女「じゃあ、一緒に帰ろっか」 (351)


 教室の隅の方に、バスケ部の男子が五、六人集まってる。
「このクラスでどの女子が一番かわいいと思う?」なんて話をしてる。とてもさりげなく。
 くだらないとは思わなかった。どの男子もときどきそんな話をしてる。いつもじゃないけど、ときどき。

 でも、設問が漠然としすぎていたせいだろうか。その場にいた誰もがすぐには答えられなかったらしい。
 言葉の後に短い沈黙が続いた。

「じゃあ結城と木村の二人ならどっち?」
 
 バスケ部のキャプテンはそう続けた。

 彼は一年のときは剣道部に所属していたんだけど、二年にあがると同時になぜかバスケ部に転部した。
 その後二ヵ月でレギュラー入り。最終的には卒業した先輩たちの指名で部長になった。謎の好青年。

 訊ねられたのはバスケ部の七番で、しばらく答えに窮していた。


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「え、ここで悩む?」

 キャプテンが笑いながら言う。ここは普通に悩むところじゃなくねえ? そんなふうに。
 追従の声も周囲からあがった。七番は慌てた調子で「いや、どっちともよく話すからさあ」とよく分からない言い訳をする。

「いや、だったらお前らはどっち?」

 キャプテンは周りの奴らに訊く。

 どいつもこいつも照れくさそうに口をそろえて「俺は木村」とか「木村だよな」とか「木村だわ」とか言ってる。
 どうでもいいんだけど、すぐ横の席で女子が本を読んでいる振りをして聞き耳立てているのに気付かないんだろうか。

 まあ俺には関係ないんだけど。俺は輪のなかにいなかったから。

 木村と結城なら、まあ俺も迷わず木村だなあ、なんて考えながら窓の外を眺めた。

 休み時間だっていうのに誰も声を掛けてこない。いつものことだ。


 何もしないのは暇だから、俺はいつも一人で暇を潰している。

 気取ってドストエフスキーなんて読んだみたり、前日に観た「汚れた顔の天使」のことを考えたり。
 もしくは「ホテル・カリフォルニア」のイントロをできるかぎり正確に思い出そうとしたり。

 我ながらどうかというセレクションだったけれど、頭の中で考えているだけなので誰にも責められることはない。
 誰にも責められることがない、というのが一人で考え事をすることの利点でもあった。

 さて、と俺は思った。次の時間は移動教室だ。

 俺はごく自然に教科書ノート筆箱を手に立ち上がる。
 我ながら優雅な立ち上がり方だった。

 あまりに優雅だったせいで、教室に残っていた大半の生徒は、俺が立ち上がったということにすら気付かなかっただろう。
 そもそも俺がそこに居たことにすら、彼らは気付いていなかったかもしれないけど。

 なんせあまりに優雅だったもんだから。




 べつに寂しいわけじゃない。

 一人でいることは嫌いじゃなかったし、人と話をするのはなんだか疲れる。
 もちろん嫌だってことじゃない。でも、一人でいる方が気楽だった。

 べつに人間嫌いってわけじゃないし、集団行動が苦手ってわけでもない。
 遠足なんかは普通に楽しむタチだし、班ごとにテーマを決めて研究しろ、なんて言われたら結構張り切る方だ。

 修学旅行だって旅の熱気に浮かされて、班のメンバーと一緒に木刀なんて買ったりした。
 一緒の班だった奴とは、今じゃ一言も話さないけど。

 とにかく、寂しいわけじゃなかった。でも、人と話すことが嫌いなわけでもなかった。それだけ。
 それだけのことなのに、すごくしんどくなる。そういう日がある。けっこう頻繁に。




 その場にいるだけで人を傷つけたり、不愉快にさせたりする人間っていうのはべつに珍しい存在でもない。
 たぶんそこらじゅうに掃いて捨てるほどいるんだと思う。

 で、俺のそういう曖昧な生活態度もまた、佐々木春香という少女にとってはかなり不愉快なものであるらしかった。

「コウモリみたい」と佐々木は言った。

「恥ずかしくないの?」とも言った。「バカみたい」とも。「ていうかバカでしょ?」と続けて言っていた。
 彼女の罵倒は中学生ながらにバリエーションに富んでいて、言われたこっちが感心するほどだった。

 佐々木春香は美少女だ。俺だけは確信を持ってそう断言できる。
 
 とはいえ、何も他の男子から見たら佐々木がとんでもないブスだとか、そういうわけじゃない。
 たとえばクラスの男子に「佐々木春香はかわいいか否か?」と訊ねたら八割くらいの男子が「かわいい」と答えてくれるだろう。
 何人かは「実はけっこう好き」とたいして聞きたくもない情報を付け加えてくれるかもしれない。

 でも半分くらいの男子は、「かわいいけど、でも……」と否定の言葉を続けるはずだ。
「性格悪いらしいよ」、と。



 佐々木春香は性格が悪い。最初にそう言ったのはたぶん木村だ。
 木村里奈。吹奏楽部でフルートを吹いている。

 木村里奈が、たぶんバスケ部のキャプテンあたりにそう言った。会話の流れは至ってシンプル。

「佐々木かわいいよね」

「でもあの子性格悪いよ」

「え、そうなん?」

「うん。けっこうね」

「ふうん、そうなんだ」

 こんなん。実際、そういう会話を聞いた。俺が。

 バスケ部のキャプテンはその日以降二度と佐々木のことを可愛いだなんて言わなかった。
 要するに、「男子は女子に『見る目がない』と思われたくない」ってことなんだろう。
 
 以後、バスケ部男子の中では佐々木=性格が悪いというのが定説になった。男子も罪深いが女子も罪深い。



 俺がそのことを無神経にも報告すると、「わたし、そいつらと話もしたことないんだけど」と、佐々木は泣きだしそうな顔で笑ってた。

 その表情は、すごく魅力的だった。いたいけな強がりと頼りなさが融和していた。
 とてもかわいくて、いっそ性的ですらあった。

 だから俺はその表情を見た瞬間、

(この子と付き合ってデートして手を繋いでキスをしてセックスしたいもんだなあ)

 なんてことを考えた。結婚式は洋式がいいよな。子供は女の子が三人くらいほしいな。
 大きめのボックスカーに荷物を詰め込んで家族でキャンプに行きたいな。犬と庭付きの一戸建ても欲しい。
 そして風の強い夜には言葉も交わさずに寄り添っていたい。

 そこまで十秒を要さずに妄想できた。そしてその後、とても悲しくなった。涙が出そうなくらい。

 たった十五秒前後の短い時間の内に、俺の心は激しく変遷した。
 高ぶり、浮かれ、落胆し、最後には世界を呪った。

 だって、俺と佐々木は実際には付き合っていなかったし、キスやセックスどころか目が合うことすらろくになかったのだ。

 佐々木はたぶん、俺のことを起き上がりこぶしか何かと勘違いしていたんだろう。

 もちろんそのことに文句をつけるつもりはなかった。
 どちらかと言えば、俺はそのことを喜んでさえいた。

 佐々木春香という少女が、べつに誰だってかまわないはずの起き上がりこぶし役に、偶然にも俺を選んだという事実を。 
 




 そんなわけで、俺はひそかに盗み聞きしていたバスケ部のやり取りに対して、頭の中で「佐々木が一番に決まってるだろ」と答えていた。
 そんなことを実際に口に出せば、彼らは、

「でもあいつ性格悪いぜ?」だとか、
「これだから女慣れしてない奴は」だとか、
「顔に騙されるなあ」だとか。
 
 得意げな顔で言ってくるに違いない。

 でも、それはあまり不愉快な想像ではなかった。

 あいつらの中で俺と同じくらい佐々木と話したことのある奴はまずいないはずだ。
 そうである以上、俺が佐々木のことをいちばん知っていると考えていい(と思う。佐々木が嘘をついていないかぎり)。
 
 佐々木のことを知らない奴が知ったかぶりで何を言ったとしても、俺のささやかな優越感を増長させこそすれ、傷つけたりはしない。

 でも、そんな話を誰かがしていると知れば、佐々木自身はひどく傷つくだろう。
 だから俺はあえて口を閉ざし、佐々木がいかに可愛いかを語らずにおいた。
 
 それに、奴らに佐々木の可愛さを教えるのは惜しいという気持ちも、本当はある。

 要するに俺は佐々木の起き上がりこぶしであることをステータス化していたのだ。
 なにせ佐々木は可愛かったし、俺は佐々木のことが好きだった。





 どうでもいい話だけれど俺たちは中三で、季節は秋で、だから正確に言えば彼らはバスケ部じゃなくて元バスケ部だった。
 キャプテンは元キャプテンだったし、七番は元七番だった。

 じゃあ俺はなんだったかというと、俺は元々帰宅部で、よって現役だ。
 元バスケ部の連中の間では、部活という青春は終わってしまったものだろう。

 でも俺は今も部活に情熱を燃やしている。
 そういう意味では俺の方が彼らよりよっぽど充実した青春を送っているのかもしれない。ひょっとしたら。

 帰宅部の人間は大雑把に言って二種類に分けられる。
 帰りにゲーセンやファーストフード店に寄る帰宅部と、寄らない帰宅部だ。

 これを専門用語で「寄り道」と「直帰」と呼ぶ。あるいは呼ばないかもしれないが、俺は個人的にそう呼んでいる。
 派生として「塾通い」「自主的居残り派」などもあるが、少なくとも「塾通い」は帰宅部に含まれないというのが俺の持論だ。


 俺は「直帰」ないし「自主的居残り派」だ。寄り道もするが、ゲーセンやファーストフード店で時間を潰すことはしない。
 だってゲーセンってうるさいしなんか怖くねえ? というのが俺の主張。

 ゲーセンで金を使うくらいならコンビニで同額分のスナック菓子を買い込んで家で食べる。
 幸か不幸か俺はどれだけ食べても太らない系男子だった。

 学校が終わったあとは一人で家路につく。
 途中でコンビニに寄ってジュースなりアイスなりスナック菓子なりを買って店を出る。
 家に帰ってからは適度に勉強でもして暇を潰す。

 これが俺の部活。

 これはこれで結構充実しているんじゃないかなあと自分では思っている。
 たぶん誰も同意してくれないと思うので口に出したことはないけど。

 そして佐々木と会うようになってから、俺は直帰型帰宅部ではなく、自主的居残り派として、頻繁に屋上に通うようになった。


 冗談みたいなナチュラルボーン・ボッチな生活において唯一と言ってもいい話相手が佐々木春香だった。

 彼女はいつも屋上のフェンスに背を向けて座り込み、イヤホンをつけて音楽を聴いている。
 レンタルショップで買ったらしい安物のMP3プレイヤーを、結構長い間使い古している。

「どんなのを聴いてるの?」とためしに訊いてみたりすると、彼女は片側のイヤホンを俺に貸してくれる。

 たぶん彼女は全部分かってるんだと思う。

 俺が彼女のことを好きだということも。そういうことを分かったうえで、俺をからかってるんだと思う。

 でもそれはそれで割と幸せなので、俺はちょっとした悔しさと気恥ずかしさを感じながらも、何も言えずにイヤホンを片耳に差し込む。

 流れてくるのはだいたい、どこかで聴いたことがあるような洋楽だった。

「コットン・フィールズ」とか「デイドリーム・ビリーバー」とか「トップ・オブ・ザ・ワールド」とか。
 おかげで俺は、彼女と一緒に音楽を聴いていると妙に寂しくて物悲しいような気持ちになった。


 彼女は俺のそんな反応すらも楽しんでいたのだと思う。

 俺と彼女は、フェンスを背に、並んで座り込みながらも、ほとんど言葉を交わさなかった。

 ときどきどうでもいいような質問をぶつけあったり、どうでもいいような話をしたり、本当にそれだけだ。

 それ以外の時間はだいたい音楽を聴いて、ぼんやりと空を眺めていた。隣り合って座りながら。

 それは少なくとも俺にとっては幸福な時間だった。
 ふわふわと浮ついて音楽に集中なんてできなかった。

 隣に座る佐々木が今どんなことを考えているのか、そんなことばかりが気になっていた。
 けれど俺はちゃんと知っていたのだ。最初から。佐々木が俺のことなんてなんとも思っていないということを。

 そうじゃなかったら、彼女がそんなふうに平然としていられるはずがないのだから。

 あるいは本当はそんなことはなくて、彼女も俺のことを憎からず思っているのかもしれない。
 でも、そう考えてしまった後には必ず首を横に振る。
 両方の頬をぱちぱちと叩く。目を思いきり瞑ってから、もう一度開き直す。
 
 そうでもしないと妙な勘違いをしたまま、佐々木のことをひどく傷つけてしまいそうな気がした。
 あるいはそれは単なる言い訳で――俺は期待と表裏一体の落胆が怖かっただけなのかもしれないけど。


つづく

乙です
後輩が待ってるss書いた人ですか?




