユーシャはため息を吐き出す。

「訊いてみればいい」とお母さんは言う。「ベッドの上で」

お父さんは静かに頷いた。「できるだけ静かにね」





ベッドがあるのはちいさな部屋だった。
どうやら使われていない部屋らしく、机や椅子、棚は埃をかぶっている。
魔法使いはベッドに身を埋め、ユーシャはベッドの隣に椅子を引っ張ってきて座る。

静かな夜だ。風もほとんどない。しかし依然として空気は冷たい。
部屋は夜の暗闇に飲まれかけているが、
背後の窓から眩さを感じる月光が射している。
振り向いてガラス越しに空を見上げると、綺麗に球を描く月の輪郭が見える。
星はほとんど覗えない。

「旅が終わったらさ、どこか行きたい場所ないか?」とユーシャは訊ねる。

魔法使いはすこし考えてから、「一度村に帰りたいかな」と言った。

「そっか……。そうだよな」

「帰りたくないの?」と魔法使いは訊ねる。

「べつに帰りたくないってことはないけど、あそこに住むのはちょっと嫌かな」


「ふうん」魔法使いはユーシャの目を覗きこむ。
「あんたはどこか行きたい場所あるの?」

「静かな場所」とユーシャは答えた。
「お前が隣に居て、俺たち以外に誰もいないような場所。ふたりきりで過ごしたい」

「そっか」魔法使いは満足げな笑みを浮かべた。
「じゃあ、わたしもそこに行きたいな」

「ありがとう」

「連れてってね」

「うん。約束する」

「私たちは静かな場所で、いっしょに暮らす。ぜったいにね」

「わかってるって」

「好き」

「うん、いきなりどうした?」


「たぶん一度も言ってなかったと思う。好きって」

「うん。たぶん一度も言われてないし、俺も一度も言ってないと思う」

「言って。わたしにも聞かせて」

「好き」

「もう一回」

「好き。愛してる」

「わたしも好き。愛してる。ねえ、こっちに来て。すごく寒いの」

「俺も寒いからそっちに行きたかったところなんだ」

「キス」

「うん」

「もっと」

「ん」


「胸、さわって。服の上からじゃなくて、直に」

「ちっちゃい」

「ちっちゃいのは嫌い?」

「ううん、俺は好きだよ。すごくいいと思う」

「よかった。ねえ、なんで腰引いてるの?」

「あたっちゃうから」

「あててもいいのよ」

「じゃあ失礼します」

「かたい」

「やわらかい」


「そのままこすりつけてもいいし、挿れてもいいのよ。
出したいならぜんぶわたしの中に出してもいい」

「うん」

「手がいいのなら手で、足がいいのなら足で、口がいいのなら口でしてあげる。
好きなように言って。わたしはあんたのものなんだから、なんでもするわ」

「そ、そんなふうに言われると……」

「おおきくなった。出したい?」

「すごく出したいかも」

「どうやって出したいの?」

「中に挿れて出したいかも」

「いいのよ。きて。ぜんぶ頂戴。わたしもほしい」

「でも、あんまり大きな声は出しちゃだめだぞ」

「できるだけ我慢はするけど、ぜったいに大きな声を出さないって約束はできない」

「そういうところが好き」

「わたしも好き。大好き」





「わたしもいっしょに寝たかったなあ」と少女は頬をふくらませて言った。

「だめだよ」とお母さんはなだめるように言う。

「どうして?」

「エッチなことをするからに決まってるじゃない」

「おいおい」とお父さんは言った。

「そうなの?」

「間違いないね」とお母さんは言った。「間違いないよ」

「ふうん。お兄さんがお姉さんのおっぱいをさわったりするの?」

「こらこら」とお父さんは言った。


「もちろん。裸で抱き合ったり、うんと長いキスをしたりもするよ」

「じゃあやめとこう」と少女は言った。「明日の朝にもっとお話する」

「諦めがいいね。なんというか、さすがは私の娘だ。
でもまあ、そうだよね。あんたにはあの子たちがいるもんね」

「エッチなことはしないよ」

「でも好き?」

「うん」

「どっちが好き?」

少女は照れ隠しに笑みを浮かべて言う。「うーん。わたしはね――」


22


「わたしはね――」僧侶は幼さを感じさせる口調で言う。
「ほんとうはこんなところにいるはずじゃなかったの」

目の前のひとつ眼の怪物は攻撃を止めて、
彼女の口から紡がれる言葉へ嬉しそうに耳を傾ける。

もう彼女の吐き出したい言葉を止めるものはなにもなかった。
それは誰かに聴かせるような口調ではなく、
ただ昂った感情をぶつけるような暴力的なものだった。
誰かに聞いてもらう必要はない。ただ吐き出したい。ただ叫びたかった。

彼女は言う。
「わたしは彼といっしょに、故郷の村で平和に暮らしているはずだったの」

“彼”というのは僕のことなのか、それともあいつのことなのだろうか。
ただわかるのは、彼女が思い描く幻想の中では、
ふたりのうちの片方は必要とされていないということだ。
そう考えると、自分が彼女の求めている人間ではないという気がしてたまらない。
勇者は思う。“自分は必要とされていない。彼女の求めている人間ではない”


彼女は消えた炎の形を思い返している。
はっきりとした輪郭を捉えることはできないが、それはたしかに大きくて温かかった。
そしてなによりも強い。でもその炎は消えた。彼女を照らすものはなにもなくなった。
勇者は彼女の炎ではなかった。

「わたしはどうしてこんなところにいるんだろう? わたしが悪いのかな」
彼女はなにかを見ながら言った。あるいはなにも見ていなかったのかもしれない。

間接的に責められているような気分に陥る。
きっと彼女は無意識のうちに僕に言っているのだろう、と勇者は思った。

“僕が勇者として選ばれたことにより、
彼女の道は大きく歪んだ”と勇者は自身に言い聞かせる。
彼女の道は歪み、あいつの道は途切れた。付いてくると言ったのはあいつと彼女だが、
だからといって自分だけが責められるのは理不尽だとはどうしても言えなかった。

“だって、彼女はなにも悪く無い。弱い勇者が悪いんだ。
ひと一人すら救えない、きみが。あの時、きみが死ぬべきだったんだ。
それなら彼も彼女も想いを実らせて、幸せになれたんだよ”と影は言う。
“どうしてあいつじゃなくて、きみが彼女の隣を歩いてるんだろう?
それは僕にはわからないし、きみにもわからない。僕たちにはなにもわからない”

“きみは悪くないんだよ。悪いひとは誰もいない”と彼女の影は言った。


「答えてよ」と彼女は中空を見て言う。「どうしてわたしはここにいるの?」

沈黙。

「答えてよ」と彼女はもう一度言った。

ほぼ同時に、地面から二本の炎――溶岩の槍を出現させた。
槍のように見えたそれは、視界に現れたとほとんど同時に頭を垂れる。
そして吹き出した溶岩は、意思を持った生物――
まるで蛇に見える――のようにうねり、怪物に襲いかかる。

怪物は巨大な腕に残された四本の指で地面を弾いて跳び上がった。
炎の蛇は怪物を追って曲がり、怪物の背中から生えた大きな手を焼いた。
怪物の絶叫が響く。
しかし致命傷は免れたらしく、腕は軽い火傷で済んだらしい。
皮膚が爛れただけだった。食欲を削ぐ香りが鼻腔を突く。


怪物はこちらに視線とひらいた手を向けて落下してくる。
どうやら落下のエネルギーを利用して、こちらを潰してしまおうという算段らしい。
ばかなんじゃないかと勇者は思う。剣を構え、怪物の眼を睨む。
怪物の眼はぎらぎらと怪しい光を放っている。痒いほどには殺意が伝わってくる。

怪物との距離が数メートルになったとき、勇者は軽いステップで数メートル後退する。
呪文を唱え、先ほどまで立っていた場所から氷の槍を生やす。
それは怪物の大きな手のひらを貫く。怪物は絶叫し、その場で悶える。

「お前、ばかなんじゃないか?」と思わず勇者は言い、跳び上がる。

怪物は返事をせずに、ただ絶叫する。聞こえていないのかもしれない。
勇者は落下とともに、踏みつけるように剣へ力を込め、
ふたたび怪物の指を一本切り落とした。

同時に僧侶が宙に大きな氷の刃を作り出す。
蜘蛛の巣で見た大きな剣くらいの大きさだ。男性成人の身長ほどはある。
彼女が手を鳴らすと、それはギロチンのように勢いよく振り下ろされ、
怪物の指を一本、綺麗に切断する。

切断面からは得体のしれない黄色い液体と血が噴き出す。
それらは土に染み込み、黒ずんだ模様を作り出す。
汚い絵のようだ。気品の欠片も感じられない。糞と同じだ。


「あと二本だ」と僧侶は花占いでもしてるみたいに言った。
怪物の指はあと二本。六本の指は両方の外側の一本ずつになった。
大きな眼や焼け爛れた皮膚と相まって、ひどくアンバランスな見た目だ。
怪物的な怪物だ。

彼女は続けて言う。「ねえ。魔王はこの先にいるんだよね?」

「いるさ」と怪物は耳障りな声で答える。どこか恐怖が滲んだ声だ。
「北の大陸の果てに廃村がある。かつては金鉱があって栄えた村だ。
その金鉱に、表へ続く門がある」

「表」と勇者は反復する。

「そう。こっちが裏で、向こうが表」

「ゴーストタウンのゴールドマイン。そこに表へ続く“門”がある」と僧侶は言う。
「ずいぶんべらべらと喋ってくれるんだね」

「俺は、お前の仲間だからな」と怪物は笑いをこらえながら言った。


僧侶は怪物の言葉を無視して、「北の大陸にはひとが住んでたんだ?」と訊ねる。

「大昔はな」と怪物は答える。「でも、いまは北の果ての廃村に人間がいるぜ。
ひとりだけな。だいたい七年前から、ずっとあそこに居座っている」

「ふうん。今もひとがいるんだ」

「そいつはいまも村の真ん中の石に座って、
凍えそうになりながら門が開くのを待ってる。
ここからでもよく見える。人間のくせに、七年も待ってるだぜ?
ばかみたいだ。勇者が来ないと門は開かないのになあ?」

「そうなんだ。目がいいんだね」と僧侶は言った。

「なんでも見えるさ」怪物は東に目を向けて言う。
「お前達は知らないんだろうが、三日ほど前から
東の大陸と南の大陸の間で、二体の巨大な怪物が闘っているんだぜ」

「ほんとうに?」と勇者は訝しむように言い、東に目を向ける。
勇者にはなにも捉えることはできなかった。


「大きな影がふたつある。見えないけどわかるよ」と僧侶は南東を向いて言う。
「三角形みたいな影と、丸い影。真っ黒な山と月みたいだ」

「分かるだろう? さすがだよ。やっぱりお前と俺は似てるんだ」

「そうかもね」僧侶は怪物に向き直る。「で、あれはなんなの?」

「神様だよ」と怪物は言った。「お前達が愛して止まない怪物さ」

「なに? 神様って言ったように聞こえたんだけど」

「そうさ。神様だよ」と怪物は笑いをこらえて言う。
「神が魔王に操られて、人間の所持物になってたってんだから、笑うしかないよなあ」





東の大陸と南の大陸の中間に広がる海で、二体の巨大な怪物がぶつかっていた。

一方は竜の頭を持つ巨大な魚。
それは数日前まで、東の大陸の近海の底で眠っていた。

もう一方は大きな山のような身体を持つ竜、あるいは竜の頭を持つ山。
それは数日前まで、南の大陸の地形のひとつとして眠っていた。
どちらも体長は八〇〇メートル近くある。

巨大な魚は全身をびっしりと黒光りする鱗で覆われている。
爬虫類の皮膚を彷彿させる鱗には無数のちいさな穴が開いていて、
その中には魚群が屯している。しかし、魚の群れに見えるそれも、もちろん怪物だった。

それらは自身が魔術で作り上げた水の球体の中を泳いでいる。
水の球体は宙に浮いていて、直径は巨大な魚の二、三倍はある。
ひとつのちいさな星のような印象を受ける。

怪物がちいさな星の中を泳ぐその姿は優雅にも見えるし、
吐き気を催すほどの不快感を撒き散らしているようにも見える。
見るものによって捉え方は変わってくる。


山のように巨大な身体を持つ竜は、海底を薙ぎ払いながらゆっくりと前進する。
そこらに張り巡らせた根からエネルギーを吸い上げ、それを生きるための力にしている。
しかし進むためには根を引きぬかなければならない。
その根は町や森の深部で、複雑に絡まっている。
南の第一王国と、その隣に広がる大きな森が、身体の一部になってしまっているのだ。

山のように巨大な身体を持つ竜が歩くたびに、南の大陸の地形が変化していく。
轟音と共に大地の崩壊が起き、ちいさないきものたちが
踏みにじられるように生涯に幕を下ろす。
たくさんのちいさな舞台上で演じられていたそれぞれの生き様は、
ドミノ倒しみたいに次々と終幕していく。
その中には人間だっているかもしれないし、怪物だっているかもしれない。
しかし大きな眼で見ると、どちらも小さないきものであることに変わりはない。

二体の怪物、あるいは神様がぶつかるたびに、
町ひとつを飲み込んでしまうような波が起きる。
その怪物どもは、あるものには邪悪な姿に映り、あるものには神々しいものに映る。
神々は見るものによって映る姿を変える。神は純粋で完全な意思の塊なのだ。

勇者と僧侶は、もちろんそんなことを知る由はなかった。





「どういうことだ?」と勇者は訊ねる。
神様が魔王に操られて、人間の所持物になってた?

「そのままの意味さ」と怪物は楽しくて仕方がないみたいに言う。
「神が魔王に操られた。でもあの餓鬼は結局、“表”に神は必要ないと言った。
だから人間に“贈り物”として神を渡してやった。人間は大いに喜んださ。
でも人間は大事なことを知らなかったんだな。
あいつら、自分たちが神を操れると本気で思い込んでたんだ」

「操れないから、今その神様は暴れてるのか?
今までなにもなかったのに、どうして今?」

「操られてるんだよ」と怪物は言った。

「なにを言ってるの?」僧侶は言う。「操れないんじゃなかったの?」

「お前達も知っているだろ」

「なにを?」

「呪術だよ」と怪物は嬉しそうに言った。


「呪術」と勇者はつぶやいた。

誰かの声が頭の中に響く。

“「ところで、呪術ってなんなんだ?」

「魔術よりも強大な魔法みたいなものです。
大破壊を実行したり、ひとを蘇生させたり、
怪物を意のままに操る術などがあったそうです。
第二王国はそれが怖かったのでしょう」”
それは懐かしい、ふたつの声だった。戦士と、魔術の村の少女の声だ。

怪物は笑う。「呪術なんてもの、人間ごときに扱える術じゃないのにな。
でも中には無数の犠牲を払ってまで、完全にはコントロール出来ないような
強大な力を手に入れたいと思う輩がいるんだ。欲深いってのは恐ろしいもんだよ。
王っていきものは、力こそが正義だと思ってやがるんだ。嫌いじゃないけどな」

怪物の言葉を無視し、僧侶が「で、その神様たちは誰に操られてるの?」と訊ねる。

「お前達の大好きな東の国王様と、南の第二王国の王だよ」と怪物は答える。

東の王国と第二王国が怪物を操っている。勇者の背筋に冷たいものが這う。

東の王国は“怪物”を操る呪術を手に入れた。
遅れて第二王国も“怪物”を操る呪術を手に入れた。
そして第二王国がその術が他国に知れるのを恐れて、呪術の村の人間を一掃した?
第二王国は、自分たちだけが強大な力を手に入れたと思い込んだ?

だから呪術の村は滅んだ?


「どうしてそのふたりは、神様たちを操って闘ってるの?」

「私利私欲のために決まってるだろうが」怪物は声を上げて笑った。

勇者は怪物の耳障りな声に顔を顰めながら、
「神様って、結局なんなんだ?」と訊ねる。

「そんなものはお前達の頭の中にしかいないんだよ」と怪物は言った。
「あれは俺たちと同じ怪物だ! なにが神様だ! ばかじゃねえの!」

「よくわかった」と僧侶は言う。
「もういいよ。聞きたいことはある程度聞けたから殺す」


彼女はふたたび溶岩の蛇を地面から召喚し、真っ直ぐ怪物の眼に突進させた。
怪物は咄嗟に巨大な手で地面を弾き、後退する。
追撃するように溶岩は眼に突き進む。勇者もあとに続く。

数メートル離れたところで怪物は後退を止め、溶岩の蛇に向けて手を構える。
どろどろとした蛇が巨大な手のひらの皮を焼き始めるほどに接近したとき、
怪物は地面を弾いて跳び上がった。
緩やかなアーチを描き、そのままこちらに向かってくるのが見える。
溶岩の蛇は土を焦がして消え去る。残るのは焦げ臭い匂いだけだ。

怪物は勇者の数メートル手前に、土埃を撒き上げて着地する。
こいつは、いったいなにがしたいんだ?
勇者は剣を握り締めながら半ば呆れ、半ば不安でいた。
なにか勝算があってこんな意味のない動きをしているのだろうか?
それとも、こいつはただの阿呆なのだろうか? わからない。


勇者は正面の巨大な眼球目掛けて、剣を振るう。
怪物が瞼を下ろして、それをガードする。

剣と瞼がぶつかると、ぼん、と間抜けな音がなった。
手が痺れるような、鈍い痛みが手を覆う。
木の棒でゴムを叩いたような感触だった。
相当ぶ厚い瞼らしい。剣が弾かれてしまった。

ほんとうにこれは皮膚なのだろうか、と思う。
しかし、怪物の身体の構造など知るはずもない。べつに知りたくもない。
今はすこし自分の状況が不利になったということに視点を置くべきだ。

怪物は勇者が体勢を崩しかけているその隙を突いて、巨大な腕を振り下ろす。
しかしその攻撃は、脇から四五度ほどの角度で発生した氷の壁に阻まれてしまう。
彼女の魔術だ。鋭さと攻撃性を備えた、今の彼女の魔術だ。
それは生物の息の根を止めるのには最適なものだが、守るための力にもなり得る。

ぱん、とちいさく音が鳴った。
勇者の背後で、彼女が手を鳴らしたのだ。すぐにわかった。
それは彼女が魔術を扱う際、いつもなにかしらのアクションを起こす時の合図だ。

勇者はそのなにかしらのアクションに備え、目を細める。
その瞬間、勇者にぶ厚い“膜”が張られ、
勇者と怪物を隔てていた氷の壁は勢いよく砕け散った。
砕けた氷は無数の礫となって、敵味方構わず襲いかかる。

しかし勇者には膜が張られている。
氷の礫が飛んでこようと、刃の雨が降ってこようと、彼女の張る膜は壊れない。
それは彼女の決意のようなものであり、勇者が彼女に置く信頼のようでもある。


勇者は怪物が氷で怯んでいる隙に跳び上がり、眼球の天辺を思い切り踏みつける。
眼球は大きく凹んだ。しかし手応えはあまりない。
今度は体重をかけて、勢いよく剣を突き刺す。
剣は半分ほど眼球に刺さる。今度は手応えがあった。
なにかの繊維を引き裂いているような感触が、手をひらを舐め回すように覆う。

その攻撃はかなり効果的だったらしく、怪物は奇妙な声で絶叫する。
何重にも重なった異常な音だ。赤ん坊の鳴き声から、怪物の断末魔のような声、
金属同士を擦り合わせたような不快音、息を吐くような音など、
様々な音が混ざり合い、ひとつの奇妙な声として怪物のどこかから吐き出される。

勇者は思わず顔を顰める。
そして脳天に突き刺さった剣を寸分の躊躇いもなく、力任せに蹴った。
ほとんど垂直に刺さっていた剣はすこし傾いた。その分の眼球は抉ったはずだ。

怪物は絶叫を続ける。
耳を劈くような轟音に耐え切れず、勇者は怪物と距離を置くように逃げる。


「あなた、威勢がいい割にはすごく弱いのね」僧侶が言う。
「だからこんなところに追い払われたんじゃないの?
うるさいくせに大したことはできないから。誰にも必要とされないって悲しいよね」

怪物は身体を小刻みに震わせながら僧侶を睨めつける。
剣が突き刺さっても、眼はまだ機能しているらしい。

彼女は続ける。「わたしはなにも間違ってない。あなたは不必要なんだよ。
表でも裏でも。わかる? いてもいなくても変わらないの。わたしと同じだ」

「……そうだな」怪物は弱々しい声で答えた。
「七〇〇年も独りだと、何回かそういうことを考える時間はあったな。
でもべつにいいじゃねえか。やりたいようにやればいいだろうが。
遠くを眺めて、通りかかった人間にちょっかいかけて、
返り討ちにあって死ねばいいじゃねえか。

もううんざりなんだ。やるならさっさとやってくれよ。もう死にてえよ。
それとも俺は、また生き残っちまうのか?」

「いきなり弱気になったね。こんなふうに言われると、
すこし殺すのをためらっちゃうよね。……なんというか」
彼女はそこで言葉を区切り、すこし考えてから、「人間みたいだ」と言った。


「人間も怪物も根っこの部分は変わらないさ。
根っこには破壊衝動があって、食欲や性欲があって、平穏への願望がある」

「でも例外はいる」彼女は怪物に憐れむような目を向ける。「わたしみたいに」

「その通り」怪物は笑う。
「命の炎を消すことをためらわないやつだっている」

「わたしみたいにね」と彼女は言い、
怪物の眼球を地面から発生した氷の槍で貫いた。
氷の槍を伝って、血が地面に流れ落ちていく。
血だまりは長い時間をかけて、ゆっくりと拡大していく。

彼女はちいさく手を鳴らす。
氷の槍は内側から破裂し、怪物の大きな眼球を吹き飛ばした。
肉片と血、よくわからない黄色い液体や
細い管のようなものが、地面に模様を作り上げる。
それは迷宮のように見える。汚れた彼女が歩く道のような、不吉なものだ。


勇者は怪物の亡骸に歩み寄り、
赤黒い血だまりの中に沈もうとしていた剣を拾い上げる。
振り返って彼女の姿を見る。
彼女は返り血で真っ赤だった。目が虚ろで、血まみれの自分を眺めている。

やがて視線を上げ、勇者の視線に気付く。
それは彼女にとっては、悪夢に引きずり込まれるような光景だった。
“『彼』が今のわたしを見ている”。その事実は彼女の目からあらゆる色を奪う。
彼女はその場にへたり込んで、手で顔を覆った。

なにかを言ってあげるべきなんだ。血まみれの剣を握って、勇者は考える。
言ってあげるべきことはたくさんある。
でも、なにから伝えればいい? どうしたら僕の言葉が届く?

剣から滴る血が、血だまりに波紋を生み出す音だけが耳に響く。
風はほとんどなく、陽は地平線と同化する寸前だ。
目の前の凄惨な光景は、夜に飲まれようとしている。


やがて彼女は口を開く。「ねえ」その声はすこし震えていた。

「なに?」と勇者は優しい声で答えた。

「今のわたしが何に見える?」と彼女は手で顔を覆ったまま訊ねる。

「僕の大事なひと」と勇者は答えた。「きみは、きみ以外の何ものでもない」

「これでも? 血まみれになっても、躊躇いなく怪物を殺しても、
……きみのことを愛していないって言っても、
きみはわたしのことを大事だと思ってるの?」


「もちろん。……きみの根っこにはたしかに
そういう部分があるのかもしれないけど、僕はそれでも君のことが好きだ。
きみは優しくて強い。ぜんぶひっくるめて僕は君のことを愛してる。

なにかを壊したいなら僕の手でも腕でも足でも目でも
鼻でも耳でも、なんでも壊してくれていい。
きみは嫌がるかもしれないけど、これだけは知っていてほしい。
僕はずっときみの味方だよ」

「ありがとう……」

「僕とあいつは、ずっときみの味方だ」

「うん……」

「いてもいなくても変わらないなんてことはない。
誰にも必要とされていないなんてことはない。僕にはきみが必要なんだ」

彼女は何も答えなかった。


“でもべつにいいじゃねえか。やりたいようにやればいいだろうが。
遠くを眺めて、通りかかった人間にちょっかいかけて、
返り討ちにあって死ねばいいじゃねえか。
もううんざりなんだ。やるならさっさとやってくれよ。もう死にてえよ”と影が言う。

“でも、ただでは死なないさ。覚えておくといいぜ、勇者様。
化け物ってのはな、最期まで何をするかわからないもんなんだ”


怪物の亡骸はあまりにも貧相な二本の脚でのろのろと立ち上がり、
大きな手を勢いよく彼女の頭上に振りかざす。
それは見えない糸で操られているかのように不自然な動きだった。

勇者は自分の目を疑った。あれは、まだ死んでいない?
彼女は自分がどのような状況に置かれているのかに気付いていない。
自分がこれからどうなるのかもわかっていないし、
今の勇者がどんなふうに彼女を見ているのかも知らない。

勇者は彼女の名前を呼び、絶叫に近い声をあげる。
僧侶はゆっくりと顔をあげる。涙と鼻水でしわくちゃになった顔で、勇者を見据える。
そして自分のへたり込んでいる場所に影が落ちていることに気付く。
彼女は視線を上げる。きっと彼女の目に映ったのは、大きな手だっただろう。
指が二本しかない、不格好な巨大な手だ。救いの手ではなかった。

勇者は跳ねるように怪物に向かって突進した。
彼女は救いを求めるように、勇者の方に手を伸ばす。


しかし、巨大な手は振り下ろされた。彼女の身体に、莫大な圧力が伸し掛かる。
彼女の身体は苦痛を感じる間もほとんどなく呆気無く潰れ、
肉片と血を辺りにまき散らした。長い臓器が地面を這い、
髪の毛のこびりついたピンク色の肉が勇者の顔目掛けて飛んでくる。

彼女の鮮血が地面を染める。それは地面に咲いた花のように見えた。
とても綺麗な花だ。この瞬間のためだけに彼女は生まれてきて、
そして死んでいくのだと思わせるような、圧倒的なものだ。

ただ、その場には不釣り合いなものが残っている。
勇者に向かって伸ばされた手だけが、そのままの形で残っているのだ。
細い指に鋭い爪、それを引き立たせるような真っ白な肌。
肘の辺りで捩じ切れたそれが、彼女の身体の一部であったとは思えない。
あの血の花が彼女で、これは――これは、いったいなんだ?

良い意味でも悪い意味でも、それは夢のような光景だった。
しかし、勇者に向けて伸ばされたその手だけが、いやに現実味を帯びていた

続く


23


東の王国から大陸北端に向かう途中で小さな村に立ち寄ったユーシャ達は、
村の少年少女に別れを告げて(もちろん少女のお母さんとお父さんにも言った)、
さらに北上を続ける。とは言っても、その小さな村はこの東の大陸のかなり北の方に
位置しているので、北の大陸は目と鼻の先と言ってもいいほどだ。

小さな村から数十日歩いたところで、巨大な塔が眼前に姿を見せる。
東の大陸の北端にある塔だ。
円筒状に積まれた灰色の石が、曇り空に向かって屹立している。
石はところどころに亀裂が入っていたり、割れていたりしている。
相当な時間ここに立っているのだろうと思う。
なにしろ御伽噺に登場するほどなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。

川の真ん中に置き去りにされ、激流に身を削られた岩のように、その塔は風化している。
時間の流れに置き去りにされ、風雨に曝され身をすり減らし続けたそれは、
吹きすさぶ冷たい風で倒れてしまうのではないかと思うほどの頼りなさだ。
どれだけ見上げても、扉や窓は見当たらない。


「これが塔?」ユーシャは目を細めながら塔を見上げて言った。

「塔というよりは柱みたいね」と魔法使いは言った。
御伽噺というのは理に適ったものなのかもしれない、と危うく信じてしまいそうになる。
遠くで見るのとはずいぶんと違って見えるが、思い返してみると
結局この柱だか塔だかは空までは届いていないのだ。

塔を回り込むと、五〇〇メートルほど先に大きな石橋がある。
この辺りにある人工物はそれらくらいしか見当たらない。
あとは土がむき出しになった道と、
ぽつりぽつりと一定の間隔を開けて生える木しかない。

道はひとの手が加えられているのではないかと思うほどまっすぐだ。
障害と呼べるようなものは何もないが、それがかえって不気味だった。
その光景は、橋の向こうの何かが自分たちを呼んでいるような気分にさせてくれる。


「行こう」とユーシャは言って、隣に目を向ける。
しかし、さっきまでそこに居たはずの魔法使いの姿はない。
それどころか、辺りを見回しても彼女の姿は見当たらない。
彼女の名前を呼んでみても、返ってくる声はひとつもない。
もう一度名前を呼ぼうとしたとき、右頬に鈍い衝撃が走った。

痛みに顔を顰めて右に目を向けると、すぐ近くに魔法使いの姿があった。
どうなってるんだ? ユーシャは眉を顰めて魔法使いの顔を凝視する。
彼女の表情も似たようなものだった。それは理解不能なものを見るような表情だ。

「どうしたの、あんた。大丈夫?」と魔法使いは言った。
「ちょっとおかしいんじゃないの?」

「どこに行ってたんだよ」とユーシャは右頬をさすりながら言った。

「ずっとここに居たわよ」

「ほんとうに? 俺が見たときはいなかったぞ?
呼んでも返事してくれなかったし」

「したわよ。こんなに近くに居たのに、
あんたには聞こえてなかったみたいだけど。だから殴った」


なるほど。頬の痛みはこいつのパンチのせいか。
ユーシャはひとりで納得するように頷いた。でも納得できないことは、まだいくつかある。
考えても仕方ないということは今までの経験からなんとなく理解できていたので、
「どうなってるんだ?」と思ったことをそのまま口にした。どうなってるんだ?

「わたしが訊きたいわよ」と魔法使いはユーシャの頬に手を添えて言う。
「殴ったことは悪いと思ってる。でもあんた、ほんとうに大丈夫なの?」

「俺がおかしいのかな」とユーシャは頭を掻いて言う。わけがわからない。

「もしくはわたしがおかしいかのどちらかね」

「たぶん俺がおかしいんだろうな」とユーシャは言って、橋の方に目を向ける。
今度は数十メートル先に、小さな女の子の姿が見える。
栗色の長い髪を首の辺りで束ねて、ぶかぶかの黒いローブを着ている女の子だ。

歳は九歳だ、とユーシャは確信する。
それは八年前の魔法使いの姿とまったく同じだったからだ。
あれは九歳の頃の彼女だ。俺が九歳の頃に、
いっしょに図書館で本を読んでいたあいつだ。

「間違いなく俺がおかしい」とユーシャはその女の子を眺めて続ける。
「今度はそこに女の子が見える」


「女の子?」と魔法使いは訝しむようにいい、ユーシャの視線の先に目を向ける。
「誰も居ないじゃないの」

「よくわかった。俺がおかしいんだな」とユーシャは言った。
たぶん俺がおかしいんだろう。

「どんな女の子?」

「八年前の、九歳の頃のお前そのもの」

「あんたおかしいわ」と魔法使いは間髪入れずに言う。
「とりあえず今日はここで休みましょう」

「そうした方がいいかも」
ユーシャは頭を押さえてため息を吐く。吐いた息はいつもより熱い気がした。

それから彼は魔法使いに手を引かれて、塔の影になっている部分に向かい、
そこに腰を下ろす。彼女も隣に座る。

塔に凭れかかると、身が凍ってしまうような冷たさが背中を撫でた。
冷たい風が地面を転がる。それにはすこしだけ甘い匂いが混じっている。
頭がくらくらとするような匂いだ。いったい、なんの匂いなんだろう?
それは彼女の匂いとはまた違った甘さだった。
優しくて敵意のないものとは、すこし違う。


彼女はユーシャの肩に手を添えて言う。「ちょっとゆっくりすれば治るわよ。
きっと北の大陸が近いから、緊張してへんなものを見てるだけよ。幻覚ってやつ」

「幻覚」とユーシャは呟く。

「そう。幻覚よ」

「でも、お前の声も聞こえなくなってたみたいだし、どうなってるんだろう」

「心配しなくてもいい。見えなくなっても聞こえなくなっても、
わたしはここにいるから。あんたのすぐ隣に、ずっと」

「うん」

「それに、頬を殴れば治るみたいだし、幻覚なんて大したことはないわよ」
魔法使いは微笑みながら、拳をユーシャの頬に押し付けて言った。

「もう殴られたくはないな」とユーシャは苦笑いを浮かべて言った。

くだらない話を何時間も続けて、ふたりはたっぷり身体を休める。
そして夜の帳が辺りに下りる頃、それは現れた。





紺碧の空で、細長い月が地上に満遍なく弱い光を落としている。
星々は歌うように弱々しく点滅していて、
濃灰色の雲が風に煽られて、目に見える速さで流れていく。
頭の上にはどこまでも同じ景色が続いている。それはどこか淋しげな光景だった。

ユーシャは眼前の暗闇を睨みつける。
暗闇はユーシャを見つめ返し、いつか飲み込んでやろうと息を潜めている。
ぽつりぽつりと点在する木々の間に広がる巨大な闇は、底のない沼を思わせる。
それは手の届く位置にあって、踏み入れると
もう二度と戻ってくることができないような気にさせてくれる。

そしてそれは突然現れる。闇の中に、点滅する光の球が五つ現れた。
赤から黄色へ、黄色から緑へ、緑から青へ、青から紫へ、紫から赤へ、
それは次々と変色しながら、ゆっくりと、確実にこちらへ迫ってきている。

今度はまとわりつくような粘り気のある規則的な音が聞こえてくる。
ひとが歩いているような感じだ。ただ、足音がおかしい。肉を打ち付け合うような音だ。


「またへんなものが見える」とユーシャは座ったまま、
魔法使いに寄りかかって言った。「へんな音も聞こえる」

「わたしにも見えるし聞こえる」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ユーシャはバランスを崩して顔を地面に打ち付けそうになる。
なんとか持ちこたえて、立ち上がる。

「なにが見える?」とユーシャは訊ねた。
彼は自分の目に映っているものに、なんだか自信が持てなくなっていた。

「三年前の、一四歳の頃のあんた」と魔法使いは答えた。
「今度はわたしがおかしくなっちゃったみたい」

「俺には点滅するへんな光が見える」その光は確実に距離を詰めてきている。

「きっとそれが本物ね。今度はわたしがおかしくて、あんたがまともなんだと思う。
もしくはわたし達、どちらもおかしくなったとか」魔法使いは頭を押さえる。

ユーシャは夜の闇を通して光の球を見据える。
それは上下左右へ不規則に揺れながら、こちらに近づいてくる。
しばらくすると目が慣れて、彼はその光の球の正体を完全に捉える。

光の球の向こうに、歪な形をした生物が見えた。
しかし、その姿は今まで見聞きした数多くの生物と、ほとんど合致しない。
ほんとうに生きているのかと思うほどに、不気味な風貌だった。


それの体長は三メートルほどで、
巨大化したカエルのような身体を持っていた。
爬虫類特有のぬめぬめとした皮膚が、
点滅する光で照らされて不気味に光っている。

身体はカエルだが、頭はワニのように見える。あるいは竜のような。
どちらにしろ、掴んだものを離さないような顎と、
刃物のように鋭い歯を持っているものだ。

しかしその強靭な顎は下顎しかなく、
上顎があるはずの部分は綺麗な赤い肉がむき出しになっている。
そこからはミミズのように細い管が五本伸びている。
管の先端には眼球のような球体が付いていて、何色にも変色しながら発光している。
光の正体はあれか、とユーシャは剣を引き抜きながら思う。

その怪物はさらに近づいてくる。

細部を見せつけるように、ゆっくりと嫌な音を響かせて歩く。
怪物の前足はカエルのものではなく、カマキリの鎌のようだった。
背中には大量のイボがあって、隙間に小さな羽がある。
それはコウモリの羽のように見える。
羽ばたくたびに、肉が打ち付け合うような湿っぽい音が聞こえてくる。

後ろ足はカエルのもののままだ。ただ、かなり筋肉が発達しているようだ。
跳ねるとかなりの距離を滑空することができそうだ。
怪物はこちらと五〇メートルほどの距離を開けて立ち止まり、
五つの目をぐるぐると回転させる。


「お前にはなにが見える?」とユーシャは剣を握って訊ねる。

「さっきと同じ」と魔法使いは答えた。
「一四歳の頃のあんた。あんたにはなにが見えてるの?」

「すごく気持ち悪い怪物」

魔法使いは目を細めて、怪物を睨みつける。
彼女にはあれが、一四歳の頃のユーシャに見えているらしい。
「なにがどうなってるの?」と彼女は言った。

「幻覚ってやつ?」

「あんたの言う“すごく気持ち悪い怪物”がそうさせてるのかしら?」

「どうだろう」とユーシャは言い、
すこし間をあけて、「殴ったら治るかな?」と続ける。

「試してみて。思いっきり殴って頂戴。遠慮はいらない」

ユーシャはわりと力を込めて魔法使いの頬を殴った。「どう?」

「すごく痛い」と魔法使いは答えた。
「あとでお返しに鳩尾を蹴ってやるからそのときは覚悟しろこの阿呆が」


「遠慮はいらないって言ったじゃないか」

「ふつう女の顔を思いっきり殴る? 肩とかにしてくれればいいのに」

「ごめん」とユーシャは言う。「それで、どうなんだ?」

「見えるわね。“すごく気持ち悪い怪物”が。なんなの、あれ」
魔法使いは顔を顰めて言う。
「いろんな動物の身体のパーツを切り取って、
カエルにくっつけたみたい。合成獣ってやつかしら」

「合成獣」とユーシャは目の前の怪物を見て言った。

「キメラとも言うわね。御伽噺にもいたと思う」と魔法使いは補足する。
「でもそんなことはどうでもいい」


合成獣は喉から音の塊を吐き出した。
あらゆる動物の鳴き声を混ぜ合わせて、
その中にこの世に存在するありとあらゆる不快音をぶち込んだような音だ。
それは鳴き声とは呼べないような代物だ。
音が耳に響くというよりは、なにかの塊で頭を殴られるような感覚に陥る。
それは数十秒続く。

ユーシャと魔法使いは、それぞれ剣と杖を構える。
魔法使いは短く呪文を呟き、ふたりに魔術の障壁を纏わせる。
剣にも塗りたくるように壁を張る。

合成獣の音を吐く行為は唐突に終わる。
泣き叫んでいた子どもの首を切り落としたみたいにぴたりと止んだ。
怪物は発達した筋肉が付属した強靭な足で地面を力強く蹴る。
土埃を巻き上げ、放たれた矢のようにこちらにまっすぐ飛んでくる。


ユーシャは魔法使いの前に出て、剣を構える。
怪物はかなりの速度で向かってくるが、目で捉えられないということはない。

目を細めて狙いを付け、やがて怪物との距離がほとんどゼロになったとき、
そのぬめぬめとした胴体に向かって、
魔術の障壁が付与された剣で一閃をお見舞いする。
まったく手応えという手応えは感じなかったが、
怪物の身体は真っ二つに切断されて、冷たい地面に転げる。

赤い絵の具を薄めた水みたいな血が、宙に向かって噴水みたいに飛び出した。
それは趣味の悪いおもちゃの、趣味の悪い壊れ方みたいだった。
壊れてからも見るものを不快にさせるようなものだ。
なんだか、ばかにされているみたいに見える。

「なんだこいつ」とユーシャは眉を顰めて言った。

「なんだこいつは、わたしの台詞よ!」と魔法使いは怒鳴り、
「さっさと避けろ、ばか!」と続けてユーシャの横腹を蹴り飛ばした。


ユーシャはわけもわからないまま、脇腹に走る
鋭い痛みに従うように身体を折り曲げる。
視界には頭上を通過する巨大な影が映る。
それは紛れも無く、先ほど切り裂いたはずの怪物の姿だった。

ちらりと窺い見た怪物の手に該当する鎌はかなりの切れ味を持っているらしく、
ぎらぎらと不気味な光を放っていた。
カマキリのそれというよりは完全な刃物に近い。

怪物はユーシャと魔法使いの背後、
数十メートル先の地面に激突し、土埃を巻き上げる。

「どうなってるんだ?」
ユーシャはバランスを崩してその場に尻もちをついた。どうなってるんだ?

