結衣「繋がれた右手は誰よりも優しく」(91)

昨日は夜遅くに帰ってきたというのに、目が覚めたのはなんとも奇妙な匂いが
鼻腔をくすぐったせいだ。
私はもそもそと布団の中で身動ぎし、そっと台所のほうを窺った。

そこには思ったとおり、なにか焦がしたのだろう、丸いフライパンを持ち上げたり
下ろしたりしている京子の姿があった。

結衣「……なにしてんの」

京子「ゆ、結衣!おはよ!」

結衣「おはよう」

慌てたような京子の声を聞きながら身体を起こす。
寝不足のせいでいささかだるいし、頭も重い。けれどこれでは起きないわけには
いかないだろう。

結衣「で、なにしてんの」

京子「あ、あさごはん……」

叱られた子供のような顔をして京子が言う。
別に怒ってるつもりはないんだけどな。
普段やらないくせにどうして今日に限って、という気持ちはあるものの。

結衣「朝ごはんって……京子、今日はどこか出かける日だったっけ」

京子「ううん」

結衣「じゃあなんで?」

ぼさぼさになった髪を軽く手でなでつける。
鏡を見なくてもわかるくらいぴんっとはねてしまった毛はそう簡単には直らないらしい。
それを見て京子が小さく笑いを漏らした。

結衣「うっ……」

京子「そんな面白い髪型してるほうが悪い」

結衣「知るか」

私が徐々に不機嫌になっていくのがわかったのか、京子は「結衣だよ結衣!」と。
なんの脈絡もなく名前を呼ばれたので、当然のことながら私は「は?」と返した。

京子「昨日、帰ってくるの遅かったじゃん?」

結衣「うん……」

あぁ、気付いてたんだ。
帰ってきた頃には京子はすっかり眠っていたようだったから起こさなかったのだ。
京子の生活リズムは本当にばらばらで、ここ最近徹夜続きだったから起こすのは気が引けて。

京子「だから結衣のために朝ごはん作ろうと思って!」

にっと笑う京子に、私はなにも言えなくなってしまった。
朝からその顔は、正直ずるいと思う。
昔から私は京子の笑顔にはとことん弱いのだ。

結衣「……京子だって眠いくせに」

京子「うん、だから焦がした」

結衣「おいこら」

京子「でも卵焼きだけで、ほら、味噌汁はちゃんとできてるって!」

みてみて、というように京子はコンロにある鍋を差すから、私は仕方無いなあと
起き上がった。
鍋を覗き込んで、確かにそれが無事であることを確認する。

結衣「ほんとだ」

京子「京子たん特製朝味噌汁!」

結衣「そのまんまだな」

ネタ切れなの、と膨れる京子。
私は「そういえば」と味噌汁をお椀に注ぎながら言った。

結衣「京子、原稿は?」

京子「うん?」

京子がここ最近徹夜続きだったのには、もちろん理由がある。
原稿に追われていたのだ。
それも、中学生や高校生のときのように同人誌の原稿ではなく、ちゃんとした商業誌に
載せるための。

京子「あぁ、終わったよ」

事も無げに言い放った京子に。
もしかしてまだ――なんて思っていた私は心底ほっとした。

京子「いやあ、今回はきつかったよ」

結衣「いつもかつかつだろ」

京子「へへっ」

結衣「笑い事じゃないって」

この冬で、二人暮らしを始めて二年目が過ぎていた。
大学生になって上京した私に、京子がくっついて――いや、むしろ逆なのかもしれない。
上京すると言った京子のあとを、私が追ってきたのかもしれなかった。

去年の春にプロの漫画家になった京子は学校を辞めた。
そのまま、この古びたアパートで執筆生活を送っている。私はそれを時々手伝う傍ら、
京子の印税と親が送ってくるお金だけじゃ足りない生活費をバイトで稼いでいてそれなりに
忙しい。もちろん学校にも通い続けているので尚更だ。

充実しているのだと思う、たぶん。
漫画家になったとはいえ、まだ新人の京子はもっともっと売れる漫画家になるんだと、
連載をもてるようになりたいと、そう言っている。小さい頃から抱いてきた夢よりさらに
大きくなった京子の夢を、私は出来るだけ支えてやりたいと思っている。