 佐々木春香はクラスの中で浮いていた。

 なんでかは分からない。その手の事情について、俺はほとんど何も知らない。
 そういうことに関しては、むしろバスケ部連中の方が詳しいのだろう。

 でもそれは佐々木という人間の本質とは無関係だ。特に知りたいとも思わない。
 俺が知りたいのは、彼女が周囲にどんな人間として受けとめられているか、ではない。

 彼女がどんな本を読み、どんな音楽を聴き、どんな場所、どんな時間帯を好み、どんな人に親しみを感じるのか。
 
 そういうことだけだった。それもそれで妙な話ではあるんだろうけど。
 
 とにかく、ひとつの事実として、佐々木には友人が少なかった。

 まあそのあたりの話というのは、傍から見ているだけで事情が把握できてしまったりする。
 友人関係が奇妙なこじれを起こしたんだろう。たぶん。たぶんだけど。


 観察と対話の成果として、俺は佐々木春香についていくつかの情報を手に入れることができた。

 音楽はもっぱら洋楽を好んでいて、それも少し古めのものが多い。
 本は割とエンタメ寄りで、古典なんかには手を出さない。

 漫画は少年漫画も少女漫画もほどほどに読んでいる。
 映画は流行りものより古いものを見ることが多い。あとは監督や俳優で選ぶこともあるらしい。

 雨の土曜日が好きで、晴れた月曜日が嫌い。でも良く晴れた日の夕方はすごく好き。
 
 猫と犬ならどっちが好き、と訊かれると、「どっちも別物でしょ」とさらりと言う。
 そしてそれから十五分ほどにわたり、小動物の魅力についての持論を展開し始める。

 その話をした翌日には、猫と犬の写真集をぼんやりと眺めていた。
 とてもリラックスした様子で、柔らかな午後の日差しと少しぬるい風の中で。
 それは今年の夏の出来事だった。そのときも彼女は屋上にいた。

 佐々木春香は屋上が好きだ。ひょっとしたら愛してすらいるかもしれない。





 一度、彼女に訊いてみたことがある。どうしていつも屋上にいるのか、と。
 彼女はちょっと困った風に笑ってからイヤホンを外し、風に踊る髪を手のひらで押さえた。

 暑いときは暑いし、寒いときは寒いし、風はあるし、そんなに綺麗な景色でもない。
 それなのにどうして、屋上に来るのか、と。

「バカと煙」

 と彼女は真剣な顔で言った。俺は面食らい、彼女の顔を何も言えないまま見返した。
 ちょっと間を置いてから、彼女は笑った。そこでようやく、俺は彼女が冗談を言ったことに気付いた。

 それから俺たちはひそめた声で笑い合い、彼女は再びイヤホンを耳に差し込んだ。
 そして、とても小さな声で、

「他にどこに居られると思う?」

 そんなことを言った。俺はどう答えればいいのか分からなかった。


「それにね、そんなに悪い場所じゃないよ、ここ。いいところだってちゃんとある」

 彼女は俺の方を見て取り繕うように続けた。その日は夕焼けが奇妙なほど綺麗だった。
 茜色に染まっていく街並みを、俺たちは屋上から見下ろしていた。

「たとえば?」

「人と話さなくて済むでしょう」

「……ひょっとして、俺、邪魔?」

 彼女は楽しそうに笑ってから、言葉を続けた。

「屋上は切り離されてるんだよ。だから街を俯瞰できる」

「俯瞰?」

「俯瞰。そういうのって、街の中にいるとなかなかできないでしょ」

 彼女はすごく真剣な表情で、ごく当たり前のことを言った。
 彼女の言葉にはもっと別の意味が含まれていたのだと思う。
 
 彼女は屋上について話をしているのではなく、屋上という空間に投影された別の概念についての話をしていた。
 つまり彼女は空間についてではなく、状態についての話をしていたのだ。そんな気がするだけだけど。




 とにかく彼女は屋上をそれなりに愛している。

 その愛し方というのはいささか偏っていた。
 彼女は隣に座る俺よりも、むしろ屋上の方に親密さを感じているように見えた。

 そういうことに気付くと俺はなんだかやってらんないような気がしてきて、拗ねたような気分になる。
 
 彼女はそんな俺の変化をすぐに察して、小さな子供を見るような目で笑った。
 
 昔からずっと、誰からも、家族にすら、「何を考えているのか分からない」とか言われてきたのに。
 彼女はあっさりと俺の感情の揺れを看破する。
 
 嬉しいようなこそばゆいような、そんな気持ちがそこにはあった。
 
 でも、だからこそよりいっそうつらく感じることがあった。
 だって俺には、彼女が何を考えているのかなんて、想像さえつかなかったのだから。
 
 その時点で、彼女と俺とは釣り合っていなかった。
 彼女が俺を理解することはあっても、俺が彼女を理解することなんて、ろくになかったのだ。




 そもそも彼女と俺は同じ幼稚園、同じ小学校に通っていた同じ地区の顔見知りだった。

 でも親たちの相性があんまりよくなかったようで、子供の頃はろくに交流がなかった。

 だから、お互い顔は知っていたんだけど、特別話す機会もないというポジションのまま。
 小学校を卒業するまでずっと、ろくに言葉も交わさなかった。

 更に中学に入ってしまうと、彼女の容姿が非常なものであるということが周囲の反応から判明した。
 付け加えると、俺がスクールカーストの底辺近くの存在であるということも。

 そのようにして、彼女は話しかけるのもおこがましいような高嶺の花になってしまったのだった。
 
 それが今では毎日のように顔を合わせているわけで、不思議なめぐり合わせといえばそうなんだけど。

 けれど、ときどき、せめて子供の頃にもっと話をしていれば、今だってもう少し対等な関係になれたかもしれない、と。
 そんなことまで考えてしまうんだから、恋の病は結構重篤だ。




 佐々木と俺が屋上で話をするようになったのは、今年の春のことだった。

 
 その頃の俺はアウトローでアナーキーだった。精神的に。 
 学ランの第一ボタンをしっかり締め、授業もサボらず、寄り道もしない。それが俺なりのアウトローだった。


 教師にはおべっかを使い、委員会の話し合いでは積極的に意見を提出するアナーキーさ。
 そして内心では苛立っていた。教師にも同級生にも後輩にも。あと世界とかそこらへんのなんやかんやにも。

 社会的態度と内面的な性質は必ずしも一致しない。
 精神的アウトローこそが二十一世紀においてはトレンディーだ。俺はそう考えていた。

 その日俺は、委員会で不要になった資料を段ボールに突っ込んで運んでいた。
 何をそんなに考えることがあるのかというくらい大量の資料だった。

 こんなものを後生大事にとっておいてどうするんだろう。
 そんなふうに考えながら、俺はひたすらに段ボールを抱えて廊下を歩いた。

 ひとりで。


 他の委員はバックれた。委員会の顧問は押し付けがましい笑顔で「お願いね」と言った。
 たとえばこれが俺ではなく、バスケ部のキャプテンだったなら、「他の人がいるときにしようか」と顧問は言ったはずだ。
 
 でも俺はバスケ部のキャプテンではなかったし、教師にすら舐められていた。

「お願いね」とにっこり笑う顧問の表情。たぶん彼は自分の無神経さに自覚を持たずにいた。

 内面的アウトローである俺は「わかりました! 頑張ります!」とおどけてみせた。
 実際たいした作業ではないのだ。時間はかかるが、疲れるようなことでもない。
 
 ひとりで廊下を行ったり来たり。
 
 気分はすっかりやさぐれていたけれど、顔には出ないように努めた。
 それが俺なりのアウトローだった。世界と相対する為に習得した処世術。

 そういう生活もちょっとガタが来ていた。
 とっさのアクシデントに対応できなくなった。巧くできるはずのことができなくなりつつあった。

 風邪でも引いてたのかもしれない。あるいは花粉症だったのかもしれない。
 とにかく洟がひどくて、おまけに頭がぼんやりしていた。



 何往復かをしているうちに、頭は余計なことを考え始めた。
 俺は十五秒ごとに世界を呪った。憎しみで人を殺せたらと冗談交じりに考えた。
 
 そして転んだ。

 段ボールを抱えたまま。廊下の床に顎を打ち付け、資料は散らかり、足を妙な方向に捻った。  
 
 ちょうど俺が向かっていた方向から歩いてきた二人組の女子が、俺の転倒を見て笑った。

 近付いてきて、「大丈夫?」と笑ったまま訊ねてきた。「すごい音したよ」

「大丈夫」と俺は答えた。愛想笑いを浮かべながら、相手の目を見ないようにして。
 顔は羞恥で真っ赤にそまっていた。たぶん。

 俺は荷物を抱え直して廊下をまた歩き始めた。
 すれ違いざま、二人組は茶化すように「がんばれ」と笑った。俺も笑った。

 資料の片付けを終えて職員室に行くと、顧問は苛立たしげな様子でどこかに電話をしていた。
 彼は俺に気が付くと、「終わったの?」とどうでもよさそうに言った。
 
「はい」と頷くと、「そう。じゃあもう帰っていいよ」と彼は困ったような顔をした。
 労いの言葉もなかった。べつにほしくもなかったけど。


 職員室を出たあと教室に戻ると、何人かの同級生たちが話をしていた。
 俺が教室に入ったときにも、彼らはちらりとこちらを見ただけで、声も掛けてこなかった。
 話したこともないんだから当たり前だけど。

 俺は荷物を持って教室を出た。
 捻った足が痛くて、俺は身体を微妙に傾けながら歩いた。傍からはひどく不格好に見えたことだろう。

 すぐには帰りたくなかった。とにかく誰かと何かを共有したくてたまらなかった。
 なんだってかまわないのだ。じゃんけんでもいいし、しりとりでもいい。誰かと何かをしたかった。

 でも、そんなことをしてくれる相手は俺にはいない。
 
 仕方ないのでどこかに行こう、と思った。そして、その場所にこの気持ちを置いていこう、と考えた。
 割り切れないものを物質的にとらえてどうにか割り切ろうとする自分が、なんともいじらしかった。
 たぶん誰も同意してくれないけど。

 教室。廊下。図書室。資料室。どれもダメだ。保健室。絶対に嫌だ。
 
 最後に浮かんだ場所が屋上だった。だから俺は屋上に向かった。
 
 シンプルな言い方をすると、生きていくために、屋上に向かう必要があった。




 屋上の扉を開けたとき、世界が切り替わったような気がした。

 学校の敷地を囲むような桜並木の薄紅色と、春の空の澄んだ水色。
 柔らかな色彩が、視界にすっと入り込んできた。
 
 そして屋上の縁には、隔絶を示すフェンスが立っていた。
 風はまだ冷たくて、強くて、しかも少し埃っぽかった。

 扉が軋んだせいだろう、俺が屋上に出た途端、彼女は慌てたようにこちらを振り向いた。

 人がいるはずがないと思い込んでいた俺は、彼女の存在に戸惑い、息をのんだ。
 心臓が跳ね、全身が緊張した。

 それから数秒の間、自分の身に起こった奇妙な感覚を、俺は未だに消化できずにいる。

 彼女は身を強張らせ、俺の方を見た。
 その表情を目にした瞬間、俺は自分がそれまでに考えていたことがすべて吹き飛ぶのを感じた。

 そのとき彼女は泣いていたのだ。とても綺麗に。




 沈黙は二十秒くらい続いた。その間、俺たちは互いに目も逸らさなかったし、身動きもとらなかった。

 静寂を破ったのは彼女の方だった。

「あくびが出たの」

 そう言ってから、自分の声の震えに気付いてか、取り繕うように咳をして、

「それだけ」
 
 と今度はしっかりした声で言葉を重ねた。

 頬にはまだ涙の筋が残っていたけれど、彼女はそれを拭おうとはしなかった。
 気付いていなかったのではないだろう、きっと。
 あくびが出ただけなのだから、変に拭う必要がないだけだ、と、そう言いたかったのかもしれない。

「今日はぽかぽかして気持ちのいい陽気だから」

 言い訳がましく、彼女は更に続けて言った。むっとした表情で。


 そのときにはちゃんと、目の前にいる女の子が佐々木春香であると、俺はちゃんと理解していた。
 昔からの顔見知り。ろくに話したこともない同級生。そう認識できていた。

 ちゃんと頭は回っていたのだ。

「今日は少し肌寒いと思うけど」

 だから、そんなことをつい口に出してしまったのは、混乱していたせいじゃなかったんだと思う。
 元々俺が無神経だっただけだ。

 佐々木は俺の言葉を聞いて、少し怯んだようだった。俺は後悔した。

 彼女はむっとした顔をこちらに向けて、溜め息のように、

「いいでしょ、別に」
 
 と呟いた。

 それが最初のやりとりだった。
 

つづく

>>14
はい




 俺と話す時、彼女は学校の中での出来事について何も言わなかった。
 同様に、家での出来事についても。

 俺たちが話すのは本のこと、映画のこと、音楽のこと、それから自分自身のこと。それだけだった

 不思議なほど、俺と彼女の趣味は異なっていた。
 
 俺がソニック・ユースを聴けば彼女はカーペンターズを聴いていた。
 俺がピンク・フロイドを聴けば彼女はボブ・ディランを聴いていた。
 
 俺が真夜中のカーボーイを観れば彼女はタイタニックを観ていた。
 俺がパルプ・フィクションを観れば彼女はキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンを観ていた。

 べつにレオナルド・ディカプリオのファンだったわけじゃないと思う。
 たしか本人は「モーガン・フリーマンが好き」と言っていた。
「それからイーストウッド」とも。まあ分からなくもない。

 とにかく俺たちの趣味には大きな隔たりがあった。たぶん。
 あるいはどちらも本当はたいして違わないのかもしれないけど。



「一番好きな映画ってなに?」

 ある日彼女にそう訊かれたとき、俺はとっさに「チャイナタウン」と答えそうになって慌ててこらえた。
 さすがにそう答えるのはまずいような気がした。なんとなく。

「すぐには思いつかない」と俺は答えた。
 たぶん「ショーシャンクの空に」とか答えておくのが一番無難だったと思う。

 俺の答えに、彼女はつまらなそうな顔をした。

「そっちは?」

「うーん……」

 彼女はしばらく考え込んでしまった。それから不意に顔をあげて、照れくさそうに笑った。

「たしかに思いつかないかも」

 俺たちの会話には発展性というものがなかった。建設性というものもなかった。
 ただそこにあるだけだった。
 ただ消費されていくだけの時間。重みの存在しない時間。無為な時間。