「幻覚」と魔法使いはつぶやいた。「多分、あいつはそういう力を持っているのよ」

「だったら、俺がさっき真っ二つにしたのは偽物?」


「あんたがなにを切ったのかは知らないけど」と魔法使いは言う。
「偽物というか、幻ね。わたしの目には、
あんたが空気を切ったようにしか見えなかった」

「俺は何も切ってないってことか?」

「そういうことね。わたしの頭がおかしくないのなら、そういうことになる」

「なるほど」とユーシャは言った。
あれは幻で、俺は何も切っていない。どうりで手応えがなかったわけだ。

「ほんとうにわかってるの?」

「わかってるよ」ユーシャは振り向いて、怪物を睨みつける。
「つまり俺たちは、今、すごく拙い立場にいるってことだろ」

魔法使いは横目で彼の顔を見てから、ため息を吐いて振り返る。
そして凄んだ目で怪物を睨みながら、
「そういうことでいい」とぶっきらぼうに言った。


怪物はふたりから数十メートル離れた場所で、
背中を地面にこすり付けるみたいにもがいていた。
その姿はマタタビを与えられた猫を思わせる。

なんでそんなに嬉しそうなんだ? とユーシャは思う。
もしかすると、また俺は幻覚を見てるのか?
それとも、あの怪物が幻覚を見ているとか?

時々、怪物の上顎があるはずの辺りから音が聞こえる。
それは牙獣の唸り声みたいな音だったり、
黒雲の向こうから聞こえる雷音のような音だったり、
巨大なカエルの、腹のそこにずしりと来る鳴き声のような音だったりした。
とにかく、低く重みを持った音だ。

やがて怪物は二本の足で器用に起き上がり、ユーシャたちに五つの目を向ける。
五つの目は発光する。それを合図にしたように、
怪物の頭上に五つの青い炎の球が現れた。握りこぶしくらいの大きさだ。

「呪術?」と魔法使いは目を丸くして言った。


「呪術?」とユーシャも眉を顰めて言った。「あの青い炎は呪術なのか?」

「わからない……。わたし達、ふたりとも幻覚を見ているのかもしれないわ。
でもあれが幻覚じゃないとしたら、呪術ってことになるけれど……」

「どうして?」

「青い炎はもっとも簡単な呪術のひとつなの」
魔法使いは呪術の村で読んだぶ厚い本の内容を思い出しながら、難しい顔をする。
「それでも術の使用者の身体にはかなりの負荷が掛かるわ。
多かれ少なかれ、文字通り命を削る攻撃になる。あれだけ高温の炎の塊を作るのに、
いったいどれだけのエネルギーが必要かというとね……って、
あんたに言ってもわからないか」

「わからん」

「素直でよろしい。とにかく、危ないから避けろってこと。
ぜったいに触っちゃだめよ。わかった?」

「わかった」


怪物はカエルの鳴き声のような低い音を辺りに響かせる。
直後に五つの青い火球はその場から矢のように、
こちらに向かって真っ直ぐに放たれた。
怪物はその場に留まっている。今度は犬やら狼やらの遠吠えのような音が聞こえた。

魔法使いは咄嗟に、先ほど張った魔術の障壁に上塗りするように、
さらに強力な魔術の障壁を自分たちに纏わせる。青い炎が、真っ直ぐ迫ってきている。
彼女はそれを避けるために地面を蹴って、左に跳ぶ。ユーシャは右へ跳んだ。
ふたりは怪物を睨めつけ、前へ出る。

五つの青い炎の球は減速し(それでもかなりの速度が出ている)、
やがてふたりが立っていた場所で停止した。
それはひとつになり、景色を歪め、破裂し、空気を揺らす。

ユーシャと魔法使いの背中に、高温の爆風が叩きつける。
障壁はその風によって剥がされる。
魔法使いはその威力に唖然としながらも、即座に、
もう一度ふたりに障壁を張り、怪物に向かって炎の槍を放った。


それを見た怪物は低く唸る。
すると、怪物の数メートル手前に泥水が噴き出した。
泥水は巨大な滝を思わせる勢いで吹き出てくる。滝の重力が反転したみたいに見える。
魔法使いの放った炎の槍はその泥水の壁に阻まれて消える。
泥水は噴き出すのを止め、すべて地面にぶちまけられた。残ったのは煙だけだ。

ユーシャは怪物との距離を詰めてから低く跳び、怪物の頭目掛けて剣を振り下ろす。
しかし、なにかに阻まれてしまう。それは見えない壁のようなものだった。
それには見覚えがある。魔術の障壁と同じだ、と彼は思う。

構わず剣に力を込めて障壁を壊そうと試みる。
障壁は雷のような、空間にひびが走るような、
そんな光を辺りにまき散らしながら紫色の光を帯びる。
ユーシャは力の限り、剣を押し付け続ける。

やがて障壁はぐにゃりと窪んだ。
それでも破れることはないし、剣が怪物に届くことはない。
障壁も、硬ければ硬いほど強いというわけではないのだ。
柔軟性も強さになる。そこには金属に通ずるところがある。


怪物はいかれたウサギみたいな声で笑い、強靭な脚で地面を蹴った。
ユーシャは怪物の頭突き(というよりは、ほとんど突進みたいなものだ)によって、
数メートル吹き飛ばされる。
怪物は透かさず五つの青い炎の球を出現させ、彼に向けて飛ばした。

ユーシャは地面を数メートル転がった後、即座に体勢を立て直し、怪物を見据える。
しかし、ほとんど目前まで青い炎は迫ってきている。
反射的に、その青い炎に向かって障壁が張られた剣を振るう。
剣と炎がぶつかったところで、そこを中心に
周囲の空気は球形に歪み、ちいさな爆発が起こる。

視界は青く染まる。高温の爆風により、
やはり自身に張られた魔術の障壁は簡単に剥がれてしまった。
腕の皮膚が焼ける。耐え難い熱が身体中を覆う。吸い込んだ息は肺を焼く。
咳き込んで息を吐き出したところで、なにかに腕を掴まれて背後に倒される。
背中に鈍い痛みが走る。地面はひんやりとしている。

「大丈夫?」と声が聞こえた。魔法使いの声だ。
彼女はユーシャの脇に屈みこんでいた。

「お前は?」と彼が訊くと、彼女は「わたしは大丈夫」と答えた。


「それならいいんだ」ユーシャはゆっくりと立ち上がる。

正面には頭を振りながら、相変わらず
いかれたウサギみたいな笑い声をまき散らす怪物が見える。

「ぜんぜんよくない」
魔法使いは仏頂面で癒やしの魔術を唱え、焼け爛れた彼の腕の皮や肉を治した。
火傷のあとはほとんど残らなかった。「幻覚じゃなかったのね」と彼女はつぶやく。

「みたいだな」とユーシャは言った。

魔法使いは呪文をつぶやく。ユーシャに張られていた障壁が再生する。
「無いよりはマシだと思う」と彼女は弱々しく微笑んだ。

魔術の障壁のことを言っているのだろう。
たしかに呪術を前にすると、無いよりはマシといった程度の耐久力だった。
彼女はもう一度、口をちいさく動かして呪文を詠唱する。
短い詠唱が終わるのと同時に、今度は彼女の両脇に四本の炎の槍が現れる。

怪物の笑い声は止む。今度はその場で子どもみたいに飛び跳ね始める。
それは楽しんでいるようにも、地団駄を踏みながら怒っているようにも見える。
上下に揺れる五つの球体が、また不気味な色に発光し始める。


魔法使いは杖で地面を軽く突いて四本の炎の槍を放つ。
それは怪物とは見当違いの方向へ飛び、底なし沼のような闇に飲み込まれて消える。
その隙に、怪物は地面を蹴ってこちらに向かって跳んでくる。
闇の中でも、鎌が鈍色の光を放っている。

なにをしているんだ? とユーシャは思った。
そしてすぐに彼女が幻覚を見ているということに思い当たる。
すぐに彼女の肩を殴る。

彼女はよろけてユーシャを睨んだ。「なに?」

「幻覚」とだけユーシャは言って、前に飛び出した。

魔法使いはもう一度、炎の槍を放った方向に目を向ける。
そこには夜の闇だけが蠢いている。彼女は頬を掻きながら、「なるほど」と言った。
なるほどね。わたしは幻覚を見ていたと、そういうわけか。なるほど。糞が。


前へ飛び出したユーシャ目掛けて、怪物は鎌を大きく振るう。
ユーシャはそれを躱して、ふたたび怪物の頭を狙って剣を振り下ろす。
しかし、それも先ほどと同じように障壁に阻まれてしまう。
急いで横に転がって、その場を離脱する。また頭突きを喰らうのはごめんだ。

魔法使いはそこへ、筒状の熱線を撃つ。太さは五メートルはあるように見える。
表面は波のようにうねっている。火炎放射ではなく、
水鉄砲から溶岩を打ち出したみたいな感じだ。

巨大な蛇を思わせるそれは地面を抉りながら、怪物の姿を飲み込んだ。
ユーシャは背中に熱を感じながら、その場から
走って遠ざかり、魔法使いの隣で立ち止まる。

「あたった?」と魔法使いは訊ねる。

「あたった」とユーシャは答えた。「すくなくとも俺にはあたったように見えた」

「あんたが幻覚を見ていないことを祈るわ」


熱線はだんだんと細くなり、消えた。怪物は先ほどと同じ位置に立っている。
今度はすこしダメージを与えられたようだ。
腹の辺りから黒い煙が空に立ち上っている。
表皮からはすこしだけ水分が失われているように見える。

「障壁は剥がれたみたいね」と魔法使いは言った。
「でも多分、あいつも急いで障壁を貼り直したから、大したダメージにはならなかった」

「なるほど」とユーシャは言った。

怪物は奇声を発しながら、後ろ足で地面を何度も踏みつける。
踏みつけられた部分を中心に、放射状に亀裂が走る。相当お怒りのようだ。

まもなく怪物は冷静さを取り戻したらしく、こちらに五つの目を向ける。
それらは多色に点滅する。

「あれね」魔法使いはとんがり帽子の鍔を掴んで目の前まで引っ張った。

「なにが」とユーシャは怪物を見たまま訊ねる。

「たぶん、あれが幻覚を見せてるのよ。あの光が、というか、あの球体が」

「どういうこと?」


「ぜんぶ推測だけど」と魔法使いは言う。
「あの球体が点滅した直後に、わたし達のどちらかが幻覚を見ているわ。
多分あの光が引き金なのよ。あの光を見ることで、わたし達は幻覚を見ちゃうのよ。
でも、同時にふたりに幻覚を見せることはできない」

「なるほど」とユーシャは言った。

言われてみると、たしかに幻覚を見たのは光の点滅の直後だった。
それに、ふたりは同時に幻覚を見ていないのもそうだ。
しかし、ひとつだけ気になることがある。

ユーシャは言う。「じゃあ、俺が最初に見た幻覚は、なんだったんだ?
あの、ちっちゃい頃のお前。あのときは怪物の姿は視界に入ってなかったのに……」

「言われてみるとそうね……」魔法使いは考えこむ。

しかし怪物は彼女の言葉を待たずに、こちらに突進してくる。
ユーシャは彼女を庇うように前に出る。
こいつの言うことがほんとうなら、俺は今、幻覚を見ているのかもしれない、と思う。
光の点滅を見てしまったからだ。

彼女は目を帽子の鍔で守ったが、ユーシャはそうではない。
むしろ直視してしまった。直視してから彼女は話し始めたのだ。
どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!


そこでユーシャは咄嗟に思い付いて、自分の腕を軽く切った。
鋭い痛みが腕に走る。傷口から熱い体液が滴る。それは脳に訴えかける。
視界にノイズが走り、幻覚から目は醒める。もう一度前を向く。

怪物はこちらに向かってきていなかった。
その場に身体を左右に震わせて、とどまっていた。
やはり幻覚を見ていたのだ。そしてそこからは痛みによって脱出することができる。

「どうしたの?」と魔法使いは不安げな顔をして言った。
それから呪文をつぶやき、ユーシャの腕の切り傷を治す。

「幻覚を見てた」とユーシャは言った。
「お前の言う通り、あの光が幻覚を見せてるんだと思う」

「そう」と魔法使いは言う。
「それで、あんたが最初に見た幻覚のことだけど、
そのときになにか変わったことはなかった?」

「変わったこと」とユーシャは反復し、回想する。
変わったこと……なにがあっただろうか?
幻覚を見て、こいつに連れられて塔の影に座った。
そしたら冷たい風が吹いて、甘い香りがして……

「そうだ」と彼は言う。
「へんな匂いがしたんだ。甘い匂いが。お前の匂いとはちょっと違う甘い匂い」


「……わたしの匂いは知らないけれど」と魔法使いは頬を赤らめて言う。
「それも幻覚を見せる引き金みたいなものなのかもしれないわね」

「かもしれない」

「ガスみたいなものなのかしら。だったら、
わたし達は障壁の中にいるから、それには気づかなかったのかも」

障壁といっても、それは壁――完全に隙間のない壁――というよりは、
フィルター――無数の目視が不可なほどの小さな穴が空いているフィルター――と
いったほうが適切なのかもしれない。つまりは不思議な壁だ、と魔法使いは思う。
魔術とはそういうものだ。

「なるほど」とユーシャは言った。
「じゃあ匂いは気にせず、あの光を見なけりゃいいわけだな」

「そう。それで、障壁を剥がして脚を落とせばいいのよ。
方法はどうであれ、わたしが障壁を剥がすから、
あんたが脚を落とす。もしくは心臓を貫く。
あとは煮るなり焼くなり、自由にすればいいわ。わかった?」

「わかった」とユーシャは頷く。「わかりやすくて助かるよ」


怪物の五つの目は点滅する。ユーシャは手で目を覆う。
魔法使いも帽子の鍔で目が隠れるようにする。
何かが破裂するような音が聞こえた。怪物が地面を蹴った音だ。
ユーシャは剣を構え、怪物を見据える。怪物はこちらに向かってくる。

幻覚を見破っても、怪物にはまだ強靭かつ柔軟な障壁がある。
まずはそれを破らないことにはどうにもならない。
それを破るのは彼女の破壊的で母性的な魔術に任せることにする。
だから今は彼女を守りながら、その為の隙を作る。

ユーシャは脇に転がって、突進を躱す。そして怪物を見据える。

しかし怪物は鎌を地面に突き刺して、
そこを中心に半円を描くようにして身体の向きを変え、
ふたたび地面を蹴ってこちらに突進してきた。ユーシャは急いで横に跳んだが、
躱しきれずに怪物の巨体にぶつかって弾き飛ばされた。

肩辺りに鈍く重い痛みが走る。地面を数メートル転がったが、すぐに体勢を立て直す。
いったいどうすれば隙を作ることができるだろう? とユーシャはぼんやりと思う。
答えを見出す間もなく怪物は五つの青い炎の球をこちらに放った。
そのとき、背後から五つの赤い炎の球が飛んできた。
青い炎と赤い炎はぶつかって相殺された。


魔法使いが怪物の周囲に氷の槍を発生させる。
それは檻のように怪物の動きを封じる。
しかしそれは仮設のものであり、大した拘束時間は期待できない。

ユーシャはもう一度怪物の方へ駆ける。怪物は氷の檻のなかに留まっている。
背後から、何かが地面にぶつかったような小さな音が聞こえた。
魔法使いが杖で地面を突いた音だ。

すぐさま身を屈めて、脇に数メートル転がった。
その瞬間に彼の背後から熱線が放たれる。

熱線はまっすぐに伸びた蛇のように、怪物の身体を飲み込んだ。
やがて熱線は徐々に炎の輝きを失いながら糸のように細くなり、途切れた。

怪物は何事もなかったかのようにその場に留まっているが、
身体からは黒煙が噴き出している。障壁は破れ、皮膚が焼けたのだ。
ユーシャにもそれを見て取ることができる。
破れた箇所の輪郭だけが、淡い緑の光を放っているのだ。
つまり、そこには攻撃が通る。


ユーシャは怪物に突進し、破損した箇所に剣を差し込んで、障壁を裂いた。
何かの動物の皮を切り裂いているような感触が手のひらに伝わってくる。

剣を捨てて両手を伸ばし、五つの目を頭から引き抜いて地面に投げつけた。
これで幻覚を見ることはないし、怪物の視界そのものを奪うことができた。
根っこから吹き出した血は視界を奪おうとしているのか、目に飛んでくる。

構わずユーシャは頭にあるむき出しの肉だか脳だかを殴りつけた。
また血が噴き出す。怪物は音の塊を吐き出す。また血が噴き出す。
これほど近くで絶叫されると、たまったものではない。
視界を奪う赤い血を拭い、ユーシャは剣を拾って逃げ出した。

怪物の障壁がゆっくりと再生していく。それは凍っていく湖を思わせる。
魔法使いは小さな炎の球を作り、そこから小指ほどの太さの熱線を隙間に撃った。
熱線は障壁の隙間から怪物の肉を抉って焼いて貫く。

怪物はまた鳴いて、地面を強く踏みつけた。
その瞬間、怪物の立っている地点を中心に地面へ亀裂が走り、
あちこちから泥水が吹き出した。

どれも壊れた噴水のように無造作に泥をまき散らす。
ユーシャには何もかもが汚れて見えた。
自分も怪物も水も地面も、すべて汚れている。
この世界に平和で綺麗な場所など存在しない、そんなことを思わせる光景だった。


「どう?」と魔法使いは彼に駆け寄って訊ねる。

「どうって、何が」とユーシャ。

「このまま押し切れそう?」

「いける」とユーシャは言った。「目を全部ちぎってやった」

「やるじゃないの」

「もうちょっとだ」


その場で暴れまわる怪物を見据え、地面を蹴って前に出る。
怪物は視界を奪われたことにより、パニック状態に陥っているようだ。
泥水に注意しながら怪物に接近する。
しかし怪物はそこで、大量の青い炎の球を自身の周囲に間配らせた。

ほとんど間もなく青い炎の球は怪物を中心に、
放射状に拡散するようにその場から射出された。

魔法使いは咄嗟に身を屈めて、転がるようにして
噴き出した泥水の裏に逃げ込み、「泥水の裏!」と叫んだ。
それを聞いたユーシャも噴き出した泥水の裏に転がりこんで、炎をやり過ごす。

怪物に向かって放たれた極太の熱線が見えた。急いで泥水の噴水から飛び出す。
熱線は先ほどと同じように細くなって消える。怪物からは黒煙が上る。
障壁は再生しようとするが、先ほどと同じように剣を隙間に引っ掛けて、振り下ろした。
驚くほど簡単に障壁は裂けた。紙を切っているような感覚だ。


裂けた隙間に剣を引っ掛け、さらに障壁を切り裂こうと力を込めた。
障壁は鋏で紙を切っているかのように
ぱっくりと口を広げ、やがて緑の光をばら撒いて砕けた。

すかさず脚に狙いを付け、剣を振った。
怪物の脚は大きな傷口を広げ、鮮血を噴き出した。
異臭が鼻腔を突き、耳元で絶叫が響く。
でも離れるわけにはいかない。これで終わらせる。

もう一度、今度は逆の脚を狙い、力の限り剣を振り下ろした。
皮膚を破る感触、繊維を引き裂く感触、骨を断つ感触、
それらは決して心地よい感覚ではない。
しかしその行為には慈悲も躊躇も恐怖もない。
冷たさと、静かな高揚が胸のなかに湧き上がるだけだ。

怪物の脚は付け根から切断され、重々しく血だまりのなかに落ちた。
傷口からは粘つく血と黄色い何かの筋が飛び出す。


怪物の絶叫は続く。背後から、小指ほどの太さの熱線が飛んできて、怪物の喉を貫く。
絶叫は止み、代わりに空気の漏れる、ひゅうひゅう、という音が聞こえてくる。
怪物は血だまりのなかに転げた。
血が跳ねて、そこらじゅうに不気味な赤い模様を作り出す。

ユーシャは怪物の腕の付け根に剣を刺して、そのまま肉を引き裂いた。
腕は落ちて、傷口から足元の血だまりにさらに血が注がれる。
今度は胸の辺りに剣を突き刺した。引き抜いて、もう一度刺す。
怪物はちいさく身を震わせて、足元の血だまりに波紋を生み出す。

やがて波紋は消えた。


ユーシャは怪物の亡骸から離れて座り込んだ。
あまり見たくない光景だったが、目を離すことが出来なかった。

冷たい夜風と静寂は平静を取り戻させる。間もなく吐き気が込み上げてくる。
そのまま胃の中身を地面にぶちまけた。吐き気が通り過ぎると手で顔を拭った。
手は真っ赤だった。力が抜けていく。身体が液体になっていってるみたいな感じだった。

顔を上げると、ゆっくりとこちらに歩いてくる魔法使いが見えた。
怯えたような表情を浮かべている。
いったい何を怯えているんだろう。俺があまりにも汚いから怖がってるのか?

魔法使いは隣に屈みこんで、背中をさすりながら「大丈夫?」と言った。
「お前は?」とユーシャは訊ねると、「わたしは大丈夫」と答えた。

「だったらいいんだ」

「よくない」と魔法使いは言った。「血まみれだけど、ほんとうに大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。俺の血じゃない」とユーシャは言った。

その直後に、また吐き気が込み上げてくる。
もう一度地面に胃の中身を吐き出した。魔法使いは背中をさすってくれた。


胃の中身が空っぽになると、「も、もう大丈夫……」とユーシャは言った。

「意外と繊細なのね」と魔法使いはすこし呆れて言った。

「あんな血の量は見たことない……」とユーシャは青い顔をして言った。

「わたしだってないわよ」

「よく平気でいられるな……」

「見なけりゃいいのに」魔法使いはユーシャに肩を貸して立ち上がった。
「さっさとここから離れましょう」

「そうしよう」魔法使いの肩に寄りかかって立ち上がる。
そのとき魔法使いの足元がすこしふらついた。

ユーシャは言う。「お前、ほんとうに大丈夫なのか?」

「大丈夫」と魔法使いは言って、弱々しく微笑んだ。「ちょっと疲れちゃったけど」


魔法使いの肩を借りて、塔に向かって歩く。冷たく汚れた空気を吸い込む。
それでもいくらか気分はマシになった。

ふたりは塔に凭れ掛かるように座り込んだ。
ひとつのマントにふたりで包まって、身を寄せあって暖をとる。
魔法使いはユーシャの顔を拭い、キスをした。それから指で瞼を下ろした。

「おやすみ」と耳元で囁く声がした。「あんたは昔よりも、ずっと強くなった」


24


僧侶をもの言わぬ肉塊に変貌させたひとつ眼の怪物の亡骸を跡形もなく切り裂いて、
呆然と座り込んでいた勇者は、やがて正気を取り戻し、
かつて僧侶だった肉片と骨片を拾い集める。辺りには夜の帳が降ってきていた。

彼女が羽織っていた血まみれのマントに彼女の欠片を包み、手で抱える。
とても軽いが、纏わりつくような湿り気がそこにはある。
彼女の生への執着が手を覆っているみたいな感覚だ。
そこにぬくもりは無い。彼は死を抱えている。
でも手の中にあるそれは紛れも無く彼女だった。

氷の槍で貫かれたみたいに、胸の真ん中にぽっかりと冷たい穴が開いている。
そこへ激しい喪失感と悲壮感、孤独感が同時に流れこんでくる。
それらは自己嫌悪や行き場のない怒りと混ざり合って、勇者の身体の内側で渦を巻く。

それでも涙が溢れるということはなかった。
憤怒の炎が身体を焼こうと、悲愴の氷が身体を貫こうと、
無感覚の空洞が胸の内側に生まれようと、
混沌の渦が生まれようと、涙だけは出てこなかった。
ただ吐き気だけが込み上げてくる。


勇者はうずくまって、胃の中身をすべて吐き出した。
空っぽになっても吐き気が襲いかかってくる。
乾いた咳を吐き出して、それをやり過ごす。

内臓でも何でもぶちまけてやりたい、と勇者は思う。
それで楽になれるなら、胃でも肺でも腸でも心臓でも、
なんでも地面へこぼしたっていい。

やがて勇者はうつろな目で立ち上がり、ゆっくりと歩み始める。
操り人形のようにぎこちない歩みで
目の前に架かっている石橋を踏み、前へ進む。
足元からは情の欠片もない冷たさが込み上げてくる。

ほんの一〇〇メートルほど歩いたところで、
ちらちらと視界に白いものが映り込み始める。
雪だ。それは散っていく花のように儚く艶やかであった。
僕もこんなふうに、誰かの記憶に残るくらい
綺麗に散っていけたらいいのに、と彼は漫然と思う。


歩きながら、彼女のことを想う。子供の頃の彼女、いっしょに旅をした彼女、
自分のことを愛してくれていなかった彼女、そして今の彼女――

身体を抉られるような感覚が全身にまとわり付いてくる。
手が痺れる。腕に伸し掛かる重みが増したようだ。
この手の中にある重みは、自分の犯した罪の重みのように感じられる。

救えたはずだった、と勇者は強く思う。
彼女はこんな目に遭わずに済んだはずだった。どうして救えなかったんだろう。
どうして救わなかったんだろう。僕が殺した。彼女もあいつも、僕が殺した。
どうして救えなかったんだろう。どうして救わなかったんだろう。

どうして僕は、未だに歩いているんだろう?


「きみが弱いからだよ」と勇者の隣を歩く少女は言った。「きみが弱いからだ」

「そう、きみと僕が弱いからだ」と影が言う。
「きみは立ち止まることができないほど弱い。
僕たちは許されない罪を犯し、それに背中を押されている」

勇者は隣を歩く少女に目を向ける。
首で切り揃えられた髪、肌色のマフラー、赤い手袋。
白い吐息と好対照をなすような赤い鼻と頬。

それは紛れも無く、過去の“彼女”の姿だった。
しかし、これといった感情は湧いてこなかった。
景色のひとつとしてそれを捉えることしかできなかった。

少女はマフラーで顔の下半分を隠して言う。
「きみの根っこにも、わたしと同じものがあるんだよ。
なにかを壊したいと思う、破壊的な衝動みたいなものが。
髪を切ったくらいじゃ失くならない。それは遺伝子に刻み込まれてるんだよ」

「そうだね」と影は言う。
「行き場の無い怒りを溜め込むことや、
誰かに恋焦がれるのと同じように、それは自分の身を焼くんだ。
でも吐き出すことでそれをコントロールすることができる。ある程度はね」


「わたしはきみと交わることで、すこしだけそれを和らげることができた」と
少女は、はずかしそうに頬を赤らめて言った。
「でもきみはどうだろう? きみはどうやってそれを吐き出すの?
わたしの中に吐き出すことは出来ないよ?」

「わからない」と勇者は言った。

「わからない」と少女は復唱する。
「きみはいつもそうだ。きみとわたしは、いつもそうだった」

影は言う。
「早いところ吐き出さないと、それは僕たちの身を焼き続けるんだ。
いずれはきみも僕のように真っ黒になってしまう。焼けたきみの身から立ち上る
煙のようなもの――それは行き場の無い破壊的な衝動とも言える――は、
自分に向かうことになるんだよ。それは間違いなく僕らを破滅に追い込む。
これは予言なんかじゃなく、規則なんだ。運命と同じだ。

絶望から自分で首をくくるようなものや、手首を切り裂くというような
自傷行為に興奮性を見出すものと、今のきみは何ら変わりないんだよ。
常識的な言い方をすると、きみは常軌を逸している。もちろん、僕もそうだ」

「でもきみには、常識という曖昧模糊とした言葉や定義のようなものが
何を指し示しているのか、それがわからない」と少女は言った。

勇者は頷く。


「僕にはなにもわからない」と影は言う。
「ただ、今の彼にはひとつだけ渇望することがある」

「それはなに?」

「自分自身の破滅」と勇者は答えた。

「死んで逃げるんだ?」と少女は言った。
「きみはわたしとあいつの死を無駄にするんだね」

「それは違う」と影は答える。
「これは――破壊的な衝動は、ぶつけるべき対象を見つけたときに巨大な力になる。
ちょうどきみがあのひとつ眼の怪物を惨たらしく葬り去った時のように。
それはとても自然な力だ。竜巻や雷、津波なんかと同じだ。
止められるものはいないし、始まればいずれは終わりが来る」

「それはとても素敵だね」

「そう。それは素晴らしい力にもなり得る。
心置きなく破壊を楽しむことができるんだ。それはまるで御伽噺の――」


影の言葉にかぶさるように、「なあ」と勇者は白い吐息を吐き出して言う。
「さわっていいかな」

「わたしを?」と少女は言った。

勇者は頷く。「きみにふれたいんだ」

「いいよ。どこでもさわって。さわれるものならね」

勇者は片方の手で彼女だったものを抱え、もう片方の手を少女へ伸ばす。
でも少女に触れることはできない。霧に手を伸ばしているのと同じだ。
彼女は実体を持たない幻影や幽霊のように、こちらから干渉することはできない。

「きみはいったい何なんだ?」と勇者は訊ねる。


「わたしはわたしだよ」と少女は答えた。
「ねえ、きみは今もわたしのことを愛してる?」

「もちろん」

「その手に抱えている“それ”も愛してる?」

「愛してる」

「よかった」と少女は言う。「わたしはきみのことが好きだったよ」

「今は?」

「今は、きみのことを愛してる。きみはわたしを救ってくれたんだよ」

「救ってはいないよ」

「容れ物を救えなくても、きみはわたしの心を救った。
わたしの中の怪物を迷わず受け入れてくれた。それはとても難しいこと」

「わからない」

「それでもいいんだよ」と少女は言う。
「きみがわたしを救ったってことを知ってくれていればいい」

「……わかった」


「じゃあね」少女は手を振りながら勇者から遠ざかっていく。「ありがとう」

「愛してる」と勇者は言った。
「行かないで……戻ってきてよ……。もうすこしだけここにいてほしい……。
今度はちゃんと守るから、もう一度だけ僕と歩いてほしいんだ……」

「わたしはずっときみの内側にいるよ。きみが望めば、
わたし達はいつでも出会うことができる」と少女は言った。
そして、「わたしも愛してるよ」と言い残すと、彼女の身体は
パズルのピースがひとつずつ欠けていくように、ゆっくりと分解されて消えていった。

彼女はいなくなった。その事実が勇者の足を止める。
腕には非情な冷たさがのしかかってくる。
自分が不甲斐ないせいで、彼女の炎を消してしまった。
でも、失われた灯火は、内側に微かな熱を残していった。
それは黒い渦の中心に居座ることになる。


「死ぬな、歩け」と影は言う。
「きみの光は失われていない。
ちゃんと目を開けて、自分の周りをよく見てみるんだ。
あの女の子は幻影だ。彼女の紡いだ言葉は、
すべてきみの頭の中で思い描いた幻想でしかない。

いいか? 彼女は死んで、もう二度と戻ってこない。きみは独りなんだ。
彼女が死の間際に何を思っていたかなんて、僕たちには永遠にわからない。

長い夜が始まる。
それは海の底のように暗い、覚めることのない悪夢みたいな夜だ。
でも、僕らはそれに耐え切ることができるはずだ。

次に太陽を拝むとき、きっと僕らはまたひとつになれる。
きみは弱い僕のことを嫌っているのかもしれないけど、
もともと僕らはひとつだったわけだ。
僕らはあるべき姿に戻るべきなんだよ。そしたら、ゼロからやり直すんだ。
もう失うものも、僕らを脅かすものも、なにも失くなるんだ。
勇者なんて重荷を捨てて、僕らは文字通りのゼロになるわけだ。

さあ、いこうぜ。きみが灯りをともして、その長い夜を終わらせるんだ。
きみの崩壊が終わってしまう前に」

続く


25


橋の果てには、雪と針葉樹と沈黙に閉ざされた世界があった。
柔らかみを持った雪には足跡ひとつない。
足元の白銀と対を成すように、空は暗雲に覆われている。

橋を渡りきったユーシャと魔法使いは
刻みつけるように雪を踏み、北の大陸に入り込んだ。

「すごい」とユーシャは白い息を吐いて嬉しげに言う。
「これぜんぶ雪なのか?」

「みたいね」と魔法使いは言った。

故郷の村にも雪はちらほら降ることがあったが、
ここまでの積雪を見るのは初めての事だった。
内側に静かな高揚が湧き上がるのを感じる。
空気は無慈悲とも言いたくなるほど冷たく、とても澄んでいた。
それはここに人間がいないからなのかもしれない、と思った。

生物の発する悪意は空気を汚す。でもここに悪意はない。
純粋で穢れのない清らかな空気が漂っている。
空気が美味いと感じるのは初めての事だった。

「さあ、さっさと行きましょう」

「うん」ユーシャはうなずく。「どっちに?」


周囲には雪と木があるだけで、道と呼べるようなものはない。
ここには白と茶と緑しかない。とてもシンプルで分かりやすいが、
その光景は退屈であるとも言えるかもしれない。

「西よ」と魔法使いは言い、歩き始める。

北の大陸は東西に細長い形をしており、今いるのは東の端のほうだ。
目指すとすれば、それは大陸の中央か、北端だ。魔法使いはそう確信していた。

ユーシャは魔法使いの隣を歩く。
魔法使いの鼻と頬はりんごみたいに赤く、吐く息は雪のように白い。
俺もこんな感じなのだろうか、と思う。


西へ向かう。雪の上を歩くのは骨の折れる作業だった。
最初の頃は景色や音や感触を楽しめていたが、二、三時間もすれば嫌になってくる。
代わり映えしないというのはやはり退屈だった。進んでいるという実感がない。

ところどころに、動物や怪物の影が見えた。
犬や狼のような、全身を毛で覆われたものだ。
こちらに気付くことはあっても、襲い掛かってくるということはない。
ここに悪意はない。
ただ、純粋な食欲が彼らを突き動かした場合は襲われるかもしれない。

十時間ほど歩いたところで、凍りついたテントのような施設を発見した。
空は相変わらず暗雲に覆われていて、いまが昼なのか夜なのかは不明だが、
とりあえずその日はそこで身体を休めることにした。

テントのなかは決して広いとはいえなかった。
ふたりが横になれば足の踏み場はなくなる。
それでも冷たい風を凌げるのなら十分といえる設備だ。

北の大陸はあまりにも寒すぎるのだ。
ここの環境は人間が生きていくのには適さない。
まるで人間を拒絶するような冷たい空気が大気には漂っている。
しかしそこにも悪意はない。


魔法使いはテントのなかに座り込む。ユーシャも隣に座る。
テントのなかには小さな鉄の鍋とカンテラ、
火打ち石と腐った木の枝、それと鉄の容器に入った油がある。
それらは希薄ではあるが、生活感を漂わせている。

「ここにもひとがいたんだな」
ユーシャはカンテラを掴んで、しげしげと眺めながら言った。
「こんなに寒いってのに」

「多分、そのひと達はこの大陸を探検してたんじゃないかしら」と魔法使いは言う。
「テントも仮設みたいな感じだし、本格的な器具もない。
ここは探検途中の拠点のひとつなのかも」

「こんなところを探検してどうするつもりだったんだろう」

「こんなところだからこそ探検なんじゃないの。
未開の地なんて、もしかすると大量の鉱物が眠っているかもしれないし、
貴重な木や動物が生息しているかもしれない」


「なるほど」とユーシャはマントに包まって言う。「ご苦労なこった」

「たしかにね。わたしなら、頼まれてもこんなところには来ない」

「でも来てる」

「あんたが行くって言うから」

「ごめん」

「いいのよ」魔法使いはユーシャに凭れ掛かる。
「たとえあんたが付いてくるなって言っても、わたしは付いていくわ。
ぜったいに離れないからね」

「ありがとう」

ふたりはお互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
十七歳の身体はすぐに火照り、熱くなる。





翌日も同じように足跡を雪に刻みながら歩いた。
指先が凍ってしまいそうだったので、手を繋いで歩くことにする。
それでも寒いことには変わりはなかったが、気分的には楽になった。

しかしいつまで経っても代わり映えしない景色を見ていると不安になってくる。
どこまで歩いても空には黒雲があり、足もとに雪があり、
その間に雲を支えるように木が屹立している。

方向感覚が狂って、同じ所をぐるぐると回っているのではないかという不安に駆られる。
でもそんなことはなかったようで、しばらくすると森のような地帯は終わり、
雪原のように広々とした場所に出た。


その日も十時間近く歩いたところで、仮設のテントのようなものを発見した。
なかにあるものは小さな鉄鍋とカンテラ、火打ち石に油と、
昨日見つけたテントとほとんど変わらない。
ただ、この地点にはテントが五つほどあった。
どこのテントにも似たようなものしか転がっていなかった。

小さな鉄鍋に雪を詰め込んで、魔術で火を付けて溶かし沸騰させた。
それを胃に流し込む。白湯は身体全体に染み渡るようだった。
かつてこれほどまで白湯に感謝することはなかった、とユーシャは思う。

身体が温まると、湧き水のように空腹感が現れる。
袋の木の実はまだ十分に残っているが、
それではなかなか満たされない。立ち上がり、テントの外へ向かう。

「どこに行くの?」と魔法使いが背中に声をかける。

「外」とユーシャは言う。「何か動物を捕まえてくる」

「わたしも行くわ」魔法使いはあとに続いた。


外は夜よりも濃い闇に覆われているように思えた。
月も星もここを照らしてはくれない。

魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。
あまりの眩しさに、すこし目が眩む。でもすぐに慣れた。
ユーシャはゆっくりと歩き始める。魔法使いも隣に付いて歩く。

歩き始めて十五分ほどが経った。
その辺りで、魔法使いは真っ白なウザギを見つけた。
雪のように白い毛のなかに、赤く輝く目がぽつりと見える。
それは鉱山に眠る宝石を思わせる輝きだった。“欲しい”と思わせる光だ。