だからこそ、京子に気を遣われるより私が京子に気を遣わなきゃいけないのに。

京子「どうどう?」

結衣「ちょっと濃いかも」

京子の作ってくれた味噌汁は、いつもの味よりも随分と濃かった。
それでも私の目を覚ましてくれるし、とても温かい。
顔を覗き込んできながら私の反応にいじけかけた京子に、私はだからつい。

結衣「でも、美味しい」

かも。
小声で付け足したものの。

普段は言わない言葉だから、かなり恥ずかしい。
どうせなら聞こえてなきゃいい。
もちろん、こんな狭い部屋の、こんな近距離で、京子の地獄耳が聞き逃してくれているはずもなく。

京子「そりゃあこの私の得意料理だからな!」

結衣「そんなの初めて聞いたんだけど」

掃除洗濯料理など家事全般は、もちろん私が引き受けている。
京子には出来るだけ原稿に集中してもらいたいから。
そんな京子が台所に立っているところを見るのは、だからかなり久し振りだった。

結衣「特別に結衣には毎日この味噌汁を作ってやってもいいぞ」

>結衣「特別に結衣には毎日この味噌汁を作ってやってもいいぞ」

京子「特別に結衣には毎日この味噌汁を作ってやってもいいぞ」

もう一口、味噌汁を口に含みかけていた私は思わず噴出しそうになった。
あ、危ない。
京子は時々、さらりととんでもないことを言い出す。

赤くなった私に気付いて、京子がきょとんとしたように「は?」と首をかしげて。
それから思考が追いついたのか、さすがの京子も固まってしまった。

今の、プロポーズじゃないんだからさ。
無意識で言ってるところが怖い。

結衣「……」

京子「……」

結衣「……いいよ」

少しの沈黙の後、搾り出した声に京子が「えっ」と声を上げた。
まだ顔が熱い。せっかくの休みなのに今日は朝から随分と忙しい。

結衣「いいよ、そのうち京子、調子に乗ってへんなのとかいれそうだし。クラゲとか」

京子「クラゲは合うんじゃね?」

結衣「いや、知らないけど。私が毎日作るから、京子は自分の仕事をまず余裕を持って仕上げる」

ぷうと膨れながらも、京子はへーいと間延びした返事。
もし本当に毎日作るとしてもどうせ三日ほどで飽きただろうし。

けど。

そういえば、一緒に暮らし始めた頃はこうして今と同じように一緒に台所に
立っていたっけ。
京子はただ私の邪魔をしてるだけ、みたいなものだったけれど。

お互い、こっちの生活に慣れてきてからはそもそもなにかを一緒にするということは
京子の漫画以外、なにもなかった。

もしかしたら、とは思う。
「締め切り早すぎる編集が悪い」とかなんとか言いながら自分の分の味噌汁を注いでる京子を
見ながら、もしかしたら、なんて。

京子も私たち二人の時間が少なくなっていたことに気付いていたんじゃないだろうか。
だから今朝だって。

結衣「京子」

京子「なんだよー」

結衣「ご飯食べたら散歩、行こっか」

保温の赤い光が灯った炊飯器を開けながら、炊かれていたご飯を二人分、茶碗に
よそう。
京子の分は少し大目に。朝ごはんなんて食べるのは久し振りだろうし。

京子「……」

結衣「天気もいいみたいだし」

くるりと後ろを向いた京子は、カーテンの隙間から漏れる温かな光にようやく気付いたらしい。
ぱっと目を輝かせて、「乗った!」と嬉しそうに笑った。


京子「さむっ……」

外に出た途端、張り詰めるような寒さに私たちは同時に身震いした。
日の光は温かくても、やはりまだ冬は終わっていないらしい。

京子「雪降るんじゃない……?」

結衣「いや晴れてるし」

京子「ぐう」

結衣「降って欲しいのかよ」

京子「いや」

わかりにくい反応だなと突っ込みを入れながら、部屋の鍵を閉めた。
確かに寒さはあったものの、ふと周囲を見渡せば春の兆しも見え始めている。

はやくあったかくなればいいな。
一瞬そう思ってすぐに、マフラーを巻きなおして隣を歩き始めた京子の姿にこれは
これで悪くないかもなんてことも思って。

京子「なに?」

結衣「髪、ぐちゃぐちゃ」

京子「えぇー」

マフラーの静電気でせっかく整えたはずの髪がへんになっている。
おまけに指先は器用なくせに寒くて手が動かないのだろう、マフラーを巻くのに悪戦苦闘している
京子の姿を見るのはおかしかった。