 悪い日々じゃない。
 




 佐々木春香と俺は似ている。どこが、というのではない。どこかしら似通っている。たぶん。
 俺がそう思っているわけじゃない。佐々木春香がそう言っていた。

「たぶんだけどね」と、こちらの反応を窺うように、彼女は言った。

「どこが?」

 
 俺が訊ね返すと、彼女はちょっと戸惑ったような顔をした。 
 まるで俺が同意すると思っていたみたいに。


「そっちはそう思わない?」

「どうだろう。考えたことがなかった」

「今考えて」
 
 彼女が少し強い調子でそう言うのと同時、強い風が吹いた。
 一瞬雨が降り始めたのかと思ったけど、違った。

 校舎脇の大きな欅の葉擦れが、雨音のように聞こえただけだった。
 


 八月のことだった。その頃、俺は佐々木と一緒に屋上にいることに慣れ始めていた。

「どうかな。分からない」

 いくらか考えたあと、俺はそう答えた。佐々木はいくらか焦ったみたいだった。
 彼女の慌てたような表情は、俺の心を浮かれさせた。
 言うまでもなくその表情は魅力的だったし、それ以上に俺の言葉が彼女を慌てさせているという事実が心地よかった。

 でも別に困らせようとしてそう答えたわけじゃない。俺と彼女が似ているかどうかなんてわからなかった。
 むしろ、似ているところなんてないような気がした。

「もっとよく考えてよ。ちゃんと考えて。確認して」

 不思議なくらい、佐々木はそのことに執着した。彼女の態度に俺は戸惑った。
 必死なくらい、彼女はそのことにこだわった。そしてそれからというもの、彼女はことあるごとにこう言った。

「わたしたちは似てる。とてもよく似てる。そうでしょ?」

 縋るみたいにそう言った。彼女がそこまで言うなら、と思って、俺はあえて否定しなかった。
 別に俺は損をしないのだ。似ているなんてちっとも思わなかったけど。




 俺たちはよく似ている。そう佐々木春香に言われた日、俺は言いようのない孤独を感じていた。
 
 放課後、佐々木と別れて寄り道もせずに家に帰ると、母親は机に居間のテーブルにもたれて眠っていた。

 たぶん彼女は自分の年齢を忘れていたんだろう。
 薄くて派手な寝間着は彼女の年齢をいっそう際立たせているような気がした。
 
 テーブルの上には発泡酒の空き缶が何本か転がっていた。それから灰皿と煙草。
 母の首筋にはキスマークがついていた。

 俺は母の体を持ち上げて寝室に運び、布団の上に寝かせた。
 放り出されたままの空き缶を捨て、散らかった居間を簡単に片づけた。
 
 そして自分の部屋に鞄を放り投げてから、テーブルの上に置きっぱなしだった煙草をくわえて火をつけた。
 
 いくら吸っても吸っている感じがしなかった。
 




「金がないのにどうして煙草をやめないんだ?」
 
 昔、そう母に訊いたことがある。ずっと昔。小学生くらいの頃。

「働くのが嫌になるからだよ」
 
 と母は当然みたいな顔で答えた。

「どういう意味?」

「煙草を買うには金がいるって思えば、しょうがないから働くかって思うでしょう」

「どういう理屈だよ」

「もし煙草を買えなくなったら――」と母は言った。

「――わたしはあんたと無理心中でもするかもね。煙草の神様に感謝しなさい」

 俺が鼻で笑うと、母はくすぐったそうに目を細めた。
 彼女なりの冗談だ。それは俺にもちゃんと分かった。





 佐々木春香の父親は医者をしていた。母親は専業主婦だった。彼女は一人っ子だった。
 そのことを知ったとき、どうして彼女は公立中学なんかに通っているんだろうと訝ったものだった。
 もちろんそんなのは、俺がどうこう言うようなことじゃないんだけど。

 彼女は育ちが良くて、落ち着いていて、容姿にも恵まれていて、成績もよかった。
 少しばかり育ちが良すぎるところもあったけれど、それも徐々に削れていった。

 一方俺は片親だ。両親は放埓な性生活の末に妊娠し、安易に出産した。
 そして当然の帰結のように離婚。俺は母親に引き取られた。
 母親は昼に寝て夜に働くようになった。

 なるほどな、と俺はそのとき思ったものだった。

 たしかに俺たちはよく似ているみたいじゃないか、と。

 実際に口に出すことはしなかったけれど、そのとき俺は初めて佐々木に対して苛立ちを覚えた。




 だからといって、俺が佐々木を軽蔑したとか、そういうことはもちろんなかった。
 
 俺は別に佐々木という人間に都合のいい幻想を投影していたわけじゃない。

 むしろ俺は、佐々木に対して都合の悪い幻想を投影し続けるように努めた。

 ひょっとしたら彼女は俺のことを気味わるがっているかもしれない。
 ひょっとしたら彼女は陰では他の誰かと俺のことを嘲笑っているかもしれない。
 ひょっとしたら彼女には他に仲の良い男子生徒がおり、俺をからかっているだけかもしれない。

 そう考えることで俺は、妄想混じりの幸福感に溺れそうな自分にブレーキをかけ続けていた。
 思春期少年のガラスのハートを守るためにも、もはや性質化した恋心を守るためにも、それは必要な作業だった。

 俺は佐々木春香を好きで居続ける必要がある。

 俺にとっての佐々木春香は、母にとっての煙草だった。
 もし佐々木春香を好きじゃなくなれば、この世には何の未練もなくなり、俺は晴れやかな気持ちで屋上のフェンスを越えられる。
 
 佐々木春香を好きでよかったのか、悪かったのか、それはちょっとむずかしいところだと思う。
 でも彼女と話ができるのは幸せなことだ。だから彼女と話ができる間は、俺は生きていく。ハレルヤ。

つづく




 俺は帰宅部だけれど、委員会には所属していた。
 クラスの図書委員は、俺と白崎美雪のふたりだった。後期前期ともに。

 図書委員は週に一度の当番の日が決まっている。
 こういうのは週ごとで担当を変えた方が効率がいいと思うのだけれど、そのあたりのことはよく分からない。

 とにかく俺と白崎は、毎週水曜の朝、昼休み、放課後に、必ず図書室を訪れる。
 
 そして貸出カウンターの内側に座って薄暗い図書室の中でまどろむ。
 実にさまざまな人間が図書室を訪れ、そして本を借りていく。
 
 最近じゃ本の貸し出しの管理なんかはコンピュータでするところもあるらしい。
 でもうちの学校じゃ、今でも古くさい貸出カードを使っていた。

 利用者の名前と貸し出しの日付を記入し、貸出の際に図書委員が預かる。
 本が返却されたら返却日を記入し、カードを本に入れ直す。

 やることは同じだ。機械がやるか人がやるかの違いだけしかない。




 
 白崎美雪について誰かに説明するのは難しい。
 容姿に優れ、しかも何かと噂の的となりやすい佐々木とは違い、白崎には話題性というものがなかった。 

 白崎は図書委員だったから、当番の日には必ずと言っていいほどカウンターに姿を見せる。
 けれど彼女は、仕事をろくにしなかった。できないというのとは違う。しないのだ。

 カウンターに生徒が本を持ってくる。受け取るのは俺だ。貸出カードの項目を記入する。
 カードを預かり、返却期限を告げ、本を渡す。

「忘れないように」と俺は言う。
「どうも」と本を受け取った誰かは言う。

 白崎は黙って「芝生の復讐」を読んでいる。

 白崎はそういう奴だった。もちろん俺は寛大だから委員会の仕事に積極的じゃないことくらいじゃ怒らない。
 でも、それだったら別に俺ひとりでやらせてくれてもいいのに、と思う。
 貸出カウンターのスペースが無駄になるだけだから、仕事をしなくても困りはしない。

 それでも彼女は毎週水曜、朝も昼も夕方も、いつも図書室に現れる。
 たぶん真面目だからってわけでもないだろう。
 顧問に呼び出されて資料の片付けを頼まれたときには彼女も顔を見せなかったんだから。




「先週の資料整理」
 
 俺と佐々木春香が屋上で出会った次の週の水曜日、白崎は朝の図書室でそう声を掛けてきた。

「一人でやったんだって?」

 俺は少し戸惑った。俺と白崎は、何の因縁か知らないが、入学以来ずっと同じクラスに所属していた。
 にも関わらず、俺と彼女はそのとき初めて言葉を交わしたのだ。
 図書委員が決まったときにだって、「よろしく」「こちらこそ」なんておさだまりの会話すらしなかった。

「ああ、うん」

「ごめんね。用事があったから。手伝えたらよかったんだけど」

 少し怪訝に思いながらも俺は頷き、

「べつに平気だよ。たいした量じゃなかったから」

 と控えめに言った。内心で「今更なんだよ」と思いながら。実にアウトローだ。



 本当なら文句のひとつでも言っていたところだったが、その頃の俺は屋上に気をとられていて他のことに気を回す余裕がなかった。
 白崎のことも、資料整理のことも、どうでもよかった。

「本当は、資料整理、手伝うつもりだったんだよ」

 どうでもよさそうな声で、白崎は言った。朝の図書室には誰もいなかった。
 俺たちは貸出カウンターの中でパイプ椅子に座って、広々としていて寒々しい校舎の中にとどまっていた。

「急に用事ができたんだ」

「どんな?」
 
 訊いてほしかったのかと思って訊ねたけれど、彼女は困ったように眉を寄せただけだった。
 訊いてほしいわけじゃなかったらしい。

「でも、ごめんね。ひとりでやらせちゃってさ」

 白崎はどうでもよさそうに続けた。彼女の言葉はなんだかすべてがどうでもよさそうな響きを伴っていた。


 ひょっとしたら白崎本人はどうでもいいだなんて思っていなかったのかもしれない。
 彼女の声には、聴く者にどうでもよさそうだなあと感じさせる何かがあるだけなのかもしれない。
 本人の気持ちとは無関係に、そう聞こえてしまうのかもしれない。俺は想像の中で白崎を憐れんだ。

「今度、お詫びするよ」

「お詫び?」

 俺は少し驚いて繰り返した。

「なに、お詫びって、いきなり」

「申し訳ないなあっていう気持ち」

「いいよべつに。きみからお詫びなんて受け取ったら、俺は図書委員全員からお詫びを徴収しなきゃいけなくなる」

 彼女は少し笑った。その笑みもどこかどうでもよさそうな笑みだった。
 どうでもよさそうな。投げやりな。そう見えただけかもしれない。


「最近お菓子作りに凝っててさ、シュークリーム作ってるの。でもなかなかうまく膨らまないんだよね。
 焼き上がる前まではいけるかもって思っても、いざ完成ってなると萎んじゃうの。たぶん分量か時間が違ってるんだろうね。
 今度もってくるよ。ちゃんと膨らんだら」

 彼女はやっぱりどうでもよさそうだった。俺と目も合わせなかった。

「いいってべつに」

 俺は一瞬だけ、同じ委員会の女の子からお菓子を受け取るというシチュエーションについて思いを巡らせた。
 でも一瞬だけだった。頭は義理立てするみたいにその想像をかき消して、屋上の方へと傾いていった。

 その日以降、白崎が俺に話しかけてきたことはない。
 シュークリームも学校に持ってきてはいない。たぶんまだうまく膨らまないんだろう。




 水曜日の放課後、貸出カウンターの中にいると、俺はいつも佐々木のことを考える。
 俺は水曜の放課後、屋上で何が起こっているかを知らない。

 未知というのは可能性だ。そこにはありとあらゆる可能性が詰まっている。
 
 水曜の放課後、佐々木は何をしているんだろう。いつもそう考える。
 
 彼女は屋上にいるかもしれない。いないかもしれない。
 
 いるとして、彼女は何をしているんだろう。誰もいない屋上で、ひとりで音楽を聴いているんだろうか。
 それとも水曜の放課後には、俺以外の誰かが彼女の隣に座っているんだろうか。

 それはありえないこととは言い切れなかった。

 ひょっとしたらそれは女かもしれないし、男かもしれない。
 男だったとして、その相手は、あるいは俺よりも佐々木と親密な関係にあるかもしれない。

 普段ならそんなことは考えない。でも図書室にいるとそんなことを考える。いつも。
 俺の体からは、徐々に力が抜けていく。ちょうど煙草を吸っているときのように。頭がぼんやりとしてくる。

 
「仕方ない」、と俺は思う。「仮にそうだったとしても、俺には何もできない」と。 
 




 秋の風が木の葉を散らしている。屋上に吹く風も、刺すように冷たく、鋭くなってきた。

 佐々木と一緒に屋上にいるときも、俺は水曜の放課後について考えるようになった。
 そして、木枯らしの中、一人で音楽を聴いているかもしれない彼女のことを考えた。

 彼女は屋上に現れるとき、藍色のカーディガンを羽織り、格子柄の茶色いマフラーを巻くようになった。
 マフラーを巻いてしまうと彼女の口元はすっぽりと隠れてしまう。
 
 だから最近、彼女の表情の変化というのが、俺にはよく分からなくなっていた。
 笑っているのか、怒っているのか。そういうのが分からない。
 
「最近気になってる映画って、ある?」

 それでも会話はいつもの通り行われたし、実際佐々木はそのような質問を俺によくぶつけてきた。
 
「今上映してる奴?」

「じゃなくてもいいけど」



 俺は少し迷ったけれど、正直に答えた。

「水の中のナイフ」

「いつの映画?」

「忘れた。昔のやつ。前から気になってた」

「どんな映画?」

「知らない。観たことがないから」

「ふうん……」

「レンタルショップに置いてないんだよ」

「どうして?」

 そんなこと、俺が知るわけがなかった。
 俺が答えずにいると、彼女は困ったみたいに笑った。笑ったのだと思う。口元が隠れていたせいで、よくわからなかった。
 
 秋の屋上は俺たちに対して安らげる場所ではなくなっていた。風は刺々しく、気温は攻撃的だった。
 佐々木は早々に屋上を去るべきだった。俺はそう思う。彼女がどう思っているかは分からない。
 