魔法使いは呪文をつぶやき、ウサギの足を氷の槍で貫いた。

「何かいたのか?」

「あっちにウサギがいた」と魔法使いは答える。
「あんたが捕ってきて。足止めはしておいたから」

「分かった」とユーシャは言って、魔法使いが指差した方向へ向かった。

蜘蛛やら爬虫類やらには容赦無い魔法使いだが、
ウサギや犬猫といった動物を前にするとそうはいかない。
小動物を愛おしむ心があるのだろうか。
でもそういうのはあいつらしいところだ、とユーシャは思う。
ウサギの皮を剥いで肉だけを焼いて差し出すと嬉しそうにするのもあいつらしいところだ。


足から血を滴らせていたウサギを捕まえて首の骨を折り、
魔法使いといっしょにテントに戻った。

テントの外でウサギの皮を剥いでいると、
塔の怪物の亡骸を思い出して、猛烈な吐き気に襲われる。
故郷の村でウサギやら熊やらの皮を剥いだことは何度もあったが、
それによって吐き気に苛まれるなんてことは一度もなかった。
いったい何がどうなってるんだ。俺はそんなに変わってしまったのだろうか?
たかが怪物一体の死体で。

胃の中身を吐き出して、咳き込んだ。
乾いた咳のあとに大きく息を吸い込むと、肺が凍りついてしまいそうだった。


咳を聞いた魔法使いはテントから出てきた。
こちらに駆け寄って背中をさすりながら、「大丈夫?」と言う。

「もう大丈夫」とユーシャは咳き込んで言う。「ちょっと思い出しただけだよ」

「塔の怪物?」

「そう」ユーシャはウサギだった肉塊を眺めながら言う。
「あいつとこいつ、何が違うんだろうな」


ウサギの解体が終わると、その肉を焼いて、噛みしめるように食べた。
久しぶりの肉は非常に美味だったが、完全な満腹感や満足感を得ることは出来なかった。
噛みちぎりにくい筋のようなものが、心のどこかに居座っている。
それをなかなか砕いて飲み込めない。

ふたりは再び、お互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
ユーシャは魔法使いの寝顔を見つめる。口元には笑みが浮かんでいる。
力が漲ってくるのを、ひしひしと皮膚の下に感じた。そしてひとつの決心をした。





そのようにして何十日も経った頃、ようやく景色に変化が現れた。

その日は吹雪だった。視界は決して良好とは言えず、足もとの雪も深みを増していた。
しかし、遠くに目を向けると、微かに大きな影のようなものが見える。
それは今までに見た仮設テントのようなシルエットではなく、もっと大きなものだ。
雲の切れ間から射す微かな陽光のような小さな希望が、胸の辺りを熱くする。

さらに近寄ってみると、それははっきりと目で捉えられるようになった。
木造の家屋だ。数はひとつやふたつではなく、十数はある。
家屋が並んでいるという光景は小さな村を思わせる。

ただ、家屋以外には何も見当たらない。
村というよりは、雪と木に囲まれた牢獄のように見える。
それでもそこに向かわないという考えはなかった。


ユーシャは魔法使いと身体を引きずるように歩き、木造の家屋の前に立つ。
どこにも光は灯っていないし、窓を覗きこんでもひとの気配はない。
迷わずドアを押して転がるようになかに入って、急いでドアを閉めた。
強い雪と風が窓とドアを叩く音が響く。
外からは、べつの世界から吹いてきたような風の唸り声が聞こえる。

「助かった……」とユーシャは誰に言うわけでもなくこぼした。

「寒すぎて死にそう」魔法使いはマントにへばりついた雪を手で払った。

目の前の廊下を渡る。足元の木がしなり、軋んだ音を吐く。
廊下を渡りきった先には小さな部屋があった。
まず目に飛び込んできたのは、正面にある火のついていない暖炉だった。
前には何かの動物の皮が敷かれている。熊か何かの剥製だろう。
魔法使いは早足でそこへ向かい、隣に転がっていた薪を暖炉に投げ込んで火を付けた。

柔らかな光が部屋を覆う。改めて部屋を見渡すと、荒れているというのがよく分かった。
床は血が染み込んだように黒ずんでいて、家具はほとんど床に倒れている。
隅には白い石のようなものが見えた。その脇には破損したひとの頭骨が転がっていた。
今更そんなことは気にならない。暖炉に向かって歩く。


魔法使いは暖炉の前に腰を下ろした。ユーシャも隣に座る。
しばらくはぱちぱちと音をたてる薪と炎を見つめた。頭がぼうっとしてくる。
疲れが噴き出したようで、身体が重みを増した。
それは魔法使いも同じようで、彼女は肩に頭を載せてきた。

「あったかい」と魔法使いは炎を見つめたまま言う。

ユーシャは黙って魔法使いに寄りかかった。
何かを言おうと思っても、うまく言葉で伝えることができない。
頭がまわっていない、と思う。疲れと安心感で、脳は眠りにつこうとしている。

「眠いの?」と魔法使いは訊ねる。

ユーシャは黙ってうなずく。そのまま魔法使いに覆いかぶさるようにして微睡んだ。





翌日は、昨晩の吹雪が嘘だったみたいに止んでいた。
ただ、空には依然として黒々とした雲が漂っている。
ドアを開き外に出て、深い雪を踏む。
ちいさく息を吸い込んで吐き出す。そして辺りを見渡す。

木造の家屋は円を描くように並んでいて、
円の中心にはひとがひとり座れるほどの大きさの岩がぽつりとある。
歩きまわって家のなかを覗きこんでみても、ひとは一人もいない。
見た目は村なのだが、中身は廃村やゴーストタウンと呼ばれるようなものだ。

その中心の石からすこし北に進んだところからは、ほぼ垂直の壁のようになっている。
どうやらこの先は山になっているらしい。ここから北には向かうことはできない。
そしてそのほぼ垂直の壁には、縦横の幅が五メートルほどの洞窟が見える。

洞窟のなかに足を踏み入れる。
気温の変化はほとんどなかったが、何か異質な空気を感じた。
思わず足を止めた。とても嫌な空気だ。


「どうしたの?」魔法使いは魔術の光をともした。

「なんか、すごく嫌な空気だ」とユーシャは言った。
「胸がむかむかして、気分が悪くなるような空気」

「戻ろうか?」

「いいや」ユーシャは歩く。「ちょっとだけ探検していこう」

洞窟はまっすぐ伸びていた。
両脇には炎の灯っていないカンテラやらランタンやらが、等間隔で吊るされている。
足元には二本のレールが敷かれていて、まっすぐ奥に伸びている。

しばらく歩くと、ひっくり返ったトロッコがあった。
脇には錆びたツルハシやスコップ、バケツなどが転がっていて、
それらに混じって、また人骨が転がっていた。

ここは何かの発掘現場とか、鉱山だったのだろうか。
しかし何らかの異常が起こったことにより、ひとが死んだ?
ほんとうのことは何もわからない。


「なんだか、すごいところね」と魔法使いは言う。

「そうかな」

「うん。エネルギーに満ちてるわ、この洞窟。
もしかすると、たくさんの金があるのかも」

「金?」

「そう。前にも言ったじゃないの。金は魔術の威力を増幅させたりするって」

「言ってたっけ?」

「言ってなかったっけ?」

魔法使いは回想する。言った。間違いなく。
ただ、ユーシャには言っていなかったような気がしてきた。
もしかすると、大剣使いに言ったんだったか。自信が失くなってくる。

「もしかすると、言ってなかったかも」と魔法使いは言った。


途中に細い脇道がいくつもあったが、まっすぐ歩いた。
十数分歩いたところで、行き止まりに突き当たる。

そこには切れ目があった。岩肌にではなく、空間を縦に裂くような切れ目が入っている。
切れ目は地面から一メートルほどの高さにあり、切れ目の大きさも一メートルほどだ。
それを中心に、周囲のさらに一メートルほどの空間が歪んで見える。
まるで見えない炎がそこにあるかのようだった。

魔法使いは訝しげにそれを凝視するが、
ユーシャにはそれが何なのか、すぐにぴんと来た。
鼓動が早くなり、皮膚が焼けるような感覚に襲われる。
吸い込んだ空気は、とても邪悪なもののように思える。

ユーシャは言う。「“門”だ」


「“門”?」魔法使いはユーシャの顔を見てから、もう一度それを見る。
「これが? どうして分かるの?」

「分からないけど、分かるんだ」

「なにそれ。直感ってこと?」

「勇者の直感だ」

「なにそれ」魔法使いは呆れた。

「間違いない」とユーシャは真剣な眼差しで“門”を見据える。
「あの向こうに魔王がいて、俺はそこに行かなきゃだめなんだ」

魔法使いユーシャの目や雰囲気に思わず気圧される。
今までに見たことがない面だった。
それは魔法使いを不安にさせ、すこし恐怖させる。
「……ほんとうにあれが“門”なのね?」

ユーシャはうなずく。

「どうするの?」と魔法使いはそわそわと訊く。

「一度戻ろう」ユーシャは踵を返す。「準備がいるんだ」

「準備って、どんな?」


「心の準備とか」とユーシャは言う。「まあ、他はあとで言うよ」

心のなかで、心に決めたことを確認する。
ほんとうに実行するのか? ほんとうに耐え切れるのか?
ほんとうに魔王を倒すことができるのか?

できる、と強く思う。もう決めたことだ。そのことに揺るぎはない。
身体のなかの湖には氷が張っている。
それは硬い決意のようなものだ。さざなみや波紋の揺らぎはない。

全てが終われば、元に戻るんだ。その時はもう一度、ゼロから始めるんだ。
ユーシャは自分に言い聞かせる。
だからそれまで、すこし離ればなれになるだけだ。ただ、それだけのことだ。





暖炉の家に戻ってきた。
魔法使いは暖炉に火をともし、その前に座り込む。ユーシャも隣に座る。
しばらくはどちらも黙りこんでいた。
沈黙を埋めるようにぱちぱちと薪は弾け、空気を温める。

やがてユーシャは魔法使いと向かい合い、口を開く。「聞いてほしいことがある」

「嫌よ」と魔法使いはユーシャの目を見て言った。「そんなのぜったいに認めない」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「言わなくても分かるのよ。どうせ自分ひとりで“門”をくぐろうとか思ってるんでしょ?」

ユーシャは何度かまばたきをして言う。「ばれてた?」

「あんたのことは何でも分かるわよ」

「すごい」


「すごい、じゃないわよ。どうしてひとりで行こうとするの? 前に言ったはずよ。
“わたしを頼れ”って。“あんたが隣にいないと嫌”って」

「俺もお前が隣にいないと嫌だけど、でもさ、それ以上に、
お前に危ない目に遭ってほしくないんだ」

「今更何を言ってるのよ。もう散々危ない目には遭ったわよ」

「でも今回だけは今までの比じゃない。向こうには何があるか分からない。
何も分からないんだ。もしかすると、ほんとうに死んじまうかもしれない」

「だからこそわたしも一緒に行くんじゃないの。
それに、あんたが死んだらわたしも死ぬわ」

ユーシャは魔法使いの目を睨みつける。
「お願いだから、簡単に死ぬだなんて言わないでくれ」


魔法使いはユーシャを睨み返す。
「“簡単に”? ほんとうにそう思ってるの? あんたには分からないの?
あんたが居なくなるってのが、わたしにとってどういう事なのかが」

「俺はいなくならない」

「結果的には帰ってくるって事でしょう? あんたはどこかに行く。
それは一時的であれ、わたしの前からあんたが消えるってこと。
時間の問題じゃない。長いとか短いとか、そういうのじゃなくて、
あんたがここに、わたしの側にいないと何の意味もないの。
そうでないと、わたしはわたしじゃなくなるの」

「でも、門の向こうで死んだらそんなことも言ってられない」

「あんたがひとりで門をくぐって、向こうで死んだらどうするのよ。
じゃあ、たとえばわたしがひとりで門をくぐるって言ったら、あんたはどうするの?」

「そんなことぜったいにさせない」

「それと同じよ。わたしもあんたがひとりで門をくぐるなんて、
そんなことはぜったいにさせない」


「俺は死なないよ」

「当たり前よ」

「すぐに戻ってくる」

「だったらわたしもいっしょに行く」

「だめだ」

「どうして?」魔法使いは立ち上がって、声を張り上げた。
「どうしてひとりで行くだなんて言うのよ?
あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから、もっとわたしを頼りなさいよ……。
どうしてわたしを置いていこうとするのよ……」


「たしかに俺はひとりじゃあ何もできないけど、魔王を倒すことだけはできる」
ユーシャは立ち上がって、魔法使いの目をもう一度覗き込む。
彼女の瞳には水晶のような純粋な輝きがある。その輝きは感情の波で揺れる。

「何を根拠に言ってるのよ」

「勇者の直感」

「そんなの信じない」

「じゃあ、お前は向こうで俺が死ぬと思ってるのか?」

「そうよ。わたしがいないと、あんたは向こうで死ぬわ」

「何を根拠に言ってるんだ」

「魔法使いの直感」

ユーシャは笑った。「真面目なのかふざけてるのか、分からないよ」

魔法使いはユーシャの頬を打って、震える声で言う。
「ふざけないで……。わたしは大真面目よ」


「俺は死なない」

「分かってる。さっきも聞いた」

「信じてくれ」

「信じてるわよ。だからあんたもわたしを信じなさいよ。
いっしょに行っても死なないって」

「分かってる。お前は死なない。でも怪我をするかもしれない」

「怪我くらい、今更なんだっていうのよ。傷が残っても、べつに誰も気にしないわ」

「向こうには何があるか分からないんだぞ。
傷どころか、手や足が失くなったらどうするんだ」

「そっくりそのまま返すわ。それに、わたしはべつに手足が失くなってもいい。
あんたが隣に居れば何でもいい。
あいつも言ってたじゃないの、“生きて歩いていればどうにでもなる”って」

「だから、簡単に手足が失くなってもいいだなんて言わないでくれ。
俺はお前に、そんな目に遭ってほしくないんだ」


「わたしだってあんたがひとりでそんな目に遭ってほしくないの。
さっきからずっと言ってるわ。
だいたい、癒やしの魔術も使えないのにどうやって戦うつもりなの?
無傷で帰ってこられると思ってるの?」

「無傷で帰ってこられるとは思ってないよ。
もしかすると、手足が失くなることもあるかもしれない。
でも俺は生きて帰ってくる。それは絶対だ。
生きて歩いてさえいればどうにでもなるんだろ?
俺はお前が隣にいて、生きて、歩いていればいいんだ」

「だから、わたしだってそうだってさっき言ったでしょ? どうして分からないの?」

「分かってる」

「分かってない。それとも何、わたしが嫌いなの? どうしても離れたいの?」

「そんなわけないだろ。俺はお前のことが好きで、離れたくもない」

「だったら、どうしてひとりで行くだなんて言うのよ……」
魔法使いの目から大きなしずくが落ちる。


「……それは、俺だってひとりは嫌だし怖いけど、
お前が嫌な目に遭うのはもっと怖いんだ」

「何よ、それ。結局、自分を守りたいだけなのね……」

ユーシャは何も言えない。魔法使いに言われて気がついた。
結局、彼女を置いていくのは
自分が傷つかないための口実でしかなかったのかもしれない。

「結局、逃げてるだけじゃないの……。
わたしを守りきれる自信がないから、置いて行きたいのね……。
あんたが弱いからわたしが傷を負って、それを見るのが嫌なんでしょ……。
あんたは重たくてつまんない責任感を背負いたくないだけなのよ……。
そうよ、あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから……。
わたしを守りきることもできないのよ……」

何も言うことができない。
喉に粘り気のあるものが込み上げる。胸に熱い何かが詰まる。
たしかに、彼女の言うとおりだ。自分ひとりでは誰も守れやしない。
魔法使いの傷ついた姿を見たくないとは
思っていたが、その理由など考えもしなかった。

ほんとうに彼女の言うような理由で、俺はこいつを置いていこうとしたのだろうか?
自分の深いところにあるのは、結局は
誰かへの想いではなく、自己防衛の考えなのだろうか?

違う、と何かが言った。


「うそつき」魔法使いはユーシャの身体に手をまわす。
「わたしを守るって言ってくれたのに……。
どこにも行かないでほしいって言ってくれたのに……。
ずっと昔に約束したのに……
ずっといっしょにいるって、あの丘の木にふたりで書いたのに……」

「ごめん」心に張った氷にはさざなみや波紋ほどの揺らぎもない。
決心は揺るがない。「もう決めたんだ」

「うそつき……」

「……それでも構わない」

「あんたなんか嫌いよ……」

「……うん」

「大嫌い……」

「……」

「あんたなんかもう、死んじゃえばいいのよ……」

「……お前が俺のことを嫌いでも、俺はずっと」

「そんなの聞きたくない……」


ユーシャは魔法使いを抱き寄せる。「ぜったいに戻ってくる。すぐに戻ってくる」

「嘘。だってあんたはうそつきなんだもの……。もう信じない……」

「ちょっと離れたところに行くだけだよ。戻ってきたら、ずっと一緒だって」

「嫌よ……今からずっと一緒に居たい……」

「ちょっとだけ我慢してくれ」

「嫌……やっとこうしていられるようになったのに……どうして……」

「帰ってきたらさ、もう一回こうやってほしい。“ぎゅっ”てやつ」

「何度だってするから、ひとりで行くだなんて言わないで……」

「帰ってきたら、お前のお願いをひとつ聞くよ」

「そんなのいらないから、ひとりで行かないで……」


「……明日の朝、ひとりで“門”をくぐる。お前はここで待っててほしい。
べつにここじゃなくても、故郷の村でも、どこだっていい。
俺はぜったいにお前のとこに戻ってくる」

「そんなことできっこないわ……」

「できる。ぜったいにできる」

「何を根拠に言ってるのよ……」

「愛してるから」

「そんなの理由にならないわよ……」

「でも俺の隣にはお前がいて、お前の隣には俺がいるようになってるんだ。
そうしないことには何も始まらないだろ。だから俺は戻ってくる」

「むちゃくちゃよ……。もういい」


魔法使いはユーシャを押し倒した。床の木は軋んだ音を鳴らす。
背中に鈍い衝撃が走った。が、それは大したことではなかった。

魔法使いはそのままユーシャの口を塞ぐ。口内に舌が入り込み、這いまわる。
魔法使いの頬から、冷たいしずくが落ちてくる。それは頬を濡らす。
しばらくすると魔法使いは唇から離れ、ユーシャに馬乗りになる。
そして大声で泣き叫んだ。それは芯を削り、抉ってくるような絶叫だった。

屋根を伝って生まれた大きなしずくのように、しょっぱい雫が唇の辺りに落ちてくる。
暖炉からの光が長い髪に遮られ、顔に影を作り出しているおかげで、
魔法使いの表情ははっきりとは見えない。

「今だけなんだ。これが終わったら俺たちはずっと一緒なんだ」と
ユーシャは言ったつもりだったが、声は出なかった。
喉に詰まった何かは声を消し、目頭を熱くさせ、頬を濡らす。


魔法使いはユーシャの胸に手を押し付けて言う。
「なんで、あんたが泣いてるのよ……」

「分からない」滲む視界に映る魔法使いを見る。
どんな表情をしているのかは分からない。
何も分からなくなってくる。「でも、すごく悲しい……」

「わたしだって悲しい……」魔法使いはもう一度ユーシャの口を塞ぐ。

舌が入り込んでくる。熱い舌は口内を力強く這いまわった。
またしばらくして魔法使いはキスを止めて、着ていた服を脱ぎ捨てた。
ユーシャも服を脱いで、魔法使いの身体を抱き寄せた。

「好きにして」と魔法使いは耳元で言った。「もう殺してくれたっていい……
勝手にすればいいわ……あんたなんかもう、どうにでもなっちゃえばいいのよ……」

ユーシャは黙って魔法使いの口を塞いだ。





魔法使いは目を開く。暖炉には炎が灯っている。周囲には散らばった服がある。
昨日の夜と変わったことはほとんどない。でもユーシャはここにいなかった。

手を伸ばしたところに、彼の残していったぬくもりと残り香がある。
乾いた唇を舐める。しょっぱくて苦かった。彼の唇の味は残っていない。

彼自信の匂いや汗の匂い、吐き出した精の匂いが胸に空洞を作り出す。
散らばった服を掴んで抱き寄せた。すこしだけ彼の匂いがした。とても落ち着く匂いだ。
でも彼はここにいない。
どれだけ身体が身体を、心が心を求めても、彼という存在はここにはいない。
それは、今だけはずっと遠い場所にある。それこそ、手の届かない場所にある。


服を着て立ち上がる。杖を掴んで、ゆっくりと外に出た。
外ではちらちらと雪が降っていた。
辺りに広がる雪には足跡が見えた。まっすぐと“門”のあった洞窟の方に伸びている。

白い呼気に身を包み、足跡を辿るように洞窟へ向かう。
足跡に歩幅を合わせてみる。彼の歩幅は広かった。
魔法使いは、そんなことさえ知らなかったんだな、と思った。
あいつのことなら何でも知ってると思ってたのになあ。

洞窟は真っ暗だった。日の光は殆ど無いし、カンテラにももちろん炎は灯っていない。
彼はひとりで、この真っ暗な道を通ったのだろう。きっと寂しかっただろうな。

魔術の光で辺りを照らし、歩く。足音が歪な形をした壁にぶつかって反響する。
それは自身がひとりであるということを強く感じさせる。
洞窟の壁が迫ってくるような息苦しさを覚える。
身体は冷え、ぬくもりを求め始める。わたしを助けて、と魔法使いは思う。
あんたこそがわたしを救うのに、どうしてここにいないの?

足もとに敷かれたレールに沿って十数分
歩いたところで、洞窟の突き当りに辿り着いた。

ユーシャの歩幅に合わせたわけではなかったのに、
昨日と同じような時間で辿りつけた。
彼はわたしの歩幅に合わせて歩くペースを落としてくれていた、と魔法使いは気付く。
そんなことに気付いたってどうしようもないのに、
今頃になってそんなことばかりが見えてくる。


突き当りに目を向ける。
そこに“門”はなかった。“門”は彼を通し、姿を消してしまった。
代わりに、彼の羽織っていたマントと、小さな紙が地面にあった。
マントを拾い上げて抱きしめる。思いきり息を吸い込んだ。
マントはまだすこし温かくて、彼の匂いを強く感じた。

小さな紙を拾い上げる。
そこにはへたくそな文字で、「すぐにもどってくるから、まっててほしい。
ぶじでかえってこれるようにいのっててくれ」と書かれていた。
彼からの言葉はそれだけだった。

ユーシャのマントを羽織り、来た道を引き返して、また暖炉の家に戻ってきた。
扉を全て閉じる。そうすることで部屋に残る香りや空気を、
そのまま閉じ込められるような気がした。

暖炉に火をともし、前に座る。
炎は空気にぬくもりを与える。でも魔法使いには与えてくれない。
炎の熱が皮膚を撫でる。それにより、周囲の空気の冷たさを強く感じる。


ユーシャのマントに包まりながら、回想する。丘の木に書いた約束。
故郷の村からの出発。丘で見た星々。星形の痣。
素直にならなかった自分。初めて見た船。
大剣使い。南の大陸の大きな森林。ふたりだけで歩いた町。禿げた男。
疫病により滅びかけた国。宿では寝ぼけて甘えたことがあった。
蜘蛛の巣。巨大な蜘蛛。大剣使いの死。わたしを抱えて走る彼。

回想は止まらない。
何かの栓が抜けたように、頭から様々な光景が溢れだし、目の前に浮かんでくる。
それはゆっくりと色を失っていった。すべて遠い過去のことのように思える。
二度と取り戻すことはできないし、それについて話すものもいない。

わたしはひとりだ、と思う。


回想は続く。壊れた彼。おどおどとした白衣の女と、汚い白衣の男。
立ち直った彼。怪物を操る研究。研究所。逆立ちした彼。考える彼。
たくさんの傷。わたしが手を差し伸べると、ありがとう、と彼は言ってくれた。
呪術の村。揺るがないわたしの想い。彼の想い。ぶ厚い本。隣で眠る彼。
彼の背中で眠るわたし。

大雨。宿のベッド。素直になった自分。素直になった彼。その日は何度も身体を重ねた。
東の大陸北の村。温かい家族に出会った。一緒にチェスをした。約束。そこでも彼と身体を重ねた。
塔。怪物。血まみれの死骸。吐瀉物。汚れた彼。橋。雪。テント。ウサギ。抱き合って眠った夜。
廃村。家。暖炉。洞窟。足元のレール。門。暖炉の前。喧嘩。彼の感情。彼の身体。性交。約束。

孤独。炎。暖炉。今。これから――


すべて通り過ぎていった。
記憶は竜巻のように身体の内側をかき乱し、引き裂いて、姿を消そうとしている。
今の魔法使いには、そんな敵意をむき出しにしたような
記憶や思い出に価値を見出すことができなかった。頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。
出会ってから昨日の夜までのすべてのことが再生される。

胸の内から溢れる黒い煙のような思いが身体を包む。
頬があたたかく大きな雫で濡れた。空っぽの魂は叫び声をあげる。
その声は誰にも届かない。どれだけ叫んでも彼は戻ってこない。
ドアが開く音も、足音さえも聞こえない。

魔法使いは自身の内側から、生きる意思と意味がゆっくりと失われていくのを感じた。


26


橋を渡りきった先には白銀の世界があった。吹雪は視界を遮り、体温を奪う。
勇者は赤黒いマントに包んだ僧侶を抱えながら、北の大陸を踏む。
足元の雪は冷たくまとわりついてくる。そこには悪意を感じることができた。
全てが意思を持って、自分の行く先を遮ろうとしているように見える。

東に向かって数時間歩いたところで、小さなピラミッド型の影が見えた。
近づいてみると、それは簡易型とも呼べるようなテントだった。
勇者はそこへ身を滑り込ませ、僧侶を脇に置いて、倒れこむように身を投げる。

内部は、人間ふたりが寝転べば足の踏み場が失くなってしまうほどの広さだった。
漫然と見回すと、隅のほうにはカンテラや鉄の鍋、
火を起こすための石が無造作に転がっている。
それ以外にはものといえるようなものはない。
ほんとうに眠るためだけの簡易テントなのだろう。

手足を伸ばすと、関節に冷気が流れ込んでくるような感覚に襲われる。
手足を折りたたんで身を丸め、テント内の暗闇に目を向ける。
身体が夜の闇に飲み込まれていくような気がした。


「寒いな」と影が言った。「こんな雪ははじめてだよ。砂嵐みたいだ」

「そうだな」と勇者は言った。「僕は砂嵐を見たことはないけどな」

「僕だってそうさ。僕はきみで、きみは僕なんだからな」

「分かってる」

「分かってるならいいんだ。
僕を否定するというのは、自分自身を否定するのと同じだからな。
たとえ僕が過去の弱いきみであろうと、それはやっぱりきみ自身なんだ」
影は笑った。
「こう寒くて寂しいと、お腹が減ってくるよな。
お腹が減ると苛々するし、眠れないんだよな」

「そうだな」

たしかに空腹感と孤独感が、瞼を軽くしているように感じられる。
自分自身に苛々もしている。ただ、それ以上に寒くてどうしようもなかった。
関節は折りたたまれたまま、凍りついてしまったかのようだ。

「なあ。外に行かないか?」


「外」勇者は目を見開き、テントの布越しに外の闇を凝視する。
耳を澄まさなくても、空気を切り裂くような鋭い風の音と、
テントに叩きつける雪の弾けるような音が聞こえる。
見なくても、テントの外では悪意を持った吹雪が跋扈しているのが分かる。
「外に出てどうするのさ。僕に死ねっていうのか?」

「あのな、言わなくても分かっていると思うけど、きみが死んだら僕も死ぬんだ。
きみは死にたがっているのかもしれないけど、僕はまだ死にたくはないんだ。
僕はきみに生きていてほしい。だからこそ外へ行くんだ。
もしかすると、小さなウサギなんかがそこらにいるかもしれない」

「一日くらい、何も食べなくたって死にはしないさ」

「吹雪が一日で止むだなんて誰が言った?
吹雪が何日も続いてみろ。きみはどんどん弱っていく。もちろん僕もだ。
そしたら外に行くどころか、もう歩くこともできなくなるかもしれない。
体力がある今のうちに動いて、腹をふくれさせるんだ」

「腹が減っても死にはしないし、僕は歩くことができる」

「いいや、できないね。きみは人間なんだから」

「どうだか」勇者は吹き出した。


「きみは人間だ」と影は言う。
「きみの内側を満たしている黒い煙はきみを前に動かすための原動力にはならない。
今のきみが魔王を討つのに必要なのは、充分な睡眠と食事だ。
彼女も言ってただろう、“いっぱい寝て、お腹いっぱいになってからが始まりだ”ってさ。
“そこがゼロなんだよ”。
もっと冷静になれ。炎を見失ったからといって、うろたえちゃだめだ」

「見失ってなんかいない」勇者は赤黒いマントに目を向ける。「炎はそこにある」

「冷たくて光を放たない炎なんて、炎じゃない。あんなものは氷と同じだ。
きみが炎で、あれは氷だ。でもきみは氷に飲み込まれかけている。
炎が氷に負けるなんて、聞いたことがないのにな」

「僕は炎じゃない」

「そうだな。きみは光だ。ただの光だ。
だからきみの足元に僕みたいな大きな影が生まれるのは当然のことだ。
……それで結局、外には行かないのかい?」

「今は行かない。ものすごく身体が重くて、眠いんだ」

「じゃあ眠るといい。僕はきみが死なないように祈ってるよ。おやすみ」



翌日も吹雪だった。翌々日も吹雪だった。その次の日も吹雪だった。
勇者は身を折りたたみ、テントのなかでうずくまっていた。
四日間なにも口にしていないとなると、さすがに腹は空っぽの悲鳴を上げる。

「だから僕は言ったんだ」と影は言う。

たしかに影の言うとおり、身体から自由はゆっくりと奪われていった。
関節はほとんど凍りついたような感覚だ。
視界はかすみ、歪んでいる。目からは何かの栓が抜けたみたいに涙が溢れている。
思考は回り続ける。過去に想いを馳せ、暗い未来を想う。
そして終わりの先のことを夢想する。


「今なら間に合う。早く外に行け。
とりあえず雪を集めてこい。鉄の鍋にぶち込んで、湯を沸かせ。
身体を暖めろ。いいか、死ぬんじゃないぞ、歩くんだ。
考えるのを止めるな。お前は勇者なんだろう?
前にも言ったけどな、お前は俺よりも強いんだ。
もっと自信を持て。お前は死んじゃだめなんだ」

勇者は言うとおりにテントから這い出て、雪をかき集めてまたテント内に戻る。
集めた雪を鍋につめて、魔術の炎で湯を沸かしてそれを飲んだ。
凍りついた身体の芯はほぐれ、吐き出した呼気が白く染まる。空腹を強く感じる。

「お腹が減ったね? 寒くて悲しくて寂しいね?
分かるよ。わたしはきみのお姉さんだからね。
今のわたしじゃあきみを温めることはできないけれど、
ほかの方法できみを救うことができる」

勇者は声に耳を傾ける。でも声はそれっきり止んだ。吹雪の音だけが聞こえる。
赤黒いマントに目を向ける。
腹が鳴った。喉が鳴った。涎が沸いてくる。身体が震える。


「好きなようにすればいい」と影は言った。
「それを実行することできみの内側には変化が起こる。
良くも悪くも、とても大きな変化だ。
それはきみを救うかもしれないし、破滅させるかもしれない。

でもな、考え方を変えてみてくれ。彼女を自分の内側に閉じ込めるんだと。
きみと彼女はほんとうの意味でひとつになるというふうに。

きみがそれを望むのならそうすればいい。僕に有無を言う権利はない。
僕はきみであることを放棄したんだ。僕はもうきみじゃない。
きみ自身が選ぶんだ。それは全て正解になる」

勇者は力を振り絞って手を伸ばす。





二本の足で地面を踏み、テントの外に出る。

吹雪は止んでいた。朝である筈なのに、空は夜のように暗い。
冷たい雪の感触は、勇者の身体を震わせる。震える身体を引きずり、歩く。

十時間も進むと、またテントがあった。勇者はそこに身を隠すように入り込む。
なかには鉄の鍋があった。雪をつめ、湯を沸かし、喉を潤す。
腕に伸し掛かる罪の重さを測る。ゆっくりと軽くなってきている。

翌日も翌々日も歩いた。天気は曇りだった。
簡易テントはいくつもあった。どれも大きさは似たり寄ったりだった。
中身も同じだ。テントを見つける度に鍋に雪をつめて、
湯を沸かして飲んで、白く長い息を吐き出した。
湿っぽくて熱い空気が喉を通り抜ける。そこには不思議な心地よさがあった。
そして罪の重さを測る。それはやがてゼロになった。

思考を停止させて、足を動かす。それはさほど難しいことではなかった。
一度始めてしまえば、あとは勝手に足が動いてくれた。そうして勇者は前に進んだ。



大陸をはじめて踏んだ日から数十日が経った。
景色はほとんど何も変わらない。変わっていくのは自分だけだ。
大きなものを失って手に入れた満腹感は、すぐに消えていった。
また空腹感が湧き上がり、全身を覆う。寒さや孤独を強く感じる。寂しくて、悲しかった。
勇者は自分自身が弱っていくのをただ見ていることしかできない。
どうすればいいのかが分からない。どうすればここから出ることができる?

顔を上げる。滲む視界に空が映る。
黒々とした雲が不気味に立ち込めており、辺りを照らすものは何もない。
足もとに広がっているはずの真っ白な雪でさえも、黒色にしか見えない。
まるで泥沼のなかを歩いているような錯覚に陥る。

それからしばらくすると、大きな影のようなものが見えた。
赤黒いマントに身を包み、早足でその影を目指して歩く。


影の正体は、木造の家屋だった。
他にも十ほど、同じような家が円を描くように並んでいる。
おそらくここが、ひとつ眼の怪物の言っていた廃村なのだろう。
どこの家屋にもひとの気配や温かみはない。

勇者は家と家の隙間から円のなかに入り込む。
見えない壁を通り抜けたような気がした。
魔術の村の“膜”のようなものが、ここにはあるのかもしれない。

しばらく円の中心に向かって歩くと、また影が見えた。小さな影だ。
歩く速度を上げる。

円の中心と思しき場所には小さな岩があり、その上に誰かが座っていた。
小さな影の正体は人間だった。勇者は目を細めて凝視する。


そのひとは、夜に溶けこむような真っ黒なローブの上に、二重にマントを羽織っていた。
鍔の長いとんがり帽子からは、流れ落ちるように長くまっすぐな栗色の髪が覗いている。
その姿はおとぎ話に登場する魔女を思わせた。

ローブの袖から覗くほっそりとした手首には張りがあったが、乾いているように見えた。
どうやら女のひとらしいが、杖を抱きしめるようにして
岩の上に座り込み俯いているので、顔が見えない。歳は分からない。

ひとつ眼の怪物が言っていたのは、彼女のことなのだろう。
七年間ずっとひとりで、門が開くのを待っているひとというのは。


ちらちらと雪が降り始めた。夜の闇は濃さを増したようだ。

勇者は距離を開けて、彼女の前に立つ。
彼女の栗色の髪が冷たい風に揺れた。表情は暗くてよく見えない。
しかし、表情や年齢はどうでも良かった。
そこにひとがいるという事実が、勇者の胸を熱くさせた。

人間など、もう何十日も見ていなかった。
目の前の人間こそが僕を救ってくれるんだろう、と思う。
ゆっくりと前に手を伸ばす。手は汚れていた。黒ずんだ血がこびりついている。

その時、彼女の頭上に巨大な光の球が現れた。その輝きは太陽を思わせた。
大地を平等に照らす、大きな光だ。しかし、そこに温かみはなかった。
冷たい光は勇者の身を照らし、足元に影を落とす。影は遥か背後まで伸びている。

「すごいや」と影は言った。「眩しいよ」

あまりの眩しさに怯みながら、手で目を覆うようにする。震える声を絞り出す。
「……あなたは誰?」

「……わたしは」彼女はゆっくりと顔を上げながら言った。「わたしは、魔女」


勇者はもう一度、魔女と名乗る女に目を向ける。
顔立ちは、子どもっぽいかわいらしさの残る、二十代の中頃のように見える。
しかし、彼女の目には炎が灯っていなかった。そこに子どもらしさは感じられなかった。
海の底や、今の空をそのまま瞳に埋め込んだみたいな、先の見通せない闇がある。
それはまるで、鏡に映った自分の目を見ているように思えた。

彼女の目は語りかけてくる。「わたしは独りだ」と。

勇者の目は言う。「僕は独りだ」と。





長い夜は始まる。

続く


27


一晩中叫んでもユーシャは戻ってこない。窓からは頼りない光が射している。
何かが変わっても、朝はいつもと同じようにやってくるのだ。
たとえ誰かが死んでも、朝は来る。

魔法使いは眠ることができず、暖炉の前に座り込んでいた。
身体中を気怠い感覚に支配されている。
瞼が重い。目が痛い。頬には涙がこびりついている。
口のなかは乾いている。喉が焼けつく。身体は火照っている。吐息も熱い。

暖炉の前でユーシャのマントに包まり、それに顔を埋める。
マントからはもう彼のぬくもりがほとんど失われている。
でも香りを感じることができた。大きく息を吸い込み、下腹部へ手を伸ばす。

マントを噛み、目を瞑る。瞼の裏に彼の身体を想い描き、ぬくもりと感触を思い出す。
瞼の裏の彼は手を伸ばす。幻の手が身体を這う。
唇を舐める。口づけの感触を思い出す。
顔が火照る。下腹部は熱く湿る。細い指は性器をなぞる。腰はちいさく揺れる。
噛む力は強まる。汗が浮く。涙が浮く。大きな感情の濁流が生まれる。
流れはぶつかり合って渦を生む。


抱いてほしい、と想う。今だけはここにいて、この身体を彼に委ねていたい。
次に目が醒めたとき、彼が隣にいてほしい。
手を伸ばせば届く場所に、ぬくもりがほしい。
炎のぬくもりなんていらない。そんなものがなくたって、
わたしの手を握ってくれる大きな手があればそれでいいのに。

幻の大きな手がゆっくりと性器を撫でる。
彼の手のひらは乾いていて、ごつごつとしていた。
乾いた指はなかに入り込む。壊れ物を扱うような手付きで、指は内側を出入りする。
ちいさく声が漏れる。でも誰にもその声は聞こえない。

瞼の裏には、二日前の彼との性交の場面が浮かぶ。
主観ではなく、第三者目線でそれは見える。
魔法使いはユーシャのそれを咥えながら、性器に舌が這う感触を思い出す。
腰はちいさく揺れる。吐き出された精を喉の奥に送り、小さな絶頂を迎える。
一瞬だけ身体から力が抜けたが、それはすぐに戻ってくる。

彼のそれを性器で咥え、腰を振る。たとえどちらが果てようと止めるつもりはなかった。
このままふたりで死んでしまえばいい、とその時は思っていたのを思い出す。
今は、このままひとりで死んでしまえばいいという考えが脳を掠めた。


瞼の裏のユーシャはもう一度射精する。
内側に熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
魔法使いも絶頂を迎える。身体から力が抜け、ユーシャに向かって倒れこむ。
大きな腕が身体を包み、大きな手が背中にまわされる。
そのまま腰を振り続ける。艶かしい音は彼を固く、熱くする。

数えきれないほどの頂きを味わうと、意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。
ぼやける視界で、必死に彼の目を探した。見つけ出した彼の目はどこか淋しげだった。
身体から力がなくなった瞼の裏の魔法使いはそのまま眠る――

自分の指で絶頂を迎えた魔法使いは、頭の中が白くなっていくのを感じた。
瞼の裏の幻想は消える。目をゆっくりと開き、その場にへたり込む。
吐き出した息は熱かった。


彼はここにいない。暖炉のなかの薪がぱちぱちと音をたて、雪が窓を優しく叩く。
でも足音はない。今日も彼は帰ってこない。そういう予感がした。
棘の付いた茎で胸を締め付けられるような感覚に落ちる。

目を瞑る。彼の事以外、何もかもを忘れてしまいたかった。
勇者や魔王なんてどうでもいい。世界やその平和なんてどうでもいい。
誰かがどこかで死んでいるとか、そんなこともどうでもいい。

隣に彼がいないことには何も始まらないのに、と思う。
瞼の裏に見えた世界から色が失われていく。
魔法使いの内側の世界は、ゆっくりと滅んでいった。

意識は自分の深みに落ちる。
真っ暗な、光のない世界に落ちるような気分だった。そこに救いは見えない。



ユーシャが門をくぐってから三日が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。

気怠い感覚が身体から抜けない。
胃は空っぽで軽いのに、身体はどんどん重くなっていった。
ああ、胃が空っぽだからか、と思い当たる。いったいわたしは何をしているんだろう?