京子「結衣だって朝ひどい頭してたけどな」

結衣「直ったし」

京子「私が手伝ったことを忘れたか!」

結衣「まあそうだけど」

家を出る前にぴんっとはねた毛がどうしても直らなくて今の京子よろしく悪戦苦闘していた私の髪を
京子が整えてくれたのだ。
小さい頃は、よくそんなふうにしてお互いの髪をいじっていた。

そういえば昔、京子の髪をいじるのがひそかに好きだったことを思い出す。
幼い頃から京子の髪は綺麗だったから、心の底で憧れていたのだ。
だから京子のように髪を伸ばしてみた時期もあったが、結局自分には似合わないと
今のように伸ばさなくなったんだっけ。

京子「ゆいー、なおしてよー」

とうとう道の真ん中に立ち止まって、京子が言った。
その口調が今にも泣き出しそうで、そのことでまた私の中の記憶が途切れ途切れに
心をノックしていく。

こんなど真ん中で、とか、誰かに見られると恥ずかしい、とか。
色々思うところはあったけれど、その記憶のせいで私は「仕方ないな、京子は」と同じようにして
立ち止まっていた。

京子の背後にまわって、マフラーを一旦ゆるめ、京子の髪に触れる。
変わらない感触。
こうやって触れるのも、また久し振りだと思った。

久し振りなことが多すぎる。
けれど、それなのに何一つ変わっていない。

なんだか不思議な気がした。

京子「結衣がさー」

結衣「うん?」

京子「結衣が私の髪梳くの、好きなんだよな」

突然の言葉に、私は「あぁ、そう」と答えることしかできなかった。
気の利いた答えなんてそう簡単に出てくるものではない。
それに、京子の前では別に気の利いたことなんて言わなくてもいいのだから。

京子「なんか気持ちいい」

結衣「そうか」

京子「寝ちゃいそう」

結衣「立ったまま寝るなよ!?」

寝ないよとへらり、京子が笑って。
その身体が私から離れた。
一瞬本当に寝たのかと思って驚いたけど、京子が自分から離れただけだった。

京子「よし、もう大丈夫」

結衣「そう」

もう少し触れていた気もしたけど、離れてしまったのをもう一度掴まえるわけには
いかない。

いつか、考えたことがある。
京子と離れてしまったら、なんて。
たとえば私が大学を卒業して、地元に帰ることになったり。ありえないわけではないのだ。
もしそうなるとしたら、京子はきっと私を追いかけないだろう。ここに京子の夢があるのだから。
そしてもし逆の立場になったとしても――私は、京子を追いかけないと思う。

それでも今日は。

なびいた京子のマフラーを掴んで、歩き始めた京子を引き止めた。
「ぐえっ」と京子が変な声を漏らす。

京子「な、なにすんだよ!?殺されるかと思ったし!」

結衣「ごめん、ちょっと力いれすぎた」

京子「めっちゃ首絞まったんだけど!」

ぎゃあぎゃあ騒ぐ京子の首に巻かれたマフラーを、私は手袋をはめたままきちんと
巻いてやる。
京子が「おぉ」と声を上げる。

結衣「忘れてたのか」

京子「忘れてた」

なんだそれ、と苦笑を漏らすと、京子は「しゃーないだろー寝てたんだから」と。
ほんとに寝てたのかよと今度こそ呆れてしまうけど。

風呂ってきます

京子「あったか」

結衣「マフラーくらいで?」

京子「マフラー舐めちゃいかんぜよ」

はいはい。
誰だよと思いつつ適当にあしらいながら、私たちはまた歩き始める。京子の隣。
明確な目的地があるわけじゃない。きっと私たちのことだから、飽きたらどちらともなく
家への道を辿り始めるだろう。

京子「結衣、マフラーは?」

結衣「しない」

京子「一緒に巻く?」

結衣「いや、恥ずかしいだろ」

だよねーと話しかけてきた京子が前を向く。
この歳になってさすがに好奇心が涌くことはないのか、歩いていても京子が私の傍から
ふらふら離れていくことはないし私も同様。妙な距離を保ったまま、黙々と前へ進む。