つづく




 俺の部屋にあるDVDプレイヤーは、小学校を卒業した際に母が買ってくれたものだった。
 五千円くらいの安物だが、見る分には支障がない。
 
 俺にテレビゲームやマンガ本を買い与えることができなかった母はいつもそれを気に病んでいた。
 本人は否定するだろうけど。そして俺もべつに欲しくはなかったんだけど。とにかく気に病んでいた。

 だから母はその代わりに、俺に本を読ませ、映画を見せた。
 本は公立図書館で無料で借りられるし、映画はテレビでもやっていた。 
 だから俺は昔から本をよく読み、映画をよく見る子供だった。

 そういう奴が男子小学生の中にいればどうなるかと言えば、まあ浮くのが当然だ。

「休みの日? 映画を観るか本を読むかしてる。ごめん、ゲームとかよく知らないんだ」

 なんてことを言い始めるクラスメイトがいたら、気取りやがって調子にのんなよって俺でも思う。
 
 幸いにも小学校の頃、俺のクラスに俺と同じくらい性格の悪い奴はいなかった。
 だからみんな「ふーん。すげー。頭よさそー」みたいな適当な反応で受け流してくれた。
 


 けれど共通の話題を持たないというのは結構問題で、おかげで俺は「すごく仲の良い友達」というのを得ることができなかった。
 ひょっとしたら共通の話題がなかったせいではなく、俺の積極性に問題があったのかもしれない。
 まあそのあたりは何でもよかった。

 小学校の校庭には築山があった。丘のミニチュアのような小さな坂だ。
 クラスメイトたちは昼休みになるとその丘に向かって走っていき、転げまわって遊んでいた。

 俺はひとり教室に残って本を読んでいた。
 誰も俺のことを誘いはしなかったし、俺も参加しようとはしなかった。

 とにかくそういう生活が最初から最後まで続いていた。
 
 俺は豊穣で色彩鮮やかな孤独の中で暮らしていた。
 そこには温度があり、感触があり、四季があった。とても現実的だった。
 




「秋になると何かを忘れているような気にならない?」

 佐々木は笑いもせずに言った。

「何かって?」

「何か。具体的には分からないけど……」

 とにかく何か大事なもの。普段なら彼女は、そういう曖昧な言い方を嫌った。

「……思い出せないことがあるような気がしてくるの」

「俺なんかはいつもそうだけどね。いつだって何かを忘れて生きてるよ」
 
 半分茶化すようなつもりで言うと、彼女は少しむっとしたようだった。

「そういうのとはまた違うんだよ」

 佐々木は俺と目も合わせなかった。ただフェンスの向こうの街を見下ろしていた。
 近頃の彼女の雰囲気は、どこかしらこれまでと違っていて、落ち着きを失っていた。
 そういうふうに見えた。たぶん表情が分かりにくくなったのが関係しているんだろう。



「たとえば、夢の話」

「夢?」

「うん。最近変な夢を見るんだ」

「どんな?」

「夢の中で、わたしは断崖絶壁の上に立っているの」

 佐々木はぼんやりとした調子で話し始めた。マフラー越しに聞く声はいつもより遠く聞こえた。

「そしてね、そこから飛ぼうとしているの」

「どうして?」

「分からないけど、わたしはそこから飛ばなきゃいけないの」

 何も言わずに彼女の言葉の続きを待つ。この話の着地点がどこにあるのか、俺には分からなかった。
 けれど考えてみれば、それはいつものことだったかもしれない。

「でもわたしは飛べないでいる。そこにみんなが現れて……」

「みんなって?」

「……みんな。いろんな。みんな。分かるでしょう?」

 分かるような気がした。もちろん気のせいかもしれない。


「そして、みんなは崖の上からとても上手に飛んでいくわけ。
 でもわたしは飛べずにいるの。どうしてかは分からないけど、たぶんわたしは上手く飛べる気がしなかったんだろうな」

 俺は黙って続きを待った。

「そのうちみんなは飛んで行ってしまって、崖の上にはわたし一人だけが残される。 
 そこに猫が現れるわけ。不思議な猫。ぷかぷか空を飛んでいて、人の言葉を話す」

「チェシャ猫みたいな?」

「チェシャ猫みたいな」

「それで?」

「それで、その猫がわたしに言うわけ。“どうして飛ばないんだ?”って」

「きみはなんて答えた?」

 彼女は静かに首を振った。

「飛ぶのは怖いって。そうすると猫はなんて言ったと思う?」


「“きみはうそつきだ”」と俺は答えた。

「どうして分かったの?」
 
 彼女は目を瞠っていた。

「ただの勘だよ」

 俺は答えに窮したあげく、嘘をついた。彼女はそれについて何も訊いてこなかった。
 数秒間を置いた後、猫についての話を続けた。

「とにかく、猫は言うの。“きみは飛ぶことが怖いんじゃなく、飛べないことが怖いんだ”って」

「たいした猫だ」と俺は相槌を打った。

「だからわたしは……」

 そこまで言って、彼女の言葉は止まってしまった。

「ねえ、なんでこんな話をしているんだっけ?」

「さあ? なんでだったかな」





 人語を解する奇妙な猫が俺の夢に現れるようになったのは、一ヵ月ほど前のことだった。
 
 夢の中で俺は断崖絶壁の上に立っている。
 そして一心に何かを待っている。待っているのだ。何を待っているのかは、忘れてしまっているけれど。

 俺はその場に立ち尽くして、崖の向こうの景色を見つめている。
 空には星が浮かんでいた。夜なのだ。崖の下には森があり、浜があり、海があった。
 
 崖の上には風が吹いている。風は俺に、飛べ、と言っている。

 けれど俺は飛ばない。飛べずにいる。そこに猫が現れる。

「どうして飛ばない?」と猫は言う。

「飛ぶのが怖いから」と俺は答える。

 猫は溜め息をついて、言う。

「きみはうそつきだ」

 けれど俺は嘘をついていなかった。ただのひとつさえも。





「水の中のナイフ」

 と、不意に佐々木は言った。
 そのときイヤホンからは「スタンド・バイ・ミー」が流れていた。奇妙な話だ。

「探してみたらね、うちにDVDがあったんだよ。お父さんのだけど……」

 俺は少し驚いた。

「ほんとに?」

「うん。それで、なんだけど」

 彼女は少し言いづらそうにしていた。
 指先と指先をくっつけて、何か言いたげな表情のまま、俯いていた。

「今度うちに観に来ない?」

「……なんて?」

「だから、観に来ない?」

 俺は言葉を失った。


「貸してもらうわけにはいかない?」

「お父さんのだから。持ち出すのは、難しいと思う。でも、今週の土日、うち、両親いないから」

「どうして?」と俺は訊いた。

「それ、重要な質問?」

 と彼女は反問した。もちろん重要な質問じゃない。
 ただ訊いてしまっただけだ。
 
 それこそ、土日に両親がいないのなら、土日の間だけ貸してくれればいい話じゃないかと思った。
 それを実際に口に出す勇気は、俺にはなかった。とっさのことに俺の頭は混乱していた。

 佐々木の態度はどこかしらおかしかった。何かを待つようであり、何かを期待するようであり、何かを恐れるようでもあった。
 とにかく平常通りじゃなかった。もちろん俺の頭も普通じゃなかったが、それはまあいつものことだ。



「映画を観るために、きみの家に?」と俺は訊ねた。

「そう。映画を観るためだけに」と彼女は繰り返した。

「映画を観るだけ」と俺はもう一度繰り返した。

「そう、映画を観るだけ」繰り返すたびに言葉は段々とそれ以外の意味を獲得しつつあるような気がした。

「なぜ?」と俺は訊ねた。

「映画を観るために」と彼女は答えた。彼女は笑っていなかった。からかっているわけではないのだ。
 いつも通り、俺には彼女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。

 そして俺たちは目を合わせ、約束を交わした。彼女は俺の小指に自分の小指をからませて歌を歌った。 
 例のあの歌だ。大袈裟な言い方をすれば、それは俺と佐々木が初めて交わした契約だった。
 
 佐々木の歌を聴きながら、俺は母親のことについて考えていた。


つづく




 クレハが屋上に現れた日から、佐々木は俺と言葉を交わさなくなった。

 俺にはその理由が分かるような気がした。ただの推測だし、間違っているのかもしれない。
 それでも、根拠はないけれど、自分の推測は間違っていない、という確信があった。

 佐々木と俺との間には暗黙の了解のようなものがあった。
 屋上という空間について、放課後という時間について、無意識下の約束のようなものがあった。
 俺も彼女も口にこそ出さなかったけれど、お互いそれに従っていた。

 彼女はそこにいるだろう、と俺が思う。彼女はそこにいる。
 俺がそこにいるだろう、と彼女は思う。俺はそこにいる。
 
 放課後の屋上はそのようにして成立していた。
 誰が決めたわけでもないし、誰かがそうしようとしたわけでもない。
 それでもそのように機能していた。

 にもかかわらず、クレハが現れた。そして俺がクレハを受け入れた。
 彼女はそのことに違和感を覚えたのだろう。

 自惚れるなら、裏切られた、と感じたのかもしれない。
 あるいは、自分が感じていた暗黙の了解は、ただのひとりよがりだったのかもしれない、とすら思ったのかもしれない。

 理由に関しては推測だが、事実として俺に対する彼女の態度は硬化した。とても分かりやすく。




 けれど、それもたった二日間のことだった。
 金曜の夕方、屋上で顔を合わせたとき、俺は佐々木に訊ねた。

「明日は?」

 佐々木は怪訝そうな顔をした。

「なにが?」

「水の中のナイフ」

 彼女にはそれだけで言葉の意味が通じたようだった。
 俺は喉の奥から苦いものがせり上がってくるのを感じた。

「……親は、いないけど」

 彼女が俺に向けたのは、いつものような親しげな視線ではなかった。
 からかうような、近い場所からの視線ではなかった。
 あまり口をきかない顔見知りに投げかけるような視線。

 彼女の顔からは感情が読み取れなかった。
 俺に対して開かれていなかった。




 これではまずい、とそのときの俺は思ったのだ。
 こんなつもりではなかったのだ、と。
 
 俺はこんなことになると思ってクレハを受け入れたのではなかった。
 けれど実際の結果として、佐々木の態度は変わってしまった。
 
 このままでは、彼女はすぐに俺から離れていってしまう。そう思った。

 つまり俺は焦っていた。彼女が屋上から去ってしまうような気がした。
 そしてそこに残されるのは俺とクレハだけだ。俺は彼と一緒に煙草でも吸うことになるだろう。

 それが悪いというわけではない。でも俺は佐々木と一緒にいる時間が好きだった。

 彼女が俺をからかうのが好きだった。彼女と音楽を共有するのが好きだった。
 吹き抜ける風にたなびくマフラー。カーディガンの袖に隠れた手の甲。
 隣に座っていると感じられる、感触を伴わない温度。

「彼女をここに留めなければ」と俺は思った。
 そしてそうするためには、一緒に「水の中のナイフ」でも観るしかない、と思った。 

 結果から言ってしまえばそれは間違いだった。




「急にどうしたの?」

「そっちが言ったんだよ。観たくなったらいつでも言ってくれって」

「それは、そうだけど……」

「映画は観たいんだ。その上、借りるわけにはいかないんだろ」

「……うん」

「だったら……」

 他に手段はない、と言いかけて俺は言葉を止めた。
 心臓が奇妙なリズムで脈打っているのが分かる。

 彼女はあまり乗り気ではないように見えた。
 でも言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。

 怖気づいてやめてしまったら、もう二度と彼女に対して同じことは言えなくなるだろう。
 彼女もまた、俺に対してそのことを提案しなくなるだろう。


「かまわないよ」と彼女は言った。
 幸いその場にクレハはいなかったから、会話はとてもスムーズに進んだ。
 クレハはその日、少し顔を見せただけで、早々に帰ってしまっていた。何かが思う通りじゃなかったんだろう。

「明日も、親、いないから」

 佐々木はそれ以上何も言わなかった。俺の顔を見ようともしなかった。
 だから今度は、俺が現実的な事柄について確認しなければならなかった。

「何時に行けばいい?」

 訊ねると、佐々木は黙り込んでしまった。無視するような沈黙ではなく、考えるような沈黙。
 俺は自分の声の震えに気付いていた。
 
「何時なら平気?」

 佐々木は不意に顔をあげ、そう訊ねてきた。

「何時でも」


「じゃあ、お昼過ぎに」

 俺は少し困った。「昼過ぎ」というのが具体的にどの時間をさすのか分からなかった。

「一時半頃で平気?」

「うん」

「分かった。その頃に訪ねる」

「……あのね」

 佐々木はそのとき何かを言いかけた。俺に分かったのはそれだけだった。
 佐々木が何を言おうとしているのかは分からなかった。

 当たり前のことだ。他人の考えていることが分かる奴なんていない。




 でも、そのとき俺は何かを察するべきだった。
 彼女が何を求めているかについて真剣に考えるべきだった。

 彼女が求めていたのは「維持」ではなく「発展」だった。
「継続」ではなく「建設」だった。「隔絶」ではなく「適応」だった。

 俺とは真逆だった。

 土曜日の空はよく晴れていて、俺は約束通りの一時半ちょうどに佐々木の家を訪れた。
 佐々木は品のよさそうな――彼女は普段着と呼んでいた――服を身にまとっていた。

 私服姿の佐々木は、学校で見るよりも数倍大人びて見えて、俺は少し気後れした。
 
「誰かを家に招くのって、久しぶりなんだよね」

 そう言いながら、彼女は自然な態度を装ったふうに笑った。
 彼女の態度は硬化したままだった。緊張だけが理由ではなく。

 家の外壁、家具、小物、インテリア、観葉植物、電化製品までもが、威圧感を放っている気がした。
 けれどその空間は、佐々木にとってはごく自然なものなのだろう。
 そう考えると同時に、俺は佐々木に対して、触れがたいような、遠いような、そんな印象を受けた。
 目に見えない断絶が俺と彼女の間に感じられた。