とても寒い。暖炉には白黒になった薪が転がっている。炎は灯っていない。
ユーシャのマントからは完全に彼のぬくもりが失われていた。
マントにあるのは魔法使い自身のぬくもりだった。

細い足で立ち上がり、ふらふらと歩く。家中を見回す。食べ物はない。
あるのはカビの生えた硬すぎるパンのようなものだけだった。
それは道端に転がっている石のように見えた。
道端に転がる石のように、いろんなものが家中に転がっていた。

錆びた鉄鍋、壊れたカンテラ、破れたカーテン、
脚の折れた机と椅子、引き裂かれた毛布、髪の毛と人骨。
それらには価値を見出すことができなかった。
ほんとうに道端に転がる石のようだった。
すべて蹴飛ばして、綺麗にしてやろうかと考えたが、どうでもよくなって止めた。


暖炉の家(魔法使いはこの家をそう呼ぶことにした)から出て、
右隣に見える家に向かう。
鍵はかかっていなかったので、そのまま足を踏み入れる。
ここも暖炉の家と同じように荒れていた。
床には古い血がこびりついていた。黒ずんだ床は不気味に見える。

踵を返し、もう一軒隣の家に向かう。今までの二軒より、すこし大きな建物だ。
そこもやはり鍵はかかっていなかった。ドアを開けてなかに入る。

ドアは背後で大きな音を鳴らして閉まった。
目の前には薄暗く長い廊下が続いていて、その左右の壁には
またドアが等間隔で付けられている。右に四つ、左に四つだ。

右側の一番手前のドアを開け、なかに入った。
そこは小さな部屋で、壁を覆うようにして本棚が配置されていた。
本棚には隙間なく本が詰め込まれている。
その光景は故郷の村の図書館を回想させた。
図書館とは呼んでいるが、あそこもここもさして変わらない。


故郷の村の図書館というのは、誰も使っていない建物に本棚を詰めて、
そこに本を詰めただけのものだった。
ふつうの家よりも本がたくさんある家と呼んだほうが分かりやすいかもしれない。

村の図書館の部屋のひとつには長細い机があって、椅子が八つあった。
ユーシャはいつも一番角の椅子に座り、魔法使いはいつもその隣に座った。
図書館の利用者は皆無と言っていいほどだった。
あそこはわたし達だけの空間だった、と思う。

部屋から出て、向かいの戸を開けた。
正面には長細い机と六つの椅子があって、奥に暖炉が見える。

ほかの部屋も見まわってみた。残った六つの部屋は最初の部屋と同じように、
村の図書館を回想させる光景だった。
しかし、知識で食欲が満たされるわけではない。
食べ物らしきものはひとつも見当たらない。

そもそも、何年も放置された廃村に食料があったところで、
それを食べることができるのだろうか?

できる。ただし、身体がどうなるかは分からない。
腹を下したり、嘔吐が止まらなくなるかもしれない。
その場合は結局空腹感は増すだろう。
今の状況と比較すれば、そんなことはべつにどうってことはない。


覚束ない足取りで、また外に出る。
いったいどれだけの時間が経ったのか、魔法使いには想像もつかなかった。
もう何百年もこうしているのではないかという錯覚に陥る。
空腹と暗い空は感覚を狂わせていく。

遠くに、大きな動物が見えた。それは熊のようにも見えたし、人間のようにも見えた。
べつに熊でも人間でも、どうでも良かった。
魔法使いはぼんやりと口のなかで呪文をつぶやき、
その大きな動物の頭上に、氷でできたギロチンを作り上げた。
ギロチンはほとんどまもなく振り下ろされ、その動物の身体を二つに割った。
雪景色のなかの血だまりは、草原にぽつりと咲く
花のように淋しげな存在感を放っていた。

近寄ってみると、それは人間ではなく、熊だったことが分かる。
魔法使いは二つになった熊をさらにばらばらにしてから、暖炉の家に持ち帰った。
何も考えずに軽く焼いた熊の肉にしゃぶりつき、咀嚼し、喉を通し、胃に送った。
粘着く肉は決して美味とは言いがたかったが、
それが喉を通り抜ける感触には不思議な心地よさがあった。

空腹感は消えて、すこしだけ気分は浮上する。
それでも最低の気分であることには違いなかった。
この世でもっとも自分が不幸なのではないかという根拠もない考えが脳をかすめる。
おそらくそんなことはないのだろうが、そう思わずにはいられなかった。
魔法使いにとって、ユーシャが居なくなるというのは
考えうる限りでは最低の出来事だった。
死ぬことと同意義か、死以上に悲惨なものだった。


自分が酷くちっぽけな存在に見えてくる。
元からそうだったけど、今更になってそれに気づいただけなのかも。
わたしひとりでは最愛の人間を引き止めることもできない。
そう、わたしはひとりじゃあ何もできない。

湯を沸かし、それを飲んだ。白湯は落ち着きを取り戻させた。
頭が冷め、自分の置かれた状況が鮮明に見える。

魔法使いは図書館(先程の建物をそう呼ぶことにした)に向かった。
左側の一番手前のドアを開き、なかに入る。
暖炉に火を付けて、ほかの部屋から本を何冊か抜き取って戻ってくる。
角の席をひとつ開けて、その隣に座った。

そして本の頁を捲る。書かれた文字をゆっくりと目で追う。
その様にして魔法使いは孤独を忘れ去ろうとした。
明日には彼がきっと戻ってくると言い聞かせて、
暖炉のぬくもりに彼のぬくもりを重ね、黙々と生きた。



ユーシャが門をくぐってから七年が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。

気がつけばもう二四歳だった。身体はすこし大きくなった。
心は凍りついたまま、成長しなくなった。
果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは判別できない。

心が成長することで彼の存在が褪せてしまうのなら、
もう一生このままでもいい、と思う。
変わっていくものはあるが、変わらないものもある。
身体が変化しても、心とこの廃村は何も変わりやしない。

一日たりとも彼のことを考えない日はなかった。
記憶は薄れるどころか、どんどん濃くなっていく。
身体も心も彼を求めていた。
暖炉の炎では完全に身体が温まることはないし、魔法使いの指は酷く細い。
それでも暖炉の前で自分を慰めないわけにはいかなかった。
ぶつける場所のない想いはそうして吐き出すしかなかった。


その日も暖炉の前でマントを噛んで、小さな頂きを迎えた。
長い息を吐き出して壁に凭れ掛かり、自分の身体を眺める。

一七歳の頃と比べると、すこしだけ身体が大きくなった。
髪もかなり伸びた。指がやけに細く見える。
胸はすこし大きくなった。平均よりもすこし小さいくらいだろうか、と思う。
顔立ちはどうだろう。大人びて見えているだろうか。

彼が今のわたしを見たら何と言うだろう?

窓の外には夜の帳が降りていた。彼が戻ってくる気配はない。匂いも足音もない。
今日も図書館に行こうか、とぼんやりと思った。でも止めた。
今日だけは何故か、胸がざわざわとしていた。
暗く大きな草原に冷たい突風が吹いているような、不穏な空気が胸を満たす。

何かが起こるという予感があった。そこには運命的な何かを感じた。
彼が勇者に選ばれたのと同じように、それは最初から決まっていたのかもしれない。


魔法使いは外に出る。
空気は冷たい。足元も冷たい。周りには冷たいものしかなかった。
円型に並ぶ家の中心にある石に座り、それを待つ。寒い。寂しい。
杖を抱く。帽子を深くかぶる。伸びた髪は地面に付きそうだった。
弱い風が吹き、髪を揺らした。

そしてそれは訪れる。
亡霊が闇から湧き上がるように、その少年は現れた。
赤黒いマントに包まりながら、こちらに近づいてくる。

ユーシャではない。そのことは魔法使いを酷く失望させ、
再び地獄に落ちるような感覚に陥らせる。

彼でないならもう用はなかった。
七年ぶりに人間に会ったというのに、これといった感情は湧いてこない。
むしろ期待は失われていった。様々なものが失われて、さらに今また失われた。


魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。

目の前の少年は眩しさに目を覆うように手をかざして言う。
「……あなたは誰?」

「……わたしは」
わたしは、わたしは誰? どうすればわたしはわたしでいられる?

目の前の少年は良くも悪くも変化をもたらすだろうと、直感が告げている。
でもこの子にはここにいてほしくなかった。
ここが自分と彼の場所のように思えてきたからだ。
彼は約束をしてくれた。誰もいないところで、ふたりきりで暮らす、と。
ここには誰もいない。この廃村こそが望んでいた場所のように思えた。
ここがわたしの終着駅だ。

魔法使いは顔を上げて言う。「わたしは、魔女」

そうすることで、少年が遠ざかっていくことに期待した。
何かに期待するのは久しぶりだった。
でも薄々感づいていた。期待はことごとく裏切られるのだ。
規則が破られるのと同じように、期待は裏切られる。


目の前の少年は虚ろな目を持っていて、酷くやつれているように見えた。
歳は一七とか一八とかそこらだろう。
短い髪は汚れている。手も汚れている。顔も汚れている。
少年は汚れきっていた。目は濁り、そこに光を見出すことができない。

わたしと同じだ、と魔法使いは思った。わたしもこの少年も、独りだ。

「きみは何しにここへ来たの」と魔法使いは冷たく訊ねた。

少年はすこし間を開けて言う。「魔王を殺しに来た」

「ほんとうに言ってるの?」
内心ですこし驚いた。が、表情に出るほどではなかった。

「ほんとうだよ。そうでなかったら、こんなところには来ない」

「でも、わたしはここにいるわ」

「あなたは“門”が開くのを待ってるんだろう。七年も」

「どうして」魔法使いは石から腰を上げた。「どうして知ってるの」


「知り合いに聞いたんだ。すごく目のいい知り合い。
僕の友人を殺したんだ、そいつ。信じられないよ」
少年は淡々と言った。「ほんとうに、信じられない」

とくべつ浮き出た感情はないように見えた。
落ち着いている、というよりは、諦めている。
物事に冷め切っている。目が凍りついているのだ。

「知り合いって、誰」と魔法使いは訊ねる。

「西の大陸の北端に、大きな塔があるだろう」

「知ってる」おそらく、故郷の村の北に見えた塔のことだろう。

「その塔の上には怪物がいるんだ。正確に言うと、いたんだ。大きな目を持った怪物が」

「……そいつがどうかしたの?」

「そいつが教えてくれたんだ。あなたがここで七年間、“門”が開くのを待ってるって」

「その怪物が喋って教えてくれたっていうの?」

「信じてくれないならいいさ」


「……正確には」と魔法使いは言う。
「あるひとが“門”から帰ってくるのを待ってるの」

「大事なひとなんだね」

「そう。とても大事なひと」

「そっか」少年は弱々しく微笑んだ。

「ねえ」魔法使いは歩き始める。
「もうすこし詳しく話を聞かせてもらえないかしら」

少年はうなずいた。





図書館に足を踏み入れ、廊下左側の一番手前の部屋に入った。
暖炉に火をともして、少年を座らせる。魔法使いも正面に腰掛ける。

少年は顔についた雪を手で拭う。
手も顔も、血で酷く汚れていた。特に口周りが酷かった。
おそらく、ウサギや熊の肉をそのまま食べたのだろう。
そして血を拭うということに気がまわらないほどに参っているのだろう。

白湯を差し出す。「こんなものしかないけど、ゆっくりして」と魔法使いが言うと、
少年はコップを包み込むようにして掴み、「ありがとう」と言った。

じっと少年の顔を見る。「……ねえ。わたし達、どこかで会ったことがあるかしら」

「分からない」少年は顔を上げて、こちらの目を見る。
「でも……どこかで会ったことがあるかもしれない」

「そっか」


沈黙が空間を埋める。空を切る風の音、暖炉のなかで何かが弾ける音、
窓がちいさく揺れる音、部屋にある音はそれらしかなかった。

しばらくして魔法使いは訊ねる。
「それで、きみはどこから、何のためにここへ来たの?」

「東の大陸の小さな村から南の大陸へ、
それから西の大陸を渡ってここへ来た。魔王を倒すために」

「ひとりで?」

少年は黙って首を振った。「僕を含めて三人」

「ほかのふたりは」

「死んだ」と少年があまりにも淡々と言うので、
恐怖に近い感情が湧き上がってくる。


「死んだ」と魔法使いは繰り返す。
もしかすると、わたし達の置かれた境遇は似ているのかもしれない、と思う。

「殺されたんだ。ひとりは蜘蛛の巣の骸骨に。
ひとりはさっき言った大きな目の怪物に」

「蜘蛛の巣というと、南の大陸の」

「そう。電気を吐く蜘蛛がいる、あの洞窟」

「……わたしの友人もあそこで死んだわ」魔法使いは回想する。
「わたしも、わたしを含め三人で旅をしていたの。
きみと同じように、魔王を倒すために」

「どうして魔王を」少年の目がすこし揺れた。

「“門”をくぐった彼が勇者だからよ。わたしは彼に付いていっただけ。
でもね、多分彼は本物ではないの」

「どういうこと?」


「西の大陸に、くだらない御伽噺があるの。
星形の痣を持った勇者が云々、みたいなね。
彼の手の甲にもあるの、星形の痣が。それだけ。

痣があるからって、それだけで勇者なんておかしいわよ。
それに、あの痣はわたしが……」魔法使いは続きを言いかけて止めた。
そんなことを話したって、彼は戻ってこない。

魔法使いは首を振ってから続ける。
「それで、どうしてきみが魔王を倒す必要があるの?
べつに倒すとしても、きみが倒す必要はないんじゃないかしら」

「僕は勇者だから、僕が殺さなきゃだめなんだ」

「勇者?」魔法使いは驚いて言った。「きみが?」

少年――勇者はうなずいた。
「嘘みたいだけど、ほんとうなんだと思う。僕にもよく分からない。
でも“門”が開けば僕は勇者だってことになる」

「どういうこと?」

「“門”は勇者がいないと開かないんだ。大きな目の怪物はそう言ってた」

「じゃあ、彼が門をくぐれたのは?」

「あなたの言う“彼”が勇者だから、ということになると思う」


「“門”が閉じたのは、彼が、勇者が向こうに行ったから、ということ?」

「そういうことなんだろうね。
勇者がふたり居るということについては何も分からないけれど」

魔法使いは椅子に深く凭れて、長い息を吐き出した。すこし混乱していたが、
薄暗い視界に一筋の光明を見出したような気分だった。
もしかすると、“門”をくぐることができるかもしれない。
目の前の少年こそが“門”を開き、今の状況をひっくり返す鍵なのだ。

「“門”はどこにあるの」と勇者は訊ねる。「廃村の金鉱にあるらしいんだけど」

「ここからすこし歩いたところに洞窟があるわ。
たくさんの金が眠った洞窟よ。その一番奥」

「連れて行ってくれないかな」と勇者は言う。
「確かめておきたいんだ、僕がほんとうに勇者なのか」

「分かった」


魔法使いと勇者は立ち上がり、二枚のドアをくぐる。
外では皮膚を貫かんばかりの冷たさの風が吹いていた。
その風は何かを歓迎しているように感じられたし、
行く手を阻もうとしているようにも感じられた。

円型に並んだ家々の中心の岩から北へすこし歩いたところで、
壁をくりぬいたような大きく暗い穴が姿を見せる。
吸い込まれるように洞窟の中へ入る。魔法使いは魔術の光で辺りを照らす。

この洞窟に入るのは三日ぶりだった。
壁のかたちや足元のレールの曲がり具合などは、ほとんど覚えている。
週に一回はここを覗きにいくようにしていたのだ。
しかし結局、彼は七年経っても戻ってはこなかった。


十数分歩いたところで突き当りに辿り着く。

“門”は七年前と同じように、開いていた。
そこから流れ出る異質な空気は、魔法使いを酷く高揚させた。
身体が熱くなり、肌が粟立つ。
心臓が、自分とはべつの生物のように思えるほどに跳ねる。

「あれが、“門”」と勇者は言った。

「そう」と魔法使いは震える声で言った。

十秒ほど“門“を眺めた勇者は踵を返し、歩き始める。

「どこへ行くの?」と魔法使いは勇者の背中に言った。

「さっきの家で、すこし眠りたいんだ。それに、準備がいる」

「心の準備とか」と魔法使いが言うと、「そう」と勇者は言った。





図書館の暖炉がある部屋まで戻ってきた。
魔法使いと勇者は暖炉の前に座り込む。勇者との間には絶妙な距離がある。
お互いの領域に侵入するほど近くもなければ、
手を伸ばしても届かないほど遠くもない。
ちょうどいい隙間があった。それは魔法使いの気分をすこし楽にした。

しばらくお互いに無言で炎を見つめていると、
勇者は小さな袋を取り出して、中身をひっくり返した。
袋から出てきたのはナイフと数枚の金貨、指輪、髪留めだった。
小さなおもちゃ箱をひっくり返したみたいだ。

「それは何?」と魔法使いは訊ねる。

「大きな目の怪物に殺された子の持ち物」と勇者は言った。

「女の子だったの?」

「そう」勇者は髪留めを掴んで、暖炉に投げ入れた。
魔法使いは黙ってそれを見守った。


勇者は続けて、金貨を一枚掴んだ。それも暖炉のなかに投げた。
「彼女は金貨をお守りにしてたんだ。僕にも一枚くれた。
“それがきみを守ってくれる”って言ってさ」

魔法使いは勇者の横顔を眺める。
暖炉の炎に照らされた表情は、すこし翳っているように見えた。
“彼女”の話になった途端、淡々としていた語気にも悲愴感が入り交じった。

「大切なひとだったのね」と魔法使いが言うと、勇者はちいさくうなずいた。

そして今度はナイフを掴んで言う。
「このナイフも、彼女のお守りだったんだ。お守りというか、護身用のナイフ。
でも結局は髪を切ることにしか使わなかった。綺麗な髪だったのに、
いきなり首から下の髪をばっさり切り落としたんだ。びっくりしたよ」

勇者はナイフを脇にそっと置いて、金貨を掴んで投げた。
金貨は暖炉に向かって放物線を描いて落ちた。

勇者は、今度は指輪を掴んだ。
「この指輪は、蜘蛛の巣の骸骨が嵌めてた指輪だ。
彼女が骸骨の腕をふっ飛ばした時に拾った。
僕のもうひとりの友達を殺した、あの骸骨のものだ」


指輪に目を向ける。見覚えのある、金の指輪だった。
蜘蛛の巣の、骸骨が嵌めていた?
妙な興奮が湧き上がってくるのと同時に、ひどい罪悪感がこみ上げてくる。

魔法使いは訊ねる。
「ねえ、その指輪を嵌めてた骸骨の近くに、大きな剣がなかった?」

「あったよ」勇者は魔法使いに目を向ける。
「骸骨が大きな剣で攻撃してきたんだ。魔術も使える」

煙のように曖昧な仮説は、やがてかたちを持った疑いに変わる。
「もしかすると、その指輪はわたしのものかもしれない」

「どういうこと?」


「さっき言った“蜘蛛の巣で死んだ友人”ってのが、たぶんそいつだと思う。
その、骸骨。わたしはそいつに指輪を預けたの。金の指輪を」

「骸骨はどうして動くことができたの? ただの人間の骨だったのに」

「あいつはもしかすると、人間じゃなかったのかも」

「どうしてそう思うの」

「分からないけど、なんとなく」

「じゃあ、つまり」と勇者は声を低くして言った。
「あなたの仲間に僕の仲間は殺されたということ?」

「……ごめんなさい」魔法使いは勇者の目を見ることができなかった。
自分が罪を犯したような気分に陥る。

「……いや、もういいんだ。あなたは悪くないし、それにもう、終わったことだから」
勇者は指輪を魔法使いに差し出した。「……これ、返すよ」

「ありがとう」魔法使いは指輪を受け取り、左手の薬指に嵌めた。
懐かしい感触だった。今でもぴったりと指に合う。

「ほらね」と誰かが言った。「約束は守りましたよ。ひとつだけですけどね」


「ねえ」と勇者は言う。「触ってもいいかな」

「わたしを?」と魔法使いは訝しげに言う。

「手だけでいい。お願いできないかな」

「分かった」魔法使いは手のひらを上に向けて、手を差し出した。

勇者はそこへ手を重ねるように置いた。「冷たいね」

「ずっとひとりだったもの」

「握ってもいいかな」

「お願いするわ」

ごつごつとした指が魔法使いの手を優しく包む。
それはユーシャの手を回想させた。
目を瞑ると、彼がそこにいるように感じられる。
目の前の少年は、弱くなった時の彼にすこし似ている。

「ありがとう」と勇者は言って、目を閉じた。

「こちらこそ」と魔法使いは言い、手を握り返した。
勇者の手は大きく、とても冷たかった。


28


この魔女と名乗る女の仲間が、戦士を殺した?
勇者の腸は煮えくり返ったが、一瞬で冷めた。

このひとを責めたところで、誰かが救われるわけではない。
悪い人は誰もいないんだよ、と自分に言い聞かせる。
しばらくすると、自分がこの世界でもっとも無力で、
もっとも使えない人間のように見えてくる。

「きみは無力で、使えない人間なんだ」と影は言う。
「きみはこの世界中で、もっとも不要な存在なんだ」

どうだろう。ほんとうにそうなのだろうか?

分からない。頭と身体が疲弊しきっていて、何も考えることができない。
ぼんやりとした薄い膜のようなものに、意識や思考、視界が覆われている。
勇者は魔法使いの手を握りながら、目を閉じる。
頭のなかはゆっくりと綺麗になってゆく。


彼女の手はとても冷たかった。その手は僧侶のことを思い出させてくれる。
白い肌、細い指、長い髪、やわらかい身体、性交。
このまま眠れば、僧侶の夢を見ることができるような気がした。
そう感じると、早く眠ってしまいたかった。
一刻も早く、瞼の裏から目を逸らして彼女に逢いたかった。

しかし、なかなか眠ることができない。
勇者は“門”を見つけたことにすくなからず興奮を覚えていた。
心臓は激しく脈打ち、気分が昂ぶっている。
久しぶりにひとに触れたことで、わだかまりのようなものがすこしほぐれた。
気分がいい。暖炉の熱で身体が火照る。意識は沈まない。

「眠れないかしら」と魔法使いは言った。「ひとりのほうが落ち着く?」

「いいや。このままでいい。手を握ったまま、ここにいてほしい」と勇者は答えた。


「そう」魔法使いはすこし間を開けてから言う。
「ねえ、もしきみがよければなんだけど」

「何」

「後ろから抱きついてもいいかしら」

「どうして?」

「きみを見てると、あいつを思い出すの。門をくぐった、彼。ちょっと似てるかも」

「へえ」

「どう? 嫌なら嫌って言って」

「ありがとう。お願いするよ」

魔法使いは握っていた手を離した。それから勇者の背中に密着して、腕をまわした。
耳元に、熱く長い息が吐き出される。身体は優しく締め付けられる。
首筋に髪が触れてくすぐったい。

「すごく落ち着く」と魔法使いは言った。


勇者は黙っていた。声を出すべきではない、と思う。
魔法使いは自分という存在を媒介に、
門をくぐったという彼のことを回想しているのだろう。

決して自分が必要とされているわけではないというのは理解していた。
百のうちのひとつが似ていればいいのだ。類似点がひとつでも見つかれば、
門をくぐった彼のすべてをそこに重ねることができる。
でも声と見た目はどうしても重ねることはできない。
だから彼女は顔を見ないために、後ろから抱きついた。
彼女のことを思うなら声を出すべきではない、と思った。

「みんなそうだ」と影は言う。
「みんな、きみという空っぽの容れ物に誰かの面影を見るんだ。
彼女だってそうだった。彼女はきみに、戦士の影を入れた。
彼女はきみに“酷いこと”をした。この魔女と名乗る女だってそうだ。

きみはいったい誰なんだろう?
きみは門をくぐった彼ではないし、彼女の好いていたあいつでもない。
でもきみのなかにはそのふたつの影がある。
そしてきみという存在は今、誰からも求められていない。
でもきみはこうして誰かから抱きしめられている。

きみはどう足掻いてもきみ自身になることができない。
他の何者になることもできない。
だったら、いったいきみは何なんだろう? 何が本物のきみなんだ?」


勇者は影の言葉に耳を貸さなかった。
たとえいいように利用されているのだと分かってはいても、
魔法使いの頼みを断る理由はなかった。
勇者もすくなからず、誰かのぬくもりを求めていた。

魔法使いの身体は勇者をさらに熱くし、昂ぶらせた。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、柔らかく小さな胸が背中を押す。
長くさらさらとした髪が首筋を撫で、熱い吐息が耳にかかる。

魔法使いの手が身体を舐め回すように這う。
それはやがて下腹部へ侵入してくる。

「声は出さないで」と耳元で魔法使いはささやく。「好きなようにさせて」

勇者はちいさくうなずいた。その返事を待っていたという素振りも見せずに、
彼女の手は勇者の硬くなったそれに触れる。それは細い指で、優しく包まれる。
冷たかったはずの彼女の手はすこしだけあたたかみを取り戻していた。


耳にかかる息はさらに熱くなった。勇者のそれと同じくらい熱くなった。

包み込むようにそれは優しく撫で回される。細い指で締め付けられる。
快楽の波が腰辺りに押し寄せてくるのを感じた。

「どう?」と魔法使いは耳元でささやく。「気持ちいい?」

勇者はうなずく。その直後に、魔法使いは耳にくちづけをした。
彼女の舌が耳を舐めまわす。反射的に鳥肌が立った。
でもしばらくすると鳥肌は収まり、熱い息と舌が心地よく感じられるようになった。
その間にも硬く熱く屹立するそれは細い指で締め付けられ、優しく撫で回される。
まもなく勇者は精を吐き出す。彼女は手の動きを止め、それを受け止めた。

「勝手なことしてごめんね」と魔法使いが言った。

「いいや、ありがとう」と勇者は礼儀的に言った。
勝手なことをされたのは事実だが、すこし気分が良くなったのも事実だった。

魔法使いは勇者のズボンの中から精液まみれの手を取り出し、床で拭った。
そしてもう一度勇者の身体を後ろから包み込むように手をまわした。

目を閉じると、意識は簡単に暗黒面に落ちた。





僧侶の夢を見ることはできなかった。勇者は目を開き、長く息を吐き出した。
目の前の暖炉には火がある。魔法使いの姿は見当たらない。

もしかすると、すでに門をくぐったのかもしれない、
というふうに考えていると、背後で足音がした。
振り返ると、黒いローブを着た、髪の長い女が立っていた。
彼女は湯気の立ち上る木のコップをふたつ持っていた。
こちらに歩み寄り、隣に座った。カップのひとつをこちらに差し出す。
それを受け取る。「ありがとう」中身は白湯だった。

「よく眠れたみたいね」

「おかげさまでね」


魔法使いは力なく微笑み、「覚悟が決まったら行きましょう」と言う。
「わたしも一緒に行くわ」

「覚悟は決まってるよ。もう後戻りはできない」

「そっか。……でも、もしかすると魔王はもう死んでるかもね。
彼が魔王を倒したかも。でも戻り方がわからないとか。
あいつ、ものすごく馬鹿だから」

「そうだったらいいんだけどね」勇者は弱々しく微笑んだ。
「これを飲み終わったら、すぐに門をくぐるよ」

「分かった」


時間を掛けて白湯を飲み、空になったコップを脇に置いて立ち上がる。
魔法使いは暖炉の火を消し、歩き始める。まっすぐに洞窟へ向かう。

洞窟をまっすぐに進み、“門”の前に立つ。そして門へ手を伸ばす。
身体が大きく歪むような感覚に陥りながら、意識が遠のいていくのを感じた。
まるで今から何か他の生物に生まれ変わるみたいだ、と勇者はぼんやりと思った。

そして意識は暗転する。表裏が――世界がひっくり返るような感覚があった。

続く


29


腕が曲がる。脚が折れる。身体がねじれる。内蔵が圧縮される。
でも痛みはない。実際に腕や脚が曲がっているわけではない。
そういう風に見えるだけだ。そういう風に感じるだけだ。
大丈夫。ユーシャは自分に言い聞かせる。絶対に大丈夫だ。

何もかもが歪んで見える。
門のなかは、すべての色の絵の具を中途半端にかき混ぜて
水のなかにぶちまけたような毒々しい色をしていた。
胎動するように周囲の色は蠢く。そこには地面もなければ空もない。
壁も天井も道もない。身体は浮いている。何か大きな流れに運ばれている。

時間がゆっくりと流れている。どうしてかは分からないけど、そう感じることができた。
ユーシャは魔法使いのことを想う。そしてすこしだけ後悔をした。
もっと言うべきことはあったはずなのに。


目を閉じ、昨夜の性交を思い返す。
彼女は今までにないほどに激しく身体を求めてきた。
決してそれが不満だということではないが、
なんだかほつれた糸が胸のうちに引っかかっているような感覚がある。

ほんとうにあれで良かったのだろうか? と思う。
もっと彼女の意見を汲み取ってやるべきではなかっただろうか?
きっと怒っているに違いない。帰ったらなんて言われるだろう?

いいや、これでいいんだ。すぐに戻って謝れば、ぜんぶ解決するんだ。
何も悩む必要はない。俺は、まっすぐやればいい。
魔王を倒して帰る。それだけでいい。シンプルに行こうぜ。

そんな考え事をしていると、突然、身体が何かにぶつかった。
目を開く。周囲の毒々しい色は消え失せていた。門を抜けたのだ。
ここはどこだ? と思うのとほとんど同時に、身体が地面に叩きつけられた。
鈍い痛みが肩に走る。身体が自分のものではないような感覚に陥る。
それほど身体が重く感じられた。


冷たく湿った地面にへばりつきながら、頭を動かして周囲を見渡す。
暗い空があって、周りには木がある。
森の中のようだ。空には月があって、星もある。ふつうの夜空だった。

どこかで何かが鳴いた。直後に巨大な鳥が羽ばたく音が聞こえた。
狼の遠吠えのような声が聞こえた。
ひとの気配はない。緑のむせ返るような匂いがする。
空気には何か穏やかでないものが漂っている。
薄暗い森と不気味な音は、ユーシャの不安を煽った。

腕で地面を押し、身体を起こす。どこを見ても木がある。
木の隙間には暗闇がある。薄暗い森だ。
いったいどこに向かえばいいのだろう? と
ユーシャは一瞬だけ考えたが、すぐに立ち上がって歩き始めた。
考えても無駄だ。今までずっとそうだったじゃないか。


薄暗い森は、一〇分ほど歩いても薄暗い森だった。
気温の変化もない。暑くも寒くもない、適温だった。

辺りを漫然と眺めながら、
ここは俺達がいた世界とはべつの世界なのだろうか? と思う。

たしかに見たことのない植物はたくさん見える。
でも、ただ見たことがないだけなのかもしれないだけで、
向こうにもあったのかもしれない。
べつに植物に関しての知識に長けているわけではないから分からない。

ここに魔王が居るという根拠は何もないが、
直感は魔王はこの先に居るとささやいている。
ユーシャはそれを信じることにした。それを信じることしかできなかった。
いま信じられるのは自分だけだ。導いてくれる魔法使いはいない。
空っぽの手を冷たい夜風が通り抜けた。


しばらく木の間を縫うようにして進んだ。
三十分ほどが経ったところで、ひらけたところに出た。

暗闇に目を凝らす。
目に飛び込んできたのは、廃棄されたと思われる石の建造物だった。
遺跡、という言葉が頭を過る。それは小さな城を思わせる出で立ちだった。
しかし、風雨に晒されてきたせいなのか、
それとも何かの意思による破壊行為のせいなのか、大部分が壊れていた。
天井にはぽっかりと穴が開き、壁にも巨大な穴が開いていた。
残骸のようだった。辺りには煉瓦ほどの大きさの石が無数に転がっている。

恐る恐るなかに入ってみる。当たり前だが、暗かった。
どこにも灯りはないし、自分で灯りを作ることもできない。
ひとりでは辺りを照らして建物を観察することもできやしない。
いったい俺には何ができるっていうんだ?