京子「外に出るの久々かも」

結衣「だいぶ不健康な生活してるもんな、京子」

京子「ジョギングでも始めるか」

結衣「原稿」

京子「原稿……描きながら」

結衣「やってみろ」

時々、そんななんてことはない会話を交わしつつ。

歩いていくうちに、身体がだんだんと熱を発していくようになる。
最初は寒い寒いと言っていた京子もそのうちそれを口にしなくなった。

京子「結構歩いた?」

結衣「うん、そうかも」

京子「腹減った」

結衣「早いな」

結構歩いたとはいっても、時間にしてみれば一時間かそこら。
第一この辺りでそう散歩できるところなんてないのだから。

京子「なんか食いたい」

言い出したら京子は聞かない。
こういうところも本当に、なにも変わっていないと思う。
そんな京子と一緒に過ごしてきた私もたぶん、そうなのだろう。

あともう少し歩けば、コンビニがあったはずだ。
そこまで歩こうと京子に言うと、京子はしぶしぶ後を追ってきた。

京子「うーもう力が出ん。アンパンくれ」

結衣「どこぞの正義のアンパンなんかじゃねえよ」

京子「ミラクるんなら焼きソバパンをくれる」

結衣「むしろミラクるんは焼きソバパンを買ってこさせるほうだろ」

京子「あぁ、そっか」

こうして会話をしていると、時間が経つのは早い。
歩いている景色もいつのまにか変わっている。それが面白くもあり、時々こわくもある。
こんなに早く過ぎてしまうのならば、京子と一緒に居られる時間も少なくなってしまうかもしれない。
そんなふうに考えてしまうことがあるから。

コンビニに着くと、京子がまず最初に発した言葉は「暑っ」だった。
寒いとか暑いとか忙しいやつだ。
私も人のことなんて言えないのだけど。

結衣「なんか買うの?」

京子「買ってくれるからここまで来たんでしょ?」

結衣「私が買うこと前提なのか」

京子「だって財布もって来てないし」

私だって、そんなに大金は持って来てないからなと一応の釘は刺す。
いくら京子だって散歩ついでに寄ったこんなコンビニで色々買い込むことはしないだろうとは
思うけど。

京子「わかってるってー」

言いながら、京子はふらふらとアイスの売り場に向かった。
まあ、予想通りなのは予想通りだけど。

ラムレーズン、ラムレーズンと弾んだ声で言いながら、京子はひやっとするクーラーボックスを
開けて大の好物を取り出した。
ついでに木のスプーンとセットにして二つ。

京子「結衣も食べるでしょ?」

結衣「ん」

自分の分だけ買うほど京子は図々しくも無いし自分勝手じゃない。
そういうふうに見えても、ほんとは違うところが少し憎らしかったこともあった。
そのくせ泣き虫で。

今ではその泣き癖はほとんど影を潜めてしまったけど。

―――――
 ―――――

外に出て、またひんやりした風を受けながら私たちはラムレーズンを袋から取り出した。
家に帰るまでにはいくら冬だといっても溶けてしまうだろうし。
コンビニの近くにあった小さな公園のベンチに隣り合って座る。

京子「あー、生き返る!」

結衣「単純だな」

京子「単純だからこそ人は生きられるのさ!」

結衣「……」

京子「かっこよくない?」

結衣「まあ」

もうすぐ昼前だからか、公園で遊ぶ子供達の姿はほとんどない。
昨日か今朝作られた砂場の山は崩れかけている。
そんなものを眺めながら、私たちは冷たいラムレーズンを口に運ぶ。

結衣「美味しい」

ふとこぼれた言葉に、京子は「当たり前」と朝の味噌汁のときのような得意顔。
京子が作ったわけではないからついこぼれた言葉に顔は火照らなかったけど、
少しだけくすぐったい気持ちになった。