 佐々木は俺に慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれた。
 コーヒーカップまでもが威圧的だった。
 
 俺は彼女に何かを言った。たぶん、家具なり、観葉植物なり、彼女の私服なりについて。
 彼女は照れたように笑った。そんなふうに彼女が笑うのを、俺は初めてみたような気がした。

 俺と佐々木の関係というものは一方的なもので、常に彼女が圧倒的優位に立っている。そう思っていた。
 けれど彼女の家にいる間、そのような印象はどこかへ消え去ってしまっていた。

 俺はまるで彼女が自分と対等であるかのように感じ、また彼女と自分がかなり親密であるかのように感じた。
 それが正しい印象なのか、間違った印象なのかは、今でも分からない。

 途方もない断絶を挟みつつも、かぎりなく親密であるかのように、そのときは感じたのだ。

 佐々木は両親がいないと言って俺のことを誘ったし、事実佐々木の両親は姿を見せなかった。
 けれど俺は、彼女の両親は先週や今週に限らず、ずっとこの家にいないのだろう、と、そのときなぜか思った。

 柔らかな午後の日差しが窓から差し込んでいた。外は少し肌寒かったけれど、室内は空調のおかげで暖かかった。
 俺と彼女はたいした話もしないまま、映画を観ることになった。




 
 彼女の家のテレビは俺の家のテレビの四倍ほどの大きさだった。
 重大な発見。






 俺たちはその日何もしなかった。映画を観ただけだった。
 映画を観る為に佐々木の家に行ったのだ。当然のことだ。

「水の中のナイフ」は良い映画だった。中身はちゃんと頭に入っていた。
 本当は集中できないんじゃないかと思って不安だったけれど、杞憂に終わった。

 良い映画だった。それは確かだ。
 でも土曜の昼下がりに女の子の家で観るのに向いている映画じゃない。

 それに、このような場所で、俺のような人間が観るには、少し"前向き"すぎる映画だった。

 観終わった後、俺たちは感想を言い合うこともなく、ぼんやりと話をした。

 不意に、彼女は俺にこう訊ねてきた。

「どうして、来たの?」と。

 俺はその問いに対して、正確な答えを返さなくてはならなかった。

「駄目だった?」と俺は訊ね返した。彼女は首を横に振った。

「駄目だっていうんじゃないけど……」

 俺は何も言わずに続きを待った。佐々木は明らかに戸惑っていた。


 どこかぼんやりとした様子で言葉が続く。
 頭の中から無理やり手繰り寄せたみたいな、曖昧な言葉だった。

「わたし、最近ずっと考えてたんだけど、きみはわたしを誤解しているような気がする」

「誤解?」

「つまり、きみはわたしという人間を、過大に評価しているような気がする」

「評価というものに過大も過小もない」と俺は答えた。

「そうかもしれないけど、わたしはそれがすごく嫌なの」

 俺には彼女が何を言いたいのか、よく分からなかった。いつものことだけれど。

「つまり、壁越しに話しかけられているような感じがするんだ」

「壁?」

「すごく遠いんだよ。だから、わたしは……」

 俺は少し待ったけれど、彼女の言葉に続きはなかった。開かれていない。閉ざされている。
 そして俺は、それから佐々木に何かを言うこともできず、当然のように彼女の家を出た。


 家に帰る頃には五時を過ぎていて、もうその頃には外は真っ暗だった。
 俺は寄る辺のないような気持ちで帰路についた。
 
 彼女は俺を玄関先まで見送ってくれた。
 綺麗な外壁。あまり広くはないが手入れの行き届いた庭。

「それじゃあ」と俺は言った。空気は冷たく、吐き出した息は白かった。部屋の中とは違うのだ。

 俺の声に、彼女はやさしげな微笑を浮かべた。その笑みに、俺は少しだけ安心した。

「またね」、と彼女は言った。いつもよりずっと澄んだ表情で。

 でもその言葉は嘘だった。

 彼女はその日以来、一度も放課後の屋上に姿を見せていない。 

つづく




 十一月末の木曜、俺とクレハが話もせずに屋上でぼんやり時間を潰しているところに、白崎美雪が現れた。

「煙草吸ってる」

 と、彼女はクレハの口元を見てどうでもよさそうに言った。

「吸う?」

 クレハは怯みも笑いもせずに白崎に訊いた。白崎はぼんやりと首を横に振った。

「いらない。煙草吸うとか、ばかだよ」

「うん」

「それか死にたがり」

「俺もそう思うよ」

 白崎とクレハの会話の流れは意外なほどスムーズで、俺はちょっと戸惑った。
 彼らの会話のテンポというのはかなり独特でつかむのに苦労する。それなのに互いにすごく自然だった。

 ふたりが話をしているところを、俺は見たことがない。
 よくよく考えてみれば、佐々木も俺も白﨑もクレハも、全員が同じクラスに所属している。
 そう考えてみれば、話していたとしても、不自然ではないのだが。


「どうしたの?」

 俺は白崎にそう訊ねてみたけれど、返事はなかった。
 たぶん聞こえなかったんだろう。そう思っていた方が精神衛生上都合がいい。 

「ねえ萩原、あのさ」

 白崎は当然のようにクレハに話しかけた。この二人はひょとしたら、普段から話をすることがあったのかもしれない。
 そう考えたとき、俺は胸の内側でじくじくと嫌な気持ちが湧き出るのを感じた。疎外感。

「バスケ部の元キャプテンと仲よかったよね」

「名前で呼んでやれよ」

 クレハがどうでもよさそうに横槍を入れると、白崎も「覚えてない」とどうでもよさそうに瞬きをした。

「あいつ、彼女を妊娠させたってほんと?」


 クレハはその質問に答えなかった。俺はちょっと戸惑った。
 その話そのものにも驚いたし、そんな噂を白崎が気に掛けているということにも驚いた。
 それから彼女が、俺の居る前で平然とその噂を口にすることにも驚いた。

 そして更にはクレハまでもが、

「ホントだよ」

 と平然と答えたものだから、俺はすごく混乱した。
 二人は俺を置き去りにしたまま会話を続けた。

「後輩の子でしょ?」

「そう。二年の子。剣道部の」

「茶髪の子?」

「茶髪の子」

「どうするんだろう?」

「知らない。そもそも先月の話だけどな」

 ふたりはどうでもよさそうだった。


「萩原、キャプテンに相談されたんでしょ?」

「そうだけど、なんで知ってる?」

「木村さんが言ってた」

「木村はなんでも知ってるよな」

「彼女、情報通だから。さすがに広めてはいないみたいだけど」

「木村と仲よかったっけ?」

「話の流れで耳に入っただけ」

「迂闊だな」

「誰が?」

「みんなさ」




 屋上の風は冷たい。俺はふたりの会話をただ黙って訊いていた。
 その話を聞きながら俺はいくつかのことを考えた。

 自分のこと、母親のこと、佐々木のこと、バスケ部の元キャプテンのこと、白崎が読んでいた「愛のゆくえ」のこと。
 それから白崎の家族のこと。
  
 俺がぼんやりしているうちに、いつのまにか話題は変わっていた。
 白崎は煙草の煙に軽く咳き込みながら、カール・ブッセの詩についての話をした。
 彼女はその詩がすごく好きなのだと言う。

「暗誦だってできるよ」

「なら、してみせろよ」

 クレハはどうでもよさそうに煽った。白崎もどうでもよさそうに頷いてその詩を諳んじて見せた。

「やまのあなたのそらとおく
 さいわいすむとひとのいう
 ああ、われひとととめゆきて
 なみださしぐみ、かえりきぬ
 やまのあなたになおとおく
 さいわいすむとひとのいう」


「どういう意味?」とクレハは白崎に訊ねた。

 白崎は「本からの受け売りだけど」と前置きして、解説してくれた。

 白崎の解説を聞いて、クレハは笑った。

「バカげた話だ」

 そう一笑に付したクレハに対して憤るでもなく、白崎は平然と笑った。

「いじらしくない?」

 たしかにそれはいじらしい詩だった。
 俺はその話を聞きながら佐々木のことを考えていた。




 十一月に入ってから、俺は人語を解する猫と崖の夢を、毎晩のように見続けていた。

 猫は俺に「きみはうそつきだ」と言い続けた。
 言われ続けたせいで、自分が本当にうそつきだという気がしてきたくらいだ。

「この島では」、と猫は言う。崖は島にあるのだ。だから浜と海が見える。

「一定の年齢、一定の条件に達すると、みんな空を飛ぶ」

「どうして?」

 俺がそう訊くと、「誰もそんなことは考えない」と猫は言った。

「そう決まっているし、みんな知っている。だからみんな、飛ぶことに抵抗を持たない」

 ぷかぷかと宙に浮かびながらあくびをすると、猫は退屈そうに尻尾を動かした。

「きみはなぜ飛ばない?」

「怖いから」

「飛べないことが? それとも飛ぶことが?」

「いや」


「じゃあ何が怖い?」

 猫は不愉快そうに髭を揺らした。

「一度飛んだら、飛び続けなきゃいけないってことが怖いな」

 空を見上げる。島は真夜中だった。星のきらめきにまじって、何人もの人の小さな影が空に浮かんでいる。
 彼らは実に自然に、楽しそうに空を飛んでいた。

「どうしても飛ばなきゃいけないの?」

 俺はそう訊ねてみた。猫は器用に首を横に振った。

「飛ばない奴もいる。でも、飛ばないままでいるというのはすごく難しい。体力も意思もいる。
 何より、一度飛ばないと決めた奴がもう一度飛ぼうとするのは、普通に飛ぼうとするよりずっと難しい」

 夢の中で俺は、飛ぶことについてさまざまな知識を持っている。
 猫がどのような存在なのかについても、島がどのような場所であるかということも。
 でも、夢から醒めてしまうと、すべて思い出せなくなっている。だから俺はいつも奇妙な気持ちで目をさます。
 
 目が覚める直前、猫は俺に向けていつも、「無理に飛ぶこともない」と苦々しそうに呟く。
 だから俺は近頃、奇妙な虚脱感とともに目を覚ます。毎朝。

つづく




 十二月のある月曜、俺は覚悟を決めて佐々木と話をすることに決めた。
 それが正しいのか間違っているのかは分からない。

 すくなくとも、それが俺が採りうる唯一の手段だということは明らかだった。

 佐々木春香に声を掛けたのは放課後のことだった。
 彼女は戸惑う素振りも見せなかった。どことなく遠い表情をこちらに向けただけだった。

「少し話がしたいんだけど」

「いいよ」

 荷物を手に席を立ったところだった彼女はすぐに頷いてくれた。

 教室にはまだ何人かのクラスメイトが残っていた。
 彼らは興味ありげに俺たちの方を見ていた。佐々木春香というのはそういう人間なのだ。


「場所を変えたい」

「ここじゃダメなの?」と彼女は言った。

「ここでいいと思う?」と屋上でなら訊きかえせたけれど、教室ではそういうわけにはいかなかった。

「あまり人に訊かれたくない」

 彼女は少し考え込んでから、仕方なさそうに溜め息をついて頷いた。

 そうした態度は、屋上でいつも俺と話をしていた佐々木春香とはまったく違う。

 まるでぜんぶが嘘だったみたいに。
 実に一月近く、俺と佐々木春香は言葉を交わしていない。

「わかった」

 彼女はそう言うと、俺の方を見上げた。身長は俺の方が少し高い。
 去年までは逆だった。

「屋上以外の場所で話そう」

 佐々木春香はそう言った。俺は少し傷ついたような気がした。でも錯覚だろう。傷つく理由なんてないんだから。




 屋上にはきっとクレハが居た。でも、彼女が屋上を避けたのはクレハがいるからではないと思う。
 たぶん単純に、俺と一緒に屋上に行くのが嫌だったんだろう。
 
 かなり分かりやすい意思表示だ。
 そういう意味では彼女は俺をまったく意識していないというわけではないのだろう。
 
「それで、何の話?」

 たどり着いたのは中庭で、彼女は大きな欅の木の脇にぽつんと置かれたベンチに腰かけた。
 俺は隣に座る気にはなれず、向かい合う気にもなれず、傍に立ったままでいた。
 もちろん彼女は俺に「座ったら?」なんて勧めたりはしなかった。いつものようには。

 俺はこの期に及んで何を言っていいのか分からなかったけれど、開き直って思ったことを言ってみることにした。

「どうして屋上に来なくなったの?」

「寒くなったから」と彼女は言った。

「それだけ」と。まるであらかじめ用意していたみたいにすらすらとした答えだった。
 あるいは本当に用意していたのかもしれない。


「本当にそれだけ?」

 彼女は怪訝そうな顔をした。

「どうしてそんなことを訊くの?」

 その表情も、声も、どこかしら嘘っぽかった。
 でも、本当に嘘をついているのか、そう見えるだけなのか、俺には区別がつかなかった。

 俺は自分の足をこの場に縫い付けるのに必死だった。 
 気を抜くと生来の性質である臆病さが俺を突き動かしてしまいそうで、俺は努力して口を動かした。

「それだけじゃなさそうだと思ったから」

 彼女はちょっとおかしそうに笑った。親密な感じのする笑い方ではなく、遠く離れたものを眺めるように。
 彼女の態度は俺を不安にさせた。「何を誤解しているの?」というふうな笑い方。
「たかだか数ヵ月話をしたというだけで」というふうな。今の俺には現実と妄想の区別がつかない。