しばらくすると目が慣れて、かろうじて内部の様子を把握することができた。

やはり内部も外部と同じように荒れていた。
奇妙なかたちをした木の家具のようなものはすべて地面に倒れ伏せ、
石の床には何かの本が引き裂かれたのか、
大量の紙が絨毯のように敷き詰められている。
二階に続いていたはずの階段は崩れ、天井からは月の光が射していた。

崩れ去った二階への階段の脇には、もう一つ階段があった。地下に続く階段だ。
でも降りようとは思えなかった。先はあまりにも暗すぎる。そのまま進めば、
闇にすっぽりと飲み込まれてしまうような気がした。
身体が闇に溶けて、もう戻ってこれないような気がした。
その暗さは井戸や沼を思わせた。反射的に身体が震えた。本能的に恐怖を感じた。


ユーシャは、月の光が射しこんでくる一番明るい場所で座り込んだ。
周りに散らばった紙に目を向けてみたが、
何が書かれているのかはさっぱり分からなかった。
分からないことばっかりだ、と思う。

どうすればいい。暗い森は心の湖に張った氷を砕き、小さなさざなみを起こす。
湖の底から、不安と懐疑が気泡のように浮かび上がってくる。
でもそれは気泡のように水面へ姿を見せるのと同時に割れて消えた。

目を閉じて、聴覚を研ぎ澄ませる。風の音が聞こえる。
風で葉が揺れて、こすれる音が聞こえる。
羽ばたく音、吠える声、さまざまな音があらゆる方向から湧き上がってくる。
自分がこの世界の中心に居るような錯覚に陥る。


その時、かなり近くで何かが吠えた。犬とか狼とか、そういう類のものだろう。
ユーシャは低く身構え、壁の大きな穴からそっと外を覗き見た。

遠くに、小さな影があった。影は三つあって、それぞれかたちが違う。
ひとつは三メートルはありそうな巨大なもので、ひとつは犬ほどの大きさだ。
残りのひとつは大きな犬のようなかたちをしていたが、
それは巨大な影から伸びた腕に潰された。甲高い鳴き声が静かな森に響いた。

どうすればいい。ユーシャは考えた。でも止めた。
とりあえず、その場から飛び出した。
剣を引き抜き、駆け足で影の方へ向かう。この森が弱肉強食の世界であるとか、
人間と他の動物は相容れないだとか、そんなことは気にならなかった。
ユーシャを突き動かしたのは、使命感と“なんとなく”という思いだった。
こうすることで前に進めるような気がした。

近づいてみると、影の正体をはっきりと捉えることができた。
三メートルほどの影は、大きな熊のような姿をしていた。
でもそれは熊ではなかった。それには腕が四本あった。
人間でいう肩甲骨のある辺りから、二本の太く長い毛むくじゃらの腕が飛び出している。
そのうちのひとつは血で真っ赤に染まっていた。


隣に目を向けると、前脚と後ろ足の間をつぶされた狼のような怪物が横たわっていた。
先ほど潰された影だろう。もう一つの影も、狼のような姿をした怪物だった。
潰れたものより一回りちいさい。二体は親子だったのだろうか。

ユーシャは二体の怪物の間に割り込んだ。
どちらも逃げ出さなかった。ちらりと狼の方に目をやる。
狼は悲しげな目でこちらを見た。そこに怪物の面影は感じられなかった。
親を失くした子と同じだった。ユーシャは何故かそれを見捨てることができなかった。

剣を引き抜き、構える。熊の怪物は低い声で唸った。
直後に、二本の腕がこちらに振り下ろされた。

軽く身体を捻って躱す。腕は勢いよく地面にぶつかって、土埃を巻き上げた。
その隙に怪物の脇に入り、腕の付け根を切り上げる。
噴水のように血が地面に向かって噴き出し、怪物は絶叫した。
絶叫と共鳴するように森からたくさんのちいさな鳥が飛び立ち、耳障りな音をたてた。


熊の怪物は怒りを目に滲ませながらこちらを睨んだ。
それからもう一度腕を振り下ろした。
脇に避けて、もう一度脇の辺りを、今度は深く切った。
腕はじょうろみたいに血を地面に撒きながら、落ちた。

再び絶叫が響いた。ユーシャはそれを無視して、剣を構える。
そこで、子ども狼が熊の怪物の喉に噛み付いた。

当然、熊は暴れた。首に生えた黒い毛に血が滲んでいく。
熊がその場をのたうちまわろうと、子ども狼の怪物は喉にしがみつき続けた。
やがて熊は力を徐々に失い、抵抗の力を弱めた。


ユーシャはそこで熊に飛び乗って、腹を裂いた。
辺りは血の海と呼んでも差し支えないような光景だった。
そしてユーシャ自身はその血の海を泳いだみたいに汚れた。

子ども狼が裂いた腹から腸を引きずり出して、噛みちぎった。
血の海はさらに広がる。熊はまもなくちいさく身体を震わせ、絶命した。

どうってことはない。こっちの怪物にも俺の剣は通用する。
ユーシャは手応えを感じながら、熊の怪物の死骸からすこし離れた場所に座った。
死骸の脇にはもうひとつの死骸がある。
子ども狼はそのもう一つの死骸に歩み寄り、ちいさく鳴いた。

それは同情を誘う光景だった。
あの狼の怪物にも親が、もしくは慕っている仲間がいたのだ。
でも殺された。あいつはそれを悲しんでいる。でもどうすることもできない。
もうあれは親ではなく、ただの肉のかたまりにすぎない。

子ども狼は途方にくれたように、死骸の脇で佇んでいた。
導いてくれるものを失ったのだ、迷うのは当然だろう。
ユーシャにはそれが他人事には思えなかった。
いったいどうすればあいつの力になれるだろう? と真剣に考え始める始末だった。


「なあ」とユーシャはとりあえず語りかけた。
「悲しいのはわかるけど、ここでずっとこうしてたらお前も死んじゃうぞ」

子ども狼はこちらを見る。今にも涙を流して叫びだしそうな目をしていた。
それからゆっくりとこちらに歩を進めた。
身体が密着するほど近づいてきた子ども狼は
ユーシャの目を見ながら、ちいさく鳴いた。

「なんて言ってるか分からないよ。どうすればいいのかも分からないし、
俺に何ができるのかも分からない」
ユーシャは子ども狼の頭を撫でた。手も子ども狼も、血で汚れていた。

子ども狼は空に向かって遠吠えをした。
耳を劈くような声だった。そして心を揺さぶる叫びだった。
心の底から悲しんでいるように聞こえた。
その叫びは夜空に響き、森の闇に飲み込まれた。

子ども狼はしばらく鳴き続けた。
ユーシャは隣で黙ってそれを聞いていた。そうすることしかできなかった。


五分ほどが経ったところで、背後の草むらが揺れた。
振り返ると、ふたつの光点が見えた。
目を凝らして観察すると、それは怪物の目だった。
遠吠えを聞いて、ここへやって来たのだろう。

ユーシャは立ち上がって剣を構える。
怪物はのっそりと、草むらから出てきた。
また熊のような怪物だった。腕も四本ある。

一体なら、と思った矢先、もう八つほどの光点がユーシャの目に飛び込んできた。
熊の怪物が五体も現れた。ユーシャはすこしずつ後ずさり、剣を鞘に収めた。
熊たちは距離をじりじりと詰めてくる。袋小路に追い込まれたような危機感を感じた。
でもここは袋小路ではなく、(おそらく)巨大な森のど真ん中なのだ。
逃げる道は数えきれないほどある。


ユーシャは子ども狼を抱きかかえて、振り返って駈け出した。
背後では無数の足が湿った地面を蹴る音が鳴った。
背中にナイフを突き立てられたような気分だ。。
それほど暴力的な感情が背中に向かって放たれている。

殺された熊にも仲間や家族がいたのだ、とユーシャは思う。
俺達もあいつらも何も違うことなんてない。

振り返らずに、足を動かした。
いったい俺は何をしているんだ? と一瞬だけ疑問に思ったが、
それについて深く考慮している暇はなかった。必死で逃げた。

腕のなかで子ども狼は大きな声で鳴いた。
背後の足音が増えた気がした。気のせいかもしれない。
でもいちいちそんなことを確認している暇はなかった。





背後の足音が聞こえなくなった。
ユーシャはその場に転がるように倒れこんだ。
足元には大量の枯れ葉があった。悪くない寝心地だった。
枯れ葉は火照った身体から適度に体温を奪っていった。

子ども狼がちいさな声で鳴いた。
ユーシャは手を離し、子ども狼を自由にしてやった。
完全な自由だ。それは目的地も道標もない砂漠に放り投げられたのと同じだった。
どこにだって行くことはできる。でもどこにも辿り着くことはない。
孤独なまま、いずれやってくる穏やかな死を歩きながら待つだけだ。
そしてまた自由になる。

「お前、これからどうするんだ」と
ユーシャは子ども狼の目を覗きこんで言った。

当たり前だが、子ども狼は何も言わなかった。ただユーシャの目を見つめ返した。
その目には喪失感のようなものを感じることができた。
そして微かな希望の光を見るような、淡い期待があった。


ユーシャはため息を吐いて、近くの木に凭れかかった。目を閉じて、耳を済ませる。
風の音、葉のこすれ合う音、鳥の声、羽ばたき――特に異常はないように思えた。
“変化がない”。それはユーシャを不安にさせる。
永遠にこの森を彷徨うことになるんじゃないかと、そんな予感がした。

「なあ。この森の出口はどこなんだ? どれくらい広いんだ? ここ」

子ども狼は首を傾げた。「わからないよ」と言っているように見えた。

「だよな」ユーシャは微笑んだ。「どうしたもんか」

ここはどこで、今がどれくらいの時間なのか、さっぱり分からない。
導いてくれる光がほしい、と切実に感じた。


魔法使い、と思う。彼女の光と炎が、ぬくもりがほしい。
できることなら彼女の身体と心もここにあってほしい、と強く思った。
自分が置いてきたのに、いったい俺は何を思っているんだろう。
今は耐えるんだ、と自分に言い聞かせる。
帰ったら心置きなく甘えればいいじゃないか。

暗い森はユーシャをすくなからず寂しくさせた。
大剣使いが帰ってこなくて、魔法使いが目を覚まさなかった三日間を思い出す。
もっとも孤独だと感じた日だ。
覚めない悪夢のなかから救い出してくれたのは魔法使いだった。
でも彼女は今ここにいない。

周囲の闇に身体を潰されるような気がしてくる。俺は独りだ、と思う。
真っ暗な場所に居る。誰も手を握ってくれない、深い闇のなかに居る。
俺はひとりじゃあ何もできないのに、どうして――


頬を生温かい湿った何かが這った。驚いて横を見る。
子ども狼が舌をちろちろと覗かせながら、こちらを心配そうに見ていた。
頬の皮膚にひびが入ったような感覚がする。
どうやら子ども狼が頬を舐めたらしい。

「なに」とユーシャは言った。「俺はおいしくないぞ」

子ども狼は「分かってるよ」とでも言うように短く吠えた。そして歩き始める。
その背中は言う。「ついてきて」と。ユーシャには確かに聞こえた。

「付いて行けばいいの?」

子ども狼は再び短く吠えた。ユーシャはちいさな背中を追うように歩き始める。



おそらく二時間ほど歩いただろう。またひらけた場所に出た。
廃墟のような建物はない。ただのひらけた円型の空間だった。
周りには深い緑が生い茂っていて、頭上では夜が地上を見下ろしている。
相変わらず変化と呼べるほどの変化はない。
そこで、すこし先を歩いていた子ども狼は足を止めた。

ユーシャも立ち止まる。「どうした?」

子ども狼は前を向いたままちいさく吠えた。視線の先にあるのは茂みだった。
視線の先でなくても周囲には茂みと木と隙間の暗闇があるだけだ。

子ども狼は吠え続けた。
しばらくすると、がさがさと乾いた音をたてて茂みが揺れた。
目を凝らして見ていると、茂みを割くようにして
大きな狼のような怪物がのっそりと歩み出てきた。
体長は二メートルはあるだろう。目は鋭い光を放っており、全身の毛は白かった。

大人狼は品定めでもするみたいにユーシャを睨みつけた。
ユーシャは黙って見つめ返した。

間に立っていた子ども狼は、大人狼に向かって吠えた。
何かを説明しているみたいに見える。
すると、大人狼の背後からもう一体狼の怪物が現れた。
大人狼は二体になった、と思ったすぐ後に、もう一体狼が出てきた。
ユーシャは内心ですこし驚いていると、茂みからはぞろぞろと、
まるでありの行列みたいな数の狼が現れた。


もしかして、拙いんじゃないか? 食われる?
逃げ出したほうがいいのかもしれない、と思ったが、後ろを向いても狼だらけだった。
ユーシャを中心点に円を描くように狼が立っている。どれも真っ白な毛を持っていた。
四方八方から鋭い視線がとんでくる。身体が穴だらけになりそうだ。

子ども狼は吠え続けた。大人狼はこちらを睨み続けた。それは一〇分くらい続いた。
ユーシャは黙ってその場に立ち尽くしていた。ほかにどうしようもなかった。
一匹たりとも襲い掛かってくるものはいなかったし、逃げ出すものもいなかった。
ただ鉄の柵のように冷たく佇みながら、無音の重圧を与えていた。
彼らは“ここから動くな”と目で訴えかけてきているのだ。

やがて子ども狼の鳴き声は止む。
大人狼たちはそれから一〇秒ほど固まっていたが、やがて離散していった。
残ったのはユーシャと子ども狼と、最初に現れた大人狼だけになった。
大人狼は低い声で短く吠えて、草むらのなかに姿を消した。
子ども狼もユーシャに向かって一度吠えて、あとに続いた。
ユーシャは二体に付いていくことにした。「ついて来い」と言われたような気がした。



もう何時間も歩いた。五時間とか六時間が経っているはずだ。
しかし空はいつまで経っても暗いままだった。
森の景色も変わらない。周囲には木と闇があるだけだ。

足がすこし痛み始めた。決して足場は安定しているわけではなかったし、
門をくぐる前にもかなりの距離を歩いたのだ。脚に疲労が蓄積していくのを感じた。
筋肉が強張り、筋が裂けるような痛みがある。
二体の狼にはそんなことは関係無いようで、こちらに目を向けることもない。

「ちょ、ちょっと待って」とユーシャは言った。

こむら返りが起きた。痛みに顔を顰めながら、その場に座り込んだ。
枯れ葉が乾いた音をたてた。そこでようやく二体の狼はこちらに振り返った。
ユーシャは大人狼に向かって笑ってみせた。特に意味はなかったが、笑った。

子ども狼がこちらに歩み寄る。そして大人狼に向かって一度吠えた。
大人狼はこちらをじっと睨んでいた。

「もうちょっと待って」とユーシャは言う。
伝わっているのかは分からなかったが、そうするしかなかった。


大人狼は鼻で息を吐き、ユーシャの服の襟辺りを噛んだ。
なにをするんだ? とユーシャは思った。そしたら上に放り投げられた。
五メートルくらい飛んだ気がした。それは新鮮な光景だった。
心地よさと恐怖が混在する奇妙な感情が湧いた。それも新鮮なことだった。

上に飛んだから、下に落ちる。門の先でもそんな規則は変わらないらしい。
ユーシャは飛んだ時の倍くらいの速さで落ちた。でも地面にはぶつからなかった。
大人狼が背中で受け止めてくれた。

彼(もしくは彼女。性別はわからない)の背中はあたたかく、ふわふわとしていた。
大きな草原で横たわっているような心地よさがあったが、強い獣の匂いがした。

ユーシャは大人狼に跨るように体制を整える。
「乗せてくれるの?」と訊ねると、大人狼は鼻を鳴らした。
「仕方なく乗せてやる」とでも言っているのだろうか。
怒った時の魔法使いみたいだ、と微笑ましく思った。

「ありがとう」とユーシャは言った。

大人狼はちいさく吠えて走り始めた。子ども狼も続いた。
頬をうつ夜風は心地よく感じられた。
まるで自分が四本足で走る獣になったような気分だった。





大人狼は三〇分ほど走ってから立ち止まった。
ほぼ意識が閉じかけていたユーシャは、
あまりに突然の出来事にバランスを崩し、背中から落ちそうになった。
なんとか踏ん張って、何事かと顔を上げる。

森がそこで終わっていた。
先に見えるのは、大きな草原を割くような石畳の道だった。
道の脇には石造りの塔(背は低い)や柱が立っている。
大きなドーム状の石の家のようなものもあった。

“景色が変わった”。ユーシャは嬉しくなった。
狭い視界が一気にひらけたような気分だった。“前に進んだ”。

遠くには光が見えた。大きな光だ。あるいはたくさんの光だ。
遠目で見てもそこに町があるというのが分かった。
ユーシャは大人狼の背中から飛び降りて、彼(もしくは彼女)に向き直る。

「ありがとう」とユーシャは言って、大人狼の顎を撫でた。「助かったよ」

大人狼は気持よさそうに目を細めたあと、べろりとユーシャの顔を舐めた。
よだれまみれのユーシャが引きつった笑みを浮かべると、
子ども狼は嬉しそうに吠えた。

そしてユーシャは光の方へ、狼たちは暗い森へと向かった。
すべては向かうべき場所に向かっていた。


30


毒々しい色は生理的な嫌悪感を湧かせた。胃の中が撹拌される。
頭の中もぐちゃぐちゃになっているみたいな感覚がある。

魔法使いは“門”から飛び出して地面に叩きつけられ、数メートル転がった。
鈍い痛みのなかで体制を立て直そうと試みたが、
うずくまってすこし吐くことしかできなかった。

あらかた胃がすっきりしてから、大きく息を吸い込んだ。吐瀉物の苦い味がした。
でも緑の匂いと冷たい空気は落ち着きを与えてくれた。

口を拭って、尻もちをついて辺りを眺める。
暗い森だった。どこを見ても薄暗かった。
唯一の光と呼べるのは頭上で瞬く星と月だけだった。糸のように頼りない光だ。

「大丈夫?」と背後から声を掛けられた。
振り返ると、そこには少年――勇者が立っていた。「立てる?」

「大丈夫」と魔法使いは言って立ち上がり、尻を叩いた。
「こういうことには慣れてるから」


魔術の光で辺りを照らし、目が慣れてから周囲を見渡す。
見たことのない植物がそこらに生い茂っていた。
どれも廃村の図書館で読んだ図鑑には載っていなかったはずだ。
村の図書館で読んだものにも載っていなかっただろう。
旅の途中で見たどの植物とも合致しない。

間違いない、と魔法使いは思う。
間違いなくここはわたし達がいた世界とはべつの世界だ。

「それで、どこへ向かえばいいのかしら」魔法使いは腰に手をあてて言った。
どこにも目印になるようなものは見当たらない。

「たぶん」勇者は魔法使いから向かって右側を指さした。「あっちだ」

「どうしてそう思うの?」

「さあ。どうしてだろう。直感かな」勇者は歩き始める。

魔法使いは呆れてため息を吐いた。
その後すぐに昔のことを思い出して、口元が緩んだ。
勇者というのは、どうしてどいつもこいつも直感を頼りにするのだろう?

でも頼れるものはほかになかった。
それに、歩かないことには先に進むことができないのだ。


魔法使いは勇者を追うように歩き始めた。足元の草が乾いた音をたてる。
それに呼応するように、どこかで何かが羽ばたく音がした。
間違いなく、この森には数えきれないほどの怪物が跋扈しているはずだ。
念の為に、魔術の障壁を張っておくべきだろう。
魔法使いは呪文をつぶやき、ふたりを魔術の障壁で覆った。

勇者は立ち止まってから振り返り、「これは?」と訊ねた。

「魔術の障壁」と魔法使いは答える。「念の為にね」

「“膜”か」と勇者はつぶやいた。
魔法使いにはその言葉の意味が分からなかった。



三〇分ほど歩いたところで、急に視界がひらけた。
そこで森が一度途切れたようになっている。広場のようだ。

そこには石造りの廃墟のような建物があった。
天井も壁も崩れていて、全体的にも酷く劣化している。
人工物なのは間違いなかったが、ほとんど自然と同化していると言ってもいい。
魔術の光で照らしてみると、表面の石は緑の苔でびっしりと覆われていた。

壁に開いた穴から内部に足を踏み入れる。
石の床には絨毯のように、古びた紙が敷き詰められていた。
古紙には文字のようなものが書かれていたが、読むことはできなかった。
見たことのない文字だ。

辺りには家具や食器のようなものが転げていた。
綺麗な曲線を持った椅子や、細かい模様の刻まれたカップなど、
酷く汚れていたがそれらは単純な家具や食器としての機能と
芸術性を併せ持っているように見えた。見るも良し、使うも良しといったところだ。


さらに奥に進むと、二階へ続く階段があった。が、それは途中で崩れていた。
天井があったはずの場所からは月光が射している。
月光は脇にあった地下への階段を照らしている。

魔術の光で地下への階段を照らしながら下る。
背後からは勇者が付いてくる。ふたり分の足音が響く。

地下にあったのは牢獄だった。
階段を下った先には長く細い通路があり、左右には鉄格子がある。
しかし鉄格子のほとんどは変形していた。どれも大きく歪んでいたのだ。
まるでなかに閉じ込められていた“何か”が格子をねじ曲げて外に出たみたいに。
檻は全部で八つに区切られていた。そのうちの五つが壊れている。
残りの三つは空っぽの胃みたいに綺麗だった。


奥は行き止まりになっていた。大したものはなかった。
もう用はないから出ようと踵を返したところで、
魔法使いは檻の中を凝視しながら立ちすくむ勇者に気がついた。

近くに歩み寄り、「どうしたの?」と訊ねる。

「なんでもないよ」と勇者は答えて、すぐに階段を上がった。

どうしたんだろう、と魔法使いは思い、勇者が見ていた檻の中を見る。

大きく歪んだ格子の向こうには石の床と壁がある。
ふつうの壁と床だ。ただ、左側の壁が大きくへこんでいた。
大きな手形がついたみたいに、壁が変形している。
よく見てみると、その巨大な手形には指が六本分あるようだ。
確かに不思議な光景だった。しかしそれ以外に変わったことはない。
いったいあの子は何を見ていたのだろう?


魔法使いは階段を上って、勇者とともに廃墟をあとにした。

空も森も、相変わらず暗い。
ユーシャは――彼はひとりで、灯りも持たずにこの森を歩いたのだろうか。
そう思うと、怒りや心配よりも先に、とても申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
わたしが彼の進む道を照らすべきなのに、と思う。
何がなんでも付いていかなければならなかったのに、
わたしが眠りこけている間に彼は行ってしまった。

それからまた数時間歩いたところで広場のような場所に出た。
そこには廃墟のようなものはなかったが、湖があった。真っ黒の湖だ。
波や波紋はいっさいなく、魔術の光で照らしても反射することはない。
輪郭は歪なかたちをしていて、それほど大きくはなかった。

湖の中を覗きこんでみると、そこには大量の生物がうごめいていた。
ひとのかたちをしたものもいれば、犬や熊みたいなものもいたし、
虫や魚、竜みたいなものも見えた。
そして強いエネルギーを感じた。引力のようなものだ。


ふたりはそこを通り過ぎ、黙々と歩いた。

歩き始めて一〇時間を過ぎた頃になると、森は終わった。
眼前に広い草原と、石畳の道が現れたのだ。
道の脇には石柱や石の塔が並んでいた。
そして遠くには光が見えた。おそらく、そこに町があるのだろう。
勇者の直感とは案外あてになるのかもしれない。

ふたりは光に向かって歩き始める。
光に吸い寄せられる蛾のようだ、と魔法使いは思った。

空を見上げると、まだ夜の暗さが残っている。
一〇時間経っても空は夜の表情を残したままだった。
でもそんなことはどうでも良かった。
長い夜なんて、べつに今に始まったことではないのだから。
何かがおかしくなったって、べつにわたしはまっすぐやればいい、と強く思った。

進むべき道が曲がりくねっていようと真っ暗であろうと、まっすぐに進めばいい。
そうすれば彼に辿り着く。彼以外のことなんて、後になってゆっくりと考えればいい。
彼と一緒に、じっくりと話し合えばいい。


31


ようやく町までの距離が百メートルほどになった。
こちらに来てからはすでに一二時間以上は経過しているはずだ。
でも空は暗いままだ。
もしかすると、このまま永遠に夜が続くのではないか、とユーシャは思った。

町は低い壁で覆われていた。
怪物の侵入を防ぐための壁というよりは、ただの目印みたいだった。
低い壁の向こうは、今まで歩いてきた
暗い草原とはべつの空間みたいに眩かった。

太鼓の音のような低くずしりと来る音が虚空に響いた。その音は雷を思わせた。
しゃらしゃらと、鈴がなるような音が聞こえた。その音は雨を思わせた。
遠くからは綺麗な唄声が聞こえる。その声は穏やかな風を思わせた。

ユーシャは町の前に立って、しばらくそれらの音に耳を傾けていた。
目を閉じると、故郷の村の景色が見えた。
それはとても懐かしく、色づいたものだった。


「おなちすおど」と誰かが言った。

目を開くと、正面の壁を挟んで髪の長い女性が立っていた。
黒いワンピースを着ていて、ほかは何も着けていなかった。
靴もアクセサリーもない。下着はわからない。着けてなかったらいいのにな。

人間だ、とユーシャは思ったが、違った。
限りなく人間に近い姿をしていたが、耳のかたちがすこし変だった。
耳が“ぴん”と尖っている。大きさも人間と比べると大きい。
しかしそれ以外には何もおかしいところはなかった。

そうだ。目の前に立っているのは、二〇歳ほどのただの女の人だ。
耳のかたちが変わっているだけだ。いや、どうなのだろう。
ユーシャには彼女が怪物なのか人間なのかの区別がつかなかった。

「うおいせでぃうまさうぉこす」と女は続けた。優しい声だった。「えでぃお」

「はい?」とユーシャは言った。「今なんて言ったの?」


「えら」と女は首を傾げて言う。「もしかして、こっちの言葉で喋ってるの?
ねえ。わたしの言っていることの意味が理解できたら頷いて。二回ね」

ユーシャは言われたとおりに二回うなずいた。

すると女は納得したようで、嬉しそうに三回うなずいた。
「うん。やっぱりそうだ。でも今時こんな古い言葉で喋る子はめずらしいよ?」

「そうなんだ」とユーシャは言った。
この女はいったい何のことを言っているのだろう。

「うん。めずらしい。君みたいに若い子は特に」女は微笑んだ。
「まあ、なんだっていいや。そんなこと、今日はどうでもいいよね。
今日はまだお祭りの二日目なんだし、細かいことなんか気にしてられないよね。
もっと楽しまなきゃ」

「そうそう」とユーシャは言った。今日はお祭りの二日目?

「君もこっちに来なよ。そっちは寒いでしょ?」

「うん」ユーシャは低い壁を跨いで、町に踏み入った。
壁の内側に入った瞬間に、身体が温かい空気で包まれた。


町は東の王国とか西の王国の城下町と同じくらい大きく、
同じくらいかそれ以上に賑わっていた。
階段の多い複雑な地形で、足元には川が流れていた。
川の水面は光を反射しながらゆらゆらと揺れている。

遠くには大きな城があった。
城だけは喧騒から除外されたようにひっそりと佇んでいる。
それ以外はどこを見ても光と笑顔があった。
町全体が金色に輝いているように見える。

「君もひとりなの?」と女は言った。

「そうなんだよ」とユーシャは言った。

「寂しくない?」

「たぶん、すごく寂しい」

町は賑わっているが、自分の周りだけが空間とのつながりを
拒絶しているような感覚がある。
自分の纏っている空気が、周囲に溶け込まないのだ。


「よし」と女は笑った。「いっしょに行こう」

「どこへ?」

「どこだっていいよ。とりあえず何か食べよう。お腹減ってるでしょ?
お腹が減ってるときは孤独を強く意識しちゃうんだよ」女は歩き始めた。
それから振り返って言う。「うかやーふ」

「え?」

「“早く”って言ったの。うかやふ。うかやーふ!」

わけがわからないままユーシャは女の隣に並んでから歩き始める。


川の上で緩やかなアーチを描く石橋を渡ると、大きな通りに出た。
大通りには多くのひと――あるいは怪物――がいた。

みんな耳がぴんと尖っていた。男も女もいた。
肌の色はばらばらだった。みんな楽しそうだった。
隣を見ると、女も楽しそうに目を細めていた。
ユーシャも自然と頬がほころんだ。

綿毛のように、そこらに淡く黄色い光を放つ球体が漂っている。
風に煽られて、高く舞い上がったり川に沈んだりした。
それは意思を持った生物のように見える。
まるでお祭りを楽しんでいるように見えるのだ。

街全体が淡く、黄色く発光しているように感じられた。
自分はそのなかにいる。黄金でできた町を歩いているような感覚がした。
でも町には金属的な冷たさはない。どこもあたたかかった。

身体が火照ってくる。おかげで感覚は鈍くなっていったが、
しっかりと何かの音が身体を揺さぶり続けた。
太鼓の音、鈴の音、唄声、人びとの喧騒。
白と黒が混ざって灰色になるように、
ユーシャの纏っていた空気は町の空気で中和された。


「君、もしかして眠かったりする?」と
女は身を屈めて、こちらの目を覗きこむようにして言った。

「ちょっと眠いかも」

「お祭りの前日はよく寝なかったの?」

「うん」とユーシャは適当にうなずいた。
「それに、昨日はずっと歩いてたから疲れてるんだ。一〇時間くらい歩いてた」

「そりゃあたいへんだ」女は目を丸くしてから微笑んだ。
「どうして一〇時間も歩くことになったのかは気になるけど、
そんなことを聞いてる時間がもったいないよね。
だってお祭りは年に三日しかないんだもの。
とにかく、寝ちゃだめだよ。寝たら死ぬと思って」

「頑張ってみるよ」

「その意気だ。頑張るんだよ。わたしも眠いけど頑張るよ」

「その意気だ」とユーシャは言った。


大通りの左右には、簡素な小屋が綺麗に並んでいた。
甘い香りや香ばしい香りが立ち上り、町を覆う。
小屋のひとつに目を向けてみると、ちいさな鳥を丸焼きにしたようなものがあった。
きつね色の皮が空腹感を思い出させ、腹を鳴らした。
涎が湧いてくる。門をくぐってからは何も食べていないのだ。

「あれが食べたいの?」と女は言った。

ユーシャはうなずいた。「おいしそう」

「おいしいよ。もらってきてあげる」

「ありがとう」

「ありがとう」と女は言ってから、「うおたぎら」と続けた。

「うおたぎら?」

「“ありがとう”って意味。覚えておくといい。たぶん役に立つよ」

「分かった」とユーシャは言って、「うおたぎら」と言った。

「えちさみさちうおづ」と女は言い、
駆け足で鳥の丸焼きのようなものを貰いに行った。


一分もしないうちに女は戻ってきた。

ユーシャは女からそれを受け取って口に入れた。
顎の骨に何かびりびりとしたものが走るような感じがして、涎がさらに湧いてきた。
肉は柔らかく、簡単に咀嚼できた。よく噛んでから飲み込んだ。
肉はつるりと喉を通り抜けて胃に送られる。
胃のなかに何かが入ってきたと感じることができた。

謎の鳥肉を食べ終えると、女は再び歩き始めた。ユーシャも隣に並んだ。
永遠に続くような明るい通りを歩いていると、女が立ち止まってどこかへ行った。
と思ったら一分もしないうちに戻ってきた。
手には木の枝に刺さった綿のようなものを持っていた。

「それは何?」とユーシャは訊ねた。

「えまたう」と女は言った。

「えまたう?」

「わたあめともいう」と女は言った。「知らない?」


「知らない。はじめて見た」

「君、相当かわってるね。
もしかして、今度はこの町の住民じゃないとか言い出すの?」

「ここだけの話をすると、俺はこの世界の住民ですらないんだ」

女は大きな目を瞬かせた。それから笑った。
「君、おもしろいね。なかなかおもしろい冗談だよ。八〇点くらい」

「うおたぎら」とユーシャは言った。「それで、その綿は何なの? 食べ物?」

「そう。食べ物。甘くておいしいんだよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」と女はユーシャの口に綿を押し付けた。


綿はべとべととしていた。舐めてみると、確かに甘かった。
舌に触れた部分から綿は消えていった。
口のなかに入ってきたと思ったら綿は縮んで、甘い味だけを残して消えた。
なんだこりゃ。

「食べ過ぎ」と女は言って、綿を取り上げた。

「ごめん」

「どう? おいしかった?」女は取り上げた綿を頬張りながら言った。

「甘くておいしかったよ。口のなかに入ったらすぐに消えちゃったけど」

女は笑った。「君はほんとうにおもしろいな」


大通りを二〇分ほど歩くと、広場に突き当たった。
広場は円型で、円の輪郭に沿って人々(あるいは怪物たち)が並んで、
またちいさな円を作り出している。
中心では綺麗な服を着た数人の男女が踊っていた。

自分の服を見てみると、泥と黒ずんだ血で酷く汚れていた。
でも誰もそのことを咎めるものはいなかったし、
刺々しい目線を向けてくることもなかった。

「お金持ちはああやって、みんなに踊りを見せたがるんだよ」と女は言った。

「へえ」とユーシャは言う。
「でも、綺麗な踊りだと思う。それにみんなも見たくてここに来てるんだろう?」

「そう。でもわたしはそれがまた気に入らないというか、なんというか」

「もしかして、きみもあんなふうに踊りたいの?」

「どうなんだろう」と女はぼんやりと踊りを眺めながら言う。
綺麗で淋しげな目だった。「分からないよ」

「そっか」


しばらくはお金持ちの踊りを眺めていた。
たしかに服装はぴかぴかとしていて、踊りからはどことなく気品が感じられた。
べつに踊りに詳しいわけではないから細かいことは分からなかったが、
見ていて落ち着くというか、心の安らぐような踊りを見るのははじめての事だった。
よどみなく流れる川のように、彼らは舞い続けた。
薄い布がふわりと、緩やかなカーブを描いた。

踊っているものも、見ているものも、純粋な楽しみに満ちていた。
ただ、隣の女だけが淋しげな目で踊りを見ていた。
その目は北の大陸での最後の夜の魔法使いを回想させた。

目を瞑る。魔法使い、と思う。あいつがこの景色を見たら、何と言うだろう?

「行こう」と隣の女が言い、踵を返して歩き始めた。

ユーシャは黙ってあとに付いていった。


すこし引き返したところで、橋の脇にある階段を下った。
あまりにもひとの流れが多いので、それだけでも一苦労だった。

階段を下った先は、川だった。眩しいくらいに黄色く光る川だ。
川沿いには木のテーブルと椅子がどこまでも並べられている。

ところどころに、椅子に腰掛けて酒をあおるものがいた。
ほとんどがへべれけに見える。
顔は真っ赤だし、川に飛び込むものもいた。
大声で笑うものもいれば大声で唄うものもいた。

並んだ椅子のひとつに女は腰掛けた。ユーシャも隣に座った。
女はテーブルの上に散らばったボトルを一本掴んで呷った。
口から酒が溢れるくらいに女は酒を喉に流し込んだ。

ユーシャは黙ってそれを見ていた。
やがて女はボトルを口から離して、テーブルの上に置いた。
空っぽの音がした。


「君も飲みなよ」と女は言った。

「俺はいいよ。というか、飲めないんだ」

「お酒はいいもんだよ。
わたしはお酒を飲むと嫌なことを忘れられて、正直になれるの。
でも眠くなるし、次の日は頭が割れるくらい痛くなる。
でも飲まないわけにはいかないときもある」

「何か嫌なことでもあったの?」

「分からない。でも踊りを見てるとすごくもやもやした」
女はユーシャの目を覗きこんで言う。
「わたしは今からものすごく酔っ払うけど、その時わたしは正直になるから、
酔っ払ったわたしのいうことを聞いてね。たぶんわたしは潰れて忘れちゃうけど、
それはわたしがほんとうに望んでいることだから。分かった?」

「分かった」

女は次々とボトルを開けて飲み干していった。
一本を飲み切るのに一分しかかからなかったり、四〇分以上かけたりした。
ユーシャはただそれを眺めて、女の口から紡がれる言葉に耳を傾けた。
勢いでよく分からないことを口走ることもあった
(おにいしますこぐす、と言っていた)が、ユーシャはずっと話を聞いていた。
そうすることしかできなかった。


一時間で四つのボトルが空になった。女は完全にへべれけになっていた。
顔は真っ赤で、なんだか気分がよさそうだった。

女は頬杖をついて言う。
「よおし。じゃあ言いたいことを言うよ。
耳をかっぽじって聞くように。分かった?」

「分かった」

「よろしい」女は満足そうに笑った。
「君が言ったとおりだよ。わたしは踊りたい。すごく踊りたい。
分かる? 分かるよね。でもわたしは分からなかった。
おかしいよね? わたしはおかしいの。
そりゃあずっとひとりでいたもの。寂しくて気が狂っちゃいそうだったよ。

昔から思ってたの。わたしも誰かと踊りたいなあって。
誰かとお祭りに行きたいなあってね。分かる? 分かるよね。
わからないわけがないよ。君もひとりなんだから」

「分かるよ」とユーシャは言った。


「うんうん。君はいい子だ。
わたしは逃げるためによくお酒を飲むけど、
それは何の解決にもならないんだよね。分かってるの。
分かってるけど、どうしても事実と向き合えないことがあるわけだ。
わたしはだめだからね。

でも君はお酒を飲まない。
どうして逃げないの? それともほかに逃げる方法があるの?
それともみんなは逃げなくて、わたしだけがおかしいの?
わたしにはわからないよ。誰も教えてくれなかったもの。
ねえ、わたしはだめだからひとりなのか、ひとりだからだめなのか、
どっちなんだろうね? わからないよね?」

「たぶん」とユーシャは言う。「ひとりだからだめなんじゃないかな」

「そうか、そうかあ。じゃあわたしは誰かといる時は、だめじゃないの?」

「ぜんぜんだめじゃないよ。
俺はきみに声を掛けられて嬉しかったし、今もたのしい」

「たまに優しい言葉をかけてくるひとって、すごくずるいよね。君みたいにさ。
でも普段誰も声を掛けてくれないとさ、それがほんとうにうれしいんだよ。
嘘だって分かっててもうれしいんだよ? だからわたしは今すごくうれしいの。
ほんとうにうれしいんだよ? 分かる? お願いだから分かってよ」

「分かるよ。それに、俺は嘘なんて言ってない」


「そうそう。共感を得られるっていうのもね、すごくうれしいの」
女は口をぱくぱくさせながら涙を流し始めた。
「分かる? すごくうれしいの。すごくうれしいとはいうけれど、
ほんとうは言葉じゃ足りないくらいにうれしいの。
君がこうやってわたしに向かって頷いてくれるのがさ、うれしいわけだ。
うれしいばっかりだ。ばかみたいだよね。語彙が貧弱なんだよ、わたし。
でもうれしい。すごくうれしいしたのしい。

ほんとうは、お祭りは明日までずうっと続くんだけど、もういいや。
今日が今までで一番の日だ。
明日なんてどうでもいいよ。もうみんな死んじゃえばいいんだ」

「もしかすると、明日が今日以上にたのしい日になるかもよ」

「そうやって楽観的に考えることが出来るのって、素敵だと思うよ。
でもわたしにはそんなことできない。わたしは、できることなら眠りたくない。
分かるかな? 当たり前だけど、寝て、目を開いたら朝なんだよね。
それがものすごく悲しいの。

わたし、毎日、明日なにかいいことが起こりますようにって祈りながら寝るんだよ。
ばかみたいでしょ? それで起きたら、
なんにもないんだよなあ、これが。笑えないよ」


「でもきみはずっと今までやってこれたんだろう。ひとりで」

「惰性でね。ある地点を通過した時から、世界から色は消えるんだよ。
でもある地点にたどり着くと、世界は色を取り戻す。
わたしの言いたいことは分かる?」

「分かる気がする」

「よろしい。きみはほんとうにいい子だ。
それで、わたしの世界に色が戻ってきたんだよ。今ね。たった今。
身体は熱いし、胸がどきどきするんだよ。わたしの言いたいこと、分かる?」

女は泣きじゃくりながら弱々しく微笑んだ。
「はい。これでわたしの言いたいことは終わり。
きみはもうわたしを放ってどこに行ってもいい。
わたしはひとりでいるべきなんだよ、たぶん。分かるんだよ。
もう終わりだよ。全部終わり。何もかもおしまい。
黄金の微睡みから覚めたわたしは、重荷を背負ってから終わるんだよ」

「よし」ユーシャは椅子から立ち上がって、女の手首を掴んだ。
「じゃあ踊りに行こう」


「え?」と女はきょとんとして言った。「どこへ? 誰が?」

「さっきの広場で、俺ときみが踊る」

女は目を細めて笑った。長いまつ毛がきらきらと輝いて見える。
それはとても素敵な笑みだった。
「さっきの広場はだめだよ。あんなところで踊ったらわたし達、痛い目に遭っちゃうよ」

「そっか。じゃあ、どこで踊ろう?」

「ほんとうにわたしなんかと踊ってくれるの?」

「もちろん。どこで踊りたい?」

「じゃあ」女は立ち上がった。「ここで踊る」


「分かった。一度も踊ったことなんてないけど、頑張ってみるよ」

「わたしだって踊ったことなんてないよ」

「でもきみのほうが踊りについては詳しいと思うから、任せるよ」

「任せるって、何を?」

「全部」とユーシャは言った。

「分かった」女はユーシャの手を握って笑った。「川に落っこちても知らないよ」

「そんなことはないって信じてるよ」

「わたしみたいなやつを信じちゃだめだよ」

「俺は信じてるよ」

「ありがと」


女は微笑んでからユーシャの手を強く握って、ゆっくりと踊り始めた。
ユーシャは足がもつれそうになったが、なんとか女に合わせて動いた。
踊りというのは、実際にやるのは簡単なことではないらしかった。
見ていた時とは大違いだった。見ているだけなら簡単そうに見えたのに、
自分が踊ってみると、親の真似をする子のような動きになってしまう。
女の動きを遅れて追いかけるかたちになってしまう。

周りから見ればそれは決して綺麗な踊りではなく、不細工な踊りだっただろう。
でも女は楽しそうだった。周りの目などどうでもいいのだ、とユーシャは思う。
今、この場所が光っていればいい。
今は彼女が主役で、ほかはただの石みたいなものだ。

女は手を離して、その場でくるくると回った。
ワンピースのスカート部分がふわりと浮いた。
しばらく回ったあとに、「ほ」と言いながら手を広げて、彼女は止まった。


「なんだそりゃ」とユーシャは言った。

「分かんない」と女は言って、ユーシャの手を握りなおした。
「君からはすごくいい匂いがするね」

「いい匂い。どんな?」

「おいしそうな匂い。甘いとか辛いとかそういうのじゃなくて、
もっと漠然としてる。でもおいしそう」

「分からないよ」


ふたりはもう一度同じように踊った。
へたくそで不細工な踊りだったが、それは誰かの何かに響いたらしかった。
気がついたら周囲には人だかりができていた。
橋の上では欄干に沿ってひと(あるいは怪物)が並び、こちらを見下ろしている。

どこかから誰かの声が聞こえた。
指笛が聞こえた。太鼓の音や鈴の音も聞こえた。
周りの景色は輝いて見える。
目の前の女は笑っている。観客たちも楽しそうにしている。

しばらくして女はまた回った。
そして先ほどと同じように、「ほ」と言って止まった。

そこでちいさな拍手が湧いた。
女は拍手の方に目を向けると、恥かしそうにはにかんだ。
どうやら橋の上の観客には気づいていなかったらしい。

「うおたぎら」と彼女は叫んだ。

拍手が大きくなった。
誰かが川に飛び込んだ。水しぶきが光の粒のように跳ね上がった。
ユーシャは彼女に向けられた拍手のなかに
佇みながら、魔法使いのことを想っていた。