結衣「ほんとに京子は好きだよなあ」

京子「なにが?」

結衣「ラムレーズン」

京子「そりゃあ」

そういえば、なんでなのかは聞いたことがなかった。
京子がラムレーズンを好きな理由。
もちろん、聞かなくてもいいし聞いたところでなにかあるわけでもないのだから。

結衣「ずっとだよね」

京子「ずっとだね」

結衣「飽きない?」

京子「飽きない」

主語のない言葉を並べていく。
京子も主語の無い答えを返してくる。
自分でもよくわからない。わからないけど、ラムレーズンのことでもあり、違うことを
訊ねているのだとも思う。京子だって、それをわかっているのかもしれない。

結衣「そうか」

京子「うん、そう」

会話が途切れた。
冷たいアイスを、こくんと飲み干した。
身体は冷えているはずなのに、不思議と寒くはならなかった。

結衣「そろそろ帰るか」

京子「昼ごはん、なに作ってくれる?」

結衣「オムライスかな」

答えながら、空になったカップを空いた袋に入れて立ち上がった。
京子も同じようにして立ち上がって。
ふと、いつのまに追いついたのだろうと思った。

背。
私のほうが高かったはずなのに、いつのまにか京子と私、同じくらいの背丈に
なってしまっている。

目線が同じ。
間近で京子と目が合った。

京子「うん?」

不思議そうに首を傾げる京子に、私は「いや……」と声を漏らした。
ああ、そういえば。
京子から視線を逸らしながら、私は思う。

京子の泣き虫が直ったのと同じ頃、びっくりするくらい京子の背が突然伸びた。
そのときはまだ私のほうが高かったけど。
大きくなったら絶対泣かなくなるもん、と珍しく強い言葉を言っていた、かつての京子のことを
思い出した。

本当にそのとおり。
京子は、自分の言ったことは決して曲げないしやるといったことは必ず成し遂げる。
漫画家になるという夢を、叶えたように。

そんな京子を私はずっと見てきた。
京子がただの才能だけじゃなくって、ちゃんと努力してきたことも知っている。
だから心の底から京子を応援できた。京子と一緒にいられた。

いつのまにか、京子の夢見た世界はそのまま私の世界になっていて。

弱虫だった京子。
そんな京子を守ってきた私。

けれど、実際に弱虫なのはきっと私で。
この世界は、京子によって支えられているのだと。「へんな結衣」と笑う京子を見て思った。

京子「帰ろうよ」

そう京子が言って、私の手を掴んだ。
ゆっくりと引かれる手。ゴミをいれた袋がかさかさ音を立てた。

結衣「うん、帰ろう」

京子「ゆっくりでもいいからさ」

にっと京子が笑って。
ゆっくりでもいいからさ。
京子の言葉を心の中で反芻した。

時間が目まぐるしいほど早く過ぎていく寂しさだったり恐怖だったり。
きっと京子も、私と同じように感じている。自意識過剰なのかもしれないけど、
そうであってほしいと思う。

結衣「あのさ」

手を引かれたまま、私は心の奥で主張している言葉を必死に搾り出そうとした。
何が言いたいのか、何を言わなきゃいけないのか、うまく伝えることはできないかもしれない。
けれどたった一言、確かに京子に言いたいことがあるのだ。

京子「なにー?」

振り向く京子。
冷たい風が火照りかけてくる頬を冷ましてくれるけど、きっとこの風じゃこの火照りを
おさえられないだろう。

ぎゅっと、繋いだ手に力を込めた。
言いたい言葉は確かにある。声に出して伝えなきゃと、競りあがってくる気持ちに反比例するように、
だけど声は出なかった。

ああ、なんだっけ。
私が言いたいのは。



ふと、手が握り返された。
びっくりするくらい優しく。


ああ、やっと。
その力でやっと、私は言いたい言葉を見つけた。思い出せた。

言わなきゃ。
けれど。
京子の温もりがあまりにも優しくて、その言葉そのものが溶けていきそうで。

京子「もう、なんだよー」

結衣「……なんでもない」

溶けて、私たちの重なった掌の中にその言葉は収まってしまったような気がした。
今なら言える気がしたけど、言わなかった。
受け止めてくれているとわかっていても、言わなかった。
家に帰ってから。たっぷり時間のあるとき、なんでもない日に。伝えたい言葉。

京子「へんな結衣」

二回目のその声を聞きながら、私も小さく笑った。

終わり

ハッピーバレンタイン!(関係ないけど)
支援保守、最後まで読んでくださった方ありがとうございました

それではまた

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