 俺が黙っていると、佐々木は「もう終わり?」と首を傾げた。


 何かを言うべきだ、と俺は思った。
 
 何かを言って、佐々木を引き留めるべきだ。それは分かる。
 彼女は立ち上がった。俺の方を見て、窺うように笑った。

「じゃあ……」

「待ってくれ」

 引き留めたけれど、何か考えがあったわけではない。思いつくことなんて何もなかった。
 どうできるというのだろう。

「なに?」

 問いかけ。俺は答えられなかった。言えることなんて何もなかった。

「なにかあるなら、早くして」

 彼女はそう言って促した。息が詰まるような沈黙。

「ここは寒すぎるよ」


 彼女の言う通りだった。中庭はとても寒かった。
 風はほとんどなかった。ただ空気が凍てつくように冷たい。服越しに突き刺さるように。

 十二月。もう冬なのだ。

 俺は何を言えばいいのか分からなかった。何かを言わなければならないことは分かっているのに。 
 何も思いつかない。悲しいくらいに。あと少しで涙まで出そうなくらいに。

 そんな俺の態度を憐れんだのか、あるいは単に、終わらない話に苛立ったのか、佐々木は口を開いた。
 さっきまで存在していた見えない壁は、そこにはなかった。
 
 彼女は以前のように親密な態度で俺に声を掛けた。
 
「あのね、もうおしまいなんだよ」

 だからこそ、救いがない。

「きみはきっと分かってたんじゃない? いつかこんなふうに終わるときがくるって。
 それがちょっと予定より早かっただけ。そうでしょ?
 だってきみは、わたしとずっと一緒にいたいだなんて、最初から考えてなかったんでしょ?」

 俺は何も言い返せなかった。彼女の声は真剣そうに聞こえた。嘘くさいほどに。


「どうしてそんなことを言う?」

 俺はほとんど反射的にそう言い返していた。

「きみは結局わたしのことを、自分になついた野良猫みたいに思っていただけなんでしょう?
 寂しいときに擦り寄ってくれば可愛がったりするし、餌だってあげるけど……。
 結局、自分で飼ったりする気はないんだよね。自分に都合のいいところだけ、受け取りたかったんでしょ?」

 俺はもう何も言えなかった。
 何かを言わなくては、と思っていた。けれど何も言えなかった。
 
 彼女は正しい。息が詰まるほどに正しい。

「違う」

 それでも俺は否定した。彼女が言っていることは正しいけれど、言い方が少し間違っていた。

「違わない」
 
 けれど、反論の機会は与えられなかった。俺は俺の認識を彼女に伝えることができない。


「きみが何を考えているのか、わたしにはずっと分からなかった」

 彼女はそう言って、カーディガンのポケットに手を突っ込んだ。
 俺は唇を動かそうとした。動け、と念じてみた。実際に唇は動いた。

「俺だってそうだよ」と俺は言った。

「俺にだってきみが何を考えているのかは分からない。
 誰だってそうだろ。人の考えていることが分かる奴なんていない」

「そういうのとは別だよ」

 佐々木の態度はとても攻撃的だった。俺がそうさせているのだ。たぶん。

「わたしはね、わたしは――」

 彼女は何かを言おうとした。俺をまっすぐに見据えて。口元はマフラーで隠れていた。
 けれど、彼女は結局その続きを言わなかった。静かに目を伏せて、諦めるように首を振っただけだった。

 なぜかは分からないけれど、俺はそのとき安堵していた。




 佐々木春香のことが好きだ。
 
 佐々木春香と話す時間に幸せを感じる。中毒的なほど。

 佐々木春香と一緒に生きられたら幸せだろう。

 
 けれどそれは少し重すぎる。 
 佐々木春香という人間には――あるいは他のどんな人間にも――俺という人間は重すぎる。


 自分が相手に求めるほどのものを、俺は相手に与えることができない。

 だから、俺は他人を好きになるべきではない。

 佐々木春香に相応しい人間はもっと他に存在する。ちょうどいい相手が。肩の力の抜けた関係が。
 俺は佐々木春香を楽しませることができない。幸せにすることができない。満たすことができない。

 俺はとても渇いているから、相手を吸い込みすぎてしまう。肺がおかしくなって死んでしまうまで。
 そして自分が満たされることに必死すぎて、相手を満たすために力を割くことができない。
 
 誰かと一緒に生きるべきではない。誰かに心を開くべきではない。
 そういう人間がいる。少なくとも俺はそう考えている。今のところは。あるいはこれから先もずっと。




 俺と佐々木春香は来年の春、中学を卒業し、それぞれ別の高校に進学することになるだろう。
 俺の日常から佐々木春香の姿が消え、俺は煙草を失う。

 そして俺は屋上のフェンスを乗り越える。
 もしくは、二度と佐々木春香に会えないまま生きていく。

 それが俺の認識だった。
 
 俺は来年の春に自分が死ぬだろうと思っていた。
 あるいは、来年の春から自分は死んだように生きることになるだろうと。

 俺はそのことを諦めて、ちゃんと受け入れていた。

 たとえ他の誰かを好きになったところで同じだ。
 結局俺は、その誰かに対して自分を預けることができない。

 他の生き方というものが、まったく思い当らないのだ。

つづく






「悪い夢でも見てるみたい」と白崎は言った。

「なにが?」と俺は訊ねた。





「なにが、って……」

 白崎はちょっと戸惑ったふうにこちらを見た。
 俺はその視線をぶつけられて、ようやく自分の居る場所を思い出した。

 今日は水曜で、放課後で、俺は図書室にいる。

「話、聞いてた?」

 俺は答えられなかった。今の今まで、彼女とここにいるのだという事実すら忘れていた。

「さっきまで、相槌だけじゃなくて、ちゃんと会話になってたのに」

 怒ったというよりは、心配したみたいに、白崎は俺のことを見た。
 彼女がそんな顔をするのは、少し意外だった。

 けれど、と俺は思った。いったい俺がどれくらい彼女のことを知っていると言うんだろう。
 意外も何もあったものじゃない。


「ごめん。どんな話をしてたんだっけ?」

 彼女は本当に困った顔をした。俺だって同じことをされたら似たような顔をするだろう。
 俺と彼女が話をしているときに彼女の方が「まとも」な態度をとるのは、珍しいことだった。

「どんな、って、ほんとに覚えてない?」

「うん」

「今の時間は分かる?」

 分からなかった。俺は図書室の入口の上の掛け時計を見た。時刻は四時半を回っている。

「窓の外を見てみたら?」

 言葉に従い、俺は窓の外に目をやった。

「……降ってるね、雪」

「そうだよ。ちゃんと見える?」


「積もるかな?」

「たぶんね」

「これが?」

「なにが?」

「悪い夢みたいって、さっき言ってたの」

 彼女は少し考え込んでしまった。そしてどうでもよさそうな顔をして、俺の方から視線を逸らした。

「……何度も話したいことじゃないから」

「……ごめん」

 俺は謝った。なぜか、謝らないといけないような気がした。
 不思議と彼女も謝った。

「こっちこそ」

 図書室の空気は冷たかった。徐々に温度を奪われていくような錯覚。あるいは現実。
 凍りついていく。




 時間が流れている気がしなかった。
 汚れたレンズ越しにただ風景を眺めている。
 自分がその場に立っているという実感がないまま、ただ時計の針だけが動いていく。

 時間が来て、俺たちは図書室を後にする。

「またね」と白崎は言う。俺は頷く。たぶん頷いたと思う。
 確信は持てない。ひょっとしたら頷かなかったかもしれない。

 風景が雪に塗りつぶされていく。

 白崎は俺を残して帰ってしまった。俺はしばらくその場に立っていた。
 そしてふと意識を取り戻した。図書室の前で。時間の感覚がない。自分がどれくらいその場に立っていたのかも思い出せない。

 気付けば外は暗くなっていた。




 校舎のなかは静まり返っていて、音はやけに大きく響いていた。

 音というのは隙間に入り込む性質を持っている。
 他の何かで満たされた空間では、音は聞き取りにくい。
 音というのは、空ろな場所でよく響く。空洞。

 俺は自分の頭を軽く叩いてみた。思ったより音はしなかった。
 奇妙な話だ。俺の頭はいまからっぽなのに。

 あるいは叩いたような気がしただけで、俺は自分の頭を叩いたりしていなかったのかもしれない。
 そう考えてみれば、その説には信憑性がある。誰が意味もなく自分の頭を叩いたりするだろう。
 それに、もし叩いたら、気持ちのいい音がよく響いたはずなのだ。俺の頭はからっぽなんだから。

 俺はきっと自分の頭を叩いたりしなかったのだ。そんな気がしただけで。




 足は気まぐれに動いていた。
 俺はいつものように帰路を歩いているはずだったのに、なぜか普段なら立ち寄らないはずの商店街にやってきていた。 

 そこで俺は誰かの姿を探していた。たぶん。誰か。
 それが誰なのか、俺は知っていたけれど、「誰か」という以上には考えないようにした。
 そうしないといろんなものが駄目になっていく。たぶん。

 足元を猫が歩いていく。「無理に飛ぶこともない」、と猫は言っていた。
「そうだな」と俺は相槌を打った。猫が正しい。
 近くを歩いていた五歳くらいの子供が俺を見上げて変な顔をした。俺は頭を振って溜め息をついた。

 近くで同じ中学の、たぶん後輩だろう、女子生徒ふたりが話をしていた。
 どうやら帰る途中で偶然出会ったらしい。久し振りに話をするようで、随分はしゃいでいた。
 おかしな話だ。同じ中学なのに、久しぶりに話すような相手だなんて。そんな相手と話をして喜ぶなんて。

「これから帰るところ?」と片方が言った。
「うん」ともう片方が頷いた。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」

 当たり前の風景。きっとそこらじゅうで行われているありふれた会話。
 
 無理に飛ぶこともない、と俺は頭の中で繰り返した。


 雪はかすかに積もり始めていた。

 人々の声もどこかしら、戸惑ったような、困ったような、わずかな嬉しさを含んだような調子。
 いつもとは少し違う。

 べつに寂しいわけじゃない、と俺は頭の中で嘯いた。
 コウモリみたい、と誰かが頭の中で不機嫌そうに呟いた。

 俺は、自分が何を求めているのか、はっきりと理解している。

 
 後ろの方で、誰かが転んだような気がする。たぶん転んだんだと思う。 
 そういう音がした。雪で滑ったのかもしれない。滑るような雪だとも思えないけど。

 あるいは踏み固められたところだったのか。

 誰かが心配そうに「大丈夫?」と訊ねる声が聞こえた。答えは聞こえなかった。距離のせいかもしれない。
 
 俺はなんとなく気になって、転んだ人について考えてみた。数秒考えてから、振り返ればいいのだ、と気付いた。

 転んでいたのは白崎だった。




 俺はちょっと急ぎ足で駆け寄って、「大丈夫?」と声を掛けてみた。
 傍には誰もいなかった。「大丈夫?」と声を掛けた人はどこにいったんだろう。でもそんなものかもしれない。

 白崎の傍には自転車が倒れていて、自転車のかごから中身の詰まった買い物袋がはみ出ている。
 野菜や魚や惣菜。果物。お菓子。

 生活感のある中身だった。俺は白崎とその買い物袋のイメージを繋げるのに苦労した。

「大丈夫です」と白崎はよそゆきの声で言った。普段俺と話すときよりいくらかしっかりした声音。
 彼女もこんな声を出せるんだ、と俺は感心した。そう思うと白崎に少しだけ親近感が湧いた。

「あ」

 白崎は転んでいた体を起こしたとき、俺が俺だということに気付いた。
 そして気まずそうな、恥ずかしそうな顔で目を逸らした。

 手を差し伸べた。彼女は俺の手をとらなかった。たぶん俺の手のひらのいびつさが気持ち悪かったんだと思う。
 そのままの姿勢でいるわけにもいかず、俺は意味を失った手のひらをふらふらと動かしてみた。何にもならなかった。


「買い物?」と俺は訊ねてみた。

 白崎はどことなく拗ねたような調子で「そう」と肯定した。感情の動きがいつもより分かりやすい。
 買い物の生活感に引っ張られているのかもしれない。 

 白崎は買い物袋からこぼれ落ちた中身を拾って詰め直し、自転車の籠に袋を戻した。
 結構な重さらしく、バランスをとるのに苦労しているようだった。

「大丈夫?」と俺はもう一度訊ねた。
「大丈夫」と白崎は一度、さっきと同じようなよそゆきの声、よそゆきの顔で笑った。
 でも、すぐ何かに気付いたみたいな顔になって、「じゃない」と付け加えた。

「大丈夫じゃなくても、やらなきゃいけないから」

 彼女はどうでもよさそうに言う。訊かなければよかった、と俺は思った。
「大丈夫?」なんて。軽率で安易で無責任な言葉だ。


「いつもここで買い物してるの?」

「わりと」と白崎は頷いた。

「家、近いの?」

「ここからだと、二十分くらい」

「徒歩で?」

「自転車で」

 俺はしばらく迷った。迷っているうちに、白崎は段々と気まずそうな顔になっていった。
 
「……じゃあ、帰るから」と、短い沈黙の後、白崎は言った。

「待った」と俺はそれを制した。
気まずさから合わないように逸らしていたのだろう視線を、彼女はもう一度俺に向けた。

「運ぶの手伝うよ」

「え、いいよ」


「雪降ってるよ」

「雪降ってるからこそ、いいよ」

「でも、その調子じゃまともに漕げないだろ。自転車」

「歩けば……」

「歩いて、転んだんだろ、さっき」

 彼女は黙り込んでしまった。

「雪、積もってるし、もう暗くなってきてる」

「だからこそ、そっちだって早く帰りたいでしょ」

「俺は……」

 言いかけた言葉を、俺はかろうじて飲み込んだ。

「……いや。ごめん。お節介だった」

「大丈夫?」と訊いてしまったからには、協力しなければならない、と考えていた。
「俺は無責任な人間じゃない」と、誰かに、自分に、言い訳しようとしてるみたいに。
 そんな「俺の都合」に、白崎を巻き込もうとしていた。