女は酔いつぶれて、机に突っ伏すようにして眠った。
彼女が眠っただけで、町には活気が漲っていた。
どこを見ても光があるし、喧騒がある。
彼女だけが町から取り残されたみたいだった。

ユーシャもすこし眠ることにした。
身体が休息を求めていた。瞼が重いのだ。
一度目を閉じたら簡単に意識は閉じた。
自分の深みのなかで、魔法使いの夢を見た。
真っ暗な空間で、ただ魔法使いと言葉を交わし、身体を交えるだけの夢だった。

次に目を開いた時もお祭りは続いていた。
空は相変わらず暗いし、女はちいさく寝息をたててテーブルに突っ伏している。
いったいどれほどの時間眠っていたのかは
分からないが、身体は完全に回復していた。
夢で魔法使いに会ったからかな、と適当なことを思った。
身体が温かくて勃起しているのはたぶん夢のせいだ。

全身に力が漲っている。身体も軽く感じる。感覚は針のように研ぎ澄まされてる。
空腹感もないし、寒気みたいなものもない。完全な自分だ、と思う。
今までこんな自分に出会ったことはなかった。


しばらくしてからユーシャは立ち上がって歩き始める。
彼女が目を醒ました時、彼女はひとりだ。
すこし悪いことをしているような気持ちになったが、進まなければならない。

俺には待たせているひとがいるじゃないか、と自身に言い聞かせる。
魔法使い、魔法使い。すぐに頭のなかは魔法使いのことで埋め尽くされた。
彼女の笑った顔が鮮明に見えるような気がした。早く逢って抱きしめたい、と思う。

どこへ向かえばいいのかは、おおよそ検討がついていた。
遠くに見える暗い城を見据える。誰かが呼んでいるような気がした。
ユーシャは光の大通りを目に焼き付けるようにゆっくりと歩いて、暗い城を目指す。


32


町は金を散りばめたみたいにきらびやかで、森のざわめきのように賑やかだった。
中にはひとの姿も見える。と思ったが、
よく見てみると見知った人間という生物とはすこし異なるものだった。
でも大部分は同じだった。違うのは耳だけだ。
彼らの耳はみんな、ナイフの先端のように“ぴん”と尖っていた。

勇者は町を囲う低い壁を跨いで、町のなかに入った。
急に気温が上がったような気がした。

魔法使いがあとに続いて中に入ってくる。
すると彼女は感心したように、「障壁」とつぶやいた。

「障壁?」と勇者は訊ねた。


「魔術の障壁」と魔法使いは言う。「見えない壁みたいなものが町を覆っているのよ。
多分、この町に温かい空気を閉じ込めるためだけの壁ね」

「怪物の侵入を防ぐためとかではないんだ?」

「違うと思う。それだったら、わたし達は障壁をくぐれなかったはずよ」

「そっか」勇者は魔術の村を覆っていたドーム状の“膜”のことを思い出す。
似たようなものだが、すこしばかり異なっているらしい。

そしてどうやら町ではお祭りが催されているらしかった。
黄色い光の球がそこらじゅうに浮き、太鼓や鈴、唄声が辺りに満ちている。
光の球は眩しいくらいに輝いていた。この町だけが昼みたいな明るさだ。

耳の尖った人々は笑い、大きな通路を川のように流れている。
大人もいれば子どももいたし、肌の黒いものもいれば白いものもいた。


しばらくはあてもなく歩いてみた。
腹が減るような香りが漂っている。香ばしい香りや甘い香りがした。
気味の悪いお面を付けてはしゃぎ回っている子どもたちが脇を通り過ぎた。
誰もが楽しそうにしていた。まるで自分たちだけが
置いてけぼりを食らったような気分だった。

胸に大きな穴が空いていて、そこを温かい風が通り抜けた。
吐き気がした。

「いったい、夜はいつまで続くのかしら」と魔法使いが空を見上げてつぶやいた。

勇者も空を見上げた。町が明るすぎて、星は見えない。月だけは見える。
こちらに来てから一二時間以上は経過している筈なのに、未だに夜は続いている。

“表”と“裏”は根本的なところは違うのかもしれないが、
表面上はとても似ているように思える。
森も町も、“裏”にあってもおかしくないようなものだ。
大きく違うことなんて、空以外、今のところはない。


ゆっくりと空から視線を下げていくと、暗い城が見えた。
それは昔からそこにあって、忘れ去られた大きな岩のように佇んでいた。
決して美しい姿とは言いがたかったが、胸を打つ何かを持っていた。

その城は勇者の心を揺さぶった。
内に湧き上がったのは泥水のような汚いものだった。
泥水は吐き気を湧き上がらせ、肌を粟立てた。

次に湧き上がったのは激しい高揚だった。
見えたのは旅の終わりだった。
力が湧いてくる。殺意が湧いてくる。誰かが呼んでいる。

「あそこに魔王がいるんだね」と影は言った。
「なあ。魔王を倒したら、きみはどこへ行くんだい?」

問いには答えなかった。相反するふたつの考えが燻っている。
単純なことだ。どこかへ行くか、どこにも行かないか、それだけの事だ。
惰性で生きるか、自らの意思で死ぬかのどちらかだ。

もう自分に残された意味は魔王を討つことしかなかった。
居場所もなければ行く先もない。空っぽの手は酷く汚れている。
この手の中に誰かの手があっただなんて信じられなかった。

「あの城だ」と勇者は静かに言った。「あの城に魔王がいる」

魔法使いは何も言わずに城の方を向いた。
表情からはどんな感情を読み取ることもできなかった。
さまざまな感情が彼女の顔には浮き上がっていた。
それはなんとなく、僧侶のことを想わせた。


勇者は黙って歩き始めた。魔法使いが後ろから付いてくるのが分かる。

まもなく大きな川に架かった橋に着いた。川の水面では光の粒が踊っている。
川が呼吸しているみたいに見えた。

橋の脇には細い階段があって、そこから川沿いに行けるらしい。
川沿いの石畳の上には木の椅子とテーブルが並んでいる。
テーブルを囲うようにして酒を飲み交わすものが幾人もいた。

その中で、ひとりテーブルでボトルをあおる女性がいた。
椅子に深く持たれながら、右手で酒を喉に流し込むようにしていた。
口からは酒がこぼれていた。

酷く淋しげな光景だった。
背もたれに頭を乗せて空を見上げているおかげで、長い髪が地面につきそうだった。
賑わう町の中で、その女だけが置いてけぼりを食らったように見えた。
勇者は酷く胸を痛めた。その女は、僧侶にとても似ていたからだ。


ゆっくりと階段を下りて、女の元に向かった。
女は生気の失われつつある目でこちらを見て、
「えらづ」と言った。「あくせづおやきなん」

勇者は黙って女を眺めていた。
ほんとうによく似ていた。でも別人であるというのは確かだった。

「この人は誰?」と背後の魔法使いは言った。「知り合い?」

勇者は首を振った。「違うけど、すごく似てるんだ。僕の友だちに」

「ああ」と女は言った。
「またこっちの言葉で話す人に会っちゃったよ。
わたしが何て言ってるか、分かる?
ちゃんと伝わってる? 伝わってたらうなずいて、二回ね」

勇者と魔法使いは二度うなずいた。

「よおし。まあ座りなさいな。ちょっとゆっくりしていこうぜ」
女は嬉しそうに言った。

「何、この人」魔法使いが訝しげに言った。


勇者は黙って椅子に腰掛けた。魔法使いも隣に座った。
テーブルの上には空のボトルが散乱している。女は完全に酔っ払っていた。

女は言う。
「よおし。今からわたしは言いたいことを言うよ。聞きたくないなら逃げても良いし、
鬱陶しいと思ったら殺してくれたって構わないよ。
とにかくわたしは話したいわけだ。わたしは死んでも話し続けるよ。
わたしがこうやって話すことができるのはあとすこしだけなの。分かった?」

「分かった」と勇者は言った。

「空白の時間ってあるじゃない。
誰にも知られることのない、意味のない時間みたいなやつ。分かる?
まあべつに分からなくてもいいよ。
無駄な努力を行った時間とか、ひとりでいる時間とか、そういう時間。
でさ、有意義な時間と無意味な時間、きみの時間はどっちのほうが多いと思う?」

勇者はすこし考えてから、「無意味な時間」と答えた。


「君とは気が合いそうだ」と女は言う。
「そうなんだよ。君の時間は無意味な時間のほうが多い。
でもわたしの時間は無意味な時間でしかないわけだ。
そして無意味な時間を、無意味な努力に費やしたんだよ。
こんな誰も話さないような言葉を覚えるために、ひとりでずうっと闘ったわけだ。

それで、覚えちゃったら次は何をすればいいのかが分からいんだよね。
でも考えれば分かるんだよ。
覚えた言葉を活かす方法を探せばいいんだよ。当たり前だ。

この言葉はすごく昔の言葉だから、
たとえば昔の文献を読み漁ってみるとかね、あるじゃない?
それでわたしはそのことに気付くまで何年もかかったわけだ。

空白の時間に何をしていたかなんて、何も思い出せないよ。
ほんとうに真っ白なんだ。ひとりで、真っ暗で、真っ白なんだよ。分かる?」

勇者も魔法使いも黙っていた。


「そんな無意味な七〇年を送ってきたわけだけど
――ああ、今わたしは七〇歳なの。
知ってる? 七〇年間ひとりだったんだよ?
知ってるわけないよね。わたしはひとりだったんだもの。

どうせ七〇のくせに餓鬼みたいな喋り方だとか思ってるんでしょ。
知ってるかな、孤独は心を凍らせるんだよ。
そうしないと壊れちゃうからね。そこから心は前に進めなくなる。

まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。
君たちだってどうでもいいと思ってるはずだ。

それで、ここからが本題ね。
七〇年という無意味な時間が過ぎていったんだけどね、
わたしは昨日、とても有意義な時間を過ごしたの。
それはほんの一時間くらいだったけれど、
わたしはすごく嬉しかったわけだ。分かる?

昨日ね、君たちと同じような言葉を話す男の子に会ったんだよ。
髪の短い、汚れた子。それと、手にへんなかたちの痣があったかな。
まあとにかく、その子と踊ったの。君等と同じように耳が丸かったなあ、そういや。
この世界の住人じゃないとか、おもしろいことを言うんだよ」

魔法使いは大きく目を見開いた。が、黙って女の話に耳を傾けた。昨日?


「無意味な時間だと思ってた時間は、彼のおかげで
全て意味のある時間にかわったんだよ。分かる?
わたしがこの言葉を喋れなかったら、
わたしと彼は会話を交わすことなく終わっていたはずなんだよ。

あの子と踊るために七〇年間こうやって生きてきたと思うんだよね、わたしは。
昨日こそがわたしの生きている中でもっとも輝いている時間だった。
でも昨日は終わった。今日がお祭りの最後の日で、
次にわたしが眠って目を開いたら朝が来てるんだよね。
信じらんないよ。

あの子はわたしのことを信じてくれたし、わたしといっしょに歩いてくれたわけよ。
それがどういうことか、分かる? わからないよね。わからないでほしい。
わたしを世界で一番不幸なやつでいさせてよ。誇れることはそれしかないの。
わたしは世界で一番不幸で、昨日だけ世界で一番幸せだった。そう思いたいの」

深呼吸。

「――それで、町にはいろんな言葉が溢れているわけだけど、
それはどれもわたしの中には響かないの。
だって誰もわたしに声をかけているわけじゃないからね。当たり前だ。
町の言葉は心の炎を消すんだよ」


女は魔法使いの方を見た。「そこの君にも、今に分かると思うよ」

「何が」と魔法使いは言う。「あなたみたいな奴に、何が分かるっていうのよ」

女は声を上げて笑った。
「“あなたみたいな奴”だってさ。君はわたしの何を知ってるっていうの?
まるでわたしと同じ奴が世に溢れてるみたいに言っちゃってさあ。
わたしはわたしだ。唯一無二なの。

分かってるよ。分かっているとも。みんなわたしのことを見下してるんでしょ?
わたしを階段か何かとでも思ってるんでしょ? 踏みつけるためにそこにあって、
誰かを引き立たせるためだけにそこにあるとでも思ってるんでしょ?
オアシスを囲う砂漠みたいにさ。わたしは邪魔者でしかないんでしょ?

でもわたしには分かるよ。
砂にしかわからないこともあるし、階段にしかわからないことだってあるんだよ。
襤褸雑巾にしかわからないこともあるし、
道端に転がる石にしかわからないこともあるんだよ。

“町の言葉は君の心の炎を消す”。
それはほんの些細なことで、君に牙をむく。わたしの予感は当たるよ?」

「でもわたしはあなたとは違う。
わたしはひとりじゃないから、そんなことで潰れたりしない」


「ふうん。この子が君を救ってくれるとでもいうの?」
女は勇者の方を見て、弱々しく微笑んだ。
「うらやましいなあ。すごくうらやましいよ。すごく苛々する。激しく嫉妬しちゃうね。
愛ってやつだね。わたしだって男と寝たことはあるけど、
あいつらとわたしの間にはそんなものはなかったな。

あいつらから見ればわたしはただの道具なんだもの。
性欲を解消するためだけに彼らはわたしと寝たわけだ。
お金を貰ったから偉そうなことは言えないけどさ。

対等な関係であるみたいに言ってるけどね、
わたしは彼らの道具なんだよ。宝石とかそういうんじゃなくて、もっと汚いやつ。

宝石ってのは、綺麗なだけでちやほやされるから楽でいいよね。
なにより丁寧に扱われるしさ。性格とか胸の柔らかさとか感じやすさだとか
締め付け具合だとか、誰も文句を言わないだもの。
存在しているだけで輝くことができるんだよ。
わたしには光る石ころにしか見えないのにね。


自分で言うのもなんだけど、わたしはどちらかというと綺麗な顔をしてると思うんだよね。
君と違って胸もそれなりにあるし。
でもさ、反吐に宝石を散りばめても、それの本質は反吐じゃない?
吐瀉物だとか嘔吐物だとかゲロだとか、結局は同じだよね。
たとえそれが宝石に囲われていたとしても。

多分そういうことなんだよね。物事にはふさわしい場所があるんだよ。
わたしの身体は、ほんとうはもっと愛されるものに与えられるべきだったってわけ。
わたしは光る石ころ以下。性欲を解消するための道具。
そんなのは屑籠と何も変わらないよね。

分かってるよ。わたしにはそれがお似合いだって言いたいんだね。
それとも、血反吐撒き散らして屑籠に謝れって言うのかな?
あいつらみたいに髪を掴んでわたしの頬を殴るんだ?

ねえ、あいつらおかしいんだよ。
あいつら、わたしが苦しそうにしてるのを見て性的興奮を得るんだよ。おかしいよね?
いや、わたしがおかしいのかな? ああもう、分からない。すごく苛々する。


知ってる? 殴られた箇所は痣にならないでちいさく腫れて、
眠るために横になったら痛むんだよ。見えないけど確かに傷があるんだよ。
そこにはあらゆる苦痛が詰まってる。
肉体的にも精神的にも、それは苦しくて痛い。

それで目を閉じてやっと糞みたいな場所から逃げられたと思ったら、
わたしは夢のなかでも殴られるの。
苦痛は夢の中にまで侵入してくるんだよ。で、起きたらわたしはひとりだ。

そこには恐怖しかないよ。恐怖は心を支配するんだ。とても簡単に。
それは出口のない迷路で迷うみたいに簡単なことだ」

女はそこで一息吐いてから、
「まあとにかく話を戻すと、君たちは愛し合っているわけだ。違う?」と言った。

「違う」と魔法使いは言った。
「あんたの話なんてどうでもいいけれど、わたしを救うのはあの馬鹿だけよ。
あなたと踊ったその髪の短くて汚い男が、わたしを救うの。分かる?」


「何を」女は腹をたてたらしい。表情が分かりやすく歪んだ。
「何を根拠にそんなことを言うの?」

「あんたと踊った男ってのは、どうせあいつに決まってるわ。
ちなみに痣は星形。それで、もともとその痣の下にはハートのかたちの痣があった。
あいつは困ってるやつを放っておけないおせっかい野郎なのよ」

「じゃあ、何……」と女は口をちいさく開いて言った。
「あの子はひとりじゃなかったってこと?」

「あいつにはわたしがいるもの。ひとりなんかじゃない」

「でもあの子、ひとりですごく寂しいって言ってた」

「わたしがいないからよ」

女は暗い目で魔法使いの目を覗きこんだ。
魔法使いの目には炎が灯っているように見えた。

「なんだ……」女は空を見上げて言う。
「結局ひとりなのはわたしだけで、わたしはひとりで浮かれてたわけだ?」


「そうね。あなたは昨日、ある意味では世界でいちばん幸せなやつだった」
と魔法使いは言い、「それで、そいつはどこに行ったの?」と訊ねた。

「知らない。あの子と踊ったあとに、わたしは眠っちゃったの。
あんまりはしゃいだもんだから、疲れて。
それで目を覚ましたらあの子はもういなかった。
わたしを置いて、どこかに行っちゃった」

「あいつはいつもそうなの」と魔法使いは言い、立ち上がった。
「あいつはいつも途中で逃げるのよ。
あいつはわたしがいないと、何も出来ないんだから」

「わたしは捨てられたわけだ?」

「拾われてすらいない。あんたは道端に転がってた石と同じ。
ただ蹴られただけよ。それですこし前に進めた。
良かったじゃないの、今まで立ってた場所を振り返ることができるんだから。
もう一度、過去の自分をよく見てみればいいわ。
今もそんなに変わらないでしょうけどね」

女は机に突っ伏して、泣きじゃくり始めた。勇者は黙ってそれを見守っていた。
僧侶の面影を持つその女が求めているのは、もうひとりの勇者だった。
そして彼女が求めていたのは勇敢な戦士だった。

「きみの居場所はどこだ」と影は言った。「きみは誰を救うことができる」


「自分を救えるのは、自分自身だけだ」と勇者は誰かに向かって言った。

女は顔を上げて、勇者を見た。

勇者は言う。「誰も救ってなんかくれない。生きているだけじゃ失い続ける。
生きて歩かないと、何も手に入らない。
神様なんていないし、祈ってるだけじゃだめだ」

「いいや、神様はいるよ」と女はゆっくりと言って、
こめかみの辺りを人差し指で叩いた。

「ここにいる。みんなの頭の中に、神様はいるよ。わたしの頭のなかにもいる。
気まぐれで理不尽で、とびっきり不平等なやつがね。わたし達はみんな、
頭のなかの神様に従って動いてるだけだよ。人形とか、チェスの駒みたいにね」

その声は弱々しく震えていたが、激しい怒りと恨みで満ちていた。
まるで呪詛を吐いているようだった。

勇者は黙って立ち上がって歩く。影が笑う。魔法使いが後ろからついてくる。
行く先には暗い城がある。

続く

>>776
ほつれた糸→絡まった糸


33


長く暗い橋を渡り切ると、大きな城門にぶちあたった。
これほど大きな城門が必要な理由がユーシャには分からなかった。
いったい誰がまともにこんな門を開けられるというのだろう。

歩いてきた道を振り返ると、遠くに町の光が見えた。
太鼓や鈴の音がちいさく聞こえる。

町と城はつながっている。同じ世界にあるのだ。
それがすこし不思議な事に思えた。

軽く叩いてみると、城門は大きな音をたててゆっくりと開いた。
どうして開いたのかは分からなかったが、とにかく開いたのだ。
しかしあまりにもゆっくりと開くので、
ユーシャは待ちきれずに隙間から内に入り込んだ。

背後ではまだ門が開こうとしている。
いったいあの門にどんな意味があるというのだろう。
巨大な人間が城にはいるのかもしれない。


巨大な門をくぐった先には石畳の一本道があって、
奥にちいさな両開きの戸が見えた。ここは庭のようだ。

左右には綺麗な植木が並んでいる。花壇もあったし、淡く輝く花が咲いていた。
ちいさな光の粒があちこちで飛んでいる。よく見てみると、それは虫だった。
虫の残光が、何かの模様を描いているみたいだ。

静かだった。太鼓の音など聞こえなくなった。振り返ると、門は閉じていた。
もう町の光は見えなかった。辺りには夜の暗さと自然の静けさがある。

城を見上げる。暗いので細かいところはあまり見えないが、
それほど風化しているわけでもないようだ。
窓がたくさんあって、ぽつりぽつりと灯りが見える。
何かがいるのは確かなことだった。

直感はささやいている。“魔王がここにいる”と。


ちいさな戸を開けて城の中に入った。
城内はほのかに明るい。巨大な人間は見当たらない。

等間隔で燭台があって、炎がそこで揺れながら、
足元に敷かれた茶色い絨毯を照らしていた。
絨毯で靴の底を拭うようにして、前に進んだ。
すぐに階段にぶつかったので、足音を殺して上る。
踊り場には月の光が射していた。見上げると、大きなステンドグラスがあった。

左右にわかれた階段の左側を上ると、長い廊下に辿り着いた。
廊下の左右にはドアがいくつもある。
そのうちのひとつから光が漏れていたので、とりあえずそのドアの前に立った。
耳を済ませるが、音らしき音は何も聞こえない。

そっとドアを開いて中を覗きこんでみると、机に突っ伏して眠っている女がいた。
ドアをゆっくりと開けて、中に入る。ちいさな部屋だ。
暖炉があって本棚があって、書き物をする机がある。
どうやら女は書き物をしている途中に睡魔に襲われてダウンしてしまったらしい。


引き返して、長い廊下を渡る。また階段があった。
登らないわけにはいかないので上った。
また左右にわかれた階段とステンドグラスがあった。今度は右側を上る。

先にあったのはダンスホールだった。
大きな柱が円型に並び、上から大きなシャンデリアが吊られていた。
明るくて、何人もの人がいた。綺麗な衣装に身を包み、男女のペアが踊っている。
汚い服を着ているのは自分だけだ。
目立つのは避けたかったので、柱の影に隠れて引き返した。

そしてさっきとは別の方の階段を上った。
そこにあったのもダンスホールだった。が、こちらは真っ暗だった。
壁の代わりに大きな窓が何枚も嵌めこまれていたが、
外の光はほとんど届かない。それに、誰もいない。

ユーシャは真っ暗なダンスホールの真ん中に立って目を瞑り、
綺麗な服を着た魔法使いと踊る自分を頭の中に思い描いた。
多分あいつは恥ずかしがる。綺麗な服は似合わないとか言うんだろうな。
それに、俺達に踊りなんてものは似合わない。
大剣使いが見たら腹を抱えて笑うだろう。間違いない。


「あけづぬれてぃしなん、あたなおのこす」と誰かが言った。

ぎょっとして声の方を向くと、訝しげな表情を浮かべた女が立っていた。
「あくせづぬれてぃいく」と彼女は続けた。

「なんて言ってるのか分からないよ」とユーシャは言った。

「あら。これまたずいぶんと古臭い言葉を使うんですね」と
女は驚いたように言った。「めずらしい」

「ちょっと前にもそう言われた。かわってるって」

「確かにかわってます」と女は笑った。
「それで、あなたはこんなところで何をしているんですか」

「ええと。ここの王様に呼ばれたんだ」と
ユーシャは咄嗟に適当なことを言った。


もしかすると拙いことを口走ったのではないかと
不安に駆られたが、女は「ああ」と納得したように言った。
「今日は客人が三人来るとおっしゃってましたが、あなたがそのうちのひとりですか?」

「そう」三人の客人? まあ、なんでもいい。

「王様は多分、図書館にいますよ」

「図書館?」

「はい。場所は分かりますか?」

「わからない」

女は懇切丁寧に図書館の場所を説明してくれた。「分かりましたか?」

「分かった」とユーシャは言った。「うおたぎら」

「えちさみさちうおづ」と女は言い残して、階段を下っていった。


しばらくしてからユーシャも階段を下った。
一階まで、時間を掛けてゆっくりと下りた。
階段を下るごとに、感覚は研ぎ澄まされていった。
足音がやけに大きく聞こえる。暗い城でも、何もかもが鮮明に見える。
身体が熱い。鼓動は身体を揺さぶる。手にじっとりと汗が滲む。

魔王は目と鼻の先にいる。その心臓を貫くことで、全ては終わる。
そしたら俺たちは自由になれる。
もう一度、何にも縛られることなく、ゼロから始めることができる。

魔法使い、と思う。想わずにはいられなかった。
全てが終わったら、心の許すままに彼女とふたりだけで過ごすのだ。
どれだけ言葉を交わしても、唇を重ねても、
どれだけ身体を重ねても、誰も何も言わない。
ふたりだけの領域が脅かされることはない。

魔法使い、ともう一度思った。どうしても彼女のことが頭に浮かんでくる。
振り払おうと思っても、どうしても頭の中心に彼女のことが居座っている。
自分自身の芯と彼女は同化しつつあった。
信念と彼女こそが今のユーシャの芯であり、自我を支える柱であった。


一階の階段の裏側を覗きこむ。そこには光の漏れる大きな戸があった。
先程の女の言うとおりなら、ここが図書館のはずだ。
軽く戸を叩いて、返事を待たずに体重をかけるようにしてゆっくりと戸を開いた。

図書館は明るかった。眩しいというほどではないが、光があった。
高い天井を支えているみたいに、壁には大量の本が押し込まれていた。
左右には大量の本棚があって、まるで迷路のように見える。

奥には二階への階段がある。二階にも本棚があった。
どこを見ても分厚い本があって、とても静かだった。
頭がくらくらとしてくる。魔法使いが見たら喜ぶだろうな、と思う。

窓に掛けられたカーテンが亡霊のようにふわりと靡いた。
温かい夜風が部屋に入り込んでくる。

顔を上げて、正面を見据える。
そこには横長の机があって、椅子が一〇ほど並んでいる。
奥には炎の灯った暖炉がある。そして椅子のひとつにはひとりの男が座っていた。


男は頬杖を突きながら、分厚い本をめくっていた。
歳は四〇くらいに見える。口周りにはひげを蓄え、
目の横には薄っすらと皺が刻まれている。
そしてやはり耳は尖っている。体格は良くて、肌の色も良い。

服装も王族らしく、身体に合っている。身分相応といったところだった。
全体的には穏やかな印象を受けたが、彼が魔王であることは間違いなかった。
ここが旅の終わりなのだ。
この図書館こそが、勇者としての役目を終える場所なのだ。

ユーシャの心臓は跳ねた。
じっとその場に立っていると、魔王は本を閉じてこちらを向いた。
そしてすこしだけ微笑み、低く響く声で「ようこそ」と言った。「はじめまして。勇者殿」


「どうも」とユーシャは身構えて言った。
いつでも剣を引き抜くことはできる。

「そんなに敵意をむき出しにしなくてもいいだろうに。
まあ、座って話でもしようじゃないか」

「そうだな」ユーシャは魔王の正面の椅子に腰掛けた。
「俺も、あんたに訊きたいことがあるんだ」

「何かな?」

「ここ、なんでずっと夜なんだ?」とユーシャは純粋な疑問を口にした。

「ずっとではないさ。今日で三日間続いたこの夜は終わる。
そして三日間続いた祭りも終わる。
これは祭りのための夜で、夜のための祭りだ。お互いにはお互いが必要なんだ」

「ふうん」

「町でのお祭りは、君にはどういう風に見える?」

「みんな楽しそうで良いと思うよ。すごく」

「ありがとう」魔王は笑った。「何か飲むかい? 腹は減ってないか?」

「何もいらない」


「そうか」魔王は頬杖をついて言う。「とりあえず、ご苦労様。長い旅だったな」

「そうだな。すごく長い旅だった」

「どうだった? 旅は楽しかったかい?」

「そこそこ。つらいこともあったけど、大事なものを確認できたと思う」

「大事なものというと、やっぱりあのこの子の事か?
君がプレゼントしたあの帽子はなかなか似合っているな」

「なんで知ってるんだよ」

「ずっと見てたからな」と魔王は言った。
「君たちが裸で抱き合ってたことも知ってるさ。
君と彼女が好む体位とかも知ってるぞ。私には大きな目があるからな。
君たちはお互いの目を見ながら、手を繋いで性交するのが好きなんだよな。
特に彼女のほうが、すごく。微笑ましいよ」

「ストーカーかよ。気持ちわりい」


魔王は歯を見せて笑った。
目尻の皺が深くなったが、子どもの笑みのように見えた。
よく笑うやつだ、と思う。

「あの子、寂しがってるぞ? 君はあの子に酷いことをしてしまったな」

「そうだな。でもあいつをあんたに会わせたくなかったんだよ。仕方ないさ」

「でも彼女はもうじきここに来るよ。そうだな……あと三時間ってところかな」

「やっぱり」とユーシャは言う。「なんとなくそんな気がしてたんだ。
どうせ俺が“門”をくぐってから、あいつはすぐに“門”をくぐったんだろ」

「いいや」魔王は嬉しそうに目を細めた。
「君はまだ一七歳だけど、彼女はもう二四歳だ。
立派――ではないかもしれないけど、もう大人だよ。
君が門をくぐってから七年間、彼女はあの凍てついた土地で君を待ち続けた」

「七年? 何を言ってるんだ? 俺が門をくぐったのは昨日だ。そうだろ?」

「ははあ。さては、“表”と“裏”で流れる時間が同じだと思っていたんだな?」

「表? 裏? 流れる時間?」


「君は何も知らない。君は何も知らずに、見知らぬ女とのんきに踊っていた。
彼女が孤独や寒さと七年も闘っているあいだに、
君は温かい町で見知らぬ女と踊った。そういうことさ」

「なあ、どういうことなんだ。お願いだから教えてくれ」

「まあ焦るなよ」魔王は、ふう、と息を吐き出した。
「まずはここが“表”と呼ばれていて、君たちがいた元の世界が
“裏”と呼ばれていることを知っていてほしい。

分かるかな? ここが表。日の当たる場所だ。
そして君たちのいた汚い世界が“裏”だ。ここまではいいな?」

ユーシャはうなずいた。


「表と裏では、時間の流れが違う。
それがどういうことを意味するか、分かるかな?」

ユーシャはすこし考えたが、首を横に振った。

「たとえば、“表”で一時間を過ごしたとしよう。
すると“裏”では一年が経っていることがある。
しかし、一秒しか経っていないということもある。
五〇年経ってるかもしれないし、一秒も経っていないかもしれない。

分かるかい? “表”と“裏”では、同じように時間が流れていないんだ。
決まった流れはない。ただ、時間が遡るということはないんだ。
遅かれ早かれ、時間は進む。順行はあっても逆行はない」

「つまり」とユーシャは青い顔で言った。
「俺がここで過ごした短い時間は、向こうでの七年になるってこと?」


「そういうことさ。彼女はずっと君を待ってた。
七年間君のことを信じて、想い続けた。
それは簡単なことではない。それに、あの場所の環境は過酷すぎる。

でも彼女はそこで待ち続けた。
ひとりで生き続けた。自分を慰めて、身体を騙し続けた。
心が揺らぐことは一度足りともなかったはずさ。
一秒たりとも君のことを想わない時間はなかった。
そして君は今までそのことを知らなかった」

「嘘だろ。そんな」視界が滲んだ。「七年も」

「七年も待っててくれたんだ。うれしいな?」

何も言えなかった。

「もっと早く来れば良かったのに、とでも思っているのか知らないがな、
門は私の意思で開閉が行われるんだ。
君が門をくぐってすぐに、私は門を閉じた。悪いね。
門を開けっぱなしにしていると、いろいろと拙いことになるんだ。

そして向こうで七年が経った。そこでもうひとりの勇者が門に辿り着いた。
だから私は門を開けてやった。彼女はその勇者と共に門をくぐった」

「もうひとりの、勇者」

「そう。もうひとりの勇者と彼女が、
君がここに来てから数時間後に、ここへ来た」


「勇者って、いったい何なんだ。どうして俺は勇者なんだ」

「その痣のせいじゃないかな」と魔王は言った。
「くだらない御伽噺の勇者にもあったんだろう? 星形の痣が。
目的はどうであれ、だから君たちの王は君を勇者としてここへ送り込んだ」

「この痣は何なんだ?」とユーシャは訊ねた。

「彼女に訊いてみるんだな」魔王は嬉しそうに言った。
「その痣は彼女が君に付けたんだから」

「あいつが? どうして? いつ? どこで?」

「それを訊いてみればいい。もしかすると、
自分の持ち物に名前を書くような感覚だったのかもしれないな?」

「どうして」ユーシャは救いを求めるような目で魔王を睨んだ。
「どうしてあいつは黙ってたんだ?」

「それも訊いてみればいい」

「……分かった」

ユーシャは目を瞑って深呼吸をした。落ち着け、落ち着け。
こんなことは全部あとで魔法使いに訊けばいい。
あいつは全部答えてくれるはずだ。


「落ち着いたかな? それとも何か飲むかい?」

「いらない」ユーシャは魔王を睨んだ。
「訊きたいことがあるんだ。まずは、南の第一王国のことについて」

「ああ」魔王は笑みをこらえながら言った。
「あの国はもう滅んださ。欲に飲まれて王は死に、国も死んだ」

「あの病気は、なんなんだ。お前の仕業なのか?」

「まあ、半分は私に責任があるといってもいいだろうな。
私があの臆病な王に“贈り物”をしたんだから」

「“贈り物”って、なんだ」それは聞き覚えのある言葉だった。
第二王国の白衣の男が言っていたはずだ。


「ただの巨大な怪物さ。君たちはそれを神様と呼んだ。
どこかの町にはそれを祀る石像まで作られた。
でも、その神様に南の第一王国は滅ぼされたんだ。

神様――いや、あいつは生物から生気を吸って、自分の糧にするんだ。
病気というのは、生気を吸い取られた人たちが
動けなくなった状態のことを言っているんだろう?