 俺の言葉に、白崎は戸惑うような素振りも見せなかった。 
 ただ不思議そうな、透明な表情で、こちらを見上げていた。彼女は俺よりも少し背が低かった。

 不思議な感じがした。普段図書室のカウンターで座っていると、視線の高さはほとんど変わらない。
 彼女が自分を見上げているというのは、少し奇妙な感覚だった。

 白崎は長い沈黙の後、どこか気恥ずかしそうな声で、「ごめん」と言った。
 それから、

「やっぱり、お願いしてもいい?」

 困ったみたいな笑い方で、そう言った。

 俺は少しだけほっとした。





 けれど俺にはやはり考えが足りなかった。
 彼女の家は、俺にとって単なるクラスメイトの家とは言えない。
 そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。



199-2 俺と → 俺を

つづく




 両親は共働きなのだと白崎は言った。
 だから家事は自分でしているんだ、と。

 白崎の家はごく普通の一軒家だった。芝生の庭に玩具の小さなブランコが置かれている洋風の二階建て。
 
 白崎の家に着く頃には、外はもう真っ暗になっていた。
 雪はそう間を置かずに止んだが、街路にわずかに積もっていた。夜のうちにまた降り始めるだろう。
 
 俺が荷物を持ち、白崎は自転車を引きずって歩いた。
 
 指先がひどくかじかんでいた。白崎は自転車をガレージの中にしまって、俺を玄関に通してくれた。
 ガレージには一台の白い軽自動車が止まっていた。

「ごめんね」と白崎は何度か言ったが、俺には彼女が何を謝っているのかよく分からなかった。

 玄関に荷物を置いたとき、ようやく重さから解放された指の関節がひどく痛むことに気が付いた。

 そしてすぐ傍の扉から、こちらを窺っている目に気付いた。

「ただいま」と白崎は言った。優しげな声だった。
「おかえり」と少女は言った。こちらはびくびくした様子だった。


「じゃあ」と俺は言って即座に踵を返そうとしたが、白崎が引き留めた。

「休んでいったら?」

「もう暗くなるし、帰らないと」

「少しだよ」と白崎は言った。

「お茶くらい出すよ」

 ちょっと中学生らしからぬ気遣いだな、と俺は思った。
 あるいはそれは気遣いではなく嫌がらせの類なのかもしれない。

 以前白崎から聞かされた話について考え、やはりすぐに帰るべきだという気もした。
 けれどあの話自体、白崎から聞かされていなければ俺が知っているはずもないことなのだ。
 そう考えれば、俺に気にする義務はないように思えた。

 少女は警戒するようにこちらを見ていたが、数秒目を合わせるとすぐにドアの向こうに引っ込んでしまった。

「じゃあ、少しだけ」と俺は言った。べつにたいしたことじゃない。
 それに、今は家に帰りたくなかった。




 白崎の妹はダイニングのテーブルでノートと教科書を広げていた。たぶん宿題か何かだろう。
 俺が部屋に入るのを見て戸惑ったように白崎を見上げたが、何も言わなかった。

「妹」と白崎は俺に向けて言った。俺は「どうも」と挨拶した。わざとらしいやりとりだ。
 少女は一瞬だけ俺に目を向けたがすぐに逸らして、頭をぺこりと下げた。

 彼女の脇には赤いランドセルが置かれていた。懐かしい感じのする赤色だ。最近はここらへんじゃ見かけない。

 白崎は俺を指し、妹に向けて「ともだち」と言った。それ以上の説明はしなかった。少女は戸惑っていた。

「適当に座って」と白崎は言った。
 部屋の中はリビングとダイニング、それからキッチンがカウンターを挟んで同居していた。
 俺は入口から一番近くに置かれていた長いソファに腰を下ろした。

「なにがいい?」

「え?」

「緑茶とほうじ茶と梅こぶ茶」

「……」

「コーヒー、ココア、レモンティー、アップルティーもある。全部インスタントだけど」


「……じゃあ、レモンティー」

「了解。夏海は?」

「え……?」

「何か飲む?」

 少女はびくびくした様子で答えた。

「……ココア」

 学校で見る白崎と、目の前にいる白崎との間には、印象の違いがあった。
 掴みどころがなく曖昧な印象のある学校での白崎は、この場ではなりをひそめていた。
 ここにいるのは「姉」としての白崎だった。俺は認識の齟齬に眩暈を覚えた。

 白崎は小さく頷きだけを返して、その三分後には三つのカップを持ってきた。

 空気はしんと張りつめていた。エアコンが動いていて、室内は少しむっとするほど暖かい。
 


「ありがとね」

 と白崎はどうでもよさそうに言った。そのどうでもよさそうな態度に、俺は少しだけ安心した。

「助かったよ」

「ああ、うん」
  
 相槌を打ちながら、俺は彼女の言葉を半分も聞いていなかった。
 気分が落ち着かず、視線をどこにおけばいいのか分からなかった。

 佐々木春香の家に行ったときだって、ここまで動揺はしなかった。

 白崎は俺の正面に腰を下ろした。
 部屋の中にはリビングテーブルとダイニングテーブルがあり、俺と白崎はリビングの方に座っていた。
 
 エアコンの風。


 俺は白崎に言いたいことと訊きたいことがあった。
 でも、白崎の妹のいる前でそれを口にするわけにはいかなかった。

 白崎はいつものつかみどころのない表情でぼんやりとアップルティーに口をつけた。

「ごめんね」と彼女はもう一度謝った。

「なにが?」

「混乱させたでしょ」

「……どの話?」

「人違いの話」

 俺はどう答えるべきなのか迷った。彼女が話をどのように終わらせたいのかも分からなかった。

「まあ、面食らったけどね」

 俺は軽く答えながら、彼女が何を考えているのかを理解しようと努めた。


「ねえ、結局あの話は……」

 彼女は首を横に振って、俺の言葉を遮った。

「知らない。わたしは親が話してるのを偶然聞いただけだから。わたしの学年に「その子」がいるって」

「いつ?」

「一年の秋頃」

「どう思う?」

「きみの名前を言ってたよ」

 と彼女は言った。

「だから本当だと思う」

「人違いかもしれない」

 彼女は頷いた。俺はレモンティーに口をつけた。


「後悔してる?」

 白崎はぼんやりと訊ねてきた。

「なにを?」

「この家に来たこと」

「まさか」

 と俺は少しだけ嘘をついた。
 俺はちらりと白崎の妹の様子をうかがった。
 耳に入っているとしても、何のことを言っているのか、分からなかっただろう。

「前から思ってたんだけど」

 俺が口を開くと、彼女は不思議そうな顔でこちらを見た。

「きみには悪趣味なところがあると思う」

 彼女は黙ったままもう一度頷いた。




 足音。階段だろうか。とんとんと落ちてくる音。
 それが聞こえた。白崎は怪訝そうな顔をして、ダイニングテーブルの少女に声を掛けた。

「誰かいるの?」

「お母さん」と少女は答えた。

「車あったっけ?」

 白崎はちょっと慌てた感じでひとりごとのように言った。あったよ、と俺は頭の中だけで答えた。
 そうこうしているうちに扉が開かれた。寝間着姿の女性はぼさぼさの髪のまま寝惚け眼をこすった。

「お客さん?」

「そんな恰好で出てこないでよ」

 白崎が常識的なことを言っている。

「ごめんね、みっともなくて。誰か来てるなんて思わなかったから」

 母親のその言葉が、白崎に向けられているのか、俺に向けられているのか分からなくて、少し戸惑う。
 俺は慌てて頭をさげた。


「彼氏?」

「そんなところ」と白崎が臆面もなく言うので、俺は詐欺にあったような気持ちになった。

「クラスメイトです」と俺は訂正した。白崎はつまらなそうな顔でこちらを見た。
 どうして俺はからかわれてばかりなんだろう。

「買い物の帰りに、荷物を運ぶの手伝ってもらったの」

「そうだったの。わざわざありがとう。お名前は?」

 俺は答えに窮した。
 本名を答えてもいいのか、答えるべきではないのか、とっさに判断がつかない。

 俺は白崎に視線で助けを求めたけれど、彼女は不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。窮地。

「あ」
 
 けれど数秒後、白崎はあからさまに何かに気付いたような顔で手を打った。
 それから考え込むように眉を寄せた。


「えっと、ナツノ」

 おいおい、と俺は思った。白崎はちらりとこちらを見て、少し気まずそうな顔をした。

「夏野くん?」

「そう。ナツノ・ウミ。夏野海」

 あからさまな偽名。俺はいくらか安堵して、いくらか呆れた。安直にもほどがある。

「あれ。じゃあ夏海と同じじゃない? 下の娘も夏の海って書いて夏海で……」

 しかもいくらか悪趣味だった。
 母親は何かに気付いたようにダイニングテーブルに目を向けた。

「なっちゃん、挨拶した?」

 少女は驚いて、慌てたように振り返った。
 彼女は頷かなかった。


「挨拶しなさい」

 促されて、少女は身体をこちらに向けた。それから頭を下げて、「こんにちは」、と言った。

「それにしても海、くん? かわいい名前ね」

「ええ」
 
 俺はどう反応すればいいのか分からなった。
 結局もうどうでもいいやと思って、適当に言葉を続けることにした。

「よく言われます。名前のせいでけっこう損をしてきましたよ」

「あら。そうなの?」

「夏野海って、イントネーションによってはこう、力士の四股名みたいに聞こえるじゃないですか。
 だから小学生のときから「お相撲さん」って呼ばれてからかわれたんですよ。
 そういうことを言う奴は片っ端から平手で倒してきましたけどね。だから最後には横綱って呼ばれてました」

 母親はどう反応していいのか分からないような顔でこちらを見て、結局取り繕うように笑った。
 笑ってくれなくてもよかった。どうせ全部嘘なのだ。

 白崎はひとりで笑いをこらえていた。あとで文句のひとつでも言っておきたい。


「母さん、どうして家にいるの?」

 話が途切れたタイミングで、白崎は母親にそう訊ねた。

「今日は休みだって言ってなかったっけ?」

「訊いてないよ」

「そう。じゃあ今言った」

 なかなかおおらかな人柄らしい。

「あ、そうだ。買い物……」

 母親は何かに気付いたように手を打った。

「夕方行こうと思ってたのに、寝ちゃってた」

「……ちょうどよかったよ」

 呆れたように溜め息をつく白崎が印象的だった。


「夏野くん、ご飯食べていきな」

「いえ、もう……」

「親御さんが待ってるかな?」

「いや」

 一度否定してから、しまった、と俺は思った。
 
「じゃ、食べていきなよ」

 気安そうに、彼女はそう言った。俺は白崎の方を見た。
 彼女は何も言わずにアップルティーを飲んでいた。俺の視線に気付くと不思議そうな顔をした。
「好きにしたら?」とでも言いたげに。

「ご迷惑に……」と言いかけて、俺はまたしくじったなと思った。子供が使うには少し生意気すぎた。


「いいよ。どうせ作るのうちの娘だから」

「休みの日くらい母さんが作って」

「やだよ。まずいんだもん」

 ずいぶん豪快な人だ。白崎の母親とは思えない。

「食べていきなよ。そのあと車で送るよ。歩いてきたんでしょ?」

「……はい、まあ」

「もう暗いし、雪も降ってるみたいだし、寒いし、危ないよ」

 俺はしばらく迷ったけれど、たしかに白崎の家から自分の家に歩いて帰るのは億劫だった。
 かといって、そこであてにしてしまうわけにはいかない。

「食べてきなよ、ナツノ」

 そう言って、白崎はいたずらっぽく笑った。
 いまさらのように、俺はこのクラスメイトの性格の悪さに気付いた。

つづく




 寒い、と佐々木春香は何度も言った。
 ここは寒い。寒すぎる。凍えそうなくらい。何度も何度もつぶやいていた。

 一緒になって俺も繰り返した。風が冷たい。雪が降りだしそうだ。
 こんなところにいるべきじゃない。

 でも、ここを出る決心がなかなかつかなかった。
 いつかは帰らなきゃいけない。そう分かっていても。

 俺はポケットに入れっぱなしだった使い捨ての懐炉のことを思い出して、手で取り出して触ってみた。
 貸して、と佐々木春香は言った。俺は妙に意地の悪い気持ちになって、ポケットの中に懐炉を仕舞い込んだ。
 
 貸してよ、と彼女は戸惑った風に笑った。
 いいよ、と俺は言った。ポケットに手を突っ込んだまま。
 
 彼女は困ったような顔をした。俺たちは片手を繋いだまま向かい合っていた。
 距離が近すぎて正面を向けず、俯いていた。


 とりなよ、と俺は言った。
 佐々木は俺を見上げて、怪訝そうな顔をしてから、俺のポケットに手を突っ込んだ。

 それからしばらく俺のポケットの中を探っていたけれど、やがて俺の手の甲を覆うような形で動くのをやめた。

 ばかみたい、と彼女は言った。たしかにばかみたいだった。

 寒い、と彼女はまた繰り返した。それはそうだよ、と俺は答えた。まだ十二月なのだ。
 冬。

 春が遠い、と彼女は寂しそうに呟いた。俺は手のひらに力を入れて彼女の体を引き寄せた。
 彼女は抗わなかった。

 すぐだよ、と俺は答えた。“すぐ近くだ。”