でもな、それは彼が生きるためには仕方ないことなんだ。
彼が生きるためには大量の犠牲がいるんだ。
君たちが家畜を喰らうようにな。そしてあんなものは“表”には必要ない」

「どうして王はそんな大事なことを黙っていたんだ」

「彼は用心深く、酷く臆病だった。病的と言ってもいい。
自分がそんなものを隠し持っていたと知れたら、国民は憤るだろう?
彼はそれを恐れた。それだけさ。彼は王としての素質が皆無だった。
間違いなく王としては君のほうが優秀だろうな」

呆れて言葉を失うしかなかった。王が自分の立場のために国を捨てた?
信じられない。意味がわからない。


「ほかに訊きたいことは? 私は全てを知っているぞ。
そして君には全てを知る権利がある」

「“贈り物”の動かし方について」とユーシャはとりあえず訊ねる。
それは最初に聞くべきことだったはずだ。
今となっては、そんなことはほんとうにどうでもよかった。
でもいざとなると他に何から訊ねればいいのかが分からなくなった。

「呪術」と魔王は簡潔に答えた。
「怪物を操る呪術というものがある。君は呪術の村を知っているな?」

ユーシャはうなずく。

「あれも滅んだ。君がいない七年間で、
“裏”では多くの人間が死んだ。今も死んでいる」

「どうして滅んだんだ」

「忘れたのかい。怪物を操る術を求めていたものがいただろう」

白衣の二人組を思い出しながら、「第二王国の」とユーシャは言った。


「そう。南の第二王国だ。
そこの王は国民想いの良き王という名目で通っているが、それはただの後付だ。
“国民を守りきるためには、大きな力が必要だ。
何にも屈さない強靭で巨大な力が”。彼はそう信じて疑わなかった。
彼はそういうやつだ。堅実で、自分が絶対なんだ。

私は彼に“贈り物”をやらなかった。
あれほどの大きな力は三すくみの関係であるべきだと私は判断した、
というのは建前で、巨大な怪物は元から三体しかいないんだ。
彼は絶望したみたいな顔を見せてくれたな。
レースに勝つ気でいたのに、参加すらできないんだもんな。
そりゃあがっかりするよな。

それから第二王国は、第一王国と表面上では仲良くやっていたみたいだが、
彼はどうしてもいつの日かあの“贈り物”が
自国を飲み込んでしまうのではないかという不安をぬぐいきれなかった。
そこで彼は思い付いたわけだ。あの化け物を奪って手中に収めてしまえ、と。

彼はすぐに怪物を操る方法を探らせた。そして何年もかけて呪術を見つけた。
そして彼にとっては幸いなことに、第一王国は怪物を操る術を知らなかった」

「知らなかった? だったらどうしてその怪物は、ずっとおとなしくしてたんだ」


「彼らが動く必要性はどこにある」と魔王は言う。
「たとえば君は意味もなく弱いものに力を振るうのか?
意味もなく花を踏み散らすのか? おそらく違うと思うな。
君はそんなやつじゃないもんな。彼らも同じさ。

でも君たちは勘違いをしているんだ。
“怪物は悪”と思い込んでいる。人を傷めつけるのが怪物ではない。
それに君たちは彼らを怪物と一括りに呼ぶが、彼らにもちゃんと名前はある。

私から言わせてもらえば、君たちだって怪物と何も変わらないじゃないか。
食べて寝て性交する。考えて動く。考えて動かない。私も怪物も君も同じだ」

ユーシャは黙っていた。


「話を戻そうか」魔王は続ける。
「まあ、第一王国は怪物を操れなかったがために、
その巨大な力に飲み込まれたわけだ。
怪物は養分を与えてくれる人間が息絶えたから、
今度は隣の森に根を伸ばした。蟲は弱り、森は枯れる。

でもそれは当然のことなんだ。生きるためには仕方ない。
それは自然の摂理に従って起きたことだ。
誰かに自らの操縦権を与えるのはおかしな事だろ」

魔王はそこで言葉を区切り、頭を掻いた。
「彼――第二王国の王は、もぬけの殻になった
第一王国の地中に眠っていた怪物を呪術で操り、
第二王国の付近に持ち帰った。戦うことなく勝利を手にしたわけだ。

彼は賢い。そこは認める。しかし思い込みが激しい。
彼は“自国だけが怪物を操ることができる”と思い込んだ。
でもそれは間違いだった。

東の王国はもっと早くから呪術の存在には気がついていた。
何も知らないのは君たちの王、西の王だけだった。

第二王国の王は、怪物を操る呪術が他に知れるのを恐れて、
呪術の村の呪術師を一掃した。
“裏”から呪術は消えた。残ったのは怪物を操る術だけだ」


違う、とユーシャは思った。
呪術は残っている。あいつが全てを知っている。
ひと晩で頭に叩き込んだ膨大な知識がある。

そしておそらくあいつは、その気になれば呪術を使うこともできる。
魔法使いには間違いなく、魔法に関して生まれ持った才能がある。
それは精霊的と言ってもいいほどの才能だ。

「第二王国は著しい発展を遂げた」魔王は言う。
「巨大な怪物を操ることで、
ちいさな怪物どもだけから力を奪わせることができたんだ。
王国周辺の怪物たちはみるみる弱っていった。
結局は人間だけが衰えずに、第二王国は大陸一の国になった。
そして今に至るわけだ」

「いろいろあったんだな」

「そうだな。ほんとうにいろいろあった。
七年という月日は決して短いものではないと私は思うよ」

「要するに、俺がここに贈り物の動かし方を聞きに来た理由は、
西の王が大きな力を手に入れるため、ってことになるのか。
ただそれだけのために俺はここに来た、と。

でも、こんなところに来るまでもなく答えはあった。
俺と西の王はその横を素通りしたわけか」


「そういうことだ。君は白黒の盤上で踊っていたんだ。
自分が主人公だと思い込んでいたのかもしれないけど、
君は誰かに操られてただけさ。

君は糞みたいな世界の、糞みたいな国の糞みたいに馬鹿な王のために、
糞みたいな目に遭った。どんな気分だい?」

「糞みたいな気分だ」とユーシャは言った。

魔王は声を上げて笑った。
「でも、いいじゃないか。君にはあの子がいるんだから。
待っててくれるひとがいるというのは素晴らしいことだよ。誇ってもいい事だ。
君と彼女くらいにお互いを求め合っていればな。

でも世界のどこかには孤独に耐えることに
慣れてしまった可哀想なやつがいるんだよな。
きっと彼らは、私たちから言わせてもらえば
糞みたいな気分で毎日を過ごしているんだろうな。
君みたいなやつを逆恨みしながらさ。

彼らは君以上に惨めな思いをしながら、
糞みたいに地面を這いつくばっているのさ。
どうかそのことを忘れないでくれよ」


「分かってるよ。孤独が苦しいことも知ってる」

「それならいいんだ。君は物分かりがいいな。私は好きだよ、そういう奴が」

「どうも」

魔王はまた歯を見せて笑った。
「さあ、他に訊きたいことはあるかな? それとも何か飲むかい?」

「なんでも知ってるんだよな?」

「なんでも知ってるさ」

「塔の怪物」とユーシャは言う。
「あの東の大陸の塔にいた怪物。あれは何だ?」

「東の大陸の塔というと、北側の? 南側の?」

「北側」

「あれは」と魔王は宙を見て何かを考えるように言う。
「あれは見た目が不快だったろう?」

「そうだな」


「だろう。だから、魔王――君にも分かるように言うならば
御伽噺の魔王――が森の奥に閉じ込めていたんだ。
彼は冷たいものだった。

君は森の廃墟を見ただろう?
ほんとうはあの地下に幽閉しておいたんだが、
彼はちょうどいい置き場所を見つけたんだ」

「裏」とユーシャは言った。

魔王は微笑んだ。
「だから表から追放して、あの塔の天辺に置いた。
尻尾を一箇所で接合した馬鹿でかい毒蛇共も、
何も語らないし何を考えているかもわからない返り血で汚れた処刑人も、
好戦的で不快な声と巨大な眼球を持ったあの人間臭い馬鹿も、
泣いて笑って叫ぶことしかできない能なしジェスターも、みんな追い出した。

邪魔だったからな。必要ないんだよ、ここには。
そして彼らはもう誰も生き残ってはいない。みんな勇者にやられた」

「俺が倒したのはあのカエルだけだけど、
もうひとりの勇者ってのは残りのやつを全部倒したの?」

「勇者はもうひとりいるだろう?」

「誰」

「君たちの大好きな、御伽噺の勇者」


「あれは御伽噺だろ?」

「裏で計算すると、七〇〇年前くらいだ。彼は実在したんだよ。
御伽噺の魔王と共に。彼は御伽噺の魔王を殺して死んだ。
どちらも“喉”に飲まれて死んだ」

「喉って何だよ」

「君は森で見なかったかな、真っ黒な湖を。
あそこは“喉”と呼ばれているんだが。
黒い水たまりだとか、ブラックホールだとか呼ぶものもいる。

とにかく、そういう場所があるんだよ。
“表”で肉体が消えて、行き場を失った魂がそこへ向かうのさ。
そしてその魂はふたたび肉体を取り戻すことができる」

「生き返ることができるってこと?」

魔王はうなずいた。「喉から這い上がることができればね」

「難しいんだ?」

「難しいなんてものじゃないさ。不可能に近い。
ただ、這い上がるだけの力があればもちろん這い上がれる。
私や御伽噺の魔王のように」

「でも御伽噺の魔王は這い上がれなかったんだろ」


「そう。あの勇者が自らの意思で喉に飛び込んで、魔王を湖の底へ沈めた。
いったい、何が彼をそこまでさせたんだろうな。私にはわからないよ」

「あんたにもわからないことがあるんだ?」

「まあね」魔王は笑った。「なあ、死ぬってのはどういうことだと思う?」

「さあね。死んだことがないからわからないよ」

魔王は長い息を吐いた。それはため息のようにも聞こえた。
「死を体験した魂は、どれほど強くなると思う?」

「すごく強くなるんじゃないの? よく分からないけど」

「そのとおり。すごく強くなる。死ぬことに耐えることすらが可能になる」

「意味が分からない」

「死んで、喉から這い上がってみれば分かるさ」

「勘弁してくれよ」


魔王はまた笑った。「ほかに訊きたいことは?」

「俺があんたを倒すってことは、正しいことなのか?」

「正しいか正しくないか、それを決めるのは君だ。君は勇者で、私は魔王。
君は表に破滅をもたらして、私は裏に破滅をもたらす。
お互いの世界は崩れつつある。君は今、何をするべきか分かるだろう?」

ユーシャはうなずいた。「なんとなくね」

「それが正解だ。君が思ったことは全て正解だ。
君はただ、まっすぐにやればいい」

立ち上がり、ゆっくりと剣を引き抜く。
背後で椅子が倒れた。乾いた音が図書館に響いた。
「このままだとあっちが拙いってことなら、俺はやるよ。個人的な恨みもあるし」

「君にやれるかな?」

「分からないけど、やるしかないんだろ」

「勇者らしくない台詞だな」


ユーシャは弱々しく笑った。
「だって俺はひとりじゃ何もできないからな。
身体には今までにないくらい力が漲ってるのに、
胸の真ん中に大事な部分が足りてないんだ。
だから多分、俺はあんたに勝てない気がする」

「そんなことは、やってみなきゃ分からないだろ」

「そうだな」とユーシャは言った。「いいこと言うね」

「ありがとう」魔王は目を瞑って、口元をゆるめて笑った。
「なあ、私たちが魔王と勇者じゃなかったら、どういう関係になれただろう?」

「けっこう仲良くなれたんじゃないかなと思うよ、俺はね」

「私もそう思うよ」と魔王は言った。


34


橋を歩いていると、背後の町の光が弱まっていくのが分かった。
灯りが消えて、声も止んでゆく。
唄声も太鼓の音も鈴の音も聞こえなくなった。
祭りは終わり、町は眠りにつこうとしている。

でも城だけは例外だった。
城内では静かに何者かが踊り、飲み、語り合っていた。
勇者の耳には何も届いていないようだ。魔法使いにはそれが分かる。
階段の上からは賑やかな声が聞こえてくる。
わたし達の向かうべき場所はあんな綺麗なところではない、と魔法使いは思う。

誰かが呼んでいるような気がした。助けを求められている気がした。
その先には彼がいる気がした。
いつだって進むべき道の最後には、彼がいるのだ。

それは行き止まりにぶち当たるのと似ているが、
そこにたどり着かないことにはどこに行くこともできない。
行き止まりとは言っても、それは自分を受け止めてくれる壁であるように思えた。
温かく、大きな、不思議な壁だ。


この扉の向こうに、その不思議な壁がある。
直感はそう囁いていた。間違いない、と魔法使いは思った。

目を閉じて、深く呼吸する。身体が震えた。
寒くはない。怖くもない。身体は熱い。手に汗が滲む。
もう一度あいつに会うことができる、と想う。
長い旅は終わり、わたし達はゼロからやり直すことができる。

早く言葉をかわして、手を握って、唇を重ねて、身体を交えたかった。
身体の内側が沸騰したみたいだった。
精神は昂ぶっているし、視界はぼんやりとするし、何がなんだか分からなかった。

彼が門をくぐったのが七年前で、昨日あの女と踊ったとか、
そんなことはどうでも良かった。
とにかく彼に会いたかった。頭の中にはそのことしかなかった。
勇者だとか魔王だとか、世界の平和だとか、どうでも良かった。

魔法使いは目を開き、扉に手を添えた。そしてゆっくりと開いた。


「ようこそ」と誰かが言った。

「殺してやる」と背後で勇者が言った。


35


テーブルに足を掛けて蹴る。
前へ飛び出し、魔王の顔面目掛けて剣を振る。
当たり前のように剣は魔王の肉を切り裂く直前で止まった。魔王は笑った。

ユーシャは表情を歪めて、「魔術の障壁」とつぶやいた。

「呪術の障壁だ」と魔王はからかうように言った。
「君は魔術も呪術も使えないんだったか?」

「知ってるくせに」


軽くテーブルを蹴って、床に下りる。それからテーブルを蹴飛ばしてひっくり返す。
魔王の座っていた辺りだけが炎に包まれて、長いテーブルは真っ二つになる。
可哀想なテーブル、と思っている暇はなかった。

脇から青い炎の槍が三本飛んできた。
それは矢を思わせる俊敏さと殺傷性を持っているように見えた。

本能が何かを叫び、身体が自然と動いた。地面を這うように転がって、槍を躱す。
炎の槍は壁の棚に押し込まれた本にぶつかる直前で完全に消えた。
はじめからそんなものはなかったみたいに。

魔王は相変わらず安っぽい椅子に座っていた。
腕と脚を組んで、こちらを見下ろすように顔を傾けている。


「余裕だな」とユーシャは言った。

「君とまともに殴り合ったら勝てないかもしれないからな」と魔王は笑顔で言った。
「私も歳なんだよ。分かるだろ? 私は魔法を頼ることにするよ。
君がこの壁を壊せたら、君の勝ちだ」

「分かりやすくていいね」

床を蹴り、魔王に向かって突進する。

魔王は椅子に腰掛けたまま、指先で宙に円を描いた。
その直後、背後に黒い球体が現れた。
黒い球体というよりは、黒い穴のようなものだ。
身体がそこへ引き寄せられるのを感じた。
前へ進めない。その場で踏ん張るのが精一杯だった。

「必死だな」と魔王は言った。

「うっせえ必死で何が悪い」


地団駄を踏む子どものように足を大きく動かす。
思いっきり床を踏みつけて前に進む。
その都度、ばん、ばん、と大きな音が鳴る。
ゆっくりと前に進んでいるが、魔王まではすこし遠い。

「おお、すごいな」と魔王はどうでもよさそうに言った。

「もっと褒めてくれてもいいんだぜ」

魔王は無言で微笑む。脇に青い炎の槍が現れる。
ユーシャが引きつった笑みを浮かべるのと同時に、槍はその場から放たれた。
避けようと思い、床から足を剥がした。身体が浮いて、黒い穴に引き寄せられる。

黒い穴から大きな手が伸びてきて、背中を掴まれたような感覚だった。
あるいは嵐の中に放り出された赤ん坊のような気分だった。
とにかく自分が果てしなく無力に思えた。でも実際にそうなのだ。
俺は無力だ。ひとりではどうしようもなく無力だ。


川の流れに逆らうことのできないちいさなごみのように、
身体は黒い穴に吸い寄せられ、その穴の中心にあった黒い粒に手が触れた。
それがスイッチになっていたのか、直後に黒い穴は
今まで吸い込んだ分の空気を吐き出すみたいに破裂した。

身体が地面に叩きつけられる。身体中に鈍い痛みが走る。
特に左腕の痛みは凄まじいものだった。
痛みのあまり絶叫したくなったが、痛みのあまり声をだすことができなかった。
苦痛にあえぐことしかできなかった。釣り上げられた魚みたいだった。

「立てるかい?」と魔王は言った。


ユーシャは黙って立ち上がった。
左腕がおかしな方向に曲がっているように見えたが、もう見ないことにした。
額からは血が滴っていた。呪文をつぶやき、癒やしの魔術で傷を塞いだ。
血は止まったが、跡は残った。

やっぱりこの程度の傷も完全に治せないのか、と
ユーシャは自分の才能の無さをあらためて痛感した。

「魔術が使えたのか?」と魔王は驚いたように言った。
ほんとうに驚いているように見えたが、ほんとうのところは分からない。

「まあね」とユーシャは自慢するわけでも謙遜するわけでもなく言った。
「癒やしの魔術だけだけどな。あいつに教えてもらった」

「あいつというと、彼女か?」

「いいや、違う」

「だったら誰に」

「誰だっていいだろ」

ユーシャはもう一度呪文をつぶやき、腕の痛みを和らげた。
和らげたといっても苦痛のレベルが一〇〇から九八になったというだけの話だ。
痛いことに変わりはない。


「へたくそな術だな」と魔王は笑った。

「これでも必死なんだよ」ユーシャは苦痛に表情を歪めた。
「糞、痛い。こんなに痛いのは久しぶりだ」

「いつも彼女がすぐに治してくれたもんな」

左腕の骨が悲鳴を上げている。その声が聞えるようにも感じられた。
錆びた金属同士を力いっぱいこすり合わせるような音だと思う。
聞いていて気分の良いものではない。

もう一度前へ出る。痛い。怖い。身体が震えた。身体が熱い。
でも前へ出ないことには何も始まらない。
右手で剣を強く握る。重い。良くも悪くも自分の身体が別のものみたいだった。

「まだやるのか」と魔王は笑った。「もういいだろうに」


黙って床を蹴って、放たれた矢のように魔王へ向かう。障害物は現れない。
魔王の脳天を目掛けて、力任せに剣を振り下ろす。
剣は障壁に阻まれる。剣と障壁の隙間からは空間を砕くような紫色の光が漏れた。
それは雷のように見える。力を込めれば込めるほど光は眩くなった。
しかし壁は壊れない。魔王は光を眺めながら笑っている。それが腹立たしい。

さらに剣へ力を込める。右腕に全体重をかけるようにして障壁を押した。
すると、障壁はすこし歪んだ。
魔王の表情も訝しむようなものに歪んだ。ユーシャの口元は思わず歪んだ。

魔王はまた指先で宙に円を描いた。
ふたたび黒い穴が現れて、身体が浮き、引き寄せられる。

剣をすぐ後ろの床に突き刺して、身体を支える。
そして右手で思いっきり障壁を殴りつけた。
拳に、皮膚が裂けて骨が砕けるような痛みが走った。
でも今できることはこれしか無かった。

魔王はいかにも不愉快であるというような顔つきでこちらを眺めていた。
ユーシャは歯を剥きながら食いしばり、障壁を殴り続ける。


魔王は歯を剥いて何かをつぶやいた。

頭上に光の球が現れた。
訝しむ間もなく、そこから雷が降ってきてユーシャの胸を貫く。
死んだ、と思った。でも死ななかった。身体が痺れて動けなくなっただけだ。

足が地面から剥がされ、身体は浮き、黒い穴に引き寄せられる。
黒い穴は吸い込んだ空気を一瞬にして吐き出す。
身体が雨粒のような勢いで地面へぶつかる。
死んだ、と思った。でも死んではいなかった。身体が四散することも無かった。
でも身体が痛くて動けなくなった。身体全体に杭を打たれたみたいだった。

痛む頭をなんとか動かして、重い左腕に目を向ける。
左腕は真っ赤になっていた。星形の痣に上書きするみたいに、
綺麗で生ぬるい血がこびりついている。そこに感覚はほとんど残っていない。
それが自分の身体の一部であるようには思えない。
あとから縫い合わせた別のもののように思えた。


ゆっくりと立ち上がる。が、それ以上は何もできなかった。
身体中が痛くてたまらなかった。全身に痣ができたみたいだった。
あながちそれは間違いではないのかもしれない。

痛みと恐怖で身体が震えた。視界は滲む。足元に雫が落ちる。
身体から力が抜けていく。わけの分からない笑みがこみ上げてくる。
魔法使い、と思った。助けてほしい、と願った。死にたくない。
魔法使い、ともう一度思った。死にたくない、ともう一度思った。

「なあ」と魔王は憐れむように言う。
「どうして立つんだい。いったい何が君をそこまでさせるんだ?」

「さあね」とユーシャは震える声で言った。痛い、痛い、痛い。……

もう一度前へ足を出す。
魔王は化け物でも見たような面持ちでそれをじっと見ていた。
やがてユーシャは魔王の前に立ち、剣を振るった。
障壁に弾かれ、剣は手からこぼれ落ちた。

左耳の辺りでちいさな爆発が起きた。頭の中が揺さぶられる。
耳が吹っ飛んだような気がしたが、実際はどうなのだろう。
分からない。ただ耳の辺りが熱かった。左方向から音が消えた。


立っているのがめんどくさくなる。そのまま地面に倒れる。
床に敷かれた絨毯はすこし冷たかったが、寝心地が良かった。
耳と目から熱い液体が地面に向かって流れ落ち、汚い模様を絨毯に描いた。

「もう止めにしよう」と魔王は立ち上がって言った。「もう終わりだよ」

「もうちょっとだけ、頑張ってみるよ」とユーシャは誰かに向かって言った。

もう一度だけ立ち上がってみた。わりとすんなりと立ち上がれたような気がした。
今なら何でもできるような気がした。
魔王を倒すことだって、世界を救うことだってできる気がした。

頭の中は綺麗だ。とても。
空っぽで真っ白で、真ん中に魔法使いがいる。
彼女は手を伸ばして誰かの名前を呼んでいる。誰かに呼ばれた気がした。

踏ん張って歩く。地面を踏む度に、腕や耳が痛んだ。
地面が身体を揺さぶっているみたいだった。

剣を拾う。重い。剣の先にこの世界がまるごとくっついてきたような重さを感じた。
でも今なら世界でも何でも背負える気がした。


頭のなかの魔法使いは叫ぶ。
何と叫んでいるのかは分からない。でも表情は悲しげだった。
何を悲しむ必要がある? とユーシャは頭のなかの彼女に語りかけた。

返事はなかった。

その叫び声は遠ざかっていく。
遠ざかるというよりは、頭の中心に向っているような感じだった。
でも声はちいさくなっていく。まるで自分から遠ざかっていくみたいに。
中心と外、自分から遠いのはどちらなのだろう。

分からない。分からないことばかりだ、と思う。

後ろからは真っ黒な水が迫ってきている。そんな気がした。
真っ黒な水はこちらを掴もうと、幾つもの腕を伸ばしてくる。

でも振り返ってみるとそんなものはひとつもない。すこし先に扉があるだけだ。
この部屋に入るためにくぐった扉だ。そこからは逃げ出すことができる。
あの扉をくぐって引き返せば、彼女に助けを求めることができる。

だめだ、と自身に言い聞かせる。それだけはだめだ。


ユーシャは歩く。魔王の首に向かって剣を振る。
剣は見えない壁に阻まれ、弾かれた。
手から剣が落ちる。片方の耳に重々しい音が響き、
もう片方の耳の奥ではごぼごぼと血液が沸騰するような感覚がある。

空っぽの手に力を込めて拳を作る。
そこで魔王は何かをつぶやいた。何と言ったのかは分からなかった。

気づいた時には右腕がなかった。肩はある。
でも肘も腕も手首も手も指も爪もない。
身体から何かが流れ出ていく。視界は滲んで、狭くなっていく。

顔に何かがぶつかった。のではなく、顔が地面にぶつかった。
もう立てないような気がした。もう立てなくてもいいと思った。

無意味な時間だった。
無意味で満たされた時間は終わり、長い空白が始まる。
それは悪くないことのように思える。何にも脅かされることなく、
時間の許すままに彼女のことを考えられるのは、素敵なことに思えた。

身体の痛みは消えた。誰かが持って行ったみたいに、綺麗になくなった。
でも右肩から泥水がこぼれてるみたいに血が流れ出ていた。
汚い液体が、絨毯に汚い水たまりを作る。
それが自分の体内にあったとは思えない。


「もういいだろう」と魔王は言った。「君は死ぬんだ」

ユーシャは頭だけを動かし、魔王を見る。弱々しい笑みがこみ上げてきた。
「俺は死ぬけど、負けないよ。それに多分、俺は生き返る」

魔王は呆れたように顔を顰めた。「君はどこまでおもしろいやつなんだ」

ユーシャは魔王の言葉を無視して言う。
「だってあいつが俺を助けてくれるからな。あいつこそが、俺を救ってくれるんだよ」

「君はどこまでも幸せなやつだな。それに、信じられないくらい無責任だ」

「ごめん」

「どうして謝るんだ」

「やっぱり死にたくない」

「信じられないくらい我儘だ」と魔王は呆れて言った。
「君はもう死ぬんだ。分かるだろう」

「分かる。すごく」
音が遠くなっていく。視界が狭まっていく。力が抜けていく。息が苦しい。寒い。
声が欲しい。光が欲しい。立ち上がる気力が欲しい。空気が欲しい。ぬくもりが欲しい。


「なあ。最後にひとつ訊いていいかな」とユーシャはつぶやいた。

「なんだい」

「俺は、ほんとうに勇者なの?」

魔王はユーシャの脇に立つ。そして胸を踏みつけながら、「違う」と言った。
「君は勇者なんかじゃない。それに私も、魔王なんかじゃない。
君は人間のなかの君という意識で、私はエルフのなかの私という意識だ。
君は生まれた時から勇者だったのか? 違うだろう?」

「よく分からないよ」

「私と君という意識が存在するだけってことさ。
善悪も敵味方もない。勇者も魔王もない。
君は君で、私は私。勇者は勇者で、魔王は魔王。分かったかい」

「さっぱり分からん」とユーシャは笑った。


魔王は足に体重を掛けた。

胸が圧迫される。
心音が遠くで聞こえる。何かが壊れる音がした。
しばらくすると音が消えた。ひとつも聞こえなくなった。
身体が氷のように冷たくなっていく。
光が消えた。沼に身体が沈むようだった。
身体がゆっくりと消えていく。
一欠片ずつパズルを壊すみたいに、身体が壊れていく。
意識は黒い水たまりに吸い込まれる。

魔法使い、と思った。


36


「ようこそ」と誰かが言った。

勇者は声の主を睨んだ。身体の奥底から溶岩のようなものが噴き出すのを感じた。
それと一緒になって、底知れない開放感を覚えた。もう何も我慢することはない。
そう思うと笑みがこみ上げてきた。鎖はちぎれた。氷は砕けた。炎が灯った。

「あれが魔王だ」と影が言った。

「殺してやる」と勇者は言った。

前へ出る。立ち止まった魔法使いの脇を通る。
いい匂いがした。喜色を感じ取れるような優しい匂いだった。

「第一声が殺してやるだなんて、物騒なやつだな」と魔王は笑った。
「はじめまして。勇者殿と、かわいらしい魔法使いさん」


「あいつは?」と魔法使いが背後で言った。「あの阿呆はどこ?」

「ほんの一時間前くらいに、“喉”に行ったよ」

「喉って、何」

「君は見たはずだ。森に真っ黒な湖があっただろう? あれが喉だ」と
魔王は薄く笑って言った。「ここで死んだものはそこに向かうんだ」

「しんだ」と魔法使いはつぶやいた。「誰が」

「君の勇者。短い髪で汚い服を着てて、星形の痣が手の甲にあって、
君が好きな君のことが好きな彼だよ」

「うそ」

「ほら、そこにあるじゃないか」と魔王は勇者の正面の床を指さして言った。

そこには誰かの腕が転がっている。血だまりの中に浮いたそれは
強烈な存在感を放っていたが、寂しげに見えた。
皮膚には網目状に紫の筋が浮き出ている。
決して良い光景ではなかったが、なかなか目を離せなかった。
その腕にはひとを惹きつける何かがあった。

脇には剣が転がっていた。
ところどころ刃が欠けている。長い間使われた剣なのだろう。

魔王は言う。「彼は死んだんだよ。分かるだろ?」


勇者は魔法使いのことを憐れむように見る。
魔法使いは手から杖をこぼした。乾いた音が図書館に響いた。
音は幾つもの本に吸い込まれるように消えた。

表情から色が消えていくのを見て取れた。
目に灯っていた光は雫と一緒に流れ落ちる。

魔法使いは床に転がる腕に歩み寄って、脇で屈む。
それから腕を拾って抱き、頬ずりした。
顔は血で汚れた。でも彼女は腕を愛でつづけた。
頬ずりして、汚れた指を咥えた。服の中に入れて、乳房にこすりつけた。
絨毯に染み込んだ血に頬を擦りつけた。血はまだ乾いていない。
彼女の顔は酷く汚れた。口の中も血で汚れた。

その光景は静かに再開を喜んでいるように見えた。
でも別れを悲しんでいるようにも見えた。ほんとうのところは分からない。


しばらくしてから魔法使いは絶叫した。
鼓膜を貫いて心を揺さぶるような絶叫だった。
ひとの泣き声というよりは獣の叫びのようなものだった。
吐き出したいものがそこには詰まっていた。
勇者にはそれを感じ取ることができた。でもどうすることもできなかった。

魔王は言う。「エンディングまで泣くんじゃない。まだ君の物語は続くんだ。
彼は死んだけど、君は生きてる。それに、彼は生き返ることができるかもしれない」

魔法使いの絶叫は続く。彼女の耳には何も届いていない。

「どういうことだ」と勇者は代わりに訊ねる。「生き返るって」

「君は見たかな、真っ黒な湖を」

「見たような気がする」

森を歩いているときに見たはずだ。真っ黒な湖の水面には波も波紋もなく、
中では無数の怪物や動物が蠢いていた。まるで生きているみたいに。


「そこは喉と呼ばれている。
ブラックホールだとか、黒い水たまりだとか呼ぶものもいる。
とにかく、そういう場所があるんだ。
それで、ここで肉体を失ったものの魂は、まずそこへ向かう。

そしてそこからは這い上がることができる。
這い上がった魂は肉体を取り戻すことができる。
決して簡単なことではないが、無理だということもない。
私ならば這い上がれるだろうが、彼に這い上がることができるかは分からない。
全ては彼次第だ。意思と力があれば可能だが、どちらかが欠けるとだめだ」

魔法使いの絶叫を無視して、勇者は言う。
「“裏”で死んだひとは、そこに来ない?」

「来ない」と魔王は言い切った。

「そうか」

「ほかに質問があれば何でも訊いてくれよ。何でも教えてやる。
君は全てを知る権利と責任と義務がある」

「いらない」

剣を引き抜く。「殺してやる」と影は言った。
内側で真っ黒な炎が弾けた。身体は震えて熱くなる。


「殺してやる」と勇者は言った。

「君はどうして私を殺そうとする」

「殺したいから。憎くて堪らない」

「世界の平和のためとかではなく?」

「そんなことはどうでもいい。ただ僕がお前を殺したいだけだ」

「君の友人はみんな死んだが、それは私のせいではないだろう?
八つ当たりじゃないか」

「殺してやる」と勇者は言った。

「まあいいんじゃないかな」と魔王は微笑んで言う。「人間らしくて、いいと思うよ」


勇者は跳んで、魔王の顔面目掛けて剣を振った。
当然であるとでも言いたげに、魔王には“膜”が張られていた。
剣に力を込めて押す。膜は歪まない。腹立たしい。憎くて堪らない。

剣が弾かれた。もう一度顔面へ剣を振る。
その憎たらしい顔をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
身体をばらばらにしてやりたい。内蔵を引きずり出して踏み潰してやりたい。
喉の奥に手を突っ込んで、何もかも引きずり出して握りつぶしてやりたい。

刃は魔王に届かない。もうほんの数ミリなのに届かない。
剣と魔王の間には不思議な壁があり、そこからは紫色の光が四散している。
腕が熱を帯びる。血液が沸騰したみたいだった。

喉の奥から怒りがこみ上げてくる。勇者は獣のように吠えた。
言葉で表せない感情を吐いた。
どうしても内側に閉じ込めておくことができなかった。

自分の内側には何がいる? お前は誰だ?


魔王は指先で、宙に円を描く。視界の右上に、黒い穴が現れる。
身体がそこへ引き寄せられる。踏ん張ったが、身体は浮いた。

勇者は魔王を睨みながら叫んだ。「糞。糞が!」

魔王は憐れむようにこちらを見た。が、それ以上は何もしなかった。

やがて手が黒い穴の中心にあった球体に触れる。
すると、今まで吸い込んだ分の空気を一瞬で吐き出すみたいに、それは破裂した。
身体は地面に打ち付けられた。全ての毛穴を針で刺したみたいに全身が痛んだ。
脚がおかしな方向に曲がっているが、どうでもいい。


勇者は剣で身体を支え、立ち上がる。そして魔王を睨む。

誰かのすすり泣く声が聞こえる。
その声に覆いかぶさるように、「君も彼も同じだ」と魔王は言った。
「御伽噺の勇者には、三人の仲間がいたよな。
彼らは七〇〇年前、御伽噺の魔王を討った。
便宜上、御伽噺の勇者と魔王と呼ぶが、彼らは実在したわけだ」

「だから何だ」と勇者は言った。

「彼らは四人でここまで来た。誰も欠けることなく、門をくぐった。
でも君にはそれができなかった。友人をふたりも失った。どうしてか分かるか?」

「僕が弱いからだ」と影は言った。

「そのとおり」と魔王は言う。「君も彼も、弱いんだ」

「黙れ」と魔法使いが言った。


「彼もひとりじゃあ君を守りきることもできないし、
魔王一体を倒すこともできないんだもんな」

「黙れ」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ゆっくりと歩き、勇者の脚に触れる。

すると脚は元に戻り、痛みが消えた。
立ち上がり、魔王に向かう魔法使いの背中を見る。

ちいさな背中だった。長い髪が歩く度に揺れる。
それは炎のゆらめきのように見えた。
静かに、でも確かに熱を持って、光を放っている。
暗く曲がりくねった道で誰かを導く大きな光のように、彼女は前に立つ。

「あいつは弱くなんかない」と魔法使いは魔王を見ながら言った。

「彼は弱いよ。君とは違って」

「黙れ!」と魔法使いが叫ぶ。
勢いよく床に杖を突くのと同時に、彼女の背後に青い炎の球が七つ現れた。

魔王はすこし驚いたように、「呪術か?」と言った。

「殺してやる」と魔法使いは震える声で言った。

「殺してやる」と、どこかで誰かが叫んだ。

続く


37


今日がその日に、今がその時になる――





どっちが上で、どっちが下だ? 俺は誰で、お前は誰なんだ?
暗くて、寒い。ここはどこだ?

右腕がない。左耳がない。
左腕もない。でも左手はある。星形の痣も残っている。
指はないけど、爪はある。

脚はある。足はない。指はある。爪はない。
息が苦しい。肺はある。でも皮膚はない。
考えることはできる。動くことはできない。
身体がない。でも心がどこかにある。

誰かが泣きながら、誰かの名前を呼んでいる。とても懐かしく、温かい声だ。
その声は内側で響いているようにも聞こえるし、
遥か遠くからまっすぐここに向かってきているようにも聞こえる。
それが自分のための声なのかは分からない。俺の名前って、何だ?


だんだんと暗闇に目が慣れてくる。
周囲には無数の生物が真っ暗な宙を漂っていた。
全ての生物は何かが欠落している。
それは腕だったり足だったり頭だったり内蔵だったり心だったりした。
飛び出した長い臓器が絡み合って、身動きがとれなくなっているものもいた。

俺もみんなと変わらないんだろうな、と思う。
自分の身体は闇に阻まれてよく見えない。

左手が何かに触れた。
おそらく毛むくじゃらの生物だ。もさもさとしている。
何かと繋がっているということが、根を失いかけた心を安定させる。

柔らかな毛を撫でる。
今度はヘドロに触れたような感覚が手のひらを這いずりまわった。

もう一度ちゃんと触れてみる。
その生物には四本の脚があることが分かる。
でも前脚と後ろ脚の間の胴体が潰れている。
ヘドロだと思っていたのは、むき出しの血肉だった。

目を凝らしてその生物を見据える。それには見覚えがあった。
四本の腕を持った熊に叩き潰された狼のような怪物だった。
彼(あるいは彼女)は悲しげにこちらを見た。
ユーシャはそれをそっと抱き寄せた。


「あの子は生きている?」と誰かが言った。
落ち着いた女性の声だった。

「生きてるよ」とユーシャは言った。
「仲間のところに合流できた」

「それなら良かった」

「それから道案内をしてもらったんだ、大人の狼と一緒に。
助かったよ。ありがとう」

「わたしに礼を言っても仕方ないでしょうに。
彼と、あの子に、直接言ってあげて。
それに、いま礼を言うのはわたしの方」
彼女はユーシャの頬を舐めた。
「あの子を助けてくれてありがとう」





目を見開いて、暗闇の底を見据える。そこには無があった。
目を閉じ、暗闇の果てを見据える。そこには自分がある。
内側には誰かの胎内で眠っているような心地よさがある。

規則正しい鼓動が身体を揺らす。
でも、あたたかみはどこにも無い。
ここは酷く寒い。まるで氷にでもなったみたいだった。

もう一度目を瞑る。魔法使い、と思った。
栗色の髪。柔らかく温かい手。細い指。傷のある脚。
白い肌。ちいさな乳房。柔らかく熱い身体。優しい心。

もう一度会いたい、と思った。思わないわけにはいかなかった。
格好悪くても惨めでも、もう一度そこへ帰りたいと思った。
約束したのに。伝えたいことが数えきれないほどあるってのに。
でもどうやって? どうやって伝えればいい?
どうやってここから出ればいい?


どっちが上で、どっちが下なんだ?

導いてくれる光はもう見えない場所にある。
太陽も星も炎も魔法使いも、水面の向こう側にいる。
ただ水から這い上がるだけなのに、俺にはそんなこともできないのか?
どうして? ひとりだから? 弱いから?

助けてほしい、と思う。なんて身勝手なやつなんだろう、と呆れる。
勝手にひとりで突っ走って、死んで、助けてほしいだなんて都合が良すぎる。
でも助けてほしい。死にたくない。もう一度だけ触れたい。

魔法使いは自身の内側の全てを支える大きな柱だった。
でも今は違った。彼女こそが自身の内側の全てに成り代わっていた。
魔法使いという人間こそが世界そのものなのだ。
そんなちいさな世界を救うこともできないのに、
一体俺はどんな世界を救おうとしてたっていうんだ?

返答は無い。声も無い。


世界は遠ざかっていった。違う。世界から遠ざかってしまった。
自分から地面を蹴って、宙に飛び出したのだ。
さまざまなものを見誤って、身体を失くした。
世界は終わった。外の世界も内の世界も終わった。

「なあ」と影が言った。「お前の最期の場所はここなのか?」

「分からない」とユーシャは言った。


「あのな、お前にはここから這い上がるだけの力があるんだ。
多分お前は知らないだろうけどな、お前は強いんだ。
力と強さはイコールじゃない。腕力が全てだなんて誰が言った?

お前は世界を救えるんだよ。どういうかたちであってもな。
世界を救う力を持っているんだよ。誰かと誰かをつなぐことができるんだ。
お前には怪物と人間をつなぐことだってできる。

まだ何も終わってない。始まってすらいない。ここはマイナスだ。
お前は今からゼロに向かうんだ。ここはまだプロローグの途中だ。

魔王だとか勇者だとか、そんな糞みたいなもんが
レールの途中にある物語なんてつまらないだろ?
“ここから先、勇者”とか、“ここから魔王まで一方通行”とか。
阿呆か。そんな道は最初から“勇者”とか“魔王”として
生まれた奴に歩かせときゃいいんだよ。


お前は違う。俺も違う。俺もお前も勇者なんかじゃない。
そんな脇道を歩くのは時間の無駄だ。
お前にはやるべきことがあるだろ。
お前はちいさなひとつの世界を救えるんだよ。

俺とお前で、帰るべき場所に帰るんだ。
あるいはお前だけでも、あいつの隣に帰るんだよ。
こんな簡単なこと、すぐにできるだろ?
だってお前は強いんだから。それに、ひとりじゃない。

さあ行こうぜ」影は残された手を伸ばす。
「お前の勇者としての物語はここで終わりだ。
勇者の冒険は魔王に負けて終わったんだよ。
だからここから這い上がって、ゼロからやり直そうぜ。あいつと一緒にな」


38


青い炎の球の出現と同時に、命を削るという感覚を魔法使いは理解した。

命を削るというのは、心臓を止めるようなイメージだった。
でもそれはすこし違った。むしろ心臓は激しく暴れまわった。
まるで檻に閉じ込められた獣が外に出たがるみたいに、
心臓という獣は肋骨という檻を押した。

力が抜けることも、視界が狭まることもない。
むしろ感覚は研ぎ澄まされ、力が湧いてくる。
身体が軽くなり、火照り始める。穏やかな殺意が湧いてくる。

もう振り返る必要はない。必要なものはもうこの頭の中にしかない。
目に映る景色には糞ほどの価値もない。世界を救う必要も意味もない。
あとはこの身体を燃やして魔王を殺し、彼のもとに向かう。それだけでいい。
だからもうこの身体に気を遣う必要はない。何も我慢することはない。
まっすぐにやればいい。


魔法使いは杖で床を突く。乾いた音が鳴る。
それを合図に、青い炎の球はまっすぐ魔王に飛ぶ。
しかしその身体にぶつかる直前で、魔王の前に青い炎の壁が現れた。
七つの火球はそこへ飲まれて見えなくなる。やがて壁も消える。

「人間が呪術なんて使うもんじゃないぞ」と魔王は言った。

「黙れ」と魔法使いは言った。

後ろから勇者が飛び出し、魔王に突進する。
それに呪術の障壁を張り、剣に炎を灯した。

勇者は魔王に剣を振る。剣は障壁にぶつかり、雷と炎を散らした。
散った炎は雪のように見えなくもない。
そのまま何度も剣を振る。斬るというよりは殴りつけるような感じだった。


呪文をつぶやき、魔王の頭上に巨大な氷柱を作り、そのまま落とした。
勇者は軽く後退し、成り行きを見守る。でも氷柱は魔王に刺さる前に溶けた。
そこに見えない炎があるみたいだった。

魔王はそのまま歩く。そして落ちていたユーシャの剣を拾う。
それは腸が煮えくり返るような光景だった。どうしてお前なんかがその剣を持つ?
それはあいつの剣だ。お前なんかが触っていいもんじゃない。

魔法使いは叫んだ。目の前に巨大な青い火球を作り、青い熱線を打ち出した。
魔王は跳んでそれを躱した。本の幾らかが焼け、跡形もなく消滅した。
壁に穴が空き、外の空気が流れ込んでくる。

「危ないな」と魔王は言う。「本が焼けてしまった」

「だから何だ」魔法使いは言う。「死ね。死ね! 殺してやる! 糞が!」


魔法使いは前に飛び出す。自身に呪術の障壁を張り、拳に青い炎を灯した。
飛び上がり、背後に赤い魔術の球を作る。そしてそれを破裂させる。
爆風で身体を押して、そのままの勢いで魔王に殴りかかった。

魔王は身体を後ろに逸らし、剣で拳を受け止めた。
驚いたように目を丸め、「そんな使い方があるのか」と言った。

もう片方の手にも炎を灯して、殴りつけた。魔王の障壁は破れない。
ただ炎と雷を散らすだけで、歪みはしない。
魔法使いは歯を剥いて叫んだ。憎い。悔しい。どうして届かない?