 冬から春に、すぐになる。すぐに。俺はそう言った。彼女は頷いた。

“冬から春に”、と俺は言った。
“春から夏に”、と彼女は言った。
“夏から秋に”、と俺は言った。彼女はちょっと不服そうな顔をした。
 俺のたとえは分かりづらいかもしれないけれど、彼女の言葉遊びは少し気恥ずかしい。


 もう辺りは真っ暗になっていた。いいかげん引き伸ばせる時間でもなくなってしまった。

 帰るのは怖い、と彼女は言った。
 たしかに、と俺は頷いた。彼女はちょっと笑った。

 空から雪が降り始めた。寒さは一層攻撃的になって、空間はより居心地が悪くなった。

 もうここに居続けることはできないのだと俺は思った。“ここは寒すぎる。”

 帰らなきゃ、と彼女は言った。
 うん、と俺は頷いた。俺たちはみじろぎもせずに固まっていた。

 帰らないといけない。真っ暗闇の中を。それはちゃんと分かる。

 煙草くさい、と彼女は言った。
 ごめん、と俺は謝った。
 
 彼女はそれからおかしそうに笑って、俺のことを見上げた。“雪が降っていた。”

「じゃあ、一緒に帰ろっか」

“俺は頷いた。”




「おまえは間違ってる」とクレハは言った。

「結局おまえは自分のことしか考えてない。自分を憐れんでるだけだ」

 そうかもしれない、と俺は言った。

「おまえにいったい何ができるんだ?」

 俺には何もできないかもしれない。
 誰にも何も与えられず、なにひとつ手に入れることができず、何も成し遂げることができないかもしれない。
 
「相手に縋りついてるだけだよ。結局いつかぜんぶ台無しにする。おまえ自身の手で」

 そうかもしれない。

「おまえが大嫌いな奴らの仲間になるんだ。おまえは」


 でも、と俺は言った。
 不幸ぶって、皮肉ばかり繰り返して、誰かに手を差し伸べてもらうのを待ってる。
 そんなままでいるよりは、大分マシだ。マシだと、思う。

「その場しのぎでしかない」

「それでもかまわない」と俺は言った。“彼女の手は暖かかった。”
 クレハは溜め息をついて、泣きだしそうな顔で俯いた。

「そう思える奴は、そう思えるだけの場所まで行けた奴は……」

 彼の声は震えていた。

「もう救われてるんだ」

 俺は何も言えなかった。




 五年後、成人式の日に、中学の同窓会が開かれた。

 俺は元バスケ部のキャプテンから同窓会の知らせを聞かされた。
 中学を卒業して同じ高校に進んでから、俺と彼は少しずつ話をするようになった。

 おまえはどうする、と彼は訊いてきた。行く、と俺は答えた。じゃあ、俺も行こう。彼はそう言った。

 クレハが死んだと聞かされたのはその同窓会の日だった。

 その年の夏、日付が変わる頃、海沿いの道を走っていたクレハの車は、ガードレールを突き破って海に落ちた。

 俺にそのことを教えてくれたのは、彼と同じ大学に進んだ女の子だった。名前ももう忘れてしまっていた。

「居眠り運転じゃないかって話だった」

「どうして?」

「ブレーキを踏んだ形跡がなかったんだって」

 本当のことなんて俺には分からない。でも、彼はきっと、起きていたってブレーキなんて踏まなかっただろう。




「ナツノ。はい、これ」

 ある日、白崎は放課後の教室で俺に声を掛けてきた。
 俺のすぐ隣には佐々木春香が鞄を持って立っていた。

 白崎が差し出していたのは小さめの紙袋だった。

「なに、これ?」と俺は訊ねた。

「メリークリスマス」と白崎は答えた。

「……早くない?」

「アンド・ハッピーバレンタイン」

「……早いよね?」

「夏海と一緒に作ったんだよ」

「……」

「上手く膨らんだからさ」


「きみが何を考えているのか、よくわからない」

 白崎は考え込むように唸り声をあげてから、答えてくれた。

「ご褒美」

「なんの?」

「今日までの」

 彼女の言い方は曖昧で、よく分からなくて、どうでもよさそうだった。いつもそうだ。
 白崎は紙袋を俺に押し付けると、「それじゃ」と短く笑って背を向けた。

 その背中に俺は声を掛けた。

「白崎」

「なに?」と彼女は肩越しに振り返った。

「誕生日、おめでとう」

「……ありがとう」




 白崎は俺にお菓子を渡して、「ハッピーバレンタイン」だなんて言って、しかも下の名前を呼んだ。
 
 おかげで佐々木春香は説明を求めるような不機嫌そうな顔を向けてきた。

 そういう反応は少し意外だった。
 何かしら反応があるにしても、彼女はどうでもよさそうな顔をするか、そうでなければ不安そうにするものだと思っていた。

 そんな微妙な変化が、十二月の上旬というごく短い期間から起こり始めていた。

「もうすぐ休みだな」なんてことを言って話をごまかそうとしてみたけれど、彼女は簡単には乗っかってくれなかった。
 俺たちは毎日のように一緒に帰るようになっていた。

「食べる?」と俺は訊ねた。避けては通れないと思った。
 帰り道の途中の児童公園のベンチで、俺たちは白崎の紙袋を開けた。

「手紙とか、入ってないよね?」と、佐々木はやけに気にしていた。

 小さめのシュークリームが四つ入っていた。
“俺たちは半分ずつ分けた。”

「何もかもが上手くいくような気がする」と佐々木はシュークリームを食べながら言った。
 俺たちは公園の隅にあった自販機で暖かい飲み物を買ってから、ふたたび手を繋いで歩き始めた。




「もし願い事が叶うなら、何を願う?」

 帰り道の途中、彼女はそう訊ねてきた。

「……すぐには思いつかない」

「なんでもいいんだよ」

「そっちは?」

 彼女は少し考え込んだ様子だった。

 手を繋いで一緒に帰るようになってから、彼女はときどき子供っぽい一面を見せるようになった。
 そのときもそうだった。夢でも見ているみたいな顔をしていた。


「内緒」

 と彼女は笑った。俺は彼女の考えが分かったような気がして、少し怖くなった。
 
「それで、夏野は?」と彼女は俺を呼び捨てにした。

「お金がほしいな」と俺は言った。

「情緒がないよ」と彼女は不満げに溜め息をついた。

「ちなみに、どのくらい欲しいの?」彼女はそう訊ねてきた。

「心配事がなくなるくらい」俺はすごく真剣に答えた。
 彼女はピンとこないような顔をしていた。




 夜空を飛ぶ夢を見るようになった。
 もはや猫は近くにはいなかった。
 
 遠くに星の輝きが見えるだけで、景色は真っ暗だ。空と海は黒く、空気はひどく冷たい。
 
 近くを誰かが飛んでいく気配がする。すぐに離れていってしまう。その繰り返し。
 ひどく孤独で、誰でもいいから近くにいてほしいと俺は願った。“誰でもいいから。”

 そして誰かが俺の手のひらを掴んだ。俺はとっさに跳ね返そうとした。
 けれど、その誰かは思いのほか強い力で俺の手のひらを掴んでいた。
 
 その人と俺はバランスを崩して墜落しそうになった。俺たちはなんとかバランスをとろうとした。
 けれど、結局その努力は無駄だった。風は強かったし、俺は飛ぶのが上手くなかった。 

 その人は必死に俺の手を掴んでいてくれた。俺はその手に必死に応えようとした。
 けれど、やがては離れてしまった。落ちないためには離れるしかなかった。

 離れて遠ざかってしまった手のひらのことを、俺は飛びながらいつまでも考え続けた。
 もう一度あの手を握ることがあったなら、今度はもっと上手くやってみせるのに、と。
 だから、もう一度、あの手を握ることがありますように、と、今度はそう祈った。

 祈りは大概の場合無意味だけれど、それでも祈らずにはいられないときもある。
 祈らずにはいられないこともある。




 同窓会には佐々木春香も来ていた。俺が彼女と最後に会ったのは五年ほど前だった。

「久しぶり」と俺は言った。

「久しぶり」と彼女も言った。

 俺たちはそれ以上言葉を交わせなかった。
 昼は振り袖姿だったけれど、同窓会に顔を出すときにはラフな格好に着替えていた。
 それでも髪はセットされたままだった。そのせいで、俺はなんとなく彼女を遠くに感じた。

 俺はろくに話もしなかった人たちと話をした。それは思ったほど不愉快なことではなかった。
 彼らはそれほど悪い人ではなかったのかもしれない、最初から。

 あるいは、クレハなら、「おまえが変わっただけだ」と、苦しそうに呟いたかもしれない。
 けれど彼は死んでしまっていて、俺は生きていた。生きている人間には、死んだ奴の気持ちなんて分からない。

「飛んでいる奴には、飛んでいない奴の気持ちなんて分からない」
 クレハはきっとそう言う。あるいは十五歳だった俺もそう言う。

 でも、今の俺はこう答えてしまう。
「飛んでいない奴にだって、飛んでいる奴の気持ちは分からない」と。
 そのことがすごく悲しい。俺はそんな言葉を言う奴をこそ憎んでいたのだ。




「手を繋いでいると」と佐々木春香は言った。

「手を繋いでいると?」と俺は訊ねた。

「どきどきする」と彼女は言った。

「なんとなく分かる」と俺は言った。

「少し安心する」

「それから?」

「ちょっと恥ずかしい」

「分かるような気がする」

「でも、いやじゃない」

「うん」

「それから……」

「それから?」

「少し怖い」
 




「ずっと手を繋いでいられたらいいのに」

「ずっとって?」

「いつも。どんなときも。授業中も休み時間も」

「そうすれば怖くない?」

「たぶん」と彼女は呟いてから、黙って考え込んでしまった。しばらくすると静かに首を横に振った。

「……たぶん、もっと怖くなる」

「むずかしいな」と俺は言った。

「むずかしい」と彼女は頷いた。

「でも、できるかぎり、手をつないでいたい」

「それはとてもよく分かる」

 彼女の手のひらに力がこもった。俺はわずかに力をこめて握り返した。


「すごく妙なことを訊くようだけど、俺の手は、変じゃない?」

 そう訊ねると彼女は笑って、「変じゃない」とだけ言った。

「ありがとう」と俺は頷いた。

「それだけがずっと気になってたんだ」

 本当は嘘だった。俺はすごくたくさんのことを気にしていた。
 手のひらだけじゃない。

 鏡にうつる自分の顔やクラスメイトの視線、佐々木春香の両親のこと、それから自分の母親のこと。
 クレハのこと、あるいは白崎のこと、彼女の行く高校のこと、それから金のことを考えていた。

 そんなことを考えていると知られれば、佐々木春香がどう思うのか分からなかった。
 だから俺は努めて何も考えていないような態度をとり、隣を歩く彼女の横顔をいつも盗み見ていた。




 俺が横顔を眺めていると、彼女はときどき「なに?」と言いたげな視線をこちらに向けた。
 俺はそのたびに視線を逸らして、何かべつのことを考えようとした。

 けれどやがては、彼女の方から、俺に話しかけてきた。

「どうして見るの?」と彼女は言った。

「気になるから」と俺は答えた。

「どうして?」

「どうしてって……」

「どうして?」と彼女は繰り返した。

「好きだからだよ」と俺は答えた。

「“いつから”?」

「ずっと前から」と俺は答えた。
 彼女は困ったように笑った。




 冬休みになったら映画を観に行こう、と佐々木春香は言った。
 悪くない発案だったし、それはちゃんと実行された。

 映画ははっきり言ってつまらなかった。 
 それでも佐々木春香は楽しんでいるのかもしれない、と思ったけれど、彼女も退屈そうにしていた。

 俺は真剣に、集中して映画を観た。けれどやっぱりつまらなかった。
 シアターを出た後、佐々木春香は「つまらなかったね」と言った。俺も頷いた。
 つまらないと感じたならつまらないと言うほかない。

 途中で眠気に襲われたせいか、俺はそのときシアター内に鞄を忘れてしまった。 
 先に行ってて、と佐々木に言うと、彼女は頷いて振り向きもせずに進んでいった。

 俺はひとりで薄暗いシアターの中に引き返した。
 そこには既に誰もいなかった。何もなかった。物悲しい冷たい空気だけが置き去りにされていた。

 俺は自分の席に置き忘れていた鞄を持って、シアターをもう一度後にした。




 佐々木春香は出口に立っていた。

「おそい」と彼女は言った。

「けっこう急いだんだけど」

 俺の答えに、彼女は不満そうな顔をした。

「待つのは不安だよ。来ないのかもって、考えちゃうし」

「まあ、そこは、待たせる方も不安だから。もう待ってないかもって、考えるしね」

 彼女はやっと笑った。

「何もかも上手くはいかないかもしれないね」

 佐々木春香はそんなことを言った。俺は頷いた。
 彼女は俺の顔をじっと見上げて、それから片手をこちらに差し出してきた。

 俺はその手を取った。彼女は満足そうな、得意げな顔で笑った。


「何もかも上手くはいかないかもしれない」と俺は繰り返した。

 外は雪が降っていた。

「でも、一緒にいたい」

 彼女は照れくさそうに笑って、俺の手のひらを両方の手で包んだ。
 マフラーで隠れた口元。白い息。

「今日みたいな日が来るのを、ずっと待ってた」

 彼女は俺と目を合わせずに、そう言った。

「きみに会えるのを、ずっと待ってた」

 俺は手のひらに力を入れて彼女の体を引き寄せた。
 彼女は抗わなかった。

“彼女の手は暖かかった。”

おしまい

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2013年12月01日 (日) 21:07:08   ID: bJE-GWaT

めちゃくちゃ続き気になる…

2 :  SS好きの774さん   2015年05月21日 (木) 14:47:40   ID: bfexj6qc

凄い

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