身体が押された。魔王が剣を振ったのだ。
障壁は破れなかったが、後ろに吹き飛ばされた。
何かに受け止められた。そのまま床に降ろされた。
入れ替わるように勇者は突進する。
それを追うように、青い炎の槍を射った。

勇者は身をすこし屈め、背後から飛んできた炎の槍を躱し、魔王に向かう。
炎の槍は炎の壁に阻まれる。構わず炎の壁に潜る。
身体が焼けるような熱気に包まれる。
しかしそれでも呪術の障壁は破れない。

炎の壁から飛び出し、魔王に向かって剣を振る。
それは剣で受け止められる。
魔王はこちらの足元を蹴った。体勢が崩れる。
頭上を仰ぐと、振り下ろされようとしている剣が見えた。

そこで、剣を遮るように、勇者と魔王の間に氷の壁が現れた。
勇者は床に倒れ、態勢を立て直す。

魔法使いは氷の壁に向かって、雷を撃った。氷は砕け、礫が魔王に飛ぶ。
ダメージはないと分かっていても、どうしてもぶつけたかった。
無駄なエネルギーの消耗だと分かっていても止めなかった。
全てを出し切って終わる。残るものは何もない。灰や身体も魂も残らない。
それでいい。全てに意味はない。視界が滲み、景色から色は消える。


「私が憎いか」と魔王は言った。

「憎い」と魔法使いは言う。
「絶対に殺す。お前を殺すまでわたしは絶対に死なない」

「あの子を殺したことは悪かったと思う」

「悪かった? だから何?
あんたが死ねばあいつは帰ってくるの? 違うでしょう?
何、戦うのをやめろとでも言うの?
嫌。絶対に止めない。絶対に殺す」

「そんなことに何の意味がある?」

「どうして物事に意味が必要なの? 殺したいから殺して何が悪いの?
理屈っぽい奴は嫌い。お前みたいな奴はいちばん嫌い。
哲学するならひとりでしてろ。復讐の何が悪い?
お前を憎いと思って何が悪い? お前を殺すことの何が悪い?」

「何も悪くない。君が正しいと思ったことは全て正しい」

「だったら黙って死ね!」


魔法使いは杖を掲げ詠唱する。
背後に現れた七つの炎の球から、細い熱線が打ち出される。
魔王の障壁にそれはぶつかる。
そのうちのひとつが障壁を貫き、腕に穴を開けた。

魔王は訝しむように自分の腕に目を向けた。
確かに貫かれている。痛みもある。血も流れ出ている。
それは数百年の長い年月の中でも、多く経験したことのないことだった。

魔法使いは思わず口元を歪めた。「殺してやる」

勇者はすかさず障壁に開いた穴に剣を引っ掛け、切り上げた。
魔王の腕、手首の辺りから肩にかけて縦に切り傷が入る。

障壁が霧状になって拡散した。
魔王は信じられないものでも見たように、目を見開いた。


勇者はそのまま手首を掴んで捻り上げて、魔王の腕を斬ってちぎった。
骨を折り、肉を裂く。細い管がぴんと張り、ちぎれ、赤い液体をまき散らした。

魔王は苦痛に声を上げた。
それを無視し、勇者は切り離した腕を地面に捨てて踏みつける。
何度も踏みつけた。何かが砕ける音と、粘っこい音が響く。
そのまま跡形が失くなるまで踏みつけた。大した時間はかからなかった。
靴の裏には肉片がこびりついている。
床を踏みつけると柔らかくて心地よかった。

魔王の障壁はゆっくりと再生した。

勇者は口元の笑みを堪えることができなかった。
静かな高揚が湧き上がる。それは血を沸騰させるようだった。
身体が熱を帯びる。目頭が熱くなる。もうすこしだ。


「驚いた」と魔王は表情を歪めて言った。
腕からはちいさな滝みたいに血が落ちている。

魔法使いは鼻で笑った。「どうせ呪術で再生できるんでしょ」

「私には無理だ」魔王は呪文をつぶやく。
腕の切断面は皮膚で覆われ、血は止まった。
「でも、君にならできるかもしれないな」

「あんたも大したことないのね。何が魔王よ」

「才能には勝てないのさ。君はそれを持っていて、私は持っていない。
君は精霊に愛されて、私が愛されなかっただけの話だ」


魔法使いは口元に笑みを浮かべ、まっすぐに極細の青い熱線を五本撃った。
魔王は自身の右側に黒い穴を作り、熱線の軌道をねじ曲げた。
熱線は穴に消える。はじめからそんなものはなかったみたいに消えた。

「それやめろ」と魔法使いは言った。

「やめない」

魔王は残された手を力なく振った。黒い穴がこちらに飛んでくる。
逃げようと思っても、身体がそこへ吸い寄せられるせいで逃げられない。
そこへ光の球をぶつけた。しかし光は暗い穴に飲まれて消えた。

拙い。魔法使いは自身に強力な呪術の壁を張った。
心臓に締め付けられるような痛みが走る。
鼓動が早くなる。口内に鉄の味が充満する。視界がクリアになる。
迫ってくる黒い穴の中心には宝石のような黒い球が見えた。

その時、前に勇者が飛び出して、黒い球を剣で突いた。
「伏せて」というちいさな声が聞こえた。魔法使いは指示に従い身を屈める。

黒い球体は周囲の空間を歪め、破裂した。
光と青い熱線があちこちに飛び散った。
魔法使いは身を屈めていたので、強い風に曝されただけで済んだ。
が、あの子はどうなった?


頭を動かし、黒い穴のあったはずの場所を見る。でも勇者に遮られて見えない。
庇ってくれたのだ。魔法使いは勇者の姿を仰ぐ。
彼の腕は不自然な方向に折れ曲がっていた。

身体にもいくつかの穴が空いている。
足元には血だまりがある。急いで癒しの魔術で傷を治す。
腕は元に戻り、穴は塞がる。破損した内蔵も再生させ、呪術の障壁を貼り直す。

すると、すぐに勇者は前に出た。傷は塞がっても痛みはまだ残っている筈だ。
背中を見送っていると、その奥で苦笑いする魔王の姿が見えた。
どうして笑う? 何がおかしい?
身体の内側から炎が噴き出すのを感じた。エネルギーの波のようなものだ。


勇者は炎の塗られた剣を振り下ろす。
雷と炎が散る。刃が届かない。

剣先で障壁を押す。するとすこし窪んだ。
力を込めて押すと、呪術の障壁は破れた。
そのまま魔王の腹を貫いた。
肉を焼き、骨を焼き、絶対的な自信を燃やし、灰にする。
何もかもを奪い取ってやる。

魔王は歯を剥いた。
直後に勇者の背後、魔法使いの前方に巨大な黒い穴が現れる。
魔法使いは四枚の巨大な氷の壁を作り、
その穴を囲った。そして呪術を唱える。

勇者は魔王から剣を抜き、血のこびりついた剣をもう一度振った。
地面に絵を描くように血が飛ぶ。
魔王の腹を抉る。繊維を引きちぎっているという感覚が、心地よくてたまらなかった。
性的な快感に近い何かがこみ上げてくる。

魔王は後ろに飛んで、態勢を立て直すことにしたらしい。
すこし離れたところで傷を塞ぎ、もう一度障壁を張った。


背後から魔法使いが飛び出した。と思ったが、違った。
後ろから飛び出してきたのは、いつか見た、大きな剣を持った骸骨だった。
どうしてお前がここにいる? と疑問には思わなかった。
骸骨の大剣には青い炎が灯っていた。彼女の呪術だ。

あれは味方? いいや、どうだっていい。どっちも殺してやる。
勇者は駈け出し、骸骨に続いた。

骸骨は剣を振り下ろし、魔王に叩きつける。障壁は呆気無く、粉々に砕けた。
魔王は歯を剥いて叫ぶ。骸骨の背後に黒い穴が現れる。
骸骨はそこへ吸い込まれ、吐き出された空気と一緒に地面に叩きつけられた。
骨は粉々に砕ける。ほとんど跡形は残らなかった。残ったのは大きな剣だけだ。

勇者は無防備な魔王に剣を振る。魔王はユーシャの剣でそれを止める。

しかし、勇者の剣はそこで折れてしまった。
戦士から貰った剣は輝きを失い、手からこぼれ落ちた。
それはひとつの生物の死であるとか、ひとつの世界の終焉のように見えた。


魔王が剣を振り下ろす。

勇者は氷の槍を自身の手から生やし、
それを剣のように使って魔王の攻撃を止めた。
そしてもう片方の手で、懐に入れていたナイフを取り出した。
それは僧侶がお守りとして買ったナイフだった。

ナイフを魔王の腕に突き立てる。魔王はあえぎ、剣を腕から落とした。
勇者は氷の槍で魔王の喉を突こうと試みる。
が、背後に作り出された黒い穴に身体が吸い寄せられる。届かない。

魔王の手から落ちたユーシャの剣を拾い上げて、後ろに放り投げる。
身体と、地面に落ちていた大剣が、穴に吸い寄せられる。
そこで魔法使いが穴の周りをふたたび氷で覆った。吸い込みは止まる。


魔法使いは前へ出る。飛んできたユーシャの剣が、地面に刺さっている。
それを引き抜き、青い炎を塗りたくった。
重い。剣がこんなに重いだなんて、知らなかった。
でもその剣は力をくれた。肉体的にも精神的にもレベルアップした。
自身に呪術の障壁を張り、身体の後ろで炎の球を破裂させる。

魔王は障壁を再生させる。
知ったことではない。魔法使いは爆風に乗って、魔王の喉に剣を突き立てる。
障壁は破れない。殺してやる。憎い。悔しい。
自分のなかの獣が叫んだ。

殺せ。殺せ!


背後で次々と炎の球を破裂させた。
青い炎だろうが赤い炎だろうが透明の炎だろうが、
とにかく破裂させて身体を押した。

皮膚が裂け、骨が砕けるような気がした。
文字通り身を焼かれた。命を賭した攻撃だった。
構わない。どうせあいつはいない。この身体に価値はない。

透明な炎の爆発で、自身に纏わせた障壁が破れた。
皮膚が焼ける。背中の服が焼けた。顔の皮膚が爛れているのが分かる。
だから何だ。この身体に価値はない。
それに、どれだけ醜くてもあいつならわたしを愛してくれる。
手を握って、ここから救い出してくれる。

魔王の障壁は歪んだ。魔法使いはもう一度背後で炎を破裂させた。
背中の肉が焼け、抉られるような感覚があった。
でもそんなことは大したことではなかった。そこで魔王の障壁が破れたのだ。

魔法使いは大声で笑った。それから大声で泣きながら、魔王の喉を貫いた。


魔王の目は見開かれたあと、何かを悟ったみたいに穏やかな表情を見せた。
そしてそこから光が消えた。

魔法使いは魔王から離れ、力なく崩れた。

勇者は僧侶のナイフで魔王の腹を裂いて、腸を引きずりだした。
そして床に投げつけ、何度も踏んだ。喉に手を突っ込んで、爪で抉った。

胸に何度もナイフを突き立てた。肋骨を一本ずつ丁寧に折った。
手足の骨も踏んで砕いた。眼球を引きずり出して握りつぶした。
耳を剥いで咀嚼して、生気の消えた顔に吐き出した。
もう片方の耳も剥いで咀嚼し、味わってから飲み込んだ。
そして胃の中身を全て魔王の亡骸にぶちまけた。
どれだけ魔王に感情をぶつけても衝動は収まらなかった。
こんな些細なことでは消えるわけがなかった。


魔法使いは寝転びながらそれを見守っていた。
とても非現実的な光景だった。
勇者との間には見えない壁があり、
それを通して猛獣を眺めているみたいな気分だった。

立ち上がろうと思っても力が入らない。火傷を治そうにもエネルギーは空だ。
いいや、そもそも立ち上がる意味はすでにないのだ。

死者を蘇らせる呪術は、想像を遥かに超える力を身体から奪っていった。
ふたたび誰かを蘇らせれば、間違いなく身体は朽ちる。
彼は蘇り、魔法使いという意識は死ぬ。そんな事、彼は望んでいない。
魔法使いにはそれが分かる。

その力で、ユーシャを呼び戻すべきではなかっただろうか、と思う。
どうして今までそんな簡単な事を思いつかなかった?
どうしてお前はいつも、肝心な時にまともな判断ができない?


視界は滲んだ。勇者の叫び声が聞こえた。手のひらには何も残っていない。
いったい、この七年にどんな意味があったというのだろう?
魔王を倒したことで、何が変わったというのだろう? 誰が救われた?

魔法使いは身体を引きずって、本棚のひとつに凭れかかった。
それからすすり泣いた。

旅は終わった。魔王は死んだ。手のひらには何も残っていない。
目に映るのは血の海。聞こえるのは獣のような叫び。覚えるのは激しい喪失感。
世界は救われた。これが世界のあるべき姿なのだろうか?
これがどこかの国の王が望んでいたことなのだろうか?
何を信じればいい? どこへ帰ればいい?


これからどうしようか、と思う。これからとは、何のことだろう?
わたしは、まだ生きようなどと思っているのだろうか? 何のために?
嫌だ。もう終わらせたい。それに、呪術で命を削り過ぎた。
もう両手で数えられるほどの年数しか生きられないはずだ。

抜け殻のまま一〇年近くを過ごす。耐えきれるわけがない。
全ての柱を失った神殿が一〇年も壊れないわけがない。

魔法使いの神は失われたのに、彼女の身体という神殿が存在する意味はない。
彼女の身体の中に、彼が入ってくることはない。
触れることもない。抱かれることもない。声さえも聞こえない。
空虚な神殿に響くのは軋む音と自分の声だけだ。

今日がその日に、今がその時になる、と魔法使いは思った。
今日がわたしの最期の日、今がわたしの最期だ――


魔法使いは首筋にユーシャの剣を押し当てる。
剣は温かかった。すぐ側にユーシャがいるような気がした。
とても気分がいい。殺意や怒りは消えた。今は穏やかな死がほしい。
目を瞑る。瞼の裏にユーシャが映る。彼は何かを叫んでいた。

その時、「行こう」と誰かが言った。

目を開き、顔を上げると、そこには血で汚れた勇者が立っていた。
こちらに向かって手を差し伸べている。その手は何よりも酷く汚れていた。

「どこへ」と魔法使いは訊ねる。

「“喉”。魔王をもう一度、完全に殺す」と勇者は言った。
「それに、僕は君を救うことはできないけれど、
多分、君の救世主を救うことができる」

続く


40


いま向かっているのは、ほんとうに上なのだろうか?
この先には、ほんとうに光があるのだろうか?

「信じればいい」と影は言った。「それは正解になる」

ユーシャは二本の足と、残された片腕を必死で動かした。
水を掻いているような感覚はないが、進んでいるということは分かる。
怪物の隙間を縫い、ひたすらもがいてるみたいに進んだ。


しばらくそうしていると、かなり遠くに小さな気泡が大量に見えた。
綿みたいだった。その綿に隠れるように、何かの生物の影がある。
それはゆっくりとこちらに向かってくる。まるで雪のようにゆっくりと降りてくる。

それの正体は人間だった。同い年くらいの男だ。
短い髪は汚れきっていて、
身体も肥溜めとか血溜まりで転がったみたいに汚れていた。
右手にはナイフを携えていたが、それも血で汚れていた。
敵? でも、耳は尖ってない。人間だ。誰?

少年はユーシャの顔を見て、まるで長い間見ていなかった仲の良い友人を
見つけた時みたいにぱっと表情を明るくして、微笑んだ。「久しぶり」


「久しぶり?」とユーシャは言った。「誰?」

「もう七年前になるのかな。馬小屋の掃除、手伝ってくれてありがとう」と
少年――勇者は言った。

「え?」ユーシャは微笑んだ。「あの時の、村の男の子か?」

「そう。僕、一七歳になったんだ」

「でっかくなったな……そりゃあでかくなるわな。七年だもんな。
そっか。ほんとうに俺がここに来てから七年くらい経ってたのか」
ユーシャは笑うことしかできなかった。「でも、なんで君がこんなところに」


「僕は勇者だからね」と勇者は言った。
「とは言っても、魔王を倒したのは
あなたと一緒にいた魔女みたいなひとだけど」

「魔王は死んだのか? あいつが倒した?」

勇者はうなずく。
「でも魔王は、まだこの“喉”のどこかにいる。僕はそれを沈めにいく」

「沈めるって」ユーシャは訝しむような視線を向ける。
「君はどうなるんだ」

「多分、死ぬんじゃないかな」

「そんな」

「でもおそらく、そうしないと魔王はまた復活してしまう」

「ほかに何か方法はないのか?」

「もういいんだよ。ぜんぶ終わりにするんだ。
僕は死んで、あなたは生き返る。
僕には何も残っていないけれど、あなたは違う。
この“喉”の上で、あの魔女さんは待ってるよ」

「あいつが」ユーシャは視線を上げる。「この上に」

「そう」勇者はユーシャの手を掴み、その身体を湖面に向かって放り投げた。
「だから、早く行ってあげて」


ユーシャは小さな勇者を見下ろしながら、湖面に向かう。
酷く汚れただけの普通の少年にしか見えないが、
何か心に決めたことがあるらしかった。
ユーシャにはそれが見て取れた。
あの子の中には何本かの見えない柱があり、それが内側を支えている。

遠ざかる勇者をじっと眺めていると、
彼の身体から真っ黒の人間が現れた。
輪郭はぼやぼやとしていて、ほんとうに身体中真っ黒だった。
まるで影のようだった。


「頼みがあるんだ」とその影は言った。
「どうかあの子のことを覚えていてくれ」

「……分かった」

「たまにでいいから、思い出してやってくれ。頼みはそれだけだ」

ユーシャはうなずいた。「君は何なんだ?」

影は笑った。
「僕は僕だ。彼が捨てた彼自身だ。僕は彼が消したかったものだ。
それは自分の弱さとか、未来に希望を抱く自分とか、そういうもんさ」

「未来に希望を抱く*自分を捨てた? どうして?」

「分からなくていい。あの子の根っこにはそういう部分があった。
でも、そういうのは捨てたつもりでも永遠に付きまとうんだ。
僕みたいに。錆や黴と一緒だ」

「でも君はあの子から離れてる」

「君を助けてやろうと思ってね」

「どうやって」

「僕の腕をやるよ。もう必要ないからな」


影は自分の右腕を引きちぎって、こちらに放り投げた。
腕からは血が滴ることはない。ただ黒い煙が流れでるだけだ。

「どうすればいいんだ、これ」
ユーシャは輪郭の曖昧な腕を見ながら言った。

「繋げばいい」影は振り返った。

「どこに行くんだ?」

「あるべき場所」と影は言った。「僕にだって帰る場所くらいはあるさ」





影が身体から剥がれた。お前までもが僕を見捨てるっていうのか?
勇者は思ったが、今更、怒りが湧くことはなかった。
失くすのが早いか遅いかの違いだ。どうせ全て消える。
手のひらには僧侶のナイフがある。それを強く握る。

喉の底へ向かう。周囲には何かが欠けた怪物が漂っている。
もちろん、戦士も僧侶もいない。彼らはどこへ行ったのだろう?

今から死ぬというのに、身体の中に空があるみたいに気分は涼しい。
そこには重い鎧も硬い鎖もない。
勇者という作られた偽りの幻想が、雲のように漂っているだけだ。
太陽も星も月もない。鳥も飛んでいないし、風もない。

喉の底へ、自分の深みに落ちる。
喉の底には、自分の中心には何がある?


欠けた怪物の間を縫い、落ちる。
魔王はすぐに見つかった。まるではじめから会うことが決まっていたみたいに。
力なく手足を伸ばして、湖中を漂っている。ナイフに力を込める。

魔王は勇者を見つけると、微笑んだ。

魔王の胸をナイフで突いた。黒っぽい液体が、湖に溶けていく。
魔王は抵抗しなかった。成り行きを見守るように、手足を広げていた。
呪文を唱え、背後に炎の球を作り、破裂させる。
身体を押し、魔王と“喉”の底へ向かう。

「なあ」と魔王は言った。口元からも黒っぽい液体が溢れ、水に溶けていく。
空気に溶ける煙みたいだった。「どうして君は喉に飛び込んだ?」

「さあね」と勇者は言った。

「七〇〇年前の勇者もそうだった。
こうやって喉に飛び込んで、自らを犠牲にして魔王を沈めた。
私には分からないんだ。いったい何が君たちをそこまでさせる?」

「七〇〇年前の勇者と僕は違う。
彼には彼の信念や守るものがあった。僕はそう思う。
彼は世界を想い、世界のために死んだ。
でも僕は友人のために、自分のために死ぬ」


「私が憎いかい?」

勇者は黙ってうなずいた。目から落ちた雫は水に溶けた。

「そうか」魔王はぼんやりと虚空を見る。「悪かった」

「僕の方こそ。もう何も分からなかったんだ。
こうすることでしか終われなかった」

「それでいいんだよ」魔王は勇者の身体を抱き寄せた。
「君は勇者で、私が魔王だ。これが物語のあるべき姿だよ。
でももしかすると、私たちは勇者と魔王という鎖に
縛られていなければ、分かり合えたんじゃないだろうか?
手を取り合ってこのまま行けたんじゃないだろうか?」

勇者は微笑んだ。「ありえないね」

魔王も笑った。「だよな」


光が見えた。それは太陽や星のような光だ。
あまりに眩しすぎて、先は見えない。
おそらくあの光の向こう、あるいはあの光そのものが“喉”の底なのだろう。
そしてその光は影をもう一度生み出した。

「ただいま」と影は背後で言った。

「戻ってきてくれたんだ?」と勇者は言った。

「当たり前だろ。僕らはひとつなんだから。
僕の居場所は君の足元にしかないんだよ」影は笑う。
「さあ行こうぜ。勇者の物語はエンディングを迎えるんだ。
あの光こそが君と僕の、失う旅の終着駅だ」


勇者は目を瞑る。温かい光が身体を満たした。
瞼が消える。光は目を刺す。腕が捻れて、足が折れる。
骨が砕け、内臓が溶けた。毛は燃えて、皮膚が剥がれた。

痛みはなかった。誰かの腕の中にいるというのは、気分がいい。
何もかもが心地よく感じられる。性的快感にも勝るような快感と同時に、
果てのない開放感と喪失感がこみ上げてくる。

優しいふたつの声が聞こえる。声は芯に響いて、空っぽの心を満たした。
ふたつの声は近づいてくる。名前を呼ばれている。


「待たせてごめん」と勇者は言った。「今から行くよ――」

続く


41


不細工な星形の痣がある左手で水を掻く。
勇者の影から貰った右手でも水を掻く。
そうして偽物の勇者は前に進んだ。
でも今はただのひとりぼっちの人間でしかない。

勇者というしるしは背中から剥がれ落ちた。
魔王と繋がっていた見えない鎖も断ち切れた。
身体は軽い。頭のなかにはひとりの人間が居座っている。

魔法使い、とユーシャは思った。早く逢って、この腕で抱きしめてやりたい。
彼女の存在は、食事や睡眠なんかよりも多くの力をくれる。気がする。
良くも悪くも俺は単純だ、と思う。

伝えたいことがたくさんある。謝りたいこともある。
言ってほしいこともある。欲を言えば、やってほしいこともある。


水面までが果てしなく遠く感じる。まるで遠ざかっていってるみたいだった。
確かに近づいてはいるが、あまりにも遠すぎる。
自分の手だけじゃ、ろくに進むことができない。

あいつの言うことはいつも正しい。
やっぱり、俺はひとりでは何もできないのか?

「ユーシャ様はひとりじゃないですけどね」と誰かが言った。

懐かしい声だった。その声は内側の湖に大きな波紋を生んだ。
皮膚がざわざわとする。過去の出来事が蘇る。
声の方向に視線をやると、思った通り、
大きな剣を持った憎たらしいほどに綺麗な顔をした男がいた。

「お前」ユーシャは口元の笑みを堪えることができなかった。
「なんでここにいるんだよ」


「運命ってやつじゃないですかね?」と大剣使いは言った。
「あるいは私とユーシャ様はそういう糸で結ばれてるとか」

「そういうのも悪くないかもな」

「冗談ですよ」大剣使いは苦笑いをこぼす。
「彼女が生き返らせてくれたんです。呪術で。
まあ、すぐに死んじゃいましたけど」

「あいつがお前を生き返らせた? なんで?」

「なんとしてでも魔王を倒したかったんでしょうね。
彼女、泣きながら怒り狂ってましたよ」

「どうして」

「ユーシャ様がやられたからに決まってるじゃないですか」

「そっか」ユーシャは弱々しく微笑んだ。
「ひとを生き返らせる呪術ってさ、ものすごくエネルギーを使うんだろ?」

「そうですね」

「大丈夫なのか? あいつ」

「大丈夫といえば大丈夫ですね。今のところは」

「今のところは」


「今のところはね。でも彼女、もう一〇年も生きられないと思いますよ」

「そんな馬鹿な」

「あなたのせいですよ、ユーシャ様。
彼女にはあなたしかいないんですから。
それが失くなったなら、もう彼女に心残りはないんですよ。あなたと同じように。

彼女は今、空っぽなんです。
エネルギーもないし、手を握ってくれるひとも隣にいない。
七年も待ったのに愛してた男は死んだっていうんですから、
そりゃあ底知れない喪失感と虚無感を味わったでしょうね。

彼女はまだそのふたつの空白に囚われているんです。
喪失と虚無の隙間の、無限の空白の中にいるんです。
彼女の世界の色は未だに灰色なんですよ。
あなたがいないことには彼女の世界は始まらないんです。

だから、なんとしてでもここから這い上がって、しっかりとお礼を言って、
しっかりと謝るべきです。でもきっと彼女なら許してくれますよ」

「分かった」ユーシャは言った。


「無意味な五、六〇年よりも、意味のある一〇年を。
あなたのいない日よりも、あなたが隣にいる一秒を」

大剣使いはユーシャの手首を掴んで、水面に向かって泳ぎ始める。
「彼女が望むのはそういうものです。
あなたが隣にいないことには始まらないんです。
いやあ、うらやましい。ほんとうにうらやましいです。
私もそういう人間になりたかった」

水面はぐんぐんと近づいてくる。
暗い水面の向こう側に、魔法使いの姿が見えた。彼女は何かに祈っていた。

そこで、進路を遮るように怪物が立ちふさがった。
森で見た、四本の腕を持った熊のような怪物だ。
でも腕は三本しかなく、腹からは腸がとびだしている。
彼(あるいは彼女)もまた、欠けた存在だった。

大剣使いはその怪物を躱し、ユーシャを水面に向かって放り投げる。
「さあ、行ってください!」


ユーシャは叫ぶ。
「お前は! またそうやって自分だけかっこつけやがって!
お前はどうするんだよ!」

「私には約束がありますからね。私は約束だけは守る男なんです」
大剣使いは笑った。「死んでもあなた達を守るって、
彼女と約束しちゃいましたからね。いちばん最初に」

「阿呆が!」

「また逢いましょうね」と大剣使いは言って、熊と格闘を始めた。

始まった格闘は子供の喧嘩みたいに幼稚な殴り合いに見えた。
心配したのが阿呆らしくなってくる。口元の笑みを堪えることができない。
もしかするとわざとそういう風に見えるようにしているのかもしれない。

あいつなら大丈夫、とユーシャは自分に言い聞かせる。
俺はやるべきことをやればいい。


ユーシャは前に進む。魔法使いは祈る。欠けた怪物は宙を舞う。

もうちょっとだ。ユーシャの心の内側に湯水が湧き上がる。
それは張った氷を砕き、ぬくもりを取り戻させる。
大声で魔法使いの名前を呼んだ。彼女は祈り続けている。

手を伸ばす。水面まではもうほんの数ミリだ。
でもそこで、足元に何かが絡みつくような違和感を覚えた。
水面が遠ざかっていく。魔法使いが遠ざかっていく。

足元に目を向けると、四本の腕を持った熊がいた。
大剣使いと格闘したのとは別のやつだ。
腕はちゃんと四本ある。でも足が一本欠けている。
熊はユーシャの足首を掴み、底へ向かって引きずり込もうとしている。


熊から迸る悪意は重く、水の底に沈む岩のようだ。
憎悪の塊が足に絡みついているのと同じだった。
特定の誰かに向かって向けられるような感情ではない。誰でもいいのだ。
自分以外が幸せになることを許せないというようなものが、怪物の中にもいる。
ユーシャにはそれを痛いほど感じることができた。

悪意は身体を光から遠ざける。嫌だ、とユーシャは思う。
必死で水を掻いた。でも憎悪の塊はあまりにも重い。
浮かび上がることなどできやしない。

嫌だ、とユーシャは思う。魔法使い、と思った。助けて――


その時、悪意の塊は足から剥がれた。身体が軽くなる。
足元に目をやると、腹から内蔵をこぼした狼が、熊の喉に食らいついていた。
狼の目には悪意と怒りが迸っていた。
それが先程の、前脚と後ろ脚の間の血肉を
むき出しにしていた狼とは思えない。

狼はこちらにちらりと目をやった。
その目は言う。「早く行け」と。
悪意と怒りは、その瞬間だけは消えていた。

「ありがとう」とユーシャは言い、もう一度水面を目指す。

水面から手が出た。
空気に触れた部分に、皮膚が剥がれたような痛みが走った。
痛い。痛い。痛い! 誰か手を握ってくれ。助けてくれ。
俺をここから救い出してくれ!


その願いに答えたみたいに、足元にふたたび悪意の塊が絡みついた。
身体はゆっくりと落ちていく。今まで消えていた重力が復活したみたいに。
嫌だ。あとすこしなんだ。あとすこしなのに。
ユーシャの心に湧いた湯水はぬくもりを失いつつあった。
ふたたび氷が張ろうとしている。

誰かが手を掴んだ。手は小さかった。手のひらは柔らかく、指は細かった。
そして何よりも感触は懐かしく、温かかった。その手を強く握り返す。

その瞬間に、身体は“喉”から一気に引きずり出された。
まるで腹から飛び出した赤ん坊みたいな気分だった。

重力が反転したみたいに、身体は空に向かって大きく飛んだ。
全身の皮膚が剥がれたような痛みを覚えた。
そりゃあ赤ん坊だって泣きたくもなるさ、とユーシャは思った。
痛みのあまり、絶叫した。


42


ユーシャの手を掴み、力の限り引っ張った。
すると、彼の身体は釣り上げられた小さな魚みたいに飛び上がった。
その光景は魔法使いの内側に炎を灯し、世界に色を取り戻させた。

ユーシャは何かを叫んでいる。支離滅裂な呪文みたいだった。
気持ちいいくらいに大きな声だった。
まるで死んでなどいなかったみたいだ、と魔法使いは思う。

どうしても口元の笑みを堪えることができない。
口元が緩むのと同時に、涙腺も緩んだ。
視界は滲むが、彼だけはよく見える。

彼は一七歳の時のままだった。身体も心も一七歳だった。
でも、右腕は真っ黒だった。左耳が潰れていた。
服は着ているが、あまりにも汚れすぎている。血まみれだ。


ユーシャは魔法使いを見つけると、また何かを叫んだ。
でもこちらに向かってくることはない。ただ地面に向かうだけだ。

魔法使いは必死で足を動かして、
落ちてくるユーシャの身体を抱きとめる。
重すぎて、背中から地面に倒れてしまった。
覆いかぶさるように、ユーシャも倒れた。

背中を強く地面にぶつけた。声にならない絶叫をあげた。
背中の火傷は痛覚にこれでもかと訴えかけてくる。
意識が飛んでしまいそうだ。
こんなもの、七年間ひとりだったことと比べるとどうってことはない。
でも痛いものは痛い。痛みと嬉しさで視界は潰れた。

「……だから、俺は言ったんだよ」と
ユーシャは魔法使いに覆いかぶさったまま言った。

「なんて言ったの……」と魔法使いは涙声で言った。

「“お前こそが、俺を救ってくれるんだ”って」


「そんなの、一回も聞いてない……」

「魔王に言ったんだよ」

「そう」魔法使いはユーシャの身体を抱きしめた。彼の身体は大きかった。

ユーシャは魔法使いの頭を撫でた。
「でっかくなったな、お前。びっくりしたよ」

「そりゃあ七年も経ったんだもの。でっかくもなるわよ」

「そうだよな」ユーシャは笑う。
「俺のこと、七年も待っててくれたんだってな」

「うん」

「待たせてごめん」

「ほんとうに寂しかったのよ。ずっと逢いたかった」


「ほんとうにごめんよ」

「ぜったいに許さない。一生かけてわたしに謝れ」

「そうする」

「あんた、すぐに戻るって言ったわよね。
ぜったいに死なないって言ったわよね。
魔王を倒すことはできるって言ったわよね。
帰ってきたらわたしのお願いを何でもひとつ聞くって言ったわよね」

「よく覚えてるな」

「あんたのことはぜんぶ覚えてる」

「ありがとう」


「……お願い、言っていい?」

「うん」

「お願いだから」魔法使いは言う。
「遠くに行かないで。わたしをあんたの隣にいさせて。
それだけでいいの。わたしはそれで救われるの。
わたしにはもう、ここしか居場所がないのよ……」

頬が濡れる。涙が爛れた顔の皮膚に染みる。痛みでまた涙が出てくる。
「我儘言ってごめん……ごめんなさい。
ほんとうは全部わたしが悪いの。

その痣ね、ずっと昔にわたしがつけたの。
それがなかったらあんたはこんな目に遭わずに済んだのに。
ごめんなさい……ごめんなさい……許して……
お願いだから、嫌いにならないで……わたしをひとりにしないで……」

「ならないよ」ユーシャは魔法使いの頭をもう一度撫でた。
「嫌いになんかなるもんか。それに、お前がこの痣を
俺につけたって知っても、俺はきっとここに来てた。

お前なら分かると思うんだ。俺はそういうやつだよ。
めんどくさいやつだ。そうだろ?

俺はここに来て、死んで、お前に助けられるって、そういう風になってたんだ。
ぜんぶ最初から決まってたんだよ。だから謝ることなんてない」

「うん……」


「俺からもお願いがあるんだけど、いいかな」

魔法使いはうなずいた。

「“おかえり”って言ってほしい」

「……それだけ?」

「今はそれだけでいい」

魔法使いは必死になって「おかえり」と声を絞り出した。
もう喉からは泣き声しか出てこなかった。
嬉しさと安堵と開放感が身体中を洪水のように巡った。
心の内側に炎が灯り、身体全体が熱くなる。
生き返ったみたいな感覚があった。

「ただいま」とユーシャは言った。「逢いたかったよ」


暗い森に魔法使いの叫び声が響いた。
風が吹いて、木々は踊る。空で星は瞬く。
それらはふたりの再会を祝福するみたいだった。

長い夜が終わろうとしているのが分かる。朝がやってくるのだ。
世界を平等に照らす大きな光が、あとすこしでやってくる。
でもそれを拝めるかどうかは、また別の話だ。

ユーシャは地面を押して、身体を起こす。

魔法使いはもう一度それに抱きつく。
「離れないで……。もうちょっとだけ……」

「うん」ユーシャも魔法使いを抱きしめ返す。彼の手は大きく、温かい。
でも真っ黒の手はとても冷たかった。「顔と背中の火傷、すごいな」

「わたしのこと、嫌いになった……?」

「そんなことで嫌いになるわけないだろ。
お前だって、俺の左耳と右腕がなくても、
俺のことを嫌いになんかならないだろ」

「当たり前じゃないの……」

「だろ。それと同じだよ」ユーシャは頭を掻く。
「魔術で治さないのか、その火傷」

「もうエネルギーが空っぽなの。今のわたしは、ただの不細工な女よ」


ユーシャが何かをつぶやいた。すると、顔と背中の痛みがすこし和らいだ。
それは下手くそではあるが、紛れも無く癒しの魔術だった。

「ありがとう……」魔法使いは囁く。喉は枯れる寸前だった。
「……癒しの魔術が使えたのね」

「下手くそでごめんよ」

「いつから使えたのよ……」

「第一王国に初めて行った時くらいからかな。
あいつに教えてもらったんだ。
でも傷はちゃんと塞がらないし、痛みも消えないんだ。
難しいよな、魔術ってさ」

「そう……。じゃあ、わたしがちゃんと教えてあげる」

「頼むよ」

「うん……。もっとわたしを頼って……」

ユーシャはうなずく。「ずっと俺のことを支えてほしい」

「うん……。もっと言って……何でも言って……ぜんぶ叶えてあげるから……」

「伝えたいことはたくさんあるんだ。
でも今は、どうやったら伝わるかが分からないんだ。
あとで、何年かけてでもぜんぶ伝えるから、
一緒にゆっくり行こう。いっぱい話をしよう」


「うん」身体から力が抜ける。瞼が重い。身体が重い。
大きな鎖から解かれた開放感と安堵は、心に平穏を与えた。
そして身体は眠りを求めている。心が彼を求めるのと同じように。

周囲で何かが蠢いている。
ぼんやりとする頭を動かし、状況の把握を試みる。
近くに、数匹の怪物が見えた。白い毛に覆われた、四本足の怪物だ。
狼のように見える。やがてそれは軍隊みたいな数に増え、
魔法使いとユーシャを中心にして円を描くように並んだ。

「怪物が来た」と魔法使いは言った。身体はもう動かなかった。
「わたし達、ここで終わっちゃうのかな……せっかく逢えたのに……
嫌よ、そんなの……。死にたくない……もっと一緒にいたい……」

「終わらないよ」とユーシャは言った。「そうだよな」


怪物の一体が、ユーシャの声に答えるように吠えた。
吠え声の方に目を向けると、そこには小さな狼の怪物がいた。
小さな狼はこちらに歩み寄り、ユーシャの頬を舐めた。

ユーシャは嬉しそうに目を細める。
魔法使いには、何が起こっているのかが理解できなかった。

「道案内、ありがとうな」とユーシャは言った。

小さな狼は空に向かって吠えた。
その声には喜びのようなものを感じることができた。あるいは好意のような。
やっぱり彼には不思議な力がある、と魔法使いは思った。
これこそが彼の最大の強みなのだ。
何かと何かを繋ぐことができる。怪物と人間を繋ぐことだってできる。

何匹かの狼がこちらに歩み寄り、ユーシャと魔法使いの脇にしゃがんだ。
身体が狼たちの白い毛に包まれる。
とても温かい。怪物はぬくもりを与えてくれる。

ふたりは怪物たちのぬくもりに包まれて、
幸せな時間を噛みしめるように抱き合って眠った。

もうちょっとだけ続く

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